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田中そば店から出た後に蔵前通り経由で出勤。 途中に圓満寺へ参拝。宝永7年(1710年)、室町幕府第13代将軍足利義輝の孫と言われる木食義高によって開山された。このため、木食寺とも呼ばれる。明治初期の火災、関東大震災、東京大空襲によってたびたび焼失されるが、そのたびに再建。旧本尊は七観音であったが、今のご本尊は不動明王。真言宗御室派総本山仁和寺の東京事務所でもある。 御府内八十八ヶ所霊場32番札所であるが、武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で9階の御本堂へ参拝が中止となっている。ただし、御朱印の配布が行われている。ただの雑居ビルのように見えるが、アラームを鳴らさずにそのままビルに入り、エレベーターで8階に登れば、御朱印と賽銭箱が見える。
2024.03.13
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土曜日だがやはり出勤。しかしブランチを摂る前にちょっと寄り道。 第18回ねこまつりの会場である猫祭神社に来た 湯島界隈の飲食店や雑貨店、保護猫カフェや本屋さんなど様々なお店が参加して、毎年2月と9月の約1か月に渡って開催している「ねこ」をテーマにした地域活動である。食事と買い物して押してもらったスタンプを揃えば、限定のTシャツももらえる。土曜日のみ「参拝」できる猫祭神社でねこまつりのキャラクターのサブちゃんのグッズもイベント開催中に売る。猫祭神社の御朱印だけではなく、サブちゃんが宮司として現場で捺印する御朱印も配布。近所の妻恋神社もこの活動に協力しており、ねこまつり限定の御朱印を配布。今回のねこまつりは明日までだが、猫祭神社の参拝は今日まで。
2024.03.09
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愛宕神社から再び出世の石段を降りた後に、虎ノ門駅へ歩行し、銀座線で末広町を降りた。 去年の1月以来ぶりの神田明神へ参拝。 正面の随神門。文化財ではなく、昭和50年に昭和天皇即位50年の記念事業として新たに再建されたのである。長崎平和祈念像制作者である北村西望監修、松下幸之助氏奉納という。 正式の名前は神田神社である。天平2年創立。3柱を祭神とする。一ノ宮は大己貴命(オオナムチノミコト)、つまり大黒様、だいこく様)。天平2年(730年)鎮座。二ノ宮は少彦名命(スクナヒコナノミコト)、つまりえびす様。明治7年(1874年)に大洗磯前神社より奉祀。三ノ宮は平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様)。延慶2年(1309年)奉祀、明治7年(1874年)に構内の将門神社に遷座、昭和59年(1984年)に本殿に奉祀復帰。境内の末社もかなり多い。東京大空襲の時に境内に焼夷弾が落ちたのに本殿と拝殿は消失を免れた。 境内にも大黒天の尊像がある。 文化交流会館にえびす様の尊像も設置される。 神田と言えばやはり銭形平次であろう。銭形平次碑は、昭和45年12月、有志の作家と出版社なとか発起人となって明神下を見下ろす場所に建立されたものである。大映の映画「銭形平次捕物控シリーズ」を主演した長谷川一夫、フジテレビ系のドラマ「銭形平次」を主演した二代目大川橋蔵も発起人として名を連ねる。
2024.03.04
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笠間稲荷神社東京別社から出た後に、人形町から日比谷線で虎ノ門ヒルズを降りた。 あちこちで工事が行われているので、道がわからなくなったが、東京タワーを目印で無事に愛宕神社を見つけた。 京都の愛宕神社が総本社の愛宕神社は、1603年(慶長8年)に徳川家康の命によって創建され、東京都区部の天然の山として一番の高い25.7メートルの愛宕山にあるのだ。正面の男坂の階段は「出世の石段」と呼ばれ、86段で、約40度の傾斜である。実際に階段の高さも普通の階段よりやや半分ぐらい高いかと感じられる。ウォーキングで鍛えているのに一気に登ったもののやはりきつい。 ところで、「出世の石段」は、高松藩士の曲垣平九郎が江戸幕府三代将軍徳川家光の命で愛宕山上の梅花を折りに乗馬のまま石段を上下したことで、家光に「日本一の馬術の名人」と称賛され、全国で名を知られたという逸話が由来で、「寛永三馬術」という講談の元ともなったが、曲垣平九郎はのち結構大変な人生を送られたのだ。務めていた生駒家、その後に務めていた越前のお家も潰れたため、結局浪人となり生没年未詳。ネットでは彼が越前の徳川忠長に仕えたという情報もあったが、徳川忠長は生駒騒動の前にすでに死罪で亡くなったし、越前とも無関係であった。また、越前と言えば徳川家康の次男、結城秀康を家祖とする越前松平家、福井松平家だが、松平忠直の追放は二代将軍徳川秀忠時代だったし、不祥事として挙げられる松平光通の自害で福井藩が潰れたわけでもない。いずれにせよ、曲垣平九郎は出世どころか不運と言ってもよかろう。 出世の石段に登ったら石でできた一の鳥居と正殿が見える。 主祭神は火産霊命で火の神である。水の神様である罔象女命(みずはのめのみこと)、山の神様である大山祇命(おおやまづみのみこと)、武徳の神様である日本武尊、将軍地蔵尊・普賢大菩薩が配祀。 境内末社は、猿田彦神を祀る太郎坊神社、宇迦御魂神を祀る福寿稲荷神社、大國主命・事代主命を祀る恵比寿大黒社である。 鯉のいる池や、龍神様の滝が整備中のため、橋を渡って市杵島姫命を祀る弁財天舎へ参拝することができない。 境内にも猫が多いようだ。神社側も、可愛がってくださいという旨の告知を出している。御年で目が悪いらしいこの子に撫でることを許されたのだ。
2024.03.04
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薬研堀不動院から出た後に、電車で移動するために人形町駅へ。 途中に笠間稲荷神社の東京別社へ参拝。主祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)であるが、日本橋七福神の寿老神も祀る。いろんな説があるが、茨城県笠間市にある笠間稲荷神社は日本三大稲荷の一つとされ、白雉(はくち)2年(651年)に創建されたと言われる。江戸時代における歴代笠間藩主は笠間稲荷神社に崇敬が厚かった。徳川吉宗時代で京都所司代を務めた牧野貞通は笠間藩に転封した時、先祖で成貞系牧野家初代である牧野成貞が徳川綱吉から拝領した下屋敷だった土地に本社から分霊を勧請した。関東大震災、東京大空襲によって社殿が二度と焼失されたが、本社の協力で、1978年に今の社殿ができたのだ。末社の「寿老神社」は日本橋七福神の寿老神を祀る。本社も常陸七福神の大黒天を祀るのだ。
2024.03.04
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水天宮から出た後に、東日本橋界隈へ歩行でゴー。 薬研堀不動院へ参拝。ご本尊は不動明王。目黒不動、目白不動とともに江戸三大不動として知られている。不動明王の尊像は、保延3年(1137年)に、真言宗中興の祖・興教大師・覚鑁上人が紀州の根来寺に安置されたものである。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の軍勢から尊像を守るために、根来寺の大印僧都が背負って関東へ、隅田川にたどり着いた。天正19年(1591年に堂宇が建立され、薬研堀不動院のはじまりという。いろんな変遷で、明治25年(1892年)に真言宗智山派大本山川崎大師平間寺の別院となった。 境内の聖徳太子碑は、昭和35年までここの住職であった宮原隆浩が書いたという。 境内の弘法大師像と順天堂発祥之地碑。薬研堀不動院は、順天堂の学祖である佐藤泰然が天保9年(1838年)に和蘭医学塾を開講した地に入っている。順天堂の申し出で不動院の境内に碑が建立されたという。 江戸講釈は、元禄時代で赤松清左衛門が浅草見附辺の町辻で太平記を講じたのが発祥であったという。「太平記場起原之碑」は安政5年(1858年)に建立され、その後不動院の境内に移された。碑は関東大震災の時に消滅されたが、弘法大師1150年御遂忌を記念して、新たに碑が建てられた。不動院のホールでも不定期に講談会が行われる。
2024.03.04
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しののめヌードルを出た後に、錦糸町に戻り、半蔵門線に乗り、次の場所へ移動。 水天宮前を降りた。この界隈を降りたのも、1年半ほどぶりだった。そのまま水天宮へ参拝。福岡県久留米市にある久留米水天宮の分社であり、子授かり、安産祈願で有名。2013年から改築されたが、2016年から今の社殿は開放された。正殿のすぐ近くに屋根があり、ベビーカーを置くための「駐車場」が設置された。まさに赤ちゃんを連れて参拝しに来る夫婦のためのものである。これから出産の家族のために参拝。 主祭神は、天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)である。天御中主神は、『古事記』では冒頭の記述において天地開闢の時に最初に現れた神であるという。水天宮は天御中主神を主祭神としている。二位の尼は、平清盛の継室であり、平氏が滅亡した壇ノ浦の戦いで安徳天皇を抱いて海に投身自害した。安徳天皇は、歴代の天皇の中で最も若くて崩御し、かつ戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇であるという。建礼門院は平清盛の娘で、安徳天皇の母であり、壇ノ浦の戦いで海に投身自害しようとしたが救助された、あるいは二位の尼から、平家一門の菩提を弔うために生きるよう命じられたという。いずれにせよ、罪を問われずに、のち出家して直如覚尼と名乗った。 境内の寳生辨財天(市杵島姫神社)は久留米藩の有馬家下屋敷に祀られていた辨財天を祀る。水天宮の辨財天は日本橋七福神の一つである。なお、ここでの有馬家は、有名なキリシタン大名の有馬晴信と関係なく、摂津有馬氏のことである。今の宮司有馬頼央は、有馬家の第17代当主であるという。 境内社の火風神社、秋葉神社、高尾神社。 子犬を見つめる母犬の像「子宝いぬ」を撫でると子宝のご利益があると言われる。 安産子育河童は、お母さんが赤ちゃんを抱えているカッパということである。
2024.03.04
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萬福寺から出た後に、そのまま柴又街道に戻り、京成柴又線の線路に沿って金町へ。 途中に良観寺へ参拝。 真言宗豊山派の寺院で、弘誓山という山号である。創建年代は不明であるが、江戸時代初期あるいは室町時代後期にすでに念仏堂として建てられ、この地にあると言われる。ご本尊は観音菩薩である。柴又七福神の寶袋尊も祀る。布袋尊ではなく、寶の字を使って寶袋尊という名前を使うのも珍しい。望みを言いながら寶袋尊の腹を3回時計回りで撫でると叶うという。「願掛け寶袋尊」とも言われる。南葛八十八ヶ所霊場52番札所でもあるため、ご本尊と寶袋尊だけではなく、札所の御朱印も対応している。
2024.03.02
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真勝院から出た後に少し新柴又方向へふらふらしてから、帰宅しよう。 途中に萬福寺へ参拝。 曹洞宗の寺院で、聖閣山が山号である。ご本尊は釈迦牟尼佛である。柴又七福神の福禄寿も祀る。昭和に建立されたためかなり新しい寺院である。座禅会、写経会 御詠歌会、ヨーガ教室も行い、積極的に柴又でコミュニティを作ろうとしている。柴又七福神めぐりの寺院の中で、ここも御朱印の対応をしている。
2024.03.02
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オカモトモノガタリから出た後に、そのまま京成金町線に沿って柴又へ散歩。 柴又帝釈天へ参拝してから、すぐ近くにある真勝院へ参拝。 大同元年(806年)に開山したが、詳しい経緯が伝えられていない。ただし、柴又界隈で最も古い寺に違いない。ご本尊は不動明王。柴又七福神の中の弁財天も祀る。七福神めぐりの寺院は、年始以外の時期に人がないあるいは御朱印の対応をしないことも多いが、ここは、御朱印の対応をしている。 境内の五智如来石像は1660年に建てられた文化財である。右から阿閦(阿しゅく)如来・宝生如来・大日如来・阿弥陀如来・不空成就如来という順である。
2024.03.02
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となみを出た後に、松戸駅周辺へ移動。 駅周辺で買い物する予定なので、先に松戸神社へ参拝。 御朱印をいただくことを考えれば、松戸神社の境内に入る前に近くにある末社の松先稲荷神社へ参拝したほうが順路。松先稲荷神社は創建の年代が不明であるが、稲荷様は京都の伏見稲荷大社から勧請したという。今の社殿は昭和57年に再建された。境内に庚申塔と弁財天も祀られる。 坂川という川は、松戸市で桜の花見の名所でもある。 今一番咲いているのは、松戸から撤退した伊勢丹が寄贈した桜だ。 主祭神は、日本武尊。景行天皇40年、日本武尊が武蔵国へ向かう際に、ここに陣営を設けて従将の吉備武彦(きびたけひこ)連と大伴武日(おおとものたけひ)連の方々と待ち合わせをしたという。「待つ郷」(まつさと)=「待土」(まつど)と呼ばれ、「松戸」の地名が生まれたと言われている。水戸街道という水戸から江戸への重要な街道にあり、かつ松戸宿も宿場として機能してきた。このため、松戸神社は水戸徳川家から多くの品を奉納されたが、元文4年(1739年)の松戸宿の大火にて社殿及び奉納品も焼失された。水戸と言えば、水戸黄門であろうが、松戸神社もまさに、水戸光圀ゆかりの地でもある。 秋葉神社は松戸神社の境内にある末社であり、火防・災害除けの神様「火之迦具土大神」を祀る。由来がわからないが、松戸が震災や戦火を免れることができたのは、松戸神社や秋葉神社を祀っていると言われる。
2024.03.01
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日本に戻った翌日にすぐ出勤。実際に帰宅してから夜3時まで荷物の整理をしていたので、ある意味できつい。ただし、今日は事務作業のみなので比較的に楽。 もちろん、出勤の前に湯島天神へ参拝。ちょうど第67回湯島天神梅まつりの期間中だ。 湯島天神の公式フェイスブックからみれば、今年の梅まつりはかなり盛大で行われたようだ。3月8日までだが、限定の御朱印は数量が限られるためその前に配布終了の可能性が高い。
2024.02.28
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日曜日だが、やはり仕事で出かけなくてはならない。ただし、今週から外回りの仕事でかなり疲れそうなので、少し軽いスケジュールで日曜日の仕事を済ませよう。 参拝の途中に台湾新文化運動記念館に来た。ここは二代目の台北北警察署として1933年に完成された。は、戦後も警察署として使われており、1998年に台北市の文化財として認められた。 すでに言っていたように、大稲埕界隈は清王朝時代の後半から日本植民地統治時代にかけて経済・社会・文化の中心である。1920年代から台湾における知識人・文化人は文化活動の質を高めていくことを奨励するという文化啓蒙活動とともに帝国議会に、イギリスのアイルランド議会をモデルとした台湾独自の議会の設置を求める台湾議会設置運動を始めた。それとともに多くの社会活動も始まった。台湾議会の設置については、1919年に亡くなった板垣退助をはじめ、日本本土からの支持・支援も得ていたが、一部の社会運動は総督府によって弾圧された。逮捕された方々の多くは台北北警察署で拘束されたため、2006年に台湾新文化運動紀念館としての再利用が決まり、2018年10月14日に開館された。当時の牢屋、尋問室も復元された。 牢屋を監視する場所も復元された。
2024.02.18
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天馬茶房の跡地からさらに東へ進んだら建成円環、つまりロータリーの跡地に到着。 建成ロータリーは日本植民地統治時代で公園として整備された。周辺では、鉄道の運営によって徐々に屋台が集まり、屋台街、夜市へ発展してきた。 太平洋戦争の時、防空用貯水池とされた。 戦後になって夜市、屋台街が復活してきたが、ほかの界隈の発展によって徐々に衰退し、さらに1990年代で起きた2回の火事で荒廃してしまった。のち台北市政府はフードコートの施設を建設し、ロータリーの復活を図ったが、経営不振で施設が閉鎖された。再開業もあったが、最終的に施設が閉業して取り壊された。現在建成ロータリーの跡地は公園として整備されることになった。整備の際に発見された防空貯水池の跡も公園の一部として保存される。
2024.02.15
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美濃現做刀切牛肉麵館を出た後に、15分ぐらい歩いたら、天馬茶房の看板が掛けられる建物が見えた。 ここは、1947年2月28日からの大規模の反対運動や反対者を虐殺した228事件が爆発したきっかけとなる界隈である。天馬茶房は、日本植民地統治時代からかなり有名な喫茶店であった。天馬茶房界隈では、日本植民地統治時代から経済・社会・文化が発展してきたため人が多かった。文学・芸術界の人も天馬茶房で議論することが多かった。ところが、戦後になって専売特許で個人が売ることのできないタバコを販売する人はこのにぎやかな場所を求めるためにこの界隈へ集まってきた。そこで、中華民国国民政府による台湾統治でもともと不満が高まってしまったが、タバコ販売の取り締まりがきっかけで228事件が爆発したのだ。 1990年代になってオーラルヒストリーの調査で引爆地がわかったため、紹介の記念碑が建てられた。天馬茶房は2005年に取り壊されたが、有志が跡地にできたマンションの3階に資料館と併設する形で天馬茶房を復活させた。 天馬茶房の向かいの法主公廟は大稲埕三大寺院の一つとして知られる。主祭神は中国福建省泉州で祀られる法主真君である。ここは戦後になってこの界隈で唯一電気がつくところであった。これもタバコを販売する人が集まった理由であったとされる。1869年に創建されたが、都市計画で規模が徐々に縮小させられた。今の建物は1998年にできたものであり、道路が1階を通るビルとなった。228事件の引爆地の向かいにあったため、228事件の後から民主化までに、主催の縁日やイベントが許可を取れなかったか、規模縮小を求めら、特務に監視されたという。
2024.02.15
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旧正月の期間中なので、空いている時間帯ならできる限り寺院へ参拝したい。今日は大龍峒界隈に隣接した大稲埕界隈に来た。大稲埕は大龍峒に続き台北市における早く発展してきた地域であり、清王朝時代の後半から日本植民地統治時代にかけて経済・社会・文化の中心である。 今日は大稲埕慈聖宮へ参拝。主祭神は、航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神である媽祖である。清王朝の後期に中国の福建省から分霊を迎えてできた寺院である。一時に媽祖の神像が保安宮の後殿で祀られていた。二回目の移転で現地で再建された。大稲埕三大寺院の一つとしても知られるが、戦後になって管理をめぐる混乱によって、財産関係のトラブルがあった。今の寺院は、1990年代で再建できたのだ。たぶんその関係で、寺院の別殿にも多くの神様が祀られるが、本殿以外の道と殿堂が狭く、わかりにくいのだ。
2024.02.13
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大龍峒保安宮のすぐ隣は、台北市孔廟である。湯島聖堂と同じ、孔子を祀る寺である。 入り口は小さいが、孔子像に基づいたアニメ化の像が両側に置かれている。 日光の猿の像の「見ざる聞かざる言わざる」と同じ、かわいい猿の像の前に孔子の「非礼勿視(ひれいぶつし)、非礼勿聴(ひれいぶつちょう)、非礼勿言(ひれいぶつげん)、非礼勿動(ひれいぶつどう)」が書かれている。日光の猿の像を意識して作ったものかと思われる。 萬仞宮牆の裏。 萬仞宮牆の表。孔子の学問は、まるで王宮の高い壁で見えず、ドアを見つけて入らないとわからない広さ、高さという話に基づいた孔子廟における建物の一つである。基本的に正門の近くにあるという。 櫺星門(レイセイモン)という建築。櫺は霊という意味である。櫺星は文曲星であり、孔子へ転生したということで、孔子廟の正面における最初の入り口は櫺星門でなければならないという。また、祭壇や王の屋敷などの正面の入り口も櫺星門で築くことになっていたという。 大成門。大成殿の正門である。 大成殿。台北市の孔子廟はもともと今の台北市立第一女子高級中学の場所にあった。日本植民地統治時代で台北州立第一高女の設立のため孔子廟が総督府によって撤去されたが、台北の有力者らの尽力で、現地で再建された。
2024.02.11
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樹人書院文昌祠を出た後に、駅方向へ向かおう。 そのまま保安宮へ参拝。大龍峒保安宮という名前と知られる保安宮は1742年創建され、日本植民地時代の1917年に現存の建物へ大規模の修繕工事が行われたのである。日本植民地統治時代の1896年から1905年頃にかけて、ここに台湾総督府国語学校第三付属学校(今の台北市大同区大龍国民小学)が設置された。蒋介石と中国国民党が国共内戦で敗北し、台湾に撤退した時、ここは20年ほど軍属に占有されていたが、管理委員会の尽力で、よくやく修繕工事を進めることができた。1995年から2003年までも大規模修繕工事が行われた。 大龍峒保安宮は世の中でも知られ、道観と寺が合わせた歴史のある寺院である。医学の神様として知られる保生大帝が正殿の主祭神であるが、後殿は釈迦如来をはじめ仏教の神様を祀る大雄宝殿と道教の神様を祀る凌霄宝殿が設置される。当然、別殿にも関聖帝君、孔子、農業の神様として知られる神農大帝などの多くの神様が祀られる。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたく、参拝してまいった。
2024.02.11
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旧正月の期間中なので、余裕があれば、かつてよく行っているあるいは聞いたことのある寺院へ参拝。 今日は大龍峒(ダーロントン)という台北市で最も古い界隈に来た。円山駅から20分ぐらい歩き、住宅街へ進んだら、樹人書院文昌祠に到着。書院とは清国時代の私立学校に当たる。当時の書院は学問を教える場所で、必ず学問の神様である文昌帝君を祀るのであった。 樹人書院は1853年に大龍峒の保安宮という最も歴史のある寺院で創設された。樹人書院は大龍峒を今の言葉と言えば文教地区とさせてきたため、寺院と併設すれば格下されたのではないかと当時の人は考えていた。このため、昭和3年(1928年)に現地への移設が決まり、昭和7年(1932年)に現地へ移設された。今の外観は当時の建物に倣ったものである。一時に台湾へ撤退した中華民国政府によって機関用地として徴用されていた。その際に建物の老朽化が進んでいしまった。1980年に修繕工事が行われ、今の形となった。 文昌帝君だけ祀る寺院は台湾で結構少ない。樹人書院文昌祠はその中でかなり歴史のあるほうだ。恵済宮が祀る文昌帝君は清国時代でその界隈の文昌祠に祀られており、恵済宮の修繕で合祀となった。このため、本来の寺院は日本植民統治時代になる前にすでになくなった。文昌宮は日本植民地時代でできたが、今の建物は1990年代で現地へ移転してできたものである。駅から遠いため、文昌宮のような大通りの近くにある寺院に比べ混雑せず、ゆっくり参拝できる。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたく、参拝しにまいった。
2024.02.11
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帰宅する前に二二八和平公園へ散歩。 日本植民地時代から台北新公園と呼ばれてきたが、陳水扁元総統が台北市長を務めていた時に二・二八事件を追悼するため二二八和平公園へ改めた。わしが小さい頃に台北新公園は総統府の近くにあるにもかかわらず治安がいいとは言えず、夜になってここへ近づかないように言われていたが、地下鉄の建設とともに整備されたため、今かなり綺麗になった。 二二八和平紀念碑。 二二八和平紀念碑の前に設置された碑文。近くの二二八記念館も二・二八事件の舞台であったが、修復作業で閉館中である。 国立台湾博物館。元々明治41年(1908年)、第4代台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平を記念するため、「児玉総督後藤民政長官記念館」として建築され、明治42年(1909年)に「台湾総督府博物館」へ改称された。1949年に台湾省立博物館、1999年に今の名称へ改称された。 国立台湾博物館の前に展示されている蒸気機関車。左側は騰雲号と呼ばれ、台湾で最初に使われた蒸気機関車である。右側は台湾鉄路第九号と呼ばれたが、騰雲号より16年ぐらい早く製造され、日本鉄道が最初に購入した10輌の蒸気機関車の一つであり、明治天皇の専用車両を引くこともあり、1901年に台湾総督府に台湾へ導入され、1925年に騰雲号とともに引退。 公園にも国民党一党独裁体制の蒋介石・蒋経国政権による中国式の建物がある。 周辺にも中国と台湾のつながりを強調する歴史人物の銅像と紹介がある。これはオランダを台湾から駆除した鄭成功の銅像。 台湾が清国の省へ昇格された時の初代巡撫、つまり省庁の劉銘伝の銅像である。
2024.01.26
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今日も外回りの仕事だが、その合間に参拝と見学をしよう。 武昌街に進んだら台湾省城隍廟の牌坊が見えた。中華街でもよく見られる中華圏の伝統的な建物。 主祭神は城隍神(じょうこうしん)という土地の守護神である。中華圏ではご当地の守護神が地方自治体別で階級が決まるという文化がある。城隍神は省クラスの土地の守護神ということである。日本植民地時代で撤去されたが、戦後に復興。ところが、中華民国や中国国民党が国共内戦で敗北し、大陸を失ったため台湾に撤退し、台北が実質的な首都になったにもかかわらず、、ここは依然台湾省城隍廟と呼ばれる。ただし、登録された法人の名称は台北市台湾省城隍廟ということ。また、ここも道観と寺を合わせた寺院である。1階は正殿で城隍神を祀り、入り口の近くに観音菩薩を祀るが、2階は釈迦如来を祀る大雄宝殿がある。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたく、参拝しにまいった。 西門町へ少し歩いたら、西門駅の5号出口の近くに、日本植民地時代で撤去された台湾省城隍廟の跡地を紹介する石碑もある。
2024.01.26
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帰省してから自宅で立てこもって仕事することが多いが、ようやく一段落まで済ませた。これから外出の頻度が増えるが、あと一息だ。とりあえずメンテナンスのためにお出かけ。 まずは心のメンテナンスだ。宿から行きやすい行天宮北投分宮へ参拝。行天宮は台北市で最も重要な関帝廟として知られているが、主祭神は関聖帝君(関羽)、呂祖(呂洞賓)、竈の神様として知られるかまど神(張単)、道教で山門を守る王霊官(王善)、精忠武穆王(岳飛)という「五恩主」である。道教と思われるが、台湾で独特な仏教、道教、儒教が融合した宗教の寺院である。行天宮本宮は1949年に創建され、1968年今の場所へ移転した。北投分宮は1965年に創建された。 行天宮北投分宮は本宮と三峡分宮に比べ、祀る神様が多い。本宮は五恩主、関聖太子(関平)、周恩師(周倉)を祀るが、北投分宮はさらに、玉皇大帝、釈迦如来、昭烈帝(劉備)、諸葛武侯(諸葛亮)、天・地・水を管理する三官大帝、関聖帝君の家族を祀るのだ。行天宮北投分宮でも「収驚」を行う。驚いたりショックを受けたりした時、心を安定させ、精神を満たさせる儀式は、「収驚」と呼ばれる。道教のお祓いということであろう。日本人観光客もよく本宮へ参拝してから、「収驚」をしてもらうのだ。 行天宮北投分宮は駅からやや離れる場所にあるが、線路沿いが公園、散歩道として整備されるため、天気がいい時に散歩で参拝しに来るのもいい趣きであろう。本宮より参拝客が少ないので、並びせずに参拝し、収驚をしてもらうこともできる。わしは小さい頃から家族と一緒に行天宮本宮へ参拝しに行っており、今も自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたく、帰省のたびに参拝している。しかし、仕事の関係によって混雑の本宮で収驚を待つことが難しくなったため、この数年間で比較的に頻繁に北投分宮へ参拝している。
2024.01.25
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日曜日だがいろんな私事の合間にやはり仕事だ。帰り道の途中に文昌宮へ参拝。 日本植民統治時代で、中国大陸からの商人が置いた文昌帝君をこの辺の人が祀ることがきっかけで小さい道観が建てられた。受験祈願で参拝者が増えたため、さらに規模が大きい文昌宮が建てられた。そして、地下鉄の建設などの経緯で、現地へ移転されたのだ。 正殿の主祭神は「学問の神様」の文昌帝君である。道教は、五文昌と呼ばれる5柱の学問の神様を祀るが、文昌宮は呂祖を祀っていない。代わりに、干支によって輪番で人の禍福吉凶を管理する太歳星君を祀る。別殿には、三国志演義で軍神として知られる関羽(雲長)が学問を守る神様として神格化した関聖帝君、文魁夫子、朱衣神君が祀られる。古くから伝わった民間の話には、関羽は朱衣神君の転生であるともいう。 文昌宮は台北市の「三大受験祈願のメッカ」の一つとして日本の観光ガイドに紹介されているらしいが、わしは意外と学生時代でここへ参拝したことがなかった。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたく、文昌帝君を主祭神として祀る寺院へさらに頻繁に参拝するようになったため、ここへも参拝してまいった。
2024.01.21
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大得民牛肉麺館の向かいは、恵済宮という道観と寺が合わせた寺院である。文化財であるため、たいわんだけではなく日本のからの観光客も多いが、わしにとって小さいころから参拝してきた寺院である。台湾に戻ったら必ずここへ参拝する。 正面の入り口から階段に登り、芝山岩という丘に登るのだ。 芝山岩隘門。いわゆる関所、関隘。これは1825年に建てられた文化財。清国は台湾を領土としたばかりの時、大陸の住民の台湾渡航を厳しく制限したが徐々に緩和してきた。すでに福建省から多くの人が台湾に渡ったが、漳州と泉州出身の人はよくケンカしていた。漳州の人は守りやすい丘に恵済宮を建て、さらにそれを守るための関隘も設置したのだ。日本の寺、神社も同じく、かつて戦争時に城、関所として機能することもあり、丘、山に立たれたのだ。上野東照宮もまさにこのような理由で上野戦争の時彰義隊の本陣となったのだ。上野の寛永寺はお寺であるが、西国、都に何があった時、天皇を京都から迎えるための御所のため建てられたのだ。 台湾の道観、寺、道観と寺による寺院には多くの神様を祀るのだ。ここもそうであった。主祭神は、開漳聖王、観音菩薩、文昌帝君。中国の唐の時、まだ未開発の福建省漳州で起こった反乱を鎮めた後に、開発に着手した陳元光という将軍がのち漳州の人に開漳聖王と呼ばれ、神様として祀られている。文昌帝君は中華圏における学問の神様の一人である。恵済宮は文昌帝君を主祭神としているため、受験時期で多くの受験者とその保護者が参拝しに来る。わしも小さい頃から受験合格のためここへ参拝してきた。今は、自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。 この写真は去年の夏の帰省で撮影したものである。今大規模修繕工事が行われているため、きれいな写真が撮れない。 恵済宮は日本近代史における芝山巌事件という出来事の舞台でもある。恵済宮を参拝した時、隣の裏道から進むと、「六氏先生之墓」が見える。 1895年(明治28)、台湾は清国から日本へ割譲され、日本の植民地となった。伊沢修二・台湾総督府民政局学務部長は長期統治のための教育政策を行うための責任者となり、日本語を普及させるために、当時まだ道観だった恵済宮の前身である恵済堂を間借りし、日本語教師の養成の学堂を開いた。伊沢とともに、教育に当たったのは、山田耕造、だけではなく、初代群馬県令楫取素彦の次男で吉田松陰の甥にあたる楫取道明、井原順之助、関口長太郎、山田耕造、中島長吉、桂金太郎、平井数馬であった。しかし伊沢と山田が乙未戦争のため台湾へ出征し、病死した北白川宮能久親王の棺とともに日本へ一時帰国した時、台北周辺の治安が悪化してしまった。結局、1896年1月に楫取、井原、関口、山田、中島、桂、平井と用務員を合わせ7人が抗日ゲリラに殺害された。六人は不憫と思う住民に埋葬された。この事件はいわゆる芝山巌事件である。殺害された六人の先生は六氏先生あるいは六士先生と呼ばれた。 六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々を祀るため昭和5年(1930)に創建された芝山巌神社の社殿の前に、1896年に建てられた「学務官僚遭難之碑」がある。 伊藤博文の揮毫によるものである。芝山巌事件がきっかけで日本は統治政策をさらに強化したという。 蒋介石や中国国民党は1949年に台湾へ逃げた時、芝山巌神社をはじめ多くの神社をつぶした。芝山巌界隈で多くの特務関係の機構が設置されたため、芝山巌神社の本殿跡に蒋介石の側近で特務のトップとして知られ、国民政府軍事委員会調査統計局副局長を務めていた戴笠を記念する「雨農閲覧室」を建てた。実際にここから、台湾の情報・治安機関を統括する国家安全局の本部にある陽明山への大通りのところもほぼ一本道ぐらいで近い。なお、戴笠という名前も本名であるかどうかわからないという。 この時、恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀っていた。のち台湾の民主化が推進された時、六氏先生之墓や学務官僚遭難之碑の復元も果たせた
2024.01.19
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勝海舟の旧居の跡地からそのまま赤坂見附界隈へ豐川稲荷東京別院に初詣。豐川稲荷の正式名は「宗教法人 豐川閣妙嚴寺」。主催神は宇迦之御魂神だとずっと誤解していたが、ここは稲荷神社ではなく、お寺。仏法守護の善神である豊川ダ枳尼眞天を祀る。豊川ダ枳尼眞天は稲穂を荷い、白い狐に跨っているから「豐川稲荷」と呼ばれることになった。豐川稲荷は日本二大稲荷、三大稲荷として必ず挙げられる。 社務所は3時までだが、今日午前中に参拝しにまいった。このため、無事に御朱印をいただいた。また、境内の七福神めぐりの色紙と地図を入手したため、無事に前回の参拝で見つけられなかった壽老神を見つけた。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.08
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龍土神明宮への参拝が終わった後に、速やかに赤坂界隈へ移動。ある意味で自分にとって六本木は危険な地域である。 坂道だが無事に赤坂の氷川神社に到着。日本に来てから三回目の参拝だ。 元麻布、白金にある氷川神社と区別するため、赤坂氷川神社と呼ばれる。氷川という名称の由来は、出雲国の簸川(現在の島根県斐伊川)にある。簸川の上流は素盞嗚尊の「八岐大蛇退治」の舞台という。天暦5年(951年)、東国を遊行していた蓮林僧正が霊夢を見て、一ツ木村(現・赤坂4丁目付近)に氷川明神の社殿を建ったという。 享保15年(1730年)、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の命により、現地に移転された。江戸七氷川の筆頭として知られる。現在の社殿はこの時に造営されたもので、安政の大地震、関東大震災、昭和20年(1945年)の東京大空襲など数々の災禍を奇跡的に免れ、創建当時の姿のままであり、東京都の有形文化財に指定されている。赤坂氷川神社は明治元年(1868年)准勅祭社に列し、東京十社の一つである。 祭神は、素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命。素盞嗚尊は天照大神の弟神、勇猛果敢な神様であり、日本神話では八つの頭と尾を持つという八岐の大蛇を退治した。その際に得た、神剣である天叢雲剣は、三種の神器の一つ「草薙の剣」と言われる。 境内の摂末社である九神社。 天祖神社、春日神社、鹿島神社、八幡神社、諏訪神社、秋葉神社、厳島神社、金刀比羅神社、塞神社社を合祀した神社である。 四合稲荷神社。 明治31年(1898年)に、古呂故稲荷、地頭稲荷、本氷川稲荷、玉川稲荷の4社を合祀したことに由来する。 その際に、勝海舟が「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、四合稲荷(しあわせいなり)と名付けた。大正14年(1925年)に鈴降稲荷と縁起稲荷、昭和9年(1934年)に明徳稲荷を合祀した。氷川神社の社務所が四合稲荷の御朱印を配布している。 西行稲荷。文政8年~11年(1825~1828年)に調査された『町方書上』によると、もともとは赤坂田町4丁目に鎮座していたようだ。5丁目に住んでいた西行五兵衛が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と言われ、「火伏の稲荷」として信仰されてきた。 東側の参道。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。 旧氷川小学校の跡地に設置される勝海舟・坂本龍馬の師弟像。ここは勝海舟の屋敷の跡地でもある。勝海舟は赤坂で3回住居を変えたことがあるが、ここは3回目の屋敷。勝海舟は明治5年50歳の時から、明治32年77歳で没するまで住んでいた。
2024.01.08
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三連休の最終日だが、来週末までの仕事をできる限り先に進めたいため、やはり出勤。しかし、やはり神のご加護が欲しいので、乃木坂駅を降りた。 六本木方面へ少し歩いたら、天祖神社に到着。 至徳元年(1384年)、つまり南北朝時代に創建された神社。主祭神は、天照大御神、伊邪那伎命、伊邪那美命。品川沖から毎夜、竜が御灯明を献じたという逸話によって、「竜灯」→「竜灯」と訛り、神社の場所が「竜土」と呼ばれるようになった。このため、神社も龍土神明宮と呼ばれるようになった。 境内の満福稲荷神社。元々、孫太郎稲荷と呼ばれたが、近隣の稲荷社を合祀して、満福稲荷神社となった。港七福神の福禄寿を祀る。港七福神めぐりは昭和8年発足の「麻布稲荷七福神詣」が起源であった。戦争の影響により昭和15年で中断したが、昭和41年に巡拝所の再編で、「港七福神めぐり」として再開された。七福神に加え、宝船を含めた8カ所をめぐるのが特徴だということである。港七福神めぐりは毎年元日から成人の日まで行われるが、今日は御開帳の最終日ということだ。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.08
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三連休の日曜日なのにいつもの日曜日より早く目覚めてしまった。 せっかくだから、去年のクリスマス以来ぶりの亀有を降りた。アリオ亀有方向へ進んだら、亀有香取神社に到着。 建治2年(1276年)に創建された。主祭神は経津主神。亀有は当時下総国葛西御厨亀無村と呼ばれ、香取大神宮の神領地であったから、香取大神宮からの分霊を迎え、村の鎮守として祀るのだ。香取神社は正式な名称だが、亀有香取神社という通称として知られる。経津主神および相殿に祀る武甕槌神は武神であるため、現在では「何事にも打ち勝つ、除災招福開運厄除の神様」「スポーツの神様」として崇敬される。 境内の道祖神社。相殿でお祀りされている岐大神、および道案内・道を導き、集落の外部よりの災いを防ぐ道祖神は、「足腰健健康の神様、家内安全の神様」として崇敬されている。 「少年よ、あの星を目指せ!両さん像」。もともと社務所側に設置されたが、社務所の改築で今の場所へ移動された。2003年に先代の後を継いだ宮司は、参拝者減少に悩様れたが、地元を舞台とした漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に描かれていることにちなんだキャラクター銅像の設置やアニメ絵馬の販売を取り組んだ。 さらに大きい神社の門前通りに団子屋や甘味処があることで、パティスリーの有名店であるラ・ローズ・ジャポネを金町から境内へ誘致した。店は環七側の鳥居の近くにあり、常に行列ができている。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.07
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帰宅する前にもう一食を食おうと思うが、途中に阿佐ヶ谷駅を降り、住宅区へゴー。 10分ぐらい歩いたら、馬橋稲荷神社に到着。 随神門。昭和50年(1975年)に鎮座700年記念事業として建てられた。 社殿。主神は、宇迦之魂神、大麻等能豆神。相殿は、伊弉册神、美都波能賣神、菅原道真朝臣。 鎌倉時代末期に創建されたというが、明らかではない。天保3年(1831年)に京都白川神祇伯家御役所から「正一位足穂稲荷大明神」の神号を拝受する。明治40年(1907年)に村内の御嶽神社・白山神社・天神社・水神社を合祀した。住居標示の改正によって、昭和40年(1965年)、住居表示改正により馬橋の地名がなくなり、梅里、高円寺、阿佐谷となる。「馬橋」の地名を惜しみ、後世に伝えようと、神社を馬橋稲荷神社と改めた。 境内の厳島神社。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
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新井天神を出た後に、道を渡って薬師柳通りから新井薬師へ参拝。 新井薬師として親しまれる梅照院は真言宗豊山派の寺院。山号は新井山。新井薬師は中野区で最も大きい寺院だけではなく、都内でも有名で、武相四大薬師として知られる大きい寺院だ。 山門。 不動堂。左右は水子地蔵とお願地蔵。 霊堂と聖観音像。 本堂。 永禄年間に入りし時、総州(相模国)より沙門行春(僧)が、行脚の途中に訪れた新井の村に来た。新井の村は、かつての争乱で四散し痛手を追った一族の定住の村であるが、村の人々は討伐し賊害した一族の臣の出の行春の出自に問わず、かつての痛みを水に流して行春を迎え入れた。 ご本尊は薬師如来、如意輪観音であるが。ご本尊の像は表を薬師如来、裏を如意輪観音とする二仏一体である。12年に一度、寅年のみに開帳される。御朱印も同じ形で書いてくれる。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)が新井薬師の薬師如来に眼病平癒を祈願したら、たちまち回復したため、眼病治癒で有名になった。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
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相棒と別れた後に、都区内パスを最大限に活用したくて中野を降りた。 新井界隈まで歩いて、通称「新井天神」の北野神社へ参拝。創建の年代が不明。古くは天満宮でご当地に鎮座されてきた、あるいは天正年間(1573~1592)、新井薬師の開祖である沙門行春が建立したとも言われる。新井薬師とのかかわりで、新井薬師として知られる梅照院は新井天神の旧別当寺であったという。 正面の鳥居から拝殿への道の近くに撫で牛がある。天満宮、北野神社と言えば撫で牛だね。 祭神は学問の神様である菅原道真、また食物を司る保食神である。本殿と拝殿は令和御大典奉祝事業で2019年10月から改築・新築された。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大でたぶん工事が遅れたこともあったかな。相棒と一緒に参拝しに来た時は旧社殿だったが、その旧社殿は昭和23年に再建されたのだ。 境内社の大鳥神社。祭神は日本武尊。大阪府堺市にある大鳥大社を総本社とする神社である。諸国を平定した日本武尊は伊吹山の荒ぶる神と戦ったが、祟りで病となった。大和へ向かうものの伊勢でなくなった。陵が造られた時、日本武尊の御霊が白鳥となり陵から飛び立ったというのは、大鳥大社の起源という。町の発展を願って大鳥大社から分霊を勧請した。毎年11月に、鷲や鳥にちなむ寺社と同じ、酉の市が開かれている。 境内社の稲荷神社。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
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一心から出た後に、いつものように喫茶店で相棒とお話しするが、途中に相棒の紹介で気象神社へ参拝。 日本唯一の気象神社は、高円寺氷川神社の境内にある。 高円寺氷川神社の公式紹介では、創建の由緒が3つの可能性があるってこと。まずは、源頼朝が奥州征伐の際にここに立ち寄り、安達藤九郎盛長に社殿の建立を命じた。また、源頼朝の奥州征伐に従った村田兵部といわれる人がここに留まり、武蔵国にある氷川神社本社の使者からの伝言を受け、現地に社殿を建立したともいう。そして、宿鳳山高円寺と同時期に開かれ、氷川神社はその別当寺という。御祭神は素盞嗚尊。 気象神社は、昭和19年(1944)4月、杉並区馬橋地区にあった大日本帝国陸軍の陸軍気象部の構内に建立された。軍にとって気象条件は戦略を講じるのに大事な要素であり、科学的根拠に基づいた予報がなされていたが、予報適中を祈願するなど、気象観測員の心のよりどころとされていた。戦後、神道指令で撤去されるはずだったが、調査漏れにより残存。高円寺氷川神社の先々代宮司の山本実が受入れを決断し、昭和23年(1948)9月に遷宮祭を斎行し、高円寺氷川神社に遷された。社殿老朽化が進んだため、遷宮五十五周年記念として、平成15年(2003)に再建され現在に至る。 祭神は、八意思兼命。『古事記』では思金神、常世思金神、『日本書紀』では思兼神、『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神、八意思金神と表記される。多くの人間の知恵を一同に結集させることができる「知恵の神様」である。また、かつて再び世界に「太陽」を取り戻し、世の中を救うことに成功したため「気象の神様」として祀るようになったとも言われる。八意思兼命はその名の通り「晴」「曇」「雨」「雪」「雷」「風」「霜」「霧」という八つの気象条件を司ることができるともされている。 裏にも稲荷神社がある。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.06
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DURAMENTEIを出た後に、すぐ職場へ移動しようと思ったが、近くに歴史のあるお寺があるので参拝してから出発しようと。 無事に、普門院を見つけ。真言宗智山派の寺院で、山号が福聚山。大永2年(1522年)に武蔵国豊島郡三原で開基されたらしい。元和2年(1622年)に現在の土地に移った際、船で釣鐘を運ぼうとしたところ、誤って隅田川に落としたが、引き上げることができなかった。これは鐘ヶ淵の地名の由来という。 境内が工事中なので、ご本尊の参拝ができない。ご本尊は大日如来であるが、もともと聖観音だったという。工事中のため、境内がかなり雑乱のようで、寺務所を見つけるのもちょっと難しい。唯一わかりやすいのは入り口にあり、明治期に活躍した歌人、小説家の伊藤左千夫の墓、および毘沙門堂である。 亀戸七福神の毘沙門天を祀る。ほかの七福神めぐりと同じ、ご開帳は7日までであるが、毘沙門天への参拝は通年でできるそうだ。ただし、住持が必ずいるとは限らないため、御朱印をいただけないこともある。また、境内の工事がなかなか進んでいないようで、廃墟とも口コミで言われているが、参拝できるってこと。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.05
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1月5日は年末年始と成人式の三連休の間に唯一の平日だ。ゆっくり参拝したいため大きい神社への参拝なら三ケ日を避けるとはわしの考え方だ。 というわけで、錦糸町を降り、歩行で亀戸天神社へゴー。 亀戸天神への参拝は、去年の1月13日以来だった。職場から離れる亀戸に来づらいので、通常なら年2回ぐらいで参拝してきたが、去年の勤務状況が結構やばかったので、1回しかできなかった。 参拝者が想像より少ないので助かった。 天気もいいので、スカイツリーもはっきり見える。藤棚の藤が開花すればもっと綺麗だね。 天満宮の総本社にあたる太宰府天満宮に対して、亀戸天神はは東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」と呼ばれている。明治6年(1873)に東京府社となったため亀戸神社と号し、昭和11年(1936)に亀戸天神社となった。。 正保3年(1646)、太宰府天満宮の神官である菅原大鳥居信祐(菅原道真の末裔・亀戸天神社初代別当)は神の告げにより、天神信仰を広めるため諸国を巡り歩き、最後に江戸の本所亀戸村にたどり着いた。村には元々あった天神の小さな祠に神像を祀った。 明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめた。四代将軍徳川家綱は菅原天神を鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。寛文2年(1662)、太宰府天満宮に倣い、社殿や回廊など造営したのだ。 昭和52年菅原道真公神忌1075年大祭記念とし奉納された5歳の時の菅原道真の像。 鷽(うそ)の碑。昭和15年に奉納された。 摂末社の御嶽神社。菅原道真の教学上の師である延暦寺第十三代座主、法性坊尊意僧正を祀る。 寛文5年(1665)に太宰府天満宮心字池畔の志賀社を勧請した弁天社。七福神の弁財天を祀る。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたいため、参拝いたした。
2024.01.05
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三ケ日の三日目だが、やはり出勤。しかし、武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大で原材料の輸入が難しくなり、十分な数のご神体を揃えることができないため、去年に恵比寿様のご神体がいただけないという心残りで、北千住を降りた。 去年と同じ時計回りで千寿七福神めぐりを始めた。まずは仲町氷川神社へ参拝し、弁財天様の御朱印をいただいた。東都七天神として知られ、境内にある関屋天満宮にも参拝。 河原町稲荷神社へ参拝し、福禄寿様の御朱印をいただいた。 八幡神社へ参拝し、毘沙門天様の御朱印をいただいた。ここの八幡神社の社務所は普段人がいないようだ。口コミによると、この八幡神社と毘沙門天の御朱印をいただきたいなら、千寿七福神めぐりの時しかできないという。 千住神社へ参拝し、恵比寿様の御朱印だけではなく、恵比寿様の御神体も無事にいただいた。三ケ日の三日目なので、数が少ないとしてもなくなるわけがなかろう。 延長4年(926年)、伏見稲荷より分霊を勧請し、稲荷神社が創立された。八幡太郎源義家は、奥州征伐の際、荒川を渡り、現在の千住神社の所在地である二ッ森に陣営し、神前に戦勝を祈願したと記載されている。弘安2年(1279年)、武蔵国一ノ宮氷川神社より分霊を勧請し氷川神社が創立された。 明治5年(1872年)、両社は村社と定められ、明治6年(1873年)、両神社を合祀して西森神社と名を改めた。明治7年(1874年)、郷社と定められた。大正4年(1915年)、千住神社と改めた。東京大空襲で社殿が焼失されたが、昭和33年(1958年)再建された。千住神社はたぶん千寿七福神めぐりの中で境内が最も広いほうだ。 北千住から最も距離のある元宿神社へ参拝し、寿老人様の御朱印をいただいた。元宿神社は、甲州に住んでいた鈴木因幡守貞宗の長男蔵人が大永六年(1526)に武州安達郡への移住を経て陸羽街道「元宿」に転居し、その子である左エ門尉信義が、天正元年(1573)に当地を開拓し、翌年(1574)に八幡社を奉斎したのが起源である。 大川町氷川神社へ参拝し、布袋尊様の御朱印をいただいた。大川町氷川神社はたぶん千寿七福神めくりの中で境内が最も広い氷川神社だ。 最後は北千住駅に最も近い千住本氷川神社へ参拝し、大黒天様の御朱印をいただいた。10時半に過ぎたか、駅から最も近いか、参拝者がかなり多い。 武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染が緩和した最初の年末年始のため、七福神めぐりだけではなく、初詣の参拝客もかなり多いので、七福神の御尊像を完璧にシャッターで収めることができないのだ。 が、とりあえず無事にご朱印だけではなく、恵比寿様の御神体もいただいたので、七福神が揃った。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう守っていただきたい。 北千住駅→氷川神社(弁財天)→河原町稲荷神社(福禄寿)→八幡神社(毘沙門天)→千住神社(恵比寿)→元宿神社(寿老神)→五丁目大川町氷川神社(布袋尊)→千住本氷川神社(大黒天)→北千住駅、という時計回り、あるいは逆時計回りでめぐりするなら、終点が駅に近いため電車に乗るのが便利である。
2024.01.03
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上野大仏を出て、上野公園に戻ったら、すぐ清水観音堂の看板が見えた。 清水観音堂は、寛永8年(1631年)に寛永寺の開山、天海大僧正によって建立された。寛永寺は、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したため、建立された。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立したが、上野の山を比叡山に、不忍池を琵琶湖にと見立て、清水観音堂は京都の清水寺を見立て、建立された。 元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7年(1694年)年に現在地に移築された。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物である。平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8(1996)年10月に竣工、元禄移築時の面影を再現させたのである。清水観音堂に安置された千手観世音菩薩像は天海大僧正に奉納され、年始の1日から7日までのみ御開帳である。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
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上野東照宮を出た後に、上野公園から職場へ向かおうとしたら上野大仏の看板を見たので、参拝しようと思って、階段に登った。 寛永8年(1631年)に越後村上藩主堀直寄が戦死者慰霊のため漆喰の釈迦如来坐像を建立したのは上野大仏の始まりだが、幕末までに火災や地震に度々遭い、その都度で復興された。明治8年(1875年)、上野恩賜公園の整備に際して仏殿が撤去された。露座となった大仏は、大正12年(1923年)の関東大震災で頭部が落下してしまった。震災後、頭部と胴体は再建に備えて上野寛永寺に保管されていたが、第二次大戦時に軍の供出令(きょうしゅつれい)により胴体を徴用されて、顔のみが残された。 胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味で2000年代前半頃から受験生らが祈願するようになり、「合格大仏」と呼ばれている。 昭和42年(1967年)、関東大震災の50回忌にあたり、上野観光連盟が願主となり大仏再建を願う祈願塔(大仏パゴダ)が建立された。本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られている。御本尊は撮影禁止。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、命が「これ以上落ちない」ということで、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
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五條天神社を出た後に、そのまま根津方向へ向かった。わかりにくいが、今回地図をちゃんと見ているので、無事に上野東照宮への道を見つけた。 気づきにくい不忍口鳥居。明治6年(1873年)に江戸城内の紅葉山東照宮より移築された。 正面の鳥居なら上野公園から行ったほうがわかりやすい。 神門。参拝客よりも観光客が多いようだ。 唐門への道。天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内に創建した多くの伽藍の中の東照社(寛永4年創建)が上野東照宮の起源だという。 正保3年(1646年)に朝廷から正式に宮号を授けられたため、「東照宮」となった。 金色の拝殿と唐門は慶安4年(1651年)に三代将軍家光の命令で造営替えられた。日光という遠いところへ参拝できない江戸の人々のために、日光東照宮に準じた豪華な金色殿を建立したという。唐門への道にある灯籠をはじめ、約250基の灯籠はこの造営替えで全国の大名から競うように奉納されたものである。創建当初の祭神は「東照神君、天海僧正、藤堂高虎」であったが、今は、徳川家康(東照大権現)、徳川吉宗、徳川慶喜。上野戦争、関東大震災、東京大空襲でも無事だった上野東照宮は強運の象徴ともなった。 唐門の近くにある親子虎の石彫。作者・奉納時期は不明であるが、徳川家康の生まれ年の干支であるにちなんだ彫刻という。 神楽殿は明治7年に奉納されたもの。 五重塔は仏教の施設で本来東照宮所属であったが明治の神仏分離令により、現在の上野公園全域を寺地としていた寛永寺の所属となった。徳川将軍家の菩提寺として知られる寛永寺は上野戦争により焼失され、寺地の大半が公園用地として没収され、上野東照宮から離れた地で再建された。この五重塔は今東京都所管という。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
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覆麺・智を出た後に、職場の近くの寺院、神社へ初詣をしたくて上野界隈に来た。 去年も来た五條天神社へ。 前回は根津界隈から歩いてきた。今回は上野から歩いてきた。このため、初めて正面の鳥居から境内へ。 景行天皇在位の西暦110年ころ、日本武尊が東征のために上野忍ケ岡を経由した時、薬祖神の大己貴命と少彦名命のご加護をもらったことに感謝するため、創祀したという。室町時代で神社が五條天神と呼ばれるとされる。寛永18年に菅原天神が合祀された。寛永寺の境内拡張で南海に移転され、昭和3年(1928年)に創祀の地に最も近い現在地に遷座された。五條天神社は、薬祖神として医療・薬事関係者に尊崇されている。日本橋にある薬祖神社も五条天神社からお霊を迎えたのである。また、江戸三大天神として入れたこともある。 すぐ隣にある花園稲荷神社は五条天神社の兼務社であるが、創始の年月が不詳だ。ここは幕末の時に彰義隊の戦いにおける最後の激戦地(穴稲荷門の戦)としても知られる。明治6年に再興され、花園稲荷と改称。 稲荷神社といえば赤い鳥居だね。 花園稲荷は縁結びのパワースポットとしても有名だ。 穴稲荷は旧社殿とされる。 伊藤博文による「神徳惟馨」の扁額も掲げられている。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2024.01.02
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会合の後に大掃除の一部が控えてあるのでそのまま帰宅。帰りの途中に秋葉原界隈を経由したが、気になるところがあるので、裏道へ。 すぐ講武稲荷神社を見つけた。講武とは講武所が由来したのである。黒船来航をはじめとした外国船の来航で、時の老中・阿部正弘は幕政改革・軍制改革の一環として築地に、役人、旗本・御家人およびその子弟が対象で剣術をはじめ、洋式調練や砲術などを教授する講武所を安政3年(1856年)に設置した。講武所は万延2年(1861年)に小川町(現在の神田三崎町一、二丁目)へ移転した。講武所があったことから、神田の花街も「講武所」と呼ばれた。 安政3年に大貫伝兵衛という人物が講武所附属地の払い下げを出願して許可が下りた。このため浅草橋場の長昌寺の稲荷を旅籠町に移し造営した。安政4年(1857年)に防災目的の火除地であった空き地に宇迦之御魂命を祭神として祀った祠ができたことは、講武稲荷神社の起源と伝えられている。なお、この空き地は次第に防災機能を損なわない程度の娯楽利用が認められるようになった。講武所設置の際に、付属地として徴収された利用料が講武所の運営資金となった。明治以降このあたりは花町が形成され、そこの芸妓たちは「講武所芸子」と呼ばれた。このため、講武稲荷は、神社のある地が火除地だったことから「火伏せの神」だけではなく、幕末以降発展されてきた花街によって「水商売の神」としても尊崇されるようになった。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないものの、半殺しされていてもせめてこれから生きていられるよう参拝いたした。
2023.12.28
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職場へ行く途中に、妻恋神社の旗を清水坂下で見かけた。そろそろ年越の大祓の時期だね。 そのまま妻恋神社へ参拝。 日本武尊は東征で三浦半島から房総へ渡ろうとした時、大暴風雨に遭ったが、妃の弟橘姫が身を海に投げて海神を鎮めた。日本武尊は帰り道で妻を恋い慕う「妻恋明神」と号した。妻恋神社は、当時の野営陣地で行宮の後と言われる。祭神は倉稲魂命、日本武尊、弟橘姫命。江戸時代以降「関東総司稲荷神社」「稲荷関東惣社」と伝えられ、「日本七社(日本七稲荷・日本七大稲荷)」の一つとしても知られる。 神社は元々妻戀台で、湯島天満宮の南東の台地にあったが、徳川家康が二町四方の社地を寄進。明暦の大火で現地に遷座。関東大震災、東京大空襲の時に焼失されたが、昭和29年再興。社務所は土日祝のみ対応ということで、御朱印、縁起物がほしいなら土日祝に参拝してください。 自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないもののせめて負けないように参拝いたした。
2023.12.16
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勤務時間までかなり余裕があるので、湯島界隈にある麟祥院へ参拝。 麟祥院は徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺である。入口の辺にある春日局の銅像は2019年10月14日に移設された。 山門の近くに「春日局終焉之地」の石碑もある。 庫裡の正面である。 本堂である。春日局が本郷、湯島に隠棲所となる寺院を建立しようと思うことを知った徳川家光は本郷湯島の土地を寺地として贈った。春日局は、寺院を「報恩山天沢寺」と名付け、寛永7年(1630)に渭川周劉禅師を住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺とした。寛永11年(1634)に春日局が渭川周劉禅師から法号を送られたことを喜んだ家光は春日局の法号をもって「天澤山麟祥院」と寺号とすることを命じた。春日局は寛永20年(1643)9月14日65歳で麟祥院で永眠した。 1887年には井上円了が、麟祥院における建物を借りて東洋大学の前身である哲学館を創立した。そのため、1987年に境内に「東洋大学発祥之地」の碑が建てられた。。 さらに中に入ると墓所となる。まずは佐倉堀田家の墓所。堀田正俊の正室で、稲葉正成と春日局の嫡孫稲葉正則の娘の墓である。 右側は山城国淀藩稲葉家の墓所。稲葉正成系稲葉家宗家の墓所ってこと。 左側は館山藩稲葉家分家の墓所。初代藩主の稲葉正明は、淀藩8代目藩主稲葉正親の三男として生まれ、10代将軍徳川家治の小姓となり、のち御側御用取次をはじめ要職を歴任してきた。田沼時代で田沼意次に同調していたため加増され、天明元年(1781)に1万石の大名、安房館山藩主となり、天明4年(1784)に越前守に叙任され、天明5年(1785)に3000石を加増された。家治の死去で田沼意次が失脚すると、田沼派の排除を図る松平定信によって幕府中枢から排除されたが、館山藩稲葉家の存続は許された。稲葉正明は寛政元年(1789年)に家督を四男の正武に譲って隠居し、寛政5年(1793年)に死去した。享年71。 春日局の墓所の隣は、稲葉正則の正室で、毛利秀元の娘である正厳院(万菊)の墓である。 正面は春日局の墓所である。一番立派なものである。
2023.12.06
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駅へ向かう途中に常盤橋公園へ寄り道。 公園には日本資本主義の父と称される渋沢栄一の銅像が建てられる。渋沢栄一が第一国立銀行(現・みずほ銀行)の創設や東京株式取引所(現・東京証券取引所)の設立などの事業にかかってきたので、日本橋界隈では渋沢栄一ゆかりの場所が多い。第一国立銀行の跡地に建てられたみずほ銀行兜町支店や東京証券取引所のある道は渋沢ロードと呼ばれている。 公園には国指定史跡「常盤橋門跡」の枡形石垣の一部が保存されている。 国指定史跡「常盤橋門跡」の枡形石垣の一部のその二である。
2023.11.27
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「日本橋 らぁ麺 めだか堂」を出た後に少し散歩しよう。 すぐ近くにある白旗稲荷神社へ参拝。 創建年代は不詳であるが、新編江戸誌によると、和銅4年(711年)に鎮座したという。また、前九年の役か、後三年の役かわからないが、源義家が奥州へ向かった時勝利を祈願して白旗を立てたことが始まり、とも言われる。日本橋本石町3丁目周辺(福田村)の鎮守社として祀られていたが、関東大震災の後に旧日本橋区本銀町へ遷座し、さらに昭和49年1(1974年)、東北・上越新幹線の線路敷設に伴い現在地に遷座した。令和3年(2021)の改修では、ライトアップを行ったため、夜間でも常時参拝ができるようになった。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントとの戦いにおける勝ち目がないもののせめて負けないように参拝いたした。
2023.11.27
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リクエストで唯一の平日の休日だが、松戸駅からやや距離のある戸定歴史館に来た。 ネットではいろんな組み合わせと書いてあるが、この看板、および戸定歴史館のオフィシャルサイトからみれば、戸定歴史館は、戸定が丘歴史公園、戸定邸と庭園、歴史館(博物館)、松雲亭(茶室)から構成されると考えたほうがよさそうだ。 正面の入口である。 入口のすぐ近くに置いた紹介。戸定邸は、徳川第十五代将軍慶喜の弟、水戸藩第11代藩主で、つまり最後の藩主であった徳川昭武が造った別邸である。松戸は江戸時代で江戸と水戸を結ぶ水戸街道の宿場町である松戸宿として知られ、水戸光圀ゆかりのスポットも結構ある。しかも、あの伝説の時代劇、「水戸黄門」第1部の第1話の最後は、水戸光圀(東野英治郎)、助さん(杉良太郎)、格さん(横内正)ご一行が松戸宿で藤井紋太夫(佐藤慶)に放された刺客に襲われたという話であった。 吉沢亮主演の大河ドラマ「青天を衝け」で徳川昭武を演じた板垣李光人は、番組の放送期間中に戸定邸に訪ね、徳川昭武がよく座っている廊下にも座り、写真の撮影を受けた。このポスターは戸定邸であちこち貼ってある。 戸定邸とその庭園は、国の重要文化財として指定されている。 戸定邸の入口。 戸定邸の庭園。 戸定邸も関東の富士見百景に選定されており、無料で見学できる東屋庭園の東屋から富士山が見えるが、高層ビルの建設で今見づらくなってしまった。東屋庭園の周りに与謝野晶子が書いた和歌の歌碑も建てられている。 明仁上皇も天皇時代で今の上皇后と一緒に戸定歴史館へ訪ねたことがある。 戸定歴史館はいろんな展示を定期的に行う。来年1月8日まで、企画展「徳川公爵家のバックヤード ― 最後の家令が見た半世紀」が開催される。これから時間があればまた見学しに来たい。
2023.11.23
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リクエストで唯一の平日の休日なのに柴又に来た。 駅前にすぐ『男はつらいよ』の主人公である「フーテンの寅」こと車寅次郎、つまり寅さんの銅像が見えた。1999年に建てられ、フーテンの寅さんの像とも言われる。 すぐ近くに旅に出る寅さんを見送る妹のさくらさんの像も2017年に建てられた。 柴又の観光案内所の前にも寅さんのマスコットがある。 柴又帝釈天への参道。近くの常夜灯は寅さんを演じた渥美清が寄贈したものである。 すぐ近くにも山田洋次監督直筆の石碑が建てられている。 少し歩いたら、通称柴又帝釈天の題経寺のの二天門が見えた。武漢ウィルスとやら新型コロナウィルスとやらの感染拡大が緩和されそうで、地方のツアー客だけではなく海外の観光客も多いようである。授与所の会計も手渡しではなく、コンビニに設置された精算機で自分で行うのである。 題経寺は寛永6年(1629年)に禅那院日忠上人によって開山された。日忠上人の弟子であり、第二代題経院日栄上人が実際の開基である。題経寺には、日蓮聖人御親刻と言われる帝釈天のご本尊が安置されていたが、江戸中期に所在不明となっていた。しかし、安永8年(1779年)の春、第九代亨貞院日敬上人が本堂改修中の梁上にご本尊を発見した。庚申の日にご本尊を見つけたため、庚申を縁日と定めた。日敬上人は帝釈天の板本尊を背負い、天明の飢饉、疫病に遭った江戸の意図立ちに拝ませ、不思議な後利益を授けたという。 帝釈天は、帝釈天は仏教の天部の守護神だけではなく、その最高位に属する。正法を護持し、仏の教えを聞いて、柔和にして慈悲に富み、真実を語り、正法に従う正しい神様。ご利益は、戦勝祈願、国家安泰の高徳があり、災難から守られ立身出世や蓄財が出来るとされている。ただし、独尊となることがほとんどないそうだ。そのため、題経寺のように帝釈天をご本尊として祀るとは珍しい。なお、公式HPでは、御本尊を帝釈天としているが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する大曼荼羅である。また、持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王は帝釈天に仕える。柴又七福神の毘沙門天(多聞天)の像は帝釈天の隣に置かれる。自分の業界で台湾の人々に神様と呼ばれる奴と彼の楽しい仲間たちによるハラスメントから守っていただきたく参拝した。
2023.11.16
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本郷の職場に出勤する前に湯島天神へ参拝。 境内には、第45回菊まつりが11月1日から22日まで開催される。 今回の菊人形はNHK大河ドラマ「どうする家康」の信長、家康、瀬名である。やはり有村架純ちゃんは可愛いね。
2023.11.15
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買い物を済ませた後に、帰宅するために赤坂駅へゴー。 途中に赤坂不動尊へ参拝。 江戸時代で紀州徳川家の祈願寺になっていた。 御本尊は立派な建物の1階に祀られている。ご朱印は二回の事務所でいただくことになる。 延暦24年(805年)に、伝教大師最澄が唐より日本へ帰国の途中に暴風雨のため船が沈みそうになり、その際に自作の不動明王を海に沈めて祈願し、無事帰国した。天安2年(858年)、越後国三島郡出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)の漁師はこの不動明王像を発見して祀った。永承6年(1051年)、源頼義が戦勝を祈願し、康平6年(1063年)に霊験を感じて下総米沢(現在の千葉県香取郡神崎町)に不動明王の御尊像を迎えた。鎌倉時代の文永11年(1274年)、執権北条時宗が文永の役に戦勝祈願したことで寺は興隆した。慶長5年(1600年)、住僧良台は御本尊の夢のお告げによって、現地へ寺を移転させ、開山した。御府内八十八ヶ所霊場75番札所でもある。
2023.11.13
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飯田橋界隈の職場の勤務が終わった後に、買物のために赤坂へ。いろんな場所に支店がある電気屋だが、帰宅のルートなど考えれば赤坂のお店へ行ったほうがよいのだ。 その前に久しぶりに、豊川稲荷東京別院へ参拝。本ブログを始めたばかりの時にもここを紹介したことがある。 本殿。 大岡越前守忠相公御廟。 恵比寿。入口の近くにある。 大黒堂と大黒天。 布袋尊。 摩利支天。 毘沙門天。 福禄寿。 弁財天。 寿老人の像を見当たらない。しかもご朱印の授与は午後3時まで。時間の関係で帰らなくてはならないが、また参拝しにくる。
2023.11.13
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薬祖神社を出た後に、近くにある福徳神社へ参拝。 日本橋の一等地に立派な鳥居が建てられている。福徳稲荷、芽吹稲荷(めぶきいなり)とも称される。 明らかではないが、清和天皇の貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされる。日本橋室町二丁目界隈は、当時福徳村と呼ばれていた。当地の稲荷神社として祀られたため、地名で福徳神社を社号としたという。また、江戸幕府二代将軍徳川秀忠が、慶長19年(1614年)の正月28日にここへ参詣した際、椚の皮付き鳥居に、春の若芽の萌え出でたのを見て、福徳神社の別名である「芽吹稲荷」を名付けたとされる。 古くから源義家をはじめ武将の信仰が厚い。徳川家康は江戸入府した天正18年(1590年)の8月に参拝してから数回参拝しに来た。徳川秀忠は元和5年(1619年)2月に江戸城内の弁天宮を福徳神社に合祀し、自ら神霊を納め、大和錦の幌を奉納し、社地を333坪余と定めたのである。 関東大震災後の区画整理により日本橋区室町2丁目4番地に遷座、昭和48年(1973年)1月に中央区日本橋室町2丁目4番14号に遷座し、平成18年(2006年)、日本橋室町の再開発による建て替えに伴い、4度目の遷座となった。平成26年(2014)に今の社殿が竣工したのである。 主祭神は倉稲魂神『宇迦之御魂神』、相殿は天穂日命、大己貴命【大国主命】、少名彦名命、事代主命、三穂津媛命。江戸時代前に合祀は太田道灌、江戸時代に合祀は弁財天、徳川家康『東照大権現』。
2023.11.13
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