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富士山とカミキリムシ対策の塗布7月16日、まだニュースは聞けてないんですが、ついに関東も、梅雨明けをしたんじゃないでしょうか。7月15日(土)、東京・多摩での朝市を終えて、小田原に移動しました。知人が6月3日に亡くなって、その「49日」の法要が予定されていたんですね。その移動の途中、小田原厚木道路の平塚インターからですが、富士山が見えました。梅雨の時期というのは、たいがい雲がかかってますから、富士山は見れてなかったんです。だから、久かたぶりの富士山の姿です。この7月15日の土曜日は、まだ曇りがちだったんですが。一夜明けた本日、7月16日(日)の小田原は、朝から快晴です。それで、当方は、勝手に「小田原の梅雨明け」を宣言しちゃいました。法事は、午前10時半からでしたから、その前に一仕事です。カミキリムシ対策で、みかんの木の基幹に、防虫剤の塗布をしたんです。この空の色を見てください、「梅雨明け宣言」をした訳が分かるでしょう。4日前に、援農に来てくれた人たちが、草刈りをしてくれたんです。しかし、その時は、時々雨がパラつく梅雨空だったんで、塗布は出来なかったんです。「時はまさに今、この晴れ間の下でこそ」ということで、『ガット』という防虫剤なんですが、それを塗布したわけです。この作業は正解だったんですよ。今回の草取り・塗布をしているなかで、ゴマダラカミキリムシを2匹見つけました。炎天下の作業ですから、内心では「この暑さののもとでの作業は堪忍してよ」ということなんですが。カミキリムシと出会うと、「やっぱり、やってよかった」と、気持ちが変わるんですね。ドンピシャリ、みかんの木を枯らしに来たカミキリムシと出会うなんてことは、この広いみかん畑のなかでは、出会うタイミングは、ごくまれのはずなんですよ。それが、こうして本日は2匹、今季に出逢えた合計では11匹となりますから。私などが畑にいない間に、どれだけ沢山が動き回っているか。草刈りに追われて手立てがとれずに来た数年の間なんですが、その間に、みかんの成木の林が消滅させられてしまったわけが、十分に分かります。本当は「49日」で殺生は禁物なんですが、このみかん畑のカミキリムシ退治だけは、断固として実施するということです。
2023年07月16日
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ミョウガとブルーベリーの朝市7月15日(土)朝、東京・多摩市の永山団地で、朝市をひらきました。今回の品は、ミョウガとブルーベリーでした。梅雨明けが近いんじゃないでしょうか、天気は曇りなんですが、チョット動くと蒸し暑く、汗びっしょりになります。梅雨最中とはいえ、晴れれば真夏日で、7月12日(水)には八王子で39.1度を記録しました。そんな中での表仕事ですから、大変なんです。みかん園のある小田原・早川は、「宝の山」でして、これが今回収穫したミョウガの畑です。ちょっと前までフキの畑だったんですが、今や完全にミョウガ畑に変わりました。今の時期、みかん畑の手入れ作業ですが、なんと言っても、カミキリムシ対策の基幹塗布と、そのための草取りです。草刈り前のみかん畑です。ここだって、今季に入って2回は草刈りしたんですが、梅雨の雨と強い日差しの下で、たちどころに畑全体が草だらけになってました。基幹の周りは、肥料を撒いたせいか、とくに繁茂してくるんですね。これじゃぁ、基幹の周りの様子はわかりません。基幹を狙っているカミキリムシの様子がわからないわけです。園主さんが言ってました。「やはり根回りの草取りをしっかりして、基幹をきれいにしておかないと、カミキリムシやアシナガバチの動きがわからない」、と。「草刈りの仕方が甘い、もっと丁寧に草刈りをしないと、これじゃぁ、一雨降ると、すぐに草が復活してきて、ヘトヘトになっちゃうよ」、と。今回は、3人の援農の人が来てくれました。まずは、みかんの木の回りの草刈りです。次に、基幹の回りの草取りです。こっちは、カマをつかって、根絶やしの草取りです。ひとりでやっていると、草刈り機での草刈りだけでもやりきれませんから、とてもここまでは、丁寧な草取りが出来なかったんですね。カミキリムシ対策なんか、出来なかったんですね。だいたい、この畑だけだって、みかんの木は苗木も含めると60本くらいもありますから。一人で作業した場合は、5本くらいすませると、もう完全にヘトヘトになっちゃうんですね。それが今回、3人であたったら、1時間くらいで20本くらいが済んだんです。しかも、完ぺきな草取りが出来ました。雑草も根絶やしですから、そう簡単には復活できないはずです。やはり援農の力は大きいですね。それのあるとなしとでは、みかん畑の手入れは、月とスッポンです。ここに未来があるんですね。この7月にめざしているのは、みかん畑のすべての木を、それぞれを、次のような状態にしたいんですね。白いのはカミキリムシ対策で、『ガット』という薬剤を、基幹塗布したあとです。これならカミキリムシの動きもすぐにわかりますし、雑草が復活してくるのに、ある程度の時間がかかるわけです。その間に、他の場所での作業や、周辺整備する時間も出てくるわけです。まだまだ、この7月中は、この草取り・塗布の作業が続きます。これをしておかないと、みかんの木は枯らされちゃうんです。そして、これまでは、とてもここまで手が回らなかったわけです。なんとしても、これ以上の枯れ込みの発生を抑えたいと思っているわけです。
2023年07月15日
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ヘーゲル『歴史哲学』序論12 C.世界史のあゆみ (a)発展の原理今回から『歴史哲学』「序論」の「C.世界史のあゆみ」に入ります。全体は、3つの章からなっています。最初は、(a)発展の原理 第1節-7節、P97-102の6ページですが、そのあと、(b)歴史のはじまり 第8節-18節、(c)世界史のすすみかた 第19節-54節です。(a)「発展の原理」は、全体で7節、6ページとごく短いんですが、ヘーゲルは根本的なことがらを問うていると思うんですよ。そこには、ヘーゲルの論理的な探究がしめされてると思うんですよ。一、第一は、人間の歴史の変化についてはよりよいものに進歩すると考えられてきたけど、自然は変化はあっても毎年同じことを繰り返している。このちがいの指摘から入っていきます。同じ変化でも、歴史の発展するのに対して、自然の変化はくりかえしという違いがある、この点からヘーゲルの考察がはじまります。ヘーゲルの自然観は妥当なのか、少なくともその時代においては「自然はくりかえすだけ」というのは、一般的な考え方のようだったようです。ヘーゲルは、「変化することのなかに法則性(合理性)がある」との考え方自体に対して、絶対的に正しいとの宗教や当時の絶対主義的国家から、そうした考え方は禁圧された、と。しかし同時に歴史変化が「より完全なものに発停していく」といっても、ただ発展といっただけでは、その中には、変化の目的や変化の基準も明確でないとすれば、やはりあいまいなものじゃないかとも指摘しています。(第一節 P98)ようするに、歴史の変化ということが、「発展」と言えるためには、その中のなかに、あらかじめ、明確な、客観的な、「変化の目的や変化の基準」が明確にされてなければならない。この自然の変化と、人間の歴史が同じ変化でも発展とのちがいをもつということから、ヘーゲルは考察をすすめていきます。レーニンも『哲学ノート』で、この「a.発展の原理」の章からは、ただ一点、この箇所のヘーゲルの特徴的な自然観について書き抜きしてます。(P278)二、第二には、自然の変化とはちがって、人間の歴史の変化のもつ「発展」の原理について一つは、「発展」ということには、あらかじめの内的な方向性(目的や基準)があって、その内的なものが表に現れたということだと。しかし、同時にヘーゲルは自然のすべてのことがくりかえしではなくて、自然の有機物においては、そこに「発展」ということがあることを指摘しています。自然のすべてを「くりかえし」と見ていたわけじゃないんですね。自然の胚の種・花・実のなかには発展とみなされるものがあるとの、具体的な事例について着目しているんです。自然の有機物も潜在的な可能性を形にする、「精神も、同様に、みずから形をつくっていくもので、潜在的なものを顕在化させるものです」(第二節 P99)と。三、第三に、自然の有機物の発展と人間の精神の発展とのちがいですが、ヘーゲルは人間の精神には「意識と意思」がはたらいている問題について、検討しています。「有機物の発展とは違って、精神の発展には、その方向を実現するために意識と意思が介入する」「意識や意思は、最初は、直接の自然の生命のうちに埋没していて、その対象や目的も、最初は自然の力として現れる。しかしその性質に生命をふきこむのが精神であることから、それは無限の要求と力と富をもつものとなり、かくて、精神は自分の内部で自分と対立します。精神の実現を妨害する真の敵は、精神自身であって、精神は自己を克服しなければならない。自然にあっては平穏な産出であった発展が、精神においては、自己にたいするきびしくはてしないたたかいとなります。(第三節 P99)この箇所を読んだとき、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』第四章が思い浮かぶんじゃないでしょうか。「社会発展の歴史は、一つの点で、自然のそれとは本質的に異なっていることがわかる。自然においてはまったく意識のない盲目的なもろもろの作用力があって、それらが相互に働きかけ合い、これらの相互作用から一般的な法則が生じきたっている。これとは反対に、社会の歴史においては、行動しているものは、すべて意識をそなえ、思慮または情熱をともなって行動し、一定の目的をめざして努力する人間であり、なにごとも意識された企図、意欲された目標なしにはおこらない。しかし、この差異は、これが歴史の研究にとって、どれほど重要であるにしても、歴史のすすみゆきがそれに内的に存する一般法則によって支配されているという事実を変更させるものではない。・・・」(新日本文庫 P69)エンゲルスの考察していることがらが、どの様な材料をもとにしてまとめられたのか、うかがえるんじゃないでしょうか。また、二人の探究の原点ともなっている『ドイツ・イデオロギー』についても、そこで提起していることがらを理解するためには、やはりヘーゲルの『歴史哲学』も、欠かすことのできない一冊だということが、見えてくるんじゃないでしょうか。私などはそう感じています。四、一般的なまとめとしてヘーゲルは指摘しています。「世界史は、自由の意識を内容とする原理の段階的発展としてしめされます。この発展の定義は、一般には論理学において、もっと具体的には精神哲学でしめされます。ここではただ、第一段階は、精神が自然のありかたに埋没した状態であり、第二段階は、そこをぬけだして自由を意識した状態であるというだけでよい。この最初の離脱は自然を媒介にして生じたもので、自然との関係を断ちきれず、いまだ自然の要素につきまとわれているがゆえに、不完全で部分的なものです。第三段階は、いまだ特殊な状態にある自由から純粋に普遍的な自由へと上昇し、精神の本質が自己意識および自己感情としてとらえられた状態です。この三つの段階が、一般的過程をあらわす基本原理です。各段階の内部にはさらにこまかな形成過程と移行の弁証法があるが、それは本論で見ていくことにします。」(第六節 P101)最後のしめくくりです。「不完全なものが、内部に完全なものをふくむのは矛盾であって、その矛盾は、現実に存在する矛盾であるとともに、破棄され解体される矛盾でなければならない。矛盾は、精神生活の内部では、自然や感覚や自己疎外の外皮を突きやぶり、意識の光へ、自己自身へいたろうとする、精神生活の内面的衝動ないし鼓動として存在します」(第七節 P102)今回は、以上です。ヘーゲルの場合は、一度読んだくらいで、すっきりとわかったなどとはとてもいえません。だいたい何を言いたいのかがわかったとしたら、それは一歩の前進です。序論だけで、それだけで得心しようなどということは、これもまたありえないことです。確かなことを、今回つかめたことを大切にして、「学んで、時にこれを習う、又楽しからずや」ですが。しかし、なるべくなら、この成果をしっかりとつかんで、いまに生かしてやりたい、わたしなどは、そう思っています。さて、次回は、(b)「歴史のはじまり」です。
2023年07月14日
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ヘーゲル『歴史哲学』序論11 B(c)自由の実現体の国家 その2、ヘーゲルの国家観についてヘーゲルの『歴史哲学』序論、B.「歴史における理性とはなにか」、(c)「自由の実現体としての国家」、その第2回目です。前回は、ヘーゲルの国家論-「国家の本性(本質)とはなにか」、それが探究の入口だったんですが。今回は逆に、その探究していった結果から、結論から探ってみます。第72節「国家についてこれまでのべたことをまとめると」(P94)ということで、ヘーゲル自身が、第72,73,74節の、3つの節にまとめています。この3点を、確認しようと思います。一、ただ、そのことに入っていく前に、ひとつのことわりが必要だと思っています。それは、マルクスが『資本論』第2版への「あと書き」(1873年)で、指摘している点です。次の様な一文です。「私の弁証法的方法は、ヘーゲルのそれとは根本的に異なっているばかりでなく、それとは正反対のものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの自立的な主体に転化しさえした思考過程が、現実的なものの創造者であって、現実的なものはただそれの外的現象にすぎない。私にとっては反対に、観念的なものは、人間の頭脳のなかで置き換えられ、翻訳された物質的なものにほかならない」(新日本出版社『資本論』1分冊 P32)。当時(1873年 明治6年)は、世界(ヨーロッパ)の、世間の一般では、ヘーゲルを「死んだ犬」(何を今さら、過去の人じゃないか)と扱っていたようです。それに対して、晩年のマルクスですが、その『資本論』の「あと書き」で、指摘しています。ヘーゲルの今に生きている意義について、マルクス自身も含めて世界がヘーゲルの業績におっていることを、あらためて紹介しているんですね。ぜひ、その全体について、確認してほしいと思います。今に生きている問題なんですね。二、さて今回の本題ですが、ヘーゲルはこの国家論において何を言いたかったのか。ヘーゲル自身が語ってます、第72節「国家についてこれまでのべてきたことをまとめる」(P94)と。それは、第72、73、74節の、3つの節において、まとめています。そのまとめとは、どんなことか。1、第72節 国家の生命力は、個人からすると共同の精神であり、国家の法律や機構、その自然や歴史である。一切が国民の所有物であるとともに、国民はこの一切に所有されている。この精神的全体は、一つのまとまりをなし、それが「民族の精神」です。国民は民族精神のもとに生きるのであって、それぞれの個人は「民族の子」であると同時に、国家が発展する限りで、「時代の子」です。時代にとり残され人もいなければ、時代を飛びこえる人はいない、と。2、第73節 民族精神は輪郭のはっきりしたものであり、民族の歴史的発展段階を明確にしめすものです。民族の意識が、宗教、芸術、学問、といったさまざまな形態をとるなかで、民族精神はその基本的内容をなす。精神は自己を意識するとき、自己を対象化せざるをえず、この客観化はさまざまな形をうみだし、客観的精神のさまざまな領域-宗教、芸術、哲学-をつくる。その一方、その魂は一つにまとまる。このような実体と内容、対象は、根源的には此岸にあるものだから、とらえられた形態は、国家の精神と統一される。3、第74節 特定の民族精神は、世界史のあゆみのなかでは一つの個体にすぎない。世界史とは、精神の神々しい絶対の過程を、最高の形態において表現するものであり、精神は、一つ一つの段階を経ていくなかで、真理と自己意識を獲得していくものだ。各段階には、それぞれに世界史上の民族精神の形態に対応し、そこには民族の共同生活、国家体制、芸術、宗教、学問のありかたがしめされる。一つ一つの段階を実現していくことが世界精神のたえざる衝動であり、抗しがたい要求です、と。これらのヘーゲルがまとめている点は、マルクスが指摘した「さかだち」に注意しさえすれば、全体としてことがらの関連をとらえてますね。大きな業績ですね。このヘーゲルの努力がなかったら、マルクスの科学的社会主義の社会思想も、今の様なまとまった形にはなっていなかったかもしれない、そんなことも感じさせられるんです。このマルクスの批評には、そうしたヘーゲルに対する敬意が込められていると感じさせられている次第です。三、以上のまとめを念頭に置きつつ、ヘーゲルの国家論、『法の哲学』に詳しく展開されてるわけですが、この『歴史哲学』のc.では、第47節から第71節までの、25の節について検討してみるわけです。その細部にわたることはできません。それは、それぞれ各人が当たっていただくしかないのですが。そこで論じられていることの大筋だけ紹介します。1、「国家が自由を実現するものだ」 それに対する誤りの説。 第48節初めは自由だけど不自由になるとの説、第49節「自由は直接に存在するものではなく、訓練課程を経て獲得されるもの」。2、「社会的正義が法律の形をとる」に反対する家父長制への批判 第50節「法の前の平等」、第51節、第52節。これはヘーゲルがフランス革命の意義、近代民主主義の成果をといてることじゃないですか。3、「自由の、客観的自由の側面と主観的自由の側面」 第53節「個人の同意」を絶対視するとどうなるか、第54節、第55節「政府や行政当局が必要になること」。4、国家のあり方を支配者と被支配者から、一般に君主制-寡頭制(貴族制)-民主制にわける見方。 第56節古くからの「3つの政治体制」論、第57節「どれが最善かを選択する考え方」。5、今日では、一国の政治体制を自由に選択できるとは考えない。 第58節「世界史のあゆみのなかではあらかじめ決まっている」。 最初につくられる国家というのは、家父長制的な王制。 第59節、真の独立国家の発展には、必然的なあゆみがある。 家父長制的な王制-寡頭制(貴族制)・民主制-君主制。ヘーゲルは、この歩みは必然的で、その時あらわれる体制は選択する余地なく決まってると。6、国家の体制にとり重要なことは、政治の内部機構が理性的に編成されていること。 第60節、自由が客観的に存在するということは、どういうことか。7、国家の歴史的発展は、原理のちがいとして現れる。 第61節「一般に国家は歴史状況の変化の中でかわっていく」、第62節古代と近代では共通でない。8、概念としての自由は、主観的意思や恣意を原理とするのでなく、万人の意思の洞察を原理とする。 第63節、理性的意思はその内容を明確にし、発展させ、様々な側面を有機的に位置づける。9、ここまでの考察をまとめる。国家と宗教、芸術、哲学の関係について考察する。 第64節、国家は民族の具体的な生活の諸要素、芸術、法、道徳、宗教、学問の基礎であり、中心だ。 第65節、頂点に位置する宗教。そして芸術。そして哲学、もっとも高度な、自由な、広範な統一。 第66節、3つの形態は国家を土台としてつくられている。10、民族精神 第67節、国家のあらゆることをまとめる民族精神、その中心に宗教がある。宗教を考察するのに重要なことは、真理となる神の理念が、それだけで切りはなしてとらえるか、真の統一体としてとらえるか。11、宗教と国家との関係。 第68節「国家が宗教に依存しているわけ」、第69節「国家の原理を神(至上)のものと認識させる」、 第70節、宗教を植え付けようとのさけびについて。 第71節、逆に国家と宗教を切り離そうとする愚行について。こうした考察をしたあとで、ヘーゲルは前の三点のまとめをしてるんですね。3つのまとめた点と、それにいたる各論での考察との関連を検討することが大切では。四、私はこれまで、ヘーゲルの文章は難解ですから、文節の一つ一つまで踏み込んで探ることはなかったんです。気に入った箇所だけノートしておくといったことでしたが。レーニンも入り口としてはそうだと思うんですが。ただしレーニンは、大戦の忙しい緊張の最中にもかかわらず、『大論理学』『哲学史』『歴史哲学』に、一生懸命に、丹念にあたってるんですね。もちろん人間ですから、そこには制約もあるんですが、すばらしい努力です。私は福田静夫先生の「ヘーゲル学習会」に参加する機会を得て、2022年に『法の哲学』の国家論を学習したんです。90歳を超える福田先生ですが、その学習態度が、またすごいんです。さすがでした。文節に番号をふって、その主張を確かめる。翻訳もご自身の訳文もつくって、ヘーゲル自身の主張をつかもうとされていた。そうした基礎作業の上にたって、ご自身の意見を言うとの姿勢だったんですね。学者としての良心を感じさせられたんです。その最後に、『歴史哲学』の本論・第四部「ゲルマン世界」を学習したんです。『法の哲学』の最後には「世界史」がありますが、その関連で、『歴史哲学』の第四部を学習したわけです。この本論学習のおかげで、本論を学習してこそヘーゲルが「序論」で言いたいことが見えてくるということがあるんですね。私は以前に2020年でしたが、『歴史哲学』序論の学習をブログ発信していたんですが、あらためて、再挑戦する必要性を感じさせられました。今回はその時よりかは、すこしは細部に近づいてると思うんですが。ところが迫ろうとすればするほど、「宗教論」などの大きな問題が出てきたりして。実際、ヨーロッパ世界の歴史は、そのために何百年も大変な宗教戦争の戦乱をくぐってきているでしょう。それをも総括しようとしているんですから。宗教心の無い私などからすると、新たな不可解な大問題としてでてくるといった面もあるんですね。現行の日本国憲法もそうした教訓にたってるんですが、私などは、今だもって曖昧だったということです。この宗教論の点でも、ヘーゲルとマルクスは、今に生きる宝をもっているとおもいます。よく理解出来てませんが、しかしそれを感じさせられます。なによりも、ヘーゲル自身による第72節以降のまとめですが、これはマルクス・エンゲルスにとって、ここを出発点とも土台ともして、自らの新たな世界観と思想をさぐり始めていった。それがみえてきます。しかしまぁ、これも私などの学習の過程です。今回の「c.自由の実現体たる国家」の学習は、ここまでとします。まだ、この先がいろいろあるからですが。次回は、「C.世界史のあゆみ」にはいります。「序論」は、a.発展の原理、b.歴史のはじまり、c.世界史のすすみかた、残り3節です。
2023年07月09日
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バレンシアの朝市を終了東京・多摩市の、7月8日(土)永山団地の朝市で、バレンシア・オレンジを販売してきました。昨年11月の早生みかんから始まった柑橘類の販売ですが、12₋1月大津、青島、2月伊予柑、ネーブル、3月の湘南ゴールド、4月清見、5月甘夏と、半年間のみかん販売が続いてきましたが、バレンシアは、一年の販売サイクルの最後の柑橘なんです。これが一年の締めくくりだったんです。一、これがそのバレンシア・オレンジの木です。バレンシアは、小田原と相模湾の背景が綺麗でしょう。このバレンシアを収穫終えたんですが、これから11月までは、11月の早生みかんの収穫までは、当方の柑橘類はシーズオフです。ただし、今は梅雨の最中ですが、シーズンオフといっても、この時期のみかん園は、いろいろ大変なんです。二、今回、7月5日に草刈りをしていたんですが、アシナガバチに3か所刺されました。これがその作業をしていた畑です。小屋のすぐ上あたりは、草もなくきれいでしょう。園主さんが管理しているわけです。当方は、その上の中ほどから上の林までを、今季からですが、その草刈りをはじめだしたんです。援農の方の協力をえて、前々回に中ほど、前回はさらにその上と、草刈りをしたんです。前に草刈りしたところが、この間の雨で雑草が復活しだしていたんで、援農者の協力を得て、草刈りをしながらカミキリムシ対策の基幹塗布をしていたんです。カマで基幹まわりの草取りをしていたんです。その時、アシナガバチに二か所刺されちゃいました。おかげで、左瞼をやられて、「お岩さん」をきたしました。刺されたことで蜂の存在に気がついたわけで、まったくの後の祭りでした。おそらく、その近くで、アシナガバチの巣作りが始まってたんでしょう。三、今回の7月初旬の畑仕事は、優先の課題はカミキリムシ対策でした。この6月下旬から7月の間は、カミキリムシの動きに要注意なんです。せっかくのみかんの木が、基幹部分を加害されると、完全に枯らされちゃうんです。だから、みかんの木の基幹周りの草取りして、防虫剤を塗布しなければならないんです。この6月に入って、カミキリムシを9匹も見つけているんですよ。これまでは、全体の草刈りに追われて、基幹を塗布することまでは、手が回らなかったんです。そのために、この2年くらいの間に、みかんの成木の林が、完全に消滅してしまいました。「枯れてくる木を見るたびに、がっかりしちゃうよ」と園主さんは肩を落としますが、私も同じです。だから、防虫剤を塗布しようとしてるんですが、まだその途中なんですが、その作業をしていて、アシナガバチに刺された次第です。草ぼうぼうで、みかんの枝が密集していると、それが傘のようになって、アシナガバチが巣をつくりやすくなるんですね。まだ5センチくらいの小さな巣ですから、気づかずに近づいちゃうことがあるんです。蜂の方は、自分たちの巣を守るために、近づくものにすぐに戦闘モードにはいりますから、今回の様な「泣きっ面に蜂」、しかも3か所も、といった事態をきたしました。この時期の作業は、汗びっしょりにさせられますが、草刈りの難行苦行の一点に集中するだけじゃなくて、くたびれ切っているんじゃなくて、やはり、まわりの動きに、カミキリムシやアシナガバチなどの動きに、よく注意することが必要なんですね。まだまだ、草刈り・塗布の作業は続いていきますから。
2023年07月08日
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ヘーゲル『歴史哲学』序論10B.(c)自由の実現体としての国家岩波文庫の『歴史哲学講義』(長谷川宏訳)で読んでます。今回は「B.歴史における理性とはなにか」章の「(c) 自由の実現体としての国家」です。章の各文節に番号をつけると、第42節から75節にあたり、全体で34節からなっています。この節において、ヘーゲルは国家論を展開しています。第45節「世界史の対象を定義すれば、国家になる」(P74)第47節「国家論のくわしい展開は『法の哲学』の仕事なんだけれど」(P75)とことわりつつも、この節においてヘーゲルの国家論を展開しています。一、まず国家の本性(本質)とは何か、ということですが。ヘーゲルは、世界精神が前節(b)の手段により「実現した目的」とはなにか? 「理性的な究極目的」とは何なのか?、人の主観的な意思が、人間の知や意思を材料として、どの様にして現実の真理に合致した目的をもつのか? こんな問いかけから探究を始めています。「なんじゃ、こりゃぁ?」と。ヘーゲルがここで提起している問題ですが、それに対する彼の主張ですが、いったい何が問題なのか?私などは、なじみのないことがらですから、わかったような・・・しかしわからない文章と感じて、戸惑わされてきていたんですが。最近ですが、ある種の悟りのようなことがありました。ヘーゲルの序論というのは、本論を理解する上でのアドバイスであり、この部分だけで論証されてるわけではないんですね。本論から導き出された結論であったり、重要な洞察についての強調だったりで、ここでの一字一句について、ここだけでそのすべてが納得できるようなことではないこと。全体を理解する上での助言であって、一種の箴言集のようなものです。だから聞いてる側からすると、悟った人によるある種の宣託を聞かされてるかのような、そんな感じもさせられちゃうんですね。ようするに、ここではあくまでも助言として聞き置くようにして、さらにその先にすすめ、ということなんですね。完全に得心いかなかったとしても、気にしないですすめ、これはあくまで全体を理解するための助言なんだから、ということだったんですね。逆に、さもすべてを分かったような態度でいると、その人流の自分勝手な、無理な解釈をきたすことになるよ、とも言っているように思えます。さて本題にもどりますが、国家の本質について、ヘーゲルはどのような規定・洞察を述べているか、いくつか挙げてみます。1、「歴史において考察されるのは、偉大な世界史的情熱に突きうごかされた主観的意思が、どのようにして現実の真理に合致した目的をもつか」-どの様な意識的努力が、現実の真理をとらえれるのか。人間の主観的意思というのは、社会的共同体的本質をもっている。共同体としてのまとまりから国家が出てくる。国家とは、個人が共同の世界を知り、信じ、意思するかぎりで、自由を所有し享受するような現実の場である。(第42節)2、「主観的な意思や情熱が目的を実現する活動力であり、理念が歴史の内面をなすとすれば、国家は現実に存在する共同の生活です」「共同体精神が人々の現実の生活や心情の中に生き生きと存在し、維持されるようにするのが、国家の目的です。国家という共同体の存在することが、理性の絶対の関心事であって、未発達なものにせよ、国家を建設したことが、英雄の英雄たるゆえんをなす功績です」(第43節)3、「世界史においては、国家を形成した民族しか問題にならない。国家こそが、絶対の究極目的たる自由を実現した自主独立の存在であり、人間のもつすべての価値と精神の実現性は、国家をとおしてしかあたえられないから。精神の現実性とは、人間の本質たる理性的なものを対象にして知ることであり、理性的なものが、客観的な、形のある存在として目の前にあることです」「共同体の真理とは、公共の精神と主観的精神が統一されることであり、公共の精神とは、普遍的かつ理性的な国家の法律のうちに表現される。国家は神の理念が地上にすがたをあらわしたものです。」(第44節)私などは、「国家は神の理念が地上にすがたをあらわしたもの」との規定に対して、以前は反発を感じていたんです。注意して読むと、ヘーゲルが神と言っているのは、いわゆる人の外にある絶対的な権威としての神ではないんですね。18世紀の啓蒙思想が理性として尊重したことの・ものの最高の姿であり結晶といった事柄なんです。前回の学習発信では、私などはヘーゲルの「神の理念が地上にすがたをあらわしたもの」等の言葉を、プロイセンの専制国家をも国家の本質の現象としての現れの形として合理化してるんじゃないかとして、反発を感じてたんです。そんな感想を発信してました。今回、いろいろ読んでみると「神の(のような理性的)理念」とヘーゲルが言ってるのは、理性の最高の形ということであり、当時のプロイセン国家の反動性を弁護しているわけではない。むしろ、恣意的な勝手をもっぱらにするような専制国家は「私が問題にしている理性的な国家などではない」-これは初年度講義『世界史の哲学講義』(伊坂訳 講談社学術文庫)のP118「自由と国家体制の区分」では、そうした趣旨すらが説かれているんですね。もう一つ、同じことですが、注意してください。第43節ですが「未発達な国家との現実があるにはあるけど」とヘーゲルは言ってます。国家なら何でも、みそもくそも天まで祭りあげるとしていたことじゃないんです。「未発達な国家」もあるといっている。日々私たちは、その不十分な国家という現実を、毎日嫌というほど見せつけられてる次第なんですが。しかしそれでもですよ、ヘーゲルは確かな洞察をしているでしょう。その否定的な現象があったとしても、その潜在的な裏側には、やがては表に出てくるところの、未来に発展させるべき理性的なものが要素としてふくまれているんだ、理性は現れるんだ、と説いてるでしょう。ヘーゲルはプロイセン王国の帝国大学の教授ですよ。そんな立場の人が、よくもまあ、こんな大胆なことを、その教壇から述べていたものだと感じませんか。その中身が講義録として、亡くなった後ですが、実際に刊行されたんですから。私などは、そうした先人の業績の中身ですが、今でも、あまり光があてられてないと感じてるんです。「宝の持ち腐れ」ということもありますし、勝手な解釈をして「三代目にして家を踏み倒す」ということもあるじゃないですか、努力をしなければですが。やはり、先人にたいしてしっかり評価をすることが求められているとおもうんです。それは今に生きている思想としてあり、今をより良くしていくための先人の成果であり遺産だと思うんですよ。現代人がそれを粗末にしていたとしたら、せっかくの大事な宝ですから、やはりもったいないと感じている次第です。「c.自由の実現体たる国家」ですが、今回で終わるはずでしたが、パソコンの操作ミスで、大方を消去しちゃったようです。この続きですが、もう一回発信させていただきます。
2023年07月07日
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今回は、泣きっ面に蜂でした昨日7月5日、天気は曇り空だったんですが、蒸し暑くて気温は高かったんですが。この間の剪定で放置されていたみかんの木の切り枝を、搬送してきて野焼きをしました。まぁ、そこまでは順調だったんですが。午後になって、火の後始末にきたら、すぐその手前に、農道に倒れ掛かって、通行を妨げいる草があったですね。私などの責任の箇所なわけで、そこだけやけに目立ってたんですね。それで、その箇所のくさかり刈をしようとしたんです。三分の2くらいを終えた時にチクリ!、右腕の手首を刺されました。アシナガバチでした。ただちに家に戻って、応急措置をしたんですが。次に、午後2時半には、援農の方が来てくれたんで、2人して、みかん園の草刈りを始めたんですね。そこは、以前は農家の手の及ばなかった畑ですが、この間につる草をはらい、草刈りして、みかん畑として復活させた畑なんです。そこで、この間の雨で繁茂していた草を刈って、みかんの木の根回りにカミキリムシ対策の防虫剤を塗布していたんです。5本目を完了して、次にとりかかろうとしたら、草むらから出てきたアシナガバチでしたが、チクリと。今度は、左中指と、左瞼の2か所ですが、刺されちゃいまいました。1日に、3か所というのは、私も初めてなんですが。私などは、これまでの経験からして、だいたい真夏日の気温の高い、快晴の日には、アシナガバチの動きに用心していたんですが、今回は、7月の初め、しかも曇り空だったんで、油断していたんすね。晴れや曇りなどは関係なかったんです。アシナガバチにとっては、巣作りを始まめだしたこと。そして、気温が高いこと、そうなると戦闘モードになっちゃうんですね。おそらく、近くに巣をつくりだしつつあったんじゃないかと思うんですが、それは、わかりませんが、きっとそうだとおもいます。こちら人間にとっては、草刈りと基幹の塗布作業で必死になっていましたから、これから片付けなければならない対象の木が多かったため、作業に忙しくて、周囲に対する気配りが、暑さで疲れてもいたから、おろそかになっていたんですね。アシナガバチの方にとっては、これから巣を大きくしようとしている領域の近くに、自分たちの生活圏に、人間が勝手に入ってきたわけですから、それを攻撃するのは、守備隊の若い蜂の役割として当たり前なんですね。その二つが、ガッチリぶつかっちゃったわけです。私などは、刺されてから、それにより蜂の存在に気がつくという、お粗末でした。おかげで、左瞼は「お岩さん」の状態です。今の時期は、まわりで巣作りを始めだしたアシナガバチに注意せよ!早く、一匹でもその存在に気付いて、あたりの様子に要注意ということです。まぁ、痛い体験をさせられないためには、こちらの都合だけでなく、まわりの蜂の動きにも、よく注意を払えということです。
2023年07月06日
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ヘーゲル『歴史哲学』序論9 一つの学習方法について福田静夫先生の「ヘーゲル学習会」に、名古屋の学習会場に八王子から参加させていただきました。これはコロナの昨今のパンデミックが縁でして、これまでインターネットによるズームの学習などということは、私などにはまったく別世界のことだったんですが。不幸中の幸いでして、今回、それをまったくはじめてのことでしたが、活用させていただきました。ヘーゲルの『歴史哲学』学習は、今回は9回目ですが。今回はその番外編でして、二つのことをテーマにしたいと思います。一つは、ヘーゲルの学習方法について、どの様に学習しているかです。もう一つは、私などのこの学習にいたる経過について、なんでこんなことをしているか、ということなんですが。一、最初に、ヘーゲルの学習の仕方についてです。もちろん、人それぞれに、工夫し努力しているわけですが。これは今から2年半前、私などがヘーゲルの『歴史哲学』の学習を、暗中模索していたんですが。その時の『歴史哲学』序論についての学習発信したときのものです。2020年10月4日にブログ発信でしたが。哲学学習14 『歴史哲学講義』序論 ヘーゲル歴史哲学での国家 | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)だいたい、それまでヘーゲルの学習などということは、自分の一人での、まったくの暗中模索による探究だったんです。達磨大師状態ですね、壁に向かってるような状況だったんです。ところが、そんから1年半の後のことでしたが、二人の知人から、「福田静夫先生のヘーゲル学習会があるよ」と、「赤旗」での学習会の紹介がありました。あとから知ることになるんですが、福田静夫先生というのは、今のヘーゲル研究の大御所だったんですね。故・真下信一先生の流れにある、日本福祉大学の名誉教授だったんです。無知とは恐ろしいもので、私などは、そんな存在をちっとも知らなかったんですが。そうした縁で、2022年3月から、毎月に1回のズーム学習に参加させていただきました。ヘーゲルの『法の哲学』の第三部「倫理」、その第三章「国家」から、参加させていただきました。この学習会に参加して、まず驚いたんです。福田先生の学習方法は、ヘーゲルの『法の哲学』原典に対して、文節ごとに番号をつけて、ヘーゲルの言っていることを、先ずは正確につかむこと、それが基礎作業だったんです。さらに、ヘーゲルにはいろいろな翻訳がありますが、福田先生ご自身で訳されて、ヘーゲルの真意を探られてるんですね。だから、学習会の前に、毎回、その部分のオリジナルな翻訳と、そこでの主題になっている問題が、資料として送られてきたんですね。だいたい、ヘーゲルというのは難解な表現をしてますから、自分勝手な勝手な解釈が、さも「自分はヘーゲルを理解している」といったふうな、まったくの自分勝手な解釈がさまざまにまかり通ってるじゃないですか。そんな「解釈」が大量生産されているのが、今の現状ですから。あの世にあって、ヘーゲル自身も、「いや、自分は、そんなことを言っいるんじゃない」と嘆いていると思うんですよ。まずは、正確に著者が言っていることを理解する努力が、出発点だと思うんですが。もちろん、その吟味をいちいち検討を表現しようとすれけば、原典の分量の何倍もの量になりますから、そこは、その人なりのエッセンスとせざるを得ないんですが。まず、基本としてこの問題があります。その点で、福田先生は、ヘーゲルの著作を文節ごとに、通しナンバーをつけて、一つ一つその意味を探っているんですよ。じつに誠実な、すごい努力です。私なども、この自分の学習発信をふりかえると、そうした基礎作業を多少はしようとしていた、そんな努力はうかがえるんですが。しかし、さすがです。ヘーゲル研究の大御所の努力というのは、その度合いが、レベルが違うんですね。ヘーゲルの原書の原文にあたって、その日本での翻訳のありかたについて、そこまで吟味しているんです。こうなれば「デクターツーラ」の問題も、いち早く問題の遡上にのりえたわけなんですね。ところが、流行にもてはやされる研究者は、思い付きの勝手な着想でもって、さもこれがヘーゲルの真意だなんて、勝手な解釈をひけらかしている。こんな流行学者の態度と、それをもてはやすメディアをみると、私などでも思うんです「いったいこれは何なんだと、まったくの雲泥の差じゃないか」と。この学習の仕方が、学習にたいする誠実な態度というのが、基本問題として問われていると思うんですね。二、もう一つは、私自身のこうした事柄にたいする探究のあゆみがあるんです。これも、前回の学習の時に、自分自身をふり返ったことですが。2020年10月13日付発信の、第12回「ランダムな感想」です。哲学学習17 ヘーゲル『歴史哲学講義』序論12 ランダムな感想 | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)まあ、以前の2年前に発信したブログですが、この二つを念頭におきつつ、次の「B.c自由の実現体たる国家」に、これは『法の哲学』とともに、ヘーゲルの「国家論」が主題ですが、ここにすすみたいと思います。あと「歴史哲学」のこりは、「C.世界史の歩み」、「a.発展の原理」、「b.歴史のはじまり」、「c.世界史のすすみかた」。あと、もう少しのところまできています。
2023年07月01日
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朝市の紹介の形がかわる一、今回の朝市ですが。2016年12月11日(日)から始まったNPO「ほっとセンター」が主催する定例朝市ですが、東京・多摩ニュータウンの永山団地で、毎月2回の朝市が開催されてます。団地が出来てから50年、今や高齢者の多い団地生活者ですが、それは自然の哲理です。非営利法人が、居住者に対して、地元の多摩市農協や群馬・月夜野農協から、新鮮で美味しく、安い農産物を提供しようとしているのは、素晴らしいことですよね。当方もそれに協賛して、小田原からみかんをはじめとする産物を運んで、こちらは毎週土曜日ですが、朝市をひらいています。だいたい、自然の方は、二週間も間隔をおくなんて、成熟しすぎちゃうじゃないですか。自然はそんな人間の都合を待ってくれませんから。ということで、毎週の朝市をひらくようにと、自然が私などの尻を叩いているわけなんです。そうしないと「落果しちうよ」と。さて今回の朝市ですが。月が替わって、7月1日(土)でした。今回、当方が小田原から搬送してきた産物ですが、バレンシア・オレンジ、アオジソ、ハチクが並びました。もっと色々な産物あったんですが、この朝市に到着するまでの途中に消えてしまいました。それもまたよし、です。予約してくれた人たちにたいしては、ちゃんと提供するようにしてるんですから。二、ここまでは、10年一律で、いつもの朝市を紹介することと変わらないんですが、ここにきての変化です。「朝市の紹介」のなかみが、幾分変って来たことです。というのは、この3月から「小田原・石垣山のみかん園を再生する会」が出来たんです。石垣山の「だんだん園」で、毎月一回の交流をし出しているんです。みかん畑に、それぞれ援農に来ている人たちの交流会なんですが。関係者は、園主と援農者の全体で10名くらいですが、実際に交流会に参集できるのは、5名くらいなんですが。それでも交流会は、4回をかさねています。この2枚の写真は、援農者の人たちが、手掛けている菜園の様子です。放任されてたみかん園の「西部開拓史」をしたんです。だけど、この菜園を維持するのは大変なことなんですよ。放っとけば、周辺がしめしてますが、すぐに雑草が繁茂しだて、もとの無惨な事態になっちゃうんです。当り前なきれいなみかん園の景色ですが、それを維持するには、都会人が知らないところで、じつに大変な農家の人たちの草取り作業が行われているんです。それなくしては、もう半年で、畑は完全に荒野にかえっちゃうんです。三、それはともかくとして、何を言いたいのか。肝腎なことですが。この交流会がはじまったことで、この一週間の努力を総括するようになったんです。たんにこれまでのように「朝市に運んで、売れたよ」との紹介では済まなくなったんです。この交流会では、たんに苦労を発散するだけでなくて、この一か月間の間に、「この一か月間で、どんな作業があったの? 何が大変だったの? 何が今問題なの?」その間の苦労を対象化するとの課題が、提起されてきたんですね。私などは、これまで、繁茂してくる雑草を相手にしてると、それだけでヘトヘトだったんです。それは、みかん農家の人たちが置かれている状況として、くたびれ切った状況、体力の限界まで頑張っている、それは誰しもみな共通な事態なんですね。しかし、交流会がはじまったこの3月から、すこし違うんです。私などが周りのみかん農家を見ていて思うんですが、みかん園を維持するのは先祖伝来の責任じゃないですか。今、このその四季折々において、その畑を維持していくには、どの様な努力が必要なのか。ところが、その後継者がいない。なんで、子どもたちに胸張って、みかん園のあとを託せないのか。それは当たり前です。年に一回の収穫、豊作でも価格が低くて豊作貧乏もありうる。先付きの安定した収入がなければ、この世の中、結婚も、生活も出来ないじゃないですか。今の農家には、それがないんです。政治家たちは「農家をまもる」なんて、きれいごとを言いますが、責任あるまともな農業政策を何一つ語ってませんよ。現実は「農産物の自由化」路線に、ひたすら付和雷同している事態です。「ちがう」というなら、それならはっきりといってみろ、と言ってやりたいですね。そのことは、みかん農家に限らず、それぞれの農家は、みな同じ状況だと思うんです。稲作だろうと、酪農だろうと、みな同じ状況だと思うんです。私などの不思議に思うのは、どうして農家は自分の首を絞めるようかのような農業政策をすすめている政治屋どもを、全国の農夫が、それを支持し投票しているのか、ということですね。まったくのパラドックスだと思いませんか。しかし、それが現実です。くわえて、都市生活者の問題もあります。「モノが安く手に入りさえすればよい」「今の状況のままでも、何とかなっている」と。金さえだせば海外から安い農産物を輸入できる。自分の食品安全など、問題はこれまでなかった。自国の自給率なんていっても、日々の日常がまわっているんだから。あれこれ言っても、すべてはケセラセラだと。こんな都会生活者の不毛な状態に、今現在がささえられてるんですね。なにを言いたいかというと、朝市が無事に終了したことは、それはそれでよいことだけど。問題は、それだけで慰労会をして、くつろいでるだけじゃだめだということです。交流会で責任を果たすためには、この一週間のあいだにあった努力を、なるべく記録するようして、4週、ないし5週間の間の、この一か月間の努力を総括するようにすること。週サイクルでの総括が求められているんですね。さらに、出来うれば、その努力を12カ月間つづけて、みかん農家の1年間を、収獲・作業ともに、その年間サイクルを描き出すということです。年間の作業サイクルを明確にして、収支を明確にすること。そうしたことから、明日のみかん農家を営み、あり方を探るということです。たんにもろもろのストレスを発散することじゃなくて、ただのんだくれてるんじゃなくて、みずからと、農家のおかれた客観性を明らかにすること。そのことが、朝市の結果報告の発信ではあるにしても、それだけじゃだめだと。朝市にいたる努力の過程を、自分がやってきたことを、その現実性を、たたき台として提供することが求められていることなんですね。農家にとって当たり前なことなんですが、それ以外の人たちにはほとんど知られてない事柄なんですね。そのことを、気づかされた、私の最近なんです。ということで、この「石垣山みかん園を再生する会」の課題ですが、みかん農家の生産と消費、そしてよりひろく農家としての暮らし、狭くは真鶴・早川の農家の、その今の現実を探ること、それが私などとしては、この会の一員として、探るべき課題だと思っています。
2023年07月01日
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カミキリムシを7匹駆除今回の小田原・真鶴のみかん園行きですが、中心課題はカミキリムシ対策で、3日間で計7匹を駆除しました。これがその一匹です。ゴマダラカミキリムシです。なんで、カミキリムシに対して、そんなめくじらをたてているのか? それは、みかん園にとって、その存亡がかかってるからなんです。その様子をしめしているのが、次に紹介しているみかんの木です。主枝の3つが枯れ込んでしまい、枝を切らざるをえなかったんです。こうなると、本来の木の生産力からしたら、4分の一に低下してしまい、残されたあとの枝も、心棒となっていた幹がなくなりましたから、アウトなんですね。なんでこんなことになるのか。その基幹の状況を見てみると。カミキリムシの羽化穴が、この写真だけでも二か所あるのが分かりますか。カミキリムシは、この時期、基幹部分に卵を産み付けます。3年目には、羽化穴をあけて外に飛び出していきます。その間に、幼虫が基幹の中に坑道を掘って、みかんの木の養分を送る水脈を切っちゃうんですね。そうなると、その先の枝は養分が来ませんから、枯れだしちゃうんです。みかんの木では、他の病害虫は、手あて次第で翌年にはふたたび復活しうるんですが、カミキリムシの加害は、みかんの木自体が枯れだしちゃって、まったくのアウトです。みかん園にとって、カミキリムシ対策は、園の死活かかった、存亡のかかっている問題なんですね。日本の四季では、今は、梅雨のただ中ですが、この梅雨の一雨ごとに、諸々の雑草が繁茂してきます。みかんの木は、繁茂して来る雑草に覆われちゃうんです。こうなると、みかんの木の根回りの様子なんか、分からないじゃないですか。カミキリムシの動きなんか、分からなくなるじゃないですか。だから、この時期、みかん農家は草刈りです。様々なノウハウで、雑草の繁茂をおさえるため、必死に努力しています。私などは、草刈り機を使っての除草作業をするわけですが。体力勝負です。みかんの木の基幹まわりを除草して、カミキリムシの動きが分かるようにして、その上で、カミキリムシが卵を産み付けに雇用としている箇所に、防虫剤を塗布していきます。1本だけなら簡単なんですが、こうした木が100本も200本もある農家にとっては、とてつもない作業となります。しかも、その期間は、6月中旬から7月上旬と限られてるんです。私などは、これまで、草刈りだけでもやりきれていなかったんです。その途中で、すでにヘトヘト状態だったんです。最初に草刈りしたところが、ふりかえってみると、又再び繁茂している状況でした。ところがですよ。今回は、違うんです。援農者が来てくれていて、みかんの木のまわりの草刈りを草刈りしてくれてるんです。私などの作業は、基幹まわりの草取りをして、防虫剤を塗布していく。その防虫剤の塗布に集中できるようになったんです。その結果です。今回、6月26日(月)に1匹、27日(火)に4匹、昨日28日(水)には2匹と、カミキリムシを駆除したんです。6月6日(火)に今年最初の1匹を、6月21日(水)には2匹目を駆除して来てますから、今季は、すでに計9匹のカミキリムシを駆除しました。しかしですよ、私などが出会うのは、実際のごくごく一部分でしかありません。しかもそれが、この数日で、出逢う度合いが、すごく高まってるんです。これまでの数年間は、この実際が見えてなかった。草刈り作業だけで、やりきれなくて、もうヘトヘト状態でしたから。根回りのチェックや塗布までは、とても手が回らなかったんですね。今回は、援農者が草刈りに来てくれているおかげで、みかん園を守るための大事な手当てが、実際に行われだしたということです。まだまだ、多くの木は未処理ですから、もうひと踏ん張りです。天気の日にしか出来ませんが、防虫剤の基幹塗布作業をやりきるということです。そうすることで、みかん木をカミキリムシから守る、みかん園を守るということです。
2023年06月29日
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今週も、団地朝市が終了今週も多摩市・永山団地での朝市は終了しました。この数年、いつも毎週土曜日は、東京・多摩市の永山団地で朝市を開催してるんですが、今回も、無事に朝市を終了することが出来ました。今回の朝市は、地元の「ほっとセンター」との共催で、月二回の定例朝市と重なります。地元の多摩市の農協や、群馬県の月夜野から運ばれてきた新鮮・安価な野菜と、当方の小田原・早川の石垣山から搬送してきた産物が、多彩に並べられます。土曜の朝は、午前8時半ころの店開きした頃は、周囲の人通りも少ないんで、お客さんを待っている間に、この一週間をふり返える時があります。今回のわいてくる思いは、はかなさですね。この朝市を、小田原・早川で支援してくれていたみかん園の園主が他界したことです。そんな事情を知らない永山団との関係者には、そのことを紹介せざるを得ないじゃないですか。これまでは自然なことのようにして続けられてきたことも、必ずしも今回はあっても、その明日がまたあるわけではない、ということなんですね。小田原・早川のみかん園の園主の死去は、それをしめしてるんです。まぁ、それは「せんなきこと」。当人は、最大限、生きようとしたんですから。「自分の健康問題以外は、私の回りはみな順調な方向にいっている」-これが彼の遺言です。さらに、遺稿の句集を残したんですが、その「あとがき」に記しています。「残念な気持ちになることもある。でも、時代は変わらざるを得ず、新しい時代の萌芽も見受けられるので、次の世代の活躍に希望をもって期待するものである。」私などは、彼の死後に気づかされたんですが、これって、彼の『遺言』ですね。自分の「終活の一つ」としての句集をつくり、その「あとがき」だったんです。これまで、彼の支援があっての小田原の柑橘の多摩への提供だったんですが。これから多摩の団地生活者を、どのように支援していけるのか。直ぐには変わらないにしても、これからどうなるのか、それは私などにはわかりません。ただ、小田原と多摩の諸条件が許してくれる限りでのことですが、私などとしては、諸々の条件が許してくれるかぎり、体力の続く限り頑張るとのことなんですね。しかし、今回の事態からすれば、今が偶然の諸条件によって成り立っていることを感じさせられます。それが、この一週間の実感です。とにかく、人間は生きていかなければなりませんから、いまを生きている限り、誰がどういおうと、置かれた諸条件の下で、自分が「よかれ」と思う方向に、全力を尽くすということです。
2023年06月24日
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ヘーゲル『歴史哲学』序論8 b.自由を実現する手段3ヘーゲル『歴史哲学』の「序論」、b.自由を実現する手段、ですが。一、最初に前回の続きです。この「b.自由を実現する手段」(『歴史哲学講義』ガンㇲ版1837年)にある問題ですが。エンゲルスは1888年の『フォイエルバッハ論』第4章の第12項において「ヘーゲルが代表する『歴史哲学』は、歴史上で行動している人間の外見上の、そして現実に働いている動機が、決して歴史上の出来事の究極の原因ではなく、これらの動機の背後に別の動力があって、これを探究しなければならないのである」-との問題を確認しています。そして、次の第13項では、問題は「そこで歴史上で行動する人間の動機の背後にあり-意識されてるか、多くの場合は意識されてないが-、歴史の本来の最終的な推進力をなす動力を探究すること」-この課題を提起してます。マルクスの草稿にかつての探究をふり返ってるわけですが。そもそも、この問題は最初はいつ、どんな形で生じたのか、ですが。1845-46年の『ドイツ・イデオロギー』の中には、この大部な草稿の中には、フォイエルバッハの宗教批判にたいして、こんな問題提起があります。フォイエルバッハが宗教批判をだしたことによりおのずから出てきた疑問として、「人間がこれらの幻想を自分の『頭の中に入れた』ということはどうして起こったのか? この疑問はドイツの理論家たちにとってさえ、唯物論的な世界への道をひらいた」(『全集』第3巻P236)、と。私などは、ここにヘーゲル-フォイエルバッハ-マルクス・エンゲルスの継承・発展を見るんですが。しかし、それは大事な問題ではありますが、こことは別のテーマかと思います。ここではヘーゲルが「動機の背後にある問題を課題提起」したことの業績を確認するとともに、その他にもヘーゲルには沢山の宝があるわけで、そのいくつかを探ります。二、それは努力による認識過程でもあると思うんです。レーニンの『哲学ノート』を、以前に紹介しましたが、そこには『歴史哲学講義』について二つの感想がのこされています。それがのちのち『全集』として刊行されるなんてことは、当人はまったく考えておらず、あくまで個人の自由奔放な学習ノートなわけですが。レーニンの感想①「一般にいって、歴史哲学はたいして教えられることがない―これは当然である。なぜなら、まさにここで、まさにこの領域で、まさにこの学問で、マルクスとエンゲルスは最大の前進をとげたのだからである。ここでヘーゲルはもっとも古くなり、そしてもっとも陳腐である」しかし、レーニンの感想②「注意 もっとも重要なのは序論であり、そこには問題提出に素晴らしいものがたくさんある」と。私の勝手な推測ですが、レーニンの『歴史哲学』を読んでの最初の総括的な印象は、観想①だったと思うんです。ところが、その認識が変化していった、それがが感想②がしめしているんじゃないかと。レーニンの認識の変化を感じるのは、はずれてるでしょうか。「歴史哲学講義ノート」最後には、3つの書き抜き「ヘーゲル、世界史について」(P284-285)をのこしますが、その一つは、この「B.歴史における理性とはなにか b.自由を実現する手段」からの書き抜きです。そしてその最後の最後には、「注意 序文で出版者・編集者のガンㇲは、本文の73ページまでは1830年にヘーゲルによって書かれたものであり、手稿はヘーゲル自身によって仕上げられたものである、と言っている」と書いてます。ここにも、この著作をどれだけ重視していたか、レーニンの姿勢というものが伝わってきませんか。三、さて本題です。「b.自由を実現する手段」の後半という今回の範囲も、第18項から41項までありますから、それなりの量があります。私なりに、その中から、いくつかの点に絞っての学習紹介です。第一は、「序論」の性格の問題です。私は誤解していたことに気がつきました。これまで『歴史哲学』「序論」でヘーゲルは、自らの歴史理論をまとまった形で紹介したものと思ってたんですが。しかしそうじゃないんですね。ヘーゲルは、ここで本論から導き出された結論であるとか、本論を理解する上で大事だと思われる論点だとか、いわばいくつかの「箴言集」的に紹介したものなんですね。ここで起承転結的にまとめているわけではなかったんです。ここだけで完璧な論証をしているわけじゃなかったんです。私は、この論述の仕方・性格について誤解していた。まとまった論証を理解しようと期待していたために、その論述に難解さを感じてたんですね。ヘーゲルにとっては、「あくまで本論を理解する上での、いくつかの大事な点についてのアドバイスだよ」ということだったんですね。結論をはなから理解するなんて無理なことでして、大体そんなものかな、ということで先にすすむべきだったんですね。それをあれこれ解釈しようとして無理していたんです。第二は、第18項ですが、「歴史における目的の実現の第二の要素を、国家にあてはめて考えてみる」と。それは「市民の私的関心と国家の全体的な目的とが統一(一致)され、一方が他方のうちで自己実現」することだと。ここには、国家目的にかなうことが意識されるまでに、また、統一されるまでに、長い知のたたかいと長い訓練が必要だとの歴史過程を見ているわけですが。ヘーゲルは私的な関心と国家の全体的な目的が、いつか必ず一致するものと確信してるんですね。それがどの様な形でなされていくかを、考察しているんですね。その内容は具体的には紹介できませんが、こんなことを言ってます。「世界史全体に通じる目的は、潜在的に、自然のごとくに、存在するにすぎない。それは内面の奥の奥にある無意識の衝動であって、世界史のいとなみの全体が、この衝動を意識にもたらす作業です。」「この途方もなく多量の意思や関心や活動こそ、世界精神がその目的を完成し、意識へと高め、実現していくための道具であり、手段です。」「その目的とは、自己を発見し、自己にかえっていき、自己を現実として直観することにほかならないが」(岩波文庫『歴史哲学講義』上P51)ちなみにレーニンも『哲学ノート』で、こあたりを注目していて、この節の10か所の書き抜きのうち、第3番、第4番、第5番は、このあたりから書き抜いています。第三に、一般的な理念と個人の行動とのつながりの問題ですが。「直接の行動のうちには行為者の意思と意識をこえたものがふくまれるというじじつがある」(第23項)個と一般は、たがいにべつのものとして存在しているが。通常の私生活においては、行為者の目的や行動の指針ともなる一般観念は、特定の内容をそなえている。どの内容が善であり、どれが正義かは、国家の法律やしきたりのうちにしめされている。各人には自分の立場があり、それにふさわしい立派な行動がどんなものかを知っている。25項「世界史的な大事件の場合には事情がちがう。ここでは、現行の公認された義務や法律や正義と、それに対立する可能な義務や法律や正義とのあいだに、大きな葛藤が生じ、新しい秩序が古い体制を傷つけ、その基礎と現実性を破壊し、しかも新しい秩序自体がよいもの、全体として利益をもたらすもの、必要不可欠なもの、と思えるような内容をもつのです。そして、この新しい可能性がやがて歴史にうけいれられる。それは、民族や国家の現存体制の基礎をなすような一般理念とは、別種の一般理念をふくみます。」(P57)これはヘーゲルが言ってるんですよ。彼が世界史のあゆみを、具体的にたどる中から引き出してきた見解なんです。もっとも、論理学において、その一般的形式についての見通しをもっているわけですが。それと、エンゲルスの『空想から科学へ』第2章で、形而上学的思考と弁証法的思考を対比していますが、ここにその考察のヒントがあったと推測するんですが、如何でしょうか。第四に、すでに長くなりすぎてますが、もう一つだけ紹介します。第36項「世界の目的という観点からすれば、道徳と法にかなったよい目的が確実に実現されているかどうかのほうが重要です。人間が道徳的に不満を感じるのは、正義でも善でもあるとみなされる目的(とくに今日では理想的な国家機構)に、現実が合致していないと思えるときです。そのとき、目の前の現実に本来あるべきすがたが対置される。もとめられているのは、特殊な利害や情熱を満足させることではなく、理性や正義や自由を満足させることです。正義や善の名分をあたえられると、現実への要求は声高になり、現在の状況に不満を言うだけでなく、それに怒りをぶつけるようにもなる。そうした感情や見解を正当に評価するには、文句のつけようのない形で提示される要求を、あらためて検討してみる必要がある。」(P66-67)これもヘーゲルが大勢の受講者をまえにして講義していたこと、その中に含まれていることなんですよ。ヘーゲルは、プロイセン王国のベルリン帝国大学の総長にも選ばれた人ですが、すごい学術に対する姿勢ですね。(今の日本の「日本学術会議の任命拒否」などに直面したら、その誤りを訂正しようとしない事態をみたら、いったいどうしていたことでしょうね)。しかし、これはまだまだ世界史の歩みの中からみちびきだされた、一般的な大事なことがらとしてヘーゲルは説いています。マルクスは、ヘーゲルの『法の哲学』を1843年に検討しています。全集第一巻に『ヘーゲル法哲学の批判から』と「序説」として、残されていますが。その一節です。「ヘーゲルによってもっとも筋道だった、もっとも豊かな、そして究極的な形にまとめられたドイツの国家および法の哲学にたいする批判は、一面、現代国家とそれにつながる現実との批判的分析であるとともに、他面またドイツの政治的および法的意識の従来の在り方全体の決定的否定でもある。そしてこのドイツの政治的および法的意識のもっとも高邁な、もっとも普遍的な、学にまで高められた表現こそは、まさに思弁的法哲学そのものにほかならない」(「国民文庫」真下信一訳 P340)マルクスが、ヘーゲルの国家論や法の哲学から、何を価値ある宝として引き出していたのか。ここにその一端が見て取れるじゃないでしょうか。これは、今に生きる大事な事柄、問題点であり、宝だと感じさせられました。私の狭い認識では、こうしたことが紹介されているのを見かけることがないんですが。それを研究者が知らないということはないと思うんですよ。しかし、それがひろく知らされてないなどというこことは、じつにもったいないことじゃないですか。私などは、「それは学術に対する怠慢じゃないか」なんて、勝手にほざいてるんですが。この節のヘーゲルのしめくくりの言葉です。「この項では、精神の絶対的な目的との関係で個人をどう見るか、その基本的な視点を簡潔に提示するだけでよしとしておきます。」(P71)、そうした限定された事柄の提起なんだと。当方も、この大事な節ですが、その学習という宿題を、ようやく果たせました。さて、次回は、「c.自由の実現体たる国家」にはいります。
2023年06月23日
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草刈りとカミキリムシ対策これは11年前に発信したカミキリムシ対策ですが。以前も今も、この時期のみかん園にとっては、大事な基本作業です。長年、丹精込めて育ててきたみかんの木が、カミキリムシにより無惨にも枯らされちゃうんですから。みかんの木は、今、カミキリムシ退治の時期です | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)今回のみかん園行きは、このカミキリムシ対策と草刈りでした。みかんの木の基幹部分に白い薬が塗布されてますが。カミキリムシ対策の防虫剤です。カミキリムシに加害されると、立派なみかんの木が、枯らされちゃうんですね。今回も、どんぴしゃりでした。防虫剤を塗布し終えて引き揚げようとしたら、ゴマダラカミキリムシをみつけました。これは今年2匹目ですが、根の直ぐ近くで、羽ばたいて逃げようとしているのを見つけました。苦労した甲斐があったというものです。この数年、広い畑の草刈り作業にのみおわれて、それすらやり切れずに、キュウキュウとしていたんですね。この防虫剤の用意はあっても、塗布することまで出来ていなかったんですね。そのために、何本ものみかんの木の成木を枯らしてしまいました。今回こそは、カミキリムシ対策を実施しようと思ってたんですが、援農者が草刈りをしてくれているおかげで、根回りの草取りが出来てるんです。おかげで今回、さっそくにして、ドンピシャリのあたりでした。それにしても、雑草の繁茂はすごい。この梅雨の時期は、一雨ごとに雑草が繁茂してくるのがすごいんです。つい10日くらい前に、きれいに草刈りをしたはずの畑ですが、ご覧の通りです。これは、成木が枯らされてしまった後に植た苗木なんですが、ここにあったみかんの木の成木は、完全に消滅してしまったんです。しかし、この繁茂して来る雑草の下では、根回りの状況なんて、分かりませんよね。苗木の場合は、雑草に埋もれると、地面の養分が雑草とられて、苗木の生育が遅くなります。大きくなれないんです。だから苗木まわりの草取りは、大切なんですね。成木については、これも同じように雑草に覆われた状態ですが、成木の方は、カミキリムシが卵を植え付けようと狙われています。雑草に覆われていれば、カミキリムシの動きは分からないんですね。だから、みかんの木の根回りの草刈り・草取りですが、それは、この時期の大事な作業なんですね。上は、作業を始めだす前の状況です。今回、2時間かかりましたが、これが草刈り作業をした結果の状況です。とくに根回りは、草刈りじゃなくて草取りです。この畑だけでも、その草刈りは、2時間かかって、全体の三分の2が終えれたんですが。まだ、この他にも、9倍くらいの畑が残っているわけです。だから草刈りするだけでも、それだけでも手が回わりきらない大仕事なんですね。その草刈り・草取りしたあとに、カミキリムシの防虫剤を塗布するわけなんで、すでに草刈りだけでもヘトヘトになっているから、その先の塗布まで手が回らなかったんですね。今回は、割り切って、草刈りが粗末だったとしても、カミキリムシに狙われてそうな木には、草刈りが途中でも塗布するようにしています。おまけに、援農の人たちが、草刈りに来てくれてますから、手が回りだすわけです。これまで、この基本作業が抜けたからと、みかんの林が消滅させられちゃてたんですね。しかも、このカミキリムシ対策ですが、カミキリムシが飛んでくきて活動するのは、7月半ばまでですから、時間との勝負なんです。雨の日は、木が濡れていては、作業は出来ませんから、この草取り・塗布する作業は、限られた時間での勝負です。これまで、不十分だったということです。そもそも、わたしが早川・真鶴のみかん園に行けるのは、一週間のうちの火曜・水曜の2日だけですから、作業が出来るのは限られてるんですね。その対象は広大です。だけど、みかん畑を守るためには、これは欠かせない基本作業なわけです。
2023年06月22日
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「石垣山みかん園を再生する会」の第四回交流会小田原「石垣山みかん園を再生する会」の第四回交流会が、6月18日に「だんだん園」で開かれました。この交流会には、草刈りの手をやすめて、6名の園主・援農者が参加しました。5月の交流会から1カ月がたちましたが、この6月3日には、鈴木英之園主の不幸がありました。宣子夫人より、闘病の様子が紹介されました。彼氏の遺稿となった句集『北山時雨』が、いま、参加者に回覧されています。四季折々の喜怒哀楽、この数年につくられた俳句の中から120句がまとめられてます。「あとがき」は、私たちへのメッセージです。さて、6月8日には、関東も梅雨入りしていたことが発表されました。この交流会では、〇この5月末から6月上旬の間に、梅雨空の下での、梅の収穫がありました。〇この時期、一雨ごとに雑草が繁茂してきて、みかんの木の周辺の草刈り・草取り作業は、大変です。雨だと表作業はできないし、晴れれば夏日の強い日差しの下だから、草をおさえるというのは大変な作業だ。熱中症にたいしても注意が必要だ。〇カミキリムシの今年最初の1匹を6月6日に見つけた。その加害を防ぐには、木まわりの草取りが大切になっている。草取りしてみると、大方の木には羽化穴があけられている。何か所もやられると水脈が断ち切られて、木は枯らされちゃっている。これから8月まで注意して、対策が必要だ。〇この間、畑の一部が復活した。手の及んでなかった部分で、13本のみかんの木を復活させた。手が及ばなくなるとクズの蔓がみかんの木をおおいかぶさって、光が当たらなくて葉が弱まっていた。私たちの力は限られてるけど、手が回らない箇所を早くキャッチして、できるだけ援農していきたい。〇今回、ラベンダーの花がとれた。その癒しの香りが紹介されました。ドライフラワーにすれば、長期間香りを楽しめるとの紹介がありました。〇また今、プラムの成熟が急速に進んでいます。2週間くらいの短期間が収穫期のことで、日に日に採らないと、せっかくの実が落下して無駄になっちゃう。今回、参加者には、ラベンダ-とプラムのプレゼントがありました。〇若い人たちが、少ないけど参加しだしてくれています。若者は生活していくには会社づとめをせざるを得ないけど、中には貴重な休日の休みの時間を割いて、草刈りや木の手入れに参加してくれる動きがでています。未来であり、みんなで励ますことが求められています。〇7月16日(日)には、大坪孝之先生の「園芸講座」が、小田原フラワーガーデンで予定されている。7月のテーマは、「柑橘類の年間管理」なので、私たちの主題とも重なるので、なるべく参加するようにしたい。などなど、1時間の交流でした。
2023年06月19日
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6月17日、永山団地の朝市終了6月17日(土)、永山団地の本日の朝市をおえました。今回は、梅の最終です。プラム(すもも)とバレンシア・オレンジが中心でした。今年の関東の梅雨入りですが、6月8日に、「すでに梅雨入りしたようだ」との発表があったとのこと。雨がちな陽気が何日も続くと思うと、晴れれば、夏の様な陽射しのもとです。喜んでいるのは、雑草たちで、グングンと伸びてきます。農夫の方は、雨でぬれてれば表仕事は出来ないし、強い日差しと湿気の下では、汗びっしょりのクタクタにさせられちゃいます。今回は、プラムの収穫・提供をしました。「すももも、ももも、もものうち」で、それがプラムです。帰途に就く日の、雨が降り出す前に、早朝の収穫でした。プラムは、園主さんによると、全体で2週間くらいの、短期間の収穫期間なんだそうです。その間に、日ごとに成熟してくるので、毎日収穫しなければならないんだそうです。おまけに、果実は紫色に綺麗に熟すと、すぐにひび割れをきたすので、成熟するちょっと前に収獲しなければならない、そのタイミングが大事になってくるとのこと。当方も、今回24パックを収穫してきました。収獲してからパックに入れる時までの間に、ひび割れしたものが出てきます。ひび割れしだしたのは、仕方なくプラム酒用にしたんですが。パックに入れて搬送してくる途中でも、さらにひび割れしてきますから、適度なものを消費者に提供するというのは、なかなか難しいものなんですね。
2023年06月17日
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ヘーゲル『歴史哲学』序論(7) b.自由を実現する手段「序論」のB「歴史における理性とはなにか」のb.「自由を実現する手段」を学んでいます。ヘーゲルは、1831年にコレラの大流行により亡くなっています。今回は、エンゲルス『フォイエルバッハ論』第四章、これは1888年刊行ですが、両者を比べて、その共通性と差異からして、どのような継承と発展があるのか、それを探ってみます。一、はじめに、前回、この節(b.「自由を実現する手段」)にたいして、ソビエト・ロシアの指導者レーニンが『哲学ノート』(1915年)において、10か所の書き抜きをしていることを紹介しました。全集第38巻のP277-278にありますが。その書き抜きの、第7番目ですが、ヘーゲル『歴史哲学』(岩波文庫 長谷川宏訳」の叙述に通し番号をつけると、その第23項ですが「彼らは関心事を実現する、しかしそれとともに、内面的にはそこに存在しているにしても、彼らの意識および彼らの意図のうちには存在していなかったところのなおそれ以上のものが、実現される」-この部分をレーニンは書き抜きしていて、その冒頭には「注意 エンゲルス参照」とのコメントを添えています。これは、全集の注でも紹介してますが、エンゲルス『フォイエルバッハ論』第四章をさしています。そのエンゲルスの『フォイエルバッハ論』ですが、これは1888年に刊行されたものです。マルクスが1883年に亡くなったあと、エンゲルスは『資本論』をはじめとして『ヘーゲル法哲学批判』『経済学哲学手稿』『ドイツ・イデォロギー』などなど、それまで刊行されることのなかった大部な、様々な草稿や遺稿集を目にすることとなりました。その中には、二人が青春時代の1840年代に、1831年に亡くなったヘーゲルの哲学を検討した資料、そこら自分たちが新たにつくりだした世界観・方法についての、それをどのようにつくりだしたのか、その若き頃の苦労の過程を記録した時の遺稿資料も含まれていたんですね。それまでは、これらはまったく一般の人の目には触れられていなかった事柄です。しかしそれは、新たな世界観の確立を記録した大事な事柄だったんです。ところがそれは、そのままのものでは誰にとっても難解で大部なもの、誰にとっても理解しにくいものだったんですね。そのためエンゲルスは、それらの過程を簡潔な形に整理しなおして、この『フォイエルバッハ論』(1888年)に刊行したということだったんですね。晩年に近いエンゲルスですが、自分たちの若かった頃にともに探究した過程を、新たな世界観の確立過程を、その後に生きる私たちに対して紹介したというわけです。日本では明治21年で、その前年の1887年には、自由民権運動が三大建白書(言論集会の自由、条約改正中止、地租軽減」が出され、逆にそれを取り締まる保安条例が公布されていたころのことでした。おそらくレーニンも1915年に『歴史哲学』を読む中で、『フォイエルバッハ論』の背景と中身について「なるほど」と感じたんじゃないでしょうか。私などが推測するには、このコメントには、そうしたことをレーニンは考慮していたんじゃないかとうかがわせるように思われます。あくまで推測ですが。こうしたことで、今回の『歴史哲学』の学習ですが、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』という、一つのう回をしてみたいとおもいます。エンゲルスの『フォイエルバッハ論』ですが、その第四章において、どの様にヘーゲルの『歴史哲学』をとらえていたのか。まずエンゲルスのそこでの指摘をおさえるようにして、そうした上で、『歴史哲学』「序論」の続きを学んでゆきたいと思います。二、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』を、新日本文庫(森宏一訳 1975年)で読んでます。『フォイエルバッハ論』の第四章は、全体に番号をつけると、28の文節からなっています。エンゲルスの論述を見てみます。第10項、①自然は意識がないが、社会の歴史は企図や目標をもつ人間によりおりなされる。しかしその違いは、内的な一般法則により支配されてる事実をかえるものではない。(これはヘーゲルが指摘していることです)。第11項、②多くの意思と働きかけが歴史であり、それらの動機が大切だけど、それは結果に従属する。問題は、動機の背後にどの様な推進力があるのか。行動する人間の頭脳に動機の形をとるにはどのような歴史的な原因があるのか。(ここまでは、ヘーゲルも問題意識としてもっている)。問題はここからですね。第12項、③古い唯物論は、その行為をすべて動機(観念的な推進力)から判断していた。それに対して、ヘーゲルの『歴史哲学』は人間の動機の背後に別の推進的な力があることを認めていた。ここが問題の岐路ですね。「人間の動機の背後にある推進的力」というものをどの様に見ているか。エンゲルスは、ヘーゲルは事柄の関係の外部にある哲学的なイデォロギーに原因を求めていたと指摘しています。この指摘の是非を吟味することが、重要問題になっているわけです。第13項、問題は、『歴史上で行動する人間の動機の背後にあり、歴史の本来の最終的な推進力をなす動力を探究すること』-このことが問題となった。④問題となるのは人間の大きな集団、民族の全体、それぞれの民族のうちでの諸階級を動かす動機が問題で、行動する大衆とその指導者をかりたてる原因を探ること。ただし、それがその頭脳のなかでどの様な形をとるかは、それぞれの具体的な事情により形が変わると。第14項、⑤この「行為する人間の動機と、その背後にある推進力となっている事柄との関係の探究」は、以前は原因と結果があれこれ複雑に絡み合って、この問題を探ることは不可能だった。しかしイギリスでは大工業が確立して以来、全政治闘争は地主階級とブルジュア階級との闘争と認識されるようになったし、フランスではナポレオン後の王政復古以来には、同様の事態が見られ、王政復古期の歴史家たちは歴史をそのように歴史をとらえていた。さらに、1830年以降はイギリスでもフランスでも、労働者階級が第三勢力として加わって、三大階級の闘争とそれらの利害の衝突のうちに歴史をかりたてる力を見るようになった。ヘーゲルが亡くなったのは1831年ですが。第16項、⑥近代の歴史は次のことが証明されている。あらゆる政治闘争は階級闘争であり、諸階級の解放闘争は、この闘争が必然的に政治的諸形態をとるにしても、結局は経済的解放をめぐって行われるということだった。これが、マルクスとエンゲルスが、新たに引き出した唯物史観、唯物論的歴史観の基本的な社会認識ですね。特定のある事柄に対する意見じゃないわけです。基本的な、一般的な見方であり、この見解の是非は、諸事実をあつめて検討することが要請されているわけです。さて、以上がエンゲルスが『フォイエルバッハ論』の第四章で指摘している諸点ですが。これらの見解を踏まえつつ、あらためてヘーゲルが『歴史哲学』において検討していることがらを吟味してゆくことにします。今回は、ここまでです。
2023年06月16日
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雨上がりの団地朝市6月10日(土)、多摩市の永山団地では、定期朝市が開かれました。関東も梅雨入り宣言がなされ、梅雨空が続いています。さいわい、この間の雨も上がって、空が明るくなってきました。今回の朝市は、地元のNPO「ほっとセンター」のひらく朝市といっしょです。多摩市や群馬・月夜野の農家から搬送してきた新鮮野菜が並びました。当方の品は、梅です。小田原・真鶴から、梅を収穫して搬送してきたんです。小田原から14袋、真鶴から17袋を搬送してきたんですが。朝市の前に、予約者に届けてきたら、本題の朝市には、5袋くらいしか並ばなかったんです。それもまたよし。先週の朝市を終えたあとでしたが、小田原から訃報の連絡があったんです。旧友で、小田原のみかん園の園主なんですが。私などの小田原・真鶴と東京をつないでの、みかんを都会生活者に提供する活動を、小田原・石垣山のみかん園を再生させる活動の全体を支援してくれていた人ですが、6月3日に亡くなったんですね。彼は、この5月に最近つくった俳句から、句集『北山時雨』(120句)を残していきました。この数年の、春夏秋冬のなかで、みずからが感じてきたことを、思いの一端を、生きてきた様を、最後に句集の形にして残していったんですね。この10日前でしたが、知人とともに見舞ったんですが、意識はしっかりしていて、懇談のあとですが、『あんたたちは歌心などに乏しいから、3句だけ解説をしてやろう』など、句と歌心について、談笑してきたばかりだったんですが。そんな一週間でした。残されたものとしては、これから状況の下で、出来うることを探るということです。
2023年06月11日
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ヘーゲル『歴史哲学』序論(6) b.自由を実現する手段ヘーゲルの『歴史哲学』の「序論」の6回目です。「序論」のB「歴史における理性とはなにか」ですが、岩波文庫の『歴史哲学講義』(長谷川宏訳)で読んでますが、この文節のを項として、これに通し番号をつけると、「まえがき」部分が、第1-3項となり、前回の(a)「精神の本性の抽象的定義」の節が、第4-8項となって、今回の(b)「自由を実現する手段」の節は、第9-41項となります。第一に、どの様にこの(b)「自由を実現する手段」に挑戦していくかですが。私なりには一つの方法なんですが、前回紹介したレーニンの『哲学ノート』があると思います。レーニンのこの『歴史哲学」の全体を読んでの最終的な感想ですが、P283「注意! もっとも重要なのは序論であり、そこには問題提出にすばらしいものがたくさんある」との感想メモを残していますが。これも、この箇所をひも解いていくうえで、私などは大事な傾聴に値するコメントだと思うんです。レーニンは『哲学ノート』のP277-278ですが、この「b.自由を実現する手段」にたいして、10か所の書き抜きを残しています。それは、私などはレーニンがこの箇所にたいして、とくに熱く注目したことを記録しているように思うんですね。レーニンが書き抜いた10か所ですが、その第一点は『歴史哲学』では第8項に関してです。さらに二は15項、三は18項、四は20項、五は23項、六は23項、七は23項、八は25項、九は40項、十は40項、といった対応になります。一つ紹介すると、レーニンの書き抜きの第七か所目ですが、ヘーゲルの『歴史哲学講義』の第23項ですが、「彼らは彼らの関心事を実現する、しかしそれとともに、内面的にはそこに存在しているにしても、彼らの意識および彼らの意図のうちには存在していなかったところのなおそれ以上のものが、実現される」との箇所を書き抜いているんですが、レーニンのそれまでの学習からして心に響いたんだと思うんです。その書き抜きの横には、『注意!エンゲルス参照』とのコメントを書きこんでいます。これは、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』の第四章ですが、その叙述のもとには、ヘーゲル『歴史哲学』のこの箇所の思想が下地にあってこそのことで、レーニンはこのつながりを読み取ったんだと思うんですね。この生き生きとしたレーニンの『哲学ノート』での『歴史哲学』に対する10か所の抜粋ですが、私などはここには、ヘーゲルを理解していく上での、一つのヒントを与えてくれていると思っています。そこにはこの節(b.「自由を実現する手段」)のもつ意義、ヘーゲルが考察した内容、成果について、マルクス・エンゲルス・レーニンがどのように引き継いだのか、その内容とその関連がしめされているんじゃないかと感じています。今に生きている人類の知的な文化的遺産だと、私などは思っています。第二に、この節でヘーゲルが主張している内容ですが。それは長文ですから、あれこれのヘーゲルの一つひとつの論点を繰り返すことは出来ません。その中のいくつかを紹介できるだけですが。1、世界史は自由を意識し、それを実現していく-これが前節「a.精神の本性の抽象的定義」でしたが、この節の冒頭・第9項で「自由が世界史において自己を実現する手段は何か」-主題を提起しています。そして、自由はさしあたり内面的な概念だけど、それを実現する手段は、目の前に出てくる外面的現象だと。まず目にするのは欲望や情熱や利害や性格からなされる人間の行動であること。さらに、人々をその行動に駆り立てる主要な動機は何か?、このことを問いかけています。それは「欲望、情熱、利害のほかにはありません」と。ここがレーニンが『哲学ノート』で書き抜いた一番目でして、(史的唯物論への接近)とコメントしています。2、次にヘーゲルが提起してるのは、歴史を見たとき「人間精神の最上の王国が没落していくのを見る」、「そのおそるべき地獄図絵の観を見たとき」、私たちは「仕方がない、それが運命で、どうかえようもないと考えるしかないんだ」と考えるしかないんだけれど。(第10項)。3、ここからが問題です。ヘーゲルはここで、こんな問いかけをします。第11項ですが。「このおそるべき犠牲は、誰のために払われ、どんな最終目的のためにはらわれたのか、と」。この問いから、問題の探究に入っていくわけです。「地獄図絵のような事件は、歴史の実体的ねらい、ないし絶対的な究極目的、ないし真の結論を実現するための、その手段を提供する場だと考えることになる」。4、その際、「第一に注意すべきことは、精神の原理、究極目的、使命、本性、概念などと名づけるものは、一般的で抽象的なものにすぎないこと。原則や法則は内面的なもので、私たちの思考のうちに存在するだけで、いまだ現実には存在しない。潜在的なものは一つの可能性であって、いまだ現実には内面を出て存在へとはいたっていない。それが現実になるには第二の要素である実現のための活動、人間の実現のための活動が必要で、その原理となるのが人間の意思ないし活動力なんであって、人間の活動によってはじめて実現されるんだ」と。(第12項)簡潔にと思ってたんですが、やはり長くなってしまいました。こんなふうに紹介していくとさらに長くなっちゃいますから、はしょらざるを得ないのですが。あとのことは、箇条書き的に、ただ項目の紹介とせざるをえないと思うんですが。5、私たちの目的的な活動は満足を得なければならない。その主体がその活動と労働に満足を感じることは、ゆずりわたすことの出来ない主体の権利だ。第13項。活動する個人が自分の活動に満足するものがなければ、なにも生じないし、実現しない。「個人は特定の人間であり、特殊な、自分独自の欲望や衝動や関心をもっている。欲望といっても、自分の感情や意思にもとづく欲望をいうだけでなく、自分の洞察や確信にもとづく欲望、あるいは自分の思惑や思いこみにもとづく欲望をも意味します」。人びとは現代にあっては、信頼や権威によりみちびかれるというより、自分の知性、自分なりの確信や判断にもとづいて活動の目標を設定しようとする。(第14項)「こういう訳で、みずからの活動をつうじて事業に参画してくれるような、そういう人々の関心がよびおこされなかったら、なにごとも生じてこない。一個人がもつ関心や目的を無視して、自分に内在する意思の血潮のすべてをある対象にそそぎこみ、この目的にむかってすべての欲望と力を集中させるとき、個人の全重量のこめられたこの関心を情熱と名づけることができる。『世の大事業は情熱なくしては成就されない』」(第15項)ヘーゲルのすばらしい洞察であり、考察だと思いませんか。しかも名言です。この箇所を、レーニンは『哲学ノート』で二か所目の書き抜きをしています。(全集38巻 P277)第15項のむすびです。「こうして、二つの要素がある。一つは理念、もう一つが人間の情熱です。世界史を絨毯に例えるとたて糸とよこ糸です。精神の本性でもあり、歴史の絶対的究極目的でもある自由の理念については、すでに述べたとおりです」。6、続く第16項⁻17項では、「人間の情熱」について考察しています。「情熱」という言葉でヘーゲルが言いたいところの事柄ですが、第16項「特殊な利害、特定の目的、いやいいたければ利己的な意図といってもいいような、そうしたものにもとづく人間の活動力のことです。しかも、この目的のうちにその人の意思と性格の全精力が注ぎ込まれ、他の目的が、他の一切が、その目的のために犠牲にされるといった活動のありさまです。この特殊な内容は、その人の意思と一体化し、その人の全存在をなし、その人から切りはなすことができない。その特殊な内容がその人をその人たらしめている。というのも、個人というものは、人間一般といった観念的存在ではなく、現にここに存在する特定の人間だからです。」第17項「情熱とは、さしあたり、精神力、意思、活動力といった主観的ないし形式的な側面をあらわし、その内容や目的はあいまいなままです。個人の確信、洞察、良心も同じです。大切なのは、わたしの確信がどんな内容をもつのか、わたしの情熱がどんな目的をもつのか、しかじかの目的が真なる目的であるのかどうか、ということです。そして、目的が真なる目的であるためには、目的は現実の存在とならなければならないのです。」ヘーゲルは「以上、歴史における目的の実現に関係する第二の要素につい説明しました。これから、このことを国家に当てはめて考えてみると・・・」として、このあと、この節の第18項から41項へ続いていきます。やはり長くなってしまいました。「箇条書き」では、ヘーゲルの言いたいことを伝えられないんですね。まだ、いっぱい注目し紹介したい論点があるわけですが、ここまでではレーニンの抜粋した10か所からしたら、まだ二か所目にしかすぎません。しかし、人間の忍耐力、集中力には限度がありますから、今回はここまでとします。次回は、b.「自由を実現する手段」の後半ですが、これからが肝心なところだと思ってるんですが。
2023年06月09日
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句集「北山時雨」のあとがき知人がこの5月に句集を出しました。歌心のない私などとしては、あれこれ評することは出来ないんですが。その本の「あとがき」を紹介します。「昨年(令和4年)大病を患い手術をして一命をとりとめた。あと何年生きられるかわからない気がして、終活の一つとして今までに詠んだ句を百余とりまとめてみた。七十余年の人生のすべてを語るのはむずかしいが、この句集で少しでも表すことができたらと思う。 半生を振り返ると、牛を飼っていた農村に生まれ育ち、農林高校を出て農業を継ぐのが普通だった時代に、京都まで大学に行かせてもらえた。そこは、大学紛争の余波もあり、たいした勉強をしなかったが、なんとか卒業し、公務員となった。一般職で入ったので、様々な職場を経験し、高度成長・成熟期の社会の中を生きてきた。父親が早く亡くなったこともあり、定年前に辞め、畑を維持すべく帰農した。農業をやるかたわら、地域活動に関り、農業委員や農協監事などの役職も務めた。 さて、今の世の中をみると加速度的な変わりようは、驚くほどである。科学技術が花開く、素晴らしい二十一世紀を期待したが、大震災、感染症(コロナ)や戦争など世の中の混乱は収まりそうもなく不安になることも多い。 また、知人も含め昭和・平成と活躍した人の訃報を聞くことも多く、残念な気持ちになることもある。でも、時代は変わらざるを得ず、新しい時代の萌芽も見受けられるので、次の世代の活躍に希望をもって期待するものである。」以下のことは、私などの勝手な推測ですが、これは彼にとっての「遺言」だとおもうんですね。わたしなどは、そんな気がしてきます。わたしなどは、まったくの歌心のないものですが、彼の亡くなる10日前でしたが、お見舞いによったんですが、私などにはわからない、地域社会に対する思いとともに、同時に、「あんたたちは、歌心がないから、3句くらいの句を解釈してやろう」などといって、俳句についての講釈をしてくれたんですね。笑い話の講釈だったんですが、それが最後の談笑となりました。そんな楽しいひと時だったんです。それからほどなくして、明から暗の訃報でした。誰も、のぞんでのことじゃありませんから、いた仕方ありません。しかし私などは思います。この彼の「あとがき」の精神ですが、それは輝いて生きていると。いまを生きる私たちに対して、こんな励ましのメッセージを残して旅立っていきました。
2023年06月09日
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旧友・みかん栽培の恩人の旅だち私は2001年に手探りでみかんの手入れを始めだしたんですが、そうした時に、何人かの人がたすけてくれました。小田原・早川の鈴木英之さんもその一人だったんですが。彼は高校時代からの知人でして、30年ぶりに再会したんですが、以来、みかんの畑を提供してくれたり、手入れの仕方をアドバイスしてくれてたんです。昨日・6月3日に、私はいつも通りの団地朝市を終えた時だったんですが、彼の訃報の連絡がはいりました。ガンとわかって、それとしてたたかっての1年弱でした。やむおえないことかとは思いますが、残念ながらこの結果でした。いつも、自然に横にいてアドバイスしてくれてたんです。私は、みかん作業の様子を紹介しようとして、1000枚を超える写真があるんですが、彼はいつも自然な存在でしたから、ふりかえってみると彼の写真がほとんど無いんですね。みかんの写真はいっぱいあるのに。そんな中、探して探して見つけた写真ですが、その3枚を紹介します。一番の直近は、今年の1月17日に、フキ畑を整備しようとしていた時のものです。竹がかぶさっていた畑を、四人で切り払った時のものですが。「時がくれば、ここが立派なフキ畑になる」と励ましてくれていました。この写真の前のものはというと、2022年の2月ですから、1年以上も前になりますが。農道の横にある巨木ですが、台風などの時に倒れないようにと、これを伐採しようとした、そのときのものです。巨木を倒すというのは難しいんですよ。危険なんですよ。さらに、もう一枚。こんどは、東京・多摩市の永山団地でのものです。ここで小田原産のみかんが販売されているんです。そのみかんを販売している様子を、遠路、小田原から出かけて来て、その状況を見に来てくれた時のものです。生鮮野菜が販売されている、その一角に小田原のみかんがありました。こんな写真しかないんですね。彼はいつも横にいて激励してくれてる存在でしたから、あえてカメラの被写体として、その人をとるなどということは、必要性を感じなかったんですね。残念ながら、彼が主人公となる写真が、写真は沢山あるのに見つかりませんでした。しかし、こうしてみると、かれが何を考えていたか、考えさせられるものがあります。その姿からすると、みかん農家が抱えている課題を、一つ一つどうやって打開していくのか。安全で美味しい栽培方法-出来の様々なものをどう流通させるのか-そして消費者を啓発するような販売方法と。その姿からすると、これでもそうだったし、昨日までも、じっとその打開策を観察し、考え続けてきたようにおもわれます。その姿を写真で見ると、今にして感じるんですが、彼が一体何を考えていたのか、その思いが伝わってくるように思います。亡くなってから、それを察するようでは後の祭りで、まったく遅いんですが。彼の、私の記憶に残っている発言というは、二つあります。彼は、一口のビールが好きで、いろいろ語っていたんです。「また、言ってら」と、私などは聞き流してたんですが。一つは、日本の農家の置かれた苦悩でした。自民党も含めてTPPの輸入自由化政策は亡国の道だと全農家が集会をもっていたのに、それがどういうわけか押しつぶされた。どうしてこんなことが押しすすめられるのか。このままでは大変なことになるとの義憤でした。もう一つは、農家が抱えている問題は、いろいろ複合してあるんだけれど、死を目前にしていた彼の目から見ると、具体的には私などにはわかりませんよ。しかし、「私の健康問題をのぞいては、すべてがうまい方向が探られている。あと、2年でも3年でも生きれたらいのだけれど」と。これが亡くなる10日前に、私などが見舞ったあとにご家族と語っていた言葉だそうです。ところで、彼の親友とといっしょに見舞った時のこと。その時に、私たちにたいしては、彼自身がつい最近出版した句集の冊子について、「もう話は1時間ちかくたつけど、もう時間がない。あんたらは素養がないだろうから、私が解説する」として、その中から3句をとりだして「講釈」をしてくれました。いろいろ質疑があって、見舞に来たことなどを忘れさせてくれるような、そんな楽しい懇談のひと時だったんですが。それが最後の、直接の会話となるとは、当人も含めて知る由もない。そんな笑いに富んだ懇談だったんです。それが亡くなる10日前のことでした。そかな直近の会話の中で、印象に残ることですが。やはり、一番は次の言葉だと思います。「私の健康問題をのぞいては、すべてがうまい方向が探られている。」これは家族に対してであるとともに、もっと広い人たちに対してだと思うんです。ようするに、「今を努力している人たちよ、がんばれ!」との彼のメッセージだと思います。しかし、旅立ちました。明日が通夜で、そしてその翌日が告別式になりますが、私などとしては、彼のそんな主観的な思いですが、それが会葬にきてくれた人たちによって、どんな形で客観的に示されるか、もちろん部外者ですから、その世界のことは分からないことですが。それでも、注目しているところです。
2023年06月04日
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梅雨空の団地朝市今回の小田原行きは、梅の収穫でした。小田原は梅の産地でもあります。台風2号が刺激する前線のために、畑は断続的に雨の天気でした。雨がやんでも木も下草もビッショリ濡れてますから、普通なら表仕事はお休みなんですが、梅の場合には、そんなこと言ってられません。梅の実も葉も、雨滴をつけていて、かなり濡れているのが分かるでしょうか。少し時間をおいて、実から水滴が消えたら、収穫開始です。というのは、梅の場合は、1週間の間隔を置くと青梅の色がやわらいじゃうんですね。ちょっと触ると、隣りの梅実が落下しちゃうなんてことにもなるものですから。葉などは濡れてますから、すぐに手袋や衣類などはずぶぬれになっちゃうんですが、しかし、それでも収穫作業はすすめました。今回の私の収穫は60キロでした。これを6月1日(木)に東京まで搬送して来て、販売です。本日6月3日(土)には、午前9時から多摩の団地朝市をひらきました。やはり梅雨空で、店開きした頃はまだ雨が降っていました。大方の梅は、注文を取って販売すようにしてますから、露店の店先にお客さんが無かったとしても、それはそれで、販売については何とかなるものなんですね。こんな天気では、誰だってよほどのことがない限り、出歩かないじゃないですか。いくらお客さんを待っていたって、人はなし。台の上には、1キロ袋が9袋、その横のコンテナに入れられている梅の方は、予約者の分というわけです。
2023年06月03日
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みかん園を再生させるために小田原の石垣山みかん園に、6月1日に援農者が来てくれました。農家の人たちの高齢化は、耕作面積を狭めざるを得なくなっています。1,2年でも人の手が及ばなくなると、クズの蔓がみかんの木を覆いつくして、木は枯れてしまいます。今回は、手の及ばなくなった畑の一角を再生させることでした。次の写真は、今回の再生させようとする場所ですが、遠方からその様子を写したものです。この時期は、一雨降るごとに雑草が繁茂してきます。私など一人では、とてもその自然の力にはかなわなくて、途中でヘトヘトのクタクタにさせられて、なかなか作業の終わりが見えなくさせられちゃうんですが。ところが、援農の人が一人、1時間の手助けてくれたおかげで、その大仕事ですが、ほぼ完了しちゃったんです。これが、草刈り作業をした後の様子です。クズの蔓に覆われた中から、まだ何とか葉をつけていたみかんの木を5本復活させました。次の写真は、作業をしている最中の様子です。まわりの竹や下草を刈ってから、みかんの木に巻き付いて、木を覆い隠しているクズなどのつる草をはぎ取りました。この一角への手入れは二度目だったんですが、これで計18本のみかんの木が、太陽の光を浴びて再生する可能性が出てきました。小田原・早川のみかん園では、手の及ばなくなったみかん園が3割あるというんです。手が入らないままで数年たつと、再生できなくなっちゃいますから、情況をとらえて、手が及ばなくなった畑には、すぐに援農者の支援に入る、それが大事なんです。農家は体力のギリギリまで頑張って、手入れをあきらめざるをえない状況なんですから。私などの手元には、みかんについての三つの資料があります。一つは、『小田原近代百年史』(中野敬次郎著 形成社 1969年(昭和44年)刊行) この中の、第四章六「相州蜜柑」では、みかんの歴史とみかんの盛んだったころの様子が紹介されています。一つ上げれば、片浦地域のみかん畑の面積ですが、明治3年150反、明治33年1,440反、大正10年2,280反、昭和16年2,940反、昭和25年3,118反とみかん畑は広げられていった。二つは、小田原公共職業安定所のみかん援農者の記録です。みかんの収穫期に、小田原方面に季節労働者として出稼ぎに来ていた人の数です。1987年(昭和62年)102人、1989年(平成元年)65人、1993年(平成5年)69人、1996年(平成8年)58人。ハローワークにはそれ以前のデーターはないというんです。また1996年を最後にして、それ以後はみかん収穫の季節援農者を農家が雇えなくなった。統計を取ることもなくなったと。青森や秋田県の雪国から11月・12月に収穫援農に来てくれていたんですね。三っつは「小田原市農協三十年のあゆみ」(1994年(平成6年)9月1日刊行)です。こには、日本が経済大国といわれるまでになったが、「しかし、農政面では選択的拡大という増産の時代から一変して、農畜産物の輸入自由化、農産物価格の相対的低迷による生産調整を余儀なくされる時代へと変わり、・・・。最近の十年間については、みかんの集団廃園による大規模な転換事業や、コメについてもガット・ウルグアイ・ラウンド交渉の結果、部分自由化が決定され、食糧管理制度の根幹まで揺さぶる時代となりました」(穂坂組合長の発行あいさつ)この第二章の座談会では、農家の生の声が語りあわれています。その中から幾つかピックアップすると、「ミカンも年間360万トン時代から、現況の160万トン時代となってもなお、長い間の生産調整の効果がなく、価格も低迷している中、どのように現状を考えているのか」「ミカンで生計が立てられないということは、私は(私としては)ないと思うんですよ」「後継者問題と兼業農家が多くなってきた」「オレンジ果汁の自由化で、今年の正月以降、いっぺんに(問題が)押し寄せてきた。加工みかんがこれほどに下降したわけで・・、ジュースの現物支給という形で消費を願ったわけです」「去年まで柑橘をやっていた人が突然、正月から建設業にいった、話を聞くと『一人一日、一万五千円になり、2ヘクタールつくっても一年間でそれだけの収入にならないから、とにかく職を変えました』との言葉だった」「生産している方は60歳以上の方ばかりになっていくわけで、後継者問題があるんです」この中で、すでに現在私たちが直面しているも諸問題が出されていたと思うんですね。いったい、国や政治は、この30年前の農家の人たちの声に対し、どれだけの真面目な、しっかりした政策をたて、実行してきたかですが。現在でも、首を絞めるような自由化強行と、「農家の自己責任でなんとかしろ」との路線ですから。国民の食糧自給率を、本当に高めるためには、どの様な政策が必要なのか。農家・農業を国民生活の立場から、どの様な安定した経営を続けれるようにしていくか、国民的な討議が必要ですね。耕作の手の及ばなくなった畑を、援農の力も借りて維持していく、石垣山のみかん園を再生させる活動というのも、今回の草刈り作業も、そうした打開への一つの要素になっていると思います。もちろん十分なものでは決してないけれど、なにもしないよりはましだと思います。
2023年06月02日
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「湯探歩」(6月3-4日)の紹介この6月3日(土)-4日(日)に、神奈川県・湯河原温泉では「湯探歩」が企画されてます。明後日のことですから、なにはともあれ、急ぎ紹介させていただきます。一、私などは神奈川県の真鶴・早川でみかんの草取りをしています。この写真が、その一端を示しているんですが。雨が降ったときで、袋詰め用のビニール袋が必要な時に、湯河原のホームセンターに買い物に行きます。それをもっけの幸いとして、湯河原にある湯治場にゆくんです。源泉100%で高温のお風呂があるだけですが、温泉を大事にしている湯治場なんですが。その館主さんが、湯河原温泉場の名物「わさび漬けの名産店」を紹介してくれたんですね。それで知ったんですが、それはこだわりの「ワサビ漬」でして、ピリリと辛く新鮮で、美味しいんです。鮮度をいかすためにこだわりがあって、「冷凍庫に入れといてください、空気に触れさせちゃだめですよ」と、きつい指示があだったんですが。わさび漬けは、観光物産展にはたいがいならんでいますが、こだわりの味は、「ちょいと」というか、いやいや「決定的に」違うんです。まぁ、いいや、今回はわさび漬けの話じゃないんです。二、昨年から湯河原温泉の地域おこしの企画がはじまったというんです。「湯河原温泉場湯探歩(ゆたんぽ) ほたる」(2023.6.3土-4日)そのチラシが、そのギャラリーの様なお店の台におかれてあったんです。もちろん中身など知る由もなかったんですが、千歳川の上流を感じさせる、きれいな表紙の写真でした。この案内チラシの写真ですが、「わたしが撮ったんです」とのご主人のポツリとした一言。なんと、わたしにわさび漬けを提供してくれていた人は、写真の「芸術家」だったんですね。カレンダーにも使かわれていてもおかしくないような写真なんですが、そのたぐいの写真が、お店に何枚も飾られていて、お店自体が画廊になっていたんですね。それはともかくとして、「湯探歩(ゆたんぽ)」(ほたる 6月3・4日)です。今回初めて知ったんですが、昨年の4月から始まったんだそうです。2月、4月、6月、8月、12月の偶数月ですが、その第一土曜日と日曜日だそうです。湯河原の温泉場で「湯探歩」が開かれているというんです。ようするに、地域の持ち味を大切に、地域の振興をはかろうとする企画ですね。そこには、湯河原温泉の名だたる温泉宿も参加してます。この案内チラシをみると、湯河原温泉を中心に、その地域の歴史名所、名産店、味自慢のお食事処などが紹介されてます。その中には、けっして社会的にはメジャーじゃないけれど、私などが利用させてもらっている、小さなこだわりのお店も名前をつらねているんです。三、私などの体験からして、思うんですよ。湯河原には、昔ながらの独特のポリシーをまもっている「名店」があるんですよ。私の利用させてもらっている湯治場の温泉なんか、ただお風呂があるだけの立ち寄り湯なんですが、源泉100%で、こよなくその源泉を大事にしているんです。そのおかげで、私などにとっては、畑作業などで疲れた体をいやしてくれる、そのほか、切り傷や湿疹に効果があるんです。これは、私などの体験からしても抜群の効果をもっているんです。さらには火傷やアトピーなどにも、その温泉効果が顕著なんだそうです。そして、「湯河原名産のわさび漬け」も、これもこのお店のこだわりの逸品なんです。そんじょそこらの土産物店のワサビ漬けとは違っていて、これぞ「わさび漬け」といったものなんです。湯河原のわさび漬けなんて、私は知らなかったんですが。伊豆のわさびは有名ですが。これを、朝ちょこっと味わうだけで、一日の仕事始めですが、そのモヤモヤ、グズグズした状態を一喝してくれて、即フルパワーのコンディションにしてくれるんです。ようするに、けっして高価な、贅沢をするわけじゃないんです。私などがこうして観光のようにPRしちゃうと、そのお店にとっては、小さく、ひっそりと営んでいるのが、持ち味なもので、かえって迷惑と混乱をきたさせてしまうかもしれないんですが。しかし、まったく知られないのももったいないじゃないですか。私たちの直ぐ手近なところに、ひっそりとポリシーをもって、庶民にとって昔からの宝を守っている。今の世の中、ただお金に、すぐもうけ本位を追求したがる今の世の中ですが、そんな中にも、奇特なポリシーを持ちつづけているお店が、現実にあるんですね。この宝をしっかりと認識し、評価しないと、この人生がもったいないじゃないですが。人に知られずにあるというのも、それもまたもったいないじゃないですか。ぜひ、彼の地の方に用事のある方は、湯河原の温泉ですが、これらのことがらが本当かどうか、確かめてみてください。ひっそりと、静かに、昔ながらに、私などを癒してくれている温泉場なんですね。もちろん、なにが良いかは、それぞれの人によると思うんですが、私などにとって良いものは、とかくみられる派手な観光宣伝に踊らされるような流行じゃないんです。一時の洪水的な流行じゃなくて、じわーっとした日常の大切なものなんです。そしてそれは、自分自身の努力で探し出すものだと思っています。そして湯河原には、こんなお店もあるということなんですが。せっかく、「湯探歩」の案内チラシ-この地域振興のため案内を知ったものですから、とりいそぎ、紹介させていただきました。
2023年06月01日
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梅のシーズン到来5月も下旬になり、本日もそうですが、これから梅雨空の様な天気が続きそうです。この時期、隠れていた梅の実が大きくなって、目立つようになってきています。ついに時は今、梅の収穫の時に入ったということです。小田原・真鶴のみかん園ですが、みかん畑には、その隅にたいがい梅の木が植えられています。梅は梅雨空が近づく5月末から6月上旬が、その梅の実の収穫時なんです。小田原方面は、曽我梅林などが有名ですが、梅の産地でもあるんですね。今回の小田原行きですが、その主題は、この梅の収穫です。収獲した梅は、白加賀などの青梅は、梅酒・梅ジュース用に、南高梅などは、追熟させて梅干し用にと、東京・多摩に搬送して、この時を待っている消費者に提供されます。さぁ、いよいよ今年も、梅仕事のはじまりです。
2023年05月29日
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ヘーゲル『歴史哲学』序論(5) a精神の抽象的定義前回学習した範囲について、『歴史哲学』序論のB「歴史における理性とはなにか」の、a「精神の抽象的定義」とb「自由を実現する手段」ですが、もう一度、まとめ直します。一、最初にレーニンの『哲学ノート』の『歴史哲学講義』の摘要についてですが。レーニンは1915年の世界大戦がすすんでいくとの激動の中にあって、ヘーゲルの著作を学習しています。『歴史哲学』もその一つで、10ページの評言を残しています。刊行するためのものではなくて、あくまで個人的な学習ノートなんですが。その最後に、全体を読んで二つの感想を残しています。全集38巻P283ですが。「一般に言って、歴史哲学はたいして教えられるところがない。これは当然である。なぜなら、まさにここで、まさにこの領域で、まさにこの学問で、マルクスとエンゲルスは最大の前進をとげたからである。ここでヘーゲルはもっとも古くなり、そしてもっとも陳腐である。」その上で、さらに欄外に、「NB(注意) もっとも重要なのは序論であり、そこには問題提出にすばらしいものがたくさんある。」と、レーニンはこの二つの評言を残しているわけです。前回、私はレーニンの評価に「まったくの肯定はしかねる」と感じたのは、前者の方の「ここでもっとも古くなり、陳腐だ」と述べている点です。後者の評言の「序論には素晴らしい提起がある」というのは、その通りだと思うんですが、しかしこれはヘーゲルが本論の歴史考察の中から引き出してきた結論なんです。レーニンは忙しかったから、本論をよくは、詳しくは読めなかったんじゃないでしょうか。私などは、この間に福田静夫先生の「第四部ゲルマン世界」を学習させていただきましたから、そこにある宝ですが、これをエンゲルスは『フォイエルバッハ論』や『空想から科学へ』に生かしていた。その素材がこの「近代」のところにあるわけですから、レーニンの前者の感想については同意しかねたというわけです。しかし、レーニンですが、この忙しい政治家が、戦争の渦中の中にあって、そうそう簡単にはヘーゲルを読みこなせていないわけです。しかしそれでも、ヘーゲルの『論理学』、『哲学史』、『歴史哲学』をまなび、一生懸命にノートしていたこと、それ等の成果を革命運動に生かそうとする努力をしていたということ、これは確かなことなんです。これはなかなかできることじゃないですよ。私などは、この点に、レーニンが素晴らしい努力家であったこと、「序論」のすばらしさに着目していたということ、この二つを確認している次第です。二、ヘーゲルの「序論」は、本論を読み解いていく上でのアドバイスだったこと。(これは、前回のくりかえしになりますが)私などは「序論」を素直に読もうとすると、「抽象的」だったり、「断言的」だったりする箇所が出て来て、困惑させられていたんですが。しかし、ヘーゲルの指摘を読むと、「序論」が、本論からの結論であり、本論を理解する上でのアドバイスなんだということが見えてきました。「まえがき」の部分にあります。「精神のもっとも具体的なあらわれが世界史であり、それを理解するには精神の本性についていくつか抽象的な定義を提示しておく必要がある。それは具体的在り方の全体観をえるために必要なんだ。その提示は断定的な定義をしめしておくしかない。序論でいえるのは、歴史にとっての前提となる事項であり、それは他の領域ですでに展開され証明されたものであるか、ないし今後展開される本論の中ではじめて正しさが証明されることなのである。」(P37)その上で、ヘーゲルは3つを提示する、と。「(a)精神の本性の抽象的定義。 (b)精神の理念を実現する手段。 (c)現実における精神の完全な実現形態-国家」この三つを、前提であり、結論でもあり、抽象的であり、断言的に聞こえるかもしれないが、これは本論を理解する上で、「全体観を得るために」提示した、とヘーゲルは言っているわけです。そうした「序論」の性格だから、本論の結論なんだから、ここだけで理解をしようとして、つまずたりしていちゃぁ駄目なんだよ、とアドバイスしているわけです。三、(a)「精神の抽象的定義」ですが。1、第4項「精神の実体ないし本質は自由である」、さっそく抽象的な断言的な定義が出てきました。「哲学の教えによると、精神のすべての性質は自由なくしては存在しえず、すべては自由のための手段であり、すべてはひたすら自由をもとめ、自由をうみだすものです。自由こそが精神の唯一の真理である、というのが哲学的思索のもたらす認識です。」(P38)私などは当初、ヘーゲルのこの言葉の意味を理解しようとあれこれ思いをめぐらして、中身を考案しようとしていたんですが、今回はヘーゲルのアドバイスがあります。それにしたがえば、これは全体から引き出される結論的なことであり、ここだけで得心できるような事柄ではなく、結論としてそうした認識がでてくるんだよ、ということだったんですね。こんなふうに一つ一つを詮索していくと、とてつもない分量になり、いつ終わるか見えなくなってしまいます。そこで、人それぞれでしょうが、私流にこの節の要点をまとめることにします。2、第5項、ア、「精神は自由だ、との定義にしたがえば、世界の歴史とは、精神が本来の自己をしだいに正確に知っていく過程を叙述するものだといえる」、これまた、抽象的定義から大きな世界史の歩み、歴史の見方に対する思想が提起されてます。ここだけで、いいだ、わるいだと、あれこれ詮索したり解釈しようとしちゃダメなんですよ。世界史の歩みを実際に具体的にたどると、そこからそうした結論が見えてくるんだよ、と述べているだけですから。イ、ヘーゲルの世界史像が、歴史的発展がここで提起されてます。東洋人(一人の自由)-ギリシァ・ローマ人(特定の人が自由)-ゲルマン人国家(初めて人間そのものが自由)ウ、「キリスト教においてはじめて人間そのものが自由であり、精神の自由こそが人間のもっとも固有の本性をなすということが意識された。この意識は、まず初めに、精神のもっとも内面的な領域である宗教のうちにあらわれたが、この原理を世俗の世界にもうちたてることがさらなる課題であって、その解決と実行には、困難な長い文化的苦労が必要とされました。」キリスト教を受け入れたからと言って、すぐ奴隷制が解体されたわけじゃないし、国家への自由の浸透も、政治体制が自由の原理にもとづいて組織されたわけではなかった。「自由の原理を世俗の世界に適用し、世俗の状態に自由を浸透させ自由を確立するには、長い時間の経過が必要で、その経過が歴史なんです」(P40)「世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、私たちはその過程の必然性を認識しなければならない」。私などは、福田静夫先生のヘーゲル『世界史の哲学講義』(『歴史哲学』の初回講義の記録)の第四部「ゲルマン世界」を昨年12月から今年の3月にかけて学ぶ機会を得ました。このヘーゲルの本論の具体的な中身をもって、ここでのヘーゲルを読むとここで言っている意味が見えてくるんですね。以前は、本論はレーニンじゃないけど、ザーッと読んで、あまり得るところはないんじゃないなどと感じていたんですが。ところが今回の福田先生の講義、はヘーゲルの「ゲルマン世界」を具体的に丹念に学ぶことで、「世界史とは自由の意識が前進していく過程だ」ということを明らかにしちゃったんです。もちろんヘーゲルは精神の発展を中心に論じていますが、しかし彼は近代人としての客観主義者ですから、事柄の客観的な材料をめちゃくちゃに努力の限りを尽くして集めているんです。材料は当然ながら増えていきますが、事柄の関係は生きているんですね。原理とその適応の発展ですから、けっして古くないんです。第7項「精神の自由についての意識と精神の自由の実現」についてですが。「自由」ということがあいまいで、無限に多様な意味をもつことばであることを指摘しつつ、誤解や混乱、誤りや逸脱を現代はもっている。しかしなおかつ、世界の究極目的として自由があるとヘーゲルは提示しています。さらに自由について、二つ。一つ、「さしあたり潜在的なものにすぎない自由の原理と、現実の自由との無限の違いについて」。同時に、二つ、自由とは、まさに自己を意識し(なぜなら、自由とはその概念からして自己を知ることだから)、そのことによって自己を実現するという無限の必然性をうちにふくむものです。自由とは、自分みずからを目的としてそれを実現するものであり、精神の唯一の目的なのです。」(P42)二つ目については、これはここだけで無理やりに理解しようとするんじゃなくて、宣託のように解釈するんじゃなくて、本論のどういった事柄の中から、ヘーゲルはこうした思想・確信をのべているのか、注視する必要があると思うんですが。第8項「この究極目的にむかって世界史は仕上げられていくし、この究極目的へのささげものとして、地球という広い祭壇の上に、長い年月にわたって、ありとあらゆる犠牲がささげられる」(P42)以上は、「(a)精神の抽象的定義」についてです。前回は、まったく飛ばして、先を急ごうとしたんですが、見ての通りすばらしい思想が展開されてますから、たちもどって紹介した次第です。
2023年05月28日
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「さつきまつり」の前座朝市今日(5月27日)は、今季最後の甘夏を販売する団地朝市でした。いつもは静かな朝の商店会なんですが、駐車場の半分にはコーンが置かれていて、「関係者用」におさえられてました。そうか今日は永山団地の「五月まつり」の日だったか、先週の朝市の時に、告知用の看板が立てられていたのを思い出しました。午前10時から「さつきまつり」がはじまります。関係者が集まりだしていて、テントや放送機材などを設営準備にとりかかろうとしていました。ということは、当方は午前10時までの゛前座゛みかん市とのことです。いつもとは違って、商店会には人通りが出だしていました。当方は、甘夏販売の最終段階ですから、祭りの始まる午前10時までには売りつくそうとのことで。なにしろいつもとは違って、多くの人の気配があるものですから、宣伝のハンドマイクでの呼び込みも滑らかになります。「今季、最後の甘夏です。味見を是非してみてください」「小田原の梅についても、その予約も受付しています」と。午前10時には、「さつきまつり」が開会宣言がありました。商店会の振興には、こうした催しが大事ですよね。しかしこの1-2年は、コロナの流行でこれまでの、いつものようにはいかなかったんです。こうした中での今回ですから、会長の開会挨拶もはれやかにハッスルしていました。私なども、これから本格化する梅の収穫ですが、「小田原産の梅ですが、予約の注文をいただいてます」と呼びかけたんですが、おかけで、かなりの予約注文を取ることが出来ました。来週の天気は、前線と台風の影響で空模様はあやしいんですが、なんたって梅の時期というのは、梅雨の時でもありますから、「雨だからやめた」なんて、言ってはいられません。雨が降っても、槍が降ったとしても、梅を小田原で収獲して、片路70キロを搬送してくるということです。なんたって、これから短期日ですが、いよいよ梅の収穫が始まりだす時ですから。
2023年05月27日
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みかん園でのふたコマ「みかんの花が咲いている」それは、日本の歌に親しまれている風景なんですが。これは、その後のみかん園の、現実の知られざる風景です。一つは、みかんの木の剪定で出た切り枝の片づけです。これは、みかんの木の剪定作業で出た切り枝ですが、放置しておくと邪魔ですし、こけからまもなく雑草に覆われてしまいますから、その前にひと仕事、あちこち散らばっている切り枝を、あちこちから集めて燃やしているところの一コマです。さらにこの時期に、もう一つの基本的作業は、「くさかり」「草取り」でか。植付したみかんの苗木ですが、これは、カマを使って周りの雑草を取り払っているところです。広いみかんの畑では、雑草の繁茂が激しいですから、ひとが作物を栽培しようとするんですが、この時期は、一雨ふるあるごとに雑草が繁茂してきます。みかんの木だけでなく、あらゆる農産物が、この時期には雑草に覆われてしまいます。先週、しっかりと草刈りしておいたはずなのに、一週間おいておいただけですが、たちどころに、みかんの苗木はもちろんですが、周辺の野菜畑でも、せっかくの作物が、繁茂して来る雑草に覆われてしまいます。この時期の基本作業は、ひと雨ごとの繁茂してくる雑草ですから、肝腎の育てている作物を、雑草の繁茂から守りぬくことです。
2023年05月26日
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ヘーゲル『歴史哲学』序論(その4)ヘーゲルの『歴史哲学』序論を学習してます、その4回目。今回は、「序論」のB「歴史における理性とはなにか」の、a「精神の抽象的定義」と、b「自由を実現する手段」です。岩波文庫の長谷部宏訳では、P36からP71の、36ページ分です。一、初めに、この部分の内容とそれを学習する意義ですが。先人が、ここをどの様に読んでいたか、二つ紹介します。第一は、ロシア革命の指導者レーニンですが、この『歴史哲学講義』を読んでの批評ですが、第38巻『哲学ノート』の中に、10ページの摘要を残しています。それが書かれたのは1915年で、第一次世界大戦が広がる激動の最中に学習していたんですね。その最後の部分のコメントです。「注意 もっとも重要なのは序論であり、そこには問題提出にすばらしいものがたくさんある」(P283)と。私などは、最近、『歴史哲学』の「第四部 ゲルマン世界」を、ヘーゲル研究者の福田静夫先生の講義を聞きつつ読んだものですから、その評価に、まったくの肯定はしかねるんですが。しかし、そう評価するのは、わからないわけでもなくて、レーニンが「すばらしい」と感じた箇所というのは、まさに今回のこのあたりの部分だと思っています。第二は、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』(1888年)です。そこでは、第一章でヘーゲルの果たした業績を明らかにしています。そして第四章では、1840年代ですが、そこから若きマルクスとエンゲルスがどの様に前進して、新たな思想をつくったかが紹介されています。1883年に亡くなったマルクスの遺稿に目をとおしたエンゲルスが、膨大な諸草稿からコンパクトな形で自分たちの道筋をまとめたんですね。これをヘーゲルの『歴史哲学』「序論」とを読みくらべるてみると、この箇所の問題提起をひきついでいるということが見えてきます。そうした位置に、『歴史哲学』「序論」のこの部分があるということです。二、わたしは二度目の学習なんですが、読み方の点で気づいた点があります。前回は、相手は名にしおう哲学の大御所ですから、相手の絶対的巨人に対してこちらはど素人ですから、私自身の側に起因する不理解を感じていたんです。しかし、今回読み返してみると、それは「序論」の性格からもきていることで、ヘーゲル自身がこの点をアドバイスしてくれていました。「精神のもっとも具体的なあらわれが世界史なんだけど、そのためには精神の本性についていくつか抽象的な定義を提示しておく必要がある。それは具体的在り方の全体観をえるために必要なんだ。その提示は断定的な定義をしめしておくしかない。序論で言えるのは歴史にとっての前提となる事項であり、それは他の領域ですでに展開され証明されたものであるか、ないし今後展開される本論の中ではじめて正しさが証明されることなのである」(P37)私などは、今年の初めにヘーゲル研究者の福田静夫先生の講義を聞く機会がありました。第四部の「ゲルマン的世界」が対象でしたが。この具体的なヘーゲルの探究内容を読むと、「序論」は時に抽象的な、時に断言的な提起にならざるを得なくなる面があり、本論の探究から導き出された結論でもあるんですね。「序論」はそこだけで事柄のすべてを理解できるものではないことがわかってきました。それはあくまで本論を理解するためのアドバイスであり、そこでつまずかないよう注意して、大まかにでも理解するようにして、さらにもっと先の本論にすすめということでした。これがヘーゲルのアドバイスだったんです。こうなると、気分も少し楽になりました。理解しにくいということは、私自身の能力の欠陥によるものでも、必ずしもなくて、「序論」の性格にもよることだとのことですから。三、さて肝腎の中身です。1、エンゲルスは『フォイエルバッハ論』の第四章において、人間の、ないし人間社会の歴史的な発展法則との思想をとき、それがどの様に探られるのかを説いてますね。唯物論的歴史観をどの様に確立したかということですが。その結論としての世界史像ですが、「大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式を経済的社会構成のあいつぐ諸時期としてあげることができる」(『経済学批判』序言)ですよね。他方、1820年代のヘーゲルですが、彼は『歴史哲学』のこの箇所で、「精神は自由だ、という抽象的定義にしたがえば、世界史の歴史とは、精神が本来の自己をしだいに正確に知っていく過程を叙述するものだ」として、東洋人(一人が自由であることを知るだけ)-ギリシァ・ローマ人(特定の人間が自由であることを知っているだけ)-ゲルマン人(キリスト教においてはじめて、人間そのものが自由であり、精神の自由こそが人間のもっとも固有の本性をなすことが意識された)。「世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、私たちはその過程の必然性を認識しなければならない」と。(P39-41)二つは、同じように世界史の発展の関連性を探っています。精神の発展(関連)に関する限りでは、ヘーゲルの洞察(思想)は当たってますね。問題は、精神は論理性は持っていても、それだけで発展するわけではないということですが。2、ヘーゲルは「(b)自由を実現する手段」の節をたてていますが。「自由が世界において自己を実現するための手段はなにか?」と問うています。ヘーゲルは、ア、「歴史をながめわたすとき、まず目にとびこんでくるのは、欲望や情熱や利害や性格や才能から発する人間の行動であり、しかも、この活動の舞台において、人びとを行動へとかりたてる主要な動機といえば、欲望、情熱、利害のほかにはありません。公共の目的や善意や高貴な祖国愛がないわけではない。しかしそれらはまったくとるに足りない。」(P43) 人の行動と動機を問題にします。イ、さらに「人間精神の手になる最上の王国が没落していくのを見る。・・・民族の幸福や国家の知恵や個人の徳を犠牲に供する屠殺台として歴史をながめたとき、当然のことだが、このおそるべき犠牲は、だれのために払われ、どんな最終目的のために払われたのか」、この問いを立てます。そして、ここにある本質関係を探ってゆきます。 第一の要素は、精神の原理、目的、使命などと名付けるものは、理念ですね。その内実が真理であっても、まだ完全に現実的なものにはなっていない。わたしたちの思考の中に存在するだけだ。それを現実的なものとするためには、第二の要素として、実現するための活動が必要で、人間の意思ないし活動力が必要だと。「主体がその活動と労働に満足を感じることは、ゆずりわたすことのできない主体の権利だ」「活動する個人が、自分の活動に満足するのでなければ、何も生じないし、何も実現しない」。しかも人々が参加してこなければうごかない。「自らの活動を通じて事業に参画してくれるような、そういう人びとの関心がよびおこされなかったら、なにごとも生じてこない」ようするに、第一に理念と、第二に人間の情熱が、この二つの要素が大事なんだということが説明されてます。四、まだ、「(b)自由を実現する手段」の半分にも来てないんですが。P43から50まで来ました。ここからが問題でして。まだP71までありますから、3倍のページが残っているわけです。おもうにヘーゲルが解明し、説明していることを、一つ一つ追跡しようとすると、そこには大事な点が沢山あるので、どうしてもそうしたくはなるんですが、しかし、いちいち詳しく「解釈」していては、とてもとても豊かな中身を紹介しきれないんですね。膨大になっちゃいます。「大事な点は何んなのか」-その人なりに、この点に焦点をしぼらなければ、その人なりの宝とすることに光をあてないと、全体にたいしての解説・「解釈」的な態度であっては、とても限られた字数ではその豊かさを紹介しきれないんですね。もっとも、「これがヘーゲルだ」として自分勝手な印象論(主観的解釈)をならべて、さも自分がヘーゲルを理解しているがごとくにのべてる人も見かけます。私などとしては、そのようにはなりたくないですね。せめて全体を大きくとらえたうえで、それとの関連で自己の理解・認識したことを紹介したいですね。主観的印象論か、客観性を踏まえた上で自己認識か、その違いですが。そうしたことで、もう一回、「(b)自由を実現する手段」の後半部分についての学習を整理してみたいと思います。
2023年05月22日
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カミキリムシの加害今回の小田原のみかん園行きで、カミキリムシの被害を再認識しました。みかんの木にとって、これは注意しなければならない存在です。3月14日、つまり2カ月前でしたが、1本のみかんの木が弱っているのに気がつきました。本来なら濃緑色の葉であるべきなのに、その木の葉は黄緑色っぽかったんですね。しかし、その頃から、みかん園全体は雑草が繁茂しだしていましたから、草刈り、草刈り、草刈り、毎回の作業は草刈りに追われていたんです。今回、5月10日に、援農者が来てくれたおかげなんですが。ようやくにして、みかん畑の草刈りをひと回りすることが出来ました。そのおかげで、みかんの木の樹冠の下まわりの草取りと、元肥の施肥に取り掛かったんです。なにも雑草に肥料を与えてるわけじゃありませんから、肥料を施す前に、しっかりと基幹のまわりの草取りをしておく必要があるんですね。これまでは、全体の草刈りがやりきれなくて、基幹まわりの草取りまで手が回らなかったんです。今回、5月17日に、問題の木ですが、施肥する前に木の草取りをしたんです。すると、この木が弱っていた原因がわかりました。少なくとも二種類の害虫が加害していました。根の一つに一センチくらいの穴が開いてるのがわかるでしょうか。これは、カミキリムシが羽化して出ていったときの穴です。枯れた樹皮を剥がしてみたら、カミキリムシの幼虫が出てきました。基幹の中に穴を掘るだけでなく、樹皮のすぐ下にいる場合もあるんですね。羽化した成虫が活動しだすのは6月頃からですから、まだ少し先なんですが、幼虫を見つけました。これまで、基幹まわりの草取りが十分にできてませんでしたから、草の中の木の根元で、カミキリムシが加害しているのに、手が打ててなかったんですね。2018年1月、この畑の管理を園主さんから任されたときには、みかんの木は40本あったんです。いまでは、それが20本以下に減っています。園主さん曰く「もっとしっかり手入れをしてほしい。来るたびに、枯れていく木をみることになり、がっかりさせられちゃってるよ」と。「一生懸命やってるんですけど、どうして枯れちゃうんでしょうかね」この会話が、何度も続いてきたんですが。今回、その原因がわかりました。残っている木の10数本について、そのすべての木の根回りをチェックしてみたんです。すると、なんとすべての木に、その根元にカミキリムシの羽化穴がありました。いまは、生き生きとしている木であっても、その根元に羽化穴が1個はあけられていました。これですね、木が枯らされてしまった原因というのは。私は以前に真鶴のみかん園で、同じような経験していました。10年前の記録ですが、2012年7月1日の「6月のまとめ」ですが。みかん栽培、6月の手入れ | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)そのもとになったのは、同年6月23日のカミキリムシの駆除でした。みかんの木は、今、カミキリムシ退治の時期です | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)真鶴で経験させられたことが、小田原のみかん園でも、繰り返されてるんですね。ようするに、草刈りや販売に忙殺されていては、農夫としては失格だということです。この6月に、カミキリムシ対策をしっかりできないみかん畑というのは、必ずと言ってよいとおもうんですが、丹精込めて育ててきた木が、枯らされてしまうということです。枯れ込みに気づいた時点では、すでに後の祭りです。衰弱しだした木は回復は難しいんですね。その収穫量を、ある程度でも回復するには、新たな苗木を植え付けしてから、10年くらいかかります。ということは、もう、私などの労働できる歳月を、ゆうに越えちゃうんですね。実を結ぶまでの時間が、もはやないわけです。ということですから、この6月ですが、私などの課題の一つは、残りのみかんの木の存亡をかけて、カミキリムシとの全面対決です。
2023年05月21日
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5月20日の団地朝市を終了5月20日(日)、朝の団地朝市をおえました。5月半ばだというのに、みかん畑にいたときは30度近くの夏空になったり、一日が過ぎたら、梅雨空のような陽気に変わりました。寒暖の差の大きなこのごろ空模様です。みかん農家のKさんより、「今回で甘夏はすべて終わりだよ」といって、甘夏を提供してくれました。5月の小田原方面の甘夏は、味がのってきて、特別に美味しいんですよ。しかし、梅雨空の様な天気で、商店会はいたって静かなものでした。借りてきたハンドマイクを使って、「甘夏も最終段階です。今回と次回で終了します。5月の甘夏は、大変美味しいですから、ぜひ味見をしていってください」静かな商店会に、みかん講釈のアナウンスです。この静かな中を、バイクでやって来て、7袋も買ってくれた人もいるんですよ。しかも、先週に続いて、今回もまた7袋もです。「美味しいから」といって、大きな袋にいっぱい入れて、バイクに積んで帰って行きました。全体は静かなんですよ。ほとんど人影もない中で、なかにはそんなありがたい人もいるということです。商店会は、団地の活性化のためにと、来週の土曜日・5月27日は、「さつきまつり」を開催するとのことです。コロナの前には、この祭りは人出も多くて、商店も朝から準備し・開店して、近くの学生たちは本格的な吹奏楽をにぎやかに奏でたり、福引きのあたりの鐘が鳴ったり、全体的に、この日ばかりは、往年のぎやかさを感じさせられるお祭りだったんですが。しかし、この1,2年は、コロナです。祭りを開催したのかどうか、私などには記憶がないんですね。さあ、この「五月まつり」の看板が掲げられました。すでに準備がはじまっているようですから、こうなれば、私などとしても、はりきります。なんたって、今シーズンの、最後の甘夏となりますから、それこそ味見用の甘夏を、たくさん、たくさん用意して、「いらっしゃい、いらっしゃい」と。一人でも多くの人にこの味を確かめてもらえるように、ようするにそれは、来年の甘夏販売に向けての宣伝活動なんですが。ないしは、秋のみかん販売への宣伝なんですが。締めくくりの営業活動、宣伝活動です。お祭りが始まる午前10時の前までは、私などの独壇場です。いってみれば「前座」なんですが、「喝」を入れるべく、大いに積極的に展開しようと思っています。
2023年05月20日
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みかん園を再生させよう-5月交流会神奈川県小田原の石垣山みかん園でのことですが、5月18日に、みかん園の再生するための五月度の交流会が、4名の参加で開かれました。一、この景色をどのようにご覧になりますか。その中央には小田原城が写っています。相模湾の景色が広がり、手前には豊かな石垣山のみかん園が広がっています。市街地からわずかな距離に大自然が守られているんです。「小田原・石垣山のみかん園再生プロジェクト」は、この三月から旗揚げしました。農家の人たちの高齢化と、ほったらかしの農業政策により、みかん園は苦境にあります。みかん園の園主が、「早川地区の耕作・荒廃面積」を、以前に紹介してくれました。 2000年 2005年 2010年 2015年経営耕作面積 98ha 87ha 79ha 80ha耕作放棄地面積 31ha 40ha 45ha 38ha 24% 31.5% 36.3% 32.2%8年前までのデーターですが、3割強のみかん園が耕作されなくなっているんです。農家の方たちの高齢化がすすんでますから、この傾向はもっと厳しくなっているんじゃないでしょうか。先祖伝来の畑を、だれしも好き好んで「耕作放棄」なんてしっこありません。体力の限界まで頑張ってきて、その苦渋したうえでの事態なんですね。それを今の政治社会は「農家の自己責任だ」と、放置してきているんです。二、この間に、援農に来ることでみかん園を荒廃から守ろうとしてきた10名の人たちで、この3月に「小田原・石垣山のみかん園を再生させる会」をつくりました。ちかくでは、「かなごてファーム」の小山田大和さんが、「みかん園再生プロジェクト」をすすめていますが、本質的にそれとも重なるものがあると思います。この「再生させる会」は、援農に来ている人たちを中心に、みかん園の園主の方、都市住人で理解と応援してくれてる人たちの三者で、月に一度の交流会を持とうということで始まりました。今回で3回目です。三、前回の4月からのこの一カ月ですが、収獲としては、竹の子掘りがありました。5月初めにはお茶摘みがありました。今は、甘夏の収穫が終わったところです。フキが沢山あり、いよいよこれから梅の収穫が始まります。しかし、なんといっても大変なのは、一雨ごとに繁茂してくる雑草との力比べの、草刈り作業です。今回の交流会ですが、〇園主の方から紹介がありました。「梅が大きくなってきている。いよいよこれから収穫シーズンだね。収穫してもらってもいいよ」と。参加者の声です。〇小田原はみかんだけでなく、梅の産地でもあるんだ。今年も梅酒・梅干づくりをしてみようか。〇甘夏の収穫が終わった。5月の甘夏は大変美味しい。持ってきたので試食してみてほしい。〇みかん畑の草取りの大変さを実感している。木の下だけでも大変なのに、みかん畑の全体を草刈りするのは大変な作業だ。私の体力でできるかしら。しかし、肥料をまくには、その前の草取りは欠かせない。〇この二週間前から、新たに手の及ばなくなった畑があるのがわかって、手を入れている。クズやヤブカラシの蔓が巻き付いて木全体を覆っていたのをはぎ取った。その中から13本のみかんの木が出てきた。この時期には半年間草刈りの手がはいらないと、雑草に埋もれてしまい、みかんの木は、ついらはみかん畑は消滅していっちゃう。もったいない事態だ。〇みかん園を囲うイノシシ除けの鉄柵を利用してヘチマを植えたけど、うまくいった。今度は連作障害を避けるため鷹の爪を育ててみたい。場所を替えて今回もヘチマも育てたい。〇交流会に参加できない援農者や、遠方の都市生活者にの人たち、交流会の様子を発信するようにしたい。などなど、交流のひと時でした。今は、日中は真夏の様な陽射しになります。「熱中症に気をつけるように」などの声を掛け合いつつ、それぞれ畑作業に別れていきました。以上、5月度の交流会でした。
2023年05月19日
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5月17日の小田原のみかん園まるで7・8月の真夏日の様に、強い日差しの照り付ける小田原のみかん園です。一雨ごとに繁茂して来る雑草と格闘しているみかん農夫ですが、これがその景色です。この自然の大きな力に対して、農夫は体力勝負で対抗しています。これが、その抵抗の一コマです。草刈りをしてやらないと、人が育てたいみかんの苗木ですが、雑草の繁茂のが活発ですから、苗木は雑草に覆われてしまいます。そうなると、陽のささない苗木は、生育が出来なくなるわけです。「草刈り」、それはこの時期のみかん農家の基本作業になっているわけです。この間に、手入れしていたはずのみかんの木が、枯れてくるのが目につきます。せっかくの努力が、これはいったいどうしたんだ、それが問題ですが。根回りの草刈りをしていて、気づかされます。一つは、カミキリムシの羽化穴です。枯れだした木の根元を見ると、カミキリムシの羽化した穴ですが、これを必ずといってもよいくらい、発見するんですね。このことは、根回りの草刈りが出来ていないと見つけれないんです。しかし、カミキリムシだけじゃないんです。こいつは何だ?私などには不明なんですが、みかんの木の本体と樹皮の間に、それこそたくさんこの時期に繁殖してるんですね。1本のみかんの木の基幹に、十匹、二十匹とみつけるんですが、こいつも、みかんの木を枯らしている害虫のようです。誰か、その正体を知っていたら、是非とも教えてほしいんですが。しかし、これも援農の人たちが根草刈りの支援にきてくれたから、目が木の基幹部分の状態まで回るようになったんですね。これまでは、広い畑の草刈りをどこまでできるかが、それが問題だったんです。みかんの木の基幹がどうなっているか、とてもそこまでは目が届いてなかったんですね。援農者の協力のおかげで発見した、みかんの木の基幹の様子です。これから、引き続く草刈りとともに、この正体をつかんで、対策を講じなければならないんですが。小田原は、みかんとともに、梅の産地でもあります。みかん園の片隅には、たいがい梅の木が植えられています。箱根八里の峠越えをするには、梅干弁当が必需品だったんだそうです。近くには曽我梅林の1万5千本の、みごとな梅園がありますが、近隣の農家でも、みかん畑の片隅には、梅の木が植えられています。それがいよいよ、6月を前に収獲のシーズンに入ってきたんです。青梅は梅酒用に、熟してくれば梅干し用に、と。これは、昔からの歴史的な伝統遺産になってるんですね。梅干し屋さんには、江戸時代からの、毎年漬け込んだ梅干しを見ることが出来ます。「これはあんたが生まれた年につくられたもの」「こっちは、あんたのお父さん・お母さんが生まれた年のもの」「こっちは、そのおじいさん・おばあさんが生まれた年のもの」と。梅干しが瓶に入って、つくられた年ごとに、ずらりと歴史的に並んでいるんですよ。これが、小田原の梅干の歴史文化ですね。まぁ、とにかく、いよいよことしも、6月、梅の収穫シーズンが、近づいたということです。
2023年05月18日
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みかん園の再生ために、もう一つの課題小田原・石垣山のみかん園の再生プロジェクトですが、みかん園を再生させるためには、雑草をおさえて畑を維持することと同時に、もう一つ課題があります。それは、みかん園で採れたみかんなど産物を、消費・販売することです。自然豊かな石垣山のみかん園ですから、各種の柑橘類をはじめとして、竹の子、梅、フキ、シイタケ、玉ねぎ、などなど、様々な産物がとれます。自分たちで消費する以上に、もっとたくさんの農産物がとれるんです。もう一つの課題は、この農産物の消費をどうするか、です。専業農家は、農協などに出荷してますが、素人のつくった作物は姿かたちが劣りますから、農協の扱い対象にはなりません。したがって、安心して農産物つくるためには、どうしても、独自に販売する方法をつくらなければならないんですね。東京・多摩の団地と小田原をつなぐそんな時に、東京・多摩の団地で朝市がスタートしたんです。多摩ニュータウンの永山団地です。多摩ニュータウンの永山団地は、建設されて50年がすぎますが、そこは、私などの住む団地から、車で10分くらいの直ぐ近くですから。20代で入居した人も、今や70歳台です。子どもたちは団地を出て独立して、今は高齢者の多い団地となっています。商店会は店じまいするところもありますから、団地を活性化させるためにと、NPO団体が、2016年の12月からですが、月に二回ですが、朝市を開設することになったんですね。地元や近隣の農協から新鮮で安く野菜を販売するんですね。その朝市に、私などの小田原のみかんや農産物ですが、みかんはダブりませんから、参加させてもらったんです。こちらの販売は、毎週の朝市なんですが。「継続は力なり」で、毎週土曜日の午前9時から10時半ですが、続いていますから、多少、姿かたちは劣っても、味は確かですから、新鮮で、美味しく、安いときてますから、そして、当てにしてくれる人たちも出来てくるんですね。ということで、小田原の農家の産地と、東京の団地の消費者とをつなぐこと、これが、「小田原・石垣山のみかん園の再生プロジェクト」の側面でもあるわけです。
2023年05月15日
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5月、甘夏の朝市5月13日(土)午前8時半から、東京多摩市の永山団地で朝市をしてきました。小田原・真鶴から運んできた甘夏の販売です。「ぜひ、味見をして見てください、5月の甘夏は最高ですよ」借りてきたハンドマイクで、寅さんの露店じゃないけど、「講釈」しました。小田原方面の、5月の甘夏は最高の味なんです。農家の方は、「味がのってくる」というんですが。酸っぱくもなく、独特の成熟した美味しさなんです。それは、実際に味わってみるしか、分かってもらえないんですが。小雨が降りだすという、あいにくの天候で、通りには人の気配は少なかったんですが。前回、味見して5袋買って行ってくれた方がいたんですが、今回もバイクでやってきて、「この小雨の天気で、やってないかと思っていた」といって、7袋も買って行ってくれました。ただ、全体的には小雨が降りだしてきましたから、人通りは、まったく少なかったんです。それでも、5000円余の売り上げでしたから、当方がいたのは10時前まででしたから、1時間半くらいの間に、甘夏の5個300円の袋が、17袋余が売れたということです。熟した美味しい甘夏は、店頭にはなかなかないんです。痛むこともあるわけで、この時期に大量に流通するにはなじまないんです。そこが、寅さん商売なんです。「5月の甘夏は最高ですよ、ぜひ味見をしていってください」と、太鼓判で、胸を張って言えるんですから。当方の甘夏は、あと10個位です。あとは農家が、提供してくれるかどうか、ですが。それは私などにはわかりません。ただ、美味しい甘夏が、最終盤に来たことは確かです。ぜひ、この味をひとりでも多くの都会生活者の人たちに味わってみてもらいたい。そこが、大事な問題のところなんですね。
2023年05月13日
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戦争へ道をとめるために今年の1月から4月は、いっせい地方選挙が主題でした。農夫は、繁茂しだす雑草との力比べでもあったし、あるんですが。人の目が、それぞれの地方政治と自然の力との対抗に向くのは、当然だと思うんですが。いっせい地方選挙は、全国各地で明暗のドラマがそれぞれ展開されたこととは思いますが。問題なのは、その間の国の政治の動きですが、それがどうなっているかです。今日は、その角度から、この間の国会の動向を追いかけてみました。いやはや、この間の雑草繁茂を相手にしている、私などの認識からすると、現実事態の展開というのは、それを実をリアルに追跡するというのは、容易なことではありません。いとも「当然」と言わんばかりに、これまでは国のあり方として「当たり前」としてきたことを、根本的に180度ひっくり返すような問題が、国会では議員の多数のものを言わせて、いくつも立て続けに強行さつつあるんですね。この動きを追いかけるのは、日々草刈り仕事に追われている私などにとっては、容易なことではないんですが。注目したいくつかを紹介します。一つは、外国人留学生ですが。私などの周りでも外国人の若者を見かけるんですが。日本に来て学ぶには、当然にも日本語を学ぶ必要があるわけですが、そのことが日本人のビジネスの手段に使われている。不当な儲けの手段、不当労働で働かされている問題です。それを追認する「日本語教育機関法案」が5月10日の衆議院文部科学委員会で可決されたことです。共産党の宮本岳議員が、問題点について追及しましたが。https://www.youtube.com/watch?v=4rFLINGtc-k二つ、9日に衆議院を「入管難民法」が通過していますが。11日の参議院法務委員会で共産党の仁比聡平議員が問題点を追及しています。ようするに、難民の保護を定める国際的な人権・人道のルールをまったく踏まえずに、本国に強制送還できるようにしている。ただでさえ、強制的に収監した人を死亡させるような人道上の問題を発生させているのに。この法案において、問題になっている日本の国の難民に対する態度、人権感覚が、仁比議員によって具体的に追及されています。https://www.youtube.com/watch?v=KQT4vIvD6w4これ以上は、簡単にせざるを得ないんですが。三、75歳以上の医療保険や国民健康保険料を引き上げる「健康保険法等改訂案」の問題です。11日参議院の厚生労働委員会で倉林明子議員が、問題追及しています。12日には参議院本会議で反対討論をしています。https://www.youtube.com/watch?v=GrRiYn6rvi4四、福島の原発事故の反省を転換して、原発推進に切り替える「原発推進等5法案」が、10日に参議院に回って、10日、共産党の岩淵友議員が、反省を投げ捨てての原発推進を批判しています。一つ一つが、重大な問題ですね。大本には、5年間で43兆円の軍備増強予算のつくろうとする「軍拡財源法案」が、衆議院の財務金融委員会にかけられている。大きな日本の岐路ですね。国会では、自民・公明が、野党もとりこんで多数派をつくることで、軍事国家をつくろうとしています。しかしそれは国民の平和民主のおもいとは、まってく乖離している戦争準備の路線ですね。どうしたら、戦争準備の路線をきりかえれるのか、それが問われています。この国会は、6月21日が会期末とのことですが、くりかえしますが、かけられている一つ一つの法案が、これまでの日本のあり方を、まったく覆えしてしまう悪法です。国の政治が、国民を無視して自分たちだけで勝手な暴走をしているわけですから。私などとしては、この悪法の一つ一つの中身をよくつかんで、この道を転換させる国民の平和民主の共同を、自分たちの暮らしの周りからつくりださなければならないと思っています。今は、農夫も、草刈り仕事に忙しい時なんだけれど、都市住人としては家に寝に帰るだけの、孤立しがちな生活者なんですが、しかし、今のこの国の政治の暴走にしっかり歯止めをかけるとの認識と、そのための力を、生活しているまわりからつくりださなければならないと思っています。
2023年05月13日
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みかん畑が綺麗になる小田原石垣山のみかん園ですが、5月10日、草刈り作業に援農者が来てくれました。作業をおえて、草刈りした畑を向かい側から見たんですが。みかんの木が、見上げたらくっきりと、見えるようになりました。手前の方は、みかん園の園主が草取りをしたんですが、中ほどから頂上にかけての側が、私たちが今回草刈りしたところです。左右の畑と比べるとわかりますが、みかん畑らしくなりました。これは、3人がかりで、2時間の大仕事のあせをながした、その成果です。これまで、ひとりでやってたんですが、この部分の草刈りを済ますには、何日もかかってたんですよ。やはり、援農者の協力が加わるというのは、大きいですね。翌日の今日は、一人で孤軍奮闘ですが、こちらは、手の及ばなくなった箇所の草取りです。これが、作業を始める前の様子です。クズの蔓が巻き付いて、みかんの木を覆いつくしています。これは、つる草をはぎ取っている途中の時の様子です。少しですが、つる草に覆われた下にみかんの木があることがわかるようになってきました。みかんの木が現れてきました。手前にクズの蔓がありますが、その下には、みかんの苗木があるんですよ。葛やそのほかの雑草の力は、すごいものです。完全に覆いつくしています。春から夏へ、たった数か月間のあいだのことですよ、その間に人の手が加わらないと、こうしたことになります。クズなどに覆われると、みかんの木に陽がささなくなりますから、葉が育たなくなり、みかんの木は弱って、枯れていきます。みかん畑が、雑木林にもどっていってしまうわけです。援農者の力を借りて、みかん園が荒廃してゆくのを、少しでもおしとどめる、雑草と人間との綱引きをしているわけですが、「石垣山みかん園の再生プロジェクト」の姿です。
2023年05月11日
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宮本顕治著『党建設の基本方向』この本は、今年の2月28日ですが、ブログに紹介していたんです。宮本顕治著『党建設の基本方向』(新日本出版社 1995年刊行) | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)今にして読み返してみると、話がそこではずれちゃっいるんです。今回はその手直しです。一、戦後日本の国民的な結晶-平和・民主の「日本国憲法」ですが、今日本は、その核心を捨てさるのか、それともその基礎の上に未来をひらくか、大きな岐路にあります。前回、この宮本顕治著を紹介したのは、今年の2月28日だったんですが、読みかえしてみると、どうも途中から脇道の方にすすんじゃった様なんです。意図していた基本は、いま国の政府がすすもうとしている大軍拡・大増税路線、5年間で43兆円ですか。それは戦後日本の国是としていたことを、ひっくり返すことじゃないですか。このことを正面から率直に指摘し、問題を指摘しているのは、政党としては日本共産党、社民党、れいわ新選組くらいなんですね。政権の自民党・公明党はもちろん、維新の会、国民民主党、NHK党、参政党などが、憲法改正と軍拡路線で、足並みをそろえようとしています。だから、私の意図としては、「大砲よりバターを」との統一戦線をつくるしか、日本の平和・民主の歴史的な意思を示すしかないということだったんです。なおかつ、その平和・民主の統一戦線をつくるには共産党をもっと大きくすること、その目標を展開していたものこそが、この宮本顕治著『党建設の基本方向』(新日本出版社 1995年刊行)だと思ったんですね。ところが、読み返した見ると、ブログの主題が、途中から脇道にずれちゃっていたんです。二、次のことは確かだと思うんですよ。1、戦争への道を自民・公明と維新などがすすもうとしている。それは世界大戦での大日本帝国がおしすすめた侵略戦争への反省を、国民的苦難の体験からしての反省を、厚顔無恥にどぶに捨てようというものです。2、その誤りをおさえるには、国民的な平和・民主の共同をつくって、政治の流れを変えるしかないじゃないですか。そして、そのためには、平和・民主を明確にした政治勢力がスクラムを組むしかないじゃないで年すか。3、ところが、昨今の政治動向は、平和・民主の勢力の勢いはふるってないですね。野党共闘に対する総攻撃がある、ロシアのウクライナ侵略がある、北朝鮮のミサイル発射がある、中国の力による政治がある。これらが、気分として日本の軍備拡大の応援団になってるじゃないですか。4、そこが問題でして。共産党を、少なくとも今よりは大きくして、しっかりしたまともな野党の共闘をつくるしか、その道を防ぐ方法はありません。前回、私などがこの宮本氏の本を紹介しようとしたのは、そうした今の事態を打開するためだったんですが。しかし、読み返してみると、まったく舌足らずで、肝心なところでわき道にそれていました。三、私などは思うんです。「今のままでは、戦争の多大な犠牲の上に獲得した平和・民主の憲法の宝を、投げ捨てることになる。それをとめるには、どの様な形かは別にして、「平和・民主」の国民的な共同をつくるしかない。そのためには、日本共産党ですが、国会の勢力としても、一般社会の中(県政・市町村政)でも、今よりもう少しは大きくするしかない。」ここまでは、だいたい現状を何とか変えたいという、ひとたちにとって、共感しうると思うんです。しかし、問題はここからなんです。問題は、どうしたら、民主的共同の軸的な役割をなしている共産党を、今より大きくすることが出来るか。この問題なんです。大きくしたいというのは分かるんですが。問題は、どのように努力したら、今、集中攻撃をうけている共産党を大きくすることが出来るのか、この点です。四、前回、私がこの宮本著『党建設の基本方向』を紹介しようとしたのは、この点だったんです。グズグズしたこと言いません。このなかでは、上巻15本、下巻39本の論文が集められています。それぞれ一つ一つの論文は、一つの会議の報告ですから、その一つを読むだけでも2-3時間を費やしているんです。それらをあつめたものですが、はじめから白紙でモグラがトンネルを掘るように読み進むとしたら、多大な時間がかかるとおもうんです。そんな読み方では、とても今の時勢に会いません。思うんですが問題は、この報告の趣旨をつかんで、それを今日に活動にどう生かすのか、ということですから。あくまで参考にして、指針として読み生かすということです。それと似たことを、まったくの別の次元ですが、ヘーゲルが『哲学史』の「序論」でアドバイスしています。〈長いトンネルの中で道に迷わないためには、はじめに大まかにでもその概略を念頭に持て。そのうえで、細部についての詮索をアタックせよ〉と。これはすごいアドバイスだと思うんですよ。わたしは、これは一般に他人の著作〈大きな著作〉を読む上での、とくにヘーゲルなどの著作を読む上で、大事だと思うんです。ヘーゲルが本論を書いた後に序文を書いていて、それが大事だとといてること、途中で道に迷わないために大筋をつかめ、といっている。私などは、このことは貴重なアドバイスだと受け止めているんです。五、その上で、宮本顕治著『党建設の基本方向』ですが。これだって、上・下巻のやはり大著なんです。短くしたそうですが。忙しい現代人にとっては、これでもまとめられるとやはり大著です。しかし、全体の大部な印象にうろたえるな、一回、一回の報告に真剣勝負した核心点がある。だから、要をつかみつつ、そうしながら全体を読むようにしろ、というのが、これがヘーゲルによるアドバイスなんですね。私などか思うのに、それを念頭にしてみると、初めの論文の3本をしっかり読むこと。これが、その全体を読みすすむ上で大事になっていると思うんです。1、1994年11月10日付の「はしがき」、2、総選挙をめざして統一戦線を強め強化しよう 1960年8月第一回全国活動者会議での報告3、その結語 1960年8月この三本ですが、基調となる精神が見えてくると思うんです。。これをしっかり読んだだけでも、いや、読むことにより、大部なこの著作ですが、これらの全体を読み進もうとする意識が、きっと喚起されるようにと思うんですよ。そして、思うんですが、今、共産党を大きくするには、ここで検討されている要素について、それらを考慮することが、現実をきり開いていく上で、大事な諸条件になると感じているんです。「量とともに、質を」「知は力の思想建設」・・・、130%に増やすにはどの様な努力が必要か。これは、今に重なっている問題だと思うんです。これが、今の日本での懸案を切りひらく上で、大事な要件になっていると思っているんです。この著作は、30数年前の「党建設論」集ですから、古くなっている問題もありますが、問題は、今に生きている精神ですね。そこが大事だと。そんな感じを、その時にいだかせてくれたので、前回にそのことを紹介しようとしたんですが、わき道にそれました。それで、その著作を、今回あらためて、紹介させていただいた次第です。まぁ、これを紹介している人が、おかしなことに他にないこともあって、もったいないと。これが人に知られずにいるのは、じつにもったいないことだと思ったからなんですが。はたして、本当に私が感じた通りの内容が、そこにあるかどうか、わたしなりに、これから試してみようと思っています。
2023年05月08日
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みかん園再生のための苦闘今、小田原の石垣山では、荒廃したみかん園を再生させる努力がはじまっています。農家の高齢化により、またみかん農業が農業政策から見捨てられてることから、みかん園だった畑が、今、人の手が及ばなくなっているんです。この事態を改善しようとして、援農の人たちで、「石垣山みかん園の再生プロジェクト」がはじまっています。その交流会が、3月16日に開かれ、5名の人たちが参加しました。一、人の手が及ばなくなったみかん園はどの様な事態になるか。これは2020年2月の様子ですが、イノシシ捕獲の檻が見えますが、向こうから出没して来てたんです。この雑木林も元々はみかん園だったんですよ。正面の山林が、みかん園だったなんて、いったいどうしたことでしょう。そこからイノシシが出没してきて、手前のみかん畑を荒らしまわってるんです。もはや鉄柵で囲わないと、農作物のすべてはイノシシの餌になっちゃうというわけです。二、2020年2月から3月にかけて、「西部開拓史」じゃありませんが、このうっそうとした山林を切りひらいて、元の平地にもどす作業がはじまりました。当初は、イノシシの出没を防ぐために、柵の外側の草を払うことだったんですが。イノシシとのイタチごっこで。とうとうそのねぐらを払おうとのことで、作業が拡大していったわけです。太い木をきり倒すなんて、まったく経験が無かったんですが、山林を管理するなど林業の技を持つひとが、援農に来てくれたりして、とうとう、ここまで切りひらいちゃったんですね。結局、30回以上も野焼きをしたんですよ。三、雑木林を切りひらいたら、素晴らしい景観がよみがえりました。正面には丹沢山系と大山がみえ、もちろんその手前には小田原城もみえます。三浦半島から房総半島へと相模湾の海がひろかり、まぶしくキラキラと光ってます。作業をしているあいだは景色どころじゃなかったんですが、仕事を終えて周りを見たら、それこそ絶景の景観だったんですね。豊臣秀吉が小田原攻めのときに見ただろう景色です。又、山林を切りひらいた中からは、貯水槽が出てきたり、甘夏やシキビの木が出てきたり、ここが、元はみかん畑だったことをしめすあとが、はっきりと出てきたんです。四、現在、小田原・早川では、かつてのみかん畑の3割くらいの面積が、今、人の手が及ばなくなっているそうです。耕作放棄地です。高齢化してくれば、耕作を縮小せざるを得ないというのは自然のことですよね。誰だって、親や、代々の人たちから引き継いできた畑を放棄するなんて人はいません。体力のギリギリを働いていても、そうせざるを得ないという、声なきSOSなんです。ところが、そうした事態に対して、政治や行政は見てみぬふりをしている。何の手も打たないのが、今の農政なんです。「あとは野となれ、山となれ」「あんたがた自身の責任でやれ」と。わたしなどは、そうした関係を実感させられるんですね。五、しかし、もう一つ問題があります。この切りひらいた畑の地面の下には、これまでの雑木の根がしっかり残ってるんです。半年でもそのまま放っておけば、すぐに元のように雑草地が復活しちゃうんですね。「雑木を切り払ったはいいけど、そのあとをだれが、どうするんだ」ということだったんですが。そんな先のことまで考えていたら、手も足も何も出なくなるじゃないですか。とにかく、少しでも改善しようとのことだったんですが。しかし、農家の人たちは、すでに手いっぱいでヘトヘトになっています。力を借りるわけにはいかないんです。もともとは、イノシシの住家をなくすことがきっかけだったんですが、木を払ったら、その切りひらいた平地ですが、ただ草刈りするだけでは、まったくの徒労で、むなしくなるじゃないですか。それで「とにかく」ということで、みかんの苗木を植えたんです。2021年3月26日のことでした。六、もうヘトヘトだったんですが、右往左往しているうちに、新たな動きが始りだしました。「みかんの木を育ててみたい」という人や、「空いているところに野菜を作ってみたい」といった人たちが、「自身の健康のためにもやってみたい」との人も、集まってきたんです。みなさんボランティアなんですが、趣味の園芸と援農ですね。石垣山は、四季折々の自然が、宝の山なんですよ。各種の柑橘はもちろんですが、梅やタケノコ、野菜などなど。その恵みを実感していただけるんですよ。くわえて、近くには温泉あり、魚市場あり、一夜城あり、ですから。今、その人たちで、この3月からですが、みかん園の再生プロジェクトが動き出しています。「石垣山のみかん園を再生させる会」(仮称)として、毎月に一度の交流の場を持とうということで、連絡を取り合い出しています。
2023年05月07日
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多摩の団地朝市が終わる5月6日(土)は、春一番はとっくに過ぎてますが、強い風がふいてました。強い風がふいてる中での朝市でした。今週の中心は、甘夏でした。5月の甘夏は、美味しいんですよ。しかし、自分のところからの甘夏は、次回で終わりです。5月2日に援農の方たちが来てくれたおかげで、大きな木からの、手間のかかる収穫なんですが、それが、一気に、すべて終了できたんです。あとは、自園には日向夏が少しあるのと、農家の人たちが、出してくれるいろいろな柑橘を、搬送してくる予定です。5月のゴールデンウィークのころは、なんと言っても「みかんの花の季節」です。山じゅうのあたり一帯には、清楚な花の香りが畑いっぱいに漂っています。 橘のにほえる香かもほととぎす鳴く夜の雨に移ろひぬらむ 『万葉集』巻十七 3916 (橘の咲きにおった花の香は、ほととぎすのなく夜の雨にあせたことであろうか) すごいですね、万葉の時代から、みかんの花を楽しんでいたんですね。 たくさんの歌が『万葉集』には、残されています。それと同時に、ゴールデンウィークは、お茶摘みの時でもありました。この茶摘みも期間限定で、製茶工場の稼働は1週間余とかぎられてます。さらに茶葉が濡れていては駄目だし、摘んだその日のうちに、JAの製茶工場まて運ばなければなりません。当方は、一心二葉の手づみなんです。ポキ、ポキと2キロ弱を摘んで、製茶工場に加工を依頼してきました。この時期の作業は、基本は草刈りなんです。見ての通り、一雨降ると、以前に草刈りしたあとなどどこへやらです。この草刈りもまた、援農の人たちの協力してくれたおかげではかどりました。一人でやっていると、賽の河原状態で、ヘトヘトにさせられちゃうんですが。それが、複数で草刈り作業すると、つぎつぎに、一か所、また一か所と、きれいに片付いていくんです。畑で会話が交わされるというのも、これも疲れを飛ばしてくれる効果があるんですね。まだまだ、残りの草刈りしなければならない箇所は、沢山あるんですが、それでも、一つ一つ、片付けてゆくということです。多摩の団地朝市の前後には、こうした農作業があるということです。
2023年05月06日
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ヘーゲル『歴史哲学』序論の学習(その3)今回は、この間にいっせい地方選挙の中休みがありましたから、仕切り直しです。私などの感じていることのいくつかについて、いわば余論といったことです。一、今回の「歴史哲学」学習ですが。ヘーゲルの『歴史哲学』は、ヘーゲル自身が著作としてまとめたものではありません。ベルリン大学で講義したなかみを弟子たちがまとめたものです。私などの手元には二種類があります。1、『世界史の哲学講義』(講談社学術文庫 2018年刊)、これは1822年-23年に、このテーマで最初に講義した時の筆記録だそうです。2、『歴史哲学講義』(岩波文庫 1994年刊)、ヘーゲルは1831年にコレラで亡くなるまでにこのテーマを5回講義していたそうで、これは死後の1837年に弟子のガンスが、残された講義録をまとめたものだそうです。おなじ「歴史哲学」の実体的内容のはずですが、この二つは大分趣が違います。前者は主題に対する考察の過程が丹念に記録されているように思います。他方、後者は主題そのものに重点を置いて、問題点が何かを明確にしようと、重点的な展開がされているように、私などは感じています。なんたって、長年にわたって『歴史哲学』といえば、後者しかなかったわけでして、その同じ原書の中で翻訳が、武市訳流か長谷川訳流かどちらの訳が正確かといった、いわばそうした解釈論の範囲内の問題検討だったんです。ところが、2018年に初回講義が伊坂青司訳で刊行された。そこでは、初回の講義において、ヘーゲルは論点を引き出すにはどのように考察していたのか、その考察過程についての材料が新たに提供されたわけです。そこには世界と日本の研究者たちの、最近のあらたな探究努力があって、それが最近において、はじめて一石が投じられた、そんな側面があるんですね。2018年といったら、ごく最近のことじゃないですか。私、感じされられてるんですが、世の中にはいかにもヘーゲルを理解してるかのような研究者がいますが、マスコミにもてはやされたりして。しかし実はそれは、自分の勝手な印象論を述べているだけで、ヘーゲルそのものの理解はいいかげんなものだと。幽霊の正体見たり枯れ尾花、化けの皮がはげるのが見て取れるといったことも見えてくるんですね。流行学者がマスコミにやもてはやされて、知ったかぶりしている。そんなもてはやされに、だまされちゃぁ駄目だよ、ということが見えてくるんですね。二、しかし、たしかにヘーゲルの天才的な業績はすごいんですが、同時にその問題点も見すえておかないと混乱させられちゃうんですね。以前に紹介したことがあるんですが、エンゲルスの『自然の弁証法』とレーニンの『哲学ノート』は、その問題をヘーゲルの原典にあたって分析しています。知ったかぶりじゃないんです。努力してるんです。そんな中から、エンゲルスによる、ヘーゲルを読んでのアドバイスを4点紹介します。1、ヘーゲルの逆立ちの問題です。「ヘーゲルは観念論者だった。彼にとっては、頭脳のなかの思想は現実の事物や過程の抽象的な模写とは考えずに、逆に、事物やその発展がすでに世界よりも前からどこかに存在している「理念(イデー)」の現実化された模写でしかないと考えていた。こうして、すべてのものが逆立ちさせられ、世界の現実の関連は、まったくひっくり返されていた。だから、個々の関連ではヘーゲルによって正しく天才的にとらえられていたものも多かったとはいえ、その理由により、細部の点では多くの事柄が、つぎはぎされ、作為され、こしらえられ、ようするに歪められる結果とならざるを得なかった。」(『空想から科学へ』第2章)。この問題は、ヘーゲルが引き出した弁証法の普遍的なただしさですが、それが自然の中に「外化」して、さらにそれが精神においてとらえ返されるとの、このヘーゲルの体系の全体的な考え方にもよっていると思います。2、自然と人間の歴史的に発展していくこと、人類は対立(矛盾)する中で歴史的に発展していくとの思想ですが、さらには全体的な世界観の問題ですが、「ヘーゲルははっきりした形では述べていない。彼の考え方から出てくる帰結を、彼自身ではそれをけっして、明確には引き出さなかった。そのわけは、彼が一つの体系をつくることにせまられていたから。それはなんらかの絶対的真理で完結しなければならなかったから。」(『フォイエルバッハ論』第一章)〈関連を述べているんだけれど、その帰結については明確には述べていない〉。この指摘もヘーゲルを読む場合に、頭の片隅に留意して、あたる必要があると思います。3、あげあし取りのヘーゲル論じゃなくて、そのものの理解をしっかりと努力せよ、ということですが。「ヘーゲルは創造的な天才だったし、博学の人だったから、あらゆる領域で画期的な仕事をした。この場合、彼は「体系」が必要とするために、しばしばあの無理な組みたてに逃げ場を求めなければならなかった。しかし、こうした組み立ては彼の仕事のワクであり、足場にすぎない。もしも人々がここにとどまるような無益なことにかかわらずに、この巨人な建物のなかにもっと奥深くはいっていくなら、今日でもなお十分価値のある無数の宝を見いだすであろう。」(『フォイエルバッハ論』第一章)このエンゲルスのアドバイスですが、ヘーゲルが探究した領域はじつに広い。もはや個人をもってしては無理なんです。人々の共同作業がかかせなくなっているわけです。しかし、こうしたアドバイスを、もしも生かさない哲学者・政治家がいたとしたら、そうした人というのは、歴史を学んでないということです。不勉強ななまけものだということです。人類の宝を持ち腐れにするニセの「代表」なんだということです。完全な理解ということは出来なくても、基本的にはそうした問題なんだということに対する確固とした認識です。4、ヘーゲルの業績をまなび、そこでの意識的な努力ということがどこにあるのか、ですが。「ヘーゲルとともに、哲学一般はおわる。というのは、彼が哲学の発展全体を彼の哲学体系のうちで大規模に総括しているからであり、他方で、彼が無意識的にではあるにしろ、体系のこうした迷宮からぬけだして世界の現実的、実証的な認識にいたる道を、我々に示しているからである。」(『フォイエルバッハ論』第一章)ようするに、ヘーゲルは愛されるべき挑戦をした。人として最大限の努力をした。しかし、世界は広い。個人では無理なんですね。個人を一つの契機とする、人類社会全体の歴史的な努力、それが問われているんですね。そうしたことからして、ヘーゲルをサーッと呼んで、簡単にスカッと分かるなんてことはないんです。しかし逆に「何言ってるのかわからないから、読むのはやめた」というのも、これも困ったなまけものです。だいたい、子どもたちにたいしては「勉強しろ」と口うるさくいってるくせに、大人として社会人として、自分自身はどうなんだ!ということなんですが。とにかく、このエンゲルスのヘーゲルについてのアドバイスですが。天才的なヘーゲルの、その読みにくい本の中にあるすばらしい事柄ですが、それを読み解く上でのエンゲルス自身が苦労したことからのこのヒントを、人類に対してのアドバイスとして、メッセージとして残しているんですね。これを生かさないで、なんのためにあんたは生きてるのか。そう言われていたとしても文句は言えないじゃないですか。といったことを、エンゲルスのアドバイスとしてうけとめて、これからの『歴史哲学講義』の「序論」 「B 歴史における理性とはなにか」を読みすすむ上での、ヒントとしたいと思います。
2023年05月05日
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味噌汁づくり今日は5月5日「子どもの日」。遠い昔を追憶しつつ、新玉ねぎで「味噌汁」作りました。昔はお婆ちゃんがつくってくれたのを、自然で当り前の日常として、朝ご飯の時に食していました。故郷を離れたときは、いろいろな関心の中、みそ汁どころじゃなかったんですが。そのご、お湯にとくだけ美味しく食べれる即席の味噌汁をつかっていたんですが。それは機械的な、ワンパターンの味じゃないですか。あの懐かしの味は、どうしてつくられていたのか。どうしたらできるのか。まわりの先輩たちに「味噌汁の作り方を教えてほしい」とせっついたんですが。「何を今さら・・(この忙しい時に)」といったことでして、いろいろ複雑な独特の作り方を伝授されました。『こんな、複雑な手間がひつようなのか、そこまでいちいちかけてられない』と内心では思ったりしてたんですが。ところが最近ですが、初夏のこの時期、子株やダイコン、新玉ねぎと、新鮮な野菜が回って来るじゃないですか。試しに、これを入れてみたところ、なんと、最高のオンリーワンの味噌汁が出来ました。私は勘違いしてたんですね。これまでは、味噌汁はお婆ちゃんの味、ようするに作り手の技が味の決め手かと思っていたんです。だから、その技を知りたくて、いろいろな人に造り方を問うてきたんです。でも違っていた。基本は、食材が自然にだしてくれる味が美味しさの秘訣だったんですね。それは味噌汁だけじゃなくて、「さばの味噌煮」「キンメの煮つけ」も、そうだったんですね。食材が天然のだしを出してくれていたんですね。料理の達人がつくりだす味だとおもってたんですが、もちろん達人には達人の、その技があるかもしれませんが、基本は、食材自体が美味しさの秘訣だったんです。私ごとき素人でも、やってみれば、それなりの味が簡単に作れる、ということでした。何ごとも、完成品が出されるのを待っているんじゃなくて、自分自身で、基本をつかんで挑戦してみろ‼ ということでした。なんたって、個人としても社会としても、何ごとにも受動的な習慣がしみついてますから、何ごとも、お金を出しさえすれば美味しいもを食べられる、ないし何でも手に入る、といった社会的な風潮が蔓延してますから。その習慣と慣習を変えなければならないということ。せめて、連休のひと時くらいは、自分による味噌汁でもつくってやるか、と思ったんですが、オンリーワンの味噌汁の傑作が出来ました。何ごとも、挑戦してみることですね。壁は、意外と簡単に乗り越えることが出来ました。一つの自由への飛躍です。
2023年05月05日
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「みかんの花が咲いている・・・♪」耳に親しむ日本の歌謡ですが、この歌は、小田原でつくられたんだそうです。ゴールデンウイークのこの時期には、乳白色のみかんの花が、小田原のみかん園には、いっぱい咲いています。小さな花ですから、車ではしっていただけでは、見逃してしまうでしょうが。それとして意識していないと、せっかくのその満開ぶりを見逃してしまうかもしれません。この5月のゴールデンウィークの時は、みかんの花の満開の季節なんです。あたりには、みかんの花の香りが、いっぱいに漂っています。それともう一つは、この時期はお茶摘みの時なんです。みかん園の境界には、低木のお茶の木が植えられています。みかん園の境界木なんですね。今年は、4月25日から5月7日までの10日あまり間ですが、小田原の農協では、期間限定で製茶工場が稼働してくれます。ブランドの「足柄茶」ですが、これは、みかん農家からもちよられた茶葉なんですね。私なども、世の中は「メーデー」なんですが、西から雨が近づいているというので、4月の選挙や何かで疲れてはいても、そそくさと小田原のみかん園へ茶摘み行きです。自然というのは、人間の行事や慣習なんて、まったく関係ないんですね。そこが、自然を営みとする農家と、労働者との、大きく事情の違うところです。農夫は自然の都合にあわせるしか、仕方がないんです。人間のご都合主義や、自分勝手なことは、自然には通用しないんです。今回は、二組の夫婦が、小田原のみかん園に援農に来てくれました。ドタバタと対応していたら、肝腎のみかんの木の根起こし、草刈り施肥を撮り損ねてしまったんですが。これは、その一コマでして。フキを収穫してくれているところです。フキは、人によって好き嫌いがありますが、この時期の自然の恵みです。これはアキタブキですが、ノブキを使った「キャラブキ」を、近所の方がつくつて届けてくれました。私などは、ドタバタしているから、そんな調理をする時間はないんですが、これが、じつに美味しいんですよ。日本人は、いつの頃からこうした自然を生かした食材を、発明・開発したんでしょうかね。「キャラブキ」というのは、自然を生かした暮らしの知恵ですね。ということで、この5月のゴールデンウィークですが、日中は、ま夏のような強い陽射しの中でしたが、そのもとで、お茶摘みあり、みかんの木の根起こし・草刈り・元肥の施肥あり、フキの収穫ありと、私などは、ヘトヘトにさせられたひと時でした。この5月の連休の中を、援農に来てくれた二組のご夫婦のおかげで、一人でショボショボと作業していたんでは、これまではそうだったんですが、こんかいは、そうしたこれまでとは天と地の違いです。みかん畑に、人の会話が聞こえるというのは、それだけで、農夫の苦労と疲れを癒してくれる力があるんです。しかし、今の農家の現状ですが、高齢化により、これまでのように耕作が出来なくなってきている。先祖伝来の耕地を、誰が好き好んで「耕作放棄」なんてするでしょうか。そうした事態が起きている事情を、親身に真剣に分析した議論が政治世界にあるでしょうか。それがあったら、是非聞かせてほしいものです。蹴飛ばすようなことばかりが、最近の国の農業政策です。しかし、私などは思うんですが、そうした無茶苦茶な事態にとって、それに対する救いですが、その一つの大事な要素ですが、それは、この「援農」の手助けだとおもうんです。これがあるかどうか、これが大きな問題ですね。口八丁の政治家が、農産物の自由化を強制し、関税は撤廃し、アメリカからコメを輸入するような事態ですから、日本国の主権の尊厳はどうなっているのか、そこをはっきり自覚して、日本人の食料を、食料自給率を、自国で基本的に確保するという、この世界の当たり前の努力を、日本でもするようにと、そこを、しっかりする力をつくらなければならないということです。いいかげんな口八丁に誤魔化されてはならないということです。しかし時はそんなにないですよ。いったん壊されてしまった耕地を、再び回復するというのは大変な作業ですよ。先人が、むかしから代々に守ってきた耕地を、勝手に捨て去るような無責任な現状、この事態をおさえなければ、日本人の明日はありませんよ。これが農家の人たちの声なき声、私などはこれがほんとうの声だと思っています。
2023年05月04日
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今を励ますマルクス『共産党宣言』インターネットで、ある方がマルクスの『共産党宣言』の一節を紹介されてました。「ときどき労働者が勝つことがあるが、ほんの一時期にすぎない。彼らの闘争の本来の成果は、その直接の成功ではなくて、労働者の団結がますます拡がっていくことである。」今回のいっせい地方選挙の結果が、その背景にあって、日本社会の民主的発展に努力してきた立場から、選挙の結果にたいしての、激励となるだろうフレーズ紹介なのかと思います。私などは、不勉強で本棚でほこりをかぶっていた『共産党宣言』でしたが。ほこりを払ってみたんですね、読み返すことまでは出来てないんですが。すると、彼の方が紹介されている通り、響いてくるものがありました。私などが注目したのは、1883年ドイツ語版へのエンゲルスの序文でしたが。マルクスが『共産党宣言』を書いたのは1848年ですから、今から175年前。日本では江戸時代ですよね。エンゲルスがこの序文を書いたのは、それから35年後でした。明治16年です。出版されてから35年もの歳月が過ぎると、言わずもがなの、「すでにふるくさい」といった風潮もあってんでしょう。1883年にマルクスが死去してますから、エンゲルスとしては、亡きマルクスの果たした業績を評価する必要を感じてたんでしょう。端的です。「ここで次のことをもう一度はっきりと確認することが必要であると考える。『宣言』をつらぬく根本思想、すなわち、・・・・・」エンゲルスは、つらぬかれている基本思想について、不動の確信を、短い表現ですが再確認しています。それは根本思想についてであり、考え方の方法についてですね。当然ながら、それから175年が過ぎた今日の日本ですから、おかれた条件や形態が違うわけですが。しかし、エンゲルスは、さらに、その後5本もの序文を書いて、その都度各国の人たちに対し、根本思想の正しさに留意するようにと表明しています。後の世に生きる私たちとしては、ここから何を学ぶかですね。問題は、この根本思想をどの様につかむのか。その思想を生かすにはどの様な努力が必要なのか。これが私たちに提起されている問題です。知人が紹介してくれたのをきっかけに、パラパラっとめくった『共産党宣言』でしたが、やはり、歴史はジグザグはあっても、もちろん努力次第ですが、みんなで未来をひらこう!とのメッセージが、我々に対する激励が、確かにのべられていました。
2023年05月01日
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疲れてはいても快適だった団地朝市4月29日、東京・多摩市永山団地で、みかん朝市をひらきました。一週間というのは早いものです。先週はいっせい地方選挙の投票日前日でしたから、それから一週間が経過しました。この一週間で今の日本の現実と、自分の状況を知らされる、大きなドラマが展開しました。一、まずは本日の朝市ですが。小田原から、最後の清見と、甘夏、三宝柑、レモン、竹の子、新玉ねぎ、フキ等を搬送してきました。今のみかん園の手入れは、みかんの木の根回りの草取りと元肥の施肥です。一単位の労働で出来る手入れは、5本のみかんの木がせいぜいなんです。正確じゃないですが、真鶴園だけなら30本だったんですが、それプラスして早川園の150本くらいの木を相手にしてるとしたら、しかも、その一つ一つの作業の期日が決まっていたとしたら・・・。東京へ産物を搬送してくる以前に、すでに私などはバテバテなんですね。二、そんな流れの中で、本日の朝市を無事に終了できました。「甘夏を待ってました」「無農薬の、こんなレモンが欲しい」「最後の清見を絶対に確保しておいて」「今回は梅酒を持ってきて」などなど。生産者の苦労を知ってくれてるかは知りませんが、その結果を待ってくれている消費者がいるんですね。草刈りと搬送の疲れを癒してくれて、「よし、もう一仕事するか」との気持ちを起こさせてくれる、そんな朝市なんです。三、小田原、八王子、多摩市でのいっせい地方選挙の結果ですが前回の朝市からの、この一週間の間に、いっせい地方選挙の後半戦が、それぞれ各地の市議会議員選挙がありました。1、小田原市というのは、私の故郷と言えるんですが、みかんの縁で係わりにより50年ぶりに関係が復活しました。しかし私には、みかん園の自然を相手とする以外には、まったく人間社会は知らなかったんですが。今回、現地の宿りで休んでいたら、20Mくらいの先でしょうか、すぐ近くでハンドマイクで辻説法する人がいました。聞いてるとその話には、まじめに、一生懸命に、今の政治をかえようとの思いが伝わってきました。私としては収獲してきた甘夏ですが、その2個と私などの懇談会メモを、話していた人にとどけました。私などの思いとしては、「この地で話すなら、全国的な一般的な問題だけでなく、当地のみかん農家の問題を、その苦境を打開する点についても、ひと言はいれるべきだ。そうでないとせっかくの話が、当地の相手にとっては、すべっる話になっちゃうよ」との思いだったんですが。選挙の後に知ったんですが。小田原市議会議員選挙の定数は27人とのこと。その話していた人は北森明日香さん(40歳)さんで、共産党の新人とのこと。選挙結果は得票数1939票をえて13位で当選したとのこと。私などは当地に選挙権などありませんから、共感しても精神的な支援でしかありませんでしたが。たまたま説法していた話の内容に共感しただけなんですが。当選したからには、その思いを市議会に議席を得て、行政にもの申す資格を得れたんですから、あの時辻説法していた公約を真に実現すること、さらに農家の願いについても政治に生かしてほしいと、そんな期待をして注目したいと思ってるんですが。2、他方、私などの選挙権をもつ東京・八王子市ですが。私などの住んでる地域では、日本共産党の望月しょうへいさん(29歳)が当選しました。私などは、広い八王子ですが、その僻地から住民の願いを一番誠実に正直から市政につなぐに人は、この人が一番だと確信して応援してたんですが。今回、なんとしたことか、その支援の意味をこめてハンドマイクで政策宣伝することまで、初めてのことですが、震えるマイクをもって、しちゃったんですね。八王子市議会は定数40名。望月さんは34位の3260票で当選することが出来ました。八王子市というのは、萩生田自民党議員の地元でして、自民党の幹部だそうです。八王子市の柚木出張所の体育館をつかって、決起集会を昼・夜にしていました。この望月さんの地域にたいしては勝共連合の「共産党にだまされるな」式のビラがまかれたわけですが、国政での殊勝な反省そぶりとは違って、萩生田氏と統一協会は共同行動なんです。それがこの選挙の中でも続いているんです。そうした中で、望月しょうへいさんですが、今回5名の共産党議員の一人として当選し、議案提案権を持つ共産党市議団が出来たんです。市議会全体は、やはり自民・公明の多数派による市議会であることには変わりませんが、しかし市民の願いがより明確なかたちで八王子市政に反映されるようになるわけです。たんに聞き置くだけじゃなくて、議案に対する態度表明が、自民・公明等に求められる、そうした条件がつくりだされたんですね。国保の6年連続の値上げ、子どもたちに体育館のクーラーを使わせないなんて行政で、その改善を求める請願を否決している自民・公明等ですから。その八王子市の市民要求を否決する異常が、その罪状がもっと公のものとなるわけです。3、さて、毎週朝市をひらいている東京・多摩市ですが。ここでも選挙の最中に驚きのニュースが伝えられました。国政で問題となった統一協会ですが、この多摩市の尾根幹線道路ぞいの地に、6300平米の土地と建物を買収していたというんですね。萩生田氏の地元八王子市、そのすぐ隣なんですが。そこに彼らの一大拠点をつくろうとしているというんです。この選挙でも全国的に野党共闘にたいしてと、とくに共産党の議席を、議会から締め出そうとする構図がしかれてるじゃないですか。あやしいビラがまかれる中での、今回のいっせい地方選挙でしたが。多摩市の場合は、定数26の多摩市議会において、共産党は新旧二人の交代を課題としていて、それをふくめて現有5議席を「まもる」ことが課題だったんですね。ここでも「共産党にだまされるな」式のビラがまかれてたんです。そのお隣の稲城市でもそのビラがまかれてたということですが。これにたいし、市民の良識は大したものです。だいたいみえてきますよね、その意図が。彼らにとってもっとも嫌な相手が、いったいどこの誰なのか。誰の意志にそってのその行動なのか、その魂胆はビラのまかれた地域で見えてきます。ふつうはいかがわしいことに対しては、有権者は戸惑いをおこさせて支持を離反させること。議会からそうした議員の議席を排除しようという意図なんですが。私などが、痛快に思うのは、八王子、多摩市、稲城市においては、その魂胆が市民に見抜かれて、逆にこんな非道な事態を許さないとの意志が表明されたことです。こうした中でこそ、確かな護民官をつくらなければならないという、そうした奮起のバネがこれらの市では働いたんじゃないかと思うんです。そうした市民の良識がしめされたんですね。あくまでも私などの推測ですが。四、何を言いたいかというと。日本の今の政治は、自民・公明・維新の連合によって、大軍拡・増税路線が強行されてますね。議会にしめる多数の力で、国民の権利を、歴史的に守られてきた平和・民主の戦後社会を、くつがえして野蛮な事態にもっていこうとする現実が展開されてますよね。しかし、いくらそうした多数派が、今が我が世の春として謳歌していたとしても、もっともそうな宣伝をしたとしても、決定的な問題としてそれは国民が真に願っていることに対し、まったく反していて、まったくのごまかしだということです。平和民主の憲法を投げ捨てるいかさまなペテン師だということです。しかしですよ、もう一つ問題があります。いくらそうした道理ある見方が、広範な良識的な人たちから出されていたとしても、肝腎の現実の選挙で後退したり、結果が振るわなかったとすれば、国民の理解と支持を得られてないということで、国民がバカなのか、政党がふがいないのか、とにかくそうした正義の見地は揺らいじゃうじゃないですか。社会正義が邪道との対決おいて、明確な状況にしきれていない、それが今の事態じゃないですか。そこを明確にしないと、邪道が我が世の春を謳歌しているような事態、さらには戦前の大政翼賛会の二の舞になるような、そんな事態にはなりっこありませんが、しかしそんな危険があると思うんですよ。これが、今現実に、私たちに問われていることですね。どうしたら、この政治的多数によるごまかしを打ち破れるのか。国民にとっての真の願いが生かされるような政治はどうしたらひらくことができるのか。五、結論です、私などは思うんです。それは、こんどの選挙でも、大勢ではないんですが、あくまで部分としてですが、注意してみれば、全国の各地で「展望」というか、確かな見通しが出てきていると思うんですよ。NHKやマスコミなんかは、絶対に紹介することはありませんが。今回の私などの紹介した地点ですが、共産党を指標にしてみた場合ですが、小田原(1名は落としているけど)においても、また多摩市でも、八王子市でも、私などが接したかぎりですが、みんなの努力によって、しっかりと議席を獲得したんです。それはいずれも激戦だったんですが、紙一重で競り勝った状況ではあるんですが、全体的な状況からしたら、はみ出されたとしてもおかしくない状況だったんですか。しかしそれでも競り勝った。ここには、未来につながる確かな変化の兆しがあると、私などは思うんですよ。そうした現実が、今回の選挙の中に、各地にそうした状況が、出てきていると思うんです。これが、私などの今回の選挙に対する全体的な印象なんですね。六、みかんの朝市についての、本日の報告からしたら、多分に話がずれましたが。しかしみかん農家(農家そのもの)にとっても、都会の生活者にとっても、そして私などにとっても、ネックになっている障害というのは、共通だと思うんです。それは、日本国民が歴史的に苦労してつくってきた宝を、その良識の成果をなげ捨てるのか、それをまもって前進を切りひらくのか、それが問われています。基本的に、いま一体何が問題であって、何が課題となっているのか。今回のいっせい地方選挙においても、大事な未来を拓く道がどこにあるのか。マスコミなどは、世界から指摘されるように、近年では国営放送化に傾いてますから、伏せられていることがらです。。それでも私などには、こうした事態をみていると、そこには確かに未来が見えて来つつあると思っています。それを隠そうとする、まったくもってあれこれの非道が横行している昨今ですが。この中で、どうしたら事態を前向きに変えれるか、その根本変革をいかに早く引き寄せれるか、そこが一人ひとりに問われているのが、今の問題だとおもいます。
2023年04月29日
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私などの選挙結果とその後皆さんにとって、4月23日の地方選挙の結果は、如何でしたでしょうか。私などは幸いにして、私たちの代表を八王子市議会へおくりだすことが出来ました。これまでも「選挙」というのはいろいろありましたが、そのなかでも市議会議員選挙というのは、私などの意識としてですが、空間的に自分たちに最も近い選挙ですが、もっとも情報の少ない疎遠な関係におかれてたんです。しかし、今回の選挙で、「わたしたち」の若い代表を八王子市議会に送りだせました。これで、国保料6年連続値上げの、体育館クーラーを子供たちに使わせない、名にしおう八王子市議会ですが、この疎遠な関係を変えてぐーんと近づきうる「可能性」ができたということです。それぞれの地方選挙ですから、その地域・地域より独自の結果と条件となるわけですが、全体的な特徴、傾向については、それはそれで検討しなければならない問題をもっています。みかん農夫は、24日(月)午前7時12分に「万歳!」との知人からの第一報をうけて、選挙全体の結果などは見えないうちに、小田原行きです。というのは雨が近づいているためでして、その雨が降る前に、お茶摘みをしておかなければならないためです。みかん園の土手には、たいがいお茶の木が植えられてるんですね。5月2日が「八十八夜」と、今が茶摘みの時なんですね。しかし茶葉が濡れてしまっては、茶摘みは出来ません。そしてたった15キロくらいの距離の隔たりなのに、小田原よりも真鶴の茶葉の生育が、少し早いんです。実際にも、26日(水)は本降りの雨となりましたから、これはワンチャンスだったということです。ささやかな量なんですが、もったいないですからね。さらに、4月27日(木)は、雨も上がって五月晴れとなりました。これから5月のゴールデンウィークころにかけてが、みかんの花の季節なんです。乳白色のつぼみですが、今、じょじょに開きだしているんです。花の香りが漂い始めています。農夫は、根回りの草取りをして、元肥を施肥してるんですが。今回は、8本の木を済ませましたが、真夏日の様な下でのこと、ヘトヘトになりました。遠方からみかんの木のオーナーが3人でやってきました。こうしたみかん畑の様子を確認しつつ、フキの収穫をしました。いまは、フキの収穫シーズンなんです。以前に、このフキ畑にかぶさっていた竹を切り払ってくれたお二人ですが、今や畑一面に、たくさんのフキがはえそろってるんです。早川の石垣山は、自然豊かな「宝の山」なんですね。これだって、時とともに硬くなってしまいますから、今の収穫が大事なんですね。ということで、くたびれちゃってますが、そんなことはいってられません。五月晴れなのに、いろいろ暗雲のただよう政治の世界です。これを、一国民として、事態をよく見すえて、まともな方向に変えるために、今回の代表を持てた力を、可能性を生かせるように、さらに歴史世界にまなび、努力するということです。
2023年04月28日
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八王子市の市民委員候補者への登録今日は、いっせい地方選挙後半戦-八王子市議会議員選挙の投票日です。この市議選をとおして、私など認識に一つ変化がありました。市議選告示の4月16日の2日前付で、八王子市の総合経営部広聴課から「お願い」が届きました。はじめて知ったんですが、八王子市では無作為に選んだ人に、八王子市の市政に参加する機会の少なかった方々のご意見も広く市政に反映していくことを目的に公報で呼びかけての募集方法に加えて、個別に声かけをするようにしている、とのことなんです。4月14日ころ、便りをもらった頃は、『なんだ、こりゃぁ。こっちは忙しいんだ』と、廃棄するつもりでいたんですが。一週間の八王子市議会議員選挙に、本日がその投票日ですが、参加しているうちに、認識が変わってきました。一つは、広い八王子市の東側のもっともはずれの地に暮らしていて、税金はとられても、具体的な行政のお決まりのサービス以外には、行政の存在が感じられていなかったんですね。要望しても無視されるし、言うだけ野暮だといった経験則だったんですね。ところが、そんななかでこの市議会議員選挙です。望月しょうへい市議とのつながりをもっていることで、八王子市議会や市政のことが、少しですが私などにも具体的に見えてくるじゃないですか。もちろん限られた情報であり、つながりですよ。しかし、29歳の若い市議は、一生懸命に市民と市政をつなごうとしてることは間違いないじゃないですか。市政の「疎外」は、行政のあり方の問題もありますし、私などのあきらめからの努力を放棄しているような姿勢にも原因があると、そんな思いを感ずるようになったんですね。もう一つは、たまたまなんですが、『民主主義のミカタ』(宇野重規・岸本聡子著 東京新聞刊 2023年3月31日)という本を読んだんです。政治への疎外感ということが、私などが感じていたことが、今の日本社会にとって世界にとっても大きな問題としてある。そうした状況がここでも大きく語られていたんですね。しかも、187票の差で杉並区の区長に任につくことになった岸本さんと、政治学者として菅政権にきらわれて学術会議名簿から外された宇野教授との対談です。どの様に「政治の疎外」問題はあるのか、同時にそうした「政治の疎外」を乗り越えていくためにはどのような努力が必要なのか。問題の所在や広がり、それを乗り越えていくためのヒントと試み。この対談と八王子市議会選挙で感じていた問題と、二重写しに重なって来るじゃないですか。それで、この八王子市からの依頼書です。ゴミ屋敷の廃棄物の束の中から再び見つけ出したんです。返事の締め切りが4月28日でしたから、セーフです。その中身は分からないんですよ。「タウンミーティング」的なものじゃないかとおもっているんですけど、私などには具体的なことは分かりません。未知数の依頼書なんですが。しかし、中身は分からないんですが、分からないなりにも、私などに出来うる努力をさぐってみようと。いま、返信をポストに投函してきたところです。私などの中で、この市議会議員選挙をとおして、「じゃまじゃま、こっちは今忙しいんだ」として捨ておいていたことが、「なんだかわからないけど、私なりにさぐってみようか」と、少しですが、意識が変化したということです。
2023年04月23日
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東京・多摩市の永山団地での朝市恒例になってますが、土曜の多摩市・永山団地での朝市がおわりました。今回は、地元のNPOが開設している野菜市と共催の「定例朝市」です。当方は、小田原から搬送して来た産物-甘夏、清見、サンポウカン、フキを並べました。柑橘は一袋300円、フキは一束150円なんですが。当方がいる間に販売できたのは、10,550円でした。この販売金額のうち、4割が生産した農家に、2割が場所を提供してくれてるNPOに支払われます。当方の収益は4割ということです。「三方が一両の得」、ということです。今回は、4月22日の午前9時から11時でしたが、永山団地は、いつもと比べても、いたって静かだったんです。不思議です。今日は、いっせい地方選挙の最終日なんです。ひらいた露店の正面には、多摩市の市議会議員選挙の公設掲示板があるんですが。普通であれば、「最後のお願いにうかがいました」と候補者カーが競い合うはずなんですが、ところが、いたって、まったくの音なしで、まったく静かなんです。これって、じつに不思議なことだ、と私などは感じました。その根拠ですが、1、多摩ニュータウンが開設された当時は、この永山団地から4,5人もの候補者が出たんです。永山団地の居住者の高齢化がすすんできた中で、ベテランは健在ですが、ここから出馬する人はいなかったんでしょうね。それはあくまで、外部に住んでいる私などの勝手な推測なんですが。2、選挙最終盤に来て、やわら当地は時の焦点になりました。この1-2週間の中で、統一協会が6300平米の土地と、そこの建物を買ってたことが明らかになりましたが、それは私などが朝市をひらいている永山団地の、そのすぐ裏手にあるんです。推測ですが、宗教法人は、その特権で免税措置があると思うんです。また、それだけの買収をするにはそれなりの政治家の側面支援があるはずなんです。隣接する八王子の有力者は自民党政調会長の萩生田こういち氏です。統一協会とべったり関係にある萩生田氏です。この隣接する多摩・稲城・八王子市には、勝共連合のチラシ「共産党にだまされるな」式のチラシがこの選挙でも撒かれてるんです。ねですから、この静かさは、私などには不思議なことでして。この国をゆるがす不正、人を苦しめている邪教ですが、その侵攻をとめるために、もっともっと、心ある良識は、大騒ぎしてあってしかるべきだと思うんですが。いまのところ、いたって「すべてことはなし」といった静かさなんです。だから私などは言ってやったんです。本来、みかんを宣伝するためのハンドマイクだったんですが、言ってやったんです。「明日は投票日だけど、私はだれを支持して欲しいなんて言わない。しかし、昨今の投票率をみると、50パーセント以下になっている。二人に一人が棄権している。自分勝手な政治は、ひどい政治は、棄権者が多くいることによってこそおこなわれてるんだから、もしも政治に不満な人は、あきらめたり、見捨てたりするんじゃなくて、あなたたちこそ、投票所にいって、この機会に、その意志を、見識をしめすべきだ」と。わかりますか。これって、ルソーの『社会契約論』をかつて読んで、その精神からしての「もじり」なんですが。私などが思うのに、民主主義革命を課題とする今の日本ですが、それは、1776年のアメリカ、1789年のフランスの人民が直面していた課題に、ようやくにして今、日本国民が直面しているということです。アジアと世界の諸国民が、いま苦難として抱えている諸問題ですが、そのどれもは日本の人民がその歴史の中で体験してきたことじゃないですか。だからこそ、それらの一つ一つを背負って、今こそ私たちが立つという時点に、我々は置かれてるんじゃないでしょうか。
2023年04月22日
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望月しょうへい候補の駅頭宣伝4月21日(金)、午後2時半から京王線南大沢駅で街頭演説会がありました。小池晃参議院議員、アオヤギ都議が、応援に来てくれました。演説の内容を紹介したかったんですが、私の技術不足で、パソコンに取り込んだ写真を、ブログの容量に変更することが問題でして、それで、てんてこ舞いした次第でして。今回は、写真のみの紹介です。
2023年04月21日
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ハンドマイクでの地域宣伝4月21日(金)、東京・八王子の鹿島地域で、ハンドマイクでの宣伝活動をしました。八王子市は、明後日に投票の八王子市議会選挙があるだけですから、選挙の支持にふれなければ、政治宣伝でのハンドマイクの使用は認められてるんですね。そこで、地域のあちこちの4か所で宣伝活動をしました。こいのぼりと藤棚の下でしたが。静かな団地に、「大軍拡ノー、平和・くらし・子育ての願いを共産党へ」-共産党の政策宣伝の声が響きわたりました。大軍拡の財源をねん出しようと、市政をも巻き込んで、市民の暮らしへの圧迫が行われています。八王子市では、6年間連続の国民健康保険税の値上げです。三多摩で一番高い国保税の負担が市民に押し付けられてます。市民と共産党の「国保税の値上げストップするように」との請願は、自民・公明・他の会派議員の反対で、否決されてきた。それでいて、選挙になれば「市民の暮らしを守る」といってるんですから、あきれて、開いた口が塞がらないのですが。まぁ、それが選挙です。有権者には、建て前の綺麗な文句と、実際に取っている態度との違いを、識別する力が求められてます。日ごろの議会の動きが伝わって来にくいのも、そこには、本当の姿が伝わってほしくないという力が働いてるんですね。市民の目が届かないところで、勝手な政治が行われてるんですね。だから、6年連続の国保税の値上げもすすめられ、体育館へのエアコンの設置も進まないんですね。軍事予算のために、生活関連の予算が抑えられつつあるんですね。そうであればこそ、選挙というのは、それまでの政治の実際をつかんで、主権者-国民・市民が、政治を自分たちの手にとりもどすための機会なんですね。ハンドマイクを使っての話は、うまくはしゃべれなかったんですが、少なくとも思いのたけを、思いっきり発散させてもらいました。「このつぎには、もっとわかりやすく、もっと根本的・全体的に話してやるぞ!」と、あらためて決意したところです。
2023年04月21日
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農家にとって明日への希望人は言うかもしれません、「この選挙のくそ忙しい最中に、みかん畑の草取りに行くなんて」、と。東京・八王子市の市議会議員選挙で、住んでいる鹿島商店街での候補者の街頭演説を聞いて、直ちに小田原へ行きました。今回の課題は、みかんの木の根回りの草取りと元肥の施肥が基本ですが。上の写真は、真鶴のみかん園でのこと、午前中にひと作業した結果です。3本の木に対して、草取りと元肥の施肥をしてきました。問題は、そのあとだったんです。今回の場合、なによりも、知人のみかん園園主さんの、その息子さんと一緒に、みかん畑の草刈りをすること。これが主題でした。今はいっせい地方選挙の最終盤ですから、候補者も各陣営も必死な追い込みをしていると思います。そんな選挙の最中にあって、「畑の草取りとは何事か‼」と、おそらく国民の9割がたの人たちの声があったとしても、おかしくはありません。でもね、農家にとっては、やらなければならないこともあるんです。雨が降ろうと、槍が降ろうと、自然を相手にして、やらなければならない仕事というものがあるんです。もちろん、何事にも、事の多少のやりくりというのは、当然あるんですが。今回の一番は、一般的には、みかんの根回りの草取りと、元肥の施肥ですが。これは、一週間くらいの前後があっても、とくには問題はないんですが、しかし、ある期間の中で、必ず終わらせなければならないんです。それにもある程度の幅はあるんですが。それでも、雨が降ろうと、槍が降ろうと、選挙があろうと、ある期間の中には、自然相手の農家の仕事というのには、必ず終わらせなければならないことがあるんです。そこには、人間社会の都合に合わせるわけにはいかない面があるんですね。例えば収穫があります。この時までに収獲をしておかないと、せっかく育てた果実が落下してしまったり、野菜が育ちすぎたり、時を逃すと、せっかくのものが三級品に変質してしまうこともあるんです。収獲には、守らなければならない「適時」というタイミングがあるんですね。今は草刈りと元肥を施肥するときなんですが、その前にしっかり草刈りしておかないと、せっかくまいた肥料が雑草にたいして肥料を与えるような結果になります。草刈りのタイミングが遅れると、雑草が強力になって、大変な草刈り作業になってしまいます。ようは、こうした自然相手の農家にとっては、たとえ政治が4月23日に選挙の投票を設定されたとしても、それでもそれまでにやっておかなければならない仕事というものがあるんですね。なんとも、この時が決定的な瞬間であるとの政治家と、自然相手の農家との、そのちがいをしめす事柄です。しかし、農家にとっても政治は重要です。農家の営農の今と明日は、この政治選択によって、その結果によって、大きく左右されるんですから。この強い陽射しの下で、草刈り仕事に汗を流していたとしても、その農家の人たちにとって、社会的なアンテナをしっかりとはっておかないと、「TPPが強行されたように」「農産物の自由化がはかられ作物転換をよぎなくされたように」「国内コメはきりすてて、外国米を輸入しているように」・・・、亡国の農政、農家と国民を切りすてるような政治家が横行して、みずからの首を絞めるような政治をすすめている。正確な社会の状況をキャッチしていないと、そんな政治にたいして、選挙で投票するような農民がでてくるわけです。「あの人に任せておけば、悪いことはない」なんて軽信して。そんなふがいない生き方をしていると、子どもたちにむねをはって農地のあとを継がせる事態は、営農を未来に引き継ぐ保証が喪失しちゃうわけです。都会人や消費者には、そうした農家の実情は知られていません。孤立した苦労です。まぁ、それが「高度成長」期をはさんでの、それ以降の、今日までの農家のおかれた状況です。そんな中、今回、初めてのことなんですが、ある若ものと、一緒にみかん畑の草刈りをしました。こまかな事情は、ここでは紹介できないんですが、そんな余裕がないんですが。おいおい、それがどの様なことであり、どの様な流れになっていくか、今後のなかで紹介できると思います。ただ、私などが感じていることは、もしかして、今回の草刈りは、日本の農家にとって、決定的な未来につながる一歩となるかもしれません。もちろん私などは、それを願っていて、そのために苦労をしてるんですが。もしかして、日本の未来につながる第一歩が、ここに始まりだしたのかもしれません。私などには、そんな気持ちをいだかしてくれる、今回のみかん園行きでした。
2023年04月20日
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