2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全35件 (35件中 1-35件目)
1
今日も、なかなか忙しい一日でした。午前中は何件も会議が入り、午後は外出だったので、席に落ち着いて座る間がない感じでした。朝の天気予報で、雨が降る、と言っていたので、傘を持っていきましたが、結局、雨は降らず、そのうえ、傘はよそのオフィスに忘れてきてしまいました。。。コンビニで買った安い傘なので未練はないのですが、なんとなく「あー、失態・・・」というゆうな気分でした。前々から計画していた休暇のことですが、明日から日曜日までお休みがとれることになりました。6連休です。取りあえず、明日はゆっくり寝て、それから本を読んで・・・と考えるだけでも楽しくなりますね。なんだか子供みたいです。妹も転居期間中なので、今週はお休みです。木曜日に箱根に行こうか、と話してみたら、かなり喜んでいましたので、早速、芦ノ湖の近くの有名なホテルを予約しました。連休の直前なので、かなり混んでいるだろうな、と覚悟していたのですが、案外、簡単にネットで予約が取れました。不思議な気持ちで、「最近、箱根って人気がなくなってきたのかな・・・」と思っていたのですが、妹は「今年の台風で、箱根の源泉が損壊して旅館やホテルに温泉が供給されなくなったって聞いたから、その影響かもしれない。影響を受けていない地区の観光客も大きく減って、一種の風評被害みたいになっているらしいよ。朝のニュースでそんなことを放送していた」と言っていました。秋の観光シーズンは、箱根はとても混んでいて、しかもマナーの悪い人がいたりして、幻滅させられることがあるのですが、今年は少し落ち着いてのんびりできそうです。以前、秋に箱根に行ったとき、大きな有名なホテル(今回行くところとは別です)に泊まったら、温泉の中で子供が泳いでいて、親がそれを止めずに放置しており、こちらは水しぶきがかかるやら、うるさいやらで、うんざりしてしまいました。私も、子供のすることですから、多少のことは大目にみますが、明らかに他人に迷惑をかける行為を黙認している親は、一体、どんな育てられ方をしたんだろう、と思ってしまいました。今日は、少し寒いようなので、暖まって寝ようと思い、お風呂に入りました。いつもはシャワーで済ますのですが、やはり暖まるにはお風呂ですね。狭くて足も伸ばせないけれど、リラックスできます。お風呂から上がってぼうっとしていたら、妹が、お茶と亥の子餅を出してくれました。猪のような色合いで、少しだけ火箸で焼け目をつけて、猪の模様に似せている「亥の子餅」を食べながら、「やっぱり、誰かと暮らすのはいいものだな」と、しみじみ感じてしまいました。 ↓ 亥の子餅
October 31, 2005
コメント(0)
昨晩は遅くまでネットをしていたので、今日はお昼頃に目が覚めました。妹は、既に駅の近くのスーパーに買い物に行っていて、ダイニングルームのテーブルの上にメモが残っていました。最初、メモをみたとき、「あれ、なんで、妹がここにいるんだろう・・・?」とも起きぬけのぼうっとした頭で、漠然と不思議に思ったのですが、すぐに「あー、昨日、越してきたんだっけ」と気づきました。シャワーを浴び、新聞を読んでいると妹が帰ってきました。スーパーからの帰り道で迷ってしまったらしいのです。私も、ここに引っ越した当初、道がわかりにくくて、よく迷いました・・・。今日のお昼は、カツオの刺身でした。ご飯と味噌汁と刺身、という、一人暮らしの時には絶対に食べられなかったメニューなので、さすがにちょっと嬉しかったです。昨日から、ちょっと寒気がするような気がするので、念のため、食後に感冒薬を飲みました。実は、私は、感冒薬が苦手です。薬を飲んでから2時間くらいすると、いつも猛烈な眠気に襲われるのです。「眠くならない」ということを売り物にしている薬を飲んでも、やっぱり眠くなります。だから、仕事のある平日は、薬を飲んでしまうと、全く仕事にならないので、我慢して、仕事が終わってから、薬を飲むようにしています。しかし、それでも、薬の効き目が強いのか、夜11時に薬を飲むと、翌朝お昼頃まで、なんとなく頭がすっきりしません。今日は休日だし、とくにやらなければならないこともないので、眠くなったら寝てしまおう、と思って、薬を飲みました。どんなに効き目が長引いても、明朝には薬の作用も消えるでしょうし。妹は、部屋の片付けもすべて終わらせたようで、午後は本を読んだり、ネットをしたりしているようでした。私は、まだ部屋の整理が少し残っていたので、それを終わらせていると、だんだん眠くなってきました。それで、少し眠くなった時点で、もうベッドに入って寝てしまうことにしました。寝ている間、宅配便が届いて、妹が玄関に出て行くのを、夢うつつの中で聞いていました。やはり、昼寝は、どうしても眠りが浅いようですね。結局、1時間ちょっとで目が覚めてしまい、ダイニングルームに出て行くと、私の椅子の上に、宅配便が置かれていました。いつも使っている書籍の宅配便で、中身は、一昨日に注文した、東京の近代建築(洋館)の写真集でした。かなり期待していたので、早速、読み始めてしまい、気がついたら、もう窓の外が暗くなっていました。私は、以前から、洋館や「近代化遺産」(明治から昭和初期の商業施設、工場、ダム、発電所、機械、鉄道施設・車両、港湾施設など)に興味があり、時々、実際に見に行ったりしています。私たちの祖父、曽祖父が、欧米の技術を取り入れて、それを自分の国に合うように工夫して、苦労しながら創り出したものたち。今、私たちの目の前にあるのは、戦火で破壊されずに残った、僅かなものなのですが、その前に立つと、なんだか、とても切ない気分になります。月並みな言葉ですが、彼らの努力の上に、今の経済的な繁栄があるのですから。しかし、最近、都市再開発が進み、こうした「遺産」が解体・撤去されるケースが増えてきました。それは、たいていの場合、こうした「遺産」は企業や個人の私有物であり、利益を上げるために、新しい高層ビルや工場に立て替えたりすることを、誰も止める権利がないからです。洋館の場合、ホテルやレストランとして残されたものは、「格調」を売り物としているため、きちんと維持されますが、オフィスビルの場合には、取り壊されてしまうケースが多いのです。ただ、最近は、新しい動きも出てきています。古い建物を維持する見返りとして、その建物を保有している企業が、隣接する土地にビルを建てる場合、高さの規制(容積率規制)を緩めてやり、より高く、たくさんのオフィスを入居できるようにすることで、古い建物を持っている企業の賃貸料収入を増やし、その利益の一部で、古い建物の維持費をまかなう、という制度が創設されるようになったのです。その制度が活用されるようになって、都心でも古い建物が残されるようになりました。たとえば、日本橋の「三井本館」などです。また、古い建物をそのまま新しい建物にはめ込んでしまう、というかたちで維持するケースもあります。たとえば、皇居のお濠端に立つ第一生命ビル(戦後直後、米国の進駐軍<GHQ>の総司令部になりました)や銀行協会ビルなどです。いずれにせよ、保有者の利益を損なわないかたちで、保存の動きが広がっていくことは嬉しいものです。ただ、そうした動きがあっても、どうにもできない場合があります。その代表例が、先日取り壊されて公園にされてしまった「旧正田邸」です。持ち主の正田家(皇后陛下のご実家)が相続税支払いのため、この土地・家屋を物納(現金でなく、不動産のかたちのままで納税する方法)し、その維持費の高さゆえに、税務当局(品川区役所)は取り壊しを決めました。反対運動が大きく報道されましたが、私自身は、ただ保存するというだけでは駄目で、きちんと維持費をまかなえる形にしないと、結局、長く維持できないのでは、と考えていました。それに、個人の住宅だった建物を、一般に公開する場合、避けて通れない問題があります。たとえば、私の家が国有資産になり、一般に公開されるようになると、私が家族とともに成長し、そして、いろいろな思い出の詰まった大切なプライベートな場所を、縁もゆかりもない大勢の人たちに見せ、「ここの作りは意外とチャチだね」とか勝手な批評を受けることになるのです。それが愉快なことかどうかは、人それぞれだと思うのですが、私だったら、おそらく、「やめて欲しい」と思うでしょう。もしかしたら、「むしろ、取り壊されてしまって、自分の記憶の中だけにどとめておきたい」とさえ、思うかもしれません。そんなことを考えているうちに、夕食になりました。夕食はカレーで、これも、一人暮らしでは容易に食べられるものではありません(コンビニのカレーは、どういうわけか、違う種類の食べ物のように思えます。。。)。妹は、私が通販でたくさん本を買っているのを知ると、「余裕があって、いいわね」とため息をついていました。「知は力なり、って言うじゃないか。物価が上がろうが下がろうが、不況になろうが好景気になろうが、知識の資産価値はいささかも変わることはないし、知識は、決して誰にも奪われるリスクのない唯一の資産じゃないか」と、私が反論すると、「じゃあ、買った本は全部ちゃんと読んでるのね?」と言われてしまい、私は二の句が継げませんでした。。。子供の頃から、私は、買ったまま読まない本がときどきあり、妹は、それを知っているのです。。。うーん、やりにくい。。。。食後、先日届いた「亥の子餅」を頂きました。「亥の子餅」は旧暦十月の「亥の日」に食べるお餅で、もともとは朝廷の行事「玄猪」が起源です。猪は子沢山ですので、子孫繁栄を願って、猪の色や形に似せたお餅を作って食べたのが始まりで、やがて民間に広まりました。いまでは、この亥の日に茶道の「炉開き」が行われており、そのお茶会で「亥の子餅」が客に供されています(茶道では夏場は「風炉」という金属器で湯を沸かしますが、冬は「炉」という、小さな囲炉裏に茶釜を置いて、湯を沸かします。風炉から炉への切り替えが「炉開き」であり、季節の節目の行事なのです)。関西の菓子司から取り寄せた「亥の子餅」はあまり甘くなく、中に大きな栗と少しの餡が入っており、その上品な甘さがとても口に合いました。初めてのお店で、かつ、少し高かったけれど、思い切って取り寄せて良かったなぁ、と、つくづく思いました。明日から、また1週間が始まりますが、今週は3日が祝日ですし、4日には休暇をとることにしているので、少しだけ楽な1週間になりそうです。休暇中にどこに行くのか、妹と話し合わなければいけません。どうなることでしょうか。
October 30, 2005
コメント(0)
今日は、2時頃に起きました。身支度を整えてから、部屋の整理を始めました。さんざん悩んだ末に、最近読んでいない本をまとめて、書店のトランクルームサービスに預ける決心をしたので、預ける本と残す本の選別作業をしなければなりません。本を一時的とはいえ、手放すのはとても悩ましかったのですが、本棚に入りきれない本を机の上に積んだままにしておくと痛んでしまうし、買ったばかりのミニコンポの設置スペースを確保する必要があったのです。本はなかなか重量があるので、本棚から出し入れしたり、並べ替えたりするだけでなかなかの労働になります。結局、120冊を預けることにしました。これで、今まで机の上に積んでおいた本をすべて本棚に収納することができ、本棚の本の整理もできましたし、ミニコンポの設置もできました。ラジカセが壊れて以来、PCで音楽を聴かざるをえなかったのですが、ミニコンポのほうが格段に音質が良く、まったく当たり前のことなのに、とても嬉しく思ってしまいました!今回は、ミニコンポと一緒にヘッドフォンも買いました。今まで使っていたものは、もうかなり古く、とうとう、耳宛ての部分のカバーが完全にはがれてしまい、無残な状態になっていたのです。ちょっと高かったのですが、残業代も溜まっていることですし、思い切って買ってしまいました。机の上もすっかり片付いて、とても気持ち良くなりました。今まで少しごちゃごちゃしすぎていたのですね。ちなみに「ごちゃごちゃ」という擬態語(様子をあらわすことば)は、実は語源は人名なのです。「ごちゃごちゃ」は「ごたごた」がなまった言葉で、「ごたごた」はさらに「ごったんごったん」がなまった言葉です。鎌倉時代、鎌倉に臨済宗の大きな寺院「浄智寺」が建てられました。この寺は29歳の若さで亡くなった北条宗政(執権であった北条時宗の実弟)の菩提を弔うため、兄の時宗が中心となった建てた寺です。その寺の開山(初代住職のこと)として招かれたのが、中国人僧の兀菴普寧(ごったんふねい)です。もともと彼は、鎌倉の大寺である建長寺に、北条時頼(時宗、宗政兄弟の父。第五代の執権)によって、当時の宋(中国)から招かれた高僧でした。しかし、彼の説法は難解なうえにあまり日本語が達者ではなかったようで、鎌倉武士たちは彼の説法を嫌い、彼の説法のように、物事が入り組んでわかりにくいことを「ごったんごったんする」と言うようになったのです。私は、自分の机の上の惨状を眺めながら、高僧の話を首をひねりながら困り顔で聞いている武士たちの姿をふと思い出してしまい、思わず苦笑してしまいました。部屋の整理が一段落すると、今まで不足していた日常品をコンビニに買いに行きました。電池、洗剤、バスマジックリンなどです。目覚し時計の電池が切れ掛かっていて、今朝、時計がほとんど鳴らなかったのです。私は、用心のため、携帯のほうでもアラームをセットしているので、当面、問題はなかったのですが、万一、携帯のほうでトラブルが起こると、寝過ごす危険性があるので、早速、電池を替えることにしました。洗剤やパスマジックリンは、妹が使うだろうと思われたので、買っておくことにしたのです。コンビニから帰ってくると、舎宅の前に引越し便のトラックが止まっていたので、慌てて自室に行くと、引越し業者さんが待っていたので、お詫びして、早速、荷物を運び込んでもらいました。ベッド、PC、ミニコンポ、クローゼットなどですが、やはりベッドは搬入が大変で、狭い階段を壁や手すりにぶつけないようにゆっくりと運び上げていくので、かなり時間がかかりました。軽いものではありませんので、業者さんも大変だったと思います。夕食は、昨晩、コンビニで買っておいた「生パスタ」です。「生」と言っても、茹でる必要はなく、電子レンジで温めるだけなのですが、なかなかおいしいかったので、また買うことにしたのです。夕食を終えて、ようやくのんびりしていたとき、妹が着きました。飛行機で羽田に着いてから、電車を乗り継いで来たので、ちょっと疲れているような表情でした。いろいろと話したいこともあるのですが、まずは休ませてあげないといけないと思い、コーヒーをいれて、買っておいた小さなホットケーキを出してあげました。コーヒーは、買ったばかりのコロンビアの「エメラルド」を淹れました。妹から伯父たちの近況を聞きましたが、相変わらず元気なようでした。ただ。年々、わがままがひどくなっさてきて、家族も苦労しているということでした。そんな話をしているうちに、妹の顔色も少し良くなって来たので、引越し荷物の荷ほどきを始めました。結局、10時過ぎまでかかって、ようやく荷物の整理が終わり、妹も夕食を食べることができました。私がコンビニで買ったパスタを食べたのでしたが、妹はコンビニの食事は昔からあまり好きではないので、仕方なく我慢して食べていることが表情に出てしまっていて、「昔から変わらないなぁ・・・」と思いました(笑)そのあとはお互いの部屋に分かれて、本を読んだりしていましたが、この日記を書く少し前に、声をかけてみたところ、返事がないので、ドアを開けてみたら、ベッドで横になって眠っていたので、布団をかけて、部屋を出ました。妹が持ってきた荷物の中で、最も驚かされたのは、お人形です。今、一部で流行っているらしいのですが、「プーリップ」というお人形を妹が持ってきました。顔立ちが妹によく似ていて、私もちょっと驚きましたが、本人もとても気に入っているようでした。実家に置いてきても、伯父夫婦には無用のものだし、あまり大きいものでもないので持ってきた、ということでした。明日から、妹が食事を作ることになっているので、どんなものが出てくるか、ちょっと楽しみです。誰かと一緒に生活するのも悪くないなぁ、と、ふと、思いました。
October 29, 2005
コメント(0)
今朝はまたまた電車が遅れました。最寄り駅に着いたとき、一本前の電車が10分程度遅れて到着したところだったので、それに乗りましたが、特段の混雑もなく、それなりに電車が運行されている様子だったので、少し安心しました。しかし、次の駅に到着すると、電車が発車しなくなってしまい、車内アナウンスで、濃霧のために全線で運行停止、と放送しはじめました。濃霧で電車が止まるというのも不思議な感じです。自動車であれば、確かに前後の車との間隔がわからないし、道路に飛び出してくる人がいたりすると見えにくいので危険です。飛行機であれば、過密ダイヤで発着している飛行機どうしの接触事故が懸念されます。また、船であれば、レーダーやGPSはあるものの、目視による操舵の割合が高いので、濃霧が発生すれば、衝突や岩礁への座礁のリスクが高いでしょう。しかし、電車は、前後の電車との衝突を回避するための装置が敷設されていますし、私の乗る路線は、高架とトンネルで構成されているので、人が線路内に立ち入るリスクはかなり低いはずですし、少なくとも運転停止は不要で、徐行運転すればよいのではないか、と思いました。ただ、今日は朝から会議などが予定されていなかったので、オフィスに電話を入れると、のんびりと車内の座席に座って本を読んでいました。そのうち、車内アナウンスで、運転停止の原因が、濃霧のためではなく、信号機故障が原因だ、変えられたので、「全然、原因、違うじゃん・・・」と、あきれました。JRの内部できちんと情報が伝達される体制が整っていない証拠です。結局、電車は30分近く駅で停車したままでしたが、今度は何の前触れもなく、発車ベルが鳴り始め、いきなりドアが閉じました。あれだけ待たせたのだから、事態の進展についてきちんと放送して、「故障が回復したから発車する」と明示的に伝える義務があると思うのですが。。。乗り換え駅では、改札口の外で遅延証明書を、なぜか、竹製のざるに入れて、駅員さんが配っていたので、オフィスで咎められることはまずないとは思うのですが、取りあえず、私も貰ってきました。オフィスでは、相変わらず、時間に追われた一日で、週末で疲労が蓄積していたこともあり、本当に体がしんどかったです。さすがに疲れがピークに達していたようで、電車で帰宅する気力もなく、オフィスからタクシーで帰りました。費用は自分持ちだし、なかなかの金額がかかるのですが、力尽きた感じだったので、決断しました。タクシーの中で熟睡してしまい、自宅の近くまで来たところで、ドライバーに起こされてしまいました。コンビニで買い物をして、舎宅に帰ってきたら、かなり大きい宅配便のロッカーが一杯になるほど荷物が届いていて、ロッカーに入りきらなかった荷物は土曜日に再送するという宅配便会社のご不在メモが残されていました。荷物を自分の部屋に入れて、開梱して、妹の部屋に置いたりしていたら、ますます疲れてしまい、日記を書こうとパソコンは立ち上げたものの、少し横になるつもりでベッドに横たわったら、そのまま熟睡してしまい、土曜日の午後2時まで、12時間近く寝てしまいました。
October 28, 2005
コメント(4)
昨日から、なんだかとても疲れています。喉の痛みは、一時はとても激しかったので、これは熱が出るかな・・・と思っていたのですが、今日の午後くらいからいたみが薄れてきました。市販の風邪薬を気休み程度に呑んだだけでしたので、たぶん、気力で直してしまったのではないかと思います。あと数日で仕事もヤマを越えそうなので、とにかく今は頑張ってみよう、休暇なんてとても取れない、などという緊迫感が聞いたのかもしれません。今は、激しく眠いです。一日中、激しく眠くて、帰りの終電でもかなり深く眠ってしまいました。今週もあと1日。なんとか頑張って乗り切りたいです!
October 27, 2005
コメント(0)
激しく喉が痛いです。うーん、今日は寝ます。
October 26, 2005
コメント(0)
今日は、それなりに忙しくはありましたが、ようやく先が見えてきた感じがして、もうちょっと頑張ってみよう、という気分になりました。11月の第1週に休暇がとれそうです。飛び石連休に接続すると5連休です。溜まっていた本を読んだり、銀行に行って、いろんな手続きをしたり、できれば箱根の温泉にも行きたいです。先日、ミニコンポを注文したのですが、店舗との間で連絡の行き違いがあり、一旦、キャンセルになってしまっていました。そこで、別のお店に新しく注文を出していたのですが、本日、宅配便で届きました!留守宅用の宅配便ロッカーに荷物が入っているのをみたら、やはりちょっと嬉しかったですね。すぐにでも組み立てて使いたいのではありますが、もう夜も遅いので我慢です。さらに、先日、注文した亥の子餅も、明日、届く模様です。明日は、早く帰ってきたいなぁ、などと思ってしまいました。そして、妹の荷物も、そろそろ届き始めました。荷ほどきをするわけにはいかないので、妹の部屋に押し込んでありますが、いろいろと送ってきたようです。転居手続きは順調です。妹の戸籍謄本、住民票の写し、パスポートの写しを提出し、無事に血縁関係であることが証明されたので、問題はなくなりました。あとは転居時に近所に挨拶に行く程度です。既に同僚には根回しをしてあり、妹が越してきても驚かないように言ってありますが、さすがにあまり前例がないので、珍しがられます。最初のうちは、いろいろと言われるんだろうなぁ。でも、もともと舎宅内は、あまり近所づきあいも盛んではないし、私も努めて没交渉にしてきたので、今更、何を言われても大して気にならないように思えます。なんだか今日の日記は、とりとめもない内容になってしまいました。
October 25, 2005
コメント(0)

今日も、一日中、忙しくしていました。相変わらず、あちこちの会議に呼ばれ、書類をたくさん決裁し、気がつくともう夜です。私のオフィスには、ちょっとした回廊があり、外の景色を見ることができます。ちょっと疲れて、飲み物を買おうとして回廊に出たとき、満点の星空が見えました。今日は快晴でしたから、いつもよりたくさん星が見えるような気がしました。しばらく星空を眺めていたら、ふと、以前、写真で見た光景が鮮明に蘇ってきました。イタリア北部、ラヴェンナという小さな町は、ローマ帝国末期、西ローマ帝国の首都として機能していました。当時、平野の中にたたずむローマは、ゲルマン人からの襲撃に弱いと考えられ、皇帝は、沼地に囲まれて防衛しやすい、このラヴェンナに居所を移したのでした。しかし、やがて、西ローマ帝国は476年に滅亡します。まだ子供の皇帝、ロムルス・アウグステトゥルスが、部下のゲルマン人の傭兵隊長オドアケルに帝位を奪われてしまいました。この元皇帝は殺されることもなく、ナポリの近郊の富豪の別荘で安楽な余生を過ごしたと言われています。オドアケルの王国も長続きしませんでした。ゲルマン人の東ゴート族がラヴェンナを包囲し、降伏したオドアケルは殺されてしまいます。そして、ラヴェンナは東ゴート王国の首都となりました。その東ゴート王国は、やがて西からの荒波の中に消えていきます。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝、ユスティニアヌスは、勇将ベリサリウスなどの有能な将軍たちを西方に派遣して遠征を行い、ゲルマン人たちに征服された、かつての西ローマ帝国の領土を、かなりの程度、再征服しました。そのとき、ラヴェンナもまたビザンツ軍に占領され、北イタリアは再びローマ帝国に復帰したのです。そして、ラヴェンナには、たくさんのモザイクに飾られた教会が建てられることになり、そして、今でも、その多くをみることができます。そんな中に、小さな目立たない外観の建物があります。一見すると、物置のようにも思えてしまう、この小さな建物に一歩、足を踏み入れると、そこには、ガラスの代わりにはめ込まれた薄いアラバスター(雪花石膏)を通して淡く穏やかな陽の光が差し込み、上を見上げれば、満点の星空が輝いています。限りなく美しく、どこまでもどこまでも続くような青い青い空に、無数の星が輝いています。この建物が「ガッラ・プラチディア廟」です。ガッラ・プラチディアは、キリスト教を国教にしたテオドシウス帝の娘で、父帝の死後、凡庸な兄ホノリウスが皇帝となったとき、ローマに攻め込んできたゲルマン人の西ゴート族に捕虜にされました。西ゴート族はローマを略奪したのち、ガッラ・プラチディアを連行して、イタリア半島を南下しました。まだ若い皇女は、どんなに心細かったか、察するに余りあります。しかし、彼女は部族長の息子と恋に落ちて、やがて正式に妻となりました。当時は珍しい純粋な恋愛結婚で、決して力ずくの結婚ではなかったようです。彼女は、政争に明け暮れている軟弱なローマ人よりも、これから新しい国造りに燃えているゲルマン人の若者に、新鮮な魅力を感じたのでしょう。やがて夫は部族長となりますが、若くして亡くなり、彼女は後継者に投獄されたうえ、奴隷の身分に落とされますが、決してプライドを失わず、後継者の面前を裸足で歩かされながらも、凛とした姿だったと言われています。やがて後継者は失脚し、彼女は自由の身になりますが、もはや西ゴートには、彼女の居場所はありませんでした。彼女は丁重にローマに戻され、今度は軍の有力者と結婚し、男の子を産みますが、やがて夫を再び失います。そして、夫の死後、兄と不仲になり、甥(テオドシウス2世)を頼って東ローマ帝国のコンスタンティノープルに亡命しますやがて兄が亡くなると、西ローマの帝位は家臣に乗っ取られてしまいます。彼女は東ローマの軍勢とともにローマに凱旋し、謀反人を処罰し、まだ幼い息子を帝位につけて、自分は摂政として政務を執りました。彼女の存命中、西ゴート族は、もとの族長妃を尊敬し、帝国を外敵からよく守ったため、帝国はつかの間の平和を謳歌した、と言われています。彼女は西暦450年11月27日に亡くなりました。そして、彼女の死後、ほどなくして、476年に西ローマ帝国は滅びました。この「ガッラ・プラチディア廟」には、小さな石棺が置かれており、その中に彼女は葬られたと伝えられています。伝説によれば、15世紀頃まで、石棺の僅かな隙間から、皇帝の紫色の装束を身に付けた彼女が、美しい顔で横たわっているのが見えた、と言われています。しかし、もっとよく彼女の顔をみようとした見物人が、蝋燭の炎を近づけた途端、すべてが燃えてしまったとか。実際には、彼女は、ローマに葬られたらしく、このお堂は彼女の専用礼拝堂だったようです。しかし、この美しいモザイクに飾られた室内こそ、彼女が永遠の眠りについた場所である、と信じたい人が多く、いつの間にか、彼女の墓所として語り伝えられたらしいのです。それも事実かどうかは、今となっては、誰も確かめようがありません。ただひとつ、確かなことは、ガッラ・プラチディアは、どんなときにも絶望せずに、一生懸命に生き、そして、自分で運命を切り開いた、ということだけです。彼女は臨終の床で、自分の人生を振り返ってみて、幸せだったと思ったのでしょうか。 ↓ ガッラ・プラチディア廟の天井モザイク
October 24, 2005
コメント(0)
今日は、寝過ごしてしまい、午後2時頃に目が覚めました。久しぶりに夢をみたのですが、仕事の夢でした。しかも、自分がピンチに陥っているという、最悪なシチュエーション。目が覚めてから、「あー、だいぶ、自分はストレスがたまっているようだなー」と、冷静に分析して納得してしまいました。朝食と昼食をかねて、昨日買っておいたサンドイッチを食べました。パンは子供の頃から大好きで、有名店のものも、こうしたコンビニのものも、分け隔てなく愛しています(笑)。最近、気に入っているのは、ゆで卵が入っているものです。玉子も好きなんですー。子供の頃は、玉子は一日一個、と決められていて、おでんの時には、味の染みた玉子を一個しか食べられずに、うらめしい思いをしていました。あの個数制限って、何か科学的根拠があったのか、未だに気になるところです。午後は、ずっと新聞切り抜きと、雑誌の整理でした。毎月、定期的に送られてくるカード会社の情報誌を数か月間、溜めたままにしておいて、捨てる前にパラパラめくってみたら、前から機会があれば見たいと思っていたオペラやコンサートの特別予約の記事が載っていて、「あー、失敗したー・・・」と思いましたが、もはや後の祭りです。そのあとは、キッチンと浴室の掃除をしました。いとこが来る前に、いろいろと綺麗にしておかないといけないのです。浴室は、夏の間はシャワーだけで、湯船は使っていなかったのですが、寒くなってきたこともあり、ゆっくりと暖まれるように、しっかりとバスマジックリンで洗っておきました。キッチンは、やはり水周りが汚れるので、排水口あたりを丹念に掃除しておきました。玄関に出しっ放しになっていた靴を片付けたり、こまごまとした仕事も終わらせて、やっと一息ついたところです。いとこは、そんなに荷物は持ってこないようですが、これから衣類や本が宅配便で平日の夜に続々と届くようです。今週は、できるだけ早く帰ってこないといけません。ベッドやPCも持ってくるようで、さすがにこれらは専門の引越し業者さんに頼んで、土曜日に届くようにしてもらうとのことでした。いろいろと準備をしながら、心が浮き立っているのを感じて、そんな自分を客観的にみて、なんだかおかしくて笑ってしまいました。それに・・・いとこは料理やお菓子作りが得意なのです。これから私の食事もきっともっと楽しいものになるでしょう。誰かと、おいしいものを食べるのは、幸せなことです。いとこと一緒に暮らすのは、今回が初めてではありません。以前、高校生のとき、祖母が体調を崩して入院したとき、母親がずっと病院の近くに泊り込んで世話をしなければならず、父親は半年間の長期出張で新潟に行っていたので、私は、すぐ近所にあった、いとこの家に一時的に引っ越すことになり、3か月間ほど一緒に暮らしていました。中学生の頃は、伯父夫婦の旅行中に、いとこが何度も私の家に泊まりに来ていたこともありました。最も最近にいとこに会ったのは、半年前です。東京での研究者の集まり(小さな学会みたいなもの)に出るために、いとこが上京したので、研究会のあと、レストランで一緒に夕食を食べました。お互い長い付き合いなので、「踏み込んでよい部分」と「踏み込んではいけない部分」の間合いがわかっているので、安心して話せますし、それでも、どうしても意見したいときには、きちんと正面から向き合って話せるし、その場しのぎの話で流さないので、やっぱり楽です。ただ、いとこは、子供の頃から片付け(整理整頓)が得意ではないので、これから、いろいろと私が面倒を見ないといけないかもしれません。自宅の掃除をしたら、少し疲れてしまいました。今日は、日記はこの位にして、ゆっくりとお風呂にでも入って寝ることにします。明日から、仕事だけでなく、いろいろとプライベートでも忙しくなりそうです。なお、なんだか「いとこ」と書くと、自分の普段の感覚とマッチしていないので、以後は「妹」と書くことにします。わかりにくくて申し訳ありません。
October 23, 2005
コメント(0)
今日はかなり早起きで7時には起きていました。シャワーを浴びましたが、水温を少し上げることにしました。夏場は少し水温を下げていたのですが、お湯が少し温く感じられるようになってきました。確実に季節は流れているのですね。休日のシャワーはいつもより長くなってしまいます。もともとお風呂は好きなのですが、平日は朝にのんびりしているわけにもいかないのです。休日は、のんびりと、いろいろなことを考えながら、シャワーを浴びます。時々、気になると、そのままお風呂掃除に突入してしまうこともあります。一息ついてから、コーヒーを入れました。コーヒーの出し殻は、流し台の「三角帯」(ごみ入れ)に入れます。そうすると臭い消しになるのです。コーヒーの香りを充分に楽しみながら、新聞を読みます。以前は、コーヒーシュガーを入れていましたが、インスタント・コーヒーを止めてから、とくに砂糖を入れる必要性は感じなくなってしまいました。インスタント・コーヒーの社会への貢献を考えると、批判するつもりはまったくないのですが、どうしてもchemicalな味が残り、それを緩和するためにシュガーを入れていたような気がするのです。最近、新聞の整理をしていないので、少し溜まってきました。必要な記事だけ切り抜いておくための選別作業を日曜日にやろうかな、などと思いました。午前中は、溜まっていた日記の更新をしました。先週後半はいろいろあって、忙しかったのですが、それでも日記を書いていると、自分の考えを整理できて良いように思います。お昼頃、神田の専門の書店に注文していた能の本が届きました。嬉しくて、すぐに開けてしまったのですが、記載内容のうち詞書(コトバガキ<台詞集>)の部分がすべて古い仮名遣いで、しかも草書(崩し字)で書かれているので、さすがに慌てました。せっかく買ったのに、読めなかったらどうしよう。とりあえず、数ページ読んでみたのですが、なんとか読めたので安心しました。自分でも、なんで読めたのが不思議で、しばらく考えていたのですが、どうやら、大学1年のときに、一般教養科目で、日本経済史を採り、その講義で、草書で書かれた江戸時代の法令(禁教令<キリスト教禁止令>、慶安のお触れ書き<農民生活に関する法律>、江戸幕府の財政関係書類)などを読まされたせいではないか、と思い当たりました。毎週、課題を出されて、講義のたびに不思議な訳文を読み上げねばならず、受講生みんなでお互いに失笑していたのですが、こんなところで役に立つとは全く思いもしませんでした(笑)それよりも、そんな昔に習ったことがまだ記憶にあったことも、ちょっと驚きでした。昼食はコンビニで買っておいたパスタでした。「生パスタ」という、新製品を試してみたのですが、意外とおいしくて、少し得した気分でした。午後は、部屋の掃除をしました。とにかく本が多すぎて、先日の地震のときに本が崩れて、大変なことになったので、いよいよ覚悟を決めて、整理に取り掛かりました。8月頃から、仕事が忙しくなって、そのストレスの反動で、本をたくさん衝動買いしてしまいました。読んでない本、読みかけの本を合わせると、70冊くらいになっていて、しばらく本を買うのを止めなきゃいけないなぁ、と、つくづく感じました。でも、ボーナスが出たら、やっぱり、欲しかった本「沖縄文化の遺宝」(岩波書店)を買ってしまうかもしれません。さすがにあまりにも高い(税込み5万6700円)ので、国会図書館でみてから、買うかどうか決めるつもりですが。今年は夏休みも取れなかったので、仕事が一段落したら、11月下旬頃に1週間くらい休暇を貰おうかな、と思い始めました。休暇日数が少ないと、職場管理上、良くないので、上司も「どこかで休みを取れ」と言ってきているので。休みを取らなければならない理由は、「不正」防止のためなのです。大手企業や官庁では、休暇中に同僚や上司が一時的に仕事を引き継いだことにより、本人の不正行為が発覚することがあり、逆にいつまでも延々と休暇をとらない職員は、不正リスクの可能性あり、と見なされてしまうのです。休みが取れたら、溜まっていた本を読んで、あと、旅行にも行きたいなぁ。ちょうど、箱根の最新ガイドブッグも買ってしまったし(これすら、まだ読んでいない・・・)。私は箱根が好きです。小田急で箱根湯本まで行って、お昼を食べて、それから箱根登山鉄道で強羅まで登って、ケーブルカーとロープウエーを乗り継いで芦ノ湖まで出て、遊覧船で湖を横断して箱根町に出て、レストランで早めの夕食を摂って、タクシーで箱根湯本まで出て、小田急で帰る。あるいは、箱根町で宿泊して、温泉と料理を楽しむ。もちろん、一人旅は好きではないので、友達と数人で行きますが、最近は、結婚して家族を持ってしまった友達も増えてきて、なかなかメンバーが集まらなくなりました。いとこが東京に出てきたら、一緒に行ってみようかな。いとことは、高校時代までは、よく一緒に家族旅行に行っていました。大学に入り、いとこが九州の大学に行ってしまってからも、ときどき、東京に出てきたときには、私の実家に泊まったりしてました。一緒に箱根に旅行に行ったこともあり、そのときは、宿泊先で配偶者あるいは交際相手と思われて、でも、説明するのも面倒だし、なんだか取り繕っているようにも見えなくもないので、もう開き直ってしまって、否定もしませんでした。やましいことはしてないし、そもそも、そういう「関係」にはなりようがないのですから。幼児の頃からずっと一緒だったので、お互いに、そんなふうな気持ちになったことは一度もないし。世間の、本当の兄妹は、一緒に買い物に行ったり、旅行に行ったりはしないものなのでしょうか?それにしても、あまりに本が多くて、やっぱり片付きませんでした。もうひとつ本棚が欲しいのですが、置く場所もないし・・・。旭屋書店で、本の預かりサービスを行っているらしいので、利用頻度の低い本を預けてしまおうかなー、と考え始めていますが、「でも、いつ、急に読みたくなるかもしれないし・・・」と思うと、踏ん切りがつきませんでした。学生時代に指導教官の自宅に呼ばれたとき、地下書庫を見せてもらったのですが、小さな図書館なみの蔵書量になっていて、驚いた記憶があります。あんな地下書庫が欲しいなぁ・・・。それはさておき、いよいよ本当に本を収納できなくなってきたので、預かりサービスの利用を真剣に考えてみることにしました。このまま机の上とかに積み上げておくと、本も痛んでしまうし。。。そのあと、衣替えをしました。さすがに、もう暑くなることはないでしょう。スーツ類は重いので、クリーニング店に持って行くのも一苦労です。これで、ひととおり、部屋が片付いて、いままで物置きに使っていた1部屋がすっきり空きました。それから、メールをチェックしました。相変わらず、山のようにスパムメールが送られてきてうんざりします。でも、今日は、嬉しいメールもありました。いつも利用しているコーヒー豆店が3割引きセールを始めたのです。今月中だけなのですが、いつもは高くて手が出ないコロンビアの最高級品「エメラルド」が買えます!早速、「エメラルド」を注文しました。ついでに、京都の菓子店にも、毎年恒例の「亥の子餅」を注文しておきました。「亥の子餅」を注文すると、いよいよ秋も深まったなあ、という気持ちになります。お餅の説明は、お品が届いたときにしますね。日中、いろいろと動き回りながらも、いとこの同居の件をずっと考えていました。でも、結局、自分がどうしたいのか、よくわからなくなってしまいました。妹のように育ってきた、いとこと同居したいのか、それとも、今までの静かな生活を乱されたくないのか。とにかく、いとこ本人と話してみる必要があると思い、夜になってから、福岡に電話をしました。いとこは、「この転勤は自分にとってチャンスだ。東京の大学で業績を積んで、名を挙げたい」と、とても前向きでした。同居することについても、「お兄ちゃんと一緒なら安心だし、生活費も助かる。給料は、まだそんなに高いものではないし、東京の治安の悪さについては、家族みんなが心配している。今更、女子学生寮にも入れないし・・・。そういうことに気を使わずに、思い切り研究ができたらいいな、と思ってお願いしてみることにしたけど、お兄ちゃんが迷惑なら、女性専用マンションを探してみる。お兄ちゃんに大きな迷惑はかけたくない」と言っていました。なんとか力になってやりたい、と思いました。それに、いとこには、ちょっとした負い目もあるのです。歳が近いこともあって、いとこは、常に私と比較されて、周囲から有形無形のプレッシャーを少なからず受けてきました。とくに私が大学に進み、人生が大きく大きく開けたとき、私の実家と彼女の家では、その話がよく話題になり、「***ちゃん(いとこの名前)も、大学で頑張って、お兄ちゃんみたいにならないとねー」という感じで、よく引き合いに出されていました。彼女は「私はお兄ちゃんとは違うから駄目だよー」と笑っていましたが、内心、きっと複雑だったに違いないと思うのです。当時、私は、両親に、私と彼女を比較するようなことは絶対に言わないように、と何度も言っていたのですが、何か、私に慶事があると、そういうことも守られなくて・・・。彼女は、決して、そういうことを口に出したことはありませんが、九州の大学に進んだのは、そのことも多少は影響していると、私は思っています。彼女は、私とは違う系列ではありますが、小学校から、ある大学の付属校に通っていて、そのまま大学に進むことも全く可能だったのです。それを蹴って、彼女は敢えて遠い九州の大学を選びました。「やりたいことを教えてくれる学部が(彼女の学校が付属校となっている)大学にないから」という理由でしたが、それなら、なぜ、関東の他の大学にしなかったのでしょうか。いとこは、私のことを慕ってくれると同時に、私のことを心のどこかで憎んでいたのかもしれません。そのあと、伯父が定年を迎えて、一家で娘のいる福岡に転居したのです(伯父が何度も福岡を訪れているうちに、すっかり福岡を気に入ってしまったのも転居理由のひとつですが・・・)。彼女が「東京に戻ってもいい」と決心したのは、今回の移動をチャンスだと考えているだけでなく、おそらく研究者としての自分に自信がついて、もう私のことで負い目を感じる必要がなくなったからかもしれません。私はようやく決心できました。それで、「生活費は折半」、「掃除は交代制」、「食事をいとこが作る代わりに家賃は払わない」、「お互いのプライバシーは守り、交友関係についてありこれと詮索しない」、「私は夜遅くにPCを使うことが多いので、いとこは文句を言わずに耳栓をして寝る」、「音楽は相手の了承を得たとき以外はヘッドフォンで聞く」、といった、細かな点を取り決めて、最終的に同居を受け入れることにしました。次の土曜日、いとこが転居してきます。私の生活は大きく変わると思いますが、それもまた、おもしろいかもしれません。
October 22, 2005
コメント(0)
今日は、意を決して、早く帰ってきました。理由は2つ。ひとつは、帰宅途中に麺類を食べるためであり、もうひとつは、伯父と電話で話すためです。私の家系は、みな麺類が好きです。実家にいるときには、家族でなにか店屋物を取ろうということになると、たいてい、日本そばか中華そばを注文していました。伯母が私の実家の近くで和裁屋(お裁縫屋)を経営しており、この伯母に非常に可愛がられていたので、幼少期(小学校低学年まで)の私はよくお裁縫屋に遊びに行っていました。お裁縫屋では、たくさんの綺麗な若いお姉さんたちがお針子さんとして働いていて、小さな子供である私を可愛がってくれました(笑)学校が休みのときには、よく朝からお裁縫屋に遊びに行って、仕事場の隣の部屋で本など読んだりテレビをみて過ごし、お昼は伯母やお針子さんたちと食べていました。そんなときに決まって店屋物として注文されたのが中華そばでした。伯母も麺類が大好きだったのです。たいてい、私は、カタ焼きそば(「あん」がかかっていて、麺がスナック菓子のように固い中華そば)を食べていました。私は、一部の例外を除いて、家族や親族以上に麺類が大好きです。一部の例外とは、そうめん、冷麦、です。子供の頃、夏休み中の昼食として、手抜きをしたい母親がお中元などでもらったそうめん、冷麦を毎日のように食べさせていたので、私は、もう一生分のそうめん・冷麦を食べ尽くしたような気がしています。今日は、仕事を終えた後、麻布十番に行きました。ここには、「永坂更科」という蕎麦屋があります。ここの蕎麦は「御前蕎麦」というブランド名で、蕎麦の実の芯の部分だけを取り出して製粉した、真っ白な蕎麦です。学生のとき、学校(中学、大学)がこの近く(と言っても30分くらいは歩きますが)で、麻布のお寺に創立者のお墓があり、命日には学生が参拝する習わしになっていました。お参りすると留年しない、というジンクスも伝えられていましたし。その墓参の帰りに、毎年、この永坂更科に寄って、蕎麦を食べていました。大学卒業後は一度も墓参に行くことなく、よって永坂更科からも足が遠のいていたのですが、久しぶりにおいしい蕎麦が食べたくなったのです。ここの蕎麦を食べるのは数年ぶりです。前回は、三田の官庁共用会議所でセミナーが開催されたとき、その帰りに寄りました。数年ぶりの蕎麦は、味は落ちておらず、さすがにおいしかったです。ただ、そのあとの仕事を思うと、あまり気は晴れませんでした。地下鉄などを乗り継いで自宅に帰ると、早速、伯父に電話をしました。伯父とその家族は、数年前まで私の実家のすぐ近所(歩いて3分程度)に住んでいたのですが、伯父が定年を迎えたとき、かねてから計画していた福岡への転居を実行し、家族もついていったのです。伯父には娘がひとりいます。私にとっては、いとこにあたる子で、歳は私より2つ下、家が近かったので兄妹のように育ちました。いとこも私も一人っ子でしたので、本当の兄妹のように育てられました。いとこは福岡の大学に進学し、そのまま大学院に進み、そのあと某大学の助手になったのですが、東京の大学で講師を募集していたので、それに応じて採用されることになったのです。伯父からの電話とは、いとこを私の舎宅に住まわせてくれないか、という頼みでした。私は、いとこと非常に仲が良く、いとこは、私にとって、永遠に護るべき妹のような存在です。ただ、今まで一人暮らしを楽しんできただけに、今更、その静かな生活を乱されるのは、正直に言って、抵抗がありました。舎宅なので組織の意向も確かめて許可を貰う必要があるかもしれないし、「同棲」とか「事実婚」(内縁関係)と間違われないように、舎宅の隣近所にも挨拶に連れていかないといけないし・・・そうした諸々の事務手続きを考えると、眩暈がしそうになります。伯父は、娘が東京の大学への転勤が決まり、それなりに喜んでいるようでした。ただ、福岡からみると、東京は家賃が高いし、それ以上に治安が悪いので、一人暮らしをさせるのは心配で、いろいろと悩んでいたようなのですが、そこで、ふと、私がかなり広い部屋(家族用の部屋に一人で住んでいるのです)に住んでいるのを思い出し、電話をかけてきたということでした。親の目の届かないところに出すよりも、実の兄に近い関係の私のもとに置いて、お目付け役をさせる気もあるようでした。いとこと私は、性格が大きく違います。いとこは派手好きで化粧栄えもして著しく痩せているため、ナンパも含めて、よく男性から誘われるようです(ただ、基本的に堅いし、理想が高いので、なかなか「基準」をクリアできる男性はいないようです)。いとこは、洋楽が好きですが、歴史、古典などには全く興味がありません。私は外見はそこらにいる社会人ですし、太ってはいませんが、痩せてもいません。学生時代から二人で歩いていると、あまりにも釣り合わないようで、通行人から「なんでこの娘にこんな男が・・・」という表情で見比べられることがよくありました。お互いの共通点は、経済や政治の話ができること、おいしいものを食べるのが好きなこと、ぐらいです。それでも今まで仲が良かったのは、おそらく、お互いに、「相手は自分とは全く異質の存在である」という、「ごく当たり前の事実」をきちんと認識できていたからなのではないか、と思います。自分と異質であることを認識していれば、相手の行動が気に入らない場合でも、腹を立てたりはしないものです。異質であるがゆえに、自分と違う行動をとるのは当たり前のことなのであり、それは誰に非があるわけでもないのですから。きっと幼少期から一緒に過ごしてきたので、自然にそういう相互理解が進んだのではないかと思います。いろいろと悩みを相談したりしてきましたし。なので、いとこが同居することについては、いやというわけでもなく、非常に複雑な気分なのです。今日、オフィスの福利厚生セクションに行って、事情を説明したところ、「本当に血縁者であることが証明できれば同居は可能」という説明を受けました。これで制度的に問題がないことは確定したのですが、最終的に同居を承諾するかどうか、私の中では、判断が固まっていません。これまでの静かな生活を乱されるのはやはり嫌だし、一方で、妹と暮らすのも悪くないな、と思ったり・・・・。いとこの仕事の都合もあるので、引越し準備期間などを逆算すると、日曜日までに結論を出さないといけません。いろいろと悩む週末になりそうです。
October 21, 2005
コメント(0)
今日は、非常に忙しく、たった今、帰宅しました。とうとう終電にも乗れなかったので、涙を呑んで、オフィスから自宅までタクシーで帰ることにしました。オフィスから電話をかけてタクシーを建物の前まで呼んでおいて、乗り込みました。ちなみに、持ち合わせが少なかったので、電話では、しっかり、カードが使える車にして欲しいと言っておきました。タクシー・ドライバーには2通りのタイプがあるようです。「とにかく世間話でもなんでもやたらと話し掛けてくるタイプ」と「行き先だけ聞いて、あとは目的地近くになって詳細な場所を聞くまで黙っているタイプ」です。前者のタイプは、本来的な話し好き、と、乗客が熟睡してしまうのを防ぐために話し掛ける、というさらに2つのタイプに分けられます。実際、乗客、中でも、酔客が熟睡してしまうと、目的地までたどり着けないし、目的地に着いても下車してもらえないし、さらに女性だと、トラブル防止のために、揺り起こすことすら、社則で禁じられているため、タクシー・ドライバーは、非常に困ってしまうようです。どうしても起きないときには、高い音の出る「呼び子」(警笛)を吹いたり、交番に行って、警官立会いのもとで揺り起こす、といった対応をとる、と聞いたことがあります。本日、私が乗ったタクシーのドライバーは、とにかくよく喋るヒトでした。私は道案内をするのが面倒だったので、「とりあえず、高速で***まで行って下さい」と頼んだのですが、「今は下の道(一般道)が空いているので、少し時間がかかってもよいなら、下の道で行きませんか?」と言われました。私に異論があるはずもなく、一般道で行くこととなったのですが、天気の話題から、時事問題、さらには、私が自分のオフィスから乗ったので、「****にご勤務の方ですか?」と尋ねてきて、私も、あまり見えすいた嘘をついても仕方がないので、「そうですよ」と答えると、ニュースで知ったらしい知識で、「****(私のオフィスの名前)って、・・・・をやっているんでしょう? それってどうなんですか?」st<いろいろと質問して来られました。率直に言って、私は、この時間まで残業していて、非常に疲れているのです。しかも、敢えて言うなら、オフィスで仕事をしていたので、一滴も飲酒していないのです。私は、心の中で、「頼むから、静かに休ませてくれ。。。察してくれよ。。。。」と思っていたので、だんだんと応答が短くなっていきました。そのうち、ようやく先方も、私が疲れているらしいことに気づいたか、あるいは、手持ちの話題が尽きたか、で、話し掛けて来なくなりました。それで、「目的地近くになったら、声を掛けて頂けませんか? 少し休みたいので。熟睡はしませんから、安心してください」と言って、相手も同意したので、少し寝ることにしました。疲れているせいか、目を閉じると、すぐに寝てしまいました。しばらくして、惰眠を貪って、いきなり、ふっ、と目が覚めました。どのくらい経ったのかな、と、携帯をみると、30分くらい経過しています。もう、そろそろ、自宅近くのはずです。見慣れた景色が展開している、はず、だったのですが、見たこともない街並みが広がっていました。しばらくの間、自分がどこにいるのか、全くわからず、信号機の上や電柱に取り付けられた地名版を目で必死に探し、ようやく、相当、離れたところにいることがわかりました。「なんか、相当、離れたところにいるみたいなんですけど・・・」「ええ。下の道で工事をやっていて、渋滞で全く動かないので、わき道に抜けました」「ああ、そうでしたか(やっぱり高速で行っときゃ良かったな・・・)」ドライバーが自信たっぷりに回答するので、私も少し安心したのですが、それはすぐに裏切られることになりました。ぼんやりと車窓を眺めていると、「+++街道」という表示が見えました。「あれっ、なんか、今、+++街道って、表示が出てたんですが・・・」「はい。+++街道ですよ」「はいっておっしゃったって、私の目的地は***街道ですよ」「+++街道と***街道って、つながってましたよね?」「いいえ、このまま行ったら、わたしらは、厚木(神奈川県厚木市)に行っちゃいますよ」「えーと、えーと、じゃあ、どこかで曲がりますね」「・・・・はい・・・(じゃあ、とか言ってる場合じゃないだろ。要するに間違えたんだろうが・・・謝罪の言葉もないんかい・・・)」道を間違えられました。錯乱したドライバーは、このあと近道をして遅れを挽回しようとして、さらに道に迷ってハマり、私たちは、深夜の東京郊外を合計1時間半、ドライブすることになりました。別に私は急いでいるわけでもないので、時間は多少かかっても気にしないのですが、さすがに代金が1万5000円に膨らんでいたのは、まいりました。タクシーは実費制なので、道を間違えてもなかなか運賃を割り引いてくれません。割り引いてもらうためには、どちらに過失があったのかを立証する必要があります。私は、途中で惰眠を貪ってしまい、その間にドライバーが道を間違えたので、完全にドライバーの過失を立証することは困難に思えましたし、さらに、街道名を間違えて聞いたことについても、言った言わない、という水掛け論になりかねないため、私は「・・・・高くつきましたね・・・・ビジネスホテルにでも泊まっときゃよかった・・・」と、ぼやきながらも、運賃を支払いました。なんだか、どっと疲れてしまいました。そして、帰宅してみると、留守電にメッセージが入っていました。再生してみると、福岡の伯父(母の兄)からでした。驚愕すべき内容を聞いて、私は早速、明日、伯父と話さなければ、と思いました。
October 20, 2005
コメント(0)
今日は、一日中、忙しかったです。毎年、この時期は、来年度の予算計画を作り始めるので、エビデンスの収集などで忙しいのです。いつものように残業して、終電で帰宅しました。珍しく車内で席が空いたので座って、一息ついていたところ、次の駅で隣席が空きました。たまたま乗ってくる人も少なかったのですが、その空席の前にひとりの若者が立ちました。スーツ姿で、小太り、眼鏡、細い目、お多福のような容貌の若い男性なのですが、席が空いているのに、その前に立つのみで、座ろうとしません。次の駅で降りるのかも、と思って、さして気にも留めていなかったのですが、発車して3分くらい経ったとき、いきなり席に座ってきました。「ははあ、立っているのが辛くなったものと見える・・・」と、それでも、私は大して気にしておらず、本を読んでいたのですが、そのうち、妙な感触に気づきました。隣人の体が小刻みに躍動しているのです!いえ、躍動、というより、けいれんしている、というほうが正しいかもしれません。具合でも悪いのかと思って、ちょっと心配になり、視線を横にずらそうとしたところ、今度はポケットからハンカチを取り出そうとして、もぞもぞと動き始めました。そして、ハンカチを取り出すと、それを両手で持って、両端を親指と人差し指で小刻みに揉み始めたのです!そして、そのハンカチを揉むリズムに合わせて、体がピクッピクッと小刻みにけいれんしているのです。別に音楽を聴いているわけでもないのに、何ゆえ、ハンカチを揉みながら、ビートを刻んでいるんだろう・・・・。とにかく、全く意味不明な動作なので、私もちょっと心配になり、視線は本の活字を追っているものの、神経は隣席の動向に向けられているので、本の内容がまったく頭に入ってきません。そのうち、ようやくハンカチをごそごそとスーツのポケットに入れると、今度は、膝の上で両手を軽く握り、せわしなく親指を立てたり下ろしたりし始めました。相変わらず、体はビートを刻んでいます。さらに、だんだんと、息遣いが荒くなってきて、最初は、ムフー、ムフー、という感じだったのが、とうとう、ハアハア言い始めました!!さすがに私も気味が悪くなってきたので、次の駅で席を立つと、隣の車両に移ってしまいました。今晩に限らず、深夜の電車では、極めて珍しい光景をよくみかけます。以前には、いきなり、「ひさかたのー、ひかりのどけき・・・・」と、朗々と和歌を吟詠し始めたおばあさんがいて、一瞬にして、車内の空気が凍りつきました。また、別のときには、11時頃だったのですが、ちょうど乗客が少なく、その車両には、私とおばさんしかいない状態でした。たまたま、おばさんの向かい側の席に私は座っていたのですが、突如として、おばさんが「アメリカ合衆国国歌」を高らかに歌い始めました。聴衆は、おばさんの正面に座している私ひとり。あまりに突然の出来事で、あっけに取られて眺めていたところ、おばさんは恍惚として目を閉じて歌っており、とうとう一曲歌い終えました。「これで終わりか・・・やれやれ・・・」と思った瞬間、期待は裏切られました。二曲目は、「おお、スザンナ」(この曲です。音が出ますのでご注意ください。)。三曲目は、「リパブリック讃歌」(この曲です)。おばさんの「米国歌謡メドレー」はさらに続き、金縛り状態になった私は、席を立つ時期を逸してしまい、私は、米国開拓史に思いを馳せながら、たっぷりと歌を聞かせていただく羽目になりました。独立宣言、西部開拓、奴隷解放・・・時代はどんどんと進んでいきます。「アメージング・グレース」(この曲です。音が出ますので注意してください)を歌い終えたあと、おばさんは下車していきました。そのとき、私は、アメージング・グレースについて、南部の賛美歌の1つだという程度の知識しかありませんでした。ただ、おばさんの歌で、一部の歌詞が聞き取れなかったので、私は、帰宅してから、ネットで調べてみました。そして、米国史における、その哀しい位置付けを知ることになりました。アメリカン・ネイティブのチェロキー族は、もともと東部のアパラチア山脈地帯に住んでいました。白人と対立して戦争を起こした他の部族と異なり、チェロキー族はクリスチャンになり、白人と友好関係を保っていました。しかし、1828年にチェロキー族の土地で金鉱が発見されると、当時のジャクソン大統領は、チェロキー族を強制移住法で西へ移動させることにし、チェロキー族は、1830年、1600km離れたオクラホマへ徒歩で移動させられることになりました。長い苦難に満ちた旅で多くの犠牲者を出したうえ、1838年12月 騎兵隊に追われながら凍結したミシシッピー川を渡った際、渡河に失敗し、全人口の1/4が命を落としました。その苦難に満ちた旅を、チェロキー族は「涙の旅路」と名づけ、アメージング・グレースを歌って自らや家族を励まし、ただ耐え忍ぶしかなかったのです。先祖の苦難を語り継ぐため、チェロキー族の人々は、冠婚葬祭などの際に必ずアメージング・グレースを歌っているということでした。それを知ってから、私は、テレビのCMなどでこの曲が流れると、激しい違和感を感じています。
October 19, 2005
コメント(0)
今日は、ひたすら、眠い一日でした。昨晩はきちんと寝たにもかかわらず、朝から眠気がとれず、食事中にも、ちょっとぼうっとしていたら、少し記憶が飛んでいたりして、自分でも驚きました。毎年、寒くなり始めた頃は、いつも、こんな感じで激しい眠気に襲われます。そのうち、体が季節に順応してしまうのか、平常に戻るのですが・・・今日は、帰りの電車で、酔客をみかけました。途中の駅から乗ってきたのですが、ドアが閉まりかけているのに大声でホームの友人と話していて、うるさいこと、この上ありません。そのうえ、座席に座ると、人事不省に陥って、「寒い、寒い、くそっ・・・」とか、夢うつつで、それなのに、かなりの大声で喚いていて、著しく迷惑でした。いつも思うのですが、日本は酔客に寛大です。金曜の夜など、終電が近いのに、駅のベンチで寝ている男性をよくみかけます。場合によっては、平日の朝、通勤客が行き交うようになっても、まだベンチで惰眠を貪っているケースがみられます。きっと目が覚めたとき、異常に恥ずかしい思いをすることでしょう。海外では、自分を見失うまでに深酒するヒトは、社会から軽蔑されますし、警察にすぐに連れて行かれてしまうケースもあります。自己責任を重んじている社会では、責任能力を失うほど酩酊することは、「市民としての罪」というような感性でとらえられているようです。私自身は、お酒は嫌いではありませんが、深酒しても、いつもずっと意識がはっきりしているので、気持ち悪くて苦しいときなどは、意識がなくなってしまったほうがマシ、と思うこともあります。私が酩酊しないのは、おそらく父方の祖父や父親の影響ではないかと思います。父方の家系は酒好きで、しかも酩酊して醜態を晒すまで飲んでしまうので、子供の頃から、そうした光景をみて、私は、酩酊するような飲み方はしたくないな、と思っていました。こうした傾向は、別に私に限ったことではなく、俗に「酒飲み、三代続かない」と言います。親の醜態を子供の頃からみてしまうと、一種のトラウマになるのでしょう。しかし、体調が悪いときなどに、酒量が過ぎて悪酔いしたときなど、本当に意識が飛んでくれたらいいのに、とつくづく思います。自分の体が自由に動かず、意思に反して、ろれつが回らない話し方になっているのが、ありありと自覚できるので、そんな自分に激しく羞恥を感じます。このように酔ってもなかなか意識をなくさないヒトは、たいてい、酔客の介護を引き受けさせられます。吐き気を催しているヒトをトイレに連れて行ったり、そして、今度は、トイレの個室に鍵をかけたまま出てこなくなってしまったヒトを助けたり・・・一体、飲み会にきて、自分は何をやってるんだろう、と、いつも思います。最も困るのは、トイレから出てこなくなるヒトです。個室の上があいているタイプのトイレであれば、なんとかよじ登って、内側から鍵を開けることができますが、密閉式の個室の場合には、手の施しようがありません。本人が覚醒して、「天ノ岩戸」から現れてくるのを待つのみとなります。その間、ツレは、帰ることもできず、ひたすら待ち続けるのです。それでも出てこない場合には、賠償金を払って、ドアをぶち破ることになります。学生時代、ゼミ合宿に行った際、後輩がこうした状態になり、外からの呼びかけに反応しなくなってしまいました。仕方がないので、旅館に賠償金を支払うことを告げて、数人がかりでドアに体当たりして、ドアをぶち破ったところ、本人は、うずくまって、まるで何を拝むような格好で意識を失っていました。彼からみて、ちょうど「拝まれる位置」には、トイレットペーパーのロールの予備が山積みされていました。それ以来、彼は「カミさま」と呼ばれるようになりました・・・。酔客の、極めつけは、救急車です。私は、今までに3度、救急車に乗ったことがあります。いずれも友達や同僚の介護のためです。救急車は電話すればすぐに来てくれますが、どこの病院に搬送するかを決めるまでに、著しく長い時間がかかるのです。現場で延々と、あちこちの病院と連絡をとり、ようやく発車するまでには30分前後を要するのです。とてつもない長い時間を救急車内と病院で過ごすため、自宅に帰る頃には、たいてい夜が明けます。困った酔客もいます。女性の泥酔者です。意識がなくなるまで飲んだ女性を送る場合には、細心の注意が必要です。あとで、「何かしたのではないか?」という、無実の罪を着せられる可能性があるからです(実際に、トラブルになった事例を、私はいくつも知っています)。このため、女性の酔客を送る場合には、必ず、別の女性に随行してもらうことにしています。以前、歩けなくなった後輩を背負って家まで送り届けたときには、自宅の場所を正確に伝えられない状態だったので、深夜にあちこちを徘徊せざるをえなくなり、やむを得ず、交番で自宅の住所を調べてもらって、ようやく送り届けました。真偽のほどは定かではありませんが、深酒をすると、そのつど、脳細胞の死滅スピードが速くなる、という話も聞きます。ドイツ語で、二日酔いのことは、「カッツェン・ヤンマー」と言います。和訳すると、「猫の苦しみ」という意味です。私は、好きなリキュールを飲み過ぎても、意識がはっきりしているので、「虎」にはなりませんが、翌日、「猫」になることはあります。自戒したいものです。
October 18, 2005
コメント(0)
今朝は、もたもたしていて、家を出るのが遅れました。原因は、やはりアイロンでした・・・・。雨の降る中、慌てて小走りに走って、息を切らしながら、ようやく最寄り駅が見えてきたとき、異変が起こりました。駅の前に群集がたむろしている!しかも、みるみる人が増えて、駅を十重二十重に取り囲んでいます。その瞬間、脊髄反射的に、嫌ーな予感がしたんです。人ごみと傘を掻き分けて、ようやく駅の構内に入ると、そこにいる人々は、みな顔色も変えずに、いつもと同じように、いや、いつもより端然として立っていて、身じろぎもしません。そして、みな、一様に同じ方向を見つめているのです。私も視線を少しずつずらしていくと・・・「**線は***駅での人身事故のため、ただいま、上り下りとも、全線で運転を中止しております」という電光掲示板がありました。私の最寄り駅は、他の路線が通っていないので、この駅を通る電車が不通になると、万事休す、ということになります。どうにも身動きがとれなくなるのです。駅の構内にいた人々は、自力ではどうにもできず、電車が復旧するまで待つしかないことを悟って、「悟りの境地」に達していたため、みな、あのように端然としていたのです。私はというと、「悟りの境地」を突き抜けて、一気に「涅槃の境地」に到達してしまいました。。。(涅槃<ネハン>:お釈迦さんのご臨終のこと)今日は、朝から幹部説明が予定されており、しかも、部下ではなく、私が発表する予定になっていたのです!!!自分でも、みるみる顔から血の気が引いていくのがわかりました。手の指先が、すぅーっと、冷たくなるのがわかりました。「と、とにかく、電話を!」と思い、携帯電話を取り出した瞬間、構内アナウンスが始まりました。「***駅では、現在、レスキュー隊が到着して、負傷者の救出に当たっています。運転再開は、30分から1時間後となる見通しです」一瞬、視界がブラックアウトしかかりました。タクシーで乗り換え駅まで出ても、軽く30分はかかります。このまま運転再開を待つべきか、あるいは、タクシーで最寄り駅まで出るか?とりあえず、駅の構内を歩いてタクシー乗り場に偵察に行ってまいりました。・・・・長蛇の列・・・・駅をぐるりと取り囲むほどの列ができています。こんな極限状態に陥っているにもかかわらず、私の頭の中には、「ぐるり」という言葉からの連想で、あるイメージが展開されています。江戸時代の博多の禅僧である仙崖和尚が、新築の家に呼ばれて、書と画を書いてくれるように頼まれた。和尚が「ぐるりっと、家を取り巻く貧乏神」と書くと、家の主人は渋い顔。そこですかさず和尚は、下の句を続けた。「七福神は外へ出られず」。主人はにっこり・・・人間、極限状態になると、記憶の扉が勝手に開いて、わけのわからないものが飛び出してくるようですね・・・。このまま仙崖和尚と禅問答していても、全く事態の解決にはならないので、とりあえず、もとの駅構内に戻りました。こうなったら、とにかく、運転再開を待つしかない。最初の電車になにがなんでも乗り込む。これしかない。改札からは、まだ「悟りの境地」に達していない「凡夫」が、焦燥感をあらわにして、ぞろぞろ出てきます。それを尻目に、私は改札口を入り、ホームに下りました。とにかく、1センチでも、電車に近いところに陣取らなければ!!ホームは、すでに、血相を変えた群集で溢れかえり、まるで革命前夜の如し。ロシア革命とかもこんな感じだったのかな・・・などと、頭の中には、教科書でみた記憶のある、「血の日曜日」の挿絵が・・・そうだ、ロシア革命なんて思い起こしている場合じゃない! オフィスに電話しなければ!慌てて携帯を取り出して電話すると、いかにも眠そうな声で部下が出たので、事情を話し、「30分くらい遅れる。他の人に先にレクチャーしてもらっていてくれ・・・それでも・・・私は・・・駄目かもしれない・・・」と告げました。さすがに部下も事態の深刻さに気づいたようで、思わず、「えらいこっちゃ! とにかく万難を排して出勤してください」と電話口で大声を出していました。万難を排して、って言ったって・・・どうするよ・・・群集はますます増えるばかり。駅のアナウンスは、同じ放送を繰り返すばかりで、埒があきません。駅員を取り囲んで詰問する人も出始め、まさに革命前夜の如し・・・。私は、というと、部下の「えらいこっちゃ」という声が脳裏で、くわーんくわーん、と反響していて、やがて、「エライヤッチャ、エライヤッチャ、ヨイヨイヨイ」と浴衣を着て乱舞する阿波踊りの群集の白昼夢をみていました。そういえば、最近、高円寺の阿波踊りを見に行ってないなあ。もう何年になるんだろ。そんなことを頭の片隅で考えながら、「ああ、こういうのがいわゆる錯乱状態なんだな」と、妙に落ち着いて自覚していました。。。。そのうち、ようやく電車の運行が再開され、やっとホームに電車が入ってきました。が、先頭車両が私の前を通過したとき、地獄が見えました・・・・。顔が変形するほど窓に押し付けられた人、窓からみると、つり革につかまっている手しか見えない人・・・人いきれで、窓も白くなっています。こんな状態の電車に、さらに、この駅で人々が乗り込む!想像しただけでも、戦慄を感じましたが、とにかく、何が何でも乗らなければなりません。電車のドアが開いても、ほとんど誰も下車してこない中、私を含めた群集が反動をつけて、車内に駆け込みます。「もう乗れない」と思えたのに、摩訶不思議、さらにどんどん人が乗れてしまいます。一体、どこにこんな隙間があったのでしょう。しかし、その結果、車内は、文字通り、身動きができない状態になりました。私の後ろに立っているオヤジの傘が、私のお尻にぺったりくっついて、水滴がズボンにみるみる染みてくるのが体感されます。ホームには、まだ取り残された群集がいるらしく、発車のメロディーが延々と鳴り続ける中、ドアのところで、「乗せろ!」、「もう乗れない!」という、押し問答が繰り広げられています。そのうち、強引に若い男が車内に体当たりをかまして乗り込んできました。その一撃で、車内は臨界点を突破したようでした。私は、本当に息ができなくなりかけて、「これが圧死というものか」と思い始めました。そして、脳裏には、蒸気機関車にまで人が鈴なりになっている、終戦直後の「買出し列車」のセピア色の映像が・・・そんなとき、車内の奥深くから、絞り出すような悲鳴が!!「・・・息ができない・・・息ができない・・・」そして、「おばあちゃんが潰されてるぞ!」という、大声が!!まさに阿鼻叫喚でした。途中駅から、さらに人が乗り込んできて、事態はますます地獄絵図の様相を強めてきました。。。。ようやく乗換駅に着き、群集が一気に吐き出され、私もようやく外気を吸うことができました。これでオフィスにたどり着くことができる・・・・早速、携帯でオフィスに電話を入れました。再び、「えらいこっちゃ」の部下が出ました。「あっ、もう大丈夫です! 幹部も同じ路線なので出勤できず、今日の説明は延期になりました。慌てず、ゆっくり来られても大丈夫ですよ」なんのために、あんな思いをして、電車に乗ったのか・・・乗り換え路線へと津波のように流れていく人波を眺めながら、ふと、「今日、休んじゃおうかな・・・」などと、思ってしまった私でした(ちゃんと出勤しましたけど・・・)。
October 17, 2005
コメント(2)
今日は、正午頃に起きました。週末はいつも生活リズムが乱れて(乱して)しまいます。今日は所用があって、横浜の実家に行きました。暑くもなく、寒くもなく、しかも蒸す、という微妙な気候だったので、何を着るか迷いました。このくらいの季節が一番、衣服に気を使います。冬着にして暑くて汗をかくのは嫌ですし、夏服にして薄ら寒くて風邪を引くのも困りますし・・・。暑いか寒いか、どちらかのほうに偏っているほうが楽なんですけどね・・・。地下鉄に乗ったのですが、外が見えなくて視覚的刺激に乏しいうえ、先日以来の疲れが出たせいか、うとうとしてしまいました。幸い、本日は乗り過ごしたりしませんでしたが。どうやら、その間に地震があったようなのです。私は全く気がつかず、別の私鉄に乗り換えてから、車内アナウンスを聞いて初めて知りました。都営地下鉄は、全然、アナウンスしてなかったなあ(駄目じゃん)。私鉄は、地震のせいで、線路点検が必要になり、電車が遅れ始めているようでした。まあ、急ぐ用事でもないので、特段、心配もせずに、のん気にしてました。実家の最寄り駅についてから、駅前で和菓子を買いました。実家への手土産? いえいえ、私が賞味するためですよ。親は、いつでも駅前のお店で菓子など買えますからね。この季節には珍しく、「道明寺」がありました。そのほかには、「織部」(織部焼の緑色の釉薬の垂れ具合を再現した色合いになっている小さなお饅頭)、「栗蒸し羊羹」、「芋羊羹」を買いました。ここのお店の和菓子は、甘さが控えめなので、私の嗜好に合っているのです。焼き物の織部焼は、安土桃山時代から江戸時代初期に確立されました。利休の弟子のひとり、美濃出身の大名の古田織部正重然(フルタ オリベノカミ シゲナリ)が始めたものです。大胆に凹凸をつけた形状、目に鮮やかな緑色の釉薬、奇抜な構図、これらは、当時、人気を博したようであり、古田織部の施した工夫が現在でも茶の湯の随所に残っています。現在、私たちが家庭で使っている食器などにも、織部は浸透しています。織部は利休の茶道をよく継承・発展させた功労者と言えるでしょう。究極まで詫びを追求した利休に対して、織部は、広く世の中に受け入れられるための工夫を施しました。茶室の広さを三畳から、四畳半ないしそれ以上に広げたほか、道具や茶室の構図なども華やかで気品のあるものにしました。利休の茶は「静の美」、織部の茶は「動の美」、とよく対比されます。古田織部は、大坂夏の陣で豊臣家が滅びた直後、徳川幕府から切腹を命じられました。理由は、大坂方に内通し、幕府に謀反を企てた、というものでした。織部は長男とともに切腹し、古田本家は断絶しました。弟の家系は残り、熊本の細川家の茶道指南役として続きました。そんなことを考えながら、曇天の下を歩いて、実家にたどり着きました。以前にも日記に書きましたが、両親と私は、価値観が非常に大きく異なり、とくに美意識が全く異なるような気がします。おそらく、私の美意識は、幼少期に受けた厳格な道徳教育(ミッションスクール)、気品と個人主義と自己責任を重んじる校風(中学~大学)、武士道(母方の祖父)の影響を強く受けているように思います。両親はこの大半を受けていないし、母も祖父と仲が良くなかったため、あまり気質を受け継いではいないようです。このため、両親と私が一堂に会して食事をすると、「とにかく静かになる暇がないほど、大声で近所の噂話に興じる母(しかもちょっとのことでリアクションが大きい)」、「ワイドショーネタに関心を示し、ひたすら飲み続ける父」、「憮然として黙々と箸を動かす私」、という構図になります。とくに、私は、近所の噂話やワイドショーネタが大嫌いなのです。近所の家庭や俳優・タレントの私生活がどうなろうとも、自分たちの生活には全く影響ないじゃないですか。そんなに近所の家庭の素行が気になるなら、本人にはっきり言ったらいいのに。そうでない限り、こんな自宅の茶の間で愚痴愚痴と批判していても、何も事態は好転しないし、全く無駄だと思うのです。さすがに、私も両親に文句を言って、せっかくの夕食の雰囲気を冷めたものにしたいとは思いませんし、今更、そういうことを言っても、両親の性格が変るわけでもないので、ひたすら黙って耐えることになります。だから、両親と食事をすると、物凄く疲れるのです。本日の夕食は、私の好きな「天せいろ」(「もりそば」+「天ぷら各種」)でしたので、食事のお品自体には大満足だったのですが、とにかく疲れました・・・。へとへとになりながら帰宅してみると、部屋の中が大変なことになっていました!!!本棚に入りきらないので、机の上に山積みしておいた本が、ほぼ全部崩れ落ち、一部は、少し離れた私のベッドにまで飛んでいました。以前にも、夜中の地震で同じ事態が発生したので、おそらく今度も地震のせいでしょう。私の部屋は、舎宅の上層階にあるので、揺れが大きいのです。以前から「本を片付けないと危ないなあ、地震のときに本で頭を打って怪我したら、シャレにならないし・・・」とは思っていたのですが・・・・本気で整理しないといけないかもしれない・・・。とりあえず、大きく痛んだ本もなかったので、ほっとして後片付けをしましたが、実家での食事の疲れもあって、ベッドに少し横になっていたら、0時近くまで寝てしまいました。時計をみて飛び起きると、近所の部屋に向かって、心の中で「・・・すまん・・・」と手を合わせつつ、慌てて、洗濯機を回しました。明日着ていくワイシャツがない、という極めて切実な問題が起こっているのです!今、乾燥機が低く唸りを上げているところです。明日の朝は、ワイシャツにアイロンかけないといけないなぁ・・・。せわしなくなりそうです。なんだか休んだような、休まなかったような、微妙な休日になってしまいました。。。
October 16, 2005
コメント(0)
今日は、正午頃、本格的に目覚めました。シャワーを浴びて、新聞を読み、昨晩、コンビニで買ってきたパスタを電子レンジで温めて食べました。日記を更新してから、身支度を整えて、某大学に向かって出かけました。今日は夕方から、某大学で、経済学関係の小さな学会が開催されることになっていて、招待メールが届いていましたので、そこに参加することにしました。参加メンバーは、学者、官庁エコノミスト、民間エコノミスト、大学院生などです。正午頃には比較的天気が良かったのに、外出する頃には雨が降り出していました。正直に言うと、先週の疲れが溜まっていて、今日は自宅で静養したかったのですが、学会は年に数回程度しかないし、以前から強く興味を持っていたテーマなので、明らかに無理をして出かけました。電車を3回も乗り継いで、目的地の大学に向かいましたが、週末ということもあり、駅も電車も混んでいました。とくに渋谷駅は、いつ行っても、混んでいるような気がします。学生の頃は、よく飲み会が渋谷であったのですが、就職してからは、年に数回、東急百貨店か、松濤の観世能楽堂に行く程度です。どこにどんなお店があるのかすら、わからなくなってしまいました。銀座、赤坂、六本木、新宿には、休日に夕食を摂りに行ったりすることが非常に多いのですが、渋谷には縁遠くなってしまいました。。。。それだけ年をとったということなのでしょうか。会場となった大学は、私も数回、行ったことがあるのですが、やはり、母校以外の大学に入ると、道がわからなかったりして、それなりに緊張します。案内レターには、*号館**教室と書かれていたのですが、まず*号館がどの校舎なのか、がわかりません。さんざん迷った挙げ句、開催時間が近くなってきたので、やむなく近くを歩いていた学生さんに道を尋ね、ようやく会場に着くことができました。学会は2時間続き、講師の説明の後、質疑応答があり、いろいろな新しい動きについて知識が得られたので、大満足でした。散会したあと、有志が飲みに行ったようですが、私はなんとなく、気が進まずに、そのまま帰ってきてしまいました。帰宅してから、夕食をとったのですが、眠くなって、また寝てしまいました。この週末は、いくらでも寝られる感じです。少し寝て、また目が覚めて、ネットをしたり、ベッドに伏したまま、日本銘菓事典を読んだりしていたのですが、まだ疲れが取れない感じでした。そこで本を読むのをやめ、先々週に注文しておいた能のカセットテープ(CDじゃないんです・・・)を聞くことにしたのですが、これが失敗のもとでした。演目は「景清」(カゲキヨ)。平家の勇将として活躍した平景清(別名:悪七兵衛)が、源氏に捕らえられます。源平合戦での奮戦ぶりを讃えられ、命だけは助けられますが、日向の国宮崎に配流されます。景清には一人娘がおりましたが、まだ物心つかないうちに、景清が配流されたため、娘は景清の顔を知りません。やがて美しく成長した娘は、父に一目会うために、はるばる鎌倉から宮崎まで旅してきます。宮崎に着く直前、娘は、峠の貧しい小屋で、詩吟を詠じている盲目の乞食をみかけます。乞食に景清の消息を尋ねると、自分は知らないので他所で尋ねるように言われます。娘は、麓の集落で村人に景清の消息を尋ねると、あの乞食が景清だと知らされます。景清は、流人の身では満足に食事もできず、眼病にかかり、失明してしまい、今は乞食となって、近在の人々の情けにすがって生きているのです。景清は、現在の自分に絶望し、里人に辛く当たっては、すぐに里人の情けなしには生きられぬ身を思い出し、地面に手をついて謝る、という生活を繰り返しているのでした。村人に連れられて景清と対面した娘は、父に、知らぬ振りをされたことを責めます。景清は、今の自分の落ちぶれた姿を恥じて名乗りをしなかったことを告げ、美しく育った娘の声を聞いて、涙します。そして、父を知らずに育った娘に、「父」を与えるため、これまで誰にも語らずに封印していた、屋島の合戦での晴れ姿を語って聞かせます。景清は語り終えると、娘の身に迷惑がかかることを案じて、「さあ、行け」と娘を送り出します。娘も「まいります」と別れを告げ、宮崎を去って行きます。聞いているうちに、私は涙がこぼれて、止まらなくなりました。景清のこころが、痛いほどよくわかるのです。私は、職場に入ってから、日の当たる道を歩いて来れました。しかし、数年前、異常に独善的で偏執的な上司と激しく対立し、上司の不正(部下を私用に使った)を指摘したとき、上司によって、「反抗的で、職場規律を守らない」という理由で、経済分析と無縁な部署に左遷されました。その部署の人々は私を温かく迎えてくれましたが、私の生活は、それまでと一変せざるを得ませんでした。同期は次々と昇進していくのに、自分は取り残されたまま。経済分析とは全く無縁な部署で、淡々と慣れないルーティーンワークをこなすだけの日々。その部署の人たちは、職種が違うこともあり、昇進にはあまり関心がなく、きちんと仕事を消化したら、残業もせずに、さっさと帰宅する、という人たちでした。悪い人たちではなかったし、私の境遇を理解してくれて、仕事のやり方を丁寧に教えてくれただけでなく、なにかと良くしてくれました。でも、そこには、私の「居場所」はなかったのです。かつての栄光は夢の如く消え去り、今は、他人の情けにすがって生きるだけの生活。まだ捨てきれぬプライド。焦燥感と絶望感、いつの日か名誉回復されるのではないか、という僅かな期待、そして、過去の栄光だけを生きる糧にしている、そんな不甲斐ない自分自身に対する身を焦がすような自己嫌悪。自分をこのような境遇に落とした者への激しい憤り。容赦なく身を蝕む孤独感。酒で現実逃避することは、敵に後ろを見せるようで、絶対に嫌だったので、早く帰宅できるのを利用して、本をやレポートを読み続け、いつ、もとの職場に復帰してもすぐに働けるように、ブランクを作らないようにすることしかできませんでした。しかし、環境はなにも変らず、もとの職場に復帰できる見込みも立たない中、それすらも、一種の現実逃避のようにも思えてきました。自宅で深夜に目が覚めて、気が落ち着くまで声を殺して泣くこともありました。自分に期待をかけている親には、そんな逆境にいることなど話すこともできず、友達に話して哀れみの眼差しを受けるのはとうてい耐えられず、恋人とも別れた直後だったので、誰にもこの胸中を話すことはありませんでした。精神のバランスを崩す寸前で、戦前の外交官で、後に首相になった広田弘毅氏に関する本を読みました。外交官試験を通り、外務省で欧米局長という高い地位に昇進した広田氏は、政治家を巻き込んだ省内抗争の結果、小国のオランダの駐在大使に左遷されました。彼は、オランダ生活をそれなりに楽しんだようです。そして、現在の境遇に同情する来客に対して、次のような句を詠んで聞かせたということです。「風車 風の吹くまで 昼寝かな」そのうち環境が変るさ、それまでは、昼寝でもして、のんびり待ちましょうか、風が吹くまで止まっている風車(かざぐるま)のように。そんな意味の句です。この話を聞いたとき、「あー、そういうことか・・・」と、すっ、と胸が軽くなりました。こうなった以上、じたばたしても始まらない。今、自分にできることをやろう。それでも駄目だったら、そのときに考えればいいさ。選択肢は無限とは言えないけれど、でも、たくさんあるんだ。知識さえ磨いておけば、どこでだって通用するさ。そんなふうに思えるようになりました。やがて、かつての上司は、悪評がとうとう人事部署にも届き、そのうえ職場での不倫が露見し、とうとう外部に出向させられることになりました。それと同時に、私の名誉も回復され、私は再び経済分析を担当する部署に戻ることができました。「景清」を聞いていると、そんな不遇の時期の煩悶する自分の姿がありありと蘇ってきて、とにかく胸が一杯になり、涙が止まりませんでした。流れる涙をぬぐうこともできず、身動きひとつせずに、泣き続けました。そして、これからこの演目は、夜には決して聞かないほうがいいな、と思いました。しかし、あの身を裂かれるような時期があったからこそ、今の私があるのです。その辛い事実から目を背けて、過去を封印して、格好のいいことだけを高らかに語っていくのは、フェアではないような気がしました。そして、ちょっとだけ悩んだ後、このサイトのプロフィールに「年表」を書き入れることにしました。
October 15, 2005
コメント(2)
今日は、とうとうやってしまいました。週末になると、疲れも溜まってくるし、無事に1週間を乗り越えて、明日から休みだという安堵感もあって、やはり精神的に弛緩します。その結果、帰りの終電で寝てしまいました。席に座って、本を読んでいたのですが、そのままの姿勢で寝てしまい、気がついたら、終点よりひとつ前の駅でした・・・・。気が動転して、慌てて降りたのですが、当然、もう反対方向の電車は無いわけで、このまま駅にいるわけにもいかず、仕方なく改札口を出たのですが、駅前を見た瞬間、「しまった!」と思いました。この駅は私の最寄り駅から3駅離れているのですが、住宅街の真ん中で、周囲には何もないのです。今朝、少し寝過ごして、バタバタ支度して出勤したため、財布を家に忘れてきており、まず、その時点でピンチなのです。そのうえ、仮に「タクシーで帰って、家の前で待っていてもらって、代金を取ってくる」という選択肢を取ろうとしても、そもそも、この駅前には、タクシー乗り場すらないのです。仕方なく、細い街道を自宅方面に向かって、歩き始めました。自動車の交通量は、まあまあ多いし、コンビニも多いので、道は明るく、そんなに危険ではないのですが、やはり、週末の、しかも深夜に、スーツを着て、街道を、ただひとり、とぼとぼ歩く、という行為は、それだけで凹みますね。当然、私の他に歩いている人なんていないわけで・・・。そのうえ、パラパラと小雨が降ってきて、私は傘もささず(持っていなかったので・・・)、濡れるに任せて、淡々と歩くわけです。なんだか、失恋して自暴自棄になっている若者、みたいな感じでした(笑)30分くらい歩いた頃、空腹感が著しく強まってきたので、コンビニに入って、ソーセージの入ったパンを買いました。自動車が多く、対向車のライトで照らされながら、パンを食べつつ歩く、という行為は、ちょっと羞恥心に耐えられなかったので、やむなく、少し脇の道に入って、既に灯の消えている民家の門前の石段に腰掛けて、「夕食」を摂りました。理由を知らない第三者からみれば、完全に「不審者」であり、警察官に見つかれば、まず間違いなく職務質問を受けるでしょうし、下手をすると、住居不法侵入に該当しかねません。仮に門前の石段であっても、住居の一部と見なされるケースがありますので。実際に、悪質なケースに限って、ではありますが、マンションの郵便受けにチラシを入れに行った人が、住居不法侵入で逮捕された実例も複数、聞いたことがあります。これらの場合は、いわゆる風俗産業や某政党のチラシの配布であり、度重なる配布により、以前から警察にマークされていたり、住人から苦情が出ていた、という背景があるのですが、少なくとも、法律上は、住居不法侵入で立件できることは確かなわけです。そのため、周囲に気を配りながら、急いでパンを食べましたが、ますます、気分が滅入りましたね。深夜まで残業して、そのうえ、雨に濡れながら夜道を歩き、他人の家の前で、物音に怯えつつ、モノを食べている、私。一体、自分は、ナニをやってんだろう・・・と、思わずにはいられませんでした。さらに、週末の深夜ということで、やはり開放感に浸っているらしい若者が数人で、街道沿いのコンビニの前に座り込んで、手持ち無沙汰そうに、行き交う自動車を眺めている、そんな前を通り過ぎなければならない場面もあり、本能的に身の危険を感じましたね。できるだけ、おどおどせずに、堂々と自信を持って、隙を見せずに通り過ぎるしかない。嫌な汗をかきました(笑)それから、さらに歩くこと30分、合計1時間かけて、やっと自宅近くに辿り着き、コンピニで買い物をして、深夜2時近くに帰宅しました。さすがに疲れて、へとへとになって、着替えてベッドにちょっと横になっていたら、そのまま少し寝てしまい、明け方に目が覚めて、少しネットをししてから、また寝ました。
October 14, 2005
コメント(4)
私は、いつも、遅刻する1本前の電車で通勤しています。そのため、その電車に乗れないと、確実に遅刻することになります。今朝、いつもの時刻に家を出て、駅に着いたとき、普段は、ホームに入線して通過電車を待っているはずの、普通電車が、今日に限って、まだ着いていませんでした。「少し遅れてるのかな・・・」と思って待っていたのですが、いつまで経っても電車は来ず、結局、5分遅れで到着しました。私は、この電車で途中の駅まで行き、別の電車に乗り換えなければならないのですが、その乗り継ぎの余裕時間は8分しかありません。乗り換え駅は、鉄道会社が異なることも合って、駅と駅が離れていて、普通に歩くと6分かかります。したがって、もし、このままの遅延度合いで乗り換え駅に着いた場合、私は2分で乗り継ぎをしないといけません。普段は電車の中で本を読んだり、考え事をしたりしているのですが、今日はそんな気分になれず、しきりに携帯を開けて時間を確認してばかりいました。幸いなことに少し遅れを取り戻したのですが、それでも乗り継ぎの余裕時間は3分しかありません。乗り換え駅に近づいたので、座席から立ち上がろうとすると、ほぼ同じようなタイミングで、周囲の人々が一斉に立ち上がりました。そのときは、何も感じなかったのです。やがて、駅に着いて、電車の扉が開いた瞬間、私はホームに飛び出し、全力で走り始めました。改札口を抜けて、道路に出たところで、私は後ろから高校生らしい男の子に抜かれました。それでも走っていると、やがてバラバラという異様な音が響き始めました。何事かと思い、走りながら、ちらっと後ろを振り向いたとき、私は一大スペクタクルを目の当たりにしました。老若男女を問わず、あらゆる人々が、必死の形相で、こちらに向かって全力で走ってきているのです!!まるで、パニック映画で、津波から逃れようと群衆が一斉に走り出すかのように。そして、多くの「同胞」がいることに意を強くした私も、群集とともに、乗り換え駅の改札口に殺到したのでした(笑)なんとか乗り継ぎに成功して、肩で息をしながら、ふと、大学生のときの出来事を思い出しました。大学1年のとき、一般教養科目を選択して受講するのですが、評価の厳しい講義と、評価の優しい講義があって、当然、みんな、後者を受講したがるのです。しかし、教室のスペースの都合で、受講できる人数には制限があり、毎年、抽選が行われていました。私が1年生のときも抽選が行われることになり、受講希望者がある教室に集められて整理券を配られることになりました。しかし、何かの手違いがあったのか、あまり広くない教室にたくさんの学生が集まる結果となり、教室から学生が溢れる事態となりました。やがて整理券が配られ始めたのですが、これも途中で品切れになってしまい、券を配っていた助手は、慌てて研究室に追加の券を取りに帰ってしまいました。私と友達は教室の前のほうの席にいたので、整理券をもらえたのですが、教室の後ろのほうにいて、整理券をもらえなかった学生たちが、まず、ざわめき始め、やがて、さらに事態を把握していない、教室の外にまで溢れていた学生たちが動揺し始めました。そんなとき、その講義を担当している教授(お年寄りでした)が、教室の様子を見に来ました。どうやら助手から知らせを受けて、取り合えず、手元にあった何枚かの整理券を持ってきたようでした。しかし、そのときには、既に教室の内外では、「流言」が広まり始めていたのです。「今年は受講希望者が多すぎるので、選抜が2段階になるらしい。まず、教室への先着順で整理券が配られるんだ。遅く来た者は、誠意がみられない、という理由で、整理券がもらえずに、まず足切りされるんだ」そんなところへ、まるで、「僅かな温情」を示そうとするかのように、数枚の整理券を持った教授が教室に入ろうとして、入口に現れたので、一気に噂が信憑性を持ちました。血走った目をした大勢の学生が一斉に教授めがけて、じりじりと詰め寄ってくる展開になりました。さすがに危険を感じた教授が急いで教室に入ると、それを追って、教室の外にいた群衆が、どっと室内に走りこみました。室内はたちまち身動きできないほど混雑し、これをみた教授は、慌てて小走りに教室の裏口から校庭に抜け出しました。それをみた室内の群集が、教授を追って入り口に殺到し、入り口を出た群集は教授を追跡し始めました。あまりの思いがけない展開に驚愕した教授が走り出し、それを学生たちが追い、さらに、それをみた関係ない学生たちまで、わけもわからずに一緒に走り出しました。別の教室に教授が逃げ込むと、群集は、そこで抽選が行われるのかと勘ぐって、その教室に殺到したため、教授が慌ててその教室を抜け出すと、教室に入れずに校庭にいた、別の学生たちが教授を見つけて殺到する。まるでパニック映画さながらの様相でした。やがて、整理券をもらっていた私たちまで、「このまま、もとの教室にいたら、勝手に抽選をされて、落選させられてしまうかもしれない」という、意味不明な焦燥感に駆られて、教授を追い求めて走り回る群衆の中に身を投じたのでした。結局、抽選は中止となり、整理券配布方式から、学籍番号の下2桁を抽選であらかじめ指定して、それに該当しない学生は受講申請できない、という形に変わりました。私は落選してしまったのですが、パニックの発生を間近でみることができて、それだけで満足してしまいました(笑)あの講義は今も続いているのかなあ・・・。
October 13, 2005
コメント(4)
昨晩は、珍しく早く帰ってきて、気が抜けてしまったせいか、つい、寝込んでしまいました。昨日の「予告編」どおり、今日は「日本銘菓事典」についてお話します。この本には、全国各地の和菓子や洋菓子が1000点以上も掲載されています。今日も帰ってきてから、読んでいたのですが、名前の知っているお菓子がいくつも出てくる一方で、初耳の名前も多く、本当に買って得をした気分になりました。私の好きな東京のお菓子で本に載っていたのは、「泉屋」のクッキー、「満願堂」の「芋きん」(芋きんつば)、「うさぎや」のどら焼き、新宿の「追分だんご」と「花園万頭」、「塩瀬総本家」の「志ほせ饅頭」、「大坂屋」の「秋色最中」、「虎屋」の「夜の梅」(羊羹)でした。実家のある神奈川のお菓子では、小田原の「ういろう」と「甘露梅」、鎌倉の「権五郎力餅」、横浜・有明製菓の「ハーバー」、藤沢・豊島屋の「松露羊羹」が載っていました。これらのうち、最も思い出があるのは、「泉屋」のクッキー、「大坂屋」の「秋色最中」、そして、有明製菓の「ハーバー」です。「泉屋」のクッキーは、私が幼児の頃、実家と取引のあった大手銀行の外回りのおじさんが、よく私のために持ってきてくれたものです。私は、そのおじさんのことを「クッキーのおじさん」と称していました。当時は、まだ金利規制があって、どこの銀行でも預金金利はすべて同一に規制されていた時代だったので、顧客は別にどこの銀行に預金しても同じだったわけです。そんな中、実家の近所に新しく別の銀行の支店ができたとき、私の両親は新しい銀行に預金を預け替えようとしたのですが、それを聞いた私が、「クッキーが来なくなる!」と泣いて反対したため、親も預金預け替えを断念しました。「クッキーのおじさん」は、子供をしっかりと手なずけた効果があって、預金確保に成功したのでした。ちなみに「クッキーのおじさん」は、その後、転勤で東北の支店に配属となり、後任のおじさんは、クッキーを持ってこなかったため、たちまちのうちに預金を預け替えられてしまいました(笑)やがて、私も小学生になり、バスを2本乗り継いで通学していたのですが、その中継点となる某駅の駅前に、有明製菓の支店があり、「ハーバー」を売っていました。午後、ちょうど、おなかのすく時間に学校から帰る途中、乗り継ぎ先のバスを待つ間、綺麗なお姉さんが売っている「ハーバー」を食べたくて仕方がありませんでした。。。小学生の私は、大人から「何か食べたいものはあるか?」と聞かれるたびに、「有明のハーバー」と答えていました。最近、「ハーバー」の名前の由来を知ったのですが、初代社長がハワイのパールハーバーに行ったとき、平和の願いを込めて、この菓子を作ることを思い立った、というものらしいです。有明製菓は1999年に倒産し、しばらく「ハーバー」も食べられなくなっていたのですが、旧社員の方々が会社を再建し、また販売されるようになりました。そして、中学生になった私は、今度は電車通学で、東京まで通うことになりました。学校への道の途中に大坂屋という菓子舗があり、そこで売っていたのが「秋色最中」です。学校が始まる時間には、まだお店は閉まっていますが、午後、下校時刻になると、お店は開いていて、和服を着た女性や、品の良いおばあちゃまが、お使い物にするのでしょうか、よく来店されていました。その後、高校は同じ系列の横浜の学校に進み、そこには大学の校舎もあったので、大学2年生まで通学し、大学3年生になって、再び中学の隣の校舎に戻ってきました。結局、大坂屋で「秋色最中」を買ったのは、就職が決まり、母校の中学校の恩師に報告に行くときの、たった1回だけでした。母校では、私が、自分の就職が決まったので、「しゅうしょく最中」を手土産に持ってきたのではないかと思ったようですが、正しい呼び名は、「しゅうしき最中」です。この店の開祖の娘が俳人の宝井箕角の弟子になり、「秋色女」(しゅうしきじょ)という俳号を用いたので、それに因んだものなのです。社会人になった直後は、赤坂の虎屋によく羊羹を買いに行っていました。羊羹「夜の梅」を買い、店内の喫茶室でお茶を頂きながら、お菓子を食べるのが好きでした。こうして買った羊羹は、実家への手土産になり、実家では、まず仏壇にお供えされてから、家族の口に入っていました。実家の仏壇に供えられるのは、菓子だけではありませんでした。毎年、初雪が降ると、必ず、母親は、小さなガラスの器に、雪を少し盛って、仏壇に供えていました。子供の頃は、それが不思議でならず、よく理由を尋ねたのですが、母親は、ただ「昔からそうしてきたから」とだけ答えていました。その後、祖母が亡くなる数日前、ちょうど真冬、病院の窓から外を見ていた私は、雪がちらつくのを眺めていました。祖母は長く入院していましたが、べつに深刻に悪いわけではなく、いろいろと煩わしい親類の家にいるよりも、病院で仲良しのお年寄りたちと過ごす生活が好きでした。ちらほら、と降る雪をみながら、私は祖母に、仏壇への初雪のお供えについて尋ねてみました。母親がちゃんと答えてくれないこともあわせて。祖母は、静かに微笑みながら、理由を教えてくれました。「昔、ずっと昔、うちのご先祖さんが、真夏に熱病で亡くなったんだよ。熱い、熱い、と、うわごとを言い続けてねぇ。残された家族は、もし今が冬だったら、雪を食べさせてあげられたのに、と言って、たいそう悲しんだのさ。それでね、せめてもの供養にと、初雪が降ったら、お仏壇にお供えしているんだよ。あんたのお母さんは、そういう迷信みたいなことは嫌いなひとだけど、その話が気に入ったんだろうねぇ、私がその話をしてから、毎年、言われなくても、初雪をお供えするようになったんだよ。そうかい、今も続けているんだね、感心感心・・・」私と同じで、霊や魂など信じない母親は、その信条と矛盾するような「初雪のお供え」について、私に説明したくなかったのでしょうね。その数日後、祖母は急に脳溢血で亡くなりました。あのとき、祖母に尋ねなかったら、私がこの話を知ることはなかったでしょう。昨年、実家に帰っていたとき、初雪が降りました。そのときも、私は「初雪のお供え」について、母親に尋ねてみましたが、「理由は忘れてしまったねぇ」と言って、はぐらかされてしまいました。私が一本気なのは、こういう母親の血を受け継いでいるからでしょうか。
October 12, 2005
コメント(0)
今日は9時頃に帰宅したのですが、そのあとうとうと寝てしまって、今、起きたところです。また寝なきゃ・・・とりあえず、暫定版として、今日、通販で届いた本「日本銘菓事典」の表紙を載せておきます。明日、きちんと書く日記の予告編です(笑)全国の和菓子1000銘柄が網羅されている本です。ちょっとだけ読んだのですが。実家の近所の、そんなに有名でもないと思っていた菓子店まで掲載されていて、期待大です!3000円も出して、こんな本を買ってしまいました・・・
October 12, 2005
コメント(2)
今朝は、心配していた通り、早朝に目が覚めてしまいました。4時に目覚めてしまい、これから二度寝したら、確実に遅刻すると思われたので、ベッドの中で5分近く、どうしようか煩悶していましたが、ふと、面白いことを思いつきました。これから職場に出勤してみようか?身支度の時間を考慮に入れても、6時過ぎには職場に着いてしまいます。おそらく、職場に一番乗りで、電話も一切、かかってこない中、仕事がはかどるんじゃないだろうか?そんな誘惑に駆られて、実行してみました!真夏と違って、5時過ぎの空はまだ真っ暗で、街灯がついていました。道を歩いているのはほんの数人で、私以外は犬の散歩中です。私の最寄り駅は某大学の近所で学生街なのですが、明らかに徹夜で飲んでいたと思われる数人の大学生らしい人たちが、駅前にたむろしていて、「こんなんでディズニーシーに行けるの?」とか話しているのが聞こえます。電車に乗ると、見たこともない光景が・・・1.アルコール臭が充満。2.電車の中で、スーツを着ているのは私だけ。3.一見して、人相の悪いおっさんがスポーツ紙(しかもぐしゃぐしゃ)を読書。4.座席に大の字になって寝ている御仁がいる。5.すがすがしい顔をした魚屋らしき人が仕入れた魚が入っているらしい箱を携えている。6.妙に化粧の厚い、疲れた顔の女性がいる。・・・・・とてもとても居場所がなくて、なんとも妙な気分でした。そんな中に、不思議なおじいさんがいました。汚いハンチング、よれよれのジャンパー、しかし、眼光は異様に鋭く、なんと、Wall street Journal(米国の代表的経済新聞<日本経済新聞みたいなもの>)を真剣に読んでいる・・・最初は、どこかから拾ってきた新聞を面白半分に眺めてるのかなー、と思っていたのですが、しばらく観察していると、視線がちゃんと横に動いていて、字を追っているようだし、英語を読むとき特有の、ときどき視線が行きつ戻りつするのがわかります。この人、只者ではないのでは・・・・。そのうち、心なしか表情が緩んできたので、何を読んでいるんだろうと思ってみていたら、新聞を折り返したとき、彼が読んでいたのは、米国株式の相場欄だったのがわかりました!!一体、この人、何者だろう?興味の尽きぬまま、彼は、途中の駅で降りてしまいました。そのあと、少しずつスーツ姿の人も増えてきて、不思議な光景は終わってしまいました。職場では、文句なく一番乗りで、守衛さんが非常にびっくりした顔で私を見ていました。日中も、さほど眠くもなく、仕事もまあまあはかどって、今日は比較的早くに帰れました。といっても、自宅に着いたのは0時ですが。自宅に着く直前、またまた不思議な光景をみてしまいました。不思議というより、鬼気迫るものを感じて恐かったですね。表通りから住宅街に入ってしばらく歩いたところの角に、この区画のごみ集積所があるのです。幾ら住民同士が注意しあっても、最近、近くにできたワンルームマンションの住人(大学生が多いらしい)が夜のうちにごみを出してしまうのです。明日は資源ごみの日なので、ちょうど、雑誌類が既に大量に出されていました。まず、その時点で、不思議に感じたのです。私が朝、出勤する際には、雑誌類はまったく出されていないのです。それなのに、今は、山のように積まれています。遠くからそれをみて、あー、また出しちゃってる・・・程度にしか感じなかったのですが、ふと、朝の光景を思い出して、「?」と感じながら、角を曲がった瞬間、若者が道ばたに座り込んで、街灯の明かりで雑誌を読んでました!!しかも、****な雑誌・・・・。しかも、ちょっとハードっぽい。なんか縛られてるっぽいし・・・。思わず、うわぁぁぁぁ、と声を上げそうになりましたよ。しかも、彼の傍らには、大きなバッグに、今、詰め込んだと思われる、同じような種類の雑誌が山のように・・・・道理で、いつも朝には雑誌が出ていないわけだ・・・驚いて、ちょっと立ち止まっている私に目もくれることなく、若者は、真摯に読書を続けています。よほど興味深い内容なのでしょう。あまり邪魔しても悪いので、そそくさとその場を立ち去り、しばらく行ったところで、そうっと、振り返ってみましたが、まだ読書中でした。家に帰るまで待てないほど、鮮烈な内容だったのでしょうか?以前、独身寮にいたとき、寮内で、面識のある人が屋内の雑誌置き場(ごみ出し用)から書物を持ち去る場面に出くわして、お互い、非常に気まずい感じになったことがありましたが、さすがにその場で閲覧してたりしなかったし・・・。最近の若いヒトって、他人の目を気にしない、と言われますが、まさか、その現れなのでしょうか?今度から、資源ごみの前の日は、あの道を通らないようにしよう、と思いました。
October 11, 2005
コメント(2)
今日は朝早くから、目覚めてしまい、少しネットをしたあと、急に眠気がさして、ベッドでうとうとしていて、はっと目が覚めたら、正午になっていました。東京の天気は雨ですが、私は雨の日も大好きなので、あまり気になりません。晴れの日には晴れの日の、そして、雨の日には雨の日の、それぞれの楽しみがあるからです。ずっと晴れの日ばかりだったら、変り映えしなくて、さぞかし、つまらないでしょう。晴れた日には気持ち良く、雨の日には憂鬱。そんなことは、誰かが決めたわけでもないのですから。シャワーを浴びて、新聞をゆっくりと読みます。あまりお腹もすいていないので、コーヒーを入れて、実家から送ってきたパウンドケーキを食べることにしました。コーヒーは、先日、届いたばかりの「モカ・ハラー」、エチオピア産のコーヒーです。極端な苦味がなく、マイルドで、僅かに、ほんの僅かに酸味が感じられる、とても飲みやすいコーヒーです。粉を入れてあるガラス器の蓋を開けた瞬間、かぐわしい香りがキッチン一杯に広がります。まるでコーヒーショップやカフェのように。こんなとき、いつも、サイフォンで、コポコポとゆっくりコーヒーを抽出できたら、もっと楽しいのにな、と思います。パウンドケーキは、クルミが入っています。私は、クルミが子供の頃から大好きで、よく親にせがんで買ってもらい、自分用の小さな木槌で殻を割って食べていました。外は静かに冷たい雨が降っているのに、部屋の中は暖かく、そしてコーヒーの香りに包まれています。ふと、音楽が聞きたくなり、ショパンのピアノ協奏曲(1番、2番)をかけました。昨日、読み始めた本は、まだ読みきっていないのですが、今日は、気分を換えて、「幕末の公家社会」(李 元雨[吉川弘文館])を開きました。江戸時代末期、倒幕勢力の中に組み込まれていった京都の公家たちの生活が、一体、どのようなものか、以前から興味がありました。とても貧窮していて、それが幕府への反感につながった、とも聞いていましたので。やはり、公家の石高はかなり低く、摂関家であっても大名家の家老くらいの所領しか与えられておらず、さらに驚いたことに30石しか与えられていない公家も多くいたことがわかりました。30石といったら、下級武士並みの石高です。その石高で、朝廷の行事に参列するための衣装代などまで自分で負担したのですから、さぞかし台所は苦しかったでしょう。そのうち、電話がかかってきました。同じ舎宅に住む独身者の同期のT君から、近所のロイヤルホストで夕食を一緒に食べないか、とのお誘いでした。私も、夕食はどうしようかなー、と思案していたところでしたので、お誘いに乗ってしまいました。以前から、日記で再三、書いていたように、今、「お肉食べたい症候群」の最中だつたので、ビーフシチューのセットを頼みました。お肉のボリュームもたっぷりで、温かく、コクのあるシチューを堪能しました。どうしても職場の同僚と一緒だと、仕事の話ばかりになってしまいます。お互い、末端管理職なので、職場の運営に苦労しているようで、愚痴ばかり言っていました。そんな中で、彼が、ふと、「関東人って、豚肉好きだよね」と言いました。彼は福岡の出身なので、常々、私のことを「関東人」と分類しています。私は、とくに豚肉が大好きなわけでもないので、「そうかなあ、自覚してないけど・・・」と言うと、彼は「西日本では、肉と言ったら、牛肉を指すけど、関東では豚肉を思い起こす人も多いみたいだね」と言っていました。その場では、「いやあ、それは思い込みじゃないの? 僕は、肉と言ったら、迷わず、牛肉を思い起こすね」と言ってみましたが、ちょっと引っ掛かりが残りました。こういう「引っ掛かり」をそのままにしておくと、気持ちが悪いので、早速、総務省統計局の「家計調査」をネットで調べてみました。その結果、なんと、T君の言うとおりだったのです。県庁所在地別の牛肉と豚肉の、それぞれへの年間支出金額(平成16年の1年間トータル)を比較すると、日本海側は札幌から金沢まで、太平洋側は青森から静岡まで、東日本地域は、豚肉のほうが牛肉に比べて支出金額が多く、名古屋・岐阜より西の西日本地域は、鹿児島と那覇を除いて、牛肉のほうが豚肉より支出金額が多くなっていました!!これだけ明瞭な地域性が現れるのも珍しくて、しばらく家計調査の品目別支出金額を眺めて楽しんでいました。やっぱり日本は広くて、多様なのですね。改めて、そんな当たり前のことを実感しました。
October 10, 2005
コメント(0)
今日も、比較的天候がくずついて、気温が上がりませんでした。以前から決めていたように、今日は、「買ってきたものの、読んでいない」あるいは「読みかけ」の本を読みました。最近、仕事が忙しくてストレスがたまっているせいで、本を衝動買いしてしまう傾向があります。興味があって、手にして読みたいからこそ、買った本なのに、読まずにおいておくのは駄目ですね。今日、読んだ本は、「京の和菓子」(辻ミチ子[中公新書])です。就職してから味覚の嗜好が少し変わり、甘いものも食べられるようになってから、菓子にも関心が出てきました。味覚の嗜好が変わった、と書きましたが、正確には、自分に合う味覚が見つかった、というほうが正しいでしょう。実家の「甘味」の基準は、私には常に過剰すぎて、両親が好む菓子は、いつも全く食べられませんでした。一族の中で、私だけが特殊で、味醂や醤油に至るまで、強い味付けのものは口に合わないのです。そのため、実は正月料理は非常に苦手でした。とくに煮物は全く食べられず、毎年、母親に小言を言われ続けてきました。しかし、就職して外食する機会が増えて気がついたのですが、私は薄味のものが好きだったのでした。そなこともあって、甘さを控えめにした、京都以西の菓子はとても好きです。金沢、松江の菓子も繊細でおいしいですね。江戸時代に茶道が盛んだった都市には、必ずと言ってよいほど、茶会に供しても恥ずかしくない銘菓があるような気がします。京都を除き、そうした都市の多くは、「藩」の城下町でした。江戸時代は、幕末の一時期を除き、政治の中心地は江戸でしたが、各地に自治性の高い「藩」が300以上、置かれたせいで、各地に多様な文化が展開しました。現代の言葉で表現すると、「地方分権」の時代だったのです。各地の「藩」では、農産物の収穫高を上げるため、農業政策をきめ細かに行いましたし、武士の教育にも熱心で、「藩校」が置かれていました。一方、幕府の直轄地であった「天領」では、年貢の税率が藩領に比べて低かったこともあり、また、幕府が教育政策を組織的に実施しなかったこともあり、全体として、緊張感に欠けた、のんびりムードが支配していたようです。年貢の税率は、高いところでは、紀州で八公二民にまで上がったことがあるのに対して、天領では四公六民が守られた、と言われています。そののんびりムードの結果、江戸と大阪を除き、天領からは、あまり優れた学者や思想家が出なかったようです。それでも、江戸時代のこの国は、全体としてみれば、教育が盛んで異常なほど高い識字率(字を読み書きすることのできる人の割合)を誇っていました。武士はもちろん、商人は読み書きができなければ帳簿をつけられませんし、船員は海図が読めず、また、農民も暦が読めなかったので、みんな寺子屋で字を習う必要があったのです。その結果、識字率は60~70%程度にまで達したと推定されています。識字率が100%となった現代から比べれば、国民の半数近くが字を読めない世界は想像できませんが、しかし、ロンドンの識字率が15%程度とされていることと比較すると、その異常なほどの高水準には驚かされます。これが、まるで手品のように、明治の近代化を実現させた原動力のひとつだったのでしょう。もうひとつ、この国がやってのけた「手品」があります。それは「郵便制度」です。明治政府は、各地の有力な農民、いわゆる「名主」の家々に、郵便局になってもらえないか、と頼み込みました。そうすることによって、郵便局のネットワークを早期に津々浦々まで整備しようとしたのです。郵便局を運営するためにはノウハウも支出も必要でした。しかし、名主たちは、郵便制度の意義をよく理解し、国家からの要請によく応え、郵便局を運営したのです。これが「特定郵便局」の始まりです。農民の統領である名主層が、十分な教育を受け、高い見識を備えていたからこそ、わが国の郵便制度は早期に確立されたのです。最近、郵政民営化の議論の中で、特定郵便局長が反対の論陣を張ることが多くみられます。彼らが反対する理由はよくわかるのです。そして、彼らの祖父、曽祖父が、政府のために一大決心をして、郵便業務を請け負うこととなったかも。郵政民営化の議論の展開に、私は少なからず不満なのです。郵便局、郵政公社が悪いのではなく、問題の本筋は、彼らの集めた資金が非効率な国家事業に大量に投入されていて、大きな損失を生んでいることなのです。そして、その非効率な事業を運営している組織には、多くの場合、監督官庁の退職者が入って比較的高い給与を得ており、いわば、「官僚時代に薄給で働いた人々のための、生涯所得補填の場」として使われています。また、地方では、そうした「非効率な事業」が許されることによって、それを執行する建設関連業者が存続することができ、地方の雇用の確保を行ってきたのです。この国の財政状況は、いまや危機的状態にあります。中央政府や地方自治体(都道府県、市町村)の借金は膨大なものとなり、今や先進国の中で、最悪の状態です。このまま放置すれば、いずれ、借金が返せなくなり、政府は破綻します。政府が破綻した場合、何が起こるでしょうか?日本政府の国債は外国の投資家が買っています(毎回の発行額の5%程度)。政府が破綻して、そうした国債の元本や利子が払えなくなったら、外国の投資家は一斉に、日本国債を売却するでしょう。また、日本政府の信用失墜は、日本経済全体の信用失墜を連想させますので、日本の株式に投資していた外国投資家も、株式を売却して、日本から資金を引き揚げるでしょう。2006年の東京証券取引所での株式の売買代金は約550兆円、そのうち195兆円が外国投資家によるものでした。実に約4割が外国投資家による取引なのです。それほどまでに、日本の株式市場における、外国投資家のプレゼンスは大きいのです。外国投資家の一斉売却によって、日本の株価が急落すれば、株式に投資していた金融機関、一般企業、家庭は、破滅の淵に臨むことになります。そうした家庭や企業は、予定していた出費を圧縮して節約しようとするでしょう。たとえば、自家用車の買い替えを取りやめたり、先延ばししたりするというようなこともあるでしょう。また、これから株式を発行して、資金を調達し、工場の機械を増設したり、店舗を拡張しようとしていた企業は、そうした設備投資計画を予定通り実行できなくなります。こうして企業や家庭がモノやサービスを買わなくなることによって、日本の景気は急速に悪化し、企業倒産の増加や失業率の上昇が発生するかもしれません。さらに、日本から資金が引き揚げられるため、円が売られ、大幅な円安が到来します。日本は、海外から、たくさんの物資を輸入しています。その輸入価格は、たいていドル建てです。1ドル=100円の時代、1ドルで輸入していたものは、国内では100円内外で販売されていましたが、円安になって、1ドル=200円になれば、国内での販売価格も200円程度に急上昇することになり、国民生活は深刻な打撃を受けます。今、納豆の値段が上がっていることを、どれだけの方がご存知でしょうか?納豆を収納しているプラスチックケースの値段が、原料となる原油価格の上昇の影響を受けているのです。こんな身近なものにまで影響が現れ始めているのです。円安の影響は、原油価格の影響よりも、もっとダイレクトに、かつ、幅広く、この国の国民生活に打撃を与えます。倒産や失業が増えるような不況の中で、物価はグングン上がる。最悪のシナリオと言えるでしょう。郵政民営化の本当の狙いは、郵便局を運営する会社にコスト意識を持たせることにより、採算の取れないような郵便局の数を減らしたりして、まず郵便局に集まる資金を減らし、それによって、「出口」である非効率な事業を整理しよう、というところにあります。それがあまり議論されておらず、単に「郵便局が減る」という点だけがクローズアップされている点が、私には不満なのです。それだけではありません。この国の人々、みんなで政府から、公共事業や減税というかたちで、何らかの資金支援を受けてきたことも、政府の赤字を拡大させました。そのツケをそろそろ払わねばならない時期に来ています。「自分は政府の恩恵にあずかっていない」と主張する人がいますが、それは誤りです。カネは天下の回りモノ。公共事業に投下された資金は、それを受注した建設会社の社員の給料にも回されます。あなたのお父さんが建設会社に勤務していれば、あなたも間違いなく政府の恩恵を受けているのです。公共事業に投下された資金や、家庭への減税で戻ってきた資金は、商品やサービスの購入にも向けられます。あなたのお家がお店や会社を経営していれば、あなたも政府の恩恵を間違いなく受けているのです。そして、あなたがご両親からもらったお小遣いで物を買ったり、あなたのこ両親がいろいろなものを買えば、それを作っている会社の利益になり、その会社に勤めている、別のあなたのご家族のお給料につながっていくのです。みんなで、この国の「台所」を荒らしてしまったんですから、みんなで責任を持って、それを埋める必要があります。政府にも無駄な支出を切り詰めてもらいますが、それでも足りないところは、増税しかありません。感覚的に増税は嫌だ、とみんな思いますが、これまでの「饗宴」の代金を食い逃げすることはできません。宴は終わったのです。
October 9, 2005
コメント(0)
本日2本目の日記です。前の日記の続きです。平家については、もうひとつ、汚点があります。それは、壇ノ浦で、安徳天皇を道連れにしたことです。「天皇」という「公的存在」を私物化していた、と非難されても抗弁できないでしょう。しかも、安徳帝はまだ8歳で未成年であるため、仮に帝が入水を承諾したとしても、その意思を立証することはできません。現代では、未成年が高価な買い物をした場合、法律上は、本人の意思だけでは売買契約が成立せず、親族のクレームがあった場合、売買契約を解除できます。それと同じです。平家の滅亡は自らの戦略の失敗の帰結、と言い切ってしまうことができるのですが、安徳天皇のご最期は、あまりにもお気の毒であり、胸がとても痛みます。能に「大原御幸」という演目があります。平家滅亡の1年後、京都北方の大原・寂光院で一門の菩提を弔う生活をしていた建礼門院(安徳天皇の母。平清盛の娘)のところへ、後白河法皇(安徳天皇の祖父。建礼門院の義父)が訪ねてきます。本当にこうした事実があったのかは、議論があるところですが、既に鎌倉時代の初期に書かれた書物の中に、法皇が建礼門院を訪問した、という記述があるため、史実の可能性も高いと言われています。後白河法皇は、途中までは平家と提携していたのですが、その後、平家が独自政権構想を強めると、これを見限り、源氏に鞍替えし、平家の追討を命じた人物です。建礼門院にとっては、一門の仇と言うべき立場です。建礼門院に、法皇は平家滅亡の様子を語らせたばかりか、我が子、安徳帝の最期の様子も語らせます。建礼門院にとっては、自分が生き残り、我が子が亡くなった今、我が子の最期を語るのは、身を裂かれる思いだったでしよう。しかも、それを語る相手が、一門を死に至らしめた張本人とも言うべき法皇なのですから。能の詞書(台詞)に、このような一節があります。「その時、二位殿、鈍色(ニブイロ)の二つ衣(ゴロモ)に、練り袴(ネリバカマ)の稜(ソバ)高くはさんで、わが身は女人なりとても、敵の手には渡るまじ、主上の御供申さんと、安徳天皇の御手を取り、舷(フナバタ)に望む。いづくへ行くぞと、勅諚(チョクジョウ)ありしに、この国と申すに逆臣多く、かく浅ましき所なり。極楽世界と申して、めでたき所のこの波の下にさむらふなれば、御幸なし奉らんと、泣く泣く奉し給へば、さては心得たりとて、東に向かはせ給ひて、天照大神(アマテルオオンガミ)に御暇申させ給ひて、また、十念の御ために、西へ向かはせおはしまし」高校時代に古典を勉強していたので、その甲斐あって、今、これを現代語訳できます。高校生の時には、「古典なんか、今後、役に立つことなんてないだろう。無駄な学問だ」と思っていたのですが、こういうところで役に立ちました。以下、私の稚拙な現代語訳を載せておきます。「そのとき、二位殿(安徳帝の祖母。建礼門院の母)は、灰色の二つ重ねの衣に、袴のすそを高く挟んで、「我が身は女の身であるが、敵の手に落ちることは潔くありません。安徳天皇のお供をして、どこまでも参りましょう」と言い、安徳天皇の手を引いて、船端に出てこられました。安徳天皇が「どこへ行くの?」とおっしゃったので、二位殿は「この国は逆臣(天皇に害を与える者)が多く、このように浅ましいところでございます。極楽世界と言って、良い所が、この波の下にございますので、そこへおいでください」と泣きながら申し上げたところ、安徳天皇は「良くわかった」とおっしゃいました。安徳天皇は、父祖の神である伊勢神宮の天照大御神に現世のお別れの挨拶をされるため、東に向かって立たれたあと、ご自分の菩提を弔うため、西に向かって立たれました」能の舞台では、この部分は、謡(台詞)の節回しが情感たっぷりに謡われます。「練袴のそば高く挟んで」は「はぁさあんで」、「安徳天皇の御手を取り舷に臨む」は「ああぁんとく」、「ふなばたにぃのおぉぞぉむぅう」と、重々しく、この後の安徳天皇の運命を予感させる節回しとなります。私がいつもこの演目をみていて、涙が零れてしまうのは、「いづくへ行くぞと勅諚ありしに」という部分です。まだ年端もいかぬ幼い安徳天皇が、いつも傍にいて全幅の信頼を寄せていた祖母を、不思議そうに見上げる様子が、鮮烈に脳裏に浮かんでしまうのです。確かに軍船の船べりに立って、祖母を見上げる安徳天皇の姿がイメージできるのです。そして、これから我が子が入水しようとしているのを、ただ黙って見つめることしかできない建礼門院の悲しみも。ただ、建礼門院は、面前の後白河法皇に対して向けられたとも思える言葉、「この国と申すに逆臣多く、かく浅ましきところなり」と発しています。安徳天皇を死なせることになった本人である法皇は、まぎれもなく「逆臣」の側に立った御仁なのですから。この演目は、平家物語の「灌頂巻」(カンジョウノマキ)から題材を取っているのですが、大きく異なる点があります。平家物語では、法皇は建礼門院の話に涙するのですが、能では、法皇は涙しません。むしろ、平家がどのように滅んだのか、先帝がどのように亡くなったのか、そればかりに強い好奇心をかきたてられて、建礼門院にとって、加虐的とも言わんばかりの質問を投げかけます。いつもこの演目を見ると、思うのですが、私には、この法皇の姿が、事件や事故などで身内や友達が亡くなった人に対する、テレビのレポーターと二重写しになって見えるのです。それこそ、あまりにも「浅ましい」ことではないか、と思うのです。よく「他人の不幸は蜜の味」と言いますが、そんな浅ましい言葉が当てはまらないように、自分の振る舞いを律していきたいと思うのです。
October 8, 2005
コメント(3)
今日は、午後4時近くまで寝てしまいました。昨晩、というか、今朝は4時くらいに帰ってきたので、時間の感覚がおかしく、何時間でも眠れそうな感じです。起きてから、新聞を読んで、一息ついてから、録画しておいたビデオを見ました。NHKの「義経」です。私自身は、義経の悲運には、実はあまり同情を感じません。彼は、戦術家としては有能でしたが、戦略家としては能力が足らず、それにもかかわらず、京と鎌倉の織り成す「戦略」に身を投じてしまったために失敗したのでしょう。おのれの能力の限界を認識していれば、このようなことにはならなかったのではないか、と思うのです。よく、「戦略の失敗は、戦術の成功では、補えない」と言われます。義経は、常に戦術の人でしたが、平家を倒すことができたのは、ひとり、義経の戦術の成功によるものではないのです。西国の武家勢力や京都の朝廷とのパワーゲームを制した鎌倉政権の戦略的成功がなければ、いくら局地戦で義経が勝ったとしても、平家は西国にとどまり、そのうち兵站線(補給路)の伸びきった源氏は逆襲されて敗北したかもしれません。ロシア遠征で敗北したナポレオンのように。平家は、戦術面では、局地戦ではことごとく敗北していましたし、戦略も失敗していました。西国の大宰府にとどまり、じっくりと腰をすえて反撃の機会を狙えば、東国・京都は源氏政権、西国は平氏政権、というように、まるで南北朝のような形で、なかなか良い勝負ができたと思うのです。西国は、宋との貿易で富んでいましたし。後醍醐天皇以来の南朝が永らく命脈を保てたのは、三種の神器があったからで、当時の平家は、まさにそれを持っていたのですから。それにもかかわらず、平家は急ぎすぎました。よほど都への愛着が強かったのでしょうが、一の谷まで戻ってくるのが早すぎました。一の谷で敗北したことによって、平家の継戦能力(戦争継続能力)に疑問符がつき、人心を離反させる契機となってしまいました。大宰府に腰をすえ、西国の武家勢力に新たな政権ビジョンを示し、また、東国への所領拡大を約束すれば、東国・京都に対抗できたのではないかと思うのです。それにもかかわらず、平家も戦術重視で、とにかく源氏を戦場で敗北させれば道が開ける、と考えていたようで、西国の武家勢力のつなぎとめのための戦略は乏しかったようです。長くなったので、続きはすぐ後の日記に書き込みます。
October 8, 2005
コメント(0)
この3日間、深夜まで残業があったので、日記が書けませんでした。そこで、10/8日(土)のこの時間に、過去の日記を書いています。今日(10/7日)も、前日からの仕事の引き続きで、深夜4時に帰宅しました。さすがに明日は休みですし、仕事もようやく補正作業が完了したので、ほっとしています。今朝、出勤するときに、駅まで歩いていく際に、どこからか、金木犀の香りが流れてきました。この香りを感じると、私は反射的に体育祭を思い出します。小学校の頃、通学路に大きな大きな金木犀の木が植えられている家があり、体育祭の季節になると、花が満開になり、あの香りが通学路に一杯に広がっていたものでした。金木犀の香りは不思議です。芳香剤として感じる分には良いのですが、清涼感を強く刺激されすぎるせいか、菓子や食材に同じような香りが使われることはあまりないように思います。同じ系統の香りであるオレンジなど柑橘系の香りがよく使われるようですね。体育祭の思い出は、あまり楽しいものはありませんでした(苦笑)嫌な記憶もないかわりに、良い記憶もありません。もともと反射神経が良いほうではないので、体育はあまり得意なほうではなく、長距離走などで上位に入れる程度でした。そのため、体育祭自体の印象は薄く、金木犀の香りだけが強く記憶に残っています。金木犀の花が咲き始めると、夕方や夜が寒く感じられる日が増えてきます。私も、そろそろ合着のスーツに変えようと思いました。合着のスーツは、本当に着る期間が短いので、出番が少ないです。気候もちょうど良くなってきたので、この週末は書けなかった日記を書き、買ったまま読んでいない本を読むつもりです。
October 7, 2005
コメント(4)
この3日間、深夜まで残業があったので、日記が書けませんでした。そこで、10/8日(土)のこの時間に、過去の日記を書いています。今日(10/6日)、仕事が急に忙しくなってしまいました。原因は部下の仕事のミスで、分析結果の基礎になる数値が誤っていたのです。幸い、外部にリリースとして公表するものではなかったのですが、それでも、いろいろなところに影響し、どこに影響があるのか、を調査し、早急に補正することが必要になってしまいました。深夜まで残業が必要となり、結局、終電の時間をはるかにオーバーし、深夜3時近くにオフィスを出て、タクシーで帰宅することになりました。普段は混んでいる道であるのに、さすがにこんな時間だと、ガラガラで、とても考えられないような短時間で帰宅することができました。その帰路、タクシーの窓越しに、深夜の街を茫然と眺めていたのですが、たまたま一軒の居酒屋の前で、タクシーが信号待ちで止まったとき、居酒屋の窓に「戻りカツオ、入荷しました!」という張り紙があるのが見えました。「戻りカツオ」って、何なのでしょうか?一体、どこから「戻って」きたのでしょうか?カツオも、サケのように、成長すると生まれたところに戻ってくるのでしょうか?しかし、これまでにそんな話は聞いたことがありません。そんなことを考えているうちに、タクシーが自宅の前に着いていました。時間は遅かったのですが、どうしても気になったし、そうした気になったことは、たぶん、明日の朝になれば忘れてしまうと思うので、疑問をもったときに確かめておこう、と思い、ネットで検索してみました。「毎年7~8月頃になると黒潮に乗って、カツオが南方海域から北上する。その後、北海道沖までさらに北上し、水温の低い海を回遊して、秋に三陸沖、房総沖に戻ってくる。水温の低い海で回遊するためには、脂肪分を体内に蓄積しておく必要があるため、秋に獲れるカツオは身に脂が乗っていて美味とされ、「戻りカツオ」と称されている」なるほど、一旦、通過したカツオが、また戻ってくるのですね。ところが、ネットで検索した際に、おいしそうなカツオの刺身の写真をみてしまい、急に食べたくなってしまいました。オフィスには職員食堂があるのですが、食中毒を恐れているらしく、昼食に刺身が出たことは、ほとんどありません。そのため、刺身の好きな私は、時々、無性に刺身が食べたくなる日が、年に何回かあり、週末に自宅でマグロの刺身を食べたりしていますが、カツオはしばらく食べていないことに気がつきました。カツオは、軽く火であぶって「タタキ」(土佐作り)にすると、とてもおいしいものです。実家にいたときには、両親とも四季の生活観を大切にする人なので、必ず旬の魚や野菜が食膳に出ました。タイ・桜餅(3月)、春野菜(4月)、ハマグリ(5月)、初カツオ(6月)、鮎(7月)、キス・コチ・ウナギ(8月)、栗・柿・梨(9月)、ジャガイモ・サトイモ・落花生(10月)、亥の子餅・カレイ(11月)、ハゼ(12月)、ヤツガシラ(1月)、菜の花・タラ(2月)・・・キス、コチ、カレイ、ハゼなどの魚は、父親がよく釣ってきました。父親は釣りが趣味で、私も子供の頃はよく一緒に行ったものでした。父親が磯釣りをしている間、私は岩場でカニなどを見つけて遊んでいました。船釣りは、さすがに危険があるので、ほとんど連れて行ってもらったことはありませんでした。落花生やイモ類は、父親の実家の本家が神奈川県の中央部で農家をしていたので、よくそこから、送ってもらっていました。落花生は炒らずに、殻付きのまま塩ゆでしていました。亥の子餅は、茶道で使われるお餅で、11月に炉を開く「炉開き」のときに出されます。小豆が入った亥の子餅、銀杏餅、栗餅の三種類がありました。母親の実家は彦根藩(滋賀県)の武士で、茶道もたしなんでいたので、その慣習が関東出身の父親と結婚してからも引き継がれたようです。そんな食材の思い出とともに、初午、花祭り、夏祭り、月見、しまい弘法(12月)などの行事の思い出も蘇ってきました。最近、舎宅に入って一人暮らしを始めるようになってから、そうした季節感が失われてきているなー、とふと、感じました。せめて、週末に、スーパーで「戻りカツオ」を買って、秋を実感してみましょうか。
October 6, 2005
コメント(0)
爆発してます。うーん、今日も日記かけません。金曜日の夜に3日分、掲載しますね。それにしても、今、とんでもない時間です・・・
October 6, 2005
コメント(2)
この3日間、深夜まで残業があったので、日記が書けませんでした。そこで、10/8日(土)のこの時間に、過去の日記を書いています。最近、テレビのニュースで、インドネシアのバリ島での自爆テロがよく報道されています。インドネシア政府の治安当局者の発表によれば、犯人は、イスラム原理主義の武装テロ組織のようです。インドネシアは、97年のアジア通貨危機によって、長年に亘って大統領を務めてきたスハルト氏が失脚し、それ以降、いろいろな勢力間での対立が続いています。それは、スハルト氏の政治が、各勢力間での勢力均衡による政情安定を目指すものであり、彼が国内諸勢力の利害調整機能を担ってきたからです。このように書くと、スハルト氏が善政を敷いたように聞こえますが、そうした利害調整ができたのは、彼のもとに、公正・不公正を問わず、莫大な資金が集まったためであり、それを各勢力にバランスよく配分することができたためなのです。海外援助、インドネシアの成長を期待した海外からの投資や借款(海外からの融資)、国内外からの企業からのリベート、国営石油会社プルタミナを通じた油田やガス田の開発資金・・・それらがスハルト氏のもとに流れ込んでいたのです。ところが、アジア通貨危機がこの構造に強制的な終止符を打ちました。アジア通貨危機とは、97年に、タイの通貨バーツ、韓国の通貨ウォン、インドネシアの通貨ルピアが、外国通貨、主としてドルに対して暴落し、その結果として、これらの諸国の企業が抱えていた外貨建ての債務が、現地通貨建てでみて、天文学的な数字に膨らんでしまい、多数の企業や金融機関の倒産が相次ぎ、輸入物資の価格も大幅に上昇し、深刻な経済危機が発生した、というものです。通貨危機の結果、インドネシアに流れ込んでいた外国資金の奔流は枯れることになりました。外国企業とともに進めていた合弁事業は中断したり、あるいは中止されたりして、多数の失業者が発生したうえ、輸入物資の価格上昇は国民生活を直撃しました。首都ジャカルタを中心に暴動が発生し、スハルト政権が倒れました。その過程で、全国に政情不安が波及し、そうした中で、これまで固く封印されてきた、宗教対立という「禁断の扉」が開かれてしまったのです。インドネシアは、宗教が複雑に入り組んでいます。最大勢力はイスラム教ですが、植民地時代に広まったキリスト教や、イスラム教伝来以前からのヒンズー教も、一定の勢力を保持しています。それぞれの信徒は、お互いの違いを認識しつつも、文字通り隣り合わせで生活し、平和に暮らしてきたのです。しかし、近年、過激なイスラム原理主義思想が、貧しい階層の若者を中心に広がり始めていました。いつの時代でも、どこの世界でも、若者は、現状には不満足であり、その不満を巧妙に宗教に向けさせた者がいたのです。それだけではなく、インドネシアでは、国軍出身のスハルト氏が失脚し、民主政治を求める勢力が急速に力をつける中で、国軍・警察の勢力が相対的に低下することになりました。また、インドネシアは多民族国家であり、東端のアチェ州、西端の西イリアンジャヤ州などで独立を求める動きが強まりました。こうした動きに国軍・警察は非常に強い危機感を抱いていました。事実関係は、未だに明らかにされていませんが、外国報道機関の取材によると、ある日、突然、イスラム教徒がキリスト教徒を襲い始めたようです。今まで平和に暮らしてきた隣人が、突然、銃やナタで武装して襲いかかってきたのです。その背景には、イスラム社会に、「外国勢力に支援されたキリスト教徒が、イスラム教徒を襲って地域から追い出し、独立しようとしている」という、根拠のない流言が広まったことがあります。そして、武装した人々は、国軍や警察の管轄する港湾や道路を、何の制止も受けずに通行して、キリスト教徒を襲撃したのです。一部の暴徒は、国軍や警察の車両に乗っていた、という、証言があります。国土が騒乱状態になる中で、国軍・警察の治安維持能力に期待が集まり、地位の低下には歯止めがかかりました。一方で、イスラム教徒とキリスト教徒の対立は、北部のマルク州を中心に激化し、両派の対立で多くの人々が亡くなりました。そして、犠牲になった人々の家族や子供たちは、相手への憎悪を心に深く刻みつけて生きることになりました。今回のテロ事件を計画した組織は、キリスト教徒との抗争で親を失った若者たちをリクルートして成長した、と言われています。今、世界では、イスラム原理主義が急速に広まっています。その背景にあるのは、グローバル化の潮流に、相対的に出遅れてしまった中東諸国で、ますます国内で勢力を伸ばす欧米企業に対する不満が高まっている、ということがあります。また、中東諸国内でも、所得格差が拡大傾向にあり、相対的に貧しい階層の人々が不満を強めている、という国内問題があります。そして、これら中東諸国では、出生率が高く、若者が多いのです。必然的に、職業に就けず、社会の現状に不満を抱く若者を、大量に抱えるようになります。イスラム教は、貧困救済を教義の一部としており、組織として、貧困者の生活支援などを積極的におこなっています。とくに、イスラム原理主義という、「昔のような正しい教義に立ち戻り、みんなで助け合って生活しよう」という考え方の人々は、貧困救済に積極的です。そうした考え方が、失業者の多い若年層の強い支持を得るには、さして時間がかかりませんでした。また、失業しても生活していけるような、石油収入で国民全体が豊かな国でも、将来に期待を持てない若者が、イスラム原理主義に魅力を感じるようになっていきました。いくら豊かであっても、ヒトは、仕事を持たずに暮らすことには、苦しみを感じるのです。しかし、イスラム原理主義を主張する人々の中には、「異教徒の根絶」など、イスラム教の教義を誤って解釈して、欧米社会やキリスト教徒、ヒンズー教徒を攻撃する人々がいるのもまた事実です。そして、そうした過激な考え方に惹かれる若者もまた増えてきています。そして、そうした若者を集めて訓練を施したり、資金を与えたりして、活動させている人々がいます。わが国の狂言に、「宗論」という演目があります。私の好きな演目のひとつです。甲斐の国(山梨県)の身延山久遠寺に参詣に行った、都の法華宗(日蓮宗)の僧が、帰途、街道で一休みをしているとき、一人の僧と出会い、知り合いになります。やがて話しているうちに、信濃の国(長野県)の善光寺に参詣に行った帰りの、都の浄土宗の僧だとわかり、二人はびっくりします。法華宗と浄土宗は犬猿の仲だったのです。法華僧は、異なる宗派の者と一緒に旅はできないと言って、道を変えようとしますが、浄土僧は、しつこくついて回り、自分の持っている「宗祖伝来の数珠」で、法華僧の頭を撫でまわりたりして、意地悪をします。もともと気の強くて一本気な法華僧は、身が汚れた、と言って大騒ぎした挙げ句、全力で走って逃げようとしますが、浄土僧も同じように走り、狭い街道で、二人は押し合いへし合いをします。やがて、一軒の宿を見つけた法華僧は、そこに逃げ込んで、ようやく一息つきますが、追ってきた浄土僧に発見されてしまいます。同じ部屋にしてくれるな、と、宿の主に法華僧は頼みますが、あいにく、宿は満室で、結局、二人は相部屋になります。やがて、お互いの宗派の自慢から、宗教論争が始まります。論争に負けたほうが、勝ったほうの宗派に宗旨替えするというものですので、お互いに必死に論争しますが、なぜか、このお坊さんたちは、末端の、あまり不勉強なお坊さんだったようで、自分たちの教義を珍妙に解釈してみせるので、勝負はつきません。やがて、二人とも疲れて寝てしまいます。早朝、一足早く目が覚めた浄土僧は、またまた、寝ている法華僧の耳元で、大声で浄土宗の念仏(南無阿弥陀仏)を唱えて、法華僧をびっくりさせます。法華僧も負けじと題目(南無妙法蓮華経)を唱えて、狭い部屋の中で、押し合いへし合いしながらの読経が続きます。やがて、浄土僧は、立ち上がって、法華僧の周りを踊りながら念仏を唱えて回ります。この「踊り念仏」に、法華僧も「踊り題目」で対抗し、二人は、「なもうだ」、「れんげきょう」と交互に強く唱えているうちに、早口になっていき、やがて、お互いに、念仏と題目を取り違えて唱えてしまいます。「しまった!」と言わんばかりに、扇で顔を隠す、二人。しかし、しばらくして、扇を下ろしたとき、その表情は晴れやかです。二人はともどもに舞を舞い、「弥陀も法華も隔てはあらじ」(浄土宗も日蓮宗も同じ釈迦の教えじゃないか。違いなんてないじゃないか)と謡います。二人は、宗派の違いで、いがみ合うことの不毛さを悟ったのです。宗教というものは、人々の幸せを目指す、ということが目的であるはずです。その「幸せの目指し方」の方法論の違いが、宗教や宗派の違いであるはずです。方法論の違いに固執して、本来の目的を忘れて、いがみ合うことの無意味さを、この狂言は示しているのです。この演目をイスラム原理主義の人たちが見たら、どのように思うのでしょうか?
October 5, 2005
コメント(0)
今日は、なぜか、とても眠いです。。。。寒くなってきたせいかもしれません。日記に書きたいことはあるのですが、今日は睡魔に勝てません。明日、今日の分と明日の分の日記を掲載します。なんでこんなに眠いんでしょう・・・・。
October 5, 2005
コメント(2)
今日は、ほんの少しだけ早く帰ってきました。職場の歓送迎会だったので、赤坂に行ってきました。しかし、普通の職場では、飲み会があると、みんな家に帰るのが遅くなるのに、私の場合、飲み会があると、普通の日よりも早く家に帰って来られる、という珍現象が起こります。以前は、二次会とかにもよく行っていたのですが、最近は、職場の人たち同士で二次会に行くことなんてほとんどなくなりました。歓送迎会自体を「仕事の一環」とドライに考えている人が増えたのでしょうね。私自身は、飲み会は好きなほうです。誰かと楽しく話しながら食事をするのがもともと大好きなのです。お酒は、あまり飲みません。飲め、と言われれば、かなりの量は飲めるのですが・・・。ワイン、リキュール、ブランデーなどの果実に由来するお酒は、香りも甘い味も好きなのですが、職場の飲み会では、私があまり好きではない醸造酒(ビール、ウイスキー、日本酒など)が主流なのです。最近、リキュールに関心があります。オレンジの皮を使ったキュラソー(コアントロー)、チェリーを使ったマルニエ、桃を使ったドルフィ、アプリコットを使ったマリー・ブルザール、バナナを使ったクレーム・ド・バナナ、カカオを使ったエギュベル・リキュール・ド・カカオ、チョコレートのお酒ゴディバ、紅茶のお酒ティフィン、そして、英国スチュアート朝の秘伝のお酒ドランブイ・・・それぞれに歴史とエピソードがあり、それを想いながら、かぐわしい甘い香りを楽しみ、しかし、たくさんは飲まないものです。カクテルに使ったり、あるいは、ちょっと贅沢にアイスクリームにかけて食べたり、いろいろな楽しみ方ができます。最近、フランスのリキュールで「シャルトリューズ」という薬草由来のお酒を知りました。シャルトリュー修道院で修道士が作っていたものということなのですが、この修道院の名前を冠したものが、もうひとつあります。原産地は北アフリカ。グレーの短毛で声は小さく温和で優しい。この上品な顔立ちの猫も、この修道院で大切に飼われてきたものです。でも、リキュールを造ったり、猫を飼ったり・・・修道院は戒律が厳しく、修道士は楽しみを感じることすら禁止されていた、という禁欲の世界だったはずなのに、それなりに楽しみを見出していたのでしょうね。職場の飲み会では、リキュールなど出るはずもなく、また、料理も、お酒に合うものばかりで、しかもメインはお酒なので、料理はいまひとつ、というケースが多いです。私は、お酒に期待できないので、料理のほうに関心があるのですが、いつも、ちょっとがっかりしています。まあ、もとからどちらも期待してはいけないのでしょうね。飲み会が終わると、みんなそのまま帰ってしまうことが多いです。一部の人たちはカラオケに行くのですが、大きな流れになることもなく、あとはごく少人数で二次会に行く、というスタイルです。私は、どちらにも行かずに帰ってくるので、普通の日よりも早く自宅に着くことができてしまうのですが、いつも帰宅してから空腹になります。。。。今日は、家の近所まで来たところで、焼肉屋から、物凄くおいしそうな香りが流れてきていて、無意識のうちに、店内に入り込みそうになりました(笑)考えてみたら、もう長い間、焼肉を食べていません。そう思うと、今、猛烈に焼肉が食べたくなってきました。この3連休に、職場の同期でも誘って、何の遠慮もなく、おなか一杯、肉を食べてこようか、などと思い始めたところです。急に週末が待ち遠しくなりました!!
October 4, 2005
コメント(2)
今日は、朝から外部での会議があって外出していたので、オフィスに戻ってから、とても忙しく、やはり終電で帰ってきました。今朝は、遅刻しそうになりました(笑)朝起きて、新聞を読んで、シャワーを浴びて、ドライヤーをかけて、途中までは、いつもどおりの朝だったのです。トイレに入ったとき、視野の隅で何かが動いた感じがしたんです。でも、目を凝らして見ても、何もいないし、「いよいよ、疲れてきちゃったのかなー・・・」と思って用を足しました。そして、トイレから出ようとした瞬間、何か、かすかな羽音がしたような気がしました。羽音が聞こえたほうをみると、造花がついているトイレの芳香剤の陰に、なんと大きな熊蜂がとまっていたんです。咄嗟に「刺されるっっっ!」と思って、トイレから急いで出たものの、どうしようかと思案に暮れました。とにかく、私の部屋は密閉状態で、どこにも外からあんなに大きな蜂が入って来れるような隙間はないのに・・・。少なくとも、昨晩の時点では蜂はいなかったんです。いつ、入ってきたんだろう・・・。蜂が入ってきた経路や時間を考えているうちに、もっと大きな問題に気がつきました。このままにしておいて、いいんだろうか?蜂は毒針を持っていて、ときどき、夏に刺された方が亡くなったりして、ニュースになっています。あの蜂は熊蜂で、毒性の強いスズメバチではないから、たぶん、刺されても死ぬようなことはないかもしれないけれど、非常に痛いに違いないし、顔とか刺されたら、まず出勤できません。。。一瞬、視線が玄関に置いてある殺虫剤(ハエ用)に向いたのですが、それはとても、ためらわれることでした。あの蜂は、別にトイレの芳香剤にとまっているだけで、別に私に害悪を及ぼしたわけでもないじゃないか。それなのに、家の中にいたというだけで、命を奪ってもよいのだろうか? それは、私の身勝手なのではないだろうか?ハエや蚊、ゴキブリ、ナメクジのように、人間に害を与える虫ならば、身を守るために殺生をするのはやむを得ないけれど、単に、恐い、とか、気持ち悪い、とかいう理由で、虫を殺すのは、私は嫌いです。虫に罪科はないのですから。とても長い時間、逡巡しました。でも、出勤時間が迫っています。このまま考えているわけにはいきません。取りあえず、もう少し様子をみてみようと思って、トイレの扉を細く開けて、様子をうかがってみたら、蜂は、羽を小さく震わせて、なんだか少し弱っているようでした。どうやら、芳香剤の香りに誘われて近づいてきたものの、食べ物ではないことはわかったようですが、トイレから出るに出られずに、衰弱しているようでした。虫は脂肪などを蓄えませんので、1日や2日、物を食べないと、すぐに衰弱してしまいます。たぶん、このまま放置して、出勤してしまったら、深夜に帰宅したときには、おそらく蜂は餓死しているでしょう。それは、あまりにも、かわいそうに思えました。勇気を出して、トイレに入って、窓を開けて、外に逃がそうとしましたが、窓が高いところにあるので、気づかないらしく、飛び立つ気配もありません。時間も刻々と迫ってくるので、「もし、こっちに向かってきたら、すぐに逃げればいいや・・・」と覚悟を決めて、芳香剤の、蜂のとまっていない側を、そうっとつかんで、ゆっくりと窓の傍まで持ち上げてみました。外界が見えた瞬間、蜂は勢い良く窓から飛び出していきました。あまりにも、あっけなくて、拍子抜けしてしまいましたが、無益な殺生をしないで済んだ、安堵感を強く感じました。慌てて、身支度を続行しましたが、今日からネクタイを締めなければならないのに、ネクタイピンが見つからず、あちこち探しまくったのですが、結局、断念して、そのまま出勤しました。あの蜂は仲間のところに無事に帰りつけたのでしょうか?もし、そうならば、蜂は社会性があり、仲間同士である程度のコミュニケーションがとれるそうですから、きっと、食べられもしない芳香剤に引き寄せられて、どえらい災難に遭ったことを伝えているかもしれません。そんな情景を想像すると、ふっ、と、微笑ましく思えてしまいました。[ランキングに登録しています。お手数でなければ、下記の「ホームページランキングネット」という緑色の文字をクリックして頂けますと幸甚です]ホームページランキングネット
October 3, 2005
コメント(2)
今日は、朝早くから目が覚めてしまいました。お昼頃から友達と少し遠くに出かける約束をしていたので、その準備のことを考えていたら、無意識に脳神経が「遅刻してはいけない」という信号を発したようで、平日に起きる時間に目が覚めてしまいました。お昼過ぎに友達と待ち合わせて、池袋から西武線に乗りました。目的地は、所沢や飯能よりも、もっと遠い「高麗」(コマ)です。先日、通勤時に駅にポスターが貼ってあったのです。彼岸花が一面に咲き乱れる写真付きで。その場所は、「高麗の巾着田」と呼ばれている地区で、山あいの盆地に自然がたくさん残されているところです。「巾着田」という名前は、川が大きく湾曲して、ちょうど昔の人の巾着(財布のことです)のような形をしており、その湾曲部に田圃が造成されてきたからです。ちなみに、「高麗」という地名は、朝鮮半島にあった、当時の日本の友好国「高句麗」が唐・新羅連合軍に滅ぼされたとき、たくさんの人が日本に難を逃れ、王族を含む、一部の人たちが、この関東の地に定住したという言い伝えによります。言い伝えだけではなく、平安時代初期に編纂された朝廷の公式歴史書「続日本紀」にも、「霊亀2年(716)5月、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7ヶ国から高麗人1799人を武蔵国に移し高麗郡を創建した」との記事があります。今日、一緒に行動している友達はMちゃんです。今、最も仲の良い友達で、私よりひとつ年下です。とても気が合い、いろいろなところに一緒に行くことが多いので、周囲からは「彼女」ではないか、と思われているのですが、本人たちは、そのように思っていませんし、一線を守った関係であることは言うまでもありません。なし崩し的に付き合い始めることは簡単なのですが、それで良いのか、という点に、お互いにこだわっています。もう長い間、知り合いとして接してきたこともあって、今更、恋愛モードに移行できない感じもしています。それに、これは「逃げ」なのかもしれませんが、お互いに思ったことを率直に言い合える、今の関係が心地よく、もし、どちらかが恋愛感情を強く持ってしまったら、そういう関係が崩れるのではないか、という点にひるんでいるのかもしれません。「男女間に友情は成り立つのか」という、永遠の命題に挑戦しているような気もします。でも、たぶん、Mちゃんが誰かと付き合い始めたら、彼に悪いので、もうあまり会わないほうが良いような気もしていて、そのときのことを考えると、ちょっと寂しい気もします。私自身はどうかというと、前の恋愛がとても深いものであったにもかかわらず、とても悲しい終わり方をしたので、もうしばらくは恋愛はお休みしたい、という気持ちが強いのです。それはさておき、池袋から1時間半ほどかかって、ようやく高麗駅に着くと、私たちの予想とは大きく異なり、駅のホームは非常に混雑しており、改札口までなかなかたどり着けないありさまでした。ようやく駅前に出ると、露店や屋台がたくさん出ていて、まるでお祭りのようでした。確かに、ポスターには「曼珠沙華まつり」とは書いてあったのですが・・・・。私たちの勝手なイメージでは、そんなに人出もなく、清冽な川辺に静かな田園が広がっていて、そこに彼岸花が咲き乱れている、というものだったのですが。。。。そのうえ、今日は、あまりにも気温が高く、炎天下を長い行列にまぎれて歩かなければならないことが容易に予想でき、その時点で気分が盛り上がらなくなりました。私と付き合いの長いMちゃんも、同じように考えたらしく、私が、駅前の群集と彼女の目を交互に見て、無言のアイコンタクトで「どうする? 行く?」と尋ねると、ちょっと逡巡したような表情でしばらく考え込んだあと、ぽつりと「せっかく来ちゃったしね。とりあえず行ってみようか」と漏らしました。結果は予想通りで、強い陽射しで日焼けしかけるし、彼岸花の群生地では、一方通行が守られずに、細い道なのに、向こうから帰りの人が来たり、途中でしゃがんで写真を撮っている人がたくさんいて、通行妨害になったり、まるでデパートに買い物に行ったような感じでした。彼岸花自体は、一面に、赤い絨毯を敷いたように咲き乱れていました。こんなにたくさんの彼岸花を一度に見たのは初めてでしたし、中には、純白の彼岸花も咲いており、とても驚きました。彼岸花って、咲く時期がお彼岸前後であり、花の色が血の色に似ていたり、和名「曼珠沙華」が仏教と関係の深い梵語ということもあって、古くから禁忌されてきました。「死人花」という別名があったり、墓地の近くに植えられたり、あるいは、「花を摘んできて家に飾ると火事になる」とか「毒草」とも言われてきました。でも、それは、彼岸花が日本に伝来してから後になって、創作された話であり、彼岸花自身には全く罪はないと思うのです。それに確かに、根に毒を含んでいる毒草なのですが、長時間、水にさらせば、毒が抜けるので、飢饉や戦時中に貴重なデンプン供給源になりました。「火事になる」という言い伝えは、子供が誤って毒に触れないように、という意味を込めて語られているのでしょう。そんなことを話しながら2時間ほど歩いたのですが、中には、残念なこともありました。いろいろなグループの人たちと、前になったり、後になったりして歩いているときに、よく、聞こえてきたのは、近所の人の悪口や親戚の悪口でした。たいてい、中年のご婦人方のグループが声高に話しているのですが、なんで、こんな遠くまで時間をかけて来て、せっかく綺麗な花を見ながら、そんな話に熱中するのか、全く理解できませんでした。というか、そういう人たちまで来てしまう、ここって、よほど俗化されているんだなぁ・・・と思うと、少し悲しくなりました。その後、4時くらいに電車で池袋に戻り、ファミレスで夕食をとりました。さすがにお互いに疲れてしまいました。ちなみに、今日はよく歩いたので、デザートにマロンパフェを食べることにしました(笑)量が多かったので、Mちゃんと半分ずつ食べましたが、なかなかおいしかったですよ。今日の日記のタイトル「Lycoris radiata Herb」は、彼岸花の学名です。 「Lycoris」という名前は、古代ローマの女優であり、マルクス・アントニウス(ローマの雄弁家で、J.シーザーの部将)の愛人の名前に因むとも、ギリシア神話に登場する海の女神リュコリスに因むものとも言われています。花言葉は、「想うはあなた一人」、あるいは、「悲しい思い出」。[ランキングに登録しています。お手数でなければ、下記の「ホームページランキングネット」という緑色の文字をクリックして頂けますと幸甚です]ホームページランキングネット
October 2, 2005
コメント(0)
今日は、室内にいる分には、涼しくて、過ごしやすかったです。9時頃に一度、起きたのですが、また眠くなって、ベッドでうとうとしていたら、目が覚めたときには、午後4時になっていました。昼食にパスタに食べたあと、デザートにモンブランを食べようとして、コーヒーを入れる支度をしていたら、粉がかなり減っていることに気づきました。早速、通販でコーヒー専門店からコーヒーを買いました。数日後には届くでしょう。今のコーヒーは、ブラジルの手積み完熟です。他のコーヒーに比べて、ほんのりとした甘味があります。200グラムからの販売となっているので、だいたい1か月くらい持ちます。1か月も飲み続けると、さすがに少し飽きてくるので、いつも違う銘柄を購入して楽しんでいます。今回も、エチオピア産の「モカ・ハラー」という銘柄を買いました。エチオピアは、コーヒーの原産地と言われています。モカは、少し酸味があって、独特なフルーティーな味わいです。いつもコーヒーを買うお店は、自宅から非常に遠い府中市のお店です。店名に、サン・テクジュベリ(「星の王子様」の作者)の小説のタイトルが付けられています。通販で購入させていただくと、いつも、100グラムのお試し品として、普段はあまり入手できないような銘柄を無料で付けて頂けるので、いつも、「今度は何がついてくるのかなぁ」と楽しみにしています。最近、自宅に比較的使い早稲田に、豆の販売とカフェのお店を出店されたので、是非、行ってみたいと思っています。大きな書店に行って、いろんな本をあちこちと見て回り、さんざん悩んだ末に何冊か買って、帰りにカフェに寄り、買った本を見ながら、コーヒーとケーキを楽しむのが、私はとても好きなのです。読む本のジャンルは、だいたい以下のような感じですね。・中世史(フランス、ドイツ)・近世フランス史(大革命前後から第二帝政まで)・ギリシャ関連(中世のビザンティン帝国から現代まで)・中欧関連(オーストリア、ハンガリー、チェコ、クロアチアなど)・東欧関連(ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、セルビアなど)・オーストリア=ハンガリー帝国の構造・ロシア関連(中世のノヴゴロド共和国から現代まで)・イタリア関連(古代から現代まで)・中東・トルコ・イスラム関連・韓国関連・現代台湾関連・中国史(三国時代、宋、元)・欧州統合・国家論(国民国家、グローバル化など)・日本史(鎌倉時代から現代まで)・現代日本政治・日本経済(構造問題、財政、経済統計、景気分析、所得格差など)・わが国の貿易構造・マグロ、サケなどの海産物関連・農畜産物関連(輸入と輸出)・フレンチ、イタリアン、コーヒー、チョコレート、チーズ、カクテル、カフェ・ヨーロッパのテーブルウエア(ガラス製品、銀器、陶磁器)・能・狂言こうしてみると、ノンフィクションばかりですね。実は高校生前半までは小説が好きでした。高校2年生頃に、ノンフィクションも小説と同じくらい、スリリングで、感情移入できるなど、ドラマ性があることに気がついて以来、ノンフィクション中心になりました。でも、今でも小説は好きです。著名な作家の作品ではなく、オンラインで書かれておられる小説のほうが、新鮮でみずみずしい感性が感じられて、更新されるのが待ち遠しくて、楽しみです。最近、買いたい本があるのです。「沖縄文化の遺宝」(岩波書店)という本で、戦争で失われてしまって、今は見ることができなくなった、数多くの琉球王国時代の建物や工芸品などの写真集なのです。ただ、2冊で5万円以上の値段なので、さすがに買う「勇気」が出ません。この値段だと、今買いたいと思っている他の本、すべてが買えてしまいますし・・・・。新しいデジカメも欲しいし・・・。ボーナスが出たとき、気持ちがデジカメより本に傾いていたら、思い切って買ってしまうかもしれません。でも、期待外れだったら悲しい・・・。それで、内容を見定めるため、今度、平日に休暇がとれたときに、国会図書館に行って、この本を閲覧してみようか、と思っています。そもそも休暇がとれるかどうか、は、別の話ですが(笑)それまでに絶版にならないで欲しいです![ランキングに登録しています。お手数でなければ、下記の「ホームページランキングネット」という緑色の文字をクリックして頂けますと幸甚です]ホームページランキングネット
October 1, 2005
コメント(0)
全35件 (35件中 1-35件目)
1