ワルディーの京都案内

ワルディーの京都案内

2020/05/15
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テーマ: 京都。(6075)
カテゴリ: 京都のニュース
2020年 5月15日(金)】

 昨日は二人で車のディーラーでした。車の修理が必要なのですが、見積りしたら予想通り高額でした。どうせ買い替え時期なので、買い替えを選択したほうが賢明と考え、試乗も含めての訪問でした。今日は家族で西京極運動公園に遊びました。コロナ禍下の息抜きです。


 5月13日、読売朝刊のニュースからです。1面記事で伝えられています。

 豊臣秀吉が死去する前年に造営したと伝わる「京都新城」の遺構とみられる石垣や堀、金箔瓦が、京都御苑の一角の京都仙洞御所内で見つかった。秀吉が手掛けた最後の城で、当時の公家の日記「言経卿記(ことつねきょうき)」などに記述はあるが、今まで遺構は確認されておらず、「幻の城」だった。

 京都新城は、秀吉がまだ幼かった息子・秀頼のために京都御所の南東に造営し、秀吉の死後は、正室・北政所の屋敷として使われた城郭式の邸宅だったといわれる。現在の京都仙洞御所をはるかに上回る規模。関ヶ原の戦いの直前、徳川方に恭順の意を示すため、門や石垣が壊され、1627年から後水尾天皇の退位後の住まいとして仙洞御所の造営が始まると完全に姿を消したと考えられてきた。

 京都仙洞御所内では、これまで調査が行われたことがなかったが、今回は防火水槽の増設工事があり、発掘調査が行われ、今回の大発見に繋がったとのこと。私自身はこの「京都新城」という言葉さえ聞いたことがありませんでした。北政所も最初から高台寺に住んだものと思っていました。










 社会面にも記事がありました。

 秀吉は聚楽第を京都御所の西約1.5kmのところに造営し、甥の秀次に譲ったが、秀次に謀反の疑いが生じると自刃を命じ、聚楽第を取り壊した。その後は、御所から南に約10km離れた伏見城が拠点となっていた。それが再び天皇の御所のそばに拠点を設けたことになるわけだが、それは自身の死後を考え、朝廷の権威も借りて、秀頼の身を守ろうとしかたらではないかと考えることができる。

 京都新城が造営されたのは秀頼が3、4歳頃。一時秀頼は京都新城に住んだが、翌年に秀吉が没し、その遺言もあって、秀吉の側室で、母の淀殿戸とともに大坂城を居城とした。徳川家の反乱の気配が強くなり、新城では守り切れないと秀吉が判断しての遺言だったのかもしれない。

 その後、秀吉の正室北政所の屋敷として使われ、秀頼は元服の際、この城から御所に参内したと伝わる。








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最終更新日  2021/05/12 12:46:06 PM
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