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指導ゼミ学生の卒論提出締め切りは1月の10日。しかし、どうやらゼミ生たちは明日中の提出を目論んでいるらしい。ま、締め切り当日に提出するのは不安なのでしょう。どこの大学もそうだろうと思いますが、卒論の締め切りというのは案外厳格なもので、正午提出のところ、5分遅れても受け付け拒否、すなわち卒業延期となります。・・・だもので、今日の午後までにほぼ全員が卒論最終稿を完成させてきました。本年度の卒論指導はこれにて終了ー。やれやれ、疲れたわい。 ということで、夕方から思いがけずもちょいと暇になってしまいました。で、何か本でも読もうかと思ったものの、連日の論文疲れで、硬いものは読みたくないという気もする。ああ、このタイミングであの本が読めればなあー。 「あの本」というのは、青柳瑞穂の『ささやかな日本発掘』(講談社文芸文庫)なんですけどね。 青柳瑞穂というと、私にはフランスの作家・モーパッサンの翻訳者というイメージがあるのですが、たしか早稲田かどこかの大学の仏文の先生で、モーパッサンの他にルソーだの、アベ・プレヴォーだのの翻訳も手がけているはず。大学の先生とはいいながら、私なんかとは大いに異なる無頼派、火宅の人だったと聞いたことがあります。 『ささやかな日本発掘』というのは、その青柳さんの書かれたエッセイで、内容は「骨董」にまつわるもの。何だか怪しげな露天で買った皿が乾山の作だったとか、そんな感じで、骨董の目利きとして有名だった青柳さんが数々の名品を掘り出した時のことを綴ってあるらしいんです。ね、面白そうじゃないですか。しかも、この本は読売文学賞を受賞したといいますから、文章そのものも良さそうです。 この本、少し前にある人から薦められて、ちょっと前から書店に行く度に探しているのですが、なかなか見当たらない。で、今日も私の父が大きな書店に行くと言っていたので、ついでに探してきて下さいと頼んでおいたのですが、やはり見当たらなかったとのこと。今日みたいに、思わぬ暇ができたとき、骨董にまつわる名エッセイが読めれば、良かったんですけどねぇ・・・。 もっとも、どこを探してもないはずですわ。先程インターネットで調べてみたら、絶版なんですと。やれやれ、私の読みたいと思う本はたいてい絶版ですなあ。しかし情けないですぞ、講談社。「文芸文庫」と銘打って、普通の文庫よりもよほど高い値段の文庫を創刊した以上、一度出した本を簡単に絶版にしてはいかんではないですか。弱小出版社ならともかく、日本を代表する大出版社がこんなことで、どうするんですか。 それにしても、私が読みたいと思う本って、どうしてこう絶版になるんでしょう。私が読みたいと思わない本なら巷に溢れているのに。ほんと、私が読みたい本だけ、まさにそれだけが、次々と市場から消えていくという実感があります。まるで、嫌がらせでもされているみたい。まったく、わけ分からん! ま、しかし、そんなことを言っていても仕方がないので、実家の書棚をごそごそ探すと、(またかと言われそうですが)林望さんのエッセイで『書藪巡歴』(新潮文庫)が目につきました。お、こんなものがここにあった、こいつでも読むかと思って、これを再読したら、これが結構面白かった。若き日、書誌学の勉強に打ち込んでいた日々のことやら、そこで出会った魅力的な先生たちの話、そして慶應義塾附属の研究所・斯道文庫の研究員になりたかったのに、ついになれなかった話など、学者の卵が誰しも少なからず経験することどもについて、上手に書いてある本なんでけど、うーん、さすが、ちょっと前のリンボウ先生のエッセイは内容充実していて面白い! 今日みたいに仕事が案外早く片づいて、思いがけず暇になった時に読む本としては、うってつけでしたね。 というわけで、今日は読む本にこと欠いたおかげで林望さんのエッセイを再読することが出来、なかなか楽しいひとときを過ごすことが出来たのでした。それにしても、青柳瑞穂さんの本、絶版になる前に読みたかったなあ・・・。
January 5, 2006
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今日は三日、正月三が日の最終日ということですが、私は朝からゼミ生からメールで送られてくる卒論原稿と格闘していました。卒論提出期限まであと1週間、皆必死です。 しかし、この時期になると書く方も大分論文の書き方に慣れてきますし、添削する私の方も直し方が堂に入ってくるんです。ですから、卒論原稿は次から次へと届くのですが、それを千切っては投げ、千切っては投げ、という感じで、添削していく方のスピードもどんどん上がっていきます。今日はもう三人分くらいの論文を仕上げまで持っていくことができました。上出来、上出来。 で、先程も言ったように、この時期になるとゼミ生たちの論文も、それなりに様になってくるので、ああ、指導した甲斐があったなぁ、という感慨があるのですけど、それでも私にはどうにも指導のしようがないことが一つだけあります。それは「御礼」ということです。 残念なことに、毎年、数名のゼミ生を預かると、彼らは大体半々くらいに分かれます。つまり、「御礼を言う子」と「言わない子」に分かれるのです。 「御礼を言う子」の方は、私が論文の原稿を添削して返信してやると、すぐに「ご指導、有り難うございました。自分の論文が見違えるように良くなりました」などと可愛いことを言ってくる。一方、「言わない子」になると、私の返信に対しては「うん」でもなければ「すん」でもなく、ただしばらくして「第2章が書き終わりました。添削お願いします」などと次の添削依頼をしてくるだけ・・・。 もちろん、御礼を言ってくる子と言わない子で、私が指導の内容を意識的に変えるわけではありません。しかし私も人間ですから、可愛い御礼を言ってくる学生に対して好感情を抱く一方、何も言わずに頼んでくるばっかりの学生には、「やれやれ」という思いを抱くことは事実です。「馬鹿な奴」とも思います。「親の顔が見たい」とも、ちょっと思うかな・・・。 私は、学生とは言え、二十歳を越えた人間が御礼の一つも言えないのはおかしいと思います。しかし、こういうことは彼らだけの責任でもなく、その親の責任でもあるのでしょう。人に世話になったら、御礼というのはするものだということを、その学生が青年に達するまでのどこかの時点で親が教えなかったのでしょうから、その意味では親も悪い。 しかしひょっとすると、親が悪いばかりでなく、今の日本の社会も悪いのではないか知らん・・・。いや、私がそう思うのは、私と家内の間ですら、この点に関して若干の意見の相違があるからです。 いつのことだったか、恩師やお世話になった方々にお歳暮を送った後、私がぽつりと「俺は人にお歳暮を贈るばっかりで、ちっとも贈られることがないのはどういうわけだ。俺だって随分人の子の面倒を見ているはずなのに・・・」とぼやいたんですな。すると家内は私を叱って、そういう考えは良くない、大体国公立の教員にお歳暮を贈るのは賄賂のようになってしまうではないか、とのたもうわけ。 正論です。それは家内の言うことが正しい。私立育ちの私と違って、大学まで国公立で通した家内は、小さい頃から「教員への贈り物は御法度」という厳格な社会的ルールの中で育ってきたわけですから、そういうふうに考えるのも当然なのでしょう。 しかし・・・。しかし、私のぼやきは、現代の社会規範から見て間違ってはいるけれど、やはりもっともなことなのだと思うのです。国公立の教員に金品を贈るのはよろしくないかも知れないけれど、しかし、何かモノを贈る以外にも御礼の仕方というものがあるはずです。また贈られる私の方だって、もし受け取るべきでないものを贈られたら当然送り主にお返しします。しかし、その心と、送ってくれたという行為そのものは、有り難く受け取ります。世話になったら何らかの御礼はするものなのであって、御礼をする気持ちやその行為を、「賄賂」と同義の、何か後ろめたいことのように位置づけてしまったら、それこそ(高倉)健さんじゃないですけど、「右も左も、真っ暗闇」なんじゃないでしょうか。 ・・・と、そう思っている私ですが、それでもやはり学生たちに「おい、指導してやったんだから、俺に『有り難うございました』と言え」とまでは、自分からは言えないよなぁ・・・。 ここ数年、卒業式が近づく頃になると、学生たちから「先生、謝恩会っていうのは、いつ、どこでやるんですか? どこにも掲示がないので、どうするんだろうって皆、困っているんですけど」などと質問されたりする度に、こいつらに「謝恩」って言葉の意味を、一体誰が教えればいいのだろうか、と思うワタクシなのでした。 仰げば尊し、我が師の恩、かぁ・・・。
January 3, 2006
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正月元旦、今年初めて配達された新聞(某大新聞)の一面を見てびっくり。 「政府与党、幼稚園の義務教育化を検討中」・・・。 正月早々、何が哀しくてこういう馬鹿馬鹿しい話題に触れなくてはならないのか、私は理解に苦しみます。 ま、義務教育化のメリットとしては「小学校に入る段階で、既に学力差がついている状況を防ぐ」ということ、および「公立幼稚園の無償化」ということがあるそうで、フランスなど欧米各国でも義務教育11年制(幼稚園2年+小中学校9年)が定着している、ということも記事には書き添えててありました。 しかし、そんな瑣末なメリットがどうのこうのと言うより前に、子供というのは基本的に親が躾け、親が教育すべきものです。それをどうして他人に任せるようなことを助長する政策を、政府与党はわざわざ採ろうとするのか・・・。 私の教え子で、中学校の先生になったり、塾の先生になったのは沢山いますが、彼らがしばしば不満を漏らすのは、親があまりに多くのことを学校に任せ過ぎるということです。 たとえば「先生、うちの子が悪いことをしでかしたら、遠慮せず、ぜひ殴ってやって下さい」などと言ってくる親がいるという。そういう、一見「物分かりの良さそうな親御さんたち」に対し、「そんなこと言ってる間に、お前が自分の子を殴れ」と言いたくなる、と私の教え子たちは口を揃えて言います。そりゃ、そうでしょう。学校はもともと様々な教科を教えるだけの場所であって、基本的な礼儀作法だとか、人間としての人格形成だとか、そういうものは親が責任を持つべきもんです。それをやらないから、いずれ「他人任せ」で大きくなった子供から手痛いしっぺ返しを食うことになるんですよ。 それに大体、幼稚園の教育がなんぼのもんですか。私も一応は通いましたが、お絵描きだ、お遊戯だなんて馬鹿馬鹿しくてやってられなかった。ましてや「お昼寝の時間」なんぞ、あんまり馬鹿馬鹿しくて涙が出たもんです。私はむしろ、幼稚園なんぞ通わなくてもいい、という風習が日本に育てばいいのにと思っているぐらいですわ。 幼稚園義務教育化にケチをつけるついでに言わせていただけば、私は日本の高校進学率99%というのもおかしな話だと思っています。99%ですよ。これでは実質、高校までが義務教育ではないですか。本当なら高校進学率なんて50%くらいでいい。あとは社会に出して働かすか、あるいは専門学校に通わせればいいんです。現在、日本の高校で生じている問題のほとんどは、本来高校に進学するには向いていない生徒が高校生になっていることから生じているんです。同じことは大学にも言えるので、現在の大学進学率50%は多過ぎます。本来20%くらいに抑えるべきもんです。私は日々、大学生の実態を見ていますから分かりますが、在籍している学生の6割くらいは、大学に来る必要もなければ、それだけの学力もない連中と言っていい。 ですから、もし日本の教育を改革したいなら、幼稚園の不必要化、高校・大学進学率の抑制、専門学校の公立化、中卒者の就職支援こそ、断固進めるべきもんです。新春早々、怒りのブログで申し訳ないですけど、日本の教育改革は、政府与党ではなく、私・釈迦楽に聞け! と声を大にして言いたい!! ・・・あ、さて。これだけ威勢よく言いたいことを言った最後にこういうのも何ですが・・・ 明けまして、おめでとうございます! 本年も、どうぞよろしくお願い申し上げまするーー。今年も釈迦楽節を、威勢よくぶち上げますので、乞うご期待ですよー!
January 1, 2006
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近視の度が進んだのか、あるいは老眼が始まったのか、はたまた早くも惚けてきたのか(!?)、このところ漢字の読み間違いを含む、妙な誤読・誤解をすることが多くなりました。 今日もそんなことがあったんです。昼御飯を某洋食店でとっていた時のこと、メニューに「無農薬ジャガイモ使用の○○」みたいなことが書いてあったんですね。で、どういうわけか私はそれを「無農・薬ジャガイモ」と読んでしまったんです。それで「ほほう。薬ジャガイモとは珍しい。薬効があるのか知らん」などと家内に言ったら、家内に呆れられてしまいました。 そして食後、店を出て地下鉄の駅まで少々歩いていると、駅の近くに「地下荘入り口」という掲示がある。え? 地下荘? いくら地下鉄の駅のそばにあるマンションとは言え、地下に住むのはなあ・・・と一瞬思って、それを口に出す寸前、それが「地下荘」ではなく、「池下荘」であることに気づいたという・・・。そりゃ、地下鉄「池下駅」に隣接しているのだから「池下荘」でしょうよ。危ない、危ない。もう少しでまた呆れられるところだった! それから、これもつい最近のことですが、テレビでニュースを見ていた時、テロップに「○○を危ぐ」みたいな文字が映し出されたのですが、これを見た時も私は「○○をあやぐ」とはこれ如何に? と思い、家内に「これ変じゃないか? あやぶむ、だろ?」と尋ねたところ、「何言ってるの、きぐ、でしょ!」と笑われてしまいました。ああ、「危惧」ね! 何だよ、「惧」の字くらい漢字で出してくれよ! と、その場は笑って終わりましたが、内心、我ながら勘が悪くなったなあ・・、と少し気落ちしてしまいましたよ。 ほんと、何だか最近、そういうところで妙な誤解・勘違いをすることが多くなりました。かつて「1を聞いて10を知る」と言われたワタクシも、このところ「10を聞いたら、3つくらい誤解している」感じです。これって、やっぱり歳をとったってことですかねえ・・・。ちょっと前に流行った惚け防止のテストシートですか、あれ、まじでやってみようか知らん。 というわけで、年末のうすら寒い時期、自分のおつむのスペックまで何となくうすら寒くなってきたワタクシなのでした。このブログをお読みの中高年の皆さんはいかがでしょうか。「私もよくそういうことがある!」とおっしゃる方、ぜひコメント下さい。同病、相哀れみたく存じますです、はい。
December 26, 2005
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今朝の新聞に少子化問題のことが大きく取り上げられていました。政府が予想していたよりも自然減の度合いが大きかったのだとか。で、この問題に関し、様々な論者が、この傾向を懸念するコメントを出しています。このままでは様々な社会問題が起こるであろう、とのこと。少子化を歓迎するコメントを出した人は、一人もいませんでした。 しかし、私にはなんで少子化が問題なのか、全然分かりません。少子化、上等じゃないですか。 少子化で大変だぁ! と言っている人のほとんどは東京にお住まいなんでしょうけど、こういう人たちって、朝のラッシュアワーに東京方面へ向かう通勤電車に乗ったことあるのでしょうか? 土日祝日に渋谷駅前のスクランブル交差点を歩いたことがあるのでしょうか? ゴールデンウィークに観光地に行ったことがあるのでしょうか? 東京から郊外行きの電車に乗って、どこまで行っても延々と人家の屋根が連なる景色を見たことがあるのでしょうか? あるいは先般の愛知万博に行って企業パビリオンを見ようと列に並んだことがあるのでしょうか? で、それらを全部経験した上で、それでもなお「日本は人口が少なくなって大変だぁ!」と言うのでしょうか? だったら、その人は頭がおかしい。どう考えたって、今の日本は人口が多過ぎますよ。 だってフランスとかドイツとか、日本よりよっぽど大きな国土を持った国ですら、その人口は日本の約半分ですよ。イギリスは日本と同様の小国ですけど、やはり人口は日本の半分。日本よりも25倍大きな国土を持つアメリカですら、人口はわずかに日本の倍。そういうことを考えたら、日本の人口が国土に比して多過ぎることは一目瞭然じゃないですか。 もちろん、少子化問題を憂えている人たちというのは、このままだとこの先、多くの老人を少ない人口で支えなければならないから大変だ、とおっしゃるわけですが、でもそんなことしょうがないじゃないですか。どこかの時点でやらなきゃならないことですもん。逆に人口が急増したと思ってご覧なさい。老人を支えるのは楽になりますが、その他日々の暮らしの様々な面で、一体どのくらいの不都合が生じることか。 実際、中国なんかでは人口が増えすぎたので、現在「少子化政策」をとっているわけでしょう? 一組の夫婦に子供は一人まで、ということを無理やり実行している。私は中国人の知人から少子化政策の実態について聞いたことがありますけど、厳しいもんですよ。間違って二人目の子供を産んでしまったりすると、勤めは首になる、種々社会保障は打ち切られる、村八分になるで、もう人間としてまともに生きていけないようにされるんだそうですから・・・。 そういうことを考えたら、日本なんて無能な政府が口を出す前に勝手に「自然減」なんですから、こんな素晴らしいことないじゃないですか。 「このままでは国民総生産が少なくなってしまう!」などとコメントしていた人もいますが、それが少なくなって、一体、どんな不都合があるのか。人口が少なくなって、そのために国民が全般に貧しくなるのなら、それはそれでいいじゃないですか。それが実際の日本の経済力なんですもん。かつかつ暮らせればいいんですよ。やれブランド品だ、大型プラズマテレビだ、高級車だ、なんて買わなければいい。企業も毎年「売り上げ増」なんて目指さないで、「今年と同じくらい儲ければいい」と思えばいいんです。 マスコミの報道だけを見ていると、この国に少子化を歓迎する声がまるで存在しないかのようですが、少なくとも私は歓迎します。そういう声だってあるんだということを、私は声を大にして言いたいですね。
December 23, 2005
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私の勤務先の大学では、今、カリキュラムの改変(改善ではない)におおわらわ。毎日、まあ飽きもせず、会議ばかりやることで・・・。 ちなみに、今日の会議では、大学における「外国語」の授業の必要性ということが種々論議されていました。ま、要するに理科系の教授連は、一般教養の「外国語」の授業を必修にする必要はあるのか? ということを頻りにおっしゃるわけ。現行の「必修8単位」は多過ぎる、というのですね。もちろんその裏には、「ろくに効果も挙がらない語学の授業より、専門の授業を沢山受けさせたい」ということがあるのでしょう。 で、これに対し我々語学の授業を担当している側は、冗談じゃない、国際化が進む中、外国語(特に英語)以上に必要な教養なんか無いじゃないか! と、とりあえず反論しています。また外国語の必修単位が8、というのは近隣の諸大学と比べて決して多くない、いやむしろ少ないくらいだ、とも主張している。ま、こういう理科系対文科系の勢力争いというのは、多かれ少なかれ、どこの大学でも見られるものなんですけどね。 しかしまあ、こういう議論というのは、無益ですなあ・・・。 私だって、本音を言えば、大学の語学の授業なんて必修をはずして、ぜーんぶ選択にしちまえばいい、と思っているんです。やりたい奴だけ、やる。これが勉強の本筋じゃないですか。それに、私の関わりの深い英語に関して言えば、そもそも週に1回授業を受けたくらいで上達するはずがない。英語の授業を担当している我々からして、自分たちが大学生だった時に受けた授業のおかげで今日の語学力がついた、なんて思っていないんですから。 第一、明治以来百数十年もの間、日本人は英語と格闘してきたわけですが、結局、未だ英語教授法の決定版を確立できていないわけでしょ? この順序で、こうやって努力すれば、誰でも一応は英語が話せるようになる、という方法論一つ作れないんですもん。傍から「無駄だ」と言われたら、反論できないですよ。 それに、国際化、国際化って言いますけど、この国のどこが国際化しているんですか。たとえば普通の日本人で現在のドイツ首相の名前が言える人が一体どのくらい居るというのか。それどころか、これだけ話題になっているイランとかイラクを地図上で正確に指させる日本人が一体どのくらい居るのか、私は大いに疑問です。この国の国民くらい世界情勢に疎い国民はないし、また疎くても何とかやっていける希有な国なのに、なぜ誰もが「国際化こそ重要」などと白々しいことを言うのか・・・。 しかしそう思ってはいても、「大学のカリキュラムにおける『外国語』なんて大して効果ありませんし、この国の国際化なんてナンセンスです」なんてあからさまに認めてしまうと、「じゃあ、すぐに外国語関係の人員を減らしましょう」ということになってしまう。つまり自分で自分の首を絞めるようなことになりますから、そういうことは口にできないんです。何せ、文部科学省が「文学なんて必要ないが、語学は必要だ」と思っているからこそ私のような英米文学畑の人間が大学に雇われているので、そうじゃなければ私なんてとっくにリストラされてますからね。 ですから、大学のカリキュラムに「英語・外国語」は必要か、なんていう表向きの議論は、最初から無益なんですわ。賛成する側、反対する側、双方とも裏の理由があって、それで喧々諤々やっているんだもの。 それに「必要か、必要でないか」ということは、何も語学に限ったことではなくて、どんな学問分野でも同じことが問えます。大学の授業を受けたことで、学生の能力が飛躍的に上がるなんてこと、ないですよ。そもそも学問なるものが直接何かの役に立つことなんて、そうそうないです。大学なんて来なくったって、人は立派に生きて行けるんですから。大学ってところは、そもそもそういう役に立たない学問を、黙々とやるところなんですよ。その過程で、時々すごく役に立つ発見や発明があったりするわけですが、そんなの偶然、偶然。「必要か、必要でないか」という観点からいったら、ほとんどの学問は必要ないです。 ですから、大学のカリキュラムに何が必要か、なんてことを論じること自体、ほんとは意味ないんです。リア王じゃないですけど、「必要を言うな!」と私も言いたい。我々研究者は、必要だろうが必要じゃなかろうが、面白いと思うから研究しているのであって、その結論や過程を同じく面白いと思う学生だけが集まってくればいいんです。それが本来の大学の姿だと思います。 でも、そんなことを言ったって現実が動くわけではないので、私もまた「国際化のために、語学の授業は必修8単位のままにせよ!」という方に与するわけですよ。そしてそのために、やる気もセンスもない多数の学生相手に、苦労して英語を教えるはめになる、と・・・。進むも地獄、退くも地獄、なんですな。 あーあ、またまた否定的なことを言ってしまった!! 物言えば、唇寒し・・・。もうなんでもいいから、早く冬休みになってくれい!!
December 21, 2005
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京都で起こった学習塾講師による女児殺害事件。先日、容疑者の在籍する同志社大学の学長が謝罪していましたね。何しろ以前、窃盗・傷害事件を起こした学生を、停学処分にしたとはいえ、大学に在籍はさせていたのですから、学長としてもこの不祥事に際して頭を下げる必要があったのでしょう。 しかし、この件に関して多くの方は「天下の同志社大学たるもの、何で窃盗・傷害事件を起こして警察のご厄介になった学生を、停学処分くらいで済ませてしまったんだろう?」と思ったのではないでしょうか。 でも、私、その辺の事情がよーく分かります。大学における処罰制度の実態がどういうものか、知ってますからね。 と言いますのは、以前うちの大学でも同じようなことがありまして・・・。あ! 今のは嘘です。もとい。 ・・・と言いますのは、以前、私の「友人」の勤務先の大学でも同じようなことがありまして、詐欺事件をやらかして逮捕された学生が出たことがあるのですよ。で、たまたま私の友人は、不祥事を起こした学生の処分を決める委員会に所属していたもので、その逮捕にも立ち会ったんですね。皆さんはご存じかどうか、大学のキャンパス内というのはいわば治外法権みたいなところがありまして、通常、警察といえども大学構内には許可なく立ち入れないことになっています。ですから、大学の寮生だったその学生を逮捕するのにも、大学教員の立ち会いが必要だったんです。 で、私の友人もその逮捕劇に立ち会ったわけですよ。数名の刑事さんと一緒にね。そんなこと、めったにない経験でしょ? ちなみに、お縄を頂戴した学生は女子学生でしたから、こういう場面になったら泣き出すだろうと思いきや、結局最後までふてぶてしい態度をとっていたのだとか。それを見ながら、「馬鹿な奴。これでこいつの人生も終わりだな」と思ったものです。いや、「そう思った」と友人が言っていました。 ところがですね、ぜんぜん終わりじゃなかったんです。それどころか、そこから彼女にとっての薔薇色の人生が始まったようなもんですわ。 もちろん友人の大学では、この逮捕劇を受けて、当該学生に対する処罰を決める必要に迫られたのであって、私の友人としては「刑事なんぞに神聖なキャンパスに踏み込まれ、大学の名誉を著しく傷つけたのだから、即退学で決まりだな」と思いながらその委員会に出席したわけ。ところが、あにはからんや、弟はかるや、その委員会で優勢を占めた意見というのが驚くようなものだったんです。 つまり、「有為な学生の将来をこんなことで傷つけてはいけない」「なるべく軽い処罰に止めて、一刻も早い社会復帰をさせなければいけない」・・・とまあ、そんな感じの意見が圧倒的多数だった、というのです。 ひゃー。実に巧妙、かつ計画的に詐欺をやってのけた学生の、一体どこが「有為」なんだよ! もちろん私の友人は「計画的な詐欺というのは、出来心からしでかす万引きなどとは性質が違う。もし大学が軽微な処罰で済ませたら、それは大学がこの種の罪を軽く見ているというメッセージになってしまう。従って退学こそが唯一妥当な処分である」と獅子吼したのですが、そんな主張が聞き入れられるものかわ・・・。しまいには、「あなたの言っていることは、その学生を『見せしめ』にしようとすることだ!」などと逆襲される始末。私の友人はすかさず「どんな刑罰だって、本質的に『見せしめ』です!」と再逆襲をかけたのですが、結局、圧倒的多数の支持により、当該学生は停学処分で済まされることになってしまった。それもたった半年の。いや、それでも半年になったのは私の友人が頑張ったからで、もう少しで3ヶ月の停学処分で済むところでした。 しかも、それだけじゃないんだなー。犯した罪には見合わないような軽い処罰で済ませたばかりではなく、その停学処分が終わった後、その学生がスムーズに学業復帰できるよう、月に一度面会して、「心のケア」をしよう、というところまで話は進んだそうですよ。私の友人が呆れ果てて、「大学としての処分の期間を過ぎれば、それは他の学生と同じ立場に復帰することを意味するのだから、当該学生を特別扱いにして『心のケア』なんてするのはおかしい」と強硬に主張したことによって、その件は取りやめになったのだそうですけど・・・。 ま、上に述べてきた例からもお分かりのように、日本の大学というのは、不祥事を起こした学生に対して、もんのすごくチヤホヤするところなんですよ。ほとんど「下にも置かないおもてなし」で「おつとめ」を終えた学生さんをお迎えするわけ。何だか、まるで「や」のつく方たちの世界みたいでしょ? でも、正真正銘、それが今の日本の大学なんです。 で、そんな(友人の)経験から推測するに、多分、同志社大学でも同じようなことが起こって、当然退学に処すべき学生を停学処分くらいで済ませたのではないでしょうかね。でも、そんなことするから、結局こういうことが起こって、学長自ら下げたくもない頭を下げるはめになるんですわ。ま、そういう意味では自業自得なんですけど。 このブログでも再三主張していますが、今の日本は犯罪者に対して甘過ぎます。で、そういうふうに犯罪者に対して甘い処分しかしない「つけ」がどこに回ってくるかと言えば、それは私たち自身の身に回ってくるんですよ。今回の同志社の学生の件だって、現在の日本の刑罰に関するあり方を反映したものに過ぎないのであって、ほんとに氷山の一角なのだろうと思います。 犯罪者にはふさわしき厳罰を! これ、教授(とその友人)のおすすめです。
December 14, 2005
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今朝、朝刊をパッと開いて目に飛び込んできたものといえば・・・ 栃木幼女殺人事件の続報 大阪姉妹殺人事件の続報 母親、18歳の娘を12年間監禁 41歳男、女子高生を監禁・暴行 ・・・。 何だこりゃ? 破廉恥な事件ばかりで新聞が埋め尽くされた感がありますけど、どうなってんですか、我が国は・・・。 で、呆れながらも読み進めると、これがまた「何だこりゃ」のオンパレードです。 例えば18歳監禁事件に関して言うと、関係者若干名は監禁の事実を知っていながら放置していたとのこと。しかし、いじめとか虐待の問題で、そういう事実を知りながら放っておいたために、学校や児童相談所などが責任を問われるケースがこれまでも数え切れないほどありましたよね。そういうケースを見ていながら、今回の監禁のことを知っていた人たちは、なぜ放っておいたのか? わけが分からん・・・。 それから大阪姉妹殺人事件の容疑者、これがまた何と過去に自分の母親を殺した男だそうですが、そんな奴をあっさり娑婆に送り出した上、さらなる悪の道に入るままにさせておいた司法当局に問題はないのか? それから、幼女誘拐殺人が続いて世間がぴりぴりしているところへ持ってきて女子高生監禁・暴行する中年男。もう、何をか況わんやですなぁ・・・。 で、これらのこともトホホなことばかりですが、今、世間を騒がせている「栃木幼女殺人事件」の報道、これもどうかと思います。 前にも一度書きましたけれど、この種の事件が起こった時、最近のマスコミはやけに事細かに報道しますよね。新聞読んでいると、日々の捜査の進展が手に取るように分かる。もうほとんど「国民総湾岸署化」ですわ。 しかし、被害者でない我々はいいですけど、被害にあったお子さんの親御さんの気持ちを思ったら、どうなんですかね、こういう報道。だって、被害者の小さな女の子の頬に「殴られた痕があった」なんてこと、親御さんとしては読みたくないでしょう。自分が読みたくないばかりでなく、人に読まれたくもないんじゃないでしょうか。「幼女の身体から犯人の体液(汗)を採取」なんて、想像もしたくないんじゃないかなぁ。実際、そんなこと一々報道する必要がどこにあるのか。我々が捜査しているんじゃないんですから。 それに、警察も警察だ。マスコミの要求に合わせてペラペラしゃべるなよ。 それとも、あれですかね、捜査の手が少しずつ自分に伸びていることを感じさせて、犯人を精神的に追いつめようというのかな。うーん、ま、それなら、ちょっとは意味があるかも知れないけど・・・。 でもやっぱり、一々報道すべきこととは思えないな。 ま、とにかく、朝からこういう破廉恥な事件とその報道ばかり読まされるなんて、この国は完全に「たが」がはずれちゃってますな。世も末だ。 小泉さんでも誰でもいいですけど、郵政改革の次は刑法改革してもらいたいもんです。それで、こういう破廉恥な犯罪者を厳罰に処せるようにしてもらいたい。それからついでに、マスコミも少しは考えた報道をしなさいって!
December 6, 2005
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先日、大学にある自分のメールボックスを開けたら、どさどさっと本の山が崩れ落ちてきて、危うく下敷きになるところに・・・。うわっ、何だこりゃ! なーんだ、研究費で買った本じゃん。わーい。 というわけで、今、我が家の書斎は大学から持ち帰った本が山積み状態。で、興味の向くままあれこれひっぱり出しては読んでいるのですが・・・。 うーん、ダメだ。いま一つ身が入らない。やっぱ研究費で買った本って、ダメだなーー。 実は、研究費で買う本には、色々悪条件があるのです。 まず、「あ、この本面白そう!」と思って、購入のための書類を作って事務に提出してから、実際に本が手元に届くまでに大体6週間から8週間くらいかかるというのが一つ目の問題点。その本を買おうと思った時には存在した「暇な時間」が、本が届いた時にあるとは限らないんです。実際、今は師走でてんてこ舞いの忙しさ。とりあえず用のない本を読んでいる暇がない・・・。 それから、本が届く時には一度にどさっと届く、というのも問題ありなんですよね。お腹が死ぬほど空いている人の前に、膨大な種類のご馳走を並べてしまったら、どれから食べていいのか目移りしてしまって、とりあえず口に入れたご馳走の味もろくに分からないということになるのでしょうが、本もこれと同じで、一度にどさっと届いた本の山に幻惑され、この本をちょこっと、あの本をちょこっと、なんて読み方をついついしてしまい、結局気もそぞろで何を読んでいるのか分からなくなってしまうんです。いや、実際、今の私がこれです。 また、研究費で買うということは、つまり自腹を切ってないということですから、これも良くないんですな。自腹を切るとなれば、本の価値と値段を勘案しつつ、本当にこの本が自分に必要かどうか、よほど吟味してから買いますが、研究費で買うとなると、専用の書類にちょちょっと書き込むだけで買えてしまうので、「本当に必要か」なんていうギリギリのところまで考えず、「ちょっと興味がある」くらいのところで買ってしまう。その程度の興味で買っていることが多いので、それが数週間後に届く頃には、「あれ、こんな本買ったっけ?」なんてことにもなる・・・。 あー、ダメだ、ダメだ! 昔はこんなではなかった。家庭教師で稼いだお金をほぼ全額本の購入に充てていた大学院生の頃。苦労して買った本だけに、そこからできるだけ多くのものを吸収しようと、難解な本にも必死に食らい付いていったっけなあ・・・。あの頃のことを考えると、今の私は恵まれた境遇に甘え過ぎです、明らかに。 反省! これからは、よーく考えよう。ご本は大事だよ。 おーし、今日から心を入れ替えて、一書入魂。気合を入れて本を選び、必要とあらばじゃんじゃん身銭を切ろう! そして買った本はとことん読もう! と思う、今日この頃なのでありました。 でもとりあえず今日のところは、あっちの本からちょこっと、こっちの本からちょこっと、拾い読みしようっと。 結局、今日も反省の色なしじゃん!!
December 5, 2005
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「夢実現!」だったらいいのですが、今日のタイトルは「ゆめ・うつつ」の方・・・。 このところ授業疲れと卒論指導疲れ、それから会議疲れも重なって、夕食を食べてからちょっと食休み、なんてベッドに横になったが最後、2時間ほど正体無く眠ってしまいます。 で、10時とか11時とか、そんな時間になってふと目が醒める。醒めた瞬間、2秒か3秒というものは「ここはどこ? 私は誰?」状態で、一体今は夜中なのか明け方なのか、自分は夕飯を食ったのか、これから食うところなのか、さもなければこれから朝食なのか、まるで分からない。 この夢と現実のあわいに迷い込んだような瞬間って、実にこの、気持ちのいいもんですなぁ・・・。 でも、それが続くのは数秒のこと。すぐに現実に呼び戻されてしまいます。そうそう、もう夕飯は食べたんだった。お前はまた仕事もせずに眠ってしまったんだ。 そういえば今日の教授会では、人事院勧告の結果、給料減らされる上に、毎年のベースアップも無くなるという話を聞かされたんだっけ・・・。 ガクガク。 景気のいい話、ないかなぁ。 いやいや、待てよ。今日、大学からの帰路、車を運転しながら新しい本の企画をちょっと思いついたのだった。これ、どうかな? ものになるかな・・・。 思いついた企画自体、「ゆめ・うつつ」みたいなもんだけど、その気にならないと「うつつ」にはならんからな。 ま、少し考えてみよう。 しかし、今日はもうダメ。疲れた。これから深夜のお茶を飲んで、風呂入って寝ることにします。 それじゃ、お休みなさい。ぐーぐー。
November 30, 2005
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今朝の新聞を見たら、大学設置審議会が文部科学相に対し、27の大学・短大・大学院・大学院大学の開設を許可するよう答申を出したという記事が載っていました。 しかしこのご時世、毎年毎年じゃんじゃん新しい大学の開設を認めちゃって、ほんとに大丈夫なんでしょうか? 私は大いに疑問だけどなー。 だって人口統計みりゃ分かりますが、今から10年ぐらいすると少子化の影響が出始めて、受験生がんがん減りますよ。それなのに大学の方はどんどん新設されるとなったら、先行きえらいことになるのは目に見えているじゃないですか。 今ですら受験生の数に比して大学の数が多過ぎる。ですから愛知県内でも大変なことになっていますよ。数少ない受験生をめぐって、大学間で争奪戦が繰り広げられますからね。国公立はまだいいとして、私立の名門大学ですら、正規の入試がA日程・B日程と2回ある。これに加えてやれ「推薦入試」だ「AO入試」だって、都合4回も5回も入試やっています。そうでもしないと、定員を確保することができないんです。しかも、結局どの大学も同じ事をするので、受験生はあっちの大学でもこっちの大学でも入試にパスしてしまう。となると合格通知を送った受験生が必ず入学してくれるとは限らないので、必然、どの大学も定員よりもはるかに多くの合格通知を乱発せざるを得ないわけ。 名門私立ですらこの有様ですから、もう新設の大学になんかなると、入学願書を申し込んだ時点でもれなく合格通知がついてくるところすらある・・・わけないですけど、そういう噂がまかり通るほどの状況であることは確かなんです。 こういう状況は、多分愛知県だけでなく、どこでもそうだろうと思いますよ。事実、経営が行き詰まった地方の大学のことが時々ニュースになったりするでしょう? そんな状態だというのに、「大学設置審議会」なる得体の知れない団体の答申を真に受けて、お気楽に新設大学を認可しちゃって、大丈夫なんでしょうか、文科省は・・・。 大体、今度の「姉歯事件」を見れば、外部の審議団体なるものがいかに当てにならないか、分かるじゃないですか。しかもマンションと違って、大学のあり方なんて「これがいい、あれが悪い」なんてはっきり決められるはずないですもん。適当に分厚い書類出せば通ってしまう。さすがに「理事長の自宅の2階を教室に」という大学は通らなかったけれども、その他だって怪しいもんです。そんなのを外部団体の答申をもとに通してしまって、後で受験生が集まらずに大学が経営破綻した場合、文科省は責任とらなくていいのでしょうか? それにまた今回認可された大学の多くが、看護系・クリエーター系の専門学校的なカリキュラムの大学じゃないですか。最近、この方面の人材のニーズが高いからという理由だけで、すぐにこの種の大学の新規設置を認めてしまう、この短絡的な発想・・・。ついこの間、「オウム事件」の直後には、「専門バカが事件を起こす」という短絡的な発想から、一度はないがしろにした「一般教養」を重視する方向を打ち出したばかりというのに、今度はまた逆に即戦力を求めて「専門教育」重視に変わるという、この風見鶏的な定見のなさ・・・。 このブログではもう何度も文科省批判をしてきましたが、本当にひどいんですよ、あのお役所。大学の新規設置のことだけではありません。既存の大学もあのアホなお役所のおかげで大変な目にあっているんですから。 全国99の国立大学を統合・合併して66に減らすという、例の「遠山プラン」ですか、あれだって思いつきで始めて、担当者が代わったらもうほったらかしですよ。うちの大学なんて、ぐずぐずしていたから良かったようなものの、あの時文科省のいいなりになって統合・合併したところなんて、今、苦労しているといいます。これなんて、ホントに茶番そのもの。 で、同じような思いつきの企画で、国立大学が軒並み独立法人化させられてしまった・・・。これもアホな話だと思いますが、今はこのおかげで旧国立大はどこも苦労させられています。 これに関連して特に下らないのは、法人化した旧国立大学は何年かに一度、民間の審査機構に審査してもらって、大学としてちゃんとやっているかどうか、審査してもらわなくてはならない、というシステム。大学の乏しい予算の中から何百万円も出して、得体の知れない外部団体に学内のことを審査してもらう義務を負わせられているんです。で、外部団体なんて、学問的なことは分かりませんから、審査基準として各種の数値を求めてくる。例えば学生の何パーセントが授業に満足しているかとか、何パーセントがストレートで就職しているかとか、そんなような数値です。 審査機構にいい報告をしてもらうには、いい数値を用意しなければならない。ですから、いかに自分たちが一生懸命やっているか、アピールできるような数値を出すため、日本中の旧国立大学が必死です。そのために、学問・教育・研究とはまったく関係のない、無駄な努力と金がどれほど浪費されていることか、日本中の国民に知ってもらいたいようなもんだ。 まったく無責任な立場の「認証機構」とやらにいい加減な審査をさせて、日本中の大学を疲弊させておきながら、それで文科省としては監督責任を果たしたと思っている・・・。それが「民間にできることは民間に」の文科省バージョンなんです。姉歯マンションとまったく同じ構造・・・。まったく日本の教育・研究界に益するどころか、存在すること自体が害を及ぼす、それが文科省というところですよ。 そんなに「審査機構」を信頼しているのなら、文科省は自分たち自身が審査してもらいなさいって! というわけで、文科省のやることなすこと、すべてとんちんかんですが、それはきっと私がこの方面の仕事をしているからそう実感するのであって、別な仕事をしている人にとっては、やはりその監督官庁のアホさ加減にうんざりしているんでしょうなぁ・・・。 とにかく、無責任に大学を増やし続ける文科省、定見のない文科省、とんちんかんな文科省に対して大鉈を振るわないと、この国の教育・研究は台無しにされてしまうことは確実。幾千万の日本の教職者と共に、このアホなお役所に猛省を促したいと思います。いい加減にせいよ、文科省!!
November 29, 2005
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私は、年齢の割に考え方が古いのか、言葉遣いはきちんとしたい方なんです。いや、というよりもむしろ、変な言葉遣いをされると、その意味が分からなくて困る、という方が正確かな? というわけで、テレビコマーシャルなどを見ていると、時々、「これ、どういう意味なんだろう」と思うことが多いんですね。最近、特に多いかな? で、その都度、「これどういう意味?」と家内に聞くのですが、「そんな、コマーシャルの言葉遣いなんか、気にしないで放っておけばいいのよ」と言われてしまうわけ。ま、そりゃそうなんですが・・・。 で、最近、一番気になるのは、某ビールメーカーのコマーシャルで、柔道家の吉田秀彦さんやモデルのSHIHOさんが登場する奴です。 そのコマーシャル曰く、「この新スッキリ味は、うまいもんと実感できる」。 これ、どういう意味なんでしょうか? もし何の文脈も与えられなかったら、多分、「この新スッキリ味(をした発泡酒)は、うまいものであるなぁ、と実感できる」という意味なのかなぁ、と思うわけですよ。 しかし、コマーシャルの文脈からすると、どうもそうではないらしい。つまり、吉田さんとSHIHOさんが、おいしそうな料理を豪快に食べている風景と共にこのセリフが流れるので、そういうことを総合判断すると、「この発泡酒は、うまいもの(=料理)を食べながら飲むと、より一層、うまさが引き立つ」ということを言いたいのかなあ、と思わせるところがある。 でもその場合、「うまいもんと実感できる」という言葉遣いはおかしくないですか? だもので、このコマーシャルが流れる度に、私には「うまいもん」という言葉が発泡酒を指すのか、料理を指すのかが分からず、非常に嫌なんです。うーーー、じれったい!! ま、ひょっとすると、その両方をかけた言い方のつもりなのかも知れませんが、どっちにしても嫌な言葉遣いだなあ! でまた、一度このコマーシャルのことを考え始めてしまうと、一日中ずっと気になってしまうんですよね。「うまいもんと実感できる」「うまいもんと実感できる」・・・と頭の中でこの言葉遣いがぐるぐる回っている感じ。 「変な言葉遣いは、嫌なもんと実感できる」わけですよ。 皆さんはいかがですか? この宣伝について、どう思われます? 嫌だと思っているのは私だけなんでしょうか? どなたか、「私もこの宣伝は変だと思う」とおっしゃって下さい! 変でないならば、このセリフが何を意味するのか、教えて下さい! 悩める教授に救いの手を!
November 25, 2005
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最近、ネット上でしばしば目にしていた「スキウタ」という言葉・・・。 一体どういう意味なんだろうと思っていたら、今朝の新聞を読んでようやく意味が分かりました。年末の「NHK紅白歌合戦」で歌う曲を一般の方々にリクエストしてもらった、その「皆さんの好きな歌」、ということなんですって? 「好きな歌」を「スキウタ」と称するそのセンス、い・や・だ・ねーー! 一応、若者の言葉遣いのセンスをまねたつもりなんでしょうけど、何もNHKが若者に媚びることないじゃないの。受信料払っているのは誰か、って話ですわ。大半はその「若者」の親でしょうが。だったら、親に、大人に、媚びなさいって! ま、そのことはここでは置いておいて・・・。 どうなんでしょう、紅白歌合戦。昭和も遠くなった今、敢えて放送する価値はあるのでしょうか? 私は疑問ですねえ。 そりゃ四半世紀前、私がまだ少年だった頃までは、良かったですよ。だって紅白で歌われる歌謡曲は、ホントの意味で、その年を代表する国民的ヒットばかりでしたもん。歌合戦を聞いていると、その年、こんな歌もあったなあ、あんな歌も流行ったなあ、というのがよく分かった。まさに一年納めの歌会という雰囲気でした。 それに、同じ大晦日に民放では「レコード大賞」とか「新人賞」なんていう賞を発表するので、そちらで賞をとった歌手が大急ぎで紅白に駆けつける、なんてシーンもあったりしてね。彼らは果たして間に合うのか!? という緊迫感もあった。そんな盛り上がりですから、白組が勝つか、紅組が勝つかの攻防も、実際、見物でしたよ。 しかしそういう古き佳き時代は、山口百恵をはじめとする「花の中3トリオ」や西城秀樹・郷ひろみ・野口五郎の「新御三家」あたりが活躍していた頃、沢田研二が立て続けにヒットを飛ばしていた頃、阿久悠や筒美京平の全盛期、森進一や五木ひろし、細川たかしあたりが毎年ヒット曲を出していた頃・・・を最後に、終わったんじゃないですかねぇ。それ以後は、もうわけの分からぬジャリタレが踊り回るか、ヒット曲に恵まれなかったベテランが昔の曲で出ています状態になるかのどちらか。話題が二人の歌手の派手な衣装合戦に限定されるようになった頃から、もう紅白は死に体だったと言っていいのじゃないでしょうかね。 しかし、そんなふうにして紅白が死に体になった頃から、逆にNHKが頑張り始めちゃった。放送枠を拡大したり、会場外から中継をしたり、司会の上にさらに「総合司会」を置いたりと、まあ、あの手この手のカンフル剤投与ですわ。でも残念ながら、どれも成功しているとは思えない・・・。どんな伝統行事でもそうですが、「保存会」ができるようになっちゃおしまいなので、そうなったらその行事は、もはや社会的な役目を終えたということなんですよ。 ですからね、もうNHKは、頑張るのを止めたらどうですか。死にゆく紅白歌合戦の延命を図るのは止めて、静かに死なせてやりましょうよ。 募集した「スキウタ」とやらは、むしろ「みんなのうた」の放送枠で流しましょう。今年売り出された国民的ヒット曲だけでプログラムが組めないなら、それはもはや「合戦」の体をなしていないのだから、余計なことをしないで、放送を諦めましょう。 紅白歌合戦を静かに埋葬すること。これ、教授のおすすめ!です。
November 22, 2005
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このところ連日のように新聞を賑わせている「欠陥マンション事件」のキーマン・姉歯氏。しかし、この人も変わった人ですなぁ。 名前も変わっているけど、何よりマスコミへの応対が変わっている。 とにかく、謙虚。「私に責任があると思っています」「申し訳ないと思っています」「ほんと、済みませんでした」と、あっさりと自分の責任を認めてしまうばかりでなく、その言い方に実感がこもっているというのか、とても誠実な感じがするんですよね。「言わされている」のではなく、「本心から言っている」感じがヒシヒシ・・・。罪を糾弾しに行っているはずのマスコミも、姉歯氏の応対ぶりに拍子抜けして、糾弾ぶりがなよなよだったもんなー。 一方、いい加減な建築基準審査をして、欠陥マンションにゴーサインを出した某社トップの見苦しいこと。「手続き上は問題ない」などと太いことを言ってましたけど、そんな見苦しい言い抜けをしようとするもんだから、今やマスコミの矛先は、姉歯氏が下げた頭の上を通り越して、監督責任者の責任を問う、という方向に行っちゃってますもんね。 その辺のことを見ても、あの姉歯氏の「責任感ある究極の無責任男」ぶり、あれは近来でも稀な「新手の手法」ですな。 しかし、彼がやったこと自体は、確かに「どうやって償えばいいのか分からない」類のもんですよね。既に入居済みの欠陥新築マンション、それも1棟や2棟ではないものを、これからどうするんでしょうか? 全部壊して立て直すのでしょうか? その膨大な費用は誰が出すのでしょうか? ま、もちろんそういうこともそうなんですけど、私がここで問題にしたいのは、誰が考えたって「まずい」と分かりそうなことを、どうして姉歯氏はしたのか、ということです。だって、この設計でマンション建てたら、ちょっとの地震でも倒壊してしまって、すごい惨事になるだろう、ということくらい、別に頭のいい建築家でなくたって分かりそうなものでしょ? にもかかわらず、それをやってしまう精神状態って、一体何なのだろう、と思うのです。 今、自分がこうしたら、こういうふうになる。そしてそれがそうなったら、こういうことが起きる。で、もしそれが起こったら、大変なことになる。・・・こういう一連の「物語」が頭の中で作れない、ということなんでしょうか? いや、なぜ私がこんなことを持ち出しているかと言いますと、学生の卒論指導をしていると、これと同じことを痛感させられるからです。彼らの多くは、「物語」が作れない。 卒論にせよ、他の論文にせよ、およそ「論文」と名の付くものは、結局一つの「物語」なんです。物事には多様な側面があるので、それを説明しようとしたら、その説明の仕方は何通りでもあり得る。つまり、どの側面をとりあげるか、どの側面を無視するかによって、物事を「物語」る仕方はいくらでもある。で、その沢山ある物語の中で、自分はどの路線の物語に肩入れし、自分なりの仕方でそれを物語るか、というのが、「論文を書く」ということなんですね。 だから、論文を書くとなったら、自分なりに仮説(仮の物語)を考え、それを立証するような証拠を集めることで、「物語」を作らなければならないんですが、今の学生はそれが出来ない。何かを調べろ、と私が命じれば、それを調べることはできるのですが、そうやって集めた事実を繋げていって、自分の想像力で一つの物語にまとめ上げることができない。 そういう「物語」を作れない学生と日々接していると、姉歯氏の「究極の無責任ぶり」に一脈通じるところがあるんじゃないかなー、という気がしてくるんです。自分がやったことが結果としてまずかったことはよく分かる。つまり善悪の判断がつかないわけではない。しかし、それをやっている時には、「これをやったら、こういうことが起きるだろう」という物語が組み立てられないので、ついふらふらとやってしまう。・・・・こういう姉歯氏の不可解な行動の後追いをしそうな人たち、つまり「物語」を作れない人たちは、私が教えている若い連中の中にもいっぱいいるんです。 これは恐ろしいことだと思いますよ。でもこの調子では、今後、姉歯氏の犯したような罪を犯す人は、増える一方なのではないでしょうか。 いや、今、新聞を賑わせている事件の大半は、既に、「物語」の作れない人たちの犯罪なのかも知れません。話題の「タリウム少女」だって、「タリウムをこれくらい飲ませたら、お母さん、どうなるかなー」という物語は作れても、その悪行が発覚した場合、自分はどうなるのか、母親との関係はどうなるのか、周囲の人間との関係はどうなるのか、という物語については、まるで作れなかったのでしょうから・・・。 となれば、こういう無責任男(女)、罪の意識のない罪人の出現に、我々はもっと恐れおののくべきではないのか。そして一刻も早く、何らかの対応策を考えないとまずいのではないか。 さもないと、マンションだけでなく、既にいい加減ガタがきている日本の安全神話も、そのうちガラガラと音を立てて崩壊するんじゃないかと、私なんぞは思っているのですが、皆様のお考えや如何に?
November 21, 2005
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今日は大相撲一年納めの九州場所初日。その割に、テレビで見ると観客席の上の方がガラガラだったなぁ。そしてまた相撲の方も淡白なものが多く、盛り上がりに欠けましたね。頑張ったのは、粘って粘って黒海を押し出した安馬くらいなもの。今場所期待の琴欧州は、土俵下に控えていた時から視線が定まらず、がちがちに緊張しているのが見え見えでしたけど、案の定、上体だけで相撲をとって自滅。蚤の心臓は相変わらずです。 そして結びは、7連覇と年間6場所全制覇をもくろむ朝青龍対モンゴルの新鋭・白鵬の一番。でも、これもあまり見られた相撲ではなかったなぁ。立ち会い、注文をつけて左上手を狙った白鵬の作戦はまあまあですが、結局、惜しいところで逆転負け。うまく上手がとれず、土俵際残して反転した横綱にあっけなく押し出されてしまいました。こういう注文相撲は勝たなければ意味がないので、それで負けるとなると、それはもうただ単に「恥ずかしい相撲」です。せっかくの好取組も台無しというところ。 しかし、その白けた相撲をさらに白けさせたのは朝青龍閣下。逆転で押し出した白鵬に向かって、彼は日本語でかモンゴル語でか、一言罵声を浴びせたんですな。この横綱らしからぬ土俵態度に、もう見ている方の気分は最悪。 若手の白鵬が立ち会いに注文をつけたことに対する罵声か、それとも取り組み中に白鵬の指が横綱の髷に入ったことへの罵声か、それはよく分かりません。しかし、ただでさえ面白みの少なかった初日の相撲の最後にこんな見苦しいざまを見せられたのでは、たまったもんじゃないなあ。力士が本場所の土俵の上で口を開くなよ。稽古場じゃないんだ。 最近、あちこちのテレビコマーシャルに登場して笑顔の安売りをしている感のある朝青龍。でも、そんなことして人気とりをするよりも、本来の職場でしかるべききれいな立居振舞を見せなさいって。
November 13, 2005
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書類が書けない・・・。ほんと、苦手です。どんな書類書いても、一発で事務の方に受け取ってもらったことがない・・・。 今さっきまで「給与所得者の扶養控除等申告書」というのと、「給与所得者の保険料控除申告書 兼 給与所得者の配偶者特別控除申告書」という二つの書類を作っていたんですけど、何が何やらさっぱり分からない・・・。どの金額をどこに書けばいいのか、まったく分からない・・・。 大体、自分が今どんな種類の保険に入っていて、毎月どのくらい支払っているのかもよく知らないし、いざ病気になったりしてそれが必要となったときに、自分がいくらもらえるのかも知らない。それが必要十分なものなのか、不十分なものかも知らない。 そんな状態ですから、「保険料控除申告書」なんて大層な書類を書くのは、毎年地獄の苦しみです。 それでもどうにかこうにか怪しげな金額をあちこちに書き込み、指示のままそれらを足したり割ったりして、おお! ようやく答えが出たゾ! さあ、この金額をこの欄に書けばいいのか、なんて思っていると・・・すぐ上に「最高50,000円」なんて書いてある。要するに私が苦労して計算した金額が50,000円を越えているんだったら、それ以上はどんな金額だって一律「50,000円」と書くしかないらしい・・・。 じゃ、今までの私の苦労は何だったの・・・。 「配偶者特別控除」というのもよく分からないなあ。なになに・・、配偶者の所得金額から65万円を引け? 何だ、この65万というのは? で、引いた金額が38万円より大きいか、小さいかだと? 何だ、この38万円というのは? あー、分からん!! は~・・・。ま、一事が万事、いつでもこんな感じですわ。毎年この時期、この書類を書く時期になる度にストレスがたまる、たまる。多分、私は「書類が書けない」という病気なんだ。書類が不自由な人なんだ。 こういうの、すらすらと鼻唄交じりで書ける人って、どういう人なんだろう。そういう人が公認会計士とか、そういうのになるのだろうか・・・。 皆さんは、この手の書類って、簡単に書いちゃうんですか? 普通、どうなんだろうか。 あー、もうダメ。頭がパンク。 よし、現実逃避だ。大相撲、大相撲。これからお茶の時間にして、大相撲見ながら、おやつ食べよう! それでは!
November 13, 2005
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昨日、夕食の後に2時間ほどがっつり寝てしまったこともあり、その後、本格的に寝るのがいつも以上に遅くなってしまって、今朝はすっごい寝坊をしてしまいました。とても人には言えないほどの寝坊です。今日は午後から会議があったのですけど、午後からの会議に寝坊で危うく遅刻しそうになるなんて、一体どういうこっちゃ!? とりあえず、社会人失格! 私はいつも思うのですけれど、これほど夜型人間の私でも、もっと歳をとったら、毎日朝4時に目が覚めてしまうというような朝型人間に変わるのでしょうか? 私としては、「そんな自分が見てみたい」と思っているのですが。 ま、それはともかく、あまりの寝坊ぶりに軽い自己嫌悪を抱きつつ会議に臨み、1時間後にトホホな気分でそれを終えたわけですけど、会議室から外へ出てみてびっくり。明るい午後の陽射しが照りつける中、ふわーっと雨が降ってきたんです。「やあ、お天気雨だ」「珍しいなあ!」「狐の嫁入りですね」などと口々に囃しつつ、同僚の教授たちと時ならぬ雨をしばし眺めていたのですが、そのうちに誰かが「秋雨じゃ、濡れていこう」なんてお決まりの親父ギャグを飛ばしたのを汐に、雨の中、三々五々連れだって、歩いて研究室に戻ってきました。 しかし、「雨が降っているのに、お日様は照っている」というのは、何だか楽しいもんですね! 濡れた道路に陽射しが反射して、どこもかしこもキラキラだ。それに誰かが口にした「狐の嫁入り」っていう言葉自体、何だか知らないけど素敵な言葉じゃないですか。 ということで、寝坊し過ぎて何となくモヤモヤしていた心が、お天気雨一発で晴れました。おーし、これから頑張って仕事して、午前中の分を取り戻すぞ! それでは!
November 8, 2005
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いやー、恐ろしいですなー、母親毒殺未遂事件。昨日見た映画『シンシティ』に出てきたサイコキラー、ケビン君も不気味でしたけど、自分の母親に毒を盛り、中毒していく様子をじっくり観察してブログに書き込んでいた女子高生となると、ケビン君顔負けじゃないですか・・・。もちろん、もしこの容疑が真実だったとしたら、の話ですけど。 第一、ブログをそんなことに使わないで欲しいですなー。ブログに対する世間のイメージがどんどん悪くなるばっかりだ。ちゃんと使えば、可能性の多いメディアであるはずなのに。 ま、そのことはひとまず措くとして・・・。 自分でもこのニュースを見、それについて書いておきながらこう言うのも何ですが、この種のニュースって、そんな細かいところまで報道しなくちゃいけないんでしょうかね? 私だってそんなに興味をもってこのニュースを見守っているわけではないですけど、それでも「タリウム1グラムで人が殺せるんだ」とか、「この毒物、案外簡単に手に入るんだ」とか、「この毒で中毒すると、髪の毛が抜けるらしい」とか、そういう、いらんことまでつい耳に入ってきてしまう。 結局、メディアがそういう余計なことまで報道するから、「自分もやってみよう」などと考えるような馬鹿な奴が、いずれまた出てきたりするんじゃないですか? 嫌だねー。 でも、それも無理ないですよ。この種の報道って、いわば犯罪の手口を手取り足取り指南しているようなもんですもん。このブログでも前に一度触れましたが、この種の犯罪の報道は、何らかの規制をした方がいいんじゃないのかなぁ・・・。無論、「報道の自由」との兼ね合いがあって難しいのかも知れませんが、その辺、「社会を良くする」という大義を優先して、うまくやれないですかね。 あるいは、すっごく善良な子供のニュースなんかをがんがん流して、犯罪関係のネガティヴなニュースを「中和」するのはどうか知らん。「今日夕方、渋谷のスクランブル交差点で、どこどこ中学の誰それさんが、つまずいて倒れていたお婆さんを助け起こし、何と向こう側まで背負っていってあげたそうです!」とか、そういうポジティヴなニュースを嫌と云うほど流すわけ。「どういう人間がいい人間なのか」というモデルのないことが、今、日本で無軌道な少年犯罪が頻発している、その下地になっているのだとすれば、こういう報道も少しは役に立つかもしれませんよ。 ・・・なんて、そのうちほんとに「善良な子供」の存在がニュースのネタになるような時代がやってきたりして・・・。 一方、逆に規制緩和してもらいたいのが「個人情報保護法」です。こいつのおかげで苦労させられている人、多いんじゃないでしょうか。 私個人のレベルで言うと、まず困るのは各種「名簿」が手に入らなくなったこと。今まで当然のように存在していた「職員名簿」とか「学会名簿」などが、この法律のおかげでどんどんなくなっているのですが、こういう名簿って、無くなってみるとすっごく不便なんですよね。私も仕方なく2年くらい前の名簿を今だに使っていますけど、職場の配置が変わったり、所属や連絡先が変わったり、というのが結構あって、2年前の名簿じゃ役に立たないことが多い。 またチャリティの仕事をしている人の話なんかを聞いても、地域に住むお年寄りのデータがなかなか手に入らないので、せっかくその方たちの役に立とうという企画もなかなか実行できず、あちこちで頓挫しているとか・・・。そういうのって、本末転倒ですよね。 報道しなくてもいいようなことがやたらに報道されているかと思えば、必要な情報には規制がかかって思うようにことが進まなくなっている現在の日本の情報管理のあり方には、矛盾がある! ・・と私は思います。ほんと、何とかして!
November 2, 2005
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唐突ですが、前々からちょっと悩んでいた問題について一席。 皆さんはご自分の配偶者のことを、人に対して紹介する時、何と呼んでいらっしゃいますか? 私の友人を見渡すと、「ヨメさん」と呼ぶ奴が多いのですが、私の感じですと、自分の配偶者を「ヨメさん」と呼ぶことには何故か抵抗があるんですなあ。「嫁」というと、何だか「私の」ではなく、「私の家」の視点から見た配偶者、といった意味合いがあるような気がするもので・・・。 じゃ「奥さん」はどうかというと、これも何だかしっくりこない。自分の配偶者のことを「奥さん」と呼ぶのは、「山の神」と呼ぶのと同じで、なーんか尻に敷かれているような感じがするんですね。それに、たとえば自分の目上の人に対して、「私の奥さんは・・・」なんて言えなくないですか? ま、そんなこともあって、私は自分の配偶者のことを、とりあえず「家内」と紹介します。しかし私が「僕の家内は・・・」なんて言うと、私のゼミ生たちが敏感に反応して、「えー! 先生って奥様のこと『家内』って呼んでいらっしゃるんですかー! 意外ー!!」などと囃し立てるんですよ。実は今日、ゼミがあって、そこで囃し立てられたんですが・・・。「家内」って変ですか? ま、実は私自身もこの呼び方がいいのかどうか、必ずしも自信を持っているわけではないんです。何だか自分の語彙ではないような感じ、と言いますか・・・。それに、この言葉にも「妻たるもの、家に貼りついているべきだ」というような封建的な響きがあるような感じもしますし・・・。 でも、「ヨメさん」もダメ、「奥さん」もダメ、「家内」もダメとなると、他になんて言えばいいのか・・・。英語だと「僕のワイフは・・・」で済むわけですけど、これを日本語に直して「僕の妻は・・・」ってのも、私としてはあまり使いたくない呼び方なんですよね。小説か何かに出てくる言い方みたいじゃないですか、「私の妻は・・・」なんて・・。 かといって、「私のパートナーは・・・」なんて口が裂けても言いたくない! 一方、私の「家内」に尋ねますと、女性の側としても、配偶者の呼び方には苦労すると言います。「主人」というのは、女=奴隷というニュアンスがありますし、「旦那(様)」というのも、それに近い。それに「私の旦那は・・」というのは、何だか下品な感じがしますしね。また「私の夫は・・」というのも何だか、こなれた日本語ではないような感じがする。じゃ、私のことを何て言って人に紹介するの? と尋ねると、親しい友人には普段「家内」自身が私を呼ぶのと同じ呼び方をし、目上の人には「主人」を使い、一般には「ダーリン」と呼ぶとのこと。「ダーリン」って・・・あのねー・・・。 じゃ僕も普段呼んでいるように「私のハニーが・・・」って言っちゃうぞ。(ウソ) ということで、このブログをお読みの皆さんの中で、何か「これがいいんじゃないの」というような配偶者の呼び方をご存じの方、ぜひコメントをお寄せ下さい。悩めるワタクシに救いの手を!
October 31, 2005
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「ほっとけない、世界の貧しさ」を合言葉に日本でもブームになったホワイトバンド運動。これが今、問題になっているようです。 ホワイトバンド運動というのは、要するに何か白いものを身に纏い、それによって世界のあちこちに貧困に苦しんでいる国があることを意識しあうと同時に、それを是正するための何らかの方策をとるべきであるという意思表示をして、それぞれの国の国民が自国の政府なり何なりを動かそう、という運動です。つまりホワイトバンドは、実質的には「世界中から貧困をなくせ!」というプラカードと同じなんですね。ですから、「赤い羽共同募金」のような直接的な募金活動とは大分性質が異なることになる。 ところが、実際にこのホワイトバンドを購入して腕にはめていた人の多くは、ホワイトバンド運動というのはまさに「赤い羽」的な募金活動なんだろうと勘違いしていて、その価格の何割かが貧困に苦しむ国々に寄付されるのだと思っていたんですな。そのため、実際には必ずしもそうではないということが分かって、日本でホワイトバンドを売り出した会社に抗議が殺到していると、まあ、そういうことらしい。 そうなると、一方では「勘違いした購入者の方が悪い」という見方もできますし、「いやいや、趣旨説明が十分出なかった販売者の方が悪い」という見方も出来る。ま、どっちにも少しずつ非があるので、これは私個人の勝手な予想ですが、最終的には、販売者側が当初の計画を変更し、売り上げの何パーセントかを実際に寄付する形で収まりがつくのではないでしょうかね。 しかし私はこれとはまた別に、もっと基本的なところで「募金活動」というものに疑問を持っているところがあります。 いや、例えば何か大災害があったりした時の募金とか、交通遺児のための募金とか、そう言った種類のものなら、(ボーイスカウトなどを活動のために利用することには反対ですが)、基本的な趣旨として理解出来るし、実効もあると思うので、賛成します。私が疑問に思うのは、実効があるのかどうかよく分からない種類の募金です。 例えば最近地震の被害にあったパキスタンを例にとってみましょう。ご多分にもれず、かつて私の通っていた小学校でもこの地方の貧困をなくすための募金活動をしていて、私自身も子供の頃、小遣いの中から継続的に何がしかの寄付をしてきました。またそうして集められたお金はきっと彼の国に渡り、何らかの役には立ったのだろうと思います。その意味で、この募金活動はある意味、ちゃんと機能したと言える。 しかし、私はこの件に関しても大いに不満があります。 パキスタンの大地震後の映像などを見ると、小さな家も大きな建造物も一様になぎ倒され、すごい被害が出ていることが分かります。そして難を逃れた人々もまた、救援物資がうまく届かずに、飢えと寒さに苦しんでいる様子がよく分かる。 で、私が思うことは、「パキスタンには、建築基準法はないのか?」ということであり、「パキスタンには、まともな道路はないのか?」ということなんです。もちろん大地震は天災ですから避けようがない。それは分かっています。でも、もしちゃんとした建築基準法があったら、あそこまでひどい被害は出さなくて済んだのではないかと思う。またもし各地に点在する集落を結ぶ道路がちゃんと整備されていれば、救援活動ももう少しスムーズに行っただろうと思うのです。 そういう社会の基盤を整える努力を、果たしてパキスタン政府はこれまでにやってきたのでしょうか? そういうことをまるでやらずに、これまでも、またおそらくはこれからも、大災害がある度に多数の国民を危険に晒すつもりなのでしょうか? ならば私の子供時代の小遣いは、一体何のために使われたのか。私はそれを説明して欲しい。 日本だって、これまでに何度となく大災害を経験しています。関東大震災しかり、東京大空襲しかり、広島・長崎しかり。でも日本の場合、その焼け跡からまだ煙が立っている時から、早くも復興の槌音が聞こえてきて、あっという間に復興してしまう。しかも前よりも災害に強い形で復興してしまいます。もちろん復興するまでの間、他国からの援助を有り難く受けるわけですが、その期間は短く、また援助物資もきわめて有効な形で使い切っていると思います。そして何よりも重要なことは、再起不能かと思われるような災害から素早く立ち直った後は、逆に他国に援助する側に回って、過去の恩返しをしている、ということです。 それに引き換え、いわゆる「貧困に苦しんでいる国々」というのはどうなのか。何十年も他国からの援助に頼りっぱなしの国々の政府というのは、一体何をやっているのか。いつまで他人様頼りの「その日暮らし」をするつもりなのか。 もちろん、そうはいっても現実に飢えた人々がいれば、理屈抜きで援助しなくてはならないというのは分かります。しかし、それはざるで水を掬おうとするような種類の援助であって、いつまでたってもきりがない。そのことは、厳しく批判すべきものなのではないでしょうか。厳しく批判して、是正させなければ、結局その国の人々がいずれまた苦労することになるのは目に見えています。 ホワイトバンド運動のトラブルは、ある意味、いい機会ですよ。これを機に、もうそろそろ「可哀想だからお金を送ろう」だけで済ませてしまう寄付活動は止めにしようではありませんか。貧しい国々の内実を調査し、責任の所在を突き止めようではありませんか。その貧しさは不可抗力と言えるものなのか、それとも国民が怠惰だから貧しいのか、あるいは政府が悪いから貧しいのか、はっきりさせてもらおうじゃないですか。寄付する側としては、そのくらいのことを要求する権利があると思います。そしてそういうことは、民間の慈善団体ではなく、日本の政府がやるべきではないかと私は思う。その意味で、これまで気前よく、しかし無責任に他国の援助をし続けてきた日本の政府に対し、援助政策の見直しをしてもらいたいと思うのです。 ま、私が言いたいのはそういうことなんです。でもそこまで言ったついでにもう一言、十年一日のごとくお涙ちょうだいの募金広告を流し続けるACにも、この際私は猛省を促しておきたいと思います。正義を訴える団体に猛省を促すのは気が引けますが、そうは言ってももう少し考えてくれよ、という意味を込めて、ね。
October 24, 2005
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昨日、教育実習生の授業を参観しながら、昔の日本ってすごい国だったんだなぁ、とひたすら感心してしまったことを書きました。ま、それはそれでいい。しかし、その実習生が授業をするのを見ていて、大いに疑問に思うこともあったんです。 と言っても、それはその実習生に問題があったということではありません。彼女は教育実習生として、実に立派に授業をやったと思います。それに後で確認しましたが、今回彼女が用いた教案は、彼女の指導教員と念入りに打ち合わせながら練り上げたものだそうで、つまり彼女が昨日子供たちに社会を教えた教え方は、今日本の小学校で行なわれている「ものの教え方」の一つの典型なんです。ですからこれから私が言おうと思っている事は、現在の日本の教育のあり方そのものへの批判だと思って下さい。 で、日本の教育、特に日本の小学校教育のどこに問題があるかと言いますと、少なくとも国語とか社会と言ったような人文系の授業に関して、常に「児童自身に考えさせる」ことに重きを置いているところです。 え? 子供たちに自分の頭で考えさせ、自力で答えを見出させることのどこがいけないの? そう思われた方もいらっしゃるでしょう。しかし、それは実際に日本の教育現場がどういうことになっているか、見た事がない人の言い分です。 実際に見たら、こりゃやばい、と思いますよ。 たとえば昨日の社会科の時間にしても、授業は常に児童への質問形式で進みます。「250年前の木曽三川河口付近の地図と、現在のこの付近を写した写真を比べて、どこが違いますか? 分かる人、手を挙げて!」というふうな問いかけから授業が始まるわけ。もちろん教師の側としては、「昔は三つの川が河口付近で合流してしまっていたけれど、今はちゃんと三本に分かれて流れています」なんて答えを期待しているんでしょう。ところが、実際にはそんな答えは返って来ません。「木曽川と長良川はまっすぐだけど、揖斐川はちょっと曲がっています。それにちょっと細い」「昔の地図には、もう一つ別の川の名前が書いてあります」「今の写真では川に橋が架かっています」「今の写真に写っている田んぼには、カラスよけの案山子が立っています」・・・とまあ、とんちんかんな答えばかりが出る。そういう中からちょっとはましな答えをピックアップしながら教師は話を進めるわけですが、何しろそんな調子ですからなかなか本題にはたどり着けません。 それでもどうにかこうにか、今の木曽三川が整然と三つに分かれて流れていることに気づかせた後、次に教師は「じゃあ、どうやって中洲同士を土手でつなぐことができたのか、皆さん、考えてみましょう」なんて問いかけるわけ。しかし生徒たちの答えは「みんなで力を合わせたんだと思います」「多分、土を運んだんだと思います」みたいなことばかり・・・。そりゃそうでしょう、私だってそんなこと聞かれたって答えに窮します。ましてや、「上流から石をくくりつけた丸太を流し、堤防の基礎を築くべき場所まで来たら、丸太にしがみついていた人足が紐を切って石を川底へ落とし、自分は泳いで逃げたのだろうと思います」なんて答えが出るはずないじゃないですか。この場合、現実は子供たちの想像力を遥かに越えているんです。 ま、そんな調子で、子供の方も何を学習しているのだか要領を得ないまま授業時間も終わりに近づいてきます。そこで先生は、次の時間への橋渡しをしようとするわけ。で、「では皆さん、今日学んだことを踏まえて、次に自分が知りたいなーと思うこと、調べたいなーと思うことを、言ってみて下さい」などと問いかける。当然、「この治水事業を誰が、どういう目的で、どうやって達成したのか、調べてみたい」などという答えを期待しているのでしょう。しかし子供たちの答えは、「どうして昔の人は河口なんかに住もうと思ったのか知りたいです」「三つの川がどのくらいの深さがあるのか、知りたいです」「僕、お父さんと一緒に木曽川に行ったことがあります」なんて答えばかりで、これまた収拾がつかない。で、結局、この時間に何を勉強したのか、何が分かったのか、よく分からないまま終わってしまうわけです。 実際、この時間に子供たちが理解できたのは、昔と今では木曽三川の河口付近の様子が違う、ということだけでした。昔の人が水害に苦しめられたこと、それを知った江戸幕府が治水に乗り出し、家老の平田靱負と薩摩藩の人足たちがことに当たったこと、知恵を絞って奇想天外な工法を編み出したこと、1000人の犠牲者の上にようやく工事が終了し、人々の暮らしを守ったことなど、本当に教えるべきことは何一つ伝えられていない。 「これでいいのか、日本の小学校教育?!」と私が思うのも、無理ないでしょう? で、なんでこんなことになるかと言えば、要するに最初の最初っから「子供たち自身に考えさせよう」とするからですよ。そんなこと出来っこない。子供には十分な知識もなければ、経験もなければ、合理的な思考能力もないんですから。考えるための道具がすべて欠けているというのに、彼らに「自分で考えさせ」ようなんて、無理に決まっている。そんなこと当たり前じゃないですか。 同じことは以前、国語の授業を参観していた時も思いました。その時、太平洋戦争で兵隊に取られたお父さんが戦地で死に、お母さんとお兄さんも空襲で焼け死んでしまって、一人残された女の子が、最終的に飢え死にする悲惨な物語を小学校3年生に読ませていたのですが、一通り読んだ後、その物語の内容を「子供たち自身に考えさせた」ところ、「その女の子は、死んで天国に行って、お父さん、お母さん、お兄さんに会えたから、とても楽しい話だと思います」と結論づけた子が、クラスの大半を占めたのでした。慌てた先生が、「だって死んじゃうのよ、お友達とももう会えないのよ」と促しても、子供たちは「だって戦争なんだから、お友達も皆死んでしまって、皆天国で会えるから楽しいと思う」と口を揃えて答えるわけ。「子供自身に考えさせる」ということの危険性とは、つまりそういうことです。 もし仮に、私が今回の社会科の授業を担当するのであれば、何はともあれ、まずはこの地域の治水にまつわる歴史を十分に調べたうえで、それを子供たちにも分かるような言葉で彼らに語って聞かせたいと思います。そうやって子供たちの頭の中に、水害に苦しめられた人々の苦労や、水害に立ち向かった人々の勇気と知恵をしっかりと植えつけることを心がけます。だって歴史を伝えるには、知っている人が知らない人に物語る以外ないんですから。 で、その上で、もし子供たちに何事かを問いかけ、彼ら自身に何かを考えさせようというのであれば、たとえば「平田靱負という人は、難工事だと分かっている治水事業の責任者として幕府から任命された時、どんな気持ちだったと思う?」なんて尋ねてみたいですよ。あるいはまた、さらなる学習のための課題を与えようというのなら、「なぜ幕府は、木曽三川の治水のために、わざわざ薩摩藩の人足を使ったのだと思う?」なんてことを尋ねてみたい。 ま、それはともかく、どこの軽薄な教育学者が思いついたアイディアか知りませんが、「子供自身に考えさせる」というような、つまらない教育哲学に基づいた教育方針というのは、一刻も早く捨て去った方がいいと私は思います。最近の若い人たちの間に確固とした正義感・倫理・社会的マナーが根付いてないように見えるその根本には、小さい時から社会のルールではなく、幼稚な子供の頭で考えた独りよがりのルールに基づいて行動させられてきたことが原因としてあるのではないかと、私には思えてしょうがないのです。 子供たちに「自分の頭で考えさせる」のではなく、彼らがいずれ立派な大人の社会の一員になれるよう、「大人の頭で考えたこと」を教え込むような教育をすべきであーる!! 私は、日本の小学校における教育方針の大転換を、微力ながらここに主張したいと思います。
October 21, 2005
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先日、今、巷で話題の村上氏について、読売新聞社の渡辺恒夫さんが「イカサマ野郎だ!」と吐き捨てるようなコメントを出しているのをテレビで見ました。 ま、私も村上さんというのはややエキセントリックな人だなとは思いますが、それは個人の勝手な思いこみなのであって、仮に公式なメディアからコメントを求められた場合、私なら「存じません」と言うでしょうし、それが筋ってもんなんじゃないですかねぇ。 もっとも渡辺氏が村上さんのことを個人的によく知っていて、しかも彼が「イカサマ野郎!」だということもよく知っているなら、また話も変わってきますが、それにしても公の場で人を「イカサマ野郎!」と罵るのは、いかがなものかと・・・。もうナベツネさんというのは渡世の仁義といった次元を通り越して、何言っても構わないという地位を手に入れたのかな。今回のことに限らず、いつもあんな風ですからね。ま、メディアの方も、ナベツネさんがああいうコメントを出すのを期待して取材に行っているのだろうから、その意味ではメディアも悪いな。 それにしても、私はよく知りませんが、読売巨人軍の社是というのは、「巨人軍の選手は紳士であれ」とかいうのじゃなかったでしたっけ? その親分がああ紳士的なんじゃ、巨人軍の選手の皆さんも苦笑いというところでしょう。 ところで、肝心な問題は巨人より阪神です。 ニュースなどでの報道を見る限り、圧倒的多数が村上氏の株式公開案に反対、という感じですね。あれが私には今ひとつ分からないのですが。 いや、親会社の阪神電鉄が反対するのは、よーく分かります。だって、15万人の阪神ファンが株主になった場合、株主総会が大変なことになりそうですもん。この前、阪神がリーグ優勝した時の暴徒と化した阪神ファンの映像、ご覧になりました? ああいうのが株主総会に出て来るんですよ。そりゃ、大ごとでしょうよ。第一、株主総会やる場所があるのか知らん。甲子園球場全部使ったって、15万人入らないんじゃないですか? だから、親会社が反対するのはよく分かる。でも何でファンの側が反対するんでしょう? だって、株主になれば経営者に対して言いたいこと言えるんですよ。バースみたいな強力な助っ人外国人選手を連れてこい! とか、ファンの支持を得ている選手・監督を辞めさせるな! とか、いくらでも言える。そういうの、阪神ファンって好きそうなのに。 また株式公開すると、チームが株主のものになってしまって、一般のファンのものでなくなってしまう、なんてことを言う人もいるみたいですが、そもそも現時点で、プロ野球チームの大半はファンのものであるどころか、各オーナー企業のものなんじゃないんでしょうか? だからこそ、オーナーである会社の経営が傾くと、チーム自体が消滅するなんてことが起こるわけでしょう? ですから、むしろ株式公開した方が、まだ名実ともに「ファンのもの」になると思うのですが・・・。 ま、私はプロ野球にも阪神球団にも興味がないので、どうなろうと構わないのですが、阪神ファンって不思議だなーって思います。 それにしても、ホリエモンにしても村上さんにしても、よく叩かれる人たちですなあ。二人とも一代にして、どころか、ほんの10年、20年で大きな企業を作ったというだけでも大した手腕なのに。こういう人に対して、日本ではすぐに「金さえあれば何でも出来ると思って・・・」ということが言われますが、彼らはただビジネスをやっているだけで、ビジネスというのはそもそも利潤追求するもんなんですから、そんなこと言っちゃあ、ちょっと可哀想ですよ。 その一方、同じような感じの孫さんとか、三木谷さんって、あまり叩かれませんね。何でですかね? 人徳ですかね? ま、それもそうかもしれませんが、それ以上に孫氏と三木谷氏はメディアの前で不必要にしゃべらないから、それで叩かれないんじゃないかな。ああいう立場になったら、しゃべっちゃいけないんだ、きっと。しゃべればしゃべるだけ、損をしてるもんな。 でも私はそういう立場じゃないので、良かった! これからも「お気楽日記」で好きなこと言いますよー。乞うご期待! さて、先日も言いましたが、私は明日から北海道出張です。しばらく更新が途絶えますが、帰ってきてからまたパワー全開で書きまくります。
October 13, 2005
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今日は床屋さんに行ってきました。例の私のお気に入りの床屋さんで、「こんちは」とお店に入ってから「ありがとう」とお店を出るまでわずか25分。髪を切ってくれている間も余計な話をせず、放っておいてくれる。実に気分がよろしい。 ところで理容師さんが黙っているものだから、必然、客としてはこの25分間の間、店内に流れているFM放送を聴くことになります。私も聴いていました。で・・・・ つまらないんだ、これが!! どうしてこうつまらないんだろう? って言うか、どうしてここまでつまらなくできるんだろう? ちなみに私が聴いていたのは、どこのFM局かは分かりませんが、女性のDJでした。で、この人がつまらない日本の若者の曲をかけ、何だか分からないけれど、その曲をやたらに褒めちぎるわけ。すばらしい曲だ、聴いているだけでエネルギーを与えられるようだ、とか何とか。私には何とも陳腐な、馬鹿馬鹿しい歌詞の曲としか思えませんでしたけど。で、「・・・?」と呆れていると、どういう話の流れだったか急にお弁当の話になって、彩りよくお弁当が作れた時は人に見せたくなる、というようなことを言い出すんです。で、その挙げ句に「そうだ! 上手にお弁当が作れた人、今から写真にとって局の方に送って下さい!」と、いかにも嬉しそうにのたもうわけ。 はぁ? お弁当? 局に写真を送れ? 一体、何のこっちゃ・・・。 私はもうラジオというものを聴かなくなって久しいですから、DJがどんな曲をかけようと、どんなことを話そうと、どんな提案をしようと、別に構わないですけど、私以外で仕事をしながらFM放送を聴いている人なんて世の中には沢山いると思うのですよ。その人たちが毎日こんな感じのDJの戯れ言に付き合わなくてはならないのかと思うと、本当に気の毒になります。 もちろん、たまたま今日、私が聴いたFM放送が下らなかっただけかも知れません。しかし、私にはとてもそうは思えないんだなー。少なくとも私が何かのついでにたまにFM放送を聴くと、その都度、同じようなことを思いますもん。どの局を選んでも、みんな同じ。DJが言うこともまったく同じ。声さえも、まったく同じに聞こえます。 きっとこういうところでDJやっている女の子たちって、大学でも放送研かなんかに在籍してたりして、「DJになる勉強」をしてきた連中なんでしょうね。だから、定められた時間の間、そつなく何ごとかをしゃべりたてることはできる。でも、できるのはただそれだけ。ちょうど英会話を習ってはみたけれど、「内容のある話」そのものができなかった、というようなもんじゃないのかな。 もし私が村上ファンドみたいなお金持ちだったら(おっと、あの人は「ファンド」って名前じゃなかったか・・・)、FM放送局ひとつ買い取って、もう少しマシな放送をしてみたいですね。そうしたら、とりあえずDJはすべて40歳以上にしよう。そして「ちゃんとした選曲」ができるプロを採用しよう。自分がかける曲の解説ができる人を使おう。声に深みのある、落ち着いた人を選ぼう。ゲストにはジャリタレではなく、色々な分野で秀でた業績を挙げている大人を選び、その人とちゃんとした会話ができる人じゃなければDJをやらせないようにしよう。リスナーからのお便りやリクエストは原則受け付けないようにしよう。要するに、大人のFM局を作ろう。 ホント、いつも思うのですけど、現代日本の日常生活の中で常に不足しがちなのは、「大人」じゃないか知らん。それと、大人に付帯するものとしての「知性」と「品」ね・・・。 というわけで、頭はさっぱりしたものの、あのFM放送にはいささか「殺られ」ちまって、ガクガクッとなってしまったワタクシなのでした。今日も、わけ分からん!
October 12, 2005
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今日、大学からの帰り道、交差点で右折信号が青になるのを待っている間、ふと横を見ると、民家の庭先に実をたわわにつけた柿の木があるのが見えました。実はまだ青かったですけど、もう柿の実がなる時期なんですなー。 ところで、最近、庭の果樹についた実を、収穫しないまま放置している家が多くなりましたね。今年の夏はどこも琵琶が豊作だったようですが、びっしりと実をつけた琵琶の木が、そのまま放っておかれているのを、あちこちで見かけました。また去年の秋にも、収穫されない柿の実が道路に落ちて腐り、独特の臭気を放っているのをそこここで見かけたような気がします。琵琶にしろ、柿にしろ、せっかく実がなっているのに、どうして取らないんでしょう? わけ分からんなあ。自分の家の庭に何か実のなる木があったら、楽しくないですか? 私だったら嬉々として収穫しちゃうけどな。 ま、人の家の庭のことなら仕方がないですが、所有者が曖昧な土地に生えている果樹の実が放置されているの見ると、実にもったいない気がします。私の家の周辺にはまだまだ家の建っていない造成地があって、そういう造成地にどういうわけか果樹が植えられていたりする。梅とか琵琶とか栗とか、そんな感じのものですね。こういうのは多分、税金対策なんでしょう。それだけに最初から収穫する気なんかないらしく、花が咲こうが、実がなろうが、そのまま放置してある。そういうのを散歩の途中で見かけたりすると、「今夜、闇にまぎれて収穫に来よう!」なんて、よく家内と人聞きの悪い相談をします。とは言え、そんな果樹でもやっぱり誰かの所有物なんだろうし、勝手に取ったら窃盗になるのかしらと思って、さすがに「夜の収穫祭」を決行したことはないんですけどね。 木になった実がそのまま放置されているというのは、この国が食べることに困らなくなったことの証拠でもあり、それはそれで喜ぶべきことなのかも知れません。しかし、それはそれとして、大地の恵みを受けることの喜び、しかも労せずしてそれを受けることの楽しみというのは、また別にあるはず。いかに豊かになったとはいえ、何もそういうものまで忘れることはないんじゃないかなー。 ま、いいや、人のことは。いつの日か、小さいながらも自分の庭を持ち、そこに沢山果樹を植えましょう。柿よりも桃か琵琶を。あと梅も。実がなるのかどうか分かりませんが、アーモンドの花も好きだからアーモンドも植えましょう。それから、オリーブ、これははずせない。 さ、果樹一杯の庭が持てるよう、頑張ろう。仕事、仕事!
September 30, 2005
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今日は教授会の日。夏期休暇中には教授連が一同に集まる機会が少ないこともあって、教授会の開かれる日には、前後に様々な会議が行われます。というわけで、今日は会議だけで3つ、その他に、これは自由参加ですが、学内講演会が1つあって、私も朝から大童です。 ちなみに今日の学内講演会は「セクハラ」に関するものでした。この問題に詳しい方に講演していただき、我々教授連の蒙を啓いていただこうというわけ。 実際、新聞なんかを見ていると、いい歳をした大学教授がセクハラ問題を起こしてどーのこーの・・・といった報道がなされることがしばしばありますからね。ま、象牙の塔には社会通念とは無縁の人が沢山居るからなあ・・・。 それで、今日講演して下さった方もおっしゃっていましたけど、大学などで講演すると、時々思わず仰け反るような意見を言い出す教授がいるのだそうですね。例えば、ある大学で講演した時には、その方が一通り話し終えたところで男の教授がサッと挙手し、次のような意見を吐いたというのです。曰く、「あなたは大学の実状が全然分かってない! 今や大学っちゅーところはひどいことになっていて、女子学生などは露出度の高いキャミソール一枚で授業に出てきたりする。あんな連中は自分からセクハラしてくれと言っているようなものなんだから、そういう輩のお尻くらい触ったっていいんだ!」。本気でそう獅子吼したというのですから、新聞ネタになってしまう教授が絶えないことも頷けます。 ただ、この教授のような例は問題外として、「セクハラ」というのはなかなか難しい問題ではありますね。たとえば私の場合でも、ゼミ学生の指導は基本的に研究室で行っていますが、学生が複数いる場合はいいとして、たまに女子学生と二人だけになる場合もある。で、セクハラ防止マニュアルなんかを見ると、そのような場合は教授自ら立って研究室のドアを開けに行く、ということが奨励されています。最近では私もそうしていますが、しかし、「私にはあなたを襲う気はないですからね」という意志をいちいち露骨に行動で示すというのも、むしろそういう意識を表面化させるようで、私の感覚としては逆に嫌らしい感じがするんですけどねー。 また私は授業で時代錯誤的にシェイクスピアを読んでいるんですけど、シェイクスピア作品というのはどれも性的なギャグ満載でありまして、そういうのを学生に訳させたり、私自身が意味を説明したりする時、「それはセクハラだ」と言われたら、私はどうすればいいんでしょう。「ここを訳すとセクハラになるから、訳しません」なんて言っていたら、シェイクスピアの面白いところを全部すっ飛ばすことになるんですが・・・。 あともう一つ、セクハラと同じく、最近、喧しく言われているのが「個人情報保護法」です。これも本気で遵守するとなると、結構大変ですよ。例えば、今までのように自分のゼミ生に向かって「お互い、急な連絡をすることがあるかも知れないから、携帯番号教えておいて」なんていうのも、まずいのかも知れない。「教授に無理矢理、携帯番号を言わされました」なんてゼミ生から訴えられたらどうしよう? うーん、やっかいだなぁ・・・。 結局セクハラ防止策にしても、個人情報保護法にしても、「セクハラをする奴」や「個人情報を悪用する奴」を牽制するためにやるわけですよね。でも、それを押し進めていくと、結局、良い人間の社会がどんどん窮屈になっていくのは必定です。そうやって出来上がった窮屈な社会というのも、嫌なもんですよ。 公園で遊ぶ子供がとても可愛かったので、「お嬢ちゃん、お歳はいくつ?」なんてつい聞いたら、その子の母親にキッと睨まれた、なんていう可哀想なおじいちゃんの話、よく耳にします。ま、確かにこのおじいちゃんの問いかけは、厳密に言ったら「セクハラ」であり「個人情報保護法」に違反しているのかも知れません。しかし、近所に住むおじいちゃんが、同じ町内に住む子らに気軽に話しかけることもできないような、そういう社会が良い社会とはとても思えないんだけどなー。 しかし、そうは言っても、これが世の趨勢。私もせっせとセクハラ講演会に出席して、新聞ネタになるような大学教授にならないよう、せいぜい気をつけることといたしましょう。クワバラ、クワバラ。
September 28, 2005
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大相撲秋場所、千秋楽が終わりましたね。結局、朝青龍の6連覇か。やれやれ。 ま、確かに朝青龍はダントツに強い。それに、あの勝負への執念は大したもんだと思います。しかし、個人的に好きな相撲取りかというと、決してそうではないんだなー。 それは一つには、彼のこれまでの言動に、私の目から見て好ましからぬところが多々あるからなんですね。たとえばいかに利き腕とはいえ、懸賞金を受け取る時に左手を使うことも気に入らない。これは相撲の一つの型なんですから、それを守らないというのはどうかと思います。また、かつてモンゴル人力士の先輩たる旭鷲山関に対して彼がとった態度も、横綱の品格に大いに欠けるものでした。 また今場所でも何度か見せましたが、相手力士に思わず攻め込まれた時など、明らかに顔面を狙った張手を繰り出すことも見苦しい。相撲は喧嘩じゃないんだ。見苦しいと言えば、土俵の上で怒りを露わにしたり、逆にしてやったりの得意気な表情を見せるのも、はっきり言って下品です。 木鶏たらんと精進を重ねた双葉山のことは言うまでもなく、大鵬や北の海、あるいは千代の富士といった横綱たちは、土俵上でああいう態度を見せることなどなかったですよ。相撲というのは一種の神事であって、単なる格闘技ではないんです。勝った負けたで喜んだり悔しがったりするざまを、土俵の上で見せないで欲しい。もはやすっかり天狗になった朝青龍は、師匠の言うことなど聞かなくなってしまったとも聞いていますが、それならそれで、相撲協会がその辺のところをしっかり教育しなくちゃ。 ま、朝青龍のファンというのだって沢山いるはずで、そういう人たちはまた私とは異なった意見を持っているでしょうが、上に述べたような理由もあって、今場所もまた朝青龍の優勝かよ、というガッカリした気持ちを抑えることができませんなあ。 それにしても琴欧州は残念でしたけど、先場所、今場所と大分力をつけてきたようですから、来場所以降、また頑張って欲しいですね。琴欧州の場合、相撲自体よりも精神面だよなー。あと負け越したけれど、横綱をものの見事に倒した安美錦は、体も大きくなって面白い相撲取りになりましたね。足の怪我を直して、頑張ってもらいたいです。ちなみに今場所一番面白かったのは、時天空対安馬の水入り相撲かな。私からベストマッチ賞を進呈しましょう。 さて、秋の入りの楽しみの大相撲の千秋楽を見終えた私は、家内に付き合って夕食の買物に近所のスーパーに行きました。一日中家に居るのも何なので。そうしたら、栗ご飯用なのか、剥き栗のパックが割と安い値段で売っているではないですか! おーし、これを私が煮てやろうじゃないの! 栗を水と砂糖で煮る。ただそれだけなんですが、私はこれが好きでね。簡単に出来て、とてもおいしいおやつになります。先程ちょっと仕事が一段落ついたので、この日記を書き終えたらすぐに煮始めようと思っています。そして一晩味を含ませて、明日食べましょう。うーん、今から楽しみです。 あ、そういえば私はダイエット中なんだった! ま、この際、栗はノーカウントということにしましょう! 段々、ノーカウントの甘味が増えていくような気がしますが、気にしないようにしましょう。今日は千秋楽なんですから! (意味不明・・・)
September 25, 2005
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今朝起きて新聞を開けたら、先日の選挙の際、愛知7区で出馬し、落選した前衆議院議員の小林某が、覚醒剤常用の罪で逮捕されたとの報が載っていました。 愛知7区・・・。それ、私の選挙区ですから! 愛知7区と言えば、小泉さんに反旗を翻して自民党の公認を取り消され、後援会の意向を無視して田中康夫氏の「新党日本」に鞍替えし、見事落選した青山丘氏の選挙区でもあります。いつも当該選挙区で1位当選を争っていたこの二人の耳には、今頃祇園精舎の鐘の声が響いていることでしょう。 そしてもう一つ、今朝の新聞に載っていたガックリくるニュースと言えば、愛知万博の混雑ぶりを報じたもの。入場するのに5時間待ち? パビリオンを見るのもままならず、まともに食事もできない? マジっすか・・・。 実は私はまだ愛知万博に行っていないんです。会場からごく近いところに住んでいるというのに。いつでも行けるという心の油断が仇となったなぁ。万博をやる、やらないで揉めていた時には、今頃万博なんてやったって誰も来ないだろうというようなことが言われていて、私もそう思っていたのに・・・。万博っていうのは「科学の進歩によって人類は幸せになれる」というような幻想が多くの人々に共有されていた時代の産物であって、それは1970年の大阪万博で終わったんじゃないの? その後各地で勃発した公害問題とか、宇宙開発に先が見えたこと、あるいは依然として止まない各地の紛争など、「人類の進歩」への期待なんてものが地に堕ちた時代に敢えて万博やるなんて、ジョークにしても酔狂過ぎないか? ・・と私なんぞは思っていたし、実際、去年の今頃、各種イベントで「モリゾー」「キッコロ」の着ぐるみが登場し、来るべき万博を必死で盛り上げようとしていても、何だか誰も見向きもしないという感じだったんだけどなー。 で、だからこそ天の邪鬼の私としては、その人の見向きもしない万博に行って、閑散とした会場で手持ち無沙汰にしているモリゾーやキッコロと戯れつつ、時代錯誤の万博をシュールに楽しもうと思っていたのにー! さて、残り1週間となってしまったけれど、どうしよう。万博開催者の前に膝を屈し、私の予想が間違っておりました! 日本人の物見高さを過小評価しておりました! と謝りながら、敵の軍門に下って万博を見に行くか・・・。でも5時間待ちはつらいなぁ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、ここからはロマンス小説史の続きです。 昨日、1971年の買収でハーレクイン社がミルズ&ブーン社の親会社になったことにより、ミルズ&ブーン社の編集方針にハーレクイン社の意向が強く働くようになってきた、というようなことをお話ししました。そこで今日は、ではそもそも「ハーレクイン社好みのロマンス」とは一体いかなるものなのか、という辺りのことについて、お話ししましょう。 しかしそのことをお話しする前に、とりあえず現代の典型的なハーレクイン・ロマンスというものがどのような感じでストーリー展開するか、それを一通り説明しておきますね。もちろん以下に述べるのはハーレクイン・ロマンスによく使われるパターンの一つに過ぎませんが、ハーレクイン・ロマンスの筋書きというのは基本的にはどれも皆同じようなものですから、このパターンを認識しておくと、後の説明が非常に楽なんです。 で、ハーレクイン・ロマンスというのは、まず大体こんな感じで話が進みます。 ヒロインはたいてい金髪碧眼、華奢な体型で、絶世の美女というほどではなく、ただ目元に愛敬のある十代後半から二十代前半の可愛らしい娘さんです。ご両親は大概二人とも交通事故で亡くなったことになっているので、独り暮らしであることが多い。気の合わない叔父さん夫婦と同居というケースもありますが、いずれにせよ精神的には孤独で経済的にはあまり余裕のない、ごく平凡なOLというところ。 と、そこへヒーローが登場します。典型的なヒーローは年齢の点でヒロインより一回りほど上。背は高く、筋肉質の引き締まった体型、肌は浅黒く、黒目黒髪。もちろん美形です。野性味を帯びたその風貌からも窺える通り、落ち着いた人格者というよりは、しばしば感情を爆発させる未熟者タイプなんですが、にもかかわらず大半が一流企業の若き社長さんです。親から勘当されて世界中を放浪していたところ、死んだ伯父さんの遺言で一族経営の大企業を受け継ぐことになり、急遽故郷に戻ってきたというわけ(大抵そうです)。ここで重要なのは、彼が先祖代々の莫大な資産を譲り受けるというところで、ハーレクイン・ロマンスの場合、自らの手で稼いだ金よりも「遺産」の方が重視される。苦労人ではなく、生まれながらの王子様、というところがいいんですね。 さてこのようにヒロインとヒーローが出揃えば、後は二人が運命的な出会いをすれば良いのですが、ハーレクイン・ロマンスでは「両者とも初対面の時から好印象」なんてことはまずありません。むしろ両者が何らかの形で敵対しつつ、しかもヒーローの方が圧倒的に有利な立場で出会う、という設定が普通なんですね。よくあるのが、ヒロインの叔父が賭博で負けてヒーローに莫大な借金をしてしまい、その支払いの猶予を乞いにヒロインがヒーローのもとを訪れる、というようなケース。そしてそういう状況の中、ヒーローはヒロインに対し、偽装結婚をしてくれたら借金を帳消しにしてもいい、というような申し出をする(えっ?)。 「偽装結婚」とはまた突拍子もない申し出です。しかし、互いに好意を持っているわけでもない男女が、とにかく常に一緒に居なければならないという状況を作り出すためには恰好の口実であって、ハーレクイン・ロマンスではこの種のシチュエーションが頻繁に登場します。なぜヒーローが偽装結婚をしなくてはならないのか、その理由づけは色々あって、例えばビジネスをする上では既婚者の方が取引先から信用され易いから、といったようないい加減なものも多い。要するにヒーローは、本当の結婚をする気はないものの、とりあえず既婚者の肩書が必要な状況に置かれるのであって、それゆえに偽装結婚、というわけなんですね。でもこんなことで驚くのはまだ早いですよ。何とヒロインはこの手の申し出をあっさり受けるんです(えっ?)。何だかんだ言ってヒロインも女性、野性味たっぷりな伊達男との冒険には惹かれる(らしい)のですな。 で、とにかくこんなふうにヒロインとヒーローは夫婦を「演じる」ことになるのですが、そこから先はヒーローによる「ヒロインいびり」の場面が延々と続きます。例えば取引先が主宰するパーティーなどではヒーローは優しくエレガントな夫役を見事にこなすものの、そこでヒロインが少しうっとりしたりすると、帰路についた途端、彼は冷淡で意地の悪いビジネスマンに豹変したりする。お雇い妻のくせにいい気になるな、というわけです。かつて恋人に手ひどく裏切られたことがあるといったような理由から、ハーレクイン・ロマンスのヒーローたちは女性に対して一様に根深い悪意を持っているんです。しかし、そっちがその気なら、とヒロインの方が冷淡に振る舞うと、途端にヒーローはヒロインに飛び掛かり、「お仕置き」などと称してヒロインが涙をこぼすまでお尻を叩く。それでヒロインがさらに口答えすると今度は強引に口づけして黙らせる。どう考えてもセクハラです。ところが、こんな仕打ちを受けながらもヒロインはヒーローに惹かれ始め、ヒーローの存在を身近に感じる度に彼女の心拍数は急上昇するわけですわ(えっ?)。 と、この辺りで登場してくるのが、ハーレクイン・ロマンスでは欠かせないキャラクター、つまりヒロインのライバルです。このライバル女、ヒロインとは対照的に背の高いブルネット美人で、才能・家柄にも優れ、客観的に見ればヒーローの恋人として申し分なしという感じの「大人の女性」として描かれることが多い。実際、彼女は事ある毎にヒーローにまとわりつき、一応ヒーローの妻ということになっているヒロインそっちのけで彼といちゃつきます。ヒロインとしては当然悔しいわけですが、彼女自身、こんな完璧な女性がライバルでは勝ち目なしと半ば諦めているところもある。ところがこのダークレディー、実は腹黒い女なんですね(やっぱり!)。きゃつはヒーローを騙して取引先との契約を横取りするつもりだったんですな。そして、その奸計に気付いたヒロインはヒーローにことの次第を告げ、彼の窮地を救うわけ。で、かくしてヒロインのおかげでめでたく大口の契約も取り付けたヒーローは、彼女に告白するんです。「実は出会った時から君のことを愛していた。もうこれ以上偽装する必要はない、僕たちは本当の夫婦だ」と(・・・)。そして二人は熱烈なキスでこの愛を共に寿ぎ、以後豪勢で幸せな結婚生活を送りました、となって小説一巻の幕が降りる。 ま、こんな感じのロマンスなんですよ、ハーレクイン・ロマンスっちゅーのは。 さて、以上のことを読まれた方、特にハーレクイン・ロマンスというものに親しんだことのない方は、一体どのような感想を持たれるのでしょうか? 私自身はハーレクイン・ロマンスのことを調べていて、これが世界中の女性たちにものすごい人気があるということを知った上で実物を読み始めたわけですが、正直、最初はちょっとびっくりしましたね。え? こんな荒唐無稽なロマンスを、ホントに世の女性たちは喜んで読んでいるの? こんなセクハラ的要素満載の物語が、現代社会で受け容れられているの? しかし、さらにハーレクイン・ロマンスのことを知るにつれ、このストーリー展開がいかに優れたものか、ということも分かってきました。実は、この荒唐無稽なセクハラ満載ロマンスこそ、ロマンスという文学ジャンルの本質を突いているんですね。 では、なぜそうなのか。その辺りのことについては、また次回お話ししましょう。次回も乞うご期待です!
September 19, 2005
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大分、秋らしい気候になってきましたね。お月見のシーズンですなぁ。 ところで、今私が住んでいる地域では、月見のシーズンに恐ろしいことが起こります。「お月見泥棒」という行事が行なわれるんですね。今年は明後日、中秋の名月たる18日の夜に決まったらしい。で、私なぞ、もう今から戦々恐々です。 今から10年くらい前にこのあたりに引っ越してきて、初めてこの「お月見泥棒」という行事を体験した時は、それなりに面白い行事だなと思ったものでした。要するにこれ、この辺に住んでいる子供たちが近所の家を一軒一軒回って、月見団子を、というかお菓子をねだるというものなんです。もっともそう言うと何だか伝統的な行事みたいに聞こえますが、別にそう言うわけでもなく、また名古屋地方全般で行なわれているものでもありません。長年名古屋に住んでいる同僚に聞いても、「お月見泥棒」なんて聞いたことがないと言いますからね。どうやら今私が住んでいるあたりだけで行なわれている行事らしいんです。それにしても、私が住んでいるところは、ごく最近開発されたばかりの新興住宅地で、昔は狸がよく出たという以外、歴史なんて何にもないところなんですよ。一体、何がきっかけでこの地域にこんな風習が始まったのか、見当もつきません。 しかし、恐ろしいですよ、このお月見泥棒。何しろ近所の小学生が三々五々やってきては、当然のごとくお菓子を要求してくるのですから。挨拶もなし、お礼もなし、ただ「お月見泥棒でーす」といってお菓子を強奪していくわけ。できるだけ沢山のお菓子をもらおうと競いあっている子供たちの強欲ぶりたるや、まあ目も当てられないほどで、めいめいが大きな袋を持ち、あちこちから強奪してきたお菓子をそれに入れて得意になっているのですからたまりません。それでも少し前までは「お月見泥棒は日が暮れてから」という暗黙の了解があったようですが、最近では学校が終わった途端に来るので、低学年の子らになるとまだ日の高い午後3時頃からピンポン、ピンポン、チャイムを鳴らしてくる。で、そんなのが夜の8時ごろまで続くんです。しかも子供たちの親がそれを放任しているどころか、むしろ彼らを車に乗せ、あちらこちらへ泥棒の送迎をやっているんですからどうしようもない・・・。それにしても大きな車にふんぞり返るように乗ってやってくるお月見泥棒って、そもそも可愛くないよなー! もっとも親が一緒でない場合はさらにコワイんだ、これが。私は一度子供たちが大挙してコンビニエンスストアに入って行って、そこのお菓子を勝手に持っていこうとし、店主のおじさんに怒られているのを見たことがあります。店を追い出されながら、「チェッ、ダメなんだってさ、ケチ!」などと口々に捨てぜりふを吐いているのを見ると、子供らしい可愛げなんてあったもんじゃない。世間体がないだけに余計露骨に「欲の固まり」ぶりを発揮しているこれらの子供たちを見ていると、本当に気味が悪くなります。 で、ここ数年、私と家内はこの日になると、どうやってこの小さな強奪者たちと顔を合わせなくて済むかで四苦八苦します。去年は夕方から喫茶店に逃げ込んで時間を潰し、夕食も外食で済ませ、お月見泥棒が一段落した頃を見計らってこっそり家に戻りました。今年も多分、そんな感じで過ごすことになると思います。泥棒の方は恥も外聞もなく堂々と近隣を荒し回っているというのに、なんで私がコソコソ逃げ回らなくてはならないのか・・・。 きっと大昔には日本の各地で月見の風習があり、縁側に月見団子をお供えするなんてことはごく普通のことだったのでしょう。で、それを子供たちが夜こっそり食べにくるのだけれど、食べられた団子は神様が食べたのだろうということにされ、不問に付されるどころか、むしろ縁起がいいということになる。とまあ、そんなようなことが各地で行なわれていたのだと思います。そしてそれはきっと、いたいけな子供たちにとって心楽しい秋の行事だったのでしょう。しかし、それに似たようなことを現在の日本でやろうとすると、かくも醜い事態になってしまう。古の日本の国の美しき風俗を、現在を生きる我々が取り戻すために、我々は一体何をすればいいのか、私には分かりません。 私に分かっているのは、明後日、秋の夜空に満月がかかる頃、私と家内がそれこそ泥棒のようにコソコソしながら、あちらへ、またこちらへと、逃げ回っているだろうということです。嗚呼恨めしや、中秋の名月。まったく、わけ分からん!
September 16, 2005
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今日はまた妙な夢を見ました。夢の中で、なぜか私はザ・ドリフターズのメンバーになっているのです。で、加藤茶さん、仲本工事さん、高木ブーさんと一緒に飲んでいるわけ。 それで、どういう話の流れからか、どこかの過疎の村の話になった。その村では今度立派な公民館を作ったのだけど、なにせ過疎ですから人が集らない。で、すごく困っているというのです。そこで、どうしたもんかねぇ、という話になったので、私が「じゃあ、俺たちがそこで一発、全員集合しようよ! そうすりゃ、きっと人も集るよ!」と言ってみたら、加藤さんが「おう、そうだ! やろう、やろう!」と賛同してくれ、仲本さんが「じゃ、俺、長さんに電話してくるわ!」とか言って、電話をかけに行ってくれる。で、仲本さんが座をはずしている間、加藤さんとブーさんと私で、早速どんなネタをやるか、わいわい相談し始めたのですが、話をしながら、なんかどうも妙な気がしてくるわけ。あれ、待てよ。長さんって、亡くなったんじゃなかったっけ・・・。そう思ったら、目が覚めました。 変な夢! さて、今日、再び東名を愛車プジョーでかっ飛ばして名古屋に戻ってきました。途中、牧ノ原サービスエリアに寄り、「又一きんつば」と「富士山高原いでぼくの牛乳ジャム」をお土産に購入。これ、うまいんですよー。 それにしてもゼミ合宿から今日までの数日間、まあよくあちこちに出かけたもんです。その分、あまり勉強ができませんでしたが、明日からまた心を入れ替えて、少し勉強に力を入れましょう。それでは、また!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ しばし休載しましたが、ここから先はロマンス小説史の続きです。 さて、前回までで1930年代あたりまでのミルズ&ブーン社の動向について云々してきましたが、今日はその続き。 1930年代に業績を上げていた同社は、1940年代が近づくと若干の低迷を余儀なくされます。一つには第2次世界大戦の影響で、印刷用の紙が不足し始めていたこともありますし、またチャールズ・ブーンの息子たちで、同社の社員になっていたアランとジョンが徴兵されてしまったことなどの影響もある。しかし、同社にとってこの時期最も大きな損失となったのは、創業者の一人、チャールズ・ブーンが1943年に66歳で亡くなったことでしょう。もう一人の創業者であるジェラルド・ミルズは、既に1928年に51歳で亡くなっていて、彼が亡くなった時は彼が同社の資本金の出資者だったことから多少の問題が生じたのですが、それは別な出資者を確保したことで解決する問題でした。しかし、次第に総合出版社からロマンス小説専門出版社への変貌を遂げつつあった同社にとって、小説部門の総帥であったチャールズ・ブーンの死は、ミルズが亡くなった時以上の混乱をもたらすことになります。何しろ前回述べたように、チャールズ・ブーンは同社の専属女性ロマンス・ライターにとっての「慈父」であり、彼がいたからこそ優秀な女性作家たちも同社との契約に満足していたところがあった。その慈父がいなくなったとなれば、それは同社にとって非常に大きな問題です。 実際、チャールズ・ブーンの死後、ジョゼフ・ヘンリーという人が同社の指揮をとるようになると、やはり予期されたような問題が生じてしまいます。このジョゼフ・ヘンリーという人はジェラルド・ミルズが亡くなった時、彼に代わってミルズ&ブーン社の出資者となった人ですが、彼はチャールズのような人を逸らさぬ社交家というのとはまったく逆の性格の人だった。そのため、ミルズ&ブーン社の専属ライターの中からは彼に対する不満が噴出するようになるんですね。 しかし、この危機はチャールズ・ブーンの息子たちが戦場から戻ることで、何とか解決されます。というのも、長男のアラン・ブーンという人が父親と同じく編集の才があり、また社交的でもあって、それまでチャールズ・ブーンが引き受けていた仕事をそっくりそのまま引き継ぐような形になったからです。また弟のジョンの方も経営の才のある人で、こちらも同社の近代化に大きく貢献することになった。一方、ジョゼフ・ヘンリーの方はやがて「チェアマン兼ゼネラル・マネージャー」という、いわば「お飾り」の地位に押し上げられ、体よく同社の経営から手を引かされることになる。ま、そんな感じで、ミルズ&ブーン社は第2次世界大戦時の混乱の中から、アランとジョンの兄弟を中心にしたブーン一族経営の出版社、というふうな色合いを強めることに成功するわけ。 そしてこのような経営陣の一新に加え、1947年から段階的に戦時下の印刷用紙の割り当て制が解除されたことにより、ミルズ&ブーン社は1948年に過去最高益を記録します。また1949年には出版点数においてイギリスで第37番目の中堅出版社になるなど、その経営状況は好調をキープ。かくしてミルズ&ブーン社は、黄金の1930年代に続き、バラ色の50年代を迎える準備を整えることになります。 もっとも、イギリスの1950年代は、ミルズ&ブーン社にとって必ずしも安寧な時代というわけでもありませんでした。というのも、戦後の物価高により出版コストはさらに上昇を続け、引き続き同社の経営を圧迫し続けていましたし、またテレビという名のライバルが、それまで庶民の娯楽としての「読書」の地位を脅かし始めたということもある。 しかし、こういった出版社全体への様々な逆風の中で、特にミルズ&ブーン社にとって痛かったのは、テレビの普及によって、かつて隆盛を誇っていた「貸本屋」の没落がそろそろこの時期から始まった、ということです。既に何度も述べてきたように、ミルズ&ブーン社がこれまで順調な経営を続けて来られたのは、同社が貸本屋向けにロマンス小説を次々と出版し、これが好評を得ていたからであって、貸本屋は同社の土台骨を支えていた。その土台骨が崩れて出したとなれば、これは一大事。 ならばミルズ&ブーン社は、いかなる方法で貸本屋への依存体質から抜け出し、新たなマーケットを開拓したのか。その辺の事情についてはまた次回、お話しすることにいたしましょう。それでは、また!
September 10, 2005
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今日は私の勤務先大学で今度設立する「大学出版会」の設立委員会に出席してきました。 このブログをお読み下さっている方は既にご承知と思いますが、そもそも私は「出版事業」ということに興味津々なので、大学出版会を立ち上げるという、この度の企画を楽しみにしていました。で、同じような志をお持ちの先生方と協議しながら、我が大学出版会の運営方針についての原案を作り、今日の委員会での審議にかけたわけ。 ところが、大学上層部の人たちというのは頭が固いというのか、なかなか我々設立委員会の原案を飲んでくれないんですなー。 我々委員会のメンバーとしては、学内に限らず広く有能なライターを発掘し、学術的にレベルが高く、かつ読んで面白いというような本を出版しようという志がある。そしてそれを全国販売し、出版会独自の収入を得ようという気満々です。ま、もちろんすぐにベストセラーなんて生まれるはずはないですけど、少なくとも1タイトルにつき500部から1000部程度は売って、生産コストくらいは回収したいと思っている。かなり控えめな目標でしょ? でも、いいんです、最初の目標はコスト回収で。で、仮に若干でも黒字になれば、もう万々歳ですよ。たとえ1円でも、それが出版会独自の収入になるのですから。もし1円でも黒字が出れば、また次の本を出すためのモチベーションも上がるってもんです。 ところが悲しいことに、我が大学の上層部の人たちは、その程度の志も無いんだなぁ・・・。 彼らはまず原案にあった「学内に限らず広くライターを発掘し」という箇所の修正を強要してくる。つまり、執筆者を学外にまで求める必要はないではないか、学内に優秀な先生が沢山いらっしゃるのだから、その先生方に本を書かせればいいではないか、ということなんですね。で、本が出版されたら、それを学内の生協ででも売ればいい、と。あるいは執筆者の知り合いにでも「配れば」いい、と。全国販売なんか無理、無理、と言うわけです。 確かに、上層部の人たちがおっしゃる通り、うちの大学には優秀な研究者が沢山います。しかし、「優秀な研究者」が必ずしも「優秀なライター」ではないんですよ。一般の人が読んで面白いと思ってもらえるものを書けるかどうかは、これは論文を書く才能とはまた少し違った才能に依るんです。一般論としてね。だからこそ、継続的な良書の出版のためには、執筆者を学内に限定するべきではないと判断して、「学内に限らず広くライターを発掘し」っていう原案を作成しているのに・・・。 これでもし上層部の人たちの言うなりになって、ライターを学内の先生方に限ってしまったら、誰も読まない紀要論文みたいな本ばかり出版することになりますよ、きっと。そうなれば当然全国的には売れないから、せいぜい学内の生協で教科書代わりに売るしかない。となれば、もちろん出版コストも回収できない。だから、やっぱりうちの大学では儲けを狙った出版なんて無理だ、ということになり、外部の団体から出版助成金をもらっている人にだけ「本を出版しませんか」と声をかけるしか手はない、ということになってくる。となれば、面白い本・売れる本を出版することなんて、ますますもって期待できなくなる。もう、悪循環に陥るのは目に見えています。なんであの人たちには、この理屈が分からないのかなぁ! 私はここで身内の恥をさらしつつ、その部分だけを取り出して批判しようと思っているわけではありません。しかし、一般論として、ここには「仕事をつまらなくするプロセス」、あるいは「やる気のある人のやる気を削ぐプロセス」がはっきり見てとれる。私はこのプロセス自体を批判したいんです。今まで私は大学の運営に直接係わるような委員会の仕事を引き受けたことがなかったのであまり意識しませんでしたけど、今回の件で「新しい企画」とか「チャレンジ精神」というものが日本の企業風土の中で上からでつぶされていく過程がよく分かった。そしてそのことが私にはとても「新鮮」な認識だったんです。 こういうプロセスというのは、きっとどんな企業にでもあると思うのですよ、大学に限らずにね。でも、このプロセスを打ち破らなかったら、大学であろうと企業であろうと、先行きは暗いだろうとも思うのです。だから、私はまだまだ頑張ります。とにかく限られた条件の中でできるだけ良い本を出版し、黒字にして見せる。おーよ、やったろうじゃないの! というわけで、今日はいささか気の張っているワタクシなのでした。今日も、わけ分からん!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ それでは、ここからはロマンス小説談義の続きです。興味のある方はぜひ! さて、昨日、ロマンス小説のような軽い娯楽小説が「貸本屋」で持て囃されたというお話しをしかけましたが、今日はその「貸本屋」なるものがどのようなものだったのか、というあたりからお話しをしましょう。 イギリスで貸本業が盛んになるのは、19世紀の半ばあたりからです。で、当時イギリスで圧倒的な影響力を持っていた貸本屋は「ミューディ」(Mudie's Select Library) というチェーン店。ここは 1842年創業、蔵書750万冊、会員数2万5千人を誇った老舗で、貸し出し用に小説を1タイトルにつき1000冊から3000冊購入していたといいますから、まさに貸本屋業界の「怪物」です。で、これに続くのが駅の売店でもお馴染み「W・H・スミス」の貸本部門。ここは1860年の創業。もう少し時代が下ると、薬局チェーンとして有名な「ブーツ」なんていうところが、この業界に参入してくる(1900年)。ちなみに、薬局と貸本業の結びつきというのも妙ですが、これは調剤の待ち時間を貸本で潰すという意味合いがあったんだそうです。もっとも後には「本は心の薬である」ということを謳い文句にしたらしいですけどね。 ところで、一体なぜ19世紀半ばのイギリスで貸本業が栄えたのかと言いますと、当時本の値段が高過ぎて、庶民には買うことができなかったからです。本を読もうと思ったら、貸本屋から借りるしかなかった。もっともこれは「卵が先か、ニワトリが先か」といった側面があり、貸本屋が栄えていたから本の値段が高くなってしまったという説もある。 どういうことかと言いますと、当時貸本屋では1度に借りられる本の冊数によって年会費が高くなるのが普通で、それゆえ1巻本よりも長大な3巻本の小説が貸本屋業界からは歓迎されたんですね。つまり3巻本だと利用者は1度に3冊借りなければならず、それゆえ貸本屋はそれだけ高い会員費を徴収することができた。そこで貸本屋は、出版社に対し長大な(つまりは高価な)3巻本ばかり出版することを要求するようになる。当時3巻本の本の値段は31シリング6ペンス(1ギニ半)程度であったと言われ、これは当時の庶民の1週間分の稼ぎと同じです。当然、庶民はこんな高いものを買うことはできない。となれば貸本屋で借りる以外ないわけで、貸本屋が当時の一般市民の読書欲を満たす中心的な機関となったのも当然です。 また逆に言うと、出版社の方としても3巻本を出せば貸本屋が大量に買い取ってくれるのが分かっているので、わざわざ短い小説を1巻本として出すような賭は敢えてしないわけ。イギリス19世紀の小説がどれもこれも長大であることの大きな理由がここにあります。例えばシャーロット・ブロンテの処女作である『教授』という小説は、短すぎるという理由で出版社から出版を断られており、それに奮発した彼女は、かの傑作長編『ジェーン・エア』を書いたと言われている。ことほど左様に貸本屋の影響というのは、出版社側にも、読者に対しても、また作者に対してすらも大きかったんですな。 ところでこういうことを言いますと、本を借りるなら「公共図書館」から借りるという手もあったのではないか、と思う方がいらっしゃるかも知れません。しかし、イギリスの図書館というのは庶民が娯楽のための読書をしたり、そういう種類の本を借りたりするところではなかったんです。何しろ20世紀前半まで、イギリス公共図書館は「安上がりな警察」と呼ばれていたんですから。つまり図書館には「公共のモラルを高めるような本」、つまり「良書」しか置いていなかった。で、もちろん「小説本」などはこの「良書」の範疇に入っておらず、ましてや「恋愛小説」なんてもっての外だったんですね。ですから、公共図書館というのは、庶民の読書欲を満足させる場所ではなかったわけ。彼らが公共図書館に背を向け、貸本屋に足繁く通ったのも当然なんですね。 ところで、「書店」ではなく「貸本屋」が当時の庶民の読書欲を満たした機関であったことから、実は一つ面白いことが分かってくる。当時、どんな人が盛んに本を読んでいたか、ということの推測がつくんです。というのも、貸本屋で本を借りるにはまず「会員」にならなければなりませんから、当時の貸本屋の会員名簿を見れば、どんな人が本を貸りたかということが分かってしまうんですね。書店での販売では、「誰が買ったか」というところまで記録を付けませんから、こうは行きません。 で、この貸本屋の貸し出し記録を見て、どういうことが分かったかといいますと、「女性会員」の数が多いということが分かったんですな。つまり、顧客として貸本業界を支えていたのは、実は「本好きの女性」だったんです。ま、最近ではこれが訂正されて、貸本屋の顧客に占める女性の割合はせいぜい3割程度だったのではないかという説もありますが、それにしても女性の会員数が相当数あったことは確かなようです。実際、当時の貸本屋の様子を描いた絵などを見ても、そこに大勢の女性客の姿が当然のように描かれていて、そんなところからも貸本屋から本を借りる女性が多かったことが窺われます。 とまあこんな具合で、貸本屋さんというのはイギリス庶民から、とりわけ女性から愛されたわけですが、この傾向は20世紀に入っても続きます。特に1930年代における貸本業の発展は目覚ましいものがあった。何しろ世界的な大不況の時期でしたから、庶民は本を買うよりも借りることをまず考えたんですね。貸本屋に通う人々の多くは、週に2冊の本を借りていたと言います。 だからこそ、当時次第に「女性向けロマンス」のジャンルを充実させつつあった我らがミルズ&ブーン社が、極度の業績不振から回復し始めた1920年代後半あたりから、貸本屋を自社の有望なマーケットであると考え始めたのも無理はないんですね。そして、この狙いは見事図に当たり、貸本屋業界との結託によって、同社はまさにバラ色の1930年代を迎えることとなるわけ。ま、その辺のことについては、また後日、詳しくお話ししましょうかね。 それでは、皆さん、ご機嫌よう!
September 1, 2005
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以前、この「お気楽日記」にも記した通り、この夏の目標の一つとして、私は『モンテ・クリスト伯』(岩波文庫・全7巻)を読破するということを挙げておきました。そして現在5巻目を読み終わり、6巻目に突入というところまで来ています。 それにしても、面白いですわ、この大河ロマン!! 「この先、一体どうなるんだ!?」というワクワク感でページを繰るのももどかしく、先へ先へと読み進めています。こんなエキサイティングな読書体験は、ホント久しぶりのことです。何で今までこんな面白いものを敬遠していたのだろう。 『モンテ・クリスト伯』というのは有名な話ですから、ご存じの方は多いと思いますが、これは若い船乗りエドモン・ダンテスの数奇なる運命を描いた一大伝奇小説なんですね。ダンテスは有能な船乗りとして将来を嘱望され、また恋人との結婚も控えてまさに順風満帆の人生を歩んでいた。ところが彼が乗り組んでいた船の船長が航海中に亡くなり、その死に際の頼みとして、エルバ島に流されていたナポレオンからある手紙をフランス本国へ運ぶ仕事を、一等航海士だったダンテスは依頼されてしまう。しかし、実はこの手紙には、既に王政復古がなされていたフランスに再度帝政を復活させるための陰謀計画が示されていたんですな。もちろん若いダンテスにはその手紙が何を意味するのか分かりませんから、ただ船長の遺言であるという理由だけで、その使命を果たす決意をします。 ところが、あまりにも順風満帆な人生を謳歌していたダンテスを恨む人たちが、一つ彼をちょいと苦しめてやろうと、手紙の一件を当局に密告するんですな。悪い奴らが居たもんです。で、この密告により、ダンテスは官憲の手に捉えられ、手紙も押収され、ナポレオン帝政復活の陰謀に係わったとして逮捕されてしまう。しかも運の悪いことに、彼を取り調べた検事の父親が熱烈なナポレオン支持派で、実際、帝政復活の陰謀に絡んでいたんですね。で、ダンテスがフランスに持ち込んだエルバ島からの手紙が裁判で明らかになると、検事の父親の陰謀も曝露されることになってしまう。そこでこのことを悟った検事は、この事件そのものをもみ消すため、秘密裏にダンテスを海上の孤島に置かれた監獄に投獄してしまうんです。かくして、ダンテスはまったくわけも分からぬまま、自分の結婚式当日に捉えられ、公の裁判すら受けられず、十数年にわたって監獄島の独房に幽閉されるという悲惨な運命を迎えることになる。 で、この先、物語は、これまた数奇な運命の巡り合わせでこの監獄島を脱出し、しかも巨万の財産を得ることになったダンテスが、かつて自分を陥れた人たちにいかに復讐していくか、という話になっていきます。しかも復讐と言ったって、単に殺す、なんてもんじゃないですよ。自分が味わった十数年の恐るべき苦悩と絶望の代償として、単に命を奪うくらいでは到底もの足りないと思っているエドモン・ダンテスの復讐ですから、これがまた凄いんだ・・・。もっとも私はまだ最後までこの小説を読み切っていないので、それがどのくらい凄いか分からないんですけど、途中まで読んだだけでも凄い復讐になりそうだ、ということは分かります。まあ、とにかく面白いですよ。残るは6巻と7巻ですけど、早くこれを読み上げてしまいたい・・・。 ところがです! ここで思っても見なかった問題が一つ生じてきたのです! まさにエドモン・ダンテスを襲った悲劇にも似た悲劇が、私にも襲いかかったというべきか! 実は私はこの本を読むにあたり、最初から7巻全部買わないで、1巻読み終わる度に書店に次の巻を買いに行くというようなやり方で読んでいたんです。なんかその方が充実感があるかな、と・・。で、実家に居た間はそれで何の不都合もなかった。ところが名古屋に戻って5巻目を読み終わり、さあ次の6巻目を買いに行こうと思ったら、近所の書店に売っていないんですよ、『モンテ・クリスト伯』が! というか、そもそも岩波文庫を売っている書店が近所にない! 嘘だろ!! そんなはずは・・と思いながら、私も書店を回りましたよ、2件、3件と。でもどこにも売っていない。で、あちこち回ってついに一軒だけ岩波文庫を置いてある店を捜し当て、やれ嬉しやと思ったら・・・何と、何とですよ、『モンテ・クリスト伯』の1巻から7巻のうち、ちょうど6巻だけ売れてしまっていて在庫がなかったんです。そんな、馬鹿な! これは何かの陰謀か!? 私の読書のヨロコビを妬む輩が居て、そいつが私を陥れようとしているのか!? それにしても岩波文庫って、なんで置いてない書店が多いんでしょうか。書店から毛嫌いされるほど、それほど売れないものなのかなぁ・・・。 かつて「岩波文化人」という言葉があったように、岩波書店から本を出す人たち、あるいは岩波書店の本を愛読する人たちというのは、自ら「文化人」としての自負を持っていた。恥ずかしながら私なんかもその端くれで、中高生の頃は岩波文庫や岩波新書を読んで、自分に足りない教養を身につけようと思ったもんですけど、今、そういう崇高な志を持つ人なんかいないのかな? それにしても、露骨に岩波文庫だけ置いていない書店がこう多いと、名古屋の文化人人口の先行きが危ぶまれます。 ま、それはともかく、どうしたもんですかね、第6巻問題。もちろん今、どんな本だってインターネットで買おうと思えば買えますけど、それだと本が届くのに数日はかかるしなあ。 ということで、『モンテ・クリスト伯』の6巻目が買えず、エドモン・ダンテスの復讐劇も頓挫しかけて、なんとも歯痒い私なのでした。今日も、わけ分からん! 閑話休題。 今日はまだまだ続きますよ、この日記。でも、ここから先は昨日の続きなので、興味のない方は飛ばして下さい。 さて、昨日の話で、ハーレクイン・ロマンスというのが、イギリスを舞台にしたブリティッシュ・ロマンスである、ということを言いました。つまりカナダはもとより、アメリカ、フランス、ドイツ、日本、中国など、世界中のハーレクイン・ロマンスファンの女性たちは、イギリス人のヒロイン・ヒーローが恋に落ちるロマンスを読んでいるわけ。ちょっと変でしょ? でも、それはある意味当然なのです。なぜなら、ハーレクイン社自体はカナダの出版社ですが、同社の出版物の編集をしているのはイギリスにある「ミルズ&ブーン」という出版社だからです。つまり、ハーレクイン・ロマンスというのは、実はカナダのハーレクイン社とイギリスのミルズ&ブーン社という二つの出版社の共同作品なんですな。しかし、一体なぜそんな面倒くさい手続きが、大西洋を間に挟んで行なわれているのか。 ことの起こりは、カナダ側から始まっています。1949年のこと、カナダはマニトバ州にあるウィニペグという町で「ハーレクイン」という名の出版社が興されました。会社を作ったのはリチャード・ボニーキャッスルという地元の名士。ま、この人、実は出版のことなんかあまりよく分かっていなかったんですが、当時カナダではアメリカで出版された安価なペーパーバック(日本の文庫本にあたる、安価な紙表紙の再刊本)が一種のブームになっていて、そういう本が盛んに輸入され、売られていた。で、たまたまボニーキャッスル氏の知り合いにその手のアメリカ製ペーパーバックを配送する仕事をしていた人が居て、その人から儲かるからペーパーバックの出版をやってごらん、と勧められたわけ。 で、人のいいボニーキャッスル氏は勧められるままに出版社を興し、「ハーレクイン」(=道化師)なんて洒落た名前を付け、既存の探偵小説やミステリーなんかをペーパーバックの再刊本として出版してみたのですけど、これが実際やってみると言われたほど儲かるもんでもない。そこでボニーキャッスル氏は早くもこの新事業に身が入らなくなってしまいます。この人、実は「極地探検家」を自ら名乗るほどの冒険好きで、事務所にこもって自社の本の売れ行きを気にしたり、金勘定したりするのにはもともと向いてなかったんですな。 ところが、この人の奥さんのメアリーという人がしっかり者だった、というところから、話は俄然変わってきます。メアリーさん、自分の亭主のやっている出版社の帳簿をちょいと覗いてみて、まあ全体的にあんまり売れていないけれど、ロマンス小説だけは比較的売れ行きが良くて、あまり返本がないことに気づくわけ。で、夫に「いっそロマンス小説ばっかり売ってみたら」と進言する。言われたボニーキャッスル氏の方は、そんならお前頼むよ、善きに計らってくれ、ってなことを言うばかり。そこでメアリーは、夫の秘書だったルース・パーマー女史と協力して自社出版物選定の主導権を握るようになる。 ところでハーレクイン社というのは、既存の本(ハードカバー)をペーパーバックとして再刊する再刊本専門の出版社ですから、何を出版するかを決めると言ったって、別に作家に執筆を依頼したりするわけではありません。図書館に行って面白そうな本を探し出し、その本の出版元と交渉して、再刊本を出す契約を結ぶだけ。そこでまずルースが地元の図書館に行って面白そうなロマンスを次から次へと借り出して読み、その中で気に入ったものがあればメアリーに推薦する。そしてそれを今度はメアリーが読んでみて、やっぱり面白いということになったら出版元と交渉して再版権を獲得する・・・と、まあそんなような一種の流れ作業が始まります。 ま、かくして、ハーレクイン社の命運はメアリーとルースという二人の中年女性の選択眼に掛かることになった次第なんですけど、これがまたうまいことに、この二人のロマンス小説の好みというのは大体共通していたんですね。つまり、露骨なシーンが一切なく、濡れ場といえばわずかに最後の方にキスシーンが1回、二人が結婚を決意する時に限る、といったようなものが二人の好みだったわけ。もちろん不倫とか婚前交渉とか、そういうのは一切なーし! しかも小説の最後の最後でヒロインとヒーローが互いの愛を確かめ合い、婚約をして、ハッピーエンドで終わる、というのが必須条件。つまり「上品で、ハッピーエンド」なロマンスが二人の好みだったんですな。 で、そんな感じのロマンスを見つけて、再刊本を作るための交渉をしようと思うと、それがたいていイギリスの「ミルズ&ブーン社」が出しているロマンスであることが分かる。つまりミルズ&ブーン社の出すロマンスは、メアリーとルースの好みのど真ん中を突いていたわけ。 そこで、それだったらいっそミルズ&ブーン社と専属契約を結んでしまって、同社がイギリスで刊行したロマンス本をカナダに持ってきてペーパーバック化し、それをハーレクインの本として売り出してしまえば話は簡単ではないか、ということになるのは、当然予想される成り行きです。 というわけで1957年、イギリスのミルズ&ブーン社とカナダのハーレクイン社は互いに「紳士協定」を結び、イギリス生まれのロマンスをカナダでペーパーバック化するという、先に述べたような業務提携を始めることになります。ちなみにこの「紳士協定」というのは、毎年1回両社の首脳陣が昼食会をもって、次の年もまたお互いに協力していきましょう、という口約束をするというものです。ま、お互いにあまり縛られたくなかったのでしょうな。 で、ここからロマンス専門のペーパーバック・リプリントたる「ハーレクイン・ロマンス」の快進撃が始まるわけですが、その辺りのことについては私は既にあちこちで書いていますので、ここではおきます。今、私が書きつつあるのは、むしろイギリス側、つまり「ミルズ&ブーン」側の歴史の方なんですね。で、その辺のことについて、この先もう少しお話ししたいのですが、さすがに長くなりましたので、ここで一旦筆をおきましょう。続きは、また後日。お楽しみにー!
August 28, 2005
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久しぶりで大学に出かけ、野暮用を幾つか済ませてきました。 ところで、今、私の勤務先の大学では、キャンパスが騒然としています。と言いますのも、校舎の大がかりな増改築が行なわれているためで、見慣れた校舎全体に足場が組まれ、幕が張られ、その中ではドリルの音や電動鋸の耳をつんざく音が鳴り響いている。とにかく大騒ぎなんです。ま、今はうるさくて仕方がありませんが、そのおかげで秋ごろには少し見栄えが良くなった校舎の姿を目にすることが出来るというわけなのでしょう。 ところで、この種の建築工事に関して、私には昔から一つの疑問があります。それは、こういう建築現場で働いている人たち、彼らは一体どこで「建築のイロハ」を習うのか? ということなんです。 建築家であるなら、設計図の引き方をきっと大学で習い覚え、その後は設計事務所で腕に磨きをかけるのでしょう。それは分かる。しかし、その建築家の引いた設計図を受け取って、実際に建築作業に取りかかる人たち、彼らは一体どこでその技を習うのか? こういう疑問を私が持つのも、実は私はかねがね建築作業場で働いている人たち、特に若い人たちの働きぶりにとても感心しているからなのです。実際、彼らが働いているところを見ると、実に気持ちがいい。もちろん実際にはどうなのかよくは分かりませんが、少なくとも傍から見ている限り、一人一人の作業員が自分のやるべき仕事のことをよく弁えていて、なんだかもくもくと物も言わずに働いている感じがする。そして昼休みにはコンビニで買ってきたカップラーメンや菓子パンといった、あまりパッとしないものを黙って食べ、しばらく昼寝をし、それが終わるとまたもくもくと作業に取りかかる。そして一日の仕事の終わりには、道具を仕舞い、作業場を片づけ、明日の作業にすぐに取りかかれるようにしている。その勤勉さ、作業分担の完璧さ、見事な統制。これはもう素晴らしいとしか言い様がありません。そして一定期間が過ぎれば、家やら、マンションやら、とにかく設計図通りのものが完成し、しかも中も外も完璧に掃除され、片づけられて建主に引き渡される。 では、こんなに素晴らしい仕事をしている若者たちは、一体どこでどういう教育を受けているのか。私には、それが謎なんですな。もし一種の徒弟制度的な教育が作業の中で行なわれ、それによって何も分からずに雇われた人間が、次第に設計図を実物にするまでのすべてのノウハウに通じるようになる、というのであれば、それはそれですごいことであると言わざるを得ません。私は、一応「教育」ということに携わっているので、人を教えるということがいかに難しいか、少しは分かっているつもりなので。 ま、ここで私は私の疑問に対する答えを何としてでも探りたいと思っているわけではありません。が、とにかく、何しに大学に来ているのかよく分からないような、ちゃらちゃらした学生を目にするたびに、建築現場でもくもくと働いている若者たちに贔屓の目を向けたくなるんです。 そしてその贔屓のついでに言わせていただきますと、最近、その種の若者たちもお洒落になったというのか、ズボンの裾が必要以上に広がったド派手なムラサキの作業着なんかを着ていたりしますよね。私が思うに、あれもまたファッションとして面白い! 作業着というものに無縁の私は、逆にあらゆる作業着に対する憧れがあって、スプリングコート代わりに実験白衣を、パジャマ代わりに手術着(アメリカの医者の着る手術着というのは、実に格好がいいんです)を買おうかと思って、家内に止められたことがありますが、あの裾のえらく広がったムラサキの建築作業着、あれもちょっと着てみたいですね。私があれを着て、授業をしに教室へ入って行ったら、面白いでしょうなぁ。聞くところによると、海外のファッション関係の人たちも、日本に来て一番興味を持つのは、作業服を売る店だというではないですか。やっぱり、事情通は、そういうところに目が行くんですって。 ということで、働く若き建築作業員たち、およびその奇抜なファッション、「教授のおすすめ!」です。 さて、おすすめついでに今日はアフィリエイトも少し。今日は、毎回好評をいただいている「教授の時計ショップ」第9弾。今回はデジタル時計の特集です。デジタル時計というと、高校・大学時代に身につけていたことがありますが、その後しばらく縁がありませんでした。なんとなく「子供っぽい」かなと。しかし、最近のデジタル時計はなかなか優れモノが多く、デザイン的にもかなり面白い。そこで私自身も見直し始めたデジタル時計、都合8本セレクトしてみましたので、興味のある方はぜひクリックしてみて下さい。ここをクリック! ↓時計ショップ・パート9
August 22, 2005
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今年は終戦から60年目なんですなぁ。 そういう節目の年ですから、「戦争を考える」という趣旨のイベントが各地であり、またどのメディアもそのことを取り上げています。今年は特に戦争の記憶をいかに風化させないでおくか、ということが焦点になっているみたい。 当たり前のことですが、戦後60年ということは、戦後すぐ生まれた人がもう定年を迎えるかどうかの瀬戸際にある、ということですね。つまりそろそろ社会の一線から身を引こうかという年代の人たちですら、第2次大戦というのは、人からまた聞きの経験でしかないということになる。 もっとも、今60歳くらいの人たちというのは、その親の世代が戦争を直接体験していますから、親から語り聞かされた生々しい記憶を心に植えつけられているでしょう。そしてそれは多分、自分自身の体験にかなり近いものと言えるでしょう。 しかし今40代前半の私ほどの年代になると、親の世代すら戦争の時には子供過ぎて、筆舌に尽くし難いほどひどい体験はしていない。ま、それはその時住んでいた場所にも拠るでしょうけれど、少なくとも私の親はそんなに苦労はしていない。ですから、正直に言って、私にとって戦争の記憶とは、まったく体験に基づかない空想でしかありません。 となれば私より10歳ほど若い世代になると、これはもう彼らの親の世代すら戦争の記憶がない、ということになるのではないでしょうか。戦後60年というのは、結局そういうことなんですな。 で、「もうそういう時代になってしまったんだなぁ」と思いながら新聞を読み、またテレビを見る。すると新聞には、まさに私よりも若い20代、30代の論客たちが第2次大戦のことを論じた鼎談が載っている。そしてテレビでは、賢そうな女子高生がどこかの記念碑に花輪を捧げながら、「戦争の悲惨さを訴え続けたい」と宣誓しているところを映し出している。 そういうのを読み、かつ見て、これからますます、明らかに私以上に戦争の記憶がない人たちが戦争を論じ、また戦争の悲惨さを訴える中心になるんだろうなと思ったら、何だか妙な気がしてきました。私の子供の頃は、それでもまだ日本は貧しかった。舗装してない道路、電話がない家なんて沢山あったし、普通の人は海外なんか行けなかった。今30歳くらいの人は、その程度の貧しさすら知らないでしょう。そんな人たちが、戦争について云々するのをこの先ずーっと聞き続けることになるのかと思ったら、・・・何だかインチキ臭い気がしてきます。 戦争の悲惨さを語り継ぐ、と口で言うのは簡単ですが、「戦争は悲惨だ、と祖父母が言っていた、と両親が言っていました」と言わなければならない時代がもうそこまで来ている時に、相も変わらず、生徒会長っぽい女子高生を選んで、記念碑に花輪を捧げる行事を続けるだけでいいのか知らん、と私は少々疑問に思います。「日本が侵略戦争を仕掛けないのは約束できるとして、日本がテロの標的になったり、他国から侵略された場合、どうするの? 『戦争は悲惨だから、やめて』って相手に言ったら、すぐやめてくれると思うの?」と問いかけたとしたら、あの賢そうな女子校生は自分なりの答えを持っているのでしょうか。私は、そういうことを考えることの方が、「戦争の悲惨さを日本から世界に訴えたい」などと誓うことよりも重要なのではないかと思うのです。とりわけ、現にイラクをはじめ世界のあちこちで紛争が続いていることが、日々ニュースとして飛び込んでくるこの時代、日本からいくら戦争の悲惨さを訴えたって、海の向こうでは誰も耳を傾けてくれないことがこれほど明らかな時代にあっては。 生意気なことを言いました。 さて、生意気ついでにもう一つ生意気なことを。 人事院が公務員の給与を引き下げることを政府に勧告したそうですが・・・それは一体どういうことなんじゃ! 私の理解では、人事院というのはそもそもストライキをうつことができない公務員のために存在し、全国の公務員に代わって給与アップを政府に訴えるものだと思っているのですが、違いますかね? その人事院が給与の引き下げを「勧告」してどうするんだって! 企業に対して給与「引き下げ」交渉する労働組合がどこにあるんだ!! しかも都市部に住む人と、田舎に住む人の給与格差を広げるそうじゃないですか。馬鹿たれ! 今日日、どこの田舎に行ったら物価が安くなると言うんじゃい!! いいですか、愛知県内の国立大を見たって、市内の名古屋大学と市外の大学では給与が1割違うんですよ。1割ですよ。実際には市内と市外にはほとんど差はないのに! それに郊外から市内の名古屋大学に通勤する人もいれば、名古屋市内から市外の大学に通勤する人だっているのに!! その格差をさらに広げるって、何考えとるんじゃ! それに民間との格差を埋めるってなことを言いますけど、じゃ、あのバブルの時代、民間企業の給与が鰻登りだった時代に公務員の給与を同率で上げたんですか?! 上げないじゃないですか。下げる時の論理としてだけ、民間企業と足並みを揃えるなんて、もっともらしいことを持ち出すなって! こんなデフレの時代、給与は下がる、ローンの支払いは変わらないじゃ、生活が苦しくなるばかり。私は別に贅沢をしてるとは思いませんが、生活、ギリギリですよ。公務員の給与がいいなんて、一体誰の話なんだ! まったく、わけ分からんことが多いなぁ・・・。 今日は、なんか否定的な発言ばかりで申し訳ないですけど、明日という日は明るい日と書くのですから、明日はなんか明るい話題出します。今日はこの辺で失敬!
August 15, 2005
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スペースシャトル、今日地球に帰還するんですよね。何やら若干の不安要因もあるようですが、無事帰還してくれればいいなと思います。 とはいうものの、私は「宇宙飛行」ということに関してまったく興味がなく、宇宙に行ってみたいというような希望を持ったことなど、子供の頃から一度もありませんでした。私なんぞはもろに「アポロ11号月面着陸」世代ですから、クラスメートとかには「大きくなったら宇宙飛行士になる!」なんていう子もいましたが、そんな子を横目で見ながら、「気が知れんなー」と思ってたのが幼少の頃の私です。そういうお祭り騒ぎにはまったく乗らない子供でしたからね。その後、立花隆の『宇宙からの帰還』を読んで、宇宙体験というのが人間に及ぼす精神的影響を知り、ちょっと興味を持ったことはありますが、それでもやっぱり宇宙に夢を託す人の気が知れない、というところは依然としてあるな。 科学的な見地に立てば、きっと宇宙空間というのはそれ自体すごく興味深く、また地球上では出来ない実験などが出来るという意味で、宇宙へ行くということは人類にとって重要なことではあるのでしょう。ですから、自分に理解できないからといって、人類が宇宙に行くことについて文句を言うつもりはさらさらありません。 ま、それはそうなんですが、しかし、私にはスペースシャトル計画に関して一つ疑問に思うことがあります。スペースシャトル計画に関しての疑問というよりは、それに乗って宇宙に飛び出して行った過去の日本人宇宙飛行士たちの宇宙での言動についての疑問なんですが。 その疑問とは、「そもそも彼らは何をしに宇宙に行ったのか?」ということです。 このところスペースシャトル関係のニュースを見るたびに、私が目撃するのは、野口さんがラーメンを食べているところだったり、記念写真を撮っているところだったりする。今日見た映像では、野口さんは手品をやっていました。これは一体、何事なのか。野口さんだけではありません。過去には下手な俳句か何かを披露していた人もいましたよね。 もちろんこういうのは、宇宙飛行士本来のミッションを果たした後で、「余興」としてやっているのでしょう。しかし、それにしてもわざわざ宇宙まで行って、そこでラーメンを食べて見せたり、手品をやったり、俳句をひねったりすることが、たとえば日本の子供たちに宇宙への興味を抱かせるきっかけになるだろうと思っているのだとしたら、それはすごくセンスが悪いと私は思うのですけど、そう思うのは私だけなのか。 宇宙というのは、ラーメンを食べたり、手品をしたり、記念写真をとったり、俳句をひねったりするよりも、もっと重要な場所なのであって、それをするために莫大な費用を掛けるだけの意味があるのだ、ということを、私はちゃんと説明してもらいたい。報道する側もそういうことを心がけない限り、「宇宙飛行士なんて、ドーンと打ち出されて、しばらくぷわぷわ浮いて、チューブから宇宙食を食べて、後はパラシュートで落ちてくるだけじゃん」とせせら笑った子供時代の私のような可愛くないガキを増やすだけだと思うのですが、どうでしょうか。 どういうつもりなのかは知らないですけど、野口さんのおちゃらけた映像を嬉々として日本中に流している報道関係者の人たちに、私は強く一考を促したいと思います。
August 8, 2005
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私の家から車で20分ほど走ったところに12スクリーン位の大型映画館があります。しかもこの映画館、夜9時以降の回は大人1名1000円となるので、夜行性の我ら夫婦はいつも夜遅くからロードショーを楽しんでいます。何しろこれだけ遅くから始まるので、映画を見終わるのは12時近くになるわけですが、帰り道、二人で映画の感想などを言い合いながら、車通りの少なくなった深夜の道をゆったりとドライブするのは楽しいものです。そして途中、コンビニの「ミニストップ」に立ち寄ってソフトクリームを食べる。これがまた格別なんですなー。 ところが、最近、この佳き習慣の存続に影が射しています。何しろ、最後にこの映画館で映画を見たのは今年の2月の『ボーン・スプレマシー』でしたから、もう半年近くここに足を運んでいないことになる。それは何故かと言いますと・・・。 見たい映画がぜーんぜんないからでーす! ガーン! たとえば今、どんな映画をやっているかを見てみたら・・・『スターウォーズ』『宇宙戦争』『バットマン』『アイランド』『恋する皇帝ペンギン』『電車男』『HINOKIO』『姑獲鳥の夏』『星になった少年』『フライ、ダディ、フライ』、それに・・・『ポケモン』かよ! 大学では一応「アメリカ映画入門」なる科目も講じている私は、一体全体、この中のどれを見りゃいいっていうんでしょうか。 ま、私はこれまでの人生でお金を払って映画館で邦画を見たことのない人間なので、とりあえず『電車男』以下は不問に付しますが、洋画、すなわちアメリカ映画の状況も相当ひどい。もちろん『スターウォーズ』は大作なのかも知れませんが、私にとって『スターウォーズ』とは、少年時代に見た第1作に尽きる。あれはもう四半世紀以上前の作品です。『バットマン』も過去3作、面白いと思ったことがないですし、これだって20年前からのシリーズ。『宇宙戦争』もやっぱり古い映画の焼き直し、しかも原作は H・G・ウェルズでしょ? ほぼ100年前の話じゃないですか! 一体、どうなっているんでしょうか、ハリウッドは? もうアイディアもネタも尽きたのでしょうか?? 「過去の作品のシリーズ化」「リメイク」「日本映画のリメイク」の3パターンしかもうやることはないのかしらん??? きっとあれだな、この調子じゃ、もう次は『ロッキー・6』しかないな。スタローンがテロリストに試合を申し込まれるって奴。 そういえば、ほんとに面白いアメリカ映画を見たのって、随分昔のことになってしまったような気がしますね。私がしみじみ「いい映画だなー」と思った最後の映画はイギリス映画の『リトル・ダンサー』だったし、その前にそう思ったのはイギリス映画の『ニル・バイ・マウス』だし、その前にそう思ったのはイギリス映画の『フル・モンティ』だし・・・って、イギリス映画ばっかじゃん! しかも「貧しいイギリス」を撮った映画ばかり。イギリスではまだ辛うじて「貧しい映画」が撮れるからいいですけど、今ハリウッドで「貧しい映画」撮ったら、コメディになっちゃうしなぁ。 ああ、『市民ケーン』を撮ったハリウッド、『ゴッド・ファーザー』を撮ったハリウッド、『アマデウス』を撮ったハリウッドはいずこへ? しかし、そうは言っても私は近々、この映画館に行って映画を見なくてはならないのです。というのも、6ヶ月以上間があくと、せっかくたまっていた映画館のカードのポイントが無効になってしまうから。先程挙げたリストの中から強いて選ぶとすれば・・・『アイランド』・・ですか? うーん、どうなんでしょう、この映画。なんか、今更「クローン」ネタかって感じがして、どうも期待が持てないんですけど。でも仕方がないからこれを見ますか、ね。トホホ。 ああ、早く見たい映画が出てこないかなー。えーっと、「近日上映予定」の映画にはどんなのがあるかしらん・・・って、『妖怪大戦争』かよ!! さて、週末アフィリエイト第1弾ですが、まずは「教授の椅子・パート3」をご紹介しましょう。パート3では書斎用の機能的なパソコン・チェアを扱っています。私自身も含め、日頃長時間にわたってパソコンに向かう人間にとって、パソコン・チェアの善し悪しは身体への負担の軽重となって直接跳ね返ってきます。パート3には機能性に優れ、しかも色・デザインともお洒落な椅子が揃っていますので、ぜひご覧下さいね。ここをクリック! ↓椅子・パート3
July 30, 2005
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先日も少し話題に挙げたことがありますが、私にはオーストラリア人のロブという友人がいます。顔立ちはテニス・プレーヤーのアンドレ・アガシをもう少し痩せさせて、穏やかにしたような感じ。もの静かな男で、華やかで都会的なものよりも、静寂と自然を愛するタイプであるところは私に似ていますが、それだけでなく年齢の点でも私とまったく同い年。彼も私もどちらかと言えば人見知りをする方であるにも係わらず、2年ほど前に初めてあった時にすぐに仲良くなれたのは、お互いに似た者同士であることに気付いたからなのでした。ちなみに、私と彼が知り合うことになったのは、私の家内と彼の奥さんのアミリアがそもそも友人だったことによるので、今では夫婦同士で付き合っています。 そんなわけで、このところ私は耳学問だけで相当なオーストラリア通になりつつあるのですが、ロブやアミリアの話を聞いていると、私もオーストラリアに生まれたかった! と思うことがしばしばあります。 まず住環境が日本とは大違い。ロブ・アミリア夫妻は、別に富豪の生まれというわけではなく、ごく普通の家庭に育ったごく普通のカップルなのですが、彼らが故郷オーストラリアに持っている家というのがすごい。立地も美しい海岸(ほとんどプライベート・ビーチみたい)のすぐそばで、しかもプール付き。そのプールの周りには15メートルくらいの高さの巨大な椰子の木が列柱のように取り巻いていますが、これはロブ自身がクレーンを使って植えたのだとか。オーストラリアにおける「ガーデニング」とは、かくのごときものなのですな。また彼らの庭にはたまに蛇が出るそうですが、その蛇というのが青大将どころの騒ぎではなく、体長5~6メートルのニシキヘビなのだとか。要するに、万事において日本とはスケールが違うわけ。 そんな感じで優雅な生活を送っていた彼らが、敢えて一旦職を辞して日本に来ることにしたのは、ただ単に「一度海外で生活してみたかった」という理由からだそうで、かくして来日した彼らは幸運にも夫婦して同じ英会話学校に職を得た。それが3年くらい前のことだったかな。生活習慣がまるで違う、しかも英語の通じない国に来るのは不安じゃなかったの? と聞いても、別にそんなことも考えなかったそうで、その辺の楽観主義がオーストラリア人のいいところなのかも知れません。 そんなわけで、彼らは海外で生活することを楽しむために日本に来たわけですが、実際、ホントに日本を楽しんでいますね。先週末も三重県かどこかの海岸でキャンプをしてきたと言ってましたし、その前は富士山に登ってきたと言ってました。富士山なんて私だって登ったことないのに・・・。ま、そんな感じで、むしろ私の方が彼らから日本の優れた景観のことを教わっている始末なんです。 とはいえ、ロブもアミリアも日本に長く定住することは考えていないみたいで、数年後にはまたオーストラリアに帰るつもりらしく、帰国したら二人で教職の資格をとり、夫婦して学校の先生になるつもりなのだとか。その理由は、夫婦揃って長い夏休みがとれるからで、その夏休みを思い切り楽しみたいのだそうです。 とまあ、そんな話を彼らから聞いていると、とりわけ「就職」という点において、日本人とオーストラリア人では、感覚が全然違うなと思わざるを得なくなってきます。私など日本の大学生を教えている関係上、彼らが大学3年の頃から必死になって就職活動をしているのを日々見守っているわけですし、また就職したら就職したで今度は過酷なまでに働かされ、過労死寸前の状態にあることなどもよく知っています。しかし日本ではそれが普通であって、そうでもしなければ車も買えなければ、結婚資金も貯まらなければ、家も買えなければ、子供の教育費も出ないということになる。精根尽き果てるまで働き続けなくては、とても「まっとう」な生活はできないわけ。日本人で、とりわけ既に結婚しているカップルが、2、3年の間、海外で働いてみよう、とか、一旦職を辞して資格を取り、別な職業に就いてみよう、とか、夏休みを楽しむために職を選ぼうとか、そんなことを考える余裕なんて、なかなかないんじゃないでしょうか。 とまあ、そんなふうに日豪比較しながら、また己自身の生活ぶりについても顧みつつ、つらつら考えていると、結局、日本というのは、とんでもなく貧しい国なんじゃないかな、という気がしてきます。だって、泳ぐのを止めたら呼吸困難になって死んでしまうサメみたいに、寸暇を惜しんで働き続けなければ、日本では生活が成り立っていかないんですから。まさに「一億総自転車操業」ですよ。しかもこの種の貧しさは、現代に近づくほど顕著になってきているような気がする。少なくとも古い小説や映画などを読んだり見たりする限り、昔の日本の方がよっぽどのんびりしています。 一体、どうして日本はこんなに貧しい国になってしまったのでしょうか。そして、どうしたらこの貧しさから脱出できるのでしょうか。 オーストラリア人の友人を持つことになり、彼らの暮らしぶりを知る機会を得た私は、この頃、しばしばそんなことを考えてしまうのでした。
July 24, 2005
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今日は昼から大学に行ってきました。出席しなければならない会議が幾つかあったもんでね。学生時代には夏休みというのは文字通り夏休みでしたが、黒板を背にする側に回ると、こんな感じで休み中でもちょこちょこ呼び出しをくらいます。ま、もちろんそれも給料のうちですから、そのこと自体には別に不満はありません。 しかしその会議の内容となりますと、なかなか納得できないことが多いですなぁ。 たとえば、今日の会議でも「『授業アンケート』を今後さらに頻繁にやっていこう」なんていうことが提案されたりするわけです。私なんかは、「まじ?」と思ってしまいますし、また私と同様に感じている方も多いと思うのですが、こういう提案には基本的に反対はできないんですね。大学として、こういうことをやらなければならないということは、すでに確認されているからです。 しかし、なんで自分の授業を学生に評価されにゃいかんのか、私にはさっぱり分かりません。 確かにこの種のアンケートというのは、アメリカの大学でも盛んにやっています。しかし、それはいいのですよ。前にも言いましたが、アメリカの大学生というのはホントに死にもの狂いで勉強しますからね。大学で学んだことを自分のこれからのキャリアに少しでも活かそうと思って必死です。ですから、彼らには、ためにならない授業を批判する権利はあると思う。 けれど、悲しいかな日本の大学で、死にもの狂いで勉強している学生にお目に掛かることなんて、そうはないですよ。それどころか、もうホントに悲しくなるくらい勉強してくれない。自分で言うのもなんですが、私がめちゃくちゃ面白い授業をしているにも係わらず、それを完璧に無視しておしゃべりに夢中になっている学生だって沢山いるんですから。また期末試験をやっても、これはよく勉強しているなと思わせる答案なんて、そうそうあるわけではない。 そんな怠惰な学生たちに、なんで私の授業をあれこれ「評価」されなきゃならんのですか! 「授業の内容がよくわからない」・・○、「授業後、さらに勉強する気になった」・・×、みたいな感じで、「よくもまあ言ってくれるよ」というアンケート結果を受け、教員たる我々が「反省」し、授業を「改善」しなきゃいけないなんて、世も末としか言い様がない。授業アンケートするなら、教員側にさせなさいって。 しかし、こういう馬鹿馬鹿しい授業アンケートって、是が非でもやらなきゃならないんです。なぜなら、こうことをして、「我が大学では、授業改善に日々取り組んでおりますです、はい!」と言える準備をしておかないと、文科省(およびその手先の外部評価団体)が「この大学、ダメ」の烙印を押し、その結果ガンガン補助金が減らされるからです。 日本の教育行政って、ホント、こういうレベルなんですよ。大学生の学力低下が深刻だとなると、途端に大学の責任を問い始め、その対策を各大学に取らせようとする。しかも大学の改善努力を「実質」で見るのではなく、「数値」で判断しようとするので、結局「授業アンケート」みたいな形で対応せざるを得ない。その結果、日本中の大学が苦労して「外部評価対策」に追われているわけです。そのための会議やら、組織作りにどのくらいの労力とお金が使われているか、関係者以外には想像もつかないと思いますよ。つまり、本来研究や教育に捧げるべき時間とエネルギーとお金を使って、外部評価団体にいかにアピールできるデータを出すか、その対策ばっかりやらされているわけ。 でまたトホホなことに、こういう馬鹿馬鹿しい提案に嬉々として乗ってしまう教員が結構沢山いるって・・・言うじゃな~い。でも、アンタ、「授業アンケート、いいですね、やりましょ、やりましょ」って言ってる教員ほど、実際にはろくな研究・授業をしていないんですから! 残念! (古いか・・・) あー、まったく腹が立つ! 私がまだ大学院の院生だった頃、今は亡き私の師匠が教授会から帰って来るたびに、「馬鹿馬鹿しい! 俺は教授会の最中に何度『馬鹿野郎!』と叫んで飛び出してこようと思ったことか・・・」と嘆いておられましたが、ついに私も、師匠のお気持ちがつくづく分かる立場になった、っちゅーことですな。・・・嬉しいやら、悲しいやら。
July 20, 2005
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大学の教員になって楽しいことの一つは、卒業論文の指導ができることです。何しろ4年間の学生生活の総まとめですから、学生の側も気合が入りますし、指導するこちらとしても、何とか良い論文を作り上げる手伝いをしてやりたい気持ちにもなる。 ところが最近の学生は、自分の卒論のテーマを決めることさえままならないのが多いんですよ・・・。今年度のゼミ生の中にもまだ卒業論文のテーマがはっきり定まらない学生がいて、ホントに困ってしまいます。いや、本人としてはある程度自分のやりたいことは決まっているのですが、私の目から見ると「それは、論文のタネにはならないよ」というものばかり。 たとえば、「アメリカにおける理想の女性像の変遷」というテーマで卒論を書きたい、などと言ってくる学生がいる。こういうのが一番困ります。だって、どの時代を取ったって、一つの国家における理想の女性像だなんて、そんなに明確に決まらないですよ。ま、昔は「家庭の天使」的な女性、現代は「キャリア・ウーマン」、くらいの傾向は出るかも知れませんけど、こういうのはアメリカだけのことではないですからね。この程度のことをまとめるだけなら、すごく大雑把な論になってしまう。もともと卒論レベルで取り扱えるテーマではないんです。 でも「理想の女性像」と言われて少し興味が出てきたので、その場にいた数名のゼミ生(ほぼ全員女子学生)に、「じゃ、みんなにとって理想の女性って誰?」と聞いてみたんです。みんな即答できずに呻吟しているので、「ほーれ、ご覧。自分にとっての理想の女性像だって、そう簡単には決まらないだろう?」と言うと、ようやく一人の学生が「緒方貞子さん」と具体的な名前を出してきました。緒方さんって、国連難民高等弁務官を務めていた人ですね。ほう、なるほど・・・。教授:「ほう、なるほど・・・。でもさ、国連の高等弁務官として緒方さんがどんな業績を挙げたか、知ってるの?」学生A:「知りませーん!」教授: 「じゃ、緒方さんが偉いかどうかなんて、分からないじゃん」学生A:「でも、国連で英語使って仕事してたんですよね。すっごーい!」教授: 「・・・あ、そう・・・。ポイントは英語なわけね・・・」学生A:「あ、それからライス国務長官!」学生B:「そうそう! カッコいい!」学生C:「あの人、すっごく頭いいんでしょ?」学生B:「そりゃ、そうじゃない? どっかの大学の先生だったんでしょ?」教授: 「・・・。頭はいい人みたいだね。ところで、国務長官って、日本でいうと何大臣になるか、知ってる?」学生A:「国務大臣、かな」教授: 「日本に国務大臣って、ないと思うけど・・・」学生B:「でも、女性なのにアメリカを代表して日本に来ちゃうなんて、すごーい」教授: 「でもさ、あの人、ブッシュ政権の長官でしょ。みんな、この前までブッシュ大統領には批判的だったじゃない? そのブッシュさんの右腕のライスさんは、お咎めなしなの?」学生ABC:「政治のことは分かりませーん!」 ・・・。こいつらひょっとして、全員アホの子かしら。 今どきの女子学生にとって、「理想の女性像」っていうのは結局、社会的に見て高い地位に就いている女性のことなんですな。 でもそれじゃ、「ものの見方」が「近所のおばちゃん」レベルですから! 大学生なんだから、少しは斜に構えてくれよ・・・。社会的に高い地位に就いている人が本当にエライ人かどうか、その人の業績を見るなり何なりして、自分の頭で判断してくれって。 とまあ、最近の学生さんの能天気ぶりに、いささか当てられっぱなしのワタクシなのでした。今日も、わけ分からん! ・・・え? 何ですって? 私にとっての「理想の女性」は誰か、ですと? そんなの、「家内」に決まってるじゃないですか!!
July 13, 2005
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ここ数年のことでしょうか、大学内の研究室棟に入る時に、私はしばしば不愉快な思いをさせられるようになりました。この建物には教員だけでなく、学生も頻繁に出入りをするので、例えば学生が私より数歩先にその建物に入ろうとする、なんてことがよくある。そんなとき、最近の学生は、自分が建物に入りきった時点でドアを閉めてしまうんですよ。自分のすぐ後ろに私がいることに気づいていないのか、それとも気づいていてもお構いなしなのか、とにかく私の鼻先でドアを閉めてしまう。その度に私はちょっぴりいや~な気分になるわけです。 だって、自分のすぐ後ろから人が建物に入ろうとしている場合、その人のために少しの間ドアを押さえていてあげるべきもんなんじゃないでしょうか? そういう最低限のエチケット、どこかで習ってこなかったのかな? いや、こんなこと習うとか習わないというレベルのことではなく、目上の人、しかもこれから自分が学問を習おうという人に対する敬意の念が少しでもあれば、自然と出る行為なんじゃないの? もう、プンプンです! プン、プン!! こういう時に外国の例を挙げるのは嫌味なもんですが、それを承知で言わせていただくと、アメリカの大学でそんな経験をしたことは一度もないですよ。アメリカの大学生は、ちゃんとした大人ですからね。 それに引き換え日本の場合、低下しているのは学力だけじゃないんです。人間としての根本的なセンスが極端に低下している。今、日本の大学って、幼稚園レベルなんですよ、実際。まずお行儀からしつけなくてはならない。「ちゃんとお座りして、おしゃべりしないの」っていうところから全てを始めなくてはならないんです。しかも私の勤めている大学は、世間的に言えばかなりレベルの高い大学と思われているんですよ。そういう大学でもそうなんですから、もう情けないったらありゃしない。 お茶の水女子大の先生で数学者の藤原正彦さんが、「小学校教育なんて読み・書き・そろばん(計算)だけ教えりゃいいんだ」というような教育論をあちこちのメディアで展開されていて、私もまったくその通りだと思いますが、この「読み・書き・そろばん」に加えてもう一つ、「エチケット」とか「マナー」も教えたらいいんじゃないかと私は声を大にして提案したい。最近いわゆる「総合学習」の時間をどうするか、というような議論が巷にありますが、もう「総合学習」なんて中途半端なものはなくして、はっきり「エチケット・マナー学習」と称し、人間の生活に最低限必要なエチケットとマナーを小学生・中学生に叩き込む。どうでしょう、このアイディア? ま、そんなことやったとしても効果が出始めるのはいつのことやら、という感じですなぁ。とほほ・・・。 まあとにかく学生諸君! 少なくとも、人の鼻先でドアを閉めるのだけはやめてくれ! 狭いキャンパスなんだから、お互い、気分良くやってこうぜ!
July 5, 2005
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昨夜、またまた総天然色の妙な夢を見ました。 夢の中で私と家内は何故か社交ダンスの日本代表ということになっていて、世界選手権に出場するんですね(もちろん、私も家内も社交ダンスなんてやったことありませんよ!)。それで夢は会場に向かう電車の中から始まります。電車に揺られて会場に向かうっていうところが、妙に庶民的なんですが・・・。 で、会場について大会用の服に着替えるわけですが、私のボストンバッグから出てきたものは普段、大学に通勤する時に着るような服ばかり。結局私が身に着けたのは縦のストライプの入ったボタンダウンのシャツに生成りの夏っぽい麻混のジャケット、それにチノパンです。まあ、言ってみれば「ユニクロ風」ですな。そしてネクタイは紺色の細身のもの。家内の方は、これまた涼しげな薄青の夏のワンピース。 で、これらを身に着けてから選手たちの揃う控室に入ってびっくり。というのも他の選手たちが皆、黒のタキシードを着ていたからです。しかも皆外国人で、背丈も皆、私より30センチは高く、逆三角形の体型に細身のタキシードがぴったり合っていて、やたらにカッコいい! しかも髪の毛もそれぞれ今風に整えられ、頬髭を形よく蓄えている人も居る。そこに、童顔・ユニクロ風の私ですから、まあ場違いもいいところ。 しかも決定的だったのはネクタイです。他の選手たちはタキシードですから、当然タイは蝶ネクタイということになる。一方私は、ごく普通のネクタイですから目立つ、目立つ。もう穴があったら入りたい! これら他の堂々たる選手たちと共に、いざ選手権会場に入っていった時の、会場のどよめきは、ご想像下さい。 結果から言うと、私たちカップルは10位でした。(状況を考えれば、大健闘ですよね) 夢の最後は、家内と二人でしょぼしょぼ帰りの電車に乗っているところです。去年の日本代表はメダルをとったのに、我々は10位。新聞で叩かれるだろうなぁ。トホホ。せめて蝶ネクタイをしていれば・・・。そこで目が覚めました。 ま、この夢に関してはノーコメント、ということで・・・。 さて、週末アフィリエイトの第一弾ですが、昨日、男性用鞄を集めた「教授の鞄」と女性用鞄を集めた「鞄・パート3」の商品を大幅に入れ換えをしましたので、これらをご紹介しましょう。 男性用鞄で特におすすめなのはヴァレクストラ社の鞄です。私がもっとも好きな鞄メーカーで、そのすっきりしたシルエットの上品さは他のメーカーの追随を許しません。しかも鍵にも特色があって、カッコいい!! 一方女性用鞄ではアンテプリマが売れ筋No.1。特にワイヤーバッグはすぐに売り切れてしまいますので、早いもの勝ちです。というわけで、下の文字列をクリックして、是非一度お店を覗いて見て下さい。ここをクリック! ↓男性用鞄 教授の鞄女性用鞄 鞄・パート3 あ、そう言えば、トップページに並べている商品もすべて入れ替えましたので、そちらの方も見て下さいね~!
July 2, 2005
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今朝の名古屋地方は猛烈な雨。ようやく梅雨らしくなってきました。これで少しは水不足も解消するでしょうか。今朝も顔を洗っている時、水を使い過ぎないよう小まめに水道の栓を絞っていたのですが、あれ? これだけ雨が降っているのだから、少しぐらい水を景気よく使ってもいいのかな? などと思ったりして。 そういえばいつも思うのですが、気象庁とか地方自治体って、節水を市民に呼びかける時だけはやたらに声高なくせに、その後、水不足が解消した時にお礼を言いませんね。水不足が解消しつつあるという報告すらない。人にものを頼む時の礼儀ってのは、個人でも組織でも変わらないはず。「ありがとう」の一言くらいあってもいいのになぁ。ここは一つ、担当機関に猛省を促しておきましょう。 ところで、話はまったく変わりますが、先程オーストラリア人の友人のロブ君と話をしていて、その際、「靖国問題」の話題が出ました。で、彼が小泉さんは靖国に参拝して何やってるの? と聞くので、「さあ、戦没者の鎮魂じゃない?」と答えたところ、「鎮魂」とは何ぞや? と切り返された。そこで、まあ、戦争で苦しんだ人たちに「お気の毒でしたなぁ」という気持ちを伝え、彼らの魂があの世で平和を得られんことを祈るってなもんじゃないの? と私が答えると、彼はびっくり仰天。彼は「参拝」というのは、戦争に参加した兵士たちの行為を讃えることだろうと思っていたと言うのです。 確かに英字新聞などでは「靖国参拝」のことを「pay homage to the war dead at Yasukuni」などと表現しているようですが、これでは「戦没兵士たちを称讃する」「戦没兵士たちに(後に続きます、と)忠誠を誓う」などという意味になってしまいますよね。 ここで私は靖国参拝の是非について論じるつもりはありませんが、少なくとも大方の日本人は、たとえそれに賛成するにせよ、反対するにせよ、「靖国参拝とは、過去の日本の行いを称讃し、後に続こうと決意するためのものである」というふうには受け取っていないのではないかと思います。だとすれば、この問題が外国で報道される際の不適切な言葉遣いによって、日本は相当な誤解を受けてしまっているのかも知れません。 先程「ありがとう」の一言が重要、ということを言いましたが、言葉というのは、使わなければ使わないで問題を生じさせるし、使ったら使ったで問題を生じさせるもんだなぁ、とまあ、そんなことを思った金曜日の昼下がりなのでした。今日も・・・わけ分からん!
July 1, 2005
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非科学的なことを言うようですが、何を隠そう、実は私は「雨乞い」ができます。雨を降らす呪文と踊りを習得しているのです。 さて、名古屋地方は今年は極端な空梅雨でして、梅雨入りしてからほとんどまともに雨が降っておらず、貯水ダムもかなり危機的な状態です。名古屋市では水道の水圧を下げるなどの対策を取り始めましたが、それでも相当やばい。 ま、それも大変な事態ですが、それ以上につらいのはこの暑さ。ここはどうしても、少しお湿りが欲しいところです。 というわけで、昨夜、私の秘技「雨乞いの術」を実施してみました。久しぶりに使ったのでうまく効くか不安でしたが、まだ腕は落ちていなかったらしく、名古屋では今朝未明から雨。ちなみに予報では今週も雨の予定はありませんでした。今頃気象庁も、一体なぜ雨が降ったのか、首をひねっていることでしょう。 ところで、そもそもなぜ私に雨乞いができるかと申しますと、子供の頃、体育の授業が嫌いで、雨が降って授業がつぶれ、読書時間にならないかなーと切望し、色々雨乞いをやってみたことがきっかけなんです。で、そうこうしているうちに、ある呪文と踊りの組み合わせで、確実に雨を降らすことができるのに気づいてしまった。それ以来、時々、この術を使うようになりましたが、失敗したことはほとんどありません。 ただ、雨を降らすことはできますが、降り出した雨を任意に止めることはできないので、災害を引き起こすことを恐れ、あまり濫用しないようにはしています。 ちなみに私の雨乞い歴の中でもっとも華々しい勲章は、2,3年前にカリフォルニアの山火事を消したことです。あの時は、もう人の手ではどうにも消火が不可能であることは明白でしたし、人家にも火の手が迫ってきたこともあって、ひょっとして私の術で何とかならないかと思い、初めて外国に雨を降らせることを試みたのです。この時は、家内にも「やってみる」と宣言していますので、私が雨乞いの術を実施したことは家内が証人です。 その結果、カリフォルニアではきわめて異例なことに、季節はずれの大雨が降って、山火事は一気に鎮火したのでした。 というわけで今日は名古屋に久しぶりの雨が降り、少し涼しくなって私もほっと一息ついているところです。さあ、授業、授業。
June 29, 2005
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またまた陰惨な事件が起きましたね。15歳の少年による両親惨殺事件。 こういう事件が起こるたびにいつも私が思うのは、報道する側の姿勢とか言葉遣いが正しくないんじゃないかということです。 例えば今朝の新聞にも、少年が空き家に侵入するという事件を起こして以来、少年と両親の間に「確執」が生まれた、などと書いてありましたが、こういう場合、「確執」という言葉は正しく当てはまりますかね? 子供が悪いことをやって、親が叱った。それで子供がふてくされた。要するに、そういうことなわけでしょ? そういう場合、「親子の間に確執が生まれた」って言うんでしょうか? また私が嫌いなのは「心の闇」という言葉です。こういう事件が起こると、必ず報道機関は「犯罪心理学者」とかいう肩書きの人のところへ飛んで行ってコメントをもらうのが決まりになっていますよね。それでまたそういう専門家とやらが、15歳の少年の「心の闇」を慎重に探っていかなければならない、みたいなことを言うわけですよ。 一体、何なんですか、この「心の闇」って? 父親の頭を鉄アレイで殴打し、母親を刃物で何度も突き刺し、部屋ごと吹っ飛ばすために細工をし、自分は草津の温泉でのんびりお湯につかり、食事も平らげ、ゲームセンターで遊んでいた15歳の少年に「心の闇」なんてないですよ。そりゃ長年生きて、沢山の苦労を経験をしてきた人になら、そういうものがあるかもしれないですけど、日本で生まれたごく普通の15歳にそんなものあるわけない。当たり前じゃないですか。 しかも、「親との確執があり、心の闇があったのだから、親を殺して温泉に浸かるのも無理もない」とそこまで言い切るのならまだしも、そこまでは言わないで、「専門家がそう言ってました」という形でほのめかすだけに止め、少年の犯罪を断罪する側からも、また弁護する側からも批判されないようにしようとする。そういう日本の報道の姿勢って、ほんとにどうかしてますよ。 このような事件が起きた時、私が欲するのは、犯罪を犯したものが正当な裁きを受け、正当に罪を償うこと、そして被害を受けたものが正当な補償を受けるということ、ただそれだけです。「親と子の確執」だとか、「心の闇」だなんて馬鹿なこと言ってないで、正当なことが行われるようにアクションを起こすこと。これこそ、報道機関がやるべきことなんじゃないでしょうか。 それから世の「犯罪心理学者」の皆さんも、アホなコメントなんか出してる間に、むしろ報道機関の側の「ことなかれ主義」でも分析しなさいって!!
June 23, 2005
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昨日は日本アメリカ文学会中部支部の支部例会に参加してきました。 研究発表が2本あり、一つはアメリカの「ヤング・アダルト小説」について、もう一つは「ハリー・ポッターのアメリカにおける評価」というもの。どちらも大衆文学についての研究と言ってよいでしょうが、最近のアメリカ文学研究は、昔ならば見向きもしなかったであろう大衆文学の分野にも目を向けるようになっています。つまり「文学研究」と「文化研究」が相互乗り入れを始めているのですね。ま、それはそれで良いことだと思います。 ところで、後者の発表、つまり「ハリー・ポッターのアメリカにおける評価」という研究発表の中で、発表者が「アメリカでは『ハリー・ポッター』は「悪書」扱いされるところもあって、そういう地域ではこの本は没収され、山積みにされ、火をつけて燃やされたところもあった」というようなことを言っていました。なんだか魔女を火あぶりにするみたいで、物騒な話ですなぁ。 この発表に対し、フロアの方から、「『ハリー・ポッター』は善玉と悪玉が比較的はっきり分かれている勧善懲悪の物語なのだから、むしろ(どんな時にも自らを「善」と決めてかかる)アメリカ好みの物語と言えるのではないか?」という質問が出ました。もっともな質問です。 で、これに対しての発表者の応答が面白かった。アメリカで『ハリー・ポッター』が批判されるのは、この物語が魔法使い(悪魔)のことを扱っていながら、神が出て来ないから、だというのですね。ひゃーー、そうなんだ・・・。でも、それを言ったら『ロード・オブ・ザ・リング』だって同じようなものなのに、そっちは批判されないのか? と質問者が再度尋ねると、『ロード・オブ・ザ・リング』の方は人間が出現する前の、どこか遠いところの話だから、ノープロブレムなんだそうです。 もっとも、そんなことを言う人は少数派で、もちろんアメリカでも『ハリー・ポッター』はすごく売れているんですけどね。ただ中には原理主義的な観点からものごとを批判したがる人もアメリカには少なからず居る、ということなんでしょう。ま、確かにそれはそれで「アメリカ」の一側面なのかも知れません。何しろ、人間がサルから進化した、ということを学校で教えることに反対する人が、アメリカには結構沢山いるわけですからね。 ということで、なかなか面白い発表と質疑応答を聴くことができて、楽しくもためになる午後を過ごせたのでした。 さて、週末アフィリエイトですが、昨日に引き続き、「教授のパントリー・パート4」で扱っている名古屋名物のおいしいものをご紹介しましょう。「手羽先」とか「どて」とか、あるいは芸能人のファンも多いという「御園座アイス」など、名古屋ならではのものを沢山ご紹介していますので、ぜひクリックしてみて下さい。ここをクリック! ↓パントリー・パート4こんな感じだがね! ↓
June 19, 2005
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随分前に雑誌に載せる原稿を書いていると書きましたが、その雑誌が先日発売されました。やはり、自分の書いたものが活字になる、というのは楽しいものです。 だもので、昨日のゼミの時間、さりげなくテーブルの上にこの雑誌を置いておいて、ゼミ生たちに「ほれ、こんなもの書いたぜ」と何気なく(内心は得意気に)その雑誌を示したわけです。で、私の可愛いゼミ生たちは、「わー、すごーい」などと言いながら一斉に頭を寄せ合って読み始めたのですが・・・次の瞬間には全員が固まったのでした。 私の書いた文章のタイトルの中の、ある文字が読めなかったのです。残念! 「譚」という字だったんですけどね。 もちろん「たん」ですよ「たん」。「英雄譚」とか言うじゃないですか。物語とか伝説とか、そんな意味です。 ま、私の書くものなんぞ読めなくったっていいですが、それにしてもひどいなあ、若い連中の漢字力。 今、ゆとり教育が批判されていますが、文科省(文部省)のゆとり教育の方針は最近始まったことではありません。漢字制限は随分前から始まっていましたよね。だからこの頃の人が漢字が読めないのも無理はないのかも知れない。 しかしですね、私が疑問に思うのは、この頃の若い人というのは、小さい時から塾に通って夜遅くまで勉強しているのでしょう? 私の周りでも、子供を小学校3年生あたりから予備校に通わせている人は何人もいる。 そんなに勉強しているのに、なんで学力がどんどん低下するの? だったらお前が学力アップさせろ、と言われそうですが、二十歳過ぎの学生相手に、漢字の書き取りなどの基礎学力から面倒みろ、と言われてもねぇ・・・。 で、思うのですが、せめて漢字力の向上のための政策として、新聞などは総ルビにしたらどうなんでしょうか。以前はそうだったでしょ。だから、小学校しか出ていないような人でも、社会人として立派に通用するだけの漢字力があったんですよ。 誰の言いなりになったものか、少し前まで日本中の新聞が常用漢字以外の漢字を使わないなんて方針を立てたために、記事が読み難くて仕方ありませんでした。最近はそういう馬鹿らしいことが少し改善されて、常用漢字以外でもよく使う漢字をルビつきで表記するようになりましたね。いいことです。で、どうせならこの方針をもっと徹底して、総ルビにしちゃったらどうかなー、と。 ま、そうしたところで、若い人はテレビ欄しか読まないらしいので、効果はあまり期待できない知れませんが。 でも、こんなに漢字力(と同時に国語力)が低下したんじゃ、わが国の文化の継承がなされませんよ。子供たちは子供たちの、若い人は若い人だけの文化でしかものを考えなくなる。最近の犯罪って、結局それが原因でしょ。 とにかく、自分が書く程度のものすら、今の人にはもう読めないのだと知って、かなりショックを受けた今日この頃、なのでした。何とかしてーーー!
June 7, 2005
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私は時々天然色のリアルな夢を見ます。昨夜も妙にリアルな、しかもおっそろしい夢を見ました。 夢の中で私と家内は2人組みの刑事か何かで、ある容疑者の家に潜入捜査すべく、深夜、その容疑者の家の2階に忍び込むところからストーリーは始まります。 で、無事にその家に忍び込むことに成功するのですが、どうやら当の容疑者は外出中のようで家はもぬけの殻。そこで我々は息を潜めて「ほし」の帰りを待つことに。 ところが容疑者は一向に帰ってきません。そこで我々は業を煮やし、家内は一旦外へ出て様子を窺うことにして、私一人が家に残って引き続き容疑者の帰りを待つことにします。 やがて夜が明けます。とうとう容疑者は戻ってきませんでした。そこで私は、半ば好奇心から、1階の様子を窺うために下に降りてみることに。 忍び込んだ時は深夜だったのでよく分かりませんでしたが、朝になってみるとこれはまた大きな家です。大邸宅といっていい。置いてある家具調度の類も豪華なものばかり。一体、この容疑者というのは、どんな大金持ちなんだろうと思いつつ、私は部屋から部屋へと渡り歩いていきます。 で、一番奥の部屋の入り口まで来て私は心臓が凍り付きました。なんとそこに容疑者が居るではありませんか! 彼は外出していたのではなく、ずっとこの部屋にいたのです。 しかもその部屋の中で、何故か大きなキャンバスを前に油絵を描いている容疑者は、映画『コラテラル』で冷酷無比な殺し屋を演じた白髪の殺人鬼トム・クルーズじゃあーりませんか! やばい! 完全にやばい! 私はよりによって、プロ中のプロの殺し屋の家に潜入していたのでした。 さっきまでの気楽な気持ちはどこへやら、もう心臓ばくばくで抜き足、差し足、階段を上り、2階に戻ったわけですが、しかし考えてみればあのプロの殺し屋のトム・クルーズが、迂闊にも部屋の入り口に顔を出してしまった私に気がつかないはずがない。気づかない振りをして、今頃銃を片手に2階に上がってくるところかも知れません! もちろん、私も銃は持っていますが、あんなプロと撃ち合って勝てるわけがない。もうダメじゃん! 絶対殺される。神様、たすけてーーーーー・・・ そこで目が覚めました。 朝からぐったりです。 しかも今日は月曜日。ただでさえげんなりなのに・・・。 今日も・・・分けわからん。
June 6, 2005
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自分で言うのも何ですが、私はこれでなかなか家事に協力的です。さすがに以前のようには自分で料理を作らなくなりましたが、土曜日とか日曜日など、仕事が押し詰まっていない時には、夕食後の皿洗いなども進んでします。 そんな時にいつも思うのですが、日本のキッチンって、本当に非能率的に出来ていますよね。皆さんはそう思いませんか? たとえば、洗い場に関して、日本のシステムキッチンではそのほとんどが一槽式ですが、どうして二槽式を採用しないのでしょうか。因みにアメリカでは洗い場は大抵二槽式になっているので、一つの槽に洗剤を混ぜたお湯を張って、ここで食器の汚れを落とす作業をし、その洗った食器を隣の槽ですすぐことができます。つまり、二人の人間が洗い場に並んで「洗い」と「すすぎ」を同時進行させることができるわけです。ですから私たち夫婦もアメリカに住んでいた頃は、夕食後の後片付けを二人で協力してさっと終わらせることができました。しかし日本の一槽式のシステムキッチンでは、このような協力体制をうまくとることができない。つまり日本では「食事の片づけは、誰かが(=妻が)一人で担当する」ことを前提にキッチンが設計されているといわざるを得ないのです。これって、ちょっと考え方が古くありませんか? それだけでなく、上に述べたようなアメリカ方式で、洗剤を混ぜたお湯に食器を漬けながら洗うと、洗剤の量がぐっと少なくて済みます。ということは環境にも良いし、手荒れの原因にもならない。もちろん洗剤の減る量が少なくなりますから、倹約の面でもいい。こんな良い事づくめなのに、どうして二槽式の洗い場が導入されないのか、本当に不思議です。このご時世、そういうものを設計する人の中で、外国暮らしの経験がある人くらい、いるでしょうに・・・。 それに、そもそも洗い場の高さが低過ぎはしませんか? 私は身長が173センチ、家内も170センチくらいですが、この程度の身長ですら洗い場が低過ぎて、腰をやや前に屈めながら洗わなくてはならず、そのため15分も洗っていると腰が痛くなってくる。今どきの若い人は私などよりもっと体格がいいですから、彼らにとってはもっと苦痛でしょう。そういう日本人の身長の急速な向上を、システムキッチンの設計者たちはどのくらい考慮しているのか、私は大いに疑問です。 また料理を作る作業台についても、現状のものは大抵小さ過ぎる。もし他に何もない、住宅展示場のような生活感のない状況であれば一応十分な広さがあったとしても、現実にはそこに「洗い籠」を置かなくてはならないことがままあり、これを置いてしまうと、途端に作業スペースが足りなくなってしまう。しかし、自分の家のことを考えてみれば、普通台所に洗い籠はあるものでしょう? それなら、なぜそのことも考えてキッチンを設計しないのか。炊飯器だってそうです。日本の家庭ならどこにも炊飯器はあるだろうに、その炊飯器をどこにおけばいいか分からないキッチンがいかに多いことか。 別に大したことではないんですよ。ただちょっと考えればすぐにどうすればいいか分かりそうなことばかり。しかし、そういうことがまるで省みられることなく、不便なものが不便な状態のまま、ずっと引き継がれている。そういう馬鹿馬鹿しいことがあまりに多過ぎる、と私は思います。「生活の知恵」というものを活かすシステムがない。これは我々日本人が、自分たちの生活のベーシックな部分について、いつの間にか無関心になってしまったことの顕れではないでしょうか。 まあ、ことが単にキッチンの使い易さ程度のことで済めばいいですけど、自分に一番身近で、しかも自分の生活の根幹に係わる事柄に無関心であるという傾向が、たとえば「子供をどう躾けていいのか分からない親」とか、そういうものを生み出す土壌になっているのだとすれば、相当に由々しきことではないかと思います。 そこまで言うのは少し言い過ぎのような気もしますが、とにかく、日本のシステムキッチンの設計者の方々に対し、一人の生活者の立場から猛省を促しておきたいと思います。もしそちら方面の関係者の方で、さらに私の(貴重な御)意見を聞きたいという方がいらっしゃるのであれば、菓子折りの一つも持って名古屋までいらっしゃい、と言っておきましょう。(冗談です。そこまで傲慢じゃありませんよ、もちろん!!) さて、ここまで言ったからには、週末アフィリエイトの第二弾はキッチンウェアのご紹介と行きましょうか。「教授のキッチンウェア」では、ボダムの薬罐をはじめ、機能的でセンスのいい様々な品を取り揃えていますので、ぜひ下の文字列をクリックして、覗いてみて下さい。もはや定番になりつつある「レミパン」なんかもありますよ。 たとえばこんな感じ ↓bodum(ボダム) kettle OTTONISpring Sale!40%オフ!!詳しくはここをクリック! ↓教授のキッチンウェア
June 3, 2005
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今日、大学に行く途中で自動車税を払ってきました。我が家は2台の車を使っているので、2台分8万円弱。かなり痛い出費です。 私は税金というものに対しては比較的寛容で、日本国民として様々な便宜を図ってもらっている以上、税金を払うのは当然だと思っていますし、税金の額も、まあこんなもんだろうと思っています。もっとすごい税金を課している国って、世界には幾らもありますからね。(ただしその場合、老後の保障、医療保障などが日本よりはるかに充実していますが。) ただ、自動車に関してはですね、ちょっと納得できないんですな。 大体、日本は自動車に税金かけすぎですって。自動車を購入するとき、消費税が掛かってくるのはわかります。でも「重量税」ってのは何ですか? 多分、自動車が贅沢品だった時代の名残の「贅沢税」ではないかと思いますが、しかし今時自動車ってのは必需品ですよ。贅沢品じゃない。しかも、重量税を含めた値段に消費税かけるのは(あれ、逆かな? でもいずれにせよ)、そもそもおかしいではないですか! 二重に税とっていいんですか、法律的に? そして、それらに加えて今日支払ってきた「自動車税」でしょ? 何なんですか、これは!? それだけではない、ガソリンだってそうです。1リッター120円として、その半分くらいは税金なんでしょ? 満タンにするたび、3000円くらい税金を納めているわけですよ。消費税の5%どころではないのに、どうしてどの野党も文句言わないのだろう。 いや、自動車、あるいはガソリンに課した税金で道路つくってんだから文句あるかと言われれば、それまでかも知れませんが、しかし自分で運転しない人だって、道路は使うでしょう? 自動車持っている人だけ道路を歩いていいというのならともかく、そうでないなら税負担は公平にすべきではないでしょか。 また2年毎の車検、これが馬鹿にならない。車検に関しては3年毎に変えるとか、種々審議がなされているようですが、今時の車は5年毎でいいと思いますよ。世界一の自動車大国であるアメリカの例を見たって、車の持ち主が変わる時に「スモッグチェック」というのをやるだけで、車検なんてないですよ、基本的に。それで何の問題も起きてないんですから。 それに加えて、高速道路料金の高さも世界に例がない! もうほんと、日本という国は、自動車に乗っている人からありったけ金を巻き上げようとしているのか! と言いたくなります。そう思いませんか? しかも、前にも書きましたが、見通しがよく、歩道もガードレールで保護してある道路を40キロ制限かなんかにしておいて、ネズミ取りで罰金を課すのだから、もう情けない!! 車は危ないもの、公害のもと、という考えが基本的にあるんでしょうな。だから制限する方向でしか、動かないんですよ、この国は。「自動車を楽しむ」なんてことはもってのほか、と思っているらしい。前に石原都知事が東京都の公道でカーレースを開催すると公言した時も、問題にもされずに一笑に付されましたからね。私は面白い企画だと思いましたけど、そういう企画に真剣に取り組む自治体は他にないんですかね。 日本にはJAFという自動車運転者の団体があります。自動車に乗る人のほとんどが加入していると思いますが、とりあえずこの団体あたりが「圧力団体」として国会にプレッシャーでもかけて、自動車に依存し過ぎの状況を変える方策でも立てたらいいと思うのですが、どうでしょうか。JAFのサービスは確かにいいですが、立ち往生した車の処理以外の業務に力が入っていないのは問題です。日本中の会員から徴収している会費は莫大なものであるはずなのだから、もっと優秀な圧力団体となって、ドライバーの要求を政府に突きつけなきゃダメですよ。 ということで、今日は「お気楽日記」ではなくなってしまいましたが、そりゃ、わけもわからず8万円もぶったくられれば、温厚無比の教授だって頭に来ます。皆さんのご意見もお聞かせ下さい。
May 30, 2005
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今朝起きたら、家内に「今朝方、すごい歯ぎしりしてたよー」と言われてしまいました。 皆さんは歯ぎしりってしますか? 私はたまにするらしいです。特に身体が疲れている時にするようです。疲れているときには、いびきをかくこともあるらしい。 何しろ自分は眠っているわけですから、「するらしい」としか言えませんが・・・。 それにしても歯ぎしりの音って、たしかに人間の出す音とは思えないですよね。私も最初に聞いたときは、「なんだ、この音は!?」とびっくりしたものです。言葉としては知っていても、実際に聞いたのは30代になってからでしたので、最初はそれがなんだか分からなかった。「ギリ、ギリ」というのか、「コリ、コリ」というのか、まあ、一種独特の音。 しかし、いくら自分にはコントロールできないこととはいえ、「歯ぎしり」とか「いびき」って、ちょっと格好悪いなぁ・・・。他人と一緒の時は迷惑もかけるし、出来れば、音もなく静かに眠りたい。 そういえば、もうひとつ眠っている時におこる不思議な現象として、「夢遊病」というのがありますが、私は実例を見たことが何度もあります。というのも、私の姪が小学生くらいのとき、よくその症状を見せていたのです。 夜遅く、大人たちが居間で話をしていると、2階で寝ていたはずの姪がとことこ降りてきて、我々と一言二言、少し要領を得ない言葉を交わす。それでまた上に上がっていくのですが、翌朝姪に聞いてみると、まったく記憶がないというのです。多少要領を得ないとは言っても、言葉自体ははっきりしていて、起きているときとまるで違わないのですから、まさに夢遊病。これは、歯ぎしりやいびきと違って、ちょっと面白いですね。 しかし、先にも言ったように、私が歯ぎしりをするときは、身体が疲れている証拠ですから、少し気をつけて、今日は早く寝ようかな。
May 24, 2005
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週末、東京にある日本大学文理学部において、日本英文学会の全国大会が開催されます。というわけで、この学会に参加すべく、私は金曜の夕方、愛車プジョーをかっ飛ばして東京の実家に戻ってきました。 ところで、私のように名古屋と東京を東名を使って頻繁に行き来していると、時折危険な目に逢うことがあります。今日も少しコワイことがありました。 いつものように、私はマッハ1くらいの速度で巡行していたのですが、ふと見ると後ろからマッハ1.5で近づいてくる2台の車がある。このスピード差では先に行かせた方が安全だなと思い、あっさり抜かさせたのですが、単なる飛ばし屋かと思ったこの2台、実は後ろの黒いミニバン野郎が、前の白いステーションワゴンを猛スピードで追いかけつつ、嫌がらせをしていたのでした。 ま、それだけならよくあることですが、しかし今回はこの嫌がらせの度合いが凄かった。真後ろについて車体を左右に揺らし、プレッシャーをかけるだけならまだしも、それだけでなく追い越し車線を走っている前走車の左に出て並走したり(つまり2車線のところに3台の車が走っているわけです)、そこからじりじりと幅寄せしたり、窓を開けて罵詈雑言を吐きかけたり、と、まあそんなことを延々繰り返すのです。 ひょっとして白いステーションワゴンが先にパッシングをしたりして、黒いミニバンを怒らせたのかも知れませんが、それにしてもあそこまでやるかねぇ、という感じでした。その後、前が空いたので、2台とも凄い勢いですっ飛んで行きましたが、あれからまだ嫌がらせは続いたのでしょうか。私もあんなのに巻き込まれたら嫌ですねえ。 もっとも、私の場合、ミニバンなんぞにはとうてい追いつけないような、マッハ3くらいのスピードで引き離しますからいいですけど。 それにしても、どういう理由かは知りませんが、どうせそんな大したことではないはずなのに、ここまで嫌がらせをする人って、気が知れないなぁ。同じ道路を共有しているのですから、お互いもっとジェントルに走りましょうや。 ということで、週末アフィリエイトの第一弾は、こういうお馬鹿な走り屋とは無縁の可愛い車、フィアット・パンダのご紹介です。ジョルジェット・ジウジアーロという天才デザイナーが生み出したそのデザインは、誕生から四半世紀過ぎた今でもまったく色あせることがありません。内装もシンプルながら、センス抜群。実は既に生産中止になっていますが、それでも細々と未使用車が輸入されています。今日ご紹介するのもそんな一台。それにしてももう未使用車の数は知れていますから、この車のデザインに惚れたら、もう即決しかない! ぜひ、クリックしてみて下さい。それにしても、イタリアの小粋な小型車・パンダを売ってしまうなんて、アフィリエイトにもほどがある、かな?これこれ! ↓
May 20, 2005
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