( 承前 )<1月11日(5)>
国分小学校の坂を一気に走り下る。広い道に出る。この付近に筑前国分尼寺跡がある筈と探しながら行くと、ありました。何もない跡地。何もないのに「あった」とは変であるが、跡地とはそうしたもの。説明板には「礎石が1個残るのみ」とあるが、それすらも何処にあるのか、見渡せど見当たらない。
国分尼寺跡の南側の道を下り、県道112号に出る手前の脇道を300m程行くと水城東門跡である。途中に道真が衣を掛けたとかの言い伝えがある衣掛天満宮の森が右手に見えたが、これはパス。小生の持っている本では万葉歌碑が衣掛天満宮の入口から2軒目の民家の玄関脇にある、と記載されていたが、見当たらない。
それは水城跡東門の傍らにありました。どうやら、こちらに移設されたようです。
凡
(おほ)
ならば かもかもせむを 恐
(かしこ)
みと
振りたき袖を 忍びてあるかも (児島 万葉集巻6-965)
ますらをと 思へるわれや 水くきの
水城の上に なみだ拭
(のご)
はむ (大伴旅人 同6-968)
最初の歌は、天平2年12月、大納言に昇進した旅人が太宰府を去るに当っての送別の宴で、その宴席に侍った児島という名の遊行女婦が詠んだ歌2首の内の1首。
二番目の旅人の歌はこれに和して詠んだ歌である。旅人も2首詠んでいる。下の副碑の方には両2首が記載されているので、そちらを拡大画像でご覧戴くなどしてご確認下さい。
遊女児島と旅人がいい仲であったと見ることも出来る歌であるが、これは送別の宴会の座興だろうから、列席者の受けを狙った二人の「即興漫才」と見るべきだろう。
水城の東門のあった場所を県道112号が通過している。東側が一段高くなって展望広場になっているので、上ってみた。
途中にトレンクル君は置き去りとしました。
水城は天智3年(664年)に大宰府防衛のために築かれた土塁である。土塁の内・外に濠を作り水を湛えた構造であった。
百済救援・再興のため、援軍を送った日本であったが、663年、白村江で唐・新羅連合軍に惨敗、唐・新羅の侵攻の危険を差し迫ったものと感じていた当時の近江朝廷・天智天皇の危機感が感じ取れる遺物である。
それはさて置き、旅人の送別の宴はひょっとするとこの東門の土塁の高みで催されたのかも知れない。であれば、このような眺めの中で、旅人と児島は歌をやり取りしたのでもあろうか。
上の写真で言えば左側(南)からやって来て、右側(北)へ、即ち博多方面へと旅人は上京の歩を進めたということになる。
展望所から下りて来るとロウバイが咲き匂っていました。今回は季節柄、花のない銀輪散歩となりましたが、ロウバイが何とか色を添えてくれました。
さて、「大阪の旅人」なれば、「大伴の旅人」に非ず。水城の外は用なきこととて、内側に沿って西方向へと歩いてみる。トレンクルもおとなしくついて来ます。
木々が繁り放題の土塁の中はどうなっているのかと入ってみると、お墓がありました。と言っても一般私人の墓である。国の史蹟の中に私人の墓、つまり私物が構築されているとは奇怪なことである。それも随分最近に新調されたという雰囲気の墓もある。
墓近くの木の枝に「お墓の所有者の方、お話したいことがありますのでお電話下さい。」という大宰府市役所の伝言の貼られた板札が吊り下げられていましたが、きっと無視されているのでしょうな。
権利関係を巡る法律問題。公有地は原則として民法の時効取得は認められないが、事実上公用に供されていないような場合には時効取得を認める判例・学説がある、などと言う大昔に学んだ下世話なことが脳裏をよぎり、万葉人から平成人になりかかっているヤカモチでありました(笑)。まあ、見なかったことにして置こう。
この後は、万葉歌碑が沢山ある歴史スポーツ公園へと行くのですが、本日はここまでと致します。( つづく )
飛鳥川銀輪散歩(下) 2024.11.11 コメント(4)
飛鳥川銀輪散歩(上) 2024.11.10 コメント(2)
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