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先日、2年生の道徳で、「金のおの」というのをやりました。話の内容は、もうすでに知っている方がほとんどでしょう。 正直者の木こりがじぶんの斧を泉に落としてしまうと神様が出てきます。神様は金の斧を持って、木こりが落としたのはこのおのかと聞きます。木こりはそれを断り、その次に持ってきた銀の斧も、それは自分のではないと断ります。最後に鉄の斧を持ってきたとき、それは自分のものだと言ったので、褒美にすべての斧をもらったという話です。 「みんなだったら金の斧くれるって言ったらほしいよね。」 そう問いかけてみると、意外にも「いらなーい!」という子が大部分。聞いてみると、鉄の斧がないと木こりは続けられないから、鉄の斧がいい、鉄の斧があればいいんだという意見。 おやおや・・・「金の斧を売ったら、鉄の斧は100本も買えるよ。それに、ごちそうもたくさん食べられるし、ハワイ旅行も行けるよ。そうだ、Wiiも買えるし、Wiiスポーツリゾートも買えるよ。そのほかゲームのソフト全部買えちゃうよ。」こう言ったら、子どもたちの気持ちはにわかに変わってきました。「やっぱり金の斧ほしいでしょ。」「ほしい!」こうこなくちゃいけない。 さて、ここでこの授業の核心部、「この木こりは、なんでそれはわたしのではありませんなんて、言ったんだろうね。」「木こりは正直だからだと思います。」「そうか、正直なんだね。でも、金の斧はほしかっただろうにね。なんで正直に自分のじゃないなんて言っちゃったのかな?」 ここで出てきた子どもたちの考えは、ちょっと考えさせられるものでした。「それは、神様だから、ウソをついてもわかっちゃうと思ったからだと思います。」「おなじでーす!」 なるほど、子どもたちはこう考えるのか・・子どもたちは「正直」というのをこうとらえているのか、と、ちょっと刺激的な発見でした。「じゃあ、神様にぜったいばれないんなら、木こりは金の斧をわたしのですって言っただろうか?」 ここから正直とはなんだろうと、子どもたちに考えさせることができて、なかなかおもしろかったです。 低学年の子どもは「正直」です。 ばれるからウソをつかない、あるいはもしもばれたら自分がとても不利な立場になってしまう・・・これが万人の「正直」の起源なのではないでしょうか。そういうものがやがて内面に取り込まれていき、「良心」と呼ばれるものになっていく。 大人だって、心をほんとに丸裸にしちゃったら、「ばれない保証があるならウソついてもいいや!」というところに行くのではないかな?という気がしてしまいます。 良くも悪くも低学年の子どもたちは正直で、人間の素の部分を見せてくれるなあと思います。
2009.06.23
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生活科でヤゴ取りをしました。 「ヤゴ救出大作戦」と銘打って、プール掃除をする前の汚い水の中で生きているトンボの子どもを救ってあげようというのです。 2年生の子供たちは、最初は汚いプールに入るのをためらっていましたが、ちょっと入るともうなれてしまって、大喜びでヤゴを取りまくります。 泥の中にあみを突っ込んでかき回すと、おもしろいようにうにょうにょ動くヤゴが取れます。 どちらかというと救出というよりは漁に近い感覚です。子どもたちはみんな面白がってキャーキャーいっています。 みんな大漁(?)取りまくって家に持って帰りました。 半分は学級で飼うことになりましたが、すぐに嫌になりました。「先生、共食いしてるよ。」 こんなご報告が何度も来ました。ヤゴは餌が足りないとすぐに共食いしてしまうのです。こんな生態を子どもたちに見せるのは教育的じゃないなあと思います。そういう現実を子どもたちに見せるのはいいことだなんて書いてあるものもありますが、個人的にはやはり抵抗を感じます。だって、生き物教材はかなりの場合、擬人化して扱ったりしますから。(例えば、「ひまわり、水やりしてもらって、きっとありがとうって言ってるよ」とか)感受性の鋭い子なんかは、傷ついてしまうと思います。 でも、そんなこっちの心配をよそに、子どもたちは平気な様子。 案外たくましいというか、感じないというか・・・ ヤゴを飼うのに厄介なのは、餌の調達です。イトミミズなど、それも生きているのでないと食べないという贅沢ぶり。 上州屋に行って、釣り用の赤虫を買ってきて、やりました。赤虫って、ウニョウニョ動いてはっきり言って気持ち悪いです。 ヤゴたちは喜んで食べます。「あ、食べてる!」 と、それを見ている子どもたちも大喜びです。子どもたちの表現を借りるなら、「そうめんを吸い込むよう」に食べるのだそうです。僕もこの目で見ました。たしかにそうですね。 餌を食べてくれて、共食いをしないでくれるならこちらとしてはうれしいのですが、どこか複雑な気持ちになります。一つの命を生かすために他の命を潰していく・・・それを人間の手でわざとやっているのだと思うと嫌な気持ちになります。(花壇の草むしりをしているときもこんなことを考えるときがあります) 幸いにというか何というか、子どもたちはそこまで考えないようで。 そういう子どもたちの考えの浅さに、正直救われています。 何はともあれ、育てていたヤゴも少しずつ羽化して飛び立っていきます。 教室でバタバタ不慣れな様子で飛び回っているトンボを見つけて子どもたちが大騒ぎしていました。 みんな無邪気に大喜びでした。 命を救っていいことをしたという気は少しもしませんが、「ああ、育ったんだな」って感じ、ぼくもちょっぴりうれしくなりました。
2009.06.14
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子どもが友達といじめたとか、ものを取ったとか、あるいはお金がらみの問題を起こしたとき、まずは事実を確かめるためにじっくりと子どもの話を聞きます。(実はきのうも夜8時過ぎまで子どもと話をしていたのですが) 子どもの話を聞きながら、つじつまの合わないところとか、状況が不自然なところ、話す表情のおかしなところとか、聞き返し、聞き返し、だんだん真実にせまっていきます。子どもを信じる心は大切ですが、こういうとき、ある程度疑ってかかることも必要なようです。 言うと叱られるとわかっていることは、できるだけ言わないでおきたい、あるいは、じぶんの責任を少しでも軽くしておきたいという方向に行くのはやむを得ないことだと思います。子どもでも大人でも。 ただ、こちらが本当に心配している、親身に思っているということが伝わると、あるいはごまかし続けることがむずかしいと思うと、正直に話すようになります。(子どもが正直に言っているときは、不思議に雰囲気でわかるものです) ところが、中にはあくまでしらを切り通す、見え見えのウソでもぎりぎり追い詰められるまで真実をしゃべろうとしない子がいます。まるで本能的に言っているのかと思うような、反射的なウソのつきかたをする子もいますね。 こっちはいい加減腹が立ちます。思わず怒鳴ってしまうこともあります。どっと疲れてきて、やりきれない思いになります。 子どもが信じられない、そんな気持ちはなんともいやなものです。 そんな子たちに今まで何度も出会ってきました。 そういう子たちは多くの場合、ある共通したことを感じます。 それは、親御さんが、おかあさん、おとうさん、あるいは両方、子どもにひどく強圧的な態度を取るか、あるいは、キレて激しく怒る傾向が見られる場合が多いということです。感情にまかせて子どもに怒りをぶつけていたり、自分の気分やつごうで子どもに当たり散らす未熟な親御さんに多いように感じます。 まあ、はっきりと統計を取ったわけではないのですが・・・ 子どもたちは叱られることだけはなんとしても避けようとしているかのようです。そのためになりふり構わずウソをつくことで「防衛」しているように感じます。 正直に言ったらこっぴどく叱られるだけだと思ったら、本当のことは言わないでしょう。 そういう子にとって、親に叱られるのは「災難」としか感じていないのではないでしょうか。 きつく叱るのもは時には必要でしょうけど、あくまで、「自分のことを思って叱っているんだな」と子どもが感じることがなければ、それはただの「災難」でしかないのかもしれません。
2009.06.03
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