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溶ける薔薇 皆川博子(青谷舎) The Mystery Story of Authoresses1アラスジ:親の海外出張の為、高校生の秋人は母親の実家に預けられる。その家に住む、母の異母妹である風変わりな叔母は、秋人に思いも拠らぬ昔話をし始める…表題作・溶ける薔薇。他、心の闇を掬い上げた短編全7作収録。図書館本。皆川博子は、女性の作家の中ではかなり好きな方だ。最近読み始めたので、あまり多くは読んでいないが、今のところ外れはない。直木賞を受賞した『恋紅』は未読だが、吉川英治文学賞の『死の泉』は、骨太なストーリーと独特の感性が光る、実に読み応えのある傑作だった。が、個人的には長編作より、『ゆめこ縮緬』のような短編の味わいが好きだ。この作品は、初期から中期の作を集めた、制作年数の幅が広い短編集だ。女流ミステリ作家シリーズの為に編まれた本なので、皆川的なエッセンスを抽出した本として作られたのであろう。やはり、初期とその後に続く作品とでは、色合いに変化がみられて興味深い。表題作の『溶ける薔薇』は、脂の乗った佳作。皆川が好んで取り上げるモチーフが、手堅く纏め上げられている。全て枯れ果ててしまう庭は、抑圧された由良子の心情風景であろう。その中で唯一、枯れるのでなく“溶ける”薔薇は、彼女の解き放たれた情念。己を溶かし尽くし、やがてその歪みは周囲をも侵蝕するだろう予兆の陽炎を立ち上らせて、物語は断ち切られる。何が真実か、何が虚か。答えを探すのではなく、ただその渦に身を投じる。それが、皆川の愉しみ方だと思う。皆川博子は、幻想色の強い狂気を好む。歪んだ血族、記憶の交錯、夢と現の逆転。非常に良く似た世界観を持つ作家で、赤江瀑と言う人が居る。知名度は皆川には及ばぬが、その強烈で独自な世界観に魅せられた者は多い。恐らく、皆川も赤江の影響をかなり受けていると思う。タイトルのつけ方、モチーフ、赤江へのオマージュと言っても良い位、その作風を彷彿とさせる作品が多いのだ。特に、この短編集の頃はその傾向が顕著なので、興味のある人は読み比べてみるのも一興かと思う。ただ、似通っていると言っても、決定的な差異が二人の作家を大きく隔てているのだが。性的指向性やジェンターの話になるので、ここではまとめきれないので、またいつか機会があれば考えてみたい。個人的には、この作品集の中では『水の館』が好きだ。あからさまに某アイドルグループへの想いが絡められているのが鼻につくものの、屈折した心理を幻想的に彩った味わいの深い作品。この作品を収録したもう1つの単行本、『たまご猫』もかなりのお勧め本。この辺りになると、赤江の影響色より独自性が際立ってくるので、作家・皆川博子を堪能出来ると思う。
2005年07月30日
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ジャムの真昼 皆川博子 集英社アラスジ:僕はジャムを舐める。叔母さんが僕にくれたから。舐めながら、ベットで男に舐められる叔母さんを眺める。僕はジャムを舐める。母さんが僕にくれたから。舐めながら、ひたすら歩いた。戦争が終わり、僕らは新しい場所にいかなきゃならないんだ。母さん達は馬車に乗っていったけど、僕は歩いた。母さんが持たせてくれたジャムを舐めて。やがて、壜は空っぽになりうち捨てたけど、僕は歩いた。歩き続けた。だって、向こうでは母さんや兄さん妹が、僕を待っていてくれるから…。表題作他全7編の、写真や絵をモチーフに綴られた幻想的な短編集。日に日に、訳判らないない状態な粗筋になってくなぁ。ま、私が拙筆の所為もありますが、何と申しましょうか、書き難い話でもあるんだよん。身も蓋もなく書いちゃえば、戦争による悲劇の話。第2次世界大戦後、ヨーロッパ東部に入植していた独逸人に退去命令を出され、必死に逃げる過程で打ち捨てられた子供とその後の姿を、捨てた側の罪悪感と共に描いている。“叔母”と一緒に語られる場面と、“母さん”との場面が交錯し、読者にトリックを仕掛ける。幻想譚の体裁をとっているようにみえ、その実、ミステリ作家の技も繰り出しているのだ。注意深く読めば、途中『あれ?』と思わせるひっかけが幾つかあり、ラストで明かされる事実。二つのジャムが混じる時、その悲劇性はより鮮明になる。でも、もう1つの視点で見れば、“少年”と“叔母”の倒錯的とも言える濃密な関係に、エロティシズムと魂の共鳴を読み取る事も出来る。表紙にも使われているモチーフとなった絵―我が身を引き裂く筋骨逞しい男の中には、驕慢な表情の美しい女がいる―を見ると、後者の解釈が色濃くなるのだが。精神の真昼。あけ初めし初々しい朝の健全さでもなく、暮れ行く夕の寂寞でもなく。真っ白な日の光が、真上から照らし出す時間。心のあり様を時間で分けたならば、晧晧と曝された真昼は、案外と1番狂気に近い時間なのかもしれない。甘いジャムの滴る正午、人の心が溶ける真昼。他の短編たちも、妖しい焔に映し出される狂気を見せてくれる。欧州、特に独逸を舞台にした作品が多い。皆川の代表作『死の泉』もナチスをモチーフにしているし、特別の思い入れがあるのだろう。最後に収録されている『少女戴冠』でも、その辺りの心情を吐露している。(まぁ、この作品の舞台はアメリカだけど)この少女戴冠の写真が良い。一昔前に、芸術のテーマとしてフリークスが流行った事がある。幾つか、写真集や雑誌の特集が組まれていたと記憶する。良識ある人間が“これは差別ではないんです”と目を背け、なかった事にしてきた逸脱した存在を、白日の元に曝け出し、見る者の意識に揺さぶりをかけるアート運動だった。グロテスクなものはグロテスクなままに。その醜悪さは、果たして被写体の醜さなのか、それとも見ている側の心の歪みの投影なのか。それを問いかけていたのかもしれない。当時、私も幾つかのそう言った作品を目にしたが、この少女の写真はその中でも出色の作品であろう。歪んで千切れた腕も、奇怪な義足も、溶け縮んだ膚も、全て受け入れて胸を張る美しい少女。皆川好みの写真だ。ただ、残念ながら、それに対して出来あがった小説は、彼女にしては多少平凡な気もする。と言うか、あのオチはありきたりだろうよ。もう一ひねり欲しかった。皆川の文章は、好みが別れるところであろう。美しい文ではあるが、詩のようでつかみ処がない。それが幻影の焔を揺らめかせ、より魅惑的にみせてくれるのだが。読み手に親切な小説家、ではないのは確かだろう。それでも、この甘いジャム、舐めてみると病みつきになるよ。
2005年08月13日
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光堂 赤江瀑 徳間文庫 アラスジ:久々に訪れた新宿で、涼介は懐かしい映画に邂逅する。二十数年の時を経て、再び目の前に現れたその映画「火雨」の上映を待ちながら、涼介の思いは過去へと遡る。一人上京し慣れぬ大学生活を送っていた彼は、ひょんな事から売り出し中の映画監督である三千社と意気投合する。やがて三千社の所有するアパートに居を移した涼介は、美大生・黒木と知り合う。その頃、三千社は戦争孤児を主人公に据えた映画の構想を練っており、その重要なモチーフである“妖怪”のアイディアを、涼介と黒木に求めた。考えあぐねる二人。そして、ついに黒木は…。表題作『光堂』他、濃密な赤江美学に彩られた短編9作を収録。先日松田映画を観に行った際、私を渋谷から新宿まで誘ってくれちゃった犯人が、この本w陶然たる文字に溺れて、はっと気がついたら「次はぁ~新宿ぅ~」とアナウンスされてるんだもん。愕然としましたよ。トホしかし、もう何度も読み返しているにも関わらず、それでもそれだけ熱中させてしまう魔力を持つ赤江は凄い。と言いつつ、この本自体は、赤江の中ではそれほど高く評価していない。脂の乗った頃に比べると、聊かマンネリ。ま、全盛期も“偉大なる同じ歌”の繰り返しだった事は、否めませんが。良いときゃそれが魅力になるし、下がり調子になれば鼻につく。赤江に限らず、使う“声”が限られる作家は、多かれ少なかれそう言う事態になるのは、致し方ない事かと。でも、好きだから飽きず読んでしまいます。やっぱり赤江魔力恐るべしwこの『光堂』は、赤江の作品にしてはエロティシズムは押さえ気味で、代わりに“邂逅”がテーマになっていると思う。懐かしきものとの邂逅が生み出す揺らぎ、それもまた、赤江ワールドにおいて意味を持つ。エロティシズムと書いたが、何も三流春文学のように、淫猥なことばかり書く作家ではない。男女(に限らない。男同士もありだ)の波動が生む揺らぎ、フェティッシュな嗜好が生む揺らぎ、家族の、友人の人間関係が生む揺らぎ。赤江は揺らぎの間を泳ぐ作家だ。その揺らぎの海の一つに、本書に多く取り上げられた“時間の揺らぎ”もある。時間とは多分に恣意的なものであり、客観的な時間とは別に、その流れに身を置く者だけの尺度がある。本書だと、気紛れに降り立った町の夜祭で自分の過去に出会う『夜市』がそう。(ネタバレになるから控えるが、極めて恣意的な時間を描いた話だ)赤江の世界の住人は、揺らぎに在ってこそ、いきいきと輝く。懐かしさがゆらゆらと陽炎を立て、邂逅が揺らぎの海になる。その海に飲み込まれる一瞬、赤江住人たちは最期に異様な光を放ち、それに読者は陶然となるのだ。本書では、残念ながら、その光が以前に比べて平坦な気がする。敢えて挙げるなら、『ようよう庭の幻術』が気を吐いているか。(よう=火に華。機種依存文字なので、変換不可)タイトルからして妖しげなこの作は、赤江お得意の、老獪な女、家族の因縁、友情というには少し濃い男同士の想いなどを取り込んだ、みっしりとした短編。だが、立ち上る陽炎の揺らぎは濃密であるものの、詰め込みすぎて純度に欠ける気もする。逆に、ストーリー展開はさほど良くないのだが、場面の印象度が鮮明なのが表題作の『光堂』。作中で語られる映画が良い。『火垂るの墓』を彷彿とさせる戦争孤児の映画の話なのだが、妖怪話にだけ反応を示す知恵足らずの少年を主人公とし、幻想的でありつつ悲劇を表現しているこの「火雨」と言う映画のほうが、『火垂る』より興味をそそられる。この映画の製作に携わった主人公・涼介が、過去と邂逅し、揺らぎの海の一歩手前で物語は終わる。先ほど、“海に飲み込まれる一瞬、最期に異様な光を放つ”と記したが、実は赤江の凄みは、この一瞬を描いて止めるところにあると思う。最後まで全てを書かない。一歩踏み出した処で物語を解き、読者を立ち往生させるのだ。そう、読者自身が、揺らぎに取り込まれて抜け出せないまま終わるから、赤江魔力から離れられないのかもしれない。だから、私が電車を乗り越してしまったのも、不思議ではないのだ。(と、いじましく言い訳し続けてみる)脂浮きしてマンネリとは言え、逆に読みやすいかもしれないので、赤江文学の入門には悪くない一冊かもしれない。そして、この陶然たる揺らぎに、身を委ねてみて欲しい。…あら、でも絶版かも。いまや、古本屋の棚にばかり並ぶ作家になっちゃったからなぁ。文庫版だと辻村ジュサブロー人形の表装なので、その点でも手に入れる価値あり。機会があれば、お読み頂きたい。
2005年11月14日
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今読んでいる本も途中だし、今日の日記はどうしようかのぉと思っていたら、気になる記事を発見。一月ほど前の日記で読書感想を記した飛鳥部勝則氏が、盗作騒動を起こしていたらしい。あ、こりゃビックリ。夏に刊行された『誰のための綾織』に、故・三原順氏の名作『はみだしっ子』から、かなりあからさまな盗用があった由。ネットで話題になっていたようなのですが、気が付かなんだわ。当然のことながら、『誰のための綾織』は、絶版回収です。図書館で次の借りる本としてチェックを入れてけれど、遅かりし由良之介になってしまったぜ。(図書館に収められた本は別扱いなのかな?)飛鳥部氏も興味を寄せる作家の一人ですが、私にとって、更に大きな存在なのが三原順さん。既に物故され、今はもう知る人ぞ知ると言う漫画家になってしまわれましたが。70年代半ばから書かれた代表作『はみだしっ子』は、およそ少女漫画の常識を打ち破った作品で、そのテーマの重さと深刻な展開に衝撃を受けた人は多かったはず。斯く言う私も、その一人で。佐藤史生が漫画ファーストインパクトで、セカンドインパクトが『はみだしっ子』。自分の意思で初めて買い求めたのが、このシリーズでした。(年がばれるなぁ)今にして思えば、本当に凄い漫画です。アメリカを舞台に、放浪するストリートチルドレン4人組のお話。4人とも親との関係に悩み、幼くして家庭を捨てて“はみだし”た子供ら。彼らのシビアで斜に構えた視線で語られる、人間への考察が少女漫画の枠を超えたものがありました。あの当時に、ネグレクトやアダルトチルドレンをテーマに据えて描いたなんて、先見の明があり過ぎとしか言えません。少しアクが強い明確な線の作画、ウィットのきいた科白、宗教観も含めて非常に深い展開。異色の名作でした。それだけに、思い入れの深い人も多い作品です。私自身、心を深くえぐる作品があると言うことを、子供ながら、この漫画で初めて知りました。親や周囲との人間関係の軋轢への悩み。そんな悩みを知り染めた少女たちには、まさにバイブル状態の漫画でした。心に刻み付けるように読んでいた人が多いはず。そんなコアな漫画です。まして、作者の三原氏が若くして物故している故、伝説的作品になっているのに、何故、飛鳥部氏は盗用なぞ致したのでしょうか。飛鳥部氏の年齢なら、男性でも三原フリークは結構いたと思うので、影響を受けても不思議ではない。だが、指摘されている盗用部分は、オマージュと言えぬほどお粗末な抜書きで、弁解の余地なし。記憶がザルの私でも、『綾織』を読んでいたら気がついたと思われるレベル。こういう作家だとは思っていなかっただけに、残念と申しましょうか、腹立たしいと申しましょうか…ただ、思えば、確かに飛鳥部氏の作風にも変化があったんですよね。粘りのある、良い意味での泥臭いミステリを書いていた人が、派手なオカルト色をとりいれるようになって。先月読書した『鏡陥穽』でも感じたのですが、何か急いているようでした。ネット上に上げられている感想をざっとチェックした限りでは、問題部分以外についても、『綾織』の評価はミステリとしても低いものが多いみたい。ミステリって、数をこなすほど厳しくなっていくんですよね。パズラーに力を入れるか、それ以外に偏るか。新たなトリック、奇をてらった展開、要求されるものがどんどん高次になっていくし。はっきり言って、飛鳥部程度の作家だと、問答無用で好きなものを書いていられるポジションには至っていないでしょう。自分の書きたいもの、書けるもの、そのギャップに苦しんでいたのですかねぇ?それが、作風の荒れや性急さに繋がったのかな。うーむ。網羅している訳ではないので、断言はしかねますが、振り返ってみるとそんな感触を受けました。しかし、盗作は作家の誇りを捨てる行為。程よい暴投は予想外の愉しみとして甘受出来ますが、悪意の八百長は断じて許せません。思い入れを昇華出来ぬなら、創作する者の資格なしだと思います。飛鳥部氏、初心を思い出して下さい。地味ながら、貴方には貴方の味があったはず。はみだしっ子の世界に共鳴したとしても、貴方は貴方の言葉で語るべきだったのです。あの科白たちを引いて使う位なら、貴方も三原氏を敬愛していたのでしょう。ならば、天にいる彼女に恥じぬ作品を送り出して欲しかった。ただただ、残念なり。この先、飛鳥部勝則がどういう作品で答えを出すか、注目したいと思います。ただなぁ。臭い物には蓋をしろな世界ですから。彼程度のキャリアの作家なら、今後の展開は断たれたかもしれませんね。それもまた、残念なり。
2005年11月09日
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ウは宇宙船のウ 萩尾望都(原作レイ・ブラッドベリ) 集英社漫画文庫アラスジ:土曜の朝、僕たちは連れ立って宇宙空港に行くのが大好きだった。ロケットが宙“ソラ”へと飛び立つのを見るのが、堪らなく大好きだったのだ。学校も好き、家族も好き、だけども何よりも宇宙に飛び立つ存在になることを渇望している。だって、僕らは男の子だから。世界一の仕事に手を染めることの出来るのは、ほんの一握りの人間だけ。そして、それはある日突然やってくる。宇宙への窓口へ通じる切符を持った使者が。そう、僕は踏み出すんだ。宙への第一歩へと…。表題作『ウは宇宙のウ』の他、全8編。ブラッドベリの世界を漫画化した珠玉の短編集。ブラッドベリは『火星年代記』と『二人がここにいる不思議』しか読んだ事がないが、とても美しい世界を描く作家だと感じた。そのガラスのような世界を見事に描き、且つ、その上に独自の色彩を塗り広げることにも成功した萩尾の凄さを堪能出来るのが本書。巡り合えた事をしみじみ幸せだなぁと思えり作品の一つだ。萩尾は少女漫画界の最高峰に位置する人間だと思うが、中でもこの作品の頃の画力は素晴らしい。優しい、懐かしい線を描いていて、その一本一本を見ているだけで陶然となる。話そのものも、甘やかに懐かしく、そして切なく寂しい世界を描いている。“男の子の夢”そのものの表題作も良いが、私は『霧笛』が好きだ。これを“残酷なまでに切ない恋の話”と読むのは、間違った解釈かな。だが、灯台に同胞の夢を投影してしまった恐竜も、その心情を推し量って語る灯台守も、狂おしいほど切ない恋に身を焦がしているように、私には見えてしまうのだ。恐らく、これは原作のと言うより、萩尾の色がより強く滲んでいる為だろう。恐竜は、灯台だけに惹かれてやってくるのではあるまい。灯台の放つ霧笛に乗って漂う、灯台守の遣る瀬無い想いにも惹きつけられてやってくるのではあるまいか。共に歩むものを持たぬ悲しみ。それは一人たつ灯台と同じく、ただ“自分はココに居るよ”と、いずくとも知れぬ地にいる魂の片割れに向けて啼くしかない。更に穿った(腐ったw)見方が許されるならば、灯台守の想いの相手を、一緒に恐竜を目撃する青年かもしれないと思っても宜しいだろうか。「あるものを、それがきみを愛してくれるのより、ずっとずっと愛している」こう呟く灯台守は、恐竜の想いを代弁しているかにみせて、青年に向けて語りかけているのかも…なんて思ってしまうのは、ブラッドベリに対する冒涜ですね。ゴメン、仄かに腐っててw何れにせよ、自分の過剰な想いに耐え切れず、その対象をいっそ壊してしまうしか術を持たぬ恐竜の姿には、胸が痛む。それにも増して、青年が去った後も一人残り、新たな灯台の守も勤める男の横顔の哀切さよ。「ねえきみ この世の中では何をいくら愛しても、愛しすぎることはないって…そう思うね」だが、青年も、判っていたのではないだろうか?判っていても、受け止めえないなら、ただ霧笛に耳を傾けるしかない。ここにいるよ、ここにいるよ。ただ声のみが、咽び泣く。とまぁ、何でも腐った視点で見てしまう私の悪癖はさて置き、本当に哀しくも美しい物語であるのは確か。この他に、幼い日に喪ってしまった恋に殉じる『みずうみ』も良い。人は、決して二度と手に触れえぬものだからこそ、いつまでもいとおしく思うのかもしれない。文学と絵の見事なコラボレーションの果実であるこの作品集、是非一度ご賞味頂きたい。どこか懐かしく切ないその味に、あなたは何を思うだろうか?
2005年11月06日
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老人のための残酷童話 倉橋由美子 講談社アラスジ:巨大な渦巻きを為す廊下で形成された図書館。そこには、前世紀までに出版されたあらゆる書物が収められていた。本を読まなくなった時代、その図書館に足を運ぶ者は殆どいなかったが、唯、性別不能なまでに高齢の老人だけが日参していた。「読書とは食べる事と変わらない」と嘯く老人は、やがて図書館の奥深くに分け入ったまま姿を見せず…『ある老人の図書館』。他、全10作の短編集。名作『大人のための残酷童話』から20年後に上梓された、もう一つの『残酷童話』。『老人のため』と銘打たれているが、老人向けにリライトされた童話と言う訳ではない。(念の為)老人が主人公の“童話”と言う事なのだが、グリム等に想を得ていた『大人の』に比べると、童話的なものからは離れた作品が多い。『姥捨山異聞』や『天の川』などは誰もが知る民話が基盤となっているが、それ以外のものは一寸馴染みが薄い。小野篁、ディオゲネス辺りは判るものの、他はお手上げ。あらすじで取り上げた『ある老人の図書館』も、基盤が何なのかは不明。古代エジプトだったかギリシャだったか忘れたが、自家図書館の膨大な本(この時代なので石盤)に埋もれて死んだ学者がいたそうで、その辺りが元なのかなぁ。勿論、元が判らなくとも愉しめるが、より高い理解の為には知識があったに越した事はないだろう。知識不足にて無念。うーん、読み手にもハードルを設けられているようだ。しかし、全体的に『大人』に比べると、枯淡とは言わぬが、何となく平坦な印象を受ける。只、これは裏を返せば、読み手に深い読解力を求めた形とも考えられる。人間の本質を淡々と追究した筆者からの、読者への課題テストのようなものと感じた。先達ならではのシニカルな含みは感じられるが、親切な解説や導きはない。「答えは自分で出しなさい」と言う事であろう。で、答えは……直ぐに出るものではないわなぁ。今の欲望を忠実に生きるも、或いは克己して超越を目指すも、いずれもアンチテーゼが示唆されているような気がするのだが。さて、どう答えを出すべきなのか。10作中、『ある老人のための図書館』に引っ掛かりを覚えた。それ以外の作品比べエロティックな生々しさが無い為か、少し違った印象が残る。作中の人物曰く「読むより、自らが書きたがる時代」の図書館は、読み手を喪った本を際限無く収集する為だけの場所に変じている。言わば、文字の羅列の墓場だ。これは、今、自分がしている事を考えると、強烈にノックアウトされた気分。ブログなんて、際限も無く己を垂れ流す、文字の墓場以外の何者でもない。少なくとも、私自身のは。されど、では読む一方で知識を溜めこむだけと言うのも、また不毛である。こちらの方も、かなり耳が痛くなった。それほど突出した読書量ではないが、この老人の様に“読まずにはいられない”と思っていた時期がある。頭がついていかないので娯楽系の本ばかりだったが、1日1度は頁を繰る時間を欠かさなかった。理解する為と言うより、ただ文字を呑み込む為の時間だった気がする。この作で、文字を食い尽くした老人は、己そのものを書物と化して終焉を迎える。それは昇華ではなく、果てしなく無意味な行為の崩壊に見えた。己を顧みて、“この身の内に残ったものは”と思うと背筋が寒くなった。書くも読むも、恐ろしく空虚な時間が、ただ背後に続いている。と、何となく悲観的なものが見えてしまったような。やはり倉橋の書くもの、只の物語ではない。“老人のため”と言いつつ、貴方の過去と未来がここに書かれているかもしれない。鏡は残酷なものだと判っていても、覗かずにはいられない。そんな一冊。
2005年09月19日
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雛の家 久世光彦 中央公論社アラスジ:日本橋の老舗人形問屋・津の国屋の三姉妹。艶やかに美しい娘たちが、それぞれ恋の想いに身を焦がす。親子ほど年の離れた侠客と関係を続ける、長女ゆり子。抗日運動をする朝鮮の若者と情を交わす、次女真琴。口の利けぬ頭師の若者に想いを寄せられる、三女菊乃。第二次大戦の最中、嘗ての栄華を喪い衰退していく大店と、そこに育った誇り高き娘たちの物語。老舗に育った姉妹たちと言うと『細雪』を連想するけど、実はちゃんと読んだ事がなかったりする似非読書家な私ですwまぁ、それはさて置き。いかにも久世っぽい作品だなと感じました。何処までも、“女”。装う晴れ着の衣擦れの音、雛を飾る赤い指先、そしてただ一人の前で零す熱い吐息。そんなものが、文字の中からあふれ出てくるよう。意識しなかった己の“女の匂い”までも突きつけられているようで、少し苦しく感じる。しかし、久世の書く女は“肉”を感じさせるのに下卑たものがないので、どんな恋に身を焦がしても凛としている。艶やかに淫らなのに、決して汚れを身にまといつかせる事はない。だから読んでいて、同性でも惚れ惚れとしてしまう。久世については殆ど知らないので感覚だけで物を言ってしまうが、もしや、中井や赤江とご同類なのではなかろうか。(見当違いだったら、大変申し訳ないが)それなら、とても納得出来る。男の作家が書いた女の嫌らしさが、殆ど感じられない。女を貫く為ではなく、女に同化する為の視線なのだ。男に命ごと預けるゆり子のように、新たなる命を育む真琴のように、そして一身に想いを捧げられる菊乃のように、久世自身がなりたいのではないか。そう思いながら読んだ。また、この作品には、戦争に関わる男の心も描かれている。思いのたけ全てを男に向ける女に対し、男たちはその心の半ばを戦争や主義主張に恋する事に向ける。未読だが『陛下』などの作品からして、久世はそういった男の心にも、何か思う所があるようだ。恋と戦争、二つの大きな波がうねり合い、この小説を作っている。但し、この作品、小説としてはいささか散漫ではないか。3姉妹の恋、それぞれが濃厚であるのだが、それゆえ印象が散ってしまう。ゆり子の造詣が、多少不安定と言うか、作品の中で変化しているように感じられ、もう一つ踏み込めない。真琴もだ。或る意味、三姉妹の中で一番現実を生きている彼女なのに、どうも性格が見えてこない。描写が多い所為か、三女の菊乃が一番はっきりとした女を息づかせていると思う。それぞれがとても面白い素材なのに、3人いっぺんにだと相殺されてしまったようで勿体無い。作中、何度か「自分の恋を突付かれるのが嫌なんだから、他の姉妹の恋をとやかく言うな」と言った感じの台詞が出てくる。なら、一つの作品で3つの恋の話を書く必要もないんじゃないかなぁと思ったり。久世はとても良い薫りのする日本語を使うのだが、この小説では、何とはなしに文に空疎さが感じられた。それも、この恋が散漫に感じられてしまう要因だったのかもしれない。もう少し、もう少しだけ何かが足りず、何かが多すぎる。そんな気がした。それなりに面白く読んだだけに、その瑕瑾が気になってしまい、勿体無く感じた。時代に酔い、女に酔う。それを感じさせてくれる作品だった。
2005年11月11日
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人形たちの夜 中井英夫 講談社文庫アラスジ:魔王の罠に落ち贋の家族に囲まれている思い込み、殊に性根卑しい“兄”を怨む少年。母娘2代に亘って“原罪”の意識に囚われた女。若者たちの恋と性の夏。こけしに秘められた義姉の秘密を探る旅にでて、思いもよらぬ陥穽に陥る青年。彼ら全ての思いを束ねる、“人形遣い”の昏い眼差し。春夏秋冬4つのパートに分かれた短編たちが、一つの大きなうねりを作り上げる連作集。赤江瀑・野阿梓・竹本健治とお気に入りの作家の本の感想を書いてきたが、今日は御大“中井英夫”の本を。(これで、おきにBEST5の内、残るは京極堂のみ。早く新刊出してけろ)中井と言えば、ミステリファンにとっては『虚無への供物』。これは日本のミステリの中でも、異色かつ屈指の名作の一つと言われている。なんせ、アンチミステリと言う、それまでのミステリ界では想像もしなかった世界観を持ち込んだ人物なのだ。また、彼は幻想文学の分野でも、大きな存在であると思う。『幻想博物館』『悪夢の骨牌』など、哀しく美しい精神を描く作品は、他の追従を許さぬものがある。今回読んだ『人形たちの夜』は、幻想文学とミステリの色を兼ね備えた、非常に味わい深い逸品。個人的には、世間の評価の高い『虚無』より、この手の短編に強く引かれる。まず、中井の何が良いかと言えば、その香気溢るる文章。小説は先ず文章在りき、なのである。どれほど面白く素晴らしい内容でも、語る言葉が拙いと、その価値は消える。(と、己の文章力を棚に上げて断言してみる。昨今は、中身も文も、香りが薄い小説ばかりで、大変悲しい。)過剰に装飾的な文章という訳ではない。が、非常に巧緻で、美しい文章を中井は書く。それはまさに“香気”としか言いようがない、読んだ者でないと判らぬ、一種独特の空気を漂わせたものだ。時代性もあり、懐かしくも美しい日本語が使われているのも、その香気を強める一因か。少し倒序めいた構成で書かれている事が多く、それにより、更なる酩酊感を感じさせられる。倒序、それは彼の魂にも。彼の書いた小説は、その魂を遡る旅の軌跡だ。中井英夫が物故して久しい。気がつけば、もうとうに10年を過ぎてしまった。彼は、生涯、“原罪”に取り付かれた作家だったと思う。いや、“犯さなかった罪の意識に慄く”事に、生涯を傾けたと言った方が良いか。本人も隠さなかったし、作品からも何となく漂ってくるが、中井は同性に憧憬を寄せる人であった。確か、本人曰く「バーバリズム※」と称していたと思うのだが、そのバーバリズム・性的倒錯と、厳父への反感、美しく優しい姉に対する想いが、中井の美しく物寂しい世界を作り上げてきたと思う。(※バーバリズムbarbarismの本来の意味は、「野蛮な行為。無作法。また、ことさらに非文化的なふるまいをする傾向。by三省堂」)青年期の写真を見ると素晴らしい美青年なのに、己を醜いとみなしていた中井。“異端”であることを意識せざるを得ない彼が、その心を縮込ませて、鏡に映る姿に醜さを重ねてしまった事を思うと、遣る瀬無い心持になる。尤も、ただ萎縮し蹲っていた訳でなく、その姿勢から上目遣いで尖らせた爪を研いでいたのが、中井の天晴れな処でもあるのだが。醜い者の、異端の者の、そのとるに足らぬと思われている心の中にも、狂った世の中に一矢報いるべく、研ぎ澄ませた凶器は存在しているのだ。狂った世の中-軍国主義の嵐の中で、終ぞ馴染めなかった彼の心の爪は、鋭く研がれ、戦後に至り切り裂くべく拳はひらかれる。が。時代は、嘗ての狂乱など忘れ去ったが如く、そ知らぬ顔で流れていく。研ぎ澄ませられた爪は空を切り、己の肉を切裂くのみ。ならば、彼は、全身全霊を傾けて、切裂くべく虚構を作り上げるしかないではないか。巧緻に作り上げたその虚構に、醜いもの全てを封じ込め、その爪は翻る。野蛮な時代を斬る為に。そして、“犯さなかった罪”を抱える己自身をも、その爪で罰する為に。だからこそ、彼の作品は、斯くも美しく、斯くも哀切なのだ。似非作家論が長くなったが、この『人形たちの夜』もそう言った作品の一つ。“人形遣い”である鬼頭は、罰する側、罰せられる側、両方を兼ね備えた存在。人形遣い=中井は、“愛されぬ者”としての存在意義を、“憎悪”に求める。相手も己も切裂く憎悪。それは、永遠に手に入れられなかった“無垢なる愁いの瞳”、つまり原罪なき者への憧憬の、裏返しになった心の叫びだろう。己の醜さでは、手に入れることが出来ぬと思い続けた“愁いの瞳”は、だが本当は中井英夫本人のものだったのではないか。彼は、鏡を恐れ、瞳を閉じていただけ。目を開けば、そこには誰よりも美しい、無垢な愁いの人がいたはずなのに。私は、彼の小説を読むたび、そんな想いに駆られる。各パートに収められた短編は、それぞれ趣のある味わいで、完成度の高いもの。それがパート毎に一つの支流を流れ、やがて大きな川のうねりを作り出す。バラバラに見える各作品が、見事に一つの主張に沿って書かれたものである事と、最終章で思い至る。その技量は大したものだと、舌を巻いた。秋の章での、軽くミステリが入った道具立ても、なかなかのもの。ラストを『貴腐』で閉じたのも、とても深いと思った。深くて恐ろしい終幕だ。貴腐-病に冒された故に、貴い美酒に変じる果実。醜さは美しさに、罪は祝福に。全ては表裏一体で、己の心の中にある。それはだが、憎悪の哲学を貫こうとした人形遣いには、致命的な一矢であり。振り上げた爪は、一閃、虚空を掴み。そして…彼が手にしたものは、何だったのだろうか。私はただ、愁いの人のゆらぎを、黙って眺めるのみである。余談。虚無への供物以外、世間にさほど受け入れられなかった中井英夫だが、偉大な先達として慕う作家は意外に多い。竹本健治への日記でも書いたが、彼を筆頭に、予想外に多くの若手作家が中井に影響を受けているらしいのには驚いた。『凶鳥の黒影(まがとりのかげ)』は近年出た、層々たるメンバーによる、中井オマージュ本。若手ではないが、赤江もその中にいたのは、当然と言えば当然か。それにしても、執筆陣の殆どが、愛読している作家だった。類友…と言う事なんでしょうかねぇ。と言う割には、まだ購入していなかったりする。って言うか、知らなかったよこんな本が出てたなんて。これだから、田舎は…
2005年10月26日
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白い館の惨劇 倉阪鬼一郎 幻冬舎アラスジ:砂嵐吹き荒ぶ中、一人の男が白い館に辿り着く。彼は“名探偵”。だが、記憶を失っていた。高名な画家の美術館を兼ねた白い館の中では、若い女性が惨殺される事件があり、その解明の為、名探偵である彼は招かれたのであった。記憶喪失を隠し、事件の捜査をするのだが、一人、また一人と被害者は増え…。と言う作中作である第一部のミステリをベースに、人畜無害(?)な吸血鬼コンビが、作家の妻殺しの謎を探る第2部。そして更なる惨劇は引き起こされ…。入れ子細工な4部構成の、ホラーとミステリが融合した長編小説。クラニーの「色名・館シリーズ」の第一弾。館シリーズと言うと綾辻行人のものが連想されるが、全く別の趣の作品。なんせ、クラニーだから。何かもう、何でもありって感じですぜw作者本人と思しいキャラが狂言回しに出てくるのはご愛嬌。流石に、黒猫(ぬいぐるみ)のミーコちゃんまで出てきたのには、唖然としましたが。でも、私、こういう作品、嫌いじゃないだよなぁ。倉阪の作品は3作目。取敢えず、なんとなく作風と言うか、癖は見えてきた感じ。ホラーとミステリの結婚を目論んでいるようで。この2者、源は近いんだけれど、今の流れの位置は逆方向なので、円満な結婚生活は難しいだろうな。ミステリが謎(闇)の収拾にベクトルを向けているのに対し、ホラーの目指しているのは闇(謎)の拡散だから。これを一つに融合させるのは簡単なように見えても、生半な事じゃ上手くいきゃあせんって。以前読んだ『迷宮』でも感じたのだけれど、ホラーの拡散パワーに乗っ取られて、散漫なイメージが残ってしまう。以前に比べれば、格段に洗練されているけれどね。やはり、ホラーとミステリの相性の問題と考えるべきなんだろうなぁ。第一部は、ミステリ色を前面に押し出していて、普通にパズラー的楽しみが出来る…途中までだけど。記憶喪失な名探偵と言う設定に鍵があるのだろうと思ってはいたが、謎解きがホラー展開になり、思いっきりメタな終わり方で第二部に続く。“なんじゃこりゃ”と思いつつ読み進めていくと、ラストに至ってやっと第一部の意味が腑に落ちる。巧みだ。アラスジでは割愛したが、かなり入り組んだ構成。第二部で、吸血鬼が出てくるのに面食らう。このクラニー吸血鬼たちは、不死以外は人間と同じで、ごく普通の顔をして人間の世界に紛れ込んでいる。だが、平和主義の主流派と、闇の眷属である事を主張する原理主義の2派に分かれて争っていると言う設定が、話の本筋に絡んでくるのだから、一筋縄ではいかない話だ。この吸血鬼設定が今後の館シリーズに絡むのだろうけれど、白い館惨劇(ザ・ヒヌマ・マーダー)のミステリ部分はミステリ部分として、もう少しスッキリ終結させても良かった気もするし。さりとて、この“謎だオカルトだ文句あっか(w)”な幕引きも嫌いじゃないんだよね。細かい部分でのお遊び等、部分部分の楽しみも持てる作品なので、読んでいて飽きると言うことはない。(惨劇の一族の名前が日沼=ヒヌマってのは、ミステリファンなら擽られるツボ)吸血鬼たちがいかにもなキャラ立てをされており、ミステリ部分との色合いのキャップにNGな読者もいそう。私は嫌いじゃないですけどね。ただ、うーん、どうなんだろうか。結局のところ、「好きな人には傑作、ダメな人には駄作」と言う、逃げの科白でお茶を濁すしかない作品なのかも。卑怯な奥の手、「読者を選ぶ作品」と言うのもあるな。多分…私は補欠くらいで合格って処でしょうか。流れ出た血は、止めなく拡散するもの。ならば、この惨劇の謎も、どこまでも謎のままで良いのかもしれない。
2005年11月08日
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花曝れ首 赤江瀑 講談社文庫アラスジ:篠子は陽曝しの山道を歩いている。独りで…いいや、3人で。春之助と秋童、二人の若衆の気配が、常に篠子と共にあった。この化野‐あだしの‐では。信じていた男に思いも拠らぬ形で裏切られた篠子にとっては、ふたたりの妖かしと過ごす時間だけが、癒されるものであった。だが、江戸の昔、二人の若衆が一人の男を取り合って起きた惨劇が語られ…。表題作『花曝れ首』他、全5短編を収録。ひぃ、日記をもう1つ更新しようとしたらフリーズ。折角書いたのに、消えてしまった。いい加減、PCメンテナンスしなきゃと思いつつ放置。でも、根性でリライトして再投稿してみる。こう言う根性だけは、何故かあるのだw閑話休題。100件登録記念に、思い入れの深い本を読み返してみた。少し大袈裟に言えば、この本で、“私”と言うものが方向付けられてしまったのかもしれない。まぁ、少なくとも、現在に至る趣味趣向に、大きな影響力を及ぼした一冊である事は確か。赤江瀑知る人ぞ知る、と言った小説家。人口に膾炙する作家ではないが、好きな者には堪らない麻薬のような作品を生み出す。いや、麻薬と言うより媚薬か。この本を見つけた時の事は、遥か昔の事なのに、今でも鮮やかに覚えている。片田舎ゆえ自宅の近隣に書店がなく、通学の折に街に出て本を物色するのが、楽しくて仕方がなかった時期があった。保守的な家に育った為、幼い頃には漫画の類も与えてもらえず、恥ずかしながら高校に入るまで児童文学全集くらいしか読むものがなかったのだ。 (因みに、図書館も自転車ですら通えない遠さだった。トホホ)あ、思い出した。でも、何故か、徳川家康だけは全巻揃っていて読破したんだっけwそんな訳で本に飢えていた私は、少ない小遣いを遣り繰りして、手探り状態で本を買い集めていた或る日の事。寄り道して、隣町の大きな書店でゆっくりと書棚を眺めていた時、この不思議なタイトルの本が目に飛び込んできた。と言うか、光を放っていた感じ。棚から引き出してみると、更に妖しいジュサブロー人形の表紙。目次に並ぶタイトルは、『恋怨にて候』『ホルンフェルスの断崖』と禍禍しさすら感じさせる変わったものだった。確か、霙まじりの寒い日だったと思う。紅くなった指先で、夢中になってページを捲った記憶が、今でもまざまざと思い出される。以来、赤江に始まり、中井英夫や澁澤龍彦と言った、影の文学にずっぽりと嵌ってしまったのだった。うーん、若い頃に嵌りがちなパターンを見事に踏襲していた訳だwと、また長い前振りで再び閑話休題。この『花曝れ首』は、ミステリ仕立てだったり時代物だったりと、多様な作品が愉しめる。全てを貫いているのが、強烈な赤江の美意識。耽美、という言葉を体現する作家がいるとしたら、それは赤江瀑の事だと思う。赤江の作品を読んでいると、むせるほど濃厚な蜜に泳いでいる心持ちになる。甘さは舌を焼き、濃密さに動きを封じられ、気がつくとその蜜の底に沈んでいる。光を封じこめたような琥珀の蜜を透かしてみる世界は、歪み、美しい。“少し苦しい。でも苦しいことは好きだ。”と言ったのは、赤江作品の登場人物だが、その科白がそのまま此方の気持ちになる。これだけ陶酔させる作家は、そうは居ない。赤江は元々シナリオ畑の人間だったので、物語を視覚的に表現するのに長けている。台詞回しも独特な芝居めいたもので、それが一層の酩酊感を際立たせている。また、取扱う題材も幅広く、飽きさせない。この5篇だけでも、江戸時代の色子制度、鶴屋南北、染色、インドネシアの影絵人形、熱帯魚と、一風変わった題材を見事なまでに赤江蜜で溶かしている。うーん、思い入れが深過ぎて上手く言えないなぁ。兎に角、独自の世界観を持った作家なのだ。この表題作である『花曝れ首』は、マイ赤江ベストの1・2を争う作品。人を愛するという煉獄を、見事に描いていると思う。妖かしどもの、なんと艶やかでなんと哀しい事か。激情と抑止が絶妙に効いた構成が、美しい文章と相俟って、物語を際立たせている。掌を一閃して、虚空から闇を掴み取るような、と言ったら良いか。一瞬にして、物語の中に、読者まで塗り込められてしまうような感じだ。「地獄が、怖うおすのんか?」問いかけられれば、怖い。が、「落ちとみやす」と言われずしても、気がつけば落ちる心積もりになってしまっている。これが、赤江魔力なのだろう。 と言っても、こればかりは読まねば判って頂けまい。読んでも、受け入れられぬ人も多いだろうなぁ。泉鏡花などが好きな人なら、ご理解頂けるかと思う。久々に読んだ赤江の本は、長い年月を経てもなお、その媚薬の力を失っていなかった。酔える者は幸せだ。今ひとたび、陶酔の蜜の海に、浸ってみよう。
2005年09月10日
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