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11月25日のことです。いつものように夕焼けの空が素晴らしかったので、デジカメで撮影をします。いつも思いますが、この季節の空のグラデーションは最高です。と、ここまで写真を撮ったところで、隣にいた伴侶さんが「あっ、オーブが写っている」と言います。すると伴侶さんが今しがたフラッシュなしで撮影した写真に、大きなオーブがはっきりと写っています。もしかして、私にも写るかもしれないと思って、私はフラッシュ付きで撮影します。すると・・・・同じオーブが移動したのでしょうか。こちらの写真にも写っておりました。よく見ると、月のそばなどにも別のオーブがいくつか写りこんでいます。一番大きいオーブを拡大しておきます。構造がある綺麗なオーブですね。この場所は、私が肉眼(第三の目?)でオーブを見た場所でもあります。黄昏時になると、多くの精霊たちが動き出すのかもしれませんね。と思いながらフラッシュなしで写した最後の写真にも、見づらいかもしれませんが、オーブが写っておりました。
2009.11.30
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11月に撮影した写真から三つ紹介します。「雲化粧の富士山」。11月14日、葉山御用邸前の海岸から撮影しました。次は「光」。11月16日、テニスコートに向かう途中で撮影。秋谷の海に降り注ぐ光です。三つ目は「光と影」。前の写真と同じ日に、テニスコートから撮影した空です。幾筋もの柱状に流れる雲が面白かったです。
2009.11.29
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氷見からの北アルプスの風景を楽しんだ後は、もう帰るだけです。帰り道に、富山湾側から二上山が見えたので撮影します。霧の中に浮かぶ島みたいですね。少し時間があったので富山駅で下車し、富山市岩瀬の北前船回船問屋「森家」に立ち寄ります。北前船は江戸時代から明治時代にかけて、主に北陸から北海道、大阪へ向かう航路を行き交った商船のことですね。北海道からは干魚・塩魚・魚肥、コンブの海産物、大阪からは塩・鉄・砂糖・綿・反物などが運ばれました。貿易で儲けた人たちはこのような御殿を建てたんですね。家の中も豪華でした。家の中を案内してくれる人の口上が面白かったです。そうこうするうちに、帰る時間となりました。富山駅から東京駅までは越後湯沢乗換えで3時間16分。25年前には特急で6時間かかったことを思うと、富山も近くなりました。(終わり)
2009.11.27
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天柱石を訪れたことで、今回のツアーはほぼ完了です。尖山、二上山、天柱石の正三角形を時計の反対周りに回ったことで、封印が解けたとか。三角形の内側の方で、何か変化を感じられた方はご連絡ください(笑)。ところで前回、天柱石を訪問したときに喜楽さんの耳に聞こえてきたのは「雪の華」でしたが、今回は「Mr.ブルー 私の地球」だったそうです。ひめのさんと喜楽さんとは高岡駅で別れ、私たちは氷見に向かいました。そこの民宿(と言ってもほとんど旅館でしたが)で豪華な海鮮料理を食べて、温泉につかって一休みです。翌朝、部屋から富山湾越しに見えたのが、この風景です。北アルプスの夜明け。赤からピンクへと変わっていく空と海が綺麗でした。(続く)
2009.11.26
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二上山を下山した後は、二上射水神社、越中一宮の高瀬神社を経て、一路天柱石へと向かいます。途中、喜楽さんやひめのさんが「天柱石の方に光が降りている」と話していましたが、私は運転に専念しなければならず、よく見えませんでした。でも午前中の天気とは変わって、まぶしいくらいの晴天となっていたのは確かです。一年半ぶりの天柱石です。逆光でよくわからないかもしれませんが、木々の間からちょっと突き出ている岩が天柱石です。近くから撮影してみます。いつ見ても存在感がありますね。この日初めて気づいたのですが、天柱石のそばに紫色の実がなる木が生えていました。後で調べたら、どうやら紫式部(ムラサキシキブ)という熊葛(くまつづら)科の植物のようです。11月5日の誕生花ということですから、まさに見ごろを迎えていたことになります。前回の桐の花や藤の花といい、天柱石と紫は浅からぬ因縁がありそうです。前回もご紹介した天の真名井です。順光で撮影した天柱石。太陽をたくさん浴びて、とても穏やかな感じを受けました。天柱石の駐車場に戻る途中で撮影した山の紅葉です。空にはマンガチックな雲も出現しておりました。ニャロメ雲に変身!?(続く)
2009.11.25
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尖山に登った翌日(11月8日)は、レンタカーを借りて、同じ富山県の高岡市にある二上山に行きました。二上山から見た眺望です。天使の梯子が降りていますね。方位磁石を持って行かなかったので正確にはわかりませんが、右手の山の奥のほうに天柱石、左手のほうに呉羽丘陵、そして尖山があります。いずれも竹内文書に出てくる遺跡(神殿跡など)とされる場所です。面白いことに、こうした竹内文書の遺跡とされる場所を点として結ぶと幾何学模様が浮かび上がります。天柱石、尖山、二上山もそうで、実に正確に巨大な正三角形を描くんですね。手元に18万分の1に縮尺された富山県の地図があります。それで計ると、3辺とも21センチ(37・8キロ)ぴったりです。同様に竹内文書が天空浮船の発着場とした、東経137度11分の「羽根」のラインとあわせて考えると、かつてかなり高度な測量技術を持つ集団が日本にいたことがうかがえます。でもそんなことを記している史書など、まったくないんですね。竹内文書を除いていは。それが偽書とされながらも、これほど皆様に愛されている?理由でしょうか。余談ですが、尖山と二上山を結んだ線をさらに延ばしていくと、氷見市布施の丸山に行き当たります。布施の丸山は、水田の中に盛り上がった高さ20メートルほどの丘なのですが、かつては布施の海に浮かぶ小島で、大伴家持など万葉の歌人たちが好んで遊覧した名所でもあります。この小山も怪しいと思いませんか。正三角形の一辺を伸ばしたところに、だれかが人工的に小山を築いた気がするんですよね。では誰が? ・・・そうです。それは私(布施)です(笑)。その昔の「私」を祀った布施神社があるそうなので、お暇な方は是非訪れてみてください。おっと、忘れるところでした。二上山山頂の写真も掲載しておきましょう。標高274メートルの小さな山です。さて、残るは三角形の最後の頂点である天柱石だけ。私たちは天柱石のある平村へと向かいました。(続く)
2009.11.24
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富山地方鉄道の横江駅に着くと、地元の石田さんが出迎えてくれました。石田さんのお宅では美味しいお茶と野菜の煮物、酢の物、お稲荷さんをいただきました。いつもありがとうございます。ここでブログ仲間のひろころさんと合流。その後、荷物を石田さんの家に置かせてもらい、蔵王社・神明宮を参拝した後、尖山へと向かいました。今回も二年前と同様に一般登山道から途中でそれて、ヤブの中の旧登山道を進みます。この道は、ひろころさんがいなければ、たぶん行かなかった道でもあります。熊やマムシが一般登山道に比べて出やすいので、あまりお勧めできないんですよね。しかし石田さんによると、来年にはこの道も整備されるとか。しばらくすると、木々の間から尖山が現れます。すっかり紅葉しており、とても綺麗でした。斜面に無数の石が積まれている場所にも行きましたが、藪が深くて途中で引き返しました。そしてロープを伝って上る急坂の難所を無難にこなして、頂上に到着。559メートルと低い山ですが、360度見渡せて、この日は北アルプス・立山連峰もくっきりと浮かび上がっていました。左から来拝山、大辻山、奥に富士折立、大汝山、立山(雄山)などの3000メートル級の冠雪した山々が連なっています。帰り道は登山道を下ります。川沿いの道でとてもすがすがしかったです。ススキも綺麗でした。石田さんの家に立ち寄り、再びおいしいお茶をいただきました。今年で77歳になられたという石田さん。今回も過激な石田節が聞けて、うれしかったです。また寄らせていただきますね。ありがとうございました。(続く)
2009.11.23
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鞍馬山に登ったその日は、ひめのさんのニーナカロライに泊まらせていただきました。京都の町屋の風情があり、とても素敵なところでした。うわさのニーナカロライですから、お化けでも出るのかなと思っていましたが、なんとすぐに爆睡(笑)。たいへんゆっくりと、くつろいで休むことができました。ありがとうございました。また来年遊びに行きますので、よろしくお願いいたします。次の日は朝7時半にはニーナを出発、富山へと向かいました。なぜ富山に向かったかというと、昨年行けなかった旅行の続きがあったからです。話は二年前の1月にさかのぼります。ひめのさんのところに「白山菊理姫のところへ岐阜の位山から行く」という、わけのわからない霊示?があったところへ、不覚にも私が白山菊理姫のハンドルネームでひめのさんのブログに足跡を残してしまったんですね。そして、ひめのさんにまんまとつかまって、昨年五月位山に行くことになったわけです。位山探訪記はそのときのブログに書いてありますので、ご参考にしてください。ところで昨年5月に位山に行く前に、喜楽さんのリーディングがあり、どうやら位山だけでなく、天柱石、二上山、尖山に行くことになっているようだとなったのですが、昨年は位山と天柱石しか行けませんでした。そのため今年、残りの尖山と二上山に行くことになったわけです。さらに明かすと、位山と天柱石に行った件では、お2人にとても感謝しているんです。お2人から、私と伴侶さんにしかわからない一種の「暗号」を天柱石で手に入れます。その後のひめのさんからのメッセージで、それはほぼ決定的になります。この世にも不思議な物語はいずれ明らかにするとして、ひめのさんと喜楽さんのおかげで、伴侶さんとの魂の絆はますます強まったことは確かです。ありがとうございました。さて、そうこうしているうちに尖山が見えてきました。右のほうの屋根の上にちょこっと頭を出している山が尖山です。走っている電車から撮影したので、うまく撮れませんでした。この日は快晴で、遠くには雪化粧をしている北アルプスの山々がくっきりと見ることができました。(続く)
2009.11.22
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清水寺の後は嵐山へ向かったのですが、到着したのは、なんと夕方の五時。辺りはすっかり暗くなってしまっていました。市内よりも山のほうが紅葉が進んでいるはずでしたが、渡月橋から見る山々の紅葉は心眼で楽しむしかありませんでした(笑)。ということで、嵐山の写真はありません。翌日はひめのさんのニーナカロライを訪問するのですが、その前に晴明神社に立ち寄ります。陰陽師の都ですから、一応安倍晴明さんにご挨拶をしておかなければいけませんからね。晴明神社とご神木の楠。樹齢推定三〇〇年の大木だそうです。素晴らしいですね。鎌倉・鶴岡八幡宮のイチョウもそうですが、神社の境内にある巨木や古木が私は大好きです。その日はひめのさんたちと鞍馬山の紅葉等を見に行きました。私は京都に来ると、いつも鞍馬山のほうに足が向いてしまうんですよね。京都大学受験のときもそうでした。見事に落ちましたが、雪景色の鞍馬山は最高に綺麗でしたよ。青春のほろ苦い?思い出です(笑)。快晴で見晴らしもいいですね。三尊尊天を奉安した本殿金堂地下の暗闇ツアーが面白かったです。650万年前に金星からやってきた霊王サナート・クマラを奉安したという奥の院魔王殿も参拝。全山紅葉とはいきませんでしたが、貴船神社周辺の紅葉はかなり進んでいて、とても綺麗でした。(続く)
2009.11.21
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清水寺へ最初に向かったのは、ご飯茶碗を探すためでした。清水寺へ向かう茶碗坂を上って行きます。ところどころ紅葉していましたが、京都の紅葉の見ごろは11月の中旬ごろだなと思いました。茶碗坂のお店では、伴侶さんがずっと昔からほしいと思っていたご飯茶碗を見つけ、購入します。もちろん夫婦茶碗です。清水寺に到着。修学旅行の子供たちでごった返していますね。私も高校時代に修学旅行で清水寺に来たことがあります。それ以来でしょうか。清水の舞台。これまでの人生で何度、この舞台から飛び下りたことか(笑)。清水寺から見た西の風景です。山々が幾重にも折り重なっていて、幻想的です。下から見た清水寺。ちょうどこの写真を撮影した辺りの石垣のそばを歩いているときに、伴侶さんがイタチ科のテンの残像のようなものが石垣の横を走ってゆくのを見ています。私には見えず、おそらくは周りにいた人にも見えなかったと思いますが、生きている本物?のテンではなく、テンの形をした立体的な影のようだったと言います。さすが安倍晴明が活躍した陰陽師の都です。本当に魑魅魍魎(失礼!)や精霊が、今でも京の町を跋扈しているのかもしれませんね。もちろん本当に恐ろしいのは魑魅魍魎ではなく、自然を破壊し続ける人間のほうですが・・・。(続く)
2009.11.20
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11月5日、新幹線で京都へと向かいました。その車窓から撮影した富士山です。さすがに近くで見ると迫力があります。でも新幹線でいちばんはっきりと富士山が見える場所って、工場の煙突が立ち並んでいる富士市なんですよね。富士市煙突撤去モデル事業などによって煙突の数は減ったそうなのですが、それでもまだまだ多く、綺麗だとはとても言えません。富士山を世界文化遺産に登録してもらおうとの動きはあるようですが、富士山周辺で落とされるゴミや公害などの環境問題とセットにして登録してもらうのも面白いかもしれませんね。朝自宅を出てから約3時間50分後に京都駅に到着。最初に向かったのは清水寺でした。(続く)
2009.11.19
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11月3日(文化の日)の風景です。最初は富士山。次は伊豆半島に沈む夕日です。まさに没しようとしている太陽。日が没した後に訪れる美しい空のグラデーションです。この日も素晴らしい一日でした。ありがとう。
2009.11.18
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10月30日は千葉県の京成バラ園に行ってまいりました。このようなところです。まさに満開といったところでしょうか。今の寒さからは考えられませんが、この日は10月下旬だというのに、真夏のような暑さでした。太陽の光をいっぱいに浴びた薔薇さんたちの姿をお楽しみください。京成バラ園には今後も何回か遊びに行くことになると思います。
2009.11.17
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先月27日、鎌倉文学館の薔薇を見に行きました。前日の暴風雨にもかかわらず、薔薇が見事に咲いておりました。その鎌倉文学館から見た大島です。本当に近くに見えますね。数々の名士がここに泊まりたがったわけです。
2009.11.16
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10月21日に撮影した夕焼け雲です。最初はこのような色でしたが・・・10分後にはこのような色に変わりました。どちらも味わい深い夕焼けの色ですね。
2009.11.15
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雪化粧ならぬ雲化粧の富士山です。全体が見えないところが奥ゆかしいですね(笑)。雨風が強かった10月26日の翌日に撮影しました。
2009.11.14
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京都、富山旅行のことを書く前に、いくつかご紹介したい写真があります。今日は天使の梯子(Angel's Ladder)。10月21日、葉山の一色海岸沖に出現した光の梯子を撮影しました。綺麗ですよね。気象学的には薄明光線(crepusucular rays)と呼ばれているようです。いろいろな呼び方があり、天使の階段(Angel's stairs)、ヤコブの梯子(Jacob's Ladder)、レンブラント光線などの呼び名もありますね。
2009.11.13
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ギリシャの最終日です。その日は不思議な出来事がいくつか起こりました。一つは朝、伴侶さんがホテルで起きたとき、ベッドの上から部屋の窓越しに、角度的に言っても立っているべきはずがない場所に髭もじゃのギリシャ人男性を見たこと。二つ目は、前日スニオン行きのバス停で出会ったヨセフに街中でバッタリ出くわしたこと。そして三つ目はこの鳩さんでしょうか。この日再び訪れた国立庭園内の女性像の上にちょこんと止まっていたのですが、何かに取り憑かれたかのように、人間が近づいても、まったく動きません。この女性像の周りにはダビデの星が描かれているなど怪しげな場所ではありました。こちらは、歩道上で寝そべっていた普通のワンちゃん。のどかでいいですね。次は、国会議事堂前の衛兵交代式です。これで今回のギリシャの旅は終わりです。でも最後にとっておきの一枚が撮れたので、それをご紹介して今シリーズを終わりとすることにいたしましょう。帰りの飛行機の中で、伴侶さんが私のカメラで撮影したのですが、まさにベストショットとなりました。何がすごいかと言うと、まさにミコノスとデロスが鮮明に写り込んでいるからです。中央から右に写っているのがミコノス。中央やや左下がデロス、左下がレニア島です。チャーター機で上空を飛んでもらったとしても、なかなかこうは撮れるものではありません。たまたま左側の窓側に座ったのも幸運でした。そしてさらに面白かったのは、すでに飛行機は水平飛行に入っていましたから、かなり上空を飛んでいるにもかかわらず、伴侶さんはデロス島の遺跡の柱7,8本が鮮明に見えたと言うんですね。しかもズームインしたかのように拡大されて見えたと言います。本人は否定しますが、それって千里眼でしょ、って思ってしまいます(笑)。エーゲ海上空で不意に「私の島だ」と言って、ポロポロと涙がこぼれる中で始まったこの旅は、その「私の島」を見事に写真で捉えることで終わったことになります。でも実は、ギリシャはそれだけではなかったんですね。それは帰国してから体験した連続の夢や、突如現れる映像によって知らされることになります。その物語も、やがて語られる日が来るのだと思っています。(終わり)
2009.11.12
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アテネは歴史が古く、古代の建造物もあって面白いのですが、いかんせん車の排気ガスで空気は汚れ、騒々しく、全体的に乾燥しているので、時々オアシスが欲しくなります。そうした「乾燥地帯」から逃れるために、私たちはアテネ市のオアシスである国立庭園へと足を運びました。同じようにオアシスを求めてでしょうか、鳩さんたちがたくさん集まっていました。こちらは、自分を日時計だと思っている鳩?同じ方向を向いているのが、おかしかったです。伴侶さんも紹介しておりましたが、カラスのような鳥。形はまったくカラスと同じなのですが、模様が違いますね。お洒落ガラス? いったい何という鳥なのでしょう。この庭園のそばには、1896年の第一回オリンピックが開催された競技場もあります。5万人の観衆を集めたのだそうです。今から見ると、ちょっとシンプルな競技場ですね。盛りだくさんだったギリシャの旅もあと一日を残すだけとなりました。アテネの夕暮です。昨年秋の薔薇を愛でる会で見たときのような龍雲が赤く染まっておりました。このギリシャ探訪記のシリーズも、明日が最終回です。(続く)
2009.11.11
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陰陽師の世界が今も息づく京都から始まって、竹内文書に出てくる日来御堂(ピラミッド)とされる富山の尖山、万葉の里にそびえる高岡の二上山、五箇山の天柱石などをめぐる旅から昨夜帰ってまいりました。そこでの出来事は追々お伝えすることにして、ギリシャの旅に戻りましょう。ポセイドン神殿のあるスニオン岬からアテネに戻った私たちは、風の神の塔があるローマン・アゴラ(ローマ時代の市場)を訪ねました。このような所です。柱の向こうにある、大理石でできた八角形の塔が、風の神の塔です。1世紀の天文学者アンドロニコスが、日時計、水時計、風向計などの測量塔として建造したそうです。塔の八面は正確に東西南北と東南、南西、西北、北東に向かっており、壁の上部にはそれぞれの方角の神が彫られています。伴侶さんはその壁面に彫られた風の神の写真を何枚か撮っていましたが、「何か足りない」という感覚があったのだそうです。そして塔のそばにあった説明板の写真を撮ったら、その感じがなくなったとのことでした。日本に帰ってからその説明板の説明を読んだときに初めて、私たちはその塔の上にポセイドンの子である海神トリトンの像が昔は付いていて今はなくなっていたことを知ります。「何か足りない」はずです。やはり風の神はポセイドン絡みだったんですね。どうやら次なる旅のヒントはポセイドンのようです。まだ全貌はつかめておりませんが、ヨハネの騎士団、ポセイドン、ロドス、マルタ辺りでしょうか。このローマン・アゴラは、アクロポリスを見上げる場所にあります。パルテノン神殿辺りから変わった雲が流れてきたので撮影しました。ギリシャ探訪記はまだもう少し続きます。(続き)
2009.11.10
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この、のんびりしているギリシャの猫ちゃんたちのように、4、5日ブログをお休みいたします。ギリシャ探訪記は来週再開いたします。
2009.11.04
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ギリシャ神話と日本の神話は、そっくりそのままと言っていいぐらい似ています。そしてスサノオが乱暴者に描かれているように、ポセイドンもまた乱暴狼藉を働いた神として描かれているんですね。どうして神なのに悪く書かれなければならなかったか。その理由はおそらく、どちらも征服された古代先住民を代表する神だったからではないでしょうか。ギリシャ神話では、オリンポス神族とティタン(巨人)神族との戦いの後、世界は天界、海洋、冥界の三つに分けられました。その三つの世界を誰が統治するかを決めるため、くじ引きがあり、ゼウスが天界、ポセイドンが海洋、ハデスが冥界を治めることになりました。この3神は兄弟です。同様に日本の神話では、イザナギから産まれたアマテラス、ツクヨミ、スサノオがそれぞれ高天原、夜の食国、海原を治めるよう命じられます。ところがスサノオは海原を治めよとの命令に不満で、あちこちで問題を起こします。海洋を統治することになったポセイドンも、しばしばゼウスやゼウスに属する神々と領地などをめぐって争いを繰り広げます。よっぽど不満があったのでしょう、ゼウスの妻ヘラと組んで、ゼウスを殺そうともするんですね。だけどポセイドンの計画や戦いはほとんど失敗や敗北で終わります。そしてスサノオがアマテラスに対して乱暴狼藉を働いたように、ポセイドンはあちこちに怪物を出現させ、災害をもたらしたとあります。まさに悪者扱いですね。被征服者(先住民)を悪人扱いするのは、支配者の常套手段です。おそらく実際のポセイドンやスサノオは(もちろん実在していたらの話ですが)まったく異なる人物であったに違いありません。彼らの行動は悪意をもって解釈され、事実は曲げられ、時の権力者に都合のいいように書物に刻まれていったのでしょう。ポセイドンとスサノオの類似点はまだまだあります。スサノオの乱暴により怪我をしたアマテラスが激怒して、岩屋に隠れる天の岩戸の物語のように、ポセイドンもまた、姉である大地の神デメテルを傷つけてしまいます。怒ったデメテルは山中の岩屋にこもり、身を隠します。穀物の育成をつかさどる大地の女神がいなくなってしまったから大変です。農作物は枯れ、人間は飢えに苦しみ、大混乱となります。困ったゼウスらが何とかデメテルを説得して、ようやくデメテルが岩屋から現れるという物語が残っています。ポセイドンには大地を揺るがしたり津波を起こしたりする力があることはすでに述べましたが、スサノオもまた天に上るとき、「山や川はことごとく動き、国土も激しく揺れ動いた」「振動は海にまで響き渡った」とありますから、同様な力をもっていたことがわかります。そのほか、両者ともに馬との関係が極めて深いことや、ポセイドンが頭に蛇を持つ怪物メドゥーサと交わったのに対して、スサノオが8つの蛇の頭を持つヤマタノオロチを退治したことになっているなど、共通点は枚挙にいとまがないのが実情です。ポセイドンもスサノオも「乱暴狼藉」を働かなくてはならない、本当の理由がきっとあったんですね。あるいは支配者側が、天災や人災をすべて彼らのせいにしたかのどちらかではないでしょうか。その理由がいちばん理解できる解釈が、先住民の征服者に対する抵抗であり、征服者の先住民に対する迫害であったのではないかと私は思っています。こうして神話は、真実が捻じ曲げられ、しかし真実を隠しながら語り継がれていきます。ポセイドンが私に何かを伝えたかったのだとしたら、古代ギリシャで起こった真の歴史を見つめてくれ、というメッセージでしょうか。(続く)
2009.11.03
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スニオン岬に到着しました。やってきた方向を振り返ると、このような風景が広がっています。岬の反対側の風景はこんな感じです。湘南でもよく見かけるリュウゼツランが生えていますね。そしてこれが、ポセイドン神殿です。風が強いためでしょうか、雲がスーッと伸びて行きます。この日はちょっと不思議な雲が多かったです。極めつけは、この写真でしょうか。ポセイドン神殿を撮ったものですが、海の神ポセイドンの象徴ともいえる三叉の矛(トライデント)が写っているように見えます。何かポセイドンからメッセージがあるのかもしれませんね。そもそも風の神とポセイドンの関係は何なのでしょう。旅行から帰ってきてから調べたのですが、ポセイドンはゼウスの兄か弟だったみたいですね。そして一説には風の神アイオロスの父親であるともいいます。大地を揺らし、暴風雨を起こすことから、人間からは畏怖されたとされています。そうすると、ポセイドンはまさに風を操る力があったということになり、キューガーデンで見た風の神アイオロスの神殿はポセイドンにつながるヒントであったとも解釈できそうです。ポセイドンにはまた、巨人神族の娘レトを助けてデロス島へと導いたとの神話も残っています。ここでデロスと風とポセイドンが結びつくんですね。どうやら今回の旅のテーマは、ポセイドンをめぐる歴史とも深く関係しているようです。おそらく日本神話のスサノオとも関係があるのでしょう。その辺の話は、明日のブログを書くときまでに考えておきます(笑)。(続く)
2009.11.02
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先にバス停で待っていた2人は、イスラエルから来たヨセフとロイという20代の若者でした。そしてこのバス停がスニオン岬に行くバス停に間違いないと言います。これでひと安心です。彼らはすでに15分待っているというので、あと15分ぐらいでバスが来そうだな、とその時は思いました。ところが、それから20分経っても30分経っても、一向にバスは来ません。日本でしたらバスの時刻表がありそうなものですが、どこにもそのようなものはありません。私たち2人だけなら、不安がつのって、スニオン行きはあきらめていたかもしれませんが、4人だとそうした不安もどこかへ行ってしまうのが不思議です。待っている間中、私たちはずっとヨセフとロイとおしゃべりをしていましたから、まったく退屈もしませんでした。旅は道ずれ、ですね。ヨセフはアラブ系(セファルディム?)でNGOのような団体でアナリストをやっていると言っていました。ロイはヨーロッパ系(アシュケナジム?)で、今年兵役を終わったばかりだとか。2人は前日にアテネ市内のユースホステルで偶然出会い、意気投合して一緒にスニオン岬に行くことにしたのだそうです。ヨーロッパでよく見かけるバッグパッカーさんですね。私も20代のころはバッグパッカーとして、ヨーロッパや日本の各地を放浪いたしました。そうこうするうちに、実に私たちがバス停に来てから45分弱、彼らがバス停に来てから1時間弱経ったころに、オレンジ色のバスがバス停の前で停まってくれました。やはり一時間に一本しか(奇しくも今私たちが住んでいる所と同じです)バスはなかったんですね。ヨセフたちはほんの数分遅く到着したので、前のバスは行ってしまった後だったのでしょう。でもそのお陰で、私たちは楽しく待ち時間を過ごすことができました。ありがとう。バスはとても快適でした。私たちが座った右の座席からは途中、アポロ・コーストと呼ばれる、アッティカ半島の風光明媚な海岸線を楽しむことができました。そして空には、スニオン岬を手で指し示すような雲が・・・。写真中央右下寄りにデジカメが写り込んでいるのは、ご愛嬌です(笑)。バスに揺られること約1時間、ようやくアッティカ半島先端にあるスニオン岬が見えてきました。岬の上にそびえている建物がポセイドン神殿です。(続く)
2009.11.01
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