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連載の総括となる本日の冒頭画像は、かつて「火の山連峰」の麓から「冬至」の日の出を撮影したものである。ちなみに、その清々しい朝日の光芒から見て左端となる山が「火の山」、そして右側の山が「亀山」だ。ここで思い返せば、地元の新山口駅に繋がる鉄道路線を越えて、北側から南側に渡るアーチ状の道路があるのだが、その道を車で走るたびに、意識しなくても視野に入っていたのが「火の山連峰」であった。あのノコギリの歯のような特異な景観を毎日のように見ているうちに、かつて福岡県の糸島市で見た印象に強く残る山並みと、いつの間にか重ね合わせている自分に気づくのだった。その糸島市の山並みとは、「高祖山(たかすやま/標高 416m)」を主峰とする「高祖山連峰」のことである。つまり今回、地元の「火の山連峰」に登ろうとした発端や、この連載記事を書くようになった動機の背景に、「高祖山連峰」への特別な思い入れがあったというわけである。そこで上の画像は、「火の山連峰」と同様に南北に連なる「高祖山連峰」を、西側の平地から東方に向かって撮影したものだ。実はこの高祖山の西側の平地には、 弥生時代の古墳で日本最大の銅鏡「内行花文鏡(直径46.5cm)」が5枚も出土した国指定史跡「平原(ひらばる)遺跡」がある。ちなみに、同じ遺跡から出土した上記の大鏡を含む銅鏡40面や玉類等は、国宝に指定されている。この弥生時代の後期とされる遺跡に、年間の「日の出」を観測していたと思われる痕跡があり、その痕跡を観測点として「高祖山連峰」の山稜から昇る一年間の太陽運行を観測し、「暦」としていたとする着想で描かれた図が下の2点である。(※掲載した2点の図は、以下に紹介の参考書籍から抜粋)◎参考書籍・・・書名『 実在した神話 』・原田大六 著・学生社(1988年 初版)この「平原遺跡」の出土物の数々が常設展示してある糸島市の「伊都国歴史博物館」に、縁あって何度か足を運ぶうちに、館内に展示された下の2点の図を見る機会があった。もちろん「太陽信仰」にちなむ一つの説ではあるのだが、私にはとりわけ強い印象として脳裏に刻まれ、実際に同遺跡から「高祖山連峰」を眺めたことも数回あったことを憶えている。◎関連記事・・・伊都国の「高祖山(たかすやま)」に登る上の画像は前回の日記にも掲載した、「御伊勢山」の山頂から「火の山連峰」を映したものである。そこで、例えばこの画像の撮影地点を、年間の太陽運行を観測するための観測点とすれば、およそではあるが連峰の左端が「夏至の日の出」、連峰中央の「火の山」の山頂が「春分と秋分の日の出」、そして連峰の右端が「冬至の日の出」のそれぞれの出現位置となり、つまり「火の山連峰」の左端から右端までの範囲の一往復が、この地域の年間の太陽運行をあらわす自然の地形を利用した「暦」ということになるわけだ。この「火の山連峰」から見出される年間の「暦」は、この上と下の「高祖山連峰」の稜線が描かれた2つの図と見比べることで、それなりの見当がつくだろうし、例えば測量の経験のある人が御伊勢山の山頂部等で詳しく調査すれば、より正確な「観測点」が特定できるであろう。 ちなみに「御伊勢山連峰」の麓では、近年の道路工事にともない計33基の古墳が発掘調査され、その内の数基が集められ道路沿いに古墳公園ができている。もしかすると被葬者の中には、御伊勢山の山上で天体観測を専門とする祭祀氏族がいたのかもしれない。繰り返しとなるが、この連載の背景には「山口と九州を貫く《冬》の南北軸」という構想があり、私にとっては季節の「冬(冬至)」にまつわる地域として「山口県」を意識してきた。そこで今回の連載では、その県央部の山口市南部(小郡宰判)に属する二つの連峰(火の山連峰と御伊勢山連峰)を主に取り上げることにした。そして、二つの連峰の主峰を地図上で結んでみると、おそらく自然界からの導きであろう・・・「春分」と「秋分」の日の出と日の入を示す「太陽信仰」の主軸たる東西軸・・・が浮かび上がるのであった。折しも本日は、真東から太陽が昇り真西に太陽が沈む「春分の日」である。いよいよ「冬」の季節から、本格的な「春」の季節の到来だ。綴ってきた連載『ふるさと「山口」の山野を歩く』が、読者の皆さまの心の安寧と地域の活性につながりますようお祈り申し上げる。
2018年03月21日
昨年(2017年)の「冬至」の前日(12/21)に、三回目となる「火の山連峰」の登山を敢行して連峰の縦走を達成し、「冬至」の当日(12/22)は小雨模様だったので動かなかったことを憶えている。そして、あらかじめ計画はしていなかったのだが、「冬至」の翌日(12/23)の早朝を迎え、その天皇誕生日の祝日は天候も良好ということで、まだ登ったことのない「御伊勢山連峰」に無性に登りたくなり、思い切って登拝することにした。この「御伊勢山連峰」は主要三峰からなり、まず西麓の登山口から「愛宕山(標高 160m)」、次に「雨乞山(標高 180m)」、そして「御伊勢山(標高 183m)」と滞りなく登ることができ、冬至日の中休みがあったこともあり順調な足取りだった。そこで冒頭の画像は、「御伊勢山連峰」の主峰たる「御伊勢山」の山頂部から、東方の「火の山連峰」を撮影したものである。その「火の山連峰」の主峰こそ、連峰中央部の「火の山(標高 303.6m)」だ。そして下の画像は、この連載の(5)でも掲載したが、冒頭の画像とは反対に「火の山」の山頂から西方の「御伊勢山連峰」を撮影したもので、画像中央部の尖った山が主峰の「御伊勢山」である。前回の日記に書いたように、冒頭画像の撮影地点(御伊勢山の山頂部)と「火の山」の山頂を直線で結ぶと正確な東西軸となり、言うまでもなく毎年の「春分の日(今年は3月21日)」と「秋分の日(今年は9月23日)」の朝日は、この撮影地点から見て真東となる「火の山」の山頂から間違いなく昇ってくるわけだ。何だかくどい言い回しになってしまったが、この東の「火の山」と西の「御伊勢山」の、それぞれの山頂を結んだ「東西軸」について書かせていただくことが、今の私にとって大きな歓びを伴う神聖な儀式とも感じられ、不思議な高揚感に包まれるのである。この上の画像は、「御伊勢山」のなだらかな山頂部を撮影したものだ。そして、同じ山頂部にあった下の画像の解説版には、かつては山頂に「伊勢神宮」が鎮座し、祭神は「天照大神」と「豊受大神」だったと、興味深いことが記されていた。そこで思い出したのは、あるテレビ番組で三重県伊勢市に鎮座する「伊勢神宮」の元宮とされる「二見興玉神社」(伊勢市二見町江)が取り上げられた際の、境内にある「夫婦岩」の二つの岩の間より昇る「夏至の日の出」の光景であった。その岩間に挟まれ「富士山」の山頂付近から昇る朝日は圧巻である。加えて毎年の「冬至」の頃にも、同じ「夫婦岩」の岩間から「満月」が昇ってくるとのことで、番組ではその「月の出」の風情を撮影した幽玄な映像も流していた。さて、これまで記してきた以上の内容から、以下の捉え方が自ずと成り立つのではないかと考える。つまり、伊勢神宮「内宮」の主祭神「天照大神」という神名が意味するところの本質は「太陽」(夏至の太陽)にして、伊勢神宮「外宮」の主祭神「豊受大神」という神名が意味するところの本質は「月」(冬至頃の満月)とする捉え方である。この「天照大神」の本質を「太陽」とし「豊受大神」の本質を「月」とする捉え方は、民俗学者で文学博士でもある吉野裕子氏が、既に以下に紹介する伊勢神宮の祭祀に詳しい書籍等で詳細に検討されており、さらに吉野氏は表の祭神たる「太陽」の裏面に「北極星」、また表の祭神たる「月」の裏面に「北斗七星」を洞察され、「陰陽五行」の思想を背景に深く論究されている。※書籍紹介・・・書名『 隠された神々 』・吉野裕子 著・人文書院(1992年 初版)次に、この下の画像は、山頂部に立てられていた「伊勢神宮跡」と記された木標を映したもので、背景には東方の「火の山連峰」の峰々が確認できる。かつてこの御伊勢山の山頂において、天空に輝く「八百万の神々」たる「月・日・星」を祭祀するための精密な「天体観測」が行なわれていたのでは・・・などと思いを馳せると、実に感無量である。ところで、この日記で何度か取り上げてきた、私なりの「山口と九州を貫く南北軸」という捉え方がある。その南北軸の性質とは日本の四季では「冬」に相当し、さらに焦点を絞れば「冬至」の頃の「冬の南北軸」であり、双方を合わせれば「山口と九州を貫く《冬》の南北軸」となる。加えて、ここで紹介したいと思うのは、江戸時代における行政区分の1つの「小郡宰判(おごおりさいばん)」である。この「小郡宰判」は、山口市の南部地域に相当し、現在の山口市に大規模合併(2005年)する前の小郡町・秋穂町・阿知須町・山口市南部にあたる地域となる。現在でも「小郡(おごおり)」とくれば、私的には合併前の「小郡町」の町域に限定されてしまうのだが、江戸時代の「小郡」とは以下に紹介する絵図のように、かなり広範囲だったことを考えると感慨深いものがある。※参考絵図・・・「小郡宰判の絵図」思い返せば、上記の「山口と九州を貫く《冬》の南北軸」という構想で、山口県内では山口市の南部地域を、歴史探訪かたがた長い時間をかけて練り歩いてきたのだが、もしかするとその行為は本来の「小郡」たる「小郡宰判」の地域全体を、自分の心中に蘇えらせようとする取り組みだったのかもしれない。そして、いよいよ県央南部の地場固めは一段落を迎え、上記の南北軸が本格的に律動する季節を迎えるのであろう。◎関連記事・・・山口県は県央「南北軸」の『南』にて◎関連記事・・・「日の山」の麓にある縄文遺跡◎関連記事・・・山口県は「冬の星座」の投影地
2018年03月20日
主峰の「火の山」を越えて次の次の峰の「遠下山(標高 270m)」より、先ほどまでいた「火の山」の山頂部から山口市 小郡(おごおり)の町並みを映した画像が冒頭である。ちょうど太陽光のスポットライトが町全体に当たっているようで、自然界から今後の発展が期待されているかのようだ。ちなみに我が町「小郡」にあって山口県の玄関口たる「新山口駅(旧名 小郡駅)」では、今月3月22日に駅北口の駅前広場が新装オープンを迎え、同月24日(土)にはそのオープニングイベントが開催の予定だ。・・・この新山口駅はのぅ、SL「やまぐち」号(C57・D51)の発着駅じゃし、もちろん新幹線も停まるんじゃけ~(山口弁)・・・そして、いよいよ「火の山連峰」の最南端の峰となる「亀山(標高 300m)」の山頂に到着である。そこで上の画像は、その山頂部を映したものだ。興味深かったのは、標示板の向こうにある岩の形状で、その時の私にはまるで山名の「亀」を模して整形されているかのように観えるのだった。次の画像は、同じく山頂から南方に広がる瀬戸内海方面を撮影したものである。太陽光が雲間によってカーテンのように海原に広がり、只今その瞬間の荘厳な雰囲気を漂わせていた。上の画像は亀山の南麓から、北方の亀山山頂に向けて撮影したものだ。この画像のように、南方から見る「火の山連峰」は、およそ九峰からなる連峰が南北に連なっているために、例えば瀬戸内海を航行する船から見れば、この「亀山」だけの単体の山だと思われよう。かくいう私も、小さい頃からこの「火の山連峰」の麓を数えきれないほど往復してきたのだが、今回この連峰を縦走するまで「火の山」といえば「亀山」だと思っていたのだから・・・。いずれにしても、海上の船から見るこの「亀山」は、この山の南麓に生活する住民にとっても、北方を指標する目印となる立派な山なので、もしかすると四神獣のなかの「北」を象徴する「玄武(亀)」を山頂にあった岩に象り、これを山名にしたのかもしれない・・・と、思わず深読みしたくなるのであった。この最南端に聳える「亀山」を降り始めると、ほぼ南方へ真っ直ぐなだらかに下る山道が続くのであった。その山道を降りていると、道の真ん中に小さな石祠を乗せた巨石があったので、その巨石に登って前方を見てみることにした。すると上の画像のように、すぐ前の道の左右には、その真ん中を通らざるを得ないような二つの大石があった。特にこの山道の両脇にある二つの大石は、ほぼ明らかに古代人が意図的に配置して整形したものとしか思えなかった。続いて上の画像は、上記の道の真ん中にあった巨石と道の両脇にあった二つの大石を、下方の南から北方の亀山の山頂(画像に映る巨石の背後にある山)に向かって撮影したものである。上の二つの画像を見比べればおよそ分かるように、以上の佇まいを例えば神社祭祀のあり方に擬えるとするなら・・・亀山山頂にあって「北(北極星)」を象徴する言わば「亀石」が御神体にして、その南側下方の道の真ん中にある巨石が御神体を遥拝する拝殿、そしてその拝殿たる巨石の前方にある山道の両脇に置かれた二つの大石が、一般の神社では南北に続く参道の神殿に最も近い位置の左右に据えられた一対の狛犬に相当する・・・というのが、私なりの見立てである。そして、さらに山道を南方に降りていくと、天空に向かって大きく迫り出した岩場の両脇に、まるで石柱の門の如く左右に突き出した巨岩があり、それはあたかも神社では参道の入口にある大鳥居のようにも見えるのだった。以上の解説から類推するに、上の画像の大きな石門から南北に登る山道があり、小さな石門を経て道中の真ん中に座す巨石を通して、山頂の御神体を遥拝するという次第を読み取ることができ、その言わば祭祀空間は現代の典型的な神社建築にも通じる、あるいはその元型と思わせるに十分な造りになっていると感じられた。最後に下の画像は、「火の山連峰」の最南端の峰となる「亀山」の、その山頂から南に向かう尾根伝いの山道を含む山稜を、山麓の東南方面から撮影したものだ。この画像を見ていると、山頂から南方に下っていく山道の何処をどのように歩いて降りてきたかが、各所で出会った特徴ある岩石を含めて如実に分かるのであった。(つづく)
2018年03月19日
冒頭の画像は「火の山連峰」の中央部にある主峰「火の山(標高 303.6m)」を、西側の麓から映したものである。前回の「陶ケ岳」以降、三つの峰々を経て、いよいよ「火の山」に到着。そこで今回の記事は、この秀麗な「火の山」に関する記述に絞ることにした。尾根伝いに登頂後、散策のため画像に映る山の中腹まで降りてみたのだが、この山は他の峰々と違って露出する岩塊の規模が大きく、近くに寄れただけでもなかなかの醍醐味を感じることができた。実は中腹にある各所の岩場で写真を撮るも、何しろ一つの岩塊が大きすぎるために、せっかく映した画像を公開しても何が映っているか分かりづらいので、残念ながら掲載は控えることにした次第。さて次の画像は、「火の山連峰」の主峰「火の山」の山頂から、西方の「御伊勢山連峰」を撮影したものである。この「御伊勢山連峰」の主峰たる「御伊勢山(おいせやま/標高 183m)」は、画像中央の少し尖った山だ。なぜか今回の登山直前になって、南北に流れる椹野川(ふしのがわ)を挟んで、東側の「御伊勢山」と西側の「火の山」の位置関係が気になるのだった。そこで、地図上で双方の山頂を直線で結んでみると、驚いたことに正確な東西軸を示しており、その赤で線引きした地図を掲載した画像が上である。そして、おそらく双方の主峰を結ぶこの「東西軸」は、当地域に生活していた古代人の「太陽祭祀」における主軸だったに違いあるまいとの確信に至るのであった。尚この件については、その後さらに興味深い捉え方が見出せたので、このシリーズの最後に総括として論じてみたいと考えている。次に「火の山」の山頂から南方を映した画像が上で、瀬戸内海は周防灘に注ぐ椹野川の河口域が、陽光に照らされ美しく輝いていた。思わず感慨の溜め息が出た展望である。さて上の画像は、火の山山頂に据えられていた石祠と、山頂の表示板を映したものだ。この石祠には「石鎚」と刻まれていたので、古くから四国の霊峰「石鎚山」の山岳信仰(修験道)の流れを汲むものであろう。おそらく見晴らしの良い日には、山頂から西日本最高峰の「石鎚山(標高 1,982m)」が見えるはずである。ところで、この山頂で弁当を食べて休憩をしていると、ジャージ姿という軽装のおじさんが突然現れ四方山話で盛り上がった。このジョギング感覚で登ってきたおじさんは、天気が良いとたまに山頂まで登るという地元の方で、その時の会話で一番印象に残った内容は・・・この山は、今でこそ「火の山」じゃー言うちょるけど、昔の名前は「姫山」だったんじゃがのぅ~(山口弁)・・・。確かに発音は似ているけれど・・・と思って、その元気なおじさんと別れた後、次の峰に行こうと石碑の裏に回ったところで、なんと!下の画像のように「火の山」と同じ標高で「姫山」と書かれた看板を発見したのであった。そこですぐさま閃いたのは・・・もしかすると山頂から瀬戸内に浮かぶ「姫島」が見えるかもしれない・・・ということで、ふたたび山頂に舞い戻って該当方向の海原に目を凝らした。すると、微かではあったが「姫島」を確認、それも南南東の「シリウス方位」であった。その時の感動といったら・・・とても計り知れないもの・・・があった。☆関連記事・・・「シリウス信仰」の痕跡そこで下の画像は、この「姫山(火の山)」の山頂から「シリウス方位」にある「姫島」方面を映したものである。(画像中央部の海上に島影が微かに映っている。)・・・古くは「姫山」と呼ばれていたこの「火の山」の山頂では、おそらく縄文時代より黒曜石を産出する宝島の「姫島」を展望し、年間のある時期にはその島の上から昇ってくる「姫星」たる「シリウス」を観測していたのであろう・・・。悠久の時を経ても変わらぬ展望を前に、自然の営みと共にある有難味を噛み締めた一時であった。(つづく)
2018年03月18日
その後、これまで記してきた「岩屋山」の中腹にある岩石群を散策したことがキッカケとなり、いつかは登ってみたいと思っていた「火の山連峰」を、北から南に向かって縦走することに・・・。冒頭の画像は、現在の山口市域の中央を流れる「椹野川(ふしのがわ)」の下流域西岸から、川を挟んで東方の南北に連なる「火の山連峰」の全体像を撮影したものである。まるでノコギリの歯のような独特な形状の特徴ある連峰の稜線や、川面に映るシルエットも実に美しい。そこで、今後の「火の山連峰」に関する連載の前に、その中央に座す「火の山(標高 303.6m)」を主峰とする峰々を以下に紹介しておきたい。この「火の山連峰」は、山口県山口市秋穂二島にあって、北(画像では向かって左端の山裾から二番目の峰)から「岩屋山(標高 210m)」、「陶ケ岳(標高 234m)」、「陶 一の岳(標高 220m)」、「陶 二の岳(標高 252m)」、「陶 三の岳(標高240m)」、「火の山(標高 303.6m)」、「梅の木山(標高 280m)」、「遠下山(標高 270m)」、「亀山(標高 300m)」の主な九つの峰が、順に南(画像の右側)に連なっている。この「火の山連峰」の低山で構成された縦走とはいっても、画像のようにアップダウンの連続が約5km以上も続くため、自身の体力を考えて三回に分けて登ることにした。後日、興味深い岩石群のある「岩屋山」の次に登ったのは、その南隣の峰となる「陶ケ岳(標高 234m)」であった。古くから山口県のクライミングゲレンデとして知られている陶ケ岳山上部の岩場を、東側にある登山口の近くから撮影したものが上の画像である。上の画像に映る岩は、登山途中の山道脇で見つけたものだが、東方の天空を見つめるこの岩は、当時の私には何故か「オリオン座」をかたどった「ペトログラフ(岩刻文字)」に観えた。道中には他にも古代文字が刻まれたような岩が散見されたが、この岩が一番印象に残っている。◎関連記事・・・国東のペトログラフ岩の解説と…所感…山上部には山道に沿って醍醐味のある大きな岩塊が林立しており、岩肌に仏像が彫ってあるなど信仰の跡も散見された。そして陶ケ岳の山頂から、東方の防府市方面を映した画像が上である。ちなみに画像中央部の最も遠方に見える山並のピークが、防府市で最高峰の「大平山(標高 631m)」だ。今にも崩れそうな山頂の切り立つ岩場から見る景色は、久しぶりに感じる緊張感も加わり圧巻であった。それにしても山上部の岩場(ロッククライミング岩)の存在感は圧倒的で、上の画像と下に続く二枚の画像は、南北に連なる「火の山連峰」の陶ケ岳の南方に続く峰々を縦走する過程で撮影したものである。(つづく)
2018年03月17日
次に・・・ここは測量の重要地点だったに違いない・・・という視点で、同じ「鯨岩」の上から周囲の展望を注意深く見ていくと、ほぼ真北に相当する二並びの山の凹みの向こうにも山が見えたのであった。その北方の展望を映した景色が上の画像で、その中央部の山並みを拡大したものが下の画像である。その凹みの向こうに見えた山は、その美しい山容からすぐに、山口市にある山々の代表たる「東鳳翩山(ひがしほうべんざん・標高 734m)」と分かった。なるほど・・・北方にある二峰の鞍部の遠方にあって、地域の中心となる山上の北天に「北極星」を見出せる位置に、観測点たる「鯨岩」がある(または「鯨岩」を据えた)ということか・・・。しかしこの「鯨岩」から見て、これだけ正確な「北」を東鳳翩山の山頂が示し、加えて手前にある二峰の凹部と遠方にある山の凸部が見事なコントラストを示していることから、「北極星」の観測だけでなく精確な「北極点」を指標するための大掛りな装置として機能していたのではないか・・・とも感じられた。さらに興味深いのは、以下の関連記事で紹介した書籍によると、天武天皇の治世において現在の山口市域に「北斗図(北斗七星の星座図)」が描かれた際にも、やはり同地域の重要な御山として「東鳳翩山」が特別視されていたことである。※関連記事・・・「北斗図」の地上投影地を訪ねて(山口県防府市~山口市)・・・ということは、「北極星」の投影地たる山口県防府市の「多々良山(たたらやま・標高236m)」も、この岩上から見えるのではないか・・・ということで、東方の防府市方面を見遣ると、その山が低山であることと私の視力や当日の視界の問題で視認はできなかったが、この岩上から多々良山は確実に見える位置にあったと思われた。以上これまで綴ってきたように、この岩上で私なりに感得した体験から、この岩屋山の中腹にある「鯨岩」は、飛鳥時代に「北極星」と「北斗七星の星座図」が防府市から山口市にかけて描かれる遥か昔より、この地域に設置されていた「天体観測や地文測量における重要拠点」の可能性があることを指摘しておきたい。さてこの岩屋山には、上述した「鯨岩」の他にも「展望岩」など様々な巨石群が存在感を示していたが、中でもとりわけ目を引いたのが、思わず烏帽子岩と名前を付けたくなるような「意図的な細工を施した石組み」の気配が漂う上掲画像の磐座であった。この下に続く画像も、上の画像の磐座をそれぞれ別の角度から映したものである。上の画像はこの磐座を真下から撮影したもので、その圧倒的な存在感に・・・こんな立派な磐座が、地元にもあったんだ・・・と、感動で心が打ち震えたことを憶えている。磐座の横にあるロープを頼りに登っていき、斜め上方から最上部に乗せられた特徴のある岩石を中心に映した画像が上である。この画像を見れば分かるように、整形されたであろう最上部の岩石は明確な方向性を示しており、それは「鯨石」の岩上でも確認できた「夏至の日の入」の方位であった。その最上部の岩石を斜め後ろから映したものが上の画像だ。そして同じく最上部の岩石の真後ろから、下方の岩石との接合部を映したものが下の画像である。上の画像を見れば何となく分かるように、この最上部の岩石を後方から見ると、少し縦長の長方形になるよう成形されているように思える。これらの画像を見比べれば、おそらく誰が見ても・・・加工された形跡が濃厚だ・・・と感じるのではあるまいか。そして、最後となる下の画像は、これまで取り上げてきた「岩屋山」の岩石群を散策後、下山した北麓の駐車場からフト山上を見上げた時に、図らずも上記の烏帽子岩!?が確認できたので映したものだ。ちなみに、緩やかな山稜の中央部に見える突出した岩陰が、その磐座の最上部の岩石である。
2018年03月16日
後日、岩石群のある「岩屋山(標高210m)」の北側から登っている時に、登山道の岩間から忽然と現れた「鯨岩(くじらいわ)」と呼ばれる巨岩を映した画像が冒頭である。冒頭と下の画像を見れば分かろうが、おそらく空中に突き出でていた部分(全体の三分の一位)が崩れ落ちており、在りし日の「鯨岩」の全貌を俯瞰できなかったのは残念である。標高約150mに存在するこの「鯨岩」は、これを支える大きな台座とも思われた巨岩の上に、まるで海中で泳いでいるシロナガスクジラのように横たわっていた。上の画像の上部に映る横に長い「鯨岩」の右端には、まるで巨岩の割れた部分を示すかのように陽光が射していた。その「鯨岩」の上に乗って大展望を楽しんでいると、そこでフト目に留まったのが前回の記事で取り上げた「皇后岩」を孕む小さな森であった。分かりづらいと思うが、その「皇后岩」(画像の中央)と山口市 小郡(おごおり)の街並み、そしてその背後にある山並みを映したものが上の画像である。そして驚いたことに、鯨岩の岩上から真正面にある「皇后岩」、そして背後の山並みの山頂が、ほぼ一直線にある関係性が読み取れたので、方位磁石で確認すると「西北西」で「夏至の日の入」の方位を示していることがわかり、しばし感動に包まれるのであった。そこで上の画像は、上記の関係性を拡大写真で示したもので、赤丸で囲んだ小さな森が「皇后岩」で、それと背後にある「禅定寺山(標高 392m)」の山頂を結ぶ赤線が、夏至日没の方位線となる。そして下の画像は、上の画像の赤丸で囲んだ「皇后岩」を、より近い現地で撮影したものである。 この「皇后岩」は他の観測地点から見ても、「鯨岩」と同じく周辺地域における天文・地文の基点となる場所だったであろう。まさしく「灯台下暗し」とは、このことである。・・・ずいぶんと遠くを旅してきたけれど、あなたが生まれ育った身近な地域には、古代人が設営したこのような施設があったのです・・・と、地元の大先祖から私の分かる範囲で教えていただいたような気がして、有り難く感慨一入であった。(つづく)
2018年03月15日
昨年(2017年)の年末、地元の車道を走っていてフト山並に目を遣ると、上の画像の山腹にある岩石群が目に飛び込んできた。なんだこれは!・・・と運転中にもかかわらず、この岩石群を何度も見返したことを憶えている。ここで、その岩石群のある山とは、山口市 秋穂(あいお)にあって主に九つの峰々からなる「火の山連峰」の北側にある「岩屋山(標高210m)」である。そしてその直後に、かねてより気になっていた地元で「皇后石」(山口市名田島)と呼ばれる巨岩群と、冒頭画像に映る山腹の岩石群には、もしかすると深い関係があるのでは・・・という直感が走るのであった。そこで上と下の画像は、その神功皇后伝説にちなむ巨石群を、それぞれ別の角度から映したものである。下の画像のように、田んぼの中にポツンとある「皇后岩」については、昨年の秋頃に知ることとなったのだが、この岩石群と戯れていると方向性のある岩石等の意図的な配置が読み取れて・・・この地域の測量の基点として機能していたのではないか・・・とまでは感じられたが、当時はそこで止まっていた。そうして少し時を経て、上記のように・・・関係があるのでは・・・という直感が走り、あの山腹に見える岩石群を身近で体感したい、そしてその岩石群から「皇后岩」を眺めてみたいという思いが涌いてくるのであった。(つづく)
2018年03月14日
以下の告知にて当美術展に参加し、上掲の作品を含む[立体造形]を展示します。有志21名からなるグループ展で、出品する私の名前は〔 山 本 裕 一 〕です。繁華街にあって交通の便の良い美術館です。皆様のご来館をお待ちしています。 アートプランナー美術展 vol.4《燦然たるオブジェたち》〔と き〕2018年4月12日(木)~17日(火) 10:00~20:00 (最終日は18:00まで) 〔ところ〕福岡アジア美術館 8F 交流ギャラリー < 交通案内 > 【 入 場 無 料 】 福岡市博多区下川端町3-1 リバレイン センタービル
2018年03月12日
前回の日記にも書いたように、先月の2月24日~25日にかけての「四国行き」は、歴史探訪を予定していた各地を含め様々なルートを考えていたが、結果としては「愛媛県」の県域に限っての歴訪となり、大分と愛媛を海上で結ぶ「国道九四フェリー」の往復を利用することになった。自宅に帰り一息ついて、フト愛媛県の松山市内から確実に見えた「石鎚山」に思いを馳せると・・・かつて小雨模様のなか懸命に登頂した経験を回想することに。◎関連記事・・・四国修験の最高峰「石鎚山」への登拝そこで思い出したのは、九州の修験霊場を代表する御山といえば大分県の「英彦山」であり、同じく四国の修験霊場を代表する御山といえば愛媛県の「石鎚山」であったこと・・・。かつて「英彦山」には、並々ならぬ思い入れを胸に登拝したことがあった。◎関連記事・・・九州修験の総本山「英彦山」への登拝そして、その九州と四国を代表する修験の二峰に纏わる伝承が、大分県中津市の「八面山」の中腹にある巨大磐座「和与石(わよいし)」に関連させたかたちで残されていることを思い出すのであった。◎関連記事・・・八面山にある「和与石」について※上記の詳しい内容等については、リンクした各〔◎関連記事〕に任せることとしたい。余談ではあるが、ここでさらに興味深く思い出されたのは、かの平昌オリンピックで活躍した羽生結弦選手の名前の読みの類似性から話題になった「諭鶴羽(ゆずるは)神社」(兵庫県南あわじ市)の由来書の内容であった。当社の由来書に記された「熊野権現御垂迹縁起伝」には、熊野大神は九州の「英彦山」から四国の「石鎚山」、「諭鶴羽山」を経て熊野新宮・神蔵の峯(神倉山)へ渡られたとあり、日本古来の山岳信仰「修験道」の伝播経緯が書かれていたのである。◎関連記事・・・英彦山系の修験道の御山「諭鶴羽山」ここまで走馬灯のように歴史の現場を歩いてきた思い出の映像が繋がったところで、なぜか大分県の英彦山と愛媛県の石鎚山を地図上で線引きしたくなったので、すぐに手持ちの地図を用意して二峰を直線で結んでみた。すると驚いたことに、その二峰を結ぶ軸線上に「宇佐神宮」(大分県宇佐市)が見出せた。またその宇佐神宮の鎮座する現在の宇佐市域は、当日記で何度も取り上げてきた「山口と九州を貫く南北軸」の軸線上に添う位置にあることから、私自身の30年に及ぶ「歴史探訪」の核心部分に「宇佐」があったことを再認識することとなり・・・なるほど、そうだったのか・・・と深い溜め息と共に、ひとり合点がいくのであった。そこで上記の南北軸に関しては、今回は以下二つの関連記事を紹介することにしたい。◎関連記事・・・山口に描かれた「北斗図」を訪ねて◎関連記事・・・山口と九州を貫く南北軸についてところで前回の日記でも書いたのだが、この度の「四国行き」における縄文系譜の歴史探訪を経て、私の心中には山口県・大分県・愛媛県の三県で【渦巻く三つ巴】の紋様が観えていた。そして今、この記事を書いている最中に気づいたのだが、その心中に浮かぶ「三つ巴紋」とは、「山口と九州を貫く南北軸」と「英彦山と石鎚山を結ぶ軸線」が交差する位置にある「宇佐神宮」の御神紋であったと再認識し、さらに瀬戸内海の「周防灘」の海域を中心に「三つ巴」を象徴する三県が、古代の「豊国(とよのくに)」が治めた本来の国域ではなかったかという着想に至るのであった・・・。
2018年03月10日
2月25日(2018年)の朝は、松山市高浜の岬にある「白石ノ鼻」の巨石群を訪ねた。その際に映した巨石群のうち、岬の海上に浮かぶ最もシンボリックな磐座で通称「三ツ石(白龍石)」(画像中央の石組み)を映した画像が上である。そして下の画像は、その「三ツ石」を上の画像と同じ角度で拡大したもので、さらに下に続く2枚の画像は、同じ磐座を別の角度から映したものである。そこですぐ下の画像に映る磐座の中央部に、縦に細長い逆三角形の空間が確認できると思うが、この撮影地点から磐座のある方位が真東となっていて、このカメラ目線より少し低い位置にあると思われる「観測台(※)」から上記の逆三角形の空間を見れば、対岸の丘陵から昇る春分と秋分の日の出が観測できるということだ。(※)この「三ツ石」という岩組みを設計する時点で、あらかじめ設定されたであろう天体観測や地文測量をするための特別な場所で、この巨石群のある一帯を調査した研究家が見出したとする観測地点のこと。一見するとこの「三ツ石」は通称通り三つの石組みのようだが、それぞれ別の角度から映した上3枚の画像を見比べればおよそ分かるように、実際には五つの巨石で構成されているそうだ。当日は曇り空だったので見えづらかったのだが、この「三ツ石」近辺からは前日に登った新城山の山頂を視認できるし、逆に新城山山頂からも磐座を確認できるので、おそらく縄文時代より「海と山を結ぶ巨石ネットワーク」が形成されていたものと推測でき、その松山市域における一例を紹介できたものと思う。そして上の画像は「亀石」という磐座で、冒頭の画像の向かって左端にその一部が映り込んでいるのだが、地元の研究家による調査では、上記の「観測台」から見て磐座の下方にある小さな隙間を太陽光が透過する時間があるとのことで、それは夏至頃の日の出約1時間後となるそうだ。その「亀岩」を反対方向から映した画像が下で、ユーモラスな海亀の雰囲気がよく出ている。残念ながら画像では、背景にある山並みが霞んで見えないのだが、肉眼では前日に取り上げた三山の「新城山(標高 161m)」・「腰折山(標高214m)」・「恵良山(標高302m) 」が、およそ等間隔にて左から小・中・大と美しく並んで見えたのは印象的であった。この「白石ノ鼻」の海岸から見て上記の三山の方位は北北東になるので、例えば日暮れの頃に当地の「観測台」から見て、北北東の方位にあって指標となったであろう連なる三山近辺より、北斗七星やカシオペア等の北天を代表する星々が昇っていくことが窺えた。以上のことから、この「白石ノ鼻」に存在する巨石群は、おそらく松山市の湾岸域を含めて、かなり広範囲な磐座ネットワークによる古代人の天体観測や海上交通における重要拠点ではなかったかと、そのように感じたところである。今回の「四国行き」について、当初は高知県の土佐市まで足を延ばす予定であったが、天候や限られた時間ということもあり、結果的ではあるが愛媛県内の古代遺跡を行脚する旅路となった。面白いことに、今回の旅路が「愛媛県」に限定されたことで観えてきたビジョンがあった。それを大局的に県単位で比喩するとすれば、「山口県」と「大分県」と「愛媛県」の三県で【渦巻く三つ巴】の紋様である。次の日記では、上記の【渦巻く三つ巴】から見出せた核心部分を解説できればと考えている。・・・大自然の営みと歩調を合わせつつ、人として如何に安寧な生活を維持していくか・・・かつて古代人が実際に生活の場とした遺跡等の「歴史の現場」を訪ねることで、もしかすると相変わらず自然破壊に突き進む現今の社会生活を、根底から顧みる大切な機会を得ているのではなかろうかと、改めてそのように感じている。
2018年03月08日
2月24日の夕刻、山上に磐座があると知った愛媛県松山市北条にある「新城山(シンジョヤマ/標高 161m)」に登った。各所に雪の残る久万高原を経て、晴天の土曜日ゆえに市内に入ってから車の混雑が続いたが、とにかく現地に向かい日暮れに間に合えば・・・ということで当山を登り始めたのだが、お陰さまで何とかセーフということで瀬戸内に沈む落日を映した画像が冒頭である。上の画像は山頂部からの眺めで、画像中央の手前が「腰折山(コシオリヤマ/標高214m)」、向かって右奥のピラミッド形状の山が「恵良山(エリョウサン/標高302m) 」である。ちなみに、この二並びの山の方位は、ほぼ真東ということから、特に尖った「恵良山」は意図的に削った可能性があると感じられた。上の画像は山頂部にある「鏡岩」と称する磐座を映したもので、地元の研究者の間では「月」や「太陽」の光を、まるで鏡のような平板な岩に反射させて、瀬戸内海を往来する古代船舶の航海安全のための指標として活用されたのではないかと言われている。近年には上記を想定し、この鏡岩に銀紙を貼って海上の船舶から確認したところ、実際に反射する光を視認できたそうである。同じ「鏡岩」の前で、沈む夕日と共に映した画像が上である。陽光を受けて微かに反射する岩肌は、確かに歴史ロマンを掻き立てるには十分であった。そして山頂から続く尾根の先端にあった「男神岩」と思われる屹立した岩を映した画像が上である。また下の画像は、夕刻に出ていた半月(画像の右上)と共に、上の画像と同じ「男神岩」を映したものだ。おそらく天体観測(地文測量)の専門家が現地でこの「男神岩」の示す方向を観測(測量)すれば、紀元前(紀元後)の何年にどの天体(一等星と思われる)を指標していたかを明確に指摘できるであろう。上に並べた画像のように「鏡岩と太陽」で女性性と「男神岩と月」で男性性と、図らずもそれぞれ抱き合せた景色を現地で撮影し披露することができて、我ながら感慨無量である。上の画像は、向かって右端の「男神岩」を含む磐座群を、東南方位に向かって撮影したものである。この画像では分かりづらいのだが、画像の中央奥に見える山並の鞍部(凹み)の向こうに、さらに遠方にある別の山の山頂部が視認できたのであった。当時の私には、地図アプリで確認した方位からして西日本最高峰の「石鎚山(イシヅチサン/標高 1,982m)」と思われたのだが、もしかするとその手前にある山だったかもしれない。しかし、この「新城山」の山頂部にある磐座群から、かつて登拝したことのある「石鎚山」を意識できたことは無性に嬉しかった。それと同時に、古代の磐座設計者は、意図した方位にある山並み鞍部の遠方に、地域の要となる山を見据えて、年間のある月日にその鞍部に見える山頂から昇る星々を観測していたのではないか・・・などとという想いが湧いてきて、その方位に今しばらくすれば昇りくる星々に思いを馳せながらワクワクしたことを憶えている。当日を振り返れば、朝方は九州は大分県の佐賀関半島にて東方の海より昇る朝日を拝し、夕方は四国は愛媛県の新城山山頂にて西方の海に沈む夕日を拝することができたのは、大自然のお導きというか実に有り難き幸せであった。
2018年03月07日
2月24日の午前中に四国は愛媛県の三崎港に上陸。「高山メンヒル」と「神南山」の東西関係を確認し、次に向かったのは縄文時代草創期の遺跡として知られる久万高原町の「上黒岩 岩陰遺跡」であった。この遺跡は高さ約30メートルの石灰岩が露出した岩陰にあり、これまでの発掘調査によって今から1万4~5千年前の縄文時代草創期から縄文時代後期までの1万年近くにわたって人が住んでいたことが判明している。延々と1万年近くにわたって居住していたという点で、この「上黒岩 岩陰遺跡」は長崎県佐世保市の「福井洞窟遺跡」と並んで貴重な縄文岩陰遺跡とされているそうだ。その福井洞窟遺跡には昨年6月に訪れているので、国内で居住年数の最も長いとされる代表的な2つの生活空間の現場に行かせていただいたことになる。◎関連記事・・・「福井洞窟遺跡」についてそこで上の画像は、冒頭画像に映る岩壁の付根となる青い屋根の建物に囲まれた中の、連続的に1万年もの使用に耐えた居住空間を撮影したものである。この岩陰遺跡は標高約400mの高台にあって、石灰岩質からなる岩壁下の西南方位に開いている。ということから居住地の岩陰は、たとえ極寒の冬場でも、沈む夕日の陽光を浴びる場所にあるので、日が沈んだ後でも温もりをしばらくは保ったであろうことから、住み良い環境だったのではないかと感じられた。下の画像は遺跡のある岩壁の西側を登り、その西南壁の露出した断崖を撮影したものである。そこで心中に浮かんできたのは・・・よく晴れた寒い時期に、この壁面の前で皆で西日を浴びて暖を取っている・・・あるいは特別な時期に、そこで歌舞に興じて呪術祭祀を行っている・・・古代人の姿であった。この遺跡に隣接して「上黒岩遺跡考古館」があるのだが、残念ながら毎年4月1日からの開館ということで当日は館内の展示物を拝観することができなかった。だからというわけでもないが、たまたま翌2月25日に「愛媛県歴史文化博物館」(西予市宇和町)を見学する機会があったので、その際に当遺跡から発見された出土物が展示されたコーナーに掲載された解説版等を映した画像の数々が以下である。当博物館の歴史展示室では当遺跡が筆頭に挙げられ、出土した文化財の数々も分かりやすく展示されており、加えて愛媛県の歴史をはじめ民俗文化に関しても、他県では見られないような広い空間での演出が工夫されていたことが印象的であった。この遺跡では掲載画像の「線刻礫」を代表として、同様の女性をモチーフとした岩偶(線刻礫)が全部で11個も見つかっているとのことだ。使途は不明ということだが、安産を願う母神像とする説が唱えられているそうである。この「ヴィーナス像」とも称される女神像線刻礫は、鋭利な剥片石器を用いて女性像を礫に描いたもので、信仰の対象だった可能性が指摘されている。この種の像が出土したのは日本では上黒岩岩陰遺跡が初めてで、また同じ地層からは約1万2千年前の、発見当時としては世界最古級の土器も出土したとのことである。
2018年03月03日
本日の西暦3月2日は旧暦では1月15日の満月で、旧暦の小正月(旧小正月)という日本古来の新年であった。◎関連記事・・・旧暦の小正月ということで本日は、地元は山口県南部の瀬戸内海側にあって、当日記で何度も取り上げてきた「山口と九州を貫く南北軸」に添い、県内南北軸の南の基点たる「日の山(標高 146m)」に登ることにした。そこで冒頭の画像は、「日の山」の南麓から三日月形をした「月崎」の半島と遠浅の海を撮影したものである。そして下山の後、「日」と「月」を抱き合せた「明」の字を脳裏に浮かべつつ海岸を歩いていると、大潮で引き潮の岩場に「海鼠(ナマコ)」を発見したのであった。これは海神様からの贈物と感謝して、今宵は久しぶりに味わう珍味を酒の肴に、新年を寿ぐ麗しき月光を浴びている。
2018年03月02日
さて昨日の日記の続きとなるが、翌2月24日の朝は、かつて訪れたことのある佐賀関半島の先端にある「関崎海星館」の展望台から朝日を見ようと、大分市内のホテルを午前6時に出発。そこで当地の展望台から、燦然と昇る陽光を映した画像が冒頭である。その空と海を照らす格別の輝きは、今回の「四国行き」を大自然が寿ぎ、後押ししてくれたかのように感じた。素晴らしい朝日を堪能した後、半島南側に降りて海岸沿いの道を走り、「姉妹岩」という注連縄で結ばれた2つの岩礁を映した画像が上である。ちなみに背後に映る島は、豊後水道の狭間に浮かぶ「高島」だ。この画像に映る「姉妹岩」は逆光のため黒く映っているが、以下の関連記事の掲載画像のなかで、同じ「姉妹岩」を映した画像を見ると分かるのだが、珍しいことにその岩礁の岩肌が緑色系なのである。◎関連記事・・・九州東岸域の日向物語(3)そこで上の画像は、その「姉妹岩」の近辺にある崖地で採取した「緑色系の石片」を映したものである。画像と比べて現物は、もう少し緑色が映えて美しいのだが、私的にはこの濃い緑色をした鉱物に、なぜか強く心を惹かれるものがあった。調べてみると「緑色片岩」という種類の鉱物とのことで、その特徴的な濃緑色は成分の「銅(Cu)」に由来しているそうだ。なるほど・・・どうりで魅かれたわけだ・・・と、私なりに合点がいくのであった。そして九州の佐賀関港(大分県)から「国道九四フェリー」に乗って豊予海峡を渡り、対岸は四国の佐田岬半島の三崎港(愛媛県)へ向かうのだが、その半島の先端となる佐田岬近辺を映した画像が上である。そこで上の画像に映る佐田岬の海岸に続く断崖に、薄い緑色の岩肌が確認できると思うが、これは前記の佐賀岬半島で採取した石片と同じく「緑色片岩」ということだ。このかねてより思いを馳せていた鉱物が生成した背景に、大きくは日本列島の西部を横断する「中央構造線」に関連する造山活動があったものと推察でき、感慨一入である。ところで、上記のフェリーの名称に「国道」が入っているのは、(旧)日本道路公団が四国・九州間の豊後水道を海上国道方式で開設したことから、海の上のフェリー航路であっても国道ということになるそうだ。※このフェリーは九四間の最短航路(31km)をわずか70分で結ぶ。ちなみに佐賀関から大分市に向かう海岸通りの国道197号の通称が、大分市を走る国道なのに「愛媛街道」と呼ばれているのは、この道が高知県高知市から大分県大分市に至る国道だからということである。さて九州から四国の愛媛県に渡って、まず最初に訪れたのは大洲市に存在する通称「高山メンヒル」と呼ばれる「高山ニシノミヤ巨石遺跡」であった。(※メンヒルとはラテン語で「長い石」の意味)この巨石は一本の長い石を立てたもので、高山寺山の中腹にある民家の一角にあるこの大きな石は、地面からの高さが4.75m、幅2.3m、厚さ66cmと記録されている。この巨石の正面に当たるほぼ真東の方向には、上の画像のように綺麗な三角形状の「神南山」があり、他にもこの神南山に向かって立てられたと思われる数個の巨石が周囲に存在するそうだ。そこで思い出したのは、前回の日記で書いた「由布岳」にも、この山に向かって立てられたと思われる巨石が何個か存在するということで、その一例を挙げた画像が下である。◎関連記事・・・豊後富士の「由布岳」に登るおそらく九州にも四国にも、地域の目星となる中心的な山に向かって天体観測や地文測量に関わる巨石を立て拝するという古代人の信仰が、同様にあったのではないかと思われた。加えて、宮崎県は「日本神話のふるさと」と詠われる「高千穂」の峰々や、さらに広範囲の神域に巨石ネットワークを構築すべく、古代人が緻密な計算に基づいて加工し配置したと思われる「石神山(宮崎県日向市)」の磐座群について書いた記事を紹介しておきたい。☆関連記事・・・石神山の磐座(イワクラ)を体感!
2018年03月01日
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