http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605190004/
下記地図には訪問先がスポットされています。
https://drive.google.com/open?id=1NjttlTaOIQLc0JrKBgvrm4BlYr0&usp=sharing
=============================
(続き)
実如上人、証如上人の墓(山科区東野井ノ上町)を訪れた後、国道1号線の南側で、京都外環状線を横断します。
眞光寺(浄土真宗本願寺派)
歌碑がありました。
「両親(おや)おくり 妻先にゆき子の急ぐ 茜の雲は美しきかな」
土橋秀高
土橋秀高氏は昭和期の中国仏教思想研究者。龍谷大学教授。
私は存知あげませんが、帰宅後、検索して次ぎのような文に巡り会いました。
◆60才(定年より5年早く)龍谷大学教授辞任。
子息(京都大学仏教学(院)、インド留学)の就職(東海大学助教授)を期に自坊(山科 真光寺)に戻り住職専業。
その1,2年後、奥さん、暫くの患いで逝去。
その1年後、自坊全焼(夕事のローソクの灯の消し忘れが因。住職1人住まい故、防音の書斎に入っていて気づかず。通行人が発見。火炎の中、消化器を取りに入り、頭、腕に火傷)。「私の責任」と詫びる。火災の翌日、「真光寺本堂庫裏再建委員会」立ち上がる(門徒の支援篤い)。2年半後に復興する。
しかし、その1年前、東京から若坊守と孫2人、山科の寺に帰っており、子息は単身赴任。毎日のように電話連絡。ところがある時、通じない。一週間ほどして、住職上京。電気こたつに足入れて自殺している子息を発見。死臭。遺書「自分が先にいくから葬式はしないで」。東京で火葬。山科の再建まっさらの本堂で葬儀。子息の腕時計一個を形見としてもつ。「この孫2人が成人するまでは老骨に鞭打って頑張る」と式で挨拶。会葬者の涙をそそる。
ところが1年後、一周忌の翌日、若坊守は2人の子どもをつれて寺を去る。
全くの一人となる。教え子の浅田正博氏、先生を訪ね・見舞う。話は子息のことばかり。
(後略)
ここに登場する、 浅田正博
氏による顕彰碑もありました。
南に行きます。
称名寺(浄土宗西山禅林寺派)
少し東に戻ります。
佛光寺舊址
仏光寺は,建暦2(1212)年,流罪を解かれ越前から帰京した親鸞(1173~1262)が,この地建てた堂舎にはじまる。順徳天皇(1197~1242)から「興隆正法寺」という寺号を賜り,当初は興正寺と号した。その後,第七代了源(1295~1335)が東山渋谷の今比叡に移し,寺号を仏光寺に改めた。一説によると山科興正寺を建立したのも了源という。なお,仏光寺が現在地(下京区高倉仏光寺)に移転したのは天正14(1586)年である。
(京のいしぶみデータベースより)
西雲寺(真宗大谷派)
門前のお寺の石柱の後ろに、自然石の「表徳碑」が立っています。京都鳩居堂の主人であった熊谷直恭(蓮心・1859年没)が、このあたりに老牛馬の放牧場を設けたり、洪水・窮乏から村を救ったことを顕彰するための碑です。明治21年建碑。
さらに西に進むと、東野公園北には「三之宮神社」があります。
三之宮神社
鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)・醍醐天皇・後水尾天皇を祭ります。江戸時代造営の本殿があり、その南に幹周5メートルを越える欅(けやき)の大木があります。
神社内に宝蔵があります。
その由来の駒札全文です。
大般若経宝蔵
の由縁
三之宮は延喜年中(901~923)の創建と伝えられ、往古(おおむかし)より
山科七郷の総鎮守的存在であった。
後、応永三年(一五九六)に、後小松天皇より山科郷に大般若経六百巻と
大般若十六善神本尊を下賜され、三之宮宝蔵に之を納め、尓来(それより)近世に
至るまで毎年三回山科郷士が廻り持ちで輪読供養されていた。
其の後、元和三年(一六一七)神社境内に別当寺妙智院が造営され、是より
大般若経輪読の際には憎が修行することとなったが、明治維新の神仏分離令発令に
伴い廃止された。
この経典は、郷中の最も尊重するもので、うち三巻は御宸筆で其の餘(ほか)は
当時の親王、公卿、門跡方の書写せられたものである。
平成十三年正月 三之宮氏子有志 識
南に向かい、旧道沿いに小さなお寺が2つあります。
西楽寺(浄土宗)
法敬寺(浄土真宗本願寺派)
春には門前の桜がきれに咲くそうです。
南に向かいます。
吉川邸(景観重要建造物)
現在はBar&喫茶YOSHIKAWAを営んでおられます。素敵なミュージックサロンだとか。
ぐるぐる歩き回って、「ゆうなぎの水」を見つけました。
ゆうなぎの水
椥辻池尻町の「ゆうなぎの水」は、水が湧き出ているところで、深さ30センチほど、
ゆっくりと東から南に流れています。平成13(2001)年に京都市が湧き水の
周りに護岸や階段を整備してできたものです。そして平成15(2003)年に、
名前を区民に募集して「湧く(ゆう)」「椥(なぎ)」の字からこの名が付いたそうです。
( 鏡山次郎氏ホームページ
より)
地下鉄椥辻駅に向かう途中で、山科区役所前に「山科区誕生記念碑」を発見
山科区誕生記念碑
観光案内板もありました。
これから回るところの参考になりそうです。
地下鉄椥辻駅から帰途に就きました。
山科区の歩き部分(約13km)、自宅からの全歩数は約18,000歩でした。
山科区第7日目、終わりです。
よろしかったらぽちっとお願いします。
にほんブログ村
【全寺社巡り】§東山区#4 三条通南 鴨川… 2017/03/23
【全寺社巡り】ー東山区#3(9月10日)-3(最… 2016/09/12
【全寺社巡り】東山区#3(9月10日)-2 2016/09/12
PR
キーワードサーチ
カテゴリ
カレンダー