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今クール、ドラマは割と豊作だったようで、『重版出来!』とか『ゆとりですがなにか』とか『99.9』とか、面白いものが多いようですが、そんな中、私が楽しんでいるのは『僕のヤバい妻』。スタート当初はアメリカ映画『ゴーンガール』のパクリだとか、色々批判もあったようですが、ギャグ・ドラマとしては相当面白いのではないかと。 ヤバい妻に翻弄される伊藤英明もいいけど、何と言っても木村佳乃がヤバすぎる。食卓に毒入りのご馳走が並んだ今回の分も良かったけど、さて、次回はどうなるのか。キムラ緑子や高橋一生、さらには佐々木蔵之介がどうかかわってくるのかも楽しみ。 さてさて、先日、学会の編集会議があった際、書評を一本頼まれてしまいまして。『ワーキングガールのアメリカ』という本。まあ、私が書評しないで誰がするのか、という感じの本ですしね。この本、著者の山口ヨシ子先生から直接頂いた時にざっと読んではいるのですが、書評するとなると改めてしっかり読み込んでおかなければと思い、今、再読しているところ。 さらに、先日読了した『来し方の記』の後ろに載っていた花曜社の本の宣伝の中に、『相聞』という本の広告が載っていて、それが面白そうだったので、ゲットしちゃった。 この本、折口信夫の許嫁だった女性の息子が書いた本なんですけど、あの折口信夫に女性と結婚するプロジェクトがあったとはかなり驚きで、折口ファンのワタクシとしては興味津々。 ということで、本当は仕事の方で読まなくてはならない本が山積みなのに、それ以外の本にやたらに気を取られる昨今。 まあ、本が読みたくて仕方がない時は、その衝動に任せるしかないかな。ワーキングガールのアメリカ [ 山口ヨシ子 ]価格:1944円(税込、送料無料)"相聞 : 折口信夫のおもかげびと" 【中古】afb価格:1296円(税込、送料別)
May 31, 2016
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全然関係ないんだけど、先週土曜日に京都に出張して「ん?」と思ったことが一つ。 地下鉄の「烏丸御池」駅の地名の発音、っていうか、イントネーションなんだけど、私は当然「からすまおいけ」と言うのかと思ったら、「からすまおいけ」って言うんだね、地元の人は。 あ、これでは分らないか・・・。 つまり、私は「野沢菜茶漬け」と同じイントネーションで「からすまおいけ」って言うのかと思ってたんだけど、実際には「ひまわり咲いた」と同じイントネーションなのね。 変なの、京都人。 さて、昨日読み始めた堀多恵子著『来し方の記 辰雄の思い出』、結局、読んじゃった。 私は恥ずかしながら堀辰雄の小説って一つも読んだことが無いんですけど、堀辰雄っていう人は、この本を読む限り、なかなかいい人だったみたいですな。人間として、好きになれそうな感じの人。大体、奥さんの多恵子さんに対して、なかなか思いやりのある人だったみたい。私は、基本的に愛妻家の男が好きなのよ。奥さんをないがしろにする男って、友達になれない。 で、どうして堀辰雄が愛妻家だったことが分かるかと言いますと、この本の後半は、堀辰雄が奥さんに宛てて書いた書簡集になっておりまして、その奥さんへの手紙が、とてもいいから。 で、それはそれでいいのですけど、この辰雄から奥さん宛ての大量の手紙を読んでおりますとね、昔の人(昔って言ったって、たかが戦前、戦中の時代を生きた人のこと)が、いかにこまめに手紙を書いたかが分かります。 もうね、奥さんに対してだけだってこれだけ書くのだから、おそらく、他の人にも書いていたわけで、一日のうちに少なくとも数通は書いたんじゃないかな。 もちろん、当時は電話だってそうそう使えないわけで、遠くにいる人と連絡を取り合うとなると手紙が一番手軽なわけですけれども、それにしても同じ人に対して午前と午後に手紙を書いていたりすると、すごいもんだなと。 そう言えば、今日の新聞に、夏目漱石に宛てて友人や弟子たちが出した絵葉書が三百通ほど、岩波書店の倉庫から発掘された、ってなニュースが出ていましたけれども、とにかく昔の日本は、それだけ大量の葉書や手紙がじゃんじゃん飛び交っていたっていうことになるわけですよ。 それは一つには、日本の郵便制度がそれだけ優秀だった、ということの証左でもあると思うのですけれども、それと同時に、今でこそ「スネイル・メール(かたつむりメール)」などと揶揄されるようになってしまったトラディショナルな郵便物ですけど、当時の日本人は、そんなことお構いなしに、今の人が電子メールを出すのと同じような感覚で、手紙とか葉書を頻繁に送ったり受け取ったりしていたということなんでしょう。 今の時代、電子メールを一日に何度もやり取りしながら、こういうものがなかった昔の人は一体どうしていたんだろう? なんて、つい思ってしまうけれども、なんのなんの、昔の人だって、今とまったく同じように、「メール」をやたらにやり取りしていたわけですな。 要するに、今も昔も、ある意味ではあんまり変わらないってことですかね。 そう考えると、今の人は昔の人のことをあんまり舐めてかからない方がいいし、逆に、昔の人をあんまり美化しすぎてもいけないんじゃないか、なんて思えてきますな。
May 30, 2016
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プリンスが生前最後に出したアルバム『Hit'n Run Phase 2』がようやく手元に届いたので、聴いています。これ、冒頭に例のプロテスト・ソング「Baltimore」が入っているのだけど、やっぱりちゃんといたステレオで聴くと細かいニュアンスまで聴きとれていいねえ。ヒット・アンド・ラン フェーズ・ツー [ プリンス ]価格:2700円(税込、送料無料) それにしても、1ヵ月以上前に注文したものが今頃届くって。亡くなったおかげで、アルバムが売れて、品薄になっているのかも。それに、アマゾンとかで見ると、今、海賊版的なCDがわんさと売りに出されていて、これはどうなのかなと。 そういう海賊版には手は出さないにしても、2000曲以上あると噂される音源が、この先、順次発売されるのであれば、まあ、楽しみではありますなあ。 さて、昨日、京都の古本屋で買ってきた堀多恵子さんの『来し方の記 辰雄の思い出』をちらっと読み始めてしまったのですけれども。 多恵子さんは、他の本でも堀辰雄のことを書いているそうなので、そういうのを全部読めば分かるのかも知れませんが、この本だけでは、多恵子さんと堀辰雄の結婚の経緯というのはよく分かりませんな。 だってさ、この本によると多恵子さんは、ちょっと健康を害していたため、大学生の弟さんと一緒に軽井沢(当時は「追分」)のとある旅館に避暑をしていたと。で、その旅館は、大学受験を控えた若い受験生たちが泊り込みで受験勉強をしていたのだけど、そこに堀辰雄も居て、そこで二人は知り合うんですな。 で、それがきっかけで二人は結婚すると。この本の最初の8ページくらいで結婚しちゃうのよ。 何それ? まず、軽井沢の旅館に受験生が沢山勉強に来ているというシチュエーションがイマイチ分からない。当時はそういう風習でもあったんですかね? 例えば今、軽井沢に行ったら、そこに全国から集まった受験生が自主的な勉強合宿していて、さらにそこに泊っていた作家と交流するなんてこと、あるのだろうか。 しかも、アレでしょ。堀辰雄は結核がらみで療養しているわけでしょ。でまた結核であることに加えて一回りも年上の男のもとに嫁ぐというのに、多恵子さんの親は何も言わなかったのか? だって、結婚の挨拶をするために友人たちの家を回っているうちに、疲れて喀血しちゃうような人だよ。いいの? 多恵子さんの記述だけみると全面賛成みたいな感じですけれども。 で、思うのですけれども、結局、現代の我々は「結核」というものを理解できていないのではないかと。 現代の我々は、「ストレプトマイシン以前の結核は死病で、しかも伝染病だから、そういう病気に罹った人がいたら、隔離しないといけないのではないか、サナトリウムというのは、そういう人のための隔離病棟なのではないか」と理解しているのではないかと思うのですけれども、ひょっとしたら、案外そうでもなかったのかな? 実際、堀辰雄の追分の家には、室生犀星とか折口信夫とか、そういう文学上の友だちがやたらに遊びに来るし。 私が高校生の頃、同年の友人が結核になったことがあって、その時には、その子と接触があった全学生と教師が感染しているんじゃないかってんで、まあ大騒ぎになったことがありましたけど、堀辰雄の時代なんて、結核がもっと恐ろしい病気だったはずななのに、そういうところに平気で遊びに行ったり、結婚したりするのかねえ?? よく分かりません。 ということで、謎めいた二人の新婚時代の思い出、この先もう少し読み進めようかなと。
May 29, 2016
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伊勢志摩サミットを終えて一つ言えることは・・・オバマさんはいい人だってことですな。 で、思うんだけど、オバピーをさあ、都知事にスカウトするってのはどう? もうすぐ大統領任期切れるし。選挙やったら絶対勝てると思うけど。都知事って、日本人じゃなきゃダメなの? 少なくとも公金私用知事よりいいんじゃない? さてさて、本日は京都まで弾丸出張。疲れちゃった。 っていうか、京都大学、不便なところにあり過ぎ。京都駅から地下鉄烏丸線、東西線、阪神電鉄と3本乗り継いでようやく最寄駅の出町柳まで辿り着いたかと思ったら、さらにそこから徒歩20分って何だよ! 「最寄り」って言葉の意味が分かってねえな! あんまり辺鄙なところにあるので、どのくらいで着くか、時間の見当がつかなくて、安全策をとって早目に家を出たら、1時間も早く着いちゃった。 ということで、時間まで京大周辺の古書店を2、3軒回って、2冊ゲット。 買ったのは、画家のオーギュスト・ルノワールのことを、息子で映画監督のジャン・ルノワールが回想した『わが父ルノワール』(みすず書房)と、堀辰雄のことを奥さんの多恵子さんが回想した『来し方の記 辰雄の思い出』(花曜社)の2冊。前者は初版第2刷、後者は初版第1刷の美本で共に500円ならまあまあの収穫じゃない? 特に花曜社は、我が恩師・須山静夫先生の名著『神の残した黒い穴』の出版元でもあって、この本の巻末にもその本の宣伝が載っていたりするし。 もっとも、こういう仕事とは関係ない本って、最近なかなか読めないんだけどね・・・。早く引退して、好きな本だけ読めるような身分になりたいもんですわ。 ということで、明日の日曜日は少しのんびり過ごして、連続出張の疲れを癒しますかね。【中古】わが父ルノワール (1964年)価格:7538円(税込、送料別)【太田書店】来し方の記・辰雄の思い出 / 堀 多恵子【中古】【中古本】【10P27May16】価格:700円(税込、送料別)
May 28, 2016
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父の俳句集の編集をしているのですが、先日、ワタクシとしては「念校」(=これでいいですよね? と確認するためのもの)のつもりで校正済み原稿を送っておいたら、かなりの分量の修正やら付け加えやらが朱書きされたものが返送されて参りまして。 ひゃー。親父殿も諦めが悪いというか、最後の最後まで頑張りますのお。 でも、まあ、これが「校正作業」というものかな。私自身だって、自分の本出す時は、最後の最後まで直すからね。こうなったら、往生際の悪い親父殿に付き合って、とことんまで修正しますか。どうせ出すなら、納得のできるものにしてあげたいですからね。 さてさて、今日は今日で実習校回りの出張で、知多半島の付け根まで行ってきたのですが、明日は明日で学会出席のため京都に出張でございます。 京都というと、何だかとっても遠いところのような気がしますが、新幹線だと30分ちょいなんだよね。ある意味、通勤圏だ。だからもっと気楽に行くつもりになればいいのだろうけれども、実は私は京都という町がひどく嫌いなもので、心理的にアウェイの土地に行く感じがして、とっても気が重いんだなあ・・・。京都も私のことが嫌いだろうからね。 ま、さっさと仕事を済ませて、お土産買って、帰ってこようっと。
May 27, 2016
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今、名古屋ボストン美術館で「ルノワールの時代 近代ヨーロッパの光と影」という展覧会をやっていて、なかなか良さそうな内容なので、近いうちに行きたいなと思っているんです。何せ私はこの美術館と提携している大学の教員なので、職員証を見せるとタダで入れるのよね~。 が! そんな折も折、入ってきたのはボストン美術館閉館のニュース。2018年年度でもって畳むことになるらしい・・・。 はあ~。そうなんだ・・・。 でも、まあ、納得っちゃ、納得かな。 名古屋規模の街で、既に愛知県立美術館と名古屋市立美術館の立派なのが二つあるんだもの。もう要らないんじゃないの? 企画展だって、それほど魅力的なのはなかったし。1999年にこの美術館ができてから、私、2回か3回くらいしか行ったことないもんね。県美や市美、それに刈谷市美術館とか、企画展の魅力的なところはずいぶん行く方なんだけど。 でまた、名古屋ボストン美術館がある場所が「金山」ってところなんだけど、これがまたビミョー。名古屋駅の近くだったらまだアレだけど、わざわざ金山まで行くかねえ? ということで、名古屋に美術館をつくるなら、もうちょい下調べっつーか、市場調査してからつくらなきゃいかんのじゃない? 見通しが甘いよ。この美術館は、名古屋商工会議所が誘致したそうですが、赤字補てんのために県や市がつぎ込んだお金のうち、20億円ほどがぶっ飛ぶらしい。舛添某の公費私用もひどいけど、こういう堂々とした公費無駄遣いもアレだよね・・・。 ま、そうは言ってもつぶれるものは仕方がない。残念だけど、せめて今やっている「ルノワールの時代」展を楽しんでおきましょうかね。
May 26, 2016
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マクスウェル・マルツの書いた『自分を動かす』という本を読んでおります。 この人、一応「サイコサイバネティクス (psycho-cybernetics)」という概念の提唱者ということになっているようですけれども、もともとは心理学の人ではなくて、整形外科の人なんですな。特に顔の整形の。 えーー。なんで門外漢が応用心理学っぽい自己啓発書とか書いちゃってるの~? って思いますよね? で、この人自身、ちょっとその辺に引け目があるらしく、「門外漢がこの手の本を書いて何が悪い! 狂犬病ワクチンを開発したパスツールは医者じゃなかったし、飛行機を発明したライト兄弟なんて自転車の修理工だったし、アインシュタインだって、あれは物理学者じゃなくて数学者だ!」とか、しょーもない言い訳を言っております。 それはともかく、整形外科の医者だからこそ分かることってのがあるようで。 それはどういうことかというと、例えば整形外科だけに、彼のもとには色々な意味で「顔に自信がない」人がやってくるわけ。 だけど、本人が思ってるほど不細工じゃない人だっている。そういう場合、「あなたは手術なんて必要ないですよ」って説得するんだけど、本人は全然耳を貸さない。 つまりね、不細工かそうじゃないかは、客観的な事実によるものじゃなくて、本人の「自己イメージ」によるわけよ。で、その「自己イメージ」によって人の人生が決まってしまうことがある。 で、そういう患者さんを沢山見てきたことによって、マルツ氏ははたと気づく。自己イメージを改善すれば、その人の人生そのものが改善されるのだと。 ちなみに、この原理ってのは、自己啓発の歴史の中では割と有名な現象で、よく引合いに出されるのはエミール・クーエという19世紀半ばのフランスのサイコロジスト。彼の有名な言葉で、「想像力と意志が喧嘩した場合、必ず勝つのは想像力だ」というのがある。 例えば、床に置いた板の上を歩くのって、簡単でしょ。ところが、同じ板を10メートルくらいの高さに置いて、その上を歩いてご覧というと、大抵の人は二の足を踏む。つまり「歩け」という意志と「落ちたら絶対怪我するな」という想像力が喧嘩したら、必ず後者が勝ってしまうわけ。 だから人間もね、自分についてプラスの想像力を働かせれば、その想像上の自己イメージが勝つ。人は「思いこんだこと」に反応するんですな。 だからね、アレよ、催眠術かけて、「はーい、あなたの腕に火箸を乗せまーす」とか言いながら、普通の箸を乗せても、そこに火傷ができるっていうじゃない。それの、もっと医学的な奴が「プラシーボ効果」って奴だけど。 そう、「プラシーボ効果」が実際に存在するってことが、「人間の思考は現実化する」っていうテーゼにとって最大の要塞なんだよね。プラシーボ効果がある以上、このテーゼって崩せないからね。 で、とにかく、自分に関してプラスイメージを作るというのが、マルツ先生の人生への処方箋となる。もちろん、もっと細かい点があって、それはそれで面白いのだけど、基本はそれ。 ちなみに、「サイコサイバネティクス」とは、「心の舵取り」という意味で、自分の意志でプラスの方向に心の舵を切りなさい、ということなんですな。 ってな感じで、この本の一番の読みどころは、マルツ先生が整形外科医だってことだな。そこから来た経験が、いわゆる自己啓発思想が積み上げてきた智恵にぴたりと符号した、ということ。そこが面白い。 ただ、この本、翻訳がイマイチなんじゃないかと思います。訳者は、プロじゃないもんね。そこがちょっとアレですけど、ワタクシ的には、まあまあの本でした。自分を動かす あなたを成功型人間に変える/マクスウェル・マルツ/小圷弘【後払いOK】【1000円以上送料無料】価格:1620円(税込、送料無料)
May 25, 2016
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アメリカの自己啓発本のスタート地点をどこにするか、まあ、視点によって色々あるでしょうが、一番説得力があるのは「それはベンジャミン・フランクリンである」とすることなんじゃないかなと。 大体、フランクリンというのは、アメリカ独立の立役者の一人であるわけで、その意味でフランクリン以前には「アメリカという国」自体がないわけだし。それに、何と言っても彼は「self-made man」の原点みたいな人で、身をもって「立身出世」の見本を示したわけですからね。 で、それならば日本の自己啓発本のスタート地点は、というと、福澤諭吉の『学問のすゝめ』かなと。 それはそれでいいのですが、さらに言えば、福澤はベンジャミン・フランクリンの影響を強く受けているのだから、その意味で、日本の自己啓発本のスタート地点にもフランクリンの影がチラつく。 つまり、日米の自己啓発本の系譜、そのどちらを見ても、結局「フランクリン始まり」なんだと。 そういう風に言えると、すごく面白いわけですよね~。 だけど、ここで問題が一つ。 福澤がフランクリンの影響を受けたという決定的な証拠がない。 爆! だよね。 だけど、状況証拠は沢山ある。 例えば福澤が作った小学生向けの教科書『童蒙教草』に、福澤自身がフランクリンの格言を翻訳した部分がある。だから、福澤がフランクリンを知らなかったはずはない。 また、『福翁自伝』にしても、『フランクリン自伝』が日本に紹介された年に執筆が始められていて、内容的にも明らかにそれを踏まえているところがある。 あと、明治期のお抱え外国人B・H・チェンバレンが、福澤の小伝の中で「福澤の信条はフランクリン主義であった」と評している。 また福澤は『西洋事情』の中でアメリカ独立宣言全文を翻訳し、さらに『学問のすゝめ』の冒頭、「天は人の上に人を造らず・・・」の一節は、まさにそのアメリカ独立宣言から意訳したものだが、アメリカ独立宣言の起草にはフランクリンが関わっている(ただし、独立宣言の基本的な部分はトマス・ジェファソンの筆になる)。 その他、福澤の宗教の軽視、プラグマティックなモノの考え方など、そっくりフランクリン的だし、両者ともその肖像画がそれぞれの国の高額紙幣の図案に採用された、などなど、共通点はやたらにある。 だけど、決定的な証拠がないんだよな~。例えば、徳富蘇峰がフランクリンの影響を受けのを示す数多くの証拠と同じくらい、明確な証拠があるといいんだけどね。 それにしても、不思議だなあ。カーライルがフランクリンをして「すべてのヤンキーの父」であると書き記したり、マックス・ウェーバーが『プロ倫』の中で、フランクリンを「資本主義の精神の体現者」とした、みたいな決定的なフランクリン評が福澤にない、というのは。 まあ、でも、そういうことにしておこうかな。歴史ってのは、結局、物語だからね。進歩がまだ希望であった頃 フランクリンと福沢諭吉 【中古】afb価格:1080円(税込、送料別)
May 24, 2016
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今日、研究室のパソコン(Windows 8.1)が、突然、Windows 10 にアップグレードしてしまいました。 まあ、前々から「Windows 10 にしろ」的なポップアップは出ていたものの、毎回無視していたのですが、今日はスリープ状態になっていたパソコンの画面に、突然「アップグレードを開始します」という画面が出てきて、しかもそれには拒絶するボタンもなく、いわばなすすべもなくアップグレードが始まってしまったという。 で、結局、そうなっちゃった・・・。せっかく8.1に慣れたところだったのに。別に8.1で何の不満もなかったのになあ。 噂で、10は結構、不具合があるとか聞いているのですけど、こちらの意に沿わないアップグレードをやられて、それで不具合が出たのではたまらんなあ。 ネットで見たら、私と同じような目に遭っている人が沢山いるようですが、一体、どうなっているのでしょうか? なんか、納得できない・・・。
May 23, 2016
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いや~、ようやっとスランプを脱して、草稿を書き上げちゃった。 といっても、書き過ぎちゃったので、削らないと・・・。半分くらいの長さに(爆!)。 でもね、白紙の状態で「書かなきゃ・・・」と思っているのと、既にある程度仕上がっているものを「減らさなきゃ・・・」って思っているのではプレッシャーが全然違う。ゼロから書くのは辛いけど、既にあるモノを減らすのはね、最終的には「エイヤッツ!」って、気合いでバッサリやりゃーいいんだから。 お金ない人がお金を稼ぐのは大変。だけど、お金持ちが持っているお金を蕩尽するのは簡単だから。それと同じよ。 で、ゴールが見えない時は、目を三角にして頑張るんだけど、ゴールが見えちゃうと途端にスローダウンして、のんびりやりたくなるのが私の悪いクセでございまして。 だからね、今日はもうそろそろスローダウンに入るの。だって、テニスの錦織選手の1回戦もあるでしょ。応援しなきゃ。 っつーことで、スランプを脱出した自分を褒めてあげたい今日のワタクシなのであります。
May 22, 2016
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結局、オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』、読んじゃった。 これ、ハクスリーが実験的にメスカリンを飲んだ時の体験談なんですけど、そもそもメスカリンというのは、メキシコとかテキサスあたりに生えているペヨーテというサボテンに含まれる成分で、この地に住む原住民がこのサボテンを神聖な食べ物として食べていたらしいんですな。 で、1886年にこのサボテンの成分の分離と合成に成功し、毒性の少ない、しかし人間の意識の質を変えてしまう物質として知られるようになり、また、これはアドレナリンなど、人間の体内で生産される化学物質とも酷似していることも判明したと。 で、1953年のこと、ハクスリーは、この医者立ち会いのもと、メスカリンの人体実験に参加するんですな。 で、10分の4グラムほどのメスカリンを飲んでみた。すると・・・ ま、メスカリンの影響は人によるので、一般化は出来ないようですけれども、ハクスリーの場合は、何かを幻視するような体験は起らず、ただ目にするものの意味がハッキリ分かるようになったというんです。 たとえば、ボッティチェリの「ユデテの帰還」なんて絵を見ると、描かれている人物たちの着ている服の皺に目が行ってしまう。それまでは人物の方に気を取られて分らなかった、その服の皺の意味が突然分かるようになる、というわけ。その辺、面白いのでハクスリー自身の描写を引用しましょう。(引用) これらの人物の非常なる憂鬱とこれらの人物の創造主たる画家の生ま生ましい息苦しくなるような感受性は、人物の描き記された行動にではなく、描き出されたその身振りや顔にでもなく、彼らが纏っているタフタのスカートとかサテンの肩掛けや胴着の浮彫を思わせる鮮明な輪郭とその肌理に表現されている。ここには滑らかな表面など一インチもなく、平和や確信の時など一瞬もなく、微細な襞や皺の絹の荒野があるばかりで、一つの色調から他の色調へ、一つの定かならぬ色合いから別の定かならぬ色合いへ絶えず転調していく――これは巨匠の手の完璧な確かさで描き出された内面の不安にほかならない。人生においてはことを起こすのは人間で決着をつけるのは神である。造形美術においてはことを起こすのは主題であり、決着をつけるのは究極的には芸術家の気質であり、近似的には彫り刻まれ、描かれた着衣である。(40) 万事こういう調子ですから、メスカリンを飲むことによって、あるものに目を向ける度、そのものに関する今まで気付かなかったことが見えてしまうという、そういう体験をハクスリーはしていくわけ。で、ハクスリーは「こう見えなくちゃいけないんだ。これこそものの真の姿なのだ」と譫言のように言い続ける。 だけど、ハクスリー曰く、メスカリンを飲んでいる間は、ただただモノがその真の姿を開帳するのに見とれるばかりで、能動的に自分から何かをしようという意志がまったく生じなくなる、ということも発見するんですな。 ハクスリーは、「Mind at Large」(=遍在精神)というものを措定していて、人間ってのは誰でもこの遍在精神の一部なんだけど、人間は動物である以上、生存し続けるという使命がある。ところが脳が100%の仕事をしてしまうと、メスカリンを飲んだ時のように、生存のための努力をしなくなってしまうので、そこで「減量バルブ」を作り出し、生存のために必要なほんの少しの意識だけが使用されるようにしている、というのですな。 でまた、人間はそのほんの少しの意識で掴み取った現実に意味を賦与するために「言語」を作り出したと。で、その結果、言語のフィルターを通して現実を見るので、もともと全体のほんの一部しか示されていない現実に対してすら、リアリティを感じられなくなってしまったと。 ただしある種の人々は、その減量バルブを迂回するバイパスを持っていて、それで普通の人間には見えないようなものを見る能力を持っている。天才とか、厳しい修行を積んだ人ですな。もちろん、それとて「宇宙の至るところで起っているすべて」の知覚ではないのですが。 だけど、メスカリンがアドレナリンの効果に酷似しているとなると、例えば人間が飢餓の果てに、あるいは厳しい修行の果てに、何か神聖なものを幻視したとすれば、それは脳内に生成されたアドレナリンのような化学物質によって減量バルブにバイパスが出来たためにそうなったのだとも考えられる。 もっと言えば、もともと人間は遍在精神の一部なので、その現状を化学の力で取り戻せば、遍在精神に戻れると。つまり、ここにおいて従来「奇跡」とか「特権」と考えられてきたものは、すべて化学的なものに還元されてしまうわけ。 そういったことを、ハクスリーは自らのメスカリン体験の中で確信していくわけですな。 だから、メスカリンとかLSDとか、そういうものは、人間が本来の人間の能力を再獲得するための道具なわけですよ。そういう位置づけなわけ。だから、「麻薬は駄目」的な先入観では、どうして1960年代にLSDがもてはやされるかってことは理解できない。 ま、そんなことが分かる本でございます。 でさあ、そのハクスリーに影響を受けてカリフォルニア州ビッグサーに作られたのが「エスリン研究所」。これ、日本では「エサレン研究所」と書かれることが多いのですが、「Esalen」の発音は「レスリング」と同じだそうですから、「エスリン」と記した方がいいんですって。 で、その「エスリン研究所」が実際にはどんなところだったのかを記した本が、『The Upstart Spring』という本で、『エスリンとアメリカの覚醒』として邦訳もされております。エスリンとアメリカの覚醒 [ ウォルタ-・トル-エット・アンダ-ソン ]価格:4104円(税込、送料無料) これも読んじゃった。原稿書けないから。 で、これ読むと、エスリン研究所がどんなところかってのが大体分かってくる。 結局ね、エスリン研究所っていうのは、何か一貫した方向性があるわけではなくて、ハクスリーが措定したような、「人間本来の能力(=ヒューマン・ポテンシャル)」を研究する、ということであれば何でもござれ的な感じで、誰にでも開放されたオープンな学園なんですな。 だから、そういう方向性のことをやっている連中がゲストとしてやってきては、セミナーとかプログラムを展開する。そして、それを体験したい奴がそこに参加すると。 だけどそのゲストが凄くて、アブラハム・マズローが来る、ティモシー・リアリーも来る、アラン・ワッツが来る、ロロ・メイが来る、フリッツ・パールズが来る、ウィル・シュッツが来る、ってな感じで、エスリン研究所を舞台にヒューマニスティック心理学、ゲシュタルト心理学、禅、ヨガ、太極拳、ロルフィングなんかの実験が繰り広げられ、それに加えて、もともとここは温泉ですから、男も女もみんなフルヌードで温泉に浸かると。 そういうところなんですな、ここは。それで、1960年代にはアメリカの知の最前線であり、また1970年代には、めちゃくちゃ胡散臭いところと批判もされ、そうした毀誉褒貶をくぐり抜けて今日に至る的な。 ま、とにかく、ハクスリー以来、主としてカリフォルニアを舞台に、人間本来のポテンシャルを再獲得しよう!っていうムーヴメントがあった、っていうことはよく分かります。そして、それが「自己啓発ムーヴメント」の一環であったということも。 原稿書けないと、色々なこと勉強できるね!
May 21, 2016
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原稿、書けないなら読むしかない。そう思って、このところあれこれ読んでおります。 さっき読み終わったのは、『How to Be Your Own Best Friend』という本。邦訳も出ていて、『ベスト・フレンド』というタイトルになっております。 これね、原書だとわずか56頁という薄ーい本。なのに、アメリカでは70年代初頭に大ベストセラーよ。 内容はと言いますと、二人の人物――まあ、セラピストと患者って感じなんだけど――の対話のみ。要するに、『嫌われる勇気』みたいな感じで、患者の方が色々疑問を呈すると、セラピストの方が快刀乱麻を断つみたいに一刀両断で答えるという方式。 それで、何が書いてあるかというと、まあ「性善説」ですな。 人間ってのは本来、いいもんだと。だけど、幼い時の環境とか、成長する過程で色々余計なものが耳に入ってきて、それが人間本来の良さを伸ばすことを阻害してしまうと。例えば、幼い時に受けた両親からの否定的な言説がずっと残っていて、その恨みをいつまでも根にもち、「どーせ俺は駄目なんだ」的な思い込みから、結果として両親が予言したような否定的な自己になってしまうとか。 だから、そういうのはもう忘れちゃって、「いいんだよ、いいんだよ、君は君本来の良さを自分で認めて、前に進めばいいんだよ」ってな感じで自分を励ます。そうやって解放すれば、本来の良さが出てくるんだよ、的な。 だから、「自分自身が、自分にとっての最良の友人になりなさい」っていう、最終的な教えが出てくると。 で、別な本、『Oracle at the Supermarket』に寄りますと、こういう考え方の原点ってのは、アブラハム・マズローあたりになるようですな。心理学の伝統から言うと「第3の波」に所属する人たち。人間の内側はいい、悪いものは外からやって来て人間を束縛する、だから、その外側にへばりついたものを取り除き、内側にある人間本来の良いものを出していこう!って言う奴。フロイドとかそういう前の世代の連中が、どっちかっつーと「人間の内側に悪いものがある」的なことを言っていたのとは真逆。 この系統だと、マズローより前のアルフレッド・アドラーもそうだよね。「いいものを引き出すために、励ます」なんて考え方も、『ベスト・フレンド』と呼応しちゃってるし。 ま、とにかく、この本はそういう時代の波の中で売れに売れた本だ、ってことが分かったから、ま、いいか。 それから、牧野智和さんの書いた『日常に侵入する自己啓発』って本も読んでいるんだけど、こちらは日本における自己啓発本の研究。 細かい議論なので、この本全体をまとめるのは難しいんだけど、大きな傾向として見ると、日本人の場合、男と女で自己啓発本の種類がかなり異なっていて、男の場合は、やっぱり「仕事」ってのが大きな柱になってくる。だから自己啓発本も、仕事にまつわるものがすごく多い。 対して女の方だと、「自分らしさを発揮するにはどうすればいいか」ということが、女性向け自己啓発本の柱。確かに女性の場合、人生に選択肢が多いわけで、仕事する/しない、結婚する/しない、子ども産む/産まない、とか、色々ある。だから、女性は常に選択を強いられるわけよ。そこで、自分らしい選択ってのは何か、ということが問題になるわけだけれど、それに対する指針を示すような自己啓発本がジャンジャン出る。 で、例えば「断捨離」ブームとかも、いわばその一環で、モノを棄てるってのは「これ、今の自分にとって必要か?」を問うことであるわけで、それも選択ですよね。その選択を果敢にすることによって、今、自分はどういう自分になりたいのか、っていうことを考える動機になる。その意味で、断捨離もまた「自分探し」ってことになるわけ。 ってなことが色々勉強になります。 で、牧野さんの本、すごくいい本なんだけど、いかんせん、書き方が難しいんだよね。これだけの内容があれば、もっと面白く書けそうなものなのに、書き方が学術書のアレだから、読む人が限られちゃう。ま、それは本人の資質の問題だから仕方ないけど。真面目なんだよね、この人。 ま、それはともかく、牧野さんによると、外国の自己啓発本がえらい勢いで翻訳され始めるのは1990年代くらいからなんだそうですけど、確かに外国物の自己啓発本には、それまでの日本の自己啓発本にはない新奇な側面が多いとはいえ、まったく別種のものとはいえなくて、むしろ、日本の自己啓発本が既に広めていた概念を、それら外国物の自己啓発本がちょっと別の視点から総まとめしてくれたようなところがあると。 だから、もともと素地は出来ていた、というか、外国物の自己啓発本が根付くだけの条件が揃っていた、というところはあるみたいね。 そのことを敷衍して考えてみれば、中村正直の『西国立志編』が入ってきた時も、日本の儒教的・武士道的倫理と、西欧の労働倫理とが近似的なものであったからこそ、それが受け容れられたのであって、19世紀末と20世紀末で、外国物自己啓発本が日本に入っている時の事情は同じだった、という言い方もできる・・・かもね。 ま、色々な本を読みながら、そんなことを考えていた次第。
May 20, 2016
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ミスドのクロワッサン・マフィン、いまテレビで宣伝している奴、前から食べたかったんだけど、今日、食べちゃった! そしたら・・・ う、まーーーい! めちゃくちゃ旨いじゃん、これ! 今日食べたのは、チーズクリーム入りの奴。わたくし的にはヒットだわ~。 ミスドの新製品、時々、「イマイチかな?」ってのもあるけど、これはいいと思います。教授のおすすめ!ってことでひとつ。 まあ、ドーナツは美味しかったんだけど、仕事面は停滞中。 すごいスランプ。全然書けないの。私にしては珍しいかな、これほど書けないのって。猿が木登りのやり方忘れるくらい、珍しいんじゃない。 だけど、こういう時もあるよね。 こういう時は、逆に、仕事から離れた方がいいのかも。 ま、とりあえず、明日以降、頑張りまーす。
May 19, 2016
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家内と、どういう声が好きか、という話をしておりまして。 家内曰く、好きな声というのは明確にあるが、同性の声よりも異性の声の中に好き嫌いがあると。なるほど、そうかも知れません。 では私にとって好ましい異性の声とはどんな声か。 もちろん、家内の声です。(100点!) ま、それは別として、傾向としてどんな声が好きかと考えて見たのですが、高い声と低い声だったら低い声の方が好きかな。落ち着くからね。 で、低い声の、さらにその中の質を考えてみると、私は「甘い声」が好きなような気がする。 例えば、スザンナ・ホフスのような。スザンナ・ホフスって分かる? バングルスのボーカル。バングルスって分かる? 「エターナル・フレーム」を歌ったグループ。バングルス「エターナル・フレーム」 あ、あとね、初代峰不二子の声も好き。二階堂有希子さんの声ね。 私の場合、男でも低くて甘い声が好きかな。例えば細川俊之さんの声とかね。 で、家内曰く、彼女が好きなのは、低くて、時折かすれる声なのだそうで、例えばケヴィン・ベーコンの声がその例だと。 ケヴィン・ベーコンって分かる? 映画『インビジブル』で透明人間になって悪いことばっかりする邪悪な男の役をやった奴。(わざと悪役の例を挙げてみた。嫉妬、嫉妬。) ちなみに私は、やろうと思えば(あくまでもやろうと思えばですけど)、「おば様悩殺ボイス」というのを出すことができます。 でも、とにかく、声って大事だよね。世の女性たちは、お化粧なんかにうつつを抜かすより、自分の発声に気を使った方がより効果的なんじゃないかと、私なんかは思うんですけどね。
May 18, 2016
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大学図書館には相互貸借制度というのがありまして、自分が所属する大学の図書館にない本でも、他の大学にあれば、それを取り寄せてもらえる。自分が必要とする図書・資料の全てを持っている大学図書館なんてあるわけないので、研究者であれば当然、この相互貸借制度を利用することになります。 で、私も日常的にこの制度を使うわけで、今日も図書館から「相互貸借の図書が届きましたので、取りに来て下さい」という連絡を受け、受け取りに行ったと。 で、今日、私が受け取った本は、「富士常葉大学附属図書館」のシールが貼ってありましたので、ああそうなのかと思ったのですけれども、よく見るとその本には別に「飯島伸子文庫」というハンコが押してある。ん? 何この「飯島伸子文庫」って? で、調べてみたら、飯島伸子さんというのは日本の環境社会学の権威、「環境社会学会」の初代会長を務められた方なのだそうで。飯島先生は、東京大学、桃山学院大学、首都大学東京で教鞭を執られた後、富士常葉大学に移られ、そこで2001年に急逝されたと。 で、飯島先生が遺された本だとか資料だとかが膨大な量があって、それが富士常葉大学に寄贈されたのですが、そのままでは死蔵してしまうということで新たに「飯島伸子文庫」を創設、科研費をとって数年の年月をかけてそれらを分類・整理し、後に続く学者たちが利用できるようにした。今日、私が受け取った本も、そのうちの一冊だったわけですな。 ふーーん。寡聞にして存じ上げなかったですけれども、そういう偉い先生がいらして、またその先生が遺されたものを活用できるようにした人々の努力があったわけね。なんか、いい話。 全然関係ないけど、三島賞受賞に際し、いい歳こいて失礼極まりない応対をしたという蓮實某の言動より、よほど清々しいものを感じますな。 ま、せっかく優れた研究者のいわば遺品を託されたのですから、それを使ってせいぜい、いい研究をしましょうかね。
May 17, 2016
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カリフォルニア州ビッグ・サーにある「エサレン研究所」のことを調べていたら、そもそもここの精神的バックボーンに、イギリスの作家オルダス・ハクスリーの存在が大きかった、ということが分かってきまして。 どうもハクスリーが、人間は脳が持つ本来の能力の10%も使っていなくて、逆にそれ100%使っちゃうと大変なことになるので、そうならないように、10%しか使えないようにプログラミングされていると。そんなことを主張していたらしいんですな。 で、だからそれをもっと使えるようにしたらいいんじゃないの? っていうのが、「エサレン研究所」が押し進めていた「ヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメント」の基本的概念だったと。 で、じゃあ、どうやって脳の本来の能力を発揮させるかというと、LSDなどの薬を使って、脳のプログラムを一時的に凍結させてしまう。というわけで、LSDが人類の可能性を追求する最前線のモノとして注目されていたと。 ま、そういう話らしいんですけど、そうなるとやっぱりハクスリーの本、読んでおかないとまずいのでしょうな。【新品】【本】知覚の扉 オルダス・ハクスリー/著 河村錠一郎/訳価格:972円(税込、送料別) 読むべき本がどんどん増えるよ~。 ところで、人間の脳が本来の能力を発揮したら大変なことになるという「お噂」は、現在でも、例えば映画『ルーシー』のテーマだったりして、生き残っているわけだよね。LUCY/ルーシー【Blu-ray】 [ スカーレット・ヨハンソン ]価格:1500円(税込、送料無料) で、まあ、こういう「お噂」が「自己啓発」という思想の背景にあって、「本来の人間は、こんなもんじゃねえんだ~!」っていう、自己を解放すれば、もっとすごい世界が実現するという考え方の根っこがあるんでしょうな。 ま、面白いものでございます。
May 16, 2016
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書かなきゃならない原稿があるんですけど、これがどうにも捗らなくて。捗る、捗らないって話じゃなくて、ノリが悪いんですな。なんか一つ壁があって、それが乗り越えられないものだから、全然前に進まない。これでその壁を乗り越えちゃうとね、その時点でノッて来て、そうなればそれこそあっという間に書き上げちゃうのですが。 だものだから、ついつい原稿書き以外のことに手を出してしまうという。 で、前に録画してあったNHK-BSの特別番組『Prince 創造にみちた天才の軌跡』っていうのを見ちゃった。 で、これ1時間ちょいの番組なんですけど、プリンスの業績の回顧としてまあまあの出来。踏まえるべき点は一応踏まえていて、もちろん熱狂的なファンとしては、もっと色々見せるべきものがあるだろうと言いたいところもありますが、時間制限を考えればよく出来ているのではないかと。 ただ、最後に「パープルレイン」のPVを全曲通しで見せて終り、というあたり、「ああ、やっぱりそういう風に落ち着かせちゃうわけね」というのがあって、そういう意味では構成が予想通りというか、月並みっちゃ月並みだったかな。 でも、これ、プリンスの何たるかを語る素材にはなるので、「アメリカ文化史」の授業で見せちゃおうかな。ちょうど授業一回分で紹介できるしね。 それから、もう一つ、岡崎武志さんのブログ見ていて『パパと呼ばないで』の話が出てきたので、懐かしくなってついネット上に出ている第1話と第2話と第3話の短縮版を見ちゃった。 でね、これ見ると、やっぱいいんだわ。「ちー坊」を演じる杉田かおるが可愛くて。でまた大坂四郎さんとか、三崎千恵子さんとか花沢徳衛さんとか、脇がまた良くてね。もちろん石立鉄夫も良いし。 お金持ちになったら、このドラマのDVDセット、絶対買おうっと。ついでに『雑居時代』のDVDセットも買おう。 というわけで、そんなものばっかり見て、ちっとも原稿が進まない私なのでした、とさ。今日も・・・ダメな日だねえ・・・。
May 15, 2016
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このところ、最近のメインの関心事たる自己啓発に関する各種資料を読みながら、あれこれ検討していたのですけれども、なかなか思うように考えがまとまりませんな。 ま、それでも一つのコアとして、ベンジャミン・フランクリンが、自己啓発の歴史の中で大きな位置を占めるのではないかという考えがまとまってきたかも。 というのは、フランクリンの生きた時代ってのは、アメリカがイギリスから独立し、国として成立する時期でしょう? そこに時代的な大きな転換点があるわけよ。そういうことが背景としてあって、「アメリカ人」としてのアイデンティティを模索する中で、フランクリン的な「勤勉」とか「誠実」とか「節制」とか「純潔」とか、そういう徳目が出てくると同時に、「個人としての幸福の追求」という大テーマが出てくる。これがさ、結局のところ、その後の自己啓発の概念の根幹としてあるんじゃないかと。 でまた、そうしたアメリカ的な自己啓発概念が日本にどういう感じで入ってきたかっつーと、やっぱり、明治維新という歴史的な時期が係わってくるわけですよ。丁度フランクリンが生きた時代のアメリカと同様、日本でもその時期、政体の大変化があって、そこで士農工商の階級システムが崩れ、「個人が頑張れば、頑張った分だけ出世できる」的な、つまりは「個人としての幸福の追求」ってものが出てくる。 ちなみに、そうした時に、じゃ、その路線で頑張りましょうと思ったのは誰かっつーと、「農工商」の人たちよりはむしろ「士」の人たち、つまり薩長とか、そういう地域以外の出身の、冷や飯食わされることになった「士」の人たちだったらしいけどね。 ま、とにかく、そういう時に、頑張ろうと思った人たちを励ましたのが、福澤諭吉の『学問のすすめ』だった。で、福澤ってのは、フランクリンの影響大の人だから、福澤を通じてフランクリンの精神が日本人に植えつけられたと。 そういう意味で、アメリカにおいても、日本においても、フランクリンってのがかーなーりー重要だったんじゃないかと。 で、もう一つ、この時期に日本人にとって自己啓発のよりどころとなったのは、サミュエル・スマイルズの『西国立志編』だったのですが、これを翻訳した中村正直ってのは、当時儒学の最高峰の学者さん。 で、彼がイギリスに行きたがったのは、先進国イギリスの科学技術的な成果を知りたいということもあったのだけれども、それ以上に、イギリスには一体どんな「精神的バックグラウンドがあるんだろう?」ということだったらしい。 で、イギリスで色々な人に、イギリス人の精神的支柱って何?って聞いて回ったらしいのだけど、その揚句に「これ読めば分かるよ」って手渡されたのがサミュエル・スマイルズの『Self-Help』だった。 で、中村正直はこの本読んで仰天する。そこにはイギリス人の倫理が書いてあったから。 で、間違えちゃいけないんだけど、この時中村正直が驚いたのは、イギリス人の倫理が優れていたから、ではないんだなあ。 そうじゃなくて、イギリス人の倫理も、日本人と同じ位優れているということに気付いたから。というか、日本人の儒教的な倫理、あるいは武士道的な倫理と、イギリス人のそれが、案外近いということが分かったんですな。まさかイギリス人に、儒教的・武士道的な倫理があるなんて思ってもみなかったので、それで驚いたわけ。イギリス人なんて、もっと下等なもんだと予想していたわけよ。 で、私思うのですが、福澤がもたらしたフランクリン的な生き方にしても、中村が紹介したスマイルズ的な倫理観にしても、日本人の目から見たら、「新規」なものではなかったのではないかと。 逆に、日本人がもともと持っていた「勤勉」「誠実」「節制」「正義」「倫理」みたいなものと、あまり差がないものが、イギリスやアメリカの国民の根っこにもあった、ということに気付いたからこそ、「おお、やっぱりそうか!」的な「アハ体験」となり、それで、そういうものがすんなりと輸入されたのではないかと。 とまあ、日本に、アメリカ由来、あるいはイギリス由来の自己啓発思想が、割と抵抗なく入って来る理由として、そういう同質性がもともとあったんじゃないかと。 同じことがスピリチュアル系のことにも言えて、例えばスピリチュアルの人たちがいう「輪廻転生」の概念とか、キリスト教国では批判的にみられることの多い言説も、もとから「生まれ変わり」なんて概念が自然にあった日本では、すんなり入って来ちゃうとかね。「輪廻転生」を信じるとか言ったおかげで、シャーリー・マクレーンなんかは友人から気が違ったんじゃないかと心配されちゃうわけですけど、日本だったら、別にね。「私、江戸時代には大店の娘だったんです~」とか言っても、それほど仲間はずれにされないでしょ。 ま、そんな感じで、日米の自己啓発的な関係を考えていたのですけれども、どうなのかね。 だけど、アメリカの場合、自己啓発を支える世代ってのがあって、それは第二次大戦後のベビーブーマーなんだよね。別名、「ミー・ジェネレーション」と言って、「自分のこと」に関心が強い世代。スポック博士の育児書を参考に育てられたおかげで、躾とか、そういうのが十分ではなく、我がまま一杯に育った世代。 で、この世代の中からウーマン・リブ運動も出てくる。女性が、家庭のために自分を犠牲にするのは嫌だ、自分だって自己実現したい~って言い出した。これも、結局、自己啓発なわけよ。 で、ここでもやっぱり、フランクリン流の「個人としての幸福の追求」ってのが出てくるわけ。それを女性が言い出したら、ウーマン・リブになるっていう。 てなわけで、アメリカの場合だと、自己啓発に一番敏感に反応するのは「ベビーブーマーだ」っていうものがあるのだけど、じゃあ、日本では、自己啓発の主体になる世代ってのはあるのか、っていうと、どうなのかなあ。そこが分らない。日本の場合、別にねえ、アメリカの場合ほど、「この世代が」ってことはないような気もする。今時の若い人だって、結構、スピリチュアルにはまるんじゃないの? いや、そうでもないのかな。やっぱり、アメリカと同じく、団塊の世代が自己啓発世代なのか・・・? ま、その辺がね、まだちょっとよく分からないところでありまして。 でも、原稿には締切ってものがあるし、そろそろこの辺で、書き始めなきゃってところもある。しばらく、勉強漬けになりそうな感じでございます。
May 14, 2016
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なんかね、今日は「肉が喰いたいな~!」って気がしたの。そういう時、ない? それで、今日は学祭がらみで大学がお休みだったこともあり、お昼を外食することにしました。で、向かったのは、割と庶民的に「ブロンコビリー」。そりゃ、そうよ。そうそう高級なステーキハウスなんか行けやしない。 それで私はガッツリ、ステーキ。家内はブロンコビリー特製のハンバーグ。樽状で来て、テーブルに来てから店の人が半分に割って、その割った面をジュ~って焼く奴。 でまた、ブロンコビリーって、サラダバーがあるじゃん? それで皿に山盛り2杯くらいのサラダを爆食い。学生時代か、っていうくらい肉と野菜を食べまくり。 だけど、やっぱり五十代と学生時代は違うな、って思うのは、お昼にそれだけ食べちゃうと、その後全然お腹が空かないっていうね。 ま、とにかく、とりあえず「肉が喰いたい」っていう願望は、これで満たされた次第。 で、その後、ちらっとユニクロを覗いてちょこちょこ買い物をしたり、最近、家の近くの某スーパーが改装され、ブックオフが併設されるようになったので、その辺を覗いたりしながら帰宅。 というわけで、今日は気分転換的な位置づけの一日となりました。だけど明日からの週末は勉強するよ。5月中に済まさないといけない仕事があるのでね。頑張るぞ~!
May 13, 2016
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父の俳句集の編集が大詰めに来ております。 大体、素人の作る俳句集というのは大概自費出版であることが多いんですけど、それにしても、そういうものを数多く観察していると、ISBNが付いてないことが多い。 ISBNというのは、「インターナショナル・スタンダード・ブック・ナンバー」の略で、一般的に言えば、これが付いているものが「本」と見なされる。逆に言うと、これがついていないものは、本というよりは紙の束ということになってしまうんですな。 だから、せっかく作る父の本ですから、自費出版とは言え、ISBNを付けましたよ。その辺は、抜かりなく。 それにしても、本を作ってあげると言い出してからの父の喜びようというのはすごいもので、やっぱり人は自分の書いたものが本になるということが嬉しいんですなあ。 今回は、出版に魅せられた男である私の特性を活かした、いい親孝行ができました。
May 12, 2016
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ひゃ~、待望の『フォークナー』最新号(18号)が出ました~! この号には、私も文章を書かせていただいたのですけれども、やっぱり自分の書いたものが掲載されている雑誌というのは嬉しいもので、今日、自宅に届けられたその雑誌をためつすがめつ眺めております。 ちなみにこの雑誌は、日本フォークナー協会が毎年出しているもの。フォークナー研究というのは、アメリカ文学の幅広い研究領域の中でも、いわば「本丸」みたいなところで、ここの会長になられる先生は、日本アメリカ文学会の会長経験者ばっかり。そんなところに拙文を書かせてもらって、しかも、私はフォークナー協会の会員ですらないのに書かせてもらって、ちょっと名誉~って感じです。フォークナー(第18号) [ 日本ウィリアム・フォークナー協会 ]価格:1890円(税込、送料無料) だけど。 この雑誌の今号は、日本におけるフォークナー研究の泰斗であられた故・大橋健三郎先生の追悼号的な側面があって、健三郎先生への追悼として行なわれた「フォークナー研究の現在と未来」というシンポジウムが誌上再録されているんですな。 それはつまり、大橋健三郎先生を慕う大勢の弟子筋の皆さん、それも日本アメリカ文学会の中心におられるような優秀な研究者の皆さんが、力を合わせてこういうシンポジウムを打ち、こういう追悼号を出されたということでありまして。 一方、私はというと、アメリカ文学会を牽引されたもう一人の大橋先生、すなわち大橋吉之輔先生の弟子なのですが、健三郎先生とは対照的に、多くの弟子を育てるということをなさらなかった吉之輔先生の方は、亡くなられた後、追悼のための大きな企画があったわけでもなし。年年歳歳、その存在感が薄れていくままになってしまっている。 だから健三郎先生を追悼するこういう華々しい企画を見る度に、私の心には一抹の「申し訳なさ」が湧き起るのでございます。 しかし、まあ見ていて下さいな。そのうちに何とか、健三郎先生追悼に負けないような「吉之輔先生追悼」の何かを、私は出すつもりですから。
May 11, 2016
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夕方の同僚たちとのコーヒー・ブレイクの話題で、今評判だという「8時間ダイエット」のことを耳にしまして。 なんでも食事時間を一日の内の8時間に限り、残りの16時間を絶食すると、ダイエット効果が非常に高いと。 これって、昨年私がやった「朝食抜きダイエット」と同じですな。朝食を抜いて、お昼と夕食だけしっかり食べる。すると、16時間の絶食時間が確保できるもんね。実際、私も短期間のうちに8キロ痩せたし。 で、そんな話の流れで、色々な食の話題になりまして。 例えば、今、ヨーロッパで、「おにぎり」の人気が急上昇しているのだとか。 まあ、考えてみれば、生魚が上に乗っているスシより、外国人には敷居が低いのかもね。 とはいえ、イギリス人のR先生によると、日本に来た当初、米の飯は結構辛かったと。 つまり、日本の場合、食事というのは米の飯を食べるのがメインで、そのためにおかずがある。しかし、イギリスにはそういう意味での主食という概念がないので、ひたすら米を食べるというのが訳が分らなかったと。 うーむ。なるほど。 だけど、日本人的には、旨いよね、米の飯。先日も実家で鰻屋さんに食べに行ったのですけれども、鰻とタレの滲みたご飯がグビっとまとまって喉を通過していく時の幸せな感じ、あれはたまらんからなあ・・・。 そんなR先生も今では「お米大好き」になったそうですが、そんなR先生が今でも苦手とするのは、千切りのキャベツだそうで。キャベツを生で食べるという習慣は、イギリスにはないのでね。 でも、トンカツとか食べる時に、欲しいよね、千切りキャベツ! むしろワタクシ的には、マッシュルームを生で食べる欧米人の感覚がイマイチ分からないという。 あと、R先生に言わせると、日本の食パンで作ったサンドイッチは「soggy(水を吸ってビシャッとしている感じ)」であまり美味しくないと。 だけど、それでもイギリス人のR先生としては、日本の食パン的な白いパンはそれほど違和感はないのですが、ドイツ人のM先生はあれが大嫌いなのだとか。ドイツ人にとってパンとは、白いものではなく茶色いものであり、もっと歯ごたえのあるものであると。同様に、フランス人のF先生も日本の食パンが苦手で、バゲットしか食べないのだとか。 なるほど、日本人としてはつい忘れてしまいますが、イギリスパンとフランスパンとドイツパンは、それぞれ全く違うものなんですな。 で、私とアニキことK教授はスタバのバゲットサンドを旨いと判断しているのに対し、R先生は、「いや、あれはそんなに旨くない」と。おっと、これは意外。サンドイッチ王国のイギリス人からダメ出しをされちゃったよ! 食べ物ってのは、やっぱり、お国柄が出るというのか、「それで育った」ということがベースにあるので、外国で食べるものに対する適応には、時間がかかると同時に限界もあるのでしょうな。 でも、やっぱり私は、食べ物に関しては、総じて日本が世界最高峰にあると思います。基本的に外国かぶれの私がそう思うのだから、間違いない!
May 10, 2016
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昨日、夜中に名古屋に戻り、今日は授業3コマとなると、さすがに結構疲れますな・・・。 で、ぐったりしながら、夕方、同僚と共同研究室でコーヒーを飲んでいたのですが、その際、哲学のI先生が自らの読書計画について話題を提供してくれまして。 それによると、I先生、死ぬまでに読んでおきたい本というのを一応、リストアップされているそうで、この連休にはその中の一冊として、高橋和巳氏の『邪宗門』を読んだと。この本、大本教をモデルにしたとおぼしき新興宗教団体とその弾圧をめぐっての小説なんだそうで、これを書くに当たって高橋氏が積み上げたであろう知識や、それに基づく結構は非常に重厚で、ある意味、ドストエフスキーをも陵駕する部分すらあるのではないかと。 ふーん、そうなんだ~。私は高橋和巳のことはまったく、それこそまったく知らないけれども。 でも、ウィキペディアを覗くと、高橋和巳って人は、なんと39歳で亡くなっているんですね。それで小説家であると同時に大学の先生でもあって、死んだときは京都大学の助教授だったんですな。その割に随分沢山の本を書いていて、もしこれでこの人が長命だったら、どんなにか凄いことになったのでしょう。邪宗門(上) [ 高橋和巳 ]価格:1404円(税込、送料無料)邪宗門(下) [ 高橋和巳 ]価格:1404円(税込、送料無料) それにしても、そんな風に計画的に死ぬまでの読書リストを作っているなんて、I先生もお若い。私はもう、「人間として読んでおいた方がいい」的な義務感で本を読む力が無くなりました。多分、もうロシア系のお二方、ドストエフスキーの『カラマーゾフ』とか、トルストイの『戦争と平和』とか、死ぬまで手を出さないだろうと思います。読む時期を失しましたね。あと、ソルジェニーツィンの『収容所群島』とかも多分、読むことはないでしょう。ロシア系で読むとしたら、せいぜいプーシキンを読み直すぐらいが関の山かと。 ロシア文学なんてのはさ、あれは青年文学だから、若い時しか読めないよね! 文学で世界を救おう! とか、そういう意気がないと読めない。 で、そんな話から飛び火して、歳とってからでも読める文学って何か、という話になりまして。 で、やっぱり私が思うに、シェイクスピアかなと。 で、シェイクスピアの何がそんなにすごいのか、とI先生に尋ねられ、ふと思ったのは、シェイクスピアの作品のすごさは、「コンテキストに関係なく引用ができる」ところに表れているのではないかと。 シェイクスピアの作品って、別にそんなに哲学的なこととか難解なことなんか書いてないし、ごく普通に、つまりそれこそ現代のテレビドラマでも観るようなつもりで読むことができる。その意味で、敷居はすごく低い。 だけど、その作品の中から、じゃんじゃん引用できるのよ。 例えば『リア王』の中でリア王が「必要を言うな」って言う部分があるじゃない? ダメダメな娘たちから「お父さん、もうそんなに沢山従者なんか要らないんじゃない?」とか諌められたことに対して反論する時の台詞。「必要を言うな。貧しい乞食でさえ、なにがしかの不必要なものを持っておる」って奴。 で、この「必要を言うな」って台詞一つとっても、これ、現代生活の中でいくらでも使いようがある。 例えば、文科省から「文系の先生方には、そんなに沢山の研究費は必要ないでしょ」と言われたら、「必要をいうな!(by リア王)」って反論できるわけよ。 つまり、シェイクスピアが『リア王』の中に「必要を言うな」って台詞を書きこんだ時、それはリア王の事情だけを言っているのではなくて、400年後の現代日本でも使える、人間の普遍的な心の声を書きこんだわけですよ。そして、シェイクスピアの劇ってのは、結局、そういうのばっかりで出来ている。 「尼寺に行け!」(『ハムレット』)とかね。 ・・・もっとも、どういう時に「尼寺に行け!」を応用すればいいか分かりませんけど(爆!)。 とにかく、そこがね。そこが、シェイクスピアのすごいところだと、私は思うわけ。 とまあ、I先生の出してきた話題をきっかけに、思わず色々なことを考えてしまった私なのであります。
May 9, 2016
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ひゃー、GW、今年は結構長いと思っていたけれども、始まってみればすぐに終ってしまう。もうこれから名古屋に戻らなければ。明日は授業3コマもあるし。 今回の帰省で、父の俳句集の編集作業も大分進んだし、持って行った本もそこそこ読めたし、前から計画していた友人たちとのバーベキューも予定通り行なえたし、まあまあの成果だったかな。 昨年後半から年末にかけて、それなりに一生懸命取り組んだフォークナー論、4月末に出版された『フォークナー』18号(松柏社)に掲載されているのですが、この雑誌、市場に出るのは今月の11日のようで、これが出ていたら「こんなの書いたよ」と両親に見せられたのですけれども、今回は見せられなかった。それがちょっと残念だったところ。 まあ、また次の機会にね。 このところ自動車事故の話題が多いようで、特にサンデードライバーが跋扈するこの時期、私も気をつけなければ。 というわけで、明日からはまた名古屋からのお気楽日記、お楽しみに〜!
May 8, 2016
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今日は恒例、小学校時代からの友人たちとバーベキュー・パーリーをしてきました。 かつては相模川で、その後は新百合ケ丘にある「潮見台バーベキュー」で、このところ二、三年は町田にある某バーベキュー・サイトで、やっていたんですけれども、今回は東林間にある「東林バーベキュー」というところで開催することに。 三十数年前まで東林間の住人だったワタクシ、かつて一度だけここに行ったことがあるのですが、今回、それこそ四十年ぶり位に訪れることとなり、懐かしさ満載。っていうか、あまり昔過ぎて、昔はどんなだったか全然覚えていないという。だけど、とにかくあれから四十年経ってもまだ潰れずに残っているということだけでも何だかちょっと嬉しい。 で、到着してみますと、小部屋に分かれていて、掘りごたつ式のテーブルに無縁ローター設置。それで、あらゆる種類のお肉だの野菜だのが置いてあるところがあって、そこから食べられる分だけ好き勝手に取って行って焼く、というシステムであることが判明。要するに、セルフサービスの焼き肉屋みたいなもんですな。バーベキューっていう感じが薄いっちゃ薄いんですけど、まあ、いいか。 それに、肉だけじゃなくて、ケーキとかアイスクリームとか、ジュースとかコーヒーとかウーロン茶なんかも取り放題。そこが、屋外のバーベキューサイトにはないメリットかなと。 で、今回は諸般の事情があって出席者4人という少なさだったのですが、とにかくその4人でしっぽりと焼き肉を食らいまくったという。 で、食べつつ旧交を温め、旧交を温めつつ、ここに居ないかつての同級生たちの断片的なうわさ話に花が咲いたのですけれども、これがまた結構、インパクトのある話が多くて。 一番インパクトが大きかったのは、中学時代の某友人の話かな。 そいつは同級生で大金持ちの材木屋の娘と結婚し、ノベルティ・グッズ(嵐のグッズとか)なんかを生産・販売する会社を経営していたのですが、どうもその会社が経営難で倒産。そのため、多分、嫁さんの財産を守るために離婚し、今は一人暮らし。新聞配達をして糊口をしのいでいるのだとか。 うーん! 渋い! この歳で新聞配達は渋い! 人生色々ですなあ。自営業って、景気のいいときはいいけど、悪くなると底なしだね。 だけど、今日、集まったメンバーの紅一点であるFさんのところに最近、そいつから電話があって。毎日、ひとりで飯を食べるのも寂しいので、家に遊びに来てくれと誘われたと。 えーーー! 家に? 一人で? それって下心見え見えじゃん! さすがにFさん(独身)も彼の下心を見抜き、とりあえず断っておいたというのですが、正解だね。 会社は潰しても、男の性ってのは、なかなか潰れないもののようで。 ま、そんなこんなで、今年も楽しくパーリー終了〜! その後、もう1軒喫茶店でだべってから、解散となった次第。 でも、ワタクシは何年かぶりで訪れた東林間でしたので、皆と別れてから一人で街を散策。昔よく買った和菓子屋の「松月」でお菓子を買ったり、街の写真を撮りまくったりして。 だけど、アレだね。昔自分が住んでいた街を再訪するってのは、面白いもんですな。「自分が居なくなってもこの街は何とかここまでやってきたんだ・・・」という感慨がある。当たり前なんだけど、どうしてもそう考えてしまうという。 というわけで、今日はバーベキューに加え、そんな、しばしのセンチメンタル・ジャーニーを楽しんだ一日となったのでした。
May 7, 2016
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ローリング・ストーンズから選挙キャンペーンで曲を使うな、という要求があったのに対し、トランプ側はそれを無視したとか、そんなニュースがありましたけれども、まあ、これに関してはトランプ側の言い分が正しいんじゃないかな。そうでなければ、この世でローリング・ストーンズの曲が聴けるのは(使えるのは)、ストーンズからお墨付きをいただいた者だけ、ということになってしまう。そんなことありえないですよ。曲を市場に出した以上、誰がどう使うかは使う側の勝手なんじゃないかと。 それに、もしそういうことを言い出すとすると、それは「主義主張の違う奴は百パーセント拒絶する」と言っているようなもので、不寛容な態度と言わざるを得ない。もしそういうことを主張するなら、「イスラム教信者にはアメリカ入国を認めない」という不寛容な政策を打ち出しているトランプを批判できなくなるよ。 しかしまあ、それはともかくとして、仮にトランプが大統領選で勝つようなことになると、日本も結構、色々なことを迫られることになるでしょうなあ。日本に駐留している米軍の維持費を全額負担しろ、とか、そういうことを主張するつもりのようだし。もう「思いやり予算」とかじゃ、ごまかされんぞ、と。 無論、アメリカさんだって日本に基地があるおかげで軍事的なメリットを持つのだから、全額負担なんてつっぱねればいいと思いますけど、それにしても現状と比べたら大幅な増額を要求されるでしょう。国防という国の果たすべき重要な機能をアメリカさんに肩代わりしてもらってきたツケを、この辺で払わされることになるのかもね。 だけど、それだって、トランプ側に一理はある。もし一般家庭が警備会社に電話して「我が家のセキュリティ、よろしく。ただし、費用はそちら持ちで」と頼んだとしたら、警備会社はそのずうずうしさに驚いて、「冗談じゃない、なんでお前の家を我々がタダで守らなくちゃいけないんだ!」と思うでしょう。トランプが言っていることは、そういうことだよね。だから、アメリカの一般ピープルが、そういうことをズバッと言うトランプを支持するのもよく分かる。 経済・外交、その他もろもろ、色々な背後事情とか、歴史的経緯とかがあって今のような形になっているのかも知れないけれども、そういうのが余りにも複雑に絡み合い過ぎて、見た目、おかしなことになっている。そのおかしなことを、ド素人のトランプが「おかしい」と言うから、一般人にはアピールするんだろうな。 だけど、一般人って、我々のことだからね。 日本に入って来るトランプがらみのニュースは、もう完全にバイアスが掛かっているから、トランプ=人でなし、そういう奴を支持するアメリカ人は全員馬鹿、ということになっていて、日本人も最初からそのバイアスでトランプを見ているけど、トランプが支持されるにはそれなりの理由があると思わないと。 それはそうと認めた上で、やっぱり色々怖いところはある。ヒトラーだって、同じようにして当時のドイツの人々の不満を代弁してのし上がってきたのだから。 もっとも、じゃあヒラリーの方が日本にとって与し易いかというと、それも分からないですけどね。トランプならトランプと交渉すればいいけれど、ヒラリーの後ろには、表には出て来ない連中がわんさといそうだし。 他所の国のこととはいえ、日本とアメリカ、密接な関係があるので、この先どうなっちゃうのか、ハラハラものですな。またそう考えて振り返ると、オバマさんって、政治的にはあまり評価されない大統領だったかも知れないけれど、変なことはしないな、という信頼感だけはめちゃくちゃあったという点で、良い大統領だったのかもね。それに、プリンス・ファンだったしね。
May 6, 2016
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今日は5月5日、子どもの日ですな。 5月ってのは、1年のうちでも私が一番好きな季節で、木々の若葉は眩しいほど輝いているし、日差しがあれば暑いけれども、身体にまとわりつくような暑さではないし。で、今日も一日いいお天気だったので、さすがに一日中家に居るというのもアレだなあと思い、午後、ちょっと散歩がてら多摩センターというところまで電車に乗って行ってきました。 それで丸善に行って本を眺めてきたのですけれども、ホキ徳田の書いた(一応、そういうことになっている)ヘンリー・ミラーの思い出の記みたいなのがあるのに気づいて、ああ、面白そうだなと思ったのだけれど、こういうのを読み始めるとまた仕事に手がつかなくなるなと思って、とりあえず今日のところは買わずにおいたという。でも、結局、買うのでしょうけどね、ヘンリー・ミラーが好きだから。ヘンリー・ミラーの八人目の妻[本/雑誌] (単行本・ムック) / ホキ徳田/著価格:3456円(税込、送料別) それで、もう帰ろうかと思っている時に新書の新刊を置いてある場所で、吉増剛造さんの『我が詩的自伝』というのが置いてあるのに気付き、せっかくここまで来たのに手ぶらで帰るのもアレだし、止します剛造、にはしないで、止さずに買ってしまいました。我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ! [ 吉増剛造 ]価格:972円(税込、送料無料) で、買った本の副題が「和菓子的自伝」だからと思って、デパ地下で柏餅を買って帰宅。 それで、家に帰ってから少し読み始めたのですけれども、これがまあ、なんとも。 つまり、何はともあれ詩人の書いたものなので、通常の意味での日本語の文章ではないというか。だから、文章は破綻しているのだけど、読むと何となく分かる。地の文と、自分の詩の引用が順繰りに登場するのだけれども、結局、どっちも詩のようで、通常の発話活動ではないところで、著者と読者が会話するようなところがあるわけ。 こういう文章は、真似できませんな。真似するというか、他人が手直しできない。文章になってないんだから、「つまり、こういうことがいいたいの?」という感じで直したくなっちゃうんだけど、直したらもう、それは吉増さんが文章の中から消えちゃう。 で、そんな訳の分からないような分かるようなものを読んで、ああ、これが「子どもの日」だなって。アレ? こっちまで吉増調が乗り移ってきちゃったぞ。 とにかく、そんな一日でございました。
May 5, 2016
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日本の多くの古書店が加盟している「日本の古本屋」というインターネット上のサイトがありまして、ここで検索すると、かなりの確率で欲しい古本を入手することができる。で、アメリカでこれに相当するのが「AbeBooks.com」というサイトなのですが、我々アメリカ文学畑の人間からすると非常に便利なサイトで、よくお世話になります。 で、ここに登録していると、定期的にアチラの古本の話題をニューズレター的に送ってくれるのですけど、今朝方届いたニューズレターはなかなか面白い話題でね。 その内容はといいますと、昨年1年間を通じてAbeBooks.com のサイトを利用した人々が検索した古本の中で、一番検索された本は何だったか、そのトップ100が発表されていたんです。つまり、この「探索本トップ100」リストを見れば、「今アメリカで最も人々から求められている古本は何か?」が分かるわけ。 ではその第1位はと言いますと・・・意外なことにマドンナの『Sex』という本。1992年初版の本で、一種の写真集みたいなもの、らしい。マドンナ姉さん、アチラではまだまだ人気があるんですなあ。 で、第2位はスティーヴン・キングが「リチャード・バックマン」なる別ペンネームで出した初期小説集『Rage』。これは納得。キングは他にも第43位に『My Pretty Pony』、第45位に『The Body』がランクインするなど、相変わらずの人気を誇っております。 一つ飛んで第4位がノーラ・ロバーツの『Promise Me Tomorrow』。これは人気ロマンス作家の作品。1984年の作品ですが、アレ? これまだ邦訳ないね。アメリカでこれだけ人気の作品に邦訳がないとなると、ロマンス系翻訳者の皆さん、急いだ方がいいんじゃないの? 第9位がカーティス・リチャーズの『ハロウィーン』。アメリカ人も好きだね、ホラーの古典が。 第14位にノーマン・メイラーの『マリリン』がランクイン! メイラーも、今やマリリン・モンローの伝記作家として需要が高いわけね。これはアメリカ文学史の記述を改めないといけないんじゃないの? 第15位がカイル・オンストットの『マンディンゴ』。1957年初版。アメリカ南部の人種問題ネタ小説のベストセラーで、映画化もされています。映画評論家町山智浩さんもご推奨のトラウマ映画だそうですけど、今度見てみようかな。 第16位はカール・セーガンの『地球のつぶやき』、第19位はアーサー・ケスラーの『創造の行為』と、この辺、科学ものが続きます。 第28位、クワヤマ・ヤサブローの『Trademarks and Symbols』って何? クワヤマ誰? 何でこの本がアメリカでそんなに探されるの? 意外だなあ。 第42位、レイ・ブラッドベリの『Dark Carnival』。やっぱり入ってくるねえ、ブラッドベリ。 第62位、ロバート・フランクの写真集『The Americans』。これは納得。イントロダクションをジャック・ケルアックが書いている奴ね。 第63位、レジナルド・ブライスの『History of Haiku』。この人、鈴木大拙の弟子ですけど、第58位にも『Zen in English Literature and Oriental Classics』なる本がランクインしている。日本文化の紹介者として、日本でもっと再評価しないといけないのではないでしょうか。 第67位、Charles Tritten『Heidi Grows Up』。ヨハンナ・スピリの『ハイジ』の続編ですな。 第69位、リチャード・アヴェドンの写真集『In the American West』。 そしてドーンと飛んで第100位がアイザック・アシモフの『Nine Tomorrows』と。 とまあ、文学系に焦点を当てて紹介しましたけれども、もちろんこのリストの中には、「絵の書き方」的なハウツーもの、写真集、音楽もの、料理本、旅行記、伝記などなど、様々なジャンルの本が入っていて、まさにアメリカの出版界の小宇宙。今、アメリカ人はこういう本を読みたいと思っているんだ、ということがよく分かる。古本の探索本リストによって、現今のベストセラーリストが示す世相とは異なる、別の世相が分かるわけ。 でまた中には、毎年このリストの常連だった本が、新刊本として復刊されたために、今年はこのリストから外れた、なんてものもある。そりゃ、そうですよね。このリストを見れば、出版社としてどの本を復刊すればいいか、一目瞭然なわけだから。 というわけで、色々な視点から見て興味深い「探索本リスト・トップ100」、日本でもこういう試みをすれば、少なくとも本好きの間では話題になるんじゃないでしょうか。どうです、「日本の古本屋」さん? やってみたら?
May 4, 2016
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シャーリー・マクレーン著『アウト・オン・ア・リム』を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 シャーリー・マクレーン。『アパートの鍵貸します』でのジャック・レモンとの共演、良かったねえ。ちょっとこう、どことなく東洋的な顔立ちなのも我々日本人には親しみが持てて。彼女は親日派だしね。 ま、それはともかく、本書はそのシャーリーさんが1983年に出版し、ベストセラーになると同時に、彼女を芸能界のみならず、善きにつけ悪しきにつけニューエイジの旗手に押し上げたいわくつきの本。 と言っても、最初からオカルトっぽい話が出てくるわけではなく、最初のうちはシャーリーさんのある時期の私生活の話で、その頃彼女はイギリスの有力上院議員と不倫の関係にあった。つまり、当の議員さんには奥さんも子どもも居たんですな。だもので、二人はロンドンやアメリカで、あるいはその議員が仕事で海外に行っている先とかで、束の間の逢瀬を楽しんでいたと。 とはいえ、それは「楽しむ」というようなものではなく、何せ不倫の恋ですから、当人たちが真剣に愛し合えば愛し合うほど、それを公にできない苦しさが増して来る。またそうなれば女性の方が強いので、相手の議員さんの不甲斐なさというか、シャーリーも欲しいけど、自分の家族や議員としての地位も失いたくないという往生際の悪さが際立ち、それをシャーリーが責めたりなんかして、二人の関係は泥沼と化して行く。 そんな折も折、彼女は前々から知り合いだったデイビッドという年下の男性が気になり出す。というのは、このデイビッド君、輪廻転生とか、精神世界とか、そういうのを信じているような、ちょっと超俗的な感じの青年だったから。で、実生活の方で泥沼状態のシャーリーさんは、次第にデイビッドの語ることに興味を持ち出し、デイビッドの方でもシャーリーに問われるままに質問に答え、また「こんな本を読んでみたら?」と、輪廻関係のことが書いてある本を薦め、シャーリーはそちらの世界に足を踏み入れることになるわけ。 で、一旦そういう世界の存在に気が付くと、実は自分の身の回りでもそういうことに興味のある人が沢山いるんだ、ということにシャーリーさんは気が付くんですな。それで、そういう人たちに導かれるままにスウェーデンやアメリカで霊媒師に会い、その霊媒を通じてアチラの世界の人と話をしたりして、ますますそういう世界があるということに惹かれて行くと。 ちなみに、シャーリーさんにとって一番興味があるのは「前世」ということ。つまり、今の自分がある前に、既に何度も生まれ変わっていて、その前世からの因縁が今のシャーリーさんを作っている、ということ。例えば霊媒を通じてアチラの世界の人の言うところによれば、今、不倫関係にあるイギリスの上院議員とシャーリーさんは、前世において夫婦であったことがあり、その時に全うできなかったことがあったので、今生において二人は再び巡り会い、今のような関係になった、というのですな。またシャーリーさんがデイビッドの言うことに惹かれるのも、実は彼女とデイビッドは元々魂のレベルでの双子、永遠のソウルメイトだから。ま、そんなことを体験しながら、シャーリーさんはますます輪廻転生ということが実際にあるのではないか、と思うようになっていく。 で、前世を信じるということは、つまり、魂の不滅を信じるということでもあります。人間が死ぬのは、ただ肉体が機能しなくなっただけのことで、肉体を離れた魂は一時的に宇宙を構成するエーテルに合流するものの、時を隔ててまた別な肉体に宿り、次の人生を生きることになる。また、もし本当にそうだとすると、死は恐怖の対象ではなくなることになります。 で、シャーリーさん思うに、人間の愚行というのは、突き詰めて言えば、人間には一回こっきりの人生しか許されてなく、死んだら何もかも終わりだと、そういう恐怖から生じているのではないかと。もし魂は不滅で、何度でも生まれ変わるんだとすれば、自分の人生についても、また他人との関係についても、まったく考え方が変わるのではないかと。そういう意識革命が当然生じるだろうと。 ま、そんな感じでシャーリーさんの中で、今まで考えもしなかった発想が芽を出し始めた頃、それを狙いすましたかのように、デイビッド青年は、彼女をペルーへの旅行に誘い出します。で、もともと冒険好きなところのあるシャーリーさんは、迷うことなく同意する。 で、シャーリーさんの自宅があるカリフォルニア・マリブとはまったく異なるペルーの高緯度の寒村、そこはUFOが日常的に目撃されるような場所なのですが、そういう異境で、デイビッドを導師としながら、シャーリーさんはそれまでに蓄積してきた世俗の垢というか、要するに西欧文明人の常識を振るい落とし、魂の探求を続けるんですな。 そしてここにおいてついにデイビッドは、ことの核心を告げる。 それはかつてデイビッド自身が、この地でマヤンという美しい女性の、「スバル座」からやってきた異星人に出会い、教えを受けたということだったんです。 で、マヤンの教えによれば、宇宙を構成するもの、それらは結局陽子とか電子とか、そういうものから構成されているわけだけれども、それを動かしている霊的なエネルギーがある。現在の科学では、物質ではないそういうエネルギーを計ることが出来ないので、実在が証明できないけれども、証明出来ないからと言ってそれが存在しないということにはならない。そしてそのエネルギーこそ神なのであって、つまり、この世に存在するものすべて、我々自身も含めてすべてが神によって存在していると。だから、自分自身を知れば、そこに神が居ることに気づくはずだと。マヤンの教えというのは、そういうことだった。 で、さすがのシャーリーさんも、こういう話を聞いてすぐに「なるほど、やっぱりね!」とはならないんですな。それは、通常の人間の常識とは異なることなわけですから、そう簡単に受け入れることは出来ない。 しかし、この時、シャーリーさんはある神秘体験をするんです。それは自分の身体から魂が離脱して空に上がって行くという体験。見ると銀色の細い糸で魂と自分の肉体がつながっていて、それが魂と肉体を結び付けているのだ、ということも自分の目で見ることができた。 かくして、シャーリーさんはデイビッドの言うこと、あるいはマヤンの言うことを信じることにするんです。いや、信じるかどうかというよりも、とにかく「広い心」をもって、そういう可能性を受け入れるというところまで行く。 そうして下界(アメリカ)に戻ってきたシャーリーさんは、自分の一番親しい人たちに自分の体験を語り、自分の今信じているところを語るのですけれども、その過程で彼女はさらに色々なことに気づく。 例えば、自分が一番親しいと思っている人たちにそのことを告げると、皆、シャーリーの頭がどうかしたのだと思って、心配し、怒り、拒絶し、悲しむんですな。シャーリーの友人たちの多くは、政治家だったり、慈善家だったり、フェミニストの闘士だったり、とにかく現在のアメリカのあり方に疑問を持ち、それを良い方に変えようと必死に闘っている人たちなので、そういう人たちからすると、かつての同志だったシャーリーが「魂は不滅なのだから、そのことに気づけばこの世の争いごとなんかなくなるのよ〜」などと言い出すと、「あなた、どうしちゃったの?! そんな夢物語みたいなことでこの世が良くなるはずないでしょ!!」ってな感じになってしまうわけですよ。 その一方、シャーリーと同じような悟りを開いた人たちからは、暖かい共感をもって迎えられる。「魂の不滅」とか「神は自分の中にある」といったような新しい世界観がシャーリーさんの中に開けたことによって、友人が他人になり、他人が友人になるわけ。ま、新しい友人が増える分にはいいですけど、長年の友人たちがシャーリーさんから離れて行くことは、彼女にとっては辛いことだったでありましょう。 だけど、シャーリーさんは、彼女の友人たちが彼女を拒絶することも理解するんですな。それはその友人たちの今生での役割なのであって、それをとやかく言うことは出来ないと。だけど、それにも関わらず、やはり自分が体験した精神世界への導きと、それに伴って生じた意識革命のことを、人に伝えなくてはならない。 そう考えたシャーリーさんが、この本を書くべく、ペンを取ったところで、本書は幕を閉じる。 ま、そんな本でございます。 まあね、その、スバル座からやってきたマヤンがどうのこうのとか、そういうのはアレですけど、この本に関していいなと思うのは、悟りを開いたシャーリーを、彼女の友人たちが拒絶する、そのリアルな描写ね。こういうことを言い出せばこうなる、という、すごくリアルなレスポンスが描かれていて、この種のスピリチュアルへの興味・共感が、いかに人を孤立させるか、というのがよく分かる。「まとも」な人から貼られる「キ印」のレッテル。こわいわ〜。 だけど、真実の果実を手にするには、危険を冒してでも枝先まで行かなくてはならない。それが「アウト・オン・ア・リム」というタイトルの意味(日本風に言えば「虎口に入らずんば虎児を得ず」?)なのでありまして、シャーリーはそれをやったと。 とにかく、この本を読むと、人がスピリチュアルに惹かれて行く過程というか、その道筋はよく分かるので、その点ではなるほど〜って感じです。ま、一つのケーススタディとして、面白かったかも。アウト・オン・ア・リム [ シャーリー・マクレーン ]価格:907円(税込、送料無料)
May 3, 2016
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この間、新1年生の歓迎会というのがあって、私はそういう幼稚園じみた催しには一切関わらないようにしていたのですけれども、今年度は私が科長なものですから、さすがに出ないわけにはいかず、仕方なく顔を出したのですが、19歳とか、そういう年ごろのきゃぴきゃぴした新1年生と何を話せばいいのかさっぱり分からず、ひたすら「早く時間よ過ぎてくれ」状態でございました。 うーん、これは私自身の寄る年波によるものなのか。昔は、もう少し、何とかなったような気もするのですけどねえ。 で、遠目に観察しておりますと、私と同様、若い人たちの話の輪に入れない先生方がいる半面、積極果敢に話している先生もいる。 そんな先生のお一人は人類学者。女性ですが、一人でアラブの部族の中に入って行ってしまうような猛者。やっぱり人類学者というのは、対象が何であれ、人間である以上「話せば分かる」という確信をお持ちのようで。 もうお一人、私より年上なのに、若い人たちと平気で話をしている先生は、お嬢さんがちょうど大学生くらい。なるほど、自分の娘と話すようなつもりになればいいわけですな。 というわけで、人類学者でも、大学生の娘がいるわけでもないワタクシ、若い人たち相手に一敗地にまみれてきたのでございます。 さてさて、今日は大学で少し仕事をしてから、夕方、実家に戻りました。例年通り、GWの後半戦はこちらで過すことに。というわけで、明日からはしばらく東京からのお気楽日記、お楽しみに〜!
May 2, 2016
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岩崎夏海さんの『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 「もしドラ」と略称されるほど売れた本ですので、小説として既に読まれた方も多いだろうし、アニメ版、映画版で観たという人もいるかも知れませんが、偏差値の割と高い東京郊外の都立「程久保高校」の野球部のマネージャーになった川島みなみという女子高生が、野球も素人だし、マネージャーもやったことないので、とりあえず本から知識を得ようと、ドラッカーの『マネジメント』を買ってしまった、というところから話が始まります。 題名が『マネジメント』だからきっと良いマネージャーになるコツでも書いてあるのだろうと思いきや、ドラッカーのこの本は経済の話・・・というか、より具体的に言えば企業の運営の話。もちろん高校野球とは何のつながりもない。 だけど、賢い女子高生のみなみちゃんは、高校野球のチームも、まあ一種の企業みたいなものだろうと見做し、この本をベースにマネージャーの仕事をこなしてみようと決意する。 で、ドラッカーによれば、企業マネージメントの最初の一歩は、その企業の使命というか、その企業は何をするために存在しているのかを考えることだとある。 そこでみなみちゃんは、高校野球は何をするために存在しているのかをまず考える。もちろん、「野球をすること」という答えはNG。ドラッカーによれば、企業の使命は、顧客がその企業に何を期待しているのか、という観点からしか答えられないからです。 では高校野球の顧客ってなんだろう? そう考えた時にみなみちゃんは、それは野球をやっているメンバー一人一人であり、そのメンバーの所属するチームであり、チームの所属する高校関係者であり、ひいては高校野球ファン全員であるという答えを導きだし、そこから高校野球の使命とは、この人たち全員に「感動を与えること」だと喝破する。そして、その使命を果たすためにこのチームがやるべきことは、「甲子園に行くこと」であると結論付けるわけ。 で、こんな具合にドラッカーの『マネジメント』を手引きとしてチームの目標を定めたみなみちゃんが次に取組んだのは「マーケティング」なんですな。そこで彼女は、親友であり、マネージャーとしてはみなみの前任者でもあり、今は入院して闘病中の宮田有紀に頼んで、彼女を見舞うという口実の元、野球部員全員が今、何をどんな風に考えているのか、聞き出してもらうことにする。これを把握していないことには、企業としてのチームは一歩も前に進めないと。 また『マネジメント』によると、企業が成功し、成長していくためには、従業員が「働き甲斐」を持っていることが鍵になってくる。そこでみなみちゃんは、聞き取り調査によって野球部員の一人一人や監督、それに他のマネージャーのそれぞれの考えを把握した時点で、今度は彼ら一人一人に「働き甲斐」を与えるべく、個別に、そしてそれぞれの考えに合わせた課題を与えるんですな。 例えば、足の速い部員には、他の部員に対して「走塁指導」をさせるとか。ただし、『マネジメント』によれば、人は自分の仕事を自分で管理できる状態の時に最もやる気を出すそうなので、指導の内容などにはマネージャーは立ち入らず、全て自主管理でやらせる。つまり、自主性を信頼しながら、責任も持たせる、というわけ。またこういうことを通じて、チームのメンバー一人一人に、「自分はチームの総合力向上に貢献している」という実感を持たせると。 またみなみちゃんは、もう一人のマネージャーである文乃のアイディアをくみ上げ、チームを3分割し、この3つの小チームの間に競争原理を導入する、なんてこともやります。これによって今までは退屈だった毎日の「練習」が、小チーム間の競争となり、一種の「試合」のようになるので、それが楽しくてチームの日々の練習が俄然楽しくなってくる。 ま、そんな感じで、以前はやる気のない、部員同士の協力体制のない、監督と部員のコミュニケーションのない、ダメダメなチームだったのが、次第に団結を強めていき、それに従って練習試合などでも成果が上がってくるわけ。またそれに伴って、高校内部でも野球部の改革が注目されるようになり、オーケストラ部とかチアリーダー部が野球部の対外試合などをサポートしてくれるようになり、シナジー効果も出てくると。 だけど、その程度では強豪私立高校の多い西東京ブロックで勝ち抜いて甲子園出場するなんて夢のまた夢。 そこでみなみちゃんは次の一手を考える。 ドラッカーの『マネジメント』によれば、企業にとって重要なのはマーケティングとイノベーション。マーケティングに関しては既に成果を挙げてきているので、次の一手はイノベーションであると。 そう考えたみなみちゃんは、高校野球にとってイノベーションとは何かを考えだします。そしてその結果、今、当然のように行われているけれども、やや時代遅れになりつつある野球戦術を革新することを思いつく。やり玉に挙がったのは、「送りバント」と「ボール球を打たせて取る野球」。そこで程久保高校野球部では、送りバントを戦術から外し、その代りに徹底的に相手ピッチャーのボールを見きわめ、ボール球につられないようにする練習をするんですな。また味方のピッチャーも相手バッターに対してボール球を投げ、打たせて取るのではなく、常にストライクを取りにいく投球を心掛けることとしたわけ。 常にストライクを取りに行くとなれば、当然、打たれる可能性もある。しかしこの作戦が奏功すれば、ピッチャーの一試合当たりの投球数は減るので、2人しかピッチャーの居ない程久保高校としては、ピッチャーの負担を軽くするメリットはある。みなみちゃんはそこに賭けるわけ。 で、そんな風にして程久保高校は快進撃を続け、いよいよ甲子園出場を賭けた決勝戦まで辿り着く。しかし、この重要な場面で、それまでチームにとって、あるいは川島みなみにとって心の支柱となっていた、前マネージャーの宮田有紀の病状が急変! そしてそれを機に、ここまで『マネジメント』を基にチームを引っ張ってきたマネージャー・川島みなみの心の真実も明らかに! 果たして宮田有紀は助かるのか?! 川島みなみの秘めた思いとは?! そしてチームの甲子園出場は??!! ・・・的なお話。 まあね、アマゾンなんかのレビューを読むと、こんな都合のいい夢物語なんてちゃんちゃら可笑しい、とか、小説としては児戯に等しく、最初の二行からして噴飯ものとか、色々言われております。ま、それは確かにそうなんだよね。 だけど、この小説(?)の狙いとしては、ドラッカーの『マネジメント』は、人間の生活のどの側面にも当てはまりますよ、ということが言いたいための寓話を作ろうとしているだけなので、小説としての完成度からこれを腐してもあまり意味がないのかなと。 要するに、これはドラッカーの大著『マネジメント』の変則的な入門書なのであって、それを、高校野球と結びつけたという一点において、異様なまでにユニークなのではないかと。つまり「着眼勝ち」ですな。 いやあ、勝ちも勝ち、大勝でしょう。だって、これ280万部売れたんでしょ。そして漫画にもなり、映画にもなり。著者の岩崎夏海さんは一体、これでいくらお儲けになられたのか。その意味では、ドラッカーの『マネジメント』を読み込めば、それだけ儲かるということであって、それだけで『マネジメント』という本の有効性が確かめられたようなもんだ。 だって、岩崎夏海さんは、顧客(=読者)を「マーケティング」して、こういうものが読みたいのだな、ということを察知し、ドラッカーの難しい本を高校野球小説の形に仕立て直すという「イノベーション」をやってのけ、その両輪で大成功したのだから。 ということで、私、この本はスゴイと思います。世界のどこ探したって、ドラッカーの本を高校野球と結びつけ、しかも小説/アニメ/映画のメディアミックスで紹介した本なんかないよ。っていうか、これをアメリカで真似して、バスケットボールのチームの成長譚として小説化したら、もっとすごいことになると思う。『アメリカの高校バスケットボールチームのチアリーダーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』。 めちゃ売れそうやん!!もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら [ 岩崎夏海 ]価格:594円(税込、送料無料)
May 1, 2016
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