ワルディーの京都案内

ワルディーの京都案内

2015/07/08
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カテゴリ: 京都歩き
2015年 7月8日(水)】

 朝早く、前の会社の後輩のO君からメールが来ました。O君は私が抗癌剤で入院しているとき、何度もお見舞いに来てくれた人です。粒子線治療中も来てくれる予定だったのですが、彼も体調よくなく、百田尚樹の「海賊と呼ばれた男」を送ってくれました。今読んでいるところです。

 メールによると、私の同期だったFさんが定年退職するのでささやかな送別会するけど来ませんかというものでした。Fさんも私が抗癌剤治療をしていたとき、何度もお見舞いに来てくれました。他にもなつかしいメンバーを集めているようです。7月14日ですが、サンデー毎日で、今のところ体も元気ですので参加しますと返事しました。なつかしいメンバーにも会えるので楽しみです。

 それ以外は、遅れていた月のお勤めをした以外は、いつもの平々凡々の一日でした。でも、そのことが幸せです。退院後の平日は、仕事していていないことに関して、2年半前に早期退職した直後ほどでしゃないですが、ほんの少しだけ後ろめたい気持ちが残っていました。しかし、今は全くなくなりました。

 だいぶ慣れてきたようです。「ああ、今日は平日なんだなぁ。皆は働いているなぁ。ご苦労さんだなぁ。」とは思いますが、「私は私」と思えるようになりました。




 写真は、7月4日に二人で行った 「妙顕寺」 の続きです。

 「俵屋吉富 小川店」さんでお茶とお菓子をいただいた後、雨は降っていましたが、妙顕寺の西隣の道、小川通を北に向かって歩きました。ここは、茶道三千家のうち、表千家、裏千家の家元の茶室があります。


●百々橋(どどばし)の礎石

 1378年に足利義満がこの地付近に幕府(花御所)を開いた室町時代,室町は政治・文化の中心地でした。「小川通寺の内」の東西の通りを古くから百々の辻といい,この辻を南北に流れる小川(こかわ)に百々橋(どどばし)がかかっていました。橋の規模は,長さ四間一分(7.5メートル),幅二間二分(4メートル)。

 山名宗全と細川勝元の覇権争いから,対立する多くの守護大名が西軍と東軍にわかれて結集し,この橋をはさんで数度にわたって大きな合戦がありました。「応仁の乱」です。

 小川は昭和38年頃から埋め立てられ,百々橋も解体されました。百々橋の橋材は,一時,室町小学校に保管されました。その後,橋脚を支える四基の礎石の内,一基をこの現地に遺構として遺し,一基は室町小学校で保存,残りの二基は他の橋材とともに洛西ニュータウンの竹林公園に移され,昭和55年に竹林公園内に復元されました。


P1050835(百々橋).jpg


●表千家 不審菴
千利休の没後、千少庵、千宗旦と続き、宗旦が隠居する際、三男の江岑宗左(こうしんそうさ)が継嗣として不審菴を継承しました。
P1050838(不審菴).jpg


●裏千家 今日庵
千宗旦が隠居する際、上記の不審菴の裏に今日庵を建てました。宗旦没後、四男の仙叟宗室が今日庵を受け継ぎ独立しました。
P1050839(今日庵).jpg


(「妙顕寺」これでおしまいです。)



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最終更新日  2020/12/29 10:06:13 PM
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