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第88回アカデミー賞の発表があり、私もつい長々とその模様を見てしまいました。 驚いたのは、『マッドマックス』が意外に沢山の賞を獲得したこと。確かに迫力の映像ではありましたが、そこまでのアレかあ? という個人的感想も。 あと、ディカプリオがついに主演男優賞を獲ったのが印象的だったかと。本当は『ギルバート・グレイプ』で助演男優賞を獲るのが良かったのではないかと思いますが。でもそうなると、トム・クルーズにもなんかあげたいよね。いずれ功労賞とか獲れるのかもしれないけれど。 ま、それはさておき。 アカデミー賞の授賞式の模様を見ていて思ったのですが、こういうの、日本の文学賞でもやってくれないかなと。 今、日本の文学賞って、芥川賞・直木賞を始め、単発でやるじゃないですか。それはそれでいいのだけど、出版不況の現状も踏まえ、文学賞をもっとショー・アップできないものかと。 で、一年に一回、その年に出版された最高の文学を表彰する。テレビ生中継で。 で、アカデミー賞式に、色々な賞を考える。例えば最優秀短編賞とか、最優秀エッセイ賞とか、最優秀詩歌賞とか、最優秀SF賞とか、最優秀ドキュメンタリー賞とか、最優秀翻訳賞とか。最優秀研究書賞(理系/文系)も作りますか。 それから、地味で売れはしないけれども学術的に重要な本が出た場合は、それも表彰する。何年もかかって出版した全集とかね。 また、本を作る側の賞として、装丁系の賞も用意する。最優秀装丁賞。それから、勿論「最優秀編集者賞」も作りましょう。 あるいは、売る側の表彰もするということで、最優秀「帯」賞なんてのはどう? で、やっぱり、一番の華は、最優秀小説賞かな。芥川賞作家がとるのか、それとも新潮新人賞をとった人がとるのか、とか、下馬評も楽しそう。 もちろん、重要なのは、どの賞にどの本がノミネートされているのかを前もって明らかにすること。そうすれば、受賞した本だけでなく、ノミネートされた複数の本の売れ行きも上がるじゃん? どう、このアイディア? 出版不況だって言って情けながっているだけじゃなくて、ある程度攻めの姿勢を見せないとさ。 ま、仕事の合間にそんなことを夢想していた今日の私なのでございます。
February 29, 2016
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今日も朝から紀要関連の仕事。一つには、自分自身の紀要論文を書かなくてはならないということで、前に「そんなもん3日で書く」とか豪語しましたが、ウソばっかりで、もう2週間もかかっているという・・・。でも、もういい加減、仕上げないとね。 それと同時に、他の先生方の紀要論文の編集もある。この紀要は、私が版下まで全部編集するので。今は、初校の校正を反映させた最終版を作っている最中なのですが、細かい作業なのでなかなか疲れる。 ま、あと数日のうちにはすべての作業を終わらせて、印刷所に入稿しなければ。 さてさて、「昭和の男」シリーズですけれども、今日は私が小学校低学年くらいだった頃のお菓子について。 この頃どんなお菓子を食べていたのか、思い出すのですが、たとえばチョコレートだと、明治のデラックス・チョコレートを思い出します。黄色いシマシマの包み紙の。で、その対抗馬がロッテのガーナチョコね。独特の味がして、私はこちらの方が好きでした。 あとね、1969年のアポロ11号月面着陸がらみで登場した明治「アポロチョコ」。円錐形で、ミルクチョコと苺チョコの「ドッキング」というところが泣かせる。 それからチョコベビー。これも明治か。プラスチックの入れ物に入っているところが売りの奴。マーブルチョコも明治ですな。明治はチョコ系が多いなあ。 それから、グリコで言うと、ペロティね。表がホワイトチョコ、裏がミルクチョコ、そしてホワイトチョコの面には当時のアニメのキャラクターとかが描いてある。あれも遠足のおやつとかでよく食べた気がしますなあ。 あと、森永のチョコフレーク。これも遠足とか運動会の時の必須アイテム。ただし、遠足とか運動会でこれを持っていくと、熱でチョコが溶けちゃって。それで家に持ち帰って冷蔵庫に入れ、あとでまた食べようとすると、全部が一つの塊になって、岩石みたいになるという。これ、「チョコフレークあるある」じゃね? あ、それから、森永と言えば「ハイクラウン」。ちょっと高級な奴。一見煙草みたいなパッケージで、中身も一個一個、個別包装というところが、ちょっとハイソな感じで。 おっと、森永といえば「小枝」も忘れられない。小森のおばちゃまが宣伝してた奴。 あとさあ、一風変わったところでは「不二家系」があるじゃない? チョコでいえば「ペンシルチョコ」と「パラソルチョコ」ね。子ども心に不二家のお菓子って、ちょっと特別感があって、テンション上りましたよね。 不二家では、「ママの味」のミルキーや、ユーミンのCMソング(「ほっぺたにプレゼント」という奴)が素晴らしかったソフトエクレアのようなキャラメル系もよく食べたけど、思い出深いのはノースキャロライナね。私は何度、ノースキャロライナを食べていて、奥歯に被せた銀冠が取れたことか。これはノースキャロライナあるあるですな・・・私だけ? キャラメル系といえば、定番は森永のミルクキャラメル。そしてその高級版のハイソフト。で、その対抗馬がグリコ・アーモンドキャラメル。グリコと言えば「おまけつき」ですけど、ま、私はそれほどおまけには惹かれなかったかな。 あと、サイコロキャラメルってのもよく食べた記憶がある。あれは明治か。明治のキャラメルではほかにヨーグルト・キャラメルってのがあって、これはたまに食べたけど、たまに食べるくらいでちょうどいいシロモノでしたかね。 ガムだと、やっぱりロッテのグリーンガム。そしてコーヒーガム。それから色々なところが出していたフーセンガムもあれこれ食べたけれども、最近、子どもがフーセンガムを膨らましているのを見かけないなあ。 あと、マルカワのガムってのがありましたよね。丸いオレンジのガムが4つ入っている奴。 それから、ちょっと衝撃的だったのが、ガムの王者ロッテの「イヴ」。香水入り、というのが売り。今から考えると胸が悪くなりそうですけど、当時としては洒落た感じがしました。 アメ系だと、よく覚えているのはレモン味のタブレットの奴。名前忘れた。あ、「レモンドライ」か。あと、「ミオ」っていうのもあった。白地にツブツブの奴。「食ーべてー、ミオーー」っていうCM。でも、時々、大きいまま呑み込んでしまって、窒息しそうになった悪夢のような記憶が・・・。 あと、アメ系で思い出すのは、初めて「イチゴミルク」を食べた時の衝撃。最後、カリカリしててめちゃおいしい。あれは好きだったな。 衝撃のアメといえば、「小梅ちゃん」も思い出す。最初、ちょっと梅干しっぽい味の。塩味にドキッとさせて、その後徐々に甘くなるという。 アメの定番「佐久間ドロップ」では、私の嫌いな白い薄荷味の奴がどうしても残る、というのがあるあるですな。 あ、あと、キャンロップがある! それのヨーグルト味! あの大き目な赤血球みたいな形、懐かしいなあ。 味覚糖系だと「純露」とか。小鹿みきが宣伝してた奴。小鹿みき・・・今どうしていますかね? と思ってググったら、名古屋で「MEMBER'S みき」なるバーを経営ですと。マジかよ。行っちゃおうかな。 スナック菓子だと・・・明治のカール? もう、あれと、カルビーのサッポロポテトは子供の時にあまりにも食べ過ぎてしまって、今、食べる気がまったくしないという。 それから車輪みたいな形の「スピン」っていうスナックがあったなあ。あんまり好きじゃなかったけど。 プリッツも私の世代だけど、私はそれほど思い入れがない。私にとっては「硬い」ってイメージがあるのよ。棒みたい、っていう。棒なんだけど。だから、「ポッキー」にもそれほど思い入れがないの。私は、お菓子はもっと柔らかいものであってほしいのよ。 あとね、子どもにとって衝撃的だったのは、東鳩のキャラメルコーンが出た時かな。あれ、塩味のピーナツかなんかが一緒に入っているじゃない? 柿ピー的なところを狙ったのでしょうか。 東鳩っていうと、これまたちょっとお菓子界の異端児的なところがあって、「オールレーズン」とか。CMが良かったよね。「さよならの朝~」って。子どもには重いって。っていうか、そもそも「東鳩」っていう重箱読みのメーカー名が渋い。 甘い系だと、ビスコが懐かしいものの、これも子供時代に食べ過ぎて、もう食べられない。あとポロンとかね。粉っぽいクリーム、今もそうなのかな。 アイスクリーム系でいうと、1本10円のホームランバー。懐かしい。当たりがあると嬉しくてね。あとさ、「ドルピス」っての覚えてない? あれも1本10円だったような気が。こういうのって、今でいうと「ガリガリ君」的なものなのだろうけれども、私は「ガリガリ君世代」ではないんだよな。あれは私より一回り下の世代のものでしょう。 あと、メロン型の容器に入ったメロンシャーベットとか懐かしいな。 容器入りといえば、パピコがあるけど、あれもね、私はあまり買った記憶がない。あれも、どちらかというと、私よりももう少し下の世代のものなのではないかと。 それから、色物で言えば、宝石が入ったアイスクリーム、ってのなかった? 「宝石箱」か。雪印だっけ。値段が高くてあまり買ってもらえなかったけれど、よく考えると、その宝石って単なる氷なんだから、むしろ製造コストは安かったんじゃないのかしら。 しょーもない系のお菓子の筆頭といえば、タバコ型の奴。ほれ、何と言ったっけ・・・。そう「ココアシガレット」ね。遠足とかで絶対持ってくる奴が一人はいるという。別に旨くもないのに。 それから、チューブ入りのチョコとか。独特の味がして。ま、これも味というよりは面白味本位のものですけどね。 一方、しょーもない系を通り越して、子どもにとって盛り下がるお菓子の代表が「ぼんたんアメ」じゃありませんでした? なんか、オブラートみたいなのに包まれていて。あと「都こんぶ」。あれ、誰が買うもんなんですかねえ。 いやあ、やっぱり子どもにとってお菓子って友達ですから、思い出せば出すほど、いくらでも名前が出てくる。でも、これほどお菓子が多様化し始めたってのも、私の世代からじゃないかしら。その意味で、我々は恵まれていたのかもね。
February 28, 2016
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アメリカで大人気のテレビドラマ『ウォーキング・デッド』。私もシーズン2くらいまでは熱心に見ていたのですが、さすがに襲ってくるおぞましいゾンビから逃げまくる緊張感に耐えられず、そこでギヴ。しかし、これにすっかりはまった家内は、その先も見続け、今はシーズン5を見ているのかな? で、私が部屋で論文とか書いていると、リビングの方から「ぎゃーーー! ぎょえええーーーー!」という、襲い来るゾンビの咆哮と逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえてきて、またその都度家内が「うわっ!」とか言って驚く声が聞こえてきたりして、それはそれで気になるという・・・。よくまあ、こんなお化け屋敷ドラマ、見てられるなあ。私なんか、心臓が弱いのでとても無理だ。 とはいえ、そうはいってもストーリー自体に興味がないこともないので、たまに今のシーズンのハイライトなんかを家内から聞くのですけれども、この間、それにつけて家内が面白いことを言っておりまして。 それによりますとね、少なくともこのドラマの中では、ゾンビに対する対処の仕方は確立されているので、ある意味、ゾンビなんか怖くないと。 いや、怖くないわけではないのだけれど、ゾンビが襲って来るのはもう分かっているのだから、それは既に「環境」となっているわけですな。ちょうど、秋には台風が来るとか、たまに地震が起るとか、冬になればインフルエンザにかかる時もあるとか、そういう自然災害に近いと。だから、怖いことは怖いけれども、それに対して事前に十分に対策することができるという意味ではちっとも怖くない。 なるほどね、ゾンビって、もはや「環境」なんだ! 「そうそう、ゾンビって来るよね~」っていう。 だけど、ゾンビなんか怖くない、ってなった時に、じゃあ何が怖いかっつーと、それは人間だと。 ゾンビがはびこって、色々不自由な状態になり、既存のルールが通用しなくなった人間社会の中で、この状況を利用して悪いことをする奴が出て来たりするってことですな。またそうでなくとも人間の自己防衛欲(=自分だけは助かりたい、死にたくないという欲望)が露呈してきたりする。つまり平和な状態の中で保たれてきた様々な倫理が壊れ、人間の中の醜い動物性が剥き出しになってしまうというね。 そうなった時の人間ほど怖いものはない、と、家内は明言しております。 なるほど。つまり、『ウォーキング・デッド』というのは、ゾンビが怖いという話ではなく、人間が怖いという話だったのね・・・。 家内にそう言われて、このドラマの本質が分かったような気になってしまった私なのであります。 でも、やっぱり私には、急に飛び出してくるゾンビも怖いわ! ぎょえ~~~!!
February 27, 2016
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デビッド・ボウイの曲を iPhone に1曲入れるとしたら何にするか。そう考えたら、案外迷うんですよね。それで、ひょっとして『Changes』とかいいかなと思い、何となくネットを見ていたら、素晴らしいライブ・パフォーマンスの映像があって。これはご紹介したいなと。見よ、デビッド・ボウイの雄姿を! ↓Changes (Live) これ、結構なお歳になってからの映像と思われますが、ほれぼれするね。 さて、そんなことを考えているうちに、じゃあ、ビリー・ジョエルだったら、どの曲を入れるかって話になって、『And so it goes』かなと。 で、これの映像を探したら、これがまた素晴らしいのがあったのよ。これがライブ音源?! スタジオ録音なみじゃん! ↓And so it goes まあ、世界にはスゴイ人たちがいるものでございます。こういうの、今の若い人たちは、興味無いのかね・・・。
February 26, 2016
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この時期、定年を迎えられた先生方を送るための大学主催のパーティが計画されるのですけれども、今回の企画書を見てびーーーっくり。 このパーティは、今年度最後の教授会の後、キャンパス内の生協食堂を会場として行われるのですけれども、参加する場合は、確か3000円くらいのお金を支払うんだったかな? ところが。 今年定年を迎えられる先生方のメンツを見て驚いたのですけど、今年定年を迎えられる教職員の方々が十数名いて、そのうちの十名以上が、そのパーティを欠席されるというのです。だから「さよならパーティ」のはずなのに、その「さよなら」するはずの先生方の大半が、そのパーティに出席することを辞退されたことになる。 えーーーー。じゃ、なんのためのパーティなわけ? お世話になった先生方に最後のお別れを言おうとそのパーティに出席しても、当の先生方はいらっしゃらないのだったら、意味ないじゃん。 ひゃあーー。そんなご時世? っていうか、これ、どういうご時世よ。 ここ二、三年、パーティ出席を辞退される先生方が多くなってきたとはいえ、まさか大半が辞退されるようになるとは。 一つ、思い当たるのは、今、定年を迎えられる先生方ってのは、団塊の世代ということ。やっぱりこの世代ってのは、ちょっと変わっていて、割とこう、集団生活に適さない人が多いのよ(個人調べ)。社員旅行とか、拒否しちゃうタイプの世代ですから。やっぱり、学生運動華やかりし頃の青春時代を過ごして、「親・先生・上司の言うことは聞くな」っていうメンタリティーで来た人たちですからね。 っていうのは、私の勝手な想像だけれども、やっぱりメンツを見て思うのは、ドライな人たちが多いってことですな。 私は逆に、バリバリウェットな人なので、なんかちょっと寂しいなと。おいおい、後ろも見ずに去っていくのかよと。 ってなわけで、こんな状態だと、さすがに私はこのパーティに参加するつもりはないですけど、こんな状態でも、やっぱり一応パーティは開くのかしら? と、むしろそちらの方に興味が出てきた私なのでございます。
February 26, 2016
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ところで、1973年と言いますと、私にとってはもう一つ、忘れられないことがありまして。それは何かと言いますと、空前の自転車ブームでございます。 自転車。イタリアの『自転車泥棒』に言及するまでもなく、それは昔から庶民の大事な移動手段だった。 実際、大事なものだけに、盗まれることもあったんですよね。 我が家でもいつの頃からか二台の自転車がありまして。一台は母用の赤い奴で、もう一つは私が小学校に上がった時に買ってもらった青い奴。で、その母用の自転車がある時盗まれましてね。すごく困ったことがある。 でも、盗まれてから二年か三年くらいして、警察から電話がかかってきて、その盗まれた自転車が出てきた。それがまた電車で十駅ほど離れた遠いところで見つかったというのでビックリ。盗難防止用に自転車を登録しておいたのが奏功したんですな。 だけど、持主の元に戻ってきたその自転車は、真っ黒にペンキが塗られていたんですよね。盗んだ人が、そうやって盗んだものと分らないようにしたのでしょう。でも仕方ない。母はその黒く塗られた自転車をその後も乗っていた記憶があります。 で、私の青い自転車はどうなったかと言いますと、これは宝の持ち腐れ。買ってもらった時に少し練習したのですが、そこで手ひどく転んだかしてすっかり懲りてしまい、以後、家のベランダに置きっ放しにされ錆びるに任されていた。 ところが、さすがに小学校3年くらいになった時に一念発起しまして、自分で練習して自転車に乗れるようになったんですな。 そうなったらそうなったで、もう自転車に乗るのが楽しくて仕方がない。でまた、そうなると、ベランダで錆び錆びになっていた自転車ではなく、もう少しカッコいい自転車に乗りたくなるのも道理。 でまた、ちょうどその頃、日本では空前の自転車ブームに突入していたんです。 一方ではいわゆる「ママチャリ」の原型となるような、「ミニサイクル」というのが出始めたのがこの頃。乗る時に足を高く後ろから回さなくていいということで、主婦の間で大人気。 だけど、私たちが求めていたのは、そういうのじゃない。まあ、私と同世代の男なら誰でも覚えているでしょうが、私たちが欲しかったのはサイクリング車、それも「フラッシャー」付の自転車でございます。荷台のところにクルマのテールランプみたいなのがついていて、しかもそれが流れるように点灯する奴。まあ、これが流行しましてね。 でまた、この時代の自転車って大体5段変速のギア付で、そのギアのシフトレバーがクルマのオートマチックのシフトレバーを模したものになっている。今から考えると相当ダサいのですけど、当時の子どもからしたら、これが垂涎の的で。まあ、どのメーカーも力を入れておりましたが、ブリヂストン、ナショナル、丸石、ツノダ、ツバメ、セキネ、宮田、丸金・・・と、それぞれ個性的な自転車をだしていた。 フラッシャー付というだけでなく、この頃の自転車には様々な新機軸がありまして、例えば「ディスクブレーキ」搭載の自転車なんてのは、確かこの頃から出始めたのではなかったかと。それからブリヂストンの自転車は、漕ぐところのフロントギアが真円ではなく楕円形になっていて、その「オーバルギア」もまた、我々には神秘的に映った。 それからハンドルがね、いわゆる「セミドロップ」って奴が流行ったんだ。ドロップハンドルじゃなくて、セミドロップってところがまた渋い。 で、私もそういうのが欲しくて、欲しくて。親にねだったのだけど、当時、5万円位したこの種のサイクリング車は、おいそれと買ってもらえるようなシロモノじゃない。 ということで、私もまるまる1年我慢して、それこそカレンダーに「あと364日、あと363日・・・」みたいな感じで印をつけたりしながら、とうとう1973年の4月、10才の誕生日に買ってもらったんです。ナショナルの奴。値段も覚えている。4万7千円でした。 なんで当時一番人気のブリヂストンのにしないでナショナルのにしたのかと言いますと、馴染みの自転車屋さんがナショナル自転車の取り扱い店だったから。そこは義理で動く私らしいところ。 でまた、結局、フラッシャー付きのじゃなくて、もっとずっとシンプルなのにしたのも、私らしいといえば私らしい。ただ、後部座席のところに振り分け式のカバンをつけてもらったのが、ちょっとこだわったところだったかな。 とにかく、これを手に入れた時の喜びたるや。本当に前の日からワクワクして眠れなかった。今まで生きてきて、人生の中で一番嬉しかった買い物がこれ。後年、自分でクルマを買ったり、家を買ったりして、価格の点ではよっぽど高いものを買ってきたわけですけれども、10才の誕生日に親に自転車を買ってもらった時ほど、嬉しかったことはございません。 で、私の友人たちも、相前後してこの種のサイクリング車を手に入れておりますから、それでよく誘い合わせてサイクリングに行ったり、それに乗って互いの家を行き来したりしたものでございます。 ちなみに、私が自転車を買ってもらったあと、しばらくしてブリヂストンから新型のサイクリング車が登場する。「ロードマン」という奴。これはその前の「アストロG」なんかよりよほど大人っぽい奴で、これまた人気が出た。「ロードマンに乗っている」というと、それはフラッシャー付自転車なんて子供っぽくて乗ってられないよ、という態度の表明だったというか。 だけど、ロードマンはさらに値段が高かったですからね。私はナショナルの奴で十分ハッピーでした。 いずれにせよ子どもにとって自転車は、行動範囲の格段の拡大を意味するわけで、そしてまた行動範囲の拡大は、やはり経験の拡大を意味する。その意味で、あの空前の自転車ブームは、昭和生まれの我々を一段大人にしてくれた、そういう類のものだったのではないかと、今にして思うのであります。
February 25, 2016
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村上和人さんが亡くなったそうで。マクセルのカセットテープのCMソング「1本の音楽」。そう、あの頃カセットテープって、CMかけてまで売るべきものでした。実際、我々の世代にとってカセットがなかったらどうしようもない、というところがありましたからね。今の世代が、スマホなかったらどうしようもない、と思うのと一緒で。 ま、その辺の話もおいおい。 さて、私が子ども時代を過ごした東林間。今もそれほど変わってないかもしれませんが、当時は今以上に自然が残っておりまして。まさしく駅名の通り。のんびりしたものでございました。 ところが、確か1973年だったと思うのですけれども、一大変化がやって参ります。東芝林間病院の向かいに、「スーパー三和」が出来たんです。まさに文明開化でございました。 今の三和は、もうごく普通のスーパーですけれども、東林間に出来た当時の三和は今とは全然別物。とにかく洒落ていた。アメリカのスーパーマーケットみたいだった。もっとも、当時、アメリカのスーパーマーケットなんか見たことなかったわけですが、それにしても、洋モノのテレビドラマなんかに出てくるアメリカの雰囲気がプンプンしていた。 例えば、入口付近のフルーツ売り場ではパイナップルとか売っているわけ。当時パイナップルって言ったら缶詰に入った輪切りの奴しか知らなかったのに、缶詰になる前の実が葉っぱ付きで売っている。ビックリしましたねえ。で、そのパイナップルにふさわしく、店内にはハワイアン・ミュージックがBGMでかかっていて、それも異国情緒たっぷりだった。 パン売り場だって洒落ていて、単なる出来合いの菓子パンじゃなくて、いかにもベーカリーから直送、みたいな感じ。それからお菓子売り場だって、袋物・箱もののお菓子だけじゃなく、お菓子の材料が売っている。材料を買って、ご自宅のオーブンでケーキを焼いて下さい的な。 牛乳だって紙製のカートンですよ。それまで牛乳ってのは牛乳瓶で配達されるものだと思っていたのに。これはもう牛乳じゃなくて、ミルクだ。 だけど、最後にもっと驚くことが待っていたんです。 レジ(レジだって、当時は新鮮でした)で会計を済まそうとすると、レジ打ちをする人の隣にもう一人、人が立っていて、その人が客が精算している間に買ったものを全部、袋に詰めてくれるの。まさに、アメリカ方式。 それもね、今みたいに薄っぺらいビニールの袋じゃなくて、「SANWA」と英字で店名が記された立派なブラウンバッグにきっちり詰めてくれる。で、そのバッグは、持ち手がついてなくて、赤ん坊を抱えるように抱き抱えるタイプなんだなあ。だから、三和で買い物をすると、その洒落たブラウンバッグを抱き抱えて家まで帰ることになるんですけど、これがまた洒落た感じでね。 まあ、とにかく、三和が出来たことによって、東林間の文明が開化した、って感じがしました。しかも三和で買い物をして帰る先は、引っ越したばかりの真新しいマンションでしょ。夢のようでしたよ。 だけど。 こういうものがどーんと出来たことで、地元のお店屋さんは絶望したでしょうな・・・。 それ以前、買い物というのは、まず自前の買い物籠を持ってするものだった。それで、肉は肉屋、魚は魚屋、野菜は八百屋、豆腐は豆腐屋、それぞれ専門のお店を回ってするものだった。 私も母に連れられて、日々の買い物をした頃のことを思い出しますよ。肉屋って言えば、あのコロッケを揚げているいい匂いとかね。魚屋だと、どういうわけかやたらに店主がホースで店内に水を撒いていたりして足元がいつもびしょびしょだったりして。それから八百屋っていうと、買った野菜を適当な大きさに切った新聞紙で丸めて、ほいって渡してくれて。100円玉、50円玉、10円玉、5円玉、1円玉がそれぞれ笊に入れてあって、その笊が天井から吊り下げられていて、会計はすべてこの笊を通じてやるの。レジなんて洒落たものは置いてなかった。で、そうやって町のあちこちにあるお店屋さんを回ってその日の買い物をしていたものですが、それがもう、三和に行けば、その一箇所で全部済んでしまうのだから、そりゃ、誰だって個人商店じゃなくて三和に行きますわなあ。 つまり、日々の「買い物」という作業の在り方が、一変してしまった。 思うに、こういう状況ってのは、もちろん地域によって早い遅いはあっただろうけれども、とにかく昭和40年代も末頃になると、日本の各地で生じ始めていた現象なのではないかと。 この頃、色々なものがどんどん「西洋化」していって、個人の生活史としてみればそれは快適なことではあったのだけれど、その裏側で、従来の日本の姿が少しずつ消えていった。今振り返ってみれば、そういうことなのでしょうな。 でも、そういう移り変わりを我々の世代はリアルタイムで目撃した、という事実は争えないのでありまして、だからこそ、その証言を残しておきたいという気がするのですけれども。 そうそう、目撃したと言えばね、1973年のもう一つの社会的なトピックは、第4次中東戦争勃発ね。で、その影響はトイレットペーパー不足という妙な形で日本を襲った。 石油が無くなると、トイペが不足する。こんな「風が吹くと桶屋がもうかる」的な論理はないわけで、本当のところは、全然トイペ不足なんか生じてなくて、あるところにはたんまりあったようですが、少なくとも見かけ上、スーパーの棚は払底していたので、これはまずいことになった、という危機感はすごくありました。我が家も例外ではなく、母が大騒ぎして買いだめをしていましたっけ。 今となればお笑い草ですけど、当時としては「それがなかったら、トイレで・・・どうするの・・・」って話ですからね。 でも、とにかく、こういう出来事を通じて、「日本には資源がない」という厳しい現実を、我々世代は痛感させられたのでございます。たとえ戦争は知らなくても、こういう経験を通過しているものだから、我々の世代までは「もったいない」っていう気持が常にどこかにあるのかもね。
February 23, 2016
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愛車シトロエンC4の1年点検の時期が来たので、ディーラーに持って行って見てもらってきました。 最近、C4に乗ってつくづく思うのですけれど、良いクルマだなと。乗り心地は重厚で滑らかだし、音も静か。それで意外に加速が良くて、高速道路なんかでも気持ちいい! ってなわけで、最初は2年乗れればいいか、程度の気持で買ったのですけど、このままもうしばらく乗り続けてもいいかなあ、なんて思い始めていたわけ。 ところが。 ディーラーでクルマの状況を見てもらったら、これが結構シビアで。今回は見送るとして、次の半年点検くらいにはブレーキパッドの交換(6万)とバッテリーの交換(3万)が必要、そして1年後の車検ではタイミングベルト交換とウォーターポンプ交換(一式12万)、それにタイロッド交換(10万)、さらにクランクプーリーとダンパー交換、それにエンジンマウント交換、それに車検代と合わせて50万円コースだと。 ひゃーーー! もうダメだーーー! C4との蜜月時代も、後しばらくのようで・・・。 さてさて、昨日は1972年の話をしましたけれども、この年の沖縄返還を子ども心に実感することがありまして。 というのも、私のクラスに沖縄から転校生がやってきたんです。ちょっと勝ち気そうな、でも割と可愛い子でね。で、その子がいきなり私の隣に座ることになった。 あれは忘れもしない、3年生になった新学年の始業式の日ですよ。その子は転校してきたばかりですから、当然、まだ誰もクラスに友達がいない状態。そこへ先生が教室に入ってきて、日直が「気を付け。礼。着席」をやった。そして私もその号令に従って礼をし、着席した。 そしたら、あるはずのところに椅子がなくて、私はド派手にスッテーーーンとひっくり返ってしまったと。 なんと、あろうことか、その沖縄からの転校生が、私が坐ろうとする直前のタイミングで椅子を引きやがったんです。 被害にあった私はもちろんのこと、クラス中があっけにとられる中、かすかにニヤニヤしながら、しかし平然と椅子に座って澄ましていた転校生。その転校生こそ、今は女優の「あめくみちこ」だったと。その当時は天久美智子でしたけどね。 沖縄が返還されると、こういうことが起きる。それを実感した一瞬でした。 さて、年が明けて1973年。 実はこの年、釈迦楽家では大きな出来事がありました。引っ越したんです。 私が記憶している最初の家は、この連載の最初に述べたように、平屋一戸建ての借家だったのですけれど、私には懐かしいこの家も、母からすると、あまり好ましいものではなかったらしいんですな。 母は当時、「団地」に憧れていたんです。 そう、私が生れた昭和30年代後半というと、公団住宅、いわゆる「団地」がじゃんじゃん建ち始めた頃でありまして、そういう団地は当然のことながらバス・トイレつきで、そのトイレも水洗だった。でまた布団や洗濯物を干すのにもってこいのベランダもあって、台所ならぬ「ダイニング・キッチン」なる洒落たものが付いている。当時の主婦からしたら憧れですよ。 で、そんな公団住宅は人気がありますから、入居できるかどうかは希望者の間でのくじ引きになる。母は何度かくじ引きにチャレンジしたそうですが、残念ながらいつもはずれだったんですな。だからなおさら、いつかは団地に、という思いがあった。 そしたらですね、当時住んでいた家から歩いて5分か10分のところに、マンションが建つことになったのよ。 で、母にさりげなくリードされるような形で家族で散歩がてら、モデルルームに行ってみたと。そしたら、すごくいい。もう公団住宅なんてもんじゃなく、もっといい。もっと洒落ている。 で、買ったと。散歩して、そのついでにマンション買ったと。 先にも言いましたが、この頃、つまり昭和40年代後半は、日本は好景気の真っ只中で、父の給料もガンガン上がっていた。だから、ちょっと無理すればマンションくらい買えちゃったわけ。確か4LDKで1000万円くらいだったかなあ。とにかく、そんなわけで1973年の夏、私が10才の時に我が家は借家からマンションへと引っ越したのでございます。 そしてこれに伴い、私も独立した自分の部屋というものを持つようになりました。我が十代の城。 いやあ、少年にとって自分の部屋があるということは、それはそれは素晴らしいことであり、また色々な理由で絶対に必要なことでありました。高尚なことから下世話なことまで、私の空想はすべてこの部屋から始まったと言っても過言ではない。 ま、それは個人的なことではありますが、しかし私がここで声を大にして言いたいのはですね、この時代、つまり昭和40年代後半、普通のサラリーマンであれば、持ち家を持つことも夢ではなかったということ。戦後、順調に復興してきた日本は、ここに至ってついに、そういうレベルに到達したということですな。めでたい! ちなみにこのマンション、「ルネ東林間」という名前なのですが、7階建て5棟、エレベータ付、当然トイレは水洗で、風呂はガス湯沸かし器がバスタブの隣にある奴。着火する時には、取っ手みたいなのをグルグル回すと、それが火打石的に火を点ける仕組みでしたね。それから台所にも瞬間湯沸かし器がついておりました。 でまた、新しい家に入れる家具やなんかもばーーっと買った。「大正堂」っていう、相模原とか町田辺りでは割と有名な家具屋さんがあって、そこでどーーんと買った。姉や私はベッドと学習机と本棚を買ってもらって大満足よ。そうそう、私は当時流行の「Zライト」っていう学習用ランプなんかも買ってもらって、これが実に良かった。 つまり、この年、我が家は一気に文化生活へと突入したと言っていいでしょう。 だけど、文化生活化したのは家の中だけではなかった。東林間の町の様子も、この年辺りを境に一変する。 ま、その辺りの話については、また後日ということにいたしましょうか。
February 23, 2016
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さて、それで1972年ですよ、1972年。覚えてます? 何があったか? まずね、いきなりビックリさせられたのが横井庄一軍曹のグアム島のジャングルからの帰還。第二次世界大戦のツケを色々な形で払いつつあった日本および世界ですけれども、まさかね、こういう形でツケが回ってくるとは思わなかった。もっとも、我ら子どもの間では、横井さんご苦労様、という気持は、「よっこいしょ、ういち」という掛け声で表されたわけですが。 だけど、もっとビックリしたのは「あさま山荘事件」ね。あれは・・・人が何人も亡くなった事件についてこう言ったら不謹慎かもしれないけれど、子ども心に興味津々というか、まさにテレビ中継から目が離せない事件でありました。っていうか、そもそも現在進行中の事件がテレビで長時間にわたって生中継されるなんてこと、それまでなかったですもんね。朝学校に行く時にもやっていて、学校から帰って来てもまだやっているんですから。 それで、いよいよクレーン車&鉄球が登場し、山荘をまるごとぶっ壊しながら機動隊が突入するシーンなんて、いまだ目に焼き付いております。 この事件の背景にある安保問題だとか連合赤軍だとか、そういうことについては、なにせ当時私は小学校2年生ですから、全然分りませんでしたし、今でもあんまりよくは分っていないですけれども、とにかくあの時に「テレビ報道」ということを明確に意識させられたことは事実。日本人のおよそ9割がテレビにくぎ付けになったわけで、その一体感たるや。ある意味、大阪万博以上のものがあったとも言えるでしょう。 ま、アメリカ国民にとっての「ケネディ暗殺報道」に相当するものが、日本人にとっては「あさま山荘事件」だった、とも言えるんじゃないかな。 一方、この年には良い事も色々あった。その一つが札幌オリンピックの開催ね。 東京オリンピックの時には私はまだ1歳で、もちろんオリンピックの記憶などあるわけがなく、またその次のメキシコ・オリンピックの記憶もほとんどない。その意味で、我々の世代にとって生涯最初に出会ったオリンピックが札幌オリンピックだと言っても過言ではないわけ。 でまた、印象的なオリンピックだったのよ。まずは何と言っても日の丸飛行隊。スキー・ジャンプで日本人が表彰台を独占という奴。とりわけ、笠谷選手の微動だにもしない飛行姿勢の美しかったこと。最近のスキージャンプは、飛行中に両手両足を開いて「ムササビ」状態でしょ。だけどこの当時のスキージャンプって、手足を広げず、気を付け! みたいな姿勢でしたからね。今以上に美しかった。ましてや笠谷選手となると、スキー板がピタッと揃って、それはそれは見事なものでございましたよ。 それからフィギュア・スケートのジャネット・リンね。もう雪の妖精そのもの。取ったのは銅メダルだけど、逆に金メダルとった選手、銀メダルとった選手が誰だったのか、全然思い出せない。 大体、リン選手は転倒して尻餅ついたって笑顔じゃない。あ、こういう場面で尻餅ついて、それでニッコリ笑っていいんだ、ってことを我々に教えてくれた。いくらオリンピックだって、悲壮な取り組みをするのじゃなくて、フィギュアで滑ることは楽しいことなんだから、少しぐらい失敗したってニッコリ笑えばいいんだって。彼女の笑顔は、ある意味、オリンピック競技というものに対する概念を覆したようなもんでしたよ。 そしてオリンピック期間を通じて日本中に響き渡ったトワ・エ・モアの「虹と雪のバラード」。あれも良かったねえ。 ちなみに、この年は夏もオリンピックがあったんですな。ミュンヘン・オリンピック。当時オリンピック・イヤーには冬と夏の両方オリンピックがあった。こちらの方では日本男子バレーが金メダル。それから体操・塚原選手の「月面宙返り」が記憶に残っております。ただ、インパクトとしては、札幌オリンピックの方がよほど大きかった。それから悪名高い「ミュンヘン・オリンピック事件」、これのことは全然覚えてない。イスラエルとパレスチナの問題は、子どもには難し過ぎたのかもしれません。 あと、もう一つこの年で印象的だったのは、田中角栄首相の誕生ね。 それ以前、私が物心ついた頃からずーーーっと佐藤栄作氏が総理大臣をやられていて、私としては、大鵬が勝ち続けるのが大相撲の基本ルールであるごとく、佐藤栄作が総理大臣をやるのが日本の政治のルールなんだろうと思っていたもので、場合によっては首相が変わることがある、ということを知っただけでも結構な驚きだったという。 でまた、新しく首相になった田中角栄氏というのが、インパクトのある人でしたからね。見かけからして「いっちょやったるで」って感じでしたから。「日本列島改造論」が売りでしたけど、この人なら本当に日本を改造するんじゃないかと思いましたもん。 それに小学校しか出ていない学歴も話題となり、「今太閤」とかね、あるいは「コンピュータ付ブルドーザー」とか、新聞に新首相を(揶揄的に?)称える記事が随分出ていましたよ。私は、角栄氏が好きな食べ物は塩鮭だとか、そこにさらにバターを乗せるんだとか、そんなことまで新聞に出ているのを見て、当時の日本人が角さんに対して、興味と期待とちょっとバカにした感じと、あれこれないまぜに持っていたことをヒシヒシと感じましたねえ。 で、その期待だか何だかに応えるように、彼はやることが早かった。首相になったと思った途端に大平外相連れて中国に乗り込んで国交回復しちゃった。アメリカと中国が国交回復しつつあった動きもにらんで、今、日本もこの眠れる大国と国交回復しておかないと後で後悔することになると思ったのでしょうな。 でまた、当時の中国のトップはまだ毛沢東でしょ。そしてその下に周恩来がいた。国交回復のための細かい条件闘争はすべて周恩来に任せておいて、最後の最後に毛沢東が登場してくるや、田中角栄に対して「周との喧嘩はもう済みましたか?」って言ったとか、言わなかったとか。そんなことを聞いて、角さんの行動力もすごいけれども、毛沢東ってのはやっぱり大人だなと思ったことでした。底が知れないというか。 で、その中国との国交回復のおまけで出てきたのが上野動物園のパンダ。ランランとカンカンですよ。まあ、ものすごいブームでしたねえ。同じような二匹なんだけど、カンカンの方が可愛いというのがもっぱらの評判で。 で、物見高い国民性ゆえ、パンダの檻の前は人の波が引きも切らず、連日3時間待ちとか、見られたとしてもトコロテン式に押し出されて、実際に見られたのはものの何十秒だとか、そのブームの白熱ぶりが連日報道されておりましたっけ。 だ・け・ど。 私は結局、上野のパンダは一度も見ていないの。 やっぱり私は子供の時から私だったんだ、と思うのですけれども、小学校3年生にして、「そんなに人が見たがるものなのであれば、私は見ないでおこう」と思ったんですな。天邪鬼というか、人がやることはやらない、人がやらないことをやる。そういう思いが強くて、パンダ・ブームには敢えて背を向けていたという。人ごみも嫌いだったしね。 そんな風でありながら、その当時の私の将来の夢は動物学者。だからテレビ番組の『野生の王国』(1963-1990)は物心ついた頃からかじりついて見ていたし、タイムライフ社から出ていた大判の動物写真雑誌『アニマルライフ』も毎号買ってもらっていた。愛読書は保育社の原色図鑑シリーズと偕成社の『シートン動物記』、憧れの人は今泉吉典博士(動物学者)と古賀忠道さん(上野動物園園長)でしたから。 だからパンダにも興味が無かったはずはないんだけれど、それでもパンダを見に行こうとは思わなかったし、親に連れていってくれとねだりもしなかった。っていうか、今もなお、私はパンダを生で見たことは一度もないという。こういうのは、一度チャンスを外すとダメだね。もう今更って感じもしてきちゃうし。 それからもう一つ、この年のビッグニュースは沖縄返還でございます。だけど、子どもだったし、沖縄に縁があるわけでもなし、特にそのことを喜んだとか驚いたとか、そういう記憶は私には一切ありません。 ただ、沖縄返還がらみで一つインパクトがあったのは、1972年の4月、私が小学校3年生になった時に、私の通っていた学校に沖縄から転校生が一人やってきたってことかな。その転校生ってのが・・・ いや、その話はまた後日。
February 21, 2016
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アメリカの作家、ハーパー・リーさんが亡くなりました。 ハーパー・リーと言えば、トルーマン・カポーティ。天才作家カポーティが唯一心を許した幼馴染みであり、かの『冷血』執筆時にも、カポーティに同行してカンザスの片田舎まで取材を手伝ったとか。自らも超ベストセラーであり映画版でも知られる『アラバマ物語』を書き上げるものの、あれは本当はカポーティが書いたんだとかなんとかあれこれ誹謗中傷にもさらされつつ、沈黙を守り続けた人。そして去年、その『アラバマ物語』の続篇を出版してアメリカ中の読書子を仰天させたと思ったら、今日のこの訃報。 なんかねえ。やっぱり南部の人なのかなあ。ヤンキーとはちょっと違う、どこか日本人女性のような、含羞と芯の強さを併せ持った人でしたねえ。一口に「謎の作家」と言ってしまえば、まあ、それはそうなんだけれど・・・。 さてさて、昨日は大阪万博の開幕をもって1970年代がスタートしたところまでお話しましたけれども、この年、もう一つ子ども心によく覚えているのが、11月の三島由紀夫の割腹自殺ね。もちろんこちらは小学校1年生ですから、この人が何者なのか、何をやろうとしてどうなったのか、なんて難しいことは分りませんが、とにかくテレビ・ニュースで繰り返し放送されたあの演説風景はよく覚えております。後で知ったところでは、翌日の新聞には床に転がった三島の生首を写した写真が載ったそうですが、それは私は見ておりません。おそらく、両親が見せないように配慮したのでありましょう。そりゃ、そうだよね。そんな写真、子供には刺戟が強すぎる。 そして明けて1971年。実はこの年のことはあまりよく覚えておりません。岩波ブックレットの『昭和・平成史』の項目を追っていくと、アメリカのキッシンジャー大統領補佐官が極秘裏に中国に行って国交回復の下準備をしたとか、中国が国連に復帰したとか、中国がらみのニュースが多い一方、日本では沖縄返還協定調印とかがあり、第二次大戦の後始末が着々と進んでいたことが分かる。だけど、そういうことは、小学校2年生の少年には関係ないからね。 ただ、岩波ブックレットの『昭和・平成史』には登場してこない話題として、ちょいと付け加えておきたいのは、この年、日本では大変なボウリング・ブームがあった、ということ。でまた、この爆発的なブームを受けて、全国各地に、それこそ雨後の竹の子のようにボウリング場がバンバン建設されましてね。だから、例えば電車に乗って車窓から外を見ていると、巨大なボウリングのピンを屋上に乗っけたボウリング場がやたらに目につくようになった。まあ、「ブーム」っていうのはこういうものかと、子ども心に思ったものでございます。 でまた、テレビでもボウリング番組がどんどん出来て、中山律子さんと須田開代子さんの二人が大人気。華やかな中山さんと、地味ながら実力は中山以上かと目された須田さんの息づまる対決は、ボウリング・ファンならずともテレビ画面に惹き付けるものがありました。 で、そんな調子ですから、どこのボウリング場も予約で一杯でなかなか遊びにいけない。それでもどうにか予約を入れたのか、私もこの年、生まれて初めてボウリングなるものをやった。まあ、やったと言っても小学校2年生ですから、重い球を両手で持ってのこのこレーンの近くまで行って、ホイッと投げて、その球がゴロンゴロンとゆーっくり転がって行って、最後の最後でガターになるという悲しいものでしたが。 で、この初のボウリング体験の時にもう一つよく覚えているのが、ボウリング場に堺正章さんの「さらば恋人」が大音量でガンガン流れていたこと。「さよならと書いた手紙、テーブルの上に置いたよ。悪いのは僕の方さ、君じゃない」って奴。 もちろん、小学生としては、この歌詞をちょいと変えて「悪いのは君の方さ、僕じゃない」と歌うわけですが。 ちなみに、堺正章さん・・・っていうか、我々の世代からすると「マチャアキ」ということになるわけですけれども、マチャアキは、この頃、我々子どもにとっては大変なヒーローでね。何だかすごく面白いお兄さんという印象が強くて、テレビ番組で言えば「ハッチャキ! マチャアキ」とか。マチャアキがゴールデンハーフの面々とコントを繰り出す奴。(ゴールデンハーフ、懐かしいな! エヴァとか、今何やっているんだろう?)あと、もちろん『時間ですよ』ね。だから、私は今でもマチャアキに対しては親近感がある。 ま、それはともかく。そのマチャアキが「ザ・スパイダース」の一員としてではなく、ソロで大ヒットを飛ばしたということは、つまり1971年頃には日本における「グループ・サウンズ・ブーム」は終焉していたってことだよね。 そうなんですよ。グループ・サウンズ。っていうか、GS。我々の世代は、これに間に合わなかった。間に合わなかったけれども、その一部を辛うじて記憶しているって言う感じ。 じゃ、何を記憶しているかっていうと、ジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」よ。「森と泉に囲まれて、静かに眠るブルー・シャトウ」って奴。または「森トンカツ、泉ニンニク、かーコンニャク、まれ天丼、静かニンニク、ねむルンペン、ブルーブルーブルーシャトウ」ですけど。このアホみたいな替え歌がまた流行ったんだ。 あとは、そうねえ、ザ・テンプターズの「神さまお願い」とか? ザ・タイガースの「君だけに」とか? ザ・スパイダースの「夕日が泣いている」「あの頃君は若かった」とか? ま、とにかく、そういうヒット曲の数々は覚えていますけれども、やはりGSブームは我々より一世代上の、団塊の世代の話でしょ。だから、GSについて、熱を込めて詳しくは語れない。それが我々の世代。 ただ、それでも、「おじさん、おばさん」ではなく、「お兄さん」レベルの若い人たちがわーきゃーやっているというのは気づいていた。つまり、芸能界というものが、三波春夫とか、春日八郎とか、藤山一郎とか、淡谷のり子とか、そういう人たちだけのものではなくて、もっと若い人たちのものでもあるんだ、ということには気づいていた。そこは、ちょっと重要なところかなと。日本の芸能界が若者に席捲されていく、その端緒を見た、という意味で。 だけどね、それと同時に、私は、この世にはもっとすごいものがあるらしい、ということに気付いてもいました。 ビートルズのことでございます。 あれは忘れもしない、1970年の夏、家族旅行でどこかに行った時、ホテル附属のゲームセンターで、従兄弟のお兄ちゃんがジュークボックスで「ゲットバック」をかけた。 それを聴いた時の衝撃。 実は私、父親が英語の先生で、当時としては珍しくアメリカに出張とかもしていたので、アメリカという国に対する憧れというのが小さい時からあって、英語の歌が好きだった。で、当時の私のお気に入りは、ニュー・クリスティ・ミンストレルズの「グリーン・グリーン」だったわけ。 ところが1970年の夏に「ゲットバック」を聴いて以来、ビートルズというすごいのがいる(当時、ビートルズがイギリスのバンドだとは気付かなくて、アメリカのバンドだと思っていたところもありますが)、ということに気付いてしまった。私の洋楽歴というのは、だから、1970年に始まるので、そのことが私という人間の形成に多少なりとも影響するのですけれども、それについてはまたいずれ。 とにかく、私はケネディ大統領とほんの数カ月でも同じ空気を吸ったし、ビートルズが解散する前に、ビートルズのことを知っていた。この二点が、ある意味、世代の目印としてある、ってことだけは言っておきましょう。 でまた、私の西洋かぶれ、アメリカかぶれ、という点からいえば、1971年夏に、『セサミ・ストリート』の放送が始まったことも大きかった。英語の先生だった父は、この番組に興味があったので、その第一回目の放送から関心を持って見ていたのですが、姉と私もつられて見まして、アメリカってすごい! って思いました。 だから、結局、1970年代初頭ってのは、世間では中国と沖縄に目が行っていたようですが、私個人の目はアメリカに向けられ始めていたって感じだったんでしょうな。 そして、翌1972年。この年は色々あって、思い出すことも多いのですけれども、それについてはまた後日。
February 21, 2016
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私が幼稚園時代を過ごしていた時代ってどんなだったろうと思って『岩波ブックレット 年表 昭和・平成史』なる本を繙いてみますと・・・昭和43年 東大紛争の発端、ベトナム戦争の激化(ソンミ村大虐殺)、パリ5月革命、ソ連のチェコ侵攻、川端康成ノーベル文学賞受賞、3億円事件 昭和44年 東大安田講堂の攻防、日本政府、初の公害白書発表、アポロ11号月面着陸、アメリカでベトナム反戦運動広がる 等々、明るいニュースがちょこっとありはするものの、なかなかキナ臭いニュースが並んでおります。世界情勢も冷戦を背景にごちゃごちゃしているし、日本でもアメリカフランスでも若い人たちを中心に反政府運動が勃発中。公害問題も含め、それまでの社会が押し殺していた諸々のことに対するツケが回ってきたって感じでしょうか。 だけど、そういうものにコミットしていたのは、団塊の世代の人たちで、それよりも一回り年少の我々はまだ幼稚園の時代ですから、そんな社会のキナ臭さなんてものには注意が向いておりません。戦争を知らない子どもたちの、さらにその下ですからね。 そしていよいよ昭和45年がやってくる。西暦で言えば1970年代の始まりでございます。 1970年、我々の世代にとって何が変わったかといえば、学校時代が始まったっちゅーことですね。これは人生の中でも意味が大きい、大きい。いわば、ここから人間としての社会生活が始まるわけですから。 私も1970年に小原国芳先生と握手をして、玉川学園小学部に入学。林間のぞみ幼稚園時代の同級生たちはたいてい地元の公立小学校(東林小学校)に進学しましたから、ここで私の友人関係もがらりと変わります。 ま、それは個人的なことですから、ここではどうでもいいのですけれども、とにかく、1970年に私にとって社会生活が始まったということは、子どもなりに少しは社会の動きというものに敏感になるということでもある。 そして私が最初に感知した社会の動きとは何だったかと言いますと、一言で言えば「人類の進歩と調和」。そう、この年、大阪で万博が開かれたのでした。半年間に亘る「Expo'70」の開幕でございます。 これはね、大きいです。めちゃくちゃ大きい。我々の世代にとって大阪万博が持っている意味というのは果てしなく大きい。 戦後の日本の復興と発展を世界に知らしめるチャンスとして、1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博があったわけですが、東京オリンピックの方は、何せまだ1歳ですから、全然覚えていない。しかし、大阪万博には間に合った。日本のステップアップを象徴する二つの出来事のうち、後の方には辛うじて間に合い、その生き証人になった。そういう感じがある。 実際、大阪万博って、世代を確認し合う道具にもなっていて、「大阪万博行った?」「行った」「じゃあ、三菱未来館ですれ違っていたかも知れないね」 という一連のシークエンスこそ、知らない者同士が急に仲良くなれる、一撃必殺の会話術なのでございます(ホントかよ?!) で、私も夏休みに大阪万博に行きましたけれども、すごかった。まさに国の総力を挙げてのお祭り。そして、世界中からも観光客が殺到し、会場はさながら世界平和の見本市。アメリカ館の月の石が象徴するように、あるいは岡本太郎の太陽の塔が象徴するように、はたまた三波春夫の「世界の国からこんにちわ」が象徴するように、今、科学の進歩によって知の最前線は果てしない拡大をしていて、かつ、人間の生命のエネルギーは燃え盛っており、世界平和への希求もかつてなく募っていて、人類の未来は希望に満ち、まばゆいばかりに明るい! 世界各国から日本に来てくれた観光客の皆さん全員と握手したい! マジでそう思いましたもん。 で、数年前のこと、大阪で学会があった時に、太陽の塔の下に今も残る万博記念館に行ったことがありまして、そこで万博開催当時の様子を映したビデオを見たんですけど、そこに映っていた当時の日本人の顔を見て本当にビックリした。 もうね、当時万博を見に来ていた日本人の顔・顔・顔が輝いているの。目が光っているの。エネルギーが漲っているの。未来への希望が全身からオーラのように立ち昇っているの。 何しろ当時は高度経済成長の真っ只中ですから、平均的なサラリーマンにしたって、毎月のように給料が上がる。社会の景気の良さが個人の懐にまでビンビン反映してくる。そこへ持ってきてこの国を挙げてのお祭りでしょ。未来は明るい! 科学さえ進歩すれば貧困などの問題も一気に解決だ! 戦争なんか止めて世界中の人々と仲良くしよう! 外人さんたち、日本に来てくれてありがとう! ウェルカム! みたいな雰囲気が、群衆の間から怒涛のごとく湧き上がっている。 これが、人生における社会生活のスタート地点だもん。そりゃ、楽観的にもなるわな。ちなみに、この年、日本で大流行したものの一つに「ラブ・ピース」というピンバッジがありまして、あれはアメリカで1963年に生れた「スマイリー・フェイス」が元になっている(映画『フォレスト・ガンプ』にも登場する)ようですが、とにかくあのニコニコ・マークが象徴するように、私たちの世代の未来はニッコニコだった。 その後、万博に類するものは筑波とか沖縄とか名古屋でも行われましたけれども、あの大阪万博、あの Expo'70 のような意味あいをもったものは、行われていないし、もう行うことは出来なかろうと思います。今、世界の未来に対してあれほど単純に、楽観的にはなれないでしょ。 だからこそ、あれを人生のスタートで体験してしまったということは、我々の世代にとって、人生におけるものすごいインパクトだったわけよ。 そう言う意味で、我々の一回り上の世代が「戦争を知らない子どもたち」であったごとく、我々は「大阪万博を見てしまった子供たち」と定義できるのではないか。 私はそう思うのであります。
February 20, 2016
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昨日、独楽だのメンコだのの話をしましたしたが、その延長線上で「凧」はどうだったかと申しますと、やはり独楽などに比べて季節的な趣が強かったせいか、お正月以外で凧揚げをした、という記憶がない。 で、さすがにお正月には凧揚げをしましたが、私の頃はもちろん伝統的な凧しかない。洋風の「ゲイラカイト」でしたっけ? あれはもっと後になってから、私が小学校の高学年になってから急に流行し出したもので、もっと小さい時にはそんなものない。 だから、いわゆる「足」のひらひらついた伝統的な和凧を揚げるしかないわけですけれども、わが家では母が凧揚げの名人ということになっていて、なかなかうるさいのよ。 母に言わせれば、凧といったら角凧のことで、「やっこ凧」なんてのは下の下でしかない。 しかも、あの子どもがよくやる、凧を揚げようとして揚がらなくて、結果地面を引きずったまま駆ける奴、あれを「駆け凧」と言って、めちゃくちゃ軽蔑するわけ。ああいうみっともないことを絶対してはいけないと。 だけど、角凧って、揚げるのめちゃくちゃ難しいですよ・・・。私なんか、やっこ凧を揚げるのがせいぜいで、角凧を上手に揚げた記憶がない。やっこ凧は割と簡単に揚がりますからね。 だから、母に言わせれば「下の下」のやっこ凧を、罪びとのようにこそこそ揚げる。それが私の凧揚げなのでした。 だけど、後に、かなり大人になってから海岸でゲイラカイトを揚げたことがあるのですが、上手下手なんて関係なしにぐんぐん揚がって、手持ちの糸が全部出るまで高く揚がったのですけど、実に面白かった。自分から遠く離れた上空にある凧と自分が一本の糸でつながっていて、しかもその上空の凧が感じているはずの風の強さが、自分の手のうちにある糸巻にビンビン伝わってくる感覚がものすごく新鮮で、えーー、凧揚げってこんなに楽しかったっけ? って驚いたことがある。 こんなことなら、子どもの時にもっと凧揚げやっておきゃーよかった。 さて、その他の遊びというと、やっぱり私も男の子ですから、銀玉鉄砲とかね、ああいうので「武装」するのがすごく楽しかった。 銀玉鉄砲、いわゆる「マジックコルト」って奴は、当時、100円くらいで買えたんだったかなあ。で、それに銀玉をつめてパンパン撃つわけですけれども、この銀玉がめっぽう安くて、小さなマッチ箱みたいなのに50個入っていて、それが一箱5円だった。でまたその箱がいかにもいい感じで、弾を買うのも楽しかったですねえ。で、銀玉鉄砲でブロック塀なんか撃つと、当たった弾がパーンと砕け散って、それもまたいい気分なものでした。 あと、火薬がつまったベルトみたいなのを仕掛けて、引き金を引くと、撃鉄がその火薬に当ってパーンと音がする、というタイプのおもちゃの銃もあって、あれはあれで、火薬の匂いがしていいものでしたけど、やっぱり弾が出ないというところが面白味に欠けるところでございました。 それから、これはもう少し後になって出てきたのですけど、プラスチックの円盤を飛ばすタイプの銃が売り出されて、これも持っていましたが、円盤だけに、小さなフリスビーがすーーーっと飛んでいくような爽快さがあって、これはこれで面白かった。 だけど、やっぱり昭和の男の子のお供は、銀玉鉄砲ですな。 それと、火薬で思い出したのですけど、ロケットみたいな形をしたものの先端に火薬の詰まったベルトを仕掛け、これをポーンと投げると、重みでロケットが下を向いた状態で地面に落下し、その衝撃で火薬が破裂する、という妙なものもあって、これも「ミサイル」と称して持っていましたが、敵味方に分かれて遊んでも、自分が投げたロケットは自分で取に行くのですから、あまり効果的な武器という感じがしなかった。ただ持っている、というだけのおもちゃでしたかね。 それから火薬ものの頂点に属するのが、「爆竹」ですな。 あれも、多分中国からの輸入もので、派手な赤い包み紙に包まれたそれを、我々昭和の男の子は、自分たちが持てる最大の武器として、畏敬しておりましたっけ。「危ない」「火事になる」ってんで、親に見つかるとあまりいい顔されないので、こっそり隠し持つ的なところもありましたし。 で、あれの遊び方の一つとして、缶ジュースの空き缶に入れて爆発させる、というのがある。 空になった缶ジュースの空き缶を足で踏んでつぶし、そこに火を点けた爆竹を1本入れる。で、爆竹が破裂すると、アーラ不思議、へこんでいたはずの空き缶が元通り、という次第。 まあ、そんなこともして遊んだわけですよ。 それにしても、こういった子供の遊び道具を売っている駄菓子屋ってのが、ほんとに楽しかった。あれこそ、子どもにとってはお楽しみの巣窟。 でまた、男の子用の遊び道具ばかりでなく、女の子用のものも売ってたりするじゃない。あれがまたね。 例えば、私にとっては今も謎の「リリアン」とか。あれは一体、何をするものなのか。編み物ができるとか噂には聞くけれどもよく分からないという。 あと、「チエリング」とか。よく道端にあれが落ちていていましたけど、あれも謎。あれは、つなげて長くしてどうにかするものだったのでしょうか。 でも、とにかく、「これは男の子用」とか、これは「女の子用」みたいな感じで、昭和の人間は駄菓子屋でジェンダーを知る、みたいなところがありましたね。 あとさ、おもちゃの類もそうだけど、お菓子もね。例の粉末ジュースとか。別に旨くもなんともないんだけど、粉を水に溶かすというところがもう、子ども心を鷲掴みだよ! あと、これは東林間での話ではなく、母方の田舎での話ですが、駄菓子屋にクジがあって、当たりが出ると投資した額よりも豪華なお菓子セットがもらえるとか、そういうのが楽しみだった。 今、観光地とかで、「懐かしの駄菓子屋」的なのがあったりしますけど、本物の駄菓子屋ってのはもう存在しないのかな。子供の遊びも変ったしね。 でも、ゲーム機みたいなのでピコピコやっている平成のガキどもと比べて、我ら昭和の駄菓子屋世代は、幸福だったな。
February 19, 2016
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今日は修士論文の最終口述試験がありまして、私の指導生二人もそれぞれ1時間ほどみっちり絞られておりました。 ま、私は指導教員なので、もっぱら副査の先生方の厳しい質問にたじろぐ指導生のサポートに回るような形になるのですが、疲れる疲れる。 要するに、自分にとってはさほど重要ではないが、他人(指導生)にとっては非常に重要、という一日でしょ。そういうのって、もちろん当の指導生たちは激しく緊張し、ものすごく疲れるのでしょうけれども、それを傍で見守っている私は私で変な疲れ方をするというか。 でも、とにかく二人とも結果的にはすごく良い成績が取れたので、私としてもホッとしました。ホッとして、ドッと疲れた・・・。 あーーー、これで今年度の修論指導終了~! 今年は二人の面倒を見て大変だったけど、上首尾に終わって良かった~! さてさて、ここから先は「昭和の男の作り方」シリーズ第4話ということで。 私は幼稚園までは地元の幼稚園(林間のぞみ幼稚園)に通っていたのですが、年少組、年中組、年長組と3年間通った姉とは異なり、私は年中・年長の2年しか行かなかった。なぜかというと、一つには同年代のガキが嫌いだったから。幼稚園なんて、同年代のガキばかりいるところじゃないですか。わたしゃーそんなところには行きたくなかった。私は大人が好きだったんです。 もう一つは、母を家において幼稚園に行くのが嫌だったから。誤解のないように付け加えておきますが、これは私が寂しいからではなく、私が幼稚園に行っている間、母は一人で寂しかろうと思ったからでございます。 大体、幼稚園でやることなんかバカバカしいことばっかりだし、例えば油粘土をこねくり回すとか、嫌で嫌で。ガキは相手にせず保母さん相手にジョークかっとばすとか、そんなことばかりやってましたねえ。 もっとも、その割に私は幼稚園時代はモテてモテて、帰宅時間になると、誰が私と手をつなぐかで幼稚園中が騒然となるという。それをまた「はぁ?」みたいな白けた態度で横目に見るという。嫌なガキだったね。 だから幼稚園で何をした、という記憶はほとんどないのですけれども、家に帰ってからはやることはいっぱいあった。というのは、そのころには我が家の隣にアパートが建ちまして、そこに「加藤君」という男ばかり三兄弟がいて、この三兄弟、特に真ん中の子と一番下の子が私とよく遊んでくれたからでございます。 そういや、私が幼稚園に通いだしたころ、つまり昭和40年代半ばと言いますと、日本は好景気のど真ん中。だから、私の家の周りでも新築の家がじゃんじゃん建ち始めたんですわ。 何しろ私の家は借家でしたから、大家さんの意志ひとつで周りに家がどんどん建つ。最初は「なんで俺の家の庭に他人の家が建つんだよ」と子ども心に憤慨もしましたが、そもそも私の家の庭じゃないし。 それに、家を建てる作業というのは、見ていると面白いのよ。それに家を建てる過程で木材の切り落とされたかけらとか、かんなをひいた薄い木の膜みたいなのとか、そういうのがたくさん出る。それを気のいい大工さんたちからもらってきて、いわば積み木として使って自分でもミニチュアの家を作る。そういう楽しみもありましたのでね。 ま、とにかく、加藤三兄弟よ。子どもの時の私は、彼らからいかに多くの遊びを学んだか。 たとえばメンコ遊びなんてのは加藤君たちから教わりました。 メンコ遊びの面白さってのは、まずメンコを買いそろえるところから始まるわけ。昔の町にはたいてい一軒か二軒、駄菓子屋兼おもちゃ屋みたいなのがあって、東林間の場合だと先にふれた「もみじや」さんとか、あるいは「東芝電工」さんとか、そういうのがある。で、そういうところへ行ってメンコを買う。 私の子どものころの基本は「1円パン」(多分「1円版」の意)。これは直径10センチくらいのメンコで、1円で1枚買える。で、「2円パン」「3円パン」「5円パン」「10円パン」ときて、この一番大きい「10円パン」となると大人の手のひらを広げたくらいの大きさで、もちろん強いことは強いのだけど、相手に取られるとその被害のショックが大きいのでめったなことでは試合には出さず、大事にしまっておくという。 それから長方形のメンコもあって、これにも薄っぺらいものから分厚いものまで値段によって種類があった。とにかく、当時、少なくとも子どもの世界では、「1円」で買えるものがあった、ということが重要なわけよ。今、1円で買えるものなんかないでしょ。昔はあった。だから、一層お金の価値というものが、子どもには身に染みて理解できたわけ。 ちなみにそれらのメンコに描かれていた絵がね、また魅力なわけ。今思い出せば、かなり毒々しい配色のもので、テレビアニメの主人公が描かれたものや、忍者もの、怪獣もの、どれもみんな欲しかった。 そう、それから宇宙ロケットとか、宇宙飛行士のメンコもあったけれど、それは1969年のアポロ11号の月面着陸を受けてのこと。宇宙というものが、今よりももっと身近だった時代、それが昭和40年代なのでございます。私の同学年の子たちの中にも「将来、宇宙飛行士になりたい」とか言っていた奴が結構たくさんいましたからね。私は「バカな奴」とか思ってましたけど。「あんな狭い乗り物にのって宇宙行って何が面白いんだ」と。 ちなみにメンコのルールについて、父に聞くと、父の世代のメンコ遊びでは、相手のメンコを裏返した方が勝ちだったそうですが、私たちのルールでは、アスファルトとかセメントの上に「ロウ石」(きゃー懐かしい! 覚えてます? ロウ石?)で描いた四角い土俵の外に相手のメンコを完全に出したら勝ち(=相手のメンコがもらえる)というルールでしたね。相手のメンコにぶつけて外に出す、という遊びでした。 あとね、加藤君たちに教わってよく遊んだのが独楽ね。私が子どものころは、まだ独楽というものが、結構大きな遊びの道具でした。 これも父の世代ですと、独楽を戦わせるという遊びをよくしたと聞きますが、私たちの場合は、むしろ独楽の回し方のテクニックを競うという側面が大きかった。 もちろんふつうの回し方、つまり水平に独楽を投げるのが基本ですけれども、垂直に地面にたたきつけるように回すやり方、これを私たちはなぜか「ガンソ」と呼んでいましたが、ガンソができるようじゃないと一人前とはみなされない。 それから空中に放り投げるようにする高等テクもあり、その集大成がまさに真上に投げ上げて回すやり方。名付けて「東京タワー」というのがあって、これができる奴が尊敬されるわけ。「東京タワー」って1958年生まれだから、私より少しお兄さんですけれども、当時はまだできたてのホヤホヤという感じがあったんでしょうな。今の人にとってのスカイツリー状態。だけに、「東京タワー」という名前の独楽の回し方があった、というあたり、時代ですねえ。 あとね、独楽といえば、ベーゴマもやりましたよ。これは私の時代でも相手と戦わす遊び。6角形(8角形?)みたいなのと円形のがあって、円形の方だと、上部に一部突き出た部分があって、これが相手をはじく武器になる。 これの回し方ですが、紐の先にこぶを一つ作るやり方と二つ作るやり方がある。もちろん「一つこぶ」の方が高等テクで私は二つこぶの方しかできなかった。一つこぶで独楽の周りに紐を巻くのは難しくて、ちょっと緩むとグダグダになっちゃう。ちなみに、私の父はベーゴマの名手で、一つこぶの巻き方ができるもので、うらやましかったものでございます。 あと、「地球ゴマ」ってのもあって、これも私がずいぶん遊びましたけれども、これはどちらかというと一人遊びの時に使うので、友達と一緒にどうのこうの、というものではなかった。それに、地球ゴマには回すのに上手下手がないので、面白味という意味では、普通の独楽と比べてだいぶ落ちるところがある。もっとも、今となってはその地球ゴマも懐かしいけどね。 懐かしいな。昔の遊び。 遊びについてはまだまだ言い足りませんので、また後日。
February 18, 2016
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今日、大学に行ってあれこれ仕事をしていたら、イギリス人の同僚のR先生のご母堂様が昨日、亡くなられたという知らせが。R先生は夏休みから年末にかけてサバティカル休暇をとられ、イギリスに戻られていたのですが、その間、多少なりともゆっくりとお母さまとお話しができたでしょうから、傍から言えば、それが唯一の救いでしたかねえ。もちろん、ご本人とすれば、どんな状況であろうと母親が亡くなるのにいいことなんて一つもないわけですが。 さて、このところ書き進めている「昭和の男の作り方」ですが、今日はテレビの話を一つ。 私は5歳と6歳の二年間、幼稚園に通ったのですが、ではそれ以前、あるいはその頃に自分が家で何をして過ごしていたのか、となりますと、あまり明確な記憶がありません。 ただ、ブロック遊びが好きだった、というのは覚えています。当時、子どものおもちゃとして流行していたのでしょう。最近の子どもにとってブロックといえば「レゴ」なのかも知れませんが、私が使ったのは河田の「ダイヤブロック」。これでよく怪獣とかロボットとか船とか、作りましたねえ。 あと、絵をよく描いたのも覚えていて、これは当時のノートが残っているので証拠もあるのですけど、やはり怪獣の絵をよく描いている。「○○ドン」などと自分で名前をつけているところを見ると、怪獣の名前の付け方をちゃんと知っていたということになります。それは、どこで覚えたかといえば、多分、テレビの『ウルトラマン』を見て覚えたのでしょう。 『ウルトラマン』の放送は1966年から67年にかけて。つまり私が3歳か4歳のころ、ということになりますが、これは素晴らしい作品で、これと『ウルトラセヴン』(1967-68)は当時の特撮モノの中でも群を抜いていた。『マグマ大使』(1966-67)がちょうど同時期、『ジャイアント・ロボ』は1967⁻68年で、これらももちろん見ていましたが、特撮のレベルもそうだし、それ以外の部分、つまりドラマとしての完成度がまるで違う。ちなみに、『ウルトラセブン』のあと『帰ってきたウルトラマン』が始まり、その後も連綿としてウルトラマン・シリーズが続きますが、優れていたのは初代『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』だけ。子どもにもその差の大きさはわかりましたから、いかにこの最初の二作が優れていたか、ということですな。 ちなみに『ウルトラマン』の前に放送していた『ウルトラQ』(1966年)、これもカルト的な人気作品ですが、残念ながら、これはリアルタイムでは見ていない。子どもには難しすぎたのでしょう。 いずれにせよ、『ウルトラマン』をはじめ、この時代、私がテレビで見ていた子ども番組というのは数が多くて、それらを全部明確に覚えているのですから、私がいかにテレビっ子であったかがわかります。というか、いわゆる「テレビっ子」というのは、昭和40年代初頭に幼年期を迎えていた私の世代からなのではないかと。 で、当時私がどんなテレビ番組を見ていたかを思い出してみると、まあ、ずらずら思い出せる。例えば・・・『ララミー牧場』(1960-63)『コンバット!』(1962-67)『ルーシー・ショー』(1963-66)『エイトマン』(1963-64)『狼少年ケン』(1963-65)『鉄人28号』(1963⁻66)『スーパースリー』(1965?)『スーパージェッター』(1965-66)『アッちゃん』(1965)『忍者ハットリくん』(実写版)(1966)『トッポ・ジージョ』(1966-?)『悪魔くん』(1966-67)『快獣ブースカ』(1966-67)『ハリスの旋風』(1966―67)『おそ松くん』(1966-67)『魔法使いサリー』(1966-68)『奥様は魔女』(1966-68)『わんぱくフリッパー』(1966-68)『アンディ・ウィリアムス・ショー』(1966-69)『宇宙怪人ゴースト』(1967)『花のピュンピュン丸』(1967-?)『黄金バット』(1967-68)『仮面の忍者赤影』(1967-68)『チャコねえちゃん』(1967-68)『チャコとケンちゃん』(1968-69)『河童の三平 妖怪大作戦』(1968-69)『妖怪人間ベム』(1968-69)『チキチキマシン猛レース』(1968-69)『サスケ』(1968-69)『ひみつのアッコちゃん』(1969-70)『サインはV』(1969-70)『タイガーマスク』(1969-71) そのほかにも色々見たような気もしますが、とりあえずパッと思い浮かんだものだけでもこれだけある。 ざっと見て結構「洋モノ」がありますが、特に「東京12チャンネル」あたりで洋モノのアニメを結構放送してくれていたような記憶がありますねえ。 あと、「着ぐるみモノ」ではブースカが好きだった。『ハットリくん』は・・・イマイチ。 アニメでは『スーパージェッター』とか、割と好きで、特にあの流星号ね、あれが良かったし、それから時間を止められるというのが発想として面白かった。あと『妖怪人間ベム』! 再放送も含め何度見たことか。 子供向けのドラマでは『赤影』ね。『サスケ』も含め、忍者モノってやっぱり魅力がありましたね。 あと『チャコねえちゃん』。四方晴美さんと宮脇康之さんの姉弟コンビが、あまりにも私自身の姉と私の関係に似ていて、他人事とは思えなかった・・・。また、何の因果か、四方さんは私たちと同じ学校に通っていたんじゃなかったかな。ちょっと先輩ですが。 だけど、なんだかんだ言ってトータルでは『サリーちゃん』と『サインはV』の影響は大きかったかな。『サリーちゃん』の最終回の嵐のシーンとか、『サインはV』でジュン・サンダースが死ぬ場面とか、インパクトありましたからねえ。特に『V』は泣いた、泣いた。 結局、こういうテレビ番組を見て、私たちの世代は、怪獣を知り、ロボットを知り、ギャグを知り、友情を知り、スポ根を知り、魔法を知り、忍術を知り、そして空想をたくましくする術を学んだわけよ。まさにテレビに育てられた世代というか。 もちろん、後の世代だってそうだ、と言われたらそうかもしれませんけれども、なんかね、私たちの世代が見ていたテレビ番組の方が、バラエティ豊かだったような気がして仕方がない。 それから、これらの番組のタイトル曲、これがまた素晴らしいのよ。あまり素晴らしいので今でも全部歌える。「走れエイトマン、風よりも速く~」にしても、「コイルはでぶっちょ、ボヨヨンのヨン」にしても、「手裏剣しゅっしゅっしゅっしゅしゅ」にしても、「走っていればこの世は天国」にしても、「暗い定めを生きる」にしても、全部歌える。名曲ばっか。その歌が聞こえてくるだけで、子どもをその世界に引き込むことができるってことが、当時のテレビマンたちにはよく分かってたんでしょうな。 ただ、私の世代ではやはり欠かせないと思われている番組、例えば『鉄腕アトム』とか、『ワンダースリー』とか『リボンの騎士』とかがないことにご注目下さい。共通点は手塚治虫で、イマイチ分からないんだよなあ。『どろろ』とか『マグマ大使』あたりがせいぜい。逆に横山光輝ものの多い事。『サリー』『赤影』『ロボ』『鉄人』みんなそう。この辺に、時代のというよりも、個人の好みが入って来るんでしょう。 あと、『巨人の星』。これは私には全然響かないんだなあ。これはもっと後の世代ですが『ドカベン』とかね。これも全然。野球ものだったら、むしろ『アパッチ野球軍』とかの方が辛うじて興味があったかも。そういえば『アタックNo.1』も『エースをねらえ』も全然なので、球技ものは『サインはV』以外、あまり興味ないんですな、ワタクシ。 ま、とにかく、昭和の子である私は、こういう番組をやたらに見て、育ったわけですわ。
February 17, 2016
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このところ紀要論文の執筆に行き詰っておりまして、一日呻吟してもなかなか進まないものですから、今日は思い切って気分転換に近場をドライブすることに。 で、向かった先は豊川稲荷。私、名古屋の大学に赴任して23年ですが、実はまだ豊川稲荷に行ったことがなかったという。熱田神宮と同じ位有名なのにね。 で、東名・豊川インターで下りたら、ものの5分くらいで着いちゃった。あらま、こんなに近いわけ? で、駅前の立体駐車場にクルマを停めて渋い商店街をプラプラと。そして事前調査で決めておいた「曽我の軒」なるお店でランチ。このお店は基本、鰻屋さんなんですが、せっかく豊川稲荷の参道にある店なので、お稲荷さんを食べようということになり、このお店の売りである「鰻稲荷+きしめん」セットを注文。そしたら、これが旨かったのよ。おすすめ。だけど、これだけ鰻が旨いとなると、次はひつまぶしを食べようかな。 そしていざ、豊川稲荷をお参りすることに。私は完全に誤解していたのですが、豊川稲荷というのは基本、神社じゃないのね。お寺さんなのね。で、今川義元寄進という山門をくぐり、本堂をお参りした後、奥の方にある狐が沢山いるところへ。さすがお商売のアレだけあって、信者の方から寄進された狐さんがたーくさん。 それで、その狐さんたちの脇にごつごつした岩みたいなので出来た・・・アレは何だ?・・・とにかくごつごつした岩の山みたいなのがありまして、そこにコインが隠してあると。 で、その隠してあるコインを見つけて取り出すと、御利益があるってんで、捜しましたよ、ワタクシ。必死で。 そしたら、見つかったの! 岩の隙間に刺してあった1円玉を! で、それを何とか掘り出して、宝物として大事にすることに。これでご利益があったら、お礼に自分でもその岩にコインを隠すのですが、そういうことなら隠しに行きたい! ご利益、お願いしやーーす! で、帰りには有名な山彦で稲荷寿司を買い、ヤマサの竹輪を買い、「ハーグ・カフェ」なるしゃれおつなカフェでお茶をしてから帰宅の途に就きました。ま、いい気分転換になりましたわ。夕食に食べたお稲荷さんもおいしかったしね!
February 16, 2016
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では、私が人生の初めに見た家はどんなだったかと申しますと、これがまたちっぽけな、マッチ箱みたいな平屋一戸建ての借家でございました。だけど、まっさらな新築の建物ではあったので、気持ちはよかった。 両親に言わせると、この家で良かったところは、風呂付であったこと。自分の家に風呂が付いているということが何よりの贅沢であったと。昭和40年代初頭というと、まだまだ家に風呂がなく、風呂は風呂屋に行って済ませるというのが珍しくなかったということですな。後に『時間ですよ』的な、風呂屋を舞台にしたテレビドラマが生まれるのも、それだけ風呂屋が当時の日本人にとって当たり前の存在だったからでございましょう。 で、その風呂の沸かし方ですが、当然、石炭よ。風呂場のすぐ脇に、外付けで風呂釜があって、時間になると石炭をくべて風呂を沸かす。この釜はまた、使い方次第で色々用途が広がるので、我が家では父がたまにこの釜を使って銀杏を炒ったりしていたのを覚えております。でまた、当然釜には煙突があるわけですが、それは時々掃除をしないと危ない。で、まだ若かった母が果敢にも屋根に上って煙突掃除をしたものですが、屋根の上で煙突と格闘する獅子奮迅の母の姿は、幼心に頼もしく思えたものでございます。 トイレは、当時としては当たり前ですが、水洗ではなくいわゆるボットンでしたねえ。何しろ人生最初のトイレがそれですから、別にだからどうということもなく、それが当たり前だと思っておりましたっけ。それから、そう、トイレット・ペーパーなんてものはなく、「ちり紙」だったなあ。 台所で覚えているのは、コンロですが、もちろん都市ガスなんてものはなくプロパン。で、これはガス会社が定期的に交換してくれるのですが、たまに交換する前にガスが底をつくときがあって、朝の忙しい時にそんな風になると大騒ぎだったことを覚えております。今、この話をすると、コンロのつまみの形まで思い出すことができる。 それから冷蔵庫ね。当時の冷蔵庫は大概そうだったと思いますが、冷凍庫というものが独立してついてなくて、冷蔵庫の上の方の一部が製氷室になっていた。当時は冷凍食品なんてものはなかったですから、冷凍庫の役割は氷を作ることだけ。だけど、その製氷室自体に氷が付着し、それがスズメ蜂の巣のようにどんどん大きくなってくるわけよ。だから、たまにその氷の塊を取るために、冷蔵庫の電源を切らないといけないことがよくあった。 それから、温度調節がテキトーだったせいか、冬場など、冷蔵庫の室温が下がり過ぎることがあって、中に入れていたものが全部凍ってしまうことがあった。当時牛乳は牛乳屋さんが毎日届けてくれるビン牛乳しかなかったけれど、これが凍ると体積が増大して、紙の蓋を突き破ってしまう。そうなると仕方がないので、その凍った牛乳に砂糖を掛けて食べる、という事態になるのだけれど、これが子どもにとってはラッキーで、アイスクリームだ! などとアホなことを言いながら姉と一緒に食べたましたっけ。 あと洗濯機も覚えていますが、これが例の「絞り機」が片側に付いている奴。回転する二本の棒の間に洗った洗濯物をはさみ、取っ手をグルグル回すと、その洗濯物がぺちゃんこになって出てくるというものですが、こんなものでも当時としては便利だと思われていたんでしょうな。 そしてテレビ。当然、白黒。四本の足がついていて、画面は球面。ガチャガチャとチャンネルを回す奴。壊れる時は必ずこのチャンネル部分が壊れるので、そのたびに電気屋さんに来てもらって直したなあ。 あと家の中のもので覚えているのは、ミシン。足踏み式の奴で、ミシン台がついていて、ミシン台の蓋を開けると中からミシンの本体がニョキッと出てくるんだったかな? それで開いた蓋自体が、作業台にもなるという。確かシンガー製だったような記憶があります。当時、ミシンというのは結構重要な家具で、我が家でも姉の洋服などは母が生地から作っていたような気がします。 だけど、私にとってこのミシン台というのは、まずその上に乗り、首に巻いた風呂敷を翻しながらそこから飛び下りるためのものであって、飛び降りる度に「ピー、パピー!」と絶叫していたのは、当時のテレビアニメ『流星少年パピイ』(1965‐66年放映)の影響でありましょう。 その他懐かしい家具としてはヤマハのピアノがありますが、これはこの家に引っ越してからしばらくして、姉が小学校に入ってピアノを習い出した頃に買ったもの。当時、ピアノは高価な買い物でしたけれども、これがあるということが当時の日本人にとって文化生活の要でありまして、多少なりとも志のある家では必ず買って、家の子弟子女を苦しめ、付近の住民を騒音地獄に陥れたものでありましたが、我が家もその例外ではなかった。 で、アップライト・ピアノの上部にはビロードで出来たカバーみたいなのが麗々しく飾られ、専用のクリーナー、たしか「ユニコンS」という名前ではなかったかと思うのですが、この米の砥汁みたいなものでよくピアノを磨かせられたものでございます。 昭和の家ってこんな感じよ。 で、家は小さくて狭かったけれど、庭は広かった。何せ、お隣に大家さん(兼大工の棟梁)の家が一軒あるだけで、後は果てしなく野原が広がっているだけなんですから。まさに大草原の小さな家。 もちろん芝生なんてものじゃなくて、ただの草っぱら。だけど、たまに大家さんが芝刈り機でその草っぱらを刈ってくれると、その何ともいえないいい匂いってあったもんじゃない。 それに草っぱらはバッタの天国で、そこを歩く度に面白いようにバッタやコオロギが飛び出してくる。その種類も豊富で、15センチほどもある巨大なショウリョウバッタもいれば、飛翔力の強い「キチキチバッタ」とか殿様バッタ、小さなヒシバッタ、繊細なウマオイ、質量感たっぷりの閻魔コオロギ、鳴き声はするが姿は見えない鈴虫、その他ありとあらゆるバッタが幼い私の友だちでありました。 そう、それからスミレね。父がスミレが好きだったので、春になると近所の森の中に入って行って、野生のスミレを根っこから掘り起し、家に持って帰って植えるの。それが我が家のガーデニング。 そういや、近所の森の中に養鶏場があって、鶏とかウズラが飼われていましたっけ。たまに家の周りでウズラを見たけれど、あれは野生のウズラだったのか、それとも養鶏場から逃げてきた脱獄ウズラだったのか。 昭和40年代初頭、私を取り巻く世界というのは、こんな感じでしたかねえ。
February 15, 2016
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今日はヴァレンタイン・デー。例年通り姉から「Godiva」のチョコレートを送っていただき、そして家内がチョコレート・ケーキを焼いてくれました。有難き幸せ。 だけど、アレだね。ヴァレンタイン・デーが本当に面白かったのは、中学生の時かな。もう朝から学校中がソワソワしていて、そのソワソワ感が半端ない。 もらえる子はもらえるし、もらえない子はもらえない。残酷だけど、それが社会。当時の中学生は、この日に社会の厳しさを学んだものですわ。 ま、私はそこそこコアな人気があったので、5つ、6つはもらいましたよ。もっとも同窓の川平慈英みたいに20個も30個ももらう奴がいるとなると、やはり私にとっても社会の厳しさを学ぶ場ではありました。 だけど中学生くらいの時って、下手にチョコレートもらったりすると、逆に意識して、それ以後、前のように気軽に話せなくなったりして、むしろ関係が薄くなるケースが多かったような。逆効果やん。ま、そういうことも含め、淡い思い出ですな。 でも、聞くところによると、今、もう世間ではヴァレンタイン・デーなんてものは消滅しつつあるらしいじゃないですか。もう女子は人にあげるためじゃなくて、自分で食べるためにチョコ買うんでしょ? なんかね、そうなるともう、どうでもいいじゃんって感じになりますね。 ま、ヴァレンタイン・デーそのものがチョコレート会社の陰謀という説がありましたけれども、それが無くなってみると、あった時って楽しかったな、とも思えてくるような・・・。 と、またまた「昔は良かった」という結論になってしまうのですけれども。 ところで、私はこのブログでもしばしば「昔は良かった、昭和は良かった」ってなことを書きますが、実際、「自分は昭和の男だ」っていう意識が常にある。それは一体どういうことなのか。いつか考えてみたいとずっと思っていたわけ。 だけど、なかなかそんなことをまとめて考える時間ないし。 だから、これから少しずつ、このブログを利用して昔のことを思い出していこうかなと。題して「昭和の男の作り方」ってな感じ? 私は1963年生れなんですけど、この数え方だとどうもしっくりこない。やはり「昭和38年」と言わないと。 で、思い出す限り、私の人生最初の記憶は、2歳か3歳の時のもの。家族4人、それに母方の祖母を足した5人で砂利道を歩いている風景が見える。当時私の家族は神奈川県相模原市にある東林間という町に住んでいたのですが、その同じ町内で三度度引っ越している。その二度目の引っ越しの記憶が、今言った砂利道を歩いている時の風景なんです。 この時、おそらく昭和40年か41年。とすれば、私の人生の記憶は昭和40年代初頭から始まったことになる。 そして私は平成2年に大学院の博士課程を修了しますので、私にとって物心ついてから自立するまで、つまり「子ども」だった時代のほぼ全期間が昭和後期ということになる。人間としての形成期間が全部昭和だったと。 だから、「昭和の男」なわけですよ、ワタクシは。無論、その場合の「昭和」とは、「昭和後期」のことですが。 さて、先ほど東林間の砂利道を歩いているところから私の記憶が始まると言いましたが、まず東林間について。 東林間は小田急線の駅の一つですが、この「林間」という駅名が夢のあるところでありまして。 小田急線は昭和二年に発足した、それこそ昭和の電鉄なわけですけれども、当時「田園調布」とか、あるいは小林一三による阪急沿線開発等、電車が都市と田舎(自然)をつなぐ、あるいは、緑豊かな新しい宅地を造成する、というような、夢のある発想があった。で、小田急電鉄社長の利光鶴松さんもその路線を狙っていたと。 で、「林間都市計画」というのがあって、東林間都市駅、中央林間都市駅、南林間都市駅の三駅を並べ、新宿と江の島を結ぶ路線のちょうど真ん中あたりにあたるここに、緑豊かな宅地を開発しようと。ま、結局、こうした林間都市計画というのは、どういうわけか沙汰やみになり、特にこの三駅が「田園調布」的な名声をあげることもなく終わるのですけれども。 実際、南林間はまだしも、東林間は単なる田舎でしたねえ。雑木林が沢山あって。駅前にも大きな桜の木が1本ありましたが、この桜は今もなおあります。 ただ、この駅には「東芝林間病院」という大きな病院と、あともう一つ森下胃腸病院という、これも比較的大きな病院があって、それがまあ、少しはパッとしたところだったかも知れません。特に前者には、私もやたらに世話になることになるのですけれども、当時は薄いオレンジ色の壁に赤い瓦屋根の平屋建ての病院で、入口の前に丸くて深いコンクリートの池があって、この底知れぬ池を見る度に、私は子ども心に人間の死ということを考えさせられたものでございます。 駅前には何があったかしら。まず中華料理の店が一軒あった。それから不動産屋さん。それから確か「モンブラン」という名前の喫茶店。これは昭和によくあったタイプの喫茶店で、入口が濃い色のガラスになっていて中が良く見えないという奴。それから、山下書店。客が立ち読みをしていると、短気で短軀なオヤジさんがハタキをもって追い出しにかかる古典的な本屋さん。それに中村屋の支店があって、中村屋の羊羹とか最中なんかを売っていた。 これらの店々の裏側にもお店があって、写真館が一つ。子供の頃、証明書写真を撮ってもらったり、カメラの現像をしたのがこの店。それから「もみじや」という駄菓子屋。おもちゃも売っていましたっけ。それからもう少し先には和菓子屋の「松月」。これは今もある。松月から道路を隔てたところに文房具やの「秋元商店」、これもたしか今も残っているのではないかと。 駅の反対側の商店街についてはまたいずれ。 で、私の記憶にある最初の我が家は、東芝林間病院のある通りを真直ぐ行き、フジ屋という食料品店のある角を右に曲がり、床屋さんと「林間モータース」という自動車修理工場を通り過ぎ、「門倉木材」というの材木屋さんがあった、その向い側にあった。家のすぐ前は広大な林間病院の敷地で、桜並木が綺麗でしたが、夕刻の黄昏時に、白い寝巻を着た入院患者さんが病院の敷地を散歩していたりすると、垣根越しに白いものが音もなくスーッと通ったりするので、ちょっと怖い時もありましたね。 当時我が家から西の方を見ると、500メートルくらい先に小田急線が夕日をバックに通るのが見えるのですが、それはつまり、我が家から500メートルほどは何もない原っぱだったということでありまして、「林間」の名の通り、本当に雑木林と野原と、そんなものしかないところだった。無論、町の通りはほとんどが砂利道で、舗装道路なんか大通りくらいしかなかったと思います。 で、その砂利道というのが趣のあるもので、ところどころ大きくえぐれているものだから、雨が降るとそこに水がたまって池ができる。道なのか池の連なりなのか、よく分からない。だから雨が降るとゴム長靴が必須だったのは、当たり前のことだった。子どもの時分は、私もゴム長を履いて、わざわざ道のあちこちにできている池にずぶずぶ入って行ったものでございます。 その頃は自動車なんてものも少なく、たまに通ると「シャリシャリ」と音がするのですぐわかる。というのも、当時の自動車は鉄の鎖で出来たアースを引きずって走っていたからですが、どうして昔のクルマにアースがあって、今のクルマにアースがないのか、いつから不必要になったのか、今でもよく分かりません。 とにかく、私が最初に自分というものを意識した時の周囲の様子というのは、そんな風でありました。(続く)
February 14, 2016
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昨夜、風呂に入りながら、そして風呂場のエコーに酔い痴れながら「なごり雪」を歌っていたのですが。 歌いながら、しみじみ、いい歌だなと。 この歌が流行っていた頃、といっても「イルカ・バージョン」の方ですけど、私は確か小学校6年生くらいだったかな? だから、この歌の意味が分かるといっても、せいぜい背伸びした挙句のそれであって、本当に分かっていたかどうかは定かではない。でも、大学生とかのお兄さん、お姉さんが、卒業を機に別れ別れになっていく寂しい歌だな、という程度には分っていたのではないかと。 それを言ったらチューリップの「心の旅」もね。そんな感じですよね? 若き日の別れの、爽やかな絶望が、これらの歌にはある。 だから、私よりちょっと年上の世代、今から40年くらい前に青春を味わっていた人たちにとっては、こういう歌はたまらんでしょうな。 小学生くらいの子どもからみたら、その頃の大学生のお兄さん、お姉さんってのは、随分大人に見えたものでございます。今や、そういう連中を教えている立場からすると、ガキに見えて仕方がないけどね・・・。 それは一体なぜ? 40年前の大学生が今時分の大学生より余程大人だったのか? ま、それはとにかく、当時はさ、季節の歌というか、季節にあった情緒を表した歌ってのがありましたよね。2月とか3月頃の、別れのシーズンを前にして輝く歌があったし、それぞれの季節にふさわしい流行歌があった。 今、そういうのあるの? 寡聞にして私が知らないだけ? いや、やっぱりないんじゃない? それは一体なぜ? 分らんな・・・。 今だって2月3月は別れの季節なんだから、そういう歌があってもいいのにね。
February 13, 2016
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今日、研究室で作業をしていたら、ドイツ人の同僚のM先生がやってきまして。「釈迦楽先生、日本語の質問が」と。 M先生は語学の天才で、ラテン語を含めて7カ国語くらいできるし、なにしろ専門が『源氏物語』ですから、日本語も日本人以上にできる。その先生に分らない日本語なんてあるの? M先生が見せてくれたのは、A先生からのメールの文章だったのですが、その内容はA先生が担当するはずだった委員会の仕事を、B先生に代りにやってもらうことになった、という報告。 で、そこにはこう書いてあった:「ご相談した結果、B先生に委員会の仕事をお引き受けいただければ都合がいいのではないか、ということになりました」。 で、M先生の質問は、「結局、B先生は委員会の仕事を引き受けたのですか、引き受けなかったのですか?」ということでありまして。 そこで私が、「いや、引き受けたんじゃないの? この文面を見る限り」とお答えすると、M先生曰く、「でも私には、これは単に条件を言っているようにしか見えないのですが。『もしB先生が引き受けてくれるのなら都合がいいが、そうでなければ都合が悪い』と言っているのではないのですか?」と。 つまりM先生からすれば、この文章から、B先生が委員会の仕事を引き受けた、という結論が導き出せないというのですな。 うーむ。そうか。そう言えば、そうかもね。厳密に言えば。 で、私が笑って、「いや、日本人的には、これでB先生が引き受けたってことになるのよ」というと、M先生は「Why Japanese people?!」って言いながら去って行きました。 ドイツ人(ドイツ語)の厳密さと日本人(日本語)の曖昧さ。これがお国柄ってことなんですかね・・・。
February 12, 2016
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昨日はうちの大学の修士論文の提出締切でありまして、私が指導していた2人の院生も無事、共に100ページを超える英語の大論文を提出しました。やあ、良かった、良かった。無論、この後、口述試験が待ち構えているとはいえ、これだけのものを出して審査に通過しないということはないでしょう。 1年に2人の修論の面倒を見るということは初めてで、結構しんどかった・・・。彼女らもホッとしたでしょうけれども、こちらもようやくホッとしました。 で。 私も不器用な方で、こういう仕事を引受けちゃうと、それが終わらない限り、他の仕事に身が入らないんですわ。一度に一つのことしかできない性質でして。 だから、修論の指導をしている間は自分の論文は書けないわけ。 で、ようやくその軛が取れたので、今日からようやく、晴れて自分の論文を書き始めたという。 で、予定では3日くらいで書き上げるつもりという(爆!)。 だけど、書き始めてみるとこれがまたなかなか大変で。(当たり前だっ!) いや、書くのは簡単なんだけど、信憑性をもって書くのが大変なのよ。 というのも、今書いているのは「自己啓発本」についての論文なんだけど、そうなると、「頭で考えたことはすべて実現します」とか、そういうことを大真面目に書かなくちゃならないでしょ。 これが、口頭発表の原稿だと、むしろそういう言説を面白おかしく言えるので楽なんだけど、論文として文章に書くとなると、まあ、インチキ臭く見えること、見えること。 自分で書いておきながら、書いた分を読み返してみて「うーーーん、インチキ臭い!」って思うもんね。 だけど、私としては、そのインチキ臭いことが、実はインチキ臭くないんだよ、と主張したいわけ。 でも、そう主張すると、今度は私自身が完全なキ印かと思われそうで・・・。 チキチキコロコロペッパーズのナダルじゃないけど、「やっべえぞ!」って言いたくなる。 ってなわけで、意外に手こずりそうな感触。今の所。 ま、テキトーに頑張ります。なんたって「3日で書ける」と頭の中で思えば、すべて実現するんですから! (あー、インチキ臭い!)
February 11, 2016
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『第9地区』で名高いニール・ブロムカンプ監督の『チャッピー』を観ましたので心覚えをつけておきましょう。以下、ネタバレということで。 ブロムカンプ監督といえば南ア・ヨハネスブルグが舞台になるわけで、世界で最も犯罪の多発するこの町では、人間の警官ではもう取り締まりに限界があるということで、ロボットを使って犯罪を取り締まることになり、本作の主人公の一人・ディオンという天才青年の開発した人間型ロボットが採用され、犯罪率も激減していたと。で、ディオンはさらにAIを進化させ、そのロボットに自立した学習機能をつけて、人間のように成長し、感情すらも抱くようになるようなプログラムを開発し、会社には内緒で廃棄寸前のロボットにそのプログラムを導入するんですな。 ところが、その「成長するロボット」が、ある事情からチンピラみたいなギャングに奪われてしまうわけ。で、そのチンピラのことを父親、その恋人を母親と認識したロボット「チャッピー」は、父親に教えられた通り、立派なギャングに成長していく。 しかし、警官としてヨハネスブルグの治安を守ってきたロボットが、逆にギャングの手先になってしまった、ということがバレたことで、まずい事態になっていきます。 とりわけディオンの同僚で、同じく警察用ロボット「ムース」を開発しながら、ディオンが開発した人間型ロボットの採用によって冷や飯を食わされていたムーアは、自らの開発したムースこそ、ディオンのロボットより優れているのだと主張するチャンスとばかり、チャッピーとディオンを悪者に仕立て、ムースを使って彼らを亡き者にしようと企てる。 さて、チャッピーとディオン、そしてチャッピーの「両親」たるチンピラ夫妻の運命やいかに? ・・・みたいな話。 で、この映画に対する私の評価点はと言いますと・・・ 「65点」かな。観る価値なし、とは言わないまでも、必見とはいいがたい的な。 結局、ロボットには最初、悪の概念がないもので、そういう無垢な存在としてのロボットと対比すると、人間の悪辣さというのが浮き彫りになる。で、「ロボット=無垢」「人間=悪」という風にとりあえず描いておいて、だけど、人間にもいい面があるよね、的なオチをつける。そういう映画って、たくさんあると思いますが、これもその一つ。その意味で、平凡なんだよね・・・。悪い話じゃないけど。 だけど、それにしてもさ、『第9地区』のエビ人間の映像も見事だと思ったけれど、今作もチャッピーの動きが秀逸で、どうやってロボットに人間的な動きをさせているのだろうと、その辺の映像がすごいなと。そこは感心せざるをえない。 また、今作ではヒュー・ジャックマンが邪悪なムーアを演じているのですが、「いい奴」の役柄が多くて、ほんとにこの人はいい人なんだろうな、と思っていたヒューが、いやな奴を演じると、これほどいやな奴にもなれるのかと、そこもちょっと感心させられましたね。 それにしても、西洋の人々にとって、「『ロボット』は敵か・味方か?」という問いは、伝統的に(例えば『フランケンシュタイン』もそうだけど)すごく大きいものなんでしょうな。その点日本の場合だと、『鉄腕アトム』とか『ドラえもん』など、その問いに対する答えはとっくの昔に出ているんだけどね。
February 10, 2016
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『ハリー・ポッター』の二番煎じを狙おう・・・というわけで、海外に行く度に本屋さんで新刊本・ベストセラー本コーナーをチェックしまくり、日本に帰ってから改めて調べると、その大半がすでに日本語に翻訳されていて、「どんだけ~!」って驚くことばかりなんですけど、最近、サキの『けだものと超けだもの』の翻訳(新訳?)が出たことを知り、新刊本だけでなく、古いところも見逃さないなあと。 私も一時期、サキにはまったことがあって、その作品のほとんどすべてを読んでいると思いますが、これも面白いよ。読んだことがない方は是非。
February 9, 2016
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今日は卒論の口頭試問がありまして、我がゼミ生3人、キング君、ティファニー、コーンちゃんは、すべて好成績にて合格。ということで、今年度の卒論関係の仕事は今日にてすべて終了~! ってなわけで、今日の夜は、ゼミ生3人連れて恒例「忘卒論会」を開催。フレンチに舌鼓を打ちながら、慰労のパーティーとなりました。 今年のゼミ生は男一人、女二人だったのですが、男のキング君が女性陣に混ざっても違和感のないキャラだったせいか、この男女混合三人組がいいチームワークで、歴代ゼミの中でも三本の指に入るようなヴィンテッジ・イヤーだったかも。 だから、普通なら卒論を提出したらその時点でゼミは一応解散となるのですが、今年のゼミ生たちは解散後もまだ研究室に遊びに来たがるんですわ。そういうゼミ生ってのは、やっぱり、特別に可愛いねえ。 で、その可愛い連中が、手の込んだ寄せ書きを作ってきてくれて、これまた感動! ホント、教師がいいから教え子が良くなるんじゃなくて、実際はその逆。いい教え子がいるから、この子たちがこの先生きていく上で何か少しでも役に立つことを教えてあげなくちゃ、と頑張るので、教師ってのはその都度少しだけ成長できるものなんですな。私も、いいゼミ生に恵まれたおかげで、今年はすこし「いい先生」になることができたかも、です。 卒論から解放されたこともあるけれど、今日は可愛いゼミ生たちと楽しい一席を過すことができて、ハッピーな私だったのであります。今日も、いい日だ!
February 8, 2016
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勤務先の大学の近くに、最近2軒のコンビニができまして。両方ともセブンイレブン。一つは、もとファミマだったのが、それをぶっ壊して、あらたにセブンになったもの。 いやあ、それにしても名古屋でセブンイレブンの勢いが止まらない。ちょっと前まで、セブンイレブンって全然なかったのに、この数年ですか、雨後の筍状態。場所によっては200メーターおきに3軒連続でセブン、なんてことも。セブン同士でつぶし合わないのかしら。 やっぱ、セブンイレブンって強いのかなあ。アニキことK教授に言わせると、アニキの中でのコンビニ評価はセブンイレブン断トツ1位で、ローソンがそれに続き、後はどうでもいいと。お昼ご飯を買うとなったらセブン以外考えないとまで言い切りますからね、アニキは。ま、私は別にそこまでセブン贔屓ではないですけど。 しかし、今度サークルK・サンクスがファミマになるんでしょう? ココストアもかな? そうなると、コンビニの多様性というのがどんどんなくなって、いずれセブンイレブン・ローソン・ファミマの3強だけになっちゃいそうです。 でも、なんかそうなると、つまらないね・・・。 ココストアが力を入れている惣菜パンコーナー「ココ・デ・ベイク」とか、ミニストップだけの「ソフトクリーム」とか、それぞれのコンビニの特徴って私は割と好きなんですけど、そういうのがどんどん無くなって、3強独占になってしまうと、なんかね・・・。個性がないっつーか。 銀行も、デパートも、コンビニも、自動車会社も、どんどん合併していって、そのうちどの業種も1社だけ、とかなったら、それはもう共産主義国家だよね・・・。 人と違う事をやる、がモットーの私としては、あんまり歓迎できない風潮でございますよ。
February 7, 2016
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今年はオリンピック・イヤーであるわけですけれども、ブラジルは大丈夫なのか? と言う話題がスタッフの間で出まして。ジカ熱とか。海の汚染とか。スタジアムなどの建設は間に合うのか?とか。 1964年の東京オリンピックなんかが典型的にそうですけど、オリンピックを開催するというのは、開催国にとっては「オリンピックができるほど、我が国は発展・復興したんですよ」的なメッセージを発するいいチャンスであったわけですな。 ですけれども、そういうオリンピックの位置付けというのはもう古いのではないかと。 例えばサラエボの冬季オリンピック跡なんて、今ではもう廃墟になっているというではないですか。多少無理してでもオリンピックを開催すれば、それを起点として国がどんどん発展していくのだからそれでいいではないか、という虎算用は、もはや通用しないのではないか。 で、思うのですけれども、いっそオリンピック開催を各国持ち回りにするのではなく、毎回、ギリシャでやる、というのはいかがかと。つまり、毎年甲子園で高校野球をやるように、4年に一度、ギリシャに集まってオリンピックをする、と言う風に決めてしまう。 そうすれば、繰り返し同じ施設を使うのだから無駄がないし、4年に一度、ギリシャに世界中から大勢の観光客が集まるとなれば、ギリシャの経済状況も改善する。それに、毎回毎回オリンピック招致で大騒ぎする必要もなくなるし、それにまつわる不正も無くなる。 どう、この案。 ま、私がそう言ったからとて、何も変わらないでしょうが。 ともかく、そんなことを考えた次第なのであります。
February 6, 2016
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今日は先輩同僚で日本史がご専門のN教授の最終講義があるということで、仕事の合間に聴講に行ってきました。 N先生は日本史、私はアメリカ文学で、専門はまるで違うのですけれども、20年くらい前、同じ大学で非常勤講師をやっていたことがあり、その非常勤講師控室でよくN先生と雑談をしたんです。それで気ごころが知れたところもあり、またN先生は映画マニアで、非常にマニアックな映画をよく御覧になっていて、そんな映画の話も共通の話題としてあった。そんなこんなで仲良しなんです。だから、そのN先生の最終講義となれば、私としてもぜひ応援に駆け付けたい。私は義理と人情で生きておりますのでね。 「最終講義」というのはなかなか趣のあるものでしてね。先生によっていろいろな形がありうる。たとえば、「講義」と銘打ちながらも、難しいことは一切話さずに、「私が初めてこの大学に赴任したときは、このあたりには何もなくてねぇ・・・。雉がよく出たもんですよ。それから伊勢湾台風の時は大変だった・・・」とか、思い出話に終始する先生もいる。そうかと思うと、バリバリ難しい話をして、ほとんど学会発表みたいになる先生もいる。私は、どちらのタイプも「最終講義」にふさわしいと思うのですけれども、N先生は後者タイプでした。愛知県の大学にふさわしい話題として、尾張の国と三河の国で発掘された木簡などの資料や、文献としての史料を駆使し、奈良・平安時代のこのあたりがどんなところだったかを推測する、という内容です。 で、資史料に出てくる漢字が難しすぎて、素人には何が書いてあるのかさっぱりわからないのですが、とにかく今日のトピックはこの地方に割り当てられた「税」のお話。 要するに、当時、この地方に割り当てられた税を見ると、この地方の特質がわかるというわけ。 例えば、やたらに「土器作って出せ」とか「生糸作って出せ」とか言われていたらしいのですけど、ということは、この地方が昔から土器生産や生糸生産が盛んだった、ということがよくわかるわけですよ。それから、やはり海に面しているということがあって「魚の干物出せ」「海藻出せ」「鮨出せ」とか割り当てられている。「鮨出せ」って言われても腐っちゃうんじゃないかと思いますが、多分、熟れ寿司みたいなものだったんでしょうなあ。 だけど、今の税は税金で、お金で払ってしまうからアレですけれども、昔は物納でしょ。ということは、中央政府は、各地方の特産物が何かってことを熟知し、しかも、どのくらいまで徴収できるか知っていたのだから、地方の実情を事細かに知っていた、ということですよね。 それって、すごくない? 今の政府よりすごくない? でまた、出せって言われて、当時の人たちは税を出したわけだから、完全に統制がとれた国家だった、ということですよね。それもまたすごくない? 1000年以上前の話よ、コレ。しかも、その時の記録がしっかり残っているわけだし。1000年以上前から、日本って国家としてきちんとしてたってことじゃない。 世界のどことは言いませんが、1000年以上前の日本より遅れている国って、たくさんあるような気がする。 やっぱり、日本史やると、日本ってすごい国だったんだなあってことがわかりますな。日本、すごい! ってなわけで、N教授の最終講義によって、私は自分の国がなんだかとってもすごいところだ、ということを改めて再確認することができたのでした。今日も、いい日だ。
February 5, 2016
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昨夜、レイトショーで『エージェント・ウルトラ』を観てきましたので心覚えをつけておきましょう。以下、ネタバレ注意ということで。 本作はジェシー・ザッカーバーグ主演のスパイ映画。軽犯罪を繰り返し犯す若者の中でその方面に才能のあるやつを選び、徹底的に鍛え上げてCIAのエージェントに仕立てるという極秘プログラムがあって、ザッカーバーグ演じるマイクもそうしてエージェントになるのですが、プログラムを受けた連中の多くが精神的に異常をきたすことが多かったために、このプログラム自体が中止され、マイクらは記憶を消されて、監視されながら別人格として名もない市井の人間として生きていると。 が、マイクが諸般の事情で指定された町を何度も出ようとしたことから、CIAは彼の存在自体を脅威に感じ、亡き者にしようとする。 で、プログラムの中でマイクの育ての親であった女性CIAエージェントが、マイク抹殺計画が進行していることを知り、彼を救うべく、消された記憶をリブートする秘密のワードを彼に伝えてしまう。で、そのことと、実際に暗殺者の攻撃を受けたことが合わさって、マイクは次第にCIAのエージェントだったころの記憶と技能を回復していくわけ。 しかし、そのために、自分の最愛の恋人だと思っていたフィービーが、実は彼を監視するCIAエージェントであったことも知ってしまい、そのために彼は悩むわけ。 だけど、フィービーも、最初は監視官としてマイクに近づいたものの、付き合ううちにマイクを愛するようになり、二人は本当の恋人同士であったんですな。 それはともかく、最初の暗殺が失敗に終わった後、CIAはさらにマイクの暗殺に力を入れるようになります。果たしてマイクは、CIAの暗殺から逃れることができるのか? そしてマイクとフィービーの関係は? っていうような話。 で、この映画に対する私の評点はと言いますと・・・ 「71点」でーす。やや点数低め。 ま、面白くなくはないのだけれど、マイクを亡き者にしないとCIAが困る、という理由づけがすごく説得力がないのが決定的な弱点。暗殺計画が決まった時点ではマイクは少しも現在の自分のアイデンティティを疑ってなかったのだし、そこまでして(一般市民を巻き添えにしてまで)マイクを暗殺する必要はどこにもないのではないかと。 その意味で、図式としては『ボーン・アイデンティティ』と同じなんだけど、説得力の点で『ボーン』とはくらべものにならない。 それに映画の方向性として、本格的なアクション映画にしたかったのか、それとももっと軽いコメディを作りたかったのかがよくわからなくて、実情、なんだか中途半端なものになっている感じがある。それもマイナス・ポイントですな。 ってなわけで、ちょっとあれこれイマイチな感じが拭えないところがあって、教授のおすすめ、とはいかないかな。 それにしても、近いうちにジョーン・ペン主演で『ザ・ガンマン』という映画が公開されるようですが、これも元CIAエージェントを暗殺しなきゃ、っていう話らしい。寝た「元エージェント」を起こしちゃいかんよ、っていう映画は、すでにこれでもか、っていうほどあるけど、引退した人を大事にしないと、あとの祟りが怖いんだから、その辺、CIAはしっかりしなきゃダメだね。
February 4, 2016
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家内の新しい愛車・デミオが我が家にやってきました~! ま、主として家内が運転するものとして買ったわけですけれども、私だって運転したい。 ということで、名古屋郊外某所で行われた仕事が早目に終ったこともあり、帰宅してから私もデミオを運転して近所を軽くドライブしてみました。 で、短時間乗ってみただけの感想ですけれども、全体的に運転感覚が軽い感じですな。 車重がさほどないので、乗り心地はやや突っ張ったような硬質な感じで、しっとり滑らかというほどではない。またパワーもそれほどないので、加速もそこそこです。 一方、ハンドリングは軽快です。マツダ車全般の特性として、ハンドリングがシャープというのがあるわけですが、実際そう。ハンドルを切ると、シューって曲ります。車体が小さいこともあり、小回りは効きますね。 で、車体が小さい割に車内は割と広くて、4人乗車も苦ではない。トランクも深さがあって、結構大きいな、という印象。 ということで、全体として「軽い」という感じ。これなら狭い道や狭い駐車場の多い都心に乗って行くのにも、苦にすることなく軽い気持で行けそうです。クルマの色も明るい緑色で、気分も明るくなりそう。 セカンドカーには、このくらいがちょうどいいかな~! とにかく、肝心の家内が気に入ったようですので、良かった、良かった。 さて、そうなると問題は私の愛車の方。シトロエンC4は、相変らず乗り心地がすごくいいし、走りもすごく気持ちいいのですが、細かい故障はちょこちょこ出る。昨年車検を通し、それから1年が過ぎたわけですけど、次の車検は通す気はないので、後1年の内に今度は私の愛車のことを考えなくては。 次は何に乗るか、あれこれ悩むことこそ、「クルマ命」の私にとっては無上の楽しみ、なんですけどね。
February 3, 2016
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漫画家の東村アキコさんが書かれた自伝的漫画『かくかくしかじか』が異色の師弟もので面白いと聞き、一気に5巻を読み通しました。 だいたい、私は漫画ってものを読んだことがないので、5巻も一遍に読めるの~って思ってましたけど、読めるもんですね。 で、『かくかく』ですけど、美大受験志望だった東村さんが、その受験対策で通い始めた地元・宮崎の絵画教室で、日高健三さんというキョーレツな先生に出会い、以後、この先生の真直ぐな、真直ぐ過ぎる言動に翻弄されながらも、人生の大切なことを教わって行く、と言う話。 だけど、死んじゃうんだよね~、日高先生・・・。肺癌で。 これは、私にはよく分かる話なんですけど、キョーレツな先生に出会うってのは、いわば人生の事故みたいなもんで、ものすごく失うものが多い。その意味で災難ですらあるのだけど、実は失うよりもっと多くのものを受け取っていた、ってことが後で分かる。 東村さんが『かくかく』で言いたかったのも、そういうことだろうね。 『かくかく』は、漫画版『S先生のこと』だ、なんて言ってくれる人もあるけれども、光栄なことでございます。 とにかくこの日高先生というのが、すごく人間的に魅力があるので、まだ読んだことが無い方は、是非。教授のおすすめ!です。
February 2, 2016
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ちょっと気が早いのですが、私がこちらに帰っているうちにと思い、今日は母の誕生日祝いとして、昼間、外食することに。歳を取るごとに食が細くなり、あまり量が食べられなくもなったし、好き嫌いも色々あるけれど、中華料理ならまあ、食べられるということで、今日は多摩センターの京王プラザホテルにある南園という中華料理屋さんに行くことに。 で、コースを取ると、量的に多過ぎて、とても最後まで食べられないので、好きなものだけ単品で取って行くことにしたのですが、「ふかひれ入り蒸し餃子」、「蟹入りコーンスープ」「蟹爪の揚げ物」などが割と好評で、おいしい、おいしいと言って食べてくれたので良かった。店の人も気を使ってくれて、最後にパンダのお饅頭を店のサービスで付けてくれたのですが、これがまた結構おいしくて、いい記念のランチとなりました。 まあ、たまにしか帰ってこれないので、こちらに居るうちはせいぜい親孝行しないとね。 ということで、恩師の墓参がらみの帰省もここまで。これから名古屋に戻ります。名古屋に戻ると、家内のセカンドカーとして買ったデミオが納車されているはずで、それはちょっと楽しみですな。さてさて、どんな走りを見せてくれるのか、私もたまに乗らせてもらおうっと。
February 1, 2016
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