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2007.06.25
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カテゴリ: 日本映画
恋しくて

99min

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寸評:良い評価と同時に酷評もあり、また中江監督の沖縄との関わり方に対する批判まであったが、迷った末見にいって良かった。かなり勝手な見方なのかも知れないが、若い主人公のラブストーリーやBEGINに模したデビュー物語など表面的にストーリーと思われるものは実は素材ないし道具に過ぎないのであって、映画のテーマはもっと別のところにあるような気がする。

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中江監督や中江作品のファンでもなければアンチでもない。中江裕司というと、沖縄で生活するようになって街で見かけたり、ときどき色々うわさを聞いたりする以外は、沖縄に来る少し前にDVDで見た『ナビィの恋』という一種独特の時間感覚の不思議な映画の印象がおぼろげにあったのみだ。ところが今回この『恋しくて』を見始めて少したった頃、急に『ナビィの恋』が蘇ってきた。蘇ったと言ってもストーリーやら映画作法ではない。時間の感覚だ。マルセル・プルーストは「ある作家の本を読むとき、初めて読む1冊目の読書は本当の読書ではない。2冊目を読んで1冊目との共通することに気付いたとき、それが本当の読書だ。」というようなことを言っている。今回映画でこのことを体験した。ストーリーではなくその底に流れる時間が『ナビィの恋』と『恋しくて』で共通しているのだ。そしてそれに気付いたとき、この時間感覚こそが実は中江映画の真のテーマなのではないかと思えてきた。

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(以下ちらほら少しネタバレ含みます)
映画は真っ黒いスクリーン、真っ暗やみに何か微かに音は聞こえるか聞こえない、ほとんど何も聞こえない、そんな始まりだ。やがて少しずつ画面が明るくなる。窓の外が明るくなっていき、夜明けを時間を短縮して描いている。ベッドに女の子らしき寝姿が見え、高校生になった加那子の部屋の朝だとわかる。目覚めた彼女はハンガーに吊るしてあった真新しい制服を身につける。この出だし、別に大して凝っているわけでも目新しいものでもなく、高校生の下着姿を写したりして中江監督は何考えてるるんだって感じなのだけれど、映画の途中にも海と空の風景が夕暮れなどを時間を短縮して描かれたものが挿入され、最後は映画の物語のバンド「ビギニング」の演奏風景が巧みにBEGINに入れ代わって、映画の作中の時間と現実の時間が混交されるラストで、これらは実は一貫した時間の描き方の各要素なのだ。そう言えば『ナビィの恋』でも若い二人の結婚披露の席でカチャーシーが踊られ、その間に時間が経過して二人には既に子供が出来ているというのがラストだった。

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具体的な映画の筋としては、高校生になって再会した幼馴染みの栄順と加那子のラブストーリーに、加那子の兄セイリョウの一声で始めたバンドのサクセスストーリーが実在のバンドBEGINの物語をなぞる形で絡めて描かれ、それに兄妹が幼い日に奄美に行ったまま消息の分からない父親の物語が加味されている。しかし見ようによってはそのどれもがとりとめない。描かれ方も半ばコミカル、半ばシリアス。この辺と、やや冗長に描かれる高校生バンドの音楽、そして妙に沖縄紹介的な部分、そうしたことがこの映画を批判する人の根拠であるようだが、これらは実は真のテーマではないと気付くと納得が可能となる。実はある種の「人間的時間」と人の生きる人生観のようなものがこの映画のテーマではないか、と。

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中江監督は沖縄でばかり映画を撮っているが、このある種の「人間的時間感(観)」はことさら沖縄のものではない。人が生きるとき、それが何処であっても根本にあることだ。カラテ部に入って情熱を燃やす加那子、加那子と栄順の恋、バンドにかける情熱と成功への物語、行方不明の父の記憶、『ナビィの恋』で言えばオバアの古い恋物語や現代の若い2人の恋、時間感覚が曖昧なオペラ歌手やバイオリンを弾くアイルランド人の物語、と言うより生活の一齣、そして結婚式でカチャーシーを踊って一時の現在の喜びに酔う人々、こういう人が生きるときに持つひとつひとつの出来事や情熱・情念、要するに時間の流れの中での人の生のはかなさ。ただそういうものとの一体感が沖縄の人々の生き方には強いのだ。それは人間存在の哀しみであるのだけれど、自然やその時間の流れの中にそのことと一体となって生を営むことを知ったとき、それは大いに慰めに満ちたことでもある。中江監督の映画のテーマはこの点で一貫しているのではないだろうか。冒頭で夜明けの時間の経過とその中での加那子の日常を描き、ラストでは映画の作中のバンドであるビギニングの時間を現実の(映画外の)BEGINの時間に移行したこと、これは単なる安っぽい常套的映画表現である以上に、映画的時間やそこに描かれた人々の生を長い自然の時間の中に位置付ける作法なのではないかと思う。中江作品、ちょっと他のも見てみたくなった。

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Last updated  2007.06.25 23:42:35
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