全457件 (457件中 351-400件目)
今日は「恐怖の木曜日」。一日に4コマ、講義がある日。 先週から始まったわけですが、先週は授業のイントロだけだったので、まあ、大変だけどなんとかなるかなと思ってたんです。でも今日、実際に一日に4コマ授業してみたら、大変どころの騒ぎじゃないということがわかりました。 4コマ目、アメリカ文学史の講義の終盤、身体がカーッと熱くなってきて、アレ、何だか変な汗が出てきたぞと思ったら、途端にまわりの景色が黄色く見え始め、耳が遠くなるような感じに。やばい、貧血で倒れそうだ、と思ったので、立って講義していたのをやめ、椅子に座って最後の5分くらいを講義しました。 危なかった・・・。 ・・・こうやって、人は過労死するんでしょうな。 そういえばつい最近、私より数歳年下の、三十代の同業者が、過労のあまり倒れて危篤と聞きましたけど、毎週こんなことをやっていたら、私もわかりませんね。 来週からは、俄然、講義の手を抜くことにしましたー。4コマ、フルに情熱的な講義なんてやってたらほんとに死んでしまう。帰宅してからも、ぐったりするばかりで、何もできなかったもんなー。食後3時間ほど気絶するように寝ちゃいましたよ。 ということで、今日は面白い話題も提供できず、スミマセン・・・。 明日は、午前中、勤務先大学の会議に出席した後、週末の学会に備え、東京の実家に帰ります。明日からしばらく、東京からのレポートです。それでは!
October 12, 2006
コメント(2)
昨夜11時近くでしたか、自宅の部屋で仕事をしていると、突然時ならぬどよめきが・・・。ん? と思って耳を澄ますと、マンション中に歓声がこだまし、何やらドンチャン騒ぎが始まっています。何だよ、何が起こったんだ? 中日ドラゴンズが優勝したのでした。 はぁ~・・・。 やっぱり名古屋の人たちって、ドラゴンズが好きなんだ・・・。 と思ったら、もう今日は名古屋中で「ドラゴンズ優勝セール」です。デパートはもちろん、津々浦々のスーパーもかしこで特売らしく、今日の新聞の折り込みチラシには「66円セール!」の文字が踊っています。なんで「66円」なのかと思ったら、落合監督の背番号なんですってね。 ま、私は野球に関してはほとんど何の興味もないので、「はぁ?」という感じですけど、でも、ま、落合監督ってのは、監督として才能があるんだな、とは思います。就任3年で2回優勝って大したもんですよ。いつの時代も「名監督」というのはいるものですけど、プロ選手という大人の集団をどうやって指導し、結果を出していくのか、という点に関しては、ちょっと興味がありますね。私もゼミ生を指導して、卒論を書かせているわけですけど、なかなか上手に指導できないものなあ・・・。 閑話休題。 ところで今日はお昼から英語科の会議があるというので、何かと思って行ってみたら、これがまた下らない会議でして。 「うちの大学の男性教員・女性教員の比率が適切かどうか、各科で十分討議せよ」というお達しが大学本部からアンケート付きで来ているので、この問題を討議しよう、というわけです。もちろんこういうのは大学が自発的に思いついたことではなく、「男女共同参画社会」の推進をしている政府からの言いつけだと思うのですけどね。 で、私の勤務する大学の教員の男女比率は、男性85%、女性15%なんですって。この数字がこれみよがしに配布資料に載っているということは、つまり、女性の比率が少ないから反省しろ、ということなんでしょう。 いやー、それにしても、何をもって「女性教員の比率が少ない」っていうのですかね。出生比率が男女ほぼ半々なんだから、大学教員の男女比率も半々に近づけろってことなのか知らん。 でも、少なくともうちの大学に関して言えば、教員採用時に男か女かなんて考慮に入れてませんよ。公募した条件に一番合致している人を選んだら、たまたまこの比率になったというだけなんですから・・・。それに、そもそも、将来大学の教員になることを目指して大学院に進学する院生の男女比率だって、半々じゃないです。特に理科系なんて、男の方が絶対多いはず。 だからごく普通に、男女差別せずに選べば、男性85%、女性15%くらいの比率になっちゃうんですよ。これはうちだけでなく、どこの大学だってそんなもんだと思いますよ。女子大とかだったら、話は違うと思いますが。 ですから、それについて「女性教員の比率が適切だと思うかどうか、慎重討議の上、1.適切である 2.適切でない のどちらか回答せよ。なお『1.適切である』と回答した場合は、その理由も挙げよ」と言われたってねえ・・・。アンケートそのものが『2.適切でない(=女性教員が少なすぎる)』と回答しないとぶっ殺すぞ」と言っているようなもんじゃないですか。 で、さらに上から降りてきたアンケートには、こんな質問事項もあるんです。曰く、「女性教員の採用について、1.将来、採用率をあげるべきである 2.将来、採用比率を上げるべきでない のどちらか回答せよ」。 こんなの回答しようがないじゃん! 上げるべきでない、というわけでもないし、上げるべきだ、というわけでもない。適材がいれば、男女の差別なく採用するだけなんですから・・・。 でも、こういう下らないアンケートなんかやらされるところを見ると、今後、女性教員の数を上げるよう、何らかのプレッシャーがかかってくるんだろうな。「女性教員枠を設けろ」とかね。実際、そういう方向の示唆も上からは来ているようですし・・・。 い・や・だ・ね~・・・。 ま、英語科は割と女性教員が多いのですが、これが苦労の元でして(爆)。エゴ・セントリックで、協調性がなくって、主張は多いのに責任者にはなりたがず、いざとなると人に頼って尻拭いさせるんですから、もう・・・。 第一、今日の会議だって肝心の女性教員の全員が遅刻じゃないですか! でまた英語科に所属している外国人教員の方々にもまた、色々問題のある人が多いもんですから、日本人の男性教員はホント苦労しているのですよ。 で、その苦労させられている男性教員が、女性教員全員遅刻の中、「女性教員の数をもっと増やすべきではないか」について話し合いをさせられてるってんですから、もうお腹から力も抜けて、「あ、あはははは・・・」と笑うしかありません。 日本国政府の皆さん。男女共同参画社会だか何だか知りませんけど、目を覚まして現実を見て下さい。そして、こんな下らないことで、我々の時間を奪わないで下さい・・・。 もうこんな下らない会議で時間をつぶされた以上、もう憂さ晴らしにドラゴンズ優勝でも祝って馬鹿騒ぎでもするしかないな。 わーい、ドラゴンズ優勝、バンザーイ! セールだ、セールだ!!
October 11, 2006
コメント(4)
「ハラセンの・・・」とか、「ヤマテイの・・・」と言って、後が続けられる人って、今どのくらいいるのでしょうかね? 50代、60代、・・・40代は辛うじて、というところかな・・・。 答えは「ハラセンの、『英文法標準問題精講』」、「ヤマテイの、『新々英文解釈研究』」です。ハラセンというのは原仙作、ヤマテイというのは山崎貞という人名なんですけどね。 その昔、大学受験で英文法と言えばハラセンで、英文解釈と言えばヤマテイで勉強するのが王道、という時代が随分長く続いていたんですな。ついでに言えば、英単語は「赤尾の『豆単』」で覚えるんですけどね。 で、少なくとも難関大学を受験しようというような志のある人はみんなこれらで英語を勉強したんですけど、『英文法標準問題精講』にしても『新々英文解釈研究』にしても、とにかくとんでもなく難しいわけ。前者は些末な文法事項の隅々まで隈無く出し尽くす、という感じでしたし、後者は後者で、英米の哲学者やら思想家なんかの文章から例文がとってあったりして、すごく高尚でしたから。 だから、これらの受験参考書をこなすというのは、ほとんど求道者みたいな気にならないとやってられない作業だったんですな。でも、大学っていうのは、こういう試練の向こう側にあるものなのであって、こういうのがスラスラ解けるようでなきゃダメなんだ、というような思いこみのもと、私や私より上の世代の連中は、随分頑張って設問に取り組んだものでございます。 かつて「英語」とは、「英語道」のことだったんですなあ・・・。 実際、大学の英語の入試問題だって、昔は出典からして凄かった。カーライルとか、ラスキンとか、そういう連中の文章から出されるんですから、英語自体も難しいけど、その紙背にあるものまで味読しないと正答が導き出せなかった。サマセット・モームあたりの文章が出ると、「やけに易しいな」という気がしたもんです。 しかし、その「英語道」から道をはずれて幾星霜。今どき大学に上がってくる学生の英語力なんて、ほんとに情けないようなもんで、それに合わせるように、英語の入試問題の出典だっておちゃらけた軽いかるーいエッセイばっかり。どの大学も、その辺の英字新聞あたりから、しかも普通のではなく、高校生向けの英字新聞あたりから、入試問題のネタを探してくるんですからね・・・。時代は変わりました。 ま、かくいうワタクシも、仕事がら色々な種類、色々なレベルの「英語の試験問題」を作問させられることがあります。これが結構大変でね。自分では「良い問題だ!」と思っても、実際に試験してみると、今どきの受験生には難しすぎて全員零点だったりして、それでは試験として成り立たないわけですよ。ですから受験生のレベルに応じて、「アホか」と思うほど易しい問題を作らなくてはならないんです。そんなんでも、まるで点のとれないヤツというのは結構いるんですから・・・。 というわけで、あんまり馬鹿馬鹿しい問題ばかり作っているうちに、「昔のハラセンやヤマテイの時代は凄かったな」という思いが高じ、懐かしいこれらの受験問題集をもう一度見てみたいという気になってきたわけ。 で、日本全国の大学図書館を検索してみたんですけど、これがまた案外所蔵しているところが少ないんですな。昔は日本中、誰しもがこれらを使って勉強したのであって、またそういう時代が長かったんですから、どこでもあるのかと思いきや、そうでもないらしい。 ま、大学受験参考書ですから、大学に入ってしまえば用がないわけで、大学図書館にそれらが備えられていないのは、当然と言えば当然でしょう。しかし、一つの時代の象徴として、資料的価値だってあると思うんですけどね。それなのに・・・。もちろん、ワタクシの勤務先大学の図書館にもありませんでした。 でも「ない」と言われると余計見たくなるなあ。多分、実家にはあるので、今度実家に帰った時、探してみようっと。 かくして、作問のために世にも下らない各種英文エッセイなどを読みながら、ハラセンやヤマテイの時代に思いを馳せている今日のワタクシなのでした。昔ハラセンやヤマテイで勉強した方、レスポンス待ってまーす!
October 10, 2006
コメント(4)
以前使っていたケータイは、それこそ「有史以前」と言っていいような古いタイプだったので、メールを送るのもいちいち全文を打ち込まなければならなかったんですが、新しいケータイに変えてから、メールを打つのも簡単になりました。 だって、次々と文章の「候補」が出てくるので、それを適当に選んでいくだけで立派に文章が書けちゃうんですから・・・。 しかし、この機能を「こいつは便利だ!」と思って使っているうち、段々妙な気分になってきますね。 なんでこのケータイは、私が書こうと思っていることを、いちいち先手を打って察知しやがるんだ? もちろんケータイは別に私の頭の中を察知して先読みしているわけではなく、私がよく使う言葉を、その頻度の高い順に記憶しているだけなんでしょうけど、それにしてもあんまり的確に「候補」を出してくるので、何だか気味が悪くなってきます。 こういうのこそ、「機械の中の悪魔」というのでしょうな。その昔、白人が機関車を作って走らせたら、それを見た先住民が驚いて「鉄の中に地獄の馬が入っている!」と叫んだと言いますが、私だってケータイに対して同じような感慨を持ちます。なんか入っているぞ、この中に! 小悪魔か?! ま、要するに私が紋切り型のことばかりメールに打ち込んでいるということなんですけどね。そこがいかんのだよな。 おーし、次からはケータイの中の小悪魔も予想できないような、とんでもない文章をひねり出してやるぞ! (って、それじゃ用が足せないんですけど・・・) さて、今日も今日とて体調イマイチのワタクシ。昼からずっと学会関連の事務仕事をやってますが、ずっとパソコンの前に座っていたので、ちょいと退屈してきました。夕食を食べたら、久し振りにちょいと夜のドライブでもしてきましょうかね。 それでは、また!
October 7, 2006
コメント(2)
先日、フランス映画で『コーラス』というのを見ました。問題児ばかりを集めた寄宿学校に、しがない中年の音楽教師が舎監として赴任するというお話。もうここまで言えば、筋書きもほとんど分かってしまうようなもんですが、合唱指導を通して少しずつ不良少年たちの心をつかんだこの先生が、やがて彼らを立派な合唱団に育て上げ、更生させていくというようなストーリーなんです。 ですが、こういう先生と不良生徒たちが少しずつ心を開きあって云々、という話が私は苦手でね。いや、この手の話は最終的にはハッピーエンドになるに決まっていますから、それはいいのですが、その途中で一回か二回は先生が生徒たちにひどい目にあったりするじゃないですか。あれが見ていられないんです。 ま、自分もわけの分からん学生たちを日々相手にしているので、身につまされちゃうんですな。映画の中で、まさかこんな不良学校だったとは知らずに赴任してきた先生は、舎監室のベッドに横たわりながら、「生徒たちが恐ろしい。殺されるんじゃないかという気がする」とつぶやきますが、その気持ちが、私にはよく分かるんですね・・・。 実際、私だって、そうですよ。たとえば新学期が始まって、見も知らぬ沢山の学生たちを前に初めて教壇に立つ時の気持ちというのは、ほんとに恐ろしいもんです。私は院生時代から数えてもう20年近く教壇に立っているというのに、やはり新学期一発目の授業というのは恐ろしい。いや、むしろ年々その恐怖感は強まっています。 ま、昔はいい学生が沢山いたけれど、今は理解不能な学生が多くなったということもあります。ほんとに学生の気質というのは、この十年でがらりと変わりましたからね。 たとえば今日、私は後期から始まる「アメリカ文学史」の教壇に立ったわけですが、一通り講義をした後、今後の課題として、私が講義の中で取り上げるアメリカ作家の作品を一つでもいいから読みなさい、ということを述べて一回目の授業を終えたわけですよ。すると、一人の女子学生が後片付けをしている私のもとにトコトコとやって来る。ん? 質問か?学生: 先生、さっきのお話では講義で取り上げる作家の作品を最低一つ読むのが課題なんですよね? 私: ま、そうだね。学生: じゃ、一つお願いなんですが、講義で『アンクル・トムの小屋』の作者を取り上げてくれませんか? 私: 『アンクル・トム』か・・・。うーん、今のところ取り上げる予定ないんだけど。どうして?学生: 私、それ前に読んだことあるんです。だから講義でその話が出れば、あらためて別な作品を読む必要ないかなと思って・・・。 ・・・もう絶句ですわ。そんなことを言うために、わざわざ私のところに質問(というか、要求?)しに来るとは・・・。自分が何を言っているのか分かっているのか、その恥ずかしげもない態度からは推測もつきませんが、こういうずうずうしい学生が増えていることは事実。もう、今どきの学生たちは、私の理解を完全に越えています。 自分の目の前にいる大勢の連中が一体何を考えているのかまったく分からないという状況の中で、そいつらの前に立つ。これは、気味の悪いもんですよ。 で、私は今日、そんな授業を4コマこなしてきたんです。一日に4コマ。つまり6時間ですよ。風邪気味で体調悪いのに、もう死んでしまいそうです。 今週末は3連休なんですよね。後期第1週を終えてクタクタになった私にとっては、まさに恵みの休日。しばらくは大学のことを忘れて、休日の楽しみに熱中するとしましょうか。
October 5, 2006
コメント(6)
この数日、右手親指に時折引き攣るような痛みがあるなあと思っていたら、トゲが刺さっていました・・・。 うわっ、トゲか! 苦手なんです、トゲ・・・。トゲと分かった途端、顔面蒼白。全身から嫌な汗が・・・。 抜かなきゃいかんのだろうけど、抜くのコワイ。モノが体に刺さるということ自体ぞっとするのに、それを逆方向にもう一度引き抜かなくちゃいかんのですから、ツライ。刺さる時は事故なので、自分の知らぬ間に、しかもあっという間に起こるわけですけど、抜く時は意図的ですからね。「これから痛いことするぞー」と思って抜くわけでしょ。 そんなこと、自分じゃできない・・・。 でも人にやってもらうのもコワイ・・・。 放っておいたら、自然に溶けてなくなるなんてこと、ないですよね・・・。 逆に、放っておいたがためにそこから毒が入って大変なことになるとか・・・? キャーッ! で、どうしよ、どうしよ、と悩んでいたら家内に見つかってしまいました。家内はトゲが好きなんです。きっと「私が抜いてあげる!」とか言い出すぞ・・・。 「えー、トゲ? 私が抜いてあげる!」 やっぱりな!! 逃げ回ったのですが、とっつかまって、手術が始まりました。最初、毛抜きで突き刺さったトゲの先端をつかもうとしたようですが、皮膚に深く埋まってしまって、上手につかめない模様。ひゃー、痛いよう。 家内曰く、「仕方がない。針を使おう・・・」 ぎょえ~! は、針? 針をどうするの? 突き刺すの? 傷口を針で引っかき回すの? 逃げ腰の私を尻目に、家内は「ふっふっふ・・・」と不敵な笑みをもらしながら、針を火で炙っていますけど・・・。 結局、針で指の皮膚を浅く切開し、四苦八苦の末、トゲの頭を毛抜きでつかむことに成功。ようやくトゲを引き抜くことができました。20分間の大手術。はあ~、死ぬかと思った。私も汗びっしょりですが、家内も大手術を終えた外科医のようなありさまです。 それにしても、私を苦しめたトゲ。痛みの具合から5ミリくらいの長さはあるのかと思いきや、その半分あるかないかの小さなものでした。こんな目にも見えないようなちっぽけな異物が、人間様を数日にわたって肉体的かつ精神的に苦しめていたとは・・・。 ここで「悩みの渦中にあるとそうは思えないけど、人間、案外ちっぽけなことで悩んでいるもんだ」なーんて気の利いた一般論を引き出したりすると、このブログも『徒然草』的な味わいになってくるんですが。 ま、それもいいですけど、『教授のお気楽日記』としては、「持つべきものは、勇敢な妻なり」という方向の結論を出しておきますか。まったく、我が家内殿には頭が上がりませんよ。
October 4, 2006
コメント(6)
「ミラーマン」先生こと植草某氏、またやっちゃいましたね・・・。 早稲田大学教授として、あるいはテレビのコメンテイターとして売れっ子だったのに、ミラーマン・スキャンダルで失墜。その後、名古屋商科大学に拾われたというのに、今度は痴漢行為容疑で拘置され、こっちの大学でもクビ。 しかし、不思議だなあ。あの人、頭は人一倍いいんでしょうに、なんでそういうことしますかねー。ましてや一度失敗して懲りているだろうに、同じことを繰り返すってどういうことなんだろう。病気なのかな。 ところで、私、植草さんのことは直接知りませんけど、名古屋商科大学の学長である栗本先生という方は知っているんです。なぜなら、名古屋商科大学と経営母体が同じ栗本学園系の女子大で非常勤講師をしていたことがあるからです。 で、その栗本学長ですが、ちょっと日本人離れした精力的な方で、いかにもギラギラした「やり手」って感じ。向こうは学長、こちらは非常勤としてちょっと出講しているだけなんですから、普通だったら接点がなくてもいいわけですが、栗本さんは違うんですね。ちゃんとこちらの顔と名前を覚えていて、たまにキャンパスで出くわしたりすると、「いや~釈迦楽先生~! お久し振り!」などと言って握手を求めてくる。握手ですよ、握手。「欧米か!」って感じでしょ? ま、そんなふうですから、こちらとしては圧倒されちゃうわけですけど、名前を覚えられて悪い気はしない。色々な人を味方につけつつ、経営トップとして学園全体を牛耳るには、あのくらいのアクの強さは必要なんだろうな、と思います。 で、実際に傘下の女子大で教えていても、栗本イズムを感じることがよくあります。というのは、とにかく学生の行儀がいいんですよ。授業中に私語なんか一つもないですし、遅刻・欠席もほとんどない。で、最初は私も感心したのですけど、少し事情が分かってくると、はは~んと思うわけ。つまりね、大学の締めつけがものすごく厳しいんです。授業への出欠なんて個々の教員ではなく大学自体が厳密に管理していて、ちょっとでも遅刻・欠席が続いたりするとすぐさま呼び出しです。だもんで、学生たちも完全にビビッているわけですよ。彼女らは、自発的にというよりは、いわば栗本学長が怖いから静かにしているんですな。 もちろん、そういう締めつけがいいのかどうかは、意見の分かれるところでしょう。しかし、今の大学生なんて精神的には全然大人ではないので、そういう実態にあわせた上で締めつける=子供扱いする、というポリシーは、それはそれで正しいとも言えそうです。第一、今の時代、大勢の学生をビビらせるほどに、大学側のポリシーを押し通すというのは、なかなか難しいですよ。国立大学ではまず無理だし、私学だって東京あたりではもう無理なのではないでしょうか。 そういう意味で、私とはキャラが随分違うなと思いつつ、栗本さんには勉強をさせてもらいました。ま、その後私は、教育方針の上で栗本さんと意見が合わないことがあり、この女子大での非常勤を辞めてしまいましたので、もう随分長いことお目にかかっていませんけど、今、久し振りにどこかで会ったとしたら、昔のことなどおくびも出さず、「釈迦楽先生~、お久し振り! 元気?」なんて言いながらハグハグしてくれるんじゃないかと思います。そう思ったら、何だか会ってみたくなりましたよ。 それに・・・ワタクシ、この女子大で教えていた独身の頃には、学生の間に結構ファンも多く、ラブレターとかよくもらいましたし・・・。(もちろん、真に受けませんでしたけど・・・) ・・・それはともかく、早稲田を首になった植草某先生を名古屋商科大学が拾った、と聞いた時、ああ、いかにも栗本さんらしいなと思ったんです。業績的には優秀な先生を捨てておくのはもったいないと思って、例の押しの強さで学内の反対を押し切ったんでしょう。でも、この度の不祥事でさすがの栗本さんも植草某を諦めたんでしょうな。 あの押しの強い栗本さんでもかばいきれないような人、もうどこの大学だって雇えませんよ。そう考えると、植草某先生、返す返すも馬鹿なことをしたもんだ。 ということで、今回の植草スキャンダルの報道を目にしながら、ふと、栗本学園で教えていた頃のことを懐かしく思い出してしまうワタクシなのでした。
September 27, 2006
コメント(2)
いや、何だか最近、おかしいなと思ってたんですよ、私のパソコンちゃん。 スパムメールが届くのは前からのことで、これはもうある程度は仕方がないのかなと思って諦めてはいたのですが、最近届くスパムメールがどうも怪しいんです。つまり、少し前に私がパソコンに打ち込んだ何らかの文字列を引用したようなスパムメールが届くようになったんです。 ということは、ひょっとしてスパイウェアが潜んでいるってことか!? 私のパソコンにスパイが忍び込んでいて、私がキーに打ち込む文字列を盗んでいやがるんだな!! くーっ! というわけで、契約しているプロバイダーが提供する常時セキュリティ・システムを導入することにしちゃいましたよ。月400円の余計な出費ですけど、パソコンの中にスパイがいるとなると、なんか気味が悪いのでね。 で、ウェブ上で簡単な手続きを済ませ、最新のセキュリティー・システムを導入したあと、早速スパイウェアのチェックをしたところ・・・ いたいた! 74個も! イメージ的には74「個」じゃなくて、74「匹」のおぞましいバイ菌がゾヨゾヨ蠢いている感じです。うー、気色ワル!! 早速こいつらはすべて「封印」し、さらに毎日定期的に自動チェックするよう、セットしておきましたけどね。ザマミロ。 このブログをお読みの皆さんは、それぞれ周到にウイルス対策をなさっているかも知れませんが、スパイウェアというのは通常の「ウイルスチェック」にはひっかからないものなのかも知れませんので(だって、私のパソコンも直前にウイルスチェックをかけた時は「白」だったんです)、ご用心、ご用心。 さて、実は私、木曜の朝から家内を連れて、小淵沢に一泊旅行をしてきます。その模様につきましては、また金曜の夜、あるいは土曜日以降にアップしますので、乞うご期待です。出来れば少し写真もアップしたいのですが、うまく行くでしょうか。その辺も、お楽しみに!
September 21, 2006
コメント(4)
今朝の新聞に「荒れる小学校」というテーマの記事が一面・三面に大きく掲載されていました。 それによると、今や小学校の先生が生徒に暴力を振るわれるケースが年間460件もあるんだそうですね。先生が生徒を、ではなく、小学生が先生を殴るんですよ・・・。 あるケースでは、椅子の並べ替えを指示したの無視した小学校高学年の女の子に先生(女性)が注意したところ、その女性徒は椅子を蹴り倒し、「うるせー!」みたいなことを言ってすごんだとか・・・。 またあるケースでは暴力をふるった男子生徒の腕をつかんで先生を注意したところ、「殴れるなら殴ってみろ、教育委員会に言って首にしてやるからな!」とほざいたとか・・・。 またまたあるケースでは、小学校5年生の生徒同士の喧嘩の仲裁に入ったら、「テメーは引っ込んでろ!」と殴られたとか・・・。 もう世も末ですな。 でまた、「誰々君・誰々さんにやや粗暴な面が見られますので、そのあたりを少しご家庭でも注意しておいていただけると・・・」なんてPTAの会合か何かで報告しようものなら、今度は親から「不当な個人攻撃だ!」などとつるし上げられるってんですから、もう先生方としては泣き寝入りするしかない。実際、今どきの小学校の先生は、生徒が言うことを聞かなくても、「○○さん、今日はちょっと疲れているんですねー」などと言ってご機嫌をとりつつ、触らぬ神に祟りなしで済ませるのですって。 戦前は「聖職」だった教師稼業も、今やこのざまですわ。もう先生になる楽しみなんてないな。 こういう状況を見れば、 日本の教育を根本から変えないとまずいんじゃないかと思いますけど、今日の夕刊によると、次期首相の呼び声の高い安倍晋三氏の教育改革の大方針は、大学入学時期を9月に変えることだとか。え? もしもし? そこを変えるんですかい? で、高校卒業から大学入学までの半年間は、奉仕活動させるんですと・・・。 日本の政府ってのは、この「奉仕活動」ってのがよほどオールマイティな特効薬だと思っているんでしょうな。奉仕活動さえさせれば、性根の腐った奴も少しは世間のことが分かってシャンとするだろうと、本気で思っているみたいですね。私、職業柄、教員免許のことには詳しいのですが、日本の教員の質が落ちている、と言うことになった時に、文科省が最初にやったのは「介護施設などでの奉仕活動」を教員免許をとるための必要単位に組み込む、ということでしたからね。 わずか1週間だか2週間、おじいちゃん・おばあちゃんの介護するだけで、教員の質が上がると思っているんだから笑わせてくれますけど、文科省は笑ってないどころか大真面目だし、うむを言わせず諸大学に命じてそれをやらせているんですから、役人の考えることってのはおっそろしいものでございます。 ま、生徒の問題を解決するには、その前に親を教育しなくちゃいけないっていうのがあるので、そう短期間に改善する方法があるとは思いませんが、それにしてもさしあたり「学校の権威」「教員の権威」というものを示す方法を検討しないとまずいんじゃないかと思うんですが。もちろん、「大学9月入学」制度なんてことより、もっと先に、ね。 ちなみに、ワタクシになんでもやらせてくれるのなら、「法廷侮辱罪」みたいなのを教育現場にも応用し、「教室侮辱罪」というのを作って、教員に不当にたてついた生徒や親は処罰の対象にする、というような方法を実行しちゃいますけど。ついでに小学校の校長先生には「教育的体罰権」もドーンと与えちゃいましょう。先生ってのは偉いもんで、おまけに怖いもんだという認識こそが、教育の原点になってないと、何をするにしても示しがつきませんからね。 でも、そういうのに反対する人は沢山いるからな・・・。難しい問題ではありますな。閑話休題。 さて今日の私ですが、別にすることもないのでしっかり勉強しております。おりますが、そこはそれ、少しは息抜きも必要。ということで、昼食後、車で5分ほどのところにある古書店に行き、『エスクワイヤ』誌のバックナンバーで面白そうなのを2、3冊見繕って買ってきました。イタリア・トスカナ地方のスローフードの話題、北欧のライフスタイルの話題、ニューヨークにおけるアートシーンの話題などが載っていて、なかなか面白そうです。これらを時々パラパラとめくりつつ、今日はもう少し仕事をしますか。それでは、また!
September 14, 2006
コメント(4)
少し前、まだ私の甥ッ子が小学生か中学生くらいでしたでしょうか、大きくなったら何になりたいという話になった時に、彼が「絶対、偉くはなりたくない」ってなことを言うんです。で、やけに野心がないなあと思って、「どうして偉くなりたくないの?」と問うてみたわけ。すると・・・ 「だって、偉くなるとテレビで謝らなくちゃいけないでしょ」 ですと! 子供ってのは、よく見ていますな。 それにしても、確かに甥ッ子の言う通り、毎日のように不祥事を起したどこかの会社のお偉いさんが、テレビカメラの前で頭を並べて頭を下げていますなぁ。あれ、いつから始まった風習でしょうか? 最近のことでしょ? 一昔前まで、会社の偉いさんがぺこぺこ謝っている映像なんて、テレビで流されることなんかなかったですよ。 ああいうの、なんで流すんでしょうかね。「社長に謝らせたい」「土下座しているところを見てやりたい」という人が沢山いるから、つまり「需要があるから」なんでしょうけど、私はそういう心持ち自体、下品な感じがして嫌だなあ。人がぺこぺこ謝っているところなんて、見たくもないです。大体、あんなに毎日誰かがぺこぺこ頭を下げていたら、「謝る」という行為そのもの価値が下がりますよ。陳腐な見せ物になっちまう。 どこぞの会社が不祥事を起した場合、もちろんその責任を追究することは必要ですし、また不祥事に相応する罰を与えることは当然だと思いますが、そのことと、当該の責任者に公共の電波を通じて頭を下げさせることは、別なレベルのことだと思います。 それに、今日、お昼のニュースを見ていたら、どこかの県の職員が酒気帯び運転か何かで交通事故を起し、怪我人を出したということで、県庁の上役が数名で頭を下げていましたが、これは明らかにやり過ぎじゃないでしょうか。交通事故は、個人の責任ですよ。個人が事故を起したのであって、その個人が相応の責任をとるべきもんです。何も上司が世間に謝る種類のことじゃない。 「謝るのがいいこと」であるかのような今の日本の社会通念そのものも軽薄な感じがして嫌ですが、一旦そういう社会通念ができると、なんでもかんでも上役をつかまえて頭を下げさせようとする、そういうジャーナリズムの薄っぺらな正義感も嫌ですなあ。しかも、そんなふうに人(加害者側)に土下座させておいて、後から「誠意が籠もっていない」「謝ればいいという問題ではない」みたいな(被害者側の)コメントを流すでしょう? 人が謝るということも、人を謝らせようとすることも、どちらも見栄えのいいもんじゃないです。でまたそうである以上、そんなみっともないものを、軽薄にテレビで流すなと私は言いたい。そういう軽薄さが、逆に軽薄な犯罪を生む温床となり、ひいては軽薄な国民性を生むのだと私は思います。 最初に述べたように、テレビを見ている子供は「あんなみっともないことをさせられるのなら、偉い人にはなりたくない」と思い、その結果として向上心や野心を失っています。そういうことも含め、誰に向かって言えばいいのかよく分かりませんが、とにかく「大の大人にぺこぺこさせるんじゃない!」と声を大にして言っておきましょう。
September 9, 2006
コメント(2)
今朝の新聞を見ていたら『デスノート』などの作品で知られる漫画家、小畑健さんがナイフ所持で逮捕された、という報道が出ていました。 それによると、夜、小畑さんが運転していた車のライトの片方が消えていたため、警官に職務質問され、その際、コンソールボックスの中にアーミーナイフがあったということで銃刀法違反で逮捕されたとのこと。 えー! そんなことで「逮捕」されるの? 解説によると、人は「正当な理由なく、刃渡り6.5センチ以上の刃物を許可なく持っていてはいけない」とのことですが、それにしても、ちょっとしたナイフを車のコンソールボックスに放り込んでおくくらいのことで逮捕されちゃうのかなぁ! 第一、職務質問で車の中の所持品って検めていいんですか? 「検めるなら、令状持ってきて」って言えないのかしら。 それに何が「正当な理由」かなんて、分からないじゃないですか。たとえば、「いや、これからどこかでスイカを買って、このナイフで切って食べようと思っていたんです」って言ったらどうなの? 私には十分正当な理由に思えますけど・・・。 ま、私がこの新聞記事を読んでビビるのは、実は私自身、ナイフというものが好きで、いつも持ち歩いているからなんですー。 なんでナイフが好きかといいますと、アメリカでお世話になった80歳を越す老教授が、いつもポケットに小さなナイフを忍ばせていて、それを時に応じて上手に使われるんですよ。手紙を開封するとか、オレンジの皮を剥くとか、そんな感じです。そういうのを見ていて「かっちょいい!」としびれた私は、早速自分用にスイス・ビクトリノックス社のアーミーナイフを買ったのをはじめ、アメリカを旅するごとに一本くらいずつ土産にナイフを買っています。で、特に最初に買ったビクトリノックスのナイフはホントに愛用していて、今も日々持ち歩いているんです。もちろん、正当な理由もなしに。 じゃ、私も逮捕されるんでしょうか・・・。 と思って慌てて刃渡りを計ったら、6センチでした。ひゃー、うまく出来てるわ。ちゃんと逮捕されない長さになってるんだ。 ま、ちょっと一安心しましたが、それにしても車のコンソールにナイフを置いていたくらいのことで逮捕されてしまった小畑さんには、同じナイフ愛好家として、同情してしまいますね。人とハサミは使いようじゃないですけど、ナイフだってそれ自体は有用なものなんですから、所持していただけで逮捕ってのは、ちょっとやり過ぎなんじゃないかと思うワタクシなのであります。 閑話休題。 さて、今日は私の住んでいるあたりの「ごみ収集」の日。ところが、このごみ収集のパターンが不可思議で、午後になって収集のトラックが来ることもあれば、もう9時頃に来てしまうこともある。私のように変則的な仕事をしているものにとっては、これが結構悩みのタネで、夜中の3時・4時まで起きている時など、朝寝坊をしてしまって、しばしばごみを出しそびれることがあるんです。で、実はこの前の月曜日もごみを出しそびれてしまったので、今日こそは何としてもごみを出さないと、という状況だったんですな。 そこで今朝は根性で9時頃には起き、見事ごみを出したのでありました。 で、せっかく頑張って起きたのだから、ということで、今日は朝食と昼食を兼ね、とあるカフェに行って「モーニング」を食べようということになったのでございます。 ところでこれをお読みの皆様はご存じでしょうか、名古屋の「モーニング」というシステムを。すごいですよ。名古屋では、11時頃までに喫茶店に入ってコーヒーを注文すると、タダでトーストと茹で玉子がついてくるんです。 いや、もちろんお店によってはもっとすごいことになっていて、トースト+茹で玉子だけではなく、これにサラダがついたり、ケーキがついたりする。肉まんが出てくるところもあれば、バイキング形式でパン、サラダ、パスタが食べ放題なんてところすらあります。で、これらすべてが、せいぜい380円程度のコーヒー一杯の値段で食べられるんです。これぞ名古屋の喫茶店文化の粋というところ。 で、今日私と家内が出向いたのは、長久手(「小牧・長久手の戦い」のあの長久手です)というところにある「カフェ・ジー」というお店。ここは、初めて訪れたのですけど、モーニングがお得な店と聞いたので。 で、この店も380円のコーヒー(もちろん、紅茶などもあります)を注文すれば、トーストと茹で玉子はモーニングでつくのですが、今日は朝昼兼用ということで「ホットサンド・モーニング」というのにしてみました。これはコーヒー代に120円を追加するだけで、サラダつきのホットサンドが食べられるというもの。 で、待つことしばし、出てきたのはおいしそうなホットサンドです。クロックムッシュみたいな感じでハムととろけるチーズとピクルスがこんがり焼けたトーストに挟まっており、一口食べると「サクッ」といういい音がします。味もなかなかよかった。コーヒーもたっぷりめでしたしね。これで一人分500円は安い。家内と二人で、雑誌などをパラパラ読みながら、お得なブランチを楽しんでしまったのでした。 というわけで、今朝は予想外の展開でしたけど、名古屋特有のモーニングを堪能した一日のスタートであったのでした。今日も、いい日だ。
September 8, 2006
コメント(3)
訳あって『ウズベキスタンの桜』(中山恭子著・KTC中央出版・1800円)という本を読みました。 著者の中山さんというのは元ウズベキスタン大使です。つまりこの本は、中山さんが大使として赴任したウズベキスタンの思い出を語ったものなんですな。 ところで、この中山さんという方ですが、大使を勤めてしまうくらいなんですから、能力の点でも人格の点でも優秀な方なんでしょう。が、文才の点から言いますと、ま、ほとんど素人のレベルと言っていい。この本にしても、見聞きしたことをそのまま素直に書きました、みたいな感じです。ま、申し訳ないですけど、その点から言えば私の鑑賞に耐えるものではありません。別に理由がなければ、私が手にとる本とは思えない・・・。 しかし、実際に読んでみてどうかと言いますと、これが結構面白い。というのは、中山大使がウズベキスタンに赴任した直後、大変な事件が起き、この本はその事件の顛末を語っているからです。運の悪いことに、中山さんが1999年8月にこの国に赴任したそのすぐ後に、JICAの職員として隣国キルギスに赴任していた日本人技師4人が当地の反政府ゲリラに拉致されるという事件が起きるんですね。で、赴任早々、中山さんはじめ、ウズベキスタン大使館のスタッフが大騒動に巻き込まれてしまうわけ。 でも、キルギスで起きた事件なんだから、何もウズベキスタン大使(タジキスタン大使を兼任)である中山さんがどうこうするものではないような気がしますが、そうじゃないんです。というのも、日本人を拉致した犯行グループは、もとウズベキスタンから出て、タジキスタンで活動していたイスラム原理主義者たちだったからで、こういう連中は反政府活動グループですから、国境近くの砂漠の山岳地帯を常時移動しているので、たまたま拉致したのがキルギス領内だったからといって、キルギスとは何のつながりもないんです。ですから、犯行グループと接触したり、交渉するには、どうしてもウズベキスタンとタジキスタンの協力が必要だった。 ところがですね。ここで日本の外務省の馬鹿さ加減が露呈するわけですが、我が国のアホな外務省は、この事件の解決をキルギス政府に丸投げするんです。で、中山大使らがいくら本省に掛け合って、「キルギス政府に任せたって解決しません」と進言しても聞く耳もたず、「お前らは近くにいるんだから、せいぜい情報収集でもやっとけ」と言うばかり。 というわけで、中山大使をはじめ、ウズベキスタン大使館のスタッフは、外務省の命令に背いて日本人拉致被害者の救出にあたるしかなかった。昼間は通常の大使館業務をこなし、その後で寝る間を削って犯人グループとの折衝をしたわけです。そして、その救出活動にはウズベキスタン大統領、タジキスタン大統領も非常に大きな貢献をしてくれた。 しかし、犯行グループも疑心暗鬼になっていますから、そう簡単には交渉のテーブルについてくれないわけですよ。もちろんお金で動く連中ではないですし。ですから、そこは「や○ざ」の親分同士の話し合いみたいな感じで、義理と人情で必死の説得を連日連夜にわたって行うわけ。 それで、事件発生から2ヶ月にわたる奮闘の末、ようやく被害者の解放がなされたんです。その影に、中山大使たちのそんなご苦労があったなんて、我々日本にいる日本人は、知る由もないわけですが。 でまた、ここでさらに頭に来るのは、事件解決後の日本の外務省の対応です。日本人拉致被害者はタジキスタンの山中で行われたんですけど、事件の解決をキルギス政府に委任した手前、タジキスタンで解放されました、じゃカッコがつかないってんで、なんとわざわざ解放された被害者たちを徒歩とヘリでキルギスまで移動させ、そこで正式に解放されたことにしたんですって。体面、体面。 で、もちろん拉致被害者を救出するために死ぬような思いで働いたウズベキスタン大使館のスタッフには、なーんの報償もなしですわ。もちろん、誉められようとして一生懸命やったわけではないでしょうけど、それにしても酷い話です。 すごいでしょ、日本の外務省の馬鹿さ加減。現地で一番事情が分かっている人たちの話を絶対に聞かないってんだから、もう常識を超えた馬鹿じゃないですか・・・。ま、本省がそんなでありながら、現地のスタッフは正義感と使命感に燃えて、たとえ自分たちが罰せられようと、被害者救出のために骨身を削って努力した、というところが、せめてもの救いですが。 ってな感じで、この本の前半は日本人拉致の顛末について語っており、「はぁ~、そんなことがあったんですか~」の連続で、それはそれで面白いのですが、後半はまたガラっと趣が変わって、日本人にはあまり馴染みのないウズベキスタンという国のお国柄について、楽しい話を読むことができます。正直な話、私なんぞウズベキスタンがどの辺にある国かすら、明確には知りませんでしたからね。 ただ、ウズベキスタンについて知らないのは日本人の側の話であって、ウズベキスタンの人は日本のことをよく知っています。というのは、第2次大戦後、ロシアに抑留された日本人が遠く中央アジアのウズベキスタンまで運ばれ、そこで強制労働させられたからです。ですから今でもウズベキスタンの各地に日本人が作った橋、日本人が作った道路、日本人が作った建物が残っているんですな。そしてそれが数十年経った今でも立派に使われている。当時を知るウズベキスタンの人々は、日本人労働者がいかに勤勉で、いかに有能で、いかに清潔で、いかに礼儀正しかったかをよく覚えていて、今でも彼らの墓を大事に守っていてくれるのだそうです。 で、そんな日本人とウズベキスタンの人々の交流の証として、中山さんはウズベキスタンに桜を植えようと思いつくんですな。死ぬ前にもう一度日本の桜が見たいといって、彼の地で死んでいった日本人たちの鎮魂の意味を込めて。本書が『ウズベキスタンの桜』となっているのは、そういう意味です。 最初に「著者に文才がない」なんていいましたけど、実際にこの本を読んでみて、色々と勉強になりました。それに中山さんの話を読むと、ウズベキスタンをはじめとする中央アジア諸国って、いいところだなと思います。日本も草の根レベルではこういう国々と交際を続けているようですけど、もっと大規模に国同士の交流を図ればいいのに。なんで日本は、日本のことに文句ばかりつける近隣の国のことばかり気にしているのか、私にはさっぱり分かりません。世界は広い。親日の国なんて、世界中にいくらでもあります。そういう親日の国々と、気持ちのいい交際をしたらいいじゃないですか。 というわけで、そんな親日の国・ウズベキスタンにもっと興味を持ったらいいなとの希望を込め、この本、教授のおすすめ!です。これこれ! ↓ウズベキスタンの桜
August 26, 2006
コメント(6)
朝、目が覚める時に、なんか自分が歌を歌っているのに気づく時ってありません? 今朝、私はいにしえのテレビ番組、『仮面の忍者 赤影』のテーマソング、「忍者のマーチ」を歌いながら目が覚めたのでした。 いい歌なんだよねー、あれ。メロディーも良くって、歌ってると涙が出そう。 「赤い仮面は 謎の人 どんな顔だか 知らないが きらりと光る 涼しい目 仮面の忍者だ 赤影だ 手裏剣しゅっしゅっしゅっしゅしゅっ! 赤影がゆく」 「どんな顔だか 知らないが」ってところがいいなあ。実際、番組の中で赤影は最後まで仮面を取った顔を見せないですもんね。忍者なのに髪型は七三分けって、一体どんな忍者なんだっ!って思いますけど、でもカッコ良かった。「赤影参上!」って言う時のクールさと言ったら! しっかし昔のテレビって、テーマソングが良かったなあ。何十年前のテレビでも、テーマソングだけは思い出せます。 ま、だからといって、「忍者のテーマ」を歌いながら起床するワタクシもどうかと思いますが・・・。 それにしても『赤影』、好きだったなあと思って、起きてからちょいと調べてみたら、これ、横山光輝原作なんですってね。やっぱり、そうか・・・。ワタクシ、横山光輝ものって、基本的に好きなんですよ。『鉄人28号』も『魔法使いサリーちゃん』も好きでしたから。『魔法使いサリーちゃん』の後、赤塚不二夫の『秘密のアッコちゃん』が始まった時、子供心に「ちっ、『サリーちゃん』の方が良かったな・・・」と思ったことをハッキリ覚えていますから。また、同じロボットものでも『鉄人28号』は夢中になって見ましたが、手塚治虫の『鉄腕アトム』は全然、ぜーんぜんっ面白くなかった。手塚アニメは、私にはまったくアピールしない、というか、いつ見ても不愉快にさせられたもんです。 その他、私が子供の頃に見て面白かったアニメと言いますと(順不同・思いついた順)・・・『ルパン三世』(初代のみ。2代目以降は腹立たしいまでにレベルが低い!!)『アルプスの少女ハイジ』(宮崎アニメはヨハンナ・シュピリの原作を越えている!)『サスケ』(白土三平は、私の祖父も認めていた!)『宇宙戦艦ヤマト』(『銀河鉄道999』になると、もう私には分かりません)『妖怪人間ベム』(原作は誰かと思ったら、韓国マンガなんだそうです)『花のぴゅんぴゅん丸』(原作は驚いたことに、つのだ・じろうさんなんだそうです)『スーパー・ジェッター』(30秒時間が止められたらいいでしょうな・・・)『魔法使いサリーちゃん』(既述) ・・・ほれ、手塚治虫が一つもない・・・。手塚だけでなく、トキワ荘系が一人もいない。どうもダメなんです。ワタクシと手塚治虫の相性って、どういうわけか悪いんですよね。 ちなみに、ちょっと調べたところによりますと、横山光輝マンガの特徴は「笑いがない」ことなんですって。「笑い」ではなく、力強いストーリーだけで引っ張っていくタイプのマンガなんだそうです。 ふーむ。なるほどね。そうかもね。 ということは、そういうマンガが好きだった私は、マンガに対してすら、笑いよりストーリーを求めていたのかも知れません。おお! そういえば、確かに思い当たるフシがあるかも・・・。 いやー、勉強になるなあ。今朝は、「忍者のマーチ」で目が覚めたおかげで、何だか、自分に対する知識が増えてしまったのでした。 ところで、これをお読みの皆さんにとって「記憶に残るマンガ・アニメ」って何ですか? 閑な方のご回答をお待ちしてマース。
August 8, 2006
コメント(9)
先程、亀田選手の世界チャンピオン初挑戦を見ました。 試合は予想した通り、両者ほとんど足を使わないままの打ち合い。亀田選手の出だしは上々でしたが、第1ラウンド終了間際、まともに一発くらって不運なダウン。ゴングに救われた感じです。 その後の試合運びは、どう見ても相手選手の方が老獪でした。手数から言っても相手の方が倍くらいあったのではないでしょうか。さほどのパンチではないようでしたが、あれだけ当たれば効いてもきます。 実際、後半、11ラウンドあたりでは亀田はもうフラフラ、立っているのもやっと、というところ。12ラウンド、よく持ったという感じでした。亀田のパンチ、特にボディーへのパンチは、ある程度効いてはいたようですが、相手はその後のリカバーがうまいので、印象としてアピールできなかった感じ。 で、最後まで見終わって、あ、完全に負けたと思いました。で、テレビを消してしまった。 ところが、なんと! あとで聞いたら、判定で亀田勝利ですって? うそ~! ダウンもしたし、最後はあんなにフラフラだったのに? それはないんじゃないの? 私はもちろん亀田を応援してましたけど、贔屓目に見ても相手側勝利じゃない? なーんか、納得できないなあ。この試合、どうせすごい視聴率で、見た方も多いと思いますが、亀田が負けたと思ったのは私だけでしょうか。この判定じゃ、会場が日本だったから勝った、と言われても仕方がないんじゃないかなあ・・・。 うーん、わけ分からん! 皆さんのご意見や如何に?!
August 2, 2006
コメント(6)
埼玉県ふじみ市の市立プールでの事故、亡くなられた女の子は気の毒ですなあ。 いやー、実は私、子供の頃にこれと同じようなプールの事故を遠巻きに見たことがありまして。 母方の祖父母の家(群馬県安中市)のすぐ目の前に市営のプールがあって、私は夏休みなどで帰省する度にそのプールで遊んでいたのですが、ある時、いつものように遊びに行こうと思ったら、なんだかやけに騒がしいんですよ。いつもは閑散としているプールなのに、その日に限って黒山の人だかり。プールを見下ろす道にも、人が沢山出ています。 しかもそれだけではない。消防車が何台も停まっていて、それらがプールの水をポンプで汲み出し、隣を流れる河に放水しているんです。 で、あとで聞いたら、プールの排水口に子供が吸い込まれたんですと。 もちろん、その子も亡くなりました。なにせすごい水圧で穴に吸い込まれるので、人間の身体が細いパイプの形に押しつぶされてしまうのだそうです。 いやー、今回の事故の報道を聞いて、子供の頃に見たプール事故の映像をまざまざと思い出してしまいましたよ。コワイですなあ。それ以来、私もプールの排水口にはたとえしっかり蓋がしてあっても、なるべく近づかないようにしておりますです。もっとも、最後にプールに入ったのは何年前だったか、覚えてないほど昔の話ですが。 ま、どうも報道を見る限り、こういうのは人災という感じが強いですが、元来、そういう人災が起こらないように工夫してプールを設計するのが筋だと思います。この事故をきっかけに、プールの安全性を確認する動きが出ているようですが、そうすることで亡くなられたお子さんのせめてもの供養になればいいですなあ。 しかし、今回のようなことで、事故にあわれたお子さんが通っていた小学校の校長先生まで取材したりするのはどうなんでしょうか。その小学校のプールで起こった事故ならともかく、夏休み中の他施設での偶発的な事故のことまで、校長先生に取材する必要などないですよ。学校ってところは、そんな365日、24時間体制で子供のことに責任を負わなければならないところじゃないです。それは親の仕事だ。自分の子供の安全を、他人に託してどうするんだって。 ついでに言えば、その学校の子供たちの「心のケア」とやらもする必要ないです。なんですか、「心のケア」って? 馬鹿馬鹿しい。大人がそんなこといって甘やかすから、ひ弱な子供が育つんですわ。そういう事故があって危険だから、そういうところに近づくなよ、と親が一言、言えばいいだけのことじゃないですか。いや、そんなこと親に言われなくったって、子供が自分で怖いと思えばいい。簡単なことです。まったく、「心のケア」なんて嫌な言葉、誰が使い出したんだろう・・・。閑話休題。 今日は野暮用があって大学で雑用をこなしておりました。雑用ってのは、ほんとに雑用なのであって、印刷物を折って封筒に入れる作業です。 ちなみに、この印刷物というのは、お手製の「同窓会報」なんですな。大学全体の、ではなく、うちの科の卒業生だけに向けて年一回出される手作りのニューズレターです。 ま、本当はこういうのは同窓会自体がやる仕事なんでしょうけど、現在のところこの卒業生組織が十全に機能していないので、結局、原稿執筆依頼・編集・印刷・袋詰め・宛て名書き・郵送に至るまでのすべてのプロセスを私一人がやっているんです。今日の袋詰め作業に関しては、大学院生の指導学生を一人応援に呼んで手伝ってもらいましたけどね。 でも、この同窓会報が、卒業生と我々教員をつなぐ唯一の絆なものでね。でまた郵送してから1週間ほど経つと、ぼちぼちと反響があったりするんですよ。「会報を読んで、学生時代が懐かしくなりました」とか、「同窓の皆がそれぞれ頑張っていると知って、励まされました」なんて頼りが、私のもとに届くわけ。数はそんなに多くはないですが。 しかし、一人でもそういう反響があったりすると、「止められないよなあ」と思うんですよね。面倒臭いと思いながらも、発送まで済んでしまうと、早く反響が来ないかなあ、なんて期待しちゃったりして。 ま、とにかく、今日のところで今年も同窓会報の発行という恒例の行事が一つ済みました。よかった、よかった。今日も、いい日だ。
August 1, 2006
コメント(4)
あーあ、ワタクシとしたことが・・・。今日は池田満寿夫と桐島洋子の対談集、『男と女』(講談社)について、延々とコメントを書いていたんですが、最後の最後になって操作を誤り、全部、消してしまったという・・・。 あんなに沢山、書いたのに・・・。もう立ち直れん・・・。 この本についてもう一度同じことを書く気力がない・・・。 あーあ。 動揺を隠せませんが、気を取り直しましょう・・・。 えーと。なにを話しましょうか。 そうそう、昨夜はF1・ドイツグランプリがありまして、ワタクシが応援しているフェラーリ・チームのミハエル・シューマッハーが優勝したんですよ。嬉しいなあ・・・。 あんまり気分が盛り上がらん・・・。 ゴメンナサイ、今日はもうダメですわ。また明日! 明日こそは、ちゃんと書きますからー。
July 31, 2006
コメント(4)
岩手母娘殺害事件、熊本死体遺棄事件、秋田2児殺害事件、東大阪大集団リンチ事件、奈良家族3人放火殺人事件、広島女児殺害事件と、最近の事件だけ取り上げてみても、どれがどれだったか覚えていられないほど殺人事件の多いこと・・・。日本は今や「殺人列島」ですわ。 そんな中、今日は「岐阜・中津川少女殺害事件」の被告である高1の少年が、中等少年院送致の保護処分に処せられることが決定したとの報道がありました。つまり、刑事処分を受けなくて済んでしまったということですね。 この事件の報道によれば、当該の少年は、交際のもつれ(!?)から、相手少女の首を絞めて殺した後、角材でめった打ちにしたというじゃないですか。そんな残忍なことしでかしても、軽い保護処分・・・。2001年の少年法改正で、14・15歳の少年も刑罰対象となり得ることが決まったはずなんですが。 ま、人によって考え方は様々でしょうが、私の個人的な感覚からすると、まあ随分軽い処分ですこと、という印象ですね。処罰というのは、基本的に「見せしめ」の要素があるはずですが、これでは逆の意味での見せしめですな。人一人くらい殺したって、ちょっと反省したような様子をすれば、刑事罰を受けなくていいんだ、ということを世間に知らせているようなもんだ。 先日、フランスのジダン選手が「頭突き事件」で世間を騒がせた時には、「理由はどうあれ、暴力はいかん」というのが世論だったはず。私は、ジダンの生い立ちや信教、あるいは家族を理不尽に侮辱した相手選手の方が悪いと思っているので、ジダンの行為には同情的でしたが、世間はそうじゃなかった。 その同じ世間が、中津川殺人事件に関しては「少年の生い立ちや、事後の反省の度合い」を斟酌して、究極の暴力を振るった少年に温状判決ですか・・・。 わけが分からん!! ま、この事件に限らず、日本の刑法ってのは、徹頭徹尾、加害者に甘いですからね。そのこと、皆さん、ご存じですか? 日本で殺人をやって、死刑になるのって本当に難しいんですよ。殺人罪で処刑される「可能性」があるのは、強奪・強姦目的などの身勝手な動機により数人の人を惨殺し、さらに証拠隠滅のために放火し、遁走したような場合だけなんですから。 逆に、例えば強奪・怨恨のために殺意たっぷりで計画的に殺人を犯したって、トドメをさした後、救急車を呼んだとしたら、その行為だけで「反省の色あり」ということで、もう死刑はないです。とにかく、なるべく死刑にしないような方向ですべてが仕組まれているんですな。そういえば、広島女児殺害事件も、結局被告に対し、原告側が望んだような死刑ではなく、無期懲役の判決が下されたんでしたっけ。 もちろん日本の刑法のこういう「生ぬるさ」は、大昔、いい加減な証拠での立件や自白の強要だけでじゃんじゃん処刑していた時代の反省の上に成り立っている制度であって、歴史的には意味のあることなんですけど、捜査方法などが発達した現代においては、いささか時代後れの刑法と言わざるを得ない。少なくとも私はそう思います。 処罰を厳しくしたら、酒気帯び運転が激減し、処罰を厳しくしたら、駐車違反が激減した。そうでしたよね。それなら、一番重い犯罪である「殺人」に対して、処罰を重くする意味は十分にあるはずじゃないですか。 このブログで私は何度となく主張しているように、重罪には厳罰がふさわしいです。これだけ日常的に殺人事件が起こるようになった現在の日本において、刑法のさらなる改正が必要であると声を大にして言いたいと思います。 それから、ついでに言いますと、最近、この種の事件が起こる度に、被害者の遺族などにやたらと「手記」を書かせる風習がありますが、あれはあれでどうかと思いますね。話題にあげた岐阜・中津川少女殺害事件に関しても、ご遺族のどなたかが手記を発表され、「娘を失って生きる力を失った」というようなことを述べられていました。無論、そういうご遺族の心情に同情はしますが、そんなに大切な娘さんだったのなら何故、その娘さんが夜中に家の外をほっつき歩き、廃墟となったパチンコ屋で男と会ったりするのを放っておいたの? と言いたくもなります。そういうことを言われないためにも、手記なんか発表しないのがいいのではないかと愚考しますが、如何。
July 28, 2006
コメント(4)
昨夜遅く、NHKテレビで「ワーキング・プア」に関するドキュメンタリーをやっているのを見ました。 多分、再放送なので、もっと以前に見た、という方もいらっしゃるかも知れませんが、とにかく、その内容はかなり驚くべきものでした。 ま、バブル崩壊以降の景気の低迷、終身雇用制の崩壊とそれに伴うパートタイム労働の増加、過疎化による地方経済の破綻など、低所得層の増加を促すような社会状況があることはもちろん知ってはいましたが、日本経済がここまでやばい状況になっていたとは知らなかった・・・。ちなみに、NHKのドキュメンタリーで主に扱っていたのは、秋田県の農村地域の状況だったんですけど、えーっ!と思うほど悲惨でしたよ。 例えば米作農家なんかでも、米の値段が下がってしまったために収入が激減し、年収が200万円代なんて家庭がザラ。それじゃ暮らしていけないってんで、昼の農業労働に加え、夜は夜で遅くまでかかって自家製の漬け物なんか作って売っている夫婦を取材していたのですが、それでもそこから挙がる実質の収入は年間30万円ほどで、焼け石に水状態。 それでも農家はまだいい方で、例えばこの地方で長年テーラーを営んできた方なんか、平成に入ってから仕事が激減。かつては年間何百着とスーツを仕立てていたのに、景気の低迷で服を新調する人が減り、たまにある仕事といえば「裾上げ」とか「寸法つめ」といったような500円、1000円単位の仕事ばかり。冬場の数ヶ月にあげた収入はわずかに1万円という状態ですから、もうどうしようもない。しかも、取材を受けていたこの方はアルツハイマー病にかかってしまった奥さんの医療費も支払わなくてはならず、毎日のご自分の食費も100円に切り詰めているとのこと。 こういう状況を作り出している背景には、もちろん過疎の問題があります。事実、秋田の農村地帯なんか過疎化が進み、あちこちに倒壊した農家の残骸が捨て置かれている。で、人が居なくなるから地元の購買力も下がり、上に述べたテーラーの方の苦難なんかも生じるわけ。 で、収入がないから税金も払えないので、市役所に行って「収入が少なすぎて税金が払えません」という手続きをとったり、あるいは生活保護を受けるための手続きをとるわけですが、そういう行政上の生活保護を受ける場合は当該世帯に資産があってはならないんですって。 つまり、貯金も何も全部放出し、本当にすっからかんにならない限り、そうした保護が受けられないんですな。ですから先ほどのテーラーの方にしても、アルツハイマーで先の短い奥さんのための葬式費用として100万円の貯金があったのですが、それすら切り崩した後でないと、保護が受けられない。長年腕の立つテーラーとしてやってきた自尊心もなにもすべてカラにし、まったく無一文にならないと保護が受けられないという状況が、この方の苦悩をさらに深めているんですね。 は~。この貧しさは、見ているだけでつらい・・・。現在の日本の地方というのは、こういう状態でありましたか・・・。 ま、それだけでも私なんぞは結構唖然としちゃったんですけど、こういった悲惨な経済状況は何も地方だけのものではないらしいんです。例えば都会でも、若者が一旦社会からドロップアウトし、定住先を失ってホームレスになんかになってしまうと、その後で心機一転、職に就こうと思ってもなかなか難しいらしい。住所がない、ということが会社にバレてしまうと、一旦受け取った就職内定も取り消されてしまうんですって。ですから、一度は「社会に復帰してやり直そう!」と思っても、あちこちで就職を断られているうちに、再び無気力になってしまったりする。あるいは、どうにかこうにか職を見つけても、それは時間給の低い単純労働作業ばかりで、アパートを借りるだけの収入も得られなかったりするのだそうです。 また若者だけでなく、不景気のために会社が倒産し、職を失ってしまった中高年の方も大変で、かつては年収600万ばかりあったのに、今はガソリンスタンドの夜勤などのパートタイム労働を3つくらい掛け持ちで、ようやく年収200万でかつかつの生活をしている人なども取材されていました。その人は奥さんを亡くしていて、二人の子供をどうやって大学まで行かせるか悩んでいましたけど、子供の方も親の事情が分かるのか、「どうせ大学には行けないよ」と半ば自暴自棄になっていたりする。 上に述べてきたような人たち、つまり、働く意欲もあり、能力もあるのに、人間として普通の暮らしができないほどの貧しさに苦しめられている人たちのことを「ワーキング・プア」と言うらしいのですが、今の日本にはこの種のワーキング・プアが非常に多くなってきたのだそうです。昔のように「働かないから貧しい」とか、「能力がないから貧しい」というような状況じゃないんですね。それだったら、まあ、「貧しさは、本人の責任」と言えたかも知れませんが、ワーキング・プアの人たちの場合、その人たちの経済的苦境は必ずしも本人の責任ばかりではない。社会的システムの行き詰まりの被害者、という側面がありますからね。 私なんかもよく、「働けど働けど、我が暮らし楽にならざり、じっと給料明細を見る」なんてふざけて言ったりしてますけど、私なんか上に述べてきたような方々に比べればトンでもなく恵まれているのであって、これからは世間並みの生活ができるだけ、感謝しなくてはなりますまい。早く大学辞めて、田舎暮らしがしたい、なんて言ってる場合じゃないのかも・・・。 それにしても、今更ながら、現在の日本はこんなに貧しいんだ、ということを知らされて、ちょっとショックでしたね・・・。 今、日本にはこんなにワーキング・プアな方々がいらして、国も地方も膨大な借金を抱えていて、しかも、そんなふうでありながらなお、国中のあちこちで信じられないほど馬鹿馬鹿しい税金の無駄遣いがある。これはもう、有機的な存在としての国の機能がストップしているとしか思えませんな。 どこかの時点で、この日本の現状を白日のもとに晒し、その状況を改善する手だてを考える国家的キャンペーンでもやらないとまずいんじゃないかと、番組を見ながら、そんな危機感を抱かせられました。さてさて、ブログをお読みの皆さんのご意見や如何に。
July 26, 2006
コメント(8)
今日はお昼からちょっとした会議がありました。我が大学では、水曜の午後が会議日になっているもので。 で、ある議題について審議している中で、それなりに妥当な解決策が出され、司会の先生が「じゃ、この議題につきましては、そのように処理して構いませんね?」と決議を促し、出席者の大半がかすかに首を縦に振りつつ暗黙の了解をしたまさにその時です。どこからか「あのー・・・」という間の抜けた声が。おお! やばい! あなた、発言なさるの?! いやー、このおじいちゃん先生、毎度とんでもなく的はずれな発言で会議をヘロヘロにしてしまう困ったお人なんですー。だもので、彼が「あのー・・・」と言いだした途端、周辺の先生方の顔に、「またか・・・」「何を言い出すことやら・・・」「これで15分は時間が無駄に潰れるな・・・」といった絶望的な表情が浮かんだわけですが、そんなことをおじいちゃん先生ご本人が知るはずもなし。 で、その先生曰く、「この件について、先日、M先生とお話したんですが、M先生は今日の案にご反対なんです。で、私もM先生の反対論の御趣旨にすっかり説得されましてね。今日、M先生は会議にはいらしていないようですが、とにかく私は今日の案には反対いたします」と・・・。 会議の参加者一同、「はあ?」という顔になり、互いに目配せをして、必死に「無視しちゃえ!」という合図を司会の先生に送ったんです。が、あいにく司会の先生が我々一同よりももう少し人徳のある方だったので、もうちょっとだけおじいちゃんに付き合う気になっちゃったんですな。 で、当然のことながら、司会の先生は、「・・・ちなみに、M先生の反対のご趣旨というのは、どういうものだったのでしょう」と尋ねたわけですよ。そりゃ、そう聞かざるを得ませんよね。 さて、おじいちゃん、なんて答えたと思います? 「それは、忘れました。しかし、非常に説得力があった」 ・・・ですって! お、思い出せない論旨をもとに、は、反対をなさるんですか、あ、あなたは・・・。 ちなみに、もしそのおじいちゃん先生の反対案が通った場合、そのおじいちゃん先生自身も含め、彼の所属する科の先生方の身の上に非常に不利な状況が生じるんですが、どうも本人にはそういう意識はないらしい・・・。ま、いつものことなので、周囲の先生方が必死に慰撫して丸め込み、おじいちゃん先生にそれ以上の発言をさせなかったので事なきを得ましたけど、冷や冷やものです。 それでいて当のおじいちゃんは、「今日のところは残念ながら自説が通らなかったけれど、公の場で言うべきことは言った。わしが切れ者であることは、これで皆にも分かったであろう」という満足げな表情なんですから、もう何をかいわんや・・・。 いやー。我が国の最高学府、「大学」の会議なんて、大体いつもこんな感じです。こいつ、こんなんでよく「教授」になれたな、と思うような魑魅魍魎がばっこばっこですよ。 ま、そういう不条理きわまる先生方の生態を、逆に楽しもうと思えば、相当楽しめるんですが・・・。 が、それもこちらの心にゆとりがあればの話で、そうでなければ頭バクハツしますけどね。 考えてみれば、今朝の北朝鮮のミサイル発射にしても、同じ様なもんかな。片や拉致被害者のご対面ーなんてやっている一方で、どうして突然ミサイル発射になるのか、その文脈が分かりませんよね。その分からなさが、面白いっちゃ面白いですけど、ミサイルの向かう先が日本だとなると、笑ってもいられないし。 ホントは、こういう場合、単に「遺憾だ」なんて言ってる場合じゃないんでしょうけど、これでまた日本政府が経済制裁かなんか発動すると、それを根拠に、日本を非難してくるんだろうな。 不条理ばかりが大手を振っている世の中、おじいちゃん先生の戯言くらい、我慢してあげるとしますか。
July 5, 2006
コメント(6)
先日も書きましたが、友人のオーストラリア人ご夫妻がもうすぐ国に帰るというので、何か外国人が喜びそうなプレゼントをあげようと思い、現在、その品定め中です。 ま、奥さんのアミリアにあげるものは、大方決まっているんです。浴衣がいいかな、と。もちろん、着物ですから着方が難しいというところはありますが、アチラの人はこういうものの扱いが案外上手で、部屋着としてうまくアレンジしたりしますからね。私の友人にアメリカ人の老婦人がいたのですが、彼女も浴衣をエキゾチックなガウンとしてなかなか上手に着こなしていましたっけ。 で、奥さんの方はそれでいいとして、問題はロブ君の方。ま、今のところ考えているのは、冗談半分ですが、「甚平」なんですけどね。あんなもんカッコ悪いと私は思いますが、外国人には受けるのではないかと・・・。 それにしても私は前から疑問なんですが、よく「父の日」のプレゼントなんかで売り出される夏用の甚平、あれは昔からあるもんなんでしょうか? それとも昭和の発明品でしょうか? 私が初めて甚平なるものを見たのは、中学生くらいの頃、父が着ているのを見たのが最初です。父がどういう経緯であれを着始めたのかは不明ですが、多分、誰かから贈られたのだと思います。で、それ以来、夏になると父は甚平を着ていますから、それなりに快適なものなんでしょう。 実際、あれは浴衣以上に簡易な着物として、なかなかよく出来ていると私も思います。和服の風合いと洋服の簡便さをうまく採り入れている点で、狙いとしてはなかなか優れているのではないかと、一応、評価はしているんです。日本的な折衷物として、ね。 ただ、いささか「おっさん臭い」んですよね。ですから私自身としては、死んでもあれを着る気にはなりません。しかし、社会的背景がまったく異なる外国人があれを着るとなると、それはそれでまた若干意味合いが違ってくるので、ちょっと面白いかもと思っているのですが、どんなもんでしょうか? 特にロブ君は、団扇と冷たい緑茶を好む親日派ですから、案外甚平も面白がって着てくれるんじゃないかしらん。 ちなみに、ロブ君自身として何を日本土産にするつもりかと尋ねたところ、言下に「清涼スーツ」と言っていました。日本の夏は蒸し暑いので、繊維・紡績メーカーや服飾メーカー各社が工夫を凝らし、軽くて涼しい一枚仕立てのスーツを作っていますが、ああいうものは他国にはあまりないらしく、ぜひ一着買って帰りたいとのこと。はぁ~、なるほど・・・。 ま、人への贈り物を選ぶというのは、そもそも難しいですし、気の張るもんですよね。というわけで、これからまだしばらくは、日本を去る外国人の友人への餞別に何をあげるべきか、思い悩むことになりそうです。このブログをお読みの方で、「浴衣&甚平セット」以上に良いアイディアがありましたら、ご教示のほど、お願いいたします。
July 4, 2006
コメント(4)
ひゃー、またまた爆発しちゃいましたよ。今日は「静かな爆発」の方でしたが・・・。 時はお昼休み明けの3限、2年生対象の「アメリカ文化史」の授業でのこと。私、専門の授業には力を入れるので、今日のこの授業にしても、それなりに準備万端整え、資料も用意し、90分間、面白くもタメになる話をしようと思っていたのに・・・。 私がマイク片手に先週の授業のおさらいを軽くし始めたにもかかわらず、あちらこちらでかなりのボリュームの私語が・・・。大教室での講義、しかもこのくそ暑さ、そして昼食後の気のゆるみ、と、悪条件が重なっているとはいえ、それはないんじゃないの・・・。 軽いショックに、ワタクシ、しばらく沈黙。しかし、話の途中で突然口を閉ざした私の異常な行動にも気づかず、楽しげなおしゃべりと笑い声が・・・。 この場合、私には選択肢が二つあって、「大爆発」の方を選ぶと、「てめえら、うるせえんだよ!」と絶叫することになります。これをやると学生たちは一瞬、1インチほど椅子から飛び上がります。で、もう一つの「静かな爆発」の方だと、「みんな、今日は僕の話、聞きたくないみたいだね」と言って、そのままクールに授業放棄して教室を出、研究室に戻ってしまうというやり方で、これまた学生は凍りつきます。 で、今日はあまりの暑さに絶叫するのも面倒臭くなり、「静かな爆発」の方を選びましたー。授業放棄ですー。もう、わしゃ帰る! って感じで、研究室に戻っちゃいましたよ。 トホホ・・・。せっかく、いい授業しようと思って準備してたのに・・・。 で、私が研究室でさっさと他の仕事していたら、しばらくして学生の代表が数名やってきて、静かにしますからどうか授業をやっておくんなさいと詫びを入れてきました。しかし、そうですか、じゃあ、なんて教室に舞い戻る気もしなかったので、一昨日来やがれ!と追い返しておきました。 だって、ここは「大学」ですよ。いかに名古屋だからって言ったって『中学生日記』の撮影やってるんじゃないんだ。中学生のガキみたいに、「緊急クラス会議」で話し合いして、反省して、代表立てて職員室に謝りに来るんじゃない! 大人になってくれよ、いい加減に。 あー、しかし、情けないなあ。他の「つまらなくてタメになる」話をする教授連の授業でならともかく、この大学で一番講義がうまいと自負するワタクシの講義で私語をするとは・・・。大学、辞めたい・・・と思うのは、こういう瞬間ですわ。もう、だーれも知らない町に行って、耳も聞こえず、口もきけない振りをして後半生を静かに過ごしたい・・・(by サリンジャー)。 だけど、学生ってのは、馬鹿ですな、ホント。大金払って大学入って、それで授業聞かないで勉強しないってんだから。金は払うが、サービスは受けたがらない。まったく、資本主義の原則に反した存在だ。 きっとアレですな。最初にまとめて授業料振り込ませたりするから、こういうことになるんじゃないですか? 電車とかバスの定期券みたいなもんで、最初にお金を払ってしまうと、あとはまるでタダでサービスを受けているような気になるんじゃないですかね。 だったら大学も、授業料前払いなんて止めて、授業毎に毎回、授業料をちょっとずつ支払わせたらどうですかね。 大学のあちこちに「授業切符売り場」を設け、毎回現金で授業切符を学生に買わせるわけ。で、教授は授業前に教室の入り口に陣取って、その切符にハサミを入れるんです。で、そのハサミの入った切符を15枚集めると、漏れなく試験を受けられるというふうにする。もちろん、何らかの事情で授業を休む時も、ちゃんとお金を払って「欠席切符」を買わないとならないようにするわけ。 直前に自腹を切ってお金を払えば、いかに馬鹿な学生でも、払ったお金の分はちゃんと授業を聞こうという気になるんじゃないでしょうか。また、わざわざお金を払って欠席するのもツライので、サボりも激減するような気がします。 あ! それで、成績上位者には、どの授業でも使える「タダ券」を進呈するなんてのはどうでしょう。効率のいい奨学金システムになるじゃないですか。 おお! なんたる名案! やっぱ、ワタクシって天才じゃない? こんなスグレモノのアイディアをバシバシ思いついちゃうんだから、次の学長選挙、打って出ようかな・・・。選挙権を持つ事務サイドからも、「釈迦楽先生、そろそろどうですか?」なんて声も出ているようだし・・・。 なーんて。ま、それは案外信憑性のある冗談としまして、とにかく学生にはいい加減に大人になってもらいたいものだと思っているワタクシなのでした。今日も、わけ分からん!
June 29, 2006
コメント(4)
今朝、新聞やニュースで見ましたが、有名外科医のお嬢さんが誘拐される事件があり、それが警察の尽力によって13時間後に無事救出されたようですね。ま、何はともあれ、被害者が無事だったのはよかった、よかった。陰惨な殺人事件が多発しているだけに、ホッとしますね。 しかし、お昼頃のニュースで、被害者母娘の記者会見を見ましたけど、何だか「トホホ」な内容でしたなー・・・。 大体、この種のインタヴューって、とりあえず「今のお気持ちをお聞かせ下さい」と問うのが常道みたいですが、相手は誘拐の被害者ですよ。しかも、さっき解放されたばかりの。そんな人に対して「今のお気持ち」なんて聞いてどうするんだって。「ホッとしています」以外、答えようがないじゃないですか。そんな当たり前のこと聞いてどうするんですか・・・。 でまた、どこの取材チームか知りませんが、「このような被害にあわれたことについて、何かお心当たりはありますか?」なんて聞いている。二重の意味でアホですよね。まず第一に、この質問は被害者ではなく、犯人に向かって聞くべきものでしょう? 「お前ら、何でこの一家を狙ったんだ!」って・・・。 それに、そもそもこの外科医は、いわばマスコミの寵児なんでしょ? 資料映像でも、フェラーリに乗って微笑んでいる当の女医さんの映像なんかが映っていましたし、誘拐現場の間近にある被害者の高級住宅も映像に映っていましたから。だったら、そういう「セレブ外科医」だからこそ、犯人グループが「こいつら金持っていそうだな」と思ったに決まっているじゃないですか! 一体何を言うに事欠いて、そういうアホな質問が出来るのか・・・。さすがに当の女医さんも「心当たりはありません」と答えていましたが、「私がセレブだからだと思いまーす」だなんて、本当のことを答えられるわけないですよ。 インタヴューするのもいいけど、もっと頭のいいこと聞いてくれって。 でまた、新聞報道もまた、「トホホ」なんですよね・・・。 13時間という短い時間で被害者の無事救出を果たしたのは、警察の久々のお手柄ですが、その決め手になったことの一つが、犯人グループが被害者の娘さんの携帯電話を使用して、母親との接触手段にしたことらしく、そのことが新聞に得々と書かれているわけ。携帯電話の使用者が特定出来る場合、微弱電波でも場所の特定が可能だ、というんですね。 でも、それってつまり、将来の誘拐犯に手口の洗練をほどこしているようなもんじゃないですか! 「ああ、なるほど、人を誘拐するときは、被害者の携帯電話使ったらまずいんだな」って教えているわけでしょ? あるいは、ワタクシだったら「それを逆に利用して、捜査の攪乱もできそうだ」なんて思いますし。・・・あ、別に私は誘拐を計画しているわけではないですが・・・。 この種の報道がある度に私は主張しているわけですが、マスコミ諸君、たとえ取材で警察から情報を引き出せたとしても、警察の捜査の方法や捜査の進捗状況について、得意気に逐一報告しなさんなって! 昔から言うでしょ、「子供と馬鹿だけが、本当のことを言う」って。お馬鹿じゃないんだから、何でもかんでも報道すりゃいいってもんでもないでしょう。ジーコ・ジャパンじゃあるまいし、味方の手の内を晒してどうすんだよ。自分たちのやっていることについて、もっとよく考えなさい。 あるいは警察と協力して、もっと賢い報道をしなさい。例えば、「犯人側が被害者の携帯を使って接触してきたため、捜査が難航した」というニセの報道を流す、とかね。 ま、それはとにかく、なーんかやけに質の低い日本のマスコミ報道には、毎度毎度トホホな思いをさせられるワタクシなのでした。
June 27, 2006
コメント(2)
あー、負けてしまった・・・。残念、サムライ・ジャパン・・・。 棚ぼたの1点、川口の連続ファインセーブや宮本&中澤の好プレーで、何となくいい感じだったのに・・・。 同点に追いつかれてから、緊張の糸が切れたのがアリアリと見えましたね。それにしても後半の後半になってからバタバタと3点入れられたのは、悲し過ぎる・・・。 でもなぁ・・・。リードしていた時、追加点のチャンスが何度かあったのに・・・。何でシュートすべきところでパスするんだろう・・・。何はともあれゴールに向かってシュートして、さらにこぼれ球を狙えばいいのに。 それから、何でジーコ監督は、敗色濃厚、しかも残り時間わずかという時にならないと大黒を出さないのかなあ! あんな時間帯から投入されて、何かしろと言われたって、そりゃ無理ですよ。素人目で見ても今日の柳沢の出来はあんまり良くなかったのだから、もっと早く彼を大黒と交代させればいいのに・・・。 ま、言いたいことは沢山ありますが、負けちゃったものは仕方ないですね、今さら。でも途中まで勝っていただけに、ガッカリだなあ。 しかし、ま、とにかく90分、ハラハラ、ドキドキ、応援を楽しませてもらいました。まだ次がありますからね。ブラジル戦で勝てばいいんです。選手の皆さんには、初戦の敗戦に気を落とすことなく、元気を出して、次、頑張ってもらいましょう!
June 12, 2006
コメント(0)
今日の新聞の賑やかなこと! 豪憲君事件の被疑者・畠山某逮捕、村上ファンド代表・村上世彰氏の逮捕、そして盗作疑惑の和田氏の芸術選奨返上(剥奪)、等々・・・。 ま、それぞれの事件に関連はないですけど、しかし、少なくとも最初の2つの逮捕劇に関しては、色々思うことがあります。 つまりこの2つに関して興味深いのは、これらの事件の成り行きについて、随分前から予想出来た、ということです。だって、インターネット上のニュースを見たり、新聞に掲載された雑誌広告をちらっとでも見れば、いやでもそういう情報が目に入ってきてしまいますから・・・。実際に逮捕が現実となり、それが公式に報道されるよりもずっと前から、上に示したような情報ソースを通じて、そうなることが一般人たる我々にも分かっていたということ・・・こういうのは、まあ、情報化社会の当然の帰結なのかも知れませんが、それにしても・・・何だかちょっと妙な感じはしますね。 たとえば、同じく今日の新聞に載っていた雑誌広告を見ても、「天皇は知らないが、すでに担当医は確認済み 紀子妃第3子は男の子」などと書いてある。これが本当のことなのか、デマなのか、私には興味がありません。しかし「天皇は知らない(が、我々は知っている)」ということ自体、おかしいじゃないですか。 このところ「個人情報保護法」とやらのおかげで、社会生活の上で様々な不都合が生じています。が、その一方で、「どうやらあの事件は誰々が犯人らしい」「あの人は明日逮捕されるらしい」「誰々さんのところの次のお子さんは男の子らしい」などという、それこそ大層な個人情報が、ノーチェックで垂れ流されていることについて、誰も何も言わないのでしょうか? 私は、どうもその辺、世の中、おかしいんじゃないかと思います。そんなこと、事前に一般公開すべきじゃないですよ。他の場合はいざ知らず、少なくとも今回の秋田の事件や村上氏逮捕の件、あるいは紀子妃第3氏の性別についての情報は、単にゴシップ的な価値しかないと思う。それをわざわざリークするのは、マスコミのあり方として下品だと思いますね。 とまあ、私はそう思うのですが、さてさて、読者諸賢のご意見や如何に。 ・・・え? 何ですって? そんな下司な報道、読まなきゃいい、ですって? そ、そうか・・・。・・・ですよね~!
June 5, 2006
コメント(3)
今日、夕食をとりながらNHKのニュース解説番組を見ていたんですが、今日のお題は「デフレ後の日本経済」でした。 で、番組の冒頭、紳士服の販売が上向きで、数年前に流行った「中国製1万8千円スーツ」は影を潜める一方、6万円代の紳士服が相当な売れ行きを示していることが伝えられ、日本経済がデフレを脱却しつつあることが指摘されていました。しかしその一方、スーパーマーケットなどの日用品市場では相変わらず価格破壊が維持されており、業種によっては必ずしもデフレ脱却が進んでいないのだそうです。 で、まあそんなことから、「解説者」として登場した某大学の学者先生が、「日本経済は今や(デフレ脱却組と非・脱却組に)2極化している」と大仰に指摘され、そこから彼は現在の日本の消費者動向を解説し始めたんですね。つまり、今でも日本人全般の消費動向は基本的に低調ではあるのだけれど、しかしこれだけ長く消費の手控えが続くと、たまには少し贅沢をしたい、自分へのご褒美として好きなものにはお金をかけたいという欲も出てきて、そうした消費者の心理状況が、売り上げ好調な業種(たとえば高級シャンプー市場など)を生み出している、というわけです。 だからこそ、今は低調な業種であっても、そういう消費者の心理を読んで工夫すれば、突破口が見つかって、ヒット商品を作り出すことはできるはずだし、またそういう優れた商品を「日本製ブランド商品」として売り出せば、圧倒的な安値で勝負してくる中国製品などに対しても、競争力を持つことができる、と、その解説者某氏は結論づけるわけ。いや、必ずしもその解説者が、ということではなく、番組全体として、そういう結論に「話のオチ」というか、「落しどころ」を見つけようとしたんですな。 まあね・・・。もちろん、以上のような現象は確かに現在の日本で生じていることなんでしょう。しかし・・・こんなことは、敢えて「解説」するに値することですかね? 「2極化」なんて流行の言葉を使われると、何だか納得させられちゃうんですが、そんなの、いつの時代だってそうじゃないですか。歴史上、どんな時代だって、基本的には「高いものが買える人」と、「安くてもそれで用が足りるなら十分だと思う人」の2種類しかいないと思うんですよ。もちろん、一人の人間が、この両方のタイプを兼ね備えることはあるでしょうが。逆に言うと、「さほど高くもなく、さほど安くもない商品だけに、妙に心惹かれる」という人は、そんなにいないと思うんです。 それに「貧乏してても、たまには贅沢したい」という人間心理にしても、そんなの普遍的な心理じゃないですか。また「不況の中でも、工夫次第で売れる商品が作れる」ということにしたって、今に限ったことじゃない。そんなの「当たり前」のことですよ。そうでしょ? じゃ、この番組は、あの解説者は、何を「解説」したんですか・・・。 素人向けの経済番組を見ていると、私は大体いつも、上のような印象を持ちます。つまり、情報部分(値段の高いスーツが売れ始めた、とか、高級シャンプーが売れている、といったもの)に関しては「へぇー」と思いますが、それを「解説者」が「解説」し始めると、「そんなの、改めて解説されなくたって分かってるよ」という感じをいつも受けてしまうわけ。 で、その都度嘆かわしく思うのは、「解説者」なるものの全般的なレベルの低さですわ。この程度のことだったら、何もどこぞの「経済学者」でなくとも、「文学者」の私だって言えます。どうせテレビに出して「解説」させるなら、もう少し素人を驚かせるようなことが言える奴を連れて来いって。 もっとも、民放某局の○村太○氏みたいに、何の学者でもないのにあらゆるニュースを解説して見せ、しかもその解説とやらが「そんなこと言っちゃっていいの?!」という意味で、世間の耳目を驚かせる人にも、困ったものですが・・・。 ちなみに、ワタクシ・釈迦楽は、○村氏とは違う意味で、素人は驚き、玄人は白目を剥くような、そんな日本経済回復のための驚天動地の必殺アイディアを沢山持ってますから、テレビ局の方、ご一報を! (なーんだ、やっぱり、それが言いたいんじゃん!)
May 29, 2006
コメント(2)
私は、時々、ふと妙なアイディアが思い浮かび、それについてあれこれ考え出すと、それがどんどん増殖・増幅・錯綜して、果てしがなくなる時があります。でまた、それが何か高尚で素晴らしいアイディアならまだしも、たいていはアホな考えなので、ショーモナイのですが。 で、つい今し方も、「鏡」をテーマに、またまたバカなことを考えていたという・・・。 たとえば小さな電球を灯したとしましょう。そして、その前に「鏡1」を置いたとします。当然鏡には電球が映っていますよね。で、その「鏡1」を少し傾けて、それを「鏡2」に反射させます。そして、「鏡2」に映った電球の像を「鏡3」に反射させる。そして今度はそれを「鏡4」に反射させ、それをまた「鏡5」に反射させる。 で、そうやって鏡の数を増やし、角度を変えながらどんどん反射させていって、最終的にそれをもとの「鏡1」に反射させるわけですよ。すると・・・ ・・・どうなるんですか? 「鏡1」に映る電球の数は2つになるの? いやいや、仮に2つになったとすると、その電球の像が「鏡2」から次々と反射していって、また「鏡1」に戻るわけだから、4つになるのかな? いや、それがまた巡り巡って8つ? いや16? 32? ・・・・ じゃ、キリがないじゃん。あんまり電球の像が沢山映り過ぎて、すごいビームになっちゃってたりして。 「音」の分野でも「ハウリング」って現象がありますよね。マイクで音を拾い、その音を拡大してスピーカーから流す。で、その際、スピーカーから出た音を同じマイクで拾ってしまうと、一度拡大した音をさらにスピーカーが拡大してしまい、さらにそれをマイクで拾ってしまって、ということを繰り返しているうちに、やがて耳をつんざく音が発生してしまうという奴。 それと同じことが、「鏡」でも起こるのかしらん??? でも、そんなはずないですよね。もしそうなら、やりようによっては、豆電球一つで家中を光の洪水にすることが出来ることになっちゃいますもん。そんなこと、出来るはずが・・・ ・・・あるかな・・・。 あー、もう! わけが分からん! そんなこと分かったって仕方がないのにぃ! でも、気になるなぁ・・・。誰か、頭のいい方、「それは理論的に可能です」とか、「不可能です」とか、教えて下さーい!
May 26, 2006
コメント(4)
五月だというのに毎日毎日雨なんか降っちゃって・・・。ただでさえ、この時期、何を着ればいいのか分からんっちゅーのに、このところの雨模様で、半袖を着るべきか長袖を着るべきかも分からないという・・・。まったく、寒いんだか暑いんだかはっきりしてくれい! ちなみに私の外国人の同僚たちは、既にこぞってクールビズに突入です。あいつら、日本人に比べて体温がよほど高いので、寒さには滅法強い割に、気温が20度を越えようものなら暑い暑いと大騒ぎ。彼らにとって日本の五月は完全に真夏なんですな。何を着ればいいかなんて悩む必要がなくて、羨ましいもんですわ。 もっとも、仕事の時はまだいいんですよ。私の場合、とりあえずスーツ、あるいはそれに準じたスタイルですから。問題なのは家にいる時。今頃の季節って、半袖のポロシャツだとまだちょっと寒いし、かといって何かを羽織るというほどは寒くはない、という感じでしょ? となると、たとえばTシャツを着て、上に長袖のシャツを羽織る、なんてのが標準的な普段着ということになる。 で、その長袖のシャツなんですが、あれ、どうやって着ればいいんですか・・・。 いや、もちろん分かってますよ。裾をズボンの外に出して、ビラビラ着ればいいんでしょうが。 しかし、どうも私には、あの着方がねぇ・・・、だらしないように思えて仕方がないんですなぁ。なんか、パジャマのまま外に出ちゃいました、みたいで、「隙だらけ」という感じなんですよね・・・。 その一方、もちろん、今どき「シャツ、イン!」はないだろう、ということも分かっている。そこに葛藤が生じるんだなー。 でまた、もう一つ問題なのは、私の体型です。実は私、日本人離れして胴が短いので(あれ? どさくさに紛れて自慢してます?)、シャツを外に出す着方をすると、シャツの裾がお尻を隠すどころか、もっと下まで行っちゃって、それはそれで格好悪いんですよね。まったく、足長お兄さんの私は、長袖シャツをどう着こなせばいいんですか・・・。 聞くところによると、名古屋近郊の「一宮市」というところでは、市の職員が毎週金曜日に普段着で執務する制度を取りやめたのですが、その原因は、職員の多くがシャツをズボンの外に出して着ていてるのを「市の職員にあるまじき格好である」と見咎める市民が多かったからだそうですね。やはり、私の世代より上の人にとっては、あの「シャツの裾ビラビラ」は許し難かったんでしょうな。 でも、クレームをつけた年長の市民の方々の気持ち、分かるなあ。やっぱり、あれはだらしないですよ。 40代前半という私の微妙な年齢は、若い世代のファッション・センスと、年上の世代の衣裳哲学のちょうど境目にあるので、長袖シャツの着方には、ほんと、悩まされます。 もうこの際、どんどん暑くなって、長袖シャツなんてお呼びでない、という季節に早くなってもらいたい! 長袖シャツ、嫌いだー!!
May 23, 2006
コメント(2)
このところ毎日のようにニュースに顔を出す拉致被害者・横田めぐみさんのご両親。先日はアメリカ大統領に会い、今度は韓国へいらっしゃるのだそうですね。ま、お嬢さんがとんでもないことに巻き込まれて、大変なことでございます。 しかし、この事件もよく分からんですなあ・・・。 拉致された時に大騒ぎ、というのなら分かるのですが、これが大ごととして騒がれるようになったのはようやく数年前の小泉首相訪朝の時からですよね。で、それ以来、一応、継続的に騒がれてはいるのですが、一向に進展はしていないと・・・。 しかも、何だか余計可哀相だなと思うことに、毎日のようにニュースに取り上げられる割には、国民の関心が薄いような気がするんですよね、何となく。要するに、他人事なんでしょうな。重大な事件ではあるけれど、とりあえず自分には関心ないな、というしれ~っとした雰囲気の中で、横田さんご夫妻が毎日のようにテレビに登場して、一生懸命「娘を返してくれ」と懇願しているのが、何だかとっても哀れ・・・。 そんな状況だけに、彼らがアメリカ大統領のところに行っちゃう、という気持ちも分かるな。多分、彼らの話をマジで聞いて、善処しようと努力するのは、世界の中でアメリカ大統領だけでしょうからね。 この件に関し、我が国の官房長官は「日本政府を介さず、直接大統領に会われた方が、効果があったと思います」なんて言ってたようですけど、それもすごい発言ですな。我々は関知しないから、よその国の元首に頼んだら? と言っているようなもんじゃないですか。 ま、そういう政府の対応を見ても、結局、当事者たる二国間で解決しない問題について、解決の手助けをしようとしてくれるのは、世界広しといえどもアメリカだけだ、ということを横田さんご夫妻はしかと感じたでしょうね。自分の国も何にもやってくれないし、国連もほったらかし。頼りになるのはアメリカだけだと。 これが現実なんですよ。世界の中でアメリカだけが「警察国家」なのであって、被害にあったら警察に届けるのが一番、というわけです。 ところで、私は若い世代の人たちと接することが多いのでよく知っているのですが、彼らにアメリカの印象を尋ねると、「自分だけが正しいと思っているのが嫌い」というのが圧倒的多数なんです。「アメリカの正義」を世界に通用させようとするのが嫌だと。10人の学生に聞くと10人がそう答えます。多分、日本人の大多数も、そう思っているんじゃないでしょうか。 で、私はそういう同胞に尋ねたいんです。あなたたちは横田さんご夫妻の訪米&大統領との会見をどう見るのか、と。 日本のアホなマスコミは、米軍の基地の移動のために日本が金を出すのはおかしい、というところばかりに目をつけますが、異国の一家の災難のために立ち上がるのは世界の中でアメリカだけだ、ということをなぜ取り上げないのか。 いや、それだけじゃないですよ。例えば日本のタンカーが原油を積んで中東から帰ってくる時、そのタンカーを海賊の手から守っているのは誰なのか。米国第7艦隊じゃないですか。そもそも日本の日常生活は、アメリカによって守られているんです。戦争が起こるときだけじゃない。それを「正義の押し売り」だと、果たして誰が言えるのか。 アメリカを批判するのは簡単なんですよ。だけど、批判するなら、ちゃんと見るべきところを見てからやってくれ、と私は言いたい。 閑話休題。 さて、私は今日、東京の実家に戻ってきました。連休の谷間ということもあって、大した渋滞もなく、スムーズに帰ってくることができました。 ところで東名を3時間も走っていると、色々な車を見かけるわけですが、ま、車好きの私から見て、「お! こいつはカッコイイ車だな」というのを見かけることは、そうあるわけではありません。1台あるかないか、というところです。 で、今日、「お!」と思ったのはBMWの大型クーペ、6シリーズが走っているのを見かけた時。クリス・バングルによってめちゃくちゃにされてしまったBMWのデザインですが、新型の6シリーズは、それでもまともな部類ですな。あまり見かけることがない車なので、ちょっと見とれてしまいましたよ。 しかし、こういう伊達な車に限って、乗っている奴のレベルが低いというのか、今日見かけた6シリーズも、例によってリア・フォグランプを点けて走ってましたよ。この種の高級外車に乗ってる奴って、なんでこれ見よがしにリア・フォグ点けるんだろう? これも分からんなあ。 でも、こういう無法者の車に揉まれながら、とにかく無事に実家に着いたから良かった、良かった。 さて明日は、恒例となりました「中年男たちのバーベQパーティー」の模様をお伝えできると思います。それでは、お休みなさーい!
May 2, 2006
コメント(1)
私が毎日大学まで通う通勤路の途中に、一部小高い丘のようなところがありまして、以前はそこにちょっとした林があり、なかなか爽やかないい眺めだったんです。ところが、その林が昨年の秋頃、無惨に刈り取られてしまった。で、おやおや、また無粋なマンションでも建つのかしらと思っていたら、それよりももっと無粋なものが建ってしまったんです。巨大なパチンコ屋さんです。 で、これがまたでっかい、でっかい。パチンコ屋さんそのものも大きいけれど、駐車場がものすごい。いくら何でもこんな広大な駐車場が必要なの? と思えるほど広大で、丘の上にあることもあって、パッと見たところ、文字通り、地平線まで駐車場という感じ。 ところが、最近そのパチンコ屋さんがオープンしたところ、その地平線まで続く駐車場が見事に満杯になるんですな。いや、それどころか、どうもそれだけでは足りなかったらしく、急遽隣接地まで買収して、臨時駐車場を作っている様子。満杯の駐車場に入ろうとする車の列を捌くため、何人もの警備員が汗だくになっています。といってこれは土曜日・日曜日のことではなく、平日の午後5時とか6時の話ですよ。 名古屋ってのはパチンコ発祥の地だと聞きますが、それにしても一体何なんでしょう、この騒ぎは・・・。平日の5時、6時といった時間帯に、駐車場の空き待ちまでしてまでパチンコに興じたいというこの群衆は、一体どういう人たちなのか・・・。 いや、もちろんパチンコをするのが一概に悪いというわけではありません。私の親友にも好きなのがいますからね。彼曰く、パチンコというのは、それをやっている間はなーんにも考えなくていいので、仕事のストレスを発散させるのには最適だ、と言うんですな。ま、そう言われれば、パチンコも立派に世のため人のためになっているのかな、とも思います。 しかし・・・仕事のストレスを発散するためなんだか、何のためなんだか、とにかくなーんにも考えず、無表情にもくもくとパチンコをしている群衆という図というのは、想像するだにシュールな感じがしませんかね。 映画『マトリックス』では、この世界は実は単なる夢に過ぎず、実際には人間は使い捨ての電池のように、生命エネルギーの供給源として機械につながれ、消費されている未来社会が描かれていますが、パチンコだのスロットだのといった「機械」につながれ、我を忘れて呆然とお金と時間を費やしている群衆というのは、ある意味、『マトリックス』が描く未来世界そのもののようではありませぬか。 でも、こういうところに来るのが好きな人たちに向かって「パチンコ以外で、もっとマシな時間の過ごし方、ないの?」と尋ねたとしても、ないんでしょうね。何も思いつかないんだろうな。 結局、生活のために仕事をする、あるいは稼いだお金を消費する、ということ以外で、何をすればいいか、ということを教わる場がないということなんでしょう。となれば、自分でそれを見つけられない人は、パチンコでもする以外ないのも致し方ないのかも知れません。もちろん、日曜日に家族でショッピングセンターに出かけてしまう人たちも、無為に時間を潰しているという点では、パチンコ組と同じです。 アメリカに住む私のイラン人の友人夫妻は、異国にあってイランの伝統文化を忘れないよう、イラン独特の楽器の演奏法を習い、時に演奏会に参加して楽しんでいます。またアメリカ人の友人の女性は、80歳になってもまだボランティアとして病院で看護婦の仕事をなさっていました。その他にも、何か意義のあることをして自ら楽しみ、また他人の役に立ちたいと考え、行動している外国人の友人を沢山持っている私としては、上に述べてきたような、日本人一般の余暇の過ごし方に関して、とても大きな疑問を抱かざるを得ない・・・。私は日本という国を愛することにかけては人後に落ちないつもりなんですけれど、こういう面での彼我の違いを見せつけられてしまうと、トホホな気分になってしまいます。 かくして、今日も大学からの帰り道、パチンコ渋滞を横目で見ながら、「マトリックス」ならぬ「パチスロリックス」につながれた人々の無味乾燥な生活ぶりを思いつつ、ついつい余計な思いを馳せてしまったワタクシなのでした。それが余計なお世話だ、ということは重々承知しているんですけどね。
April 26, 2006
コメント(8)
先週から風邪をひいて、体調の悪いワタクシ。とりあえず吐き気だけは止まりましたが、止まらないのが横隔膜を震わす激しい咳。これが出始めると、眠れないんだ・・・。ということで、今日は大事をとって病院に行くことにしました。 行ったのは家から歩いて3分のところにある小さな医院。ま、たかが風邪ですから、近い方がいいかなと。初めて行くところなので、とりあえず保険証を持っていけばいいんだよな・・・。 今、結構風邪が流行していると聞いていたので、待たされるかなと思いきや、待合室には先客が一人だけ。よーし、こいつはいいぞ。で、受け付けで「こちらは初めてですか?」と尋ねられたので、元気よく「はい!」と答え、渡された問診票に記入したり熱を計ったりしつつ、周りを見渡すと、なかなかこじんまりとした気持ちのいい待合室です。なーんだ家の近くにこんなステキな医院があったとは。これから風邪をひいたら、面倒臭がらずにここへ来て、早く治すようにしようかな・・・。 なーんてことをぼんやり考えていると、先程の事務の方が同僚の方と何やらひそひそ相談しながら、パソコンの前で往生しています。4月だからまだ新任で、医療事務のことがよく分かってないのかな、なんて思っていると、その方が私の方を見ながら「こちらへ来い」という目配せ。ん? なんでしょうか? ガーン! そ、そんな・・・。何と私はこの医院、初めて来たのではなかったのでした・・・。10年前に一度来ているんですって・・・。私が確信をもって「初診です」なんて言ったものだから、そのつもりで手続きを始めてしまって、後から、前のデータがあることが判明したため、入力をやり直すことになってしまったんですな。ひゃー、申し訳ない! この場で切腹つかまつる! しかし、大丈夫なのか、私。待合室から何から、完全に記憶がないぞ。風邪どころの騒ぎじゃなくて、若年ボケの心配するべきじゃないか? ってなことを考えているうちに、名前を呼ばれました。 で、先生の診察を受けたわけですが、結局まごう方なき風邪ですから、私の方で自主的に「ま、寝てれば治ると思いますが、ちょっと咳が苦しいので、咳のお薬出しておいて下さいねー」と診断と処方をしちゃいました。すると、ま、基本的にはそれでいいと先生も思われたようですが、そこまで患者任せでは立場がないと思われたのか、「少しだけ『吸入』しておきましょうかね」とのこと。 吸入? ほう。そう来ましたか。喘息なんかで使う奴ね。 でも実は私、吸入というの、今までやったことないんです。で、準備してくれている看護婦さんに、「それ、難しいんですか?」と尋ねてみると、「1歳のお子さんでも出来ますよー」ですって。 実際にやってみると、なにやら薬液を仕込んだ機械から水蒸気みたいのが出てくる、そいつをただ口を開けて吸い込めばいいんですね。簡単、簡単。・・・と言いながら、私、貧乏性なのか、わーっと出てくる水蒸気をすべて吸ってやろうと必死にスーハースーハーしてたおかげで、過呼吸になってしまい、クラッと来てしまったという・・・。見てた看護婦さんに、「そんなに一生懸命吸わなくてもいいんですよ」と笑われてしまいました。 とにかく、そんな感じで無事吸入も済ませた私は、会計で支払いも済ませ、近所の薬局で薬をもらって帰ることに。 しかし、咳が苦しい苦しいと強く訴えたせいで、何だかやたらにくれましたよ、お薬。なになに、咳を止め、痰を切るための粉剤、抗生物質の錠剤、それに胃を荒らさないための胃薬ですと。それに、おお、これは! 咳止めのための甘いシロップ剤じゃないですか。ひゃー、こんなシロップ剤飲むの、子供の時以来だ。それから、ん? これは何? え、貼る薬? ほー、最近ではシールみたいなのを上半身にペタっと貼って咳を止める薬があるんですね! 心臓病の人がこういうシールを貼っているのを見たことがあるけど、それの咳止め版もあるんだなー。 それにしても、たかが風邪ごときでこれだけの大量投薬ですか・・・。これじゃまるで薬漬けだ。まったく、日本の医療というのは・・・最高っす!! だって私、お薬、好きなんですもーん!! というわけで、これらの薬をあれこれ賞味しつつ、今日・明日と大事をとって、明後日の学会参加に備えることにします。特に、久々に飲む甘いシロップ剤は楽しみだな。食後のデザート・ワインの代わりにしようっと。それでは、皆様も風邪に気をつけて、よい週末をお過ごし下さいねー。
April 21, 2006
コメント(8)
新学年が始まる4月には、色々と椿事が起こるものでございまして。昨日も、ある意味、凄い話を聞いてしまいましたよ。 同僚の先生から聞いた話なんですが、その先生の担当されている、ある必修科目でのこと。 この科目、必修なもので、その学年の学生すべてが履修しなくてはならないんです。ですから、同じ授業科目を複数の先生が担当し、学生は学籍番号に従って、それぞれのクラスに振り分けられるわけ。 ところが、同一科目を複数教員で担当する場合、どうしても「厳しい先生」と「甘い先生」が出てきてしまいます。で、どの先生が厳しいか、甘いか、なんて情報は、学生の間にすぐ知れ渡るものなんですね。 そこで、学籍番号で厳しい先生のクラスに振り分けられた学生が、こっそりそのクラスを抜け出し、別な甘い先生のクラスに潜り込んで履修しようとする、なんてことも生じてくるわけ。いわゆる「脱藩」ですね。江戸時代なら磔獄門でございます。 で、私の同僚の先生は、自分の担当クラスに、よそのクラスから忍び込んで来た脱藩者が数名いるのを見つけたんですな。 しかも、この脱藩者たちがまた図々しくて、第一回目の授業の時にその先生が「このクラスは学籍番号○○番から××番までの人がいるはずですけど、その他の番号の人が間違って入ってませんよね?」と確認したのに、その時は黙っていたらしいんです。で、そのことを指摘しつつ、「ダメじゃないか、本来のクラスに戻りなさい」と叱っても、「もう教科書も買っちゃいましたから・・・」などと粘るのだとか。そのこと自体、呆れます。 ところが、そういうことがあった翌日、また新たな脱藩者が先生のもとを訪れ、「昨日休んじゃいましたけど、先生の授業を履修してもいいですよね。教務課にはもう履修カードを提出しましたけど」などと言ってきたのだそうで・・・。只でさえズルいことをやろうとしているのに、その態度があまりにもぬけしゃーしゃーとしていたので、さすがに頭にきたその先生、「君、何を考えているんだね! そんなの受け容れるはずないだろう!」と、少しばかり語調も厳しく叱責したのだそうです。・・・すると、その学生、どうしたと思います? 泣き出したそうです。大粒の涙をポロポロとこぼして。二十歳を越えようという男子学生が、ですよ。 その先生もおっしゃっておられましたけど、永年大学で教えてきて、こういうことは初めてとのこと。 しっかし、それにしても情けないですなぁ・・・。 無論、こういうのばかりが今の日本の若い連中だとは思いたくないですけど、しかし、かつては想像もし得なかったような種類の学生が、現実に存在していることは事実です。 いやー、驚いた。ホント、大丈夫ですかね、この国。このブログの読者のみなみな様、心してかからねば、日本の先行きは不安ですぞ!
April 20, 2006
コメント(9)
うちの学科には外国人の先生が沢山いらっしゃいます。イギリス人、アメリカ人、フランス人、ドイツ人と、バラエティも豊富。見かけはいかにも国際色豊かです。 しかーし! これがいざ、仕事の上で付き合うとなると、外国人の先生方というのは、なかなか扱いが難しいものでございまして・・・。 まずアメリカ人の先生は、仕事の範囲を独自に決め過ぎ! 「どうしてこれを私がやらなければいけないの? そんなのフェアじゃない!」が口癖。そりゃ、誰だって仕事が増えるのは嫌ですけど、何年も大学で仕事してりゃ、時には一時的に他の先生方よりも加重な負担を強いられることだってありますよ。事実、去年は私が仕事を加重に負担していたじゃないですか。他人が加重に仕事を負担している時は何も言わず、いざ自分の番になると途端に「どうして私が・・・!」を言い出すのは、それこそ「フェアじゃない」んじゃないの! フランス人の先生は、人生を楽しみ過ぎ! 今や「フランス語」の授業をとる学生は少なくて、授業負担がすっごく少ないんですから、もっと論文を書いて、雑用も引き受けて下さーい。 しかし、ある意味一番の難物はイギリス人かも。誤解なきように言っておきますが、私は彼とは親しいんです。しかし、何か問題が生じた場合、一番対処し難いのは彼ですなあ。たとえば、大学全体の会議で何かが決まったとする。で、この決定に従って「○○先生、会議でこう決まりましたから、今度からこうして下さいね」と伝えると、「いや、私には私の言い分がある」と言い出すのがこの先生の悪い癖なんですなぁ・・・。私はただ学内全体の取り決めを伝えているだけなんですから、私に向かって改めて議論を始められても困りますって。何度「教授会で決まったことですから」って言っても、「私には納得できない。日本人はなぜこんな取り決めを黙認してしまうんだ」と言い返されてしまう。この先生が言うことを聞いてくれないために、教務委員をやっていた間、何度私は泣かされたことか・・・。彼のおかげで、なぜイギリスに憲法が存在しないか、その理由がよーく分かりましたよ。あの国では、たとえ憲法作っても、「いや、私には私の言い分がある」とか言って、反故にされちゃうんでしょう、きっと・・・。 てなわけで、これらの先生方には、それぞれのお国柄ゆえに、いつもいつも苦労させられるのですが、ただ一人、我々日本人スタッフに苦労をかけない外国人スタッフがいまーす。で、その人の出身地はと言いますと・・・ ドイツでーす。ハイル、ドイッチェラーント! 彼はエライ。会議にはちゃんと出席する。取り決めは守る。授業も責任をもって担当する。自分の仕事も頑張っている。面倒な雑用も嫌な顔せずに引き受ける。とにかく、頼りになる。さすがメルセデス・ベンツやフォルクス・ワーゲンを作った国のご出身です。 やっぱ、ドイツ人と日本人って、几帳面で責任感があるところなど、似ているところがありますね。多分、ドイツ人もそう思っているんじゃないでしょうか。私の知人から聞かされた話ですが、彼がドイツに旅行していた時、酒場でビールを飲んでいたら、地元の人たちから「お前、日本人か?」と問われ、「そうだ」と答えると、「日本はいいよな。今度戦争やる時は、イタリア抜きで組もうぜ!」と言われたとか、言われないとか・・・。 ま、それは悪いジョークとして、人はよく「国際化、国際化」とか言って、国際化することがさも良いことであるかのように言いますけど、国際化してまったく異質な文化からやってきた連中と付き合うのって、ほんと疲れますよ。仕事も停滞するし。国際化を推進しようってのなら、そういうマイナスの部分を承知の上でやってくれって! それから、うちの科のドイツ人以外の外国人の皆さーん! 「郷に入っては郷に従え」という言葉をこれから毎日、最低十回は唱和しなさーい!
April 18, 2006
コメント(4)
先週水曜日に拾ってきた風邪。こいつがなかなか治りません。咳と痰がなかなかとれず・・・。あんまり咳き込むので、今では咳をする度に喉の奥が血なまぐさい有り様。 しかも夜、横になるとどうも心持ちが悪い。うつらうつらしたと思うと、胸が悪くなってきて直に起きてしまいます。胃液が食道まで逆流するのでしょうか。以前にもたまにそういうことがありましたが・・・。 ということで、結局昨晩は一睡も出来ず、朝の4時から起き出してしまいました。そこから予習なんぞを始めたもので、朝の9時頃には大抵の予習が終わってしまいましたよ。早起きは三文の得とはよく言ったものですが、何しろこちら一睡もしていないので、もうフラフラ。 ひゃー、こんな状態が一体いつまで続くのか、まったく心細くなってきます。来週日曜日は、学会のシンポジウムに講師・司会として出なければならず、またその後の懇親会の幹事役もあり、忙しい一日となるのに、こんな体調ではお役が勤まるのか、いささか心もとない。 どうも今日は気分も暗澹として、常の私にもあらず、洒落の一つも言えません。 さてさて、明日は少しはよくなるのでしょうか? それには、まず眠れなければなりませんが、なんかまだ横になると胸が悪くなるようで・・・。 ま、明日はもう少し、「お気楽」な日記になるよう、養生を心がけます。それでは、今日はこの辺でご勘弁、ご勘弁。
April 16, 2006
コメント(6)
ひゃー、ただ今、『アメリカ文化史概説』の今年度一発目の授業をやってきました。風邪のおかげで体調はヘロヘロですが、まあ、何とか無事にごまかしました。これは専門の授業なので、私も気合いを入れていますのでね。この授業題目について、私にはいくつかネタがあるのですが、今年度は久しぶりに公民権運動の問題を取り上げることにしました。要するに、アメリカにおける黒人差別の問題です。「自由」を標榜して生まれた革命国家アメリカに、「自由でない人(=黒人奴隷)」がかつて存在していたということは、アメリカ国家成立の根底に係わる大問題ですので、自然、力も入ります。 一方、一般教養の授業、特に語学の授業なんかですと、私は力が抜け抜けなんですね。だって、1週間に1度の授業を半年やって、その結果学生たちを「英語ペラペラ」にする、なんてこと、出来ないことは分かり切っているんですもん・・・。そりゃ、語学を教えることを専門にしている先生方にとってはいいかも知れませんが、私は語学の教師ではないし、語学を教えるための特別の訓練も受けてません。ただ、たまたま英語を読むことが多いという理由で、この種の授業を問答無用で引き受けさせられているんですから。もちろん、そうは言っても最善は尽くしているつもりですが、そもそも荷が重すぎますって。 ですから4月のこの時期、何がつらいって、新入生の語学の授業を担当することほどつらいことはないです。だって、高校卒業して初めて「大学」の門をくぐった彼らの、その期待に満ちた眼差しを、私はこれから裏切ることになるんだ、ということがはっきりしていますから。新入生というのは、ほんとにナイーブなもので、希望の大学に入りさえすれば、色々なことが魔法のように身に付くと思っているフシがある。ですから、大学の英語の授業についても、「さぞや素晴らしいものなんだろう」と大いに期待しているのが、ひしひしと伝わってくるんですね。輝く瞳に、「期待」という文字が刻印されてます。そしてかく言う私は、この二文字が次第に輝きを失い、いつしか「失望」の二文字に変わるのを見なければならない。これは正直、つらいです。 そう言えば、昨日のことでしたか、「兄貴」ことK先生と私との間にこんな会話がありました:兄貴:この時期、疲れるよね。 私:疲れますね。兄貴:新入生たちの眼が、ね・・・。 私:眼、ですよね。兄貴:あれは、つらいね。 私:つらいっすね。 K先生と私の間で交わされたこの謎のような会話の意味は、私たちと同じような立場にある大学の先生方であるならば、誰でも即座に感得されるはず。「研究」だけやってればいいならいいですが、それとはまた全然方向性の違う種類の労働である「教育」ということもやらなくてはならない大学の先生という職業は、これでなかなかストレスの溜まるもんなんです。 そういうことも含めまして、私は新入生諸君に向かって声を大にして言いたい。「大学に期待するな。自分自身に期待しろ」と。大学というのは、学問を学ぶための単なる「条件」・単なる「場所」であって、そこに来ただけでは何にも起こらないんですぞ。あなた方自身がこの条件・この場所を使って何かをするんだ。もし期待が裏切られたというのなら、裏切ったのは我々ではなく、あなた方自身なんですぞぉ~! はぁ~。ため息。この理屈が分かるくらいなら、そもそもこいつら大学なんかに来やしないよな・・・。 「四月は最も残酷な月」と言ったのは、詩人のT.S.エリオットでしたっけ? 今、私は、この残酷な月のど真ん中に居て、ただひたすら時が淡々と過ぎゆくのを待っているのでした。
April 13, 2006
コメント(6)
「花に嵐のたとえもあるぞ、 さよならだけが人生だ」という名訳を残したのは井伏鱒二でしたっけ? 今日はまさにそんな感じで、猛烈な突風が満開の桜を散らす中、お昼過ぎに姉が仙台に帰って行きました。寂しいですなぁ・・・。 さて、話は変わりますが、今日はある人から、妙な話を聞きました。 その方はしばらく前に、アメリカ文学関係ではそれなりに有名な出版社から自費出版で大部の翻訳書を出されたんです。ま、そこまではよくある話。 しかし、その費用というのが大したものでして、何と750万円だったというのです。750万円といったら大金ですよね。 しかも、そのうちの500万までは出版社に振り込むよう指示があったのですが、残りの250万円は担当編集者個人の銀行口座に振り込むよう言われた、というのです。 うーむ。この時点で既に何だか妙な感じがしてきますでしょ? しかし、これで話は終わらないんです。というのは、そうやって完成した本を、その方はご自分で百何十冊か買われた、というのです。一冊が3万円近い高額な本なので、これを百何十冊か買うとすると、いくら「翻訳者割引」で8掛けだとしても、やっぱり200万円はいくでしょう。 じゃ、この時点でもう1000万円近くを払い込んだことになるじゃないですか。 それに、もし完全な自費出版なら、作った本は基本的にすべて依頼者のものになるわけで、依頼者が完成した本をさらにお金を出して買う、というのが、そもそもおかしくはありませぬか? しかも、もちろんこの本は市場に流通した本なので、無論、依頼者以外にも書店を通じてこの本を買った人はいるはずです。ならば、そうやって売れた分について翻訳者への「印税」が発生するので、何がしかのお金がその方に支払われてしかるべきだと思うのですが、そこのところを尋ねると、「いや、そんなものはもらっていません」とのこと。それどころか、出版にいくらかかったのか、初版何部刷って、何部売れたのか、そういう情報を一切受け取っていないという・・・。 うーむ・・・。ということは、その出版社は、自腹を切らず、他人様のお金で本を出版し、当の出版依頼者にその本を買わせて儲け、さらに市場で売れた分についても、儲けを黙って全部ポケットに入れちまった、ということになるのではないでしょうか? この場合、出版社は自分の資本で本を出版したわけではないので、1冊3万円で売れたら、その3万円はそっくり「純益」じゃないですか。まさに、丸儲けだ。 もちろん、私はそういう個々の出版社の内部事情をそれほど知っているわけではありません。しかし、常識的に考えたら、上の話はちょっとおかしくないですかねえ。少なくとも「明朗会計」じゃないような気がする。 いやー、「自費出版」恐るべし、という感じがしますね。結構有名な出版社なんだけどなー。どうもこの話を聞いてから、その出版社を見る目が変わってしまいましたよ。信用おけないぞ、この出版社。 出版業界はどこも不況だと言いますけど、それをいいことに、というのか、それなりに名のある出版社までがこんな詐欺まがいなことをして、人を疑うことを知らない善良な市民から身ぐるみ剥いでいるのかと思うと、情けなくなりますなー。 ま、他人事と言えばそうですが、お話を伺った方というのは、私にとってはこの上なく大切な方であるだけに、何だか自分が騙されたように、腹が立っているワタクシなのでありました。あー、腹が立つ!
April 3, 2006
コメント(4)
昨日の話の続きでございます。 そうそう、昨日、あっけらかんとした卒業式の後、一応「謝恩会」なるものがあったんです。ま、毎年のことなんですが。で、会場は名古屋の繁華街にある、ある若者向けの飲み屋だとのこと。 おお、そうですか、そいつぁ楽しみです、と快く招待を受けたものの、何となく嫌な予感が・・・。 で、時間通りに会場に到着すると、これがやけに小さい会場なんです。20人のパーティーならともかく、総勢60人のパーティーでは無理がないか? という感じ。幹事さん、大丈夫ですか? 幹事さん、大丈夫ですか? という印象は、謝恩会の開始時間にも言えました。というのは、指定された時間に教員はほぼ全員揃っているものの、肝心の卒業生がまだ全然揃わない状態。この何とも間がもたない状況に教員もぼんやり椅子に座るばかり。 で、教員に遅れて卒業生たちが会場に到着するわけですが、昨今、卒業式の袴姿のまま謝恩会会場に現れる女子学生は一人もいなくなり、皆、何か決まり事ででもあるかのように、黒いドレスに白のショール姿で登場します。しかし、皆、そういうドレスの着こなしに慣れていないので、素人女性がちょっと大胆に肌を露出してしまいました、みたいな感じで妙に下品になってしまうのが何とも悲しいところ。会場はまるでよくはやっているキャバクラみたいな感じになってきます。 結局、会は30分遅れのスタートとなりました。 で、幹事の開会の挨拶、教員代表の簡単な挨拶の後、乾杯があって、食事が始まったわけですが、これがまた大変な事態でして。何せ20人向けの会場に60人入ってますから、室内は立錐の余地がないほど。にもかかわらず、立食用の食べ物が出されるテーブルはたった一つ(!)なので、料理が出た! となった途端に、そこに60人が皿と箸を持って並ぶわけです。これは大変な食べ物争奪戦です。 いや、私もとりあえずこの戦線に加わりましたよ。列に並んで、10分後にまず第一回の品としてピザトーストの破片を一切れ取りました。取ったはいいですけど、自分のグラスを置いたところまで戻るのに、人込みをかき分け、かき分け、5分はかかったという・・・。 そして第2回目。今度はスパゲティです。厨房からスパゲティが出された瞬間にできた列に私も並びましたが、10分後、私が取る番になった時には、もうスパゲティは無くなっていました。絶望です。その後、3回目としてたこ焼きが出されたらしいですが、私はもう列に並ぶのは止めました。ちなみに昨日の謝恩会で出された食事は、以上の3品でした。それでも一切れ、ピザトーストを食べた私は上出来で、15人の先生のうち半分は、何も食べていらっしゃいませんでした。 もちろん、そういう先生方を見かねて、先生たちの分を取って行ってあげようという殊勝な卒業生はいませんでした。自分たちの食べる分を確保するのに精一杯だったからです。 また昨日も言いましたように、今の教育組織の中では、教員側は自分のゼミ生以外の学生をほとんど知らないので、謝恩会の間、話をする学生がいないんです。で、ゼミ生が話しかけにきてくれればいいのですが、そのゼミ生たちも、卒業旅行の思い出などを友達同士で語るのに忙しく、教員のところに来る暇がない。あったとしても、混んだバスの中くらいの混雑度の会場では、どこに自分のゼミの先生がいるのか、分からなかったかも知れません。 で、そんな感じで、食べるものがない、話す相手もない、という手持ち無沙汰にしているうちに1時間が経ちました。すると幹事から「それでは、これで謝恩会を終わりたいと思います」のコールが!! え? 先生方のスピーチなし? お別れの一言、言わせてもらえないの? で、教員はそれぞれのゼミ生の代表から小さな花束を一斉にもらって、会はお開きになってしまったのでした。 ・・・・・・。 こ、これが、「謝恩会」でしたか・・・。 ぷわぷわぷわぷわ・・・(過去回想です) 我が学科の黄金時代、「謝恩会」はこういうものではありませんでした。まず会場が違う。昔は一流ホテルのバンケット・ルームを使ったもんです。で、会場には「○○大学 英米文化学科 謝恩会会場」の大段幕が。そして教官よりも30分早く会場入りしている卒業生たちは、準備万端で教官たちを迎え入れてくれたものでした。卒業生たちの半分はまだ袴姿、残りの半分は振袖姿と清楚なスーツ姿、男子学生はビシッとスーツで決めています。 そして広々とした会場、完璧な黒子を演じるホテルの係員たちの心配りの中で和やかに会はスタートします。ご馳走はたっぷり、飲み物は飲み放題。そしてしばし歓談の後、教官のお祝いのスピーチがあり、そこで4年間の思い出がそれぞれの先生の口から懐かしく回想されます。また今度は逆に卒業生の御礼のスピーチがあって、時には爆笑が起こったり、時にはしんみりとさせられたりしながら、楽しい時間が過ぎていく。時にビンゴゲームなどをやったこともありましたね。そして、会の最後は卒業生から教官へ花束の贈呈。それも持ちきれないほどの大きな大きな花束がゼミ生たちから手渡され、そしてそれにプラスして、記念品の贈呈があります。ゼミ生たちが、それぞれの指導教官の好みなどを考慮して、事前にお金を出しあって買っておいてくれた心尽くしのプレゼントなんです。 そしていよいよ解散と言うときには、皆で集合写真を撮り、またそれぞれ教官と卒業生とが、色々な組み合わせて写真を撮りあうわけ。それでようやくほんとに楽しい謝恩会が終わります。 しかし、そこまでしてもらった教官は、そう簡単に卒業生たちとお別れすることはできません。皆のポケットマネーを集め、卒業生たちにお茶をおごるんです。謝恩会会場のバンケットルームからホテルのロビーのカフェなどに場所を移し、そこでまたひとしきり話が盛り上がるわけ。そして、それらすべてが終わった後に、ついに名残惜しい最後のお別れになる。教官たちは皆、気恥ずかしいほどの大きな花束を抱え、笑顔と涙の卒業生たちに見送られながら帰路につく。その感動。その余韻。 これが、一昔前のうちの科の謝恩会でした・・・ぷわぷわぷわぷわ・・・(現実に戻る) さて、謝恩会が解散となった後、「これはもうダメだ」という目配せで先生方がさっさと帰りかけたその時、私のゼミ生の一人が何か袋を持って駆けつけて来るじゃ、あーりませんか。しかし・・・お! なーんだ、私へのプレゼント、買っておいてくれたんじゃん! 他の先生の手前、私だけプレゼントあり、なんてちょっと悪いな、と思った私が愚かでした・・・。というのも、次の瞬間、私は次のような言葉を聞いたのです。 「先生、これ、卒論の時にお借りした資料です! お返しするチャンスがなくって・・・」。 これでトドメを刺されたのは言うまでもありません。 私と、私が「兄貴」と慕う同僚のK先生は、帰路、あまりの空腹にデニーズに立ち寄り、がっつり食事をしてしまいました。「謝恩会の後でデニーズで飯を食ったなんて、人には言えないよな」というK先生の一言に、ジャンバラヤを口いっぱいに頬張った私は、激しく首をたてに振ったのでありました。 これが昨夜の謝恩会の思い出です。 謝恩会というものの性質上、私たち教員は、その運営に口を挟めません。もしこれが彼らにとっての「謝恩」なのであれば、そういうものなのでしょう。あるいは、私たち教員には、この程度の謝恩がふさわしいということなのかも知れません。 しかし・・・私には何か違うんじゃないか、という気がして仕方がありません。ほんの10年前の卒業生たちと、今年の卒業生たちの違いは一体何なのか・・・。 その違いの元を、私は知りたいと思うのです。
March 24, 2006
コメント(12)
今日は勤務先の大学で卒業式がありました。 卒業式というのは、その意味合いから言って、大学で行なう行事の中で最大のものではないでしょうか。ですから、私たち教員側にとってもこの日はやはり特別です。いつもはいい加減な格好をしている先生方も、今日ばかりはきちんとしたスーツ姿、スリーピース姿だったりして、そういう意味でもなかなか趣があります。 しかし、そうは言ってもこの10年ほどで卒業式の雰囲気も大分様変わりしました・・・。 ま、一つには組織上の問題もあります。 数年前までうちの科は典型的な少人数教育で、教官7名に対し学生20人でしたから、自分のゼミ生はもちろん、そうでない学生もちゃんと顔と名前が一致していた。ですから、先生方と学生たちの関係も非常に近しく、卒業式ともなると相互に別れを惜しんだものでした。 しかし、馬鹿な文部科学省の指導やら何やらで組織が変わり、今では60人の学生に対し教員15名で指導に当たっているんです。もちろん60人の学生に対して15人の教員というのは、20人の学生に7名の教官だった頃と比べて教育環境が格段に悪化したとは言えないかも知れない。しかし、比率はあまり変わらないとはいえ、一つの科に学生が60人もいるようになると、自分のゼミ生以外の学生の顔と名前を覚えるのがどうしても難しくなります。で、畢竟、教員と学生の関係が疎遠になってしまうんですね。 ですから学位授与式にしても、行事そのものの性格が淡白になりました。学科代表がちょこっと挨拶し、後は卒業生にじゃんじゃん学位記を渡して終わり、という感じ。卒業生たちも、さっさと帰ってしまいますし、情緒も何もあったもんじゃない。 10年前は違いましたよ。当時はとにかく教官と学生の距離が近かったですからね。学位授与式にしても、前もって教官がポケットマネーを出し合って、シャンパンを何本か買っておくんです。で、一通り学位記を渡し終わった後で、このシャンパンを抜き、教官と卒業生たちで乾杯するわけ。そしてそのあとは集合写真を撮ったり、ゼミ毎に分かれて写真を撮ったり、個々の学生と教官一人一人がツーショット写真を撮ったりして、いつまでもいつまでも後ろ髪を引かれるようにお別れに時間をかけたものでした。 そうそう、それからある年など、卒論で苦労させられた男子学生にちょっといたずらしてやろうと、教官全員で口裏を合わせ、学位授与式の時にその男子学生の卒業証書がない!という芝居を打って、彼の目を白黒させる、なんてことをやったこともありました。 そんな時代が懐かしいですなあ・・・。 中でも一番印象に残っているのは、12年前の卒業式。その年の卒業生たちは、我が学科史上、最高の学生たちが揃っていた黄金時代でしたけど、あの日のことは忘れられません。 その時も、上に述べたような感じで、学位授与式の後、先生方と卒業生たちがいつまでも写真を撮ったり、談笑したりしていたんですが、その時、卒業生の中の女の子二人が突然、「仰げば尊し」を歌い出したんです。そしてその歌声に他の卒業生たちも一人、また一人と唱和し始め、ついに20人全員のコーラスになったわけ。それまで満面の笑みで学生たちと立ち話をしていた我々教官も、一瞬ハッと胸を衝かれ、いつしか直立不動の姿勢となり、心もち顔を伏せて卒業生たちの歌に耳を傾けましたが、20人の卒業生たちがまっすぐ我々を見つめ、心を籠め、心を一つにしてあの歌を歌ってくれた時のあの気持ち、あの時の感動は、今もなお私の、そしてあの場にいた同僚の先生方全員の心に残っています。 それにしても、「仰げば尊し」というあの歌が、あんなに素晴らしい歌だったのかというのは、あの時初めて知りました。教師になった苦労のすべては、あの歌一つで完全にチャラになるんです。ほんとに、そうなんですよ。 ま、あれがあったからこそ、今時のあっけらかんとした卒業生を前にしても、まだ「卒業式」というものにほんの少し、「何か」を期待してしまうんですよね。ま、期待しても、ああいうことはもうなかなかないんですけど・・・。 それにしても、今年の卒業生は、例年以上に淡白でした・・・。そりゃ、もう悲しいくらい。この子たちに対しても、昔と変わらず、随分面倒を見てやったという気がするんですが・・・。 しかし、そのガッカリ感は、卒業式の後の謝恩会で頂点に達することに。一体、謝恩会でなにがあったのか?! その辺りのお話は、また明日!
March 23, 2006
コメント(4)
今日、お昼頃、とある農協での出来事と思って下さい。 私はたまたまお金の振込があったので、ここを訪れていたんです。自動車の任意保険の振込だったのですけど、銀行のATMから農協の口座に振り込めなかったもので。 で、私は「振込用紙」などが置いてあるスタンドで書類に必要事項をこまごまと書き込んでいたのですが、私の向かい側でも若い女の人が何やら用紙に書き込んでいたんです。そこまではよくあることですよね。 ところがこの女の人がとっても感じの悪い人でして・・・。 どうも自分の親の定期預金を解約する手続きだったらしいのですが、一緒に来ていた母親と思しき人がそういう手続きが苦手なようで、代わりに彼女が手続きをしていたんですな。 で、時々、母親に書類に記入すべきことを聞くのですが、その聞き方が妙にイラついているわけ。「・・・だから、さっきからそれを聞いているんじゃないの!」「この番号でいいの? さっきは違う番号言ってたじゃない! しっかりしてよ!」「違う! 郵便番号よ! 誰が電話番号言えって言ったの! バッカじゃないの・・・」とまあ、ずっとこんな調子。 ほとんど客がおらず、静まりかえった店の中に響きわたる罵声に、思わず私も顔をあげて、罵声の主の顔をしげしげと見てしまいましたよ。茶髪のヤンママ風、教養なさそうな顔、そして服装・・・いかにもって感じです。でまたこの人の母親がほんとに「手続き」なるものが苦手そうな人で、確かにとんちんかんなことばっかり言っているわけ。それに孫と思しきガキンチョが店の中をウロウロするので、それに気をとられて、娘に聞かれていることにまともな返事ができないんです。それでますます罵声を浴びる羽目に・・・。 しかし、いくらなんでもこんな公共の場所で、大きな声で母親に罵声を浴びせるなんぞ、見ていても不愉快なことですなあ・・・。一度なぞ、あまりひどいことを言ったので、思わず私、「貴様、親に向かってその口の聞き方は何だ!」と言いそうになりましたよ。他人様のことに口を出す気はありませんが、とっさに体が反応しそうになってしまった。 ま、こういう馬鹿娘に育てたのは親の責任でもあるのでしょうから、そのつけを、老婦人は、公衆の面前で罵声を受けるという形で支払っているのかも知れませんな・・・。どちらにしても、悲しいことでございます。 閑話休題。 さて、今日は私は割と勤勉にお勉強です。4月に学会のシンポジウムがあり、その司会兼講師になってしまったので、その準備なんです。ま、割と面白い資料だったので、順調に読み進んだかな? でも私、実は一度に一つのことしかできない質でして、今私が担当して作っている論文集の仕上げのことも気にかかって仕方がない。こちらの方はゴールが近く、13日には印刷所に入稿する予定なんですね。ですから、それが済むまでは、ついついこちらの方に注意が向いてしまうわけ。 というわけで、夕食のあとは、論文集の方の仕事をする予定です。それでは、また!
March 8, 2006
コメント(4)
3年半ほど使い続けた携帯電話の具合がどうも変です。もうメール1本出すだけで、電池マークが一個減り、続けて電話をかけようものなら、たちまちバッテリーがピンチに。どうやら充電池の寿命が来たみたいですな。 ありゃりゃ、君は少し草臥れて来ましたね、と思いながら携帯電話をまじまじと見ると、あちこち塗装が禿げ禿げになっているところが・・・。普段、じーっと見ることなんかないので、気が付きませんでしたけど、この携帯、多分、携帯寿命からいうともう70歳くらいなのかも知れません。 ま、最近の若い人なんぞ、それこそ1年くらいで新型にスイッチしているのでしょう。3年半も同じ携帯を使っているなんて、中年のおっさんくらいなもんなのでしょうね。 第一、私の携帯、電話とメールが使えるだけで、カメラ機能すらついてないですもん。その代わりアンテナはついてますよー。聞くところによると、最近の携帯って、アンテナは内蔵式になっているんですってね。知らなかった・・・。 てなわけで、電池を替えるより、少し前の機種を只でもらった方がいいのだろうなと思いつつ、先日、携帯ショップに行って下見したんです。すると、色々なのがありますなあ。写真が撮れるなんて当たり前で、今や相当な画素数の写真が携帯で撮れるんですね。それからテレビやネットが見られるもの、音楽をダウンロードしてオーディオ端末として使用できるもの、お財布代わりになるもの、ナビゲーター機能のついたものなど、あるわあるわ・・・。 それにしても、こんなに多種多様な機能が一つのものに盛り込まれた道具って、ちょっと他にないですよね。ほんと不思議。この先、さらにどんな機能が加わるんですかね。 私が思うに・・・形からいって、「ドライヤー」かな。もちろん、「櫛」機能付きで。あるいは、それ自体が発熱して、冬場に嬉しい「ホッカイロ機能」とか。ん? これ案外、いけるんじゃないっすか? さて、で、私の次期携帯候補ですが、私の場合、やはり電話とメールができればそれでもう十分なんです。でも、今回は少し洒落っ気を出して(?)カメラ付き、なんてのを使ってみようかな、と。で、後はデザインが良ければいいのですが、何と私が目をつけたデザインの良い携帯には、カメラ機能だけでなく、どうやらFMラジオも聞ける機能がついているらしい。私には「ダウンロード」なんて難しいことはできそうもないですけど、単なるFMラジオくらいなら、ついていても悪くないよなぁ・・・。 ・・・なんて、我ながら、おっさんぽい発想で、可愛い!! というわけで、ひょっとすると近い将来、私の胸ポケットに文明開化がやってくるかも知れないのでした。ま、「近い将来」というのが、実際には半年先だったりするんですけどね!
March 6, 2006
コメント(4)
このところテレビをつければ荒川静香選手が出てきますなあ・・・。 いつものことですから予想はしていましたが、それにしてもちょっと取材し過ぎじゃないですか? ま、なにしろ虎の子の金メダルゆえ、彼女以外にオリンピック関連の取材のしようがない(ちょっと話題になったカーリングの選手たちを除き)のも分かりますが、荒川選手もお疲れなんでしょうから、少しは休ませてやりなさいって。あるいは、苦労人の越選手がもう少しスケルトンの競技を継続できるよう、スポンサー探しでもするとか・・・。とにかく日本のマスコミよ、少しは「役に立つ」ことをしなさい。○○の一つ覚えみたいに、猫も杓子も荒川頼みするんじゃない! あ、さて・・・。 「荒川頼み」で思い出しましたが、現在、我が勤務先大学でも「釈迦楽頼み」の状況が・・・。 どうも私が所用で先日の「外国語専攻会議」を中座した隙に、来年度の専攻代表の役目を私に負わせてしまおうという謀がなされたらしく、明日の会議で正式に提案される成り行きらしい・・・。それじゃ、あまりに私が可哀相だと、ある親しい筋からこの謀の情報をこそっと漏らされたので良かったですけど、そうじゃなかったら、いきなり明日の会議で出来レースを仕組まれるところだった・・・。 も、冗談は止めて下さいって。 確かに外国語専攻には外国人の先生も多く、また年長の先生方はすでにこの役目を一度果たされた方も多いので、この人もダメ、あの人もダメ、というふうに考えていくと、何となく私にお鉢が回ってくるのも分からなくはない。 しかしですね、私は15人いるメンバーの中で若い方から3番目ですよ! なんで、そんな若手が学生数110人を抱える学内最大組織のトップにならなきゃならんの! そんなもんになってしまったら、もう2年間は忙殺されて、研究も何もあったもんじゃなくなります。そんなのは絶対にゴメンだ!! 明日の会議では絶対に拒絶してやる。 うちの大学に限らず、どこもそうなんでしょうけど、組織の中には、どんな仕事でもいやいやながら引き受けて、適当にこなしてしまう「お人好し」がいる。で、一度「こいつは仕事、引き受けるな」と睨まれると、後から後からその人に仕事が回されてしまうという状況になるわけ。 ま、私がまさにその「お人好し」でして。だからこそ、昨年・今年と「教務委員」なんて激務を担当してきたわけですよ。で、ようやくこの仕事の任期を終え、来年は少しは楽ができるかな、と思った途端、今度は「専攻代表」ですもん。もう、我慢できない。私に頼るのもいい加減にしろって。 それじゃなくたって私は授業のコマ数も多いですし、各授業の受講生の数も半端じゃない。また卒論指導のゼミ生にしたって、例年、他の先生の倍、受け持っている。その他、学内の仕事をあれこれ引き受けていて、大学に対して人並み以上の貢献はしているつもりです。それなのに、この上さらに面倒な仕事を押しつけようとするとは・・・。 もう「お人好し」は卒業です。それから「こいつなら何とか仕事をこなすだろう」という幻想も、打ち破ったる。もう明日からハムレットみたいに、大学では頭がおかしいふりをしよう。らららー、ここは何処? 私は誰? あー、明日の会議、ユーウツだぁ~!!
March 1, 2006
コメント(4)
昨日、今日と、我が大学は入試です。だもので、我々英語科の人間も試験の採点に駆り出され、土・日出勤していました。 英語の試験というのは、どの学科を受験する学生もたいがい受験するので、採点作業も大変です。15人くらいの先生方で分担して、2日がかりの仕事になってしまいます。ま、我々教員にとっても、年度末最大のイベント、といったところでしょうか。 で、もちろん入試ともなると、採点には神経を使います。ですから、精神的にも肉体的にもかなりハードな仕事なんですが、そんな中、唯一の楽しみなのが「おやつ」。つまり、先生方が数百円ほど出し合い、あらかじめおやつを買っておいて、採点室にずらりと並べておくわけ。クッキーあり、和菓子あり、果物あり、もちろんコーヒーや紅茶、ココアにハーブティーなども用意してあります。ですから採点作業に飽きると、各自おやつコーナーで適当にお菓子と飲み物をとってきて、これらを摘んでしばしリラックスしてから、また答案の山に立ち向かうというわけ。 で、このおやつがしょぼいと、年輩の先生あたりから「今年はちょっとおやつが寂しいな」なんて不満の声が出ますし、逆におやつが充実していると「お、今年は豪華だね」なんてことになって、採点者全員の労働意欲も俄然湧いてくるという次第。可愛いもんです。 あと、英語科の先生全員が顔を揃える、なんてことは年間を通してそんなにないことなので、この時期、採点をしながら互いに冗談を言い合ったりするというのも、科の志気を高めるという意味では重要な行事なのかも知れません。 で、そんなおしゃべりの時によく出る話題が、「赤ボールペン・ネタ」なんです。 入試の採点ですから、採点室にはあらかじめ赤ボールペンが用意してあります。それで、バブルの頃は大学も景気がよかったもんで、沢山の赤ボールペンがまだ封も切っていない箱に入れられてどーんと部屋においてあったわけ。もちろん、各先生方とも、採点の時に使ったボールペンは自分の胸ポケットに挿したまま家に帰っていたんです。で、それから先一年間、期末試験の採点などにもこの赤ボールペンを使っていた。それが当然だったんですね。 ところがここ数年、入試の時に配られる赤ボールペンが新品のものではなくなってきたんです。しかも「使い終わったボールペンは事務に戻して下さい」なんてセコい通達まであるという・・・。 だけど、長年、入試の時の赤ボールペンに頼り切ってきた我々としてはこれが納得できない。それでこのところ毎年、必ずと言っていいほど、入試の採点中のジョークとして、この赤ボールペンが登場するんです。 今年もこの吉例が続きました。同僚のS先生が口火を切ります。「ところで・・・このボールペン、貰っていってもいいんですかね?」 「いや、いいんじゃないですか?」と入試担当のY先生。「私もこのボールペンで、この先一年採点するんですから。これがなくっちゃ、どうにもなりません」 「でも、事務が返せって言うんでしょ?」とN先生。「数えてたりするんじゃないですか、ひょっとして。英語科はボールペンの紛失が多い、なんて言われてたりして・・・」 と、ここで何やらボールペンをしげしげと見ていたD先生が、「あ、ここに『使い終わったら返却すること』って書いてある!」と爆弾発言。英語科の先生方が一斉にボールペンを凝視。 「ウソですよ、ウソ」とD先生。一同のけぞる。 「しかし世知辛くなりましたなあ。ボールペン一つもらえないなんて・・」とK先生。 「まったく・・・。私の父の勤めていた私立大学なんて、入試手当が給料の一と月分ですよ。それに入試問題作成料がやっぱり給料一と月分。だから、入試に係わると、それだけで二ヶ月分の給料アップなんだから」と私。 「うちの大学なんて、入試業務は完全にボランティアだからね」とY先生のぼやき。 「でも土・日出勤分は手当つくんでしょ?」とN先生。 「それは超過勤務手当としてつきますけど、それだけですよ。入試手当、というのはないんです」とS先生。 そこですかさずK先生、赤ボールペンを振りかざしつつ、「だから、これが、この赤ボールペンこそが、我々の入試手当なんですよ!」 一同、賛同の拍手喝采。そして採点業務再開・・・。 かくして今年も、めでたく「赤ボールペン・ネタ」が終了し、採点業務を終えた先生方の胸ポケットには、ボールペンの赤いキャップが、まるで武功章のように輝いていたのでありました、とさ。 ま、それはさておき、二日に渡った奮闘の末、ようやく先ほど本年度の入試採点もめでたく終了しました。ま、我々にとっては一つの仕事の終わりですけれど、この結果によって来年度の新入生が決まるわけですな。彼らにとっては、これが一つの始まりなわけです。 さて、どんな新入生が、どんな期待を胸に、この大学の門をくぐるのでしょうか。それはまた、春になってからのストーリーということになりますね。いい学生が入ってきますように。今日も、いい日だ。
February 26, 2006
コメント(0)
最近、「談合」の問題があちこちで取り沙汰されていますが、あれはあれで案外難しい問題ですね。 私の友人で建設業大手に勤めているのがいますが、彼に言わせると、談合やらないと小さい建設業なんてみんなつぶれるけど、それでいいの? ということになります。つまり、あれは業界内で案配して、一つの会社が儲け過ぎないようにするシステムなのであって、それをストップすると本当に弱肉強食になってしまう、と言うのですね。またそうなると地方の公共事業にも東京の業者が関わることになってしまって、地元の建設業界は仕事がなくなり、地方経済はますます先細りになる、ということもあるらしい。 さらに、談合抜きで入札をやる場合、入札に勝つため、極端に安い値段で工事を請け負ってしまった会社が、実際に工事を始めたらやはり赤字になりそうになって、仕方なく労働者の賃金を不等にカットしたり、「手抜き工事」をやる、なんてことも生じてしまいがちなのだとか。つまり、談合を止めてリアルに競争させれば万事よし、というような単純なことではないんです。 ですから、「談合=悪」と決めつけ、それさえ無くせばいい、なんてことではなく、談合というものの様々なメリット・デメリットを突き合わせて、うまい解決法を出さないといけないわけ。果たしてそれが我が国の政府にやれるかどうかは疑問ですけどね。 第一、談合が行なわれるもう一つの理由として、発注する側、つまり「官」の側の「予算の消化」ということも大きいのですから。「官」の側としては、入札価格が想定価格以下になってしまい、その結果予算が余るのはとても都合が悪い。予算が余れば、監督官庁からお叱りがあるばかりでなく、翌年の予算が必ず削られますからね。だから工事を発注する側にも「変に安く工事を請け負ってもらいたくない」という意志が働きます。これが「官製談合」が行なわれる事情の一つですね。もちろん、官製談合には「天下り先確保」というもっと大きな理由もあるのですが。 ですから、談合問題を云々するのであれば、「官」の側の「予算の消化」なんていう無駄なことをまず無くすことをやらないといけません・・・。 はい、ここまでが今日の話のマクラです。 というのはですね、このところこの種のアホらしい「予算の消化」ということが、私の身にも迫ってきているからなんです。今はちょうど年度末ですから、私のところにも事務から「早く予算を消化してくれ」の大合唱があるんですよ。消化しろ、消化しろって、タカジアスターゼじゃあるまいし・・・。 でも、これは実はおかしな話なんです。というのも、昨年、国立大学が独立法人化されてから、予算面では少し自由が利くようになり、研究費などが余ったら、翌年に繰り越せるということになったはずなんですよ。だからこそ私もわざと予算を15万円ほど余らせてあったんです。来年あたり研究室で使っているパソコンを買い換えようかと思っていたのでね。その年の予算だけでパソコンを買い換えると、研究のための本を買うお金が無くなってしまいますから。 ところがここへきて、「5万円以上の予算の繰り越しは避けてくれ」との通達が・・・。何だかんだ言って、文部科学省がうるさいらしいんです。 しかし、一体、文部科学省は何の権限があって「独立」法人に向かってそういうことを言うのか、さっぱり分かりませんなあ。独立しろ、独立しろと言っておきながら、やっぱり陰ではしっかり束縛しようというのですから、本当に質が悪い。大学も大学だ。文部科学省がうるさいことを言ってきたら「ばーか、お前らなんてもう監督者じゃないやい!」と言ってやれって。 ま、それはともかく、そんなこんなで私のコンピュータ買い換え計画はすっかり狂ってしまったのですが、そればかりではなく、出来るだけ早く少なくとも10万円は消化しないといけないという困った立場に置かれることになったのでした。しかも、この時期ですともう図書は買えないので、物品を購入するほかないという・・・。 で、結局、研究室用に「ロールアップ・ブラインド」買うことにしちゃいましたよ。数年前に部屋のブラインドが壊れて、ずっと中途半端に閉まったままだった、ということもあるので、まったく予算消化のための無駄な物品の購入というわけではないのですが。 それでも、やっぱりちょっと罪悪感があるなあ。 こういうのは私だけじゃないと思うんです。きっと今頃、私と同じように、特に切迫した必要もないのに予算消化のために物品を買って、ほんのちょっぴり罪悪感を感じている公務員や準公務員が日本中に何万人といるわけですよ。例の年度末恒例の「道路ほじくり返し」もそうですが、ばかばかしいですなあ。 最初に述べた談合の問題の解決も重要ですけど、この種の無駄な「予算消化」こそ、今すぐメスを入れるべきだと思います。これこそ、ほんとに意味なく、しかも日常的に行なわれている、この国の悪しき習慣なんですから。よーく考えよう、お金は大事だよ。 ・・・さて、と。で、ワタクシの研究室のブラインド、何色にしようか知らん。ブルー? いや、目にいいと言われるグリーン? ま、まさか紫? やっぱ遮光にした方がいいのかしら、それとも・・・。あれれ、予算の消化って、結構楽しいじゃん! (駄目だコリャ!!)
February 20, 2006
コメント(2)
永田某民主党議員による「堀江メール・スキャンダル」。しかし、その後の調査が進むにつれ、どうやら本当に「ガセネタ」っぽくなってきましたなあ。 夕方のニュースなどでも言ってましたが、メール・ソフト「ユードラ」の書式が、ライブドアの人たちが使っている最新バージョンのものと、永田議員が告発している「証拠物件」とでは、異なるらしい・・・。それに第一、そんなヤミ献金みたいなものを証拠の残り易いメールで指示したり、銀行口座に振り込んだりするか? ということもあります。ああいうのは実弾(現ナマ)でやるもんなんでしょ? また、かてて加えて永田議員の国会でのやりとりの情けないこと・・・。自分で騒ぎを起こしておきながら、与党側に痛烈に反論されると、とたんに議長に助けを求め、「議長、見て下さい、この雰囲気・・・一方的な攻撃ではありませんか」などと噴飯ものの物言いをするという・・・。これでは小泉首相から、「いいですか、永田さん、冷静になって下さいね。あなたが、信憑性が疑われる証拠をもとに、一方的に武部氏を攻撃しているのですよ」などと指摘され、完全に子供扱いされるのも当然じゃないですか。 民主党党首の前原さんも、こういう若手の無謀な暴走を事前に押し止めるだけの実力もないらしい、というのが見え見えですなあ。成り行き上、仕方なく「信憑性はあります」などと強弁していますが、なんか及び腰で、本当は自信がないのに、無理に強がっている風がこれまた見え見え。 こういうのを見ていると、現在の民主党というのが、かつての土井委員長時代の社会党と同じく、「万年へなちょこ野党」の柄が板についてきた、というか、しみついてきた感じがします。こんなんじゃアメリカ式の「2大政党制」なんて無理無理。情けないなぁ。ほんと、もう少ししっかりした野党というのが出て来ないと困りますよ。民主党には、猛省を促したいものです。 閑話休題。 さて、今日は仕事の合間を縫って、お昼を外食してきました。行ったところは以前にもご紹介した「オリエンタルの青い月」というトルコ料理の店。名古屋郊外の塩釜口というところにあります。 今日食べたのは、「ケバブサンド」。これはピタパンにドネルケバブ(回転する焼き串に刺した肉をナイフでそぎ切りにする焼き肉料理)をどっさり挟み、さらに野菜をたっぷりいれて食べるというもの。一人分350円と、値段もリーズナブルです。そしてこれに「羊飼いのサラダ」「シシケバブ(串焼きのラム肉)」を付け足し、さらにトルコ風アイスクリームの「ドンドルマ」を注文して二人分で2800円。いや、実においしかった!! この店、ほんとにいいですよ。次に行く時は、「花嫁のスープ」と「坊さんの気絶」も注文するつもり。料理のネーミングもステキ!ですよね。 で、帰りにちょっとスバル系列の自動車屋さんに寄って、「R2」という軽自動車の試乗もしてきちゃいました。このブログでも言及していますが、セカンドカーとして軽自動車はどうかな、と思っているもので。 で、R2に乗ってみてビックリ! なんだこの上質な走りは! 先日試乗したダイ○ツ・ム○ヴとはまるで格が違う。普通車と同じような、いや、リッターカー以上の走りをするじゃないですか! さすが軽自動車としては珍しい4気筒エンジン&4輪独立懸架の足周りです。CVTの変速も滑らかだし、内装の質も相当趣味がいい。これは気に入っちゃったなあ! ということで、今日の試乗で、急ごしらえの「スバリスト」になりつつあるワタクシなのでした。さて、我が家のセカンドカー選び、どうなることやら。それでは、また!
February 19, 2006
コメント(2)
私立の大学なんかですと、いや国公立大学だって、ほんとならもうとっくに後期の授業が終わっているはずなんですけど、うちの大学は今年度に限り、校舎のリフォームがあって夏休み期間が異常に長かったため、2月のこの時期になってもまだ通常の授業をやっています。ま、それも今週あたりでぼちぼち終わりなんですが。 で、私に関しては今日で今年度の授業はすべて終わりました。来週以降は期末試験ということになるので、授業自体は今日で終わりなんです。 で、いつもであれば、一年の授業の最後の日ともなると、それなりに達成感というか解放感があるものなんですけど、今日はなかったですねぇ。というのも、最後の授業の途中で、私が怒って教室を飛び出してきてしまったからです。 原因は学生の私語。当該の授業は「アメリカ文学史」なので受講生が多く、しかも階段教室で行いますので、学生としては少しくらいしゃべったって目立たないと思っているのでしょう。しかし、教壇に立つと学生の私語というのはホントによく聞こえるものなんです。 で、どういうわけか今日はいつも以上に私語が多く、授業中ずっと「嫌だなあ」と思っていたのですが、あと30分というところで限界に達してしまった。で、しゃべっている途中でいきなり、靴音高く教室を飛び出し、ドアをバーン!と閉め、さっさと研究室に戻ってしまったんです。 言っておきますが、私は授業がものすごく上手な方で、退屈するような話はしていないはず。それを聞かないで、おしゃべりをしているというのは、もう受講者たちの知性が大学レベルではないということなんでしょう。そんな連中に「おしゃべりはやめて。ちゃんと聞いて下さい」なぞと「懇願」するほど、私はお人好しではない。大学の教員の中には私語に寛容な人もいますが、私は耐えられませんね。 でも、いきなり話を止めて教室を出てしまうの、結構、気分が良かったかも。うん、これいいなあ、「授業拒否」作戦。来年度は最初っからこれで行こうかしらん。 ま、それは冗談ですが、しかし、それにしても情けないなぁ、これが今どきの我が国の最高学府の姿かと思うと・・・。とほほ。 そうですね、あと30分くらいは落ち込む予定ですので、一人にしておいて下さい。(30分で立ち直るところが、釈迦楽流なんですが・・・。)
February 16, 2006
コメント(4)
明日、2月3日は、節分ですなあ。 このブログをお読みの皆さんは、節分の日に「恵方(今年は南南東の方角だそうです)」を向いたまま、太巻き寿司を丸齧りする、という風習をご存じでしょうか? ネットで調べてみたら、この風習、必ずしも名古屋の風習というわけでもなく、主に関西・中国・九州地方から伝わったもので、一説によると「バレンタインデー」的なものらしいですね。 しかし、東京ではそんな風習、聞いたこともありませんでしたから、私も最初名古屋に赴任した時に、なんでこの時期、スーパーやらコンビニやらが急に太巻き寿司を売り出し始めるのか、その理由がさっぱり分からなかった。分かった後でもやる気はしませんが・・・。だって、家中であらぬ方角を向いて、太巻き寿司をそのまま口に突っ込むんですよ。なんか、カッコ悪い! だけど、豆まきはやります。今年も準備万端。 でも、最近各ご家庭で豆まきをやるところが少なくなったんじゃないですかね。私の住んでいるマンションでも、まじで気合い入れて、ありとあらゆる窓やドアから豆を投げつつ、「鬼は外、鬼は外、鬼は外! 福は内、福は内、福は内、福は内!!」と絶叫しているのは、我が家くらいなもんです。ちなみに、「鬼は外」を3回、「福は内」を4回唱えるのが、釈迦楽家の仕来りでございます。 ま、それはいいんですが、豆をひとしきり撒いた後、家族のメンバー各自が年の数だけ豆を食べる、というのをやる。これが、私には拷問でして・・・。煎った大豆をぼりぼり食べるというのがどうも私は苦手で、なかなか喉を通らないし、無理やり飲み込んでも、そのあと大抵お腹を壊すんですよ。それに最近では40粒以上食べなければならないので、さらにきつい。 しかし、それでも食べるんだ。根性で。それが我が家の仕来りですから! でも、節分の行事をやると、また少し春に近づいた、という感じがしますよね、確かに。 今年の冬は寒かっただけに、春を待つ心もひとしおです。明日は元気よく豆を撒いて、豆を食って、派手にお腹を壊すことにいたしましょう。それでは、また!
February 2, 2006
コメント(2)
私にしては珍しく・・・死ぬほど忙しい・・・です。 見かけあんまり忙しそうにしていないので、めったに同情されないのですが、実は死ぬほど忙しい。 何せ1月30日締め切りの仕事を1つ、1月31日締め切りの仕事を3つ抱えているという・・・。 で、このうち30日締め切りのものと、31日締め切りのものの内の1つを今日の午前中までに仕上げ、出勤する途中、投函しました。前者は某受験雑誌に掲載する勤務先大学の紹介のための原稿、後者は近々共著で出す本の校正(第三校)です。特に前者は案外大勢の人(受験生)が読むので気が抜けません。 でもまだ明日までに仕上げなきゃならない原稿が2つ・・・。1つは何とかなりますが、もう1つは間に合わないな、確実に。 ま、これらの他にも大学内の雑用あり、学会関係の雑用ありといった具合で、もう目が回りそう。こういう時、どこかでポカをやるんだよなー、ワタクシの場合・・・。 こういう時、有能な秘書がいて、「教授、今日はこの仕事やって下さい。明日はあの仕事やって下さい」ってな感じで、マネージメントを担当してくれるといいのですが。 ・・・ってなことを言っていたら、大学の先生って、年間の研究費を使って個人秘書雇ってもいいんですって。事務の方に聞いてびっくり。そうなんだ、雇っていいんだ。 じゃ、家内雇っちゃおうかな。 そうすれば、家内に支払う給料も、結局我が家の家計に入ることになるわけだし。おお! どうして今まで気づかなかったんだ! でも、もしほんとにこれをやったら、学内で話題になるだろうなー。「釈迦楽先生、とうとう奥さん雇っちゃったらしいよ」なんてあちこちで言われそう。それも剣呑か・・・。 はーい、やっぱり自分で頑張りまーす。さ、仕事、仕事。
January 30, 2006
コメント(4)
なんかすごい扱いですね、ライブドア事件。渦中のホリエモンの逮捕で、報道もヒートアップしてますけど、この事件、そんなに大きな事件ですかね? 単なる証取法違反なのであって、私から見れば、そんな大ごととはとても思えないんですが・・・。たかが新興の一企業がちょっとズルしたくらいのことでしょう? たとえば、ちょっと前になりますが、北朝鮮のミサイルが日本を飛び越えて太平洋に着弾なんてことがありました。こういうのはすごく大ごとだと思いますが、私の記憶では、あの時には今回のような大騒ぎにはならなかった。なんか、日本人、騒ぐべきところを間違ってませんかね。 また新聞などを読むと、今回の事件を色々な「識者」が「解説」しているのですが、その解説のどれ一つとっても、私を十分に納得させるものはないですな。 たとえば我が家が講読している新聞に、お茶の水女子大の藤原正彦教授がこんなことを書いていらっしゃいます。以下、引用しますと・・・ 「今回の逮捕は実はまったく本質的な問題ではない。一番の問題は、これを国民が支持し、時代の旗手として称賛し、羨望してきた風潮にある。アメリカ式の市場経済原理下では、1割の勝ち馬と9割の負け馬しか存在しえない。だから、あらゆる局面で勝ち馬に乗るために汲々とする血も涙もない社会になってしまった。これこそが最大の問題だ。(中略)日本は金銭至上主義から最も遠い精神文化を持っているはずなのに、本来の価値観、行動原理が損なわれている。(後略)」 どうでしょう。藤原さんのおっしゃること、当たっているでしょうか? 私がこの文を読んで納得できないのは、果たして「日本国民」が一度でもホリエモンを「支持」し、時代の旗手として「称賛」したことがあるか? ということです。確かに羨望はしたでしょう。しかし「支持」したり、「称賛」したことは、一度でもありましたかね? 私の印象は、藤原さんがおっしゃっていることの、まさに逆です。「支持」どころか、ホリエモンがマスコミに取り沙汰されて以来、ほぼ一貫して「こいつ気に入らない」という暗黙の同意みたいなものが国民全般の間にあったと思いますよ。「称賛」だなんて、冗談じゃない。 「金があれば何でもできる」という悪名高いセリフにしても、私はホリエモンがどういうシチュエーションでこれを吐いたのかは知りません。が、とにかく彼はこのセリフ一つで日本国民を敵に回してしまったと、私は思っています。その意味では、確かに藤原さんがおっしゃるように、日本は「金銭至上主義から最も遠い精神文化を持っている」んですよ。それが失われつつあるなんて、藤原先生、勘違いもいいところだ。 しかし、その「金銭至上主義から最も遠い精神文化」とやらが、私には胡散臭くて仕方がない。いや、そういう精神文化はどこかにあるのだろうし、それ自体は素晴らしいものだと思います。しかし、今の日本のホリエモン批判の大合唱は、そういう気高い精神文化の賜物なのでしょうか。 私にはそうは思えないな。33歳のとっちゃん坊やみたいな奴が、7000億もの金を弄んでいるのが気に入らないだけなんじゃないですかね。 普通のサラリーマンにとって、1億だってトンでもない額の金なのであって、一生掛けてそれだけの貯蓄額に到達することだって簡単ではないはず。しかし、それは正直一本でやっているから難しいのであって、ホリエモンが7000億の金を弄べたのは、「ズル」をしたからだ・・・今回の「事件」とやらが確認してくれたのは、そういうことだったんじゃないでしょうか。ホリエモンが逮捕され、ズルして一人勝ちした奴が罰せられそうな成り行きになったものだから、「国民」は大喜び。そして国民に媚を売るしか能のないマスコミが、ここぞとばかりにホリエモンを叩く。今、眼下で起こっていることは、そういうことなんじゃないかと思います。 で、これは「金銭至上主義から最も遠い精神文化を持った国民」の勝利なのかと考えると、先にも言いましたように、私にはとてもそうは思えません。本当に金銭至上主義から遠ければ、今回のような事件をこんなにでかでかと取り上げたりしませんよ。興味がないのだから。 私はホリエモンにはまったく興味もないし、さして同情もしませんが、彼を叩いて大騒ぎしているこの国の姿は、はっきり気に入らないですね。こんなの、単に「羨望」の裏返し、しかも見え見えの裏返しじゃないですか。羨望というのは、恥じて隠すべきもんだ。それをまあ・・・見苦しいこと極まりない。 少なくとも『国家の品格』というベストセラーをお書きの藤原正彦大先生には、ホリエモンではなく、嬉々として彼を叩いている国民やマスコミの側の品格を問うてもらいたかった。普段、藤原さんと意見を同じうすることの多い私ですが、今回ばかりは「お説御尤も」とは言いかねますぜ。 とにかく、ホリエモンのような、たかが太ったネズミ一匹の逮捕に「衝撃」を受けるような国家。そちらの方により猛省を促したいワタクシなのでした。
January 24, 2006
コメント(2)
昨日はニュース・ネタが多かったですね。ライブドアの問題、ヒューザーの問題、宮崎勤死刑確定、そして阪神・淡路大震災から11年目・・・。 宮崎裁判に関しては、午後の授業の冒頭、学生たちに「ついに死刑確定したらしいぜ」なんて紹介したら、案外みんなポカンとしているんです。で、「ほら、幼女連続殺害の・・・」と水を向けると、ようやく、「ああ・・」という声がチラホラ。よく考えてみれば、この事件が起こった17年前、私の目の前の学生たちは3歳だったのでした。事件を記憶しているとか、そういう年齢ではなく、むしろ宮崎被告の餌食になりそうな年齢だったわけですな。あんまりピンとこないのも無理はない。 それからライブドア問題。ホリエモン、また批判の的になってますけど、ま、批判されるに値するようなことをしたのであれば、それ自体は仕方がない。しかし、その批判の対象となっていることが、「風評の流布」で株価操作した、ということであるのが、ちょっと面白いような気がします。 だって、今回ライブドア問題がマスコミに取り沙汰されたことで、IT関連株全面安でしょう? IT関連っていったって、そもそもライブドアとはまるで関係のない企業の方が多いはずなのに、それらもみんな株価が下がってしまったわけですよ。 といういことは、これもまた「風評の流布」というべきではないでしょうか。 つまりね、株っていうのは、もともと「風評の流布」で上がったり、下がったりするものなんですよ。もちろん、それを意図的にやるのはまずいですけど、株っていうのは本来、そういうものなんですって。 それを、あたかも他社の株は「実質」に基づいているのに、ライブドアだけは「虚偽の風評」に基づいているかのような報道をするのって、何だか、無知なる庶民騙しのような感じがして、あまり好ましくないですなあ・・・。 もっとも、現在、マスコミの流す「風評の流布」のおかげでIT関連株全面安ですから、今こそIT関連株は「買い」ですね。だって、実質、株が下がるような要素はないのだから、「風評」さえ忘れられれば、絶対に元の水準に戻るはず。今買えば、利鞘はばっちり稼げますよ。私も買っておこうかな。 かの福沢諭吉が「実学」ということを言ったのは、学者たるもの、世の中のことが見えてなければならない。そして世の中が見えていれば、必ず金儲けは出来るはずだ。だから、金儲けの出来ない学者は、学者としても二流なんだ、という発想を彼が持っていたからです。要するに、清貧の学者なんてバ・カ・だ、といういわけ。私はこの諭吉の考えに対して強く「一理ある」と思っていますので、こういう機を逃さず株に投資する、なんてのは、学者としてむしろやるべきことだろうと思っているんです。 学生たちと合宿に行って一緒に風呂に入った老学者が、学生たちの使っている「シャンプー」を見て、「これは近頃、便利なものが発明されたものじゃ」と言った、とかいう笑い話を聞いたことがあります。世間的なことに対して無知であるほど優れた学者である、というようなイメージが、きっとまだどこかに残っているんでしょうな。でも、先に言いましたように、私はこの点に関しては福沢諭吉派ですから、シャンプーも知らない老学者なんて、どのみち大したことないんだろうと思います。 なーんて言いながら、私も最近、若い人の間の流行に疎くなりましたから、そのうち、シャンプーも知らない学者の二の舞になりそうですけどね。 ま、とにかく、常々言っておりますように、マスコミの報道自体、「風評の流布」っぽいところはあるよなぁと、私なんぞは思っているのであります。以上。
January 18, 2006
コメント(2)
先日の酷寒の城ヶ島ドライブ以来、なんとなーく風邪気味だったのですが、ここへきて症状が悪化。今日は授業も会議もない日だったこともあり、大学をこっそり休んで自宅に籠もることに。すみませーん。 もちろん休むったって、ずっと寝ているわけには行きません。実は今、書評の仕事を一つ抱えているので、それを今日中に書かなきゃなりませぬ。うーん、ブログだといくらでも書けるのに、仕事となるとなかなか筆が進みませんなあ・・・。 というわけで、今日はベッドでぐったりしたり、気を取り直してパソコンに向かったりの繰り返しですけど、そんな中、頭を休めるために時々ベッドの周辺にとっ散らかっている雑誌の類をパラパラめくったりしています。ちなみに雑誌というのは、私が愛読している自動車関係のE誌やライフスタイル誌のP誌、あるいは家内が愛読しているファッション関係のO誌やB誌なんですが。 しかし、男性誌と女性誌、読み比べると、その違いは興味深いですなあ。 男性誌というのは、結局、その大半が「モノについての雑誌」です。そのモノは、車だったり、時計だったり、パソコンだったり、ライフスタイルだったりするのですが、男性誌はそのモノを解説し、それがいかにいいものであるかを情報として紹介するわけ。で、それを読む男は、そういう「いいモノ」に憧れ、いつかそれを入手したいと思い、それを入手したアカツキのことを想像して楽しむわけですよ。ま、単純です。 ところが女性誌は、そうじゃないですね。女性誌というのは、基本的に「モノ」についての雑誌ではなく、「自分」についての雑誌ですな。関心は常に「自分」にある。いや、もっとはっきり言うと、女性誌というのは「自分をいかに変えるか」のノウハウ集ですね。 もちろん女性誌の主な関心事である「ファッション」や「メーク」といった話題にしても、それらは結局、ファッションやメークによっていかに自分を変えるか、ということなわけですけど、それ以外でも女性誌の話題って、みんな「自分を変える」ということに収斂するような気がする。現に、今私が見ているB誌にしたって、「恋愛力のある女になるには」とか、「新しい私になるヒント」とか、そんな特集ばっかりですもん。 それにしても、「新しい私になる」って・・・なんじゃ、そりゃ? ま、結局、こういう女性誌が提案する「自分を変える法」っていうのは、別に大層なことではないんですね。たとえば、「毎日ちょっとでも日記をつけよう」とか、「電話を切る時には『バイバイ』ではなく『ありがとう』と言おう」とか、「睡眠時間を8時間とろう」とか、「和装を見直そう」とか、「自分に意見してくれる友人を作ろう」とか、せいぜいその程度のことなのであって、別に難しいことではない。とにかく、生活の中のちょっとした部分を変えることで「新しい私」になれますよ、というような提案をする。それが女性誌なんですな。 と言うと、ここで男の私は「そんなんで、新しい私になれるのか?!」とちょっと突っ込みたくなるわけですけど、そういうことを言っちゃいけないんでしょう。こういうのは「気分」を味わって楽しむものなんだから、その気分を台無しにしちゃいかん、いかん。・・・それにしても、「新しい私」になるために「自分に意見してくれる友人を作る」なんてこと、男の私には思いつきもしないですな。そんなエゴイスティックな友達の選び方って、女にしか発想できな・・・いや、そういうことも言わない方がいいのか・・・。とにかく、女性誌を見ると、女性の発想というのがどういうものか、何となく分かってくるのは確か。勉強になりますね。 それに、かく言う私も、そういう「新しい私」ごっこが結構好きだったりして・・・。気分ですよ、気分。 よーし、今日から私も「新しい私」になるべく、「お手本となるロールモデルを探し」たり、「好奇心旺盛に、新しい場所に行って」みたり、「今日の課題をこなし、未来の自分像を想像」したり、「オーガニックに凝って」みたり、「自分へのご褒美にプチ・リゾートに行ってプチ・ハッピーになって」みたりするぞ! おお! 何だか楽しくなってきた! 新しい私の誕生だ!・・・・ ・・・さ、仕事しよう、仕事。
January 11, 2006
コメント(6)
この冬の記録的な降雪で、連日、豪雪地帯にお住まいの皆さんが一生懸命屋根の雪下ろしをなさっている映像をニュースなどで目にします。また、雪下ろしをなさっている間に屋根から落ちて、亡くなった方も随分いらっしゃるようで、お気の毒ですなあ。 しかし、この点について、私は以前から疑問がありまして。 少なくともニュースで屋根の雪下ろしの映像が流れるのを見ていると、どちらの皆さんも、一様に車輪のついてない猫車のようなものを使って、極めて素朴に屋根の雪下ろしをなさっているようですが、あれは他にやり様はないものでしょうか? 何せ今は21世紀ですよ。金さえ出せば民間人だって宇宙旅行できる時代だと言うのに・・・。 たとえば、屋根に床暖房みたいな仕掛けを取り付けておいて、降ってくる雪をどんどん溶かしてしまうとか・・・。 あるいは深夜電力か何かでお湯を沸かし、30分おきに屋根のてっぺんからお相当な温度のお湯を噴出させる仕組みにしておいて、雪を流してしまうとか・・・。 あるいは傾斜の急なトンガリ屋根にして、雪が物理的に積もれないようにするとか・・・。 あるいは、最初から30トンの雪でも40トンの雪でも耐えられるような頑丈な家を建てて、「積もりたくば積もれ!」と平然としているとか・・・。 あるいは屋根のあちこちに命綱をひっかけられるようにしておいて、せめて雪下ろし作業中に屋根から落ちて死ぬことだけは避けられるようにするとか・・・。 ・・・ま、何でもいいんですけど、何か対処のしようがあるんじゃないかと思うんですよ。だって、今年のような例はそうないとは言え、一応、毎年のことでしょう? 毎年死ぬ思いをしながら屋根に上がって雪下ろしするより、もう少し別な方法を考えれば良さそうなもんじゃないですか。どうすれば最もコストをかけずに屋根に積もった雪に対処できるか、産学共同プロジェクトで大学と企業が考えたっていいし。 とにかく、今だに人が屋根の上に上って、危険な思いをしながら、また疲労困憊しながら、その都度人力で雪下ろししているというのは、私にはどうも納得が行きませんなあ。その辺、何とかならんものなんでしょうかねぇ・・・。閑話休題。 さて、今日私は、我が家の守り本尊たる御不動様を拝みに、高幡不動に初詣に行って来ました。今日は日曜日とあって、まだまだ相当な数の初詣客で賑わっていましたよ。ま、そんな善男善女の人の波に揉まれながら、昨年一年私を守ってくれたお守り札を無事納め、新年用の厄除けの御札を買ってきたという次第。厄除けと言っても、ここは御不動様ですから、受動的に禍事を避けるというより、むしろこちらから攻めて行って悪を平伏させてしまうというところが頼もしい。どうか我が家に近づく悪という悪を蹂躙して、一年間、お守り下さいね。 そして帰りがけに、参道のすぐ近くにある洋菓子の名店「パティスリー・ド・シェフ・フジウ」に寄ってケーキを買いつつ、ここに勤めている教え子のNさんの顔も見てきました。ニコニコしながら、忙しくて風邪を引く暇もありません、なんて言ってましたけど、いつの日か自分のお店が持てるよう、今の職場で元気に頑張ってほしいものです。 ところで、仕事を頑張ると言えば、私自身の年末年始のお休みもそろそろ終わりが近づいてきました。私も明後日から仕事始め、よって明日は名古屋に戻らなければなりません。高幡不動のお守りと共に、事故のないよう帰るつもりです。それでは、明日からはまた名古屋からの「お気楽日記」となります。ひとつよろしくお願いします。
January 8, 2006
コメント(4)
全457件 (457件中 351-400件目)