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ドイツのミュンヘン地裁は25日、独裁者ヒトラーの「わが闘争」の出版を禁じる仮処分を出した。ドイツ国内で抜粋の発行を計画した英社を、著作権を持つ南部バイエルン州が訴えていた。原文はインターネットで読めるが、事実上の禁書扱いが続くことになった。 ヒトラーの人生や思想をまとめた「わが闘争」の著作権は戦後、連合国の方針でヒトラーの私宅があったバイエルン州に移った。州はナチスの犠牲者への配慮のほか、極右勢力に影響を与えかねないとして国内では出版を認めていない。 英国の出版社は、ナチス時代の新聞記事を復刻する雑誌の付録として3回にわけて抜粋の出版を計画。これに対してバイエルン州財務省が24日、「著作権の侵害だ」として提訴した。 「学術的な解説がついた形の出版の方が、まだ望ましい」(ドイツのユダヤ人中央評議会)という声もある。 「朝日」2012年1月27日 ☆今、真剣に読まなければならない本はこの本であると思う。そしてヒトラーの伝記。特に権力を獲得するまでの行動については。 言うまでもない。橋下の行動と思想とを理解するために。 〇下層から這い上がってきたために大衆の「気分」が体験的にわかっている。 〇権力を握ることが目的であるから、いう事を翻すことなどなんとも思っていない。場所によって、相手によっていう事が違っても屁とも思わない。 〇権力を握るという目的達成のためには手段を択ばない。チクリメールの活用、隠し撮り、なんでもありである。※「チクリ」と「内部告発」との違いは何か?「内部告発」は、権力に向けられる。「チクリ」は、同僚に対して向けられる。 すべてヒトラーと共通している。彼は庶民の味方を標榜し、資本家階級を打倒せ!と呼号していた。そののちの「変節」は、御存じのとおり。 経済的条件に恵まれない生徒たちへの経済的援助は、何をもたらすか?「経済的援助をしたにもかかわらず、成績が伸びていない、努力していない。もうこういうやつに対して社会福祉は必要ない」という論理に導くだけではないか。 恵まれない生徒に対して費やす予算と、生活保護費を大幅にカットするのと、どっちが財政的にはプラスか。 私立の学費を援助するのと、学区を撤廃し、競争原理によって府立高校を何校も廃校にするのと、どっちが財政的にプラスになるか。 いうまでもなく、経済的に恵まれない生徒に対する経済援助、私立高校に通う生徒に対する学費援助に反対するのではない。それを行うのは何のためかというところまで考えないと危ないという事である。毒の入った饅頭は食べてはいけない。食べるなら毒を抜かねばならない。魚を釣るためにも、人をだますためにも、詐欺を働くためにも「撒き餌」は必要という事だ。 彼の目的は、「権力そのもの」であり、それだけである。そう考えると今後の行動も分かりやすくなるだろう。 教育基本法という法律は、権力によって教育に介入しようという橋下や石原のような人間のためにあるという事を改めて思い知らされている。
2012.01.31
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1月31日1703年(元禄15年12月15日) - 元禄赤穂事件で赤穂浪士が吉良上野介を討ち取る。 彼らはその後、芝高輪泉岳寺にある主君・浅野内匠頭長矩の墓前に上野介の首を供えた。その後、墓前で切腹という計画もあったようだが、それは取りやめとなり、大石以下46人(この時点で寺坂吉衛門は逃亡している)は幕府の沙汰を待つ。 幕府内部、学者の間でも、彼らの処置を巡って様々な意見が出ている。 大学頭林信篤 幕府の政治顧問として考えるに、今回の事件は幕府の権威を傷つけたものであります。大石らは厳罰に処すべきであると考える。しかし私の個人的心情から言えば、大石らの義挙はこの太平の世においては「武士の鑑」というべきものであり、助命嘆願すべきものであると思う。 室鳩巣 朱子学者としては、赤穂浪士の義挙は主の仇を討ったという事で上下を明らかにし、上に対して命を懸けて忠義を行ったとみるべきである。朱子学を以てわが国の政治道徳としている幕府においても大石らの忠義は罰してはいけない、むしろ顕彰すべきである。私は今回の事件に大きな感動を覚えているもので、江戸の庶民たちも同様ではないかと思う。 伊藤東涯 『論語』や『孟子』にも忠の徳目は仁の表れとして書かれており、赤穂浪士は義士ともいうべき忠義の輩出である。わが父、仁斎も今回の浪士たちの行動を「誠」のあらわれとして高く評価しておりました。無罪とすべきでありましょう。 新井白石 法をたてにとってもこのような事件の絡みは中々に難しいものがあります。幕府の処分としましては、穏便にすべきで、大石らを出家させたらいかがでしょうか。 荻生徂徠 徒党の罪は罪である。将軍家のおひざ元でかかる事件を引き起こした上に無罪とあっては法の法たる証が立ちません。法による秩序の維持のためにも打ち首とすべきであります。しかし、主君の仇討という武士の大義を貫いたことを考え、罰を減じて切腹を申し付けるがよろしいかと思います。 46人の赤穂浪士は、細川綱利、松平定直、毛利綱元、水野忠之の4大名家に預けられた。浪士たちの待遇は各大名家で異なったらしく、大石らを預かった細川家や水野家は浪士たちを厚遇したが、松平家と毛利家では冷遇したようである。 ただ、厚遇という点についても、庶民の間の人気が高まるにつれて、「実は当家では・・・」というふうに後になって文書をでっち上げたのではないかという疑惑も存在している。 実際に、徂徠の主張が取り上げられて切腹となった時、極めて短時間で機械的に切腹は実行されている。 三方の上に九寸五部を置き、それに手を伸ばそうとするときに首ががら空きになる。そこで介錯人が首を切り落とし、死体は布団にくるんで運び去り、「ハイ、次!」という状態であったようだ。斬首と同じである。「腹掻き切って」という切腹を行えたのは数えるほどしかいないと言われている。 勅使饗応の日に内匠頭が吉良に斬りかかったことに激怒して取調べもそこそこに五万石の大名を庭先で切腹させて、討ち入りの原因を作ったといっていい綱吉(本人にその意識なし)は、浪士たちの助命に動こうとして、皇族から恩赦を出してもらうという形をとろうとした。輪王寺門主として上野寛永寺に居住する公弁法親王に拝謁した綱吉は、それとなく法親王から恩赦を出すよう依頼する。 しかし、「彼らを助命し、後にろくでもないことをしでかすようなものが出てこないともかぎらない。そんなことになると、今回の義挙に傷がつく。今切腹させてしまえば、今回の義挙は永遠に語り継がれるだろう」と諭されて納得したという。
2012.01.31
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1月30日 1946年 - 経済学者の河上肇が亡くなる。 1879年10月20日に山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に生まれた河上は、マルクス経済学者として有名であり、日本史の教科書には彼の著作として『貧乏物語』が挙げられている。日本共産党の党員になったために検挙されて投獄される。その時の心境をつづった詩を、茨木のり子さんの『詩の心を読む』(岩波ジュニア新書)で初めて目にした。その他、二編の詩が収録されている。それを紹介したい。 旧い友人が新たに大臣になつたといふ知らせを読みながら 私は牢の中で便器に腰かけて麦飯を食ふ。別にひとを羨むでもなくまた自分をかなしむでもなしに。勿論こゝからは一日も早く出たいが、しかし私の生涯は外にゐる旧友の誰のとも取り替へたいとは思はない。 老後無事 たとひ力は乏しくとも出し切つたと思ふこゝろの安けさよ。捨て果てし身のなほもいのちのあるまゝに飢ゑ来ればすなはち食ひ、渇き来ればすなわち飲み、疲れ去ればすなわち眠る。古人いふ無事是れ貴人。羨む人は世になくも、われはひとりわれを羨む。 味噌 関常の店へ 臨時配給の正月の味噌もらひに行きければ店のかみさん帳面の名とわが顔とを見くらべてそばのあるじに何かささやきつ「奥さんはまだおるすどすかやお困りどすやろ」などとお世辞云ひながらあとにつらなる客たちに遠慮してかまけときやすとも何とも云はでただわれに定量の倍額をくれけり人並はづれて味噌たしなむわれこころに喜び勇みつつ小桶さげて店を出で廻り道して花屋に立ち寄り白菊一本三十銭といふを買ひ求めせなをこごめて早足に曇りがちなる寒空の吉田大路を刻みつつかはたれどきのせまる頃ひとりゐのすみかをさして帰りけり帰りてみれば 机べの火鉢にかけし里芋のはや軟かく煮えてありふるさとのわがやのせどの芋ぞとて送り越したる赤芋の大きなるがはや煮えてあり持ち帰りたる白味噌に僅かばかりの砂糖まぜ芋にかけて煮て食(た)うぶどろどろにとけし熱き芋ほかほかと湯気たてて美味これに加ふるなくうましうましとひとりごちけふの夕餉を終へにつつこの清貧の身を顧みてわが残生のかくばかりめぐみ豊けきを喜べりひとりみづから喜べり 三篇の詩を読み、打ち込みながら、何とも言えぬ心持となった。心に沁みとおる、こんな詩は滅多にない。そう思う。こんな詩に出逢えてよかった。
2012.01.30
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1月29日 1866年 - フランスの小説家ロマン・ロラン誕生。 ロマン・ロランは、1903年、『ベートーヴェンの生涯』を発表。これが反響を呼び、翌1904年にソルボンヌで音楽史を担当し始めると共に、『ジャン・クリストフ』を『半月手帖』に掲載し始め1912年に脱稿。1913年には『ジャン・クリストフ』が『アカデミー・フランセーズ文学大賞』を受賞する。1916年にはこの作品によってノーベル文学賞を受賞する。 『ジャン・クリストフ』には思い出がある。三回挫折して、四回目にやっと読み終えたという事がそれである。最初に手に取ったのが中3の頃だったと思う。主人公が自分と同じ年頃になった途端になぜか先が読めなくなって挫折。次は高1。この時も同じ理由で挫折。三回目は高3。この時も同じ。で、大学に入学してから読み始めて、なぜかスルスル読み進めることができて読了した。 長い小説を読み通すのには体力がいる。高校生の頃と学生の時には、とにかく長い小説をひたすら読んでいた。 『ジャン・クリストフ』は、べートーヴェンをモデルとした大河小説であり、一人の少年が、成長していく過程を詳細に描いた作品である。 この作品、今ではほとんど読まれていないと思う。本屋でも見たことがない。一世を風靡したにも関わらず、全く手に取られなくなった小説は多々あるが、『ジャン・クリストフ』をはじめとするロランの作品群もそうなのかと思うと、ちょっとさびしい。 ロマン・ロランは、第一次世界大戦が勃発した時に、たまたまスイスに滞在していた。彼は、仏独両国へ戦闘中止を訴える。この行動は国際的に評価される一方で祖国への反抗と受け取られて、一時は帰国もできなくなる。 高校の時に読んだ大河小説『チボー家の人々』という作品の中で、第一次世界大戦が勃発し、大衆の熱狂に押されて各国の社会主義者たち、反戦を訴えていた人々が愛国心の波にのみこまれて転向していく中で、あくまで平和を訴えようとしたジャックが反戦ビラを飛行機に積んで最前線でばらまこうとするが飛行機が不時着、負傷し、スパイ扱いされてフランス兵に銃殺される・・・というシーンを思い出す。 『チボー家の人々』も今では読まれなくなった作品だけれど、高3の時に引き込まれるようにして読んだ。白水社版の第四巻を読んでいて、もう少し...というところまで来たとき、どうしても最後まで読みたくて、授業をさぼって読み終えたことを思い出す。担任の英語の授業で、授業の途中で教室に入って行ったのだが、何も言われなかった。思えばいい時代であったのだろう。 ※「黄色い本」という漫画があって、この『チボー家の人びと』が軸となっているそうだ。未読。 ロランは、ロシア革命に対してはいち早く支持を表明、ソ連を訪問している。彼が1934年に再婚したマリー・クーダチェヴァは、ロランがモスクワから招いた秘書であった。 アンドレ・ジイドが、1936年に発表した『ソヴィエト紀行』を、翌年に、『ソヴィエト紀行修正』として公表、スターリン体制を批判したとき、ロランはジイドに対して批判を加えている。 この時点で、ソ連を批判するという事は左派からの猛烈な抗議を受けるという事でもあったのだが、ロランもそれに連なっている。 今の時点でジイドのこの作品(岩波文庫で、復刻版が出た)を読むと、眼力の鋭さに舌を巻くのだが、当時、それは正当な評価がなされたとは言えない。 しかし、ロランもさすがに独ソ不可侵条約を機としてソ連支持の立場から転換する。 そののちは世界平和のために行動、1939年にドイツ軍がチェコスロバキアへ侵入すると英仏の弱腰を批判する。第二次世界大戦が勃発すると彼が生活していたヴェズレーは占領され、沈黙を強いられる。しかし、1944年にパリ解放を知るとソヴィエト大使館の革命祝賀会に出席、レジスタンス犠牲者追悼会にメッセージを送り、1944年12月30日に死去する。 あ、5年後の同じ日に私が生まれている。どうでもいいけれど。 振り返ってみると、今では読まれなくなった本を結構読んできた。ずいぶんと背伸びして難しい本にも手を出してきた。でも、心の中のどこかにそれらの本は住み着いていて、私の生き方と考え方とをどこかで支えてくれて来たと思う。何が書いてあったかはほとんど忘れたけれど、そんな気がする。
2012.01.29
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1月28日 普仏戦争で1871年の1月28日に首都パリが占領される。 普仏戦争は、1870年の7月19日におこり1871年の5月10日まで続いた戦争である。この戦争の結果、ドイツ帝国が成立、パリ占領の10日前にプロイセン国王ヴィルヘルム2世はヴェルサイユ宮殿において盛大な戴冠式を挙行しドイツ皇帝となる。世界史の教科書に載っている絵では、白の軍服を着ているヴィスマルクの方が目立っているのだが。 1871年の5月10日フランクフルト講和条約が締結されてフランスは正式に降伏した。 普仏戦争(ふふつせんそう、仏: Guerre franco-allemande de 1870、独: Deutsch-Französischer Krieg)は、第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争である。ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争と呼称する。なお、プロイセン=フランス戦争と呼称している日本の世界史の教科書もある。 私が今使用している山川の『世界の歴史 世界史A』では、「ドイツ=フランス(独仏)戦争」となっている。ところが、副読本として使用している浜島書店の『新詳 世界史図説』では、「プロイセン=フランス(普仏)戦争」と表記されている。 たしか少し以前までは、「普仏戦争」で統一されていたと思う。この戦争の結果、ドイツ帝国が成立したのだから、この段階で「ドイツ」という名称を使うのは矛盾があると思うのだが、プロイセンとのみ戦おうとしていたフランスの思惑を裏切ってドイツ諸邦が参戦、実質的にこの段階で「ドイツ」は成立したとみる立場からは「ドイツ=フランス(独仏)戦争」という名称となるのだろう。 歴史的用語や概念は、研究が進むにつれて変わり、その結果が教科書に取り入れられるスピードも早くなっている。 ウォーラーステインの「世界システム論」なども取り入れた教科書記述となっている。 人名の場合を一つだけ紹介しよう。 たとえば、マゼランという人名。世界一周を成し遂げた艦隊の隊長である(もっとも本人はフィリピンで戦死して部下が世界一周を達成)。彼の名前はずっと「マゼラン」であったが、マゼラン(マガリャンイス)となり、マガリャンイス(マゼラン)となった。今の山川の教科書では、マゼランに戻っている。浜島の『世界史図説』では、マゼラン(マガリャンイス)。 マードレ・デウスというポルトガルのバンドのメンバーの中に、ペドロ・アイレス・マガリャンエスという人がいることを「発見」したときは、「おおー!」と思ってしまった。 一旦頭の中に入ってしまった表記はそんなに簡単に変えられるものではなく、さりとて研究の成果を無視する化石のような教科書でも・・・と思うところもあり、難しいものである。
2012.01.28
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1月27日 1945年 - 第二次世界大戦: ドイツのアウシュヴィッツ強制収容所がソ連軍により解放される。 アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。 ドイツ国内の強制収容所は、「アーリア人以外はドイツに入国させない」という政策によって閉鎖されていき、ポーランドに大規模な強制収容所が建設されていく。 強制収容所には移送直後の選別で記録に何事も記すことなくガス室に送り込まれたものも多く、正確な総数の把握は困難である。 アウシュヴィッツといえば、ユダヤ人ということに反射的になるのだが、収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。 ヒトラー政権下で最初にガス室に送られたのは精神障碍者であったという事は知られているのだろうか。 この政策が、「労働力として役に立たないものの絶滅」という目的の遂行のために行われたとすれば、上記の人たちはなぜ収容されたのか?そこには、ナチの掲げた極めて特異な「アーリア人を中核とする理想郷」の姿があった。彼らは、社会的不適合者、彼らから見て「劣等民族」と断じた人々の生存そのものを許さなかったのである。たとえ労働力として有用であっても、収容された人々は使い捨てとされ、労働力の再生産に必要な栄養と休息、そして環境はあたえられなかった。以下、「ウィキ」から年表をコピーする。 すべての強制収容所はヒムラーによってSSの下に集約されており、SSが企業母体となる400以上にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用している。 1940年1月25日 - ポーランド・オシフィエンチム市郊外の強制収容所建設が決定される。 1940年5月20日 - 「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」が親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの指示により、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用して開所。強制収容所における画一的な管理システム、いわゆる「ダッハウモデル」を踏襲している。初代所長は、SS中佐ルドルフ・フェルディナント・ヘス。ザクセンハウゼン強制収容所から移送された犯罪常習者30人が、最初の被収容者となった。 6月14日 - ポーランドの政治犯728人が到着。 1941年 - 最初のガス室を備えた複合施設「クレマトリウム1」が第一強制収容所に完成。 10月 - 収容者増加のため、ブジェジンカ村に大規模な「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を建設。 1942~1944年 - モノビッツ村周辺に、当時のドイツを代表する大企業の製造プラントや近隣の炭鉱に付随する形で、大小合わせて40ほどの収容施設を建設。この施設群は「アウシュヴィッツ第三強制収容所モノビッツ」とも呼ばれる。 1942年1月25日 - ヒムラーは、ドイツ国内のユダヤ人強制労働者(男性10万人・女性5万人)のアウシュヴィッツ移送を命令。 1943年1~3月 - 105,000人を超えるユダヤ人が到着。 5月30日 - SS医師ヨーゼフ・メンゲレが着任。 1944年4~11月 - 585,000人を超えるユダヤ人が到着。 8月2日 - 第二強制収容所の家族練に収容されていたジプシーに対して最後の処刑が行われる。当日、約3,000人が殺害され、アウシュビッツからジプシーは一掃された。殺害された総数は推定で2万人。 10月7日 -ゾンダーコマンド(自分の延命と引き換えに、他の囚人をガス室へ送ったり死体を片付けたりする任に当たったユダヤ人による特殊部隊)による武装蜂起。ガス室を備えた複合施設「クレマトリウム4」を破壊するが、まもなく鎮圧された。 1945年1月27日 - ソ連軍により解放。 1947年4月16日 - 初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘス、アウシュビッツにて絞首刑。 1979年 - 「アウシュヴィッツ強制収容所」として、ユネスコ世界遺産に登録。 2007年6月27日 -世界遺産登録上の名称を「アウシュヴィッツ=ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940年-1945年)」に変更。 2009年 - 「働けば自由になる」看板が何者かに盗まれ、のち3つに切断され捻じ曲げられた形で発見される。2011年5月に修復完了。今後は複製品を掲示し、実物は厳重に保管される予定。※「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の一文の中の「B」の文字が逆さまに見えることについて、SSの欺瞞(ぎまん)に対する作者(被収容者)のささやかな抵抗と考えられている。 ドイツ統治下の各地より貨車などで運ばれてきた被収容者は、オシフェンチムの貨車駅(1944年5月以降は第二強制収容所ビルケナウに作られた鉄道引込線終着点)で降ろされ、「収容理由」「思想」「職能」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」などの情報をもとに「労働者」「人体実験の検体」、そして「価値なし」などに分けられた。価値なしと判断された被収容者はガス室などで処分となる。その多くが「女性、子供、老人」であったとされる。ここで言う「子供」とは身長120cm以下の者を指すが、学校や孤児院から集団で送られて来ていた子供たちは形式的な審査もなく、引率の教師とともにガス室へ送られた。 直感的に自分の「価値」を示さねばならないと考えた人たちは、できるだけ若く見えるように、元気に見えるように自分を装おうとする。収容所の職員たちの間を全裸で行進させられている女性たちの写真がある。彼女たちは、わずかに身につけていた紅を唇や頬にさし、それもない場合は身体を傷つけて血を出し、それを唇や頬に塗ったという。 彼らは担当者によって恣意的に振り分けられる。 生き残ることを許された人々はすべての私物を没収され、散髪、消毒、写真撮影を行われ、管理番号を刺青される。そして性別、人種別に振り分けられ、収容棟に送られる。囚人服には「政治犯」「一般犯罪者」「移民」「同性愛者」、さらには「ユダヤ」などを区別するマークがつけられている。 このマークに従って食料の配給率、宿舎の設備、労働時間などが差を付けられ、そのことは生存率に直結した。このマークは、収容者同士を団結させない機能を果たしたと思われる。 ドイツ人を頂点に、西・北ヨーロッパ人、スラブ人、最下層にユダヤ人や同性愛者、ロマ・シンティが置かれた。 収容者は様々な労働に従事させられた。 まず懲罰的労働。穴を掘り、穴を埋めるといった生産性のないもの、肉体的消耗を目的とした重労働。 次に、戦争遂行に欠かせない資材・兵器などの生産や、収容施設の維持・管理などを目的とした労働。 三つ目は、所内で死亡した被収容者の処分を目的とした労働。ガス室や病気、栄養失調などで死亡したおびただしい数の遺体を、焼却炉などに運び処分する「ゾンダーコマンド(特別労務班員)」がこれに該当する。比較的待遇は良かったが、一方で口封じのため数ヵ月ごとに彼ら自身も処分された。1期から13期まであり、解放直前に結成された12期のメンバーは武力蜂起による反抗を試みている。 最後は、ほかの被収容者たちを監視する「カポ(労働監視員、収容所監視員などと訳される)」である。主に第一収容所のドイツ人犯罪者から選ばれることが多かったとされ、被収容者ヒエラルキーの頂点に立った。戦後、過酷な懲罰を課したことで裁かれる者もいた。 アウシュヴィッツは6000人のSS隊員によって運営されており、収容者は14万人を最大とした。SS隊員たちは、ゾンダーコマンド、そしてカポを必要としたわけである。カポとなり、ゾンダーコマンドとなれば、食糧の面でも住環境の面でも労働の面でも一般の収容者とはっきり区別される厚遇を期待できる。 住環境は劣悪で、隙間風が吹き込むために簡素な暖房は役に立たず、基礎工事も行われていなかったために地面は泥土と化していた。 問題は食糧である。配給量についてはさまざまな証言があり、ポーランド国立オシフィエンチム博物館に展示されている「朝食:約500ccのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。昼食:殆ど具のないスープ。夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど]」はその一例とされている。 ただ、1944年以降は労働者の業績によって配給量は変えられている。変えられたとなると、元々一般成人が必要とするカロリー数にはるかに遠い量がさらに減らされるわけだから、餓死への道が待っていると言っていい。 食糧を巡る争いは日常的なものであり、生還したフランクルが、「なぜ生き残れたかについては訊ねないでほしい」と述懐していることからもその実態が想像しうるし、人肉を食べたという事実もありうることと思える。 抑圧の一方で、被収容者による「オーケストラ」が組織されていたことも事実である。強制収容所到着直後の被収容者には明るい曲を、強制労働に向かう被収容者には行進曲を奏でたとされる。オーケストラの存在は、多くを奪われ、失意のうちにアウシュヴィッツへ送られてきたばかりの人々にはかすかな希望を与え、日々重労働を課せられる被収容者には逆に腹立たしさを覚えさせた。SSにとっては余興でもあり、その本分は人心を巧みに利用した被収容者に対しての欺瞞であったと言える。奏者は特別な待遇を受けることができたが、ゾフィア・チコビアクのように、「人々の死に自らの行為が間接的に関与していた」という思いから心に生涯にわたる傷を負った者もいた。 また、ナチスのドイツ人医師たちは、被収容者をさまざまな実験の検体として扱った。いわゆる「人体実験」である。カール・ゲープハルト、エルンスト・グラヴィッツ、ホルスト・シューマンらはスラブ民族撲滅のために男女の断種実験を、ヨーゼフ・メンゲレは双子や身体障害者、精神障害者を使った遺伝学や人類学の研究を行ったとされる。 ほかにも新薬投与実験や有害物質を囚人の皮膚に塗布する実験などが行われた。命を落とした者は数百に及び、たとえ生還できたとしてもその多くには障害が残った。ニュルンベルク裁判などはこれらの行為を医療犯罪として裁いた。 『夜と霧』は、奇跡的にアウシュヴィッツから生還した医師であるフランクルによって書かれた。みすず書房から出版され、2002年に池田香代子訳で新訳が出版された。ただ、新版には、旧版につけられていた解説がすべてカットされている。役割を終えたという事かもしれないが、新版を購入して通読したのち愕然としたことを思い出す。私は今でも、生徒たちには旧版を奨めている。 骨と皮になった死者たちは、ブルドーザーによって片付けられている。その写真を見たとき(もちろん旧版)、鳥肌が立った。 アウシュヴィッツへの旅は、八日間で10万から15万で企画されている。
2012.01.27
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1月26日 1924年 - ウラジーミル・レーニンを記念してペトログラードがレニングラード(現サンクトペテルブルク)に改称される。 ペトログラードは、以前は、サンクトペテルブルクと呼ばれていた。1703年にこの都市の建設を開始させたのはピョートル大帝である。ネヴァ河の河口のデルタ地帯にあった湿地帯に数万人の労働者が動員され、大量の石が投入されて基礎工事が行われた。1712年に工事は完成、ピョートルはこの地に遷都を行い、大貴族や裕福な商人・職人を移住させた。遷都から10年後には人口は7万人に達し、都としてふさわしい土地となった。 サンクトペテルブルクがペトログラードと改称されたのは、第一次世界大戦が開始されてロシアがドイツと戦うようになったからである。「ブルク」とはドイツ語であり、「グラード」はロシア語である。 第一次世界大戦は、ナショナリズムが前面に出た戦争でもあった。 イギリスでは、ジョージ5世は敵国ドイツの領邦であるザクセン・コーブルク・ゴータ公国の名が冠された家名を避けて、王宮のあるウィンザー家と改称している。現在も続くウィンザー朝の始まりである。ザクセン・コーブルク・ゴータ朝という名称が採用されたのは1901年、それ以前は、ハノーヴァー朝と称されていた。 1714年にステュアート朝が断絶した時、ドイツから招かれた遠縁(ステュアート朝ジェームズ1世の曾孫)のジョージ一世がハノーヴァー朝を開く。彼は英語はほとんど話せなかった。フランス語を使って閣僚との意思疎通をはかることは可能であったがイギリスの国内政治には関心を示さなかったため内閣が政治を一切取り仕切ることとなり、内閣は国王ではなく議会に責任を持つようになる(責任内閣制の誕生)。 ハノーヴァー朝以来代々の王位継承者の配偶者はドイツ人やドイツ系の王族が迎えられることが多かった。現女王のエリザベス二世がドイツの町を訪問した時に確か「my hometown」とスピーチの中で述べていたと何かの本で読んだ記憶がある。 話を元に戻そう。レニングラードという名称は、スターリングラードがフルシチョフによるスターリン批判ののちにヴォルゴグラードと改められた(1961年)後も残った。しかしソ連崩壊ののちの1991年、住民投票によって、ロシア帝国時代の現在の名称に戻っている。ただ、都市が存在する州の名前は以前と同じレニングラード州である。 ロシア革命とソ連という国のことをどう教えるか。教科書では、「社会主義の実験」というタイトルがついていたりする。思想としての社会主義、運動としての社会主義、ここまでは自分の中である程度の整理はつく。しかし、ロシア革命(2月革命から11月革命)、そして内戦を経てのソ連邦の成立、レーニンの死から引き続くスターリンの独裁という過程をどう教えるか。自分の中でもなかなか整理がつかない。 私の中ではこの部分はまだまだ「実験中」の段階である。
2012.01.26
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1月25日 1533年 - イングランド王ヘンリー8世が2人目の妻アン・ブーリンと結婚。 1501年にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の末子キャサリン・オブ・アラゴンと結婚していた兄アーサーが急死し、ヘンリーはプリンス・オブ・ウェールズとなった。 そして父の死によって1509年にヘンリー8世として即位、その2か月後にまだ喪もあけていなかったキャサリンと結婚する。 彼はラテン語、スペイン語、フランス語を理解し、舞踏、音楽にも優れた才能を示したインテリであった。 彼はその才能を駆使してルターの宗教改革を批判する書を刊行、教皇レオ10世から「信仰の擁護者」の称号を授かる。レオ10世と言えば、サン・ピエトロ大聖堂建設資金調達のためにドイツでの贖宥状(免罪符)を販売してルターによる批判を受けて宗教改革の原因を作った人物であり、とにかく贅沢が好きで浪費を続けた人物として有名である。 とにかくこの時期のヘンリーは熱心なカトリックであったわけだ。 一方で父の代からの重臣エドマンド・ダドリーを処刑するなど専制君主としての面も見せ始めている。 キャサリンとの間には世継ぎとしての男子が誕生せず、アン・ブーリンから結婚を迫られていたこともあり、キャサリンとの離婚(正確には婚姻の無効)を巡って教皇クレメンス7世と対立、側近であるトマス・クロムウェルの補佐を受けてイングランドは帝国であると宣言、1534年には「首長令」を発して、自らをイングランド国教会の長とし、カトリック教会から離脱する。しかし、「信仰の擁護者」の称号のみは代々用いられ、現在のエリザベス二世の称号の一つにもなっているというから驚きである。 1533年5月23日にキャサリン王妃結婚無効の宣言がなされ、6月1日にアンが正式な王妃と宣言される。これに反対したトマス・モアを処刑している(映画『わが命つきるとも』、1966年のイギリスの映画作品。第39回アカデミー賞作品賞、監督賞(フレッド・ジンネマン)、主演男優賞(ポール・スコフィールド)、脚本賞(脚色部門:ロバート・ボルト)、撮影賞(カラー部門:テッド・ムーア)、衣装デザイン賞(カラー部門:エリザベス・ハッフェンデン、ジョーン・ブリッジ)の6部門を獲得。ヘンリー8世はロバート・ショウ。アン・ブーリンはヴァネッサ・レッドグレーヴ)。 カトリックの修道院の多くは解散させられ、結婚に反対した多くの修道士も処刑された。国民の多くもアン・ブーリンが正式に王妃となることには反対していたと言われている。 アンは1533年9月に第二王女エリザベスを出産、王子誕生を望んでいたヘンリー8世は落胆したが、エリザベスには王位継承権が与えられた。アンは王女の身分をはく奪されて庶子の身分に落とされていたメアリに対してエリザベスの侍女になることを強要した。さらにアンは二人の間に男子が誕生しないのは 「キャサリンとメアリが呪っているからだ」と二人の処刑を求めたが、ヘンリーはこれを拒否する。 このような雰囲気の中でヘンリー8世はアンの侍女の一人であったジェーン・シーモアに心を移し、アンへの愛情は薄れていく。 1536年1月、前王妃キャサリンが幽閉先のキムボルトン城で亡くなったことを祝い、アンとヘンリーが祝宴を開いてダンスを楽しんだ後、アンは男児を流産した。 1536年5月1日、結婚から2年後、アンは国王暗殺の容疑、および不義密通を行ったとして、反逆罪に問われた。なお、5人の男と姦通したとされたが、うち1人は実の兄弟だった。同年5月19日、反逆、不倫、兄弟と関係を持ったこと及び魔術という罪で死刑判決を受け、ロンドン塔にて斬首刑に処せられた。この時、ヘンリー8世はイングランドの死刑執行人に処刑させず、フランスのリールからジャン・ロムバウドという死刑執行人を呼び寄せて執行させたと伝えられている。 『1000日のアン』(1969年、アメリカ 監督:チャールズ・ジャロット。アンをジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド、ヘンリー8世をリチャード・バートンが演じた)のラストシーンは、処刑される母を娘エリザベスが見つめていることとなっていた。 アン・ブーリンを処刑したのちヘンリー8世はジェーン・シーモアと結婚、彼女は男子を出産(のちのエドワード6世)するが、産褥死、 ヘンリー8世は感謝をこめてただひとり、死後に隣で眠ることを許している。 ヘンリー8世が次に結婚したのはアン・オヴ・クレーヴスである。 時の大臣であったトマス・クロムウェルが王の見合いのために画家ハンス・ホルバインに依頼して肖像画を描かせたが、アンの姿は肖像画に描かれたほど美人でなかったと言われる。事実、クロムウェルはその責任を取らされてロンドン塔で処刑されたが、ホルバイン自身は王のお気に入りの画家であるために刑死は免れた。※ホルバインは、ヘンリー八世の肖像画を描いている。 アンはわずか半年で王から離縁され、「王の妹」という称号と所領(アン・ブーリンの邸宅の1つ、ヒバー城もその中に含まれる)、年金を与えられ、ロンドン市内のベイナーズ城で余生を送った。離婚の理由としては、かつてロレーヌ公フランソワ1世と交わした婚約をきちんと解消していなかったことが選ばれた。その後も王室の行事のたびに国王やその子どもたちへの気前の良いプレゼントを持って現れる「王の妹」は非常に好かれたようである。 次は、 キャサリン・ハワード。キャサリンはアンの侍女の1人だった。ヘンリーは年の離れたキャサリンを「私のバラ」「私のトゲのないバラ」と呼んで可愛がった。しかし、キャサリンは前の恋人である従兄弟のトマス・カルペパーとフランシス・デラハムらと交流があったと国王の側近に訴えられ(カトリックのキャサリンは、家臣の内プロテスタントの者に疎まれていた)、国王に「不義密通」を疑われ、逮捕された。キャサリン本人は密通を否定したが聞き入れられず、事実は曖昧なまま処刑された。 最後がキャサリン・パー。彼女は、16歳で最初の結婚、21歳で2度目の結婚をしたものの、いずれの夫も病死している。2人目の夫の死後、王の3人目の妻ジェーン・シーモアの次兄トマスと交際を始めたが、51歳のヘンリー8世に見初められ、トマスは公務で海外に送られてしまい、結局1543年に31歳で王と結婚した。 キャサリンは当時私生児の身分に落とされていたメアリー(後のメアリー1世)とエリザベス(後のエリザベス1世)の姉妹を、王女の地位に戻すことを王に嘆願して許された。少年時代からエラスムスと文通するほどの教養の持ち主だったヘンリーと対等に学術談義ができるだけの知性を持ち、特に神学についての造詣が深かった。まだ幼いエドワード(後のエドワード6世)とエリザベスの養育を任されたため、彼らへの教育環境を整えてやったほか、音楽などの芸術についての関心も導き出していた。王の子女たちも優しい継母を敬愛しており、メアリーもプロテスタントの義母を深く慕っていたといい、エリザベスがキャサリンを「大好きなお母様」と呼んでいる手紙も残っている。子女たちが王族としての深い教養を身に付けられたのも、聡明な王妃が勉学環境に心を砕いていた賜物であるという。 晩年の王は肥満であった他、怪我が元でできた脚の腫瘍と酷い頭痛に苦しんで寝込むことが多く、激高すると手の付けられない状態であった。しかし、キャサリンは王の看護にも熱心であったため、王の信頼を得、1544年に王がフランス遠征をした3ヶ月間、君主代理を任されるほどであった。また、イングランド女王・王妃として初めて著書を上梓したのもキャサリン・パーである。 宗教改革によりカトリック教会とイングランド国教会の対立が止まない時代、キャサリンの身にも危険が及んだことが1度だけある。キャサリンが神学への興味からマルティン・ルターによる福音主義の教義を勉強していたことから、カトリック司祭らの怒りを買い、キャサリンが異端者であるという報告が王にもたらされた。「貴族の女性が聖書を読む際は一人で読むこと。また聖書について討論してはならない」という法律が策定され、何とか危機を回避したかに見えたが、1546年に異端の追求が厳しくなった。宮廷に出入りしていたアン・アスキューという女性が逮捕され、拷問にかけられて同志の名前を明かすよう迫られたものの、結局彼女は王妃との関係について何も述べないまま火刑に処せられた。それでもなお枢密院の調査が進み、王妃逮捕も近いと思われたが、キャサリンはすでに証拠となりうる書物を処分しており、王に対して自らの信仰の潔白を説いていた。実際、捕吏が夫妻の元へ赴いていたが、ヘンリーがそれを追い払ってキャサリンは救われた。 1547年1月28日、ヘンリー8世が55歳で没する。キャサリンは周囲の動揺と反対を押し切るように、5月にはかつての恋人、海軍司令長官トマス・シーモアと再婚し、11月に妊娠がわかった。トマスの兄エドワード・シーモアがエドワード6世の摂政となって宮廷に残り、エリザベスはキャサリンとトマスの元に引き取られた。ところが野心家のトマス・シーモアは、キャサリンの妊娠中に王女エリザベスの寝室に出入りしているところを見られ、結局エリザベスはシーモア家から出ざるを得なくなる。 1548年8月30日に女児が誕生し、メアリーと名づけられた。しかしキャサリンは産褥感染症にかかり、9月5日、この世を去った。 ※『ブーリン家の姉妹』(2008年公開のイギリス映画 アン・ブーリン:ナタリー・ポートマン メアリー・ブーリン:スカーレット・ヨハンソン ヘンリー8世:エリック・バナ)をBSで観た。『1000日のアン』とは異なり、アン・ブーリンは追い詰められて兄弟とも肉体関係を持とうとしたと(未遂に終わったとしても)描かれている。 メアリー・ブーリンは、フランス宮廷で侍女をしていた時にフランソワ1世の愛人となり、その後、様々な貴族たちの愛人となり、不評をかって帰国させられたという。これって、この映画のアン・ブーリンでは?かなり実像と映画とは違うようだ。 アン・ブーリンは告発されたすべての罪について無実であり、全くのでっち上げであったとする見解の方が正しいとされているのだが、(追い詰められて不倫はあったという見解もあるが)「劇的」である方が選ばれたのだろうか?それにしても、ナタリー・ポートマン、追い詰められてとんでもないことをしでかしてしまうという役が続いているのでは。
2012.01.25
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1月24日 1848年 - カリフォルニアのアメリカン川河底で砂金が発見される。カリフォルニア・ゴールドラッシュの始まり。 金の発見の報は東部に伝わり、東部から、さらには海外からも大量の人口移動が始まる。およそ30万人とされている人々が海路と陸路を伝ってカリフォルニアに押し寄せる。 1849年に移住したものが多かったところからfortyniners(49年人?)と呼ばれる。アメリカンフットボールの有名チーム「サンフランシスコ・フォーティーナイナース」にその名が残っている。 当初、採掘者達が選鉱鍋のような単純な技術で小川や川床の砂金を探した。後に金探鉱のためのより洗練された技術が開発され、それは後に世界中で採用されていった。その最高潮に達した時、技術の進歩はそれなりの資金が必要となるまでに達し、個人の採掘者よりも会社組織の探鉱の比率が増していった。今日の米ドルで数十億ドルにもなる金が発見され、極少数の者には莫大な富をもたらしたが、多くの者は来た時と大してかわらない資産のまま故郷に帰った。 金の採掘に従事する人たちのために丈夫な作業着が求められ、そのために生まれたのがデニム地をもとにしたジーンズであることはよく知られるようになって来た。 1870年ゴールドラッシュに湧くアメリカで、仕立て屋のヤコブ・デービスは、既に設立されていたリーバイス社のリーバイ・ストラウスから仕入れたキャンバス生地を元に銅リベットでポケットの両端を補強したワークパンツを発売、鉱夫達に好評を博した。キャンバス生地とは丈夫な厚手の粗布のことで、もともとは舟の帆として使われていた。リーバイ・ストラウスは、帆布が売れるだろうという事を当て込んで大量にキャンバス地を仕入れていたのである。 類似品が出回ることを危惧したヤコブは、このリベット補強済みパンツの特許を取得しようとしたが必要な資金が無く、権利を折半するという条件でリーバイ・ストラウス社に特許申請を依頼する。特許申請は1873年5月20日に受理され、このリベット補強済みパンツはリーバイ・ストラウス社製の製品として製造販売される。このパンツがジーンズの原型である。 その後、素材はキャンバス生地からインディゴ染めのデニム生地へと変遷し、縫製技術の進化等により1940年代には現在のジーンズとほぼ同様のデザインとなった。 デニム生地とは、10番手以上のタテ糸をインディゴによって染色し、ヨコ糸を未晒し糸(染色加工をしていない糸)で綾織りにした、素材が綿の厚地綿布の事である。 1953年のマーロン・ブランド主演の映画『乱暴者』で、1955年の映画『理由なき反抗』でジェームズ・ディーンがジーンズを着用した。これらのことからジーンズは若者たちの間で国境を越えて大流行する。 サンフランシスコは小さな開拓地だったものが新興都市に成長し、31番目の州として迎え入れられることになった。 しかし、その陰でインディアン達が攻撃されてその伝統的な土地から追い出され、また金の採掘で環境が汚されるという事も起きた。 カリフォルニア州は1850年9月9日に合衆国31番目の州となっている。 そのきっかけとなったのが米墨(アメリカ・メキシコ)戦争である。アメリカ連邦議会は1846年5月13日に、メキシコは5月23日に宣戦布告している。1847年1月13日に調印された条約によってカリフォルニアでの戦いは終了、1848年2月2日に戦争も終結、アメリカはカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの大半にテキサスと同様の管理権を得た。アメリカはこれに対し18,250,000ドル(現金15,000,000ドルと債務放棄3,250,000ドル)を支払った。 これによって、メキシコは国土の 1/3 を失った。不毛の砂漠地帯だったこれらの土地ではあったが、その一年後(1849年)カリフォルニア州サクラメントでゴールドラッシュが起こり、さらにずいぶん後の20世紀前半には、テキサス州に無尽蔵といわれた油田が発見されて石油ブームが起こることになる。 カリフォルニア州は合衆国の州のうちでは最大の人口を誇り、大統領選の選挙人数も最多である。ブラジルのサンパウロ州に続いて南北アメリカ大陸で2番目に人口の多い行政区画である。大都市は人口の多いものからロサンゼルス、サンディエゴ、サンノゼ、サンフランシスコとなっている。州内には全国で2位(ロサンゼルス)と6位(サンフランシスコ・ベイエリア)の都市圏があり、人口の多い都市50傑には8つの市が入っている。 カリフォルニア州が1つの国であるとすれば、GDPではイタリアに匹敵する第10位である。人口でも第35位、国土では第59位になる。 カリフォルニア州では一部地域の分離・独立の試みが繰り返し行われており、1800年代から2011年までに少なくとも27回が失敗に終わっている。 「ウィキ」で「カスカディア」という項を検索するといろんなことが分かって面白い。
2012.01.24
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1月23日 1902年 - 八甲田山山中にて遭難事故(八甲田雪中行軍遭難事件) 日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難する。訓練への参加者210名中199名が死亡するという日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者が発生した。 背景にあるのは、日本政府が政府内部での日露開戦か日露協商かの議論にけりをつけて対露開戦を決定したことにあった。(日英同盟は1902年1月30日調印発効) この演習の目的は、ロシア海軍の艦隊が津軽海峡に入り、青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、日本海側と太平洋側から、それぞれ移動するための演習であった。そのルートは「弘前~十和田湖畔~三本木~田代~青森」と「青森~田代~三本木~八戸」の2ルートが考えられ、弘前ルートは弘前歩兵第31連隊が、八戸ルートは青森5連隊がそれぞれ受持つ形となった。このような形になったのは全くの偶然であり、弘前第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究が目的だったのに対し、青森第5連隊は「雪中における軍の展開、物資の輸送の可否」が目的だったとされている。 遭難したのは、青森を衛戍地とする歩兵第5連隊第2大隊である。部隊の指揮を執っていたのは、中隊長で陸軍歩兵大尉の神成文吉である。但し、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口(金偏に辰)が指揮に関与したとされている。神成文吉大尉は、秋田県の出身で、陸軍教導団を経て陸軍歩兵二等軍曹に任官し、順次昇進して陸軍歩兵大尉となった人物である。 雪中行軍が行われたのは、冬季によく見られる典型的な西高東低の気圧配置で、未曾有の寒気団が日本列島を襲っていた時で、日本各地で観測史上における最低気温を更新した日でもある(旭川で1月25日、日本最低記録である-41.0℃を記録した)。青森の気温にしても例年より8~10℃程低かった。行軍隊の遭難した山中の気温は、観測係であった看護兵が記録も残せず死亡したため定かでないが、-20℃以下だったとの推測を青森5連隊が報告書の中で残している。この過酷な気象条件が遭難の一大要因と考えられる。 雪中行軍時、将兵の装備は、特務曹長(准士官)以上が「毛糸の外套1着」「毛糸の軍帽」「ネル生地の冬軍服」「軍手1足」「長脚型軍靴」「長靴型雪沓」、下士卒が「毛糸の外套2着重ね着」「フェルト地の普通軍帽」「小倉生地の普通軍服」「軍手1足」「短脚型軍靴」と、冬山登山の防寒に対応しているとは言い難い装備であった。とくに下士官兵卒の防寒装備に至っては、毛糸の外套2枚を渡されただけである。倉石大尉はゴム靴を持っていたことが結果として凍傷を防いだと言われるが、これは正月に東京に行った際にたまたま土産物として買っていたものであった。当時はまだ日本においてはゴム靴というのはハイカラな靴として扱われていたにすぎず、倉石大尉が本行軍で履いていたのは単なる偶然である。 兵卒の生存者は全員山間部の出身で、普段はマタギの手伝いや炭焼きに従事している者達だった。彼等は冬山での行動にある程度習熟しており、「足に唐辛子を擦り付けて、足温を安定させる」「足に油紙を巻いて水分の浸入を防ぐ」「肌着と衣服の間に新聞紙を仕込んで、体温の安定化、寒気の遮断をする」「食料(握り飯)に油紙を巻いた上、背嚢ではなく服の中に入れ凍結を防ぐ」等の独自の耐寒装備をしていた。将校の生存確率が高いのも、兵卒より防寒機能が高い装備が一因と言われている。雪中行軍参加者のほとんどは岩手県、宮城県の農家の出身者であった。いかに寒冷地の出身者と言えども、普段冬山に接する機会などない者が多く、このような者は厳冬期の八甲田における防寒の知識など皆無に等しかった 弘前ルートで入山した弘前歩兵第31連隊38名も、激しい風雪に悩まされたが、見事に踏破を果たし、無事全員生還した。青森隊の遭難は知るすべもなく、悪天候の中で民家に到着するも十分な休息もとらずすぐに出発するなど、踏破するタイムを気にしての強行軍であった。弘前第31連隊が全員無事帰還できた理由は下記のようなものとされている。 1 .天候不良とみるや深さ4メートルに至る穴を掘りビバークし、途中で寝込んでしまう隊員がいると皆で踏みつけて起こすなど、冬山の怖さを熟知していた。 2.連隊を率いた指揮官・福島泰蔵大尉が、寒冷に対するさまざまな工夫を考案しており、周知徹底していた。(例;川を渡る際は裸足で渡川し、ぬれた足を完全に拭き取ってから靴下を履く等) 3.連隊が比較的少人数で、最後まで統率を失わなかったこと。 4.隊員に寒冷地出身者が多かったこと。 1月29日に、弘前歩兵第31連隊は青森に到着。地元の歓迎を受けるが、この日に至ってやっと青森隊の遭難を知ることになった。 この事件は、新田次郎によって『八甲田山死の彷徨』としてフィクションを交えて小説化され、のちに森谷司郎監督、橋本忍脚本で映画化される。 高倉健が弘前第31連隊・徳島大尉(モデルは福島泰蔵大尉))、北大路欣也が青森歩兵第5連隊・神田大尉(モデルは神成文吉大尉))を演じた。 映画は、組織のリーダーはいかにあるべきかを考える資料として企業での研修に使用されたという。 撮影では、実際に真冬の八甲田山でロケを敢行し、日本映画史上類を見ない過酷なロケとして有名になった。実際に数名の俳優がその過酷さに耐えられず脱走したという話も残っており、主役級も含めて俳優たちの出演料も決して高額ではなかった。この過酷な撮影は当時カメラマンだった木村大作にも大きな影響を与えたと言われている。また、高倉健もこの撮影で足が軽度の凍傷になってしまったという。 この映画の時のエピソードだったと記憶しているが、高倉健は、雪の中にじっと立っており、後ろに控えていた付け人に、時折、「おい」と声をかけた。付け人は高倉にチョコレートを一粒渡して高倉はそれを受け取り口に含んで、あとはまた無言で雪の中に立っていたという。かっこいいのである。
2012.01.23
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「日本人は何を考えて来たのか」というシリーズが始まりました。第一回は「福沢諭吉と中江兆民」。第二回は「自由民権運動」。第三回は「田中正造と南方熊楠」。今後の放送の予定は以下のようです。 1月29日(日)午後10時~11時30分第4回非戦と平等を求めて ~幸徳秋水と堺利彦~ 第5回 東と西をつなぐ ~内村鑑三・新渡戸稲造~ 第6回 大正デモクラシーと中国・朝鮮 ~吉野作造・石橋湛山~ 第7回 貧困に取り組む ~河上肇と経済学者たち~ 第8回 常民の日本を探る ~柳田民俗学とその継承者~ 第9回 ひろがる民衆宗教 ~出口なお・王仁三郎と大本教事件~ 第10回 昭和維新の指導者たち ~北一輝・大川周明と2・26事件~ 第11回 京都学派の哲学者と戦争 ~西田幾多郎から三木清まで~ 第12回 女性解放運動はこうして始まった ~平塚らいてうから市川房枝 へ とりあえず、すごく魅力的です。老化防止のために真剣に見ようと思っています。 それと、今日から始まった、「ヒューマン」もなかなか刺激的です。 <放送予定>第1集 旅はアフリカからはじまった 2012年1月22日(日) 午後9時00分~ 総合テレビ 第2集 グレートジャーニーの果てに 2012年1月29日(日) 午後9時00分~ 総合テレビ 第3集 農耕革命 ~未来を願う心~(仮) 2012年2月19日(日) 午後9時00分~ 総合テレビ 第4集 そしてお金が生まれた(仮) 2012年2月26日(日) 午後9時00分~ 総合テレビ 新しい発見を知るのは刺激的です。 昨日の、「青ナイルの源流 タナ湖を訪ねる旅」も、それまでの自分の思い込みを完全にひっくり返されて目が点になりました。あー、恥ずかしい。
2012.01.22
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NHKのサイトを見ていたら以下のニュースを見つけました。 東京電力福島第一原子力発電所の事故を巡って、避難区域や除染の方針など重要な決定を行ってきた政府の「原子力災害対策本部」の議事録が作成されていなかったことが分かりました。専門家は「将来同じ失敗を繰り返さないようにするための財産が失われたという意味で、国民的な損失だと思う」と指摘しています。 政府の原子力災害対策本部は、総理大臣を本部長とし、経済産業大臣をはじめ全閣僚をメンバーとするもので、原発事故当日の去年3月11日に設けられ、避難区域や除染の基本方針、農作物の出荷制限など原発事故を巡る重要な決定を行ってきました。NHKで、去年11月、それまでに開かれた21回の会議について「議事録や内容をまとめた資料など」の情報公開請求を行ったところ、公開されたのは、議題を記した1回の会議について1ページの「議事次第」だけで、議論の中身を記した議事録は作成されていなかったことが分かりました。NHKの取材に対し、原子力災害対策本部の事務局を務めている原子力安全・保安院の担当者は「業務が忙しく議事録を作成できなかった」と説明しています。公文書管理法は、国民への説明義務を果たすとともに政府の意志決定の過程を検証できるようにするため重要な会議の記録を残すよう定めており、公文書の管理を担当する内閣府は、原子力安全・保安院の担当者から聞き取りを行うなど経緯を調べています。原発事故への対応を巡っては、東京電力と政府が合同で事故対応を検討した「事故対策統合本部」でも主要な会議の議事録が作成されていなかったことが分かっており、内閣府は、この経緯についても調べています。 公文書の管理や情報公開制度に詳しい名古屋大学大学院の春名幹男特任教授は「政府の重要な立場にあった人たちは、記録を残さないと責任を果たしたことにはならない。今回は、自分たちの失策がそのまま記録されると困るので、あえて記録を残さなかったと思われてもしかたない。将来同じ失敗を繰り返さないようにするための財産が失われたという意味で、国民的な損失だと思う」と指摘しています
2012.01.22
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大河ドラマを見て、引き続きニュースを見ていたら、「原子力対策委員会と事故対策委員会の議事録が作成されていなかった」と報道されていた。 あまりのことに言う言葉もない。「忙しかったから」というのがその理由だそうだが、こんな重要な会議について録音し、記録として残すということを参加者のだれも気が付かなかったのか?事務方の人物は何をしていたのか? 「記録を残す」ということについての意識の低さ、軽視、都合が悪くなったら廃棄するという風土は依然として「健全」であるようだ。 ヨーロッパを旅行した人からよく聞く。「ホントに小さな町にもきちんとした文書館がある」という。その伝統のおおもとについても調べてみたいと思っている。 それとも早々と、録音はしていたのだけれど、その内容が公開するにはあまりにも不適切・・・との判断か?これまでも、「ありません」といっていた文書が出てきたという例はあるのだから。 真相が知りたい。
2012.01.22
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1月22日 1901年 - イギリスで、ヴィクトリア女王が死去。息子のエドワード7世が即位。 「20世紀って何年に始まって何年に終わるのか?」と質問することがある。よくある答えは、「1900年から2000年まで」という答えである。「では」ということで質問する。「1世紀って何年から始まるの?」。たまに「ゼロ年」と答える生徒がいる。で、また質問。「ゼロ年ってあるの?」と。ゼロ年はないことを確認させて後に、「紀元後1年の一年前は?」と質問。「紀元前一年」という答えを得て後に、数直線との違いを説明する。最後に元に戻って、「さて、20世紀って何年から何年までか?」を訊ねる。1901年から2000年まで。 1837年6月20日、ウィリアム4世の崩御により、ヴィクトリアは18歳で即位した。世界史の図説にはたいてい、この時の画像が掲載されている。18歳の何ともういういしいヴィクトリアの姿である。ただ、出版社によっては晩年の写真を掲載している図説もある。両方掲載しているのは珍しい。 1857年から58年にかけて起こったインド大反乱(以前は「セポイの乱」と呼ばれていた)を鎮圧したイギリスは東インド会社を解散させて直接統治に乗り出し、インド帝国を誕生させた。その初代女帝がヴィクトリアである。彼女の時代はイギリス帝国の最盛期と言われているが、それは、世界各地を植民地化したという事でもある。1848年に、イギリス人の探検家 ジョン・ハニング・スピークと、リチャード・フランシス・バートンはナイル川の水源を探す探検を行い、まず二人でタンガニーカ湖を発見した。その後、体調不良でタンガニーカ湖畔に残ったバートンを置いてスピークは探検を進め、この湖を確認した。この湖をナイル川の水源だと信じたスピークは、時のイギリス女王ヴィクトリアの名を取り「ヴィクトリア湖」と命名した。しかし、スピークの探検では、湖がナイル川の水源である事は確認できなかったため、タンガニーカ湖がナイル川の源流であると考えるバートンと、ヴィクトリア湖がナイルの源流であると考えるスピークの大論争が勃発した。1875年、アメリカの探検家ヘンリー・モートン・スタンリーによって、水源であることが確認された。 1851年5月1日、ロンドンのハイドパークに、突貫工事で造られた総ガラス張りの巨大な建物「クリスタル・パレス(水晶宮)」で、歴史上、最初の万国博とされる「大博覧会」の開会式が挙行された。大観衆の見守るなか、博覧会実行委員長であったアルバート公爵が、妻であるヴィクトリア女王に開会を奏上して、式は始まった。 この博覧会では、イギリスの工業製品はもとより、インドの象をはじめ、イギリスが公式・非公式に支配を及ぼした世界各地の物品が展示された。世界中の商品で、この国で手に入らないものはなかった。1837年に即位したこの女王のもとで、イギリスが世界の中心として覇権を確立したことを、象徴的に示すイベントであった しかし、光があれば影もある。それは、ロンドンのど真ん中に広がった大貧民窟(イーストエンド)である。イーストエンドは貧困と疾病と犯罪と売春に彩られた街であった。 この街で1888年8月31日から11月9日の約2ヶ月間に少なくとも売春婦5人が喉を掻ききられて殺害されてバラバラにされ、臓器を摘出されるという極めて猟奇的な事件(「切り裂きジャック」)が起こっている。これもまたヴィクトリア時代である。 1975年に出版された『大列車強盗』という本がある。作者はマイケル・クライトン。日本語訳は、1981年にハヤカワ文庫 で出版された。この小説は1855年にクリミア戦争の戦費としてイギリスがフランスへ支払うため列車で輸送していた金塊12,000ポンドを、エドワード・ピアースが列車内から強奪したという現実の事件を基に執筆された。ヴィクトリア朝の雰囲気を感じることができる。 国内では「君臨すれども統治せず」の理念が貫かれ、夫アルバートとの間に誕生した子女は欧州各国の王家と婚姻関係を結び、彼女は「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるに至る。 娘のヴィクトリアはドイツ皇帝フリードリヒ3世の妃となり、アリスはヘッセン大公ルートヴィヒ4世の妃となって娘を産むが、その娘ヴィクトリア・アリックスは、ロシア皇帝ニコライ2世の妃アレクサンドラとなってアレクセイを産んでいる。 ところが、ヴィクトリア女王は血友病保因者であったために各国の王家で血友病を発症した男子が誕生することとなる。曾孫のアレクセイも発症、治療のために宮廷に伺候するようになったラスプーチンの専横をニコライ皇帝夫妻は許すこととなり、このことがロシア革命の遠因となった。 結婚21年目の1861年12月14日、42歳で夫アルバートが死去する。女王は悲嘆し、常に喪服を着用するようになり、数年に渡り公の場に姿を現さなくなった。晩年の彼女の写真は喪服姿が多い。 それは即位50周年に「喪服の緩和令」が出されるまで続いた。その間に、「喪のジュエリー」というものが流行している。それは、彼女が謁見する人たちにも喪にふさわしい服装を求めたからである。 神戸の百貨店で、「ジェットジュエリー」なるものを見たことがある。ジェットとは地中深くに堆積した植物が化石化したもので軽くて濃い漆黒の宝石。研磨されて美しい艶を獲得する。・・・石炭とどこが違うのか?ジェットの場合は、水中に長期間浸かっていた植物が炭化したものだというが。 ヴィクトリア女王が身につけていたと紹介されていた。 晩年は、アルバートを記念した事業に精力を注いだ。その代表例が、ヴィクトリア&アルバート博物館やロイヤル・アルバート・ホールである。 1901年1月22日死去。81歳没。在位64年におよんだ。 ヴィクトリア女王の下着がエディンバラで競売にかけられて、9375ポンド(約120万円)で落札されたそうである。ウエストサイズは90cm、ひざまであるブルマータイプの下着だそうだ。誰が何の目的で買ったのか?・・・訳が分からない。
2012.01.22
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1月21日 1793年1月21日、ルイ16世処刑。 『フランス革命下の一市民の日記』セレスタン・ギタール 中公文庫は800ページほどある分厚い文庫本。何回か読んだために解体しつつある。 ルイ16世の処刑についての記述は以下のようである。 気温三度。一日中湿った天気。<前国王、ルイ16世処刑さる> きょう、午前十時二十分。国王はルイ十五世広場で処刑され、遺体はただちにマドレーヌ墓地に運ばれ、深さ四メートル、長さ二メートルの墓地に埋葬された。 国王はすでに1792年10月20日から遺言状をしたためていた。 その四日後の1月25日に以下のような記述が登場する。 去る20日、パレ・ロワイヤルで暗殺されたルベルチエ・ド・サン・ファルジャーの葬儀が今日、国民公会の指令により執り行われた。国王の死刑に賛成投票したという理由で、パリスという名前の男が、ルベルチエの左わき腹にサーベルを突き刺したのだ。 マリー・アントワネットのことは以下のように書かれている。 マリー・アントワネットは、革命裁判所に出廷し、第一回の尋問を受ける。十五日午後四時、死刑の宣告。十六日正午、革命広場゛処刑。特別な囚人として二輪馬車の一人乗せられ、刑場へ運ばれた。監獄を出るときから髪を切られ、両手を後ろ手に縛られていた。王妃は白い部屋着姿であった。 この当時の処刑はその多くが公開された。有名人が処刑されるとなると黒山の人たちが詰めかけ、弁当を食べながら「その時」をねらっていた。もちろん、場所取りの争いもあったようだ。ギロチンで切り落とされた首は、人々に向かって示されたことが、このころの絵を見るとわかる。 童話作家アンデルセンの自伝の中には、学校から引率されて処刑を見に行ったという思い出が書き留めてある。死刑囚は、子どもたちに向かって、なぜ自分は処刑されるのか、お前たちはこんなことにならないように・・と訴えることもあったようである。 フランス革命をどう教えるか、という事も見直されてきている。「栄光に包まれ、その後のフランスの魂となったフランス革命」という革命像はもう破綻している。 中央集権政府を樹立しようとする志向は、フランス各地の文化と言語の強制的統一化という側面を持っていた。 『フランス革命期の公教育』コンドルセ 岩波文庫 の中に以下のような部分がある。 連邦主義と迷信はバ・ブルトン語を話す。亡命者と共和国を憎むものとはドイツ語を話す。反革命はイタリア語を話し、狂信者はバスク語を話す。これらの災厄と誤謬の道具を打ち砕こう。(P270) 世界の言語になるのは、自由と平等に力強さを与えた言語、立法府の演壇と二千の人民の演壇を持つ言語、多数の人々の集まりに活気を与える大きな議場と愛国心を賞賛する部隊を持つ言語、この四年来、あらゆる国民に読まれ、ツーロン、ランダウ、ヴォーバン要塞を奪取した栄光と国王の軍隊の絶滅の役割を果たした14の軍隊の価値を全ヨーロッパに知らせた言語、こうした言語のみに許された任務である。(P276) このような考え方は、植民地の人々に対して何の疑いもなくフランス語教育を施す事に繋がっていく。植民地の人々にはフランスの栄光の歴史が教えられ、植民地には文化などというものはなく、この土地には以前は野蛮と無知のみが支配していたと、歴史そのものがねじまげられる。 また、ヴァンデの反乱という事件もある。元々は革命を歓迎していたフランス西部のヴァンデ地方の人々は、王の処刑、教会と僧侶に対する弾圧、増税と募兵の不公平に抗議して反乱を起こすが革命政府によって激しく弾圧され、30万から40万と言われる犠牲者を出している。 「戦争に関わった可能性のある者は、老若男女を問わず、容赦なく殲滅せよ」という命令が出された。政府軍は森林、畑、家、教会を荒らし、人間を無差別に殺害した。一方、反乱軍では離脱者が続出し統制が取れなくなっていた。敗退を続け、食糧もなく疫病が流行り士気も低下した。にもかかわらず政府軍の無差別攻撃により逃げ出してきた村民をも含め10余万人にも膨れ上がってしまった。彼らは遂に諦めて故郷に帰ろうと北上したが、戦闘で壊滅。捕虜になった者はナントに連行され、ロワール川に浮かぶ廃船に積み込まれて沈められた。 これもまたフランス革命なのである。 いわゆる「恐怖政治」は、言うまでもない。アナトール・フランスの『神々は渇く』に活写されている。善意の塊、自由、平等、友愛を心の底から信じていた青年はなぜこと志に反して死の大天使となったのか。 結局、ロベスピエールは自らの基盤自体をも切り崩し、没落する。 彼らはサン・トノレ通りを通って広場へ連行されていったが、途中随所で民衆の罵言を浴びた。人々は自分たちが欺されていたのを知って怒り狂っていた。(ギタール 1794年7月28日) かつて人々はマラーを神のように崇め、その胸像を掲げて行進し、随所に胸像を建て、彼の名はもっぱら聖(サン)を付してよばれた。今日では、その反動で一層人々はマラーを軽んじ、胸像を踏みにじり、唾をはきかけている。彼は様々な皮肉を浴び、極悪人と決め付けられ、ついには、かつて彼に寄せられた栄誉が残らず剥奪れ、この上もない侮蔑にさらされている。(ギタール 1795年2月9日) 何度も見てきた光景が重なってくる。 私は以前から一つの疑問を持っている。それは、レーニンとローザ・ルクセンブルクとの間の党組織論を巡っての論争である。ローザは、ロシア革命の意義を認めつつも、レーニンの党組織論をあまりにも独裁的と批判する。それに対してレーニンはロシアの現実を踏まえて反論を加えているのだが、彼の頭の中にフランス革命の恐怖政治の悲劇に関する知識がなかったとは考えられない。 レーニンは実際的な人間であり、理想としてはかくあるべしという事と、現実的にはこうあらざるを得ないという事とを峻別している。それは、「戦時共産主義」から「新経済政策」への政策転換を見てもよくわかる。 レーニンの党組織論は、一歩間違うと、恐怖政治の再現へとつながる危険性を持っていた。そのことは、スターリンによって「実証」される。1924年に死去することがなければ、もっと長生きしていれば彼は自らの組織論を修正しただろうか。
2012.01.21
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1月20日 アメリカ合衆国大統領就任式。 アメリカ合衆国憲法修正第20条で、大統領の任期は1月20日の正午に終了することとされており、その瞬間から次の大統領の任期が始まる。 1月20日に就任するようになったのは、F・ローズヴェルトの第二期(1937年)から。それ以前は初代大統領のワシントンの二期目(1793年)の3月4日が基本であった。ちなみにワシントンの一期目は、1789年4月30日から1793年3月4日までである。 3月4日、1月20日に就任していない大統領も何人かいる。68歳で大統領になり、1か月で病死した7代目のウィリアム・ハリソンのような人もいれば、リンカーンのように暗殺された人もいる。 最近では、36代のリンドン・ジョンソンは1963年の11月22日に就任している。35代大統領のケネディが遊説中にテキサス州のダラスで暗殺されたからである。 ケネディは、歴代大統領の中で唯一のカトリック教徒である。キューバ危機の時に、ケネディが教会に礼拝に行ったことをソ連側が、「戦争を決意したサイン」と考えて、ミサイル撤去を決めたという。 アメリカと日本を結ぶテレビ中継の最初の内容はケネディの日本向け演説であった。しかし、何とも皮肉なことに最初の中継はケネディ暗殺というショッキングな事件であった。 オバマ大統領もそうだったけれど(すでに過去形)、ケネディの大統領就任演説も立派なものだった。1961年に行われた演説は、高校の時に受験で使用した英文解釈の参考書にその一部が載っていた。 38代大統領のジェラルド・フォードは、1974年の8月9日に就任している。前任者は37代大統領のリチャード・ニクソン。ウォーターゲート事件の責任をとっての辞任であった。 ウォーターゲート事件とは、民主党全国委員会本部オフィスに対する盗聴事件である。盗聴に大統領のリチャード・ニクソンが関与していた疑いが浮上、弾劾一歩手前でニクソンは辞任した。 ニクソンが関与しているという証拠をもっとも精力的に報じたのは、「ワシントンポスト」であった。記者ボブ・ウッドワードは同僚カール・バーンスタインとともに事件を追い、「ディープスロート」という匿名の協力者からの情報提供も受けてニクソンを追い詰める。のちに「ディープスロート」の正体は当時FBI副長官であったマーク・フェルトであり、二人は彼が死んだ後で全てを明らかにしようとしていた。だが、2005年5月31日にフェルト本人が自分がディープスロートと告白、二人もこれを認めた。 アメリカ大統領は強大な権限を持っている。ただ、そのことを以て、日本でも首相の公選制を!と主張するのはいかがなものか・・・という論があるので紹介したい。 1月16日付の「朝日新聞」で、駒澤大学の大山礼子教授は、「リーダーシップを強めるために首相公選制というのはどうですか?」という記者の質問に、以下のように答えている。 「有権者から直接選ばれた米大統領の権限が強いというのは、日本国民の誤解だ。首相公選制を導入しても、議会と連携が取れない『公選の長』は、議会に言うことをきかせる手段がなく、法律も予算も通らない。議院内閣制と異なり、議会の多数派が首相を支持する保証がないからだ。公選制だったイスラエルでは、首相と議会の対立や小党乱立を招き、結局廃止した。日本でも首相公選制を導入しても、首相のかじ取りが難しくなるだけだろう。」 なるほど。強いリーダーシップを求めるという事は、独裁を容認するところまで行ってしまうという事になる。邪魔なのは議会なんだ!という論になるのは恐ろしいことである。 議員定数の削減、特に比例区の80減などというプラン。これはもう少数政党から発言権を奪い、少数意見を封殺するという行為である。 議員歳費の削減が問題になっているが、政党助成金の廃止はいったんは浮上したものの検討は本格化していない。議員定数を比例区を中心として削るということは議会制民主主義の自殺行為である。 政党助成金の廃止という根本になぜ手を付けないのか?新聞もなぜそれを言わないのか?それを「現実論」であると考えているとしたら、大きな間違いである。
2012.01.20
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1月19日 平治の乱は平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。 平安時代の末期になると、それまでは貴族の内部でのみ処理されてきた内紛は、貴族たちのボディガードであった武士たちの力なしでは解決が困難となってきた。それを示したのが1156年(保元元年)に勃発した保元の乱である。皇位継承問題と摂関家の内紛とが絡まりあった後白河天皇と崇徳上皇との対立は武力衝突に至り、 崇徳上皇方は敗北、上皇は讃岐へと配流となる。また薬子の変(810年)以来346年ぶりに死刑が復活、平忠正、源為義が一族もろとも処刑された。 九条兼実の弟で38歳で天台座主となった慈円が著した『愚管抄』(承久2年(1220年)頃成立)では、この乱が「武者の世」の始まりであったと指摘している。 これ以後、武力で対立している相手を倒すという事態が連続して起こることとなった。そして武士による政権獲得という歴史の幕が開く。 「中世とは、自力救済の時代である」という考え方がある。紛争の解決は基本的には力によって行われた。村の中でのもめ事も村同士のもめ事も力で解決されている。村の中には多数の武器が存在していたことは秀吉による刀狩関係の資料を見ると一目瞭然である。 他の村とのもめ事の解決の最前線に立ったのが若者たちである。村の中における彼らの地位は高かった。若者たちの村の中での地位の低下は、もめ事が話し合いによって解決されるようになって後の事である。 保元の乱の功績によって厚遇されたのが平清盛である。彼は強大な武力をもち、その力を使って荘官や百姓を服従させ、神社仏閣の権威を背景として乱行を働く神人、悪僧を取り締まり、京都の治安維持を行った。 同時に彼は日宋貿易にも積極的に関与、大輪田の泊を修築して大型船が着岸できるようにしている。この工事の際、それまでの風習であった人柱を取りやめて経文を彫った石を沈めて工事の安全を祈願したと言われている。 保元の乱の勝利者となった後白河天皇は上皇となって院政を開始するが近臣の間で対立が発生、藤原通憲(信西)は自殺に追い込まれるが、清盛をリーダーとする平氏は源氏を打倒、義朝は謀殺され、義平は斬首、幼い頼朝は伊豆へ配流となり、平氏の一門であった北条氏の監視下に置かれる。 本来ならば頼朝も処刑されるところであったが、清盛の継母の池の禅尼の嘆願によって助命された。この背景には、頼朝が上西門院の蔵人をつとめていたため、上西門院家が、池の禅尼に働きかけたのではないかと推測されている。 頼朝が蔵人として貴族、そして朝廷というものの実態を知っていたという事は、その後の彼の行動の基礎をなすものとして重視されねばならないものと思う。 ともあれ、頼朝が処刑を免れたことによって源氏の血は絶えることなく残った。清盛はそのことを後に後悔することとなる。では、頼朝は? 『平家物語』の一節を引こう。 さる程に六代御前は、三位の禅師とて、高尾の奥に行ひ澄ましておはしけるを、鎌倉殿、「さる人の子なり。さる者の弟子なり。たとひ頭をば剃り給ふとも、心をばよも剃り給はじ」とて、召し捕って失ふべき由、鎌倉殿より、公家へ奏聞申されたりければ、やがて安判官資兼に仰せて召し捕って、関東へぞ下されける。駿河の国の住人、岡部権守泰綱に仰せて、相模国田越河の端にて、つひに斬られにけり。十二の年より三十に餘るまで保ちけるは、ひとへに長谷の観音の御利生とぞ聞えし。三位の禅師斬られて後、平家の子孫は長く絶えにけり。角川文庫(下)p261 鎌倉殿とは二代将軍頼家か、と注にある。頼朝は十二歳の六代を殺せなかったのか。頼朝が助命された時の年齢は十三歳であった。その事を頼朝は思い起こしたのだろうか。文覚の尽力によって助けられ、出家した六代は、頼朝の死後に文覚が流罪となった時(建久9(1198)年)再び捕らえられ,処刑されている。 『平家物語』、印象に残る場面は多々あるけれど、この部分もそうである。
2012.01.19
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1月18日 1911年1月18日に大逆事件の判決。死刑24名、有期刑2名。 1910年(M43年)5月25日、宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された。以降、この事件を口実に全ての社会主義者、無政府主義者に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、フレームアップした事件のことを大逆事件と呼んでいる。。 現段階では、暗殺計画に関与・同調したのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名であったことが明らかとなっている。 松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。 1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。 赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村、堺利彦、山川均は事件の連座を免れた。 この事件について、抗議の声を挙げたものは驚くほど少ない。そのために、以下に紹介する蘆花、徳富健次郎の行動は特筆に値する。 彼は、幸徳らの死刑を阻止するために兄の蘇峰を通じて当時の首相であった桂太郎に嘆願しようとするが間に合わず、死刑は執行されてしまった。 その直後に、蘆花は一高での講演を依頼される。彼は「謀叛論」の題名で講演、真正面から政府のやり口を批判した。 以下に引用したい。 廟堂にずらり頭を並べて居る連中には誰一人帝王の師たる者もなく、誰一人面を冒して進言する忠臣もなく君徳を輔佐して陛下を堯舜に致すべき千載一遇の大切なる機会をみすみす看過し、国家百年の大計から云えば眼前十二名の無政府主義者を殺して将来永く無数の無政府主義者を生むべき種子を播いてしもうた。 今度の事の如きこそ真忠臣が禍を転じて福となすべき千金の機会である。列国も見ている。日本にも無政府党が出て来た。恐ろしい企をした、西洋では皆打殺す、日本では寛仁大度の皇帝陛下が、ことごとく罪を許して反省の機会を与えられたといえば、いさゝか面目が立つではないか。皇室を民の心服に打込むのに、このような機会はまたと得られぬ。 政府ばかりでない、議会をはじめ誰も彼も皆逆徒の名に恐れをなして一人として聖明の為に弊事を除かんとする者もない。出家僧侶宗教家などには、一人位は逆徒の命乞する者があってよいではないか。然るに管下の末寺から逆徒が出たと云っては大狼狽で破門したり僧籍を剥いだり、恐入り奉るとは上書しても、御慈悲と一句書いたものが無い。何といふ情けないことか。 幸徳等の死に関しては、我々五千萬人ひとしくその責を負わねばならぬ。然しもっとも責むべきは当局者である。総じて幸徳等に対する政府の遣口は最初から蛇の蛙を狙う様で、隨分陰険冷酷を極めたものである。網を張って置いて、鳥を追立て、引かかるが最後網をしめる。陷穽を掘って置いて、其方にぢりぢり追ひやって、落ちるとすぐ蓋をする。彼等は国家の為にするつもりかも知れぬが、天の目からは正しく謀殺--謀殺だ。それに公開の裁判でもすることか、風紀を名として何もかも闇中にやってのけて--諸君、議会に於ける花井弁護士の言を記憶せよ、大逆事件の審判中当路の大臣は一人も唯の一度も傍聴に來なかったのである--死の判決で国民をおどして、十二名の恩赦で一寸機嫌を取って、余の十二名は殆ど不意打の死刑--否死刑ではない、暗殺--暗殺である。せめて死骸になったら一滴の涙位は持ってもよいではないか。それにあの執念な追窮のしざまは如何だ。死骸の引取り会葬者の数にも干渉する。秘密、秘密、何もかも一切秘密に押込めて、死骸の解剖すら大学ではさせぬ。出来ることならさぞ十二名の霊魂も殺してしまいたかったであろう。否、幸徳等の体を殺して無政府主義を殺し得た積りでゐる。 このような事になるのも、国政の要路に当る者に博大なる理想もなく信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚忠言を聞く度量もなく、日月と共に進む向上の心もなく、傲慢にして甚しく時勢に後れたるのいたす所である。 当路に立てば諸子横議は確に厄介なものであろう。仕事をするには邪魔も払いたくなる筈。統一々々と目指す鼻先に、反対の禁物は知れたことである。老人の胸には、花火線香も爆裂弾の響がするかも知れぬ。天下泰平は無論結構である。共同一致は美徳である。斉一統一は美観である。小学校の運動会に小さな手足の揃うすら心地好いものである。 然しながら当局者はよく記憶しなければならぬ、強制的の一致は自由を殺す、自由を殺すは即ち生命を殺すのである。今度の事件でも彼等は始終皇室の為国家の為と思ったであろう。然しながら其結果は皇室に禍し、無政府主義者を殺し得ずして却っておびただしい騷動の種子をまいた。諸君は謀叛人を容るゝの度量と、青書生に聽くの謙遜がなければならぬ。彼等の中には維新志士の腰について、多少先輩当年の苦心を知っている人もある筈。よくは知らぬが、明治の初年に近時評論などで大分政府にいじめられた経験がある閣臣も居る筈。いじめられた嫁が姑になって又嫁をいじめる。古今同嘆である。当局者は初心を点検して、書生にならねばならぬ。彼等は幸徳等の事に関しては自信によって涯分をつくしたと弁疏するかも知れぬ。冷ややかな歴史の眼から見れば、彼等は無政府主義者を殺して、却って局面開展の地を作った一種の恩人とも見られよう。吉田に対する井伊をやった積りでいるかも知れぬ。徳川の末年でもあることか、白日青天、明治昇平の四十四年に十二名といふ陛下の赤子、しかのみならず為す所あるべき者共をいじめぬいて激さして謀叛人に仕立てゝ、臆面もなく絞殺した一事に到っては、政府は断じて之が責任を負わねばならぬ。麻を着、灰を被って不明を陛下に謝し、国民に謝し、死んだ十二名に謝さなければならぬ。死ぬるが生きるのである。殺さるゝ共殺してはならぬ犧牲となるが奉仕の道である。--人格を重んじねばならぬ。負はさるゝ名は何でもいゝ。 事業の成績は必ずしも問う所ではない。最後の審判は我々が最も奧深いものによって定まるのである。 諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見なされて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺す能はざる者を恐るゝ勿れ」肉体の死は何でも無い。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のまゝに執着し、言はせらるゝ如く言ひ、為せらるゝ如くふるまい、型から鑄出した人形の如く形式的に生活の安を楽しんで、一切の自立自信、自化自発を失う時、即ち是れ霊魂の死である。我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。古人は云うた如何なる真理にも停滯するな、停滯すれば墓となると。人生は解脱の連続である。如何に愛着する所のものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。其は形式残って生する所のものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。其は形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳等は政治上に謀叛して死んだ。 繰り返して言う、諸君、我等は生きねばならぬ。生きる為に常に謀叛しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して。 諸君、幸徳君等は乱臣賊子として絞台の露と消えた。其行動について不満があるとしても、誰か志士として其動機を疑ひ得る。西郷も逆賊であった。然し今日となって見れば、逆賊でないこと西郷の如き者があるか。幸徳等も誤って乱臣賊子となった。然し百年の公論は必其事を惜しんで其志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研くことを怠ってはならぬ。 啄木の未発表の一首がある。 地図の上朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ秋風をきく 1910年は、日本が韓国の独立を踏みにじり、わざわざ「併合」という造語を作ってまで植民地化した時でもあった。 幕末から明治の動乱期、「正義」が日々変転し、今日の忠臣が明日は逆臣となり、逆臣が忠臣となり、政治の要路に立つことになる。その記憶を実体験として持つ者もあり、古老から当時の話を生々しい体験談として聞く機会も多かったであろう青年たちにとって、蘆花の言葉は多くの感動を与えたと言われている。 その後、政府は昭和に入ると異論を許さぬ傾向を強め、打って一丸となる国家体制の構築に邁進する。「総力戦」の掛け声、「昭和維新」のスローガンの元。 蘆花の警告は届かなかった。 再び啄木の歌を引こう。 人が みな同じ方角に向いて行く。 それを横より見てゐる心。 みな同じ方角を向いてはいけない。それだけは確かである。
2012.01.18
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1月17日 1961年、アイゼンハワー、退任演説で軍産複合体を危惧する演説。 第34代大統領であるアイゼンハワーは、ノルマンディー上陸作戦を指揮した人物として有名である。軍人としての彼は、第二次世界大戦勃発時には一介の中佐にすぎなかったが、その後わずか5年3ヶ月で元帥に昇進した。これはアメリカ陸軍史上、空前の記録であった。1944年末まで、ヨーロッパ戦線における450万人の連合軍全軍の最高司令官であった。 その後、1953年1月20日、大統領に就任、 1961年1月20日に退任する。 生粋の軍人と言えるアイゼンハワーは、なぜこのような警告を発したのか?彼の演説の該当部分をかなり長いが見てみたい。 平和を維持するための不可欠の要素は私たちの軍組織です.私たちの武力は強力かつ即応的でなければならず,そうすればだれも自らの破滅の危険を冒してまで侵略しようとはしないでしょう. 私たちの今日の軍組織は,平時の私の前任者たちが知っているものとはほとんど共通点がないどころか,第二次世界大戦や朝鮮戦争を戦った人たちが知っているものとも違っています. 最後の世界戦争までアメリカには軍事産業が全くありませんでした.アメリカの鋤の製造者は,時間をかければ,また求められれば剣も作ることができました.しかし今,もはや私たちは,国家防衛の緊急事態において即席の対応という危険を冒すことはできません.私たちは巨大な規模の恒常的な軍事産業を創設せざるを得ませんでした.これに加えて,350万人の男女が防衛部門に直接雇用されています.私たちは,アメリカのすべての会社の純収入よりも多いお金を毎年軍事に費やします. 莫大な軍備と巨大な軍需産業との結びつきと言う事態はアメリカの歴史において新しい経験です.その全体的な影響は--経済的,政治的,そして精神的な面においてさえ、すべての都市,すべての州議会議事堂,そして連邦政府のすべてのオフィスで感じ取られます.私たちは,この事業を進めることが緊急に必要であることを認識しています.しかし,私たちは,このことが持つ深刻な将来的影響について理解し損なってはなりません.私たちの労苦,資源,そして日々の糧,これらすべてが関わるのです.私たちの社会の構造そのものも然りです. 我々は,政府の委員会等において,それが意図されたものであろうとなかろうと,軍産複合体による不当な影響力の獲得を排除しなければなりません.誤って与えられた権力の出現がもたらすかも知れない悲劇の可能性は存在し,また存在し続けるでしょう. この軍産複合体の影響力が,我々の自由や民主主義的プロセスを決して危険にさらすことのないようにせねばなりません.何ごとも確かなものは一つもありません.警戒心を持ち見識ある市民のみが,巨大な軍産マシーンを平和的な手段と目的に適合するように強いることができるのです.その結果として安全と自由とが共に維持され発展して行くでしょう. 我が産軍のあり方の根本的な変化とごく類似し,またその変化を生じさせた主たるものは,最近の数十年間に起こった技術革命です. この革命では,研究活動が中心的なものになり,それはまたより計画的になり複雑化し,費用がかかるものとなってきました.着実に増加する研究予算の配分は,連邦政府のために,連邦政府によって,或いは連邦政府の指示に基づいて実施されています. 今日,自分の仕事場で道具をいじくり回している孤独な発明家は,実験室や実験場の科学者による研究チームの陰に隠れてしまいました.同じように,歴史的に,自由なアイデアと科学的発見の源泉であった自由な大学が,研究方法における革命を経験してきました.莫大な資金が絡むという理由を一因として,科学者にとって政府との契約が知的好奇心に事実上取って代わっています.使い古した黒板の代わりに,現在,何百台もの新しい電子計算機があります. 連邦政府による雇用,プロジェクトへの資源配分,および財政力によるわが国の学者層への支配の可能性は常に存在しており,このことは深刻に受け止められるべきです. しかしまた私たちは,科学研究と発見を当然敬意を持って扱いますが,その際に公共の政策それ自体が科学技術エリートの虜となるかもしれないという逆の同等の危険性も警戒しなければなりません. これらの,あるいは他の権力や影響力,それらには新しいものも古いものもあるでしょうが,それらを,自由社会の究極の目標を絶えず目指しているわれわれの民主主義制度の諸原則の中にはめ込み,それらとバランスを取り,それらと統合させていくのは政治家の仕事です. バランスを維持することにおける別の要素は時間です.私たちが社会の未来を見つめるとき,私たち‐あなたと私,それに政府‐は,自らの安楽と利便のために,未来の貴重な資源を略奪して今日だけのために生きるという衝動を避けなければなりません.私たちは,孫たちの世代に属する物質的な資産を抵当に入れることは出来ませんし,それは政治的,精神的な遺産についても,その損失を要求することになってしまいます.私たちは民主主義がすべての未来の世代において存続することを望んでおり,それが明日は破産してしまった見せかけのものになることを望みません. まだ書かれていない歴史の長い道を下って見ると,アメリカは次のことを知っています.それは,我々の,いっそう小さくなりつつあるこの世界は,ひどい恐怖と憎悪の社会ではなく,相互の信用と尊敬にもとづく誇るべき同盟にならなければならないということです. そのような同盟は互いに対等な国々の同盟でなければなりません.最も弱い立場の者が,道徳的,経済的,軍事的な力によって守られた我々と同等の自信を持って話し合いのテーブルにつかなければなりません.このテーブルは多くの過去の失敗の傷跡を残していますが,戦場の悲惨な経験を理由に投げ出してはなりません. 相互の尊重と信頼による軍備縮小は継続する緊急の課題です.併せて,私達は意見の相違を,武力ではなく,知性と慎み深い意志をもって調停する方法を学ばなければなりません.このことの必要性は極めて鮮明かつ明白なので,私は,この分野については明確な失望の気持ちを持ってこの公職を去ることを告白せざるを得ません.戦争の恐ろしさと今なお残るその悲しみを目の当たりにした者として,また,別の戦争が,かくもゆっくりと,またかくも苦痛を伴いながら数千年以上もかけて作り上げられて来たこの文明を完全に破壊できることを知る者として,恒久の平和が間近であると今宵皆様に言えたらと思うのですが. 幸いにも,私は戦争は避けられて来たと言うことができます.究極の目標へのたゆみない前進がなされてきました.しかし多くのことがなされないままに残っています.一市民として,世界がこの道に沿って進む一助となるよう,どんなわずかなことでも私のできることを続けたいと思います. 大統領としての私のこの最後の挨拶で,私は,皆様方が,戦時においてもまた平時においても私に与えていただいた多くの機会に感謝致します.その仕事の中には,いくつかの価値あるものを皆様が見つけていただけると確信しています.そのほかのことに関しては,私は,将来あなた方がより良い方法を見出して下さることと思います. 市民の皆さん,あなた方と私は,すべての国家が,神の下で,正義をともなった平和という目標に到達するという強い信念を持たなければなりません.私たちが,常に確固として原則に忠実であり,信念を持ちながらも力の行使においては謙虚であり,国家の偉大な目標の追求においては勤勉でありますように. 私は,世界中のすべての人々に向けて,アメリカの祈りを込めた不断の抱負を再度表明します. 私たちは祈ります.すべての宗教,すべての人種,すべての国の人々がかれらの重要な人間的ニーズを満たせるように,いま(仕事の)機会を失っている人々が十分にそれを享受できるように,自由にあこがれるすべての人々がその精神的な恩恵を得られるように,自由を持つ人々はその重い責任を理解するように,他の人々の必要に無関心なすべての人々は思いやりを学ぶように,貧困の苦しみ,病気や無知の苦しみが地球からなくなるように,そしていつの日にか,すべての人間が,たがいの尊敬と愛が結びつける力によって確かなものとなる平和の中で共に生きることを. さて私は金曜日の正午に一市民となります.私はそのことを誇りに思っています.そして楽しみにしています.ありがとうございました.おやすみなさい. アイゼンハワーの指摘したことは、決して杞憂ではなかった。現在では、軍需産業と官僚、その利益を代弁する議員、さらに巨額の研究費をあてにする大学との結び付は一層密接なものとなっている。 「国家の安全を危機にさらすな」という反論を許さぬスローガンのもとで軍需産業の聖域化は進行してきた。 父と子の二代に渡って大統領をつとめたブッシュ家は兵器製造に深く関与して財をなしてきた。父ブッシュが海外との兵器取引を推進したのは偶然ではない。 軍事的脅威も強調され、レーガン政権時代には、「スターウォーズ計画」に550億ドルが投じられたが、具体的な兵器は何一つ完成しなかった。軍需産業と親密な関係を持つシンクタンクと潤沢な資金を使えるロビイストの活動の成果である。 9・11テロによって国防総省の総予算は326億ドル増加して3750億ドルにまでなった。 戦争は新しい産業を紛争地域で作り出し、民間の軍事会社は作戦の一端を担い、広告会社は、敵と味方、正義と悪とをわかりやすくお茶の間に届けるという役割を果たしている。 アメリカは戦争なしではやっていけない国になってしまっている。 財布が底をつきつつある今、アメリカが頼りにしているのが日本である。日本の中にはすでに「安保で食ってる人たち」の分厚い層が形成されている。自国民の生命、財産をアメリカ様の祭壇に捧げることを仕事とする祭司たちといっていい。 安全保障条約ではなく、危険無保障条約であることをしらねばならない。
2012.01.17
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1月16日1920年 - アメリカ合衆国上院がアメリカ合衆国の国際連盟への加盟を否決。 国際連盟は、1795年にドイツの哲学者イマヌエル・カントが発表した『永遠平和のために』という本の中で誕生した。将来の戦争を留保した講和条約、買収、贈与などによる国家の取得、常備軍の維持増強、戦争のための国債発行、諸外国に対する軍事的な内政干渉、外国に対する相互信頼を不可能とする行為を彼は禁止している。彼は、国家が軍事行動のために人員を雇用することは人間の権利に反しており、国家は戦争のために国民を手段としてはならない、と述べている。これは、人間を何ものかの手段として考えることに対して徹底的に反対したカントらしい考え方と言える。ただし国民が自発的に軍事的な教育訓練を実践して外敵に対する自衛手段を確保することについては認めている そして、各国の政治体制が共和政であること、また国際法は諸国家の連合体に基づくこと、世界市民法が有効をもたらす条件に限定されなければならないことが定められている。 共和体制において国民は戦争の苦難を忌避するために、開戦に同意しないとカントは考えたのである。同様の理由で協和的な国際連合の枠組みを樹立することで世界共和国を形成すれば平和を維持することが可能であると考えられる。 このような想定は、残念ながら外れたと言わざるを得ない。 ヨーロッパはそののちナショナリズムの大波に巻き込まれ、共和政はむしろ国民を戦争に動員するための体制として機能することとなる。 フランス革命とそれに引き続くナポレオン戦争の渦中から生み出されたのがプロイセン軍の将校としてナポレオン戦争に参加したクラウゼヴィッツの『戦争論』(1832年発表)である。彼は「政治的交渉の延長としての戦争」という考え方を示した。つまり、戦争は形を変えた政治、外交の一手段であり、国際紛争を解決するためには必要不可欠なものと位置づけられたことになる。 しかし、このような戦争観を根底から揺るがせたのが1914年から18年まで行われた第一次世界大戦であった。短期間で終結すると予想されたこの大戦は長期化し、当時の科学技術が総動員され、国民の積極的戦争協力が不可欠なものとされた「総力戦」となり、戦死者だけでも1000万人を数えることになった。この結果は、戦争を必要悪として認める考え方にも修正を迫ることとなった。 アメリカ合衆国第28代大統領のウッドロー・ウィルソンは、政治学の博士号を持ち、プリンストン大学の総長を務め、アメリカ政治学会会長職にあったという経歴を持つ人物であった。 大統領としての彼は当初の中立政策を放棄して第一次世界大戦への参戦を決断するが、大戦末期に「14カ条の平和原則」を発表している。秘密外交の廃止、軍縮、民族自決の一部容認などを中核とするこの原則の中に、国際的平和維持機構の創設という項目が含まれている。 この「14カ条」が発表されたのは1918年1月である。その直前と言っていい時期にロシア11月革命が起き、臨時政府は打倒され、ボリシェヴィキ政権が樹立された。新政権は11月8日に「平和に関する布告」を発表している。その内容は、「無賠償」・「無併合」・「民族自決」に基づく即時講和を第一次世界大戦の全交戦国に提案したものである。戦争は、戦勝国が敗戦国から領土を奪い、賠償金を取り立てることが「常識」であった時代に、戦争の終結が次の戦争を引き起こす要因となることを避けるためにはこの方法しかないとの提案であったが、ウィルソンはこの提案を意識せざるを得なくなる。そして、「14カ条」は提案された。 しかし、1919年から始まったパリ講和会議においてウィルソンの「14カ条」は英仏によってその大半が退けられ、「民族自決」はアジアとアフリカには適用されるどころか「委任統治」という新しい名称によって抑圧され、戦争協力と引き換えであったはずの自治権も与えられなかった(インドの場合)。 オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった国々、ブレストリトフスク講和によって同盟国の支配地域となっていた地域には「独立」が認められ、ソビエト連邦に対する西欧の防壁の役割を果たすことを期待されることとなる。 そして、アメリカ上院は、モンロー主義を唱える人々の影響下にあったため国際連盟への参加を否決する。 国際連盟は第二次世界大戦を防止することはできなかった。 カントとウィルソンの掲げた理想は挫折した。しかし、第二次世界大戦という更なる大規模な殺戮を経て、人類が何事も学ばなかったとは言えないだろう。 理想が実現するまでは時間がかかる。そのことを忘れないようにしたい。
2012.01.16
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KUMA0504さんに書き込みをいただきました。ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、山本五十六の「予想」を紹介します。 実に言語道断だ。これから先どうしても海軍がやらなければならんことは、自分は思う存分準備のために要求するから、それを何とかできるようにしてもらわなければならん。 自分の考えでは、アメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。要するにソヴィエトと不可侵条約を結んでも、ソヴィエトなどというものは当てになるもんじゃない、アメリカと戦争しているうちに、その条約を守ってうしろから出て来ないということを、どうして誰が保証するか。結局自分はもうこうなった以上、最善を尽くして奮闘する。そうして、長門の艦上で討ち死にするだろう。その間に、東京あたりは三度くらいまる焼けにされて、非常にみじめな目に会うだろう。結果において近衛だのなんか、気の毒だけれども、国民から八つ裂きにされるようなことになりゃせんか。実に困ったことだけれど、もうこうなった以上はやむを得ない。 対談相手は西園寺公望の秘書であった原田熊雄男爵。日時は1940年10月14日。山本が「言語道断」と言っているのは、9月27日に調印された日独伊三国同盟の事であり、同盟の仮想敵国はアメリカだった。 山本は長門艦上ではなく一式陸攻の機上において戦死するが、ソヴィエトの行動、東京空襲は不幸なことに的中している。 海軍は、仮想敵国をアメリカとすることで膨大な額の予算を獲得してきた。いまさら「できません、負けますから」とは言えない。中国との全面戦争が泥沼化していた陸軍も自信があるわけではない。できれば海軍に「アメリカとの戦争はできません」と言ってほしかった。しかし海軍は言ってくれない。陸軍も言えない。そして開戦となる。 この過程は、情けないほどである。で、緒戦の大勝ですっかり舞い上がる・・。そして日本の軍民ともに多くの犠牲をだし、アジアの人々の命と財産とを奪ってのちに敗北必至となった時点で今度は、誰が「負けました、もうダメです」と言い出すかの押し付け合いとなる。 マスコミも煽るだけ煽っておいて、敗戦後は手のひらを返すように「民主主義」と「私は戦争に反対だった」と言い出す。この辺のことを調べていると、もう言葉が無くなる。 言い訳はある。その最大のものが、「生活のため」「家族がいたから」である。その構造は変わっていない。自分もその構造の中にいるだけにごまめの歯ぎしりは止められない。
2012.01.15
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1月15日 1959年、「人間の條件」第一部上映。 原作は三一書房。手元にある本を見ると、上下巻で一冊570円。両方とも大学の生協で購入している。上巻は1969年の10月17日に購入して18日に読了。下巻は18日に購入して20日に読了している。二十歳という年齢もあるだろうが、とにかく引きずり込まれるようにして読んだと思う。 この映画、公開当時に祖母が見に行って、帰ってくるなり、ひとくさり感想を語ってくれたことを思い出す。とにかく梶(仲代達也)が素晴らしいという事と、彼を苛め抜く人物、特に安部徹のことをくそみそに言っていた。それは逆に言えばいかに安部の演技が素晴らしかったかという事になるのだが・・。 全六部を観たのはやはり学生時代。神戸、新開地にあった(今でもあるのかな)聚楽館という映画館で観た。全六部一挙上映だから、十時間以上座りっぱなしであったと思う。弁当を持っていった記憶がある。 NHKで放映した時はもちろんすべて録画、改めて見返した。 人間であろうとするたびに梶は悲劇的な道へと踏み込んでいく。時代そのものが、人間であること、当たり前の日常を否定していた。その時代を作ったのはまぎれもない我々の祖先である。 明治と昭和との間に位置する大正という時代、とくに「大正デモクラシー」という概念をどう考えればいいのか。 1918年に終わった第一次世界大戦は、日本でも軍縮の雰囲気を醸し出し、1922年の山梨軍縮、1925年の宇垣軍縮が行われる。兵員9万3000人(撃ち、将校は4000人)が削減された。この結果、1921年に国家歳出の49%をしめていた軍事費は1926年に27%となった。 しかし同時に、余剰の将校たちには中等学校以上に現役将校を配属する制度を作り、軍事教練を担当させている。 転んでもただでは起きないというのはこのことである。 1925年には普通選挙法が制定されるが、同時に治安維持法も制定され、制定時の最高刑であった10年以下の懲役、または禁錮は、28年には死刑、または無期、もしくは5年以上の懲役もしくは禁錮、となる。 治安維持法違反として逮捕された人間に対する取り調べは過酷を極め、1933年に小林多喜二は拷問によって虐殺される。 その前年の1932年には五・一五事件が起こり、さらにその前年の1931年には満州事変が起こり、その関係者は天皇によって功を賞されている。事変の詳細はかなり正確に軍部と政府中枢によって把握されていたのにもかかわらずである。 当時日本の植民地であった朝鮮に駐屯していた日本軍の独断越境を、若槻首相は、「すでに出動してしまった以上は、仕方がないではないか」と言って認め、閣議は軍費支出に同意してしまう。 結果として、天皇は、当時の陸軍刑法に基づいても統帥違反であった独断越境を認めざるを得なくなっている。 「昭和史はこの時、制御の箍を失ったというほかない」とは、『昭和史』『昭和史探索』等の著書のある半藤一利氏の言である。 「昭和前期は軍部によって日本が占領された状態であった」とは司馬遼太郎氏の言であるが、その行動を許した原点は明治、そして大正まで遡らねばならないだろう。 ラストの文章は、以下のようである。 雪は降りしきった。 遠い灯までさえぎるもののない暗い曠野を、静かに、忍び足で、時間が去って行った。 雪は無心に舞い続け、降り積もり、やがて、人の寝た形の低い小さな丘を作った。 仲代達也は、当時のことを振り返って、雪が自分の上に降り積もっているうちにだんだんと気持ちがよくなり、思わず気が遠くなりかけた、撮影が終わった時に、監督(小林正樹)からは、ご苦労様の一言もなかった、と語っていた。 すごい話だ。
2012.01.15
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1月14日 1959年(昭和34年)1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、タロとジロの生存が確認される。 倫理の授業、最後のクラスで以下のようなことをやってみた。 まず、以下の文章をプリントして配布、感想を書かせてみる。 (1)1958年(昭和33年)2月、宗谷が南極付近に到着した。昭和基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬するため、宗谷は第2次越冬隊を乗せていた。しかし、天候の悪化から宗谷は昭和基地には到着できなかった。昭和基地から帰還する第1次隊員の人間たちでさえ小型雪上機でかろうじて宗谷に帰還する有様であり、15頭の犬は犬ぞりに首輪で昭和基地付近に繋がれたままにされた。その後もぎりぎりまで天候の回復を待ったものの、「宗谷」自体が遭難する危険性も出てくるに至り、第2次越冬隊の派遣は断念された。それとともに15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視された。この犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びることとなった。なお、南極生まれの仔犬とその母犬のシロ子は、母と仔の分だけ燃料を抜いて重量を減らすという雪上機乗員の機転によって救出され、日本へ帰還することができた。7月には大阪府堺市に15頭を供養する銅像(樺太犬慰霊像)が建立された。 <感想>1 そりと一緒に放置されたという事はこの人たちにとって犬は単なる道具だったんだろうなと思う。もし犬を思って行動していれば首輪をつなげたままになんかしないです。 2 仕方ないと思う。つながれていなかったら、犬たちは生き延びられるような環境でもなかったんだろうか。人間だったら助けに行っただろうと思うから。犬を人並みに考えている人にとってはやりきれないだろうけれど。 3 人の命を危険に曝してまで犬の命を救うべきか。犬は道具として扱うか、という究極の選択だと思う。 4 人間の勝手で連れて行かれて、置き去りにされた犬たちが可哀想すぎる。人間が生き残るためにはそうするしかなかったのかもしれない。こういう時はいつだって人間が優先されると思う。犬たちのために命を犠牲にする人もいたかもしれないけれど・・・。 5 天候の悪化によって使えない船(技術)が信じられない。そんなのなら南極なんかに行かないでほしい。 6 犬を置いていくなんてありえない。仕方のないことだとはいえ、おいて行った越冬隊員はそのことへの罪悪感で一生苦しんだ人もいたと思う。 読み上げた後で、次の文章を配布。 (2)ところが、1959年(昭和34年)1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和基地に2頭の犬が生存していることが確認される。着陸すると駆け寄ってきて操縦士に寄ってきたが、大きく成長していて、どの犬だったのか判別がつかなかった。急遽、1次越冬隊で犬係だった北村が次の機で基地に向かうことになった。犬達は北村に対しても警戒していたが、頭を撫でながら次々と犬の名を呼び掛けると、1頭はタロの名のところで反応して尻尾を振った。もう1頭もジロの名に反応したことから、この兄弟が生存していたことが確認されたのである。 基地には7頭の犬が首輪に繋がれたまま息絶えており、他の6頭の消息は知れなかった。基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのだろうと北村は推測している。北村らは3次隊越冬の際、タロとジロが2頭でペンギンを捕獲するところを目撃している。この兄弟は特に首輪抜けが得意な個体だったと言われる。 再び感想を書いてもらう。 1 まずその二頭が生きていてくれて本当に良かったと思う。皆生きていたらいいけれど、生きていてくれた犬がいたということは、どうしようもなくて置き去りにしてしまった隊員たちにとっても嬉しかったと思う。 2 動物の本能はすごい。そう思うと、首輪を外しておいたら、七匹のうち、一匹でも助かったかもしれない。 2の意見のように、「首輪を外すべきであった」という意見が多数書かれていた。 で、すべての意見を読み上げた後で、最後の質問をした。 タロとジロは、首輪を外して生き残りました。生き残ったのは、ペンギンを食べたからだと考えられています。もしもすべての犬の首輪を外していたら、南極の生態系に大きな影響を与えた可能性があります。さて、それでも首輪を外すというのは、「あり」なのか「なし」なのか? 1 犬を放すことで間接的にペンギンを殺すことになり、つないでおくと犬を殺すことになってしまう。どっちが正しいかわからない。 2 ペンギンはたくさんいるからちょっとくらい犬が食べても絶滅はしないと思うから、外すのはありだと思うけど、南極隊として、日本を代表していった人たちが生態系を壊すことはできなかったのかなと思います。 3 15頭すべて生き残ることは不可能なので、首輪を外して、その中で寒さに耐えた数匹の犬が食べたところで生態系にはそれほどの影響を与えないと思う。及ぼしたとしても、現代の技術を以てすれば修復は可能だと思う。 4 やっぱり犬の首輪は外してはいけない。ペンギンは貴重な動物ですもの。この越冬隊は、これを見越して首輪を外さなかったのかなぁ。犬の利害ばっかり考えていた私は越冬隊には入れてもらえないなー。 5 首輪を外したら、もっとたくさんの犬が助かったと思う。でも確かにペンギンも生きているし、首輪を外したらそれだけたくさんのペンギンが食べられてしまう。複雑です。 6 なし。南極は日本のものではないから、日本が犯したミスによって世界の南極に害を与えることはあってはならないと思います。 7 よく考えてみると、ペンギンにしてみたらたまったもんじゃないと思う。自分たちが暮らしている南極に見たことのない敵が自分たちを襲うというのはペンギンたちにとっては悪影響だと思う。しかし犬が生きるためには首輪を外す必要もあったと考えると判断は難しい。でも、私ならそれを知ったうえで犬のことを思って首輪を外したと思う。 8 生態系の破壊をしてはいけないと思うけれど、実際に人間は破壊し続けてきたのではないか。そもそも人間が立ち入らなければ、犬も死なずにすんだし、ペンギンも食べられなかった。人間が悪い。 プリントに使った文章はウィキの「タロとジロ」を使わせていただきました。 ウィキのページの最後の部分を紹介しておきます。 犬たちを鎖に繋いだまま置き去りにしたということで、当時や後の映画『南極物語』公開時には当時の南極観測に関わった人々への激しい批判が起きた。一方、地球環境保護の観点からは、犬の群れが放されることで野生化し、ペンギンなどを食糧として大量に消費して南極の自然や生態系を乱してしまうことが結果として防げたとする見方もある[要出典]。実際、上述の通り、タロとジロがペンギンを狩る能力を持っていたことは確認されている。ただし第1次越冬隊は、犬を係留したまま基地を去った時点では、すぐに第2次と交代する予定であったため、野生化の防止を意図して係留したわけではない。 SF作家の星新一は、この事件は人間側から見れば美談であるが、ペンギンの立場から見れば、獰猛な肉食動物を人間が置いていったために大被害を受けたという悲劇ではないかと考え、この視点からショートショート作品を一編書いている。『探検隊』という題名で、1961年(昭和36年)の作品集『ようこそ地球さん』に収録されている。また藤子・F・不二雄は、SF短編『裏町裏通り名画館』の中で、タロとジロを想起させる犬に捕食されるアザラシの親子の苦難を描いた映画(作中では『北極物語』つまり北極越冬隊の犬という設定)を登場させている。音楽家の團伊玖磨は鳥好き、犬嫌いの立場から、タロとジロを題材としたラジオドラマの音楽の仕事を断ったとエッセイ「パイプのけむり」の中で語っている。 21世紀現在では生態系保護のため、南極に犬など外来の生物を持ち込むことはできない。
2012.01.14
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橋下市長が、スーパー特進校を作ると表明し、自分の出身校を選んだことについて以下のように語ったという。 せっかく市長になったんだから、それぐらいやらせてもらいたい。 『史記』の中に以下のような部分がある。 箕氏は紂の親戚である。紂がはじめて象牙の箸を作った時、箕氏は嘆息して言った。 「彼が象牙の箸をつくったからには、かならず玉の杯をつくるに相違ない。玉の杯をつくれば、かならず遠方珍奇の品を欲しがるだろう。車馬宮室の奢侈も、これから必ず始まってくるだろう。この弊害は矯めようがない。」『史記』筑摩世界文学大系 6 p250 世家篇 紂とは中国古代の殷の最後の王であり、暴虐をほしいままにしたと言われている。諌める臣下を片っ端から残虐な殺し方をしたという。 橋下の発言から二つのことがわかる。 一つはまず、この男は教育というものを「それぐらい」のものだと考えているという事である。 第二に、抑制のなさである。 権力を持つ者にまず求められるのは自己抑制の資質である。普段の発言から、この男にはその資質はかけらもないことは自明であったが、ここまで開き直るとは思ってもいなかった。私は不明を恥じねばならない。 市長という権力者になって、自分の母校を特別扱いすることがどういう事であるのか、この男は理解すらできていないようである。 中島中と啓発小の各教室には、功労者として橋下市長の写真を飾ることをお奨めしたい。かの国の将軍様の写真が飾られている位置に。
2012.01.14
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1月13日 建久10年1月13日(1199年2月9日)源頼朝没。 通説では、1198年(建久八年)12月、源頼朝は相模川の橋供養に臨席した帰路に落馬して、それが原因で翌年1月13日に死去した、と伝えられている。 「と、伝えられている」というあいまいな言い方をしなければならない事情がある。 鎌倉幕府の正史とされている『吾妻鏡』に、頼朝の死は落馬が原因と非常に簡単にしか記述されていない。『吾妻鏡』の成立時期は鎌倉末期の1300年ごろであり、公家や寺社の日記、あるいは様々な文書をもとに編纂されているが、北条得宗家の側からの記述が中心であり、収集された資料の採用、記述にかなりのバイアスがかかっていると指摘されている。 詳しく記述することがはばかられる何らかの事情があったのではないかという事から、「頼朝暗殺説(黒幕は例えば北条時政」が主張される所以となっている。 さて、源頼朝と言えば、ほぼ反射的に「いい国作ろう鎌倉幕府」ということで、1192年という年号が頭に浮かぶのだが、これも最近怪しくなっている。 もともと1192年が鎌倉幕府成立の年とされたのは、この年に頼朝が征夷大将軍に任官したという事が根拠となっていた。征夷大将軍任官=幕府、という図式で。 ところが最近では、1185年説が有力視されるようになっている。 その根拠は二つある。 一つは壇ノ浦で平氏を滅ぼしたという事。 あと一つは、朝廷が、頼朝に対して与えられた諸国への守護・地頭職の設置と任免を許可していることが挙げられる。つまり、この時点で頼朝をリーダーとする東国武士団は京の朝廷から実質的な独立を果たしたという事になる。その後1190年には頼朝は右近衛大将に任ぜられ、公卿となり、荘園領主を監督する政所の開設権も得て、彼の統治権は合法性を獲得する。さらに1192年に征夷大将軍となることになるのだが、武士の政権としてはすでに1185年に実質的に成立しているわけである。 また、幕府という言葉が政権自体を指すようになるのは江戸時代からであって、鎌倉時代には、幕府という言葉は頼朝の私邸を指す言葉として使われている。我々が一般に使用している歴史的用語はその大半が明治以降に作られたものであり、このような見直しは今後も行われると考える。 さて、教科書ではどうなっているか。山川出版「詳説 日本史」の該当箇所を紹介する。 ついで1185(文治元)年、平氏の滅亡後、頼朝の強大化を恐れた法皇が、義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍勢を京都におくって法皇にせまり、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や一段当り5升の兵糧米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権をにぎる在庁官人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、西国にもおよび、武家政権としての鎌倉幕府が確立した。 その後、頼朝は逃亡した義経をかくまったとして奥州藤原氏を滅ぼすと、1190(建久元)年には念願の上洛が実現して、右近衛大将となり、1192(建久3)年に、後白河法皇の死後には、征夷大将軍に任ぜられた。こうして鎌倉幕府が名実ともに成立してから滅亡するまでの時代を鎌倉時代とよんでいる。(p89~90) このような「通説」が揺らいでいる例は、源頼朝に関してはもう一つある。それは、神護寺に所蔵されている彼の肖像画(藤原隆信筆)とされていた作品も、最近では「伝源頼朝図」と表記されるようになってきているという事である。 新説ではこの画像は足利直義像であるとされ、着用している冠の形式、太刀の形式が鎌倉末期以降のものであること、像に使用されている大きさの絹(縦143cm、横112,8cm)は鎌倉後期以後に出現し、それ以前は絹をつないでいたこと、足利直義が神護寺に「足利尊氏と自分の肖像とを安置する」という願文を納めていること、表現方法が室町前期の作品と強い類似性を持っていることなどがその根拠とされている。 以下は、神護寺のホームページに載っている新説への反論である。 近年、米倉迪夫氏が発表した新説は新聞にも報道され、大きな反響を呼んだ。 ある出版社などは、その後の学会の反論をまったく無視して、伝源頼朝像の表記を百五十年も時代の下る足利直義に変更するところまででてきている。 現時点では、伝源頼朝像の表記を変更する必要はない。 時代も、十三世紀初頭をくだらないというのが穏当なところであろう。米倉氏は、伝源頼朝像の比較対象として妙智院所蔵の無等周位筆「夢窓疎石像」を取り上げて、表現が類似しているとしたうえで、『東山御文庫文書』の足利直義が康永四年(1345)、尊氏と自分の画像を神護寺に奉納したとある願文の写しを紹介し、重盛を尊氏に、頼朝を直義に比定している。 それに対し、宮島新一氏は『肖像画の視線』のなかで、米倉説の方法論を批判している。 米倉氏は、重盛像と光能像をそれぞれ尊氏、義詮像とするにあたって、類似性の証明(似ているか似ていないか)をもちいている。だが、日本の歴史的肖像画では、顔の類似だけから同一人と判断できるケースはごく限られると宮島氏は主張する。 また、神護寺に奉納されたとされる尊氏、直義像は、その後、寺の内外に一切の記録がない。 『神護寺最略記』(江戸期の写本 1394年まで遡る)にも無いし、『高雄山神護寺規模殊勝之条々』(1408年写)にも無い。 一方、両写本とも略記と同じ頼朝像の記事を載せている。 どちらが像主の可能性が高いかは、あきらかだ。 足利二像は、奉納後早い時期に寺外に持ち出されたと宮島氏は推測している。 また、有職故実を専門とされる近藤好和氏は、「『次将装束抄』と源頼朝像」(『明月記研究』第二号)のなかで神護寺三像は十三世紀前半まで遡らせることが可能であること、『直義願文』より『神護寺略記』の方に神護寺三像との関係を認め、米倉説を批判している。 結論が出るまでまだまだ時間がかかりそうである。 現場の授業の中で、このような学説の対立、新説の紹介を行うことは細心の注意を要する。下手に取り上げると生徒を混乱させてしまうだけに終わってしまうからだ。 ただ、歴史というものが、不断の研究によって修正され、通説がひっくり返されるというダイナミックな面も持っていることはどこかで伝えたいとは思っている。 明日、明後日はセンター試験。生徒諸君の健闘を祈りたい。
2012.01.13
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1月12日 外交評論家である清沢洌が将来、日本現代史を書くための備忘録として残したのが『暗黒日記』(岩波文庫)である。ちくま学芸文庫では全三巻で出版されている。 まず、1945年1月12日の日記を引用する。 毎晩、空襲が来ない日とてはない。最初は隣の防空壕に這入った近所のものが、今や誰も這入るものはない。馴れたのと、また一つはそんなことばかりやっていられないのである。 新聞が盛んに「強力政治」なることを言い出した。ドイツのように「根こそぎ動員」をやれということらしい。ただ動員すればいいと思っているらしい。何をいっているか自分で知らぬことを、ただワンワンいっているのが近頃の日本人だ。具体的には何をもサゼストして居らぬ。 例の徳富蘇峰がルソン島の上陸を青天の霹靂だといっている。右翼代表の説としてのせよう。(切り抜きを欠く) こんなことが蘇峰には青天霹靂に響いたのである!徳富を以てしても軍が秘密にすぎるという。 米国では特攻隊の記事に触れていないそうだ。敵から見れば対手に打撃を与えることが目的なのだから、どちらにしても同じなのである。日本だけだ、抽象的精神力というものを重視するのは。物量や発明も精神力であることを気づかずに。蘇峰の如き議論がドン・キホーテの最たるもの。かれは全く科学的考えはない。 1945年1月1日の日記も引用しよう。 昨夜から今晩にかけ三回空襲警報なる。焼夷弾を落としたところもある。一晩中寝られない有様だ。僕の如きは構わずに眠ってしまうが、それにしても危ない。 配給のお餅を食って、お目出とうをいうとやはり新年らしくなる。曇天。 日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だとかいって戦争を讃美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは「反戦主義」だという理由からであった。戦争はそんなに遊山に行くようなものなのか。それを今、彼らは味わっているのだ。だが、それでも彼らがほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼らは第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼らは戦争の英雄的であることに酔う。第三に彼らに国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものである。 当分は戦争を嫌う気持ちが起ころうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも必要だ。 日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界一等国となることはできぬ。総ての問題はここから出発しなくてはならぬ。 日本が、どうぞして健全に進歩するように、それが心から願望される。この国に生まれ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を偉丈にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るように。「仇討ち思想」が、国民の再起の動力になるようではこの国民に見込みはない。 僕は、文筆的余生を、国民の考え方転換のために捧げるであろう。本年も歴史を書き続ける。幸いにして基金もできた。後世を目がけて努力しよう。 本年の予想、ドイツは本年中に敗戦するであろう。大東亜戦争は本年中に片はつくことはないであろう。ダンバートン・オークス案は成立するであろう。そうすると日本だけが、孤立奮闘するような事情が生まれるであろうことも想像できる。 彼の予想は的中した部分もあり、そうでなかったこともあった。もっとも残念であったのが、彼自身が1945年の5月21日に没したことである。急性肺炎であった。55年の生涯であった。徳富蘇峰は1957年11月2日に94歳で死去している。 清沢の指摘は、「もう大丈夫、心配しないで」と言っていい性質のものなのだろうか?清沢は、日本人がほんとうに戦争というものに懲りることがあるかと自問して悲観的な見通しを述べている。この三点はどうか?
2012.01.12
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1月11日 「夏目友人帳」肆 アニメ、大阪放送で本日(2012年1月11日)より放映開始。 『夏目友人帳』(緑川ゆき)は、2003年7月号の『LaLa DX』及び『LaLa』(白泉社)で連載が始まっている。単行本は第13巻まで刊行されている。 アニメシリーズは、第1期が2008年7月~9月放送、第2期『続 夏目友人帳』が2009年1月~3月放送、第3期『夏目友人帳 参』が2011年7月~9月に放送された。 第4期『夏目友人帳 肆』は2012年1月より放送開始(テレビ東京では1月2日より)。 この作品は、主人公の夏目貴志が、祖母(レイコ)の遺品の中から「友人帳」を見つけたところから始まる。彼は他の人間には見えることのない妖怪(「あやかし」)が見え、そのために気味悪がられて両親の死後、親戚の家をたらいまわしにあい、やっとのことで彼を受け入れてくれる遠縁の夫妻に引き取られる。 「友人帳」とは、彼と同じように妖怪を見ることができたレイコが、妖怪たちを打ち負かして家来とし、名前を奪って書かせた契約書(「なんでも言うこと聞きます」的な)であった。 それ以来、「友人帳」を奪い取りに来る妖怪たち、名前を返してくれと懇願する妖怪たちとであうこととなるのだが、ある時、ひょんなことからニャンコ先生(マダラ)と出会い、ニャンコ先生は貴志の自称用心棒となり(本人の言によると、「隙を見て友人帳を奪い取るため」)楽しくもハラハラドキドキする日々を送ることになる・・・という漫画なのである。 アニメの場合、ニャンコ先生とマダラの声は井上和彦。声の使い分けは楽しみどころの一つ。なお、井上さんは、アニメ「NARUTO」のカカシ先生の声も担当している。 ニャンコ先生が楽しい。そして、その展開と結末。「観てください」というしかない。 『夏目友人帳 厳選集 冬』も書店で手に入ります。 ニャンコ先生のフィギュアです。娘からの誕生日プレゼント。
2012.01.11
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1月10日 1977年(昭和52年)『料理歳時記』辰巳浜子 中公文庫の初版が出版されている。現在活躍中の辰巳芳子さんのお母さんである。 ワタクシは大学に入学するまで、料理というものをしたことがなかった。なので、下宿を探すときも当然、賄付という事になった。下宿のおばあさんは、「うちは家庭的だから」と言っていたので、どんな家庭的な料理が出てくるのかなと思っていたら、かなり予想がくるってしまった。 丸いちゃぶ台をみんなで囲むのだが、ちゃぶ台の上には、缶詰がいくつか並んでいた。そして、タケノコの煮つけ。裏の竹やぶで採れたもので、産地直送とはいえ、これが延々と続いた。あとは味噌汁。ごはん。 で、自炊できるという条件の下宿を探して転居した。 スーパーに行って食器と片手鍋、フライパンを買った。店内をぶらぶら歩いていて、ピーマンが目についた。くりぬいてこの中に肉を詰めたら何かできるかなと思い、ひき肉と、コンソメスープの素を買った。これがワタクシの最初の料理となった。「ピーマンの肉詰め」。 帰省した時に、実家の台所に、この文庫本の元本が置いてあった。何の気なしに読んでみてその面白さにすっかり引き込まれてしまった。 一か所引いてみる。 待たれるぶどうにキャンベルがあります。真黒い芳香の高いキャンベルを、私のホーロー引きの鍋や木しゃもじ、紅茶で煮しめたような色をした厚手木綿のこし袋が待ちかまえています。それは、香り高いぶどうジュースをとるためです。 近年のキャンベルは品質が改良されて、粒もしまり、茎からポロポロ落ちないようになりました。十年くらい前までは黒ぶどうといわれて一般に歓迎されないぶどうでした。口に一粒ふくんだ瞬間、秋の山を感じさせる香気が拡がって、野趣に満ちたぶどうらしいぶどうだと思うとたん、薄い膜とも筋ともつかぬ舌ざわりが気になり、同時にチュッと強い酸味、やっぱりたくさんは食べられません。 さこで私は果汁にしてみたらと思いつき、煮出して汁をとってみました。大成功でした。皮からはおもしろいように赤紫の色は出るし、強い酸味は砂糖と調和してこよない味を出してくれました。色、香り、味、三拍子揃った果汁は私の自慢の一つになりました。 黒いぶどうには、キャンベルのほかにべリエという品種があります。甘みが多いので食べて美味しいのですが、ジュースやジャムにするには風味が落ちます。 一粒、一粒、茎から離してよく水洗いをします。流行の洗剤は使いません。水を切り、ホーロー引きの鍋に入れてつぶしながら煮ます。水は加えません。十五分~二十分煮てからこし袋に入れ、紐でつるして自然に落ちる汁を器で受けます。赤紫の香り高い、澄み切った果汁がとれます。これが一番ごしです。 袋にたまった皮は、まだ充分汁が出ますから、今度は水を加えてもう一度煮て汁をこします。二番汁だとて馬鹿にはなりません。レモンの絞り汁を加えて酸味をおぎない水で割って砂糖を加え、氷をたくさん浮せて召し上がってください。砂糖はザラメを糖蜜にして用いるのが最高ですが、ビート糖、白砂糖でもよろしいでしょう。鍋は必ず瀬戸引きものをお使いください。 これは実際にやってみました。辰巳さんが「ベリエ」と書いていらっしゃるのは、おそらく「ベリーA」という品種ではないかと思うのですが、季節になると、運が良ければ、バケツに山盛りになった半端モノが安い値段で手に入ることがあります。で、あとはジュースにしたり、ジャムにしたり。ベリーAでも美味しいのであります。 紹介させていただいた箇所は「料理」とは言えないかもしれません。 「大根」の項では、捨ててしまって顧みられない大根の葉の利用法が載っています。また、以下のような部分も。 さといもにしてもごぼうにしても、まずくなるようにするからまずいので、人間の口は正直です。ことに幼児ほど純真に美味しいまずいがわかります。まずくするから子供たちに嫌われてしまうのです。「これ嫌い」といわれると、うちの子は嫌いでございまして、と決めてしまい、嫌いな原因はさといもやごぼうにあって、自分の側にはない、と考えるところが不思議で、こういうことにしばしば出会うこのごろです。 「まずくなるようにするからまずい」・・・・。なるほど。自分の授業の至らなさを指摘されているように思えてきます。 ☆今晩、夜の二時五分より、テレビ大阪で「夏目友人帳」肆 が始まります。
2012.01.10
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1月9日 ドイツが第一次世界大戦で採用し、一旦は停止したものの、1917年の1月9日に再開し、結局アメリカの参戦を招くこととなったのが無制限潜水艦作戦である。無制限潜水艦作戦とは、戦争状態において、潜水艦が、敵国に関係すると思われる艦艇・船舶に対して目標を限定せず、無警告で攻撃する作戦である。 教科書には、この項目の記載されているページに「ルシタニア号事件」の写真(絵)が掲載されていて、この事件がアメリカ参戦の直接の原因とたなったかのように思われるが、若干の補足が必要である。 ドイツ大使館は、1915年の4月22日に以下の警告を5月1日に出港予定であったルシタニア号の新聞記事の隣に掲載している。 「警告! 大西洋の航海に乗り出される渡航者の皆様は、ドイツ帝国とその同盟国、イギリスとその同盟国の間に戦争状態が存在することを認識してください。すなわち、戦場はブリテン島の周辺海域も含みます。ドイツ帝国政府からの公式通達によれば、イギリスとそのあらゆる同盟国の国旗を掲げた大型船は、それらの海域において攻撃対象になります。イギリスとその同盟国の船に乗って戦場である海域に航海に乗り出す渡航者の皆様についても同様であり、その危険は自分自身でご承知下さい。」 ルシタニア号は5月7日にドイツ海軍の潜水艦「U-20」より、南部アイルランド沖15 kmの地点で雷撃を受け、わずか18分で沈没した。短時間での沈没のため船内から脱出できなかった乗客1,198名が死亡した。犠牲者の中には128名ものアメリカ人旅行客が含まれていた。このことによってアメリカの対独感情は急速に悪化するが、すぐに参戦とはなっていない。 そののちドイツはアメリカとの関係を修復するが、結局その2年後の1917年1月9日に再び無制限潜水艦作戦を再開、31日にアメリカにも通告、2月3日にアメリカはドイツと断交、そののちアメリカ艦船が撃沈されたために4月6日にアメリカはドイツに宣戦布告する。 こののちアメリカで何が起きたか。 『エデンの東』(1955年 エリア・カザン監督)の中に印象的な場面がある。 次男のキャルは、できのいい兄に劣等感を持っている。しかし彼にチャンスが訪れる。父がレタスの冷凍運送事業で失敗して大損をしてしまう。キャルは、なんとか父の力になりたいと思い、あることを思いつく。それは、ドイツとの関係が悪化している現状からすれば、ひょっとして開戦となるかもしれない。そうなったら何が起きるか?多量の物資、特に食糧が必要となると予想した彼は、兵食の基本であった豆に目をつけ、ポケットマネーをはたいて豆の畑を買い占める。思惑は当たり、豆の価格は高騰し、彼はちょっとした額の金を手に入れる。 そして迎えた父の誕生日、彼は兄の恋人と一緒に部屋を飾りつけて父の帰りを待つ。帰ってきた父に対してキャルはリボンできれいに包装した現金を渡す。驚く父に対して、彼は自分の思惑が当たり、大金を手にしたこと、そして、それを使ってほしいことを申し出る。 しかし、キャルの思いに反して父はその申し出を断る。 町の人々から信頼を集めていた父は、開戦と同時に徴兵名簿の作成を担当することになり、戦場に送る若者たちを選んでいたのである。若者たちの中にはすでに戦死したものもいた。父はそのことに対して大きな責任を感じており、戦争を利用して大金を手にしたキャルの行動を許すことはできなかったのである。打ちのめされるキャル。 それに対して兄は同席していた恋人との結婚を決意したことを父に告げ、父はそのことを祝福する。 その直後、キャルは、やりきれない思いを父にぶつける。この時のジェームス・ディーンの演技はまさに鬼気迫るものがある。まだ観ていないという方は是非とも観ていただきたい。 よき隣人であった靴屋の店には彼がドイツ人であることから投石が始まる。 映画を見て、キャル(というか、ジェームス・ディーン)に感情移入している方から見れば彼の行動は、どうという事はないかもしれない。しかし、これはまぎれもなく戦争を利用した金儲けという行為である。 戦争は経済を活性化させる効果を持っている。1929年の世界恐慌によって大打撃を受けたアメリカ経済は、ローズヴェルトによるニューディール政策によって完全回復したわけではない。経済の回復が成し遂げられるのは第二次世界大戦が開始され、アメリカの産業が軍需産業を中核として動き始めるときからであることは見逃してはならないことである。 戦争は儲かるのである。
2012.01.09
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1月8日 1961年1月8日にフランス本土で行ったアルジェリア独立をめぐる国民投票では、75パーセントがアルジェリアの民族自決を、つまりはド・ゴールの植民地政策を支持した。 「アルジェの戦い」という映画がある。 1966年にイタリアで制作された映画で、アルジェリア戦争を描いている。日本での公開は1967年2月25日。 知人から聞いた話。 私の住んでいた街に一つだけ映画館があって、経営が傾いてきたためかポルノ映画ばっかり上映していたんですが、もうダメ!という事になって、「アルジェの戦い」を最後に上映して潰れました。 妙に記憶に残っている。 しかし、フランスは内乱一歩手前まで行く。アルジェリアはフランス固有の領土と信じる者たちは秘密軍事組織(OAS)を設立、政治家や官僚へのテロ活動を活発化させる。4月には将軍たちの反乱が発生、アルジェリア駐留軍の空挺部隊も決起するという事態となったがド・ゴールは強硬な態度を貫き、駐留軍の中の海軍と空軍は彼らに同調しなかったために反乱は平定された。 その後、彼らはド・ゴールの暗殺も企てる(9月)が失敗、国民の支持を失うこととなる。 この計画を虚実取り混ぜて作品化したのが1973年に角川書店から出版された『ジャッカルの日』(フレデリック・フォーサイス)である。この作品は、ハヤカワ文庫『冒険・スパイ小説ハンドブック』(1992年10月発行)で発表された人気投票の集計結果では、謀略・情報小説部門における第1位、他に3つのジャンルを含めた総合ベスト100で第2位の人気を獲得している。 1973年にユニヴァーサル映画製作、フレッド・ジンネマン監督、エドワード・フォックス主演で映画化された。 この時、ハヤカワ文庫は他に『ミステリハンドブック』と『SFハンドブック』を出版している。『冒険・スパイ』、『ミステリ』はいい編集で役に立つ。役に立たないのが『SF』、なんと、自社の作品を中心に据えて編集してしまっているために、他社(たとえば創元社)から出版されている名作が大半オミットされている。何でこんなバカなことをやったのか、惜しまれる。 それにしても、フォーサイスの処女作であるこの作品は面白かった。若かったという事もあるのだけれど、読み始めたら止まらなくなって、結局徹夜して読み終えてしまったことを思い出す。 フォーサイスは、『オデッサ・ファイル』、『戦争の犬たち』を執筆して、引退宣言をするが結局、再び書き続けることとなる。彼は、『ジャッカルの日』を超える作品は書けないままで今に至っていると思う。 さて、その後のフランスなのだが、政府はアルジェリア戦争に対する報道規制を行い、「国民の皆さん、早く忘れましょう」路線をとる。ところが90年代に入ると「記憶の義務化運動」がおこり、フランスが行った非人道的な拷問やテロがマスメディアでも取り上げられるようになって来た。 これに対して2005年2月に「フランスの植民地支配を肯定する法律」を成立させるが、猛反発を招いて一年後には廃止されるという醜態をさらしている。 これは他人事ではなく、日本でも「日本の行った蛮行は、最小限に記述する。あるいは、他の国もやっていることだからいいじゃないか、戦争だったんだから」という論法を駆使している教科書を採択しようという動きがいまだに続けられている。恥の上塗りとしか言えない。一つ嘘をつくともう一つ嘘をつかねばならないという実例と言えようか。
2012.01.08
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新春の一日、琴と尺八の演奏を楽しんできました。 六段などの琴の曲の古典から、「木星」まで、さらに尺八独奏による「アメイジンググレイス」(この曲の高音域は尺八では難しいと思うのですが、素晴らしい演奏でした)。 琴と親しむことができたのは、高校時代の同級生が尺八を吹いていて、武満徹の「ノヴェンバーステップス」を教えてくれたからです。私にとっての琴とは、「昔からある伝統楽器」としてではなく、「現代音楽の中に取り入れられてその可能性を拡大しつつある楽器」であったのです。野坂恵子さんが二十絃筝、二十五絃筝を開発したりした時代でしたから。 それにしても、琴と新春、そして和服というのはゴールデントライアングルですね。三位一体と言いましょうか。 琴のあの音色、心に染み入ります。この日の為に猛練習されたと思いますが、ご苦労様でした。 演奏会の後、お茶(抹茶)をいただきました。 琴を演奏していただいたお二人、尺八を演奏していただいた方、そして会場の準備からお茶、お菓子の準備をしていただいたMさん夫妻に感謝いたします。素敵な時間と出会いを作っていただきありがとうございました。 また、百人一首かるたの展示も興味深いものでした。戦争中の「愛国百人一首」、改めて調べてみたくなりました。 「ちはやふる」という漫画もあるのですなぁ。こっちにも食指が・・。
2012.01.07
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1月7日 1978年(昭和53年)1月7日、麻原彰晃(松本智津夫)は、代々木ゼミナール渋谷校で知り合った妻、松本知子(旧姓石井)と結婚している。 オウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件(1995年3月20日)は、新聞の紙面構成をがらりと変えてしまった。阪神淡路大震災(1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒)に関する件は、あっという間に一面から消えてしまったことを記憶している。 もっとも、それ以前に、二月の下旬であったと記憶しているが、名古屋の高教組にカンパを訴えるために名古屋に行ったとき、名古屋駅で買った新聞の第一面はすでに阪神淡路大震災関係の記事ではなかったことに軽いショックを受けたことを思い出す。 それは、沖縄に行ったとき、現地の新聞(「沖縄タイムス」「琉球新報」)を買って、本土(と言っても関西圏)の新聞の記事の構成とのあまりの違い、特に米軍基地関係の記事の扱い方がここまで違っていいのかと感じたことと表裏をなしている。 今回の平田信の出頭についてのドタバタを知って、あまりのことに不謹慎ではあるが失笑してしまった。 警視庁本部に出頭して「特別手配されている平田です」と名乗ったにも関わらず、庁舎前にいた機動隊員に「悪質ないたずら」と判断されて丸の内警察署に行くように指示されたという。取り調べも何もなしである。シーズン10に入った「相棒」を見ている身としては、そののち警視庁内部がどんな大騒ぎになったかにも関心はあるのだが、そのうち明らかになるだろう。 識者のコメントの中に、「事件の風化」を指摘するものがあった。 オウム真理教事件の核心は麻原の証言拒否によっていまだに明らかではない。それどころか、後身の「アレフ」に入信者が絶えないという事にも驚かされる。あれほどの大量殺人を行った教団が単に名前を変えただけであるというのに。 阪神淡路大震災から何を学ばなければならないかという事も「風化」しつつある。 2011年(平成23年)3月11日14時46分におこった東北大震災については、早々と福島原発事故の「収束宣言」という「何とか皆さん早く忘れてください」としか形容できないような極めて政治的な発言が首相の口から飛び出している。 東電関係者と、その利権に群がった人たちにとっては「一刻も早く忘れてください。原発の運転こそが国益にかなうんです」と言いたいのだろう。最近になってやっとのことで、「福島原発で当日何があったか」が明らかになりつつある。安全神話に首までつかるという事はこういう事なのかと実感させられるような事態である。 「事故など起きるわけがない」「全電源喪失などあり得ない」という思い込みは、対策の幅を狭め、今回の事故では、現場の作業員に命がけの作業を強いることとなった。多額の日当で雇われて危険な場所に放り込まれ、使い捨てにされた人々もいると聞く。 社会の中に一定数の極貧層を構造的に抱えておくことで「有事」に備えるという構造になっているようである、我が国も。
2012.01.07
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アメリカ大統領としては唯一四選を果たしたフランクリン・ローズヴェルトは、1941 年1 月6 日、一般教書演説の中で、米国は、米国民だけでなく万人の権利である普遍的な自由を守るのだ、と述べ、最後に、米国が確保し、すべての個人に広めたいと願う「人類の普遍的な4 つの自由」を語っている。第1は、世界のあらゆる場所での言論と表現の自由である。第2は、世界のあらゆる場所での、個人がそれぞれの方法で神を礼拝する自由である。第3は、欠乏からの自由である。それは、世界的な観点で言えば、あらゆる国に、その住民のための健全で平和時の生活を保証するような経済的合意を意味する。第4は、世界のいかなる場所でも、恐怖からの自由である。それは世界的な観点で言えば、いかなる隣国に対しても、物理的な侵略行為を犯すことがないような形で、世界中の軍備を削減することを意味する。 そして以下のようにも述べている。 そのような(独裁者たちが作り上げようとしている)新秩序に対して、われわれはもっと偉大な概念で対抗する。それは道義をわきまえた秩序である。優れた社会は、世界支配の企てにも海外での革命にも、等しく恐れることなく対峙することができる。 「道義をわきまえた秩序」とは何か?ローズヴェルトといえば、「ニューディール政策」という事になるのだが、あの政策の根本は、資本主義に規制を加えて秩序あるものとするということであった。それまでの「常識」であった自由放任政策の大転換であったと言える。その背後に、「計画経済」によって好調に経済成長を続けていたソ連の存在があったことは確かである。 資本主義経済に対して規制を加えることは資本主義それ自体の生き残りのためにも必要な措置であったと言えるのではないか。 その一つが1933年に制定された「グラススティーガル法」である。この法律は、1929年の世界大恐慌の原因を探る過程から生み出され、投機の規制を行うことを主な目的としていた。 しかし、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざ通りのことが起きる。 1980年にはFRBによって無効とされ、銀行持ち株会社が他の金融機関を所有することを禁止した条項も1999年に廃止された。 この過程で、「新しい金融商品」が最新の金融工学を駆使して創り上げられ、販売され、そして崩壊した。これが2008年に始まる世界金融危機の一因となったと指摘するのは間違っているだろうか? サブプライムローンというシロモノについての解説を聞いた時には開いた口がふさがらなかった。結局これはババヌキ(トランプの・・・ですよ)ではないか、ということである。住宅価格が上がり続けるというあり得ない想定のもとに作り上げられたシロモノを金融のプロを自認する人たちが買い続けた。なんとか売り抜けられると思って。もうここまでいくと完全な博打であるにもかかわらず、多くの人がそれに群がり、その被害は、堅実に生活している人たちの生活にも多大の影響を及ぼすという事になった。 何が「自己責任」か?投機に失敗して自分自身がすってんてんになるのが「自己責任」ではないのか?他人様の生活に多大の迷惑を及ぼし、各国の経済に破滅的な影響を与えておいて何が「自己責任」だ!! 資本主義は、自由放任に規制を加えて「修正資本主義」の道をたどったために生き残れたことを忘れてはならない。 グラススティーガル法の再制定を提案する動きがあるという。FRBの元議長のポール・ヴォルカー、ジョン・マケイン、マリア・カントウェルなどがその中心である。 ただ、あれほどの金融危機を経てなお「自由競争」「自由放任」「小さな政府」に固執する勢力がかなりの数存在するアメリカの現状を見ると、そのようなアメリカ人にとって「自由」というのはもはや狂信の水準にまで至っているとしか思えない。
2012.01.06
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1939年1月4日に近衛文麿内閣が総辞職、5日に平沼騏一郎が第35代内閣総理大臣に就任している。帝国大学法科を卒業したのち、司法界で出世していった彼は、指紋による前科登録を導入している。また1910年の大逆事件の際は検事として幸徳らに死刑を求刑、その後も昇進し続けるが、天皇機関説排撃事件などによって元老の西園寺に嫌われ、首相にも枢密院議長にもなれなかった。 そこで西園寺打倒のために立憲政友会を潰す目的で国策捜査(帝人事件)を行わせたが、証拠収集のあまりの杜撰さによって公判では全員事実無根という失態を演じることとなる。 その後、西園寺が高齢のために引退するのを機として親英米派と妥協、ようやく首相の座を得ることとなる。 ところが、8月20日にノモンハンで日本軍が大敗、さらに8月23日に独ソ不可侵条約が締結されるに至って、かの有名な「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を発して8月28日辞職している。 確かに、「欧州の天地は複雑怪奇」であった。 コミンテルンのラッパ手は、諸政府、諸国民に対して反ヒトラー十字軍に参加するよう前々からラッパを高鳴らせていたが、モロトフ、リッベントロップが1939年の条約に調印するや否や、コミンテルンはこの十字軍を撤回した。反ファシズムのあらゆる戦略と戦術、営々としてつくりあげられたそのあらゆる論証とスローガンは一片の反故と化した。・・・今やこう主張された。交戦陣営はともに帝国主義的目的を追求し、両者の間に選ぶところはない。労働階級は、戦争に抵抗し、平和のため闘うよう求められた。『スターリン』(ドイッチャー みすず書房 p129) 政治の世界で、「言葉」「約束」とはなんだろうか? 野田首相は、消費税引き上げについて、「ネバー、ネバー、ネバーギブアップ」という言葉を使い、高校の時、世界史の時間に第二次世界大戦を戦い抜いたイギリスの首相チャーチルの言葉として習ったと言ったそうだ。 同じイギリスのシェークスピアは、言っている。『ヴェニスの商人』第一幕第三場で。 「悪魔も手前勝手な目的のために聖書を引用する」(The devil can cite Scripture for his purpose)『シェイクスピア名言集』(小田島雄志 岩波ジュニア新書 p101) 民主党はなんと言って政権の座についたのか?ほぼすべてのマニフェストは、投げ捨てられようとしている。このことによる政治不信がどこへ向かうか、一度でも彼は考えたことがあるのだろうか?
2012.01.05
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1894年4月13日に島根県の益田市で生まれ、1971年8月1日に亡くなった徳川夢声という人は今でいえばマルチタレントと言っていい人で、俳優、声優はもちろんのこと、文筆家としても一流でした。彼の作品の中に『夢声戦争日記』(中公文庫全6巻)があります。 その1月4日(昭和18年)の項に以下のような箇所があります。 この夜見たのは「風と共に去りぬ」であったらしい。私は「風と共に去りぬ」を見ながら、身体が震えるような気がした。はて、日本はアメリカに勝てるかな?という囁きがしきりに耳に聞こえる気がしたのである。こんな素晴らしい映画を作る国と、近代兵器で戦争をしても、到底勝てっこないのではないか? 「風と共に去りぬ」を見て、私がアメリカに恐れをなしたのは、A これだけの大映画を作る資本力恐るべし。B これだけの映画を作る機械力は恐るべし。C 映画のモギ戦争ですら、これだけの大軍を整然と動かし得る機動力恐るべし。D 物語全編を貫く正義観念と、その正義を実行する勇気(四人の主役を始め、他の登場人物も概ねしかり)しかも、この映画がアメリカ全土の興行記録を破ってるという事実は、アメリカ人自体がこういう性格の持ち主であると見られる、その実行力恐るべし。(巻3 p15~16) この時夢声は『ファンタジア』も見ているのですが、それについての感想が記してないのは残念です。夢声は日本の占領下にあった昭南(現在のシンガポール)でこれらの映画を見ています。「風と共に去りぬ」が日本で公開されたのは1952年の9月10日。 なお、「風と共に去りぬ」をウィキで検索してみますと、夢声と同様にこの映画を見た軍の関係者(ウィキでは陸軍中野学校と記してあります)は、夢声同様、「こんな映画を作る国とは戦争しても勝てないと衝撃を受けた」と記してあります。出典は記してありませんが、しらべてみたいものです。
2012.01.04
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年末に天橋立に行ったのですが、その時にチェーンが必要になりそうな雰囲気で、ガソリンスタンドで、「チェーンの付け方を教えてもらえませんか?」と頼み込んだら、「あ、このチェーンはこのタイヤには合ってないです」と言われてしまいました。つまり、一代前の車の時に買ったチェーンであったのです。 で、仕方なくオートバックスへ。 「全くの初心者でもつけることができるタイヤチェーンってありますか?」と訊ねると、「イエティ」というシロモノを紹介してもらいました。DVDつき、ついでに実演もしてもらいました。あっ、簡単!と思って購入。3万ちょっとしたのは計算外でしたが。 で、天橋立へ。予報では「暴風雪」でしたが、道路は開いており、時々は晴れ間ものぞく天候に、肩透かし。次の日も好天。結局、チェーンはつける機会はなかったのです。 29日に蒜山SAに電話をすると、31日から2日は曇りで雪の心配はありません、とのこと。一応チェーンは積んで出発。 さて、米子自動車道に乗ろうとしますと、二人ほどの係員の人が、江府から蒜山までチェーンが必要ですから、積んでますか?と各車をチェックしています。 えーっ、ホントに必要なの?と慌てるワタクシ。 気温も零度いってないし、雪もそんなに降ってないし、車も頻繁に通行しているんだから大丈夫だよね・・・と口にだし、自己暗示をかけつつ走行。ところが、江府に近づくにつれて、チェーンをつけるために路側帯に停車している車が続出。とうとう、ホントに久しぶりにチェーンをつける羽目となりました。 装着の様子を思い出しながら、なんとか成功、しかしまったく自信がなく、娘が運転してしばらく走っている間中、サイドミラーを凝視していました。もちろん、チェーンが外れて転がっていないかを確認するためです。 天の助けか、ワタクシの日ごろの行いがいいからか、誰でも簡単に装着可能というチェーンの性能が素晴らしかったのか、原因は不明ですがチェーンが外れることもなく蒜山まで何とか走行。SAで一休み。 蒜山を過ぎるとナビからチェーン装着必要のマークも消え、今度は外せる場所を探しながらの低速走行。なんとか外せる場所にいたり、外してバッグの中に放り込みました。 これだけのことなのですが、ハラハラドキドキいたしました。雪国の方たちには「あほちゃうか」というお話なのですが・・・。そういえば、天橋立で宿泊したホテルの従業員の方に、チェーンの装着を教えていただけませんかとお願いしましたら、全員、スノータイヤをつけてますので、チェーンを付けたことがないんです…申し訳ありません・・・と断られてしまいました。 人間、必死になったら何とかなるということでしょうか。
2012.01.02
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