全158件 (158件中 101-150件目)
「REGISTA 日本橋店」を後にし、出勤のために三越前駅へゴー。 途中に薬祖神社へ参拝。東京薬事協会の公式HPによれば、明治41年(1908年)に、東京薬事協会の前身にあたる東京薬種貿易商同業組合が、東京上野の五條天神社から薬祖神の御霊を迎え大祭を執行し、昭和4年(1929年)に事務所建物の屋上に薬祖神社の初代社殿)を造営し、昭和58年に昭和薬貿ビル屋上に第二代目の社殿を造営し、平成28年(2016年)に福徳の森へ第三代目の薬祖神社を遷座したという。御祭神は、大己貴命、少彦名命。御利益は、無病健康、病気平癒。
2023.11.13
コメント(0)
月曜日なら飯田橋界隈の職場へ出勤するが、その前に近くとはいえやや距離のある平河天満宮へ参拝。 年始以来の参拝だね。 江戸平河城城主太田道灌はある日に菅原道真公の夢を見、さらに翌朝菅原道真公自筆の画像を贈られたため、その夢を霊夢であると思い、文明10年(1478年)に城内の北の梅林坂に天満宮を建立した。オフィシャルサイトの紹介によると、徳川家康が江戸に入城した間もなく、築城のため、平河天満宮を平川門外に奉遷し、二代将軍秀忠が慶長12年(1607年)に、貝塚(現在地)へ奉遷したという。平河町という地名も平河天満宮にちなんで名付けられた。平河天満宮は幕府をはじめ、紀州・尾張徳川家、井伊家等の祈願所でもあった。新年の賀礼には、宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。主祭神は贈太政大臣贈正一位菅原朝臣道真公、相殿は誉田別命(八幡宮)、徳川家康公(東照宮)である。 境内には平河稲荷神社がある。創建や由来は不明であるが、宇迦之御魂神を祭神とする稲荷は徳川家康の江戸入府の前からすでに平河天満宮の境内社として祀られていたかもしれぬ。 稲荷神社の隣に設置された「筆塚」は嘉永5年(1852年)2月の菅原道真公950年忌を記念して作成・奉納されたものである。表記の文字は禅庵蟻道により書かれたという。 正面の鳥居の近くに境内社の三殿宮がある。祭神は、日本武尊命、豊斟渟神、木花開耶姫命である。
2023.11.06
コメント(0)
「らーめん亭 ひなり竜王」を出た後に、京急蒲田駅へ向かう。 立派なお寺を見かけた。密乗院という。 歴史がありそうなお寺なので参拝。本尊は不動明王だというが、しまったままだ。 帰宅後に調べたら、玉川八十八ヶ所霊場第な七十七札所であり、承久年間(1219年~1222年)、真栄によって開創されたお寺であるという。徳川家康が狩に来て、ここに休んだとの伝説もある。
2023.11.02
コメント(0)
ラーメン大木戸から出たら、まだ時間があるので、狙っている三軒目のお店へゴー。もし行列ができていればあきらめるってこと。 途中に結構古い神社を見つけたので参拝。大森界隈にも八幡神社があるとは思わなかった。 ネットの情報によると、大森八幡神社は建武年間(1334〜1336)の創建と伝えられているが不明であるという。御祭神は、品陀和気命、つまり、応神天皇、誉田別命ということである。 境内社は火伏稲荷。 稲荷様の賽銭箱が珍しい形だと思ったら黒猫が寛いでいるってことだった。後に調べたら、大森八幡神社の境内で猫が多いようだが、今日この子としか出会っていない。
2023.11.02
コメント(0)
勤務が終わった後に手土産を買うために御徒町へ。 ちょうどいいタイミングなので、徳大寺へ参拝。寛永年間に日遣上人によって創建され、仏教の守護神である開運大摩利支尊天を奉安することから摩利支天徳大寺とも呼ばれる。寺宝として奉安する摩利支天像は、宝永五年(1708)9月安置され、関東大震災、東京大空襲の際に本堂が火災で焼失されたものの無事であった。摩利支天は、「厄を除き、福を招き、運を開く」の神様である。中世以降、武士階級では守護神として摩利支天への信仰が広まり、楠木正成、足利尊氏、毛利元就、立花道雪、山本勘助、前田利家、立花宗茂、徳川家康などの武将も摩利支天を信仰したと言われる。本堂正面の扁額「威光殿」は吉田茂・元総理大臣の揮毫である。もともと自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちにやられているので、摩利支天のご加護をいただきたい。
2023.07.26
コメント(0)
いつものように土曜出勤だが、出勤の前に湯島天満宮へ参拝。 今週木曜日から日曜日にかけて湯島天神の例大祭が行われる。湯島天神の周辺にすでに多くの出店が出展される。 見物の外国人の客も多いようだ。 参拝の客も多い。学問の神様に自分を、自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントから守っていただきたくて参拝いたした。 去年に完成した神輿。去年の例大祭は新型コロナの影響で規模縮小で行われた。このため、神輿の担ぎがなかったのだ。ある意味で普通の生活で過ごすことになったため今年の例大祭が無事に行われることになった。
2023.05.27
コメント(0)
太田姫稲荷神社を参拝した後に、出勤のために靖国通りへ進んだが、途中に小川町界隈へ寄り道しよう。少し歩いたら、五十稲荷神社を見つけた。 神社の正式な名称は栄寿稲荷神社である。五十稲荷は通称。創建年代は不詳であるが、慶長年間に既に伏見稲荷大社から分霊を勧請して祀られてきたらしい。正徳年間でここが戸田長戸守邸となるが、屋敷神として祀られてきた。戸田家は足利に祀っていたお稲荷様を合祀したということで、「栄寿稲荷」と称されるようになった。五と十の日に月次祭が行われ、一般参拝が許された。明治時代になり、戸田家が転居した後も五と十の日に縁日が行われた。このため、「五十稲荷(ごとういなり)」と呼ばれるようになった。今の社殿と社務所は、令和3年で竣工されたものである。 公式ツイッターとインスタで限定御朱印の情報を発信している。出勤しなくてはならないため書置きをお願いしたが、社務所で手書きを待つ方も多い。限定の御朱印の人気も高いようである。ところで、参拝せずに御朱印をスタンプのように集める外国人もいたので残念。
2023.05.15
コメント(0)
月曜日だから飯田橋界隈の職場へ出勤するが、今日はちょっと気分転換のためルートを変えよう。 新御茶ノ水を降り、少し駿河台界隈に進んだら、太田姫稲荷神社が見えた。室町時代の末頃、関東一帯には天然痘が流行していた。太田道灌の姫もその病いに罹ってしまったが、京都の一口稲荷神社が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、姫は全快したという。のち寺社奉行にもなった太田道灌は、相模国の守護上杉定正の命により江戸城を築く時、その鬼門(鬼の出入りする方向、即ち東北、江戸城を基点とすると私たちの地がその方角になる)除けとして、太田家の姫を救った「一口稲荷」を勧請した。徳川家康の江戸入府後の慶長11年(1606年)に城外鬼門にあたる神田川のほとりに遷座した。明治5年に村社と定められ、名も太田姫稲荷神社と改めたが、大正12年の関東大震災において社殿が焼失され、湯島天神に避難した。昭和3年に再建された。昭和6年に、御茶ノ水駅の総武線拡張により、現地に遷座された。 御朱印はないが、スタンプ台に3種類のスタンプ、赤と黒などの色の朱肉が置いてある。セルフでスタンプを御朱印帳に押すということである。
2023.05.15
コメント(0)
無事に飯田橋界隈の職場の勤務を終えた後に、池袋界隈へ移動。 時間的に結構余裕があるので、池袋駅を降りた後に、やや距離のある子安稲荷神社へ参拝。 子安稲荷神社の創建の時期がわからないが、天正以前から既に現在の地に奉斎されていたと言われる。安土桃山時代の前期でこの辺りは徳川氏の家臣である斎藤惣左衞門という旗本の領地となった。ある日惣左衞門が領内を視察した時に急な雷雨に見舞われた。そこで、稲荷の使いという老人が現れ、雨宿りができる社に案内された。惣左衞門は老人より、稲荷の社祠を再建したならば、領内の五穀豊穣が約束され、災いからも守られるというお告げを聞き、社殿を建立したという。また、正徳 5 年(1715 年)にこの辺りで疫病が流行したが、この稲荷神社により、多くの子どもたちが病から助かったため、「子安稲荷」と称えられる。 なお、限定の御朱印情報を公式ツイッターと公式インスタグラムで発信している。
2023.05.08
コメント(0)
タクシーでJR足利駅から東武鉄道の足利市駅へ移動するが、運転手に依頼し、寄り道で行くことになった。 最後のスポットは『渡良瀬橋の歌碑』だ。渡良瀬橋と言えば、森高千里が唄った名曲だ。足利市は、渡良瀬川によって南北に分かれているため、12本の橋で南北の連絡をしている。その一つは渡良瀬橋だ。森高千里は渡良瀬橋の周辺を散策し、そのイメージを使って、『渡良瀬橋』の歌詞を書いた。森高千里はこの大ヒット曲で足利市から感謝状を贈られ、2015年に足利市から「あしかが輝き大使」に任命された。2007年に、渡良瀬橋と夕日が共に見える場所に歌碑が建立された。『渡良瀬橋』のメロディも東武鉄道の足利市駅、JR足利駅に使われている。まだ夕方になっていないが、帰宅の電車の関係でこの時間帯でしか来れないため、このような感じで写真を撮った。
2023.05.02
コメント(0)
足利学校を出た後に、さらに町内へ進んだら、鑁阿寺への指示が見えた。鑁阿寺はもともと足利氏の祖、源義康が構えた足利氏の居館であった。元々砦、城の機能を持つ寺社は戦国時代にかけて結構多かった。実際に寺は境内の周りに土塁と堀がめぐっているため、鎌倉時代の城の面影が見えると言われる。2006年に「足利氏館」として日本100名城(15番)として選出される。 楼門、つまり山門は栃木県の県指定文化財であり、足利幕府十三代将軍足利義輝によって再建されたものである。両側の仁王像は桃山時代の作品。写真を撮るためのスペースがないので、仁王像の写真を撮らないことにした。 本堂。2013年に国宝として指定される。源頼朝が以仁王の令旨に応じて伊豆国で挙兵すると、血縁的に近い河内源氏の一族でもあり、以仁王を養育した暲子内親王(八条院)の蔵人でもあったため、足利氏の二代目である足利義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍していた。源頼朝が源氏の一族を次々に粛清すると、足利義兼は建久6年(1196年)に出家し、翌年に居館で持仏堂を建てたことで鑁阿寺を開基した。足利氏は義兼がなくなった後に鎌倉幕府での地位が低下してきたが存続できた。三代目の足利義氏は伽藍を整備し、方5間の大堂を建立したが、大堂は1129年の火災で焼失された。今の本堂は、室町幕府の初代征夷大将軍尊氏の父、貞氏が正安元年(1299)に再建したものである。 中御堂(不動堂)。足利市の指定文化財。 一切経堂。足利義兼が創建したものであるが、現存の経堂は1407年に関東管領足利満兼により再建されたもの。国の指定重要文化財 多宝塔。栃木県の県指定文化財。足利義兼の創建と伝えられ、元禄5年(1692年)に江戸幕府の五代将軍徳川綱吉の母、桂昌院が再建したものである。 鑁阿寺の近くに足利尊氏の像が建てられる。 JR足利駅の近くに太平記館がある。平成3年(1991)放送された大河ドラマ「太平記」放映を記念にして建てられ、足利の観光案内や土産品の販売など行い、足利地域のお菓子やオリジナルグッズ、加工品などを取り扱う施設である。中に「太平記」の主演を務めた真田広之(足利尊氏役)が撮影中に着用していた鎧も飾られている。
2023.05.02
コメント(0)
時間的にはかなり余裕があるので、電車で足利駅に戻った後に近くにある足利学校へ見学。足利学校は日本で最も古い学校として知られる。創設の時期に関しては、奈良時代か、平安時代か、鎌倉時代か、室町時代かという様々な議論があるが、室町時代から戦国時代にかけて関東地方における実質的な最高学府であった。天文18年(1549年)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、ここを「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介した。江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年に幕をおろした。1921年(大正10年)3月3日、「足利学校跡(聖廟および附属建物を含む)」として国の史跡に指定された。 正面の入口は入徳門という。 入徳門に入ったすぐ近くのところに孔子の像が建てられている。向かいは切符売り場と事務所である。 入口の近くにある「正一位霊験稲荷社」は、現在学問の守り神「足利学校稲荷社」として信仰を集める。御朱印とお守りなどは、切符売り場で授与される。 学校門である。 教壇門。 教壇門のすぐ近くに大正天皇が皇太子時代で手植えだ木である。 孔子廟である。孔子座像と小野篁公像が中に設置されるが、入れない。 中にも、明仁上皇と上皇后が天皇・皇后時代でここへ行幸した時に手植えの木がある。 衆寮である。僧房または学生寮として使われた。 方丈、書院、庫裡の建物。中に今展示コーナーが設置される。また、東照宮大権現、すなわち徳川家康の位牌、および徳川家三代から十一代将軍までの位牌が安置される。 足利学校伝来の書籍の保存を目的として明治36年(1903年)3月に足利学校遺蹟図書館が発足され、大正4年(1915年)に現在の建物が完成され、開館した。 「足利学校中興の祖」として平成2年(1990年)中興550年祭の際に設置された「上杉憲実公顕彰碑」である。
2023.05.02
コメント(0)
連休中の平日だが、足利市へ。 今日のメインは、あしかがフラワーパークへの花見だ。通常ならフジはこの時期で満開しているが、天気が変なので、すでに散り始めたって感じ。残念だが、わしはこの時期しか来れないので仕方ない。なお、恋人の聖地サテライトの認定を受けているが、わしはそのような目的でここに来たわけではない。 また、あしかがフラワーパークの藤棚「奇跡の大藤」は足利市堀込町(現:朝倉町)から現地へ移植されたが、大藤(当時樹齢130年)の移植は前例がなかった。この移植は日本で初めての成功例となった。さらに、「奇跡の大藤」は、『鬼滅の刃』で鬼を退治する組織「鬼殺隊」になるための「最終選別」の地として登場し、藤の花が咲き誇っている「藤襲山」とそっくりしたため、『鬼滅の刃』の聖地としても知られる。
2023.05.02
コメント(0)
小石川大神宮へ参拝した後に、道にわたって、少し進み、さらに坂道へ登ったら、「牛天神 北野神社」に到着。1184年(元暦元年)に源頼朝が創建したという。この界隈にあまり来ないので、今日は3回目の参拝だ。 源頼朝は当地にあった岩にに腰掛けて休息した時、夢に牛に乗った菅原道真公が現れ、「二つの幸がある。満足が得られたら社を営んで報いよ」と告げられた。その後、1182年(寿永元年)に嫡男の頼家を授かり、1183年(寿永2年)に後白河法皇から宣旨を賜わって東国の支配権が認められたという二つの幸を得た。1184年、頼朝は太宰府天満宮を勧請し、この岩を奉り牛天神を創立。 このため、境内にある牛の形をした岩を撫でると願いが叶うという。 牛天神は公式ツイッターで限定の御朱印情報を発信している。牛天神は月ごとで限定の御朱印、祭りを行う日や行事の日などで限定の御朱印を授与しているため、神社巡りの方々の間にかなり人気がある。ところで、牛天神は、御朱印と御朱印帳の転売を防止するための対策も今までわしが参拝したことのある神社の中で最も厳しいほうだ。まず御朱印は手書きのみ。また、御朱印帳を授与したい場合、スタッフの監視で御朱印帳に名前を記入しなくてはならないのである。
2023.05.01
コメント(0)
櫻木天神を出た後に、後楽園方向へゴー。20分ぐらい歩いたら、小石川大神宮に到着。初めてここへ参拝するのだ。 丸勝佐佐木土木株式会社の創業者であり、神宮崇敬者総代となった佐佐木勝造の提唱によって創建された神社である。伊勢神宮より海外公民団の申請でのみ授与される皇大神宮特別神璽を異例で授与されたため、東京における伊勢神宮の遥宮(とうのみや)として位置づけられている。公式インスタグラムで限定御朱印の情報も発信している。
2023.05.01
コメント(0)
「銀座 らーめん 一郎 神田分店」から出た後に、本郷の職場へ仕事する。 その前に、職場の近所にある櫻木天神へ参拝。 櫻木天神は、文明年間に太田道灌が江戸築城の際に北野天神をに勧請したものである。江戸幕府になって二代将軍徳川秀忠の時代に湯島の台坂上なる旧桜の馬場の地に遷座され、櫻木神社と名付けられた。五代将軍徳川綱吉が同所に湯島聖堂を中心とする昌平坂学問所を設立するにあたり、1691年に現在地に遷座したという。
2023.05.01
コメント(0)
西武池袋本店から出た時、勤務時間までかなり余裕があるので、西池袋界隈で散歩しよう。 住宅街で少し歩いたら、池袋御嶽神社に到着。 創建年代不明であるが、天正年間の可能性が高いらしい。また、武田勝頼の家臣団が甲州征伐の後に甲州から池袋の地に逃れ、ここに神社を造営したという伝承も残っている。貞享四年(1687)に社殿創建とは確実らしい。元々社名は三嶽神社だったが、昭和13年(1938年)に村社に昇格した際に、御嶽神社へ改められた。 倭建命、神武天皇、武甕槌命を祀り、池袋西口界隈の鎮守である。主祭神の倭建命/日本武尊(やまとたけるのみこと)、ヤマトタケルは神話で倭姫命(やまとひめのみこと)から三種の神器の一つである天叢雲剣/草薙剣(くさなぎのつるぎ)を与えられ、威霊によって駿河の野火の災難を逃れたため、から災難除・厄除・防火にご神徳があると伝えられている。 北池袋に鎮座する神社と同じ名前の子育稲荷神社は、子育て・子授け・安産に崇敬を集めたという。 平成14年(2002)に境内で設置された梟親子像。池袋の袋と鳥の梟の発音が良く似ている。また梟は苦労を除き福を呼込む(不苦労・福籠)神様とも言われるため、近年梟のお守りも授与している。
2023.04.17
コメント(0)
北野神社から出た後に、京急蒲田駅を経由し、反対方向へ。 少し歩いたら、蒲田八幡神社に到着。 御祭神は誉田別命(応神天皇)である。登記上の宗教法人名称は八幡神社であり、もともとの名前は新宿八幡神社であった。創設の年は不詳である。蒲田村より新宿分村に当たり、鎮守の神として、薭田神社から行基作の神体三座のうち、春日の像一体を分霊した。新宿分村は慶長の頃か平安末期か鎌倉初期か決定的な史料がない。神社のお由緒によれば、諸般の事情を推論して、慶長五年を新宿分村、当社御鎮座とさだめ、平成十二年に御鎮座四百年祭を執行したという。やはり戦災により社殿は焼失されたが、再建され、戦後復興していく蒲田の中心になった。このため、ため、昭和24年8月、新宿八幡神社を改め「蒲田八幡神社」と改めた。 蒲田界隈で最も大きい神社だし、蒲田が外国人観光客が乗り換えのためによく来る待ちでもあるので、今日神社へ参拝しに来た外国人も結構いた。 通常のご朱印は書き入れと書置きで授与するが、桜の季節に限定のご朱印も書置きで授与する。今日参拝した御園神社、女塚神社、椿神社、薭田神社、北野神社を兼務するため、兼務社の書置きのご朱印も授与する。
2023.04.06
コメント(0)
大木戸から出た後に、京急蒲田駅界隈へゴー。 天神橋から吞川を渡ったら、北野神社に到着。 神社のフルネームは、蒲田井府北野神社という。寛文元年(1661年)に杉原重右衛門の邸宅に諏訪神社が奉斎された。呑川の洪水によって、池上の麓の天神山の森から、矢口村に祀られる天神様の御神体は度々流され、再三にわたり北蒲田新宿南の杉原重右衛門宅前に留まった。その都度天神森に返したが、七度目にいたり、嘉永2年(1849年)矢口村と交渉して、杉原家地内の諏訪神社の傍らに社を建てて安置した。明治時代になって、諏訪神社と合祀して北野神社と総称することになった。境内は杉原家より奉納された。昔は呑川の北側にあったが、改修工事によって南側へ移された。 自分の業界における台湾の人々に神様と呼ばれ、自分の利益を最大化するために他人の命を平気に落としてもいいとしている奴に心身をやられているし、おそらく将来の道も塞がれた。業界全体でも、この「偽神様」をかばおうとしている。そのため、学問の神様である天神様のご加護があれば少なくとも命だけ守ってもらえるかと思い、できる限り天神様へ参拝したくて参った次第だ。
2023.04.06
コメント(0)
椿神社から出た後に、逆方向で大道へゴー。 すぐ薭田神社に到着。椿神社へ向かっている途中にすでに神社の場所が確認できた。 創設は和銅2年(709年)か貞観6年(864年)かあいまいである。御祭神は誉田別命、天照大神、武内宿禰命、荒木田襲津彦命、春日大神である。社名はもともと「蒲田神社」であったが、誤写しで「薭田神社」になったと言われる。しかも読み方は「ヒエタ」か、「ヒエダ」かわからないようである。いずれにせよ、境内がかなり広い神社である。
2023.04.06
コメント(0)
女塚神社から出た後に、京急電鉄の梅屋敷駅界隈へゴー。 住宅街へ進み、京急電鉄の線路へさらに近付いたら、椿神社の鳥居が見えた。 創祀は不祥であるが、百日咳の治癒に御神験あらたかなりとして、古くより土地の人の信仰の厚い神社である。御祭神は猿田彦命である。猿田彦命は道案内の神であり、道陸神、道祖神として村の境を守る関の神であるが、咳の神と信仰されるようになったと思われる。椿神社には、風邪をひき咳が出る時、額堂に掛かっている麻を戴き首に巻き、治ると麻を二倍にして額堂に納めて感謝し、線香も供えるという神仏混淆の特異な習俗が現在まで残っているという。
2023.04.06
コメント(0)
「しなそば 天味」から出た後に、そのまま近くにある女塚神社へ。 創建年代は不明である。昔蒲田駅の近くにあり、「八幡社」と呼ばれていたが、1888年(明治21年)に鉄道建設により、古墳「女塚」がある現在地に移転し、「女塚神社」へ改称された。 鎌倉の足利方が新田義興の暗殺を謀って、義興の臣下であった竹沢左京亮を義興側に送った。少将局という女性は義興公に文を届けて、夢見が悪いから七日間は外出しないようにと招待に応じないよう伝えたが、竹沢に殺され、亡骸がそのまま捨て置きされた。里人がこれを憐れんで祀ったのが女塚であるという。
2023.04.06
コメント(0)
恒例の出迎えで蒲田を降りたが、武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大でできなくなっていたため、このような流れも結構久しぶりだ。 せっかくだから昼間の蒲田界隈で散歩しよう。まず西口界隈にある御園神社へ。 創建年代は不祥であるが、多摩川の洪水によって流れ着いた猿田彦命を祀って、村民の信仰厚き崇敬神社であったという。境内がしゃもじの形に似ていることから「おしゃもじ様」とも呼ばれる。明治20年までは御園村・女塚村の総鎮守として八幡社が現在の蒲田駅東口の付近に鎮座していたが、東海道線敷設のため女塚村と御園村はそれぞれ鎮守をここへ移転することになった。明治21年境内を広め、御園神社と改称された。戦後いち早く復興しました。昭和35年には現社殿が竣工された。
2023.04.06
コメント(0)
びぜん亭から出た後に、東京大神宮へ参拝。 飯田橋界隈の職場の初勤務日なら東京大神宮へ参拝し、その後にびぜん亭へおやっさんのラーメンを食うという段取りはもうできない。 東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に有楽町の大隈重信邸跡に創建され、「日比谷大神宮」もしくは「日比谷皇大神宮」と称された。関東大震災後の昭和3年に現地に移ってから「飯田橋大神宮」と呼ばれたが、戦後になって「東京大神宮」と改めたという。また、宮中三殿で行われた明治天皇皇太子(のちの大正天皇)の結婚式を記念に、現在に伝わる神前結婚式を創始した。縁結びのパワーポイントとしても知られる。 境内の飯富稲荷神社は九代目市川団十郎が篤い信仰を寄せていたことから芸能にゆかりの深い神社として知られる。
2023.03.28
コメント(0)
いつも週の初出勤の時に湯島天神へ参拝するが、今日湯島天神を出た後に、隣の心城院へ。 江戸三十三観音第七番札所である。もともと湯島天神の別当寺であった天台宗喜見院の「宝珠弁財天堂」と称されていた。元禄7(1694)年、喜見院第三世・宥海大僧都が、道真公とご縁の深い歓喜天(聖天さま)を弁財天堂に奉安して開基したという。歓喜天のご尊像は比叡山から勧請した慈覚大師円仁作と伝えられている。明治維新時の神仏分離(廃仏毀釈)政策により、「喜見院」は廃寺、湯島神社との関係も断ち切られたが、「宝珠弁財天堂」から「心城院」へ改称された。
2023.03.27
コメント(0)
仕事に入る前に近くにある三河稲荷神社へ参拝。 今の愛知県豊田市にある隣松寺の稲荷社は安産祈願の由緒のある社であり、松平広忠が祈願したことで嫡男の竹千代、即ち徳川家康が生まれたという。三河一揆の時、麟松寺に陣を構えた徳川家康は稲荷社に戦勝祈願をし、勝利した。天正18年(1590年)に家康が戦勝祈願が叶う自身の御守りとして江戸入府の際に稲荷社は吹上に奉遷された。さらに慶長11年(1606年)大縄地氏神としてのちの本郷元町に地に奉遷された。1893年(明治26年)3月本郷給水所設置により、現在地に遷座された。 なお、隣松寺は、鴛鴨松平家の菩提寺であり、鴛鴨松平家の墓、家康の四男・松平忠吉の墓、鎌倉時代の御家人で、室町時代における三管領である細川京兆家のご先祖に当たる細川義季、細川俊氏、細川公頼の墓、三河一揆の時主家の松平家を離反したが敗れた内藤清長、即ち家康の近臣かつ異母弟とされる内藤信成の養父の墓、家康の四天王と呼ばれた榊原康政の祖父・清長、父長政の墓がある。
2023.03.16
コメント(0)
秋葉神社から出た後に、そのまま神楽坂界隈に戻って飯田橋界隈へゴー 途中に善国寺へ参拝。新宿山ノ手七福神めぐりの時にもここへ参拝したことがある。そのため、当時に撮影した写真を使わせてもらった。 オフィシャルサイトによると、「安土桃山時代の文禄4年(1595年)、池上本門寺第12代貫主である日惺上人により創建された、日蓮宗の寺院です。 本尊の毘沙門天は江戸時代より『神楽坂の毘沙門さま』として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれました。 現在は新宿山ノ手七福神の一つに数えられております」ということである。 飯田橋から新宿山ノ手七福神巡りを始めるなら、ここは起点となる。毘沙門天像、石虎という本堂の左右には神社の狛犬のような狛虎像は新宿区の指定文化財でもある。
2023.03.14
コメント(0)
築土神社を出た後に、そのまま神楽坂方面へ散歩。歴史が好きなので、たまにこのように古い町で散歩したいが、仕事のためになかなかできない。しかし、かつて自分の業界における台湾の人々に神様と呼ばれ、自分の利益を最大化するために他人の命を平気に落としてもいいとしている奴に心をやられ始めた時、引きこもりの時間が多かったので、体調が崩れてしまった。回復してから少し散歩を心掛けている。 秋葉神社を見つけた。ここは近くにある赤城神社の兼務社でもある。ご朱印なら赤城神社へいただける。 この地蔵は正雪地蔵尊と呼ばれる。由比正雪は江戸時代前期の日本の軍学者で、慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者である。正雪は、三代将軍徳川家光の死を利用し、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義らと共謀し、幕府の転覆を謀ろうとしたが失敗した。由比正雪の屋敷はかつてこの界隈にあった。このお地蔵様がかなり時が経ってから掘り出されたが、 正雪との関係についてわからないものの、キリシタン灯籠として知られるため、正雪地蔵尊と呼ばれるらしい。
2023.03.14
コメント(0)
会食の後に九段下から神楽坂まで散歩しよう。 はじめて築土神社へ参拝しに来た。何回ここを通りかかったことがあるのに、まさか神社の入口がここにあるとは思わなかった。 現在は天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を主祭神とし、平将門、菅原道真を配祀するが、創建時の祭神は平将門であった。平将門は関東にて戦場を縦横無尽に駆け巡り、多くの勝利を収めたため、関東の英雄、武道の神様として祀られている。ここの勝守も有名だという。
2023.03.14
コメント(0)
放送ライブラリーから出た後に、歩行で横浜駅界隈へゴー。 吉村家は3月10日をもって今の店舗での営業を終了し、近所へ移転する予定だ。今日も長い行列ができているね。10歳若いなら参戦したが、今の年齢じゃ20000歩を越えているとはいえ5杯目が無理だ。
2023.03.10
コメント(0)
本牧家から出た後に、横浜地下鉄で関内へ戻った。駅から15分ぐらい歩いたら横浜情報文化センターに到着。そのままエレベーターで8階の放送ライブラリーへ。さらに進んでエスカレーターから9階へ。 今日のもう一つの狙いは「テレビ放送開始70年企画 特撮テレビヒーローシリーズ上映展示会 ヒーローたちの系譜 GENEALOGY of HEROES~「仮面ライダー」「スーパー戦隊」「メタルヒーロー」編~」という展示会だ。 入口の辺にアカレンジャー、仮面ライダー1号、宇宙刑事ギャバンがお出迎えしてくれる。レーザーブレードが使えれば、自分の業界における台湾の人々に神様と呼ばれ、自分の利益を最大化するために他人の命を平気に落としてもいいとしている奴のような悪者を切り捨てたいと思うぐらいだが、よろしく勇気、と自分に言い、戦い続けるしかない。 なお、放送ライブラリーでは撮影禁止だが、この展示会ならビデオの上映コーナー以外の場所は撮影できる。
2023.03.10
コメント(0)
くじら軒から出た後に、歩いてセンター北駅へ。快速で新羽駅を降りた。 駅から10分ぐらい歩いたら、西方寺に到着。横浜七福神の恵比寿大神が鎮座しているお寺。参道の桜は綺麗で、花見の方も多い。ここは実際に四季の花がいずれも有名なお寺だ。 恵比寿大神は年末の時のも御開帳で普段なら参拝できないが、山門をはじめ横浜市の指定文化財が多い。 駐車場の近くに日露戦争を記念する石碑が立たれている。署名は希典ということで、あの乃木希典陸軍大将ということだ。
2023.03.10
コメント(0)
らぁ麺すみれ堂から出た後に、また横浜地下鉄グリーンラインで日吉に戻り、東急東横線に乗り換え、反町を降りた。坂道に登って、京急神奈川駅方面へゴー。いったん高台から降り、大道からさらに坂道に登ったら、「曹洞宗 青木山本覚寺」に到着。青木山は山号である。 関東地方では昔から家康が江戸へ移るまで小さい城と領主が多かった。当然城を築くなら山、高台がよかった。神社、寺は、もともと砦の機能もあった。ここも青木城だった。寺は戦乱で荒廃されたがのち再興された。幕末の横浜開港で、ここはアメリカ領事館となった。そのため、山門の前にアメリカ領事館史跡の石碑が立たれた。薩摩藩士が無礼を働いたイギリス人を殺傷した「生麦事件」では、負傷したイギリス人が本覚寺へ逃げ込んだということである。 山門の前にも岩瀬忠震の顕彰碑が立たれる。孝明天皇の勅許を得ずに米国と日米修好通商条約を締結したため、交渉を担当した井上清直と岩瀬忠震は責任者として左遷された。井上がすぐ南町奉行となり幕政に返り咲き、幕末まで活躍していたのに対し岩瀬は40代という若さでまもなく亡くなった。のち岩瀬の功績が認められ、ここに顕彰碑が立たれた。
2023.03.10
コメント(0)
「麺屋 綴」を出た後に、そのまま東金町界隈へゴー。 15分ぐらい歩いたら、葛西神社に到着。 元暦二年(1184~85)、領主葛西清重の篤信により香取神宮の分霊を祀る神社である。そのため、明治維新の時に、亀有の香取神社と同じ、香取神社という名前だった。境内にも、勝海舟の直筆による香取神社の名前か書かれた石碑がある。また、鍾馗石像は葛飾区指定有形民俗文化財である。 徳川家康が香取宮と呼ばれたここに古くから伝わる操り人形芝居の神事を見た後に御朱印十石を与えた。のちここも家康を御祭神として祀る。そのため、徳川家康ゆかりの地として知られている。 入口の辺には林銑十郎の揮毫による神社名の石碑が立たれる。林銑十郎陸軍大将は齋藤実、岡田啓介内閣で陸軍大臣を務めた。参謀総長の閑院宮載仁親王に嫌われた皇道派の領袖である真崎甚三郎陸軍大将が林の陸軍大臣の着任で教育総監に転じられた。林はのちさらに真崎の更迭を行った。この二つの人事は軍務局長永田鉄山少将が斬殺された相沢事件、二・二六事件につながった。林は1937年2月に内閣総理大臣に就任したが、4ヶ月で内閣は倒壊した。林の後任である近衛文麿は盧溝橋事件の後に蔣介石と話し合いたいのに杉山元陸軍大臣をはじめとした陸軍の強硬派を抑えることができなかった。結局衝突が拡大し、日中の全面戦争へ発展してしまった。短命の林内閣は「何もせんじゅうろう内閣」とまで皮肉られたが、林銑十郎をめぐる人事が実に当時の日本の行方に大きく影響を及ぼしたと言えよう。
2023.03.09
コメント(0)
2023年の最初の13日の金曜日に悪霊とか、妖怪とか、悪魔とか、ペテン師とかと会いたくないのではないか。そのため、前からこの日に一日で東京十社めぐりを実現したいと計画した。問題は、駅からの距離、および社務所の受付時間。すべての神社は駅近ではないし、社務所の受付時間も必ず朝9時から5時までとは限らない。また、品川神社、王子神社、富岡八幡宮、亀戸天神社は都心から離れる。 東葛住民なので、自然に根津神社をスタート地点とした。ところで、根津神社の社務所の受付時間は朝9時半からだ。事前に確認しなかったため、参拝した後に社務所の受付時間を待つために少々文化財の多い境内で散歩してきた。 根津神社から歩行15分ほどの場所にある白山神社へ参拝。 そのまま南北線で王子へ移動し、駅近の王子神社へ参拝。 後楽園で丸ノ内線に乗り換え、御茶ノ水を降り、歩行で神田明神へ参拝。神田明神はもともと参拝者が多い神社でかつ境内が広い。境内を一週で回ったら30分以上かかった。 四ツ谷でブランチを摂ってから電車で赤坂見附へ。駅から歩行で日枝神社へ参拝。神田明神の次を都心から離れる品川神社にしようと考えていたが、日枝神社の社務所は受付時間が16時までだということで、神田明神の後に日枝神社へ参拝することを決めた。日枝神社は参拝者も多いが、縁起物をいただく行列が長いかつ対応の窓口が限られる。むしろご朱印を待つ時間が短かった。 日枝神社から歩行で赤坂氷川神社へ参拝。15分ほどしかかからないが、坂道かつ再開発のため、道がわかりにくい。 歩行で六本木へ都営大江戸線で大門を降り、そのまま山手線、京急線で新馬場を降り、駅のすぐにある品川神社へ参拝。 同じルートで大門に戻り、芝大神宮へ参拝。 都営大江戸線で門前仲町駅へ移動し、富岡八幡宮へ参拝。富岡八幡宮へ歩行するなら東西線の門前仲町駅から5分ほどかかるが、都営大江戸線から10分ぐらいかかる。 最後に都営大江戸線で清澄白河へ、半蔵門線に乗り換え、錦糸町を降り、歩行で亀戸天神社へ参拝。無事に午後4時55分に宮司から御朱印帳をいただいた。 ご朱印だけではなく記念絵馬も無事に集めた。 無茶な参拝と思われるが、根津神社、白山神社、王子神社、日枝神社、芝大神宮だけ参拝したことがなかった。そのため、ほかの神社で境内の歴史見物をせずに参拝してからお朱印、縁起物をいただいてからすぐ次の目的地へ移動することができたのだ。ゆっくりで参拝し、歴史見物をしたいなら、二日間でめぐりしたほうがよいと思う。
2023.01.13
コメント(0)
オフィシャルサイトの情報によると、新宿山ノ手七福神めぐりは、昭和初期に創設されたという。どこの寺社から出発してもよいが、ほかの寺社が靖国通り、大久保通りという順路にあるのに対し、太宗寺だけはこのルートから離れた旧甲州街道に近い場所にある。そのため、新宿駅界隈から出発するなら、新宿御苑前の太宗寺あるいは東新宿に近い稲荷鬼王神社、飯田橋界隈から出発するなら善國寺をスタート地点とすることになる。これから出勤のため、自宅から乗り換えが便利な新宿御苑前を降り、太宗寺から職場に近い飯田橋駅に近い善國寺へ目指して出発した。 太宗寺の布袋尊さま。 稲荷鬼王神社の恵比寿さま。 永福寺の福禄寿さま。 厳嶋神社の弁財天様。厳嶋神社の社務所は年末年始以外の時期でしまっている。弁財天様のご朱印とご神体は、次のポイントである法善寺に近い西向天神の社務所が対応してくれる。 法善寺の寿老人さま。法善寺へ参拝してから西向天神へ行った方が順路である。 経王寺の大黒天さま。 善國寺の毘沙門天さま。 千住七福神めぐりと違って、山ノ手七福神めぐりにおけるすべての寺社は本堂での撮影が禁止される、あるいはご神体を直接に見ることおよび撮影することができない。無事にご朱印とご神体をいただいた。色紙を見れば、どこから新宿山ノ手七福神めぐりを始めたかすぐわかる。
2023.01.11
コメント(0)
かれんを出た後に散歩。東葛界隈に20年ほどに住んでいるのに千住七福神めぐりを知らなかった。土曜日の今日は最終日ということで歩いてみよう。 仲町氷川神社の弁財天さま。 河原町稲荷神社の福禄寿さま。 八幡神社の毘沙門天さま。 千住神社の恵比寿さま。 元宿神社の寿老人さま。 大川町氷川神社の布袋尊さま。 千住本氷川神社の大黒天さま。 無事にご朱印をすべていただいたが、恵比寿様のご神体がいただけない。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で原材料の輸入が難しくなり、十分な数のご神体を揃えることができないってこと。心残りだが、仕方ないかな。
2023.01.07
コメント(0)
東京都墨田区は2013に区内の16ヶ所に、「鬼平犯科帳」とのゆかりを紹介する高札「鬼平情景」を整備した。その後に2ヵ所は追加した。二代目中村吉右衛門が演じた「鬼平犯科帳」のファンとしてこれらのスポットに行きたかったが、なかなか時間が作れなかった。自分の業界における台湾の人々に神様と呼ばれ、自分の利益を最大化するために他人の命を平気に落としてもいいとしている奴のおかげでたぶんこれから一生非正規雇用に強いられるので、これから休みが取れる時にだけ有効に自分の趣味を利用したい。そのため、2022年12月26日という日を利用しよう。わしは10時55分に曳舟駅から歩行で出発し、途中にいろんな寄り道もしたが、17時05分頃に全18ヵ所を制覇した。 浅草から出発する方が多いようだが、実際に曳舟から出発したほうが回り道をせずにゆっくり隅田川に沿って浅草、両国界隈へ見物できる。最初の高札はみめぐりの土手であるが、二つ目の高札のある三囲神社はすぐ近くにある。三囲神社は、鬼平犯科帳だけではなく、剣客商売でもよく出ているスポットである。 常泉寺の高札を飾った建物は修理中ってこと。 吾妻橋の高札は、グーグルマップに表示された場所よりさらに大道の交差点に近い。 如意輪寺は住宅区にあるので、やや探しにくい。 業平橋の高札は大横川親水公園の最も北側の辺を降りないと見つけられない。 実は先日に時代劇専門チャンネルがガッツ石松がゲスト出演した二代目中村吉右衛門版の「鬼平犯科帳」第1シリーズ第8話の「明神の次郎吉」を見たばかりである。 春慶寺の正門のすぐ近くに二代目中村吉右衛門版の「鬼平犯科帳」第1、2シリーズで岸井左馬之助を演じた江守徹の揮毫による石碑が建てられる。 グーグルマップに場所を載せていないが、業平橋と春慶寺の間にあるせんべい屋「みりん堂」の隣にある。 法恩寺は江戸城を築城した太田道灌をはじめとした大田氏を供養する太田氏七代供養塔という文化財がある。 相模の彦十も、鬼平犯科帳で欠かさないキャラクターである。二代目中村吉右衛門版の鬼平犯科帳では、三代目江戸家猫八が連ドラシリーズで演じたが、三代目江戸家猫八がお亡くなった後にスペシャル版で名優の長門裕之が演じた。長門裕之がお亡くなった後に代役無しということである。 グーグルマップに表記された場所がローソンH墨田千歳三丁目店の裏道になるが、実際に森下駅方向への大道にある。 大滝の五郎蔵というキャラクターの位置づけからみれば、ここはかなり大事なスポットとなる。しかし、五鉄の高札のすぐ近くにあるが、場所がかなり探しにくい。ここで2020年12月30日にお亡くなり、二代目中村吉右衛門版の鬼平犯科帳で大滝の五郎蔵を好演してくださった綿引勝彦のご冥福をお祈りいたしまする。 最後の高札も住宅街に隠れている。もうかなり両国の隅田川側に近い。 もちろん、一日中にわしの頭の中で流れているメロディーは、ジプシー・キングスの『インスピレイション』しかない。
2022.12.26
コメント(0)
「川崎家 榎町店」から出た後に第一京浜を渡り、稲毛神社に来た。 稲毛神社は旧称が山王権現で、創建の年代もわからず、1000年以上とされる。第十二代景行天皇、第二十九代欽明天皇も稲毛神社に関連したという。 社殿の造営は、佐々木高綱が源頼朝の命で当たったのである。有栖川宮熾仁親王が東征大総督としてここで休んだ時の言葉で、社名はのち「川崎大神稲毛神社」と変更され、明治中頃に「稲毛神社」の名が定着したという。主祭神の武甕槌神 (たけみかつちのかみ)は武勇の神で、雷神、剣の神とされる。 武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大だけではなく、自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれ、自分の利益を最大化するために他人の命を平気に落としてもいいとしている奴の悪行三昧と戦える勇気と力がほしい思いで、武勇の神である武甕槌神へ祈願いたした。
2022.11.05
コメント(0)
別れは辛いがまた会えるから大丈夫だ、と思ったら、やはり武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大の影響でいろんな不安がある。 羽田空港から京急蒲田で横浜への電車に乗り換え、六郷土手を降りた。なんとか六郷橋への道を見つけ、止め天神に到着。 六郷土手にある北野天神は落馬止め天神とも言われる。この界隈は東海道に近く、もともと柳生家の敷地だった。ここに鎮座した天神は江戸幕府八代将軍松平健、いいえ、徳川吉宗の乗馬が暴走した際に落馬を止めたため、東海道を往来する武士から「落馬止め天神」と称される。本来の社殿は1945年4月15日の空襲により焼失されたが、1983年に再興。 天満宮は学問を祈願する者の参拝を受けるが、ここでは災いや痛みを止め、「落ちない」という祈願も受けている。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大だけではなく、自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれ、自分の利益を最大化するために他人の命を平気に落としてもいいとしている奴の悪行三昧を止めたいという思いで祈願いたした。
2022.11.05
コメント(0)
麺屋ぬかじから出た後に、そのまま渋谷駅界隈へ歩行し、西武渋谷店A館に入った。 今日の狙いは、サンライズ制作の勇者シリーズの原画や企画書など展示した「超勇者展2」。伝説の勇者ダ・ガーンのファンなので、ダ・ガーンが展示された前半期の展示を見に来たのだ。台湾でダ・ガーンを見た時、子供向けのアニメを見る年ではないが、日本語の勉強を始めたばかりの時期で、主題歌「風の未来へ」の歌詞に感動されたのだ。主役の高杉星史を演じた声優で、のちポケモンのサトシを演じたことで一気に人気を得た松本梨香も二番目のアニソンカバーアルバム「まんまる~ありがとう」に「風の未来へ」を収録した。ダ・ガーンは松本梨香が主役を演した二つ目の作品でもある。 ところで、展示場に入った途端、「風の未来へ」のメロディが流れ始めた。やはり縁かな。
2022.01.31
コメント(0)
今日は平日で月曜日だが中華圏の旧大晦日でもある。夜に家族と連絡する予定なので早めに帰宅するつもりだが、通勤時間帯での電車に乗りたくないので、休みをいただいた。渋谷を目指しているが、南北線で四ツ谷を降り、15分ぐらい歩いたら住宅街にある戒行寺に到着。 戒行寺は池波正太郎の小説で鬼平として知られる長谷川平蔵宣以の菩提寺である。かつてここに長谷川平蔵の墓地もあった。しかし、戒行寺の墓所が杉並区堀の内の共同墓地に移された時、平蔵の墓は行方不明になってしまった。その代わり、のち戒行寺の境内に長谷川平蔵の供養碑が作られた。 戒行寺は、住宅街だが歴史のある寺も結構ある界隈にある。境内に入ると、頭の中に自然にGipsy Kingsの「Inspiration」のメロディが浮かんできた。また、心の中でやはり平蔵あるいは吉右衛門が「火付盗賊改方、長谷川平蔵である! 歯向かうものは切り捨て!」と叫びながらが、自分の業界におけるハラスメントを繰り返している悪人たちを斬ってくれたらいいなと妄想し始めたのだ。しかし、吉右衛門もあの世に逝ってしまったことを考えれば悲しくなった。
2022.01.31
コメント(0)
多賀野から第二京浜に戻って、第二京浜を経由し、馬込、池上、そして蒲田。1時間15分かかった。 途中でインディアンを経由してしまったら、カレーの匂いに引っかかってしまったが…
2009.10.09
コメント(0)
方南町界隈はわしにとって、記念すべきなところだ。方南町はほぼ永福町、明治大和泉キャンパス、専修大中学校の間にある。わしが日本に来た時の日本語学校の寮はここにあるということだ。てつやから出てから、新宿へ目指すつもりだったが、急にここへ来たくなった。 環七で高円寺から方南町への途中に、「宗延寺」というお寺がある。小さいが、小さくない観音像がある。ここには「稲葉正休」の墓石があるそうだ。徳川幕府の五代将軍綱吉の時、稲葉正休は大老堀田正俊を刺殺した。稲葉自らもその場で殺された。その暗殺の理由は今でも不明だということだ。堀田正俊は綱吉を五代将軍に就かせる一大功臣だった。しかも稲葉正休は堀田の従兄弟だったということだ。堀田を暗殺した刀(初代の「虎徹」(こてつ))が寺宝として保存されている。虎徹といえば、新選組局長近藤勇の愛刀だということだ。 宗延寺から出てから環七に沿って行けば、方南町についた。もちろん昔の寮へ写真を撮った。近くには、わしのラーメンへの情熱を引き出せた「地雷源」がある。わしが寮の入ったばかりの時開店したが、今や東京だけではなく、日本全国でも有名なラーメン屋となった。かつて週二回ぐらい通っていた。 駅の近くには中央通りがある。通りとはいえ商店街と言ったほうがよいだ。中で、500円だけで六つの大きい鮪のにぎり弁当が買えるすし屋がある。入り口の近くのある店で買ったフライパンは今も使われている。 方南町界隈の風景はあまり変わっていないようだ。懐かしいね。またチャンスがあれば、地雷源とか、永福町とかの店へ行こうと思うが、時間があるかな。カッカッカッカッ!
2006.11.12
コメント(0)
ちょっと気まぐれだから、日暮里から北千住駅まで歩いていくことにした。実はこれは2回目だ。この前、松坂屋の催事に行った時の帰り道は上野から北千住へ歩いて行ったのだ。その時かなり無謀だった。本来直ちに帰るつもりだったのでいつも持っている地図を持っていないまま出かけたが、急に歩きたくなって、日光街道に沿って北千住駅へ参った。しかし、地図も持っていないし、はじめての道でもあるため、北千住駅に着く前に完全に道に迷ったと言える。 知っていた道だし、今回も地図を持ってあるから、楽なウォーキングができた。千住といえば水戸から江戸への道の宿と知られた千住宿だ。また、奥の細道の起点と知られた。松尾芭蕉が元禄2年3月、門人曾良(そら)と江戸深川を出発、奥州・北陸の名所・旧跡を巡り、9月に大垣に至るまでの紀行を、奥の細道を書いた。松尾芭蕉は千住宿から日光へ出発したということだ。 しかし、上野から北千住までわずか1時間しかかからないというのは、わしの力かもしれぬ。次が北千住から赤羽へ行けば、東京ほぼ四分の三周を歩いたということになる。しかし、やはり年を取ったから、無理しないほうがよいね。
2006.11.04
コメント(0)
上野の松坂屋で行われた「第38回 大北海道物産展」へ見物するため、西日暮里から不忍通に沿ってウォーキングしに行った。根津を通ったら、あいそめ大通りで祭りが行われていることがわかった。ついでに見物しようと思ったので、見に行った。 祭りの名前は「下町祭り」だ。和太鼓は定番の行事だそうだ。さすが東京随一の大きい神社である根津神社エリアだと思う。この和太鼓を叩くグループは実にこのあいそめ町の人ではなく、同じ根津エリアの近くの住民だそうだ。 そして今年の下町祭りの行事の一つは、11月3日から5日までお台場で行われる「夜さ来い祭り」への一つの出場チームを招いて、踊ってもらうのだ。そのチームの名前は朝霞真誠塾だ。朝霞というのは埼玉県朝霞市のことだ。真誠塾は「新選組」と同じ発音ということだ。チームのメンバーの服で「誠」の字が書いてあるからわかった。かなり活気があって、賑やかな踊りだと思う。 実はこのあいそめ町の本来の名前は「元屋敷」ということだ。なぜなら六代将軍徳川家宣が将軍に就く前に、つまり甲府宰相時代の屋敷は根津のあいそめ町にあるということなので、、あいそめ町は元屋敷と呼ばれたからだ。 その家宣の将軍継承をめぐって、徳川幕府には多くの出来事が起こった。まず、甲府宰相綱豊を六代に継承させることに支持した水戸光圀は五代の徳川綱吉の自分の息子を将軍に継承させようとすることによって、隠居まで追い込まれざるを得ない状況となった。 気の毒なのは、綱吉を将軍に就かせたのが光圀だった。もちろん綱吉の子がのち夭折したため、綱吉は綱豊を世継にせざるを得なかった。だが光圀の隠居と綱吉の庶民を苦しめる政策によって、関係があると見なされた出来事が少なくない。一つは、廃藩された赤穂藩の浪人グループがそれに関わった吉良上野介を殺したことは庶民に忠義と認められて、忠臣蔵のストーリーとされた。本来それはただ浪人の集団的な報復行動だけだと言ってもよいことだが、忠義の象徴となった。もう一つの出来事は光圀が死んだ時、民間からある漫談が盛んになったのだ。しかもその漫談は50年代頃の映画をはじめ、60年代末にドラマさえになって、放送されている。それ漫談の名前は水戸黄門漫遊記だ。ドラマの名前はもちろん、水戸黄門だ。 次に、家宣がなくなった時、家宣の父である綱重の生母と綱吉の生母の間の激しい大奥での闘争によって、家宣の妻はのち自分を苦しめた綱吉の婿である尾張大納言の徳川吉通を七代将軍に就かせることに反対していた。そのため間部詮房や新井白石が偽の家宣の遺言書を書き直したことで、幼い家宣の遺子で、4歳の鍋松は七代将軍になったという噂がある。 だが、体が弱いので、家継は8才の時に風邪でなくなった。その上、家宣の妻(月光院)は尾張と紀州の八代将軍への闘争に手を出した。月光院の支持を得ることで、幕閣からの支持が得られるようになって、勝出したのは、あの暴れん坊将軍だ。吉宗の改革がなければ、財政の悪化、幕閣内部の汚職、庶民が高い税金によって苦しまれたことで基盤から上まで崩れてきた徳川幕府は15代まで続くことができなかろう。また、再び将軍継ぎから敗退した尾張の徳川継友(吉通の弟)がそのせいで死んだため、継友の弟である宗春は吉宗への敵視によって、享保の改革に反対して、吉宗の命令を無視し続けた。しかし、奢侈および浪費する政策で、尾張藩の財政が悪化してしまった。そのため、本来幕府との対立への不安が噴けない尾張藩の藩臣はついに幕府と手を繋げて、宗春を隠居させて幽禁した。 米価格の高騰などの行き詰まりによって、享保の改革は成功したとは言えない。さらに、年貢も家宣、家継時代より5割高くなったため、人口の伸びが停滞し、一揆も増えたのも事実だ。しかし、史家は享保の改革への評価があまり高すぎるような気がする。(たぶんある時代劇からの影響なのではないかとわしは思っている) これに対し、宗春の浪費も単なる浪費とは言えない。一時期で、経済的に名古屋は江戸より繁栄したという事実も史家に認められた。また、今の名古屋市の基礎を築いたのは宗春時代だ。 即ちただの一つの出来事はのちの歴史に莫大な影響を与えることができるかもしれない。ドリーム夜さ来い
2006.10.22
コメント(2)
「お魚くわえたドラ猫 追いかけて 裸足でかけてく 陽気なサザエさん」という歌詞を知らない日本人はいないといえるんだろうか。これは日本で大人気のアニメ「サザエさん」の主題歌だ。漫画家として国民栄誉賞が授与されたのは現在のところ、原作者の長谷川町子だけだということだ。趣味で収集した各種美術品コレクションを生かすために私財を投じて「長谷川町子美術館」を開館した。 また、長谷川町子の自宅は桜新町の近くの用賀にあった(今長谷川家も同じ場所にあるという)。サザエさんの連載が再開した時、桜新町をサザエさんの住まいとした。そのため、桜新町はサザエさんの町とも呼ばれる。 ゴールディンウィークの時、六厘舎からどこかへ行こうと思っていた。そこで、サザエさんもずっと見ているため、地図からみれば環七に沿って行けば近い長谷川町子美術館へ行くことにした。実は地図を信じたわしにとって誤算だった。地図からみれば、すぐ環七の近くにある駒澤大学駅と桜新町は近い。しかし実際に歩けば、二つの駅の間にほぼ歩いて40分ぐらいの距離があるということだ。あまり遅く帰りたくないので、いつもよりスピードを出したから、山手線の最も下の駅と言える大崎から桜新町までのウォーキングが結構きついのだ。 美術館には撮影できないが、サザエさんの本の栞がもらえる。中の展示品は定期的に替えられるが、二階のサザエさんの展覧はずっとやっている。また、展示室にはサザエさんのアニメを放送している。 もし、東急田園都市線「桜新町」から美術館へ行けば、さらに「サザエさんの町」ということが実感できるのではないか。町で店の看板と電柱には全部サザエさんの画が書いてある。特に、町の一部の店は実際にサザエさんで描かれたということだ。例えば、サザエさんたちがたまに行くうなぎ屋は、長谷川町子がよく通っていた店だということだ。フジテレビの「もしもツアーズ」に紹介されたことがある。残念ながら見つけられなかったので写真が撮れない。また、三河屋も見つけられなかった。しかし、サザエさんがよく魚を買いに行く「魚徳」を撮る事ができた。 四月末行ったのに、なかなか写真を整理することができない。やっと日記を書いた。また時間があればゆっくり展示を見に行くつもりだ。カッカッカッカッ。長谷川町子美術館
2006.10.01
コメント(0)
亀有といえば「こち亀」なのではないか。「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は日本でかなり有名な漫画だということだ。映像化されたこともある。だから、主人公の両さんは亀有の代表的なキャーラーだ。新たなできた映画館MOVIX亀有はショッピング センターであるARIOと一緒に経営する形になった。その中で、こち亀の施設もある。 入り口ですぐあの「派出所」が見える。派出所のドアの前に立ったのは両さんだ。中で両さんの机もある。それに、漫画と同じように、引き出しにはおもちゃがいっぱいある。 施設の中ではゲームセンターと同じだが、こち亀の中の店も再現してあった。また、両さんは毎週土日と祝日の午後そっちへ「巡査」するそうだ。 今日は祝日ということなので、わしも両さんと一緒に写真を撮った。カッカッカッカッ!
2006.09.18
コメント(0)
あの30秒以上二足で直立することができるシセンレッサーパンダ「風太」はパパになった。この写真は千葉市市立動物園のホームページに載せたのだ。風太二世はかなり可愛いんじゃないか。いつ父と同じように二足で立つかもしれないね。 帰省したら行こうと思うが、行く時間があるかな。それに一人で行くのはつまらない。千葉市市立動物園
2006.09.01
コメント(0)
赤坂にある「日枝神社」は江戸時代の最も重要な神社だそうだ。「明暦の大火」によって社殿が炎上したが、将軍家綱は直ちに赤坂の溜池で新たな社殿を造営・遷祀した。また、三代将軍家光以来、歴代の将軍が参拝して、日枝神社による「山王祭り」は「天下祭り」として、江戸三大祭りの筆頭と言われる。さらに京都の祇園・大阪の天満まつりと共に、日本三大祭りにと言われる。将軍の参拝のため、当直ではなく、北町、南町奉行所は共同に勤務を行うことになっていた。 はじめて「山王祭り」と「日枝神社」を知ったのは村上元三の時代小説「松平長七郎江戸日記」だ。それは里見浩太朗のテレビ時代劇の代表作として知られた「長七郎江戸日記」の原作だ。ファンと交流したら、第一部の雰囲気は原作に近いことがわかった。実はわしも第二部より第一部が好きだ。そのため原作を読み始めた。山王祭りの見物へしに行ったが、「三代将軍家光の治世、家光の甥に当たる一人のやんごとなき人物が将軍の意向に逆らって野に下った。その名は松平長七郎長頼、家光の将軍の座を争って命を落とした駿河大納言忠長卿の忘れ形見である」という人物は怪奇な事件に巻き込まれた。それをきっかけに、原作のストーリーが展開した。 今外堀通りで見られる大きな「山王鳥居」は新たな造ったものみたいだ。「山王鳥居」というのは、大山咋神を祀ったお社に用いられる特徴的な鳥居だということで、、日枝神社や日吉大社などに見ることができるそうだ。本来の鳥居はキャピトル東急ホテル側にあるということだ。外堀通りの鳥居から入ったら、西参道と稲荷参道から社殿へ行くことになった。キャピトル側の山王鳥居からいけば、表参道から行くことになった。 社殿は何回改修されたみたいだが、かなり華やかな感じがしている。境内もかなり広い。これに対し、同じ赤坂にある氷川神社は狭くて、貧しい華やかではない感じがしている。もちろん、これにも歴史の意味がある。 家光、家綱、綱吉時代にわたって、幕府は贅沢な生活を広めていた。確かに最初の目的は幕府の豊かを示そうとした。だが、そのせいで物価が高騰してきたため一般庶民の生活が苦しくなった。しかも大名、幕府も贅沢な生活で財政が崩壊しはじめた。そして、改革者として立ち上がったのは「暴れん坊将軍」吉宗だ。吉宗は倹約政策を推進し、紀州の財政を再建した。だから将軍に就いたら、同じ政策を推進しようとした。家綱時代の建物である「日枝神社」と吉宗時代の「氷川神社」はまさに二つの時代の政策を区別する目印と言えよう。しかも同じ赤坂にあるので、さらに差が感じられるのではないか。日枝神社
2006.08.20
コメント(0)
全158件 (158件中 101-150件目)