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アルゼンチンのブエノスアイレスから国内線でイグアスの滝国際空港へ。南米の旅2日目。平成21年6月6日(土) 11:08アエロパルケ空港12:30LM4026 便で、イグアスの滝国際空港へ向けて離陸アエロパルケ空港を離陸アエロパルケ空港はブエノスアイレス市内に近いブエノスアイレス市内近郊の公園ブエノスアイレス上空へブエノスアイレスはアルゼンチンの首都で、人口の9割以上がスペイン、イタリアを主とするヨーロッパ移民で、生活も南欧の習慣が色濃く根付いている街並みは整然と区画され、重厚な石の建物が並ぶ。そんな雰囲気に、人はここを「南米のパリ」と呼ぶ。またタンゴを生んだ町としても有名であるラプラタ川上空12:51イグアスの滝国際空港へは湿地帯上空をブラジル方面へ大きな川がくねくねとパラナ川か、上流はパラグアイ13:12いろんな川が合流して、ラプラタ川へ流れるのであろう13:27川の水は泥水?13:48飛行機は下降をはじめ田園風景が近ずく13:56イグアスの滝国際空港へ着陸アエロパルケ空港から約1時間半で到着14:04イグアスの滝国際空港天気は快晴荷物受け取りのターンテーブル横に美女がイグアスの滝国際空港廻りの観光案内板右上が「イグアスの滝」14:17現地添乗員の菅野氏(74歳)がお迎え観光バスへ荷物を載せホテルへ向かう14:38ゴルフ場か車の量が少ないカメラの画素数が低いため解明度が悪く字が読み取れないのが残念14:45Hito Tres Fronterasブラジル、アルゼンチン、パラグアイの3国国旗このプレートはブラジル、アルゼンチン、パラグアイの3国国境を流れるパラナ川。川向うはパラグアイ、右側はブラジルパラグアイ側上記写真の左側の建物をズームアップMarco Paraguay の塔が建つ珍しい蝶右側からイグアス川が合流、建物はブラジル側。ここより上流23kmにイグアスの滝があり、イグアス川の中が国境線アルゼンチン側も、Marco Argentina の塔が建つ塔は国旗の色を反映している15:10観光バスへ戻る観光バスのタイヤに珍しい「空気圧調整装置」運転手に尋ねると運転しながら調整すると15:22アルゼンチン側の国境検問所添乗員が代理で入国審査を受ける、ビザを取得していたのでスムーズに入る国境を渡り、アルゼンチンからブラジルへ15:33イグアス川を渡りブラジルへ入る、上流側にイグアスの滝がある15:47ブラジル側の国境検問所16:24(日本時間:6月7日 4:24)イグアス(ブラジル側)のホテル『HOTEL RECANTO PARK』我々は男三人のトリプルルームで、2連泊。日本の我が家を出てから既に43時間も経ち、睡魔も襲う部屋に入り夕食まで時間があったので、持参したソーメンを作り食べる。19:52夕食会場は、タンゴ・サンバショーを見ながら夕食日本を出てから初めて椅子に座り食事、5人でビールで乾杯食事はブラジル名物のシュラスコホワイトアスパラも20:57食事を終えたごろからショーが始まる賑やかなタンゴ・サンバショーが始まり眠気も覚める次から次と踊り子も各年代の人がステージに楽器での演奏男性歌手もレストラン内はいつの間にか満席になっていた若い女性のサンバショー、素晴らしい!!!目が釘付けになる22:37約1時間半のショーでフィナーレへサンバショ-の後部屋へ戻り、日本を出てから50時間を経て睡魔が襲いベッドへ。即、三人とも爆睡状態に。三人の「いびきコンサート」であったのでは。いつか録音して聞いてみたいものです(笑)。 南米の旅ー続く
2020.07.26
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ペルーのリマ空港でトランジットして、アルゼンチンのブエノスアイレスへ。南米の旅2日目6月6日(土) 0:00リマのホルヘ・チャベス国際空港ターミナル内深夜の発着が多いハブ空港である土産物の民芸品ヒマワリ?カラフルな民芸品6月6日(土) 0:41アルゼンチンへは、LA 2427 B.AIRES(ブエノスアイレス)行き 1:25発ロサンゼルスから乗ってきたLA 601便は01:05発で、チリのサンティアゴへ搭乗ゲートを確認して休憩時間も真夜中で、日本を出てから30時間が過ぎているので寝込まないように注意0:54搭乗開始リマからブエノスアイレスまでは、約4時間15分のフライト、皆さん元気だ!3:10予定の1:25に離陸してチリ上空へ6:20(日本時間:6月6日 18:20)アルゼンチン上空へ日本とアルゼンチンとの時差は、12時間でサマータイムは実施していない7:23ブエノスアイレス空港への着陸前の機内7:35日の出前のブエノスアイレス空港へ到着エア・コメット(aircomet)航空機マドリードを拠点とするスペインの航空会社。主にスペインと中央・南アメリカ各国を結ぶ長距離路線とヨーロッパ各地への近距離路線を運航している。2009年12月の経営破綻により運行を停止した。2010年3月に客室乗務員が、同社による長期の給与未払いを訴えるためにヌードカレンダーを作成し、話題を呼んだ。モデルはすべて女性の客室乗務員で、カレンダーではキャビンの内外で挑発的なポーズを披露。・・・・・・8:02エセイサ国際空港:正式名称 ミニストロ・ピスタリーニ国際空港荷物を受け取りバスへ移動8:04早朝の空港前ターミナルが「A」「Ⅽ」とある国際線はすべてターミナルAに到着する駐車場ブエノスアイレスには、2つの空港(エセイサ空港とアエロパルケ空港)がある。ふたつの空港間の距離は約40kmで、空港間の移動手段は空港バス、レミ-ス(REMIS/料金前払いのハイヤー)、またはタクシー。我々は、観光バスで国内線空港へ移動ターミナル前8:08エセイサ空港を出る高速道路を走り国内空港へバリアフリーの横断歩道エセイサ国際空港はブエノスアイレス市内から約30km離れた郊外に位置しているバスの中からブエノスアイレス市内の高層ビル料金所8:21料金所を過ぎマンションorアパート8:44サッカースタジアム鉄道の跨線橋ラプラタ川8:48空港への途中ラプラタ川へ立ち寄るラプラタ川の河口は220kmあり、世界で一番河口が広い対岸は、ウルグアイここは南半球、日本と反対で日の出が、8:51と遅い朝から釣りを楽しむ人がいた上流側の、対岸はウルグアイラプラタ川下流側河口が220kmと言うと、日本では東京から静岡県の藤枝市辺りになる釣り人が釣っていた魚ラプラタ川沿いの公園9:06アエロパルケ空港:正式名称 ホルヘ・ニューベリー空港アエロパルケ空港は、ブエノスアイレス市内に位置し、主にアルゼンチンの国内線や短距離国際線が発着する。ラン航空カウンターでチケットターミナル内の大きなハートの風船9:37LM4026 12:30 イグアス行き電光掲示板は「SAMSUNG製」、出発まで3時間弱もあり時間を持て余すターミナル内の土産物店アエロパルケ空港10:03朝食は幕の内弁当が配られる自宅を出てから36時間半を過ぎており、久しぶりに美味しいもの食べた感!願わくば味噌汁が欲しかった現地時間:10:13(日本時間、22:13) 南米の旅ー続く
2020.07.25
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新型コロナウイルスも「GO-TO キャンペーン」を始めようとしたとたんに感染が全国に広まり今後どのようになるのか。再度外出自粛になるのか。各自で感染予防に気を付けたいものですネ!このシリーズも、11年前に行った『南米のブラジル&アルゼンチン、ペルー』の旅です。ツアー名は『イグアスの滝とナスカの地上絵・マチュピチュ遺跡 10日間』。旅行期間:平成21年6月5日(金)から14日(日) の6泊10日の旅。今回はクラブツーリズムで17名のツアーに男3人で参加。クラブツーリズムからの最終案内「旅のしおり」念願の、世界三大瀑布のイグアスの滝、マチュピチュ&ナスカの地上絵経路は米国のロサンゼルス経由で南アメリカへ。ペルー → アルゼンチン → ブラジル → アルゼンチン → ペルー 旅行前に自分たちでブラジル大使館(JR五反田駅前)へ出向き、ブラジルのビザを取得ツアー会社へ依頼すると高いので自分たちで取得したので、3,000円で済んだなお今回の写真は、自分の写真がパソコンの変更で保存されていなかったため旅友の了承をへて編集させてもらっております。6月5日(金) 10:29JR横浜駅10:30発の成田エクスプレスへ乗車11:57成田空港第1ターミナルへ到着12:43成田国際空港第1ターミナル、北ウイング4階Gカウンターへ日本からの添乗員から説明を受ける14:55発 大韓航空 KE1便 ロスアンゼルス空港行き13:50先輩のHさんも元気に参加搭乗の大韓航空14:27搭乗ゲートから機内へ16:35最初の機内食は韓国料理「ビビンバ」食べ方が分からず他の方(韓国人?)のやり方を見て食する21:14日付変更線も過ぎ、ハワイ上空も過ぎ米国本土へ向けて飛ぶ。今までハワイへは3度来ていたが米国本土へは初めて。大韓航空のため字もハングル&英語23:19夕食の機内食「オムライス」23:37(日本時間)サンフランシスコ上空ロサンゼルス空港到着現地時間:6月5日 8:40(日本時間6月6日 0:40)成田空港から約9時間45分のフライト。日本との時差はサマータイムの17時間で日本より遅れている。計算は、日本時間より4時間引き、昼夜(PMとAM)を逆転させる。9:18入国審査へ、米国への入国はESTA登録を事前に完了し「渡航認証許可」が必要。入国審査が厳しく、両手の指紋採取、顔写真を撮影9:55トランジットで、LAN航空へ10:02ターミナルを移動して、LAN航空へLAN航空カウンターLAN航空カウンターで搭乗手続き10:21LAN航空のチケットをもらい集合。今回のツアーで最高齢者は80歳代の男性で一人参加今回一緒に参加したMさんご夫妻昨年のスペイン旅行の後「スペイン旅行仲間」を発足、今回の参加となったLAN 601便 LIMA-SANTIAGO 13:20発 11:23LAN航空機中国東方航空11:53LAN航空 LA601便 LIMA-SANTIAGO 13:20発ペルーのリマまでの飛行時間は約8時間35分14:25離陸して1時間後に昼食の機内食機内で米国人婦人とワインで乾杯「リマへ行く」とのことであったが満席の機内搭乗機はカリフォルニア湾上空へ日本時間:6月6日 11:39左側の諸島は、赤道下のエクアドル領のガラパゴス諸島、世界遺産の「自然遺産」。ペルー上空へ、成田空港から既に約21時間LAN航空の空路LATAMチリは、チリの首都のサンティアゴ・デ・チレを本拠地としているLATAM航空グループの航空会社で、チリのフラッグ・キャリアでもある日本時間:6月6日 11:57二度目の機内食だが軽食ペルー西海岸上空を南下リマ空港着現地時間:6月5日 23:52(日本時間:6月6日 13:52)ペルーと日本との時差は14時間で、サマータイムは実施していない自宅を出たのが6月5日(金) 9:30で、既に約28時間を経っており一日が長い。このあとリマ空港でトランジットしてアルゼンチンへ。 南米の旅ー続く
2020.07.24
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スペインの旅八日目、延泊したため我々だけで帰国。当初予定では、ホテルから国際空港へはタクシーで行く予定であったがフロントで「今日はタクシーはストライキです」と言われる、慌てるハプニング。急遽旅友がフロントと交渉、別の交通手段を聴く。飛行機は、バルセロナ空港発 15:05のKLMオランダ航空に搭乗。平成20年6月13日(金) 9:32バス停から宿泊ホテルを望む9:32ホテル近くのバス停でバスを待つ10:05バスで最寄りの駅へ10:43カタルーニャ駅へ到着乗車駅でチケットを販売していなかったので乗車券を購入。旅友が交渉してくれたが、後で聞くと駅員から「一日乗車券を購入したら」とすすめられたと路線は市街地に入り途中から地下鉄になった11:13カタルーニャ広場には二階建て観光バスカタルーニャ広場の、空港行きのバスの列に並ぶ。タクシーストライキで多くの観光客が並んでおり地元テレビ局がインタビューを行っていた。どうにか満員のバスに乗車でき国際空港へ向かった時間に余裕を持ちホテルを出発したので時間前に空港へ到着できた。搭乗手続きも無事終了して予定の飛行機に搭乗。15:05バルセロナ発:KLMオランダ航空 KL1668便に搭乗。17:06バルセロナを出発、オランダ上空へたどり着く着陸態勢に大西洋上オランダ・ベルギーの旅をしていないのでいつか訪問したいものだがこの川は?ゴルフ場低地で水郷地帯が広がる田園地帯が広がる高速道路ジャンクションであろうか高速道路には車が多いアムステルダム・スキポール空港へ着陸バルセロナから2時間25分で到着17:33トランシットでオランダのアムステルダム空港へ到着アムステルダム空港で約3時間のトランジット。スリで嫁に迷惑をかけたので土産に、空港内でオランダのチュウリップを購入した。20:15アムステルダム発:日本航空 JL412便に搭乗九日目6月14日(土) 14:30飛行時間11時間15分で成田空港へ到着。このあと高速バスで東京駅八重洲口経由帰った。今まで何度も海外旅行をしたが、スリにあったのはこの時が初めてで最後!新型コロナウイルスのため今回のブログアップを考え、12年ぶりに写真を開きガイドブックも取り出して2度目の旅を楽しんだのであった。 スペインの旅ーEND
2020.07.18
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スペインの旅七日目は延泊で、バルセロナ市内観光と15時に集合してオプショナルツアーの、モンセラット観光へ。平成20年6月12日(木) 12:44カタルーニャ美術館から『モンジュイック城』へ向けて歩く。ゴンドラに乗り、バルセロナ市街地を見下ろすズームアップ、左前方に『サグラダ・ファミリア聖堂』ゴンドラ内12:46頂上ゴンドラ乗り場ゴンドラから降りモンジュイックの丘にあるゴンドラ乗り場モンジュイック観光案内板12:51ゴンドラ乗り場から『モンジュイック城』へ一段低い所には庭園モンジュイック城入り口に大砲が座っている別の方向からバルセロナ港を見下ろす、埠頭には大型クルーズ船が停泊南方向は地中海北方向のゴンドラ乗り場城門を入り城内へ入る。17世紀に建立された要塞のモンジュイック城は、兵器倉庫や獄舎などさまざまな用途に使用された。現在は一部が軍事博物館となっており、武器や軍服などが展示されている13:00モンジュイック城は丘の頂上にあり、市街と地中海の眺望は見事であるバルセロナ港は、湾ではなく地中海に防波堤を造ってある。手前埠頭には鉄道のモロ駅があるカメラを南に振ると、埠頭にはコンテナが並ぶサン・ベルトラン埠頭、手前にモロ埠頭大砲の砲先は地中海に向って大型クルーズ船が2隻停泊。地中海クルーズツアーはここにも立ち寄るのであろうモンジュイック城に立つスペイン人かゴンドラが運行昼食時でいい匂いがしていたがモンジュイック城の城門を出る13:36オプショナルツアーの集合場所へ行くことにする14:00モンジュイック城からカタルーニャ広場へ戻る。集合時間が14:45のため近くで両替、まだ時間があったので人ごみの中を『レイアール広場』へ。OPの集合場所でリュックを開けようとしてリュックが空いていることに気づく。中を見ると財布を抜き取られ両替したばかりの金が。『スリに遭遇!』。15:00スリに遭い気分がうつろな中、オプショナルへ参加する。オプショナルツアーは『モンセラット観光』参加者は我々3名+1名で、ツアー代は、55€(約9,350円)。15:39マイクロバスで移動、途中車を止め撮影。バルセロナの北西部に位置するモンセラットモンセラットは聖なる岩山に抱かれたマリア信仰の中心地15:53山道の途中にあった修道院?山道を上り、先程の修道院を見下ろす切り立った岩山中腹からバルセロナ方向バルセロナへ来たら是非訪れたいモンセラットで、日帰り観光できるモンセラットの山斜面に建っている大聖堂(ネットから)16:14駐車場に車を止め階段を上り大聖堂へ。ここへのアクセスは登山鉄道、ロープウェイがある現地日本人添乗員(右側)に説明を受ける。山の中腹725メートルには修道院があり、今も巡礼者が後を絶たない迫りくる奇岩群はまさに大自然の奇跡ガウディも足しげく通ったパワースポットとしても有名カタルーニャの宗教的中心地となっている岩山は、ガウディなどの芸術家がインスピレーションを受けたほど神秘的モンセラットは標高1,241mの切り立った岩山。モンセラットとは「のこぎりで挽き切られた」という意味で、別名のこぎり山とも呼ばれるカラーキャンドルが並ぶ修道院へは無料で入れる。重厚感ある大聖堂は少年聖歌隊でも有名。地元カタルーニャ州の9歳から14歳までの約50名のメンバーで構成される少年聖歌隊は、入るのにも厳しい試験がある大聖堂の礼拝堂に安置されている『黒いマリア像』イエス・キリストをひざに抱いた聖母マリアの木製像がケース内に収められている。マリア像は右手に世界・全宇宙を象徴するといわれる球を持っている。一説では、この像は12世紀頃に作られ、当初は白かったものがろうそくのすすで黒ずんでしまったともいわれているが、真相は不明写真はネットから大聖堂前建立から1,000年以上経った今も信仰を集めている大聖堂前から一段降り、土産物店、広場へ17:00約一時間の散策でモンセラットを後にしてバルセロナへ戻る。見どころは他にもあり、もう少し散策すべきであった17:22帰り道は別のルートで下山、途中モンセラットの山並み18:21モンセラットから帰り、カタルーニャ広場で別れる。街中では雨が降ったのか、多くの観光客が20:07ここのレストラン「TORRES」で夕食をしたが写真が無く20:30夕食を終え市街地へ20:40カタルーニャ広場この時間でも外は明るいこのあとタクシーでホテルへ帰るスリに遭いカードをストップしたいが、日本との時差が7時間あるため取り敢えずホテルへ帰る。日本が朝になるスペインが夜中の24時に、日本にいる妻へ電話し事情を説明。 スペインの旅-続く
2020.07.17
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令和2年7月豪雨で被災された方々にお見舞い申し上げます。新型コロナウイルス関連も、新聞・テレビで「Go To トラベルキャンペーン」の是々非々が議論されておりますが、感染、経済回復を考えると難しいところですね!県をまたがる自分の行動には責任を持ちたいものです。7月15日(水) の朝庭先で咲いたカサブランカヒマワリも咲き始める ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・スペインの旅七日目は、ツアー仲間は帰国の途に。平成20年6月12日(木) 9:20ホテルを9時に出発してカタルーニャ広場へ。車窓からの『サグラダ・ファミリア聖堂』9:44カタルーニャ広場でバスから下車。空港行きのバスがここから出ている、まさか明日ここからバスに乗るとは・・・・・・ツアー仲間が空港への出発まで、旧市街地を散策し最後の記念写真このあと9:30 に、我々3人と沖縄から参加されたMさん母娘の5人がツアーから離れることに。ツアーから離れるにあたって日本からの添乗員Sさんから「スリだけにはくれぐれも注意するように!」と注意されたが。また親しくなった方との日本での再会を約束してバスを見送る。オプショナルツアーの『モンセラット観光』が15時集合のため市内観光へ。10:07歩いてカタルーニャ広場から、南西方向へ歩く10:40スペイン広場沖縄から参加されたMさん母娘と一緒に歩いて来る。Mさんは今年旦那さんと南米へ百万円/人で行くと、我々も翌年南米(ペルー、ブラジル)へ行くことになったスペイン広場から南にあるモンジュイック地区の『カタルーニャ美術館』へカタルーニャ美術館1929年のバルセロナ万博時に建造されたパビリオンを改装し、1934年にオープンした美術館。ロマネスク、ゴシック、バロック美術の貴重なコレクションを有する。なかでもピレネー山脈周辺の教会、修道院から移送した天井画や壁画、祭壇の装飾など、カタルーニャ独自のロマネスク美術の最高傑作を展示している向かい側のビルに映る旅友レイナ・マリア・クリスティーナ大通りにある噴水。ここでMさん達と別れるエスカレーターでカタルーニャ美術館へエスカレーターから振り返ると先程の噴水11:00カタルーニャ美術館の高台から北方向に、スペイン広場と市街を一望できるスペイン広場と市街をバックにズームアップカタルーニャ美術館へ来た小学生か?モンジュイック地区バルセロナ万博開催前の都市整備によって、現在の姿に生まれ変わったモンジュイック地区。ミロ美術館やスペイン村など文化施設が集中し、丘の上から望む地中海の眺望は最高11:14カタルーニャ美術館の南側に『オリンピック・スタジアム』1992年のバルセロナ・オリンピックのメイン会場となったスタジアムスタジアムへの入場は無料フィールド内には走っている学生が1929年の万博時に建立された、先輩が記念写真私も記念写真を一枚スタジアム正面スタジアム正面前を学校のマラソンか、この後スタジアム内へスタジアムの西側に日本人建築家磯崎新氏の手による『サン・ジョルディ・スポーツ館』が建つ。塔は、モンジュイック・タワーモンジュイック・タワーの奥に競泳プールがあるタワーをズームアップ。何をイメージしているのかオリンピックスタジアム正面カタルーニャ美術館方向マラソン大会か?多くの学生が太ももにナンバーを書いてサン・ジョルディ・スポーツ館広場の横にジャカランダが咲いていた。ジャカランダは世界三大花木(カエンボク、ホウオウボク、ジャカランダ)のひとつで、ノウゼンカズラ科の高木ズームアップこの高木は『???』花をズームアップガイドブックを持ち11:49スタジアムから、カタルーニャ美術館へ引き返すトーチを掲げる象カタルーニャ美術館カタルーニャ美術館前から遠くにサグラダ・ファミリア聖堂12:01カタルーニャ美術館前から北方向の『スペイン広場』スペイン広場をズームアップ多くの学生が地中海が見えるバルセロナ中心街カタルーニャ美術館前から東へ進み振り返る12:30ミロ美術館カタルーニャが生んだ抽象芸術の巨匠、ジョアン・ミロの美術館。1万点にも及ぶ所蔵作品の中から、絵画のみならず、オブジェやタペストリー、版画、ポスター、スケッチ、陶器など多岐にわたる300点の作品を展示。マティス、タピエスといった芸術家による『ミロに捧げるコレクション』も見逃せない。が時間が無いので素通りして先へ進む庭先に咲いていたブーゲンビリア スペインの旅ー続く
2020.07.16
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スペインの旅六日目は、サグラダ・ファミリア聖堂観光後、グエル公園へ。平成20年6月11日(水) 16:20塔の上から廻り階段を降り1階の作業場1階から見上げる、高い足場が積み上げられていた手作業で部品を作成日本人もいるとのこと型があり細かいものを作っていた作業場の片隅に完成図であろうか置かれていた複雑な形状ステンドグラス16:25外に出て、下から見上げた受難のファサード裏側の入り口なのか一階部分方向を変えて再度見上げるズームアップサグラダ・ファミリア聖堂の彫像は聖書の各場面を表現しているツアーガイドであろうかスペインを代表する建築家ガウディが設計した2026年完成予定の大聖堂。着工した1882年3月19日から137年が経とうとしているが未だに建設が続いている。行った時は2020年ごろ完成といっていたが16:44後6年位で完成するのであろうか。最後に見上げてバスに乗車17:08幻に終わった公園都市『グエル公園』グエルがスポンサーとなったガウディ最初の都市開発プロジェクト。約20haの土地に当初60戸の住宅を建設する予定だったが、グエルの死により計画は失敗に終わり、美しい公園が残された緻密な計算で設計された広場横から続く石の柱廊。蛇をイメージしたという遊歩道鳩の巣になっている会社の同僚という女性二人組柱廊の下でギターを弾くおとぎの国の家を思わせる建物が並ぶ下の広場へ降り公園管理者用に建設された事務所塔の先端にガウディ建築物の象徴、ダブルの十字架が鎮座する公園のシンボルである、モザイク造りのトカゲ。トカゲは水の守護者と言われている多くの人に混じって丘の上に立つこの建物は違うが、グエル公園内にはガウディが暮らしていた家が博物館として保存されている。ーーーーー アントニ・ガウディの一生 ーーーーーアントニ・ガウディはタラゴナ近郊の都市レウスで1852年に生まれた。バルセロナ建築学校に21歳で入学、苦学生だったガウディは、複数の建築家の助手として早くから現場で実践を学んだ。卒業後、後にパトロンとしてガウディを生涯支え続けたバルセロナの新興ブルジョアジー、エウセビ・グエルに認められ、斬新なデザインと構図美を持つ作品を発表、建築家としての地位を確立する。晩年はサグラダ・ファミリア聖堂の建設にすべての時間と情熱を捧げるが、1926年、路面電車にはねられて73年の生涯を閉じる広場から遠くに地中海が見える公園ではノカンゾウ(野萱草)が満開ユリ科ワスレナグサ属の野草で、一日花で食用にできるノカンゾウは花びらが重なり合わずに咲く「一重咲き」の花です。花が開くと花びらがきっちり6枚でわかりやすい。先輩は美女に囲まれてよく似た花でヤブカンゾウがあるが八重咲きである。Kさん母娘Oさん多くの観光客が17:37グエル公園を後にする18:30カタルーニャ広場界隈で買い物。明日はツアーと別れるので日本での再会を誓う旧市街地を散策し各自で夕食へ22:04各自で夕食後集合して、宿泊ホテルへ『CAMPANILE』22:21室内に入り水廻りをチェックツインルームに入り我々は延泊にしているので連泊となる。 スペインの旅ー続く
2020.07.15
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スペインの旅六日目は、バレンシア市内観光後約350km離れたバルセロナへ移動。平成20年6月11日(水)バレンシア中央市場を9時に出発、しばし車窓を見ながらバス内で休憩。11:07約二時間走りこの辺りは???直ぐに大きな川があったが11:10道路標識は太陽光発電で『AUMAR』とあるが。S-95、S-98、D は、ガソリン、軽油の値段表示。1.279、1.379、1.319€/ℓで、217、234、224円/ℓと。軽油がガソリンより高い11:39トイレ休憩でドライブイン『AUTOGRILL』へ立ち寄るツアーバスの前で12:05再度、地中海沿いを走る車窓からこの建物は、観測所?地中海にはヨットが優雅に12:33高速道路脇にある『ラス・ファレラス水道橋』であろうか。ラス・ファレラス水道橋はスペインで2番目の大きさを誇る別名 ”悪魔の橋”と言われている。タラゴナの中心部から約4km離れた場所にある、ローマ皇帝アウグストゥス時代の水道橋「悪魔の橋」。2層アーチ式で状態がよく、スペインではセゴビアに次ぐ規模の重要な水道橋。北を流れるガイア川から、タラゴナの街へ水を引いた当時は、全長が35kmもあったという現在水路は徒歩で渡ることができ、そのスケールの大きさ、高さを体感できる。高速道路沿いの山中にある12:36バス車内で現在地をチェック。バルセロナの手前約90kmのタラゴナ辺り12:48バルセロナ方面12:50この畑は葡萄畑12:53バルセロナが近くなる。独自の文化を持つカタルーニャの中心都市、バルセロナ。サグラダ・ファミリア聖堂に代表されるガウディ建築や旧市街のゴシック地区など、趣深い建築物に胸が高鳴るスペインではマドリードに次いで第2位(約160万人)の人口で、国際的な観光都市である13:44バルセロナ市街地に入り、車窓からガウディ建築を紹介されたが13:50~15:00バルセロナ市街地のレストランで昼食。先客で韓国人観光客が食事中でテーブルには持参のキムチ15:08昼食を終えバス移動凱旋門?15:37車窓からガウディ建築の『カザ・ミラ』ガウディがインスピレーションを得た、モンセラットから切り出された石灰岩は、都市のなかに聖なる岩山を生み出した曲線がユニークな集合住宅である『カザ・ミラ』独特の形状からバルセロナ市民にラ・ペドレラ(石切場)の愛称で親しまれるガウディ晩年の作品。波打つ曲線のファザード、地中海の巨石を思わせる造形は、カタルーニャの聖地モンセラットの奇岩がモチーフ。断崖絶壁を想像させる自然主義的作品であり、曲線のみで構成されるユニークな形状は、ガウディのもっとも完成したスタイルが見て取れる。最上階にはガウディの作品を紹介する博物館になっており、屋上には兜をかぶった騎士を連想させる奇妙な煙突がそびえる15:48サグラダ・ファミリア聖堂バルセロナを象徴する未完の傑作で、1882年フランシスコ・デ・ビリヤルが計画に着手。翌年、若干31歳のガウディが2代目聖堂建築家に就任、以後43年間の人生をすべて聖堂造りに費やした彼の構想では、聖堂の外側にイエスの「生誕」「受難」「栄光」の3つのファザードが建ち、各ファザードは4本ずつ鐘塔を持つ。計12の塔はそれぞれ12使徒を意味する。また、4人の福音書家を表す4本の鐘塔の交差部上にイエスとマリアに捧げる中央塔が建てられ、計18の塔がそびえる壮大な教会は石に刻まれた聖書ともいえる。現在、完成しているのは地下聖堂と後陣「生誕」「受難」のファザードと8本の鐘塔のみ。ガウディの死後も工事は続けられ、2020年ごろ完成予定といわれていたが塔の前に立ち説明されたが遠くて分からず、ガイドブックから。黄色線内が、「キリスト降臨の部分を飾る聖母裁冠」でガウディが生前に完成させた数少ない部分のひとつである唯一の日本人彫刻家、外尾悦郎氏の作品もあるが正面入口の下から頂上を見上げるいろんな彫刻があるがイエスの産湯か?入り口上部の右側入り口上部の左側見上げる観光客16:03いよいよエレベーターで頂上へ16:10エレベーターで上階へ上る、タワークレーンで部品を吊り上げ。塔には文字があったがビジネス街の高層ビル別の方向を展望台から上を望むタワークレーンがセットされ16:11観光客が多く数分で下りることに先輩も万歳三唱塔の中から上部を塔の中を歩いて下る塔は石の組み合わせ降りる途中工事場所を16:16廻り階段を下る スペインの旅ー続く
2020.07.14
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スペインの旅六日目は、バレンシア市内観光後バルセロナへ移動。バレンシアはオレンジの産地として知られる地中海に面したスペイン第3の都市。古くから肥沃な土壌を利用した農業が盛んで、果実や米を生産する穀倉地帯として知られている。日本でもおなじみのパエーリャは本来、アロス・ア・ラ・バレンシア(バレンシア風米料理)と呼ばれ、この地の名物料理だ。毎年3月に行われるサン・ホセの火祭りも有名。平成20年6月11日(水) 7:227時から朝食を取り、出発が8時のためいつものように朝散歩へ出かける。バレンシアの宿泊ホテル『EXPO』ホテルの近くにスタジアムがあったハイビスカス塀に絡まって咲くいろんな花が咲いていたオレンジ自転車で通勤なのかカンナもきれいに咲いていた8時前で時間的に早いのか人通りが無く色鮮やかなハイビスカス照明灯付きのグランドこの塀の中には塔が建っていたが夾竹桃集合時間が近くなりホテルへ7:44新聞を販売しているのか8:03現地添乗員の女性が乗り込み8:12世界遺産の『ラ・ロンハ』でバスから下車して市街地を散策。ラ・ロンハは、地中海貿易の拠点だったバレンシアの商品取引所として建設された、ゴシック様式の建物である旧市街から見上げる『サンロレンツォ教会』バレンシアは陶磁器の街でもあり、ポーセリン・アートで有名なリヤドロ兄弟は、バレンシア近郊で生まれた。その直営店がバレンシア市内にある正面にユースホテル。旧市街の路地を歩きカテドラル、ミゲレテの塔現地添乗員からの説明噴水廻りを清掃する作業員、左に『ミゲレテの塔』カテドラルの鐘楼であったミゲレテ方向を替えて撮影ビルヘン広場のトゥリア噴水、右奥のピンク色の教会は『聖母聖堂』教会への入り口ミゲレテの塔愛称「ミゲレテの鐘」を持つ八角形のゴシック式鐘楼。14~15世紀の間に造られた石造りの鐘楼。1418年の聖ミカエルの祝日に大鐘が奉献されたことを記念し、ミゲレテの名が鐘に付けられた。それ以来、この塔はミゲレテの塔と呼ばれている。ミゲレテとは、バレンシア方言でミカエルの意味で、地元では親しみを込めてミカレット(ミカエルの愛称)と呼んでいる。50mの高さにある展望台まで207段の階段を上れば、バレンシアの街並みを一望できるカテドラルキリストの聖杯が安置されている旧市街のシンボル。かつてモスクがあった場所に、イスラム教徒からバレンシアを奪還したアラゴン王が教会として建設。ロマネスクにゴシック、バロックなど改修した各時代の建築様式が混在している。内部の礼拝堂には、イエス・キリストが最後の晩餐に使ったといわれる聖杯を安置。美しいメノウで作られた聖杯は15世紀にバレンシアまで運ばれた。1238年、ジャウマ1世により建設が始められた。風邪気味でマスクをつけました中央市場へ向かうレストラン?路地に高所作業車レストランのメニュー値段は、4~5.5 E、Eは€?、€なら680~935円だが8:31中央市場ヨーロッパ最大規模を誇る市場。扱う品は生鮮食料品から香辛料までさまざま。建物は1928年に建てられ、鉄とガラスのドームのモデルニモス建築様式を用いている中央市場前に立つこの建物は『サンジョアンデルメルカット教会』中央市場前に立つこの建物は世界遺産の『ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(絹の商品取引所)』中央市場の前には搬送車8:38中央市場前で、ツアー仲間も新聞を購入中央市場へ入り、しばし自由行動に女性群が好きな場所だが、生ものが多く土産物にはチョット果物野菜類計り売りだが値段は、2.20€/何g?中国では500gであったがいろんな果物野菜類が売られている肉屋さんでは、イベリコ豚カボチャ、ネギ、ピーマン、ナス、玉葱、ジャガイモ、トマトパイナップルは宙吊りに珍しいフラットな桃の値段は、2,60€(442円)/KILO右側に、アメリカンチェリーがあり購入、バスでツアー仲間に配ったのであるここにも肉屋さんネギも、下仁田ねぎの如く太いスイカ、アーティーチョークも8:51何か果物を購入して食べたが何だったか?ガラスのドームから光が降り注ぐモダンな市場このあと9時に中央市場を出発して、北東方面約350kmに位置する最後の訪問地バルセロナへ。 スペインの旅ー続く
2020.07.13
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スペインの旅五日目は、アルハンブラ宮殿観光、昼食後、バレンシアへ移動。グラナダからバレンシアまでは約450~500km。平成20年6月10日(火) 13:10グラナダの昼食会場、食事を終えバスへ14:07バレンシアまでは約450~500kmのバス移動。高速道路脇の山には洞窟が点在山の手前には鉄道が走る。地中海に近く夏の暑さをしのぐために洞窟の住宅が目立つ15:19車中ではみなさん爆睡状態にどこの街か大きな教会が建つ15:26山肌にはオリーブの若木15:38市街地を望む15:49高速道路のドライブインに立ち寄りトイレ休憩。イベリコ豚の値段は?今夜のためにワインを一本調達16:26山の上に建物を建設中葡萄畑が広がるシートで覆った葡萄畑17:20オレンジ畑17:47高速道路の料金所18:03アリカンテ辺り?18:05地中海が見えてくる別荘地であろうか地中海の見える別荘地鉄道も走る18:08マンションタイプも建つ丘に建つ牛の看板は「セリー酒のメーカー」三両編成の列車白壁が林立する地中海海岸からどのくらいの高さか?。鉄道&道路が走る海の向こう(南側)はアルジェリア18:20 ~ 18:40トイレ休憩で、Aotglill SA へ立ち寄る地中海沿いのサービスエリア(SA)。バレンシア(Valencia)方面地図上の現在地18:49サービスエリアを出発、この辺りはビルの建設ラッシュ高層ビルが林立大きな町だが19:00右前方には禿山が方向を替えて撮影19:45右前方に丘が現れる山肌に「CULLERA」とあるが手前にはオレンジ畑が広がる。バレンシアはオレンジの産地として知られる地中海に面したスペイン第3の都市。古くから肥沃な土壌を利用した農業が盛んで、果実や米を生産する穀倉地帯として知られている19:57高速道路の料金所20:00バレンシア手前の下水処理場廻りにオレンジ畑20:30バレンシアの宿泊ホテル『EXPO』へ到着。夕食は、バレンシアのホテル近くのレストランで、スペイン名物の ”パエリア” を食べる スペインの旅ー続く
2020.07.12
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スペインの旅五日目は、グラナダのアルハンブラ宮殿の散策を続ける。平成20年6月10日(火) 10:10右奥はアルハンブラ宮殿のどこからでも見える『サンタ・マリア教会』アルハンブラ宮殿内の薔薇が綺麗であった薔薇の香りが漂っていた薔薇を前景にサンタ・マリア教会を撮影する旅友アルハンブラ宮殿晴れた日にはシエラ・ネバダ山脈が見える宮殿内にはいたるところに花壇がある薔薇が植えられている日本からのモデルさんがCM撮影で来ていたので望遠で撮影しました。名前は「???」でしたがアルハンブラはスペイン語で「赤い城」と言う意味だが10:21へネラリフェヘ向かう毎年、国際音楽祭が開催される『野外音楽場』椅子が並べられ、ステージもセットされ近日中に開催されるのかクルミの木か?世界遺産のアルハンブラ宮殿とアルバイシン地区先輩も美女に囲まれトイレ休憩女性軍が多いため時間を要するため男性トイレも使用、男性軍が見張り役にヘネラリフェアルハンブラ宮殿から徒歩で約10分程で、丘を登ったところにある夏の離宮左側にサンタ・マリア教会、絶景だ!糸杉と薔薇のアーチ畑越えにアルハンブラ宮殿ヘネラリフェ前にて、千葉から参加されたMさん母娘コロナ対策でマスクを!離宮だけに庭は綺麗に整備壁面には薔薇がアセキアの中庭ヘネラリフェは、王が政務から逃れて休息をとるために、1319年に造られた離宮。離宮の中心にはアセキア(堀割)の中庭がある。堀の両側から水がアーチ状に噴出水は約35km離れたシエラ・ネバダ山脈からひかれ、この離宮には、たくさんの水路や噴水が設けられ、水をふんだんに使っているので「水の宮殿」とも呼ばれている美女にもマスクをつけ三密を避け記念写真バルコニーからアセキアの中庭を見下ろすヘネラリフェからアセキアの中庭越えにアルハンブラ宮殿の全景を見渡すサンタ・マリア教会もズームアップ糸杉と庭園約1時間40分の散策を終える10:56バスへ向かうが天気がよくてよかった11:22アルハンブラ宮殿近くの土産物店へサッカースタジアムリヤドロ:2,700€(約459,000円)と高価土産物店前で咲く夾竹桃工事中なのか11:48ドライバーと、このあと昼食会場へ12:06グラナダの市街地12:09昼食はスペイン名物の ”タパス(生ハム、スペイン風オムレツなど)"残念ながら料理の写真を忘れる昼食後、バレンシアへ移動。 スペインの旅ー続く
2020.07.11
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スペインの旅五日目は、グラナダのアルハンブラ宮殿へ。グラナダは13世紀、イスラム教のナスル王朝の都として栄えた。スペインにおけるイスラム建築の最高傑作といわれるアルハンブラ宮殿内の王宮や、王家の夏の避暑地であったヘネラリフェの庭園、当時庶民が暮らしていたアルバイシン地区など、多くの建築や文化が今に残る。19世紀にワシントン・アービングの『アルハンブラ物語』で脚光を浴び、1984年に世界遺産に登録された。平成20年6月10日(火) 7:46朝食の後、3人で朝散歩へ出かける。花壇では薔薇が綺麗に咲いていた欧州での薔薇はこのような仕立てが多い道路脇の花壇にも花が植栽イスラム建築が残る町並み狭い路地に入ると重厚な建物が目の前に路地は石畳名のあるモスク・教会であったのだろうが塔をズームアップ広場に咲いていた薔薇先程の塔を見上げる建物の前に「ねじりパン」如きものが8時頃だが人通りが少ない8:14集合時間が8時半のためホテルへ帰ることに9:08ホテルを8:45に出発してバス移動。アルハンブラ宮殿の前には地元の高校生も見学に入場制限があり、団体は予約制で入門時間が決まっている。入場者数は一日に6,000人とか。入場は、8:30~17:00で、300名/回壁面に「ALHAMBRA」の銘板。政略結婚により強大なスペインを誕生させキリスト教以外の宗教を厳しく弾圧したイサベル女王!しかし、イスラム建築の最高峰であるアルハンブラ宮殿だけは、無血開城後も手をつけずそのままの姿を残した。そしてイサベル女王はまるで美術館のようなアルハンブラ宮殿に住み続けた9:18入場門前に置かれている大砲9:20予約時間で入場宮殿は4つに分けられており全てを見ると最低2時間を要する。入り口の博物館内に修復中のライオンが飾られていた入場門を入るとすぐに、ルネッサンス様式が美しい『カルロス5世宮殿』一階が博物館になっている。演奏会があるのかステージがセットされていた宮殿内の花壇には薔薇が綺麗に咲いていたアルハンブラ宮殿から眺める街の景色。白い街は、世界遺産のアルバイシン地区イベリア半島最後のイスラム王朝、ナスル朝によって築かれた優れたイスラム建築の宮殿。14世紀に建立された宮殿の中心である、Palacio Real王宮、レコンキスタ後にカトリック王によって建てられたルネッサンス様式のPalacio de Carlos V カルロス5世宮殿、9世紀以降に要塞として築かれたAlcazabaアルカサバ、そして王家の夏の離宮のGeneralifeへネラリフェの大きく4つに分けられる。ベラの塔(夜警の塔)宮殿内から世界遺産のアルバイシン市街地大理石で作られた豪華な装飾柱上部の彫り物透かし彫りの装飾が見事である中庭に入りコマレス宮の、アラヤネスのパティオ(中庭)の正面(南側)。アラヤネスの中庭は東西7m、南北35mの水面が広がっている壁面に文字、説明があったがコマレスの塔。コマレス宮のアラヤネスの中庭の北側に建ち、高さは45mある塔の下には「大使の間」がある中国人観光客も多く見かけた王宮内の獅子のパティオ。142本の大理石柱がライオンの泉を囲む獅子のパティオ柱上部に施された透かし彫りの装飾が見事である天井の鍾乳石飾りが素晴らしい二姉妹の間繊細な透かし彫り壁面に『WASHINGTON IRVING』白壁の街並みが残る世界遺産のアルバイシン地区ズームアップ綺麗に手入れされた中庭噴水もあり10:09サンタ・マリア教会ここまでで既に50分の散策 スペインの旅ー続く
2020.07.10
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このブログは、新型コロナウイルスの関係で2度目のスペイン旅行を楽しんでいます。スペインの旅四日目の夜は、グラナダへ到着後フラメンコショーへ。スペインを代表する民族芸能といえばフラメンコ。もともとはスペイン南部のアンダルシア地方で生まれた民間芸能で、ジプシーが深く関わっている。東方から流浪を続けていたジプシーたちが15世紀ごろアンダルシアにたどり着いて定住し、土地の民謡を自分たち流にアレンジしたものそれがフラメンコの原形だ。平成20年6月9日(月) 21:34ホテルへ到着後フラメンコ会場へ。ツアー人数が35名と多いため二組に分かれて会場へ、1ドリンク付き約一時間半の観賞。グラナダの老舗洞窟タブラオ『ロス・タラントス』オープンして34年、今や有名店になっている昔のジプシーの生活の場であった洞窟を利用したタブラオ。店内へ入るとミニロビーがあり、左右ふたつに分かれた洞窟が。壁に沿って椅子が並べられ、中央のスペースが舞台に最初の踊り子が中央にギタリスト、歌い手、ダンサーも同じ輪の椅子に座り、ダンサーはひとりずつ中央に出てクアドロ形式のショー目の前で繰り広げられる踊りは迫力満点歌い手もギタリストも一緒に輪の中へ。出番を待つダンサーも手拍子ベテランダンサーの表情パワフルに歌い年配のダンサーだが鮮やかな衣装で。ダンスの途中、先輩が手拍子で「手のひら」をこすり合わせていたので叱られた独特のリズムで叩く手拍子はフラメンコをさらに盛り上げる!鋭い表情で中央に立ち飛び散る汗、まじかで見るラスゲアードの華麗なテクニックに圧倒される控えのダンサーも一緒になって盛り上げるとにかく店内は狭く、熱気ムンムン22:11踊りの途中休憩になり、添乗員の清水さんがショーにはドリンク一杯付き踊り子も揃いダンサーの華やかな衣装だけでなく、表情や手の動きにも注目衣装は黒と赤が多い観客も踊り手もひとつの輪に臨場感満点ただ一人の日本人ダンサーが登場もう何年も修業しているとフラメンコで必ず耳にするのが「オレ!」というハレオ(かけ声)。「お見事だ!」「いいぞ」という意味で、アーティスト同士でハレオをかけ合うほか、客席から「オレ!」と声がかかることもしばしば。客席と舞台がひとつになる瞬間踊りが終わりかけ声「オレ!」最後のダンサーが中央に立ちギターの音と共に表情が変わりタップをしながら激しく踊るギターの激しく、悲しい音色はフラメンコの魅了のひとつ腰の振りも激しく足元と手の動きに魅了され響き渡るギターの音に合せて踊りも最高潮に!ショ―が終わると、観客もまるで一緒に踊っていたような感じに22:56心地よい疲労感に包まれ、会場を後にしてホテルへ帰るブログをアップしながら、あれから12年、このダンサーたちも今ではと思いつつ。 スペインの旅ー続く
2020.07.09
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スペインの旅四日目は、午前中セビリア市内観光後、市内で昼食をとりバス移動。グラナダへの途中、地中海を見下ろす白い村ミハスに立ち寄る予定であったが、バスのストライキで何故か代替え地のモンテェフリオへ変更。ガソリンの高騰でバス業界がストライキ。平成20年6月9日(月) 13:24昼食はホテルでとり出発14:20バスに乗り高速道路を東方向へ。今日も天気が良く気温も30℃以上にバスの最前列で車窓風景を楽しむ道路脇は小麦畑か高速道路の中央分離帯には夾竹桃道路標識は「guias sonoras」このあたりの南方向は、100km強でジブラルタル海峡へたどり着くグラナダへの途中、Osuna(オスーナ)出口まで1000m夾竹桃が満開Osuna(オスーナ)出口まで500m葡萄畑14:50高速道路を1時間半走りトイレ休憩15:00ドライブインの案内。当初予定の「ミハス」はこの辺りから南下するのだが、バスのストライキで変更すると。説明があったのだろうがバスのストライキと何故関係するのか分からず道路標識は、昨日行った「Cordoba(コルドバ)」「Granada(グラナダ)」「Almeria」制限速度は100km道路脇ではエニシダが咲き白い壁の家が目立つオレンジ畑15:15先程トイレ休憩したが、男性からの要求で急遽再度トイレ休憩。先程の休憩でビールを飲んだとか暑いのでビールを飲みたいが、女性群から冷たい視線が女性群と記念写真17:03一時間半走り目的地へ本来は、地中海を見下ろす白い村ミハスに立ち寄る予予定であったが山側へ17:09バスを止め撮影タイム村の小高い丘の頂上にはイスラム時代の古城と古い教会ミハスに代わる『モンテェフリオ』切り立った山の上に建つ教会白い壁の家が暑さを家々がぎっしり連なる村、山の斜面にはオリーブ17:17自転車レースの案内板『RUTA HIPONOVA』案内板には、左にレース写真、真ん中にルート、右に高低差等が表示されていますRUTA HIPONOVARUTAはルートの意味、HIPONOVAはモンテェフリオを含むこの地方の名前。左下の写真を切り取りました自由行動でモンテェフリオの街を散策急な坂を登り教会方向へ路地はまるで迷路のようだ白い壁と花街並みをバックに教会を見上げる家々がぎっしり連なる白い壁の村アンダルシア地方の建物が白いのは、昔の人々の夏の暑さ対策の知恵だと石畳の坂鉄柵の中には花を飾り街並みは綺麗に清掃されていた鐘楼か?急な坂である18:15約一時間の散策で我々はビールを飲み、モンテェフリオを後にする18:52道路標識は「GRANADA(グラナダ)」高速道路脇にはエニシダが途中夕食をとり、グラナダのホテルへは21時過ぎに到着。 スペインの旅ー続く
2020.07.08
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このブログは、新型コロナウイルスの関係で2度目のスペイン旅行を楽しんでいます。スペインの旅四日目の午前中は、スペイン第4の都市セビリア市内観光。平成20年6月9日(月) 10:44サンタ・クルス街から、カテドラルへひときわ高くそびえるヒラルダの塔から眺める街は美しい。ヒラルダの塔は高さが98mあり、かつてはイスラム教のミナレットであった後ほどこの塔へ上る。ライトアップされた夜景も見事だと最上部をズームアップ10:54カテドラル前の広場へ広場には馬車旧市街地を巡るのかペドロ1世ゆかりの宮殿『アルカサル』があったのだがスペイン最大の大聖堂『カテドラル』ローマのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール大聖堂に次いで、世界第3位の規模を誇るキリスト教大聖堂。1248年にフェルナンド3世がセビリアを奪還すると、イスラム礼拝堂はキリスト教の大聖堂として使用された。ゴシック様式の大聖堂としてはヨーロッパで、16~19世紀に造られた75枚のステンドグラスは息をのむ美しさ。聖アントニオンの小祭壇に掛けられているムリーリョの『聖アントニオの奇跡』は必見。また、コロンブスの墓や名画、宝物など見どころはいっぱいカテドラルの中へ入るカテドラルの中庭聖堂内へ入り祭壇説明があったのであろうがパイプオルガン?16~19世紀に造られた75枚のステンドグラスの一枚時間的に数枚だけを見る11:36鐘楼であるヒラルダの塔へのぼり西方向を見る、遠くに『マエストランサ闘牛場』が見えるマエストランサ闘牛場18世紀に建てられた目にも鮮やかな外観の闘牛場。併設の博物館ではピカソの絵やマントといった、闘牛に関する小物が展示されている。因みに闘牛のシーズンは3月中旬から10月中旬頃まで。今回のツアーでは時間もなくなかった南方向か?右に振りカテドラルの屋根か?屋根はウエーブになっているカテドラル前の広場セビリアは町並みは、こじんまりとしていて美しい左奥に塔があるが左側をズームアップヒラルダの塔から降りる途中枠越しにカテドラルの中庭にはオレンジの木何をイメージしているのか11:55中庭に降りオレンジの木で甘みが少ないのでママレードを作るとカテドラルからバス乗り場へ。建物間の上には日除けのテントがやはり陽射しが強い11:58路面電車が走る市街地自転車に乗る人も多かった12:00SHOPPING SENTER路面電車の駅、馬車も多くカテドラルの西側イスラム教支配時代のモスクを取り壊して建設されたカテドラル。鐘楼であるヒラルダの塔は唯一のモスクの名残りバスを待つ間にカテドラルとヒラルダの塔12:12バスに乗り昼食会場へ、前方にヒラルダの塔12:23昼食会場へ スペインの旅ー続く
2020.07.07
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今回の集中豪雨で被災された熊本県人吉市の方達に対しお見舞い申し上げます。このブログは、新型コロナウイルスの関係で2度目のスペイン旅行を楽しんでいます。スペインの旅四日目は、午前中セビリア市内観光をし夜はグラナダへ。昨日行った、コルドバ、今日のセビリア、グラナダはスペインの南に位置し地中海に面しているフラメンコや闘牛の本場であるアンダルシア地方。情熱の国の象徴アンダルシア、真夏は気温が40℃にも達するこの灼熱の地には、まさに”アツイ”感動がいっぱい。平成20年6月9日(月) 6:02ツインルームに二人で宿泊、H先輩は別部屋に7:37朝食を終え、集合時間が8時10分のためホテル廻りを散策にホテル前の街角にあるこの飛行機は?宿泊ホテル「TRH LA MOTILLA」オリーブの実道路脇の花ズームアップ夾竹桃7:57宿泊ホテルへ戻る8:498時半にホテルを出発、セビリア市内観光へ。今日のバスの席は最前列が指定席。左前方にサッカーのスタジアムローマ時代からアンダルシアの中心都市だったセビリア。フラメンコや闘牛の本場として、またビゼーの『カルメン』の舞台として有名だ。グアダルキビール河畔に広がる旧市街は、素朴で温かい風景を見せてくれる。セビリアは8世紀から約500年間イスラムの支配下に置かれ、その影響を強く受けた9:00街のシンボルとなっているカテドラルのヒラルダの塔は、当時のモスクの鐘楼であり、街なかの古い建築物にもアラブ様式が多く残る。1492年のコロンブスの新大陸発見以後、セビリアは大航海時代を支える重要な都市となり、現在もスペイン第4の都市としての風格を備えている9:12スペイン広場噴水前から右側の塔を、映画の舞台にもなる半円形広場1929年に開かれたイベロ・アメリカ博覧会の会場として、建築家アニバル・ゴンサレスによって造られた。建物に沿って並ぶベンチには、スペイン各県の歴史や特徴がタイルでデザインされ、市民の憩いの場となっている。右半分右側の塔左右対称?で左半分まだ朝早いので市民、観光客が少ない左の塔スペインの国旗がはためく右側の塔左側の塔壁面に「CVENCA」の文字と絵床面に地図?壁面に「CORUNA」の文字と絵床面に地図?左側の塔下から右側の塔を二階通路から左側の塔9:32広場にあった土産物店9:52バスで移動、サンタ・クルス街へ観光スポットはほとんど旧市街に集まっており徒歩で回れる9:57歩いてサンタ・クルス街へ進むサンタ・クルス街は「かわいい小道とおしゃれな広場」ギターを持ち曳きながらサンタ・クルス街は、アルカサルの北側に広がる旧ユダヤ人街狭い小道を進むアンダルシア地方の典型的な家々が並び、花をあしらった白壁や鉄柵の奥に覗く美しい中庭などがあり、歩いているだけでも楽しいズームアップ小道にはレストランやみやげ物屋が点在する。フラメンコの絵がタイルに?Sevillarte自社工場で生産したセビリア焼きの陶器はどれもスペインらしい明るい色調。絵皿をはじめ灰皿、時計、小物入れなど手ごろな価格でアイテムも豊富伝統的なセビリア焼き。伝統の手法ですべて手描きされている小道を進み小道の合間から、ひときわ高くそびえるヒラルダの塔が見える日差しを避けるためにパラソルが小道の間に広場があり憩いの場になっている広場と広場との間の道は狭い10:32ホテル、レストランもあり広場でカフェも スペインの旅ー続く
2020.07.06
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スペインの旅三日目はドン・キホーテゆかりの村からコルドバヘ。コルドバは紀元前にローマ帝国が建設した街で、世界遺産に登録された旧市街はイスラムの気高い誇り。イスラム統治時代に全盛期を迎え、10世紀になるとヨーロッパ随一の都市としてその名をとどろかせた。人口は100万人を超え、300のイスラム礼拝堂と600の公衆浴場を持っていたというから、その繁栄ぶりは相当のもの。平成20年6月8日(日) 14:37コルドバへ到着キリスト教徒によって街が奪回されてから今日まで、イスラムの遺産であるメスキータ(モスク)を取り囲むようにコルドバの街が形成されていることからも、イスラム時代の栄華は忘れ去られることはないだろう。旧市街全体が文化遺産に登録されている壁面に「AMADOR DE LOS RIOS」旧市街地を馬車が走る遅い昼食会場へ進む14:45昼食会場店内へ入り添乗員から飲み物の値段を説明、オーダーを取る我々は赤ワインをボトルでオーダースープ、パンは袋に入れられメインの肉最後はデザートでアイスクリームが出る15:45約一時間のランチタイムを終え外へ出る狭い通路の旧市街地広場の塔16:00メスキータ入口メスキータ内のオレンジの中庭は市民も集う憩いの場で、冬になるとたくさんのオレンジが実るメスキータ内の中庭メスキータは、後ウマイヤ朝を創始したアブデラマン1世によって、785年に建設が始まり、その後歴代の王によって増改築された世界最大級のモスクシュロの門から足を踏み入れると、約850本もの馬蹄形アーチが目の前に広がる。鮮やかなセピア色のアーチは、モザイクを駆使した唐草模様やアラビア文字で装飾され、荘厳な雰囲気薄暗くてストロボで撮影赤レンガのアーチが続く様はまさに壮麗だ天上の模様馬蹄形アーチが見事な巨大モスク天上を見上げ何かを説明されたが?ステンドグラスアラベスク模様やモザイクが豪華なミフラブ(メッカの方向を指すくぼみ)メスキータ内の荘厳なカテドラル壁面のステンドグラス糸杉が立つ中庭へ出る。庭の美しさも有名で ”オレンジの中庭” は市民の憩いの場になっている16:38メスキータから外へ出るユダヤ人街にある花の小道小道からミナレット(尖塔)が見えるユダヤ人街は、バルコニーや格子に飾られた美しい花々が、白壁に美しく映える散策スポット。カトリック両王によって追放令が出されるまで、多くのユダヤ人が住んでいた。とくにパティオ(中庭)が有名で、花々が咲き乱れる5月中旬にはパティオ祭りが開催される土産物店巨大なメスキータの周りを白壁に花を飾った愛らしい小道が囲んでいて、伝統工芸やコルドバ料理の店が軒を連ねている飲食店の中では「イベリコ豚」沈丁花?自由時間で、グアダルキビール川に架かるローマ橋へローマ橋に立ち、ポーズをとるOさんグアダルキビール川の下流側今は使用されていない水車ローマ橋のたもとに『カラオーラの塔』(右前方)があるが工事中。イスラム時代の要塞で、塔の屋上から旧市街を一望でき見晴らしは最高に良い17:31自由時間も終わり集合時間も近くなり集合場所へ戻るが、我が旅友二人が遅れツアー仲間から冷たい目で・・・・・・・17:40 コルドバを出発して今夜の宿泊地セビリアへ。17:54途中、高速道路脇のヒマワリ畑へ撮影タイム山一面がヒマワリ畑Oさんと、モザイクをかけてすみません花の実をどうするのか短時間だが、ヒマワリを堪能17:58反対側の畑は小麦畑か?20:27ホテルの庭にはプール、このあと夕食会場へ夕食後、Mさん母娘と我々の部屋でワインを二本飲み盛り上がったのであった。 スペインの旅ー続く
2020.07.05
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このブログは、新型コロナウイルスの関係で2度目のスペイン旅行を楽しんでいます。スペインの旅三日目は、マドリードからバスでコルドバ、セビリアへ向かう。途中『ドン・キホーテ』ゆかりの風車の村コンスエグラへ立ち寄る。平成20年6月8日(日) 9:30ホテルを8時15分に出発し一時間強走り、のどかな田園風景に溶け込む風車別の丘には近代の風力発電の風車も並びアラビア語で「乾いた土地」を意味するラ・マンチャ地方。その中にある、コンスエグラには、雨の少ない土地でも育つオリーブ畑やブドウ畑が広がるまた、風車の村としても有名。小説『ドン・キホーテ』にも登場した白い風車は、のどかな村のあちらこちらに点在し、そのいくつかは内部を見学できるドン・キホーテゆかりの風車の村コンスエグラ10:00バスを降り高台へ丘の下の風車の村コンスエグラ内部へ入れる小屋は決まっているようで風車小屋へ入ると、日本語を片言でしゃべるペドロおじさん。日本人観光客が多く来るのであろうか風車の動力で粉ひき歯車は木製で石臼を回して、小麦を粉にしてパンを焼く小屋の中へ入り階段を上り窓から外を風車がゆっくりと回りのどかな田園風景この日も天気が良くこの丘でのんびりとしたいものだが、30分程の写真撮影タイムで後にすることに10:22風車小屋のペドロおじさんと肩を組む先輩。片言の日本語で、名残惜しそうに「さよなら」と、まだ若いのか10:52丘から下り、トイレ休憩で土産物店へ立ち寄る。教会の前に空に向って延びる糸杉。糸杉と言えばゴッホの「糸杉」や「糸杉と星が見える道」の絵だが、今回の旅で私は初めて見たが、スペイン、ポルトガルには多いと土産物店に庭先にドン・キホーテゆかりのオブジェが立つ大きな水瓶、車輪10時を過ぎると陽射しも強くなり。ツアー仲間は35名の大所帯でまた女性が大半のためトイレタイムには時間がかかるオブジェの前で記念写真添乗員の清水さんだったか?手ごろな値段の絵皿もあり土産に購入売店の女性この辺りは、サフランの産地でもある旅友も一緒に撮影したが教会の前にもドン・キホーテのオブジェドン・キホーテミゲル・デ・セルバンテスによって1605年に発表された小説『ドン・キホーテ』。騎士道小説の読み過ぎで頭がおかしくなった主人公アロンソが、自らを騎士ドン・キホーテと名乗り、従者サンチョ・パンサと年老いた痩せ馬ロシナンテとともに旅に出るその道中、自己の欠如や人間の美徳を取り戻していくこの物語は、中世の理想主義とリアリズムが融合した、ヒューマニズム作品の傑作として、文学的評価も高い。劇中、ドン・キホーテが風車を「巨人」と見間違え、勇猛果敢に戦いを挑む舞台が、ここカンポ・デ・クリプターナ。11:11約20分のトイレ休憩でバスに乗り込む12:25九十九折の峠を越える岩肌が押し迫り崩落が怖い鉄道もある、制限速度は50km/h12:30トイレ休憩でガソリンスタンド&ドライブインへ。カウンター奥の時計は11:35になっており、サマータイムになっていない。因みに、スペインでサマータイムが導入されたのは、第一次オイルショック後の1974年。切り替え日は、3月最後の日曜日。この日の深夜2時に、時計の針を1時間進めて深夜3時にする。バス移動が長く暑いのでここでビールをオーダーして飲む(写真があったが削除)。Sin Plomo95:ガソリン?の値段は、1.259€/ℓ≒214円と高い。Diesel:軽油、1.299€/ℓ 軽油の方が高いドライブインで咲いていた花トイレ休憩は約30分で、13:00に出発13:12車窓からこの辺りの山の斜面はオリーブ畑で延々と続く13:58山一面にオリーブの木、手前はヒマワリか?高速道路脇の斜面にもオリーブ14:09丘の上に集落ズームアップ スペインの旅-続く
2020.07.04
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新型コロナウイルスの関係で2度目のスペイン旅行を楽しんでいます。スペインの旅二日目。トレドはマドリードの南約70kmに位置しており、1500年以上の歴史を持ち、中世の面影を今も残す美しい古都。タホ川に囲まれた高台にある街は、しっとりと落ち着いた雰囲気で、訪れる人々の心を癒してくれる。ローマ時代から城塞都市として栄え、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教文化が混在しているのも特徴だ。とりわけ建築物にはイスラム文化の影響が大きい。平成20年6月7日(土) 15:07マドリードから1時間半ほど走り展望台へ、エル・グレコも作品に残したこの美しい街の景観は、1986年に世界遺産に登録されたエニシダが咲く、タホ川の上流側タホ川の上流側のこの新アルカンタラ橋を渡り市街地へタホ川の左上に「アルカサル」アルカサルは、11世紀にイスラム勢力からトレドを守る要塞として建築。以後500年間カスティーリャ王国の首都トレドの軍事拠点になった。1936年のスペイン内戦の際、ここで激しい攻防が繰り広げられ、建物は崩壊。その後市民戦争博物館として再建されたが、2007年まで修復工事のため休館中高台にある左が「カテドラル」右は「アルカサル」カメラを西に振り、90mの鐘楼を持つ「カテドラル」タホ川は古都の南側を迂回しポルトガルへと流れる男三人で記念写真Kさんは世界遺産のガイドブックを持ちじっくりと撮影したいビューポイントであるが、撮影後バスへ乗り城壁内へ15:15新アルカンタラ橋を渡り城壁内へ入る。街並みの間に日除けのテントがトレドは画家エル・グレコが愛した街で創作活動に励んだ地として有名。グレコが残したトレドの風景画と、現在の町並みとが変わらないことに驚かされる見上げると建物の間から高い鐘楼この建物は? 旅を終え日も経ち高さ90mの鐘楼を持つ「カテドラル」イスラム時代のモスクの跡地に、フェルナンド3世の命で1227年に着工され1493年に完成した。現在ではスペイン・カトリックの首座大司教座となっている。南側の獅子の門から入ると、内部には88本の柱で支えられた5身廊と22の礼拝堂があるパリのノートル・ダム寺院と同じフランコ・ゴシック建築のカテドラルはトレドの街のシンボル建物の合間から塔が街角には土産物店がこの地方は陶器が有名世界遺産に登録されている『トレドの旧市街』は、ローマ時代、イスラム支配時代、ルネッサンス期など、あらゆる時代の文化遺産を残す街並み狭い石畳の通路を下るエル・グレコは天上の世界を描き続け、クレタ島生まれのギリシャ人で、エル・グレコとはスペイン語でギリシャ人を意味する。その生涯を宗教画家として送ったグレコはトレドに定住し、神秘的な作風を確立した。ゴヤ、ベラスケスとともにプラドの3大巨匠として知られている窓際を飾るゼラニウム下から見上げると各窓に花を飾りユダヤ人住居地区建物の壁面に、「BARRIO DE LA JUDERIA 1492」とマークが旧市街地の狭い通路を進む、エル・グレコはギリシャのクレタ島生まれ、30代半ばで仕事を求めトレドへやってきた。以後亡くなるまでの40年間を過ごしたといわれるエル・グレコの家もあったのだが狭い通路を上るトレドの高台から北東方向を望む同場所から北西方向西方向のタホ川北側の「ビサクラ新門」、観光案内所がある16:45一時間半の観光を終え、北側に降り立ち高台を振り返るトレドの土産物店マドリードへの途中、夕食会場へ夕食の白身の魚夕食を終えロータリーの噴水世界に広がるリヤドロの魅力リヤドロの人形は、伝統的な技法を身に付けた彫刻家によって、ひとつひとつ形作られる。細部の小さな装飾から美しい彩色に至るまで、緻密な工程をたどって経験豊かな職人たちがその原型を芸術作品へと仕上げていき、120ヵ国を超える国々へと輸出されていく。リヤドロの芸術的価値は、世界中の美術館や博物館でも認められ、ロシアのサンクト・ペテルブルクにあるエルミタージュ美術館では常設展示されている。一個の値段が、当時は480€(約82,000円)と高価だった、現在はユウロ安で57,600円だが再度夕刻のスペイン広場へ文豪セルバンテス没後300年を記念して造られた広場。かつてはこの広場に兵舎があった。ドン・キホーテとサンチョ・パンサ像の上にはセルバンテス像オリエンテ広場に立つ旅友二人サバティーニ庭園を見下ろす庭園に降り立ち手入れの行き届いた庭園結婚式前の前撮りか夕闇の市街地王宮側からおオリエンテ広場フェリペ4世の騎馬像アルムデナ大聖堂大司教区の守護聖母を祀る。1883年に着工したが、市民戦争の影響で工事が遅れ、1993年に完成したマドリードのカテドラル。ファザードは、正面に向って建つ王宮に合わせた新古典主義様式の装飾が施されている。時間が遅く中には入れず王 宮小高い丘に建つ豪華絢爛な宮殿。マンサナレス川を見下ろす高台に建ち、1738年ブルボン王朝の初代国王フェリペ5世の命により建設が始まり、1764年カルロス3世の代に完成したバロック様式と新古典様式が調和した建物。「柱の間」の壁を覆うタペストリーや、赤いビロードが印象的な「玉座の間」などに王家の栄華がうかがえる。2500枚に及ぶ世界有数のタペストリーのコレクションは必見。ここも時間が遅く入れず大きなパラソルの下で談笑する民衆新型コロナウイルスの今はこの光景はどうなっているのか交通整理のおまわりさん有名ブランドのショップやホテルが軒を連ねるグラン・ビア通りグラン・ビア通りの一角に「三越」三越店内で迎えのバスを待つホテルへ帰り、明日は8時15分出発のため早めに寝る。 スペインの旅ー続く
2020.07.03
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今回のブログは、12年前に行ったスペイン旅行をアップします。私のブログは2008年からはじめ、帰国後の7月2日に初めてアップしておりますが、不慣れで挨拶のみで中途半端に終わっておりました、このためネタ切れのこの時期に再度アップしますので、訪問の程よろしくお願いします。この時のツアーは、JALPAK AVA『グラシアス!スペイン8日間』。旅行期間:この時期は個人で延泊ができたため、一日延泊して平成20年6月6日(金)~14日(土)。参加は、先輩のHさん、旅友のKさんと男三人で参加。ツアー代金は約35万円。通貨はユーロ圏で170円/€とこの時期は高かった、現在は120円。平成20年(2008)6月6日(金)スペインへはオランダ経由で、成田空港12:45発のJL411便でオランダのアムステルダム空港へ。フライト時間は12時間で、アムステルダム空港へ17:45着。オランダ、スペインとの時差はこの時期サマータイムでー7時間。6月6日(金) 18:50アムステルダム空港にて。12時間のフライトで疲れ気味の旅友のご両人。このあと、イベリア航空IB3249便に搭乗して、スペインの首都マドリードへ。22:07アムステルダム空港から2時間25分のフライトでマドリード空港へ到着。ツアー参加者は35名、内訳は男性8名で女性上位、名古屋、大阪、沖縄から参加した人もマドリード空港でターンテーブルから荷物を受け取るが、ツアー仲間の女性の荷物が一個届かず、また一個はスーツケースが破損のトラブルで日本からの添乗員(女性)が手続き。この関係でホテルへの到着は23:40と遅くなったスペインの旅二日目6月7日(土) 8:07宿泊ホテルは4つ星ホテルの「Hotel Gran Atlanta」このホテルへは連泊9時にホテルを出発するためホテル廻りを散策、ごみ箱をチェックする旅友Kさんマドリードはイベリア半島の中央に位置するスペインの首都。今日は土曜日で人通りがないこのモニュメントは?写真を撮りまくるKさん何を撮影しているのか先輩のHさん公衆電話で・・・・・・大きなごみのトレーラー9:17市内観光で、世界3大美術館に数えられる『プラド美術館』へ。バックは一段高いところに建つ「サン・ヘロニモエル・レアル教会」プラド美術館スペインが誇るプラド美術館は、王室コレクションの保存、公開を目的に1819年に開館。1868年の9月革命で共和制になるのに伴い、「プラド美術館」として国営化された。所蔵点数は1万点以上、その膨大なコレクションは代々王室によって収集されてきたプライベートコレクションである。また、盗品や略奪品が一切ないのが特徴で、この美術館の誇りとされているプラド美術館の前に立つ「GOYA」の像美術館内は撮影禁止のため、ガイドブックから。残念ながら「着衣のマハ」は他の場所で展示しているとのことでなかった芸術をこよなく愛したスペインの歴代王室が収集した作品の中でも、エル・グレコ、ゴヤ、ベラスケスはプラドの3大巨匠として知られ、数多くの作品が所蔵されている。11:00約一時間半の美術館内見学後、屋外でサン・ヘロニモエル・レアル教会道路脇に無造作に「日産の中古車」値段は、168,000€?連絡先の電話番号か?二階がオープンの市内観光バスプラド美術館から歩いてバス乗り場へロータリーサン・ヘロニモエル・レアル教会観光バスへ乗車12:13スペイン広場文豪セルバンテス没後300年を記念して造られた広場。かつてはこの広場に兵舎があった。ドン・キホーテとサンチョ・パンサ像の上にはセルバンテス像、その後ろには眺めのよいスペインビルがそびえるズームアップ添乗員から、この辺りは治安が悪いのでスリに注意と!スペイン広場から歩いて王宮へオリエンテ広場と王宮アーティストを魅了し続ける広場で、王宮の東側に位置するシックな雰囲気の広場で、ベラスケスの作品に大いに影響を与えたといわれる、フェリペ4世の騎馬像をはじめとするスペイン王国時代の歴代国王の像とともに、緑の美しい広場があるオリエンテ広場を進み12:30昼食会場へ向かう天気の良い日は屋外で食べたいがツアーはいつも室内14:54昼食後マドリードの南、約70kmに位置する『トレド観光』へ。女性二人連れの、Oさん、Uさんと親しくなり15:07トレドの対岸へ到着スペインの旅は、その1~17でアップします。 スペインの旅ー続く
2020.07.02
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タイ・バンコク四日目は、市内観光後、深夜の便で日本へ向けて帰国。平成21年(2009)12月13日(日) 12:03ホテル界隈工事中の民家二階の屋上に小さなワット(寺院)13:40ショッピングモールの前に人だかりステージ脇にはトロフィー、賞品が並べられステージ上では小学生であろうかダンスステージの後ろには「LOTTE talent search # 」の看板が 母親とともに参加明日のスターを目指して顔のメイクは母親?最後までいなかったので結果は?14:28モールのレストランも昼過ぎで多くの人がいろんな料理があり今年は新型コロナウイルスの関係でタイでも規制が17:52出発時間も近くなりホテルへ戻るアップ19:50バンコク、スワンナプーム国際空港へ。スワンナプーム国際空港は、2006年に開港した新しいアジアのハブ空港である。旅客ターミナルビルの総床面積は56万平方メートル以上。出発ターミナル天井に大きなモニュメントズームアップ照明灯であろうかバンコク国際空港 22:30発 TG640便にて成田空港へ。12月14日(月) 4:00機内からの日の出前バンコクからのフライト時間は5時間45分で成田空港へ早朝6時過ぎに成田空港第一ターミナルへ到着。成田からは高速バスを利用して茅ヶ崎駅前に10:40到着。この日は午前中休暇で、眠い中午後から出社。 バンコクの旅ーEND
2020.06.28
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タイ・バンコク三日目は、タクシーでバンコク郊外の水上マーケットへ。平成21年12月12日(土) 8:10ホテルのロビー9:53バンコク市内から西約80kmにあり、タクシーで約2時間の『アンパワー(amphawa)水上マーケット』へ果物を乗せたボートラーメンの販売9:58小型のボートへ乗る。橋桁には垂れ幕の下に「COME TO AMPHAWA NIGHT FLOTING MARKET」の看板。約1時間のチャーター遊覧で100BHT(バーツ)/人で、約300円と安い。タイは人件費が安いので、タクシー料金も安い。バンコク市内からのツアーもあるが個人で行くとより安いさまざまなものを売る小船が、狭い運河にひしめいている雨期(4月~10月)も過ぎたが水位が高い。河岸にタイヤがあり船着場であろうか遊覧船ジャングル風のヤシの木の合間に民家がある10:21途中寺院にも立ち寄る、仏像が金ピカ道路整備も人海戦術お寺の前で販売参拝者を亀orうなぎを購入して川へ放流してお祈り川沿いの民家は高床式、雨期には水位が上がるのであろうか、大きな水瓶も住居の下には船倉庫10:44別の場所で上陸、タイ国旗と黄色の旗は?道路工事中であろうか川沿いのカフェから10:55ウォーターレベルから見る、人々の暮らしぶり。船上で何かを売っているのであろうか大きな川を走り11:21狭い運河へ戻り船着場へいろんなものを売る小船がひしめく運河脇で食を取るタイ人11:24小船から降り、運河の両脇もマーケットや土産物屋になっている橋の上から見ると、小船ではいろんなものを売っており、料理まで作っているホタテガイのような二枚貝を焼いて売る小船も。食べたかったが怖いので我慢船にガスボンベを積み運河の両脇でも食べ物を販売色鮮やかで甘そうな菓子類、パイナップル?、みかん11:57アンパワー水上マーケットを後にし、タクシーでバンコク市内へ13:10高速道路を走りバンコク市街地へバンコク近くになると渋滞も始まりバンコク市内の高速道路拡張工事この日もバンコク市内へ戻り、夕食まで時間があるので、再度マッサージへ。20:28夕食を終えバンコクの市街地夜景、渋滞が激しいズームアップ反対方向も渋滞20:35トゥクトゥクへ乗りホテルへバンコクでは一度は乗ってみたいがトゥクトゥクはオートバイのエンジンに客席を乗せたオート三輪。日中の暑い時間帯に、排気ガスに溢れた道路をエアコンなしで走るのは結構つらいと。またトラブルも多いのでタクシーが無難とホテル近くの露天商、備長炭で串焼き? バンコクの旅ー続く
2020.06.27
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タイ・バンコクの旅二日目は午前中ゴルフへ。平成21年(2009)12月11日(金)バンコク市内の「アルパインゴルフ・クラブ」へタイのゴルフ場は平地にあるため、アンジュレーションに富んで距離が長い12月であるが気温は30度を超えて暑い、キャディーは各人にひとり付き。一番最初にタイへ来た時は一人に三人付けたコースは池、バンカーも多く難しい13:00午前中ゴルフを行い午後はその足でマッサージへ。タイではゴルフの後冷房の効いた部屋で2時間タイ式マッサージを。2時間やっても330BHT(バーツ:約1,000円)と安価。おばさんにチップ400BHTを渡しても日本より格安であるマッサージの現場は撮影できないためガイドブックから。タイ式マッサージの「サパーンコーン(丸橋)」と呼ばれる型でタイ式マッサージのハイライトマッサージの後、市内散策ラーメンを食べに30~50BHT(約90~150円)現地の人は、これに砂糖を入れて食べる人も15:38タニヤ通りのバンコク・スカイトレインの「サーラーデーン駅」のホームへホームからタニヤ通りを見下ろす日本人観光客やタイ王国駐在日本人企業関係者を対象とした日本人クラブ、カラオケや日本人全般を対象とした日本料理店、居酒屋などが密集することでも名高いタニヤ街は日本人クラブ・リトルトーキョーとも言われている。場所は、バンコク・スカイトレインのサーラーデーン駅に隣接、及びバンコク・メトロのシーロム駅から徒歩5分バンコクは渋滞がひどく「バンコク・スカイトレイン」の開通で多少解消されたのでは21:10夜の街頭ではいろんな果物を売っており安いため購入、ホテルの部屋で食べる。マンゴスチン(右から2番目)も、30BHT/kg?夜の街「タニヤ街」へ多くの女性が呼び込み、マッサージ、カラオケへと夕食は焼肉焼ソバだったか?薬味の各種唐辛子、何故か砂糖ソフトドリンクを飲む人も タイの旅ー続く
2020.06.26
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今回のブログも外出自粛のため撮りだめの写真をアップします。もう11年前になるが、平成21年の暮れも押し迫った12月の10日(木)~14日(月)まで3泊5日のタイ旅行をした。タイは先のオジンクラブで平成8年(1996)10月に行って以来、ゴルフ、マッサージ、グルメ等で度々訪れており、今回が13回目のタイ訪問であった。この頃のカメラは、OLYMPUS DIGITAL CAMERA を使用しており、画素数が低いためズームアップしても字が読み取れず説明に苦慮した。平成21年(2009)12月10日(木)早朝6時前に家を出、茅ヶ崎から成田空港まで高速バスで向かう。 8:37成田空港第1ターミナル成田空港11:00発のTG641便でタイ・バンコク スワンナプーム国際空港へ18:00成田空港からタイへのフライトは7時間半で、日本との時差はー2時間。タイには「スワンナプーム国際空港」と「ドンムアン空港」という2つの主要な空港がある。どちらも首都バンコクにあり、利用する航空会社により到着空港が異なるが日本からのANA、JAL、タイ国際空港はなどはスワンナプーム国際空港へ到着。日本は12月で寒くなっているがバンコクは暑く30度。タイの魅力は、 ①日系企業が多く、親日国である ②物価が安く、ゴルフ&マッサージは最高、通貨はBHT(バーツ)で約3円/BHT ③グルメは辛いが美味しい 等々ホテルへはバンコク国際空港からタクシーを利用。18:59夕食はホテル近くのレストランへ写真がボケてすみません(長いフライトであったので)ムール貝カニと糸こんにゃく?、タイの料理は辛いが辛党にとってはたまらない!チャーハンにキュウリ、エシヤーレットレストランの店員タイシャブは安くて美味しい追加で野菜、肉、魚、海老を入れるがビールが進む貝 類カニと卵の炒め物が絶品で毎回食べるこの頃は、お酒が先で撮影枚数も少なかった。 タイの旅ー続く
2020.06.25
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このブログは17年前の平成15年(2003)の中国ツアーです。中国の旅五日目、午前中はアモイ最大の観光スポットであるコロンス島を観光、午後の便で帰国する。平成15年(2003)10月14日(火)朝食後、荷物を整理してバスでホテルから渡し船乗り場へ岩窟に土産物店アモイからコロンス島へは渡し船でアモイ島とコロンス島の間は渡し船で移動。船は24時間運航して昼間は5分間隔。異国情緒が濃厚に漂うコロンス島には多くの大学生も観光にポーズを取ってもらう、あれから17年今ではもうおばさんに(失礼)アモイ島側の高層ビル1階席はアモイ島からコロンス島に渡るときに3元支払う。2階席は乗船の旅にプラス1元アモイ側、今日の天気も曇り空で今回のツアーでは快晴にはならなかったコロンス島はアモイ島の西南に位置し、もとの名を園沙州(えんさしゅう)といったが、明代にコロンス島(鼓浪〇)と改名。面積1.78k㎡の楕円形の小島で、島内の住民は23,000人。美しい景観から「海上明珠」「海上花園」、また、ピアノの普及率が高く、有名ピアニストを輩出しているためピアノ島とも呼ばれる南京条約(1842年)によるアモイ港の開港後、1902年にコロンス島は共同租界地に定められ、イギリス、アメリカ、フランス、日本、ドイツ、スペイン、ポルトガル、オランダなどの国が次々に領事館、商社、病院、学校、教会などを設立。一方で華僑もまた住宅や別荘を建て、電気や水道のインフラも整備された。1942年12月に日本軍により占領されたが、1949年の中華人民共和国建国にともなって、100年以上続いた植民地統治の歴史を終えた船上からコロンス島の「白海豚(イルカ)の像」なお、コロンス島では車の使用が制限されており、観光は渡し船乗り場から出ている専用の電動車か徒歩となる。旧日本領事館旧日本領事館前の石碑逸康苑、後方に天主堂木の枝からブーメラン位の大きな豆の房道路脇で豆腐の販売タライで活き魚の販売露地を通りコロンス島の最高峰『日光岩』を望む日光岩は、コロンス島の最高峰(92.68m)。ここは島最大の観光スポットで、もとの名は晃岩。俗称で岩仔山と呼ばれており以前、山腹には蓮花庵という尼寺があった。1647年には鄭成功が晃岩に上陸したとき、ここから眺める景色が日本の日光山にまさるものだとして、晃の文字をふたつに分け日光山とし、蓮花庵を日光寺とした。日光岩はちょっとしたハイキングも楽しめ、頂上まで行く間にさまざまな刻石があり、なかでも『鷺江第一』と彫られた文字は有名コロンス島内の観光案内板庭園から美しい海が見える『菽荘花園(じそうかえん)』菽荘花園は、日光岩を下った港仔后海水浴場の脇にある。この庭園は1913年に造られたものでその名称は主である林叔蔵の発音に近い菽荘とした。林家はもともと福建省の龍海角美に住んでいたが、父の林維源の代に台湾の淡水に移り住み、板橋別墅という別荘を所有した。1895年、日清戦争の勃発で一家は台湾を追われ、アモイのコロンス島に定住した。年月が経つとともに、郷愁の念が強くなり、板橋別墅に似せた花園を造ることにした中国江南地方の様式をもつこの庭園は、蔵海園、補山園のふたつに分かれ、四十四橋にある渡月亭から見る海岸は非常に美しい大きな岩に文字が刻まれているが「????」同じツアーの女性グループ4人組とバックは港仔后(がんずほう)海水浴場、日光岩オジンクラブ&プラスワン鼓浪?鋼琴博物館入り口に「??軒」博物館内にある土産物店菽荘花園を出る集合時間を待つ集合後、渡船場へ移動道路脇に魚を干していたが魚の種類は?土産物店(真珠?)には多くの売り子が添乗員を先頭に渡船場へ進むこの店は乾物類の土産店緑茶も販売海鮮市場ではタライの中に魚コロンス島側の渡船場渡し船に乗り振り返る短時間の観光であったので・・・・・・・アモイ側の船着場渡船場近くの土産物店新しいマンション二階には子供がいたが何をしているのか?このあと厦門発14:50のJAL608便にて成田空港へ3時間35分のフライト。帰国の機内にて同じツアーの元陸軍の方で80歳に近いとか、いつまでもお元気で!成田空港へ19:05に到着、京成上野駅経由、自宅へは22:20に帰宅。今回のルートは、成田 → 広州白雲国際空港 → 桂林 → 厦門 → 成田空港中国へは今回二度目の訪問であったが、この後仕事関係で20数回訪れた。今年も二月に観光で行く予定であったが、新型コロナウイルスの関係で中止になった。中国は近くて安いツアーが多いので良いのだが、これからは二の足ですね! 中国の旅ー完
2020.06.22
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このブログは17年前の平成15年(2003)の中国ツアーです。中国の旅四日目は、バスを利用して日帰りで福建土楼へ、観光後厦門へ帰る。客家の土楼は、中国の福建省に点在する客家の人たちの伝統的集合住宅である。客家とは、古代より中国東北部や中原から南下してきた漢民族の一派で、客人すなわち「よそ者」の意味があるといいます。訪れた後の2008年に『福建土楼』として世界遺産に登録された。平成15年(2003)10月13日(月)福建土楼は福建省竜岩市永定県にある。3Fから中庭を見下ろす中庭に降り立ち、篭の中にはニワトリを飼っていた洗濯物がぶら下がり生活感を感じる篭の中にはニワトリ、アヒル?も動き回り生活感あふれる中庭昼食で炒め物徳馬楼の張さん一族夕刻には先程の篭の中に入れられるのか客家の土楼を後にする小さな売店乗車してきた観光バス。廻りにはバナナ畑が広がる現在は世界遺産に登録されて様変わりしているのであろう。この頃は未開発で牧歌的であった車窓からの光景、これは?練炭の山車窓からの民家庭先には豚舎途中別の土楼へ立ち寄る土楼入り口の『☆』のマークは共産党員であることの印であると説明現地添乗員の張さん中の構造は徳馬楼と同じようなものであった稲穂も実り、バナナ畑も厦門への帰路、漳州トイレ休憩でホテルへ立ち寄る車窓から、バスの窓が汚れていたのであろうか再度、トイレ&喫煙休憩で止まるが、道路脇にゴミ捨て場カメラを右に振る、池があったのか足元にはペットボトル、ビニール袋が散乱同場所から道路の反対側には民家の家か?車窓から、道路脇には工場棟工場の名前はカメラの画素数が低いので解読できず道路脇では露店で野菜を販売名勝地の門か?中国製のバイクであろうかビルの建設現場建物はアパートなのか足場は丸太の組み合わせか?今回より以前に訪れたときは高層マンションの足場の支柱は竹であったが高速道路を走り、アモイ島が見えてくるアモイ島をズームアップ養殖場と埋め立て?厦門湾厦門は1980年に経済特区に指定され、1984年にコロンス島を含むアモイ全島が経済特区となった。国内の大中都市を総合的に見たとき、10位以内にあり、国内総生産数値でもひとりあたりの平均が高いことで知られている。華僑資本を中心とした外資が多数進出し、日本企業も多い。この情報は2007年のガイドブックであるので事情は変わっているか?厦門市内へ四日目の観光を終え宿泊ホテル『厦門假日皇冠海景大飯店』へホテル前 中国の旅ー続く
2020.06.21
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このブログは17年前の平成15年(2003)の中国ツアーです。中国の旅四日目は、厦門からバスで『客家の土楼』へ日帰り観光。10月13日(月)ホテルにて朝食後バスでアモイ港は水深12m以上あり、かつ周囲の陸地や島が防波堤の役割を果たしている天然の良港のため、明の正徳年間(16世紀前期)以降は中国有数の茶葉輸出港として繁栄。アヘン戦争の講和条約である南京条約(1842年)により開港され、コロンス島(鼓浪〇)に洋館が建設された。福建省は墓石の産地でここから日本へも多く輸出していると土楼まではバスで片道4時間を要する。福建土楼は福建省竜岩市永定県にある工場の煙突、道路脇にはバナナ養殖場煉瓦の工場であろうか街道脇にはビニールハウスも車窓からの工場か大型バスにツアー客は20名のため余裕海だったか川だったか17年も経つと国道324号線の料金所市街地に入り前方に高速道路の標識飯店の建設途中か鉄道を越え車窓からの町並みトイレ休憩のためガソリンスタンドへ立ち寄る隣接して「永定順安飯店」がある、福建省竜岩市永定県近くであろうかガソリン代は、約3元/ℓ≒45円/ℓ と安い、現在では約8元と高騰ガソリンスタンドのトイレ喫煙組は片隅で近くの露天商へ立ち寄る、バナナが多い果物の販売サボテンも販売バイクの販売、食堂山間部へと入る川沿いに山中へ進む鉱山があるのか川沿いに建つ工場群山肌には茶畑が広がる田んぼには米も客家の土楼へ到着土楼は中国の福建省に点在する客家の人たちの伝統的集合住宅。客家とは、古代より中国東北部や中原から南下してきた漢民族の一派で、客人すなわち「よそ者」の意味があるといいます。そんな客家の中には、のちに台湾や東南アジア諸国にわたった人たちもいて、多くの傑物を輩出しています。元台湾総統の李登輝、タイガーバームの創設者胡文虎、リー・クアンユー・シンガポール初代大統領などそうそうたる顔ぶれです我々が訪れたのは2003年で、この後2008年に『福建土楼』で世界遺産に登録された。土楼は点在しているが我々は『徳馬楼』へここには張さん一族85名が生活しており、1F:台所、2F:倉庫、3F:寝室ネットからの上空写真土楼は円形のもの長方形のものとある家畜小屋ツアーでは珍しいが事前に「子供へのお菓子を持参してくれ」と。今では世界遺産になり生活も裕福になっているのでは土楼の大きさは、直径56mの3階建ての集落で、外壁の厚さは1.0m。現在では電気も通じ、TVもあるちょうど昼時で昼食の準備に中庭から見上げる洗濯物が多く干されていて生活感が漂う階段を上り3Fの寝室エリアへ3Fから中庭を見下ろす3Fの寝室から土楼外を望む3Fの寝室エリアを一周見習い添乗員のリーさんと 中国の旅ー続く
2020.06.20
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このブログは17年前の平成15年(2003)の中国ツアーです。中国桂林・厦門の旅、三日目は、桂林市内観光後、空路厦門(あもい)へ移動。2003年10月12日(日)桂林で2連泊の『桂林賓館』桂林市内観光で『七星公園』山の並び方が北斗七星に似ていることからこの名前が付いた。桂林最大規模の公園として、地元の人でにぎわっている。園内は広く、山水の景観のほか石碑や動物園などさまざまな施設があり、ゆっくり回ると丸一日はかかってしまう公園山の並び方が北斗七星に似ている池の蓮、オニバスか?ズームアップ動物園では虎に乗り記念写真(有料)本物の虎です、時々噛まれるとか(冗談です)パンダもいたがパンダ館には入らず外から見るだけであったパンダをズームアップ園内を散策桂林の花「金モクセイ」金モクセイのいい香りが漂っていた色鮮やかなカンナ七星公園を散策後、バスで桂林空港へ向かう10:30桂林空港出発ロビー、11:15発の便で厦門へ12時前に厦門上空へ12:00厦門空港へ到着バスに乗り市内観光へ。現地添乗員は馬さん(広州へ帰任)から、厦門の添乗員張さん、リーさん(女性、見習い)に交代。アモイは福建省の南東部、九龍江の河口に位置する港湾都市で、対岸は台湾。中心となるのは東西13km、南北14kmのアモイ島。「アモイ」とは厦門を地元の言葉(閩南語、台湾語の仲間)の読みを採用したもので、国際的にも通用している史料によれば、アモイは唐の天宝年間(8世紀半ば)に福安と漳州から薛氏と陳氏が島に移住したときに始まったとされる。宋代になって行政に組み込まれ、明の洪武年間(14世紀後期)に城が築かれ、『祖国大厦之門』(祖国の大きな家の門)ということから「厦門」と名付けられた。そして、明末清初建国当初には、鄭成功がここアモイや台湾を拠点にして、清への抵抗運動を続けた。機内食が出たが、昼食会場で再度昼食をとる福建省の魚料理厦門の市内観光へ、『胡里山(こりさん)砲台』アモイ島の南海岸、胡里山にある砲台が胡里山砲台。砲台の望帰台からは金門島も見えることができる。砲台は、1891年(清の光緒17年)から建設が始まり5年後に完成した。現在でも10門以上の大砲が残っており、なかでもドイツから購入した大砲が有名現地添乗員の張さんから説明、女性のリーさんは見習いとかドイツ製の大砲砲口直径は28cm、砲身全長13.96m、射程距離が約16kmで、この大砲一門の金額は6万テールもし、支払いには約2.2トンの銀が用意された(約1億3200万円)反対側から撮影この砲台の砲口はどこを向いていたのか。砲台から約2キロのところに台湾の金門島があるこの海峡が中国と台湾の国境ズームアップ大砲の砲身南普陀寺(なんふだじ)唐代に建設された仏教寺院で、初名は普照寺という南普陀寺は1000年以上の歴史を誇る寺だが、たび重なる破壊に遭い再建を繰り返している。敷地面積は3万㎡以上あり、天王殿、天雄宝殿、大悲殿、蔵経閣などが並んでいる。天王殿天王殿を入り振り返る多くの観光客が『大悲殿』へ石段を上り『大悲殿』を振り返る巨岩に『佛』の文字大悲殿入口中国人は信仰心が高いのであろうか、若者が長い線香に火をつけ南普陀寺の後は、ウーロン茶工場を見学福建省の名産品の一つはウーロン茶店の女性群通訳の女性が説明お茶の入れ方を説明左は添乗員のリーさん通訳の女性と、土産にウーロン茶を購入夕食会場へ夕食は辛かった!宿泊ホテルにて『厦門假日皇冠海景大飯店』当時厦門では焼却炉を建設中で現地出張員がホテルへ来て談笑ホテルの外へ出て果物を購入 中国の旅ー続く
2020.06.19
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このブログは17年前の平成15年(2003)の中国ツアーです。中国桂林・厦門の旅、二日目は、桂林のホテルから漓江下りをするために竹江(ちくこう)埠頭へバス移動。2003年10月11日(土) 9:30竹江埠頭を出港して漓江下りへ、天気が曇り空で残念だが漓江下りの遊覧船は4つ星と3つ星があるが我々はどちらに乗船したのか?ツアー料金からして3つ星か、冷房の効いた客室へ我々より先に出港した遊覧船。個人で乗船すると、昼食付で1人約7,000円とか(多分外国人料金であろう)多くの観光客がデッキに毎日何隻下っているのか。目の前に水墨画の世界が広がる漓江下りは約5~6時間を要する漓江下りの観光は、遊覧船、竹筏、徒歩の3種類がある楊堤から興坪までの徒歩ルートもあり、自然と地元の生活に近づく良いチャンスであるが我々の船の後方にも多くの遊覧船が連なって下る前方にも多くの遊覧船天気が良いと漓江の川面に山々が映えるのだがデッキからの眺め、船の多さにびっくり河岸には現地の人の漁獲用船川を渡るのに使用される筏10月は乾期で水の量が少なく船底がガラガラと擦っていた今にも雨が降りそうだが山の頂に『仙人の石』同僚もあれから17年、今では水墨画の世界ズームアップ新版人民幣の20元札の裏に、漓江の名所である黄布倒影の図柄が描かれている放牧されているのか水牛?遊覧船の竹筏ビデオ撮影に夢中の先輩Hさん遊覧船内では乗員が紹興酒等の土産物を販売10:30途中、冠岩の鍾乳洞見学へ立ち寄る下船して1時間半の鍾乳洞見学へ全ての遊覧船が立ち寄るので混雑ゲートを入り鍾乳洞内は小型列車に乗り移動ライトアップされ暗い中ビデオ撮影の先輩鍾乳洞内は船にも乗り移動鍾乳洞から出て記念写真冠岩の公園ゲートを出る時は入って来る観光客は少なくなり急な下り坂を運んでくれる中国版駕籠果物を売るおばさん、みかん、柿であったか12:00遊覧船に戻り鍾乳洞見学後、船内で昼食。桂林麦酒をオーダーして。昼食は船の後方のキッチンで調理されたもので、テーブルごとに白飯と7~8種類のおかずが並ぶ、食後にはフルーツも同じツアーの女性4人グループ船内は冷暖房完備昼食後デッキへ出て水墨画を楽しむカルスト地形特有の山々が連なる水墨画のような風景のんびりと漓江下りをしながら楽しむ川面に山並みが写るのだが14:15漓江下りの終点、陽朔(ようさく)へ到着鵜飼のツアーがあったが何故かキャンセル。陽朔は桂林の南約70kmのところにある周囲を奇峰に囲まれた小さな町で、このあと市内を散策後バスで桂林のホテルへ戻りホテル内で夕食。 中国の旅ー続く
2020.06.18
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新型コロナウイルスの関係でテレビでも昔の映像を出して再放送しているが、私も外出自粛で新しい写真が無くなり、今までブログでアップしていない写真を取り出しまとめました。このツアーは、17年前(2003年)の旧オジンクラブ(現役時代の飲み仲間で年一回海外旅行)のメンバーで中国の桂林・厦門へ行った時のものです。旅行日:平成15年(2003)10月10日(金)~10月14日(火)ツアー:JTB LOOK『桂林・漓江下りと厦門・客家土楼5日間』 ¥128,000私にとって中国は二度目の訪問であった。この頃のカメラは、OLYMPUS DIGITAL CAMERA を使用しており画素数が低い。平成15年10月10日(金)成田空港発 10:00、広州着 13:55、5時間25分のフライトで日本との時差は1時間。今回のツアーのルートは都市間は飛行機を利用14:30広州白雲国際空港前空港で現地添乗員の馬さんがお出迎え総勢20名のツアーで我々は6名で参加。今回、特別参加で女性が一名参加広州市市内観光で『陳氏書院』へ清朝末期の1894年建築の祖廟造りで、広東省内に住む陳氏一族の私塾。1894年に清朝時代に皇室の試験に備えるために、72名の氏族によって後輩の宿泊施設と準備のために建てられました。後にチェン・クランのインダストリー・カレッジ、その後中学校に変更されました清の光緒16~20年(1890~1894)に、当時の広州72県の陳姓の人々がお金を出し合って建立した族祠と書院。ここで陳氏一族子弟の教育も行ったいろいろと説明があったが時が過ぎ、ネットで調べる。書院内の屋根や扉、欄干に見事な細工書院内には19の庁堂があり、面積は約8,000平方mある。前院、後院、東院、西院を主体としており、それぞれの建物は廊下で結ばれている見どころは建物の柱、屋根、窓、欄干などいたるところに施された装飾で、鮮やかな色彩の石刻、煉瓦彫刻、鉄鋳が鳥獣、古代の文様などさまざまな題材を表現している修復されたのか、喫煙エリアも決められ陳氏書院周りの民家今回我々のツアーに参加したFさん広州博物館へやはり中国は「赤」のモニュメント車窓から「広州中医薬大学」この頃の広州市の人口は、750万人で、広州にはホンダの自動車工場がある。新車が約30万元(約450万円)広州の都心から北30kmに位置する『広州白雲国際空港』この空港は数年前に完成しているが、また新しい空港を郊外に建設中とのこと空港滑走路滑走路は、3,600×45、3,800×60、3,800×60 の三本があるこのあと今夜の宿泊地桂林へ行くが、その前に夕食で飛行場近くのレストランへ。今回初めての中国料理、ビールを飲みながら楽しむ広州白雲国際空港国内線、中国南方航空を利用空港内の土産物店空港内待合室20時発の桂林行きへの搭乗タラップを上り機内へ空には満月の月が20:50桂林空港へ到着桂林は中国でも有数の絶景の地。数々の水墨画でも描かれている漓江は特に有名で、中国を代表する観光名所の一つとしても知られているホテル近くの店で今夜のビールを購入中国紙幣レートは、10,000円/740元=13.5円/元、現在は、15.1円/元、一時は18円だった歩道脇でマージャンを楽しむ中国人22時過ぎに、『桂林賓館』へ到着、部屋で宴会。ウイスキーは広州国際空港で購入10月11日(土)二日目のホテルの朝食8時にホテルを出発して、漓江下りの竹江埠頭へバス移動。ハスの池であろうかバスの車窓から、建設中の高速道路旧道路の横に、高速道路を建設中建設中の建物遠くに桂林の山並みゴルフ場漓江下りの竹江埠頭へ到着竹江埠頭は桂林市内から28キロ離れている竹江埠頭には多くの遊覧船が停泊していた 中国の旅ー続く
2020.06.17
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八日目:10/31(木)ルーマニアのブカレスト空港から、カタールのドーハ空港へ向かう。利用便は、23:30発 カタール航空 QR0220便。予定通り、23:30にブカレスト空港を離陸。10/31(木) 0:50利用便の機種はエアバス A-320。離陸し、1時間を過ぎて機内食がでる2:08トルコ上空だが市街地の照明がくっきりと飛行ルート2:12飛行ルートは、ルーマニア・ブカレスト ➡ 黒海 ➡ トルコ ➡ イラン ➡ カタールシリアの、Aleppo(アレッポ)2:23イラン上空へ 2:41イラン上空2:55イラン上空2:57イランの、Shiraz(シーラーズ)2:59イランの海岸線か3:37ドーハ上空へ3:46ドーハの街灯かり3:51ブタペストからドーハまで約4.5時間の飛行で、早朝のドーハ空港へ到着4:36ドーハ国際空港ではトランジットゲートに向かう。空港ターミナル内には人気者の巨大な黄色のクマ。もう何回目の出合いか案内板には『LampBear by Urs Fischer』と書かれていた。『LampBear 』は頭にLamp の如きものを被っているから?このクマは、ニューヨークを拠点とするアーティスト、ウルフ・フィッシャー氏の「無題(ランプ/クマ)」という作品とラウンジの中央近くでは新車が2台販売展示されていたポルシェ・Panamera Turbo SE-Hybrid Exective。8気筒、4000ccで3000万円以上の高級車一度は乗ってみたい高級車『ポルシェ』ASTON MARTIN(アストンマーティン社)DB11 COUPE値段は、2,363万円からASTON MARTIN社 の 『DB11 COUPE』赤いバイクは、DUCATIのスポーツバイク。ASTON MARTINイギリスの自動車メーカードーハ国際空港は世界でも有数のハブ空港でもあり、この日の早朝も多くの利用客で混み合っていた。搭乗ゲートBゾーンに向かって進む4:45B8 ゲートに向かって進む4:52搭乗ゲート搭乗ゲートB8でボーディング開始を待つ4:54定刻の7:00に飛び立つが、席を通路側に求めたのでしばし休養。往路は成田空港からであったが復路は羽田空港へ到着で、この様なケースは初めて。使用機材は、A350-10007:24(日本時間14:24)最初の食事の朝食が出る、ライスがあったが朝食メニュー朝食後は通路側を希望したので、睡眠剤を飲みしばし寝る20:09(日本時間)時間を7時間進め日本時間に変更。羽田空港まで後2時間42分20:11飛行ルートでは北京上空20:25二度目の食事。羽田空港からの運転があるのでビールは飲めずジュースをメインミール21:15韓国上空へ21:18韓国仁川空港辺りから羽田空港まで後、1時間34分。到着予定は、22時55分21:19ソウル上空22:22到着まで後29分22:32相模湾上空へ22:32画面には、Hiratsuka、Chigasaki、Fujisawa22:38伊豆大島上空から房総半島上空へ22:45カタールドーハ空港から9時間半で到着。飛行は予定通りであったが羽田空港での手荷物の出が遅くなり、ツアー仲間、添乗員と別れを告げ、早々に羽田空港到着ロビーへ。旅友女性二人とはここで別れる。23:59我々は車を預けている『サンパーキング』へ連絡、迎えのマイクロバスへ乗る夜も遅く迎えのマイクロバスには我々二人だけ0:00マイクロバス車内には、『回送サービス』成田 ⇔ 羽田間のマイカー回送なら実績豊富なサンパーキングにお任せ!!通常価格は、13,000円。今だけ特別価格 9,900円。今回我々は、マイカーを羽田に預けリムジンバス利用で、3,200円だったので正解11/1(金) 0:15サンパーキング浮島から帰路に着く駐車場からのコンビナート夜景この後、いつものように湾岸道路、横浜新道を走り旅友宅へ立ち寄り自宅へ帰る。深夜のため渋滞もなく順調に走り我が家には、1:13に到着。今回の旅を終え、ブルガリアの旅は天気も快晴で最高であった。ルーマニアの旅は、天気も曇天で首都であるブカレストの観光は雨で夕刻であったので心残りとなった。今回訪れた二国は、今まで国の名前は知ってはいたが世界史の不勉強で知らなかったことが多く知識を広げた感大であった。世界遺産は、ブルガリア4+ルーマニア1の5ヶ所訪問。カタールでのトランジットの旅は移動が長く大変だ!されど年3回を目指す海外旅行のツアー金額の安さは魅力だ! ルーマニア・ブルガリアの旅-END
2020.01.04
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七日目:10/30(水)ペレシュ城の散策後は昼食会場へ。レストランには阪急トラピックスの別のグループが先に昼食。13:37昼食のレストランへ予約時間が決まっており、しばし小雨の中待機13:43インテリアがモミの木で作られたというレストランで昼食。小学生たちも食事。今回がツアーで出る最後の食事サラダには塩気の多いチーズがかかっていたブルガリア、ルーマニア共に食事時のパンが美味しかった阪急トラピックスからサービスでワインが一杯出る。旅友のUちゃんのワインもご馳走になったメインの「魚のフライとポテト」14:25デザートのケーキ15:00昼食を終え、バスの待つ場所まで徒歩で下る。 正面に四ツ星のホテル『Vilele Lucia』15:01観光バス待機エリア。バスに乗り込み約126km先のルーマニアの首都ブカレストに向かう15:131号線に合流し南下する15:47田園風景の1号線(E60)を一路ブカレストへ向けて走る発泡ゴム製造業者「MICHELIN」15:491号線(E60)沿いに建つ、小さな正教会「Maicii Domnului」15:50車窓の右手に見えたのが原油を採掘する油井であろうか。 ポンプジャック、ビームポンプであろうか? ルーマニアは、石油産出国であり、石油採掘の歴史も深い。早くも1691年にはこの場所から15km程のモレニ油田で最初の原油の採掘が始まったのだと ネット情報から16:00DN1号線(E60)を進みトイレ休憩でガソリンスタンドへガソリンスタンド内のコンビニへガソリンスタンド新規オープンしたばかりなのか、コンビニ店内は綺麗お土産に蜂蜜、コーヒーを追加で購入16:35ここからカメラは、CANON から SONY に換えて撮影。田園風景の中のパイプライン16:36火力発電車窓右手に、石油精製所『OMV Petrom S.A.』が現れた。『OMV Petrom S.A.』は、オーストリアのOMVが管理するルーマニアの総合石油会社。ルーマニア最大の企業の1つであり、南東ヨーロッパ最大の石油およびガス生産会社。2004年以来、OMVの子会社となっている。このあと陽も落ち疲れから熟睡、他の仲間も17:22雨のブカレスト市内へ入り渋滞がはじまる高さ137mでブカレストで一番高いビル17:23ビルには「vodafone」「HUAWEI」のネオンサイン17:46道路標記ここまでの渋滞がひどかった18:17雨がかなり激しく降っている中『勝利広場 Victoria Palace』付近18:17ピアツァ勝利広場(Piața Victoriei square)』。ピアツァ勝利広場はブカレスト中心部にある「大通り」が交差する、主要な高層オフィスビルと政府ビルディングが建つ主要な交差点の一つ。1989年のニコラエ・チャウシェスクの独裁政権が「ルーマニア革命」によって打倒された際には、ニコラエ・チャウシェスク夫妻以外の共産党幹部が処刑された場所との説明が添乗員から18:22雨がかなり激しくなり車窓からの写真もピントが合わず18:26雨がかなり激しい18:3618:38バスを下車して撮影タイムだが雨が降り。革命広場の記念碑、その後ろに政府機関・旧共産党の建物が。革命広場の記念碑は、共産主義を打倒した1989年のルーマニア革命の闘争と犠牲者を記念するルーマニア、ブカレストの記念碑。記念館は2005年8月に革命広場に建設されたが、1989年12月にルーマニアの共産主義時代の独裁者ニコラエ・チャウシェスクが公開処刑された場所アレクサンドルー・ギルドゥシュによって設計された記念碑は、金属製の「王冠」が置かれた高さ25mの大理石の柱が中心にあることが特徴。 この柱は、大理石と花崗岩で覆われた600㎡の広場に囲まれていたインフォユーロパセンター Centrul Infoeuropa。Centrul Infoeuropaは、欧州連合への加盟に向けたルーマニアの準備に関する必要な情報をルーマニア国民に促進するために、ルーマニアの欧州委員会代表団によって1999年に開設された。2007年に欧州連合に加盟したことにより、インフォユーロパセンターはルーマニア政府の欧州問題部に引き継がれた。2013年2月1日以降、『Centrul Infoeuropa』はルーマニア・外務省に所属する組織になっていると革命広場前の東方正教会。旧王宮の隣の革命広場の角に立つ東方正教会。1720年から1722年の間に建てられ、ブロンコベヌ時代の遺産に関する限り、ブカレストで最も保存状態が良く最も代表的な正教会の1つ。教会は、Iordache Kretzulescuと彼の妻、Safta(コンスタンティンブランコヴェアヌの娘)の命令により建設された18:41数分間の下車で雨の中写真を撮り再度バスへ乗車再度、インフォユーロパセンター Centrul Infoeuropa18:42ルーマニア国立美術館中世から現代までのルーマニア美術、ヨーロッパ美術、装飾美術、東洋美術のコレクションを国内で最も豊富に所蔵している。 カレアビクトリー地区にあり、ナショナルギャラリー(オールド・ルーマニアン・アートギャラリーとモダン・ルーマニアン・アートギャラリーを含む)とヨーロッパギャラリーがあるとブカレストの中心にあり、革命広場に面した共和国宮殿の一部が美術館として使用されていると。カロル1世の騎馬像とその後ろに『Centrul Infoeuropa』18:58そして『Piaţa Constituţiei』でバスを降り、『国民の館(Casa Poporului)』で雨の中しばしの撮影タイム。ルーマニアの首都ブカレストにある、ルーマニア議会の議事堂および観光施設国民の館は1980年代に、当時のルーマニア共産党書記長だったニコラエ・チャウシェスクが「宮殿」として造成した。 建築物としては、ペンタゴン(延床面積616,540m²)に次ぐ世界で第2位の大きさを誇る。共産主義時代の独裁者チャウシェスク大統領が1,500億円もの巨額の資金を投じて建設したこの宮殿、「国民の館」であったが。ワシントンにあるペンタゴンに次いで世界で2番目に巨大な建物で、3,000を超える部屋を持っているのであったが、到着も遅れ雨も降りライトアップが殆どされていなかったのであった。このため、撮影時間も短く19:26寒い中での散策でトイレも近くなり、デパート内のトイレを借りるデパートでもすぐにトイレが解らず19:35デパートの前でバスを待つ20:35ブカレスト・アンリ・コアンダ国際空港へ到着。ブカレスト中心部から空港へ向かう途中には、アウレル・ヴライク空港(通称バネアサ空港)という別の空港もある。到着後、途中のコンビニで購入した蜂蜜類を急いでトランクへ詰め込み、搭乗手続きカウンターへ進むカウンター前で並んで待っているとルーマニア警備員が近寄ってきて、この場所で写真撮影した同じツアーの人が、撮影内容をチェックされ削除させらたこのあと、セキュリティー検査、出国審査も無事通過。22:30利用便は、23:30発 カタール航空 QR0220便 カタール・ドーハ行き夜も遅くなり利用客も少なくなっている中、ルーマニアの通貨が1,000円強残っていたので、パン&ヨーグルトを食べて時間を潰す出発ゲートへ進む23:20ボーディングブリッジで機内へ外はまだ雨が降り、ルーマニアともお別れだが、首都のブカレストを散策できなかったのが心残りであるが ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2020.01.03
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七日目:10/30(水)シナイア僧院を散策後、小雨の中緩い坂を上り「ペレシュ城」へ。12:47シナイア僧院の大教会大教会壁面のフレスコ画白壁の上に出窓やベランダが並ぶ建物中庭に咲いていたバラ霧雨の中、秋バラがきれいに露のついたバラは最高トイレ表示の「TOALETA」トイレ内の照明これで完成なのか、日本では手抜き工事だ!手洗い場も汚れ12:53鐘楼を見ながら入口門へシナイア僧院からペレシュ城へ向かう。すれちがった若者がハロイン用の面を頭にかぶり古い教会越しのシナイア僧院の大教会シナイア僧院を見納める13:00坂道を登ると何か飛び回っていたブーメランを販売土産物店が立ち並び、店先には木々の落ち葉がいろんな店が出店絨毯も販売トウモロコシを販売、地元の子達もおばさんもトウモロコシを販売一本5Lei(約150円)で日本価格の半額、食べてみたかったが味は?13:06美しい自然に囲まれた『ペレシュ城』ペレシュ城は、1875年にカロル1世がルーマニア王室の夏の離宮として、8年の歳月をかけて建てた宮殿。ルーマニアで最も壮麗な城とたたえられるほど美しい。そしてカロル1世は、この城が完成して数カ月後に亡くなったのだと今回の観光パンフレットに記載されていた写真ペレシュ城はドイツ・ルネサンス様式で建てられており、数多くの彫刻、噴水が配された庭園からは、シナイアの渓谷が一望できる。宮殿内の部屋数は160はあるといわれ、各部屋にはカロル1世の集めた絵画、彫刻などの美術品、陶磁器、金銀、装飾品や中世の武器などが飾られている尖塔の先が折れ曲がっていた坂道の反対側の『Valea Peleșului川』の白き流れ落ち葉も流れペレシュ城の下の坂を進む空が青空だとまた違った写真であっただろうペレシュ城手前の左手にあったレストラン『Bar Regal』&『La Tunuri』『Castelul Peleș(ペレシュ城)』見学案内板ペレシュ城への、アクセスルート&付近案内板。ペレシュ城へ向かう左奥に『ペリショール城』があったが、残念ながら今回のツアーのコースには含まれていなかったペリショール城。ペレシュ城と同じ敷地内の左奥にある、カロル1世の狩猟用の城。1902年の完成。中世ドイツ風の質素な外観だが、内部は豪華なシャンデリア、カーペット敷きで、来客用の寝室まである。城から茂みの中の小道をさらに100mほど歩いていくと、木々の合間からフォイショール城の屋根が見えてくる。これは、チャウシェスク大統領が使っていた豪華な別荘レストラン『Bar Regal』&『La Tunuri』を望むペレシュ城の庭先に進む噴水が設置された城の前の庭園、そこには数々の彫刻が見事な姿で並んでいたペレシュ城前からシナイアの渓谷が一望できるこの城を建設したカロル1世の像。1839.4.20. ジークマリンゲンに生まれ、1914.10.10. シナイヤにて没す。ルーマニア王国初代の王 (在位1881~1914) カロル1世は、ドイツのホーエンツォレルン=ジークマリンゲン家の出身。プロシア軍に任官。従兄のナポレオン3世の仲介で、1866年ルーマニア公となり、1881年ルーマニア王国の成立に伴い初代国王に即位、内政改革、軍備拡張、産業振興に努力。しかし農民問題の解決を怠り、1907年の大反乱を招いた。初め親ドイツ的傾向のため不人気であったが、ルーマニアの国際的地位の向上、特にオスマン帝国からの独立に外交的手腕を発揮して支持を集めた。自由党と保守党に交互に政権を担当させ、巧みに内政を操縦したが、結果として責任内閣制の成立を遅らせることになった裸婦像、いや女神の姿であろうか?先ほど来た土産物店方向城内は現在は博物館として公開され、各部屋に、カロル1世が集めた美術品や金銀、 中世の武器などを展示している。 クルミの木に彫刻を施したらせん階段や、黄金の漆喰装飾が美しい壁など、精巧な装飾はため息がでるほどの美しさであるとガイドブックにあったが、我々のツアーに城内の観光は含まれていなかったのであった城の前庭には多くの彫刻があったが、自由時間が短くゆっくり見れず急いで散策ペレシュ城右奥の擁壁ここにも多くの彫刻ペレシュ城前には城内見学者が多く待機ペレシュ城前にも大砲とその下にライオン像が13:30集合時間になり急いで集合。右は『ペリショール城』方向ペレシュ城手前にあったレストラン『Bar Regal』&『La Tunuri』。店の前には大砲が飾られていたレストラン前の菊も咲き宿泊施設『Vila Economat』レストラン『Bar Regal』の建物を振り返る。レストランの下の通路を潜り、急いで昼食レストラン会場への坂道を上る13:36地元の小学生も遠足? ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2020.01.02
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七日目:10/30(水)約一時間半のブラン城の散策後、11時前に駐車場を出発してブラン城の南東約45kmにあるシナイア観光へ。11:14ブラン城から、DN73号線(E574)を北上。畑には牛と羊の群れバスの左側に小飛行場『Aerodromul Piatra Craiului』小型機の飛行場か、数機のセスナ機が駐機11:26ルシュノヴ・ロマクリル辺りで、DN73号線を右折して、DN73A号線に入いる。羊の放牧も多くなるDN73A号線の山道を進むD73A号線の山道沿いにガスパイプ?11:47プルウル・レチェの手前にある九十九折の山道を上り、南下して1号線へ1号線手前の民家11:52ブカレストへの幹線道路の1号線(E60)と合流正面の標識は、1号線(E60) 左折:ブラショフ (Brasov) 27km 右折:シナイア (Sinaia) 20km ブカレスト (Bucuresti) 141km。道路の向こうを鉄道が走る右折して1号線(E60)を南下し、鉄道の跨線橋を渡る車窓の左側の民家を追う11:56ブカレスト(Bucuresti)まで、137km Azuga まで、2kmバスの右側は、ブラショフからプロイエシュチを経由して、ルーマニアの首都ブカレストに向かう、電化された複線の鉄道が走っているが列車とは合わず鉄道は道路の左側を走る、キロポストは133kmHoly Trinity Monastery 修道院12:04バス停 BUSTENI (ブシュテニ)1号線(E60)を南下12:04Busteni 地点 132137km地点(11:56)から132km地点(12:04)までの5kmを8分を要し、この間の時速は約40kmと遅い12:05道路左側前方に、BUSTENI 駅が現われる駅をズームアップ道路沿いの、レストランのピザ店「PIZZERIE」左は、BUSTENI 駅舎と??像外は寒いのか市民は完全防寒着姿12:08衣服の販売の「PAGURO」12:12Poiana Tapului 駅を過ぎ、1号線を右上の道路に外れ、Sinaia駅手前のフェルディナンド通りを進む。この教会は ?12:15ルーマニアの中央を ”つ" の字型に走るカルパチア山脈は、標高2000m級の山々が緩やかに連なり、その麓から山肌を覆う樹海は四季折々の自然美を見せてくれる。シナイアはこの山脈の中でも奇岩怪石で知られるブチェジ山の中腹に位置し、トレッキングルートの出発点でもあり標高800mの景勝地である。「カルパチアの真珠」の愛称で知られ、ブカレストからも近いので夏は避暑地、冬はスキーリゾートとしてたくさんの観光客を引き付ける町の歴史は、17世紀にシナイア僧院が建立されたときに始まり、18世紀にはブカレストの王侯貴族たちの別荘地として繁栄した。そのため、宮殿風の小さな館がところどころに建ち並び、ルーマニアのほかの都市にはない町並みが見られる。貴族が建てた館は現在、宿泊客用のヴィラとして使われているフェルディナンド通りを進む12:19フェルディナンド通りを進み、カロル1世大通りのロータリーをUターンしてエロイロル通りの坂道を登るシナイアはブラショフから南に約40km、バスで1時間ほどのところにある小さな村。ブカレストからだと北に約130キロ、バスで2時間半ほどのところにある。道路脇には落ち葉カジノ『Sinaia Casino』は大きな広い建物12:20くねくねと坂道を登るマナスティリィ通りから四ッ星ホテル『Hotel Palace』を左手に見る道路標識で建物を案内更に坂道を登るとバス左側に、ヴィラ『Vila Liliana』道路標識があるがさらに緩くまがってのぼる、シナイア僧院の真向かいにあった、レストラン『Cazare Casa cu Farfurii Sinaia』12:23アレエア・ニフォン通りでバスを降り、『シナイア僧院』の 観光をスタート。シナイア僧院の『シナイア』がそのまま地名となったと伝わる程、長い歴史を持っているマンホールシナイア僧院の案内板17世紀にワラキア公カンタクジノがこの地を訪れたのを記念して建立された僧院で、この町の名前の由来にもなっている。左側の門をくぐった所にある古い教会は、17世紀末にカンタクジノの跡を継いだブルンコヴァヌス公がポーチを増築した以外当時のまま保存されている正面に赤と白の縞模様の鐘楼をもつ建物、『大教会』門を入って正面に見える大教会は、19世紀にドイツから招かれてルーマニア王国の国王になったカロル1世が建立したもの入り口の鐘楼内部では「写真撮影禁止」の札が掲げられていたが・・・?? 添乗員も何故か止めることもなく・・・・、皆さん撮影。中央祭壇。 黄金に輝くイコンで覆われた内部には、厳かな空気が流れていたのであった更に近ずいて撮影。大教会内のイコノスタス大教会を出て広場から入口門、鐘楼を望む、大教会の西側にある「古い教会」へ進む入口門の左側の門をくぐった所にある古い教会は、17世紀末にカンタクジノの跡を継いだブルンコヴァヌス公がポーチを増築した以外当時のまま保存されている。中庭には花壇のバラがきれいに咲いていた細かな木彫り彫刻のある独特の十字架が建つ中庭は、白壁の建物に取り囲まれていた。白い出窓が並ぶ建物や緑の屋根に白壁が美しい建物など、美しい僧房なのであった中庭の真ん中にあったのが、小さな『古い教会・聖母被昇天教会 Biserica Adormirea Maicii Domnului』教会の入口のポーチに描かれたフレスコ画は必見と、ガイドブックに教会内は撮影禁止だが暗黙の了解?皆さんカメラを持ち、見上げて上部ドームを撮影ズームアップ壁面のフレスコ画ステンドグラス教会内のフレスコ画を堪能した今日で令和元年も終わりますが、この一年間拙い我がブログヘのアクセスありがとうございました。今年は台風15、19号で関東地方にも甚大な被害があり、今でも不自由な生活を強いられている方々がおられますので、早期に復興されることを祈るばかりです。来たる新年が平穏であることを祈ります。明日は湘南海岸へ初日の出に行く予定です。 ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.31
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七日目:10/30(水)吸血鬼ドラキュラのブラン城内、城周辺を続けて散策する。10:08城内からのブラン村一番有名な『ヴラド三世』の肖像画。くるくるロングの髪と髭。目は二重でぱっちり、鼻は鷲鼻、被っている帽子の宝石や胸のボタンが煌びやか『ヴラド3世』の説明板。 ヴラド3世が行った処刑の様子を描いた展示。なぜ『ヴラド3世』が「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなったのか、彼が実際に行った「串刺し刑」などの処刑の様子が描かれていた窓やシャンデリアの装飾も美しかったフェルディナンド1世の赤いBED王冠は戦で没収した金属を溶かして作ったものだとダイニングルームには19世紀の装飾品と塗りタイルの暖炉が続いて訪ねたのが『武器の部屋(sala armelor)』各種「プレートアーマー」人体の胸部、あるいは全身を覆う金属板で構成された鎧。金属板で構成されるため、板金鎧(ばんきんよろい)とも呼ばれる壁面に紋章付き外衣の盾ルーマニアの国章。 鷲が抱えている盾は赤と青の五分割のものである。上部に2つ、下部に3つの枠がある。上部左には、青地に頭上に日月を戴いて十字架を咥え、赤い嘴と脚を持つ翼を広げた金の鷲が描かれている。これはワラキアの紋章である・・・・・・・中 庭中庭の井戸。ブラン城には秘密の通路がいくつもあり、その出口がこの井戸であるとのこと城の廻り廊下にはいろんな部屋が木製の「拷問椅子」椅子の内部は木製であったが棘棘だらけ。壁には拷問中の写真?回廊には大砲?が何門か備えてあったタイムトンネル (TUNELUL TiIMPULUI)。ブラン城へのアクセスを容易にするために、メアリー女王の命令で1930年に建てた。 トンネルには、城と公園を約40メートルの距離で接続するエレベーターがあったと。 このように、訪問者は、ショートカットで城に到達したい場合にこのルートを利用したのではと。エレベータキャビンの再構築、井戸およびトンネルの修復には、ほぼ100万ユーロがかかったと回廊は直線的でなく、くねくねと複雑に中庭の壁面にはブドウの蔓。城内のガイドも終わり10:50まで自由時間となり、集合場所は指定されて解散多くの観光客が回廊に二人の美女が突然現れてお互いに撮影別の美女も10:26ブラン城の中庭を後にし、城を下るこの頃には雨も上がっていたが『PARCUL CU LACURI』公園の人の数は少なく坂道から、そしてブラン城を振り返る。晴天の日は最高であろう木々の落葉は進み、池の水面には黄葉した木々が映り込み池の横に土産物店が並ぶ池へのお城の映り込みを期待して場所を探す公園の中を集合時間までしばしの散策公園の遊歩道からブラン城を見上げるが矢張青空が欲しい。照明用のケーブル等を見かけなかったが、夜にはライトアップしているのか?絵になるビューポイントだが湖面へのブラン城の映り込み。この絶景にスマホも出して撮影、旅友はラインで送信10:45池の後方に、ブラン城の『タイムトンネル』の入口の一つがあったようだが。そのトンネルを入っていくと、城の上部に登る『リフト』が隠れていたようだ。集合時間まで後5分となり出入り口へ向かうブラン城への坂道ブラン城下の緑の多い公園(PARCUL CU LACURI)。公園には巨大な壺が置かれていたが10:47ブラン城入り口には多くの小学生が入城を待っていた私のカメラに向かって「おじいちゃん?」と集合場所方向ブラン城を振り替える集合時間まで後数分で、土産物店を散策店先では「お土産に買ってよ」と、ドラキュラの仮面が叫んでいた。いやムンクの叫びにも似ている仮面も絨毯も飾られ、店先には大きなかぼちゃも。翌日(10/31)はハロウィン10:50集合場所から土産物店越しにブラン城を見る。最後の見納めだ!予定の時間には全員集合したが、ツアー仲間はランダムに立っているため添乗員のMiss.Oさんは何度も人数を確認して出発この頃には雨も上がっていたがいろんな土産物店があったが駐車場へ店先にはいろんな骨董品も並べられていたが10:56ブラン城近くの、3つ星ホテルの「Hanul Bran」の前を歩き駐車場へブラン城案内は、レシーバーで案内してもらったがツアー人数が多く通路が狭いため現物を見ながらの十分なる説明を聴けず残念であった。 ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.30
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七日目:10/30(水)今回の旅の最後の朝食を取りバス移動でブカレスト空港へ。6:26最後の宿泊ホテル内。トランクをこのまま空港で預けるので荷物を整理してパッケージ7:27ホテルでの最後の朝食。小さめのクロワッサンが美味しかった。ハム・チーズをたっぷりと頂く8:26ホテル出発時間も近くなりホテルの窓から昨日の朝散歩した、木造の『修道院「洗礼者聖ヨハネ」』。冬場は雪が積もりゲレンデに立つ修道院でまた違う光景が連泊した、ポヤナ・ブラショフはブラショフから南西約13kmに位置し標高約1,000mの高原にある国内有数のリゾート地。ポスタヴァルル(標高約1,799m)の麓に位置しており、夏は避暑地として、冬はスキー場としてにぎわう。周辺には高級ホテルや郷土料理レストランも何軒かある。ポスタヴァルル山頂へはロープウェイで行ける8:49予定の8:45にホテルを出発するが、今日も天気は曇り小雨。今日は一路ブカレスト空港へ向けて走るが、最初にブラショフの南西約30kmにある『ブラン城』観光にバスで出発し、1E号線の山道を進む。今日は後部座席を確保9:20ポヤナ・ブラショフから山道を下りE574を進むと、多くの羊が放牧されていた9:30ブラン城近くになるが外は小雨ブラン城近くの、3つ星ホテルの「Hanul Bran」。宿泊料金は朝食付きで、6,500円程度で日本並みと意外と安いブラン城の駐車場へ入るバスを降り小雨の中、ブラン城に向かって歩く。土産物屋の軒先には、ドラキュラの面とドラキュラが苦手なニンニクが左手にあったのがお化け屋敷(The Castle Of Horror)の建物9:40小雨の中、ブラン城入口で現地ガイドのアレキサンダーが入場チケットを購入するのを待つ。ハイシーズンには2時間近く待つこともあるとチケット売り場の上の料金等の標示ルーマニアのほとんどのアトラクションと同様に、観光名所にはローシーズンとハイシーズンがある。それに基づいて入場時間のスケジュールは異なると。ローシーズンは、10月1日から3月31日までのスケジュールは次のとおりです。月曜日: 12 PM – 4 PM火曜日から日曜日:午前9時から午後4時最終入場:午後4時ハイシーズンは、4月1日から9月30日までの間。月曜日: 12 PM – 6 PM火曜日から日曜日:午前9時から午後6時最終入場:午後6時この時期の、ブラン城入場料金は、40 Lei (1,200円)ルーマニアと聞いて、多くの人がイメージするのが吸血鬼ドラキュラ。 15世紀に、ルーマニアの一地方であるワラキア公国を治めていた、ヴラド三世(ヴラド・ツェペシュ)をモデルにして書かれた小説が世界的に広まり、日本でも「ルーマニア=ドラキュラ」のイメージが定着したと。そんな吸血鬼ドラキュラのモデルとなった城が、ルーマニアに残っているこの城であるブラン城ブラン村の丘の上60mのところに建っている中世の砦である。14世紀末にはヴラド・ツェペシュの祖父ワラキア公ヴラド1世が居城としていた。15世紀に実在したワラキア公ヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ)、別名ヴラド串刺し公。ドラキュラと言われた由縁は、裏切り者や当時敵対していたトルコ兵を見せしめのために串刺しにして処刑するなど、あらゆる残酷な方法で処刑したゆえからだと言う。ドラキュラとはルーマニア語で「悪魔」も意味している地元の子どもたちも雨の中、校外教育?緩い坂道を登る。ハイシーズンには、チケット売り場もこの坂も人で埋まっていると坂道から下の池ブラン城を見上げるが、青空だと最高であったろう9:49プラン城入口への石段を登るチケット売り場の反対側。木々は落葉ブラン城へは多くの観光客が入っていたが、我々のツアーだけでも26名いるので後ろにいると説明が聞こえず。オスマン帝国に対する国境を守ることの重要性に加えて、ここは税関の役割も。 トランシルバニアに出入りする商品のほとんどは、この地域を通過したと城内に入って最初の部屋にはブラン城の年代ごとの歴史が絵画や写真入りで。 ブラン城の歴史の始まりは、1377年11月19日付のハンガリー王ルイス1世の「ブランの山上に要塞を築く特権をブラショフのザクセン人(ドイツ商人)に与える」という 通達書。要塞は1438-1442年、オスマン朝軍との攻防戦に使われた後、ワラキアと トランシルヴァニアを結ぶ街道の税関として使われたが、ドラキュラ伯爵のモデル、ワラキア領主の串刺し公ヴラド3世(1448-1476)との直截的関係を示す事実はないとの由。 1533年にマジャール王からブラショフ市に所有権が移り、18世紀中頃まで軍事戦略拠点として機能した。1919年にトランシルヴァニアが、ルーマニア領に組み込まれると、翌1920年ルーマニア王国の所有となり、夏の離宮として使用された。1948年共産党独裁政権が誕生し、王族は国外に追放され、ブラン城は没収される。 民主政権確立後の2005年、政府から財産継承者であるルーマニア国王の子孫に返還され、2009年6月から私設博物館として一般に公開されているとのこと。 城に入り最初の部屋は元警備員の部屋で、下の写真は歴代の城主下の写真は歴代の城主で、左から3番目がワラキア公国のミルチャ公。ドラキュラのモデルであるヴラド・ツェペシュ公の祖父にあたります。写真の左から4番目の面白い帽子を被っているのが、ハンガリーの王ジギスムント。一番右がドラキュラのモデルとなった、ヴラド・ツェペシュ公(ヴラド3世 1431-1476)ブラン城は創建は14世紀だが、1920年から1947年までは、17世紀後半からルーマニアを統治していたハプスブルグ家の夏の離宮として使われていた。マリー王妃(1875-1938)のお気に入りの城であったと。 1938年に末の王女イレアナ(1909-1991)が相続したが、1948年に当時の共産党政権が没収。以降、荒廃してしまったたが、80代後半に入って修復工事が始まり、1993年にやっと部分的に修復が完了。現在はもちろん、ルーマニアの人気の観光地の1つ。それが、2006年5月26日、17世紀後半からルーマニアを統治していたハプスブルグ家の末裔で、ニューヨーク在住の建築家ドミニク・フォン・ハプスブルグ氏に返還されたのだと。 右から2番目の写真が王女イレアナ。そして右端の写真は現在の所有者3名(ルーマニア国王フェルディナンド1世の孫であり、イレアナ王女の長男であるニューヨーク州の建築家ドミニク・フォン・ハプスブルクと彼の二人の姉妹の写真であると。持ち主3人とも現在米国在住とのこと小さな中庭にも多くの観光客が中庭の上は回廊になっているコウモリの如き形のシャンデリアこの写真は?『マリア女王の寝室』の案内板女性らしい寝室の家具類王妃も王女も美女ですから、写真の日付けが無いと、どちらかを判別するのは大変。この写真はイレアナ王女(1909〜1991年)の方でしょうか。第2次大戦中の1944年、アントン公と結婚していたイレアナ王女は、子供達とルーマニアのブラン城へ移り住み、城外のブラン村で病院を建設し働いたのだと当時の衣装を展示窓から中庭を右手には大きな暖炉があったブラン村を望むダイニングルーム、天井のアーチ状の曲線が美しい天井のアーケードに因んで名付けられたゴシックルームは、かって要塞の礼拝堂であり、前庭に続く聖なる場所であった。部屋の配置は台形。 ここには暖炉が設置されていた。正面のドアからは3階への石の階段が始まるが、昔はドアの前に家具が置かれ、秘密の階段になっていたのだと暖炉の右側の四角い部分は、城の塗装を剥がした14世紀のオリジナルの壁の様子であると王妃のガウンであろうか?小雨の降る町並みを別の窓から、小雨に煙るブラン村を望む紅葉のブラン村をズームアップするが絵になる3階に上る石のトンネルの如き狭くて長く暗い階段を上る。1階と3階をつなぐ秘密の階段は、1930年代になるまで発見されなかったと。城を修復している時に見つかったもので、『秘密の階段』と呼ばれている。おそらく公開されている中で一番大きな、そして白い壁に囲まれた部屋。 天井はあまり高くないものの、天井も床も家具もすべて木製で、落ち着いた雰囲気。 部屋の中央には、白い壁に囲まれた東屋のような場所も。ここにも暖炉があり、この一角はかなり暖かかったものと思われた10:00部屋は白い漆喰壁に重厚な木彫り装飾が施された家具、美しい装飾の陶器製の暖炉温かみのあるシャンデリアなど、どの部屋に入っても中世にタイムスリップしたような気持ちに。絨毯の先にはピアノがあった。家具はレプリカだが、雰囲気は抜群窓から廻りの山を望む視線を下げると中庭も階段を上り屋上兼テラスに出ると廻りの景色が目に入ってきた。この景色は中世から変わっていないのだろうか。この絵は当時の景色か?屋根の上の煙突か。その屋根には風見鶏がテラスからDN73号線を望み、そしてそれに沿ってTurcul川、その先に赤い屋根の高等学校の校舎が見えたブラン城の周囲には歴史を感じる古い教会なども建てられていた。 チャペル『Capela "Inima Reginei Maria"』、そしてその前方には今も残っている石垣の姿が。眼下に見えた石垣の連なる場所は、トランシルバニアとワラキアの国境で関税を徴収していた場所でもあると ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.29
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六日目:10/29(火)世界遺産のシギショアラ歴史地区からブラショフへ戻る。13:50 に駐車場を出発14:20E60 を走りブラショフへ向かう14:29あまり見かけない自転車が走る。このあとツアー仲間が体調の異常を訴え緊急停車14:39朝来た道をブラショフへ向けて引き返す14:52朝見た『ルペア城塞 Rupea Citadel』がバス左側の丘に見えて来た14:55トイレ休憩でガソリンスタンドへ立ち寄るが往路とは違うスタンドガソリンスタンドは『MOL』Ⅾ(軽油) 5.79 Lei/ℓ(174円/ℓ)95(ガソリン) 5.58 Lei/ℓ(167円/ℓ)LPG(ガス) 2.64 Lei/ℓ(79円/ℓ) 営業は0-24 LPGを入れる乗用車15:15車のナンバーを見たら、長距離走って来たのか汚れていた。ユーロ圏のナンバープレートは『PL=ポーランド』。OPELはドイツの自動車メーカーである15:45道路の左側に教会があったが15:49道路脇のキロポストは、Brasov(ブラショフ)まで、17kmポスト上に「23」とあるがバスの前面窓に貼られている「㈱***」の「安全運転宣言」。英文と和文で書かれていたがー. 制限速度を守りますー. 無理な追い越しはしませんー. 安全整備を心掛け、出発前の再点検を励行しますー. ルールに則り体調管理に努めますー. 常に工程に注意を払い、状況把握に努め、最新の道路情報に基づいて安全運転を 心掛けますー. 荷物の積み下ろしは周囲の安全に気を配り、荷物扉のロックを確実に行います15:58よく見かける羊の放牧16:122時間以上走りブラショフに近づく。正面の道路標識は、ホテルのあるPoiana Brasovの名がルンガ通りを進む16:25ブラショフに到着、バスを下車して『スファトゥルイ広場』に向かって歩く。雨が降りそうであったので傘を持って下車。16:27ムレシェニロル通りを進むと前方にこの後訪ねた『黒の教会』の姿が現れたブラショフは中世の町並みを残す美しい古都。トゥンパ山とポスタヴァルル山の麓に位置し、澄んだ空気が印象的だ。町は12世紀にドイツ商人が建設し、ルーマニア人、ハンガリー人の3民族によって発展してきた町を歩いてみると、ドイツの香りが強く感じられ、ルーマニアのほかの都市とは異なった独特の雰囲気がある。ブラショフは、小説「吸血鬼ドラキュラ」ゆかりのプラン城への起点でもあるついに雨が降り出す16:30このあと自由時間になり各自ディナーをとる必要があるため、添乗員から推奨レストランを紹介されながら進むスファトゥルイ広場でくつろぐ現地の人スファトゥルイ広場、左側の山頂に文字がスファトゥルイ広場からの、トゥンパ山(Tampa)にある「BRASOV」の文字。トゥンパ山頂には展望台があり、広場からロープウェイで昇れるスファトゥルイ広場の先にある『黒の教会』16:35黒の教会の手前にスターバックスがある歩行者天国のレプブリチ通り方面トゥンパ山頂へのロープウェイ乗り場へ行く通りスファトゥルイ広場にある『歴史博物館(旧市庁舎)』。町の中心、スファトゥルイ広場にある1420年建立の旧市庁舎がある。ひときわ目立つ高さ約60mの見張り塔には、何か特別のことがあった場合に住民へ知らせるための鐘がついている広場の噴水前からの『歴史博物館(旧市庁舎)』。時計塔の内部に博物館があり、旧石器時代からローマ時代、中世の発掘品をはじめとして、工芸品、歴史資料などを展示している。トランシルヴァニアの歴史がわかる貴重なコレクションだスファトゥルイ広場の先にある『黒の教会』。黒の教会はブラショフの町の中心にそびえ建つ、高さ65mのトランシルヴァニア地方で最大の後期ゴシック教会。14世紀後半から15世紀初頭に、約80年をかけて建立された。1689年にハプスブルク軍の攻撃に遭い、外壁が黒こげになったことから、この名がある黒の教会の内部には、1839年に造られた、4000本のパイプと4つの鍵盤を備えたルーマニア最大級のパイプオルガンがある。また、16~18世紀のトルコ、アナトリア産の絨毯が飾られている時計塔『黒の教会』では、一番高い尖塔時計をズームアップ黒の教会の前に建てられたブロンズ像。ヨハネス・ホンテルス(1498〜1549年)の像ブラショフ地区で初めてドイツ語による説教をした人と黒の教会の催し物の案内黒の教会の裏ピアツァ・スファトゥルイ通りを歩く。正面に『歴史博物館』振り返り、黒の教会を見上げるスーパーマーケット『Magazin Alimentar Alideea Com SRL』を紹介される美味しそうなウィスキーのポスターが貼られていた16:45ピアツァ・スファトゥルイ通りを進む16:48スファトゥルイ広場に戻るスファトゥルイ広場にある公衆トイレの紹介(有料)スターバックス前からの歴史博物館16:54皆さんクリームを購入したいとのことで添乗員に連れられて専門店へ専門店の内部には日本人観光客が多く。他の阪急トラピックスのツアーも入ってきた私もこれを3個購入 76.1 Lei(約2,300円) 17:12自由時間になり、19時にスターバックスの前に集合と。皆さん各自ディナーで解散。小雨が降るスファトゥルイ広場にも灯がともる17:58我々4人は、スファトゥルイ広場から延びるレプブリチ通りを散策。レプブリチ通りは、両側にカフェやレストランの並ぶにぎやかな歩行者天国である。夕食は日本から持参したソーメンを消費する必要があるので、散策途中ピザ店でピザを購入、ホテルへ持ち帰ることに。他にコンビニでつまみを購入18:27集合時間まで30分あるので、スターバックスに入り珈琲&トイレ店内のトイレ使用にはレシートのピンNOが必要。このNOを打ち込んで利用、日本ではこのシステムはなく自由に利用できるが。中から出るときもドワー以外のところに「PUSH」のスイッチがあった18:57集合時間の19時前になり、スターバックス前に皆さん遅れることもなく集合。我々もスターバックスから出る19:30 に雨の降る中、ホテルへ帰る。20:40持参の鍋でソーメンをゆがき、めんつゆを薄め、乾燥ねぎも入れ食する旅友四人で、先程購入したピザも食べるが、やはりソーメンはおいしい。カレーの具も温め、ウイスキーのつまみにしてすべて飲み干すピザ、ソーメン、カレーを食べお腹がいっぱいになる。これで日本から持参の食べ物も減り荷物が軽くなる今日は昨日までと違って曇り空で青空が出なかった。やはり旅は晴天が最高だが明日も天気は悪そう。今日一日の歩行数は、約10,000歩でした。 ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.28
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六日目:10/29(火)曇り空の中、世界遺産の『シギショアラ歴史地区』を散策。11:35シギショアラの街並み。左に『至聖三者大聖堂 Biserica Sfânta Treime』タルナヴァ・マレ川手前の建築群至聖三者大聖堂をズームアップ『シギショアラの市役所・区役所 Sighisoara City Hall』 時計塔の近くにある、ゴシック様式の教会『福音教会』11:42そして昼食時間(12:20)まで自由時間になり、山上教会に続く坂道を上って行く旧市街の南には、学生階段と呼ばれる木造の屋根付き階段(Schülertreppe / Scară Acoperită)で、丘の上にある学校へ通う学生が、冬場雪の積もる時期などに困らないように作られたものだと1642年に出来た当初は300段あったが、1849年に現在の175段に。半分近くになったとはいっても、この階段を上っていくのは大変であった。6段ごとにステップがあり上りやすかったが階段を上り終えて、シギショアラの市街地を望む11:48階段を上り切って左手にあるのがドイツ語学校。正面に山上教会(聖ニコラウス教会 Biserica din Deal (Sf. Nicolae))山上教会は14世紀の教会で城壁の南側、「学校の山(Schulberg / Deal al Școlii)」 に位置している。教会内には、壁画が残っているほか、ザクセン人が住んでいた周辺の村々から集められたルーテン派の壁画などが飾られており、博物館としてザクセンの人々の文化をいまに伝えている右側に黒い学生階段の上側入口要塞の塔『Turnul Frânghierilor (The Ropemakers' Tower)』。 要塞の最初の壁ですぐに建てられたが、1241年にタタール人によって破壊され、1350年に再建。16世紀に修復されたと。1676年の火災の影響を受けていない、数少ない塔の1つ。再び19世紀に修復された。現在は塔の左側にある墓地の教会の守護者が住居としていると綺麗に紅葉11:51右側のシギショアラ駅から出る列車山上教会の西側の木々は落葉さらに西側の城壁11:52先ほどの列車を追う、西方面タルナヴァ・マレ川に架かる鉄橋を渡る列車は、ディーゼルが引く三両編成11:57墓地隅に咲いていたキク12:07学生階段を下り広場へ新郎新婦が学生階段へ、この姿で上るのか12:11シギショアラ広場から高さ60mの時計塔を見上げる。時計塔は14世紀に、シギショアラが商工ギルドによる自治都市となったのを記念して建てられた町のシンボル。ドイツ語ではシュトゥントゥルム Stundturm。その後1670年に大火で焼失したものの再建され、現在も機械仕掛けで時を刻んでいるからくり時計になっており、毎正時に人形が動くとガイドブックに書いてあるが、少し前の12時にこの下へ集合とならなかったので現在は動いていないのか?他の書類では深夜0時になると動き出すと広場では、ルーマニアの学生たちが記念撮影中、中学生か?時計塔の下、石畳も擦り減り時計塔の裏へと進む12:14屋根の葺き替え工事を行っていたしばし作業を見学ズームアップすると急勾配であるにもかかわらず、命綱がない。作業員の年齢も若くなく日本ではありえない作業光景である旅友が現地の家族と記念写真広場の売店集合時間前になり広場では旅友が記念写真添乗員のMiss.Oさんも数人のツアー仲間が上に登り手を振っていた(有料)先ほどの新郎新婦がシギショアラ広場に、猫が戯れカメラマンがいなかったので前撮りではないのか12:26昼食はドラキュラレストランへ吸血鬼ドラキュラの血を連想させる赤い料理マッシュポテトと鳥肉?の煮込み旅友のKさん用のベジタリアン料理アイスクリームも赤い血のごとくに飾り13:01グラスで戯れる旅友13:21レストラン内ではいろんなお土産物を売っていた店内の鉄の鎧レストラントイレからの私のカメラにツアー仲間とジプシーが飛び入り13:32食事を終え広場へ下りる色とりどりの壁の色と石畳山上教会と学生階段を望む最後に時計塔を望む。塔の上にも上れたのだが・・・・・集合して駐車場へ傘を持参したがどうにか天気も持つ13:48約2時間半の世界遺産『シギショアラ歴史地区』の散策を楽しんだ ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.27
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六日目:10/29(火)ブラショフから北西へ約120kmのシギショアラへ。9:45ブラショフを出発してから1時間半を経たので、トイレ休憩でガソリンスタンドへ。DN13 E60号線沿いにある『PETROM』ガソリンスタンドのそばに『革命派教会?』スタンド燃料の種類が4種類5.55 ~ 6.03Lei/ℓ(約166~180円/ℓ)DN13 E60号線道路標識の、DN13はルーマニア国内の名称、E60はユーロ圏内での共通名称ここにも慰霊碑が石碑には女性の写真があり(1985-2009)と若い女性近くに名所地があるのか『Fortificata』の標識10:05ガソリンスタンドの裏には鉄道駅、トイレ休憩を終え出発。ヨーロッパの各地ではトイレは有料が多いが今回の旅では無料箇所が多かった10:13E60号線を西に走り、右前方の丘に『ルペア城塞 Rupea Citadel』が見えて来た農場には大きなロールが積み上げられていたルペア城塞は、ルーマニアで最も古い考古学遺跡の1つであり、旧石器時代及び新石器時代初期の人間居住の最初の遺跡。二重?の城壁紀元前4世紀頃のダキア人の遺跡を元に、14世紀にザクセン人が造った要塞。最初にこの記載があるのは、サクソン人がハンガリー国王チャールズ1世に反乱を起こし、城塞内に避難した1324年であったと10:15見学したいがツアーの悲しさ10:21サスキズ(Saschiz)の街中を進む道路工事中10:31ブナトリ(Vanatori)の街を進む現地ガイドから、ルーマニアは貧富の差が大きく田舎の子は学校へも行けないなど大きな社会問題になっていると正面に教会が見えるが10:39E60号線の道路標識は、Tg.Mures 80km Sighisoara(シギショアラ) 26km10:44アルベシュティ(Albești)の街正面に工事中の教会道路脇に立つ老婦人10:45E60号線を進む10:50電化された鉄道ブラショフから1日14便の列車が、所要時間2.5hr ~ 3hr20minでシギショアラまで運行しているさらにE60号線を進む田園地帯トウモロコシのロールか11:02シギショアラの市街地へ入り、パイプを運ぶ工事車両11:07タルナヴァ・マレ川(Târnava Mare River)に沿って進むバスの車窓前方には、世界遺産・シギショアラ歴史地区の建築群が見えて来た。シギショアラの歴史は、12世紀にハンガリー王ゲーザ2世がザクセン人をこの地に入植させたことに始まる。ドイツ名をシェースブルクといい、15~16世紀の繁栄の絶頂期には15のギルド(職人組合)をもつ城塞都市であったシギショアラ歴史地区をズームアップ。町のシンボルでもある時計台は14世紀のものだ。町の創成期における多数のドイツ系移民の影響が、山上教会や隣接するドイツ語学校、そして町中の建築物に残るルーマニア、ドイツ語のふたつの名前がうかがえる11:15シギショアラ歴史地区下の駐車場に到着。まだ雨は降っておらず傘を持参してバスを下車駐車場のトイレを利用し歴史地区へ上る緩い坂を上っていくと右手に『鍛冶屋の塔 Turnul Fierarilor (The Ironsmiths' Tower)』が姿を表す。小高い丘の上に築かれたシギショアラの城塞には、かつて14もの見張り塔があったが、現在でも9基の塔が残っていると。これらの塔の建設にはギルドが資金を負担したため、塔ごとにそれぞれのギルドの名前が付けられているのだと。こちらの『鍛冶屋の塔』は、1631年に古い理髪師の塔の基礎の上に建てられたのだと主な役割は、もちろん敵に包囲された場合に教会を保護することであったとシギショアラ歴史地区は、その頃の小さな中世の城塞都市としての姿を残しているのであった。1999年、『シギショアラ歴史地区』として世界遺産に登録された門を潜りながら、落書きを撮影する旅友鍛冶屋の門を潜り、緩やかな石畳の坂を登って行く正面に仕立屋の塔 ?鍛冶屋の塔を振り返る仕立屋の塔を潜るファミリーバス仕立屋の塔を潜ると正面奥に時計塔右手には山上教会に続く坂道そして街並みが見えた山上教会をズームアップ。自由時間に上ることに撮影に夢中のツアー仲間高さ60mの『時計塔 』はシギショアラ歴史地区のシンボル14世紀に自治都市となったことを記念して建造され、この時計塔は中世には市役所として使用されていたそうだが、それだけではなく拷問部屋としても使われていたと。 現在は歴史博物館として公開中時計塔の先端をズームアップ右側のレストランで昼食をとるとレストランの壁面には『VLAD-DRACUL(ヴラド・ドラクル)』が「1431年〜1435年」に生まれ育った邸宅と 現在、生家はレストラン『Casa Vlad-Dracul』になっていた。 『Vlad-Dracul(ヴラド・ドラクル)』の文字がワラキアの串刺し公ヴラド・ツェペシュ像11:32ヴラド3世(Vlad III ・1431年11月10日- 1476年12月19日) ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.26
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六日目:10/29(火)ルーマニアに入り今回の旅で初めて曇り空の朝を迎える。天気予報は小雨とのことで雨具を用意する。7:00朝食前に朝散歩をすることに、天気予報では雨であったがまだ曇り空。ホテル前からリゾート地ポヤナ・ブラショフ Poiana Brasovホテル前にはユーロ圏のナンバープレート『MD=モルドヴァ』モルドヴァはルーマニアの北東に隣接する国であるポヤナ・ブラショフは、夏は落ち着いた雰囲気の避暑地として、冬はスキ―リゾートとして、国内はもとより近隣諸国からの観光客で1年中にぎわっているホテル横にあったケーブルカー駅『TELECABINA CAPRA NEAGRA』。 ケーブルカーは1982年に操業を開始、長さ:2,809m、レベル差:737mホテル後方に、Postavarul山塊。ホテル前には広い広場が広がるホテルから緩い坂を下るボイアナ・ソアレルイ通り(Strada Poiana Soarelui)ポスタヴァルル山塊スキー場 案内図木造の『修道院「洗礼者聖ヨハネ」 Biserica Sfântul Ioan Botezătorul』。1997年から1999年の間にマラムレシュ様式で建てられ、ベランダの上の鐘楼と地下に独房があると。ここはリゾート地ポヤナ・ブラショフの唯一の教会ズームアップボイアナ・ソアレルイ通りの北側にあったのが『ホテル ゴールデン ハウス (Aurelius Imparatul Romanilor)』橋を渡っていくと、池の水面に見事な水鏡西方向に振るホテルの東側、ドームはスケート場かレストラン『Restaurant Veranda』の、ドラキュラの如きウェーターの人形がこの野鳥は『カケス』であろうか、我々の廻りを飛び回っていた7:30 にホテルへ帰り、急いで朝食をとる。8:13ホテル出発前になりバスへ今日の午前中の観光は、約129km先のシギショアラにある世界遺産『シギショアラ歴史地区』観光へ8:21予定どうり出発して、ボイアナ・ソアレルイ通りを走る今日も運転願うMr.クラシミールDN1E線の山道を進んで行く山道を下りブラショフへ8:34途中、ブラショフの街並みが見える場所で暫しの撮影タイム。 展望場所から見下ろしたブラショフ旧市街地。昨夜は夜景がきれいに見えていたがブラショフはルーマニア国内で最も繁栄する地方の一つであり、工業の伝統を持つ。 第二次世界大戦中、IAR-81航空機が、戦争末期にはメッサーシュミットBF109が ブラショフでつくられた。共産主義政権下ではさらに工業化が進み、それらの遺産が一部は非常に大規模な工業複合施設として残っている。また操業を続けているものもあり、資本主義市場経済において採用されたりした。一部は民主化以後操業が停まり、高い失業率の原因となった。主に外国からの新たな投資によって、経済は部分的に回復されている。とウィキペディアより26名のツアー仲間ルーマニア現地ガイドのアレキサンダー(身長198cm)と旅友ブラショフの山頂にあるテレビ塔。約5分間の撮影タイムで出発8:46山道を下り旧市街へ、昨夜バスを乗り降りした場所旧市街を進むさらに旧市街を進み8:51この先を右折して「シギショアラ」へ北上鉄道と並行して北西方向へ8:56ブゼシュティー通り(Strada Buzești)を西に進む。 前のトラック背後にピッタリと付いて走る自転車がバスの直前に現れたズームアップ空気抵抗が減り走行が楽であることは解るが、極めて危険な行為なのであったが9:03トウモロコシ畑がひたすら拡がる観光バスとすれ違う9:09トウモロコシ畑の中の直線路(DN13)を進む集落へ入る車の数が少なく順調に走る9:13今回の旅で初めて馬が引く馬車を見るE60を西方向へ9:15めずらしく自転車に乗っている人が。右側は、ロトバヴ(Rotbav)の村の別のルーテル教会(Biserica Fortificată)。円形の城壁で教会は、 1300年頃にロマネスク様式で建てられ、15世紀に要塞化され、その後、典型的なサクソン要塞都市の壁に囲まれた。 壁を良好な状態に保っている要塞の1つであると村を走り抜ける9:21乳牛の放牧家族で馬車に乗る、犬も従って走る数多くの羊も放牧E60号線をひたすら走る日本の光景と何ら変わらない。まだ雨は降っていないが曇り空E60号線を走りシギショアラへ二頭立てで荷物を運ぶ馬車、何を積んでいるのかシギショアラは、ルーマニアの人々が観光客に必ずすすめる町、ブカレストから北西約300km、ブラショフから北西約120kmに位置しトランシルヴァニアの中心にある方々で羊の放牧をしているが9:45この駅は?シギショアラは、現在も中世の面影を色濃く残した街並みには、周辺の町とは違う素朴な魅力が残る街である ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.25
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五日目:10/28(月)ブカレストの市街地を抜ける。16:44路面電車の工事中この鳥は?ここを左方向へ進む電線のケーブルは一応整理されているが、ベトナムほどではなかった地下鉄も4系統あるようだが、路面電車も頻繁に走る16:55外気温は15℃渋滞がひどい車の間を売って歩くおじさんだが何を売っているのか16:58西の空が染まり始める大きなゴンドラが夕日が車窓からプルンブイタ湖17:00ペトリカニ通りを走るが、道路脇に鉄道1号線を北上しブラショフへ17:01夕陽が沈み空には飛行機雲が方々へ飛び飛行機をズームアップ17:10ルーマニア1号線を一路北上17:29夕陽も沈み17:40ブカレスト郊外の火力発電所18:24トイレ休憩で、コムナ・コルヌ(Comuna Cornu)にあった『UFOレストラン-ETU Pizza&Grill』に立ち寄るレストランの内部ブルーの照明の中に18:36併設されたコンビニではクリームを手に取り。明日、ブラショフにあるショップヘ行くとの案内で購入せずハンドクリーム、栄養クリーム20:13ブラショフへ到着バス停から歩いてレストランへ向かうが夜になり寒かったムレシェニロル通りを『スファトゥルイ広場』に向かって歩くライトアップされた『カトリック教会(Biserica Sfinții Apostoli Petru și Pavel』20:20スファトゥルイ広場(Piata Sfatului)を歩く。ブラショフの旧市街地の中心の広場。また広場の中に旧市庁舎である協議会の建物があり今は『歴史博物館(Muzeul Județean de Istorie)』になっていた広場沿いにあるレストラン会場に向かう。この建物は、かつては有名なブラジルギルドのトレーダーを収容していた取引ホールであったとのことでルーマニア特有の建物であると広場から人通りの少ないレプブリチ通りを『Restaurantul Cerbul Carpatin』入り口には様々な野菜が、装飾品として陳列されていたレストランの最奥に進む遅い夕食を摂るスープ400㎖のビール(10Lei≒300円)メイン料理の「ムサカ」21:05デザートのフルーツサラダ21:16遅い夕食を終え、ホテルへ向かう22:09広場から山道をバスで約15分走りホテルへ到着ホテル『Ana Hotels Sport』の高度は、1036m22:17今夜も(当然ですが)、ツインルーム。ベッド間が狭いので一仕事。before連泊であるのでベッド間を広げるafter今日までは天気がよかったが、明日からは天気が下り坂になると。五日目はブルガリアからルーマニアへ入ったが、今日一日のバス移動は約370kmと強行軍だった。バス移動が主であったためこの日の歩行数は、バス移動で6,500歩と少なかった。 ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.19
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五日目:10/28(月)ブルガリアから、ドナウ川を渡り、ルーマニアへ入る。ルーマニア面 積:23万7,500K㎡ 日本の約2/3で日本の本土人 口:約1,976万人(2016年)首 都:ブカレストルーマニアは東欧唯一のラテン系民族国家。底抜けに明るい笑顔と牧歌的な農村の風景は、旅する人をほっとなごませてくれるルーマニア歴史年表1881年 カロル1世がルーマニア王国を宣言1913年 第二次バルカン戦争に勝利し、ブルガリアのドブロジャ地方を獲得1918年 第一次大戦に参戦し、トランシルヴァニア地方を獲得する1941年 第二次世界大戦でソ連に宣戦布告1944年 クーデターが起こり、親ナチス政権が崩壊、ドイツに宣戦布告1947年 ルーマニア人民共和国が誕生。トランシルヴァニア地方を獲得1948年 共産党による一党独裁が始まる1965年 チャウシェスクが第一書記に就任1989年 民主化デモにより、チャウシェスク政権が崩壊2007年 EUに加盟:ブルガリアと同年度ルーマニアの名物料理トウモロコシの粉を蒸したママリガはルーマニアの主食で、主菜に添えられる。スープにはサワークリームや生の青唐辛子が添えられる。サルマーレはロールキャベツ風の煮込み料理だが、ブドウの葉で作ることもある。小さなハンバークのようなミティティなども定番ルーマニアの世界遺産リスト(2015年現在)①ドナウデルタ ②モルドヴァの修道院群(五つの修道院)③ホレズ修道院 ④トランシルヴァニアの要塞教会群⑤オラシュティエ山脈のダキア人要塞⑥シギショアラの歴史地区 ⑦マラムレシュの木造教会今回の旅でこの内、⑥の1カ所を訪れた。14:00 ~ 14:40ルーマニアの入国審査でバスの中で待機。担当者の女性がバスに乗り込みパスポートをチェック。審査で長い時は1~2時間止められるとのことであったが、この日は短時間で助かった。入国審査終了後、近くの両替所でユーロから両替 134Lei/30€14:465号線を走り、ブカレストへ北上するルーマニアの民家の庭にもブドウが植えられているジュルジュ市街地の子供ずれ14:53道路脇を鉄道が走る。添乗員からルーマニアの天然資源は、石油、ガス。製造業は、機械製造業、繊維業。最近は観光を重要視していると道路脇のこの像は?14:555号線沿いの教会道路脇の紅葉も進んでいた。ブカレストは、ドナウ川の北に広がる大平原のワラキア地方にあるルーマニアの首都。ルーマニア語で「ルーマニアの土地」を意味する「ツァラ・ロムネアスカ」と呼ばれルーマニアにとっていかに大切な場所だと考えらえているかがわかるワラキア地方の元となったのは、中世に生まれたワラキア公国だ。ワラキア公国は南のオスマン朝、北のハンガリー王国、後にはハプスブルク帝国やロシア帝国など、数々の強大な国家に翻弄されながらも、独自の文化を守り続け、今のルーマニアの礎となった。その厳しい歴史のなかには、ドラキュラのモデルともなった串刺し公ヴラド・ツェペシュもいた遠くに飼料工場?のサイロが林立15:005号線(E70)を直進して、Bucuresti へ、車が多くなる気候は内陸部に位置しているため、典型的な大陸性気候。日本とよく似た気候で、四季がある。12~3月は寒さが厳しく、氷点下になることもあり、雪もよく積もる北海道美瑛のような風景で、冬には雪も積もるようだ。ルーマニアのトウモロコシ生産量は世界第10位(2017年)15:055号線の道路標識、Bucuresti Bucharest まで、50km。このようなキロポストが、1km毎にあるガソリンスタンドの前のキロポストは「7」で、700m地点耕作地が広いだけに農機具も大型だ道路脇にこの様な碑があったが。南米のペルーへ行った時も道路脇にこのような碑があった。交通事故で亡くなった人を祀っていると15:22ガソリンスタンドでトイレ休憩。この辺りはブカレストまで40数キロ地点ブカレスト方面ガソリンの値段:5.55Lei(約166円/ℓ)GPLの値段:2.74Lei(約82円/ℓ)セルフサービスか ?ガソリンスタンドのコンビニのメニュー値段は、11.00 ~ 20.99Lei(330 ~ 630円)店内では飲み物&サンド15:355号線(E70)の国境都市ジュルジュ方面15:53ルーマニア南部を流れるアルジェシュ川(ARGES)を渡る風力発電設備の風車16:00ジラバ(Jilava)の街にあった『正教会Church "St. Constantine and Elena" Jilava』道路脇では野菜果物を販売16:07ブカレストに入ると路面電車が走る5号線を進み、高層?アパートが左手にブカレスト市内に入り車も多くなる。ルーマニアの首都ブカレストは、カルパチア山脈の南に広がるワラキア地方の南東部に位置する。人口は約188万人。20世紀初頭には「バルカンの小パリ」と称されるほど美しい街並みを誇っていた。しかし、第二次世界大戦では枢軸国側についたことで連合国側の攻撃を受けた。その後の共産主義政権時代は計画的な街づくりが行われた結果、無機質な町並みができあがることになる1989年12月にはルーマニア革命の舞台となり、大統領だったチャウシェスクが、当時の共産党本部で行っていた最後の演説で聴衆の反発の声に絶句するシーンは、世界各地で繰り返し放映された。巨大な国民の館は、チャウシェスクが遺した夢の跡のようにも見えるその革命から四半世紀が過ぎ、旧市街の復旧も進む。夜遅くまでにぎわう街並みを眺めていると、ここで革命があったことすら忘れてしまいそうだと観光案内の標識明るいので市街地を散策したいがSaint Spyridon the New Church ?方向を変えて写すカジノの『Max Bet』16:30遠くに『議事堂宮殿』ブカレストの議事堂宮殿は、1984年に着工し、およそ13年もの歳月を経て1997年に竣工した。現在は議事堂宮殿という名称ですが、ブカレストでは旧名称の『国民の館』と呼ばれるのが一般的である国民の館の建築費は、当時の日本円で1,500億円を要したとのこと。建物の大きさは幅275m、奥行き235m、高さ84m、地上10階、地下4階建て、延べ床面積の総計は33万平方メートル、部屋数3107室で、アメリカの国防総省(ペンタゴン)に次ぐ世界第二位の大きさを誇る巨大建造物国民の館の見学は帰路に立ち寄るとのことで通り過ぎる。内部も近代建築では類をみない豪華さで、床や柱、階段は全て大理石、クリスタルのシャンデリアは2800点にも及ぶ。内部の見学はツアーへの参加が必要だが、あまりにも広いため、1時間のツアーでも実際には建物の5%ほどしか見て回れないと車窓からのブカレスト市内、陽も下がり道路脇には古い建物が並ぶが建物の名は?古い重厚な建物だがルーマニアの車のナンバーは、ユーロ圏で『RO』旧共産党時代の建物かこの建物は ?車の渋滞が激しくなる。地下鉄は4系統あるようだが重厚なビル16:42ブラショフへ向けて北上 ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.18
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五日目:10/28(月)ブルガリアの観光を終えルーマニア国境へ向かう。13:05昼食のレストラン近くのイヴァノヴォ(Ivanovo)駅近くの踏切を渡る。鉄道は電化されているようだが、単線で狭軌?13:09高速道路5号線(E85)に合流し右折して北上13:17バス左側の車窓写真ルセ市内に入るドナウ川を挟んでルーマニアと国境を接するルセは、人口約15万を抱えるブルガリア第5の都市である。ドナウ平原の行政、商工業の中心地でもあるルセの町は、1世紀のローマ皇帝ヴェスパシアヌスの時代に、セクサギンタ・プリスタ(60隻の船)という要塞が建設された頃から始まる。14世紀から始まるオスマン朝の支配時代には商工業都市として繁栄。19世紀後半にはヴァルナとの間にブルガリア初の鉄道が開通し、町並みも近代的になっていく。現在はソフィア、ヴァルナをはじめ、ルーマニア、ロシア、ハンガリー方面への国際列車の発着駅にもなっている道路脇にはブルガリアの国旗ルセの街はブルガリアの北の国境であるドナウ川に面し、対岸にはルーマニアの都市ジュルジュがある。ジュルジュとは「ルセ・ジュルジュ友好記念橋」で結ばれている。ガイドブックにはジュルギュウ(Giurgiu)、ジュルジュとあるがドナウ川沿いにある工場群今回のツアーにはルセの町の観光はないルセ(Русе、Ruse)の街の工場の煙突タンク類も並ぶ工事が途中で止まっているのか橋桁が途中まで道路が左方向へ進んでいるのか先ほどの工場が角度を変えて見えるルセの市街地に入るアパート群と看板13:24ブルガリアの現地ガイドのコーニさんともここでお別れ。お世話になりました!13:27ガソリンスタンドのコンビニ内で新旧現地ガイドが交代ルーマニアの現地ガイドは、男性のアレキサンダーで身長198cm日本のガイドOさんとハグしてお別れ。コーニさんは、これから14時のバスに乗り約5時間かけてソフィアまで帰るとのこと13:42このガソリンスタンドでコーニさんと分かれ、バスは出発2号線(E70)を走りルーマニア国境へアパート群が並ぶ10数階のアパートか13:49左側の車窓にルセ発電所火力発電所右方向、BUKUREST(ブカレスト)へこの辺りから約60~70kmブルガリア出国ゲート(国境検問所)へ人影もなくスルーで通過13:52ブルガリア側はスムーズに通過できたが、ルーマニア側では入国審査に1~2時間を要する場合があると。この日は観光バスが少ないので・・・・・・・。以前行ったクロアチアではボスニア・ヘルツェゴビナへ入国の際、1時間強を要した14:05写真の全景が撮れなかったが、進行方向右側に橋の入口に8本の円柱の柱を持つ塔があった。1952の文字があり両側にあったと。工事をやっているのかクレーン車があったRuse port のクレーン前方にドナウ川(ダニューブ川)が見えてくる。ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がるドナウ川の下流方面、ここから黒海まで200km。バス右側には下水処理場が見えた。ドナウ川は全長は2,850 kmドナウ川が西から東へ流れる間に、ドイツ、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ウクライナの10カ国などを通り、ヨーロッパのライフラインとして、多種多様の人々・宗教・文化を調和のとれた形で結合しているヨーロッパのヴォルガ川に続く第2の大河・「美しき青きドナウ」である14:06ドナウ橋通行料金は5ユーロとあるが、ネットで見るとまちまちで異なるドナウ川の上流側ドナウ川の中央で国境線を通過しルーマニア側に入る。橋は古い感がするがルーマニア側14:07ルーマニアのジュルジュ市街地ルーマニア側の入り口にも8本の円柱の柱を持つ塔があった道路脇に鉄道があったが、国際列車が走るのか?ルーマニア側からブルガリアへの貨物列車14:08輸出物件は何が積まれていうのか農産物のトウモロコシか ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.17
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五日目:10/28(月)ルセ州イヴァノヴォ村に近く、ルセの南約20kmにあたるルセンスキ・ロム川沿いにそびえる岩だらけの世界遺産のイヴァノヴォ岩窟教会群へ進む。11:20バスの左側車窓は石灰岩が抉られた谷、その下にルセンスキロム川が流れているのであろう。侵食され易い岩なので結構大きく深い谷が形成されている車窓からの案内板イヴァノヴォ岩窟教会群まで、1.5km石灰岩が抉られた谷が続く11:24道路の突き当りが、世界遺産『イヴァノヴォ岩窟教会群』奥にこじんまりと土産物店があったブルガリアにある岩を刳り貫いて作られた聖堂、修道院などの建造物群はその壁画の素晴らしさが評価されて、1979年にユネスコの世界遺産としての登録されたルセ州イヴァノヴォ村に近く、ルセの南約20kmにあたるルセンスキ・ロム川沿いにそびえる岩だらけの堤にある(川からの標高は32 m )。 この教会群は、保存状態の良い美しい中世のフレスコ画で知られている。 この地方の洞窟群には、後のブルガリア正教会総主教ヨアキムが居を定めた1320年代以降17世紀まで、修道士たちが住むようになっていた。彼らは、僧房、教会群、礼拝堂などを硬い岩から切り出しており、修道院建造物群はおよそ40もの教会群を頂点に戴いていた。その周りには、他の宗教施設用地が300ほどあったが、そのほとんどは現存していないイヴァノヴォ岩窟教会群の説明図11:25 岩窟教会への坂道を登り始める急な坂のため3名の人が下で待機道幅が狭いため一方通行足元も悪く注意しながら登る11:30約5分で岩窟前に到着坂を振り返るこの日は土曜日で子供たちも見学、順番待ち岩窟前からの風景別の方角見学可能時間は9:00~18:00 休みはなし 入場料は5BGN(約325円?)、写真撮影は無料とのこと洞窟内へ入る天上&壁面にフレスコ画現地添乗員が説明していたが奥にテラスがある13~14世紀に描かれたとされる色鮮やかなフレスコ画ランダムに撮影テラスから撮影する世界の山ちゃん(ツアー仲間)テラスに出るが足元がすくむ、上流側この方向からバスで来たテラスの柵があるが高所恐怖症の私には・・・・・・。この様なポーズは天上のフレスコ画下流側11:41下で待機している人を釜場跡であったとか?11:43一方通行の道を下ることに先ほどのテラスが見える切り立った洞窟群上流側を望む広大な平原旅友はカッパドキアの光景に似ていると言うが、私はまだ見たことがないが米国のグランドキャニオンでは?私も記念写真坂道を下る石灰岩が抉(えぐ)られた谷、侵食され易い岩なので結構大きく深い谷が形成されているのである12:00坂を下り、下から見上げた『イワノボ岩窟教会』。 下から教会があるところが分かるのは、このような窓・テラスがある場所だけテラスをズームアップ。重量制限の標示がなかったので、下から見るとゾーッとする12:12鉄道のイヴァノヴォ(Ivanovo)駅近くのレストラン会場へビールをオーダー、3Lv(195円)と安い。ミートボールのスープロールキャベツ12:33デザートはアイスクリームだがビックリ! ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.16
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五日目:10/28(月)8:05 朝散歩から帰り急いで身支度をする。トランクは既にポーターがバスへ積み込み。8:32出発は8:45であったが早めに一階ロビーへ下りる8:45後方の建物が宿泊ホテルの『プレミア(Hotel Premier)』予定時間にホテル前を出発バス右側の車窓から、朝散歩をした『アッセン王モニュメント』が見れた9:00ツァレヴェッツの丘蛇行するヤントラ川に張り付くように拡がったヴェリコ・タルノヴォの旧市街うねるように流れるヤントラ川に囲まれた、切り立った岩場の上に建てられた大主教区教会。1981年に再建されたもので、ツァレヴェッツの丘でほとんど唯一の完全な建物といっても過言ではないと ヴェリコタルノヴォ地域監査評議会ビルを正面から。右側を進むと旧市街地ツァレヴェッツの丘 第二次ブルガリア帝国時代には、この丘全体がかつてのブルガリア皇族や総主教の 住まいとしての宮殿だったが、オスマン朝の猛攻により瓦礫の山と化してしまったところだと。現在は土台のみ残る城壁跡が広がっていた。要塞はヤントラ川に囲まれた同名の丘の上に建っていた。城壁に囲まれていたツァレヴェツは必ずしも閉鎖的な要塞ではなく、王宮、聖ペトカ教会、多くの住宅、貯水タンク、防衛塔が並ぶ本格的な中世都市だったことが発掘調査からわかっていると旅友も記念写真丘の斜面に拡がるヴェリコ・タルノヴォの旧市街北側のヤントラ川の対岸にも要塞の石垣が残っていた。こちら『トラペジッツァ(Trapezitsa)の丘』は、タルノヴグラトの首都の要塞地区で、ツァレヴェッツの丘の北西に位置している。ヤントラ川は丘の周りを優雅に曲がりくねっている。高い崖で自然に保護されたトラペジッツァには不均一な崖の縁に続く強固な要塞壁であったトラペジッツァの丘の東方向大主教区教会黄葉に囲まれた丘の頂上には大主教区教会が建っていて、教会前からは旧市街を始め、周囲を取り囲む緑豊かな森や丘が見渡せると。教会内の壁一面に描かれた暗い色調と硬い筆遣いのフレスコ画が、歴史的な緊張感を伝えてくれると ここから先は有料我々のツアーはここで引返すことに子どもたちも見学に琴欧州も子供のころ訪れているのか右手の塔はブルガリア正教会丘の下のヤントラ川に架かる橋、鉄道も走る丘の上はヴェリコ・タルノヴォの旧市街この橋の構造は日本の掛川市の『潮騒橋』に似ている逆アーチ9:10散策を終えバスへ乗車イヴァノヴォの岩窟教会群へ向かう右手の車窓に、ニコラス ピコロ記念碑(Nicholas Picolo Monument)山の上は岩山の姿が、長い断崖が続いていた9:20屋根には温水器を設置民家の庭先にはどの家にもぶどう棚がある9:24高速5号線をひたすら北上する。道路沿いの畑にはトウモロコシ畑が続く広大な土地にトウモロコシだけを植えているのか9:42道路脇の家は農家なのか素焼きの壺があるが販売しているのか住宅街を過ぎるとまたトウモロコシ畑9:44田園地帯をひたすら走ると左手に、大型サイロがいくつも大型サイロの手前にコンテナ?農機具が置いてあるが修理or販売集落があるが9:57トイレ休憩でガソリンスタンドで休憩ガソリンスタンドのコンビニを利用野良ネコ?ガソリンスタンドから見えた村の教会ズームアップ10:30約30分間の休憩、我々のバスの車体のデザイン10:35丘の斜面に『1300』とあるがブルガリア建国1300年を記念して作成したと道路脇のこの像は?ブルガリア建国1300年に関係する人の像か?10:37ヤントラ川に架かる歴史深い、ベレンスキーモスト橋を見る。 このアーチ橋は、1865年から1867年にかけて、ブルガリアの建築家であり、建築家である Kolyu Fichetoによって、トルコの政治家Midhat Pashaの命令で建設されたと。洪水時の対策として、上部に穴が空いている珍しい橋。左上に先ほどの『1300』10:47道路脇の日本式ドライブイン?10:57乳牛の放牧場農機具大型農機具を販売農家高速5号線をひたすら北上。牧草地の中に高架水槽が立つ高速5号線を走るランナー、何か大会があるのか数人のランナーが走っていた11:15高速5号線を折れ、鉄道のイヴァノヴォ(Ivanovo)駅近くの踏切を渡り、イヴァノヴォ洞窟教会群へ ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.15
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五日目:10/28(月)バスをホテル前に横ずけできないため、ポーターが荷物を運んでくれるので、7:45までに部屋の外へトランクを出してくださいとの申し渡しが前夜ある。ヴェリコ・タルノヴォは、国土の東西に横たわるブルガリア最大の山脈、バルカン山脈の東部にある、人口約7万の地方都市である。6:32ホテルの部屋から北西方向の住宅地隣の家の窓は朝日を浴びていた6:53出発時間が8:45のためいつものように朝散歩へ出かけることに。少々早めに、一階ロビーの朝食会場へホテル内で朝食、メニューの数が少ないヴェリコ・タルノヴォは、元力士の琴欧州の出身地新聞は日本の新聞に記載された「琴欧州」効果で観光客誘致と2006年(平成18年)1月10日付け)『平成18年 春の全国交通安全運動』のポスター1階ロビーのスペースにある力士像琴欧州は現在、年寄で15代鳴戸として鳴戸部屋の師匠を務めている7:23朝散歩は旅友4人+ツアー仲間のMs.Tを加えた5人で出かける。目的地は旅友Kさんが事前に調べていた場所へ、いつものように iPhoneで進む。ホテル前の坂道を下り、 "Vasil Levski" 通りに出る”Vasil Levski” 通りに出て、右方向へ100mほど進み正面の「ブルガリアの母広場」へブルガリアの母広場から、”Vasil Levski” 通りを振り返る7:25この旅行でところどころで見かけた看板広場の中央に建つ『ブルガリアの母の像』は、1877-1878年のロシアトルコ戦争(露土戦争)、1885年のセルビアブルガリア戦争、1912年から1913年のバルカン戦争、および1914年から1918年の第一次世界大戦で、21人の将校、24人のNCO、62人の将校の死を追悼して建立されたと。 その建設のための資金は、ヴェリコ・タルノヴォの市民からの寄付から集められた。 3階式ての記念碑である大理石と青銅で作られた彫刻で、その基部には、階段が続く4つの入り口がある納骨堂があった入口の上には、ブルガリアの解放と統一のために戦った戦争の年が書かれており、その間に戦争の重要な瞬間を描いた4つのブロンズのレリーフがあった。 軍服、装備、武器を備えた兵士と将校の4つの銅像が中間の位置に配置されていた。 記念碑の上部には、ブルガリアを代表する跪く女性の銅像があり、頭には冠があり、 右手には軍旗、左手には月桂樹の葉を持っていたこの追悼碑は、1935年5月6日に解放と国家統一の戦争で殺された人々に捧げられたとヴェリコ・タルノヴは、新市街、旧市街、3つの丘と、3つの地域に分かれている。新市街はシンプルな町並み、3つの丘は第二次ブルガリア帝国の城塞などの遺跡が残り、見晴らしが良い。この辺りは旧市街地でカフェ、レストランが集まる広場から坂を下るヴェリコ・タルノヴォはかつては「タルノヴォ」と呼ばれ、1187~1393年に第二次ブルガリア帝国の首都として栄えた窓を飾り付けた民家、庭先にはブドウ棚が7:33坂を下り終え、朝日を浴びる住宅街が斜面にこの光景は、モロッコのシャウエンを思い出す旅友Kさんが「あの橋を渡りたいのだが、道がない」とヤントラ川に架かる橋道を戻りホテル前を通り、下っていると橋の手前でガサガサとシジュウカラ旅友女性軍三人と、朝散歩の現地の人ヤントラ川に架かる『スタンボロフ橋(Stambolov bridge)』の上から橋の上から丘の斜面に住宅が林立するヴェリコ・タルノヴォの街並み。そしてヤントラ川が水鏡となり、街の姿を映り出していた現地のおばさんからも言われて視線を下げると、水面への写り込みが素晴らしかった下流側ヤントラ川は、ブルガリア北部を流れる河川で、ドナウ川の右支流であると上流側:左のホテルと丘に広がるヴェリコ・タルノヴォの街並みスタンボロフ橋(Stambolov bridge)鉄骨アーチ構造のトラス橋。橋の建設は1892年に始まり、高さは37mであると。 橋の上部構造設計者は、イタリアの建築家ジョヴァンニ・ムスッティ(ヴァシル・レフスキ記念碑の設計)。昔は自殺の名所であったようだ橋のプレート『Stambolov bridge』橋を渡り左に進むと、ヤントラ川に挟まれた中州のような場所にある、青空に突き刺さるが如き尖塔がアッセン王のモニュメント(Monument to the Asen Dynasty)イヴァン・アッセン王治下の最盛期にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)をも圧倒し、バルカン半島のほぼ全域を支配したこともあった。文化的にもこの時代は周囲を押さえ、タルノヴォで勉学を修めるためにルーマニアや遠くモスクワからも留学生がやってきたしかし、その帝国もアッセン王死後に衰退を始め、やがて宿敵ビザンツ帝国に屈服、1398年にはオスマン朝との3か月にわたる首都攻防戦の後、ついに滅亡する7:49ホテル出発が 8:45のため、引き返すことにアッセン王のモニュメント下にいたネコ通学か通勤かズームアップ橋の上から再度、上流側を望む紅葉がきれいに8:03ブルガリアの母広場下から、ホテルへ向かって坂道を登る名所地の案内表示街角でテレビの録画か?インタビューを逃れるために足早に進む旅友ズームアップこの先を左折してホテルへ8:0530分強の朝散歩をして、ホテルへ到着。ホテルへはこの先を右折して ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.14
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四日目:10/27(日)トラキア人の墳墓の後はバラショップへ。カザンラクは、6月上旬に行われる祭りの主役はバラだが、音楽祭としても十分楽しめる。イタリア、セルビア、マケドニア、トルコ、ギリシャなど周辺諸国の舞踊団が集い、きらびやかな衣装と民族舞踊を競って演じるさまは圧巻だ。閉会式では世界各国の人々が入り乱れて手をつないで踊る、まさに「大団円」で祭りの幕は閉じられる。祭り以外の時期は静かな町である。15:50店内の時計は16:45だが、サマータイムのままで時間修正していないのだ。今回のツアーも女性軍が多く、皆さんよくご存じでたくさん購入していた皆さんピンクの袋を持ち。日本人観光客のコースになっているようで、別の阪急トラピックスのツアーも後から営業時間:9:00 ~ 18:00温度計は22℃を指していた16:20バラショップを出発したが、ショップのおばさんも商売繁盛でお見送りで店の外へ16:24この日の宿泊地、ヴェリコ・タルノヴォへ向かって約100km走る16:35羊の放牧高速6号線を東に進むが周囲はひたすら原野バスの左側の車窓は山が連なり墓地であろうか各家庭のテレビはパラボラアンテナ。家の周りにはゴミが散らばり突然原野の中に太陽光パネルが現われるバラ畑も続く16:40前方に夕陽に輝く温室が温室と太陽光パネル相当枚数の太陽光パネル16:43電力は温室で使用しているのであろうか草原が続く16:46山の木々もきれいに色ずきバス車内、右側には鉄道が走る16:50右側の車窓をズームアップこれもバラであろうか途中、インタで55号線に入り北上して『ヴェリコ・タルノヴォ』を目指す。16:53西の山には陽が沈み始める17:29陽も沈み飛行機雲が車窓から夕陽を楽しむ木々が燃え上がるしばし夕焼けの空を車窓から撮影明日も天気がよいのであることを期待17:47ヴェリコ・タルノヴォが近くなりガソリンスタンド17:55ヴェリコ・タルノヴォへ到着。現地添乗員が電話、まだ職人が作業をしているとのことで夕食前に訪れることに。トランクはバスがホテル前に着けないのでポーターが部屋へ運んでくれると職人街へ進む。ブルガリア人にも人気の観光地、ブルガリアの古都ヴェリコ・タルノヴォ。 1187年から1393年にかけて第2次ブルガリア帝国の都が置かれ、バルカン半島の 文化の中心地として繁栄した。 周囲を蛇行するヤントラ川と豊かな森に囲まれ、崖の上に古い民家が連なるヴェリコ・タルノヴォは、ぶらぶら歩きが楽しい町であるのだとなかでも見逃せないスポットの一つが、ステファン・スタンボロフ通りの北側に広がるこの職人街「サモヴォドスカ・チャルシャチャルシャとは「市場」の意味で、ここには古くから営む陶器や金銀細工、革製品、絵画などの小さな店が軒を連ねていたのであった石畳の道の両側には伝統的な建物が並ぶ光景は趣たっぷり まるで昔にタイムスリップしたかのような、旧市街のなかでもひときわ絵になる町並み。やはり明るい時間に訪ねたかったのであったが・・・・、今回のツアーでは、時間もなく夜の散策となった ところどころに人形が、ベンチに座る老職人であろうか更に職人街を進む第2次ブルガリア帝国時代から伝わるスグラッフィート陶器を持つ人形。 焼く前の素地を引っかいて模様が付けられる陶器で、ひとつひとつ職人が手作業でデザインして作っているのだとサッカーのユニホームを着た青年 ?木工の工房かここの道も石畳18:10実演してくれたが、何を作っているのか ?春雨?の如き菓子?商品を作るオバサン。 容器に入れた白い液を、大きな回転する丸いフライパンをひっくり返した様な鉄板に糸を引くように垂らししばし回転させ焼き上げる時間とともに焼き上がり、製品が反って分離するこれを掻き集めて出来上がりであったが・・・。店内に入って試食させてもらいたかったが壁掛け用の絵皿の工房このおちょこ?は、3 for 15Lv(950円)ランタン工房銀細工の工房では、驚くほど繊細な細工が施されたブレスレットを制作する様子を 匠人が見せてくれた銀の鑞付け(ろうづけ)作業。 鑞付け(brazing)とは、接合する方法である溶着の一種。接合する部材(母材)よりも融点の低い合金(ろう)を溶かして一種の接着剤として用いる事により、母材自体を溶融させずに複数の部材を接合させることができる技術昼間は観光客が多いのであろうが石積みのレストランホテルにもなっている18:30約35分の散策をして、宿泊ホテルへ向かいしばし部屋で休憩19時過ぎにロビーに集合して夕食会場のホテル近くのレストランへ。19:33野菜サラダパンはナン ?カレーライスの如き『カヴァルマ』、ライスが少し20:13デザートのケーキこの日のホテルは、『プレミア(Hotel Premier)』ホテルは町の中心にありスパセンター、スイミングプール、ジャクージなど最新の設備が自慢。一階ロビーのスペースには、この町出身の元力士、琴欧州の写真や新聞記事が飾られている。この夜も旅友と部屋でこの日の長い1日の反省会を行いウィスキーとワインで爆睡。今日一日の歩行数は、7,460歩でした ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.13
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四日目:10/27(日)13:10プロヴディフから、約124km先のカザンラクへ向かう。バスは北上してカザンラクへ13:30飼料工場の貯留サイロであろうか?大きな貯留サイロが十数基あるようだが、トウモロコシの貯留か?手前に鉄道が走る13:3564号線を北上する13:5464号線を北上し住宅街を進む庭先にはブドウ棚が14:00馬の放牧平屋の民家が連なる鉄道を越え放牧場再度踏切を越えるバラ畑が広がる14:1064号線から6号線(E871)に入る。道路標識は、Sofia 137km、 Buragas (ブルガス) 234kmブルガスは、黒海沿岸の都市で新しい町である。周辺の漁師が集落をつくったのが始まりで、17世紀までには町に成長、さらにブルガリアがオスマン朝から独立した19世紀後半にソフィアから鉄道が敷かれ、飛躍的に成長した14:196号線(E871)に入り東方向の田園地帯を進む田園風景が続く何を栽培しているのか?何の塔か?14:296号線(E871)を、Buragas (ブルガス) へ向けて走る民家の庭先にはブドウ畑14:33ソーラーパネルを始めてみる14:43山の上には風力発電も14:47カザンラクの街に入る。カザンラクはソフィア ~ ヴァルナ間の幹線上に位置する、バラの谷で一番大きな町。カザンラクとはバラを加工する際に使う「銅の釜」を意味し、バラ産業の中心地だ。ここで催されるバラ祭り(プラズニク・ナ・ロザタ)の日にはヨーロッパ、そして日本からもたくさんの観光客が訪れる。道路わきの空き地には多くのゴミが15:10世界文化遺産の『トラキア人の墳墓』へ到着。まず駐車場横にあったコンテナハウスのようなトイレで用を済ませる正面階段下にあった看板。町の北東、トュルベト公園内にある世界遺産の遺跡。1944年、防空壕建設中に偶然発見された。保存小屋のそばには精巧なレプリカがある。レプリカは忠実に再現された、紀元前4世紀後半から紀元前3世紀頃のものとされるトラキア人のフレスコ画で、戦闘場面や葬送儀礼の様子が数種類の色を使って描かれている。また、発見から1979年の世界遺産登録までの過程が、写真とともに年代を追って説明されている正面からは石段を百数段上るとのことで緩い坂を上る林の中を抜けトラキア人の墳墓手前はトラキア人の墳墓とは関係ないイスラムの遺跡右側が世界文化遺産、紀元前4世紀の『トラキア人の墳墓』。 この世界遺産は、現在は誰も見ることが出来ないのだと。本当はこの小屋の中にあるのですが、保存状態を守るために中に入る事が出来ないと世界遺産に登録されている「カザンラクのトラキア人の墓地」は、カザンラクの町の北東部ある、直径約40m、高さ約7mの丘にあった。トラキア人は古代の東ヨーロッパ周辺に住んでいた民族である。インド・ヨーロッパ語族に属するトラキア語を話した。古代ギリシアやローマ帝国の文献に現れ、当時のヨーロッパでは有数の人口と勢力を誇ったといわれる。 考古学的には多数の精巧な金製品をはじめとする遺物・遺跡で知られる とトラキア人の墓地 オリジナル(Thracian Tomb Original)レプリカは墳墓から約30m程度離れたところにある15:19トラキア人の墳墓のレプリカに到着。一度に数人しか見れないため外で順番を待つ 入場時間、入場料案内板順番を待って小グループ毎に入場入口には、1944年の発見から1979年の世界遺産登録までの歴史が、写真とともに解説されていた。もちろん日本語表記はないが、写真を見るだけでも歴史がわかるのであった墳墓の構造の平断面図、そして墳墓内で発見された遺品の位置図遺品の土器、壺類が展示されていたがこれはホンモノ?内部の写真も展示15:34細い通路、狭い墳墓を進む。 地下墳墓は、四角の玄関、回廊と丸天井型の埋葬室からなっていた。中が狭いため、3名に分かれて入った中はレプリカのため撮影はOKそして玄室は、直径3mぐらいの円形で、その天井部に丸く描かれた見事なフレスコ画が描かれていたこの世界遺産には夫婦の告別の様子、大切にされている事が見て取れる見事な装飾の馬、勇猛といわれていた戦士などが描かれていた見学できるのはレプリカですが精巧に作られており、当時の様子を十分伺い知ることができるトラキア人の墳墓なのであった15:36内部の見学はもう少しじっくり見たかったが、ツアーのため数分で外に出る15:40時間も遅くなり観光客も減り正面の石段を下りる15:44石段を下り正面へ土産物店の「バラショップ」へ15:47トュルベト公園を振り返る ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.12
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四日目:10/27(日)プロヴディフ旧市街観光を続ける。10:52旧市街にある2世紀に当時のローマ帝国・トラヤノス帝によって造られた、ローマ時代の半円形の劇場。 天気の良いこの日にはここからロドピ山脈が一望出来たのであった。また、スケネと呼ばれるステージの裏側には、1900年の時を超えたイオニア式の美しい列柱が威風堂々たる姿を見せていたのであった。現在残っている観客席は20段ほどであるが、当時は5,000人が収容できる28段あったのだと。現在は3,000人が収容できる劇場で、夏は野外劇が催されている。座席からは中央広場も良く見えるイオニア式の美しい列柱が並ぶが、耐震対策はされているのかズームアップ市街地を望む短時間での説明を終え、ツアーは先へ進む共産主義体制の犠牲者となったミュージシャンの記念碑。バイオリニストのサショ・スラドゥラ・アレクサンドル・ニコロフが労働収容所で殺害されたのだと11:03ローマ劇場跡から坂を下り集合場所の確認。このあと自由時間になり、この場所に11:35に集合自由時間になり再度坂を上り『ローマ劇場跡』へ行くことに。再び『聖母被昇天聖堂』を見る11:09ローマ劇場跡中に入るのは有料のため、全景が見える場所を探し、左側奥へ進むプロヴディフの黄葉した街並み、そして遠くロドピ山脈の山並みも後方の丘の上に展望台が現在も3,000人が収容できる劇場で、夏は野外劇が催されているので整備されていたマンホール蓋クリーアンチ邸宅1816年に建てられたこの建物は、ブルガリア復興期の最も古い保存住宅の1つ。1846年に完全に再建され、1階が北に拡張され、屋根付きの庭が形成された。 建築者は、聖母被昇天教会を建設したのと同じ職人 クリーアンテチ邸宅は、プロブディフ旧市街の建築と装飾芸術の発展における中心的な建物ラマルティン邸この邸宅の所有者は、プロブディフ商人階級の傑出した代表者、ゲオルギ・マヴリディ。1829〜1830年に名も知らぬ大工棟梁によって建てられ、旧市街で最大かつ最も美しい対称的な構造の家の1つ1833年の夏、中東への旅の途中、偉大なフランスの詩人であり旅行者であるアルフォンスデラマルティーヌがここに滞在したとき、それは真新しいものであり、驚くべき建築的創造の完全な素晴らしさであった。 彼はこの家に3日間しか過ごしませんでしたが、親切なホストに魅了され、彼の文章でこれを証明したと黄葉した木。この辺りには観光客も来ず高台からプロヴディフの市街地を一望『RESIDENCE THE OLD TOWN』の文字が荒い目の石畳を振り返る。左側は後で来る昼食会場のレストラン集合場所へ下りるがまだ時間があるので別の場所へ。左側に『Art Gallery "La Boheme"』小高い丘の公園へ登り、見事な黄葉が青空に映える黄葉と紅葉。ツアー仲間がこの辺りで読書、現地添乗員も一服木が屋根を突き抜けて、屋根には枯れ葉が積もり女性群はショッピングで盛り上がって、土産物を評価。このあと予定の11:35に集合11:40レストラン会場の『Paldin Restaurant』へ4人様はこちらえと案内されテーブルに置かれたミネラルウオーターは無料大きなパン、いつもパンが美味しいスープこの日もビールをオーダー、4Lv(約260円)ブルガリアの代表的な煮込み料理『カヴァルマ』そしてデザートは『パンプキンパイ』どの料理も美味しかった。レストランの中庭天気の良い日はこの様な所で食事をとりたいが、海外ツアーではいつも室内か地下食事を終え次の場所への移動が約124kmのためトイレを済ませ12:54食事を終えて外へ出ると石畳に座る猫ガイドブックによると「猫にも優しい町」とあったが、怖そうな眼をして駐車場出口の石畳バスに乗るため移動街角でギターを奏でる二人のおじさん要塞門・ヒサル・カピヤを再びくぐり石畳を下る左側に『民族復興博物館』添乗員もこれだけツアーのメンバーが散らばると人数を確認するのも大変!石畳はシューズも限定される。雨の日は滑るので、また要注意! 夜道は怖い、自転車は見かけなかったが無理駐車している車が邪魔だが絵になる光景である狭い道路を車も走る13:09バスの待つプロヴディフの旧市街入口のロータリーまで戻り、旧市街を振り返るロータリーの周辺には遺跡の遺物がゴロゴロと。 案内板には『The Eastern gate of Philippopolis』の文字が。 フィリポポリスの東門は、プロヴディフで発見された古代都市の3つの入り口の1つ。ゲートは、ビザンチウムとボスポラス海峡への主要道路に建設された。 ハドリアヌスの治世中に2世紀に最初に建設された門と、その周辺の複合施設は、 4世紀に完全に再建され、5世紀に部分的に修復された。東門は1970年代に発見されました。とウィキペディアより。 未だ発掘途中なのであろうか13:10プロヴディフの商業の伝統は現在にも受け継がれていて、毎年5月と9月に開かれる国際見本市には世界中からバイヤーや報道関係者が詰めかける。プロヴディフからはトルコのイスタンブールへ、列車、バスが数便運行されている。駐車場でバスに乗り、カザンラクへ出発 ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.11
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四日目:10/27(日)プロヴディフは、バルカン山脈とロドピ山脈に挟まれたトラキア平原のほぼ真ん中にある町で、比較的温暖で農業に適した所にある。人口は約34万人でソフィアに次ぐ国内第2位の都市である。10:25旧市街地下のロータリーでバスを降り『プロヴディフ』市内観光のスタート。 旧市街への入口には円形の石碑とその前には遺跡が並べられていた プロヴディフの歴史は古く、紀元前19世紀にはすでに、トラキア人の集落が造られていたという。交通の要衝に位置していたので当時から商業が榮え、紀元前4世紀にはマケドニアの主要都市のひとつになった。この町を愛したマケドニア王フィリッポスの名をとって、町はフィリッポポリスと呼ばれ、その後ローマ帝国がこの地を征服すると、地形からトリモンティウム(3つの丘)と改称される。ローマの支配下でトリモンティウムは大発展し、議事堂や競技場が建設され、それらは町のあちこちに姿を残している『プロブディフ』旧市内案内図。第一次、二次ブルガリア帝国の時代を経て、14世紀になると町はオスマン朝の統治下に入り、フィリベ Filibe と呼ばれるようになった。人口が増えるごとに新しく区画が拡張され、そのたびに新しい建築様式や装飾が町を彩った一方、古い時代の建物も保存され、ローマ劇場から民族復興期の屋敷まで、新旧が見事に同居する美しい街並みができあがった石畳の坂道・ "Tsanko Lavrenov" 通りを上って行く。1896年に生まれ、1978年に亡くなったブルガリアの画家・"Tsanko Lavrenov" の名がついた坂道右手前方に『聖ネデリャ教会』が見えて来た。色彩、文様、外観など、イスラム教寺院のような雰囲気。1832年に建造されたと石塀の中の洒落た門石塀の外に張り出した出窓の建物そして煉瓦色の大きな建物が見えて来た民族復興歴史博物館(ゲオルギアディの家)1848年に富豪のトルコ人によって建てられた屋敷で、現在は歴史博物館として利用されている博物館を手がけた大工ゲオルギの名を取り「ゲオルギアディハウス」とも呼ばれていると。 バルコニー付きホールなど、木の美しさを生かした見事な建造物で、現在はプロヴディフの民族復興期の独立運動の歴史を展示する博物館になっているのだとヒンドリヤンの家振り返り右側の白い建物。西欧の様式と民族復興様式がミックスされた、独特な建築様式のこの家は、アルメニア商人ヒンドリヤンの屋敷。壁のへこみにも絵が描いてある。ヒンドリヤンが商用で出かけたイスタンブールやアレキサンドリアなど、各地で入手した調度品などを展示している更に石畳の坂を上ると中世時代の遺跡としてヒサル・カピヤ門(要塞門)と呼ばれる東の門が残っていた。紀元前4世紀のビザンチン時代のころ、マケドニアのフィリッポス2世によって建てられた門『ヒサル・カピア門』の左手にレリーフ、この人物は誰? ツァンコラヴレノフ(Tsanko Lavrenov)の文字が。ツァンコラヴレノフは、1896年に生まれ、1978年に亡くなったブルガリアの画家および美術評論家。 彼は20世紀で最も著名で影響力のある、独特のブルガリアの芸術家の1人であると ヒサル・カピア門手前の右手の路地ヒサル・カピア門をくぐり石畳を上る。この界隈の旧市街は『プロヴディフの古代都市』として2006年に世界遺産を申請したが20世紀に造られたものが多いとの理由から、実現していないのだと坂を上りきると『聖コンスタンティン・エレナ教会』の塔が見えた。 プロヴディフの旧市内からは、どの方向からでもこの教会の鐘楼が見られるのだと通りの右の門を潜って中に入ると、正面に『プロヴディフ地域民族誌学博物館』の建物が、緑豊かな庭の奥に見えている屋敷プロヴディフ地域民族博物館イスタンブール出身のハジ・ゲオルギが1847年に建てた屋敷を利用した博物館。バロック様式と民族復興様式がミックスされた建築様式緑豊かな庭に咲いていたバラ黑を基調とした外壁に描かれた花模様が目を引く。建築当時の家具調度、民族衣装ブルガリアのバグパイプなどが集められている建物の前は多くの観光客で混雑していた。外観だけを見て外へ出る10:40案内表示があり、壁にはレリーフ。観光案内所の壁にあった右側のレリーフは、ニコラ アルヴァジエフ(1900-1974)の記念碑です。プロヴディフ市政に20年以上携わった作家でもあった人物。彼の最初の本「古代のプロヴディフの陰」は1937年に出版された。1971年の彼の著書「プロヴディフクロニクル」は市民等に大きな関心を呼んだのだと土産物店が立ち並ぶ聖コンスタンティン・エレナ教会1832年に古代キリスト教会跡地に建設されたもの。中に入ると、壁いっぱいに花や鳥が描かれている。奥には民族復興期の巨匠ザハリ・ゾクラフらの手によるイコンもある。隣に併設されているギャラリーにも、16~19世紀のイコンがある正面に『聖コンスタンティン・エレナ教会』の塔教会の敷地に入り26名のツアーはあわただしく進む教会の敷地内のブルガリアでは珍しかった赤の紅葉を楽しむ壁面に立ち昇る蔓振り返る壁一面に蔓が張り付き真赤に紅葉した葉土産物店ストヤン・チョマコフ邸展覧会『ズラトゥ・ボヤジエフ』中には入らず進むプロヴディフの旧市街。自由時間後はここに集合と左手の路地は上り坂。後ほど行った昼食のレストランはこの上石畳を西へ向かうここを左方向へ進み坂道へ道路脇には垂直に近い石垣の壁が立ち上がっていた聖母被昇天聖堂のドーム。 この教会の歴史は9世紀まで遡れるが、現在の建物は1844年に建てられたもの。 ブルガリア独立前1858年からこの教会では、ブルガリア語での奉神礼が行われたことでも有名であると路地に入り近道の石畳を進む10:51路地を出ると正面に現われたのは『ローマ劇場跡』。ここから劇場の下に降りる通路は閉鎖中だが有料旧市街にある2世紀に当時のローマ帝国・トラヤノス帝によって造られたローマ時代の半円形の劇場世界遺産の『ローマ劇場跡』看板の写真から『ローマ劇場跡』の全景 ルーマニア・ブルガリアの旅-続く
2019.12.10
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