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寒さの中にも、春の到来か2月7日の富士山です。今の時期が、一年のなかで一番寒い時期でしょうか。先日、援農の方たちの力を借りて、フキの畑に倒れかけた竹を切り払ったんですが、そのあとを見てみたら、春の兆しです、そこにフキノトウが5個ですが、発芽していました。寒さの中にも、春がすぐそこまで来ているということです。今回の小田原・早川のみかん園行きですが、その課題は、1、防鳥ネットを大まかにでも張おえること。2、みかんの収穫の際、密集した枝や枯れた枝を切り落としてあったんですが、その切り枝を集めて野焼きすること。3、みかん農家の小屋に残されているみかんをあずかって、東京・多摩の団地に搬送することでした。今時のみかん園の状況です。のどかで、静かなものですが。確かに今は、主力の作物の温州みかんの収穫はおえています。みかん畑からは温州みかんは消えました。農家は、みかん小屋から農協の選果場に収穫したみかんを運んでいます。農閑期といえば、農閑期ともいえるんですが、収穫した温州みかんですが、これを農協への出荷をはじめ、販売しきらなければなりません。そして、さらに次の中晩柑-清見、湘南ゴールド、日向夏などが、次に控えています。越冬したヒヨドリは、これをお腹を空かせて狙ってますから、防鳥ネットを被せなければなりません。この間に枯れたり密集した枝を剪定してますから、その切り枝を後始末しなければなりません、野焼きです。なんやかんやと、みかん農家の仕事は無いように見えますが、とんでもないんですね。この寒さの中でも、表には見えない裏方作業が大事になっている時なんですね。都会人の認識には、お金をたせしさえすれば、いつでも自由にみかんは手に入るわけですが、八百屋さんにみかんが並ぶためには、どの様な農家の努力が必要なのか、政治家もそうですが、ほとんど実情が認識されてないんですね。「お金をたせしさえすれば、いつでも自由にみかんは手に入る」と思ってるんです。この実際知らずめ! 自分勝手なやろうどもめ! とムカムカすることもあるんですが。それが今の政治社会の実際です。しかし、今回嬉しいことがありました。箱根に住んでいるご夫婦が、みかん園にこの時期にですよ、やってきてくれました。なぜ、この時期に来てくれたかというと、「みかん栽培をやってみたい」「手伝ってみたい」というんです。それが、たんなる瞬間的な思い付きじゃないんですよ。お聞きしたら、この10年間、静岡県の興津まで、みかん農家の支援に通っていたというです。その農家の園主が、高齢化のためにみかん園を閉じることになったというんです。「近くに手入れできるみかん園がないか」と、そんなことで、この間に当園に援農に来てくれている知人ですが、その知人がそのご夫婦を引き合わせてくれたんです。もちろん、その現実性は、これから展開してみなければ、分からないんですが。しかし、私なんかにとっては、放任化が広がりかねないみかん園をみていて、出来る限りの対応はしているつもりですが、自分自身の体力というのは限られているわけですから、どうしたものか、まわりの事態を知るにつれて、ますますモヤモヤしていたんですね。無能で無力な政治社会、その無理解にたいして腹を立ててるんですね。そうした中で、こうした奇特なご夫婦が出てくるなんて、もちろんまだ、現実性のほどは未知数ですが、しかし、初めての短時間の共同でしたが、今後への希望と期待をもって注目したんですね。わたしなどは、前日まで、みかん園の園主と話していたんです。「私などの労働の賞味期限の切れる8年だし、そのうちに、みかん畑の明日への見通しは出てくるのか」と。その会話の基調は、天下の動きも足元の目途も暗くて、多分にやけっばちな会話だったんですが。しかしですよ、そんな会話の翌日にですよ、こうした人が出てきたということは。もしかして、ここには、日本と世界がどんなに混迷しようとも、それは私ごときが逆立ちしても解決は出来ませんが。もちろん最大限あがきますが。同時に、自分たちの足元の問題です。自分の足元の見通しがたたずして、天下国家もないじゃないですか。自分自身の係わりを抜きにした天下国家論なんで、まったくのカラ文句になるじゃないですか。そんなボヤキをかわしていた直ぐ後に、翌日にこうした奇特な人との出会いがあったんです。もちろん、期待と現実は、実際に展開してみないとわからないんですが。それでも、もしかして、ここからは、次につながる芽が、これからはじまる共同作業の中から、新たな何かが出てくるかもしれない。もしそうなれば、これからのみかん栽培も捨てたもんじゃない。そんな夢がわいてくるような、昨日の嬉しい出会いのひと時でした。
2023年02月09日
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福田静夫『ヘーゲル世界史』講座はあと二回です当方は、昨年の3月からこの「福田静夫先生と学ぶ『ヘーゲルを読む会』」に参加させてもい、『法の哲学』国家論を学習してきたんですが。福田静夫先生は、日本福祉大学の名誉教授で、1932年生れですから91歳です。昨年11月に『法の哲学』講座を終了したんですが。最後の「世界史」に関連して、現在、その補講として『歴史哲学』(『世界史の哲学講義』(下)の第四部ゲルマン世界)を4回で学習しています。数日前に1月22日開催された第二回「ヘーゲル『世界史の哲学』」講座の録音CDが到着しました。その便りの中で、『2002年6月からスタートした「ヘーゲルを読む会」は、2018年からの『法の哲学』とその補講『世界史の哲学講義』まで延べ226回をついやしてヘーゲル哲学の全体系・真髄を、福田先生のご尽力で通読し、あと2回でひとまず終了いたします』との案内がそえられていました。私などは、新聞に紹介された講座案内を知人に紹介されて、福田静夫先生となり、『ヘーゲルを読む会』となりを、はじめて知ったんですが。この学習会は、月に1回のペースですが、コロナのおかげでズーム学習の形をとっていた。私などは、そのおかげで、名古屋で開かれている学習会ですが、東京から参加できている次第です。今回の第2回『世界史』講座をCDで聞かせていただいての感想です。一、福田先生は「ヘーゲル読み」と言っておられるんですが、一つの学習方法をアドバイスしてくれてるんです。難書とされるヘーゲルですが、節ごとに番号をつけて、その中身についてポイントとなる点を一つ一つ丁寧に読んでいきます。これは、その本が難しいことから、とかく勝手な解釈論や権威者の注釈のオウム返しといったことが多いヘーゲル論ですが、正確にヘーゲルのいっていることを理解する、その前提になることですね。当たり前といえば、場当たり前なんですが、だいたいそれが弱いんです。だから勝手な解釈論になるんです。また、福田先生は原典を、大事な点は自ら翻訳して、その正確な意味をとらえようとされてます。これなんかも、なかなか出来ることじゃありませんね。長年の学問的な良心が追究されてきた努力の結果です。それと「ヘーゲル読み」と言っているのは、弁証法の精神ということなんですね。これをにぎりつつ個々の問題にあたると、今日的意義であるとか、今日的な発展形態の先駆的・原理的な解明が、200年前のヘーゲルなんですが、そこから見えてくるということだと思います。二、勝手に、あとは連ねますが。1、ヘーゲルは立憲君主制を説いています。戦前の日本の天皇機関説がうけた苦難を思へば、ヘーゲルのポリシーがうかがえます。イギリスやフランスの憲法体制をプロイセンに根付かせようとしているんですね。200年後の今日の日本をみると、なんと政治家は科学を学ばないものかと、あきれさせられますが。これもまた、学問的なたたかいの歴史において、一つの避けられない形態なんですね。2、国家と宗教との問題。これはヨーロッパの歴史がしめしている教訓ですが、ヘーゲルはそれを語っています。思想信条の自由とは、信仰の自由とは、学問の自由とは、この近代民主主義の問題を、カントやヘーゲル、そしてマルクスが展開しています。これもまた、日本では統一協会問題などに見られる問題、戦前の大日本帝国憲法の宗教論、治安維持や侵略戦争への反省の問題、これは現在のもつ日本近代の制約ですね。さらに周りを見れば、レーニンの社会主義の理論と努力を投げ捨てている今日のロシアのウクライナ侵略や中国の人権問題など、これらをみるにつけ、現在のもつ歴史的な課題だということです。等々、たくさんの示唆がここにはあります。3、一番の問題は、抽象的になりますが、弁証法だと思うんですよ。ただし、それは抽象的な一般的なもの(真理)でして、個別の問題には、そのものの中から関連を引き出してくる必要があるわけででして、それは人類の全体の努力により、一つ一つ花をそえられていくものであり、個々人の固有の努力にかかっているわけです。マルクスの『資本論』しかり、ヘーゲルの個々の領域での探究しかり。こうした成果をもたらされた後に生きている我々としては、91歳の福田先生が、生き生きと旺盛な探究心をもって臨んでおられるように、我々もまた頑張らなければ、もったいない。いったい何のために生きてきたのか、いきているのか。人の人生というのは短いよ、ということを示していると思います。もう時間切れです、今回は雑駁な報告です。
2023年02月07日
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みかん朝市、ここからが始まり2月4日(土)午前10時15分、多摩市の団地で、恒例のみかんの朝市が終了しました。温州みかんの青島ですが、販売の最終段階にあります。今回も23袋くらいが売れました。この時期、みかん農家は、まだ大量のみかんを小屋にかかえています。すでに農協は集荷を終えてますから、それらは自分たちで「自主的に」販売しなければなりません。当方は、この販売出来きずに残っているみかんですが、それを農家からあずかって、団地で販売することで協力するわけです。味は良いのですよ、それを放置しておくなんて、もったいないじゃないですか。中期柑橘が出てくる前までですが、なるべく販売するようにしています。この1月は、毎週のように、みかん畑に援農が来てくれました。そのおかげで、温州みかんの木からの完全収穫(残払い)が完全に終わり、切り枝を集めることや、野焼きすることも、大いにすすんでいます。中・後期柑橘に対する防鳥ネットの網掛けもすすんでいます。いろいろな仕事を抱えて、一人り思いのうちで右往左往している場合と違って、あれこれと懸案の仕事がもつれ合っていた状態と違って、一つ一つの仕事が片付いて、それまでのモヤモヤした懸案意識から消えていくわけです。そして次の仕事にたいして、正面から向き合えるようになるわけで、一人でやっていると、クタクタで伸びきったゴムの様になっちゃうんですが、援農者のおかげで、収縮力・集中力を回復してくれて、みかん畑の課題が広く見えてくるようになるんですね。最初は、収穫を手伝ってくれることから始まった援農でしたが、次々に、よろずの懸案事項を、具体的に実践してくれるわけで、これは、私などにとっては、じつに大助かりです。一人、くたびれている様じゃダメなんですね。ということで、2月を頑張るということです。
2023年02月04日
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みかん朝市、ここからが始まり2月4日(土)午前10時15分、多摩市の団地で、恒例のみかんの朝市が終了しました。温州みかんの青島ですが、販売の最終段階にあります。今回も23袋くらいが売れました。この時期、みかん農家は、まだ大量のみかんを小屋にかかえています。すでに農協は集荷を終えてますから、それらは自分たちで「自主的に」販売しなければなりません。当方は、この販売出来きずに残っているみかんですが、それを農家からあずかって、団地で販売することで協力するわけです。味は良いのですよ、それを放置しておくなんて、もったいないじゃないですか。中期柑橘が出てくる前までですが、なるべく販売するようにしています。この1月は、毎週のように、みかん畑に援農が来てくれました。そのおかげで、温州みかんの木からの完全収穫(残払い)が完全に終わり、切り枝を集めることや、野焼きすることも、大いにすすんでいます。中・後期柑橘に対する防鳥ネットの網掛けもすすんでいます。いろいろな仕事を抱えて、一人り思いのうちで右往左往している場合と違って、あれこれと懸案の仕事がもつれ合っていた状態と違って、一つ一つの仕事が片付いて、それまでのモヤモヤした懸案意識から消えていくわけです。そして次の仕事にたいして、正面から向き合えるようになるわけで、一人でやっていると、クタクタで伸びきったゴムの様になっちゃうんですが、援農者のおかげで、収縮力・集中力を回復してくれて、みかん畑の課題が広く見えてくるようになるんですね。最初は、収穫を手伝ってくれることから始まった援農でしたが、次々に、よろずの懸案事項を、具体的に実践してくれるわけで、これは、私などにとっては、じつに大助かりです。一人、くたびれている様じゃダメなんですね。ということで、2月を頑張るということです。
2023年02月04日
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日本の平和と命を守る為に何が問題か1月31日、衆議院の予算委員会で共産党の志位和夫議員の質疑がかわされました。この問題は重要だと思うんですよ。岸田内閣が現在すすめつつある日本を戦争に巻き込む軍事大国化、そのもつ危険について、真正面から問うものとなったと思います。当方は、質疑があることは知っていましたが、日中は畑仕事があって、テレビの生中継は見れないので、後からフォローすることになるんです。第一は、例によって新聞より議事録で活字を追いながら、インターネットの録画中継をみました。「しんぶん赤旗」の2月2日付ですが、岸田首相と志位議員の討論について、その全文が掲載されてました。もう一つ、衆議院インターネット審議中継 (shugiintv.go.jp)を活用させてもらってます。1月31日の、本会議の、志位和夫議員をクイックすれば、討論の録画がみれます。48分間でしたが。一方で、中継だけ見ていると、質問とその答えのかみあいが、よくわからないんです。質問は分かるんですが、それに対する答えですが、答えはしてるんですが、何をどう答えたのかどうもよく聞き取れず、明確にならないんですね。他方、新聞の活字だけからすると、全体は長いし、活字からだけから、その議論されていることの真相を読み取り理解するのは、よほど活字文章に慣れてないと、これまた難しいんですね。とくにくたびれたりしていると。子守歌になっちゃうんです。ところが、この二つが合わさると、討論の真相が見えてきます。「しんぶん赤旗」2月2日は、議事録です。両者の発言をそのままに見ることが出来ます。これってすごいですよ。国会がつくる議事録は出来上がるのには、1カ月くらいの時間がかかるんじゃないでしょうか。1月31日に行われた質疑ですが、それを、翌々日の2月2日の朝には新聞に掲載されて各家庭に届けられたんですから。これは超人的なこと、おそらく集団による作業のなせるわざじゃないでしょうか。私などの体験では、録音されたことをテープ起こしするにはかなりの時間がかかるはずなんですが。機械があるわけじゃないと思うんですが、あったとしてもそれを精査するだけでも、かなりの時間がかかります。それなのに、手元に翌々日の2日朝には、その討議が議事録となって届けられたんです。これはすごい。どうしても正確に理解するには、これが欠かせないじゃないですか。ここに赤旗編集局の執念を感じました。問われたことを誤魔かす岸田政権の不誠実な態度とくらべると、月とスッポンです。第二は、一般紙はそれをどの様に扱っていたのか、ですが。これは、一般紙の1月31日予算委員会の報道です。もちろん、志位議員だけでも48分です。この日の予算委員会では、14人くらいの人が質問していたんじゃないでしょうか。そうなると、一般紙が紹介できるのは、一人ひとりについては、ほんのごく一部分なんですね。そうなると、その切り取った2問2答が、質問全体の本質を的確に紹介するものとなっているか、ですが。これは、記者の人がどう努力したとしても、限られた紙面ですから、もう無理なんですかね。誰が質問したか、大体どんなことを聞いたのか。どのメディアもそうでしょうが、それが誠実だったとしても、その担当者がいくら頑張たとしても、編集のフィルターにかかると、せいぜいのところだれが質問したかくらいのことしか分からないんです。(現場の記者は頑張ってると思うんですが)。こうした事情ですから、国会の質疑の真相が、国民の多数にはリアルに伝わらないというのは、当然なんですね。国民にとっては、いくら国会の質疑が大事で、一生懸命聞く耳をたてたとしてもですよ、そこで交わされた質疑について、その真相を知り得ないというのは、当然なわけです。まさに、その点が問題なわけです。三、しかし、そうであるからこそ、私などもこの認識の壁を破って、たとえ日々の仕事でくたくたになっていたとしても、国家の重大な動向についての真実をつかみ取る必要があると思うんですね。確かに、日本を戦争に巻き込む道に突き進みつつある、この危険を明らかにしている質問です。憲法のこれまでの第9条の解釈を投げ捨てて、敵基地攻撃の武器を買おうとする方針です。アメリカ軍と一体になって他国への戦争に参加しようという方針です。ところがそれに対して、岸田首相は、あれこれ「憲法解釈は変わらない」とか、答えにならない答えをしている。勝手な言葉を並べるだけで、でたらめな答弁になってない答弁をしている。かっこだけはもっともそうだけど、中身はひどい答えであり、討論です。しかし、それが自民党以外の応援団の助けを得て、まかり通っている構造なんです。そうした事態が分かったら、本当に頭に来ますね。こんな人たちが、われわれの代表だなんて。しかも、これが今のまま進んだら、国民がどんなことに駆り立てられることになるか、です。それは、まったく戦前の国民の苦難を、ふたたびくりかえすということじゃないですか。そこには保守も革新もありません、国民的な歴史的に経験してきたところの事実です。しかし、聞いていると、確かなこととして、二つ明確なことがあります。一つは、質問者はシャープに議論の筋とその意味をつかんでるんですね。2月1日付の「しんぶん赤旗」に、志位議員の質問したあとの記者会見が出ています。(本日の・2月3日の付の「しんぶん赤旗」には、それが詳しく報道されていました)。インターネットの共産党のホームページには、その録画がユーチューブで配信されてるんですが。問題の真実をリアルにつかむのには、これが大変参考になります。もう一つは、同じく「しんぶん赤旗」の2月1日付ですが。ここでは、論点を4点にわたって整理してくれてるんです。これは、議事録や中継からつかみとるには、そうしたバリアーの関係でなかなかそうした議論の対立点をつかむのは難しいんですが。そりゃぁそうです、岸田首相はじめ官僚機構が総ぐるみで、平然として議論をはぐらかそうとしていますから。その議論の本質的中身をわかりやすく明確にしてくれてます。これが本来の、ジャーナリストの姿だと思うんですが。四、私などは、素直な方ですから、何を答えたのか岸田首相の答弁の中身を一生懸命に聞き耳を立てたんですが。海千山千の相手はさるものです、まだモヤモヤしたものを残すものとなってます。大事なことは、何が真相かを解釈することではなくて、事態を変革することです。この質疑を解明することは大事ですよ、しかもそれを早くすることは、大事な課題なんです。今、私なども国民の一人として、その認識能力が問われているんです。そしてそれは、この政治的なごまかそうとする仕組みを、打ち破る力が求められてます。私たちの税金からほうがいな武器を5年間で43兆円もつかおうとしてるんですから。その行き着く先は戦争ですね。いくら誤魔化そうとしても、見えてくるじゃないですか。この道をとめるには、事態の流れを変えるには、どうするか。今、この時に、私たちにそのための努力が求められているということです。以上、1月31日衆議院予算委員会の質疑が提起している問題です。
2023年02月03日
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テレビで会えない芸人-松元ヒロ「東京新聞」の1月24日から、松元ヒロさんの全10話の連載がはじまってます。この報道で、「松元ヒロ」という名前を、はじめて知ったんですが。「みなさん、ようこそいらっしゃいました」「『テレビで会えない芸人』なんです」1月24日付の「東京新聞」、この日から始まった10回連載の第1話、そこからの断片です。小田原のみかん園から帰って、本日・2月2日、あらためて新聞を日付順に並べてみました。この全十回の連載は、今日は7回目だったんですが。「ザ・ニュースペーパー」の社会風刺、社会党委員長の村山富市氏の物まね、TBS「NEWS23」筑紫哲也氏との共演、・・・私などの記憶にも、そのどこかに記憶にはあったように思いますが。まだ、全10回の連載予定の、2月2日は第7回ですから、まだその途中なんですが。どうも、その一回一回が、今の社会状況による当人のつぶやきを語ってくれているようで、これは、聞きのがせない、注目の話なんですね。第7回目の、本日・2月2日付では、憲法施行50周年記念のイベントで「憲法くん」を演じた時の経緯とのことです。憲法学者の水島朝穂さんとの打ち合わせてつくられた。その演技発表が、作家の井上ひさしさんの注目となり、氏のホーム基盤の山形県に呼ばれる。井上さんは「憲法の前文はまさに名文だということに確信を持ちました」と、語られたというんですね。今の日本社会にあって、ふつう客観評価がされるのは、その人が死去したあとでしょう。死人に口なしですから、どうとでも勝手な評論が出来るわけです。しかし、現実は生きているんですから、勝手な批評は、当人が抗論しますから出来ません。勝手な評価というのは、そんな人の墓穴をほることになるわけです。今に生きている人は、誤解や濡れ衣を払しょくするとの、力を持ってますから。私などは思うんですよ。何で松元ヒロという芸人が、「ザ・ニュースペーパー」の名がかつて記憶にあり、その演ずる話が注目されていたのに・・・。それがいつのまにかテレビに出演できなくされていたそうで、私たちの耳目から消されるようになっていたのか。この連載にかたられていることだすが、それらのからくりを明かすものとして、これはまったくもって見捨てておけないじゃないですか。それは抑えておくこととして、まずは残り3話ですが、勝手な先入観や、すべての判断の良しも悪しも、のぞくようにして、この続きの話に注目したいと思います。ここには、「表現の自由」がかかっていると思います。「思想の尊厳」かかっていると思います。社会的な「自由」ということがかかっていると思います。
2023年02月02日
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半藤一利著「日本人の宿題」2021年1月に作家の半藤一利氏は亡くなられているんですが。たまたま1月14日の夜中でしたが、NHKのアーカイブで半藤一利氏を紹介する放映がありました。この番組は、素晴らしいものでした。それは私のこれまでの半藤一利にたいする理解に誤解があったことを示してくれました。私などは、だいぶ以前に、『日本の一番長い日』を見ていたんです。その時の印象として、敗戦の日の一日を巡っての、いろいろな人たちの葛藤が描かれてたんですが。その客観的に展開されるドラマでしたが、その意味が、ただただ「客観的」な状況をあつめたものとしか、見れなかったんですね。ところが、このアーカイブで語られている思いを聞くと、知らなかったんですが、著者がどの様な動機でこの作品を書いたのか。第二次大戦での日本の戦争体験への今日的な反省が、基本に強くあったんですね。何かしら一冊くらいは、そんな半藤氏の声を聞けるような著作を読んでみたいと思っていたところ、たまたまでしたが、一冊の本を入手しました。 半藤一利著『日本人の宿題』(NHK出版 2022.1.10)ですが。この本は、素晴らしい本ですね。半藤氏が亡くなられた直後に刊行されたものですが。そのNHKの番組の映像ですが、それは様々なものから集めて編集されたんですね。この本は、そのもとともなる話が、切られずにそのものが紹介されていたんです。一番の共感するところは、戦争体験者がどんどんなくなってるじゃないですか。この忌まわしい体験を、後世の私たちが繰り返させないために、その体験を、真相を、反省を伝えたいとの、その思いですね。昨今、国の政権が、おかしな方向へ引っ張ろうとしている折、私の紹介は多分に舌足らずなんですが、この半藤一利氏が最後に語っていたこと、氏の遺言といってよいでしょうが、今は亡くなっている人たちも含めて、国民の底深い思いとして、受けとめたいと思っています。
2023年01月30日
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戦争か平和か、大きな綱引きです第211通常国会の、1月27日の参議院代表質問が行われました。共産党・小池晃議員の質問ですが、今、日本がすすもうとしている戦争への道を批判して、平和への転換を対置しました。国民は、他国への攻撃軍備を、5年間で43兆円もつぎ込もうなんてことを、願ってませんね。しかし、岸田施政方針演説は、その方向を突っ走しることを宣言しました。今や、この政治の流れを、誰がどの政党が、どのように切り替えさせるのか、国民は注目しています。この小池質問は、分かりやすく、明確な形で政治転換を求めました。しかもその正論は、なによりも強力な気迫をもって、首相に対し問いかけたんです。正しさとともに、この気迫が大事ですね。その演説ですが、参議院のインターネットで録画を見ることが出来ます。参議院インターネット審議中継 (sangiin.go.jp)1月27日の、本会議での、小池晃議員を、クイックすれば、それを見ることが出来ます。その気迫に岸田首相の押されたようで、首相も気迫をもって答弁しようとするんですが、なんたって、中身がなく官僚とねりあげたごまかしの台本ですから、力を入れれば入れるほど中身がない、答えになってない、そうしたごまかしが見えてくるんです。それは、聞いているすべての議員の心にも、共感を感じさせるような質問になっていると思いますよ。報道では他の党の議員からも、拍手が起こったというんですから。ただ、今の国会の動きは、危険です。国民から切り離された、国会の世界の中で、そこですすめられていることですから。岸田内閣は、公明党の協力を得て、その他の応援もえて、議員の多数派でその道を遮二無に推し進めてきているでしょう。この政治の流れを変えるというのは、議会内ではその方が多数ですから、大変な仕事です。議会と国民とをつなぐ必要があるわけです。とにかく、戦争を呼び込むような道をやめさせなければなりません。この政治転換をつくりだすためには、私たちは正確に論戦状況をキャッチする必要があります。岸田首相のあつかましさは、応援団があるからです。不人気な首相の路線を、誰が助けているのか。「私も政権に参加させてよ」と。とにかく、この議論の中身を正確につかむ必要があると思うんです。本日付け・1月28日付の「しんぶん赤旗」に、小池質問の全文が出ています。ただ、これだけでは議場の、大事な気迫ある雰囲気は伝わってきません。少数であっても、正論は議場を瞬間的にであっても、支配することは出来るんです。打開する道が見えてくるんです、今回の質問はそんな瞬間じゃなかったでしょうか。いくら煙たくても、封じたくても、おこなわれた論戦を消し去ることは出来ません。したがって、活字で中身をつかむとともに、あわせてインターネットでの目と耳で、カバーする。この努力をすることが、今必要じゃないかとおもいます。正確に、リアルに論戦の実際をつかむこと、そのことが、この大事な転換をつくる土台になると思います。打開の道が見えてくると思います。ということで、この論戦を、読み、かつ視聴することを、おすすめします。
2023年01月28日
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温州みかんの収穫は終了多摩市の永山団地での、1月28日の朝市です。この冬一番の寒気が来ているそうで、富士山は真っ白、大山にも雪がうっすらとのってます。朝市は多摩ニュータウンの団地のビル風にさらされて、人通りもいたって少ないんですが。その寒さの中ですが、ありがたいことに、レモンを予約していた人だすが、寒さの中を出かけて来てくれました。小田原・早川の石垣山のみかん園ですが、温州みかんの収穫は、すでにおえています。寒さが厳しくなると、温州みかんは劣化しますから、その前に収穫を終わらしています。農家のみかん小屋の中は、出荷を待つ温州みかんで、いっぱいになっていると思います。当方の残りはあと1コンテナ(20キロ)とわずかなんですが、近所の農家は、B級のみかんをたくさん抱えてますから、味は太鼓判でして、もったいないですから、私などはその販売に協力しています。柑橘は、温州みかんのつぎには、中期柑橘がはじまります。主力の温州みかんに比べたら、その量は少ないんですが。1月26日には、真鶴のみかん園ですが、伊予柑を収穫しました。少し小屋において、美味しくなってから出荷します。清見オレンジも、次に控えています。このあたりから、防鳥ネットの網掛けをしておかないと、ヒヨドリに食べられちゃいます。その次は、湘南ゴールドです。そして日向夏(ニューサマー)です。こうして、収穫量は少ないんですが、バラエティーな柑橘を、5月の最後の甘夏まで、楽しめるようにしています。まわりの農家は、このほかにも、金柑やレモン、ネーブル、清見などを栽培しています。11月から5月までは、何らかの柑橘が楽しめるようになっているわけです。
2023年01月28日
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施政方針演説と志位代表質問に思う第211通常国会が1月23日にはじまった。岸田首相の施政方針演説は、ふつうは仕事で国会中継を見ることはないんだけれど、今回は見た。翌日には、その演説の全文が新聞に掲載された。一、まず、施政方針演説についてですが。その演説は活字にすると、文章としてはよくできています。しかし、直接にテレビ中継で見たときに、気になっていたことがありました。一つは、ある個所では、ノー原稿のようにすらすらと内側から語っているところがあるのと、又、他の箇所では、読み違えをして言い直すところの二つの場合があったこと。もちろんそんなことは、新聞の演説全文の活字からは、まったくわからないんですが。「戦後77年たったが今、我々は再び歴史の分岐点に立っています。‥こうした現実を前に、今こそ、新たな方向に足を踏み出さなければならない」「5年間で43兆円の防衛予算を確保し、相手に攻撃を思いとどまらせるための反撃能力の確保、・・・」などといったところは、内からの舌の滑らかな箇所です。他方、国民の要求に関する部分ですが、言い間違いして、いい直しというか読み直しの箇所ですが、子ども・子育て対策では、「まずは、方々の意見を徹底的にお伺いするところから始めます。本年4月に発足する家庭庁で政策を取りまとめつつ、6月の骨太方針までに、将来に向けた大枠を提示します。」農林水産業については、「夢を持って働ける、稼げる産業とすることを目指します。さらなる輸出拡大支援をすすめます」などなど。これらの国民要求部分については、これから「おうかがいする」とか、これから「政策を取りまとめる」とかいってますが、すでに何年も、何十年も前々から問題な事態があるわけです。こうした部分についての心の無さが、演説原稿の読み違えなどに出ていたんですね。ようするに岸田内閣は、どこに重点をもっているのか。頭の良い人たちが練った文章ですから、もっともそうな長文ですが、その中のどこに力点があるのか。それが見えてきたんですね。ようするに、今の日本の国のあり方を、軍備増強にむけてかえ、それを基軸につきすすむとの姿勢が、演説のトーン(精神)からつたわってきたんですね。だきるだけ当たり障りないように、あいまいさに包んだ形で。二、ズバリ言えば、この政治方向は戦争を呼び込むこととなる道ですから、この政治を変えなければならないんですが。昨日・今日の新聞には、各党の代表質問が掲載されました。みかん農夫は、普通の人というのは働いてますから、後からそれをフォローするしかないんですが。新聞を開いてみたんですが。そこから分かったことですが、一つ、もちろん「国民の安全のために」は、自民党でも野党でも、うたい文句は同じですが、注意して見ると、その中に対応の違いがあるんですね。新聞は、演説の一部分を切り取って活字にするしか、仕方ないんですが。そして、私たちはその一部から、事態をつかみ、判断するしかないんですが。もっともしっかりと、その道はおかしいし、危険であり、変えるべきだと主張しているのは共産党の志位委員長ですね。一般の新聞では、その新聞社によっての切り取りになりますが、「しんぶん赤旗」ではその演説の全文がわかります。国会で議論もしないのに閣議で決めた、国会より先にアメリカに報告してきた、中身が自国の防衛じゃなくなる、国民の暮らしから軍事費をねん出しようとしている、等々の7つの問題点を提起しています。二つ、野党の中には、もちろんいろいろな立場・主張があります。「反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有への道が開かれ、戦争を抑止する真の平和主義にかじを切ったことは評価する。防衛費増額には賛成だが、財源を得るために増税は避けられないという政府、与党の説明には違和感を禁じ得ない」などと主張する党もあります。このように軍備増強は賛成だが増税については反対だ、との立場もあります。国民の平和・民主の基本的な思いですが、どの様な党が、どの様に共闘を組むことで、戦争への道をとめれて、願わしい方向に道を開くのか。その道を開く野党を見極める力が、今国民に問われているということです。三つには、それにしても代表質問がしめしているのは。閣僚と官僚組織の答弁というのは、聞かれた質問を誤魔化すことにおいて、まったくの名人ですね。もっともそうなことを答えとしてペラペラとしゃべるんですが、まったく人を食った答えです。答えになってない、答えなんです。国家の優秀な頭を集めるというのは、その使われ方というのは、じつにこんなものなんですね。もう一度、小学校から教育をやり直さなければ、はぐらかしの答弁書づくりばかりが評価されるような体質を、そうした状況を変えなければならないということです。そうしないと、「政治とはごまかしである」などと、裸の王様の状態がその世界の中で大手を振っているということです。そんなことが、施政方針演説と、代表質問の一部分を聞いて、感じさせられました。国民が、なめられているということです。
2023年01月27日
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切り枝の野焼き1月24日-26日の小田原のみかん園行き、今回の主題は野焼きでした。温州みかんの収穫は、1月の上旬で終えているんですが。スス病対策もあり、混み合った枝を収穫しながら、間伐してすいてきました。みかんの収穫が一段落した今、畑のあちこちに放置されていた切り枝を集めて、野焼きをしました。今回も、援農の二人が来てくれました。大助かりだったんですよ。野焼きじたいは簡単なんですが、まわりは冬枯れの山ですから、火の扱いには厳重注意なんです。野焼も援農の人のおかげで、大助かりなんです。野焼は、まずは、あちこちに散らばっている切り枝を集めなければなりません。そして、それを野焼き場まで搬送しなければならないわけです。これをひとりでやっていると、切り枝を集めるだけでも、大仕事でしてヘトヘトになります。もう、賽の河原ですね。疲れをどんと感じさせられちゃうんです。しかし援農の人が来てくれると、みかん畑の孤独な作業はなくなって、お互いに声を掛け合いながら作業していると、同じ作業をしていても、どんどん片付いちゃう。まったく天と地の違いなんですね。やはり、農作業というのは、昔から人と人との共同作業が望ましいんですね。それを、いまは、70₋80歳の老夫婦が担ってるんです。この現実を、政治も社会も、ほったらかしにしてます。まわりの社会を見ずに、その日の自分たちの暮らしが出来ればよいとの状況で、これは、まったくなんとしたことか。さて、この数日、大雪のニュースが報道されてます。日本海側はいつもの年以上に大雪が降り続いているようですね。関東からすると、同じ日本に暮らしていたにしても、条件が大きく違うんですね。日本列島の中央の山脈で大雪は降ろされてるようで、太平洋側はご覧の景色です。関東は日本海側に比べて恵まれてますね。さて、今回の野焼きですが、野焼跡の白い灰が映ってますが、無事に終了しました。さて、その次は、防鳥ネットでみかんの木を覆う作業です。次の写真は、湘南ゴールドの枝です。湘南ゴールドの収穫は、3月下旬から5月上旬なんですが。まだ酸っぱいはずなんですが、ヒヨドリは、よほどお腹がすいているものと見えます。すでに湘南ゴールドを突っついてるんですね。当方は、道楽みかん農夫ですから、せいぜい木は1-2本しかないんですが。伊予柑、湘南ゴールド、清見オレンジ、日向夏、ハッサク、甘夏と、中晩柑橘があります。これから、渡り鳥のヒヨドリは、北に帰る前の栄養補給で、これらをねらってるんです。これらをお腹いっぱいに食べて、そしてシベリアの方に帰って行くんですね。そこで、下からはイノシシが狙ってますが、上からはヒヨドリとの戦いです。彼らはグルメですから、美味しく熟した柑橘しか食べないはずなんですが。しかし、すでに試食がはじまってます。今回は、野焼きとともに、もう一つの作業を始めました。湘南ゴールド、清見、日向夏にたいしての、網掛けです。木が大きいと、網をかけるのが大変なんです。今回は、大まかに、木の全体を覆えるかどうかを調べただけですが。次回の課題は、鳥が入るすき間が無いように、しっかりと防鳥ネットを被せるということです。これをしないと、一年間の丹精込めた労働が、それが鳥の餌をつくってやったという、そんな結果となるわけです。美味しく実った柑橘を、鳥か人のどちらが食べるか、この網掛けが出来るかどうか、そこにかかっています。5月の甘夏まで、みかん農夫の作業は、これからも続いていくということです。
2023年01月26日
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梅が咲き始めました神奈川県真鶴のみかん畑での、1月18日のこと。季節は一年で一番寒いころで、とかく下を向いて歩きがちなんですが、どんよりした天気でもあり、ふと上をみたところ、今年、最初の梅が咲きだしていました。 梅一輪 一輪ごとの暖かさ芭蕉の弟子、嵐雪の作だそうです。梅はどうして咲きだすんですかね。途中の相模川の気温は、3度でしたから、大寒はすぎましたが、より寒い方へ向かってますから、気温のせいではありません。陽の方は短くなる冬至を過ぎましたから、のびはじめました。それに関係してるんですかね。とにかく、寒さの中にも、春が着実に近づいているということです。人は、今の寒さにふるえているだけでなく、その先に近づいている春に向けて、その準備を始めようということです。
2023年01月23日
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第二回福田静夫「ヘーゲル『世界史の哲学』講座」福田静夫先生の第二回「ヘーゲル『世界史の哲学講義』」講座が、1月22日にひらかれました。『法の哲学』の「C世界史」の補講として、『世界史の哲学』(『歴史哲学』)のゲルマン的治世を4回で学習するもので、12月11日の第一回「概観」についで、第二回目の今回は「第一章初期中世の準備」と第二の前半を学習しました。私などはヘーゲルのテキストを読み込むことでキュウキュウとしていたんですが。というのは、今日では私たちの義務教育でも、ごく普通の科目の「世界史」ですが、今回ヘーゲルのテキストを読んでみると、それが書かれたのは1820年代ですから、日本では江戸時代ですよ。歴史学ではランケの『世界史概論』(岩波文庫)か知られてますが、それよりも前に行われた講義なんです。その素材になってるとおもいます。ようするにヘーゲルは、当時の最新の材料を丹念に整理して、この『世界史の哲学』を講義したこと。草分けの仕事であり、今日の世界の歴史書の基礎をつくったということなんですね。くわえて、ヘーゲルのことですから、内的な弁証法の関連をさぐってます。そして、これもその表現がありますから、読み込むのが厄介なんです。福田先生は、原書をしめされて、これには関係資料が沢山添えられていること、ご自身もこの間、準備のためつくられた分厚い資料の束をしめしておられました。「インターネットで、チョット調べただけで、こんなになったゃった」と。今回のヘーゲル『世界史の哲学』の箇所ですが、その対象は第四部ゲルマン世界でした。ゲルマンの民族移動から中世の国家がつくられる過程なんですが、それを読みこむと、すぐれて今日的な意義が見えてくる、というんです。ヨーロッパの中世の歴史ですが、それを探究するヘーゲルの弁証法の精神をもってすると、そのことから今日の問題が見えてくるというんです。というのは、ヘーゲルの「世界史の精神」の発展には、今日の国連や人権の問題までが、見えてくるような原理的な解明をしているとのことです。発展する弁証法の世界観の見方、そこからくるその洞察の力なんですね。私などは、ヘーゲルの文章を理解するのも妖しいのに、そのこうした今日的な意義の読み取りですから、二重に苦労している次第なんですが。しかし、確かに諸国家の理性の道理ある関係をつくる課題には、カントの『永遠平和のために』をひきついでいるヘーゲルです。諸国家の共同ということは、現在の国連にしめされる諸国家の自主平等の協力のあり方を、その世界史的なあり方として、その見通しとして洞察し、提起してるんですね。人権の世界的な共同の発展にしてもしかりです。ですから、本来であれば、社会主義というのは、その点で本来なら世界の先頭に立って牽引すべきはずなのに、それなのにそれが、今のロシアの侵略戦争や中国の人権侵害などなと、これをみせつけられるにつけ、まったくの逆こうじゃないかと。これは、世界史の発展の道理の上からも、指弾されなければならないということです。こうしたことも、ヘーゲルを学習していると見えてくる。ヘーゲルはそうした示唆を提起しているというんですね。ただ、残念ながら、そうしたヘーゲルの精神が、読み取りが、一般にはほとんど知られていない。真相がつかまれず、読まれずに、勝手な解釈が交わされている。これはこれで、また残念なことなんですが。まぁ、私などは、これから今回の講座の内容を吟味するところですから、紹介はこのくらいにして。とにかく、そうした今日の問題につながる中身をもっていることが、それが熱く語られてました。そうした、今回のヘーゲル『世界史の哲学』講座だったということです。あと講座は、残り2回の補講ですが、私などももうひと踏ん張りです。そのためには、それなりの準備が求められているということです。最後に、この講座で、幾冊も参考文献が紹介されたんですが、そのなかの一冊だけ紹介させていただきます。『人権と国家-理念の力と国際政治の現実-』(筒井清輝著 岩波新書 2022年2月18日刊行) です。
2023年01月22日
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寒風の朝市と、マシン油散布1月21日は寒風が強く吹くの中での朝市でした。お客さんは大変少ないんですが、それでも16袋が売れました。なかには「ここのみかんはスーパーのものより美味しいんで」と、わざわざ買いに来てくれる人もいますから、ありがたいことです。温州みかんについては、すでに木からすべて採りました。今は、みかんの木の混み合った枝をいて、風通しをよくしてます。そのうえで、マシン油を散布しています。みかん農家は動力式の噴霧器で、畑全体を一気に散布してますが、当方は、手押し式の噴霧器で、スポット散布です。マシン油乳剤というのは、カイガラムシやアブラムシによるスス病の発生を防ぐためのものです。放置しておくと、みかんがかまどのススがついたように黒く汚れてしまい、商品にならなくなります。葉の表面を覆うことで害虫を駆除するんですね。卵を窒息させるわけで、人間には無害の薬剤です。当方には、これが唯一の薬剤散布になります。ただ、これは寒気が強くなる前に散布しないと、逆に木が弱っちゃうんですね。だから冷え込みが厳しくなる前の、1月半ばまでが勝負なんです。みかんの葉の枝を注意してみると、白い綿帽子をかぶったカイガラムシがついています。また、葉の裏を見るとアブラムシの卵でしょうか、スス病の出た葉の裏ですが、そこには、いっぱい卵がついているのが分かります。こうしてみると、葉の裏側への散布が大事なんですね。カイガラムシとアブラムシ、いずれもスス病の原因になる害虫なんですね。マシン油乳剤を散布したあとのみかんの葉ですが、葉の表面がコートされますから、テカテカして輝いています。また、この散布は、葉にたいする養分補給にもなるんですね。だから一石二鳥なんです。当方は、一般の農家のように動力気を使って大規模に全面散布するような力はありませんから、せいぜい手押しポンプによって、部分的なスポット散布するといった、家庭菜園なみなんですが、まぁ、これでもやらないよりかは、ましだと思ってるんです。去年は、この時期、みかんの販売に手をとられて、この作業が出来なかったんです。結果は、みかんを収穫する時に、スス病がひどいくてがっかりしてところもありましたから、今年は、被害を少なくするために、何としても大寒の前までに散布しようと、頑張った次第です。実際は、ほんのなぐさみ程度の散布なんですが、それでも効果のほどはどうか、これから楽しみなところです。
2023年01月21日
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第一回「ヘーゲル『世界史の哲学』」講座を聞いて明後日の1月22日に、福田静夫先生の第二回「ヘーゲル『世界史の哲学』」講座が開かれます。昨年はヘーゲル『法の哲学』講座を終了したんですが、その最終章「C.世界史」に関連して、補講として『歴史哲学』の(ゲルマン的治世)を4回で学習しようとしています。その第一回講座が、昨年12月11日に開催されました。今回は、その第一回講座を受けて、「歴史哲学」の全体に感じたことの、私なりのまとめです。一、テキストは『世界史の哲学』(伊坂青司訳 講談社学術文庫 2018年刊)をつかっています。これはヘーゲルの初回の講義受講者のノートなんだそうです。その特徴ですが、第四部「ゲルマン世界」の冒頭ですが、〔概論〕といった「序論」にあたる案内文が語られています。従来の翻訳された版にもそれはありますが、この最初の講義ではシャープに、そして多岐にわたって述べてます。これはヘーゲルがこの篇に込めていた意図、思い入れを意識していたからじゃないでしょうか。他方、従来の岩波文庫の『歴史哲学』ではより豊かに語られてます。ヘーゲルは『歴史哲学』を5回講義をしたというんですが、同じことのくりかえしではなく、その都度、豊かに肉付けしているように感じられます。第一回〔12月11日〕の福田静夫講座は、この「概論」部分の学習でした。二、私は以前に『歴史哲学』(岩波文庫)で読んだことがあるんですが、「序論」は、歴史理論として「理性の狡知」とか、いろいろ大事な問題提起があるんですが。本論〔世界史像〕部分の方は、率直なところ最後の「近代の歴史」部分をのぞくと、グダグダと何を言ってるやら退屈だったんですね。それが以前に読んだ時の印象でした。しかしですよ、福田静夫先生は、あえてその中の「ゲルマン的治世」の部分を、今回の補講の対象として選んだんです。どうも私は、以前の印象をあらためて検討し直さなければならないところに置かれたようです。それで、今読み関している最中なんですが。これは、福田先生はまだ講義では本論に入ってませんから、先生の講義内容ではなくて、私なりの感想なんですが。三、世界の歴史ですが、ヘーゲルの「世界史の哲学」、「歴史哲学」講義というのは、その視野ですが、〔東洋、ギリシャ、ローマ、ゲルマン〕と、1820年代にあっては、きわめて広大な、丹念で博学な歴史像をまとめようとした努力だったんじゃないか、その後の世界史像の一つの姿をつくりだしたんじゃないかと、今回そんな感じがわいてきました。まだ、早計なことは言えないんですが、ヘーゲルは、人間の世界史の歩みを、一つの広大な大河として、世界史の精神の展開・関連としてとらえて、それを描こうと試みていると思いますよ。ヘーゲルは、その時点で知り得た歴史知識を懸命にまとめています。問題は、そのまとめからどの様なことを引き出しているのか、そこにある問題について、それをどのように読み解くのか、それが問題なんですが。もう一つの問題ですが。同じことを対象にした世界史の通史と比べた場合、ヘーゲルの「世界史の哲学」の特徴ですが、山なす材料の中から事柄の関連や発展性について、独特に考慮していると思うんです。私などは意味不明でスコラ的な感じの点もありますが、また深い洞察を感じる点もあります。これまでは独習でしたから、私の理解しえない点はどんどん飛ばして読んできたんです。今回は福田静夫先生が、長年ヘーゲルを研究されてきた先生が、それを注釈してくれますから、これまで砂漠のような印象だった中から、いったいどんな宝が出てくるか、楽しみにしているところです。四、それにしても、ヘーゲルの「歴史哲学」にはエンゲルスが指摘している問題があると思うんです。「世界史を哲学する」、それは、どだい一人の努力では無理な対象なんですが、それでもヘーゲルはここで一生懸命にまとめているんですね。それは、時代とともに個別研究が進めば、資料制約などから不十分な面が明らかにならざるをえないとの宿命があるとおもうんですが。「あらゆる矛盾を克服しようという欲求による哲学の任務は、(自然にしても人間の歴史にしても)人類全体があいつぐ発展のなかでなしとげていけるということにほかならないのに、これをひとりの哲学者の任務として果たそうとしているのだということにわれわれ(マルクスとエンゲルス)が気づくやいなや、―そしてわれわれにそのことを気づかせたのは、結局のところ、ヘーゲルその人以上に誰もいない、―こけにひとたび気がつくやいなや、、ただちに、これまで「哲学」とい言葉でみとめられていたような哲学はおわりをつげたのである」(『フォイエルバッハ論』(新日本文庫 P22)人間が一人で世界史をまとめるなどということは、どだい無理なことじゃないですか。多くの研究者がここの歴史の個別研究を発表される。それらをまとめることで、世界史像の全体が描がきだされるようになっていく、ということじゃないですか。しかし、ヘーゲルは「世界史」をまとめようとして、ここで挑戦しているんです。そして、それによって、後からすれば不十分な面が多々でてくることになるとおもうんですが、しかし、その時点では最新の総括をしてるんですよ。だいたい初めてじゃないでしょうか、これだけまとまった世界史像を提供しようとする努力というのは。ただ、一般の通史には、新事実をどんどん加えるだけで、関連をあまり考慮してない歴史書も多々あります。新しい事実を積み重ねるだけでは、薄っぺらで著者の意識が先走っている、客観性に乏しい歴史書もあるように思います。もちろん、何らかのものを添えようとしていることは分かるんですが。このヘーゲルの『歴史哲学』ですが、歴史理論とその世界史像には、その成果とともに、いったいどこに問題があるのか。両方の面で各分野の議論や探究を活発にすた一つの提起になったと思うんですよ。もちろん、マルクスの唯物論的な歴史観の理論も、このヘーゲルの歴史観に対する批判からつくられたわけですから。しかし、そこの肝心なところが、私などの学習からすると、討議されただろう中身がよく見えないんですね。まぁ、それが、私などの学習の動機になっていることもあるんですが。五、ヘーゲルの「歴史哲学」〔歴史論)は、その中でどんなことを提起しているか。これは、いろいろあると思うんですが、私などはザルで水をすくってるようなものでして。「この巨大な建物のなかにもっと深くはいっていくならば、今日でもなお十分値打ちのある無数の宝をみいだすであろう」(『フォイエルバッハ論』P21)少なくとも一点、この『歴史哲学』の中には、ヨーロッパの歴史の教訓が含まれてますね。「国家と宗教との関係」の問題ですが。ヨーロッパの中世は、カソリックとプロテスタントとの宗教対立が、「30年戦争」という大変な国際的戦争までも経験したじゃないですか。そこから国家と宗教との関係を確立することで、思想信条の自由、信仰の自由などの近代民主主義の思想と制度とをつくりだしたじゃないですか。ヘーゲルは、そのことを「歴史哲学」(「エンチクロペディー」の歴史哲学でも)で引き出してますね。これは今に生かさなければならないヘーゲルの大事な業績だと思います。この問題をマルクスは、『ユダヤ人問題によせて』で正面から解明していますね。これもまた、ヘーゲルの『法の哲学』『歴史哲学』を検討する中から、ヘーゲルの宝の一つとして確認していることでもあるんですね。これもまたすごいですね。だいたい、日本国憲法だって、その歴史的な教訓をいかした中身としてつくられてるじゃないですか。日本の歴史だって、キリシタンの弾圧、明治維新の廃仏毀釈、国家神道と治安維持法と、その歴史に政治と宗教の問題を体験して来ているわけですから。東洋でも西洋でも、本質的に共通の国家と宗教の問題が問われたんですね。憲法をないがしろにしている連中は、学術そのものの歴史を粗末にしてるんですね。ようするに、この問題でも、明確な立場にたとうとしない政治家が、今でも大勢いるということなんですね。今の統一協会問題に対する対応にも、それが出ているわけです。ここを明確にする必要があるわけです。子供たちにたいしては、「歴史に学べ」なんて偉そうなことを言っているくせに、自分自身はどうなんだということです。以上が、第一回の福田講座「概論」を聞いて感じた点です。ようやくこれで、明後日の第二回講座の準備に入れます。
2023年01月20日
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木村陽治著『堀田善衛のまなざし』この1月14日にこの本を一度紹介したんですが。その時は、後半の宮本顕治氏に関する随想に注目したからだったんですが。今回は、前半の評論-作家・堀田善衛氏に関する評論についてです。ほとんどの人は、この作品を知る機会がないと思います。私が知ったのも、たまたまの偶然でしたから。しかし、この作品は素晴らしいんですよ。私などは、現代文学についてはほとんど知らなかったんですが、この作品は一つの目を開かせてくれたんです。というのは、私などがまず注目したのは、宮本顕治氏に対する随想だったんですが。今回はその前半部分です。その前半は、作家の堀田善衛氏のいろいろな作品の評論でした。ちょうど、宮本顕治氏が『敗北の文学』で、その同時代の芥川龍之介を紹介して、その時代の課題を提起したように、それと同じように木村陽治氏はこの評論で、堀田善衛の作品の評論をとおして、現代の課題を提起しています。それは今でも生きて私たちの前にある課題です。戦後日本が侵略戦争の敗北から何を学ぶか、アジアやラテンアメリカ、アフリカなどの諸国との連帯がどうあるべきなのか、ソ連・中国の社会主義国とされていた国が対立する中でどの様に連帯を創るのか。今のプーチンのウクライナ侵略や中国の人権侵害の根っこがどこにあるのか、世界の作家の連帯の歴史の中にも刻まれていたんですね。ここには、そんな問題が、文学者という世界の中でどのように問われ、努力がさぐられてきたのか。この作品は、そんな現在に通じる問題に光をあててくれてるんです。かつての都議会議員の木村陽治氏ですが、その人がこんな努力の成果をもって今に現れてくるなんて、世の中すばらしいですね。時は努力に対して、豊かさを創りだすんですね。他方、日本の政治ですが、自公政権が、人々が努力してつくりだしてきた良識を、いかに蹴飛ばしているかが、歴史のいたましい犠牲を無視して、誤りを厚顔無恥にも押し付けようとしている。この二つは対象的ですが、それがありありと見えてきます。この著作は、プレゼントなんです。ここに、しっかりした良識の努力をまとめ上げてくれたおかげで、野蛮とたたかう勇気と理性の武器が、万人に完全に提供されていると、私などは見たからですが。そもそも、私などはよく判らないながら、以前にヒューマニズム、ヒューマニストの源流としてのモンテーニュの「エッセー」を紹介されていたんです。しかし、なかなかそれを読んでも、そこからそうした精神を引き出すことは出来ていませんでした。そんな流れの中で『ミシェル・城館の人』についても、読むことは読んではいたんです。しかし、それが堀田善衛の作だったことすらも、忘れていたんですが。しかし今回の木村氏の評論をとおして、それが堀田氏の著作であり、それがどの様な背景から、どの様な努力により書かれたのか、その全体像というものが、うっすらとですが見えてきます。そのテーマは、今日的なんです。今、私などは、ヘーゲルの『歴史哲学』を福田静夫先生を講師に学習してるんですが。ヨーロッパの諸国は、国家と宗教の問題を巡って大変な時代を、戦争の時代をくぐってきたんですね。ヘーゲルやマルクスのプロイセン国家もその一つでした。そのため国家と宗教との関係を、思想信条の自由、宗教の自由の問題をめぐって、歴史的にフランス革命やアメリカ革命などの試練の経験を探る。そうした努力によって、人々の信仰の自由・思想信条の自由、国家の宗教からの独立などの知恵を確立して、平和に安全に暮らせるルールを作ったこと。日本国憲法というのは、持ち主はそれを自覚しているかは知りませんが、そうした大きな歴史を背景につくられたんですね。誰かのアイデアじゃないんですね。枕詞のように「守ります」じゃだめなんですね。そのことを解き明かしてくれているはずなんです。まだ、学習会の途中なんで、「はずだ」ということにしておきます。だいたい、日本の歴史だって、キリシタン弾圧もありますし、明治維新の廃仏毀釈、戦前の国家神道と治安維持法がありました。最近だって統一協会問題(カルトの規制)があり、洋の東西を違えても同じ問題に直面してきたじゃないですか。「それでも地球は動く」、学術はそうした真理を、理性的解決策を提起をしてくれているのに、この歴史と道理を学ばない政治があります。蹴飛ばしている政治があります。そのために日本国民は、あいかわらず苦しめられてるじゃないですか。「知を力にすること」、それが今問われているじゃないですか。多少とも、教育を受けてきたものとしては、この時にしっかりとした声をあげずに、グズグズしてるなんて、いったい何たることかと思うんです。私などは、このヘーゲルやマルクスたちの努力と、木村陽治氏が紹介してくれた堀田善衛の努力、宮本顕治氏の一コマがしめす姿はとは、完全に、太いところでつながっているとおもいますね。それを明らかにするのが、今を生きているものの、努力というものであり、務めだと思います。せっかく宝があるというのに、それが万人にひらかれているというのに、それが使われていない。使おうとしない、なんともったいないことか。私などは、歴史に学ぶ人でありたい、怠け者になんぞはなりたくないし、そう思ってます。
2023年01月20日
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援農の力で竹の侵入をおさえる小田原の石垣山のフキ畑ですが、去年は綺麗な畑だったんですが、この1年弱の間に、風雨のあおられて、畑に竹が畑に覆いかぶさりました。自然の力というのは、すごいものです。人の手がちょっと抜けただけで、無惨にも畑は竹に覆われてしまいました。ここは、豊かなフキ畑なんですよ。草刈りしていて見つけたんですが、すでにフキノトウが出始めているんですよ。早川の山は、みかんにせよフキにせよ、ときが来るとそこは宝の山になるんです。この後、園主の夫婦が奮闘して整備したんですが、個人の力というのは、大自然を相手にしていると、微々たるものです。ようするに、くたびれちゃうんですね。賽の河原の様な単純作業が、竹を切り-運んで隅に片付けるのが、延々と続くんですから。そんな中、1月19日、二人の援農が、この竹との綱引きに応援に来てくれました。どうですか、少しは畑らしくなったでしょう。いまは、ただの草原ですが、ここは秋田フキの畑なんです。すでに早いものは、ところどころノブキの大きさくらいに伸びはじめてきているんです。だから、竹を整備するのは、まさに時間との勝負だったんですね。援農の力をえて、畑にかぶさる竹を、片付けることが出来ました。やはり、複数で作業すると違うんです。竹を切る人、切った竹を運んで畑の隅に片付ける人、一人だとすぐにくたびれ切って、能率がガクンと落ちて、なかなか作業は進まないんですが、4人で、1時間半くらいでしたが、かぶさっていた竹を払ってフキ畑が復活しました。疲れきっている農家ですが、その力を復活させるのは、人と自然との調和をとりもどす力というのは、やはりこの援農の協力が大事なんですね。「日本の農家は優秀だから、海外に輸出すればよい」なんて、バカなことを言っている政治家どもに対していってやりたいですね、『あんたもここへきて、草刈りを手伝ってみろ。そうすれば何が問題なのか、少しは現実が見えるようになるだろう』と。まぁ、この何十年と逆行する農政を競い合ってる今の政治家たちには、農家の声と実情はとどかないんですね。今の政治家にまともな期待なんかする方がバカなんです。しかし、事態を変えなくちゃぁ、国民の食生活の、この先がないんです。「輸入すればいいじゃないか」、なんぞとバカな根性がしみついてるんですね。それはともかくとして、5月か6月でしょうか、自然の方はありがたいんです、この草原の状況が一変して、秋田ブキがみごとに生えそろう畑の様子を紹介できると思いますよ。楽しみにしていてください。
2023年01月19日
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マルクス『ヘーゲル法哲学批判』7「思弁」について今回は番外です。ヘーゲル哲学でぶつかっている「思弁」とはなにか。今回は、この問題についてです。一、前回、ヘーゲル『法の哲学』の第272節を紹介しました。この文章をすんなりと読み取れる人は、誰もいないと思うんですが。「『憲法(体制)が理性的であるのは、国家が自分の活動状態を概念の本性にしたがって自分のうちで区別をして規定しているかぎりにおいてのことである。それにまたその国家は、これらの権力それぞれが、それ自体のうちで総体性であるように、権力それぞれが自分のもの以外の諸契機を自分のうちで活動を保ち続けるようにさせる必要がある』(福田静夫訳)。ヘーゲルが言おうとしていることが分かりますか?」として、紹介した文章ですが。こうしたヘーゲルの文体(文章の表現)ですが、そりはヘーゲルのあまたある著作に関して、その全体にすべてにたって共通する特徴じゃないかと思います。これが、当時の社会にあって、各界の全体わたり『すばらしい、重要だ』と一世を風靡したそうなんですが。それがわかりますか、それを理解出来ますか?その問題です。私などは、名にしおうヘーゲルを開いて、チンプンカンプンだったんですから。苦しまぎれの解釈の仕方として、思弁哲学とは意味の分かりにくい、理解しにくい分かりにくい表現であって、そうした表現の仕方が「思弁的な表現」なんだと、これまでずーっと思って(解釈)きたんです。しかし、2022年3月から、名古屋の日本福祉大学名誉教授の福田静夫先生の「ヘーゲル法哲学」講座を受講しています。その中で、福田先生から感想文を送ったところ、こんなアドバイスがありました。『「思弁」に「思弁」を重ねましたね。Spekulation(思弁)というのは、思いめぐらすという意味ですよ。・・・マルクスがヘーゲルの「法の哲学」が当時の国家論を越えた国際水準であると承認していることを、その「思弁」という言葉の動的弁証法てきな含意を承知の上で言っていることに注目しない様ような読みではだめですよ』、と。そのアドバイスですが、これは、それを私なりに理解したことなんですが。この「思弁哲学」ということの意味を理解すること。そのことというのは、大きな問題なんだということがつたわってきました。もちろん、問題が解決し、納得したわけではないんですが。それは探るべき大きな問題なんだということが、ここで問題提起されました。二、そもそも「思弁」ということについてですが、森宏一編『哲学辞典』(青木書店)ですが。そこでは次のように解説されてます。「経験にたよらず思考だけで認識をえようとすること。アリストテレスは実践に対立させて、理論そのものへの沈潜によって、観想との態度によって真理を直観しようとする意味に用いられている。ヘーゲルでは思考作用の悟性がいまだ抽象性にあるのにたいして、対立を統一においてとらえる思考を思弁と呼んでいる。」ここには、「思弁」ということは、哲学の大きな歴史に根差している問題であって、簡単ににわか問答で片付くような問題ではないこということでした。だいたい、日本の歴史でみれば、禅宗の問答ですが、壁に向かっての公案問答している問題ですが、「ああかもしれない、こうかもしれない」といった公案するところの態度にも関連している問題とみてとれます。思いをいろいろとめぐらすということですが。もしもそれが妥当するとすれば、洋の東西でぶつかっていた問題において、重なりがあるということ。ヘーゲルの1820年代の提起は、東洋の日本においても、似たような問題が、形態を変えて鎌倉時代にあった。そのもとはさらに古く、中国、インドにあったということです。あくまで、推定ですが。三、マルクスは、ヘーゲルの思弁の表現について分析してるんですね。わたしのように、「わけのわからない表現」といったあいまいなことに捨て置かなかったんですね。ヘーゲルの「思弁」の文章は、ああでもあり、こうでもあると、いろいろと思いを巡らせて、それらを一つの文節の中に「統一」的に関係させるようにしてるんですね。そのことが何とも、私などには理解しがたい表現になっているわけです。私などが思うのには、そこには、一つは、ヘーゲルが理念(精神)の本質が、様々な形の現象形態として現れるとする問題があります。現実は確固とした出発点ではなくて、他にある本質(概念)の一つのあらわれであって、様々な現れの一つの形態にすぎないというんです。確固とした出発点的な現実は、単なる仮象・現れ方の一つに過ぎないというんです。この問題です。もう一つの問題は、現実は本質的概念のあらわれだとすると、現象形態につて、ああでもあり、こうでもあるとのとの、いろいろと思いめぐらしている問題があります。この次々に膨らむいくつもの思いめぐらしですが、それが一つの文節の中に表現している。これがヘーゲルの特有の難解な文章表現の原因になっている、と。このヘーゲルの難文ですが、マルクスは次のように指摘しています。P18 第269節を紹介するの冒頭ですが、「たびたび繰り返されるやつで、神秘主義の一産物であるところのヘーゲルの一種独特の文体に注意していただきたい」と。マルクスは、ヘーゲルのひとつづきの、ながいながい文章ですが、それを複数の文節に分けるようにして、その主張の内容を明確にしていきます。このヘーゲルのごちゃごちゃした表現ですが、思いが次々にふくらんでいるのを、それを整理して、普通に理解できるように文節を分けるようにしているんです。この方法をマルクスは、第279節(国民文庫 P38)で、紹介していました。ようするに、ここには、誰しも難解とされるヘーゲルの文章ですが、それを読み解くための一つの方法が、解決策があって、その実例が、ここでマルクスによって、いくつも展開されているということなんですね。四、私などは、これまでヘーゲルのグダグダした文章ですが、これはいったい何を言っているのか、なぞだったんですが。ましてや、それを批判するマルクスの主張は、推測する域を出なかったんですが。2022年3月から名古屋の日本福祉大学名誉教授の福田静夫先生(91歳)の「ヘーゲル『法の哲学』講座」を聞く機会を得たんですね。丹念にヘーゲルを読み解いていく福田先生の学習の仕方をもってすれば、これまで疑問だらけのヘーゲルの主張でしたが。それが、マルクスが言っているように、形式には問題があっても、その中身には素晴らしい事柄の関連に対する洞察が含まれていること。すばらしく博学で天才的な努力家なんだということが、しかも今日的な意義をもっていることが、見えてきています。さらにそれを、分析して、批判的に評価しているマルクスの努力も、これもまた見えてきます。ただ、残念ながら、そうした成果が、今日において共有されている様には思えないんですね。でも、マルクス『ヘーゲル法哲学批判』の訳者・真下信一氏がいっています。「ひとりの研究者にとって、これほどまでに分化し、それぞれに深くかつ内容ゆたかになった学問の各分野に、多少とも百科全書的に通じるなどということは、アリストテレスやトマス・アクィナスや、さてはヘーゲルほどの天才をもってしても、今日ではとうてい望みえないところである。しかしだからといって、ここの研究者なり学生なりが自らの専攻する狭い学問範囲にとじこもってじ余の広い学問領域のことに無関心でいてよいということにはならないし、さらには自らの研究やその成果をいろいろな仕方で密接にかかわるところの社会生活の諸分野のことに目を閉じることは許されないであろう。」(『時代と共に生きる思想』真下信一著 新日本新書 1971年刊行)今回は、ヘーゲルの「思弁」とは何かという、この点での補足としての学習でした。次回は、第275節「a.君主権」に入ります。
2023年01月15日
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木村陽治著『堀田善衛のまなざし』今日朝市をしていて、一冊の本を紹介されました。木村陽治著『堀田善衛のまなざし』(かもがわ出版 2022年12月刊行 1800円)です。私が注目したのは、まずは後半の随想なんですが、1、宮本顕治の号泣 これは宮本百合子が突然に亡くなった、その時の葬儀の時にみられた様子です。2、宮本顕治の一喝 これは共産党の綱領をつくるため紛糾していた時に、東京の会議(1956年)でのこと。私にとっては、それぞれが耳新しいことなんですが、著者の木村陽治氏は、日本共産党の東京都議団長をつとめた経歴をもつ、大した人なんです。現役当時、東京都議会での活動報告を冊子にして出しておられたんで、その活動を知っていたんですが。今回、久方ぶりにその人の本を見たら、以前の都議会議員としての存在とは、大分趣が違うんです。今回の本の前半は、タイトルがしめすように堀田善衛に関する評論4作でして、私などは名前こそしれ、本をもってはいたんですが、読めてなかった関心ある作家なんですが、その評論でした。この評論も、まだ途中ですが、素晴らしいんですよ。戦後の日本社会にあって、堀田善衛という作家がどの様な魅力をもっているか、ユニークに紹介してくれてるんです。若いころ読んだらしいんですが、今あらためて読み直して、その魅力を紹介してくれてるんですね。しかし、何といっても後半の宮本顕治に関する2篇の随想です。(周恩来と中国に関する1篇もあるんですが)。それは、日本の社会が、いまだ返せてない、宿題を提起してくれています。志位和夫さんも『共産党創立100年記念講演』で、光をあてられましたが。しかし、関係者が自然の摂理で、次々にあの世に行っちゃっている折、その人間像、努力、業績を、しっかり残しておくのは、大事な国民的な仕事だと、私などは思うんですよ。それが、まったくと言っていいくらい、粗末にされてるんですね。そうした義憤にも似た気持ちを持っていたものですから、今回、わずかですが、気持ちを癒せました。木村陽治さんのこの著作は、彼なりに、その体験からして描き出した宮本顕治像なんですね。その同時代の体験者からする貴重な記録なんですね。もちろん、当然ながら、部分的なことからしか書けないんです。政党幹部を身近かに接するなんてことは、一般のわたしたちには、誰にも出来ないことですから。しかし、そうしたなかでも、この著作は、限られた接点からだったにしても、貴重な努力、人間像を紹介してくれてます。この努力にたいして、何故かわかりませんが、私などは感謝の気持ちがわいてくる次第です。ちょっと前ですが、私などは、太田晴夫さんの『ミヤケンさんの思い出』が出たんで、それをまわりの人たちに紹介したて、感想をもとめて来てたんです。ここには、ポリシーとして、この本とも重なる面があると思ったんで、紹介させていただきました。
2023年01月14日
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1月14日朝市で23袋販売1月14日(土)、多摩市の永山団地での、新年2回目の朝市でしたが、午前8時50分から10時50分までの、2時間の朝市でしたが、小田原から搬送してきたみかんですが、23袋・6,900円が販売できました。土曜朝の商店会ですが、やはり人通りは大変少ないんですが。それでも、私などが到着する以前の午前8時に、みかんを買い求めに来てくれたりする人も、そんな人もいたりして。それなりに退屈もせずに、みかん談義も弾む2時間でした。なかには、『ここのみかんは美味しいから』との金言を残していく人もいたりして。そうなると、私のみかん講釈がはじまりだして、『これは無農薬で、見栄えは劣るけれど、味は太鼓判です。なんたって、樹上で完熟したみかんを採ってきたんですから』『酸味の中の甘さが、この小田原みかんの特徴なんです』実際に味見をしてもらって、その味を納得して買っていってもらっています。しかし、温州みかんの大津・青島については、この1月中が勝負です。そのあとは、清見、伊予柑、ネーブルなどの中・晩柑橘が続きます。もっとも、私の場合、それらの生産量はほんのわずかですから、生産農家の販売状況、その事情次第なんです。生産農家にとって、もしも流通に乗らないものがあれば、それは、当方が引き受けるとの関係になっているわけでいから、まだ、私が販売できるかどうかは、不明なんですね。とにかく、当方の温州ミカンの収穫は、1月12日で終了できました。みかんの主力の温州みかんについては、無事にそこまでこれました。その自家生産のみかん販売は、あと1,2回で終わるはずです。あとは、みかん農家の在庫の状況次第なんですね。とにかく、このみかんの朝市は、これから5月の甘夏まで、ずっと続いていきます。みかん以外の、フキなどの農産物もふくめれば、1年中開かれてゆくわけです。
2023年01月14日
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マルクス『ヘーゲル法哲学批判』6 a君主権(その1)マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』の第二章「a.君主権」にはいります。ヘーゲルの『法の哲学』では第272節-286節の15の節です。ヘーゲルは君主制国家をどの様に考えていたんでしょうか、それに対しマルクスはどんな批判をしたんでしょうか。一、その最初にまえがき的な3つの節(272節、273節、274節)がありますが、まず第272節です。1、その『法の哲学』第272節の冒頭ですが。「憲法(体制)が理性的であるのは、国家が自分の活動状態を概念の本性にしたがって自分のうちで区別をして規定しているかぎりにおいてのことである。それにまたその国家は、これらの権力それぞれが、それ自体のうちで総体性であるように、権力それぞれが自分のもの以外の諸契機を自分のうちで活動を保ち続けるようにさせる必要がある」(福田静夫訳)。ヘーゲルが言おうとしていることがわかりますか?これに対するマルクスの論評ですが、「ここにみられるように、体制は国家の諸契機が抽象的な論理的諸契機に解消される限りで理性的なのである」などとするのは、「抽象的思惟の妖しげな動因であるところの概念の本性にしたがってそうすることになるである。・・・」などとの批判を展開していきます。この対話の意味がわかりますか、前回にみた「論理的汎神論的神秘主義」の問題ですが、ここでも重ねて確認してるんですね。2、少し別の側面から見ると、この問題ですが。エンゲルスは1883年にマルクスが亡くなって、その残された遺稿に目を通したんですね。マルクスのはたした業績を確認してるんですが、その一つとして1886年に『フォイエルバッハ論』を書いているんです。その『フォイエルバッハ論』ですが、第一章の初めのところですが、ヘーゲルの『法の哲学』の「序論」にある有名な命題ですが、『現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である』この命題をとおして、ヘーゲルの弁証法について、その理解の仕方を紹介してます。それとここを読み比べてみると、ここでのヘーゲルとマルクスとの対話ですが、これがその契機になったんじゃないかと、私などは思うんですよ。話の内容や筋が重なっていると思うんですが、そう読み取れませんか。3、そもそもヘーゲル(1770-1831)は、1829年にベルリン帝国大学の総長をつとめた教授です。その難解な表現の中身を理解するのは、誰しも簡単ではなかった。様々な立場の人が、保守から革新までそれぞれの人たちが自己流に解釈したことで、幅広い人たちから評価されていたようです。実際ヘーゲルの難解な表現には、個々の言葉を取り出すと、その様々な解釈を可能にする表現があるんですね。しかし問題は、ヘーゲルからどの様な真髄を、積極的な宝ものを、取りだすかが問われているということです。しかし、先走りになりますが、ヘーゲルは国家を、ここで「概念の本性にしたがって規定しているかぎりにおいて理性的である」といってますが、確かにマルクスの指摘するように「概念の本性」は「妖しげな動因」なんですが。しかし、それによってヘーゲルがこれから言わんとしていることは、それは隣国のフランスやイギリスに先例があるような立憲君主制を、その国家の概念として提起してるんですね。当時のプロイセンの専制的君主制国家を合理化するものじゃないんです。法治主義、法の支配のもとでの立憲君主制を、啓蒙的な君主制国家をあるべき姿として説いているんですね。それを「理性の発展」などとの抽象的な表現ですが、確かに言っているんですね。「とんでない」なんて弾圧がおきても不思議じゃないんですが、しかし難解さが幸いしたんですね。戦前の日本社会の経験からしたら、そうした主張をすることが如何に困難かが分かるじゃないですか。4、その当時から200年もたった今日の日本の事態ですが、どうなってますか。最近の日本は、法治主義も憲法もないがしろにした政治が、無茶苦茶な事態が大手を振って展開されてます。ヘーゲルは憲法の基本に反することを勝手におこなうような体制を辛辣に批判しているんですが。日本の戦前の歴史の「天皇機関説」ですが、それは天皇は議会で審議したことの執行機関であるといった考え方ですが、これはヘーゲルなどがルーツになっているんです。美濃部達吉氏の「天皇機関説」は、大正デモクラシーの頃は社会公認の定説だったんですよ。それが戦前は戦争への道に進む中で、「これは天皇の権威を否定する国賊の説だ」と、否定されて糾弾されるようになったんですね。そして今また、時代を繰り返すかのように、日本学術会議の選任を拒否したり、戦争法や安保法を国民に押しつけ、軍国主義と戦争への道をすすめようとしている。これはいつか来た道ですね。それを再び許せますか。それ黙認して再び災いをくりかえしますか。今は、それが決定的に問われている時です。5、ヘーゲルは帝国大学の総長にもなっていく人ですが、そうした勝手な見解に対しては、辛辣に理性による批判として堂々と展開してるんですね。それはまだ立憲制度が定着する以前の事態ですよ。プロイセンの君主制国家のもとでの帝国大学教授ですよ。微妙な立場だと思うんですが、そうした考え方を堂々と展開しているんです。そこを1843年に26歳のマルクスが、ここで分析しているんです。それが『ヘーゲル法哲学批判』なんです。そして、1883年にマルクスが死去したあと、1886年にエンゲルスが『フォイエルバッハ論』で、当時をふりかえって『法の哲学』「序論」を取りあげて、その命題の意味という形で、新たな世界観を確立してきた過程を紹介しているわけなんです。私などは、今の日本の進路を探るうえで、この二人の対話というのは、大変参考になるし今に生きているものだと思うんですよ。しかし、注目される機会が少ないんです。ヘーゲルやマルクスが探究したこと、エンゲルスが『フォイエルバッハ論』で提起しアドバイスしていることは、今日ではあまり光が当てられてないんです。一方では当り前で常識であるかの様な扱い方として、他方では、今さらそんな昔のことをマニアックな扱いとして。共通しては、おざなりの中途半端に放置されたままでいる。私などの学習の動機は、義憤の学習はそんなところにもあるんですが。しかし、それはまだしもでして、はなから否定して無視する対応があると思うんですよ。これこそが科学を尊重せず「朕は国家なり」と勝手をしている連中ですが。もしもこうした取り巻く状態ですが、それが本当にそうだとしたら、それはいったいどうしたことか。そうした事態を問題視出来ずにいるとしたら、それが時代錯誤の反動説を恥ずかしげもなく公然とのたまうことをゆるしている原因の一つになっているとしたら、無批判でいるということは反動の自由勝手をゆるすことになる。しいて言えば、自分の曖昧さが許している反動の横行なんだという関係です。そうした事態の関係をはっきりと見すえるようにして、この一度しかない人生ですから、グズグズしているのではなく、他者への文句ばかりたれつつも、自分は足踏みしていて一向に前にすすまないでいるような事態だとしたら。今を生きる人としては、なんとも怠慢なことか。そんなふうにはなりたくないと思いますよね。しかし、人としての誇りや名誉というのは、これからつくるものです。その可能性はだれしも公平にそれぞれの努力の肩にかかっているわけですから。二、もうだいぶ長くなりました。終わりに、第274節へのマルクスの論評ですが、一点だけ紹介しておきます。「ヘーゲルの論法からすれば、同じように国家の名がついていたとしても、その国家の中で「自己意識のあり方と形成」と「体制」とが矛盾しあうような国家は、どんな意味においても真の国家ではないことになってこざるをえない。或る過去の意識の産物であった体制が、或る進んだ意識にとってむごい桎梏となりうるとか、その他等々の事柄は、なんといってもありふれた事実である。これから出てくるべきものは、むしろ意識とともに前進していくという規定と原則をそれ自身のうちに備えた体制が要請されているということだけであろう」(P31-32)ヘーゲルのように理念のあらわれ(現象形態)としての国家とみるのではなくて、現実の国家の固有の特質・問題を分析的につかんで、そのおかしさにはしっかりとした批判をしていくこと、現実の国家への批判的態度こそが必要なんだとの批判です。それと、歴史のいうのは発展していく過程であって、今を理性のあらわれとみていると、現在がもつ矛盾を見逃して、更なる発展過程を見逃すということです。ヘーゲルには理念(精神・概念)のあらわれと見なしていますし、同時にそれは(概念)弁証法による発展過程であると、こうした両方の見方・考え方をしています。マルクスはこの概念弁証法の問題点を指摘して、歴史とともに意識も発展していく、そこには意識の能動的役割もある、そうした点を指摘しようとしている、そのように受け取りました。以上です。次回は、第275節「a.君主権」に入ります。
2023年01月13日
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みかんの収穫を完了ヤレヤレです。みかんの収穫は、まわりの農家の畑は、12月のうちに一気に終了しました。当方の昨年末は、まだまだ木にたくさん残っていたんです。決して遊んでいたわけじゃないんですが。まったく「ウサギとかめ」を地でゆくような事態でした。農家の人たちは、収穫について、ここ一番のおそるべき瞬発力をはっきしたんですね。お年寄りにしては、さすがですが、すごいパワーです。みかんが、この時期にまだ木に残っていると、ヒヨドリたちの集中を受けます。人は、年末年始のあわただしい忙しさの中にありますから、SOSなど発する気にもなりません、その答えは明白ですから。それで一人、1月2日から、残されたいる収穫を仕事始めしたんですが。何にせ、くたびれきっていますから、いったい、どうなるのかなと思ってたんですが。そこに、ありがたい出来事がありました。今回初めてなんですが、二人の援農が毎週、12月-1月の空いた時間に来てくれたんです。それはボランティアの援農作業なんですよ。当方には、日当なんて払えるような状況じゃぁ、まったく、ありませんから。おかげで、4か所の残っていたみかん畑でしたが、毎回、2時間くらいを手伝っていただいて、結局すべてを収穫完了することが出来たんです。ひとりでは、賽の河原で、延々といつまで続くか、分からない事態だったんですか。「援農」というのは、ありがたいですね。収穫を終わるのに、2月までかかった年もあったんですよ。これで、まわりの農家の年末の事態に、ようやく追いついたということです。みかん作業の今後はというと、1、収穫したみかんを、販売しきらなければなりません。販売できないことには、1年間丹精してきた意味がなくなります。2、手入れの悪い当方のみかん園などは、スス病がひどいんですね。混み合った無駄な枝を切除しなければなりません。3、スス病のひどい木には、葉の裏にカイガラムシがついてますから、1月の前半くらいの冷え込む前に、マシン油乳剤を散布しなければなりません。4、中晩柑の清見、伊予柑、日向夏、湘南ゴールドは、ヒヨドリが狙ってますから、防鳥ネットを被せなければなりません。これまでは、この1-3月は販売作業にてまどって、これらのみかんの木の管理に手が回ってなかったんですね。なにしろ、みかんを売ることこそは、大変な作業なんです。だいたい全国の産地から一級品が、たくさんでてますから、その中にあって、私などのみかんを売ることは、至上の課題ですが、しかし大変な難問なんですね。親類縁者から、小中高大の同窓生から、元の職場の人たちや、東京生活の知り合いから、それこそ「もう、いいかげんにしろ」との声がいつでてくるか、ひやひやしなが、それでも頼みまくるわけですら。しかし、みかん畑の周辺作業は、その他にもいろいろあるんですよ。次の写真は、なんだかわかりますか。ここは、豊かなフキとミョウガの畑なんです。それが、見ての通り、畑にはまわりから竹か押し寄せてきています。たった1年間で、ご覧の通り、竹が押し寄せてくるんですね。竹は地下茎ですから、ちょっとほかの用事をしている間に、一変させてしまいます。ようするに、農家の人たちの目にはなかなか見えない努力によって、その努力があるからこそ、人はフキなどの自然の富を手に入れれるんです。竹を切り払って、フキ畑を復活させなければならないわけです。こうした苦労を、農林議員族の政治家たちに体験させてやりたいですね。『日本の農家の産物は、優秀だから、輸出すればよい』なんて、バカなことを言って、減反を進めながら、外国からお米を輸入してるんです。これは、軍備大拡大とおなじく、現実にすすめられている、今の政治の現実のことなんです。だれであっても、このおかしな、もったいない、誤った道を、正面から問題状況を明らかにして、すすみつつある自滅への道を転換させなければなりません。農家の悲鳴を、しっかり聞き取らないと、消費者も政治家を正すことは出来ないんです。自分の食生活を守ることは出来ないんです。農家の働き手が消えてしまった後では、農地が荒廃したあとでは、復活するのは大変な困難なんです。そこにこの国の今の政治は、太平洋戦争と同じでして、やみくもに、そこへ突き進んでいるのが、今の実際です。今の政権党は、かっこだけで、本来の政治責任をまったく感じて無いんです。えっ、なんの話でしたっけ。ああそうだ、本日援農者の力を得て、みかんの収穫が終ったということでした。それは、よかったんですけど。しかし人の高齢化で残り時間が少なくなって、依然として問題は切迫しつつあるということです。
2023年01月12日
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常盤貴子著「本の向こう側の友達」すばらしいエッセーを見つけました。常盤貴子著「本の向こう側の友達」ですが、「しんぶん赤旗」1月6日付に掲載された新年エッセーです。女優の常盤貴子さんです。エッセーの原文そのものを紹介できず、その写真だけなんで残念ですが。すばらしいエッセーなんですよ。これまでは俳優としか知らなかったんですが、今回素晴らしい一面を知りました。最近、私などは、周りで若い人たちの声を聞ける機会が少ないんですが。とかく「最近の若者はどうなってるんだ」なんて、懐疑的な声も聴くんですが。そうした中で、少なくともこの一文ですが、若いみずみずしい感性が、民主的で率直な空気で伝わってきます。「こりゃぁ、最近の若者もすてたもんじゃない」、と。それどころか、苦労ある日々の中にあって、我々なんかよりやさしく輝いています。なんとなく嬉しくなっちゃって、まわりの年配者たちに、御同輩に、口頭だったりコピーしたりして紹介している次第です。是非、ご一読をおすすめします。※ ところで、この紹介を発信してから思ったんですが。本当に、内心から感動した時には、誰しも、そうした記事を、紹介したり、他人と語り合うことが、楽しみになるものですよね。これって、輪(和)を広げていく(主体的)、広がっていくとき(客体的)の、ごく初歩的な基本ですよね。「自由とは、必然的な事柄の洞察なり」と、ヘーゲルもエンゲルスも紹介してるじゃないですか。このことって、もちろん必要論や意義論も大事なんですが、くわえて、その人自身にとって、内心から湧き出てくるような「のり」ということも、これも、もう一つの大事なことだと思いませんか。
2023年01月09日
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初売りの朝市で14人に販売景気の良いきれいごとの話じゃなくて、実際を追求する報告です。小田原・早川産のみかんを、東京・多摩市の永山団地で販売しているんですが。1月7日(土)の午前9時から11時まで、初売りの朝市をひらきました。初売りの今回は、花ユズとコウジミカンのプレゼントつきです。政府なんかは景気の良い話を、さかんに振りまきますが、実際にみかんを販売する立場からすると、実際のデーターが大事になります。みかんに限ったことではりませんが、コロナで不要不急の外出がひかえられる中で、商店街の人影は、当然ですが、それまでに比べて大変少なくなってます。しかし、みかんにしてもリンゴにしても、自然はそれなりの量の産物を与えてくれます。商店会に人影が少ないのに、産物をどう販売するのか。これは、今の経済活動の一般に、共通している悩みだと思います。これまでは、年末セールだ・初売りだと、景気の良いような話で経済は回っていたんですが。昨今のご時世は、そんな一般論では、済まなくなってます。多摩市の永山団地でのみかん販売も、それとまったく同じです。「初売りの朝市」というと、いかにも活発な売り買いが展開されているかのような気分になりますが。実際の売り買いの状況を、調べてみることにしました。今回の初売りは、1月7日(土)の午前9時から11時まででしたが。1キロ300円売りのみかんですが、4,400円の売り上げでした。ということは、14人の人が買ってくれたということです。暮れの31日の売り上げが、8,400円、ですからのべ28人の販売でしたから。やはり井原西鶴の「大晦日は一日千金」というのは、当たってるんですね。「初売り」というのは、意気軒昂で新年に臨むことは示すんですが、実際の売り買いという点では、年末商戦よりは少ない。ようするに、今年も頑張るぞとの心意気なんですね。ということで、「今年も、頑張るぞ」との宣言を、本日示してきました。14人の人たちとの、寅さんのやりとりは、寒風の商店会の中であたたかくて、「朝早く来たけど、販売して無いので、ダメかとおもった」とか、「これから、みんなで新年の散策に行くんだけど、一袋とっておいといて」とか、「見かけはわるいけど味は良い。人間と同じだね。これを粗末にする農政はなんとしたことか」とか。とにかく、14人のそれぞれが、心温まる生き生きとした言葉を残していってくれました。みかんの生産農家の実情と、大都会の団地生活者の暮らしの現実が会話して、お互いに相互理解をして、エールを交換しあうことを求めています。私の苦労も、そのためにこそあるんですが。だいたい初売りの朝市ですが、それは社会主義になろうと共産主義になろうと、これからいつの時代にあっても、おおよそこの世に人が生きていく限り、こうした努力が必要なんだということ示してくれてました。ということで、私なども、体力が続く限り、少なくとももう一年は、頑張るということです。できうれば、世の中が、もう少しはやく苦労している生産者に報いるような政治になってほしいんですが、それは全ての国民の努力にかかってます。それは、日本国憲法と国連憲章がめざしている方向なんですが、それはヘーゲルやマルクスがめざしたところの方向なんです、歴史の方向なんです。同時にそれはまた、近代の日本の良識的な人たちが、この日本社会の中であまたの苦難の中で、さぐりつづけてきた事柄なんですね。そのことの大切さ、貴重な努力を確認したいと思うんです。それを、まったくのないがしろにしているのが、昨今の政治の現実なんですが。だからこそ、私の「みかんと学習」ブログですが、この現実は、私などがまだまだ吠え続けることを求めているということです。これを国民の良識において、のしをつけて変えることが求められてるんですね。それは楽しきかなこの人生です。やってやろうじゃないですか、今こそ歴史の経験が吠え続けることを要請しています。ということで、今年もよろしくお願いします。
2023年01月07日
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援農の力をかりて残払い1月6日(金)、小田原・早川のみかん園に、さらに援農が来てくれました。熟した綺麗なみかんは、以前に収穫したんですが、その時点では、まだ成熟が十分ではなかったみかんは、木に残っています。しかし、いつまでも木に実がついたままでは、みかんの木は休まりませんし、また、1月前半までのスス病対策のマシン油散布もできなくなりますから、新年に入ると、2週間くらいで、みかんの木からすべての果実を取り除きます。それが「残払い」で、ようするに木に残っているみかんを、すべて除去するとの仕事です。当方が管理しているみかん畑は、小田原・真鶴で5か所あるんですが。本日、1月5日(金)に援農が来てくれて、5分の四まで「残払い」斬払いを終了することが出来ました。一人でやってると、くたびれてなかなか仕事がはかどらないのですが、援農が来てくれて、会話しながらの作業は、ビッチも早いし疲れを癒してくれるんですね。実際のところは、良くてご夫婦、大体のところ一人作業ですから、疲れるんですね。次の写真のみかんの木についても、この支援のおかけで、残払いを終了しました。みかんの木は、これで今年の大仕事を果たしたわけで、なんとなくホットしているように感じます。みかん木は、すべての果実が取り除かれて、もとの常緑樹にもどりました。この木は、比較的にコンパクトで、作業がしやすいんですが、最後に残る畑のみかんの木は巨木ですから、枝がじゃましますし、なおかつ、木が大きいので、脚立など使えないんですね。そうなると手段は一つです。サルのように、ないし、サーカスのように、人が木に登っての「残払い」をしなければなりません。巨木の収穫は危険が伴いますから、援農者には任せれないんですね。今、石垣山の全体を見ると、大方のみかん園は残払いを終えてます。農家の人たちの、それこそ、考えられないような大作業が行われたんです。ですから、残っているみかんは限られてます。当方もそれですが、そのみかんを巡って、山じゅうのヒヨドリが集まって来てしまいます。だから、今という時は、まさにヒヨドリとの競走なんです。どちらが美味しいみかんをとるか。私は週に2日しか畑に来れませんが、彼らは1週間のすべて来れるわけですから、さらに高いところにあるみかんも、彼らにはお手の物ですから、部はあちらの方にあるのは、それはあきらかなんですが。それであっても、一年間苦労して栽培してきたみかんですから、それを、この最終段階でかっさわれるのは、釈じゃないですか。だから、そこはどんなに疲れていたとしても、みかん畑に係わってきたものとしては、ここは最後の張り合いです。とにかく、温州みかんの収穫は最終段階までやってきました。ここは一年最後の、もうひと頑張りのところまでやってきたということです。
2023年01月06日
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マルクス『ヘーゲル法哲学批判』5 基本問題前回は『法の哲学』第262節をとおして、ヘーゲルの考え方にある問題点を学びました。『この節のうちに法哲学、またヘーゲル哲学一般の全秘密が蔵されている』との根拠です。一、この問題は、第一章「はじめに」(第261節から271節)の部分の基本的なテーマと見ました。(「第一章 はじめに」というのは、私が便宜的に章だてとして区切ったものですが)そのマルクスのヘーゲル批評の中身ですが、1、ヘーゲルは経験的な事実とその発展性をとらえてるんだけど、現実は理念(精神、概念)のあらわれとみてしまう。世界精神の発展性をとらえながらも、現実というものその矛盾を見つつも、その精神(理念)のあらわれとしてとらえてしまう。2、国家と市民社会との関係では、国家は現実(市民社会)が土台であり、そこから導き出されてくるものなのに、ヘーゲルはそのようにも言いながら、逆に国家が現実をつくるものと主張をしている。汎神論的神秘主義。3、ものごとの、ここの領域の固有性を説いているかの風でありながら、じつは論理学的関係を説いている。論理学を押し付けちゃう。一般的な正しさというのは、あくまで仮説であって、見通しであって、あくまでそのもの・現実の個々の領域から、そのものの関係として、その中から導き出され、論証されなければならない。論理学的神秘主義。大体ですが、勝手にまとめると、以上のようなことを言っているとおもいます。二、これまで、ヘーゲルの批評としては、エンゲルス『空想から科学へ』、『フォイエルバッハ論』がよく使われます。それらは「入門書」とされるくらいに、基本問題を分かりやすく説いているんですが。いわば常識的な当たり前な知識になっているんですが。しかし、私などは思うんですが。その結論を知っていることと、それを理解することとは違うと思うんですよ。というのは、その知を理解するためには、唯物弁証法というのはヘーゲル哲学に対するどの様な具体的な考察から導き出されたのか。ここの中身・過程を明確にしなければならないし、しておく必要があると思うんです。そこが曖昧だと、いくら正しい知であったとしても、猫に小判の「お経」のようになっちゃうじゃないですか。そして、私などは、あまりこのマルクスの生の批判-『ヘーゲル法哲学批判』について、この大事なテーマに対して、これを吟味している著作が、学問の領域でほとんど無いんじゃないかと感じてました。本当にあんたがたは真剣に、具体的にここを学んだの? 誰か権威者の言葉を口移しに引用してるだけじゃないの、ないし自分勝手な解釈論を述べてるだけじゃないの? なんて毒づいてきたんですよ。三、しかし、訂正します。個々人は、それなりの形で、この検討をやってきていると思います。充分不十分さや、どういう仕方であってかは、それはいろいろありますが。個々人の内面には、その作業があったと思うんです。ただし、一面では結論の正しさをあえて繰り返すことなく、自己が担当している領域で個々の探究にいそしんできたこと。戦後民主主義の下での各分野での豊かな発展は、全体としてはそれがしめしているじゃないですか。だけど、それぞれの討論が十分じゃなかったと思うんですね。他方では、今の安倍-菅-岸田政権の動向を見ると、学術そのものに背を向けてますね。利用できる太鼓持ち学者やお仲間は大事にするけれど、学術そのものを尊重するということが分かってない。日本学術会議の6名の任命拒否がそうですが。憲法を理解するようにと子どもたちには教育してきたのに、御みずからは安保三文書での憲法否定の戦争する国づくりを進めようとしている。これをみると、政治世界が狂ってきていて、自分たちの名誉心でもって国民を誤魔化し、まるめこもうとしている。ここでは、学術なんてものは働いてなくて、朕は国家なりを隠してるんですね。この世界ばかり見ていると、暗くなるのも当たり前です。だけど、国民の良識が問われていると思うんですよ。こうした狂った動きを容認するのか、それとも主権者として、代表とされる人たちの勝手な暴走を、しっかりと正す知恵と力をもっているかどうか、そこが問われていると思うんです。政治権力を持っているというのは大きな力ですが、しかし国民全体の中では、また歴史の流れの中では、そんな理屈は邪道であり、通りっこない。問題は、それを正す力をどうつくるか、それが今、国民に問われています。こうした世界と日本の関係からしたら、一生懸命に努力してきた国民や研究者に対して毒づくなんてことは、無知のなせるわざであって、そんな傲慢な態度などとれっこないことが、わかりました。むしろ毒づくべきは、憲法をないがしろにして、しゃあしゃあとしている「国民の代表」に対してであり、ここにこそそうすべきだ、ということでした。四、マルクスが『ヘーゲル法哲学批判』で説いている中身ですが。マルクスの意図ですが、ヘーゲルの博学で、天才的な努力を評価しつつも、その弱点を正そうとしているんです。真に民主主義的な憲法体制とは、プロイセンの専制君主国家の野蛮な政治体制をかえるには、何が必要なのか。それを探っているわけです。このことというのは、日本と世界の今の動きにたいして、大きな励ましとアドバイスを与えてくれていると思いますよ。決して古くない、今の問題が展開されてます。以上で、一章「はじめに」としておきます。つぎは、『法の哲学』第二章「一、内部体制 a.君主権」の第272節から279節。『ヘーゲル法哲学批判』の国民文庫版の、P30から73にはいります。
2023年01月05日
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みかんの残払い1月4日(水)、はるばる東京から小田原まで、みかん園の残払いに援農が来てくれました。小田原のみかん園の、温州ミカンの収穫は「残払い」に入っています。昨年末のうちに、ひと通りの収穫はしたんですが、みかんも個性的でして、その時はまだ少し早くて、遅れて熟す実もあります。暮れに残してあった温州みかんについては、年が明けて、霜が降りだしている今は、すべてのみかんを木からおろします。そうしないと、木の養分がとられ続けてしまい、気が休まらなくなります。今の瞬間、木から実をとってやることが、一番の手入れなんですね。しかし、この時期は正月休みでもあり、誰だってのんびりと休みたいときじゃないですか。しかし、みかんの木にとっては、人間世界の正月休みなんて、関係がないわけです。一人、ショボショボと残払い作業していているはずの時に、援農が来てくれるというのは、これは、天の助けなんですね。援農の方には無理な高枝のみかんを除いて、2本の木を除いて、残払いが終了して来ています。これは、瞬間的にまたたくまに、私などが重荷となっていた仕事でしたが、その完了の目途が立ったというこということす。みかん農家にとっては、収穫したみかんの販売の問題もありますし、混み合った枝をすいたり、スス病のひどかった箇所へのマシン油散布もありますし、中晩柑にたいして、鳥害を防止するための網掛け仕事もあります。クズクズとしていると、作業のタイミングを逃してしまうんですね。去年は、販売やらラナンやらで、剪定やマシン油散布などの基本作業が出来なかったんです。今季は、こうした援農者の力を得たおかげで、くたびれて伸びきっている体ですが、それでも、メリハリをもって、必要な作業が出来そうです。
2023年01月04日
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この戦争への道をどう変えるか暮れの12月16日、政府は「国家安全保障戦略」など安保三文書を閣議決定しました。先の国会で、そんな説明など一切せずに、自民・公明の政権与党で裏折衝していた。戦後70年余の平和憲法を変えて、軍事国家を目指すというものです。すでに、12月23日には2023年度政府予算案で10兆円を超える軍事費を提案しています。暮れは忙しい時だったので、こんな大事なことを国会にも国民にも諮らずに決めれるのか、とモヤモヤしつつ、正月を迎えたわけです。そんな中、1月1日の午前0時過ぎに、共産党委員長の志位和夫さんのインタビュー2時間をききました。くたびれたので寝てしまい、目が覚めたのが31日23時45分だったんですね。2023新春インタビュー 「戦争か、平和か」 歴史的岐路の年をどうたたかうか - YouTube1月1日付「しんぶん赤旗」には、それが掲載されてました。自公政権がすすめる軍事路線ですが、この安保三文書の内容はどの様なものか。それは日本国民にどの様な進路と生活破壊をおしつけるものか。これまで国是としてきた平和・民主の憲法のあり方を根本的に覆すものになる。そうした中身がくわしく語られてます。すでにボールは投げられたんです。この球がどの様なものであるのか。早く正確に、その中身を理解する必要があります。志位インタビューですが、これは、その中身を理解するための大事な1つだと思います。問題は、霞が関の世界にいると、今の政権にいかに取り入るか、そのつっかえ棒になって、政治を牛耳りたいと、そうした病気にかかっちゃうんですね。しかし、それは国会の中でのことでしかありません。それは、ひろく国民の各地、各層、老若男女の日本社会の全体からしたら、井の中の蛙でしかありません。この国民に真実をいっさい知らせずに、「オレが代表だから決めれる」、朕は国家なりと、勝手にすすめようとしているわけです。すでにボールは投げられました。国民として、この軍事・戦争の路線の中身と本質をどうつかむのか。この逸脱からまっとうな日本にむけてどの様に立て直すのか。今の政治路線をどのような社会にかえるのか、どの様にして現在を転換させるのか。このことが、問われている2023年正月です。国民の知恵と力が試されている時です。
2023年01月02日
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謹賀新年今年もよろしくお願いします。去年から、ロシアのウクライナ侵略やコロナ問題、はては岸田政権による大軍拡の憲法破壊路線の勝手なくわだてと、内外とも危険な挑戦がおこなわれてます。ことしは、こうした人道に反した災いを、根本から変える年にしたいですね。私などは、引き続き「みかんと学習」を課題としていますが、この政治路線の国民的転換をつくるために、微力であっても出来うることを探っていきます。だいたいこのことは、日本の戦後史の根本問題ですし、大きくは日本の近代史の基本課題です。主権者として、一人の国民として、その知恵と力が問われているわけで、それは世界と日本の民主主義的な未来を拓く問題でもあります。今を生きる人は、さいわいです。先人が切り開いてきた道をまなび、さらに具体的に闘って、その道の確かな前進と勝利をつくりだす、この可能性を持ってるんですから。今年も、ご批判、御鞭撻のほどを、よろしくお願いします。 2023年 元旦 橘田幸夫
2023年01月01日
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12月31日の歳末みかん市なんやかんやあっても、今年も無事にここまでたどりつきました。12月31日、午前10時からの多摩市・永山団地で、みかんの年末大売り出しですが、正午でしたが、今年の販売を無事に終了しました。コロナの関係で商店会の人通りが少なく、いったいどうなることやら・・・。もはや、お客さんの種は尽きてますから、わずかな道行く人だけがたよりで、心配してたんですが。午前10時5分から12時までの2時間でしたが、8,400円の売り上げした。ということは、のべ28人もの人が人が、もちろん複数袋買ってくれた人もいるんですが、いたんです。これって、すごいことですよ。ほとんど人気のない商店会の露店市に、のべ28人もの人が足を止めてくれた、なんてことは。私はお客さんもなく、暇を持て余すだろうとおもって、寒さ除けにクラッカーを用意し、井原西鶴の『世間胸算用』でも読もうと用意していたんですが、それぞれ、そんなことに手をつける暇はなくて、どころじゃなかったんですね。なかには、みかんは買わなくても、立ち話しをていくような人もいたりして。『スーパーに買い物に来たんだけど。年金が少なくて大変だ。私は公明党支持なんだけど、平和でなくちゃだめだ。親たちは戦争で苦労して死んでいった。今のウクライナへのロシアの戦争はひどい。北朝鮮のミサイル発射なんかも、とんでもない』と、怒ってるんです。『(みかんの)味見なんかしなくても、知っているからいらない。今の一般のみかんは、スカスカだったり、やたら淡白な甘さだったりして、ものたりない。ここの少し酸味がある中にあっての甘さが好きなのよね。たしかに見栄えは良くないけど、ここのみかんの味がいいのよね。それで買いに来たんです』なんて嬉しいことを言ってくれる人もいたりして。そうなると、私の講釈がはじまります。「小田原・早川は、みかんの産地としては、北限のところなんで。南の地方でとれたみかんのように甘さ一色じゃないんです。ジューシーで酸味の中の甘さが特徴なんです。それと一括採取じゃなくて、熟したみかんを採るようにしてるんです。熟したみかんは傷みやすいから、一般の流通にはのらないんですね。みかんの生産農家は、傷があったり、大きすぎたり小さすぎたりすると、商品にならない。一般の流通からはねられちゃいますから、ここにあるみかんなんで、商品の対象外のものなんです。ジュースに出来ればまだしもですが、外国の濃縮果汁がはいってきてますから、結局は捨てるしかなくなります。しかし、味は試してみてのとおり太鼓判なんです。そうしたみかん農家と団地の消費者をつなぐのが、このみかん市なんです」。などなどと。見もしているし、体験してきたことであり、本当のことですから、講釈にも熱が入ります。まぁ、だいたい寅さんの二番煎じなんですが。てなことで、今年も私などに出来る精いっぱいの努力をして、今年の仕事を無事に終えることが出来ました。しかし、問題は、こうした努力の範囲では、問題は基本的には解決しないということです。みかんもさることながら。お米では、採算のとれない価格の生産を強いたり、国内では減反を強制しつつ外国からコメを輸入したり、だれがみても農家の後継者がそだてようとしてない事態。こうした「亡国の政策」を、国は1970年代からとり続けているんですから。ここのところを変えなければ、個々人のいろいろな努力はあったとしても、問題の基本はちっとも解決しないということです。農家の声を聞かない政府、聞くようなかっこはとるけれど、真逆な政策方向をとり続けている政府を、国民の力で変えなければならない。そうしないと、農家の実情を理解しない国民というのは、それは自分たち自身にとつて明日はないということです。そんな政治を進める政治家というのは、まってくの亡国の政治家だということです。私などの、みかん発信ですが、これはこの事態の真実を論証しようの努力なんですが。といったことで、引き続き、事態を変えれるまで、来年も頑張るということです。
2022年12月31日
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みかんの歳末市、二日目みかんの歳末大売り出し、12月30日の東京・多摩市の永山団地です。ふつう「歳末大売り出し」といえば、昔から「大晦日は一日千金」の、西鶴『世間胸算用』のはずなんです。永山団地のみかんの年末大売りだし、その2日目の12月30日、午前9時から店開きしました。それは、ふるくから商人たちの歴史的な鉄則のはずなんです。しかし、商店会のシャッターは、ご覧の通りしめられたままでした。午後になれば開くかもしれないんですが、当方は午前11時までが限界ですから。今日は、待っていたって、お客はいっこうに来っこないと思ったので、これまでに記録された閻魔帳の活用です。すべての時は、客待ちしている時間ですから、過去これまでに、この朝市で、みかんを予約してくれた記録のある人たちに対して、「この3日間、朝市をやってるので、午前11時までですが、ご利用ください」との電話です。この声をかけないと失礼じゃないですか、などと自分に言い聞かせるようにして。結果はどうだったか。最初の人は、まったく初めての、通りがかりの人で、『このみかん箱は、いくらですか?』と、信じがたいような声だったんです。午前9時から11時までの、2時間の営業時間の全体としては、5キロ箱の2個の3,200円と、1キロ袋・300円の17袋とレモンの5,350円。合計で、朝市2時間では、計8,550円の売りあげでした。これは、コロナ等で閑散としている商店会の朝市としては、「まずまず」じゃないでしょうか。この中で、一つの重要な話を聞きました。この永山団地商店会ですが、個人営業のお店のテナント料は、23万円だというんです。それだって、当初のテナント料を、公団と折衝して減額させた金額だというんです。このこと意味がわかりますか?これは、天地創造以来の自然法則に対して、日本の政権担当者がいかに無能だったかを示しています。庶民の苦労を、いかに知っていないかを示しています。日本住宅公団というのは、国の指導により決めてきたことなんですから。どうして腹立たしいかというと、私の1キロのみかん袋300円売り上げの収入は120円なんです。場所代もありますし、生産農家にたいしての120円の支払いもありますから。これで、商店会のテンポのテナント料・23万円を、私のみかん1袋120円で払うとすれば、1,916袋も売らなければならなくなります。今日の年末大売り出しの売り上げは17袋ですよ。ちょっと待てください、それ以外の必要な経費があります。小田原と東京を一往復すれば、その交通費だけで5,000円かかります。月に4往復しますが、年間240,000円かかります。その他に、私だって生き物ですから、食事しなければなりません。食費がかかります。それに「衣食住」、住んでいる団地や早川の住宅費も払わなければなりません。いったい、どうやってこれを払うんだ、どのくらいみかんが売れれば、これらの採算が合うのか。石川啄木の境地なんですね、「じっとこの手をみる」と。それにたいして、いったいこの国の政治家たちは、何をしているのか。これって誰だって自然な感情じゃないですか。そんな苦労はまったくのどこ吹く風。軍事費にジャカジャカと投入する。それでしか「国民生活を守る」ことは出来ない、なんてことをのたまわっている。これが「国民の代表」であるはずの政権党の感覚なんですから。それと同時に、それを「そうか、そうか」と許している国民、黙認して投票している国民ですが。これはいったいこれはどうしたものか。その支持を得なければならない政治家の立場では言えないことでしょうから、代わって、前川さんじゃないけど、私が言います。「あんたたちの頭は、まったくどうかしてるんじゃないの。自分で自分たちの首を絞めてるというのに、それなのに、それを信頼し・よしとしてるなんて。いったい、主権者としての、主人公としての、自覚と責任はどうなっているの? 、問われてるよ。同じ国民として、そのつけを払わされるのは迷惑なんだ」と。私などは、この国民は、まったく「人が良すぎる」と思ってます。戦前・戦後に、自分たちの親たちが、塗炭の苦しみを味わされてきたのを、ちっとも分っていない。親たちは、結局その原因を悟った頃には、自分の命の残り火が尽きて旅立っていった。その親たちや、先人たちの苦労を、何よりも今の社会全体の苦労を、どう受けとめているのか。自分たちさえが良ければ、儲けがあがりさえすればよしだなんて「信仰」は、狂人の思考だと。ここのところを、今を生きる者として、正面から直視すべきじゃないでしょうかね。あれっ、なんの話し出したっけ? そうでした、みかんの年末朝市の2日目が終了したということでした。
2022年12月30日
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写真集「信州・戸倉上山田温泉の旅」数日前に「信州・戸倉上山田温泉の旅」写真集をいただきました。9月27日から29日に、信州の無言館と姥捨の棚田を、50年前の同窓生たちで見てきたんです。そのことは、私もその旅の直後にブログで紹介したんですが。主観と客観の違いというか、同じ一つの旅なんですが、この写真集を見ることで、また新たな側面を感じています。一つは、信州戸倉上山田温泉「萩原館」のあたたかなおもてなしですね。幹事が「おかみが良かったからこの宿に決めたんだ」などと、みんなに言ってたんですが。松尾芭蕉は、確かに棚田の月を見るために、遠路、わざわざこの地まで出かけてきたわけですが。その『更科紀行』を、読み返してみると、芭蕉が感動しているのは、もちろん月の棚田の景色ですが、それとともに、「我をなぐさめんとす」ようするに「おもてなし」の心への感謝なんですね。「いでや月のあるじに酒ふるまわん」といえば、さかづきを持出でたり、と。だいたい、棚田の月を見てもらうために、自然の景観を保全することを、江戸時代からして来ているんですよ。日本社会はすぐに乱開発して、リゾート別荘だとか、金儲けのため売りに出しちゃうじゃないですか。儲け、儲けが、時の人たちの神様じゃないですか。もっと、それより大事なものがあることを、芭蕉もそうでしたが、私たちの今回の旅でも感じさせてくれたんです。おもてなしの心を。二、それともう一つ、かつて20歳の若者だった面々は、今や70歳を越える歳になってるんですが。不思議なんですね。外から見ると「敬老会の御一行様」なんですが、確かに外見はそうなんですが。髪は薄くなり、健康問題の話が比重を占めるようにはなっているんですが。それでも、かつての勝手知ったる仲ですから、だいたい心の内側がすけて見えるんですが、そこからすると、面々は昔とたいして変わらないんですね。並行して歳をとっているせいかもしれませんが、たいして昔と変わらないんです。ということはですよ。私たちは、えてして高齢者を爺さん婆さんと見なしがちですが、自分がその年になってみると、外見上感じているほどの隔たりというのはないということ。ことがらの客観性は、夏目漱石でも、森鴎外でも、宮本百合子でも、又誰であっても、えてして偉人として別格に見なしがちな人たちですが。じつは、同じように外見上の姿を捨象してみると、日本の近代社会の真に民主主義的な前進とはどの様な努力によって引き寄せれるのか、そうしたことを共通して、人知れず思案していたんじゃないでしょうかね。同じ客観的な土俵の上にいて、表現の仕方こそ、それぞれ個性的ですが、共通の課題に直面していたこと。そして、それは今の私たちが直面していることも、それもまた同じなんだと。今回の写真集ですが、それを見て、そんなことを感じさせてくれました。
2022年12月29日
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みかんの歳末市の初日12月29日(木)、多摩市の永山団地で、歳末大売り出しの朝市をひらきました。今日・12月29日から、30日、31日の3日間、みかんの年末大売り出しです。この特別市に向けて、真鶴・小田原からみかんを、車の最大限積める量を搬送して来ているんです。午前9時から始めて、午前11時くらいまでを目途にして、頑張るようにしているんですが。コロナが問題になって、商店会は様変わりしているんですよ。なんたって年末だというのに、年末大売り出しをしようにも商店会は閑散としているんです。当方みたいに「寅さん」のように吹き流しの商売とは違って、商店会に店を構えている人たちは、テナント料だって大変じゃないですか。それが午前9時とはいえ、年末なのにこんな淋しい事態なんです。年末大売り出しですから、一年のうちで、本来一番活気がってしかるべき時のはずなのに。こんな光景ですから、店を構えている商店は大変だと思うんです。当方の年末みかん売り出しですが、過去帳を調べてみました。土曜の朝市の外に、年末に連続して大売り出しを始めたのは、2019年の暮れからでした。最初の2019年には、13,725円の売り上げでした。それが2020年には、28,125円の売り上げ。去年の2021年には、9,033円の売り上げでした。今年は、コロナの「不要不急の外出は控えるように」ですから、ただ待っていたとしてもお客さんはやってこないとみて、朝市とともに、箱入りみかんをつくって、みかん愛好者の自宅に届ける様にしました。そうした今年の29日の朝市初日の結果ですが、まだ初日ですから全体的は結果は分からないんですが。今回の初日は、露店での販売は、5,400円で、箱の届け売りで11,200円でした。初日は、なんとか箱売りで、従来の売り上げをカバーしたということです。しかし、箱売り(「押し売り」)というのは、あくまで限られた特定の人に対してのことですから、もはやそうした方法は、明日・明後日においては、そうしたあては無いということです。どういうことになるのか、あと二日の予測ですが、まったく立たないんですね。今回体験したうれしい話ですが、一人は、トルコのイスタンブール出身者の男性が足を止めてくれました。「トルコにもみかんはあるけれど、これは美味しい。それに安い」と買っていってくれました。もう一人あげれば、「味見はしなくてもよい、わかってる。毎年ここで買ってるんだから」との男性が。ようするに、閑散として商店会ですが。1時間半くらいの間に、18人くらいの人が、みかんを買ってくれていたということです。やはり動くということは、何らかの新たな発見や、新たな出会いがあるということです。あと二日を頑張ろうとする、そのエネルギーをいただいたということです。
2022年12月29日
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年内最後のみかん収穫12月24日から27日に、年内最後のみかんの収穫に行ってきました。12月27日朝、相模湾の日の出で、みかん山から見た景色です。小田原の街は、まだ暗い。この前日・12月26日に、みかんの収穫のために、親子2人が来てくれました。なにしろ、まわりの農家がこの数日の間に、一気に収穫を終えてからというもの、みかんの残っている畑に、山じゅうヒヨドリが、集まって来るようになってます。人間の収穫が遅いと、美味しいところは鳥たちの饗宴の場となってしまいます。下からはイノシシ、上からはヒヨドリが狙ってます。しかし、収穫はハサミをにぎる回数ですから、農夫は連続の作業で、すでにくたびれていますから、応援者が来てくれると助かるんですね。12月25日(日)にも、二人の応援者が来てくれたんですが、こちらは、ドタバタしているうちに、写真を撮るのを忘れてしまいました。収穫したみかんですが、一部は小屋におくようにして、箱詰め・袋入れしました。月曜・火曜の朝一番は、JAから宅配便での発送です。全国の友人・知人に、迷惑も承知でSOS、購入を募ったんですね。5キロ箱、10キロ箱と、農協からみかんの発送です。そして、本日・12月28日(水)、車の最大積載量ちかくまで積んで、搬送してきました。これは、東京の八王子・多摩・稲城市で募った自宅への宅配分と、それと、多摩の団地で、12月29日、30日、31日に、歳末セールを開くためのものです。「不要不急の外出はひかえるように」との事態の中で、昨今は、商店街への買い物の人の出は、まったく少ないんですが。これを売り切るのは、容易なことではないんですが。日本人の、古くからの習慣は、正月は家族でこたつの中、みかんでも食べながらテレビを見る、ということですが。まぁ、そんな優雅な家庭は、今のご時世にあっては、ごく一部のご家庭かとは思うんですが。それでも、生産農家にとっては、ここで売れないことには、一年間苦労して生産した意味がなくなりますから、販売と収穫、ここでこそ頑張るということです。だいたいみかんというのも、やはり生鮮食品ですし、フリッシュな美味しさが命です。小屋に貯蔵したみかんが、あふれ出して滞留したりすると、せっかくの味が落ちゃいますから。ここは人の努力です、「命がけの飛躍」のために、収穫とともに販売の点でも頑張るということです。私などが、東京で販売している時間帯は、木に残ってのをヒヨドリたちが突っついてるでしょうが、それは、まぁ仕方ありません。毎年のことですが、年末のうちはできるだけ販売するようにして、1月3日からは再び残りのみかんの収穫です。 井原西鶴の『世間胸算用』は、今でも当たっているということです。
2022年12月28日
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大詰めのみかんの収穫・販売ここにきて日本海側は、大雪が降り続いてたいへんです。新潟から注文のみかんは、荷受けが受け付けてもらえませんでした。今日・12月24日(土)は、東京・多摩の団地の朝市でした。年末なんですが、例年に比べて人の出がすくない商店会です。しかし、人は生きていくためには、食品を手にいれなければなりませんから、これでも、そこそこに売れてはいくんですが。今日は、午後から再び早川行きです。12月21日(水)夜に雨が降ったため、みかんの収穫がストップしているんですね。明日・25日(日)には、収穫のためボランティアが来てくれますから、年内最後の週を、収穫作業で、もうひと踏ん張りです。「残払い」と言っていますが、みかんの木からすべての果実をとります。玉石混交ですが、後で選果するようにして、とにかく木からみかんを採りきります。みかんの木を休ませることにもなり、これが今の一番の手入れなんですね。次の木は、今回対象としている木です。これまで収穫してきた畑でも、まだ手をつけてない木もありますし、「うわもぎ」しただけで、まだ木にみかんが残っている木もあります。したがって、25日(日)、26日(月)、27日(火)の3日間は、小田原・真鶴で収穫作業です。28日(水)は、それを東京に搬送して来て、29日(木)、30日(金)、31日(土)は、多摩の団地で歳末の大売り出しです。もはや、残された時間も出来うる仕事も、かぎられてますから、それは残りの人生も同じなんですが。とにかく、井原西鶴の『世間胸算用』じゃありませんが、「大晦日は一日千金」ということです。
2022年12月24日
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マルクス『ヘーゲル法哲学批判』4 第262節最近、こんな発言を目にしました。表題は「政治を変えるために力をあわせよう」なんですが、「抽象的に『憲法を守れ』と繰り返すだけでなく、自民党(憲法)改悪案の危険、愚かさ、ウソを具体的に徹底的に暴き、論破していくことがカギです」(小林節「全国革新懇ニュース」23.1.10号)私などは、これは、今回の学習と中身の上で重なっていると思うんですよ。さて本題です。前回の宿題ですが、ヘーゲル『法の哲学』第262節です。以下、その第262節の本文全体です。「現実的理念は精神であり、そしてこの精神は、おのれの概念の二つの観念的な圏である家族と市民社会におのれ自身を分かち、こうして有限性となり、しかる後にこれらの両圏の観念性から出て対自的に無限な現実精神となる精神である。したがって現実的理念はこれらの圏に、精神の有限な現実性の材料を、すなわち多数の衆としての諸個人を配当するが、この配当は個々人にあっては、境遇とか恣意とか自分の職分の自己選択とかによって媒介されているように現象する」(中公版 P240-241)たったこれだけの本文なんです。ヘーゲルはいったい何を言っているのか、わかりますか。さらに、これを論評したマルクスの『ヘーゲル法哲学批判』の、その箇所の結論ですが、「この節のうちに法哲学、またヘーゲル哲学一般の全秘密が蔵されている」(国民文庫 P11)。マルクスはどの様に考察して、どうしてこんな評価を下したのか、ヘーゲルのいったいどのような問題が検討されたのか、それが問題です。以上、この両者の主張・議論を読み解くこと、それが、前回の宿題でしたし、今回の問題としている点なんです。一、マルクスのここでの作業ですが、それはヘーゲルに接近していく為の、一つのやり方をしめしてくれてると思うんですよ。ここが全体を学習していく上での、一つの試金石になっていると思うんです。1、問題は、国家と家族・市民社会との関係の問題なんですが。ヘーゲルの文章を、第一に誰にとっても理解できるようにと「意訳」をしています。「この文章をなんでもない言い方に直せば、こうなる」(国民文庫版 P7)、と。ヘーゲルの文章を読むと、これは何を言っているのか、誰しもその難解な表現に難儀すると思うんです。マルクスがここで探っている問題は何か。この思弁的な言い方で言われていることの中身は何なのか、「思弁的」な表現とされることがらはどの様な考え方(思想)からでてくるのか、その特性をとらえたえて、それをあえて「意訳」して普通の人の言葉に置き換えたとしたら、そのヘーゲルの思想にはどのような問題があるのか。ここでマルクスは、そうした道筋で問うているものと思います。2、では、そのヘーゲルの思弁的な表現を普通に置き換えると、どの様な特徴が見えるか。マルクスはそれを分析して「この展開は二重の点で目にたつ」と特徴を指摘しています。いったい、その「二重の点」とはなにか?「この箇所で、論理的汎神論的神秘主義が非常に歴然とあらわれる」(P8)と指摘します。私は、それを、この論理的神秘主義と汎神論的神秘主義とみたんですが。3、次に、その特徴をさらに詳しく分析していきます。その分析は、P8-9ですが、3つの文節で説いています。一つ、現実的な関係や事実が、ヘーゲルの思弁によって、何かの「あらわれ」とか「現象」であるとされる。事実は、そのものとしてではなく、それの背後にある何か(精神)による「あらわれ」にすぎないものとみなされる。二つ、「国家と家族・市民社会の関係」ですが、理念(国家)が主体化されて、家族や市民社会との関係は、理念の内的な想像上のはたらきによる結果だとされちゃう。実際は、家族や市民社会がアクティブな主体になっていて、そこから国家ができているのに、ヘーゲルも部分的にはそうしたことを言ってはいるんですが、全体としては思弁のいい方のなかであべこべにされちゃう。三つには、個人の境遇や職業身分は現にあるがままにみとめられるけれど、それは理性による必然的なあらわれとみなされちゃう。ヘーゲルにとっては、現実の関係ではなく、言いあらわし方の問題になっていて、あくまでヘーゲルの中心的関心は、論理的概念というものを国家の関係やその歴史の中にみとめようとする、このことにあると。それぞれの固有の領域の発展でなくて、それを材料として、そのなかにある論理学的、弁証法的展開を探ること、それが中心的な関心になっている。 マルクスのヘーゲルの国家観に対しての、その考え方に対しての一般的な分析です。二、注意しなければならないことは、マルクスはヘーゲルを全否定しているんじゃないことです。ヘーゲルの特殊性(癖)をとらえて、それがめざそうとしている合理的で普遍的な成果を、すなわち業績を積極的に生かそうとしているんです。 (個別的なことは-その特殊性をつかむことで-その普遍的な事柄をとらえれるようになる)とわいえ、「合理的には、ヘーゲルの文章は次のことをいっているにすぎないであろう」(P9)は、長い2ページのひとつづきの文節になっていて、かなり辛辣なんですが。この長い一節を、いくつかの文節に分けようとしたんですが、一つ、家族と市民社会は国家の諸部分である。国家は、いろいろな境遇や職業の個人からなっている。そうした一人ひとりの全体から国家は出来ている。「家族・市民社会は、国家の現実的な部分、意志の現実的、精神的現存態である。それは国家をつくり、原動力となって他を推し進めるものである。これに対してヘーゲルによれば、家族・市民社会は現実的理念によってはたらきを受けていて、それ自身のなりゆきではなくて理念がそうさせているもので、それら自身とは別の第三者によって規定されている、と。二つ、ヘーゲルも「国家は市民社会が土台であり、欠くべからざる条件になっていると言ってるんだけど。しかしそうした条件(市民社会)は条件づけられたものとして、規定するものが規定されたものとして、産出するものが(何か精神の)産物として定立される」。理念の業とされる。三つ、「事実においては、国家は家族・市民社会を成員として現存しているような衆人から出てくる。思弁はこの事実を理念の業し言って、大衆の理念とは言わずに、かえってある主体的な、事実そのものとは別な理念の業とみなしている。」四つ、これまでるる述べてきたことの結論です。「ご覧の通り、経験的事実があるがままに受け入れられ、この現実がまた理性的だとのいわれるんだけど、しかしそれはそれ固有の理性のおかげで理性的であるのではなくて、それが理性的なのは、経験的事実はその経験的なあり方とは別な意義をもつからだと。出発点となる事実は、そうした事実そのものとはとらえられ、理解されずに、かえって神秘的な何かの成果だと理解される。・・・理念は対自的に無限な、現実的精神であろうとする論理的目的以外のいかなる目的をも持ちはしない。 この節のうちに法哲学、またヘーゲル哲学一般の全秘密が蔵されている。」以上が、この第262節に対するマルクスの論評です。たった6行のヘーゲルの第262節の主張に対して、マルクスは80行をも超える論評をのこしたわけです。しかし、それは、マルクスのヘーゲルに対する誠実な批判的な検討をしている証でもあるんですね。相手のヘーゲルの主張をよくとらえて、自分勝手な解釈などではなくて、誰であってもおおよそ関心をもつ人であるならば、それを誠実に理解しようとするならば、誰であったとしてもその検討を納得させてくれるような、そんな道理のある「批判」をしていると見ました。まぁ、以前と比べれば問題がどこにあるのか、少しは見えてくるようになりました。最後に、感想を一つ。ここには、ヘーゲルですが、その思弁的な言い方の問題というのはあるんですが、事柄の関連をとらえた積極的な中身があると思うんです。マルクスが格闘しているのは、それを積極的なものにしようとしている努力だと思うんです。しかし、私たちがそれを読み解くためには、残された文章にあたるしかないんですが。そこには真剣でしっかりした努力が必要です。その苦しさから、その言葉じりの範囲で、自分勝手な解釈をすることで、理解したかのように済ませている、解釈学的見解がたくさんあると思うんですよ。この『ヘーゲル法哲学批判』には、マルクスの学び方が、批判の仕方が、その努力が生の形で残されています。やはり、そこで肝腎なことというのは、言葉を解釈するんじゃなくて、今に生きているそこにある精神を、考え方の方法を、つかみとることが大事で、そうしてこそ関係を変える(変革する)ものとなるんじゃないでしょうか。まだ、「はじめに」の最初の一節がはじまったばかりで、四の五のいうべきところじゃないんですが。1840年代のドイツの民主主義革命の前夜に、ヘーゲルやマルクスたちはどの様な努力をしたのか。そこには、今の日本に生きる私たちにとっても、生きた宝がたくさんあると感じています。今回は、以上です。
2022年12月23日
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雨滴でみかん狩りは出来ず日本海側は大雪とのこと。新潟の知人からみかんの注文があったんですが、運送会社によると「一昨日から雪のために受け入れることが出来ない」と。12月21日(水)夜は、関東も雨でした。前々からみかん狩りを楽しみにしていた一行が、旅行の一環としてやってきました。あらかじめ「あいにくの雨、畑を見るだけだけど、長靴を用意してきてほしい」と言っといたんです。さいわい、雨は上がったんですが、ご覧の通りの霧です。小田原・早川の石垣山でも、箱根山から霧が降りてきて、せっかくの景色がほとんど見えなかったんです。それでも、さいわい雨は上がったので、みかん園の状況を、畑に入ってみていただきました。まわりの畑を見れば、農家がこの雨が降る前に大奮闘したあとが、ありありです。みかんが、短時間の間に、すっかり木から消えていました。ウサギと亀じゃないんですが、農家の集中力は、すごいんですね。残されているみかんの木には、山じゅうのヒヨドリが集まってきます。すでに、ピイピイと近くで鳴いているんですが。しかし、みかんの木が乾かないことには、収穫は出来ません。みかんが濡れていては、人も濡れますし、みかんが傷みやすくなりますから。だから、この2日間は収穫作業はお休みです。しかし、その間に、すでに収穫してあるみかんを搬送して、販売します。販売がすすまないと、みかん小屋はみかんであふれ出してしまいますから。雨のせいだけでなく、販売がすすまないことには、私などの収穫作業には、力が入らないんですね。雨上がりの畑を見て、試食した一行ですが。写真は、車に中の荷物を片付けて、空いたスペースにみかん箱を積もうとしているところです。みかんをいっぱい車に積みこんで、これから、小田原港で海鮮丼を食べて、帰京するようです。
2022年12月23日
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みかんの木を復活させるためにみかんの木を復活させるために、草刈りをしてきました。草に覆われたみかんの木ですが、どこにあるか、何本あるか、分かるでしょうか。1970年代の前半までは、日本海側の雪国から出稼ぎの人が来て、みかん園を維持していたんです。しかし、その後オレンジの自由化もあり、みかん産地も広がって、価格の低下もあり、今やみかん農家に人を募るような財政余裕はありません。家族労働でみかん畑を維持しようとしてきたんですが、不安定で低調な収入では、息子さんたちに後を継がせることは出来ないじゃないですか。アメリカやヨーロッパでは、生産費に見合う価格保証をしているそうですが、日本はそんな補修はなく、低調な自由価格にさらされてます。結局、老夫婦の二人の力で、体力の限界まで頑張っているのが、今のみかん農家の状態です。「放任園」と世間は言いますが、だれが親から引き継いだ農地を放棄するような人がいるでしょう。実際は、体力の限界までみかん畑を維持しようとして、老夫婦は頑張っているんです。しかし、体力が若いころより下がるのは、自然の摂理じゃないですか。耕作面積を体力に見合って、縮小せざるをえないんです。そうした結果が、ご覧の様なみかん園の状態が、あちこちに発生しているということです。ただ、12月21日に、雨が降り出す前に、みかんの木の周辺の草刈りをしました。というのは、12月22日にみかんの収穫に援農者が来てくれることになっていたんです。しかし、実際には、前夜に雨が降ったため、収穫作業は出来なくて、今回のところは、みかんの木の様子を見るだけにとどまったんですが。しかし、援農者がみかんの木に近づいて、収穫作業をするためには、この木の周りの草刈りが、前提作業となりますから、その草刈りをしたんです。その結果、手袋ですが、センダングサのために、ご覧の通り、軍手は使えなくなりました。この種を、いちいち取っていたんでは、それだけで日が暮れてしまうんですね。人間の背丈以上のセンダングサが、みかんに覆いかぶさっているんです。これを取り除かないと、みかんの木に近づけないんですね。この草刈りの後で、21日夜-22日午前まで、雨が降ったため、今回のところは、このみかんの木について、予定していた収穫作業は出来ませんでした。数日後に、草木が乾いたところで、援農者の力を借りて、収穫する予定です。ところで、12月20日、冬晴れの富士山が見えました。小田原厚木道路の小田原サービスエリアからとったものですが。宝永火口の上あたりには、ジグザグに登山道がみえてます。こうした晴れた天気のもとでしか、みかんの収穫は出来ないんですね。みかんは、おいしい味も、収穫作業も、すべて太陽の恵みなんですね。さぁ、いよいよ、今年のみかん作業も、年内最後の一週間に入っていきます。霜が降り出す前に、みかんを木からとらないと、味が低下してしまいますから、今、誰が何といおうと、みかん農家は収穫作業でして、一年の努力はこの時にあり。雪が降ろうと槍が降ろうと、一刻値千金で最後の追い込みです。
2022年12月22日
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NHK「鎌倉殿の13人」を見て12月18日(日)、NHKの日曜大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終了しました。この番組により、鎌倉幕府の初期について、その認識を新たにさせてもらいました。当方の生まれ故郷は、神奈川県真鶴町岩です。そこは、平家政権に反旗を翻した源頼朝が、伊豆を出て最初の合戦-石橋山の合戦で敗れて、東京湾をはさんだ対岸の房総半島の地に船出した所が、岩だったんですね。だから、最初は郷土に刻まれた歴史がどの様に出てくるかということで注目したんですが。もう一つ、2012年のことですが。北条時政のお墓を紹介したことがありました。学生時代の同窓会で、「伊豆の旅」をしたんですが、その時にとった一コマなんです。私などは「鎌倉時代」といえば、1196年の鎌倉幕府の成立と、北条時宗の元寇くらいしか知らなかったんです。この同窓会を準備する手前、どこを案内するか、その歴史はどうだったのか、郷土の歴史というものを、あらためてあちこち調査することになったんですね。その一つが、願成就院の北条時政のお墓だったんです。この北条時政については、私の50年前の小学校の恩師と、我が家の歴女がアドバイスしてくれたんですが。その時に案内した時のブログです。「伊豆の旅」準備、北条時政の願成就院で、運慶の仏像をみる | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)そもそもその時は、「北条時政」という名前は、頭にインプットされたんですが、されがどの様な人で、鎌倉幕府にとって、どの様な役割を果たした人かなんてことは、まったく知らなかったんですね。それでいながら、いかにも知ってるかのように知ったかぶりして、あれこれとあちこちと講釈して、案内して回ったんです。しかも、その下調べをしていて、再認識したんですが。我が家のお婆ちゃんですが、その出身が、丹那トンネルを出てところの函南、その舟山なんです。また、私の父の出身ですが、伊豆の原木新田でして、いずれも、源頼朝が流刑された地、「蛭が小島」とは、ほんのすぐ近くなんですね。同窓会の下調べをしていて、なんとも不思議な縁を感じさせられた次第でした。そんないきさつからして、今回の『鎌倉殿の13人』は注目だったんです。はじめて北条時政の歴史的にはたした役割ですが、また北条時政という人の存在と役割ですが、今回の番組をとおして、初期の鎌倉幕府成立のいきさつですが、それらの出来事というものを認識させてもらいました。その認識ですが、これまで得ていた認識ですが、みずから体験していたことや、関連する諸資料を調べることで、歴史というものを、認識を新たにさせてもらいました。私など私事ですが、私について残されている最初の写真ですが、それは、0歳の時に、鎌倉の鶴岡八幡宮に宮参りをしている時のものなんですね。八幡宮の舞台のそでで、祖父母と母に抱えられている写真なんですね。そうしたことで、相模湾の小さな寒村の岩村と、伊豆の函南、そして鎌倉。なにかと不思議な縁を感じされられる土地柄です。そんなことを思い起こさせてくれる『鎌倉殿の13人』最終回でしたし、それを見た今回の群馬の旅でした。
2022年12月19日
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オイゼルマン著『マルクス主義哲学の形成』当方はマルクス『ヘーゲル法哲学批判』に関する本ですが、それがほとんどみかけないとぼやいてきたんですが。一冊見つけました。テ・イ・オイゼルマン著『マルクス主義哲学の形成』(森宏一訳 勁草書房 昭和39年6月刊行)です。昭和39年といったら1964年です。私などは1973年に目をとおしたことになってました。訳者の森宏一氏は戦前の唯物論研究会からのしっかりされた方です。その方が訳されてたんですね。ですから、当時としては、それなりに一般的だったと思います。私の本棚にあったくらいですから。この本が扱っている対象は、ギムナジウム(高校生)ころから『共産党宣言』までです。マルクスの初期の思想形成の過程を追求した著作です。当時としては、なかなかの労作として感じた印象があります。もちろん、その後の日本の70年代には、これも土台として、はるかにこまかな研究がされたでしょうが。まだ当時は翻訳も限られていたにしても、良心的な研究がされただろうことがうかがえます。その後は、研究はこまかくなり、多岐な面で探究されているんでしょうが、これだけの基本的な全体観をまとめたものは見かけません。もはやそれは常識的になっていて、そうした基本を繰り返す必要性がなくなったということでしょうか。その後は、はるかにこまかな、多岐多彩な探究に進んでいっただろうことは、うかがえるんですが。まとまったものは見かけません。今回、私などはあらためて、せめても、第一部第三章第一節「マルクスの手稿『ヘーゲル法哲学の批判』」についてだけは、読み返してみました。いわば古代ギリシャの世界といったところですね。
2022年12月17日
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師走の半ばの朝市12月17日(土)、多摩の永山団地で、みかん市を開きました。12月の土曜日も、あますところあと三日。いよいよ、一年の仕事のしめくくりの段階に入ってきました。以前であれば、積み上げたみかんの山に、そこそこの人たちが集まってきたんですが。今は、コロナで不要不急の外出はひかえられてますから、永山商店会も、例年に比べると、人の気配がまったく少ないんです。そうした中での、師走のみかん市です。今日・12月17日は、永山商店会の歳末感謝祭とのことです。商店会の若い衆が、午前11時から対応が出来るようにと、朝早くから、福引会用の会場設営を始めていました。商店会長も、陣頭にたってテントの設営を指揮していました。当方の朝市は、午前10時過ぎには引き上げさせてもらったんですが。今回は、花ユズとコウジミカンのおまけつきです。みかん園の方はというと、まわりのみかん畑を見ると、農家の急ピッチな収穫作業がすすめられています。霜が降りだす前に、温州みかんについては、収穫を終えておきたいんですね。一週間前までは、みかんがたわわになっていたんですが、まわり真みかん畑を見ると、大方のみかんが収穫されたということです。農家の瞬発力というのは、すごいものですね。「ウサギと亀」じゃないですが、当方は、熟したみかんだけを収穫するようして、短期間に消費者に届けることをポリシーにしてるんですが。農家が短時間に集中的に収穫作業する力に、完全に追い越されてしまいました。まぁ、それもまたよしです。しかし、12月末まで、あと2週間ですが、その間に、みかんの木から熟したみかんを採りきるということです。まわりのみかんが消えると、石垣山中のヒヨドリが、残っているみかんの木に襲来してきます。ヒヨドリはグルメですから、熟したみかんをねらってくるんですが、これからの二週間は、美味しく熟したみかんを、ヒヨドリか人間か、どちらが採るのか競争です。一年の計が、ここにかかっているわけです。
2022年12月17日
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マルクス『ヘーゲル法哲学批判』3 最初の入り口マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』は、彼が26歳ころ、1843年夏に学習し残した草稿です。刊行されたのは1927年モスクワです。当時の日本社会ですが、1923年(大正12年)関東大震災ころから1945年の敗戦までは、社会主義思想は国禁思想であって、取り締まりの対象でした。その壁が破られたのは、一般に学問研究が自由になったのは、1945年8月の終戦以後からなんですね。それは私などが生まれるたった5年前だったんです。さらに、今回のマルクスの『ヘーゲル法哲学批判』の草稿ですが、その刊行はマル・エン全集第一巻(真下信一訳)は1959年刊行です。それが国民文庫版で刊行されたのが1970年ですから、私などが最初に目にしたころ(1970年ころ)というのは、この研究・議論がまさに行われだしていたころだったんですね。今にして、そうしたことを振り返ってみると、私などは1969年法政大学に入学したんですが。当時は、すべては自然であり、万事は当たり前のように見えていたんですが、そうではなかったんですね。当時はそんなことはまったく分からなかったんですが、戦前の後遺症を引きずっていながら、なんとか新たな前進を切りひらこうと、社会の全体は模索していたんですね。今にして感じられることですが。誰だって忌まわしいことは子どもたちに対して語りたくないものです。大人たちは寡黙だったんです。そうした渦中のただ中に、私などはいたということだったんですね。今だって、その中にいるわけなんですが。その戦後世代ですが。その戦後民主主義によって、「マルクスはヘーゲル哲学を批判して唯物弁証法と唯物史観をつくった」なんてことは、今では誰はばかることなく公言できます。しかし今や、そんなことは当たり前のことで、常識的なことにすらなっています。しかしこれって、事実は事実なんだということですが、それは素晴らしいことじゃないですか。しかし私などは問うんですが、マルクスはいったいヘーゲルをどの様に批判したのか、結論的なことは「知っている」んですが。いったい、その具体的な批判過程については、確かめれてるでしょうか。その結果は一つの知識として、それはそれで間違いはないんですが、はたしてそれを誠実に確かめることは出来ているでしょうか?そこが問題です。私などが、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』にこだわっているわけですが、それはこの草稿がその詳細な批判過程の一端を、生で記録しているものだと思うからなんですが。もちろん、その結論については、それは後年に幾度もふり返って、本質的なことがらについて、いくつもべているものはあるんですが。しかし生の具体的な批判過程を確かめておくこと、それはその結論を理解する上でも大事なことじゃないかと、私などは思っているんですよ。私などが見るのに、帰らざる河でして、そうしたこの草稿に対する検討著作というのは、ほとんど目にしていないんですね。私の狭さのせいもあるかもしれませんが、そうなら図書館もありますから、是非紹介して欲しいんですが。それはなぜなのか。けっして研究されてこなかったわけではないと思うんですよ。これはあくまでごくごく基本的な事柄じゃないですか。各人は各人なりにしてきていると思うんです。そのうえで、おそらく想像するのは、研究者の各人はこの基礎についてあえて再論するまでもなく、当たり前で明確なこととして受け入れたことがらなのかもしれません。ないしは、ただそのような基本について刊行するという機会が無かっただけかもしれません。レーニンはこれをみることなく1924年に亡くなっています。『哲学ノート』などの独習メモまでもが刊行されてるんですが。しかし目にすることは出来なかった。まして執筆したすべてを全集にして刊行されるなんて、よほどの人でないと、一般にはありえないことですから、この草稿に関する学習記録は見かけないということです。しかし、今という時代はインターネットの方法がありますから。私などですら、ブログやフェイスブックによって、たとえ個々人のつぶやきごとの程度であったとしても、自由に世界に発信しうることができるのが現在わけです。これってすごいと思いませんか。以前であれば、そんなことが可能なのは、よほど著名な人かお金持ちか、一般にはせいぜい新聞の投書とかのごく限られていたことがらなんです。ところが今の日本は、たとえどこであっても、それは民主主義社会の試金石です。思想信条の自由・言論発表の自由があるわけでして、誰であってもその人の存念を自由に発信することは出来るわけです。インターネットは自由を広げたんです。これって素晴らしいことだとは思いませんか。当たり前なことですが、当たり前が当り前ではなかった時代をへてきたからこそ、今の私たちはその中に暮らすことが出来ているんですね。そもそも何を言いたかったかというと。とにかくも私などの経験したかぎりでは、このマルクス『ヘーゲル法哲学批判』草稿に対する検討については、まともに扱われたものは、その可能性は多々ありうるはずなのに、現実にはそうした努力がほとんど見かけてないのが状況だということなんです。それは私などの認識の狭さのためというだけのことなのでしょうか。やはり前置きが長くなってしまいました。一、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』について、今回で第三回目ですが。今回こそは、あれこれ御託を並べずに、本題にはいろうと思ってはいたんですが。やっとこ、本論に入ります。国民文庫版のマルクス『ヘーゲル法哲学批判』(真下信一訳 1970年刊)を使います。ヘーゲル『法の哲学』第三部三篇三章「国家」は、第257節から360節まであります。それに対するマルクスのこの草稿ですが、はじめの部分が紛失しているそうです。今あるのは第261節からはじまり、第313節「c.立法権」の途中をもって終っています。そうしたヘーゲル『法の哲学』の範囲にかんしての批判だということです。マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』草稿は、全体で230ページあまりあります。ここでは、勝手に便宜的に4つの章に分けてみました。第一章は、「はじめに」で、『法の哲学』第261節から271節で、P3から30ページまで。第二章は、「一、内部体制」と「a.君主権」 第272節から279節で、P30から73ページまで。第三章は、「b.統治権」で、第287節から297節、P73から96ページまで。第四章は、「c.立法権」で、第298節から313節、P96から230ページまでです。ようするにこの中身は憲法論だということです。1840年代、当時のドイツ(プロイセン)は専制君主国家だったんです。そうした現実をどの様に変えていくのか、これからつくられるべき近代的な憲法体制はどうあるべきなのか、それを探っている状況だったんです。それがヘーゲルの時代であり、マルクスの課題だったわけです。ヘーゲルは1831年に、マルクスは1883年に亡くなってますが。日本でいえば、江戸時代の幕末から明治維新は1868年ですし、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法がつくられたわけですから、それ以前のこと。いわば幕末から自由民権運動の頃のことだったということです。二、第一章「はじめに」-『法の哲学』の第261節から271節にあたります。今回は、第262節です。マルクスは、その締めくくりでこんなことを言ってます。「この節のうちに法哲学、またヘーゲル哲学一般の全秘密が蔵されている」と。どうして、何故そんなことが言えるのか? そこがまさに注目ですね。1、最初にヘーゲルの『法の哲学』第262節の本文を紹介します。「現実的理念は精神であり、そしてこの精神は、おのれの概念の二つの観念的な圏である家族と市民社会におのれ自身を分かち、こうして有限性となり、しかる後にこれらの両圏の観念性から出て対自的に無限な現実精神となる精神である。したがって現実的理念はこれらの圏に、精神の有限な現実性の材料を、すなわち多数の衆としての諸個人を配当するが、この配当は個々人にあっては、境遇とか恣意とか自分の職分の自己選択とかによって媒介されているように現象する」(中公クラシックス版 P240-1)。わかりますか? ヘーゲルはいったい何を言っているのか。ようするに、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』を理解するには、前提としてその批判対象となっているヘーゲルのこうした主張、文章の意味を理解しなければならないわけです。ヘーゲルの主張にしても、それに対するマルクスにしても、そのどちらもが理解するのは容易ではないんですね。まず、その点を覚悟していただこうとおもって、ヘーゲルの第262節を紹介させていただきました。当時、26歳のマルクスは、こうした対象を、まさに相手に対して努力したということです。この厄介な検討作業に対して、エンゲルスが1886年に、つぎのようなアドバイスをしてくれてます。「こうした教授連中(ヘーゲル)のうしろに、かれらの学問をてらったわかりにくい言葉のうしろに、かれらの重苦しく退屈な文句のうちに、革命がかくされていたなどと言えるだろうか?」 『フォイエルバッハ論』(森宏一訳 新日本文庫 P14)若きマルクスやエンゲルスが、1840年代に探りだした知的な発見とは何だったのか。それが問題ですが。今回は、やはり前置き中心の頭でっかちになりましたが、ここまでです。
2022年12月16日
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みかんのうわもぎ開始小田原・早川のみかん園ですが、今が収穫の真っ最中です。この素晴らしい自然の富を都会の人にも感じていただこうと、みかんがたわわに実った木を2本、手をつけずに木を残しておいたんですが。昨日、二人の人が収穫の援農に来てくれたんです。「この2本は、私も手をつけずに、東京からくる人に残しておきたい」といってたんですが、今朝、木に近づいて見たら、分かるでしょうか、中ほどの果実がヒヨドリに食べられてました。注意して見ると、あちこちの箇所がえぐられだしています。これを見てはっきりしました。ヒヨドリは、石垣山にはもっと豊かなみかんがあるのを知っているんですが。それでも、美味しくなったみかんを、このささやかな2本について、見逃してくれないんですね。都会人は、自然の時とは関係なく、自分の都合によりみかん狩りの都合をたてているんですが、ヒヨドリの方は、自然の成熟に合わせて、ドンピシャリと饗宴をくり広げるべく襲来してきます。成熟の時に鈍感で、勝手な都会人の都合と、自然を鋭くとらえるヒヨドリやイノシシとでは、はっきりと明暗を分けます。せっかく、枝もたわわなみかんの木で収穫してもらおうと思っていたんですが。ヒヨドリに狙われている完熟したみかんについては、都会人の都合に合わせていたら、完全に鳥の餌食になりますから、本日、12月15日に決断しました。農家の人たちは「うわもぎ」と言ってますが、日当たりのよい個所にある熟したみかんについては、この瞬間、ヒヨドリがとるか人間がとるか、その勝負ですから、本日、3本の木から、4コンテナ=80キロとれましたが、当方が美味しいところを収穫させていただきました。まだ、木には8割がたのみかんがついていますが、なるべく、都会人に収穫してもらいたいとは思っていますが、それも、上からはヒヨドリ・下からはイノシシとの競走でして、都会人が来た時に、どれだけ残っているかは、自然の成熟具合と、相手方の動き方いかんにかかっています。これって、自然を無視するもっとも典型は、今の、最近の政治ですね。自然を無視した、自分勝手なご都合主義ですが、人間は、それが行き着く先を、結果を、今のもてる努力で、何とか回避したいんですが。だいたい、私だって畑に居られるのは、週に二日だけですから、ヒヨドリやイノシシの方が、はるかにみかんの成熟状況に詳しいわけです。それと競い合ってるんですから。とにかく、一年の草刈り等の、難行苦行の努力の結果に関することですから、なにも動物の餌のために、あくせくと丹精してきたわけじゃありませんから、農家の一年のけいが、ここにかかっているわけですから。あと、12月末までの2週間ですが、どちらが、美味しいみかんをとるかの、必死のおお勝負です。
2022年12月15日
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福田静夫「ヘーゲル『世界史の哲学講義』」講座日本福祉大学名誉教授・福田静夫先生によるヘーゲルの『世界史の哲学講義』(『歴史哲学講義』)、第一回「ゲルマン世界」講座が、12月11日(火)に開かれました。今回は、その感想です。福田先生はこの一年、ヘーゲルの『法の哲学』の第三部第三章「国家」についての学習会を開いてきました。その最終章が「世界史」でしたが、今回から4回にわたって、その補講として『歴史哲学講義』(『世界史の哲学講義』)の第四部「ゲルマン世界」を学習していきます。「ヘーゲル」ときくと、その名は有名な哲学者ですが、はなから「難しい」と敬遠される方もおられるかもしれません。しかし、福田先生はそれを身近なものに引き寄せてくれる力を持ってるんです。たとえば、昨日閉じた臨時国会で、昨夜岸田首相が記者会見しましたが、この臨時国会の主題は、統一協会の被害者救済法、これは国家と宗教・信仰の自由はどうあるべきかですし、敵基地攻撃の軍備増強による平和憲法からの逸脱の問題であり、憲法に対する態度の問題です。この二つは、ここでヘーゲルが論じているとこの主題でもあるんですね。しかしここでは、そうしたそうした今日的意義を紹介するところではないんですが。ただ、今から200年も前に、ヘーゲルがベルリン大学の教壇で、述べていたこと。当時のプロイセン(ドイツ)の近代的発展をさぐって、「30年戦争」の戦乱のあとに、世界の流れの中から、国家と宗教との関係のあるべき姿を説いていること、国際紛争の道理ある解決はどうあるべきか、これらのことを彼は説いた。そのことは、その後、世界の民主主義的な原則として、国連憲章や日本国憲法に刻まれて、国際標準になっているんですね。それが確認できます。ところが、昨今の日本の政治をみていると、そうした世界の学術の成果を踏まえるのではなく、道理もへったくれもなく、6名の任命は拒否するし、勝手な意見で道理を蹴飛ばしつづけているんですね。そんな政治が何をもたらすかは、事態がしめしているんですが。まぁ、それがここでの主題ではないんですが。今回の講座についての感想です。一、ヘーゲルの『歴史哲学』ですが、今回の紹介で『世界史の哲学講義』(伊坂青司訳 講談社学術文庫 2018年10月刊行)を知ったんですが。私などは、最初、岩波文庫の武市健人訳(昭和46年)で難解な文章に挑戦したんですが、その後、『歴史哲学講義』(長谷川宏訳 岩波文庫 1994年)で、わかりやすい表現に改訂されたもので読んでました。いや、読んだことになっていたんです。 今回、認識を新たにしたんですが、武市・長谷部訳というのは、ヘーゲルの死後に1840年に弟子のガンㇲが、残されたノートなどを全体的にまとめたものを、さらにヘーゲルの息子がまとめ直したものだったんだそうです。ヘーゲルは、1822年から亡くなる1831年まで、5回にわたって「世界史」を講義していたそうなんです。その都度、同じものではなく、いろいろ補足したりしているんですね。 ところが、今回の伊坂青司訳『世界史の哲学講義』というのは、その1822₋23年の最初の講義をまとめたものだそうです。これはこれで、「ゲルマン世界」の冒頭に「概観」の節が述べられたりしていて、独特の表現がされているんです。最初の講義ですから、丁寧でフレッシュな論理の展開で講義を進めていることがうかがえるものなんですね。同じ「世界史」のテーマですが、これまでのものとは一味違った、独特の力点が伝わってくるように思います。二、講義の最後に、ヘーゲルが説いてるんですが、ゲルマン民族というのは、スペイン・ポルトガル、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、などなどに分化していくんですが。それらの諸国民のもともとは、同じゲルマン民族だったというんですね。 そのなかで、福田先生の体験からしても、イタリアにはイタリアで、そこにはヘーゲル研究の独特の蓄積があるというんですね。そこには、共同とか人権の概念を独特に深めている歴史があるというんです。これは先生ご自身が、イタリアに留学されたなかで実体験されたことから感じられていることとのことでした。三、私などとしては、以前ですが、2020年に『歴史哲学講義』序論をブログで学習発信したことがあるんですが。歴史像については、そのの「ゲルマン世界」については、福田先生の講座を学習中ですが。この機会に、歴史哲学の理論にあたる部分ですが、これまでの学習を、再度し直してみる必要性を感じている次第です。 私など気が付いて見れば、ヘーゲルはこの問題を、『法の哲学』(1821年)の最終章「世界史」でも、『エンチクロペディー』の「精神哲学」の部分でも、それぞれにある程度述べています。これまで、バラバラに読んできていたんですが、同じテーマなんですね。せめて、『歴史哲学』「序論」については、この間の私などの学習からして、歴史哲学の理論部分ですが、まとめておくことも大事だし、必要じゃないかと思っている次第です。 もちろん、この間のマルクスの『ヘーゲル法哲学批判』もあるし、みかんの収穫も佳境ですから、なかなか容易ではないんですが、それでもヘーゲルを手近かに引き寄せることは、返せていない宿題であって、大事なことじゃないかと感じている次第です。次回の福田講座は、1月22日(日)で、第四部ゲルマン世界の第一章に入ります。
2022年12月11日
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政治は誠実に答えているか12月10日、岸田首相の記者会見がありました。「防衛力の強化、大きな転換だ」「旧統一教会被害者救済法は野党の意見も出来る限り取り入れ」たと。本当に国民の代表とされる人は、その声を聞いているんでしょうか。旧統一教会被害者救済法についてですが、ようやく当事者が提起していた問題点が、採決の直前になって取り上げられました。12月9日の参議院消費者問題特別委員会で、統一協会の被害者の小川さゆりさんが意見陳述しました。それは私たちも参議院のインターネットで視聴することができるんですが。https://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php同じく、インターネットで、衆議院と参議院での弁護士の発言、全国霊感商法対策弁護士連絡会の参考人の意見陳述ですが、視聴することが出来ます。問題は、これらの証言は、今回の法案づくりの出発点となるべき事柄です。それが、どうして、法案採決の直前になって視聴するようなことになってるんでしょう。しかも、採択されようとしている法案内容に対して、すっきりと賛成できるものになっているのか?「被害実態からみて不足」「被害者救済 あまりに不十分」(弁護士)なによりも、被害当事者の意見ですが、るる具体的な被害者の事態を証言してくれています。その上で、「これだけの被害者を出している悪質な団体が活動の一時停止もなく、今日も税制の優遇を受けていることはあってはならないことです」「被害者は何度も被害を訴え、そのたびに現役信者などから攻撃され、自分の経験を話すだけでも深く傷つき、みなが体調を崩しながらも訴え続けてきました」。はたして、政治はこうした事態に、誠実に真剣に答えたものになっているのか。そこが、今でも、決定的に問われていることがらです。この当事者と、二人の弁護士の意見を、是非お聞きください。これが、今国民が置かれているところの具体的状況なんです。
2022年12月11日
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師走のみかん朝市12月10日(土)、東京多摩の永山団地の朝市です。師走の土曜日朝市ですが、残りも本日を入れてあと4回です。今回は定例の朝市で、地元・多摩や群馬の農家がつくった野菜も多彩に並びました。みかんの味も、のってきてますから、どんどん味見をしていただいて買っていただいてます。ただ、例年に比べて、コロナの関係もあるんでしょうか、師走なのに、商店会への人の出が少ないんですね。午前9時から10時くらいを中心に朝市をしているんですが、見ての通り、人の出があまりないというのに、それでも、そこそこに売れるんですから不思議です。もっとも、お客さんがいる時には、相手をしてますから、カメラどころじゃないんですが。さて、あと年内の土曜日も、残り3回となりました。みかんの収穫も、まだまだたくさん残っていますし、一方での収穫、他方ではその販売と、歳末商戦も、いよいよ勝負所に入っていきます。
2022年12月10日
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第6回「ミヤケンさんの思い出」の感想今年の10月4日に太田晴夫さんが『ミヤケンさんの思い出』を出しました。太田晴夫さんは宮本顕治氏の秘書だったんですね。私などはかねてから感じていたんです。日本の民主主義的な進路をひらいていくうえで、宮本顕治氏の果たした役割ですが、その業績評価について、何人かの評論はあるんですが、それだけで。私などは、おおきな借金を背負ったままで、その後過ごしてきたように感じていたんです。このままじゃぁ、宝の持ち腐れだ、と。そんな時に、志位和夫委員長が9月17日に『日本共産党の100年の歴史と綱領を語る』の記念講演をされました。これは限られた時間の中で、よく基本を、生きた形でまとめられてるとおもうんです。ですが、私などが思うのに、それを豊かに花をそえるのは、それぞれ一人ひとりが努力してきたことがらの一つ一つなんですね。そうした総体が今の日本の民主主義のかかせない構成部分なんですね。そんな思いをしていた前後に、「日本共産党創立100周年にあたって」との太田晴夫さんの28ページの自費出版が出されていたわけです。私などはこれを一読して、これはクループスカヤの『レーニンの思い出』、ないしフォティエワの『思い出の日々』にあたるんじゃないか、と感じました。これは人に知られずに消えていくにしてはもったいない。これだけじゃなくて、もっと沢山の知られざる話を書いてほしい、それが汚濁にみちた政治に本当の政治的努力というものを明らかにしてくれる、との思いがして、あちこちにこの冊子をとどけてその感想を求めていたんです。それに対して、日々の忙しい中を、第21,22,23人目の方からその感想を寄せていたたきました。今回も、これを著者に渡すだけでは、もったいないとおもい、紹介させていただきます。第21人目「 太田晴夫氏の「ミヤケンさんの想い出」を読んで 私は宮本さんー当時は委員長だったか、議長だったか忘れましたが1回だけ会ったというか見たことがありました。50年以上前になります。法政の学生だったころ千代田区で紺野与次郎さん?の選挙の演説会だったと思います。ちらっと見ただけでしたが近寄りがたい威厳があったのを覚えています。今回改めて宮本さんの想い出をよんで昔のことが思い出されました。 この想い出で一番印象に残ったのはソ連崩壊の事態に対応した話でした。「赤旗まつりもこれが見納めか」、という会社員風の男性の話に対応して赤旗まつりの挨拶にそうではないんだということを急遽入れたとありました。やはり巷では社会主義は終わりなどと理解し私の仲間でも自分の青春はなんだったのか?などと嘆くかたが少なからずいました。そういった中で共産党の指導者として大変な苦労があったことがよくわかりました。ソ連指導部は社会主義を名乗っていてもかれらには科学的社会主義に対する確信がなにもない、国際政治に対処できる羅針盤をもっていないとありましたが、すぐれた洞察であったとおもいました。 もう一つはルーマニア共産党にたいする対応です。当時、ルーマニア共産党を評価していたのは知っていましたが、それに失望した経過がよくわかりました。中国の天安門事件に対して賛同したことが決定的な間違いだったこと、「人民こそ社会発展の原動力」との言葉は印象的でした。カストロとチャウセスクは人間的もの天と地のひらきがあったと思ったなどのエピソードは印象的でした。 こうした一連の「社会主義」をなのる「共産党」の悪政でいまも日本共産党は誤解され続けており、新綱領の改定につながっていると改めて思いました。 執筆ありがとうございました。」第22人目「 私は科学的社会主義の本流を全く理解してないと言えます。普通の市民として共産党の政策に全く賛成であり、戦争に反対を貫いている政党として支持しているとのことです。依って宮本氏のことも百合子のことも全く関心がなく過ごしてきました。 唯住井すえ、小林多喜二、柄谷行人、漱石の英国での生活の折、かかる世にマルクスが出回るのは必然という文章に出逢った時は嬉しかったです。勿論私にはマルクスもレーニンも理解しているわけではありません。 宮本氏が日本共産党の骨組を造った、ソ連や中国との闘いもあった等、本当に劇的な人生だったんですね。評論家の加藤周一は、宮本氏が亡くなった時に、宮本氏はその主張に依って日本を救ったと談話で発表されたと何かの本で知りました。誠に偉大な人でした。1996年10月比例代表並立制の選挙で始めての選挙が行われた時、宮本氏の抜群の指導力で比例得票726万、小選挙区得票700万と躍進したことは良かったですね。当時私は全く関心がない市民でしたが、党員の方の闘志が思い画かれます。燃えたんでしょうね、負けてたまるか、と。 党がよく使う革命という単語は一般市民には実体として遠いのではないかと考えます。要は選挙で多数を得ることなのですが、革命というと中国やソ連、キューバを連想する人々は多いと思います。これは日本共産党の市民への党の考えが浸透しにくいからではないか。力不足ではないかと思います。共産党と言うと、まず革命とくる、それが隣国の悪しき歴史と重なってしまうのではないか。日本共産党の政策、又弾圧に耐えて100年、活動のやむことが無かった輝かしい歴史を、もっと普通の市民が関心を寄せてくれるような働きかけが弱いのではないか、革命という単語が一人歩きしてしまっていると考えるのです。 キューバのカストロにしても、革命以来半世紀を振り返り、もはや平等主義はとれない、未だ豊かな社会は実現できない。不正が蔓延している、このままでは「革命」は崩壊する。そして次のように語った。 「私たちの誤りは、゛社会主義とは何か゛を知っていると考えたことだ。今ようやく社会主義とは何か見えてきた。゛最も大切なのは人間の命だ゛私たちの世代はいずれ去る。これからの時代を担う新しい世代の諸君は鑑識眼と゛知の力゛をもって歴史上見られなかった新しい社会主義はどのようなものであるか追及して欲しい」と語っているのには驚きました。 キューバ革命は未完なのですね。あの国は世界中に医者を派遣していると昔何かの本で読みましたが、権力は腐るとゆうことか、不正が蔓延しているとはなんと言うことか理解不可ですね。 漱石は学習院大学で、これから君たちは国を背負ってゆくが、国というものは嘘はつく、詐欺はする、裏切る、陥ひれる、と堂々と演説したんですね。私は感動しました。又漱石は、゛天子の威光なりとも家庭に立ち入り故なきに夫婦を離間することを許さず、故なきに親子の情合を殺くを許さず、天はこれを罰するのはこの迫害をうけたる人々の手を借りて罰しめざる可からず、これ公の道なり。照々として千古にわたって一糸一豪もかゆるべからざる道なり、と書いてます。日露戦争後の大日本帝国の大いに意気揚がるとき漱石はなんとすさまじいことを考えていたものである。半藤一利著゛徴兵によって夫や息子を戦場に送ることは天道にそむくなんて゛私はこの漱石先生の心意気が好きです。 日本共産党の議員さん達もこれくらいの言葉で演説したらいいのにと思いますよ。文章言葉ではなく、話し言葉で、くだけて面白く、うんこれいいねって心を開いてくれるように働きかけたらいいですよ。 総ての道が命につながる、反戦、貧困、福祉、自然災害、みんな命につながる。政治が明るく楽しい雰囲気で、そうだ日本共産党を加勢しようという風が吹くように考えたいですね。 投票率が40%にも届かない選挙が続いてます。民主主義はやんでいます。嘘と欺瞞とハッタリと金に貪欲なエセ政治家をこれ以上育みたくありません。先日、スーパーの前休んでいると、同年輩の婦人が話し掛けてきました。私は戦争が終わった時だったという話から入り、疎開したこと、苦労したこと、800円の月謝が払えず退学させられたこと、戦争が憎い、日本共産党が戦争に反対し、4,300人以上の人が殺された。それを知って以来私は共産党に投票しています。来年春、八王子市議会選挙に望月しょうへい・29歳が立候補します。今もバリバリ働いていますよ、と話したら、29歳若い若いこれから若い人に頑張ってもらわないとね、って承知してくれました。私より1歳若い人で戦中のことは覚えて30分以上話し込みましたよ。 26年前726万票も得票したのに今は400万票にも達しないのは如何か。昔赤旗祭りよくありました。サヤマ市や調布で行われた時は小さな祭りでした。大きな会場でなくても、全国あちこちで、赤旗祭りを開いたらいいのにと思います。 50年問題、ルーマニアへの失望、チャウセスク大統領が夫婦で銃殺される光景をテレビで観ました。宮本さんも苦労されたんですね。でも共産党は世界とつながっていないといけないんですかね。 百合子が何如ソビエトに生活したのか、理解不可、ソ連と中国も教育が行き渡らないうちに革命が起き、毛沢東やスターリンのような独裁者を生んでしまった。日本は教育はあるんですが、天皇というブラックボックスがあり、悪いものはみんな含みこんでしまうのです。 1931年百合子は多喜二に会いに不二家へ行ってお茶を飲み乍らスポーツの話したことがあります。その2年後の2月スパイにより多喜二は捕まってしまい、その日のうちに虐殺されました。宮本氏は12年投獄されたが、殺されなかった。権力者は多喜二の書く文章が恐怖だったんですね。本当に悔しいですね、多喜二の死は。 百合子はアイヌをテーマに2つ小説を書いているとか。長生きしてたら被差別民のことも書いたかもしれませんね。宮本と百合子の結婚で野上弥生子は、「もろ手をあげて賛成しますと葉書に書いていたとか。感動的ですね。 太田氏の「備忘録」を読んで、私の知らなかったことが沢山あり、また太田氏の党員としての活躍を拝見し頭が下がりました。 2022.11.30 」第23人目「1.日本共産党には、無名で不屈の縁の下の力持ち(活動家)の存在によって成り立っている組織だということ…そして、太田晴夫さんもその一人だということがわかりました。 2.「ミヤケンさん」について、私が抱いていた過去の印象は、網走刑務所で寒さと栄養失調と闘いながら日本の敗戦を予言していた人、選挙に負けた時に「捲土重来」という言葉を使った人、「敗北の文学」を書いた人、多摩市に住んでいた人…。 3.「思い出」を読んで「ミヤケンさん」の国際的、歴史的スケールの大きさ、知識の深さ、洞 察力の鋭さを感じました。 4.知識を持ち、厳しい歴史に鍛えられた「ミヤケンさん」に比べ、現在の共産党の幹部は……? 5.それにしても、最近の赤旗紙上で「史的唯物論」「弁証法的唯物論」「観念論」「相対的真理」「不可知論」などの哲学的な単語がほとんど見受けられないのですが…P15のゴルバチョフは「羅針盤をもっていない。」「「マルクス・レーニン主義」ではなく、無数のプラグマチズムの混ざったもの」というところが印象に残りました。」以上です。本体をご覧になってない方にとっては、何を言っているのか、よくわからない点も多々あるかとは思いますが。これらの感想は、これはこれで意味ある大事なことと思い、紹介させていただきました。
2022年12月09日
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みかん収穫の佳境に支援が小田原のみかん園ですが、温州みかんの収穫は今が佳境です。みかんの成熟に追いつこうと、どこの農家も家族総出の収穫作業です。当方のみかん園にも、この二日間に3組の収穫の支援者が来てくれました。さいわいに、前日の雨模様とは打って変わって、12月7日(水)は晴れ。この天気が、雨滴を飛ばしてくれていました。正面の山は丹沢山系で、右側のとがった山は、大山詣での大山です。天気が良いと、景色は最高なんです。このご夫妻は、遠路はるばる、静岡県から小田原のみかん園まで来てくれたんですよ。小田原のみかん園は、見どころは。みかん山自体が石垣山で、秀吉の天下統一の一夜城、歴史の場なんです。くえて、みかん山を下れば小田原港で海産物ありです。海鮮丼よし、豊かな海の幸が楽しめるんです。さらに、石垣山の裏手は、箱根湯本温泉ですから、日帰り温泉も楽しめるんです。もっとも、今はみかんの収穫大忙しで、それらを案内することは出来ないんですが。しかし、せっかく出かけてきたんですから、楽しんでいってほしいので、紹介だけはしています。さらに、二組目の来園者ですが。東京近辺からもみかん狩りに来ていただきました。さて今年のみかんは、どんな出来具合なのか、今はどんな成熟具合か。その下見なんですね。これから、ご家族がみなさんで来るために、現状の下調べに来ていただきました。みかんの収穫は毎年同じようでいて、様相が違うんですね。その年の気候条件によって、成熟する時が違ってきます。表年と裏年も交代もありますし、草刈りだけにふりまわされていると、カミキリムシに来は枯らされちゃいます。みかん園の様相は、毎年かなり変化しているんですね。電話で伝えようったって、難しいんですね。今がどの様な状況であり、どの様な時なのかは、百聞は一見に如かずなんです。さて、みかんの成熟ですが。初めはゆっくり成熟しだしたのを、慎重に見極めていたんですが。急速に変化がはじまります、気候条件によって。みかん園全体の成熟のテンポも規模も、急速に変わってきます。ただ、いまが成熟=みかんの収穫時であること、温州みかんの収穫の終わりが12月末であること、これは確かなんですね。みかんの収穫ですが。とどのつまり、みかんばさみをどれだけの数を握るかにかかってますから、人なんです。まさにこの時に、収穫の応援に来てくれる方は、農家にとって貴重な存在なんです。だいたい、みかん農家は1970年代のように満足な日当なんて、まったく払えませんから、そんなバイトを雇うような余裕は、今のみかん農家には、社会的にもありませんから、結局、ボランティア的な支援者に頼るしかないんです。いろいろ忙しいなかを、支援に来てくれる人は神様なんです。これも確かなことですが、いつもは静かなみかん園に、にぎやかな人の声がしていると、一人でショボショボ作業をしていた時とは違って、なんとなく、気持ちがはずんでくるんですね。みかんは、美味しさは太陽の恵みですが、収穫作業は人の手、人の賑わいなんですね。難行苦行の作業が、人の声があちこちですると、つかれが癒されるんですね。今回も、二人の収穫応援者が来てくれたんです。そのおかげで、残っていた早生みかんの木3本でしたが、たちどころに収穫しきることが出来ました。気持ちだけじゃなくて、実際に作業のほうもはずむんですね。しかし、まだまだみかんの収穫作業は、始まったばかりで道半ばです。これから霜が降りたり、箱根下ろしの冷気が来ると、みかんは劣化して質が落ちてしまいますから、成熟度とともに寒さとの競走なんですね。その冷気がおりて来る前までに、大方の温州みかんは木から収穫しきらなければなりません。それは、みかん農家はお互いに、みんなが感じている鉄則なんです。とにかく今はまだ、始まったばかりですから、これからが勝負です。これからの一刻一刻で、みかん農家の一年の苦労が報われるかどうか、その分かれ道です。
2022年12月08日
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統一協会問題について一、マインドコントロール(洗脳)というのは、怖いものですね。最近の新聞記事から紹介します、「東京新聞」からですが。1、政府が把握してるだけでも、統一協会に対する全国での訴訟ですが、1994年⁻2021年の裁判例の把握だけでも22件、賠償金額でも14億円を上回るというんです。(11月23日付)2、11月24日、被害者を救済するために全国弁護団が弁護士218人でつくられました。その電話相談が12月1日から受付がはじまったそうですが。引継ぎとして、それまでに政府や日弁連によせられていた相談というのは2千数百件あったとのこと。(11月25日付)。3、日弁連ですが、11月29日に会見して、寄せられている相談の第一次集計(9/5-10/24)を発表しました。309件あったとのこと。その内ですが、128件が1000万円以上の被害。1億円以上の被害が17件あったというんです。(同)その世界にはまり込むと、他の人に相談できなくなり、家族ぐるみ塗炭の苦しみにあえいでいる人たちが、分かっただけでも、かなりの人たちがいるということです。社会正義が、今、この事態を知ったときにきちっと働くかどうかが、当事者の人たちは公正な判断が出来なくされていてアリ地獄の状況ですから。これは他人ごととして傍観するのではなく、それをわが身のこととして正すこと、それが私たち国民自身に問われているということなんですね。二、最近の新聞報道をひろってみましたもちろん実際のことと新聞紙面とでは、字数やとらえ方からしても、現実と報道とではかなりのギャップがあることは当然なんですが、それでも大まかな状況は知ることが出来ると思います。1、11月22日付 文部科学省が教団に対する質問権の行使で設置した審議会ですが。 首相は当初慎重だった。調査に抑制的な文科省を容認していた。創価学会・公明党への配慮から。 だが、世論の批判が高まると、首相は態度を変える。 団体の解散請求に、「民法上の不法行為(法外な寄付や霊感商法等)は入らない」(それは学会・公明党にもよくあることだから)としていた態度を変更して「それも問題となりうる」と、世論に配慮して態度修正した。公明党関係者は不満をつのらせている、と。2、同 衆議院の21日代表質問 野党 「政府は救済法案の概要を発表したが、被害者が本当に救済されるのか?」 11月23日付 参議院の代表質問に 岸田答弁 「法案がめざすのは、社会的に許容しがたい悪質な勧誘行為の禁止、悪質な寄付の取り消すこと」「各党の意見も参考にして法案を準備したい」 (これが言葉通りに実行されればよいのですが、ヌエ法案をつくり、それを強行するのがこれまでのやり方ですから、被害者救済はそっちのけで、かっこづくりのアリバイ行為、だから注意が必要です。実際問題、統一教会と自民党との癒着はドロドロの関係ですから、国民の監視が働かないと、政権は統一教会にあやつられて、看板だけの規制法になりかねません。これまでのずるずるとした対応、曖昧さがそれをしめしています)三、一番は、当事者がどう感じてるか、それが問題ですよね3、11月24日付 社会面 23日に、旧統一教会の元二世が記者会見しました 政府の法案では被害者の救済は無理だ、このままでは統一協会が救済されるだけ、と。「政府案の献金規制では、洗脳された人の献金は規制できない、と。信仰が深い人ほど自分で思考することを放棄し、使命感によって献金してしまう。集金方法も証拠が残らない形に年々変化しており、今の法案は救済の間口を狭めている。政府には幅広く被害者の意見を聞いてほしい」と。 (この人たちが、納得し救済されるような政治決定が必要なわけですが、そのようになっているか)4、11月25日付 自民党は、これにて与野党4党(自民・公明、立民、維新)の協議を終了する。 野党の求める洗脳下での寄付の禁止は、洗脳の定義が難しいので法案には明記しない。と。5、11月26日付 11/25衆議院予算委員会 自民党議員 洗脳下での献金への対応は? 河野大臣 洗脳の概念を法律で明確にするのは不可能だ。と。 立憲議員 救済新法をつくるのに意見を聞くべきは、全国霊感商法救済対策弁護士連絡会だ。 新法では、洗脳により困惑のない状態での献金は、取り消しができない。四、11月27日付 政府が救済新法の要綱案を発表しました6、11月29日付 メディアはいっせいに、出された新法案に対する分析と批判、問題点をだす。 衆院予算委員会(11/28) 立民議員 洗脳下での寄付への対策は? 河野大臣 配慮義務を検討している 共同通信の世論調査 洗脳下での寄付の取り消し 必要75.8% 質問権の行使 必要73.6%7、11月30日 11/29衆議院予算委員会 立民議員 洗脳され判断できない下での献金は、新法の取り消し対象になるのか? 岸田 洗脳から脱した後に取り消し請求は可能だ 立民議員 「自主的なもの」との念書が書かれていた場合は? 岸田 民法上の不法行為となる可能性はある 立民議員 正体を隠して洗脳しての献金というのは、取り消しと禁止はされるのか? 岸田 正体を隠しての行為は、新法の「配慮義務」でということになる。8、12月1日 11/30参議院予算委員会 立民議員 もう一歩、踏み込んでほしい (お願いして聞くような相手じゃないとおもうんですが)12月2日 政府の法案に対しての社会的な批評です 前生活国民センター理事長の意見 法案は10点 弁護士連絡会の弁護士の意見 配慮じゃなくて禁止に 新聞社の社説 被害防止へ実効性を欠く五、本当の民主主義ならここからが問題のはずですが、しかし・・・議会の中の空気を変えれるのは、国民世論の声しかないということです9、12/1参議院予算委員会 共産党議員 「配慮義務」では救済できない 維新議員 救える人が限られるので危惧する、再検討を10 12月3日付 新聞特集「配慮義務」が焦点に 12/2参議院予算委員会 立民議員 取り消し対象の「不当な勧誘」を立証できない場合は? 岸田 当時の状況を客観的に振り返れば 共産党議員 抜け穴を閉じる法案にすべく、必要な見直しおこなうべき11、共同通信社が、全国の地方議員・候補者2637人に調査したところ、2479人の回答が。 統一教会との接点が「ある」とした都道府県議は、334人。(無回答が160人) うち、自民党が279人、公明2人、立民1人、都民ファースト1人。 「統一協会が地方議員にも働きかけていたことがあらわ」との、分析を報じています。以上、あくまで、新聞の限られた、活字化された中でのことですが、それでも、今の流れが見えてくると思います。問題のすそ野の広さもうかがえると思います。これが、歯がゆいけれど、目下の状況です。思うのですが、この中には、「信仰の自由」を隠れ蓑にして、もっともらしい詭弁をつかって、お茶を濁そうとする力が働いていると思います。国民にとっては、宗教者にとってもあらぬそしりや偏見を受けないためには、「日本国憲法」の原理・原則にのっとって、事柄を識別していく必要があると思います。今と、今後の流れは、何よりも憲法を持つ日本国民の見識が問われている、ということです。
2022年12月05日
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マルクス『ヘーゲル法哲学の批判から』学習2 位置なぜヘーゲルとマルクスにこだわるか、それが前回の主題でした。第2回の今回は、それぞれの対応する位地関係と、この難物をどうやって踏み込んでいくか参考文献の紹介です。それは、この二人の思想家の努力は、どの様に近代の民主的国家をつくるのか、今の日本社会にとっても切実な、きわめて似たような、今日的で普遍的な意義をもっていると思うんですよ。一、まずは、『法の哲学』とそのマルクスの批判、二つの対応関係、位置の問題です。ヘーゲルの『法の哲学』(1821年刊行)と、それに対するマルクス『ヘーゲル法哲学批判から』(1843年夏)は、全体の中でどのような位置をもっているのか、の問題です。マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』は、冒頭部分が紛失しているそうですが、『法の哲学』の第261節から始まって、第313節までが残されています。マル・エン全集の第一巻(1959年10月刊)と、国民文庫版『ヘーゲル法哲学批判序論』(1970年8月刊)が、ともに真下信一氏訳で刊行されてます。対応する位置関係 ヘーゲル『法の哲学』(1821年) 序文・緒論 第1節から32節第一部 抽象的な権利ないし法 第34節から104節第二部 道徳 第105節から141節第三部 倫理 第142節から360節 第一章 家族 第158節から181節 第二章 市民社会 第182節から256節 マルクス 第三章 国家 第257節から360節 『ヘーゲル法哲学批判』(1843年) A 国内公法 第260節から329節 第261節から Ⅰ それ自身としての国内体制 第260節から320節 | a.君主権 第275節から286節 | b.統治権 第287節から297節 | c.立法連 第298節から320節 第313節までと、 Ⅱ 対外主権 第321節から329節 途中までです。 B.国際公法 第330節から340節 C.世界史 第341節から360節。ヘーゲルの『法の哲学』は大部なものです。それへのマルクスの批判というのは、『法の哲学』全体の第三部第三章「国家」、その一部分に対するものです。 分量としては、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』は、「国民文庫版」で、P3から230の228ページ分あります。これに対応するヘーゲルの『法の哲学』ですが、中公クラシックスで、下巻のP236から384の、148ページ分です。『法の哲学』全体は、Ⅰ.404ページ、Ⅱ.447ページと、全体は800ページをこえる大作なんですね。 二、それと両者のおかれた歴史的条件、位置の問題があります。ヘーゲルの1820年当時というのは、プロイセンがナポレオン戦争に負けて、国の近代化をはかろうとする面があったと思います。条件は違いますが、敗戦後の日本の民主的改革のようなことでしょうか。他方、マルクスの1840年代のプロイセンは前時代的な専制君主国家に変わってます。この時代社会の条件の違いが、マルクスの背景にあったと思います。これは、中身を吟味する中で見えてくると思いますが。今の日本との違いは、プロイセンには民主的制度はまだないんです。これからつくるためにヘーゲルもマルクスも努力している。いわば戦前の天皇制の専制制度下での探究です。ないし、大日本帝国憲法以前の自由民権運動のような状況で。それに対して、今の日本は、多くの犠牲を払って日本国憲法を現実に持っている。それが十分に機能し、つかわれているかどうかは別として、ともかく現実に民主制度をもっている。それにふさわしい内実をつくるべく努力している、そこはヘーゲルやマルクスと、私たちは、目標とするところは同じなんですね。だから昔の縁のない話じゃなくて、今日的な響きを持ってるんですよ。三、マルクス『ヘーゲル法哲学批判』の全体観をつかむためにしかし、実際に読もうとすると大変です。両者の著作がともに大部であること。マルクスの部分的な批判だって228ページもあるんですから。しかも、読もうとされた方はお分かりいただけると思うんですが、それぞれがじつに難解なんですよ。これを読んでいくには、とにかく執念が必要ですね。最初の第一回で意義をゴタゴタならべたのも、私自身、その「意義」をつかんで「決意」をかためるためなんですね。投げ出さないようにと。ただ読み進むには、たんに決意の問題だけじゃなくて、私などは救いとなるアドバイスの文献が必要だとおもいます。前回紹介しましたが、1つはエンゲルスの『フォイエルバッハ論』(1888年)です。これは全体を読み解いていく上で、一番よいアドバイスだと思います。もう1つは、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序論』(1844年)です。「序論」とされてますが、これはマルクスの228ページのヘーゲル法哲学批判の結論だとおもいます。その批判作業を終えた後に、それがもつ中心的な内容、その意味について総括的に述べたものですね。ここに中心点があると、マルクス自身が、直後にまとめているんですから。わたしは、これも2016年8月2、7、14、17日でしたが、4回の学習発信しています。「マルクス主義の源流、『ヘーゲル法哲学批判序論』をまなぶ」ですが。 とにかくマルクスの『ヘーゲル法哲学批判』は、228頁もの大作です。それとヘーゲルの『法の哲学』とですから、両者のうっそうとした議論のなかに、森林の中に入っていくわけですから。当然ながら一気に全体をつかむなどということは無理な話です。しかし、この二つの手引きというか、案内書をもってすすむなら、たとえ細部ではわからない点があったとしても、全体としては途中で道に迷って投げ出すようなことは避けれるんじゃないかと思っています。四、それと今年は、福田静夫先生の「ヘーゲルを読む会」で『法の哲学』講座がありました。ヘーゲルの『法の哲学』の理解という、基礎を刺激してくれたんですね。偶然とは不思議なものです。二人の知人が新聞に案内が出ていると紹介してくれました。連絡がついたのは、開講する2日前のことでしたから。今回の福田講座は、今年の3月からの開講でしたが、第三章「国家」のマルクスが論じている箇所に対応する箇所の学習でした。これもまたぴったりでした。もちろん、『法の哲学』は、ちょこっと聞いたくらいで、簡単に理解できるではありませんが、しかし一人であれこれ手探りしていた時よりも、はるかに理解を刺激していただいたことは確かでして。私などは、「日本の研究者というのは、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』を放ったらかしにして、いったい何をやってるんだ」と、ずーっと毒づいてたんですが。じつは、それぞれに貴重な研究・努力を積み重ねていたんですね。そうした様子を知らないのは、私だけだけだったということです。だけど、こうした研究者の努力が、中身があまり知られていない。私なども知らずら来たというのは、じつにもったいないことですね。この再度の学習発信をしようと思ったのは、前回の発信の不十分さと、このもったいないとの思いからなんですが。とにかく、福田講座は、そんな社会的なそよ風を感じさせてくれる学習会だったんですね。これがこの『ヘーゲル法哲学批判』の学習発信にも、きっとこれから生きてくると思いますよ。まぁ、グズグス言うのはこのくらいにして、次回は、マルクス『ヘーゲル法哲学批判』の、本題に入りたいと思います。
2022年12月04日
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