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私の聖書は注釈付、NKJV(ニュー・キング・ジェームズ・バージョン)だ。皆はコンコーディア・バイブルのNIV(ニュー・インターナショナル・バージョン)などを使っているが、私にはその英訳があまり気に入らない。しかしルター派的な注釈が付いてあるので、それは読まねばならないが。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)という聖句を比較しても、私の聖書の方が、響きがいい。“エターナル”より、“エバーラスティング(永遠)”という語感がすきだ。それにギリシャ語聖書にも近いと聴いた。“For God so loved the world that He gave His only begotten Son, that whoever believes in Him should not perish but have everlasting life.”日本語の方は新共同訳。最初の聖書がボロボロになってしまったので、今使っているのは二冊目だ。日本語・英語の聖書、どちらも赤線を引きまくって自分のものにしている最中なのだ。最近、新・新改訳が出たと聴く。早く手にしたいものだ。
2003年11月14日
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私の神学校には、約180人の一年生がいる。同じカリキュラムで、学んでゆく私の同級生たちが、どのようにして、それぞれの個性をもって成長してゆくというのか?不思議な感じだ。まけないぞ!
2003年11月12日
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神学校のカフェテリアでは、よく留学生同士で食事する。中国人の友人らと話していて思ったことは、なぜ日本人は漢字だけでなくひらがな、カタカナを用いるのかということ。中国人には不思議に思えるらしい。私から言えば、カタカナを使わずにどうやってアメリカ人名などを表現するのだろうと思ってしまうが・・・。いずれにしても日本人はいつから漢文から日本人独自の日本語を使い出したのだろうか。知らずにはいられないことだと思う。だれか教えて!
2003年11月10日
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Ⅲ-ⅳ:『ヤコブ書』4章(1)『ヤコブ書』4章を要約してください。>4章の回答。『ヤコブ書』4章の要約は、「十戒」これを実践しなさい。特に第一の戒めが最優先。この実践により紛争も生じない。紛争の要因は謙虚さを失う事。---> お答えがシンプルすぎて、わかりません。質問を変えましょう。(1)「律法の実践者」(4:11)とは、どういう意味ですか。4章の再回答。(1)4:11律法の「実践者」と「裁き手」の相違が強調され、前者の理解を深める為に後者が用いられていると思う。「神」に服従を理解する→「悪魔」に服従が理解できる事ではないでしょうか?ヤコブ書にはこのように逆説的説明が目立つ様に見えますが…以上。ヤコブによれば、「律法の実践者」とは、神の愛に近づく人のことです。が、やもすると、自らの行いを誇りだし、他人の未熟さを責め、裁いてしまう、というおそれがあります。それでは、ファリサイ派と同じです。裁きを行う方はイエス様お一人であるように、「律法の実践者」たる方もお一人なのです。律法主義に陥らないためにも、これを確認しておきましょう。Ⅲ-ⅴ:『ヤコブ書』5章5章はヤコブのまとめです。1~4章の関連・流れも意識して、以下の質問にお答えください。(1)“お金”は、どうして問題なのですか(5:1~6)。(参考、マタイ6:19,24、「金持ちの青年」19:16~29)(2)「ヨブの忍耐」とはなんですか(5:7~12)。(参考、ヨブ記1:1~2:13、42:1~17)(3)祈りの効果とは、なんだと想いますか(5:13~20)。(参考、列王記17:1,18:41~46)(4)もし、山口兄が初心者に、「ヤコブ書」を教えるとすれば、どのような書簡だと説明しますか。また、この書簡のなかで、どの聖句が一番、印象に残りましたか。5章の回答(1)金は人と人の間に争いを生む根源で、地上の富は、朽ちる物。永遠の命の「神の国」を得るのに傷害を与える。(2)サタンの誘惑に対する信仰の試練。ヨブの主への従順さを示している。(3)前提として「正しい人」「信仰に基づく」祈りは必ず叶えて下さる確信。特に真理から迷い出た人を真理へ連れ戻す事の大切さが強調されていた。(4)キリスト者として必要な点が短い乍エッセンシャルに含まれ、具体的に書かれている書簡と思います。ヤコブ書中興味引かれた聖句は5:19,20でした。教会員でキリストを一度は受入ながら離れて行く兄弟姉妹の為の祈りの大切さを感じました。私の場合は、なんといっても、“エリヤの祈り”(5:16~17)ですね。信仰と奉仕に関して、具体的に記されているという点で、『ヤコブ書』はなかなか興味深い書簡だとおもいます。山口兄、大変、ご苦労さまでした。結論: - 『ヤコブ書』を学び終えて - 「インターネットによる聖研」は、ひとまず大成功した、といっていいだろう。熱心に、返答してくださった山口兄に、感謝したい。やはり、六本木で何年間も、2人っきりで、聖研を守ってきただけあって、たとえ離れていても、我々の結束力は固いのだ(?)。さて、私なりに、この学びをまとめたいとおもう。マルティン・ルターは、『ヤコブ書』はワラの書簡だ、とどこかで語ったらしいが、それはルターの“律法と福音”というコンテキストには、あまり合わないからであろう。保守的なルター派神学を教える、私の神学校ではあるが、前クオーターの新約聖書クラスでは、はじめの背景の学び(使徒1:1~12:24)に続き、『ヤコブ書』にかなりの時間をさいて、学ばされた。それは、“信仰と奉仕”という、パウロとは、また少し違った角度から語られる、この『ヤコブ書』を重要視しているからであろう。ペンテコステ以降のユダヤ人キリスト者たちは、異邦人たちを同じ信仰者として受け入れ、律法主義から、また、閉鎖的な民族思考から解き放たれて、伝道へと旅立った。イエスはこう語っていたのである。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」(マルコ7:27)と。選ばれた神の“子供”がユダヤ人である。しかし、それは、後に彼らの足によって、福音が全世界へと述べ伝えられるためであった。私たち異邦人、“小犬”は、その福音を、ただ口をあけて受け取ればよいのである。習慣的にも、ユダヤの文化にしても、彼らが律法主義から脱皮し、救いをイエスの十字架から、その死と復活から得たという確信にいたるまで、錯誤があったに違いない。しかし、ユダヤ人キリスト者たちは主を愛し、また、主は「わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる」(ヤコブ4:5~6)とあるように、彼らを愛し、導かれたのである。ヤコブの「行いの伴わない信仰が役に立たない」(ヤコブ2:20)という主張は、愛を実践するがゆえであって、決して救われるための行い、というものではない。裁きに打ち勝つ、あわれみに満ちた方、主に従い、ユダヤ人キリスト者とともに私たちも、愛を実践する者とされたい(ヤコブ2:13、5:11)。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。・・・言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ5:17,20)
2003年11月08日
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序:2003年10月より(同年12月、終了。)、母教会の山口兄と、「インターネットによる聖研」を始めた。山口氏は携帯から、タイムリーに返信してくれるので、こちらとしても張り合いがあった。私は新約聖書のクラスを、前クオーターに取ったので、『ヤコブ書』をこの聖研のテキストとして選んだ。そのクラスは、神学校の単位には含まれない神学生未満対象の学びであった(しかし受講し、試験をパスすることは要求されていた。)が、オズワルド博士は、新約聖書学、特に『ルカによる福音書』の研究者なので、とても勉強になった。アウトライン:『ヤコブ書』の研究をしてゆきたいと思います。この学びのアウトラインは、① まず、著者はだれか?という問題。そして、② この手紙が書かれた背景について。さらに、③ 旧約聖書との関わりについて。これらの3点について、一章から少しずつ学びながら、進めていきたいと思います。(引用箇所は、ちょっと面倒でも、引いて調べてみましょう!)Ⅰ:「『ヤコブ書』の著者問題」・・・まず、手紙のはじめに、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」(1:1)とあります。このヤコブさんとは、いったいだれでしょうか。・・・聖書には、色々なヤコブが登場しますが、とくに可能性があるのは、「主の兄弟ヤコブ」(ガラテヤ1:19)という人物です。ご存知のように、ナザレのイエスには、何人かの兄弟、姉妹がいました。「・・・母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(マタイ13:55~56)とあるとおりです。 福音書執筆者のヨハネによれば、以前はこのヤコブも、兄のイエスを信じていなかったようです(ヨハネ7:5)。そんな不信仰なヤコブでしたが、復活なさったイエスに出会い(1コリント15:7)、使徒たちやイエスの母らとともに、心を合わせ、熱心に祈るまでになりました(使徒1:14)。以前は、信じられなかった者が信じるようにされています(マタイ13:57)。Ⅱ:「『ヤコブ書』の背景について」・・・『ヤコブ書』はごらんのとおり、ユダヤ人に宛てて書かれており、旧約の知識を必要とします。これについては、おいおい学んでゆきます。ご心配無用です。まず、使徒言行録時代の背景と、初期のユダヤ人キリスト者が抱えていた問題について知ることが求められています。そこで、著者問題の次に、『使徒言行録』1章から12章の終わりまでを読み、その背景を学びたいと思います。大切にしたい視点はとにかく、① どうやって、ユダヤ人が異邦人信仰者を受けいれていったのか。また、② 彼らがどのように、ユダヤ教から主イエスの教えを信じるに至ったかという2点です。Ⅲ:「『ヤコブ書』と旧約聖書の関わりについて」・・・聖書を細かく読むことも大切ですが、背景や流れをつかむために、通読することもよいことです。さて、「ヤコブ書」はごらんのとおり、ユダヤ人に宛てて書かれた、初期の手紙です。(新約の書簡のなかで、一番先に書かれた可能性もあるとのこと。)そのため、使徒言行録時代の背景と、初期のユダヤ人キリスト者が抱えていた問題について、『使徒言行録』1章~12章から知っていただきました。ご苦労様でした。それでは、さっそく、本命の『ヤコブ書』を読んでゆきましょう。Ⅲ-ⅰ:『ヤコブ書』1章『ヤコブ書』1章を読んで、以下の質問にお答えください。ご返答よろしくお願いします。(1)ユダヤ人キリスト者は、どのような「試練」(1:2,12)に遭っていたのでしょうか(参照、1:1~8、12~18)。 (2)貧しい者と富んだ者について。イエスのたとえ話「金持ちとラザロ」を参考に(参照、1:9~11、ルカ16:19~31、サムエル上2:8)。 (3)あなたの実践とは(参照、1:19~27)。『ヤコブ書』の研究の回答を送ります。(1)試練:自分自身の欲望→誘惑→罪→死。(2)貧者と富者:地上での貧者は天国では神によって高められ富者は草花の様に滅び、低くされこの二者の隔たりは、大でとても行き交う距離でない。(3)実践とは?:御言葉を行う、自分の心を欺かない人になる事…以上クリスチャンに対しては、時代・場所を越えて迫害がある。山口兄、ごくろうさま。1章では、“試練”について考えました。試練を試練と思わない弟子たちがいたことも、覚えておきたいものです(使徒5:41)。Ⅲ-ⅱ:『ヤコブ書』2章では、二章にゆきましょう。(1)さらに富める者と貧しい者の比較があります(2:1~13)。人を分け隔てないとは、どういう意味でしょうか(参考、使徒10章)。(2)ヤコブ、特有の「行いのともなう信仰」について、どう想いますか(2:14~26)。>回答(1)分け隔てについて:神側でなく人間達が勝手にユダヤ人と異邦人、富者と貧者の様に差別していると思える。---> ヤコブ2:1~13は、俗に“キリスト者の標準”ともいわれる大切な箇所です。もうすこし深くとらえてみましょう。ユダヤ人とは?富める者とは?という質問におこたえください。特に2:5「世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ・・・」と2:13「人に憐れみをかけない者・・・」に注目(参考、ローマ3:1~10、1コリント1:26、ガラテヤ5:6)。再回答(1)分け隔てについて:ユダヤ人とは神が選び神の言葉を委ねられた人々→クリスチャン即ち私達イエスキリストの信仰者全てを含むと思います。ローマ3:9~10より指摘の「ユダヤ人、ギリシャ人も皆、罪の下にある…正しい者はいない。一人もいない。」この内容から別け隔てはない点と、貧しい人→弱者、小さい者に恵みの対象者と成ることが強調されているのではないかと思える。--------------------------------->回答(2)行いの伴う信仰:両者は一身同体で信仰のみでなく行いを伴う事により信仰は強められる。---> 山口兄、もう少し深く、考えてみましょう!ここで鍵となる聖句は、まず、2:17「行いと伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」これについてヤコブは、2つの事例を引いていることに、注目してみましょう。「アブラハムの信仰」(参考、創世記22:1~19)と「娼婦ラハブの信仰」(参考、ヨシュア記2:1~21、6:17~25)です。再回答2の件(1)創22:1~19アブラハムの息子イサクを主の試みにより献げ物として献げた行為を主が認められ祝福が与えられた。(2)ヨシュア2:1~21.6:17~25よりヨシュアの送った斥候2人をエリコの王の追っ手から逃がした遊女ラハブの行為に対して一緒にいる家の中にいる者達を主は滅ぼさなかった。これらの事を通して主は信仰に基づく行為に対して高い評価を与えられている様子が伺えます。山口兄、ご苦労さま。(1)のアブラハムの信仰は、なんとへブライ書によれば、「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」(へブ11:19)とあります。当時のアブラハムの信仰が、いかにすごかったかを、うかがい知ることができましょう。では、次にゆきましょう!Ⅲ-ⅲ:『ヤコブ書』3章さて、『ヤコブ書』3章は、“舌”についてです。特におしゃべりな山口兄には、意味深いのでは(?)なんてごめんなさい。ご感想をよろしく。(1)悪い舌について、説明してください。(2)良い舌について、説明してください。3章の回答(1)悪い舌:不義の世界、全身を汚し、人生を焼き尽くす、疲れを知らない悪、死をもたらす毒に満ちている、神に象って造られた人を呪う、自慢したり、真理に逆らって嘘をつく。(2)良い舌:主を賛美し、純真、温和、優しく、従順、憐れみ、偏見なく、偽善的でない…以上からこの小さな器官だが舌の使い方に注意!→3:13~18上からの智恵に頼る必要性。
2003年11月07日
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木曜日の5時すぎ、クリス氏に連れられて、ワシントン大学にゆく。エドという日本の大工が、釘も糊も使わずに木材を組み立てる技術を披露するというのだ。建築学・アート学の建物に入ると、異様なほどの空気を感じた。30人以上の学生や大学関係者の見守る中、一心に作業している小柄な日本人大工がいた。アメリカ人の女性講師の説明によれば、江戸タモツ氏は、15歳のころから大工の技術を学び続け、三人の親大工からそれぞれの技術を盗んだという、38年のキャリアをもつ大工だ。現在、淡路島を拠点とする、一級建築士でもある。設計から現場監督もするというマルチな職人だ。約二時間後、江戸氏の「ふー。」というため息で、張り詰めた空気が和らいだ。柱を半分に削ったような二つ木片を合わせ、たたき込むと、一本の柱になった。さらにかんなで表面を削り、整えて、作業は終わった。ぱっと見、継ぎ目を見ることはできないという出来栄えだった。私は日本でもめったに見られない、職人技術を目の当たりすることができ、感激した。帰り道、クリスと「僕らもアートしようぜ」という話になった。このクリスさんは、この大学の卒業生で、「日本文学」を専攻したという日本通な若者だ。日本にもいったことがあり、父親がニューヨークで牧師をしていることから、NRKの教会関係者とも交流がある。またひとり日本に想いをもつ、キリスト者に出会うことができた。
2003年11月06日
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スランプについて。神学の勉強ばかりしていると、聖書がテキストのように見えて、デボーションもできなくなるときがある。・・・「最後の一葉」で有名なO・ヘンリは、「スランプになると、三ヶ月ものあいだ一行も書けないことが、しばしばある。そんなときには、強いて書こうとせず、町へ出てぶらつくことにしている。町へ出て、群衆のなかへ入って行き、実人生の鼓動と迫力を、じかに肌で感じとるのである。物語作家にとって、これ以上の刺激剤はないと思う」と語ったという。私にとっての刺激剤とは、やはり強いてでも、朝のチャペル礼拝に出ることだろう。説教者の語り口が、聖書の引用聖句が、賛美歌の歌詞とメロディーが、心を和ませて、失いかけたやる気を奮いださせてくれる。
2003年11月03日
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10月31日はハロウィーンの日だ。アメリカ人はクリスチャンでもハロウィーンを祝いたがるが、私はあまり好きではない。お化けの格好をした子どもたちが、「トリック オア トリート?」と言いながら、近所の家をまわるのは、日本の節分の豆まきか、正月の獅子舞とでも思えばよいのだろう。いずれにしろ、この日は金曜日のうえ、昨晩遅くまで、教義学の宿題をしていたせいもあり、留学生のハロウィーン・ピザ・パーティーにも出ず、子どもたちにキャンディーもあげずに、早く寝てしまった。
2003年11月01日
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もう一つ、教義学のはなし。「罪と悪」問題で、神の存在に納得がいかず、神に同等の力をもつ“悪い神様”がいると主張した人がいる。これをニ神論者という。また、時計の技術者のように、地球を造った神様はその後、何もしない。だから悪いことがあっても知らんぷりという神様を主張する哲学者もいる。さらには、神様は成長過程にあり、もし悪い出来事が起きてしまったら、人間は許してあげなければならない、と主張する学者もいる。いずれにしても、神を全知、全能、天地の創造主、善、愛、命という定義そのものが一致していない。もし神様が人間より劣るなら、神とは呼べないし、二人も三人も神様がいたら、おかしいと思うのだが・・・。もっとも、難解なのは、そんな神はいないとする無神論者・懐疑論者の意見かも知れない。天地創造がすべてアクシデントだと主張するには、それだけの根拠が必要だろうし、すべて「解からない」というのも大変だ。このように、歴史的な論争を知るのも、中々面白い。
2003年10月31日
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私は今、教義学の教科書「キリスト者の信仰」を読んでいるが、だんだんと興味深く思えてきた。本音をいうと私は、実際、「組織神学」といわれる分野に位置するこの教義学が好きではない。少なくとも、日本の神学校で聴講していたときの教義学は好きではなかった。神の遺棄の問題や義認に関する問いなど、どうでもよく、あまり興味をもてずにいた。どちらかと言うと、私は「聖書学」に向いている。聖書研究がそもそも好きだから・・・。ところが、セントルイスで学ぶこの教義学は、聖書を教えるうえで必要な問題を、ひとつひとつ考えてゆくという感じなのだ。例えば、もし身近に、赤ちゃんを流産でなくしてしまった女性がいた場合、どのように慰め、聖書的に理解するのか。「本当に神様はいるのでしょうか。なぜ、このように悲しまなければならないのでしょうか」と問われた際に、どう対処するのか。これが、教義学でいう「罪と悪」というテーマでもあるのだ・・・。ルター派神学では、簡単にいうと、二つの罪があり、また二つの悪がある。罪とは、まず、初め人間アダム氏が“善悪の知識の木”の実を食べて以来、継承されてしまった原罪がある。それと、旧約聖書の語る「神の掟の書」に違反するという罪。有名なモーセの十戒、律法などである。いずれにしても、人には到底、犯さないではいられないのが罪なのだ・・・。一方、悪というのも厄介だ。悪とは、人の内面を支配する悪(無気力、罪意識など。)と外側の悪(他者との別れ、死など。)がある。いずれにしろ、このような説明では、たとえ信仰者であっても、慰めることはできないであろう。しかし、神を疑わざるをえないような出来事があるときこそ、神に立ち返るときであり、神を神として認め、御言葉に聴くときなのだろう、としか今の自分には言えない(2コリント7:10)。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(2コリント1:4)
2003年10月29日
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神学生のサムさんのアパートに招待された。奥様は日本人のユーコさん。日本のカレーをご馳走になった。招待されたのは、岡崎師、ジョエルさん、そして私。サムさんは、なんと、あのマーク・ジェイサ(私の親友)と同期の元VYM(ボランティア・ユース・ミニストリー)だった。ルター・ハウスという東京の神学寮でマークと同じ部屋に住んでいたという。その後、群馬に派遣され、ユーコさんと出会うわけだが、そういうわけで、日本語もまあまあできるのだ。特に驚かされたのは、彼が私の教団の問題点を明確に指摘したことだ。ほんの数年しかいなかった日本での生活で、なにを想い、なにを祈ったのかを教えられた気がした。サムさんは今、牧師・宣教師としての準備を着々としているが、日本へ行くことになるかどうかは、まだ分からない。一方、ユーコ婦人は私より若く、ハキハキした女性だ。大学はアメリカで卒え、帰国後、東京にある小さな教団の神学校へ行かれた。そして実家のある群馬に戻り、サムさんのいた教会の「バイブル・スタディ」に参加したのだという。娘さんハンナ・真理衣ちゃんは5ヶ月で、おとなしい子だ。久しぶりに日本的なアットホームな感じで、日本語をしゃべり、くつろげた。そしてなにより、このような同じ想いをもつ仲間に出会えたことを感謝した。
2003年10月27日
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勉強の合い間の息抜きに(?)、沢木耕太郎の「深夜特急」を1から3まで読んだ。やはりインド編で止まってしまった。色々な思い出がインドにはある。インドといえば、以前、買いためたインド映画の音楽テープをこちらで聴いている。同じ寮に住む、インドの牧師・神学生のREV.プリーストリに貸して聴いてもらったが、言語はヒンディでなく、解からなかったと言われてしまった。やはりインドは広い!でも残念だ。彼の解かる言葉のテープがあるかもしれない。今度、捜してもらおう。追記。私には大学時代からのインド人親友ジョセフ君がいる。彼の少年時代の話は興味深い。走っている市内電車に飛び乗るという、無茶な遊びをしていたという。あるとき、彼の友達が電車に飛び乗った、と思った瞬間に、視界から消えたという。なんと、電車の下に入ってしまったのだ。ジョセフ君は驚いて、駆け寄ると、電車はすでに過ぎ去り、その友達が線路の上で倒れていた。体が小さかったため、電車に引き込まれはしなかったのだ。でも、全身を強く打ち、病院で即、入院ということになった。ジョセフ君は責任を感じ、毎日、友達の見舞いにいったそうだ。その後、友達は無事回復し、事なきを得たという。ジョセフ君の親父の少年時代の話は、ほのぼのしていて、インドらしい。彼は毎日、川を越えて学校に通っていたらしい。泳いで渡るので、濡れたTシャツを木の枝に掛けておく。放課後、戻ってくると、枝に掛かったシャツは乾いている、という。よく分からないのは、何枚、代え着があれば、濡れたシャツを着なくてすむのかという点だ。が、たぶん、放課後の彼は、シャツが濡れていようが、あるまいが、気にせず、遊びまわっていたように想像する。
2003年10月24日
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ついにチャペルで、待望の説教を聴くことができた。聖書箇所は、旧約の列王記上17章。預言者エリヤがある街の女性から水とパンを求めたところの話だ。「列王記」研究を一年以上していた自分には、よくなじんだ内容であったが、それをどうやって説教に活かすのか、が具体的に知りたかったのだ。説教者は、声を上げる。「その女性は、いったい何を考えているのか。薄汚れたその男に、信仰をもって水もパンも持ってきたというのか」と。ひとかけらの粉と少量の油でパンをつくり、一人息子と食べて、後は死を待つのみという女性に・・・。「それを神の預言者に差し出すのは、なぜか」と。彼女は、その男の言葉を信じた。なぜなら後に病のために死んでしまった息子を、その男に訴えて生き返してもらうのだから。食料がなければ人は死ぬ。それは神がご存知なこと。イエスは、こう語ったことを思い出していただきたい。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ6:25~26) 説教者はさらに声を大にして語る。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)と。あのサレプタの未亡人には、わずかな生きる糧も、愛すべき息子も取り上げられたとき、なにもかも失うという、その苦痛のなかで、御言葉に聴き、その奇跡に感謝と喜びをもって、「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」と告白するに至ったのだ・・・。私はこの説教から、多くのものを自分なりに得たと想う。それは、旧約のテキストからいかにスムーズに新約の時代へとシフトさせるか、という構成だ。会衆が違和感なく説教の中心テーマに興味をそそられるか、それとも集中力をとぎらせるか、の問題なのだ。説教者が序論で話し初めたように、信仰とはハタから見れば、「なにを考えているのか!」というものなのだ。感情的な説教に、新鮮さを感じた。
2003年10月20日
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教義学の少テストのデキが悪かった。勉強方法というか、やり方がうまくいっていないような気がして、心配になる。夜、日本の狭山にいる宣教師、河成海(ハ・ソンヘ)師に電話をかけた。むこうは午後1時ごろという。河先生からは、「何年も遊んでいたんだからしょうがない」と言われ納得。大学を出てから5年のブランクはさすがにキビシイか。でも、「食事を部屋にもって返るほど勉強しなくてもよい。ちゃんと遊んで、楽しんで、体力つけて」とアドバイスをもらう。自分なりの勉強方法ができるようになるには、最低半年はかかる、という。地道にゆくしかないか・・・。数日後、今度は、東京の清水師に電話した。この先生は、私がケンタッキーの大学に行っているときに、「レキシントン日本人教会」でお世話になった青年会の顧問であり、アズベリー神学校を卒業された“神学留学”の先輩でもある。清水先生も私のように、日本で神学を学ばずに行かれたという経験をもつ。清水師からは、「教授と親しくなること」や、「ルームメイトがいない分、積極的にクラスメートと話すこと」など、具体的なアドバイスをいただく。
2003年10月17日
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私のもうひとつの日課になりつつあることは、朝七時からの朝練。神学校の体育館には、朝六時から筋トレやバスケをするつわものもいるくらいなのだ。彼らに混じって20ポンドのバーベルを持ち上げることから始めている。この体育館には二階があり、なんと小ボクシング・ジムがある。サンドバッグに全身大の鏡、リングまではないものの「パンチング・ボール」まであるのだ。社会人時代、三ヶ月だけ学芸大学の「笹崎ジム」に通ったときの情熱が復活した!?
2003年10月13日
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この神学校の素晴らしいところは、月曜から金曜まで毎朝、チャペル礼拝があることだ。つまり九時四十分までにチャペルへ行けば、賛美もし、説教も聴けて、恵みの祝福を受けて十時十分ごろには出てこられるのだ。この礼拝には、強制ではないのだが、できるだけ出席できるようにしたいと思っている。
2003年10月10日
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授業はおもに「神学生未満」のためのクラス。新約と旧約のクラスでは、ものすごいペースで進み、たまにクイズ(小テスト)もあり、気が抜けない。たとえば旧約では、すでに「創世記」が終わり、出エジプト・レビ・民数・申命記まで進みまくっている。聖書のほかにもテキストがあり、“読み”が追いつかない。また、教義学のクラスがあり、かなりハードだ。「キリスト者の信仰」という、この神学校の教授が書いた本を読む。このテキストは割合読みやすいので、ほっとしたが、問題は授業だ。若い講師がレクチャーしてくれるのだが、彼の話すスピードといい、内容といい、アクセントといい、非常に聞きづらいのだ。慣れるまでもう少し時間がかかりそう。宿題として小論文や批評文が出ているが、まだ手が付けられない。まさにお手上げ状態なので、“テゥーター”をつけてもらった。神学校がお金を払ってくれる家庭教師だ。スティーブ君は、このクラスの優等生で、しかも同じ寮に住んでいるので、なにかと便利だ。
2003年10月06日
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神学校の寮生活でもっとも楽しいのは、週末、とくに金曜の授業後、夕方以降かもしれない。最初の週の金曜日は、仲間たちと夜中まで映画館にいたし、先週は、ホーリーという中国人の女の子に連れて行ってもらった中国人教会で、「バイブル・スタディ」。その後は、借りたDVDを二本も観てしまった。ひとつは、「少林足球(サッカー)」。むちゃくちゃ面白かった。それに「ファミリー・マン」。こちらはニコラス・ケージが主役の米国映画で、内容は、NYの独身キャリアがある日、目を覚ましたら、田舎の町で妻と二人の子どもをもつ、中堅タイヤ会社のセールスマンになってしまっていた、という話。面白いのは、その妻が15年前に別れた元彼女で、髪もショートになってイメージが変わったこと。さらに、再度、夢から覚めて?NYビジネスマンに戻った時、この世界では奥さんではない、同じ女性に出会い、求婚するが・・・というところ。内容をほとんど言っちゃったけど、面白いので機会があればぜひ。人生にはなにが大切なのか、を考えさせられる。お勧め!
2003年10月03日
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2003年9月30日。今日で9月も終わりです。今月は怒涛のような日々でした。東京でビザをじりじりと待つことから始まり、パスポートが米国大使館から届くやいなや、あわててスーツケースに物を詰めてセントルイスにやってきて、すでに一週間以上経過している授業に飛び入り参加。時差ぼけなどと悠長なことを言っていられないほど、英語、神学の毎日が始まってしまいました。スーツケースの中身を開けてびっくり。神学生として必要なものなどあまりなく、日本の文庫本(主に、沢木耕太郎、司馬遼太郎、吉村昭。)・車の雑誌・スーツ以外の服は、シャツもパンツもなにもない。よっぽどあわてていたらしく、英和辞書も忘れている始末。「なーに、これからは英英辞書一冊があれば、英語のブレインでやっていける!」などと空意気を吐くが・・・。今回の旅では、ちょっとしたハプニングがあった。格安チケットのため、ニューヨーク経由となり、いやな予感はしていたが・・・。入国審査はさほど厳しくなく、待たされずにすんだが、肝心のセントルイス行の便がキャンセルに。おかげでニューアークのホテルに一泊させてもらった。たまたま、空港で出会ったセントルイス在住の方、トロイ氏と夕食を共に過ごす。明けて次の日、午後一時三十分の便で飛び立つ予定が、今度は「機械上」の問題らしく、違う便に。昨夜の便は「天候」のせいだったらしいが、どうやらあやしくなってきた。ともあれセントルイスに無事到着し、トロイ氏の友人という女性の車で神学校まで送ってもらう。外はもう薄暗く、七時を過ぎていた。腹ペコなので、寮の仲間からパスタの缶詰をもらう。
2003年09月30日
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