2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全10件 (10件中 1-10件目)
1
もう一つ、教義学のはなし。「罪と悪」問題で、神の存在に納得がいかず、神に同等の力をもつ“悪い神様”がいると主張した人がいる。これをニ神論者という。また、時計の技術者のように、地球を造った神様はその後、何もしない。だから悪いことがあっても知らんぷりという神様を主張する哲学者もいる。さらには、神様は成長過程にあり、もし悪い出来事が起きてしまったら、人間は許してあげなければならない、と主張する学者もいる。いずれにしても、神を全知、全能、天地の創造主、善、愛、命という定義そのものが一致していない。もし神様が人間より劣るなら、神とは呼べないし、二人も三人も神様がいたら、おかしいと思うのだが・・・。もっとも、難解なのは、そんな神はいないとする無神論者・懐疑論者の意見かも知れない。天地創造がすべてアクシデントだと主張するには、それだけの根拠が必要だろうし、すべて「解からない」というのも大変だ。このように、歴史的な論争を知るのも、中々面白い。
2003年10月31日
コメント(0)
私は今、教義学の教科書「キリスト者の信仰」を読んでいるが、だんだんと興味深く思えてきた。本音をいうと私は、実際、「組織神学」といわれる分野に位置するこの教義学が好きではない。少なくとも、日本の神学校で聴講していたときの教義学は好きではなかった。神の遺棄の問題や義認に関する問いなど、どうでもよく、あまり興味をもてずにいた。どちらかと言うと、私は「聖書学」に向いている。聖書研究がそもそも好きだから・・・。ところが、セントルイスで学ぶこの教義学は、聖書を教えるうえで必要な問題を、ひとつひとつ考えてゆくという感じなのだ。例えば、もし身近に、赤ちゃんを流産でなくしてしまった女性がいた場合、どのように慰め、聖書的に理解するのか。「本当に神様はいるのでしょうか。なぜ、このように悲しまなければならないのでしょうか」と問われた際に、どう対処するのか。これが、教義学でいう「罪と悪」というテーマでもあるのだ・・・。ルター派神学では、簡単にいうと、二つの罪があり、また二つの悪がある。罪とは、まず、初め人間アダム氏が“善悪の知識の木”の実を食べて以来、継承されてしまった原罪がある。それと、旧約聖書の語る「神の掟の書」に違反するという罪。有名なモーセの十戒、律法などである。いずれにしても、人には到底、犯さないではいられないのが罪なのだ・・・。一方、悪というのも厄介だ。悪とは、人の内面を支配する悪(無気力、罪意識など。)と外側の悪(他者との別れ、死など。)がある。いずれにしろ、このような説明では、たとえ信仰者であっても、慰めることはできないであろう。しかし、神を疑わざるをえないような出来事があるときこそ、神に立ち返るときであり、神を神として認め、御言葉に聴くときなのだろう、としか今の自分には言えない(2コリント7:10)。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(2コリント1:4)
2003年10月29日
コメント(0)
神学生のサムさんのアパートに招待された。奥様は日本人のユーコさん。日本のカレーをご馳走になった。招待されたのは、岡崎師、ジョエルさん、そして私。サムさんは、なんと、あのマーク・ジェイサ(私の親友)と同期の元VYM(ボランティア・ユース・ミニストリー)だった。ルター・ハウスという東京の神学寮でマークと同じ部屋に住んでいたという。その後、群馬に派遣され、ユーコさんと出会うわけだが、そういうわけで、日本語もまあまあできるのだ。特に驚かされたのは、彼が私の教団の問題点を明確に指摘したことだ。ほんの数年しかいなかった日本での生活で、なにを想い、なにを祈ったのかを教えられた気がした。サムさんは今、牧師・宣教師としての準備を着々としているが、日本へ行くことになるかどうかは、まだ分からない。一方、ユーコ婦人は私より若く、ハキハキした女性だ。大学はアメリカで卒え、帰国後、東京にある小さな教団の神学校へ行かれた。そして実家のある群馬に戻り、サムさんのいた教会の「バイブル・スタディ」に参加したのだという。娘さんハンナ・真理衣ちゃんは5ヶ月で、おとなしい子だ。久しぶりに日本的なアットホームな感じで、日本語をしゃべり、くつろげた。そしてなにより、このような同じ想いをもつ仲間に出会えたことを感謝した。
2003年10月27日
コメント(0)
勉強の合い間の息抜きに(?)、沢木耕太郎の「深夜特急」を1から3まで読んだ。やはりインド編で止まってしまった。色々な思い出がインドにはある。インドといえば、以前、買いためたインド映画の音楽テープをこちらで聴いている。同じ寮に住む、インドの牧師・神学生のREV.プリーストリに貸して聴いてもらったが、言語はヒンディでなく、解からなかったと言われてしまった。やはりインドは広い!でも残念だ。彼の解かる言葉のテープがあるかもしれない。今度、捜してもらおう。追記。私には大学時代からのインド人親友ジョセフ君がいる。彼の少年時代の話は興味深い。走っている市内電車に飛び乗るという、無茶な遊びをしていたという。あるとき、彼の友達が電車に飛び乗った、と思った瞬間に、視界から消えたという。なんと、電車の下に入ってしまったのだ。ジョセフ君は驚いて、駆け寄ると、電車はすでに過ぎ去り、その友達が線路の上で倒れていた。体が小さかったため、電車に引き込まれはしなかったのだ。でも、全身を強く打ち、病院で即、入院ということになった。ジョセフ君は責任を感じ、毎日、友達の見舞いにいったそうだ。その後、友達は無事回復し、事なきを得たという。ジョセフ君の親父の少年時代の話は、ほのぼのしていて、インドらしい。彼は毎日、川を越えて学校に通っていたらしい。泳いで渡るので、濡れたTシャツを木の枝に掛けておく。放課後、戻ってくると、枝に掛かったシャツは乾いている、という。よく分からないのは、何枚、代え着があれば、濡れたシャツを着なくてすむのかという点だ。が、たぶん、放課後の彼は、シャツが濡れていようが、あるまいが、気にせず、遊びまわっていたように想像する。
2003年10月24日
コメント(0)
ついにチャペルで、待望の説教を聴くことができた。聖書箇所は、旧約の列王記上17章。預言者エリヤがある街の女性から水とパンを求めたところの話だ。「列王記」研究を一年以上していた自分には、よくなじんだ内容であったが、それをどうやって説教に活かすのか、が具体的に知りたかったのだ。説教者は、声を上げる。「その女性は、いったい何を考えているのか。薄汚れたその男に、信仰をもって水もパンも持ってきたというのか」と。ひとかけらの粉と少量の油でパンをつくり、一人息子と食べて、後は死を待つのみという女性に・・・。「それを神の預言者に差し出すのは、なぜか」と。彼女は、その男の言葉を信じた。なぜなら後に病のために死んでしまった息子を、その男に訴えて生き返してもらうのだから。食料がなければ人は死ぬ。それは神がご存知なこと。イエスは、こう語ったことを思い出していただきたい。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ6:25~26) 説教者はさらに声を大にして語る。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)と。あのサレプタの未亡人には、わずかな生きる糧も、愛すべき息子も取り上げられたとき、なにもかも失うという、その苦痛のなかで、御言葉に聴き、その奇跡に感謝と喜びをもって、「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」と告白するに至ったのだ・・・。私はこの説教から、多くのものを自分なりに得たと想う。それは、旧約のテキストからいかにスムーズに新約の時代へとシフトさせるか、という構成だ。会衆が違和感なく説教の中心テーマに興味をそそられるか、それとも集中力をとぎらせるか、の問題なのだ。説教者が序論で話し初めたように、信仰とはハタから見れば、「なにを考えているのか!」というものなのだ。感情的な説教に、新鮮さを感じた。
2003年10月20日
コメント(0)
教義学の少テストのデキが悪かった。勉強方法というか、やり方がうまくいっていないような気がして、心配になる。夜、日本の狭山にいる宣教師、河成海(ハ・ソンヘ)師に電話をかけた。むこうは午後1時ごろという。河先生からは、「何年も遊んでいたんだからしょうがない」と言われ納得。大学を出てから5年のブランクはさすがにキビシイか。でも、「食事を部屋にもって返るほど勉強しなくてもよい。ちゃんと遊んで、楽しんで、体力つけて」とアドバイスをもらう。自分なりの勉強方法ができるようになるには、最低半年はかかる、という。地道にゆくしかないか・・・。数日後、今度は、東京の清水師に電話した。この先生は、私がケンタッキーの大学に行っているときに、「レキシントン日本人教会」でお世話になった青年会の顧問であり、アズベリー神学校を卒業された“神学留学”の先輩でもある。清水先生も私のように、日本で神学を学ばずに行かれたという経験をもつ。清水師からは、「教授と親しくなること」や、「ルームメイトがいない分、積極的にクラスメートと話すこと」など、具体的なアドバイスをいただく。
2003年10月17日
コメント(0)
私のもうひとつの日課になりつつあることは、朝七時からの朝練。神学校の体育館には、朝六時から筋トレやバスケをするつわものもいるくらいなのだ。彼らに混じって20ポンドのバーベルを持ち上げることから始めている。この体育館には二階があり、なんと小ボクシング・ジムがある。サンドバッグに全身大の鏡、リングまではないものの「パンチング・ボール」まであるのだ。社会人時代、三ヶ月だけ学芸大学の「笹崎ジム」に通ったときの情熱が復活した!?
2003年10月13日
コメント(0)
この神学校の素晴らしいところは、月曜から金曜まで毎朝、チャペル礼拝があることだ。つまり九時四十分までにチャペルへ行けば、賛美もし、説教も聴けて、恵みの祝福を受けて十時十分ごろには出てこられるのだ。この礼拝には、強制ではないのだが、できるだけ出席できるようにしたいと思っている。
2003年10月10日
コメント(0)
授業はおもに「神学生未満」のためのクラス。新約と旧約のクラスでは、ものすごいペースで進み、たまにクイズ(小テスト)もあり、気が抜けない。たとえば旧約では、すでに「創世記」が終わり、出エジプト・レビ・民数・申命記まで進みまくっている。聖書のほかにもテキストがあり、“読み”が追いつかない。また、教義学のクラスがあり、かなりハードだ。「キリスト者の信仰」という、この神学校の教授が書いた本を読む。このテキストは割合読みやすいので、ほっとしたが、問題は授業だ。若い講師がレクチャーしてくれるのだが、彼の話すスピードといい、内容といい、アクセントといい、非常に聞きづらいのだ。慣れるまでもう少し時間がかかりそう。宿題として小論文や批評文が出ているが、まだ手が付けられない。まさにお手上げ状態なので、“テゥーター”をつけてもらった。神学校がお金を払ってくれる家庭教師だ。スティーブ君は、このクラスの優等生で、しかも同じ寮に住んでいるので、なにかと便利だ。
2003年10月06日
コメント(0)
神学校の寮生活でもっとも楽しいのは、週末、とくに金曜の授業後、夕方以降かもしれない。最初の週の金曜日は、仲間たちと夜中まで映画館にいたし、先週は、ホーリーという中国人の女の子に連れて行ってもらった中国人教会で、「バイブル・スタディ」。その後は、借りたDVDを二本も観てしまった。ひとつは、「少林足球(サッカー)」。むちゃくちゃ面白かった。それに「ファミリー・マン」。こちらはニコラス・ケージが主役の米国映画で、内容は、NYの独身キャリアがある日、目を覚ましたら、田舎の町で妻と二人の子どもをもつ、中堅タイヤ会社のセールスマンになってしまっていた、という話。面白いのは、その妻が15年前に別れた元彼女で、髪もショートになってイメージが変わったこと。さらに、再度、夢から覚めて?NYビジネスマンに戻った時、この世界では奥さんではない、同じ女性に出会い、求婚するが・・・というところ。内容をほとんど言っちゃったけど、面白いので機会があればぜひ。人生にはなにが大切なのか、を考えさせられる。お勧め!
2003年10月03日
コメント(0)
全10件 (10件中 1-10件目)
1
![]()

![]()