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「時に及んでまさに勉励すべし 歳月人を待たず」という有名な句の意味は。、若い時によく勉強をしろというのではなく、今のうちに酒を飲んでおけということである。 と、トイレにおいてある加藤周一さんの『夕陽妄語』(朝日新書)の中に書いてあった。すっかりそう思い込んでいたので、調べてみた。 あるブログに行き当たったので、そのまま借用させていただく。 雑詩十二首は、陶淵明が折に触れて感慨を詠んだもので、秀作が多い。すべてが同じ時期のものではなく、大きく二つのグループに分けられる。 前半の八首は残り少ない人生について語っているところから晩年のものと思われる。これに対して後半の四首は行役の苦しさについて語っているから、おそらく官途にあった時期の作だろうと思われる。 人生無根蔕 人生 根蔕なく 飄如陌上塵 飄として陌上の塵の如し 分散逐風轉 分散し風を逐って轉じ 此已非常身 此れ已に常の身に非ず 落地爲兄弟 地に落ちては兄弟と爲る 何必骨肉親 何ぞ必ずしも骨肉の親のみならんや 得歡當作樂 歡を得なば當に樂しみを作すべし 斗酒聚比鄰 斗酒 比鄰を聚めよ 盛年不重來 盛年 重ねては來たらず 一日難再晨 一日 再びは晨なりがたし 及時當勉勵 時に及んで當に勉勵すべし 歳月不待人 歳月 人を待たず 人間の生には(植物のような)しっかりとした拠り所がなく、ひらひらと舞い散るさまは路上の塵のようだ、ばらばらになって風に吹かれて飛び散り、もとの通りに居続けることはない この世に生まれたからにはみな兄弟だ、骨肉の間柄だけではない、歓楽の機会があればすべからく楽しもう、酒があれば近所の連中を集めようではないか、 盛りの年は二度とはない、今日という日は再びは来ない、時に及んでまさに行楽を楽しもう、歳月は人を待ってはくれないのだhttp://blog.hix05.com/blog/2007/11/post_455.html 壷斎閑話 より 中国には酒をたたえる歌が多い。「臣はこれ酒中の仙」と称した李白は、満月の夜に湖に漕ぎだし、月を愛でて酔い、湖面に浮かぶ月を掬い取ろうとした挙句に船から落ちて溺死したという。 日本の「万葉集」でも、されを呑まない人間はバカにされている。 飲酒をタブーとしているはずのイスラム圏には酒の歌はないだろうと思えば『るバイヤート』と言う名品がある。 「俺が死んだら墓に埋め、その土で酒のかめを焼いてくれ」とか、「早春にはチューリップの杯をあげてチューリップの酒に酔え」とか、「この世はキャラバンのようなもの、ただ過ぎていくばかり。せめて酒でも飲んでこの人時を楽しもう」などと。 私は奈良漬を食べて酔うほどの人間なのだが、酒の歌は大好きだし、酒のつまみは美味しい。 イカのぶつぎりをイカの肝であえて熱を加える。にんにくのみじん切りや七味をぱらぱら・・。これは、あったかご飯にぶっかけてもいけます・
2013.01.24
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今日は、センター試験初日。会場まで足を運ぶ。別に何をするのでもなく、ニコニコ笑って生徒たちと会釈するだけ。朝からとんでもないものを見てしまった・・と言うことはないだろうと思いたい。 センター試験では「倫理」と言う科目と、新設された「倫理・政経」と言う科目がある。 世界史、日本史の補習を担当したことはあるが、倫理の補習をやったというのは40年の教師生活の中で昨年と今年だけである。 とりあえず、センター試験を20年分ほど解いてみて、どこが出題されているかをチェックし、プリントにまとめて配布した。 で、注意点。(A)第五章からの出題が近年増加している。生命倫理、環境問題。(B)最近よく出ている人、事項。アマルティア・セン 田中正造 サイードとオリエンタリズム(p197) エーリッヒ・フロム フーコー(C)「青年期」は最近は頻出 ⇒第一章 ◎レヴィン マージナルマン◎エリクソン モラトリアム人間 青年期の発達課題はアイデンティティの確立 ライフサイクル) ◎シュプランガー 自我の目覚め ◎マズロー 自己実現の欲求 階層性があること(p14の下の図)(D)過去に出た問題が少しだけ形を変えて出ている。 ⇒過去5年間ぐらいは目を通しておくこと。(E)設問の文章をよく読んで「適当でないもの」「最も適当なもの」のチェックを忘れないこと。(F)定番問題もあるが、かなり新しい事項、人名も出ている。 「脳死」の旧規定と新規定(本人の意思がはっきりしない場合は家族の同意で臓器移植が可能) ヴィトゲンシュタイン(p162)◎フッサール いかなる前提や先入観、形而上学的独断にも囚われずに現象そのものを把握して記述する方法を重視。「現象学」。 日常的に、私たちは、自分の存在、世界の存在を疑ったりはしない。私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを知っている。 このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止する(このような態度をエポケーという)ことで意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。 レヴィナス 人間は、近代的自我を中心とする全体性の立場から生じた無意味な非人称的存在(イリア)の恐怖に飲み込まれている。これを打ち破るには自我とは絶対的に異なる他者が不可欠。他者の「顔」を通じて他者に無限に開かれた立場が必要。 ただ、直前ともなると、どうしても、「ヤマを張る」と言うことになる。〇アリストテレスの王政・貴族政・民主政とそれに対応する独裁政・少数支配・衆愚政治の項(アリストテレスは頻出なのだがここは不思議に出ていない)〇アマルティア・セン。 ついでに問題を作ってみた。これまでテーマとしてはっきりした形で出ていない、「戦争と平和」。 諸子百家(孔子・孟子・荀子・墨子・老子・孫子)、「女の平和」、グロティウス、カント(「永遠平和のために」国際連盟)、憲法第九条の「交戦権」。 さて、どうなんだろう? 年末ジャンボは、3枚買ってすべて外れ。このことから二つの推測ができる。(1)私は運がない。よって、予想もすべて外れる。(2)私は運がない。しかし、私の持っている『運』は、利己的な部分では働かず、利他的な部分で力を発揮する。よって予想は当たる。 結論としては、「そのいくつかは当たる」と言うことになりそうだけれど。 どんな問題が出題されたか早く知りたいものである。
2013.01.19
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桜宮高校のバスケ部OB、保護者たちの中で、自殺した元キャプテンを責め、暴力をふるった顧問を復帰させて、その顧問のもとでクラブ活動を再開させてほしいという声が挙がっているという。 唖然とした。 体罰はずっと行われてきたのに、自殺したのはこの生徒だけ、よってこの生徒が悪いといった発言を戸塚宏(元戸塚ヨットスクール校長)がしていたとも聞く。 バスケ部OB、保護者たちの声に対して、「あの」橋下市長が、「皆さん冷静になってください」と言ったという。 閉鎖的な空間の中で醸成される「世論」なるものの恐さがここにある。人ひとり死んでいるわけである。それが頭からすっ飛んでいる。 三年生の「倫理」の時間も今日で終わったのだが、昨日と今日の授業の中で、「学校での体罰は許されるか?」と訊ねてみた。 一番多かったのは、「体罰はいけないことだけれど、仕方がない場合もある。しかし、今回の件は限度を超えている」という意見だった。全面否定はそう多くない。さすがに、全面肯定はなかった。 私は一年目に生徒を殴ったことがある。 二年目に初めて担任を持った。いろいろやってくれる生徒がいた。タバコ、暴力、其の度に謹慎処分となった。家庭訪問をして話し込んだ。彼を取り巻くいろんなものが見えてきた。 定期考査の時に、たまたま保健室にいた私のところに彼が顔面蒼白でやってきた。 「先生、殴ってください」と言った。また家庭訪問の日々が始まった。彼は、三年生になって猛勉強し、志望校に入学した。 その時以来、私は一度も生徒にむかって手を挙げていない。 教育委員会から「体罰はいけません」という指導があったからではない。自分自身の実践(大げさだけど)を通してそう思ったからだ。 問題が起こったらとにかく家庭訪問をしてしつこく話し込んだ。人間関係を作った。同僚の助けもあったし、頭の中が真っ白になって思わずぶんなぐってしまうような生徒に出会わなかったという事も幸いし、63歳の現在に至るまで40年間の教師生活の中で、生徒を殴らないでこれた。 体育系のクラブを担当したこともあったが、第二顧問だったからそんなに熱くなることもなかったし、大半は演劇部だったから、殴ることなど考えられなかった。とにかく楽しかった。 学校現場から体罰はなくならないかもしれない。その時は、しっかりとフォローしてほしい。話し込んでほしい。なぜ私は君を殴ってしまったのか。 体罰は劇薬である。効き目は抜群である。しかし、それだけに副作用は大きい。効き目だけに目を奪われれば、あっという間に「常用者」となる。 そんな事をしゃべった。 授業が終わった後で、一人の生徒が追っかけてきて、体罰やいじめの問題について大学で学びたい、社会心理士になりたいと言ってくれた。 センター試験は目前である。 みんな頑張れ!
2013.01.16
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アダム・スミスという人物について、ある程度知られていることは、「国家の利益は商業から発生するものではなく、産業から発生する」という主張をしたという事、「自由競争を擁護し、政府による規制や干渉を退けた」という事、「自由競争によって個々人が利益を追求していっても『神の見えざる手』によって調和が図られ、社会全体の利益の向上が実現するだろう」と主張したというあたりだろうか。 ただ、彼が主張し、擁護した「自由競争」は、「自由放任」とはイコールではないという事は知っておいた方がいい。 スミスは、同時に「道徳情操論」という著作を著している。その中で彼は、人間は他者の視線を意識し、他者から「同感」を得ようとする、と述べ、「公平な観察者」の目から見て問題がないように行動しようとすると指摘している。 また、「富裕な人々は大地が全住民に平等に分配されていた場合の生活必需品の分配を『見えざる手』に導かれて行う」とも述べている。 このケースを、「経済学が道徳、倫理から未分離の状態」と評する人もいるかもしれない。 「マキャヴェリは、政治と宗教・道徳を分離し、政治学は学問として自立した」とも言われるかもしれない。 ただ、「経済学は、道徳・倫理などを顧みなくても良い」と言えるのか? ECONOMYには、様々な変遷を経つつ、「経済」という訳語があてられた。「経済」とは、「経世済民」の略である。「済民」には、「人民の難儀を救う」(「新字源」角川)という意味がある。 経済学者の中には、「規制緩和」を主張する者もいる。あの「リーマンショック」以後に依然として「規制緩和」を言いつのるというのはもう学習機能がないとしか言いようがない。 前回、現実主義者としてのアリストテレスを紹介した。 彼は、「中庸」を重視している。極端はだめであるという。孔子様も「中庸」を重視されている。 簡単に言えば、規制には必要なものとそうではないものとがあるという事であり、現実の企業の行動を観察することによって必要な規制はおのずから導き出されるという事である。 これは、「帰納法的結論」であり、判断材料は、「企業犯罪」である。 企業がいかにして法(たとえば労基法)の網をくぐろうとしているか。 企業がいかにして自己利益を優先して、地域と従業員とを切り捨てているのか。 企業トップが、いかにして国民を欺いて来たのか。 東電の例だけで十分ではないか。 企業に決して与えてならないのは「自由」である。 無制限の「自由競争」の果てには「独占」が待っている。企業が栄えて国民の大半が貧困にあえぐという図は本末転倒である。 「自由市場を護りたければ、企業には適正な規制が必要であり、内部告発制度も必要であり、労働三法を厳正に守らせるための監視の目を光らせなければならない」というのは、何度も言うが、経験知である。
2013.01.11
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職場で読んでいる「日経」に、概要以下のような記事が出ていた。 「給与増で法人減税」雇用促進と組み合わせ 政府・自民党は、8日、2013年度税制改革で企業の雇用増や給与引き上げを促す新たな税制制度を設ける方針をかためた。企業が、雇用や給与を増やした場合、給与の支払総額の増加分に見合う一定割合を法人税額から差し引く案などを検討する。景気回復に向け、金融緩和で企業の資金繰りを支援しつつ、企業が利益を従業員に還元し、個人消費につなげる道筋をつける なるほど。「企業が利益を従業員に還元」ね。民放でも、企業の内部留保金の増加と、それと反比例するような給与の下がり具合を報じるようになったから、「企業は利益を従業員に還元していない」ということは広く情報として共有されるようになってきたというわけだ。 で、自民党としては、ナントカ夏の参院選までは支持率のガタ下がりは避けたい、そういうことなんだろう。 しかし、増税が間近に迫っており、将来不安もぬぐえないというこのご時世に、給与が少しぐらい増えたからと言ってそれが即、消費に回るとは思えない。 安心して老いることができる。病んでもゆっくりと療養できる。若い時に少々無茶していてもなんとか会社にもぐりこめて、そこそこ生活できる。 ここまで書いてきて、そうだ、「そこそこ」なんだ、と思った。 給料日に外食できて、ボーナス日にはちょっと贅沢ができる。 日本の治安の良さと、穏やかさとは、この「そこそこ」によって支えられていたような気がする。 格差社会はほぼ例外なく不安定な社会となる。 「倫理」の時間で最初のころに出てくるアリストテレスは、「正義」を二種類に分けている。 まず、「配分的正義」。これは個人の功績、能力に応じて行われる富の分配である。 そして、「調整的正義」。これは今流に言えば「格差是正措置」といっていい。 ソクラテス・プラトン・アリストテレスと並べてみると、アリストテレスはとことん現実的である。たとえば、プラトンのように、「これが理想国家だ!」とは言わない。 支配者の数の違いから「王政」「貴族政」「民主政」と分類し、それぞれの「堕落形態」として「独裁政」「寡頭政」「衆愚政」を対置する。 さまざまな要素の組み合わせ、ポリスの人びとの意識の水準、選択によってどれか一つが現出し、また変化していく。それを彼は冷静に観察している。 彼は、「平等」という要素が社会の安定に欠かせないということを「調整的正義」という言葉で表現した。 歴史を概観してみると、「平等」という言葉が常に現れてくることに気が付く。 ヨーロッパでも、中国でもそうである。 先日から放映され始めた「日本人は何を考えてきたか」の昭和編の最初は「大本教」であった。出口なおの「お筆先」に伏流するのは「平等」である。なおは、「利己心」に凝り固まって人々のみじめな生活を顧みようとしない財閥などの支配する現世を「獣の世」と罵倒している。 「そこそこ」の生活をしている人々が分厚く存在する社会にこそ健全なビジネスチャンスがあるということは極めて単純な事実であると思う。 間違ってますか?
2013.01.09
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〇悲しい時・・・・・ 30分ほどかけて装着したチェーンが、100m走ったところで外れてしまった時。 31日、米子道は久世からチェーン、スノータイヤの規制がありました。で、ワタクシ、昨年購入した「簡単に装着できるチェーン」を付けようとしたのです。昨年は一発でうまくいったので油断していたのでしょうか、うまくいきません。で、仕方なくジャッキアップして装着。カチッ!と音もして大丈夫・・・と思って走り出しました。ところが、100mほど走ったところで、ジャラジャラジャラ!!という音。慌てて車を路肩に寄せて見てみると、しっかり装着したはずのチェーンが両方とも外れて寸前・・。 で、もう一回何とかつけてみようかなと思ったのですが、すぐにあきらめ、蒜山のSAまで行ってそこのGSでつけてもらうことにしました。何とか辿り着いて、お願いすると、技術料として1本1000円とのこと。即、「お願いいたします!」 装着していただき、そのまま帰宅。雪道でないところも60kmでとろとろ走りました。そしてそのまま本日帰省。今日は、米子道の入り口ですでにチェックを開始していました。 湯原を過ぎたあたりでチェーンを外して一段落。 〇同情したくなった時・・・・ 後続の車のチェーンが外れて路肩に止まるのが見えた時。 某コンビニの車(配送車ではなく乗用車)でした。おそらく営業の方でしょうか、スーツを着て車外に出てきて、外れたチェーンを何とかしようとみぞれ雪でべたべたの道路に膝をついて一人で奮闘していらっしゃいました。 しかしこちらも同情している場合ではありません。ハンドルにしがみついて降りしきる雪の中を蒜山目指して神経を集中して走りました。 次回、事前にきちんと練習してから出発したいと思っています。
2013.01.02
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