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北海道大雪山系、トムラウシ山で夏山遭難が起きました。 亡くなられた方には心からご冥福をお祈りいたします。 このニュースを聞いて、「元山ヤ」としては、やはり関心があります。 ニュースを聞くたびに「どうして?」「どうして?」と首をかしげました。 報道を聞いて断片的な情報が入っているだけの段階ではありますが、理解に苦しみました。「そんなのあり得ないだろう。」という思いでいっぱいになりました。 夏山で疲労凍死、これはあり得ることです。しかし、ガイドが3人もついているという状況でなぜ起こってしまったのか。高齢者が多くて、全体に疲労しており、気温も低い。雨が降っていたら、迷わず戻るだろ?少なくとも僕ならぜったいそうしたと思います。 それなのに、プロのガイドがなんでそんなむちゃをしたのか。それがどうしてもわかりませんでした。 これは、登山家としての判断以外の要素が、何か作用していたとしか考えられない。 そう感じました。 プロのガイドというのはどんな仕事なのでしょう。 ツアー客の安全を守ること そして同時にツアー客を満足させなければならないということもあるのでしょう。 おそらく後者が大きなプレッシャーになっていたのではないでしょうか。「せっかくツアーで来たのに山に登れないで終わってしまった。」みたいな不満を言われるとつらいでしょう。それに、そういう不満が多いと、ガイドもクビになってしまうかもしれないし。 僕は、山に登りに行って、天候が悪くて何もしないで帰ってきたことはいくらでもあります。頂上を目の前にして撤退したこともあります。山というのはそういうものだと思っています。 でも、登山に商売がからむとそうできなくなることもあるのでしょう。登山ツアーというのは危険をはらんだものだなあと思います。 考えてみると、登山ツアーというのは他にも危険な要素いっぱいですね。 みんな経験不足の人が集まる、知らない者同士のパーティー、装備は心もとない・・・ ただ、こういうことがあったから、山はこわい、山はいやだってみんなに思ってほしくないですね。 ところで・・また山行きたくなったなあ、 、、
2009.07.24
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1学期が終わりました。やれやれです。 解放感がうれしくて、フットサルをやって汗を流してきたら、かえってそれがいけなかったのか、4時過ぎまでねむれません。とほほほ・・ 子どもたちは夏休み。 教師は、しばらくの間は普通の勤務、もちろん子どもがいないのは楽ですが。 話題変わって、「へびが出る!」というのを1学期やっていました。2年生の子どもたちがざわざわうるさいと、手でへびの形を作ります。手で作った首を1回転させて、,口をぱくっとやる間に気づいて静かにしないと「へびに食べられてしまった」ことになり、黒板に×が1つ書かれます。もちろん間に合えば○を書きます。(初めはきつねだったのですが、「きつねのお客様」のイメージに影響するといけないのでへびに変えました) なんか、ただ静かにするとかじゃつまんないから始めたんですけど、なかなか楽しかったです。それでも、しばらく続けてくると、さすがにマンネリしてきます。 そこで、無謀な企画を思いつきました。「先生が毎日お話を書いてくるから、みんなの○と×でストーリーが変わるよ。」という企画です。 つまり、○が多ければ次の日は主人公が活躍するし、×が多ければ主人公が苦しみ、ずっこけた展開になるというわけです。 ストーリーは、コン太くんというきつねが武者修行の旅に出て、いろいろな敵と出会い、冒険んをするという子どものゲームに出てきそうな他愛のない物です。 でも、書いてみると、やっぱりなかなかに悩むものです。○×を展開に反映させようなんて、素人には無謀でした。それに、細かいところをはしょって展開を早くしないと子どもたちは飽きてしまうし、挿絵も描かないとそっぽを向かれます。 そして、もう一つ苦労したのは、戦いの場面。相手を殺すのはしたくないし、血を流したり傷つけるのもなあ・・・それもみんななしで展開していくのは・・・頭が痛い。 学期末の忙しいときに、ああ、なんて無謀なことを始めてしまったのだろうと思いました。 毎日これで睡眠時間を削ってしまいました。 終業式の日はお休みにしたら、けっこう何人もの子に「先生、今日はあれないの?」と聞かれました。けっこう楽しみにしていてくれたのだなあと思います。 大変だったけど、この無謀な企画、それなりにおもしろかったかな?と思います。 僕がこういう「おあそび」をやりたがるのは、「まじめ」「一生懸命」を至上の価値として尊ぶ学校の風潮(もちろんこれはしかたのないこと)への反発が、自分の中にあるのかな?と思います。
2009.07.17
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僕は、今年の夏は、ベーシックエンカウンターグループに参加したいと思っています。僕はこのベーシックエンカウンターグループ(BEG)というのが好きです。 いったい何をやるのかというと、10人ぐらいの見ず知らずの人と、いっしょのグループを作り、それに、ファシリテーターという心理の専門家がついて、3泊4日ぐらいの合宿をやるのです。たいていは、都会からは離れた宿舎で行われます。その間は、何をやるかというと、部屋の中で車座になって、2~3時間、テーマを決めず、何かを話すのです。たいていこういう「セッション」を午前、午後、それに夜行います。たまに散歩したり軽いスポーツで汗を流すこともありますが、ほとんどこのセッションを繰り返します。 こう書くと、ずいぶんかったるいことをするんだなあと思う人が多いでしょう。僕もそう思いました。実際、今でもそう思います。セッションの中では、1時間以上もみんな黙ったままの沈黙が続くこともあるのです。やってるさいちゅうに、「いったいなにやってんだか?」と思うこともあります。 それでも、BEGはいいんです。 僕が最後に参加したBEGは、河口湖のそばの大学寮で行われました。 セッションが始まり、いろいろな話が出ました。もちろんみんな、世間話や週刊誌的な雑談をするために集まったのではないという意識があるので、自分の中の気持ちのこだわりや、他人の話に触発された自分の経験談や思いなど、会話を通じてだんだん自分の内面を掘り起こしていきます。 ただ、このグループでは、心理的に深く入ろうとする人がいる一方で、そういう雰囲気に水を差す人もいました。お互いの話しに共感してもっと自分のことを語りたくなるようなときに、「そういうのは私はわからない」とか、「心理の人はやたらそういう見方をしたがるけど、私はそういうのは好きじゃない」といったことを言って、グループの雰囲気をもり下げます。 そのうちに、「こんなことをやってもあまり意味がない気がする」と言い出したり、または一般的な雑談をしようとします。 グループの相互の気持ちが深く行こうとするのに抵抗しているようです。そして、その人たちの「妨害」に対する反感を持つメンバー、双方をなんとか納得させ、グループをまとめようとするファシリテーター。 2日目の夜には、僕自身、もういやになってしまい、セッションをぬけてしまいました。 3日目の午前のセッションでは、もうみんな疲れてしまい、停滞した雰囲気でした。 でも、その中で「自分の心の中にあるものが知りたい。でも、深くまで行ったら、忘れていたトラウマを呼び覚ましてしまうかもしれない。自分の心の中深くに入っていくのって、井戸の底を探るような怖さがある。」 と、僕が最初の日に言った言葉をだれかが持ち出しました。 そして、セッションが終わるとき、ファシリテーターが、「疲れたから、午後はもう休んじゃいましょう。井戸の底・・・うん、井戸の底じゃないけど、みんなで風穴を見に行きませんか?」と提案しました。 午後はセッションお休み。みんなで富士の風穴を見に行きました。ひんやりすずしい暗い洞窟の中。わいわい楽しみながらも、このとき、何かこのグループに変化が起き始めていました。 風穴を見たあと、みんなで喫茶店でお茶を飲みました。みんなわいわい雑談で盛り上がる店の隅で、ファシリテーターの人が、グループに抵抗していた人の話をしきりに聞いていました。 夜のセッション、突然グループの空気が変わっていました。あれほど抵抗していた人が、自分の気持ちを語り出したのです。こうなると、お互いの話しに次々に刺激され、自分の心の深くにあるものが次々とわき上がってくるのです。そして、それを言葉にする。 この仲間といっしょだから、向き合える、このグループにいるから、自分の「井戸の底」に下りることができるのだなあと思いました。 お互いの共感、一体感、これは感動という言葉も超えたものでした。 翌日、午前のセッションが終わり、グループは解散、お別れになりました。しかたがないのだけれど、いつまでもここで、この人たちといたいという思いでいっぱいでした。 帰りに何人かを車で駅まで送りました。 握手をして、別れると、僕は車のエンジンをかけてその場を去りました。運転するうちに涙があふれてきて、思わず車を止めて、しばらくボッとしてました。 こういう思いを味わえるのは、やはりBEGだけなんですよね。
2009.07.02
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