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おそいひと aka LATE BLOOMERTuyoshi Shibata白黒83min(DV/35mm 日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)何時間か前に見てきました。非常に面白い映画でした。障害者が殺人鬼になるという物語を、実際の障害者が俳優として演じている。賛否両論は障害者ということに関してばかりだ。監督の意識に実際にあったかなかったは不明だが、ボクはこの作品に障害者ということから離れて、もっと普遍的な意味あいをも感じた。住田雅清という重度身体障害者の俳優の存在感と演技に圧倒された。(引用写真はちょっと恐そうですが、殺人シーンなどもおどろおどろしいものではありません)。住田雅清(42才)、それは役者の名前であると同時に作中の人物の名前でもある。重度の車椅子脳性麻痺の障害者だ。こうした障害者とは一般に、健常者とここでは呼んでおくが、その健常者である我々にとって何なのだろう。街角でそうした障害者と出会うと、目を背ける、あるいは見て見ぬふりをする。それはなぜだろう。それは、大袈裟に言うと、我々が自分のアイデンティティーをそれによって持っている根拠を揺さぶられるからだ。我々は何らかの自己存在価値、別の言い方をすればプライドによってアイデンティティーを保っている。そしてそれには多かれ少なかれ他者との比較が根底にある。いくら自分のために勉強をしていると言っても、クラスで1番になったという誇りは、クラスの残りの生徒に勝ったということだ。こんなプライドにはもちろんピンからキリまである。みんなが持っているわけではないブランドもののバッグを持つのだってそんなプライドの一つ。それはオリンピックで金メダルを取ったというプライドと、プライドであるという意味での本質は何らからない。イケメンの女にもてる男は、そんな自分が嬉しいし、好きだ。もちろん人によって程度の差はあるけれど、「自分が他人より」、だからプライドとなる。全世界の男がみんな同じ顔、スタイル、声・・・だったらそれはプライドとはなり得ない。つまりはもてないブス男がいるからこそのプライドだ。そして「このブス男が!」と優越感を持つこともできるし、そんなブス男を公然とバカにする男もいる。ところがたいていの場合、障害者に出会うと、自分より究極にブスであると思えるはずの障害者を、バカにすることが出来ない。かえって自分の存在を後ろめたくも感じてしまう。つまりは、自分が「もてる男」として持っていたプライドは、障害者を前にすると根拠を無にされてしまうのだ。この健常者と障害者との間には一線があるのである。それが区別とか差別だ。だから障害者に殺人鬼を演じさせたという理由でこの映画に不快感を持つ観客は、その根底にこの「区別」や「差別」意識を強く持っているということだ。健常者が殺人鬼を演じても誰も文句は言いはしない(その映画内容批判は別の問題)。障害者への偏見を助長するというような理屈は、とってつけた理由でしかない。変なカッコウで、妙な歩き方をしている障害者を目にしたとき、目を背けるよりも、指差して大笑いする方が罪がない。なぜなら前者の意識には障害者と健常者を区別する「一線」があるのに対して、人を笑い者にするのは褒められたことではないけれど、後者の意識には「一線」がないからだ(もちろん単なる節度の無さである場合もあるけれど)。色々な価値観から我々は美しい物から醜い物まで、最良の物から最悪の物まで、様々なものをグラデーションを持った連続性のどこかに位置付ける。人だって同じなのだ。肉体的運動能力という物指しで計れば、グラデーションのいちばん下位の方に位置付けられるだけで、自分とは一線の別の側に存在するのが障害者ではない。その住田雅清演じる住田雅清42才。この手の障害者は実年齢よりも幼く見える場合もあるが、彼の麻痺の状態と同様、それはグラデーションの位置付けであって、42才の男性であることに変わりはない。一見子供っぽくも感じられるけれど、最後に俳優・住田雅清のメッセージを引用するように、知的レベルまで劣っているわけではない。普段はおばさんのヘルパーが来て料理等をやってくれる。他にデスメタルのバンドをやっているヘルパーとも言えるし、飲み友だちとも言えるようなバンドマンがいる。ある日そんな彼のもとに、卒業論文を書くために介護を経験したいと、女子大生の敦子が2ヶ月の予定で通うことになる。住田雅清は彼女が来る前から、「その娘はいつ来るの?」と内心わくわくしている。やって来てみると、敦子はなかなか良い娘。そしてそんな彼女に住田雅清は「叶わぬだろう」恋心を持ってしまう。3名のルームメイトと4人で暮らす敦子だったが、ある晩男の友だちも何人か来ていつものように騒いでいると、敦子の携帯が鳴る。彼女が出るとほとんど無言だ。住田雅清はボイス・ヘルプ・マシーンを使って意志を伝えていたが、話すことは出来ない。それを察して敦子はファックスの番号を教える。やがて電話が鳴り、ピーとファックスが送られてくる。「一発やらせてくれ。住田雅清」。戸惑いと怒りで凍り付く敦子。例えばケガをして身体がしばらく不自由で自宅療養をしていて、こんな女性が毎日介護に来てくれていたら、ボクだってその女性に恋をするかも知れない。でも違うのは、ボクがその女性と一線の同じ側にいるのに対して、住田雅清と敦子は一線によって、敦子の意識としては隔てられていることだ。だからボクならばファックスで「君が好きだ。racquo」と送ったであろう。そして仮に恋が実れば、結果としてセックスもするだろう。あるいは不幸にもふられたとしても、ケガの回復後にまた別の女性との恋もあり得る。しかしそんなストーリーは住田雅清にはあり得ないのだ。だからこその「一発やらせてくれ。」という直截の願いであって、彼が特にエロおやじというわけではない。愛と性は本来不可分だ。この一件の前に敦子が「普通に生まれたかった?。」と住田雅清に禁句である質問をするシーンがあった。何日も一緒に過ごして、一緒に彼の友人・ヘルパーのバンドのライブに行ったり、敦子にとって何となく気心が通い合っていたからの、悪気のない質問だった。その時ボイスマシーンで住田雅清は軽く「コロスゾ」と応じたけれど、「普通」という言葉は「普通」と「普通でない」、つまり健常者と障害者という区別の意識を敦子が持っていることを示しているわけだし、「一発やらせてくれ」というのは、彼の偽らざる欲求であるだけではなく、自分を一線で区別している敦子に対して、同じ側、というより連続性の中に自分がいることの受容を求めたのだ。こうして、今までは自分の境遇を何とか受け入れてバランスを保って生きていた住田雅清は、健常者に対する憎悪を無差別殺人という形で出していくことになる。映画は、社会の中で自分ではどうすることも出来ない不遇を持たされた住田雅清が、無差別殺人鬼になっていく過程が描かれていた。冒頭にも書いたように監督にその意識があったかどうかは解らないけれど、障害者という枠を外してのテーマが、ボクには感じられた。良い悪いで言えばもちろん悪いのだけれど、色々な意味で社会の矛盾や不備によって、ここで言う意味での健常者であっても、出口無し(と本人は感じている)不遇に置かれた人々がいる。そんな不遇は、生まれ落ちたときからの全ての偶然や必然の出来事の積み重ねであって、必ずしも本人の責任ばかりとは言えない。そしてその人が持つようになった憎悪は、やはり無差別殺人という結果をも生む。昨今の各地の無差別殺人、通り魔殺人事件。そうした事件(あるいは犯人)を生む本質と過程を描いたメタファーとも受け取れる物語なのだ。健常者による障害者差別が、障害者の憎悪を生み、無差別殺人を生む。この一線による区別が無かったら、住田雅清は敦子に失恋しても殺人鬼にはならなかっただろう。それは健常者の通り魔殺人犯も同じなのである。ある方の日記 へのコメントととして書いたことだが、社会の中での不利益な立場は、それが集団としてまとまっていれば、フランス革命とかロシア革命となる。しかしその背景にある社会の矛盾に苦しむ個人が、集団とならずにバラバラに憎悪を持ったとき、それはこのような事件になるのではないだろうか。以下は、映画のチラシにあった、俳優・住田雅清のメッセージです。「はじめまして、住田雅清と申します。私は、言葉が全くしゃべれず、現在トーキングエイドを使用してコミュニケーションを図っている重度の車椅子脳性麻痺者です。この度『おそいひと』という映画に主演俳優として出演しました。この作品の中で、私は殺人犯を演じています。『障害者が殺人鬼として登場するから、障害者差別を助長する』と感じる方たちもおられるでしょう。日本の映画で今まで殺人を扱った作品は無数にあると思います。この『おそいひと』はその一つに過ぎません。障害者というだけで、過激な表現が暗黙の了解のもとに制約されてきた日本映画界において、障害者が常軌を逸した人物として登場するこの映画は、強いメッセージを持ち、且つ優れた文化作品だと誇りを持って言えます。困難なことかも知れませんが、障害者が自分たちの文化を取り戻す作業が必要だと思います。障害者も障害者の世界に閉じこもらず、もっといろいろな人たちと協力し合い、文化創造を力強くしていかねばならないと思っています。」監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.10.15
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弁当夫婦(R246 STORY)Yusuke Santamaria(桜坂劇場 ホールCにて)ここでは6名の監督によるオムニバス『R246 STORY』の第6編、監督:ユースケ・サンタマリア、出演:ユースケ・サンタマリア、永作博美の『弁当夫婦』について書きます。他の5編については昨日付の日記をご覧下さい。まずその昨日の日記に引用した作品紹介文をもう一度。「長く同棲生活を続けている男女。2人は結婚を望んでいるが、タイミングを完全に失っている。女は毎日弁当を作り、男と一緒に食べることを日課にしていたが、コミュニケーションは以前よりすくなくなっていく…。」永作博美が台所で料理をしている。それは豪華なお弁当だ。ちなみにこの永作の料理の手付きがいい。演技以上の何かがあると思って調べたら、この永作博美さんは調理師免許持ってるらしい。その弁当は一流ホテルのおせち料理の重箱セットをも思わせるような立派なもの。どうやら出勤前の朝らしい。リビングのソファーにはユースケ・サンタマリア。永作はビジネススーツを着ていて、ユースケに「では後ほど。」と言うと出ていく。お弁当を持ち、自転車に乗って出勤する先はR246青山通りか?、にあるオシャレな画廊。窓からはユースケの経営する移動コーヒー店が見える。そこに常連の客がやってくる。コーヒーを注文しながら「また離婚しちゃった。」とユースケに洩らすその常連客。昼休み。永作はお弁当を持って公園のベンチへ。そこにやってくるユースケ。2人は言葉を交わすでもなく、ベンチに真ん中に置かれた弁当を挟んで座り、昼食を一緒にとる。(以下ネタバレ)描かれるのは、ただただそれだけの毎日。いったい雨の日はどこでお弁当食べてるのかな?、なんて思ってしまったけれど、ああこれは文句ではなく、その様子も見てみたいというだけ。ある日、永作がユースケの店にやってくる。「私たち37よ。結婚しましょう。」と言う永作。黙って頷いたようなユースケ。次の弁当ランチに自分の分を書き込んだ結婚届を持ってきてホイっと永作に渡すユースケ。「俺が出しとこうか。」「いえ、私が出しておきます。」この永作博美の役、あるいは女優本人がとっても魅力的。折り目正しくて、妙に事務的というかサバサバしていて、几帳面で、愛煙家で、でもとっても女性的魅力を秘めている。嫌煙・禁煙が流行の御時世には言いにくいけれど、これがいい。何か自分の世界とか、生き方とか、哲学をちゃんと持っている感じが良く表現されている。もうこの2人は何年こうして同棲してるんでしょうね。子供はいないけれど、そしてこれまで籍は入れてないけれど、なんかある意味で日本人の持つ、ひとつの理想的結婚像、結婚観、カップル像、あるいは是非とか好悪ではなく現実的な日本人の夫婦像・カップル像を見せられているようで、何かしみじみとした味わいを感じると同時に、疑問のようなものも感じた。疑問というのはユースケ・サンタマリアの作品に対してではなく、そこに描かれたカップルのあり方。どこまで理屈なのか、感性なのか、ユースケ・サンタマリアは実にその辺を上手く捉えてますね。それと結婚のタイミングを失っていた2人が、永作の要求で結婚するという流れも上手い。結婚届を出して籍を入れた後の2人の日常は変わるんでしょうか。弁当夫婦であることを続けるんでしょうか。だとしたら正式に結婚する(籍を入れる)ということにどんな意味があるんでしょう?。この2人の場合は、恐らく親から、社会から、特別結婚を要求されているという、そういう重圧のようなものは感じられない。つまりは結婚願望、あるいは結婚による安心感なんでしょうか。あるいは、正式に結婚したら子供を作るという意志や希望があるのだろうか。でも皮肉なことに、この2人を見てると、子供が独立して2人だけになってしまった老夫婦のようにも見えてしまう。子供を作るとしたらセックスが不可欠なわけだけれど、いったいこの2人の夜の生活はどうなっているのだろう?。その辺は全く見えてこない。ユースケ・サンタマリア監督の描き方としては、女が弁当を作り、それを毎日一緒に食べるというのが、この夫婦、あるいは家庭の日常で、それのみによって繋がっている感じだ。でも演じているのが永作博美であるせいか、この女(妻)には内に秘めたかなりの女の色気が感じられる。いずれにせよここで重要な一点は、このカップルは女が弁当を作り、それを男が食べる。たぶんこの整然と整理されたマンションの室内も、たぶん女が掃除なんかして綺麗に保っているのだろう。弁当と言っても非常に凝ったもので、しかも彼女の性格からして鍋等の洗い物も済ませてから出勤しているだろうから、身支度なんかも入れれば優に毎朝3時間は早起きしているはずだ。男の仕事は移動コーヒー店(自動車を使った)で、自営の飲食店経営と言えなくもないけれど、非常にお気楽で趣味性の強いものではないだろうか。夫がサラリーマンで主たる収入を稼いでいるというスタイルではないけれど、しかし&だから、これってある種、男にとって非常に都合の良い、理想的な関係(女性像)なのかも知れない。婚姻届の件にしてもそうだけれど、イニシアティブを取ってくれるのは女の方。男はそれに気楽に乗っているだけでいい。男が女を引っ張っていくというのは、男女両方にとって理想のように感じる価値観もあるけれど、実は本性的には男はグータラで、より現実的、実際的なのは女の方。そんな本質を描いているようでもある。まああくまでも単なる架空の2人のお話だから、細部をどうのこうの憶測しても始まらないのだけれど、不自然なようでいて、かなりリアリティーのあるカップル関係に感じられる。でもこれをもしフランス人の世界として描いたとしたら、不自然なようで、実際にも不自然な物語になってしまいそうな気がする。あるいは非常に特異なカップルの物語になりそうだ。会話もなければ、日本には習慣はないものの、妻が出勤するときや、昼に公園で会った時に、ビーズbise(=軽いキッス、あのチュッ・チュッてやつ)もない。ビーズは親しい者同志、老若男女の間でごく普通にされる挨拶の一形式だけれど、恋人間や夫婦間の場合、日常惰性でやっている場合もあるだろうが、一方では愛の確認作業という意味をも持つ。つまりは背後にある夜の生活を想像させる。と言うか、夜の生活をも含んだカップルの関係が前提となる。夫婦間をも含めて日本人は最もセックスをしない国民だと言われるけれど、そしてセックスレス夫婦というのも少なからず存在するけれど、日本人に性の欲求がないのではなく、一方では合法・非合法、詐欺をも含めたセックス産業は隆盛を極めている。これは男だけのことではなく、最近は実際に女性の男買いも存在する。何かそのあたりの実態に不可思議な日本人を感じる。ちょっと寂しい感じもする。セックスをも含めた、あるいはそれが根幹にある男女の愛、まあそれも一種の幻想なのかも知れないけれど、そういう愛の欠如を感じてしまう。極端な例えをするなら、夫婦が肉体的欲求をそれぞれ愛のないセックスfriendで満たし、でも夫婦は何事もない温室的和気あいあいの家庭生活を送る。そして更には、どちらも別のセックス相手は持たず、セックスは夫婦間だけだけれど、そのセックスの本質はsexフレンドとのものと同じような関係。言い換えればsex friendと配偶者が同じ人であるというだけで、別の人であるのと同じ。カップルのそういう情と肉の解離のようなものを強く考えさせられた。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.10.03
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R246 STORY中村獅堂(Shido Nakamura)須藤元気(Genki Sudo)VERBAL(m-flo)ILMARI(LIP SLYME)浅野忠信(Tadanobu Asano)ユースケ・サンタマリア(Yusuke Santamaria)147min(日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)正直自分の見るような映画ではないと思ったのですが、短編・中編やオムニバスは好きだし、国道246号線というのに惹かれて見にいきました。沖縄に来る前に住んでいたのは国道1号線沿いの横浜の戸塚で、R246とは離れていたのですが、仕事の関係などもあって、車で走ることが非常に多かった(週に4度とか5度とか)。それは主に都心部分から厚木ぐらいまでなのだけれど、静岡方面は御殿場とか富士山の方へのドライブ等で使うことも多く、全線122.7kmを通して走ったことはありませんが、通ったことのない部分はないと思います。そんなこともあってちょっと見てみたくなりました。6人の監督について、解説に「若者を中心にリスペクトされる6人のクリエーターの競作」とかありますが、ボクは若者ではないらしく(笑)、ほとんどが名前を知っているかいないかの人たちです。第1編『JIRO ~伝説のYO・NA・O・SHI』監督:中村獅堂出演:中村獅堂、的場浩司、中村ゆり、大杉蓮21世紀現代へのタイムスリップから江戸時代に戻った清水次郎長が、21世紀の若者は246を小洒落た道路だと思っていて、義理も人情も仁義もロックンロールもない世の中になっていると、森の石松を世直しのため21世紀の東京に送るというはちゃめちゃストーリーだが、内容はほぼゼロ。中村ゆりはちょっと素敵だった。第2編『ありふれた帰省』監督:須藤元気出演:須藤元気、津田寛治、眞島秀和、林雄大交差点で交通量の調査のバイトをする男子4名。その一人の井上は、調査地点辺りではぐれた恋人を探すためにこのバイトをやっていると言う。恋人は見つからないが、彼はやがて故郷(実は宇宙)に帰らなければならないことになる。前の第1編がテレビの深夜バラエティー番組のギャグドラマの類なら、こちらはよりドラマチックで見ていてそこそこ面白いが、その雰囲気はテレビ臭が強い。最初と最後の方の、渋谷の横断舗道で突然恋人と出会って黙って強く抱き合う映像は秀逸。第3編『DEAD NOISE』監督:VERBAL(m-flo)出演:CRAZY-A、高木完、MURO、DJ KAORI、宇多丸(RHYMESTER)がらっと変わって日本のヒップホップの盛衰に関するドキュメンタリー。ほとんど関心も知識もない世界。関係者へのインタビューを編集した単純な作りだが、やや冗漫な構成(同じような言葉の繰り返し)のような気がした。これが何分あったかわからないが、先日見た52分の『コミュニストはSEXがお上手?』の半分の長さだとして、内容は四分の一か、八分の一以下。深夜枠の冗漫なテレビ番組のよう。ただ海外文化を流行として取り入れる日本社会や日本人のあり方は他分野と同じ構造で、その点では関心のないヒップホップのことだけれど、ちょっと面白かった。第4編『CLUB246』監督:ILMARI(LIP SLYME)出演:石田卓也、HARU、SU(RIP SLYME)、WISE([B]APE SOUNDS)、ILMARI(LIP SLYME)レコード会社の小さな個室で毎日サンプルCDの発送作業のバイトをする、内気な青年ケイスケは、社内でアイドル的存在の美人で、クラブ好きのサクラが気になっていた。ケイスケはふとしたキッカケでクラブ初体験をすることになり、サクラとの関係も・・・。やはりあまりにテレビ的。仕事も遊びも容姿もかっこいいサクラと、仕事も性格もメガネも冴えないケイスケ。内気なケイスケがただサクラに憧れるだけでいたのはわかるけれど、もともと両者を別世界の、別階級の人間でもあるかのように発想する日本的社会は嫌いだ。第5編『224466』監督:浅野忠信出演:浅野忠信、加瀬亮、大森絢音、豊原功補、新井浩文、永瀬正敏ロックンロール星からやってきて、ドラムセットをなくして衰弱した宇宙人を、謎の老人と少女が助けるという、かなり強烈な雰囲気を持つファンタジー。でもその雰囲気はすべて何処かからの借り物。というわけで、ここまでどれもダメ、ダメ、ダメ。軽薄なテレビの世界に毒され過ぎている。以前レビューを書いた『カンヌ SHORT 5』に収められた短編はどれも独自の個性があった。なかでも『プレイ・ウィズ・ミー』というオランダの女性監督エステル・ロッソの12分の作品など、名だたる名監督が名を列ねた『10ミニッツ・オールダー』のいくつかの作品よりはるかに強い独自の個性があって面白かった。その道でどれだけ有能なクリエーターさんなのかは知らないけれど、これらの作品を見る限りでは、短編映画としては、ほとんどが評価以前の惨澹たる駄作ばかり。そんななかで、きちっと作られた次の第6編は面白かった。第6編『弁当夫婦』監督:ユースケ・サンタマリア出演:ユースケ・サンタマリア、永作博美曰く、「長く同棲生活を続けている男女。2人は結婚を望んでいるが、タイミングを完全に失っている。女は毎日弁当を作り、男と一緒に食べることを日課にしていたが、コミュニケーションは以前よりすくなくなっていく…。」と解説のある作品なのだけれど、色々な意味でも感想や脱線を書きたいので、この作品のみのレビューは、次回、別ページに書きたいと思います。(←明日の日記にアップしました。))監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.10.02
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闇の子供たち 値札のついた命 aka CHILDREN OF THE DARKJunji Sakamoto138min(1 : 1.85、日本語)(桜坂劇場 ホールBにて)とても暗い内容だけれど良作の映画です。梁石日(ヤン・ソギル)の原作、監督自身による適切で巧みな脚色、想像される色々な困難の下で映画化した阪本順治監督、出演した役者陣や現地の子役たち、そうしたものに敬意を表したいと思います。良いテーマの、良い作品だと思います。だから多くの方々に観ていただきたいと思います。この映画で直接テーマとされているのは、タイにおける幼児売春と、移植用の臓器売買のために殺されるタイの健康な子供たちです。一説では、この物語で描かれているように、日本人がタイで移植手術を受けるといった例は、公式にはないと言います。しかしそのような細かい事実関係を論じることはしたくありません。ことはグローバリズムとか、世界経済の構造の下、富める国が貧しい国を搾取し、搾取される国内にはそれで金を儲ける同国人が存在し、またそれらの人々と癒着する体制側の人々(警察など)が存在し、結果そのしわ寄せはタイの最下層の貧困者と、弱者であるその子供たちの生命に及んでいるということです。映画は、貧困の親に売られたヤイルーンとセンラーの姉妹の物語を一つの軸とし、タイでの臓器売買を取材する日本の新聞社の駐在員・南部(江口洋介)、社会福祉を学んでここタイのNGO社会福祉センター「愛あふれる家」にやってきた音羽(宮崎あおい)、南部に雇われた若いフリーカメラマン・与田(妻夫木聡)、心臓移植を早急にしなければ死んでしまう子供の両親(佐藤浩市と鈴木砂羽)、そんな人々の物語だ。そこにマフィア親分の片腕チット、NGOの女性所長ナハボーン、音羽らに助けられる少女アランヤーなどが絡められて描かれる。(ややネタバレにはなるけれど)、ヤイルーンとセンラーの姉妹は、映画の最後で美しく描かれるように、かつては故郷の川で仲良く楽しそうに遊ぶ2人だった。姉のヤイルーンはマフィアに売られ、売春宿で西洋人や日本人の客の相手をさせられていたが、エイズの症状が出て使い物にならなくなった彼女はゴミ袋に入れられて棄てられる。妹センラーに会いたい一心、なんとか自力で故郷の家に戻ったものの、家族も成す術もなく、やがて彼女は死ぬ。一方同じく売られた妹センラーは、日本の商社マン夫婦の子供に生きながら心臓を提供をすべく、病院に連れて行かれる。この物語のもう一つの軸はその実態を追うバンコク駐在記者・南部の物語なのだけれど、その他の人物は非常に類型的、典型的機能を持った単純な役だ。社会福祉センター「愛あふれる家」にやってくる音羽は、善意ある人物だろうけれど、日本の甘い社会の中で絵に描いたような福祉を考えているだけで、過酷なタイの現実を知らない。実際にタイで活動するうちに現実を知っていくが・・、というお決まりの設定で、でもここに一つの希望が描かれているのかも知れない。フリーカメラマン・与田はもっと無関心で無知な若者なのだけれど、南部と仕事をしていくうちに現実を知っていく。肝心なところでカメラがブレてしまうというセリフがあったが、現実に向き合って、直視するということの欠如を象徴しているかも知れない。日本の商社マン夫婦は、もちろん富める側として自己本意に搾取する人々(社会)の象徴だ。病気の息子の生命を助けるためなら、タイの子供の命を奪っても良いのだ。仮に事実を知っていたとしても、それは感じないように、見ないようにしている。上に書いたようにこういう移植手術の実例は公式にはないとする説もあるけれど、我々がタイ産の養殖エビを食べているいることだって、実は同じ構造にある。最初に書いたようにボクはこの映画を作った人々に敬意を表したいと思う。とても価値のある作品だと思う。ただ、どんなに真摯な内容の作品であっても、その映画としての作りに対する評価は別だ。その意味では、ボクはこの作品に対して2つの不満を感じる。その1つ目は、実はなかなか説明が難しい。ボクの文筆力で誤解のないように表現できるか自信がないが、とりあえず書くしかない。先日『私が棄てた女』にいただたコメントへのレスでボクは、最近の真面目な内容の日本映画の真面目さは、作っている人々の真面目さであるよりも、真面目さブランドのような気がすると書いた。言葉を変えれば、憧れとしての真面目さ、「そうあるべき」という真面目さ、そのつもりになっている真面目さ、更に言えば、実感の薄い真面目さ、自己満足の真面目さ、あるいは流行としての真面目さ・・・、そんなような感じがして仕方がないのだ。『私が棄てた女』の浦山監督は1930年の生まれで終戦時には15才。個人的経歴としては出生時に母を亡くし、高3の時父は自殺をしている。『キューポラのある街』の監督でもあるし、『私が棄てた女』の中には60年安保の理想と挫折が主人公の根底にある。1923年生まれの原作者・遠藤周作は、自身の病弱やキリスト教思想など、実存的に深い生を送っている。別の例で言えば1932年生まれの大島渚は50年代に京大天皇事件や荒神橋事件などに関わり学生運動を盛んにした。もちろんそうしたことが身になっている人々となっていない人々はいるけれど、激動の時代を生き、戦後の貧困や政治的混乱期を生きた思想・哲学の、実感的体験を持っている。もちろん自分もその後の世代ではあるし、観客のほとんどもそうなのだけれど、たとえばこの阪本監督は1958年の生まれ。8才の時に東京オリンピックで、70年頃の高度経済成長とその社会的歪みの時代にはまだ子供だし、パリ協定が1974年15才のときだから ベ平連(なんて言ってもどれだけの人が知っているのか)のデモに参加する年代でもない。1978年20才が成田空港開港だから、やっと三里塚闘争に参加したかしないか。政治活動が偉いと言うのではなく、どれだけ物事を真剣に考えて生き、実存的に生きてきたかということだ。ある程度以上物心がついた年齢には社会や生活は既に豊かだった。そういう意味で、例えて言うなら映画の中の音羽恵子や与田博明の意識に近いだろうし、生活の基盤はタイの子供の生命を直接犠牲にはしないけれど、商社マン梶川克仁と同じ土台の上の生活を送っている。よ要は、遠藤周作的思想から言うならば、真の倫理観の欠如なのかも知れない。何度も言うけれどこれは監督批判ではなく、自分も同類なのだけれど、そして出演の役者たちも同じだ。そういうことなのだろうか、どこか映画自体の全体像、あるいはその主張にインパクトが低いのだ。その意味では現在の自分を含む問題としているタイの役者たちの演技には少し温度差が感じられた。そしてその不満を象徴するのが桑田佳祐の曲だ。その曲の出来を批判しているわけではない。どんなに適切なる歌詞の、立派な曲であっても、この桑田の曲、あるいは彼の歌声は、決してこの映画が持つべき質には不似合いで、おちゃらけている。この曲に象徴されるような実質問題意識の低さで監督は満足なのだろうか?!。色々な商業的条件・制約の結果かも知れないが、ボクが監督ならこの曲の使用を強制された時点で、自分の名前のクレジットの抹消を要求する。不満の2つ目は、映画の作り方の問題。ここでも言うけれど、この映画に138分は長過ぎる。105分ぐらいが適当ではないだろうか。長過ぎるというのは、ボクのレビューと同じで、ダラダラ文だということだ。作品にあるべき1つの焦点がない。ネタバレになるので主人公である南部浩行記者の物語には触れなかった。映画的に見ると、書いたように他の人物たちは非常に類型的だ。それに比して、この南部だけがドラマを内に秘めている。もちろん最後に明かされる真実への伏線は映画の途中でも何回か出てはくるけれど、それはこの南部と言う人物の中に存在する、彼の行動を突き動かしている自責や慚愧の念を感じさせるものではない。単に最後でだけ一種のどんでん返しがあるのみなのだ。これをもっと早い時点で明かしてしまって彼の内心の葛藤(あるいは矛盾)を表に描いてしまうか、その葛藤が段々明らかになっていくようにしていたら、もっとドラマとして上質になったのではないだろうか。扱っている内容は全く別物だけれど、コスタ・ガヴラスの『Z氏』等の作品作りの上手さを念頭にしてこう感じる。劇映画であるべきであって、内容は真面目で真摯であるけれど、道徳の授業の教材映画ではダメなのだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.10.01
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愛の渇き aka LONGING FOR LOVE and aka THE THIRST FOR LOVEKurahara Koreyoshi白黒&パートカラー99min(1 : 2.35、日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)前回の1969年、浦山桐郎の『私が棄てた女』ともう1本、桜坂劇場9月の「浅丘ルリ子特集」で見た作品。こちらは1966年だから3年ほど前のルリ子さんということになるが、役として、演技としての彼女は、『私が棄てた女』の方が良かった。それでもこの映画は、相当昔にテレビで見て、かなりの衝撃を受けて印象に残っている作品だった。なにせそれは中学生か高校生の頃だから、再び見たいと思い、そのうちDVDなどで見ようと考えていたので、まさかの劇場で見られたは嬉しかった。今回実際に見たら、テレビでは見られなかったシーンがいくつもあった。99分の作品だけれど、たぶんCMの多い深夜枠の放送で見たので、カットが激しかったのだろう。今回大人になって、そして良くも悪くもかなり映画ずれした目でみたら不満がないでもなかったけれど、それでもかなり堪能した。良く出来た映画だ。DVDが新潮文庫連動DVDとして出ているのは大歓迎だ。原作は三島由紀夫。前作の遠藤周作といい、どちらも原作がしっかりしているのが良いのだろう。ちなみに音楽はどちらも黛敏郎で、昨今の桑田佳祐など軽薄で安っぽいものでないのがいい。邦画ばかりの傾向ではないが、せっかく良かった映画のエンディングに内容に不似合いな二流曲を流すのは止めて欲しい。三島由紀夫の作品の主要なテーマに、禁忌と情熱というのがある。ロミオとジュリエットは、キャピュレット家とモンタギュー家という対立する一族の2人で、許されない恋だからこそ愛の情熱が燃えあがった。もっと古くはトリスタンとイズーの物語がある。トリスタンにとってイズーは自分の仕える主君マルケ王の妃だ。三島の『春の雪』の清顕は、聡子の天皇家との縁談が決まり、天皇の勅許も下って手の届かないものになったとき、情熱に火がついた。『憂國』の武山中尉と麗子は夫婦だが、二・二六事件の青年将校たちの決起から外されたために、忠ならんとすれば友を殺し、友を助けんとすれば逆臣となるという状況で、切腹するしかないという状況の下での二人を描く。三島は自ら主演・監督して映画化したが、そこで三島が使った音楽はワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』だ。一方逆に、親など周囲から祝福されて禁忌のないゆえに情熱の燃え上がらない若い二人を描いたのが『永すぎた春』だった。そして三島由紀夫を解くもう一つのキーワードは、もちろんナルシシズムだ。夫・良輔が病死した後も、悦子(浅丘ルリ子)は夫の父の家に暮らしていた。義父・弥吉(中村伸郎)は引退した実業家の富豪で、今は大阪近郊に広大な農地を持ち、広い屋敷には、大学教授の長男・謙輔夫妻も暮らしていた。いつの頃からか悦子は義父・弥吉に身を任せるようになっていたが、それは弥吉にとっても悦子にとっても淀んだ活気ののない死んだような日々の倦怠のなせる技だったのだろう。愛などというものからではなかった。悦子は生前の夫の浮気に苦しめられたのだが、それも彼女が夫を愛していたからではない。名家の嫁で、才色兼備、非のうちどころのないような悦子の姿は、彼女の着た鎧であり、彼女のナルシシズムの産物だ。ナルシストは自分を愛するのであって他者を愛しはしない。出来ない。「愛の渇き」というタイトルは、愛されることに渇いているという以前の、愛することの出来ない渇きではないだろうか。夫の浮気も、表面上は貞淑であっても決して妻が自分を愛していなかったからこそなのだろう。そんな生の活気を欠き、情熱を欠いた日々の倦怠の中で、ある日悦子はまだ二十歳前の若い下働きの園丁・三郎(石立鉄男)に目をつける。ここで悦子を動かすのは、三郎に愛されたいという、ナルシシズムから出発した思いだ。しかしやがて彼女は三郎が女中の美代と関係があることに気付き、嫉妬という情熱に発展する。(以下ややネタバレ含む)。そんな彼女の頑な行動力は凄まじい。美代が三郎の子を妊娠していることがわかると、家長で独裁者たる弥吉は、責任を取って結婚するなら許すという。三郎が郷里の親元に相談に帰省して不在の3日間に、悦子は美代に子供を下ろさせようとするが、美代は抵抗しなかった。そして暇を出された美代は郷里に帰ってしまう。表面は従順に従う美代だけれど、そんな仕打ちをする悦子を恨んだ。悦子にそうさせているのが嫉妬からであって、三郎への純粋な愛からではないことに美代は気付いていたのだろう。(以下ネタバレ)やがて戻ってきた三郎は「まだ若すぎるし、結婚なんてとんでもない」と親に叱られたと言ったが、本当に親元に行ったのかどうかは怪しい。三郎にとって、ただそこにいたから関係を持ち、妊娠をさせてしまっただけで、美代を愛しているわけではなかったのだ。愛するとか愛されるという面倒な感情を三郎は持たなかった。行き当たりばったりに生きるだけの三郎だった。自分のここでの生活がそれで約束されるなら、弥吉に従って美代と結婚したかも知れないが、もとから結婚したいわけではない。だから美代が中絶をして国元に帰ってしまったのは、好都合であったかも知れない。実業活動に復帰すべく、弥吉は悦子を連れて東京に出ることにした。そんな最後の晩、悦子は皆の寝静まった深夜に三郎を庭に呼び出した。悦子の妖艶な女の魅力に惹かれてもいた彼だったが、自分が悦子に求められていることをはっきりと知って、三郎は悦子を貪り襲った。しかし悦子は叫び声をあげる。それを聞き付けて弥吉は鍬を手に駆け付けた。何もしない弥吉から鍬を奪いとると、悦子はそれを三郎に振り下ろした。吹き出す白黒画像の黒い血。正当防衛を主張すれば良いと言う弥吉だったが、温室の地面に穴を掘って死体を埋め、彼女は自らの始末は自らでつけた。嫉妬の情念でここまできた悦子だったが、三郎が結局彼女を愛しは、愛し続けはしないことに彼女は気付いていた。だから三郎が彼女の方を向いたときに、彼を抹殺するしかない。それがナルシストたる悦子の自己愛保存の末路なのだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.09.29
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私が棄てた女 aka THE GIRL I ABANDONEDKirio Urayama白黒&パートカラー116min(1 : 2.35、日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)桜坂劇場9月の「日本の名画特選・麗しき浅丘ルリ子」特集で、今回『銀座の恋の物語』『私が棄てた女』『愛の渇き』の3本がとりあげられた。それぞれ1962年、1969年、1966年の日活作品。子供の頃テレビでよく見た浅丘ルリ子だけれど、子供だったので映画は見てません。『銀恋』は名作らしいけれど、ボクは裕次郎が苦手なのでまだ見ていなかった。今回も時間の都合で見る機会を逸してしまいました。『愛の渇き』はかつてテレビで見たことがあって、再見したいとずっと気になっていた作品。でまずはじめて見る『私が棄てた女』。原作は遠藤周作の小説『わたしが・棄てた・女』。監督は『キューポラのある街』の浦山桐郎。「私」というのはもちろん主人公の男・吉岡(河原崎長一郎)だけれど、その吉岡が棄てた女、つまりタイトルロールは、浅丘ルリ子演ずる女・三浦マリ子ではなく、小林トシ江が演じた女・森田ミツだ。ちなみに日活はより遠藤周作の原作に近い形で、1997年に『愛する』(熊井啓監督)としてリメイクしている。またヴァンサン・ペレーズの『天使の肌』はノンクレジットの遠藤の小説『わたしが・棄てた・女』の映画化とも言われるし、場合によってはこの1969年の浦山作品のリメイクかも知れない。この浦山作品も、ペレーズ作品も、原作にあるハンセン氏病及びその療養施設というのを切り捨てているが、どちらも森田ミツやアンジェルが後半カトリックの施設での仕事に身を捧げるという設定で、原作者・遠藤の世界を残している。さてその遠藤周作の世界。捨てられる女の名前、ペレーズ作品ではアンジェルで、天使を意味するけれど、森田ミツというのは映画内だけではなく、遠藤の原作のものだ。「ミツ」は逆に読めば「ツミ」=「罪」となる。森田ミツというのは人々の罪、ここで端的には男性主人公・吉岡の罪を背負って死ぬ聖女、ないしはキリストになぞらえられた存在と言えるだろう。だからってもちろんこの映画は抹香臭い宗教映画などではない。ごく普通の人間ドラマであると、誤解のないように断っておこう。吉岡は、今は自動車販売会社(?)に勤め、会社経営一族の娘と恋愛関係にあり、結婚を控えていた。時代は映画の作られた60年代末と考えればよいだろうか。吉岡はかつて田舎から出てきた貧乏学生で、60年安保を理想主義で戦ったが、結局その甲斐もなく選挙では保守勢力が勝利し、今は猛烈サラリーマン。社長の姪か何かのマリ子(浅丘ルリ子)と婚約し、上昇志向のサラリーマンとしては将来は明るかった。しかし彼の中では60年安保への敗北感が燻っていた。マリ子が吉岡に惹かれるのもそんな彼だからであり、彼女は有産階級出身ながら富と虚栄に安住する親族たちの世界を嫌っていたのだ。彼女は母親に「何だかわからないけれど、彼には何か響くものがあるのよ」とか言っている。監督は『キューポラのある街』の浦山桐郎だけれど、ここでは現実社会の中で信念を貫いて生きることの難しさが描かれているとも言えるだろう。そう言えばこの作品には、小沢昭一も出ているし、その他思想的に左翼系の劇団俳優が多々出演している。余談ながらこの頃の日本映画の良いところは、昨今の是枝裕和作品などと違い、現実肯定ではなく理想実現への模索がテーマになっていることだ。そんな一人物であるマリ子を演じた浅丘ルリ子が、この作品の大きな魅力だ。そんな吉岡はかつて学生時代、ひょんなことから東北の貧しい家から東京に出て働いていた女工と関係を持った。それがタイトルにある棄てられた女・森田ミツ。こんなことを書いたら演じた小林トシ江に失礼かも知れないが、田舎臭く、容姿もいわゆるブスオンナだ。この役、ペレーズ作品ではモルガン・モレ、1997年の日活リメイク『愛する』では酒井美紀が演じていて、どちらも愛らしかったり、美しい。しかしここでは都会的に洗練され、才色兼備のマリ子・浅丘ルリ子との究極的対比が必要だったのだろう。かつては60年安保を一緒に戦った貧乏学生だった友人・長島(江守徹)はより現実に転向するが、そんな長島にも促され、性的欲望の対象でしかなかったミツを吉岡は棄てた。その後ミツは、飲み屋、バー、そして売春斡旋など怪しい商売をするようになっていたかつての親友・しま子(夏海千佳子)の世話になり、しま子のヤクザの情夫との部屋に転がり込んでいた。そんな表面的には 身を持ち崩したミツだけれど、心は純であり、何の要求もすることもなく終生吉岡を愛し続ける。(以下ややネタバレ含む)吉岡は社長一族のブルジョワな晩餐で酔っぱらって批判的な悪態をついたりするが、マリ子とめでたく結婚して新居を構える。結婚前に一度偶然吉岡はミツと再会して彼女のことが心のどこかに引っ掛かっていたが、しま子の企みで2人は会わされる。ミツは「あんたにぶらさがって幸せになろうと思ったけれど、あんたは逃げた。」と言い、吉岡は「人にぶら下がれたら誰だって逃げるさ。」と答え、決定的に別れようとするが、2人は再び愛し合ってしまう。その様子をしま子の情夫は撮影している。ミツはしま子と情夫の部屋を出て行く。彼女はあるキッカケでカトリック的慈善の老人ホームで働くようになっていたが、しま子はミツが残して行った吉岡からの手紙をマリ子に送りつけた。マリ子はミツのゆすりだと思い、老人ホームにミツを訪ねる。そしてわけの解らぬミツに手切れ金を叩きつけて帰る。ちょうどその日は老人慰問会の日で、ミツはステージに立って故郷の民謡を歌う。突然カラーとなり、故郷の祭・相馬野馬追、色とりどりの騎馬武者の映像だ。現実ではなく夢や記憶の世界は活き活きと色があるけれど、現実の悲惨な毎日には色がないということなのだろうか。(以下ネタバレ)ミツはしま子の部屋を訪れる。盗み撮ったの写真を見せられ、それを奪ってストーブに投げ込もうとするミツ。ハサミを手にヤクザの情夫に刃向かうが、ハサミを奪われ、逆に窓辺に追いつめられてしまう。ミツはそのまま窓から外に落ちて死んでしまう。帰宅してマリ子に問い詰められ吉岡が語るのがこの映画のテーマかも知れない。ミツは純粋で、自分を棄てた吉岡をも優しさで受け止め、非難することもなく愛し続けた。善意を持ちながらも弱さゆえに罪を犯す吉岡。その罪を自分の身に引き受けたのがミツだ。だから「ミツは俺」であり、「ミツはマリ子」なのだ。マリ子は吉岡をひっぱたいて出ていく。このシーンでの浅丘の毅然とした演技がいい。そんな吉岡は悪夢か幻想か妄想のようなものを見る。とてもちゃちな映像だけれど、カットを要求する日活首脳部に対して浦山監督が頑なに従おうとしなかったシーンだ。街を走り回る、逃げ回る吉岡。そこには人々の死骸が転がっている。ヘルメットをかぶった黒ずくめの無気味な軍隊のようなものが吉岡に向ってくる。逃げる吉岡だが、やがて閉ざされた塀に捉えられ、地の底に落ちていく。現実、この世界を牛耳り、動かしている権力、体制。それに刃向かって生きて行くことはできない。人の持つ弱さゆえに、誘惑に抗することが出来ずに負けてしまう。最後の場面。マリ子は吉岡と表面上は和解したのかまた一緒に暮らしている。たぶんマリ子もミツの何たるかを理解していた。権力を持つ者は弱いからこそ力を持とうとする。それに屈して欺瞞の中に生きる者も弱さゆえだ。その弱さゆえの罪をひとり、愛、あるいは優しさで背負っって死んでいったのがミツ(=キリスト)なのだ。マリ子は妊娠していた。こうしてまた弱き、罪深き存在である人間が生まれようとしている。しかしそれは希望でもある。映画は人間の弱さと罪の肯定であるかのようだけれど、そうではなく真っ当に、真直ぐ生きることを志向している。約40年前の作品だけれど、昨今の日本映画と比べて、骨のある名作で、テーマは今日的にもいささかも古くなっていない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.09.27
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歩いても 歩いても aka EVEN IF YOU WALK AND WALK and aka STILL WALKINGHirokazu KoreEda114min(1 : 1.85、日本語)(桜坂劇場 ホールAにて)桜坂劇場、今回は是枝監督のこの新作『歩いても 歩いても』が本命で、関連作品として『ワンダフルライフ』と『誰も知らない』を同時期に取り上げていた。『誰も知らない』は巣鴨子供置き去り事件を題材とし、事件の事実をそのまま描くのではなく、人々を善意の側にシフトした翻案が良かった。それで期待した新作と、まだ見ていなかった『ワンダフルライフ』を今回見たわけだけれど、『歩いても 歩いても』の予告編を見て感じた悪い予感がドンピシャ的中してしまった。巷の人気も評価も高い作品を批判するのは、しかも酷評するのは勇気もいるし気がひけるけれど、この作品は社会にとって「百害あって一利なし」とは言わないが、「99害あって利は1か」とでも言いたい。その「1の利」とはこの作品を批判的に観る、反面教師的価値だ。表面に描かれた家族関係や、その喜怒哀楽に目を奪われずに、あるいは我々がごく普通に感じている家族関係への類似を見て安心するのではなく、その根底に横たわる問題をしっかりと考えることが必要だ。『ワンダフルライフ』のレビューに男女のことを書いたけれど、この監督の思想は、実際に存在する問題の本質の改善への思いではなく、ごりごりに超保守的な現実の肯定なのだ。ものごとの根底に存在する問題点には触れずに、表面の問題だけを云々してみても実りは乏しい。あるいはむしろそういうのは害悪であるかも知れない。8月の終わり頃か。老齢で引退した元開業医の父(原田芳雄)と母(樹木希林)の家に、次男(阿部寛)と子連れ再婚の妻(夏川結衣)、長女(YOU)一家が集まってくる。今日は15年前に死んだ長男の命日なのだ。このホームドラマ、日常的会話風景の描写等から、この横山家一族の人間関係を浮き彫りにしていく。その家族の描写はかなりリアリティーがあり、観る者の中には自分の家族との相似性を見ている方も多いようだけれど、ボクの目から見ると、やはり不自然と思える細部もあり、ドキュメンタリー作家の是枝監督ではあっても、破綻した部分、あるいは意図的な作為が強いと感じられる部分もある。「映画的に」やや突飛、特別、不自然な設定や描写からリアリティーある人間を描こうという映画はたくさんある。簡単な例を挙げれば、SF等未来世界を舞台として描かれた人間性とかだ。しかしここではそういう特異性を排して、ただただ「実際にありそうな」家族をそのまま描く。こういうあり方は、SFとか、あるいは自分とは直接何の関係もない、たとえば「ヤクザ」の世界を使った映画と違い、観る人に無反省に現実として感じさせるから、思想的すり込みの効果には危険性も孕んでいる。この映画で浮き彫りにされてくるのは各人物の、本音ではあるかも知れないけれど非常に卑小な人間的性格であり、身近な人々に対する奢り、甘え、支配、卑屈・・・等々だ。例えば初婚の息子(次男)が子連れの再婚女性と結婚したこと。それが母は心の本音として何処かで気にいらない。潜在的に批判の鉾先はその嫁に向いており、息子に対しては「何もそんな女と結婚しなくても」という不満がある。その心情を理解できない自分ではないけれど、それは間違っているものとして各自が、ここでは母が自分の中で消化しなければならないことだと、ボクは考える。しかし映画の作りは、そういう心情を肯定し、許してしまっている。確かに映画の中では次男やその妻の心情として、そういう母や父に抵抗する、あるいは批判する部分も描かれてはいる。しかしそういう反感を子供が持つこともさもよくあることとして描かれ、映画全体としては、そのどちらのあり方をも肯定してしまう。それは映画の最後の部分、翌日去っていく次男のセリフにも表われているし、3年後に両親が死んでから数年たった後日談の扱いにも感じられる。上に書いたように、非常にありそうな家族関係として描かれ、観る人々に自分の家族も同じだ、と感じさせる。監督にどういう意図があるにせよ、ないにせよ、結果として、そういう風に観ている観客の感想をたくさん目にする。そしてそこで肯定される、つまり免罪符が与えられるのは非建設的現実肯定であり、より良くあろうという意志ではない。ちょっと汚い用語を使わせていただいて、実にム○ツ○作品だ。こういう映画を観て建設的に家族のあり方を考えるなどというのは、きれいごとであって、たいていは、特に時間が経てば、単に安心感を与える効果しかない。だから最初に書いたように、「99害あって利は1」でしかない。是枝監督がこういう作品を作ることに異論はない。表現の自由は大切だから。しかし観る側はもっと批判的であって良いのではないだろうか?!。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.09.25
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ワンダフルライフ aka AFTER LIFEHirokazu KoreEda118min(1 : 1.66、日本語)(桜坂劇場 ホールBにて)まず書いておきます。なかなか良い映画で、楽しませてもらいました。こんなことを冒頭に書くのは、この先批判的なことを書いてしまいそうな予想があるから、非常に充実した2時間を与えてもらったこと、観賞後の印象も見て良かったと思ったこと、そういう点はしっかりと指摘しておこうと思ったのです。ところで1999年のこの作品、その5年前のトルナトーレの『記憶の扉』という映画がヒントになっているような気がして仕方がありません。全然違う映画だけれど、根幹は似通っていると思います。すぐ上に「批判的なことを書いてしまいそう」と書いたのですが、そうボクに批判的ことを感じさせるあり方は、トルナトーレについてボクが持っている批判と良く似ています。もし是枝監督が『記憶の扉』をヒントにしているならば、是枝監督が同じような映画作りのトルナトーレの作品に関心を持ったという意味で、面白いことだと思います。ちなみに是枝作品ではこの『ワンダフルライフ』、トルナトーレでは『記憶の扉』が、それぞれいちばん好きかも知れません。ところで、それではその共通する批判とは何か。映画にはあまりにも色々なものがあって、すべての映画がひとくくりにされている状況は不思議でもあります。映画雑誌なんていうのは、『スイング・ジャーナル』と『音楽の友』と『ロッキン・オン』と『バーン』と『歌の手帳』と・・・、とにかくそういうものすべてを一色他(←これで字いいのかな?)にしたようなもの。クラシックからロック、ポップス、歌謡曲、演歌、民謡、雅楽、小歌、民族音楽等々すべて垣根がないかのごとくです。だからそれぞれの映画作品は、それぞれに固有の作られ方や見方がある。でも是枝作品というのは、いわゆる「作家の映画(le film de l'auteur)」という部類の映画で、多く原作・脚本・監督・編集は監督自らがやり、人間や社会の本性を問題にしたり考察する体のものでしょう。そういう体の映画にボクが期待するのは、求めるのは、扱うテーマに関してのその作家の深い考察なんですね。その考察を映画にしろと言うわけではなく、根本にその考察があって、その上で作品を作って欲しいということです。その考察の結果は、何も革新的である必要はないし、突飛である必要もない。ごくごく常識的な発想でもかまわない。しかし、それが作家の人生や、人間や、哲学や、思想や、生き方や、そういうものに深く根ざした「本人のもの」でなければならない。もちろん本人にとってまだ「?」マーク付きのものであっても。でもトルナトーレも是枝も、そしてソクーロフもそうかも知れないけれど、一般的に、常識的に認められた、あるいはやや革新的でも世の一部では認められたような発想、そういうものを「やや深めた」程度で、しょせんは借り物なんですね。その上に立脚して、上手い映画作りで、それらしく見せている。そのことを知っていて、作為的に作った作品なら、それはそれとして良いんですが、恐らく作家本人も、自分の深い思想だと思い込んでいるのではないかと思う。この一種の「お底の浅さ」が気になる人たちなんです。ダンテの『神曲』なんかに出てくる、キリスト教的死後の世界の一部である辺獄(リンボ)とでも言えばよいのだろうか。死んだ人々がこの古い学校か病院か(?)、洋館風の「この施設」にやってくる。他にも守衛さんとか、最後に出てくる映像作りをする技士さんたちなどもいるが、ここに働くのメインの登場人物は5人。所長・中村健之助(谷啓)、3名の正職員望月隆(ARATA)、川嶋さとる(寺島進)、杉江卓郎(内藤剛志)、それとアシスタントの里中しおり(小田エリカ)。この施設には毎週約20名の死者、死んだばかりの死者が送られてくる。職員はそれぞれ担当する死者に面接し、その死者が人生でいちばん幸せを感じた出来事、そう、もっとも大切な思い出を聞き出し、それを再現フィルムとして映像化し、土曜日にその上映会をして、それを観ながら自分の過去の至福の時を再び味わったとき、死者は昇天していく。天国でその幸福な思いだけを感じながら永遠の時を過ごすことができるというのだ。見ていて予想が簡単に出来てしまったことだから、ややネタバレにはなるけれど書いてしまえば、所長以下職員たちというのは、死んで同じように施設に送られて来ながら、人生の幸福の時を選ぶことが出来ずに、このリンボに留まっている人たちだ。たとえば望月は、若くして大平洋戦争に出征して戦死していて、生きていれば今回彼が面接を担当することになった渡辺という71才の老人とほぼ同い年なのだ。もちろん死んでから年を取ることはないので、望月はここでは20才ぐらいの青年のままだ。アシスタントの しおり の人生は多く語られないが、彼女は18、9才で、正職員ではなくアシスタントをしていることから考えて、まだ死んで日が浅いのだろう。やや余談になるけれども忘れないうちに書いておくと、ここの施設の職員たちは以上の5名。死者は男女半々いるはずなのに、男が80%と女20%。しかも紅一点の しおり はアシスタントで、所長は男性だ。後半に出てくる再現フィルム制作班の人々のおおかたも男性だ。しおりは最後に正職員になり、新しく男性1人がアシスタントにはなる。それが現実日本社会の反映だと言えなくもないが、それでも女性が少な過ぎる男性中心社会だ(この作品は戦前ではなく1999年の作品だ)。いかに脚本・監督の是枝裕和が無反省に男性優位社会に安住しているかが見てとれる。話を戻そう。リンボなどと西洋的なことを言わずに日本的に言うなら、ここの職員たちは、死んだけれど成仏できない人々だ。生活、感情は生きている人のごとくであり、余暇に職員のある者は紅茶の趣味を楽しみ、望月や しおり はそれぞれ読書をし、お風呂にも気持ち善さそうに入っている。もともとが架空に作られた設定だから何でもありなのだけれど、大平洋戦争で死んだ望月は年を取ることのない永遠の青年として今もここにあり、数年前(?)に死んだであろう しおり はその望月に恋しているようでもある。ある日カメラを手に再現フィルムに必要な竹の写真を撮りに行った しおり は街(現世の)に行ってしまい、これやあれやの余計な写真を撮ってきてしまう。生への執着を捨てられないからこそ、天国に昇ることが出来ずにここにいるわけだ。映画の物語性のある要素としては、以上書いてきたことと、あといちばんの中心ストーリーである、渡辺という老人と望月の話なのだけれど、ネタバレになるのでそれはここでは書かないでおく。ドキュメンタリスト出身の是枝監督で、前半の各死者との面接はドキュメンタリータッチだ。題名が示すように人間の生を、そのささやかな幸福に見ようという、生の肯定のような話で、それ自体は非常に美しくも魅力的だ。映画自体は楽しませてもらったけれど、見終わって反芻してみると、何処かどうしても馴染めない何かがモヤモヤと残った。死後この施設に送られてくるのは、生前善人であった人たちだけなのだろうか?。生前悪人であった人は地獄落ちで、ここには送られてはこないのだろうか?。そうだとしたら人を善人と悪人に二分などできるのだろうか?。たとえ善人であったとして、彼らの生に罪はなかったのだろうか?。人間の生を喜怒哀楽に還元してしまって、いちばん大切な思い出に集約してしまって良いのだろうか?。そういうことがこの映画の主旨ではないことは十分に理解しつつも、またこの物語の主旨が死後ではなく生前にあることを理解しつつも、人の生を総括するといった話なのに、そこに罪意識が欠如しているというオメデタさにどうしても抵抗感をもってしまう。影響関係があるにせよないにせよ、トルナトーレの『記憶の扉』が罪意識を中心に据えているのに対して、是枝がおめでたく人生最良の思い出を描いているのが、キリスト教文化のヨーロッパと日本の文化的差異として面白い。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.09.23
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JOHNEN 定の愛Rokuro Mochizuki108min(ビデオ作品?、日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)この映画は、いったい誰に、どういう風に観てもらいたかったのだろう?。杉本彩の演技は光っていたし、モデル役をしていた名前を知らない女優さんもなかなか良かったけれど、それを除けば駄作、監督の一種の自己満足以外の何ものでもないと感じた。フランスの女性監督カトリーヌ・ブレイヤが批判する意味でのポルノに対する批判は、理性的にはボクにもあるけれど、ポルノならポルノであるなら良い。しかし108分間見ていて正直、自分の男の下半身が刺激されることは一度もなかった。たとえば音楽でも、テルミンだとかアフリカの民族楽器等ちょっと変わった機材を使ったり、日本の伝統楽器の音をエフェクターで加工してみたり、あるいはノイズを流してみたり、その気になって偉そうなことをやっているつもりになっている連中と、それをさも有り難げに聴いて自分も解ったつもりになり、偉くなったつもりになっている聴衆という需要と供給の現象がある。もちろん本当に優れたものもあるけれど、大多数はエセ芸術の発信と受信でしかない。それに似ていて、ちょっと前衛的風であったり、寺山修司的であったり、そんな雰囲気はあるけれど、根底に何の哲学もない。いやあるのかも知れないけれど、あまりにも稚拙で幼稚な哲学をもてあそんでいるに過ぎない。もともと満席になることなどほとんどない桜坂劇場。自分の行った日時のせいもあって観客は20名ほどだった。最前列に座る自分だから後ろの客席は見えはしないが、始まって20~30分ぐらいから席を立って出て行く人の気配を感じた。終わってみるとやはり7~8名ほど観客は減っていた。あえて採点するなら杉本等の演技をのぞけば100点満点で10点か15点。役者の演技等を加味して、総合30点といったところだろうか。自分で書く気もおこらないので、ストーリーをチラシから引用しておこう。カメラマンのイシダ(中山一也)は、海岸でヌードモデルの撮影中、金髪の謎の老紳士オオミヤ(内田裕也)に出会い、その妻サダ(杉本彩)の狂おしくも妖しい美しさに心奪われてしまう。「やっと逢えたのね、吉蔵さん・・・」。燃えるような緋色の長襦袢に、したたる漆黒の洗い髪で恨みがましく見つめるサダ。その視線に射すくめられたイシダは、オオミヤに頼まれたサダの撮影すら忘れて、彼女の開いた下肢の間に倒れこんでいく。激しく貪りあうサダとイシダ、二人の愛の情念。それはやがて時空を超え、二二六事件で世間が騒然としている昭和初期の東京へと向う。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.09.09
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PALE FLOWERMasahiro Shinoda白黒96min(1:2.35、日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)1964年3月1日に公開されヒットした作品だけれど、映画の完成はその8ヶ月ぐらい前だったらしい。非合法の賭博の世界をリアルに描いたことで検閲の問題もあったらしいし、映画会社の松竹にもこの作品の是非の迷いがあったのでしょう。つまりは1963年夏頃に撮られたということか。まあいずれにしても日本(日本人)にとって一大イベントだった東京オリンピックを前にした時期であり、高度経済成長が始まろうという頃だ。そんな時代に、生きることの価値や感動を見出せないような人物たちを描いた作品が作られていた。石原の同名の原作短編小説(読んでいない)が書かれたのはもっと前かも知れないけれど、篠田は1963年にこの映画を作ったのだ。でもなんとなく時代のこういう気分、心性ってわからないでもない。そしてそういう気分がいわば当たり前になって、その上で一種享楽的にそれを忘れようとしている状態、それが今日現代かも知れない。その意味では非常に現代性のある映画だ。自分は普段、仁侠映画というのは見ない。だから北野武の映画は避けてしまうことが多い。しかしこの作品は篠田正浩の作品だし、そして何よりも若い頃の加賀まり子が出ているのだから、一も二もなく(休みの日に早起きしなければならなかったが)映画館におもむいた。結果は正解。ヤクザの世界を使ってはいたけれど仁侠映画ではなかったし、若い加賀まり子はやはりとっても魅力的だった。船田組の村木(池部良)は3年前に敵対していた安岡組の男を刺して刑務所に入っていた。出所して東京に戻ってきた村木だけれど、大阪の今井組の関東進出もあって、今では船田組と安岡組は手討ちをしていた。表面的には何も変わっていない世界ではあるけれど、村木は状況に馴染めなかった。で賭博場に行く村木なのだけれど、そこで見知らぬ、誰も素性を知らない若い娘が豪快に賭をしていた。撮影当時加賀はまだ19才だから、そんな年齢の女だ。村木はそんな彼女に興味をひかれる。倒産寸前の古い時計店の2階に病気の父が寝たきりの昔の女(原知佐子)を訪ねると、彼女は今も村木にぞっこんだけれど、抱いてはみるものの賭博場の謎の娘が気になって燃え上がることはない。ある晩屋台のおでん屋で謎の娘と村木は一緒になる。「わたし冴子」と名乗った彼女は村木に、もっと賭金の大きな賭博をしたいと言う。そんな冴子を突き動かしているのは、まあ青春のエネルギーなのだろうけれど、ケタケタと笑う彼女は生の燃焼を感じる強い感覚を得たい。一方「殺しをしたときだけは生の実感があった」と語る村木だ。どちらも生の実感を求めるということで何かが通じ合ったと言える。そんな欲求に貪欲に突き進もうという若い冴子の姿に、燃焼できない状態に停滞にある村木は魅力を感じたのだろう。ヤクザ仲間のつてでそんな賭金の大きな賭博場を紹介すると村木は約束した。ネタバレにならないこの時点でちょっと深読み、裏読みをしてみよう。1960年代米ソ冷戦下で、何も自主的なことの出来ない日本(日本人)の無力感のようなものを象徴して描いたと篠田監督は語っている。そういう枠組でこの映画を見ると、船田組とは日本で、安岡組がアメリカ(及び西側世界)、そして更に今井組はソ連(及び中国)であるとは言えないだろうか。刑務所から出てきてみたら、もともと仲の悪かった安岡組(アメリカ)と村木(日本人)の属する船田組(日本)は仲良くしていた。そして共通の敵は今井組(ソ連)なのだ。戦前と戦後の価値観の一大転換について行けない日本人の象徴が村木かも知れない。船田と安岡の主張するのは暴力団の近代化であり、その象徴と言えるのか、そして戦後の日本の欧米化の象徴でもあろうが、親分2人(宮口精二・東野英治郎)はモナリザの複製の飾られた高級レストランで慣れないナイフとフォークで会食をしている。親分2人は競馬場で双眼鏡を手に観戦しているけれど、レストランの2人といい、この競馬場の2人といい、何か滑稽さを感じさせる。村木は離れた場所にいる姿として望遠レンズで写される。この世界の中ではなく外にいる感じだ。作中の役の年齢が示されないので演じる役者の年齢で考えると、加賀は1943年、池部が1918年の生まれ。終戦時に加賀はまだ誕生日前だから1才。池部は27才。2人が1963年の同じ無力感の中に生きていると言っても、27才で既に戦前の価値観を自分のものとしていた村木に対して、まったく戦前の価値観と無関係に育ったのが冴子だ。また仁侠の世界を使ったのは、我々の通常の社会よりも、その社会への帰属や従属が明確だからだろう。世界の国々の力関係など、ヤクザの抗争と同じだという含みもあるかもしれない。そしてもう一つ感じたのは賭博の宗教性・儀式性だ。最初に引用した写真のように左右対称の賭博場の構図は教会をも思わせるし、声の出し方や、花札を鳴らす音などには様式があり、儀式的なのだ。賭博が生の実感を与えてくれるとするならば、従来の価値観のなくなった人々にとって、賭博(場)とは生に意味を与えてくれる宗教(教会)なのかも知れない。(そろそろ少しネタバレ)村木は弟分・相川(杉浦直樹)の仕切る連込み旅館で催されている賭博に冴子を連れていく。豪快に勝負する冴子だけれど、そこにはそんな彼女を秘かに見つめ、一方村木を監視するような無気味な男・葉(ヨウ)が片隅にいた。船田の親分が客人としている香港人とのハーフで、麻薬中毒の殺し屋だ。何度かこの賭博場に通うある夜、警察の手入れがあった。(場所は連込み宿だから)とっさに村木は冴子を連れて一室に逃げ、ふとんにもぐり込み単なる情事客を装って警察を逃れる。騙されて去っていった警察官。そんな状況を冴子はいつもの調子でケタケタと笑った。ふとんの中の2人はいっときじっと見つめ合うが、村木は冴子を抱こうとはしなかった。結局この世界に自分に居場所はないと感じている村木が、この世界に執着するものを持ちたくなかったのかもしれないし、そんな自分に冴子を巻き込みたくなかったのかも知れない。さっきのメタファーとして言えば自分が過去の日本人であるのに対して、冴子は現在の日本人だ。そんな現在の日本人の将来に対する希望なのかも知れない。ある晩村木は葉に襲われる。葉の投げるナイフからは逃れたが、夜悪夢を見る。葉に麻薬を打たれ、麻薬中毒にされている冴子の夢だ。この映画の制作は1963年。『仮面ペルソナ』や『狼の時刻』はまだ作られていないが、『第七の封印』『野いちご』『鏡の中にある如く』は既に公開されている。この夢のシーン、ソラリゼーションまで使った幻想的な白黒映像なのだけれど、その筆致が実にベルイマンなのだ。手法の引用、パクりとも言えるけれど、時代的な雰囲気を表現するのに有効な表現法だったのかも知れない。(以下ネタバレ)安岡組の者が今井組に殺され、船田親分は子分を集めて今井殺しの刺客を募るけれど適当な志願者はいない。そこで「自分が」と言ったのは村木だった。それは自分の居場所のないこの世界からの(刑務所への)逃避でもあったろうが、冴子への愛でもあった。葉とつきあい、麻薬も始めたらしい冴子に、村木は「賭博よりも、麻薬よりもいいものを見せてやる」と言う。自分が今井を殺すのを見せようというのだ。今井がいる名曲喫茶に冴子を連れて向かうシーンは4~5分の長回しだ。セリフをうろ覚えでやや自信な気の池部良にテストと言って篠田が撮影したのは実は本番だった。そんなちょっとおどおどしたような演技を監督は利用したのだ。この映画は仁侠の世界の映画でありながら、暴力シーンはほとんどない。村木を殺そうとした安岡組の若いチンピラは指を詰めるけれど、そんなシーンや詰めた後の手が写されることもない。そして唯一仁侠映画的この最後の殺人シーン。それも名曲喫茶の洋館的インテリア、音楽はオペラがバックに流れる中、リアリティーではなくいわばオペラチックな演出で描写される。まったくの反仁侠映画と言えるかも知れない。そして2年後刑務所の中庭で散歩の運動をしていて、入所してきた相川と出会う。相川は冴子が薬中にされた挙げ句、葉に殺されたことをを村木に教える。「それで彼女の素性がわかったんです。」と相川が言ったとき、看守が「村木、時間だ。」と言うが、村木はあえて相川に彼女の素性を尋ねようとはしなかった。今回は「池部良特集」ということで『現代人』と2本が上映されたが、50年代、60年代の古い白黒日本映画を、先の小津の『東京物語』ともども、堪能させてもらった。45年前に篠田監督が、希望を含むものとして村木に深い関心・共感・反発・愛情を与えた冴子は、結局殺され、生きていくことはなかった。そのなれの果てが現代の日本であり、冴子と同じように生の実感を強く感じることのできない現代の我々かも知れない。その意味では現代的心性で共感して観られる映画だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.11
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探偵事務所5 Another Storyマクガフィン 劇場版Hayashi Toma58min(ビデオ作品、日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)昨日の日記に書いたような経緯で、昨年首里劇場で見たこの作品を、今回また桜坂劇場で見てきました。探偵事務所5とは: 永瀬正敏主演の「私立探偵濱マイク」シリーズを送り出した映画監督・林海象のライフワーク『探偵事務所5』は「5」を先頭にする三桁の番号を持った探偵たちが活躍するシリーズである。林海象が監督を務めた二部構成の劇場版『私立探偵591 ~楽園~』『私立探偵522 ~失楽園~』と共に、ネットではそのサイドストーリーを配信。宍戸錠、佐野史郎といった名俳優がレギュラーとして出演し、その他、石橋連司、ベンガル、柏原収史、成宮寛貴など、そうそうたる顔ぶれがシリーズで活躍する。またコミック版や、スポンサーとコラボレーションした特別版など、多様なメディアで展開している。(突貫シアターちらしより)。と言うわけで、その探偵事務所5・沖縄支部の探偵は515(藤木勇人)。515というナンバーは1972年5月15日の沖縄返還の日から選ばれたのでしょう。沖縄の本土復帰というのは映画の内容にもかかわっています。人のいい探偵515は依頼者から探偵料取れない仕事をしたりで、借金を抱えていて、探偵事務所・本部には隠れて、運転代行を副業にしている。彼に付きまとっているのが、根は悪くはないのだろうけれど、ちょっとやばいことも含めて、何かと金、金、金を稼ごうとしている久手堅(津波信一)。昨夜も515と久手堅は運転代行でヤクザがらみの仕事して小金を稼いだ。翌朝埠頭で久手堅は515に分け前の10万円を渡すけれど、そのまま「借金の返済分ね」と取り上げてしまう。そんなとき515は臨月に近い大きなお腹の妊婦(洞口依子)を見かける。事務所兼住居に515が戻ると探偵事務所5の川崎の本部から久しぶりの仕事の電話が入る。資料のファクシミリも既に来ていた。依頼は沖縄に来ているらしい女・成子を見つけだすことだったが、それは何と朝埠頭で見かけた妊婦だった。慌てて埠頭に引返した515だったが、女・成子は風景をスケッチしていた。話しかけると成子は見逃してくれと言う。こうして515はたぶん沖縄に関連があるらしい失った幼い頃の記憶を辿る成子につきあうことになる。ちょっと余談かも知れないけれど、題名の「マクガフィン」についてちょっと説明しておきましょうね。マクガフィンの意味なんて知ってる、って方はこの段落を飛ばして下さい。ただこの映画では、結局女・成子が誰にどうして追われているかは最後まで示されないことや、後半で動物用の麻酔銃が出てくるのも「あのマクガフィン」への関連だとだけ言っておきましょう。マクガフィンというのはヒッチコックの映画手法なんですが、アルフレッド・ヒッチコックという人は、映画の中で語られることっていうのは映画の中だけのことであって、細かなリアリティーなどにことさら重きを置いていなかった。彼の関心は、観客をいかに操るかであり、作中人物が味わう恐怖を観客にも味わわせることだったんですね。それでこんな逸話を語っています。「ロンドンからエジンバラに向かう列車車中に2人の乗客が乗り合わせた。その1人が『すみません、網棚にお乗せの妙なお荷物は何なんですか?。』『ああ、あれ?、あれはマクガフィンです。』『マクガフィンって何ですか。』『スコットランドの山中でライオンを捕まえるための道具ですよ。』『でもスコットランドの山中にはライオンなんていないでしょう。』『そうですか。じゃああれはマクガフィンじゃないですね。』」というものだ。つまりマクガフィンというのは、観客の関心を引くために、作中人物たちにとっては重要な何かであると示されるけれど、結局観客には何であるかはわからないことなんですね。映画に戻ると、成子は絵本作家なのだけれど、スケッチブックに自分でもわけがわからずに「MacGuffin」と書いていた。そして沖縄返還の頃、それ以前のことを成子は少しずつ思い出し始める。檻の窓の並んだ動物園、その一角にあった彼女の部屋(檻?)、閉館後に動物たちと遊んだこと、「お薬飲みましょマクガフィン」。そして彼女の道案内で515の運転する車がやってきたのは廃屋となった動物園だった。久手堅はマクガフィンとは米軍基地関連の何か秘密だと推理して、基地関連でのし上がった人物たちにカマをかけ、むかし軍の秘密の動物実験・人体実験をやっていたらしい人物が浮かび上がってくる。推理ものなので、ハッピーエンドだということだけにして、この後の展開の詳細は書かないでおく。この映画はガンで子宮摘出手術を受けた洞口依子の女優復帰作品だ。子供を産めなくなった彼女が妊婦を演じ、彼女が沖縄の人々や海に癒されたように、この地で記憶を取り戻し、海に癒され、海の中で出産する。そういう彼女の経験や思いと物語の成子を重なり合わせた見事な脚本(當間早志・利重剛)で、もちろん洞口の演技も素晴らしい。沖縄の本土復帰、成子の過去からの再生、女優・洞口の病気からの再生が巧みに重ねられている。そしてどこの国でも「軍」が行っているだろう暗黒の実験。それはここ沖縄では特に意味が深い。それは過去の歴史だけではなく、現在のこととしてもである。詳細や事実関係は知らないので根も葉もない噂の域を出ないものと理解していただきたいが、PTSDを負った米軍兵士の治療と社会復帰の実験の場に沖縄が使われているという話もある。その治療の失敗の結果が何であるかを書くことは辞退させていただきたい。昨年首里劇場で見た30分ずつの前・後編版は途中(前編最後と後編最初)に無用の部分があって流れをそがれたが、劇場版として58分にまとめられていたのは良かった。60分というとオムニバス作品の一編か、あと思い出すのはキェシロフスキの『デカローグ』だけれど、1本の映画として映画館で同じ1本分の入場料金を取られるのはちょっと損をした感じもないではないけれど、60分という枠は十分にしっかりした内容の物語を描けるということだ。最近の日本映画を見ているといたずらに2時間を超える作品があるけれど、凝縮した内容で、しかも映画的時間を味わわせてくれたこの映画は好きな一編だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.07
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CEUX D'AUJOURD'HUIMinoru Shibuya白黒112min(スタンダード、日本語)(桜坂劇場 ホールCにて)見応えのある作品で、感心・感動しました。戦後50年代、60年代、まだ自分が生まれる以前、あるいは幼かった頃の日本映画、大映作品はテレビやビデオでずいぶんと見ていますが、松竹作品はあまり見ていませんね。映画の上映が始まって、まず富士山の松竹ロゴ画面なのだけれど、右下に「1952」と見慣れぬ数字。と続いて「CEUX D'AUJOURD'HUI」とフランス語のタイトル。あれっ?、って思っているとキャスト・スタッフのクレジットもすべてフランス語とローマ字。なんとフランス版プリントだったんですね。全編画面下にはフランス語のセリフ字幕が入っていた。それで帰ってネットで調べたら、1953年第6回カンヌ国際映画祭・正式出品作品だった。この年のカンヌには日本からは他に新藤兼人『原爆の子』と衣笠貞之助『大仏開眼』が出品されている。ちなみに最高賞(当時はグランプリで、まだパルムドールではなかった)はクルーゾーの『恐怖の報酬』が受賞した。この時の審査委員長はジャン・コクトーで、以下審査員もほとんどフランス人だった。非フランス語系の人は米俳優エドワード・G・ロビンソンぐらいだ。なのでこのフランス語版プリントはカンヌ仕様なのかも知れない。既に余談気味だけれど、更に脱線するなら、この当時のカンヌ出品作の選定がどうなっていたかはわからないが、1952年の松竹の出品作品は中村登の『波』で、1953年がこの『現代人』だ。後に世界的名作となる同じ1952年松竹作品の『東京物語』は選定されていない。小津のこの作品がフランスで公開されたのは25年後の1978年。それまでほとんど小津の映画はヨーロッパでは知られていなかった。もしも1953年のカンヌで『東京物語』が上映されていたら・・、なんて考えるとちょっと面白い。この時点では全く無視された可能性だってある。さて『現代人』。映画の中にもセリフとして出てくる「アプレ」といいう言葉。アプレ・ゲール(仏:apres-guerre)すなわち戦後という意味で、戦前と価値観が一変し、既存の道徳観のなくなった若者をさす言葉として戦後流行した言葉らしい。そういったものを「現代人」と呼んだタイトルだろうが、公式のフランス語タイトルは複数になっているから、池部良演じる小田切徹をとりわけ指しているものではないだろう。国土省建設局。課長の萩野(山村聡)の妻は胸を患い療養所に入っていて、年頃の娘・泉(小林トシ子)と2人暮らし。土建屋の岩光(多々良純)に付け込まれ、入札を操作するなどして岩光に仕事を回し、賄賂を受け取っていた。療養所の費用も必要だし、岩光に紹介された銀座のクラブのマダム・品子(山田五十鈴)との愛人関係にもお金が必要だった。一緒に汚職をしていた主任の三好が配置変えになったのを期に萩野は岩光と手を切ろうとするがなかなか上手くはいかない。三好の後任は小田切(池部良)。真面目な青年と思われたが、意外と簡単に岩光との関係を築いて小遣い稼ぎをスマートにやってのける。そのドライさは「アプレ」っていうことなのだろうが、小田切の父親は赤本出版をしていて、ガード下の作業場兼住居の劣悪環境の中で家族は貧乏暮しをしていた。小田切はそれを見て、地道に役所の安月給で生きるなんていうのはアホらしくなったんでしょうね。この辺の一種の当然の理由、そういう社会に対する批判も込められている感じです。そんな小田切青年なんですが、だからこそと言えるのかも知れないけれど、上司・萩野の純粋な娘・泉を見て恋に落ちると純愛そのもの。一方の泉もそんな彼に惚れる。泉は父の汚職も愛人も知らないのだけれど、母の病気が治って親子3人世界でいちばん幸せな家族になることを夢見ていた。ドライなアプレであるというのは社会に対する冷めた目であって、実は純粋であるからこその歪みなのかも知れない。だから一方では純粋である部分の反動も内在する。それで泉の望みを叶えようと考える。それは一つは泉の父・萩野を汚職から手を引かせる、つまりは萩野をいつまでも利用しようとして離さない岩光に萩野を解放させることであり、今一つは萩野と愛人・品子を別れさすことだ。(以下ネタバレ)そのやり方はアプレ的に実にドライ。岩光の方は自分が一手に汚職の相手を引き受けることで萩野を解放しようとする。品子の方は、彼女を誘惑して寝取ってしまうという形で萩野と別れさす。でもそれが済むと品子をポイなんですね。しかし品子のバーで岩光と飲んでいて、酔っぱらってわけもわからずに小田切は岩光を殺してしまう。逃げてもどうせいずれは捕まる。事件が明るみに出れば泉の父の汚職も世間にばれてしまう。そこで早朝の役所に行って彼は証拠隠滅を計ろうとする。でも問題の書類は鍵のかかった萩野のデスクの引き出しの中。時間も迫る中、彼はガソリンを撒いて火を放つ。逮捕された彼は汚職、殺人、放火だから、当然に死刑判決を受ける。世間は隠された事情は知らないから、新聞は「アプレの犯罪」とまくしたてた。一種の自暴自棄状態。父の出版社に出版させようという「死刑囚の手記」に、「今日は泉さんが面会に来てくれた」と愛の喜びをしたためていた。泉の母は病状が悪化して死んでしまい、泉の夢は叶わないのだけれど、父と娘は父が自首して真実を語ることを語り合うのだった。山田五十鈴と言うと自分にとっては気っ風のいい粋な姉さん、でもかなり老けたおばさんやおばあさんの役のイメージが強いのだけれど、このとき35才ぐらい。小田切という若造に騙されたと知りながら、泉を思う彼の気持ちを受け止めて事件の背景は何も話さないと小田切に約束する。この辺の心理を演じる山田の貫禄と演技には目を見張るものがありました。娯楽映画であるのに、社会派でもある内容、そして何よりもこの映画で描かれた倫理性っていうのが良かったですね。昔の日本映画というのはこうだったんですね。やはり何処か一本筋が入っているという感じです。ホームドラマである『東京物語』ではなく、この作品をカンヌに持って行きたかった松竹の首脳陣の気持ちもわかるような気がします。そのままフランス映画としてリメイク出来そうな内容と言えるかも知れません。どうして最近の日本映画は、真面目そうな内容でもオチャラけた、そして何よりも薄っぺらい作品が多くなってしまったのでしょうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.05
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TOKYO STORYVOYAGE A TOKYODIE REISE NACH TOKYOCUENTOS DE TOKYOVIAGGIO A TOKYO東京物語Yasujiro Ozu白黒136min(桜坂劇場 ホールAにて)小津安二郎と言うと、ゴダールだ、トリュフォーだ、コッポラだと、海外の重鎮的映画作家に評価される、いわば日本映画を代表する顔の一人だ。では自分はどうかと言うと、ちょっと妙な感覚を持っている。映画館の上映スケジュールに小津の名前を見たとき、あるいはレンタル屋でビデオやDVDのジャケットを手にしたとき(いずれの場合も既に見たことのある作品なのだが)、「あ~、小津か~、小津ね!」っていう冷めた感覚なのだ。しかし今回のこの『東京物語』もそうだったのだが、実際に見ると強い感心・感動を与えられる。物凄い傑作なのである。有名作品であり、もう55年も前の映画なので、ネタバレは気にせずに簡単にストーリーをまず紹介しよう。尾道に暮らす老夫婦・平山周吉(72才)と とみ(68才)。二人には3男2女の子供がいた。長男・幸一は東京で内科の町医者をしており、結婚して妻と2人の息子がいた。長女・志げは結婚し、東京で美容院を経営。次男・修二は8年前に戦死していたが、未亡人の紀子は今も独身を通し、会社員をしながら東京のアパートで一人暮らしをしている。三男・敬三は国鉄職員で大阪暮らし。末の次女・京子は小学校の教師で、尾道で両親と一緒に暮らしている。1953年夏、周吉/とみの老夫婦は、東京に住む子供達のもとを訪ねる旅に出る。今でこそ新尾道で乗っても、あるいは在来線の尾道で乗っても、新幹線を使えば東京まで5時間はかからないのではないだろうか。でも1953年と言えばまだ在来線の「こだま」もできる前だから、東京⇔大阪間だけでも9時間程度はかかったろう。全部で半日は優に超える15時間といった長旅だ。もちろんブルートレイン等といった優雅な寝台列車ではない。つまりは70才前後の老身の夫婦にとっては一世一代の大事業なのである。東京駅に着いた老夫婦(笠智衆/東山千栄子)は長男・幸一(山村聡)と長女・志げに伴われて幸一の診察所を兼ねた住宅にやってくる。迎えるのは幸一の妻・文子(三宅邦子)と2人の息子。やがて戦死した次男・修二の妻・紀子(原節子)がやってきて、仕事で東京駅に出迎えに行かれなかったことを詫びる。夕食は和やかに進むが、それが済んで夜老夫婦2人となったとき、幸一が東京と言っても場末でつまらない町医者をしていることの失望感を周吉は洩らす。翌日の日曜日は幸一が老両親と息子たちを連れて東京見物に出かけるはずだったが、急患で中止せざるを得ない。数日後老夫婦は今度は美容院を営む志げ夫妻(杉村春子、中村伸郎)の家に来るが、夫婦は忙しく、両親の相手をしている暇がない。志げは紀子に老夫婦の世話を頼む。小さな会社に勤める紀子は、1日休暇をもらい(その分翌日夜残業をして自分の仕事を片付けなければならないのだが)、義理の両親を東京見物に案内する。彼女の真心のこもった世話で、老夫婦は楽しく、幸せな1日を過ごすことが出来た。老夫婦は義理の娘・紀子に、修二のことは忘れて再婚するなど新しい人生を送ることを願う。この後志げがいわば厄介払い的に幸一と僅かなお金を出して両親を熱海の安旅館へ旅行に出し、また周吉は東京に出ているかつての尾道での旧知と酒を飲むが、その辺の詳細は割愛する。自分達は厄介者で居場所がないと感じた老夫婦は尾道に帰ることになる。そんな子供達に腑甲斐無さを感じつつも、「東京は人が多すぎる」とか「私たちはそれでもましな方」、「そう私たちはどちらかと言えば幸せなのだ」と、温厚な老夫婦は怒ることはない。終始表面的にはにこやかだ。しかし帰り道、とみが体調を崩し、大阪で途中下車して三男・敬三(大坂志郎)の家で療養する。いちおう回復して2人は尾道に帰るが、数日して東京の子供たちの元に母・とみが危ないという電報が届く。幸一夫婦、志げ夫婦、紀子は駆け付けるが、出張中で連絡を遅れて知った敬三は母の死に目に会えなかった。葬儀が済むと早々に東京へ帰っていく子供たち。しばらく残ったのは紀子だけだった。そんな兄や姉たち、とりわけ葬儀も終わるや早々に自分の欲しい物を形見分けとして要求した志げに対する不満を、末の京子は紀子に「親子ってそんなものじゃないでしょ」と言って洩らす。紀子は「年を取ると自分の生活の方が大切になるのよ」と京子を慰める。そして「そうはなりたくないけれど、私もきっとそうなるのよ。」と続ける。この映画は昔と現在(未来)という時代の対立、若さと老齢の対立、地方と大都市の対立、そういう2項対立をテーマとしている。大都市生活の子供たち若い世代の心にゆとりがなくなり、自分のことしか考えられなくなっている現実の確認が一方にあり、それは正しいとまでは言えないにしても正当な説明のつく状況でもある。そしてその一種のエゴイズムに対する過去の老世代の諦念、その対立とバランスの物語だ。日曜日に急患で出かけられなくなったとき、とみは小さな孫を連れて散歩に出る。祖母は、将来の夢や自分が死んでしまってからのことを孫に尋ねるが、孫は答えることはできない。老夫婦は「自分たちは幸せな方」と考えることで現状としての絆を維持することしか出来ないのだ。各人にはそれぞれの理由を持っている。志げはやや悪者的に描かれてはいるけれど、とみに「昔はあの子ももっと優しかったのに」と言わせているように、戦後期にこうして自営の美容院を構えるまでには色々な苦労があったことが想像される。小津の映画を見ていると、この『東京物語』などは特にそうだけれど、社会や人々の変化に対する郷愁と批判、そしてそう感じる自分に対する一種の自己批判があるような気がする。人々が当然に思い、また小津も共感していること、例えば子供に対する期待もそうだ。「人の多すぎる」東京で、場末のしがない町医者である幸一になぜ親は不満、腑甲斐無さを持つのか。その発想自体が既に親の子供に対するエゴではないか?。他の作品でいうなら妻を早く失って娘が父の世話をし、それで嫁に行き遅れるというテーマがある。子供は子供の人生であって、親の所有物ではないのだけれど、ついそこに甘えてしまう親の当然の心情、それに小津も共感をたぶん持っているのだろうが、それは過度な要求だと自覚しなければならないけれど、事実そう感じることの不条理。この映画では一方には尾道の老夫婦と京子がいて、一方に東京の子供たちがいる。その中間に位置するのが紀子で、いわば周吉とは別の意味で小津の分身的存在なのだろう。彼女は8年前に夫を失っていながら、前へ進もうとせず、停滞の状態に満足している。しかし「私もきっとそうなるのよ」と言うように、新しく自分の人生を生きることに踏み出さなければならないのだ。そんな紀子が尾道を去るとき、学校の教室の窓から見える線路を紀子を乗せた列車が通っていく。授業中の京子は「時計」を見て通過時間に窓から列車を見送る。一方車中の紀子は義母の形見として周吉にもらった「時計」を取り出して見ている。時間は否応なしに進み、社会も人の心も変化していくのだ。この映画についてはアントニオーニを思わせる物や無人の風景の撮り方とか、イマジナリーライン(想定線)を無視したカットバックとか、書きたいことも少なからずあるのですが、なにぶん劇場で見て(3度目?)、手元にDVD等を所有していないので、また別の機会にしようと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.07.02
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人のセックスを笑うなDON'T LAUGH AT MY ROMANCENami Iguchi137min(桜坂劇場 ホールAにて [3周年記念 1コイン・フィルムリレー 2日目] )実にもったいない映画。同じ原作(山口ナオコーラ、未読)で、同じ役者を使って、まともな監督が作れば、100倍、1,000倍面白い映画になった可能性もあるのではないだろうか。黒沢清の『ドッペルゲンガー』で存在を思い出した永作博美が出ているので、またボクの周囲の男性に大ファンが多いけれど、ボクはほとんど魅力を感じない蒼井優を観察してみようと、このやや過激な題名の映画を見にいった。この言葉、昔からセックスアピールというような熟語では普通に使われていたけれど、男女の行為を示す語としては30年前でもまだ一種の はばかり があったのではないだろうか。それが現在ではかなり平気で使えるようになったわけだが、結果としては欧米や(そして各種アジア諸国)よりも、いちばん臆面がなくなった感じだ。これをどう解釈するべきか。このタイトルは映画である以前に山口の小説のものなのだが、読んでないのでその含みはわからない。ただ映画の公式英語タイトルは romance となっていて、love affair でも sex life でもない。そして「人の」の部分は my となっているから、「私のことをとやかく言うな」という意味であることがわかる。同じ美大に通っていて、いつもつるんでいる みるめ君 19才(松山ケンイチ)と 堂本君(忍成修吾)と えっちゃん(蒼井優)。こういう男男女の3人仲間って良くありますね。えっちゃんはみるめ君が気になっていて、たぶん好きなんですね。みるめ君はそのことにたぶん薄々気付いていて、それは不快ではないし嬉しくもあるのだけれど、でも好きっていうのとも違うというか、今のその状態でいることに満足しているというか、甘えている。でもえっちゃんはもっと自分をアピールするとか、迫るとか、そういうことはない。待っているだけとでも言うか。西洋的恋愛感性から見ればまどろっこしい感じ。『パラノイド パーク』では、ジェニファーは主人公アレックスに自己アピールして、迫って、セックスまでしちゃいます。彼らは16才の高校生ですね。堂本君はって言うと、彼はえっちゃんに惹かれてますね。でもえっちゃんがみるめ君が好きだってこと感じていて、でも迫るでも完全に身を引いてしまうでもなくって、それで曖昧な男男女の3人グループです。そんなバランス関係の3人に降って湧いたのが39才のアーティスト・美大臨時講師のユリ(永作博美)。ボヘミアンっていうと日本語ではちょっと違和感もあるけれど、リベルタンとでも言うか、好きに自分の人生送っている女性。だから39才と言ってまだまだ若いし、発想は幼いところもあって、それでいて適度にエロさも発散している。でもいわゆる意味での「大人の女」とか「塾女」ってのとは違う。39才という大人の身体や性を持っていながら、少女的でもある。そしてえっちゃんと比べるとわかるけれど、自分の生き方に対する無用の遠慮のようなものはない。そんなユリがまだウブな、きっと女性経験もないみるめ君に迫ったわけだから、みるめ君はもう骨抜きですね。えっちゃんはもちろん嬉しくはないけれど、何をするでもない。待っている。実はユリには夫がいることを知って、うろたえ、関係を絶とうとして悩むみるめ君を世話しちゃうようなえっちゃんなんですね。この辺の雰囲気は良くわかりますね。この映画は過激な題名にもかかわらず、裸身がからみ合ったり、あえぎ声をあげたりはありません。抱き合う、キスする、どまりです。もちろんそういうことはみるめ君とユリの間に行われてはいるのですが描かない。ところで仮にボクがこの映画の演出をするなら、そして同じようにからみのシーンは描かないとして、それでもボクはからみのシーンは演じさせて、撮影もすると思います。でも編集でカットして使わなければ良い。何を言いたいかと言うと、この映画のえっちゃんの愛っていうのは、ほのかではあるけれど、プラトニックというのとも違う。体の愛に対する潜在的期待や欲求はある。けれども性愛(セックス)は不在、あるいは「未在」なんですね。男女の愛にセックスが不可欠で、気持ちと体の関係が統合されていなければならないとは言うつもりはないけれど、ここではそのアンバランスを感じます。そして映画そのものにボクは嘘を感じる。ユリとみるめ君のからみを描かないというのには、監督自身もえっちゃんと同じで、みるめ君とユリの肉体関係を見よう、受け入れようとしていない。それは不在。なのに物語としては、見えないところでユリとみるめ君は裸で抱き合っている、ことになっている。こういうアンバランスな心理は特に日本人にはあるから、それを描きたいのなら、それはそれで良いが、映画自体はそういう視点からは作られてはいない。嘘と書いたけれど、同じようなことは映像でも感じられる。固定カメラの長回し(場合によっては遠景のまま)を多様していて、そのために137分という長大な作品になっている。でも監督が好きらしいこうした映像は、思いつきないし借り物で、自分の本当の表現となっていない。映画というのは、役者は普通の人が内奥に隠しているような自分をも曝け出すことを要求されるし、監督もそのために自分を役者やスタッフや、結果として観客に曝け出す。この映画の監督に感じるのはそれがないことだ。自分の内奥を隠したまま、借り物の技法で作られた137分は長過ぎた。その137分の中で永作の出演時間はそれほど多いわけではないが、その人間(女?)は魅力的で、そのことがきっとある程度この映画をもたせている。蒼井はアンバランスたるえっちゃんを好演していたけれど、彼女の持つその雰囲気自体が、日本人の嘘的アンバランス欲求に合致していて(そう思い入れしやすく)、そのための彼女の人気なのかな?、と感じた。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.06.29
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地下鉄(メトロ)に乗って篠原哲雄122min(DISCASにてレンタル)同じブログのNさんが、「なんともな~?!」という映画で、しかも悪い後味が後をひくとおっしゃるので、物好きな自分は見てみました。こういう、なんと言うか、非常に単純な大衆娯楽的日本映画を自分から見ることはないので、良いキッカケになります。浅田次郎の吉川英治文学新人賞受賞の原作小説は読んだことはないし、これからも読むことはないと思うので、原作と映画の関係については勝手な想像で書かせていただきます。まず映画を見始めて、正直面喰らいました。なぜって、東京地下鉄の協力はあるにしても、それなりにお金のかかっている映画だと思うのですが、1964年の商店街といい、敗戦直後の闇市の場面といい、そして何よりも演技の質自体がテレビドラマであって、映画のものではないんですね。大したこともない『ゆれる』が「映画」としてもてはやされる理由がわかりました。まあそんな悪口はやめて、ドラマの内容に入りましょうね。真次は小さな衣料品メーカーの営業マン。結婚して妻と小学生の息子がいた。両親の離婚後母の姓の長谷部を名乗っていたが、大企業・小沼グループの創業社長・小沼佐吉を父とする、男ばかり三兄弟の真ん中で、兄・昭一は大学生のとき事故死しし、弟・圭三は父の会社重役で、次期社長だ。真次は子供の頃から横暴で勝手な父の母に対する態度を憎んでいて、反目したまま会うこともなかった。容態が相当に悪いという弟からの電話を受けながら見舞いに行こうとしない真次なのだけれど、そんな彼はある日地下鉄のホームで年老いた恩師にあったことをキッカケとするかのように、兄が事故死した1964年10月の東京にタイムスリップする。主人公の真次が続いて過去にタイムスリップして、終戦直後に闇商売をしながら飢えたガキの面倒を見る父、赤紙で満州に出征する父、満州の地での勇敢な父、そういう父の過去の姿に接し、また父が持っていた希望や夢がどのように実現され、また失われたか、そんな父の人生を知る。そして父という人を理解し、許せるようになるという、まあそんな物語だ。でもね、全然これが感動的でもなんでもないんですよ。あまりにもありきたりの人生観とか発想なんですね。原作は知らないけれど、少なくとも映画が描いて範囲では、そうなんです。森有正は、戦争体験を書いたエッセーや小説の著者の多くにとって、戦争が「体験」でしかなく深く「経験」になっていないと批判している。ただ「こういう本が書けるような変わった体験をさせてくれてありがとう」と言っているようだと。浅田次郎っていう人は、戦争体験者でもなんでもなくって、戦後1951年の生まれなのだけれど、これもその延長線上にあると言ってもよい。実は非常に甘っちょろい人生観を、戦争を使って偉そうに見せているだけに過ぎない。散文的事実としてはともかく、人間としては父の実存的苦悩なんて全く描かれていない。これでは映画を見せられている自分は、なんらこの父・小沼佐吉に共感が出来ない。だからタイムスリップで知って父を理解し許すという主人公・真次自体が更に薄っぺらになってしまう。(以下ややネタバレ含む)真次が妻子ありながら愛人がいるということ自体は別に良いのだけれど、それが原作の浅田のものか、脚本家や監督のものかは知らないけれど、男のみに許されるような古い男女観が基礎にある感じなのはちょっと気分が悪かった。まあそれはそれとして、この真次が実に愚鈍に描かれている。最初の方に愛人・みち子から母のオムライスのこと聞かされているのに、最後の方のみち子の母との対面のシーンで、オムライスが出てきても(ケチャップも)真次は何も気付かない。佐吉が生まれてくる娘の名前は「みち子」にしようって言って始めて気付く。これってba-kaなんじゃないかと思う。そんな真次だから増々もって映画全体が安っぽくなる。思うに映画として脚本が駄目駄目なのかも知れない。原作は恐らく長い小説だろうから、何に重点を置いて「一つの映画」にするかという感覚が欠如しているんでしょう。岡本綾って人ははじめて見たけれど、彼女だけがなかなか良い演技してましたね。みち子のタイムスリップは原作にはないらしいけれど、あの自分をお腹の中に妊娠した母との対面を軸に、この映画では常盤貴子がイモ演技していたこの母「お時」の生き方(アムールへの愛)、みち子の真次への愛、この辺を中心にドラマにしていたら面白かったかも知れません。というかそういう映画なら見てみたいです。それにしてもあの場面でのビールとオムライス代はどうやって払ったんでしょうね?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.06.09
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THE ROOMSion Sono92min 白黒(DISCASにてレンタル)とりあえず自分の映画鑑賞歴から抜けているこの監督さんの作品を見てみようと。ならば洞口依子の出ているこの作品が良いかなと。映画が最悪でも依子さん見ている楽しみはあるし・・・。この監督、ないしはこの作品は、賛否両論ないし好悪両論で、そのどれに共感するかというのではなく、どの意見や感想も良く理解できます。ボクとしてはかなり面白く見せてもらいました。でもやっぱり一種のペダンの香りは拭えないかも知れません。最初のシーンは倉庫の並ぶ港の風景を写した固定映像。画面内でほとんど何の動きもないまま4分ぐらい続く。白黒の映像自体は、タイトル部分の「THE ROOM →」っていう道路案内標識のようなものだけを写したものも、そして全編通じて、やや粒子が荒れ目でコントラストが比較的強く、知らない人には新奇であったり独創的に見えるかも知れないけれど、60年代ぐらいの東松照明とか森山大道の写真の、んんん~言ってしまおう、パクリ。亜流であることは見え見え。写真と違うのはゴダールではないけれど1秒間に24コマの写真が入れ代るから、光の具合とか粒子とか、ほんの細部がやはり動いていて、スティール写真を見ているのとはどこか違う。やはりモーションピクチャーなんですね。でもまあ、映像スタイルはパクリでもエピゴーネンでも良い。それで映画として面白い何かを見せてくれるなら。ちなみにパクリ、亜流というのではなく、あるスタイルを使うっていうやり方はある。映画ではないけれど相当以前にウィーンのオペラが来日したときに持ってきたR・シュトラウスの『サロメ』の舞台はクリムトのスタイルだった。当時の日本の観客にどれだけわかったは別として、ウィーンでこれを上演すれば観客の8割以上はクリムトだとわかるだろう。これはスタイルの借用であって、パクリとは違う。でも1993年の映画の観客で60年代の東松や森山、中平の写真を連想する観客はどれだけいるか。何の事前情報なしに観れば、映画を見ているだけでは登場した麿赤児が殺し屋だとはしばらくはわからないけれど、タイトルロールのクレジットで殺し屋の役であることを観客は教えられる。この作りがボクはやや中途半端だと思った。映画の解説等で既に知っていて観ることが多いとはいえ、やはりここでは「公式」には最初から麿赤児の役は知らせない方が良い。その殺し屋が不動産屋にやってきて、見晴らし重視である条件を語り、係員の洞口依子と電車に乗って色々な物件を2日間にわたって見て歩く。洞口は終始無表情で、途中二人の間には会話もなく、到着した物件の部屋で洞口は淡々と事務的に条件などを語る。殺し屋は部屋を見回し、その気分を感じ取ろうとし、そしてそれぞれ何かの理由でその部屋は違うと言い、次ほ物件へと向かう。1日目は別の客に会わなければならないと言う洞口が去り、喫茶店でコーヒーを飲む殺し屋。妙な座席の配置のために画面左から右に向かい、見知らぬ別の女客、殺し屋、ロダンの「考える人」の像がすべて左向きに並ぶ。殺し屋は顎を腕で支え、ロダンの像とちょうど同じようなポーズになっている。窓の外はときおり通行人等が音もなく過ぎていく。殺し屋は今も取り付かれている過去の仕事で殺してきた男たちを回想する。ホテルの部屋でアタッシュケースを交換する取引の様子が描かれ、洞口との2日目の部屋探しが始まる。(以下ネタバレ含む)殺し屋には時間がなかった。身体の具合かも知れないし、人に追われてもいるらしい。軽トラックに1脚の椅子を載せ、助手席に洞口を乗せて物件に向かう。洞口が連れて行った部屋。洞口は開けた窓から外を、外に見える「塔」を眺めていた。「あの塔っを眺めるのが好きなんだな。あれを眺めるにはあそこの方が良い。」と殺し屋は洞口の秘密を見抜いていた。二人はその廃屋となった部屋へ椅子を持って向かう。やっと辿りついた理想の部屋に椅子を置いて座り、窓の外を眺める殺し屋。窓辺で塔を見ながらタバコに火をつける洞口。その背後で銃声。殺し屋は死に場所を求めていたのだ。二人の間で何が語られるわけではないが、だんだんわかってくるのは、殺し屋が死に場に求めているのと同じものを、洞口も求めていること、あるいはそれを知っているということだ。それは殺し屋にとっても同じことで、殺し屋は求める窓の眺めと同じものが洞口の眼にあると言った。ではそれは何であるのか、あるいは塔が象徴するのは何であるのか。それは思わせぶりであり、実は監督はそれを描いてはいない。それを観客ごとに勝手に感じさせることの契機を、映画は与えているに過ぎない。そこにこの映画のズルさや欺瞞がある。一見深そうに見せて、実は空虚なのだ。ただそれこそ洞口依子という人の眼は魅力的で、その無表情の、実は思わせぶりの演技が良いから、我々観客は、その観客の持つ実存的実感の深さに比例して、何かをこの映画の中に観る。映画自体はキッカケを与えてくれるだけで何ら深いものはないから、監督自身も思い込みだけで恐らく深い何ものないペテン師だから、何もない観客が観れば、何も中味のないつまらない映画となる。そんな印象の映画だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.30
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KAIRO, aka PULSEKiyoshi Kurosawa118min(所有VHS)この作品、最初に見たのは昨年の5月で、まだレビュー書いていないと思ったら、1月に既に書いていました。(字数がなんとか収まったので、上のリンクの1月26日日記で続けて読んでいただくことも出来ます)。『叫』、『降霊』、『LOFT』、『ドッペルゲンガー』等を見たついでに記憶で書いたんですね。この作品を1年前に見たとき、DISCASのレンタルで1回見ただけだったのですが、実は良く解らないところがあった。で、もう1度見てからと思ってその時はレビュー書かなかった。で今回安価な中古ビデオがあったので買ったわけです。2度目に見たら良く解りました。最初に見て解らなかったのは、実は役者さんの顔なんですね。テレビは見ないし、昨今の日本映画もそれほど見ていないから、知っている顔は役所広司と風吹ジュンぐらいで、加藤晴彦と小雪はすぐ区別ついたのですが、麻生久美子とか有坂来瞳とか、あれ?、これあのミチだっけ?、って感じで、少々混乱して見てました。麻生久美子っていう人はこの映画では主人公なわけだけれど、女優としてのボクの印象は「平凡」って感じですが、小雪って人は、なかなか独特の味があって、フランス映画とかに出しても通用しそうですね。前回1月に書いたレビューを読み返して感じたのは、印象としては間違っていないのだけれど、ネットのバーチャル性の問題を中心に書いていて、この映画のもう一つのテーマである人と人とのかかわりの問題にあまり触れてないということです。もちろんこの2つのテーマは互いに関連したものではありますが。一種の倫理の問題でもあります。植物栽培会社に勤めるミチの上司が言う「人の悩みにどれだけ他者がかかわれるのか?」という問題であり、小雪の大学院の先輩の作ったプログラムにある、点と点は近付きたがるけれど、近付き過ぎると反発したり消滅したりするという問題であり、小雪(役名は春江ですか)の語るこの世の人の孤独の問題です。この問題は、小雪が加藤晴彦に言う「誰かとつながっていたいからインターネットをするのか?」ということで、第1のバーチャルというテーマとつながっているわけです。これはどこの国の人についても同じことなのでしょうが、特に日本社会的テーマでもある気がします。それは日本人が「和」を重んじるからです。誰かとつながっているためには同調が求められる。卑近な例で言うと、これはある友人が言っていたことなんですが、喫茶店に友人・仲間と5人ぐらいで入って、他の4人が「コーヒー」「僕もコーヒー」って先に言ってしまうと、「自分はコーラ」って言いにくい無言の圧力を感じてしまうってことです。まして「チョコレートパフェとアイスティー」とはもっと言い出しにくい。つまり自分を曲げてまで同調することを求められる。西洋社会のように「異」をもって他者と関係を持つっていうのではないんですね。一事が万事こういいう性格を持つから、他者とつながっていたいけれど、他者とつながるのはウザクもあるわけです。こういう同調と和を受け入れていれば、西欧社会のような孤独を感じないでオメデタク生きられるのですが、それをウザイと感じて離反したときには、たった1人の孤独(孤立)が待っている。西欧社会の人々は最初から孤独であって、だから孤独同志の求め合いの文化があるけれど、日本では単なる孤立になってしまう。余談ながらちょこちょこ書いていることだけれど、統計的に日本人はセックスの回数、特に未婚者のセックスの回数が極端に少ないらしいけれど、それはセックスが孤独同志の求め合いを癒すものだからなんですね。黒沢作品に描かれる「日本人」、日本的文化から見ると見えにくい面もあるのだけれど、例えば西欧的視点で見ていくと、日本人である(日本社会である)ゆえの人々の病性が見えてくる気がするのですが、みなさんはいかがでしょうか?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.05.21
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CHARISMAKiyoshi Kurosawa104min(所有VHS)黒沢清作品、昨日の『CURE』に続いて、そろそろ『カリスマ』についても書かないと・・・。前回この作品を見たのは約1年前。そのときは書き始めたものの、あらすじも上手く書けなかった。深読みすれば人物もセリフも象徴の洪水なのだけれど、今回はあまり深入りせず気軽に書きます。昨日の日記に列挙した8作品、あとは『回路』が残りますが、これはソフトを所有してないのでしばらく先になりそうです。この映画には枠がついている。物語の大部分はどこかの森が舞台。撮影は富士山中かどこかだろうけれど、森の高台から街(首都=東京?)を遠くに見渡せる立地でなければならず、そういう意味で地理的設定はあくまで架空だ。枠は主人公の刑事・藪池五郎(役所広司)がこの森にやってくるキッカケ(そして最後に藪池が戻っていくということ)を描いているのだけれど、もし主人公・藪池という人間を描くのが目的の映画なら、この枠は(子供騙しのハリウッド映画ならいざ知らず)無用、邪魔でさえある。それは物語の進行に連れてわかればよいことだ。しかしこの映画は、実はそういう映画ではない。藪池という「ある特定の人物」を描くことには主眼はない。そういう具体ではなくもっと普遍を描いている。これは黒沢映画の特徴でもあるのだけれど、ボクが見た8本の黒沢作品の中で、この『カリスマ』と『回路』にその傾向が強いのではないだろうか。ここでは藪池という人物(他の人物も)のリアリティーが希薄でさえある。というわけで森での本編物語を進行させるにあたって、この枠でまず2つのことが「既定」される。車の中で部下が言うように、真面目過ぎて組織(あるいは社会)の中で上手く世渡りできない、あるいはそれが性に合わない藪池の性格。冒頭の廊下での上司とのやり取りのシーンで、コミカルにそれがデフォルメして描かれる。もう1つは人質事件でチャンスはあったのに藪池は発砲せず、両方を救おうとして結果両方を死なせてしまったというエピソード。その事件の後、上司に強制的に休暇を取らされ、藪池は(ちょっと唐突で不自然と言えば不自然でもあるが)ある森にやってくる。夜。森の放置された廃車の中で彼が寝込んでいると女の人影が近付き車に火を放った。助けられたのか自分で逃げたのか、気付くと藪池は1本のか細い木を前にしていた。その木は金属の囲いで保護されている。この木は「カリスマ」と呼ばれていた。藪池は森林伐採官だか営林署の中曽根に助けられ、拾われる。この木・カリスマはか細く、弱々しそうに見えたが、根から毒素を排出し、自分が生きることで周囲の森の木々を枯らせているらしい。中曽根は森の木々を守るためにカリスマを伐採したいと考えていたが、カリスマは私有地に植えられていた。廃院となった療養所の死んだ院長が海外から持って来て移植したものだ。院長に育てられ、今も廃虚となった療養所で病気の院長夫人の面倒をみる青年・桐山が木の世話をし、カリスマを守ろうとしていた。藪池は桐山青年に協力してカリスマを守り始める。ある日藪池は森を歩いていて動物用の罠に足を挟まれてしまう。通りがかった植物研究家・神保美津子(風吹ジュン)が家に連れてゆき傷の手当てをする。神保は1本のカリスマが森の秩序を破壊している危険を語った。後にわかるのは、森を一度無にして最初からあるべき森林秩序を回復するために、神保は秘かに森の水源に毒を流していた。希少な珍種として高値で売れると、猫島という男がカリスマを買取りにやってくる。カリスマを守りたい青年、入手したい猫島、消滅させたい神保、持ち出しでも破壊でもとにかく今の場所から無くなって欲しい中曽根。そんなそれぞれの思惑と猫島の持ってきた1千万円という金が交錯し、カリスマの争奪戦となる。この森は出口なしの閉鎖空間と一見感じられがちだがそうではない。市の環境保全課・坪井の撮った写真は外部にいた猫島に渡っているし、猫島は外からやってくるし、神保は武蔵野大学の教授というから大学の講議などのために外界へ出ているはずだ。最初と最後ではあるが藪池は東京(?)の上司と携帯電話で会話をするし、青年との別れのシーンではすぐそこにある外界の象徴としてパラボラアンテナが見える。神保美津子の妹・千鶴(洞口依子)は自分ひとりでは行けない外に連れてってくれるよう藪池に頼むが、彼女は街への道順も知っており、出られないというのはもっと心理的ことだ。この森は、映画の主要部分において、実は世界全体なのだ。日本の中の1つの森ではなく、森は日本全体、あるいは地球全体・人間社会全体と言ってもよく、外界を考えるのは実は無意味なことでもある。そしてその森の木々は、一人ひとりの人間の象徴でもある。神保は「生きようとすれば相手を殺すわけですし、相手を殺せば自分が生き残る。」と言うが、これは人と人、集団と集団、思想と思想・・・等々の比喩だ。そういう意味でカリスマという木は、「自分だけは」生き残ろうとする個人の象徴でもあれば、ある特定の政治思想や体制の比喩でもあり、またヒットラーというような政治的牽引者でありカリスマであるような人物の比喩でもある。映画はそのような自存と他存の寓話なのだ。一方洞口の演じた千鶴と藪池の関係は、個人と社会という大きな関係ではなく、たとえば男女のカップルでも良いが、もっとプライベートな人間同志の勢力・所有関係を象徴しているのだろう。千鶴は藪池の眠る車に自分で火を着け、その上で藪池をそこから救う。これは自分にとっても、相手にとっても、そして残りの他者に対しても、自己の所有を意味する。放っておけば藪池は焼死したはずなのだから、藪池の存在は彼女ゆえなのだ。洞口のセリフにあるように、この森、つまりは世界は、彼女にとって嫌な世界だ。外の世界とはこの嫌な世界からの脱出であり、それを藪池に求めた。彼女はまんまと1千万円を手にして逃走するけれど、この世界が「嫌な」ものであるのも金の存在だということでもあり、猫島が連れている武装集団は、金にまつわる軍事的力の象徴でもあるのだろう。冒頭の事件で犯人と人質の両方を藪池は救おうと考えた。森が社会を象徴するなら1本1本の木は個人を象徴するわけだが、森全体(=社会全体)ではなくただ1本1本の木(1人1人の個人)があるだけではないかと藪池は考えた。中曽根は「藪池さん、みんなあんたがどっちにつくか知りたがってます」と言うけれど、カリスマを守ることで青年・桐山についているようで、実は青年側に組みしているわけではなかった。森を一度破壊しようという「ひとつの」発想(政治思想)を否定するために、藪池は神保が毒を流していた水源の井戸を破壊する。彼はどこにも組みしないのだ。そして捉えようによっては、藪池という人物は、森の外の世界という枠の中心人物ではあるけれど、森での物語では狂言回しのようなもので、実体的人物としてはリアリティーが希薄でもある。だから院長夫人との空想的シーンでは藪池は院長にもなってしまう。(以下ネタバレもあり)猫島が引き抜き持ち去ろうとしたカリスマは神保姉妹によって焼かれててしまう。しかし凝り固まって信じていた思想を破壊されてしまった桐山青年は自由を獲得することになる。藪池の(多分に辛辣な)妄想は、カリスマに代わる別の枯れかけの老巨木を実体化する。植物学者の神保も「ただの木でしかない」と言うが、そんなことにかまわず藪池はその「何でもない木」を新たなカリスマとして世話を始める。するとその木は猫島にとっても神保にとってもカリスマとなってしまう。でもそれが「ただの木」であることを藪池は知っている。だから神保が破壊しようとすれば、平気で爆破の手助けもする。信じるべき、組みするべき「何か」という発想を否定された神保の精神は錯乱してしまう。約1年ぶりに2度目を見て、以上のような見方をしたのだけれど、その1年の間に他の黒沢作品を見てきて、特に『CURE』などを見た上で感じることがある。それは、もちろんここではもっと色々な解釈の余地は広いけれど、人々、特に現代の日本人が、それぞれの個人という「自分」であるよりも、組織とか社会とかいうものに埋没し、あるいは支配されていることがテーマの根底にあるような気がする。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.30
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CUREKiyoshi Kurosawa111min(所有VHS)黒沢清作品、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』、『カリスマ CHARISMA』(明日アップ予定)、『回路 Pulse』、『降霊 KOUREI/Seance』、『ドッペルゲンガー Doppelganger』、『LOFT』、『叫』とこの『CURE』でもうかれこれ8本見てきました。結構好きだということですね。やはり完成度とか脚本の練られ度とか、この『CURE』がいちばん良く出来ていると思います。比較的難解でもないし、黒沢作品を観たことがないという方にはいちばんオススメでしょうか。この『CURE』もそうですが、ホラー/サスペンスで、しかし描いている内容は倫理的問題で視点はペシミスティック、でもユーモアを交えたコミカルな面もあって、そんな不思議な世界が黒沢作品の魅力です。『回路』でも『カリスマ』でも象徴と言うかメタファーというか、深読みはいくらでも出来るのですが、だから2度3度と見れば色々新しい味わいを与えてくれますが、単純に映像に身を任せて観るだけで映画的楽しみを与えてくれます。中川安奈(後に主人公高部刑事の妻・文江とわかる)が心理治療を受けている場面で始まる。固定画面に写されるのは、病院の治療室とは思えないようなオシャレな家具の置かれた広い部屋、テーブルの前について『青鬚』を音読する文江、そしてその前を右や左に歩いてフレームに入ったり出たりの医師、もう既に我々は黒沢ワールドに招き入れられる。同時に精神医学的・心理学的ことが作品の根底にあるらしいことを観客は知らされる。本庁の高部刑事(役所広司)が追っていたのはある類似した特徴を持つ何件もの殺人事件だった。殺人の動機がはっきりしない。警察の精神鑑定をする医師・佐久間(うじきつよし)は、「犯罪の動機など他人にはわからないし、本人にだってわからない」と言うが、犯人は皆捕まっているが、互いに何の関係もなく、なのにどの事件でも両の首筋から胸にかけて X 字に切られた共通性に高部は納得いかなかった。しかしその真相はやがてわかってくる。元精神医学科の学生で、今は記憶を失っている間宮邦彦(萩原聖人)という謎の男が、どの殺人の前にも犯人に会っているといて、どうやら催眠術を使って犯行をさせていたということだ。それは誰かを殺させるというのではなく、会った人の内なる欲求を発現させて、結果としてはその人の心を解放するというものだ。その意味で連続殺人事件の謎というサスペンスは早々に終結してしまう。そこからは取調の会話で間宮が高部の心を揺さぶっていくサスペンスとなる。映画の中で描かれる殺人事件は4件だ。最初は理由もわからずホテルの部屋で娼婦を殺した男。2件目は特に憎んでいるわけでもない妻を殺してしまう教師。「その時はそうするのが当然だと思った」と教師は言う。3人目は新任の若い巡査を嫌っていて殺してしまった交番の警官。最後は医者になることで「女だてらに」と批判され、外科医を諦め内科医になった女医(洞口依子)。最初の2人には特別の理由はなく、後の2人には個人的ないし男尊社会に対する恨みがあった。いずれの場合もたぶん周囲からは「あの人がこんなことをするなんて」と思われていたであろうごく普通の人たちだ。映画的には間宮という仕掛人を用意したが、そういう普通の人たちがあるとき突然事件を起こす背後に潜む現代の社会、特に日本の社会の病理。人々は社会のシステムに組み込まれてしまって個人の顔を失ってしまっている。洗濯物を受け取りにいくクリーニング店のシーンで高部が出会うサラリーマン風の男がそれを象徴する。高部にとって精神障害の妻・文江はお荷物であり、間宮との接見の結果、妻の死を妄想したりする。しかしこの妻が、あるいは妻の病気が示しているのも、個人の顔を失ってしまっていることだ。何も入っていない空の洗濯機を執拗に回す文江。彼女の人格はただ空回りをするのみで、決して文江その人としては扱ってもらえない。この映画には18世紀の動物磁気説や催眠術の異端の医師・フランツ・アントン・メスメルが、間宮の研究ないし信仰の対象という形で登場する。『LOFT』でも昔の記録フィルムが登場するが、ここでもメスメルの明治期の研究記録フィルムなるものが登場する。語られるのは明治政府による弾圧だ。江戸幕府の鎖国による停滞の遅れを急いで取り戻そうとした明治以来の近代化政策。日清・日露戦争、2度の大戦と敗戦、その急速な近代化が現在の日本の病理の原因となっていると考えるのは、深読みに過ぎるだろうか。(以下ややネタバレになるが)高部は精神の危機を上手く整理できたようなラストだが、映画全体、つまりは社会への視点はペシミスティックだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.04.29
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A SNAKE OF JUNEShinya Tsukamotoブルー系白黒 77min(所有VHS)この映画は題59回モストラ・ディ・ヴェネーツィア(ヴェネツィア国際映画祭)で審査員特別大賞を受賞。審査員賞ということからもわかるように、映画通や玄人受けする作品かも知れません。DISCASの観客レビュー読んでみても「解らない or/and ついていけない」と酷評か、「最高傑作」と絶賛かの二つに別れている感じです。日本でこのような映画が理解されにくいのは、思うに「生と性」、「孤独と愛」の深い実存性に日本の大多数の人々が、少なくも表層意識的に、無関心だからなのでしょう。見る人によっては映画の質感に抵抗感を持つだろうし、ボクもある程度の安っぽさを感じないではないけれど、内容の深い良作だと思います。またボクの趣味とはしない映像が出てくるけれど、塚本監督が彼なりの感性と論理で物語を描くには必要なことなのだと思います。 ある隠し撮影魔による脅迫で始まるゆえに、この犯罪的行為に視点の中心が行きそうだが、実はこれは物語を動かす契機であって、つまり主人公であるある夫婦を再生させるキッカケに過ぎない。この隠し撮影魔を演じているのは塚本監督自身なわけだけれど、映画の中でこの実験台モルモットとされたような主人公夫婦を動かすのは監督の演じる隠し撮影魔であり、またモルモット夫婦を登場させて映画そのものを作っているのも監督であるという関係性がある。映画の仕掛人として、自ら映画の中に入っていって作中の人物に働きかけているということだ。 妻りん子30歳(黒沢あすか)。少し歳の離れた夫の重彦は一流企業のサラリーマン。仕事だと言って帰りは遅いが、実は喫茶店で時間を潰していることもある。重彦は清潔・潔癖症で、家に帰ると浴槽や流し台などを磨くことに専念している。動物も嫌いで、りん子が犬でも猫でも兎でも飼いたいと言うが許さない。夜は妻と共にするベッドから抜け出して一人ソファーに寝る毎日。自分の排便の臭いも嫌い、臭い消しの薬を飲んでいる。「命の電話」の相談員のボランティア(?)をしているりん子は自殺したいと言う相談者たちに「何でも良いから自分のしたいことを見つけて」と答えていた。そんな彼女だが、この生命の通っていないような夫との日々を、それでも一つの均衡の中で過ごしていた。しかし彼女の内奥で「生」は燻っている。動物を飼いたいというのもその内なる欲求の現れだろう。独り家で、スカートを超マイクロミニに切り、胸や背中の開いたセクシーな服を身に着け、そしてマスタ-ベ-ションをするのだった。 ある日「DANNA NI HIMITSU」と書かれた一通の封書が届く。中には彼女のマスタ-ベ-ションの様子を隠し撮影した写真が入っていた。続いて携帯電話の入った封書が届き、その電話は鳴った。りん子が恐る恐る出ると、相手は彼女が命の電話で相手をした男道郎からだった。「写真とネガを返して欲しければ、本当にやりたいことをやれ」と、道郎は携帯で指示するよう行動を求めた。それはマイクロミニのスカートを下着なしではき、リモコン式のバイブレーターを買い、それを下半身に装着し、道郎がリモコンを操作する中で街中を歩き、買い物等をすることだった。脅迫されて従ったことではあったが、実はこれは内奥に閉じ込められた生を解放することであった。ここまでが「♀」と題された映画の第一部で、次の第二部「♂」では監督=隠し撮影魔の視点は夫重彦に向けられる。そして最後にもう一人の男性である隠し撮影魔を加えた短い第三部「♂♀♂」で映画は終結へと向かい、結果としてりん子と重彦は生を回復し、強く結ばれる。 六月は梅雨の季節で東京のコンクリートジャングルは雨(水)が街を濡らす。植物を繁茂させるのも、カタツムリを活動させるのも、この水だ。生を失った都会、あるいはそこでの人間性に、「生」を取り戻させるのも雨(水)なのだ。映画は精神障害、夫婦のセックスレス、隠し撮影、ストーカー、病的清潔・潔癖症、癌、携帯電話、過保護等の母原病、生や性を抑圧する社会常識、暴力団による違法アングラ劇場、あるいはがらっと変わって監督のカメラの趣味(カメラはニコンやライカやピンホールカメラだ)等、そういう多彩な要素から成り立っているが、基本は生を失った現代の都会の人間の生を性によって解放させようという寓話だ。そのためにはりん子も重彦も自らの性を曝け出すことで一度自己破壊をする必要があったのであり、その仕掛人であるのが監督であり隠し撮影魔である塚本晋也なのだ。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.03.04
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KAIRO, aka PULSEKiyoshi Kurosawa118min(DISCASにてレンタル)この映画の中の恐怖(?)というのは、パソコンに現れる映像を見て、あるいは赤いテープで封印された部屋の中に入ってしまうことで、その人が段々物思いに耽っているようになって、周囲の人ともつき合おうとしなくなって、やがて自殺(体も消滅)してしまう。そして地上からどんどん人が居なくなる。そういうものです。しかしこのホラーの面はいわば外面であって、実は幽霊でもオカルトでもない、もっと別のことを寓意的に描いているのだと思います。例えば昔東京から横浜に電車に乗っていこうとすると、まず出札口で「横浜2等1枚」とか言うと、ガラスの向こうの係の駅員さんが目の前の棚に並んだたくさんの切符のなかから 東京→横浜 の切符を1枚抜き取って、日付けを印字して、お金と引き換えに渡してくれた。そして改札口に行くと専用の切符切りハサミを持った係の駅員さんがいて、お客さんの流れが不均一だとに「チャランチャラン・チャラン・チャラン」と空切りで音を鳴らしてリズムを取ってたりりするのだけれど、こちらが手渡す切符を受け取るとハサミを入れ、それをまた返してくれた。単に行きずりではあるけれど、既に2人の人との関係を持ったことになる。それが今は無人の券売機で切符買って、無人の自動改札に切符を入れるだけ。人との関わりはない。人件費削減の合理化なのだけれど、券売機や自動改札という機械を作る技術がないと実現できないわけで、テクノロジーの産物だ。技術が進歩して人と人との関係性が減少する。子供たちは昔は学校や近所の友達と外で遊んだけれど、今は一人家でファミコンやプレステ。そして大人はパソコン・インターネットの世界。リアルの人間関係そっちのけでブログや自分のサイトにうつつをぬかす。それと直接の関係があるかないかはともかく、他人との関係の持ち方を知らない電車男が話題になり、引きこもりなる人々も少なくない。「一緒に遊ぼうよ!」という友達の誘いに対して「今日は家でテレビゲームするから(あるいは今日は塾だから、も)」と断ったとすれば、断られた子供にとっては断った子供が自分の前から消滅したことに他ならない。今まで買い物に来ていたお客さんがネット・ショッピングをするようになって店に来なくなれば、店員にとってはそのお客さんという人間が消えたことだ。ネットにのめり込んでリアルのつき合いが減った人の知人にとっては、その人が(部分的・一時的ではあっても)居なくなったことに他ならない。本来あるべき人間同志の関係性がなくなるということは、それぞれの人にとって他者が消えることであり、こうしてテクノロジー、とりわけインターネットによって人間性が疎外されていく現代に疑問を呈した映画なのだと思う。物語は、最初と最後(役所広司出演部分)が洋上の船でつながる枠構造におさめられているが、本体部分は観葉植物販売会社勤務の工藤ミチの物語と、大学生川島亮介の物語が平行して描かれ、終結部で2人の物語が統合される形式となっている。ミチの部分では職場の同僚の田口が自殺していなくなり、彼の残したフロッピーか何かに見入ってしまったもう一人の同僚矢部も消えてしまった。亮介の部分では使い始めたパソコンが不思議なサイトにつながってしまい、やがて彼の回りでも人が消えてゆく。共通するのはある種のサイトを見てしまうと、あるいは赤いテープで封印された部屋に入ってしまうと、孤独感に襲われ、やがて消えてゆくということだ。ここでパソコンというのはもろパソコン・インターネットの世界ではあるが、赤いテープの封印も四角いドアや窓の周囲に赤いテープを貼ることで赤い四角形が描かれており、パソコンのモニターを象徴するかのようである。映画の中で大学院生の吉崎は「霊界での受容容量がいっぱいになり、それがこの世界に溢れ出してきている。そしてその霊界からやってきた幽霊と出会ってしまった人は孤独感から自殺に追い込まれ消滅する。」と、また「一度このシステム、つまり " 回路 " が成立してしまうと、それが自律的に作動する。」と語る。ホラー映画仕立てだから霊界だの幽霊だのと言うが、これは人間のリアルな関係を捨ててパソコンやインターネットのバーチャルな世界に行ってしまった人、つまりは我々の前から人間の実質として消えてしまったに等しい人の暗喩であり、回路というのは社会のシステムや風潮のことだ。だから「霊界と現実世界で起こることの関係がわからない」といった良く目にする感想は映画の見方を根本から間違っていることを示しているのではないだろうか。大学生川島亮介の物語として見ると非常にわかりやすい。パソコンは持ってはいるもののまだ使ったことがなかった彼が、パソコンを使うようになり、そして霊界、すなわちバーチャルなインターネットの世界の虜になり、やがて・・・。以下は2008年5月29日加筆分です。この作品、最初に見たのは昨年の5月で、レビュー書いていないと思ったら既に書いていました。『叫』、『降霊』、『LOFT』、『ドッペルゲンガー』等を見たついでに記憶で書いたんですね。この作品を1年前に見たとき、DISCASのレンタルで1回見ただけだったのですが、実は良く解らないところがあった。で、もう1度見てからと思ってその時はレビュー書かなかった。で今回安価な中古ビデオがあったので買ったわけです。2度目に見たら良く解りました。最初に見て解らなかったのは、実は役者さんの顔なんですね。テレビは見ないし、昨今の日本映画もそれほど見ていないから、知っている顔は役所広司と風吹ジュンぐらいで、加藤晴彦と小雪はすぐ区別ついたのですが、麻生久美子とか有坂来瞳とか、あれ?、これあのミチだっけ?、って感じで、少々混乱して見てました。麻生久美子っていう人はこの映画では主人公なわけだけれど、女優としてのボクの印象は「平凡」って感じですが、小雪って人は、なかなか独特の味があって、フランス映画とかに出しても通用しそうですね。前回1月に書いたレビューを読み返して感じたのは、印象としては間違っていないのだけれど、ネットのバーチャル性の問題を中心に書いていて、この映画のもう一つのテーマである人と人とのかかわりの問題にあまり触れてないということです。もちろんこの2つのテーマは互いに関連したものではありますが。一種の倫理の問題でもあります。植物栽培会社に勤めるミチの上司が言う「人の悩みにどれだけ他者がかかわれるのか?」という問題であり、小雪の大学院の先輩の作ったプログラムにある、点と点は近付きたがるけれど、近付き過ぎると反発したり消滅したりするという問題であり、小雪(役名は春江ですか)の語るこの世の人の孤独の問題です。この問題は、小雪が加藤晴彦に言う「誰かとつながっていたいからインターネットをするのか?」ということで、第1のバーチャルというテーマとつながっているわけです。これはどこの国の人についても同じことなのでしょうが、特に日本社会的テーマでもある気がします。それは日本人が「和」を重んじるからです。誰かとつながっているためには同調が求められる。卑近な例で言うと、これはある友人が言っていたことなんですが、喫茶店に友人・仲間と5人ぐらいで入って、他の4人が「コーヒー」「僕もコーヒー」って先に言ってしまうと、「自分はコーラ」って言いにくい無言の圧力を感じてしまうってことです。まして「チョコレートパフェとアイスティー」とはもっと言い出しにくい。つまり自分を曲げてまで同調することを求められる。西洋社会のように「異」をもって他者と関係を持つっていうのではないんですね。一事が万事こういいう性格を持つから、他者とつながっていたいけれど、他者とつながるのはウザクもあるわけです。こういう同調と和を受け入れていれば、西欧社会のような孤独を感じないでオメデタク生きられるのですが、それをウザイと感じて離反したときには、たった1人の孤独(孤立)が待っている。西欧社会の人々は最初から孤独であって、だから孤独同志の求め合いの文化があるけれど、日本では単なる孤立になってしまう。余談ながらちょこちょこ書いていることだけれど、統計的に日本人はセックスの回数、特に未婚者のセックスの回数が極端に少ないらしいけれど、それはセックスが孤独同志の求め合いを癒すものだからなんですね。黒沢作品に描かれる「日本人」、日本的文化から見ると見えにくい面もあるのだけれど、例えば西欧的視点で見ていくと、日本人である(日本社会である)ゆえの人々の病性が見えてくる気がするのですが、みなさんはいかがでしょうか?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.26
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DOPPELGANGERKiyoshi Kurosawa107min(DISCASにてレンタル)黒沢清作品、自分はごく初期の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を除けばここ10年ぐらいの作品しか見ていません。「黒沢清→Jホラー」なんてイメージもあるし、「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」なんていうのもあって、人々はホラーを予想して見始めるのではないでしょうか。でも全く外されますね。例のごとく「人間の本性は何か?」なんて問いが根底にあって、一種倫理的とも言えるのですが、作りはかなりコミカルですね。主人公役所広司の分身のドッペルゲンガー役所広司の役のキャラ自体からしてかなりコミカルですね。ボクはもう15年以上ほとんどテレビは見ないから、昨日の日記にも書いたようにこの人の存在を忘れていたのですが、永作博美という女優さん良いですね。いつかテレビで一度見て、良い感じの人だな、爽やかで、実存性もあって、で適度に色気もあって、なかなか魅力的な人だなって思った記憶がありました。ナガサクというちょっと変わった名前なので憶えていました。三十代になってなお魅力的ですね。その永作博美演じる独身女性由佳。エタラジストか何かやっていて、作家志望の弟隆志と2人で一緒に暮らしている。ある日仕事帰りに仕事で使うものをホームセンターで買って駐車場に戻ると隆志を見かける。「一緒に乗ってく?」って声をかけるけれど、弟は反応なく去って行ってしまう。ところが由佳がアパートに帰ると隆志は既に家にいてテレビを見ている。ちなみにそれは台風のニュースか何かなんですが、これがちょっと良いですね。政治や殺人事件のニュース、あるいはバラエティーやドラマ等と違って、台風ってのは自然現象だからニュートラル。それに加えて非日常性もある。黒沢映画って日常的でありながら非日常の空気があって、その感覚が面白いのだけれど、台風接近のニュースという選択は合ってます。由佳が夕食か何か台所で作っていると電話が鳴る。「手離せないから出て!」って隆志に言うのだけれど電話は鳴ったまま。やむなく彼女が電話に向かうと、隆志の姿はない。で電話に出ると警察からで隆志が自殺したという知らせ・・・。葬式とかも済ませたらしいんですが、やがて彼女の前には隆志の分身、ドッペルゲンガーらしきが現れるようになり、由佳はその弟の分身と一緒に暮らし始める。今まではグータラで姉に頼り切っていた隆志なのだけれど、分身の隆志は姉の世話をうるさがり、熱心に執筆に勤しんでいる。一方発明家早坂道夫(役所広司)は医療機器メーカー務め。かつて10年前に画期的血圧計を開発して会社には利益をもたらしたが、現在研究中のロボット椅子(?)だか介護椅子(?)のようなものの開発は行き詰まっていて、本人も苛立ちを覚えると同時に会社からも急かされている。そんな煮詰まった精神状況にあったある日、家に帰った早坂に自分と瓜二つの分身が姿を現す。研究所で早坂には男女2人の若いアシスタントがついていたが、その女性アシスタントが由佳の友達だったことから、早坂と由佳は同じようにドッペルゲンガーに悩むということで近付くことになる。多重人格と言うと「ジキルとハイド」(サイレント時代の『狂へる悪魔』等)や『イブの三つの顔』が有名だ。最近ではちょっとひねった『迷宮の女』が面白かった。二重人格・多重人格は同じ1つの身体の人物が複数の人格を交代で持つだけだから、異常心理の世界と言ってもオカルト性、ホラー映画性は低い。しかしここでは二重身(ドッペルゲンガー)だ。同じ人物の2つの人格が2つの身体を具えて登場する。こうなると幽霊と同じで、もう非現実(的)の世界。でも描くことは同じかも知れない。『イブの三つの顔』では、静か過ぎる内気なイブ・ホワイトの人格と、相反する蓮っ葉なイブ・ブラックの人格が合わさって、バランスの取れた本来あるべきイブの人格に統合される。この映画では由佳の弟隆志は自分の中の別の人格を体現したドッペルゲンガーと出会ったことで、それを受け入れることが出来ずに自殺する。早坂の分身は早坂に欠けるものを本来の早坂に指摘する。本来の早坂は最初はまず分身の存在を否定しようとするが、少しずつどこかで分身の存在に影響されるようになり、最後にはある形で2つは統合されることになる。それは自分自身の中にありながら自分でも認めたくない面であったり、自分には欠ける何かであったりする。映画はそれを克服して本来あるべき自分になって、それで解放される過程を描いた物語だ。だから黒沢作品には珍しく最後は一種のハッピーエンドであり、とても清々しい。彼の開発している介護ロボット車椅子(?)のようなものは、手足が不自由でも座っている者の意志にしたがって移動し、人造の腕が意志通りに動いてカップを持ってコーヒーを呑んだり、タバコを吸ったりできるもの。この椅子自体が肢体不自由者の肉体的分身のようでもあって、ドッペルゲンガーという分身の物語とリンクしているのが巧い。もともと一人の人物の本体と分身なのだからいつまでも2体が併存し続けるわけにはいかないわけで、統合された人格(&肉体)を得るにはオリジナルとドッペルゲンガーのうち片方が消滅しなければならない。だから早坂が開発した介護椅子は、最後は象徴として、ああなるべきしてああなるのだろう。多重人格は1つの身体の中での複数の人格の葛藤だから、同時に両者が現れることはない。しかしドッペルゲンガーでは同時に2者が存在して対話もする。そういう意味では自分を反省してあるべき自分を模索する物語であるとも言える。早坂が車の中で元同僚村上(柄本明)にそういうことを語るシーンもあった。そんな村上がああいうことになったのは、村上がたぶん分かっていながらもそれを受け入れることが出来なかったということなのかも知れない。頭の中で「自分はこうだけれど、本当はこうあるべきだ」等と悩むのと同じ過程を、一方を分身として実在させることによって映画は描いてということだ。そして早坂は(ああいう形ではあるけれど)それに成功するのであり、だから清々しいのだ。ロボット介護椅子を完成させた早坂が売り込み先で語ること、つまり肢体不自由者のためと美しいことを言うけれど、介護椅子で結局会社はそれをネタに大儲けしようとしているだけであり、ノーベル賞等を受賞して名誉を得ることであり・・、といったことだ。このまあちょっと陳腐なセリフを聞きながら思い浮かべてしまったのはアメリカ的ビジネスの世界だ。そしてそれを美化するために作られた大企業のプロパガンダ映画『ふるさと物語』でもある。最後に一言付け加えるなら、この映画のタイトル『ドッペルゲンガー』は色々な意味で正解だと全く認めるのだけれど、個人的希望としては「二重身」にして欲しかった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.23
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LOFT ロフト黒沢清115min(桜坂劇場/DISCAS)去年ではなく一昨年になるんですね、11月頃に映画館で見たのですが、ちょどこのブログを本格的に始める前だったのでレビューも書いていません。『叫』を見たキッカケに再度見たくなり、DISCASでレンタルしたので感想を書きたいと思います。ホラー映画はたいていそうだとも言えるし、また黒沢作品のすべてではないけれど、黒沢作品の魅力の一つはリアリティーのある映像です。たしかに冒頭からどこか現実離れした雰囲気、そうある種の静謐さのような感じ、あるいは何処かに有りそうで無いようなシンプルなインテリアとか、そういう感じはあるけれど、でもごく当たり前にありそうな世界の描写から始まる。小説家の春名礼子(中谷美紀)は次作のインスピレーションが湧かずにスランプにある。化粧をする(落とす?)鏡に映った彼女のアップは美しくもあり、また無表情。でもよくあるように単に物思いに耽っている女性の表情ではない。そして吐気を催して彼女は吐く。でもそれは血ではなく漆黒の泥のようなもの(余談ながらこれは白黒映画では描写のしようがないでしょうね)。彼女は編集者(西島秀俊)のオフィスを訪れる。編集者は彼女にプロとして早く作品を仕上げることを要求する。感じが悪くて、ちょとイケスカナイ感じの男なのだけれど、でも非常に現実的な世界の人物。でもこの2人の対比も含めて、もう既に黒沢映画の世界。創作のために環境を変えたいという彼女の希望に、編集者は緑の自然の中の古い洋館を世話する。 遠からぬ隣には大学の研修施設だという廃屋に近いロフトがある。こうなるともう全き黒沢ワールド。この映画では森の木々や風の音、無気味な沼、幽霊、と古典的な怪談話ないし映画の世界ではあるけれど、あるいは洋館は江戸川乱歩の世界にも通じるけれど、『回路』や『叫』もそうであったように、廃屋は過ぎ去った近代文明を見るかのようであり、それと自然の対比がある。『叫』や『回路』は終末論的世界でもあった。そして 文明以前の自然 と 文明の終焉 の中間にある登場人物や我々にとって、自然は文明の人間疎外からの逃避としては安らぎであると同時に、文明の日常にどっぷり浸かった人々には精神を裸に剥かれる恐怖でもある。否応なく人々は実存的に自らを反省することに誘われてしまう。分析的に言えば『回路』が火と風の世界であったとすれば、ここでは水と地の世界だ。この映画の冒頭には「その女は永遠の美を求めて沼に沈み、ミイラとなった。千年ののち、彼女はめざめ、そして私に呪いをかけた。恐るべき、永遠の愛という名の呪いを。」とテロップが出る。ある夜礼子は隣のロフトに男(豊川悦司)がシートに包まった死体のようなものを運び込むのを見てしまう。調べると男はミイラを研究する大学教授の吉岡で、彼の大学のチームは近くの 緑沼 から千年前のミイラを発掘したらしい。黒沢作品をそれほど見ているわけではないけれど、ごく初期の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の主人公が洞口依子だったのを除けば、黒沢映画の主人公はおおむね男性だ。この映画の主人公は女性作家で、脇で登場するミイラも幽霊も女性。他の映画に比べて女性の側からの心理を描こうとしているし、また春名と吉岡のロマンスの物語でもある。謎のロフトの曇ったガラス窓に外から手を当てる礼子。それに気付いて内側からその手に手を合わせる吉岡。礼子はそのことに理性的・物質的には気付かないが、感覚的に何かを感じて手を引っ込める。微妙さが美しい出合いのシーンではないだろうか。このシーンは短いが、精神・肉体両面の愛の交渉を表し得ている。そして女が手を差し伸べていて、そこに男が手を合わせるという方向性も象徴的だ。女は未知の男に手を差し伸べるのであり、男は求めてそれにすがろうとする。そして接触した瞬間に引かれる手は、女の躊躇やおののきを示している。(以下少しネタバレ)冒頭のテロップにあったように千年前の女は若いままの美貌を永遠にしようと保存性のある沼の泥を飲み、沼に沈んだ。それと呼応するのは冒頭(他)で描かれた鏡に映る礼子だ。そして幽霊(安達裕美)は春名礼子が今住むこの洋館の前の住人の作家志望の女子大生。礼子と同じ編集者に認められなかった。そして3年前から行方がわからない。この彼女に呼応するのもスランプで書けずに編集者に急かされる礼子でもある。そういう意味ではミイラや幽霊は礼子の内面の一部の別表現でもある。吉岡の夢か妄想か、あるいは現実か、吉岡と幽霊(やミイラ)との関係が描かれるが、この映画を吉岡と礼子のロマンスという点で捉えるなら、これもその複雑な内面関係の別表現でもあり、吉岡のミイラや幽霊に対する接し方は礼子に対するものの比喩でもある。この映画ではどこからどこまでが現実で夢や妄想の世界であるかの境界が特に後半では曖昧だが、この幻想の世界、あるいは寓意の世界に対して、編集者だけが全き現実の世界にいる。もともと映画などすべてが作り事というのを置けば、編集者にまつわる部分だけが映画内的世界の現実と考えられるように作られている。作品が作品だけにこれ以上のネタバレは避けるが、印象に残ったセリフを数カ所引用したいと思う。吉岡:後悔する。礼子:してもいいわ。幽霊:男を破滅させるために。 行こう、私と地獄へ。礼子:今の吉岡さんには私がいる。吉岡:ボクは全部捨てる。君以外の全部を捨てる。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.16
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降霊(KOUREI aka SEANCE)黒沢 清97min(DISCASにてレンタル)正月早々黒沢監督の『叫』を見て、なんかその作品世界にはまったところがあって、同じ監督のまだ見ていない作品やもう一度見たい作品をDISCASの予約リストの上位に移動したら、この『降霊』が送られてきました。後で色々調べていて知ったのですが、この映画はもともとテレビの地上波で放送された2時間ドラマなんですね。1999年というともうはるか昔にテレビを見なくなっていたので、こんなドラマがあったことも知りませんでした。テレビ映画、言い換えればB級映画とも言えるわけで、不満は少なからずあるものの、そうした作品としてはまあ小さな名作として楽しめました。テレビで放映されたものでもあるし、ややネタバレもしながら感想書くことにします。東京近郊の緑(田畑?)の中の一軒家に住む中年夫婦。2人に子供はないけれど、普通にいそうなごく平凡な夫婦で、価値観なんかも穏健で、人柄もまったくもって善良そう。夫の佐藤克彦(役所広司)は、業界のことは良く知らないので正社員なのかフリーなのか、テレビ局で働く効果音の技師。妻純子(風吹ジュン)は専業主婦(?!)。今専業主婦にハテナとビックリを付したのにはわけがある。実は彼女は霊媒師とまでは言わなくとも、ものすごく霊感が強い。で人づてに聞いてきたのか身近な者の死で心に悩みを持つ人の相談に乗ったり、必要があれば降霊なんかをやっている。似たような話で『ギフト』っていう映画があったけれど、そこでは夫に先立たれて子供を抱え、生活費を稼がなければならないケイト・ブランシェットは占いを商売にしていた。でも純子は子供もいないし、夫にそれなりの稼ぎがあるから占いや霊媒はボランティアなのでしょう。克彦はもちろん純子の霊能力を知っているんですが、そういうことを忘れて普通に暮らした方が良いと思っている。純子は生活を変えようと電話での霊媒依頼は断り、ファミレスでウエイトレスのパートを始める。でも客が連れてくる幽霊とかが見えてしまう。天から与えられた彼女の一つの能力(ギフト)なんですが、普通の人には見えない幽霊が見えたり、周囲の人間に言っても好奇の目や不審の目に曝されたり、決して幸せな能力ではない。この2人とは全く無関係に身代金目的の少女誘拐事件が発生する。犯人は少女を連れて富士の山中に隠れていたらしいのだけれど、少女が犯人の目を盗んで逃げ出す。少女が犯人に追われて逃げる途中に、ちょうど木々や風の音を録音に来ていた克彦がいた。そして彼が気付かぬうちに少女は半開きだった大きな機材トランクの中に隠れ、知らずにそのトランクを克彦は家に持って帰る。現金の受け取りに失敗して逃げた犯人は警官に追われ、工事現場で事故にあい意識不明となってしまう。大学で霊能力などを研究するたぶん大学院生の早坂(草なぎ剛)は以前から純子を研究対象としようとしていたが、受け持ち教授の友人がたまたま誘拐事件を担当する刑事で、行方不明の少女の消息を知ろうと純子の霊視を要請する。しかし少女のハンカチを借りて帰った純子が家で発見したのは夫の機材トランクに入った仮死状態の少女だった。以下もっとネタバレします。この映画にはマーク・マクシェーンという人の原作本があって、その翻案らしいのだけれど、脚色での問題点が2つあったと黒沢監督は言ってます。一つはトランクの中に少女を発見してからの夫婦の行動にリアリティーがないこと、いま一つは原作では死んだ少女は幽霊として現れないこと。この映画では少女の消息を言い当てることで一躍有名になるという誘惑に純子(と克彦)が惑わされ色々小細工を始めるのですが、経緯あって克彦が少女を殺してしまい、死体を山中に埋め、少女の幽霊に苦しめられるという風になっています。原作がどうなっているかは知りません。でもこれでもまだリアリティーがない感じです。なるほど夫は仕事に追われる人生で、妻は自分の能力に苦しみながら何もできない。2人はただこうした日々を送りながら年老いていくだけ。自分らしい何かを達成することなどない。お払いをしてもらう神主は「平凡を恐れず、ささやかに生きること」をすすめるけれど、それに飽き足りない何かをもきっと感じている。また実際に純子は少女のハンカチから霊感で夫のトランクに少女が居ることを感じ取る。でもこれとて見ていたのは夫だけで、誰も彼女の能力ゆえだとは信じてはくれないだろう。有名になるということもあるだろうけれど、それ以前に自分を(つまりは自分の能力を)認めて欲しいという彼女は満たされることはない。だからセンセーショナルな「行方不明の少女を霊感で発見」というストーリーを彼女は欲した。しかしそれでも十分なリアリティーは感じられませんでした。テレビの夜9時からの2時間サスペンスドラマという枠、コマーシャルを除くと正味90分強という制約、製作費や製作日数に関する制約、スポンサーやテレビ局の注文、その他色々な制約的条件はあったのだとは思うけれど、そして原作があったこともあるだろうけれど、結局のところ黒沢作品としてはやや中途半端になってしまったのではないだろうか。一人でも自分を自分として認め、受け入れてくれる伴侶がいれば人は満足ではないだろうか。夫婦の絆(や愛)の描き方が曖昧だ。あるいは私的に悩める人々の相談に乗り、霊媒などすることの、自分の持てる能力を活かしたささやかな行為の積み重ねは純子に幸せ、と言わないまでも日々の充実感を与えはしないだろうか。逆に大それた野心的行動を取るにしては、その心理の描き方が不十分ではなかっただろうか。随所に細々と黒沢らしい魅力があるだけに、全体としてはやや残念な作品だった。(付記:この作品、昨年見た『アコークロー』というホラー映画の下敷きになっているような気がしてならない。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.08
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叫 (SAKEBI aka RECONTRIBUTION)黒沢 清104min(DISCASにてレンタル)1月3日の日記にも書きましたが、あまり見ていないながら 難解 とも言える黒沢映画の中では単純明解、実に解りやすいのではないでしょうか。相変わらず物語の脈絡に飛躍や不整合があって、また現実と非現実の区別が不明確ではあるけれど、とっても親切な筋運びだと思います。しかしそのぶん話が秘める深みが減じたようにも思います。彼の映画を見て「ちっとも恐くない」と不満を洩らす人もいるようですが、表面的にはホラー、サスペンス、スリラーの体裁はとっていて、そしてそれは事実なのだけれど、彼の映画のホラー性は表面的なホラーではなくむしろ心理的だし、ホラーと言ったときに我々が普通に想像するようなものではないですね。その裏に描かれる、なんと言うか 倫理的 とでも言ったものが、ボクにとっての黒沢映画の魅力です。そういう意味でこの映画も非常に面白いものでした。ただ深く見ると、あるいはもしかしたら元の映画の内容以上に発展させて見てしまうと、かなりの 重み のあるものなので、aire_rinoさんの日記にもコメントしたように、その時の自分の気分によっては近付くのを躊躇ってしまう場合もあります。こういう映画のレビューはネタバレしてしまってはいけないと思うのだけれど、でもネタバレしないと書きたいことも書けず難しいのですが、決定的なネタバレはしないように、そのため少し脱線や類考を交えながら、感想を書いてみたいと思います。東京の湾岸地区の埋め立て土地造成現場のような空地で、そこかしこは水たまり。そこで赤い服を着た若い女性が殺害される。海水の水たまりに顔を押し浸けての殺人だ。犯人の男性の顔は見えないが、遠景のショットでは役所広司演じる主人公の刑事吉岡のシルエットのように見える。そこには犯人の車であるらしい荷台がピックアップになったダットラのような小型トラック。主人公の吉岡刑事は自宅の古いアパートの一室にいる。そこには恋人らしき春江(小西真奈美)のい姿も。二人はほとんど言葉を交わすこともなく、彼女は異様に無表情だ。何かに悩む、苦しむ吉岡をヒザに抱いて優しく撫でる。そしてまた地震。この辺の論理は解らないが、埋め立てで、あるいは近付く大地震の前触れだか、液状化現象とかで、かなりの揺れの地震が頻発しているらしい。近代文明のなれの果ての終末論的イメージか(?)。春江は「帰る、また。」と言って去っていく。普通にリアリティーがあって、別に非現実的な映像があるわけではないのだけれど、既に黒沢映画の独特な雰囲気だ。吉岡を含む警察は現場を捜査し、吉岡は事件を担当することに。しかしそこで彼が発見したボタンは自分のコートのボタンと同じであり、家に帰って調べるとボタンが取れて一つない。また女性の死体の爪からは吉岡の指紋が検出される。自分は犯人なのか(?)。身元不明でF18号と名付けられた被害者の女性に吉岡は見覚えはなかった。思い出そうとするが出来ない。様子や行動がおかしいこともあって同僚の宮地刑事も不審の目を向ける。病院で入荷した薬剤を医師に手渡す看護婦は「使い過ぎると筋弛緩するので注意して下さい」と言う。医師は秘かにその薬剤を自分のカバンに入れる。オペ前なのだが医師を訪ねてくる高校生の息子。医者なら手に入るだろうと大量の注射器を父親に要求する。医師は拒絶するが息子は先輩に50万円の借金があると言って去っていく。夜医師は息子を連れ出し、先の薬剤を投与した上、海水に顔を浸けて殺害する。吉岡は直感で逃走中の医師を見つけだして逮捕する。同じ手口の犯行だが、この医師による連続殺人なのか(?)。吉岡は赤い服の見知らぬ女の幽霊の出現に苦しめられていたが、取調室で医師は幽霊の出現に恐怖する。しかし警官の誰にもその姿は見えない。職務によるストレスの治療として、すすめられて吉岡は精神医の高木のカウンセリングを受ける。高木は語る。過去の自分の失敗に対する罪意識が幽霊を出現させる。例えば捜査を誤った罪悪感を警官は忘れようとするが自分の中で処理できず、被害者の姿として現れる幽霊を見るのだ、と。この映画の原題はもちろん『叫』なのだけれど、欧米での公開タイトルは『RETRIBUTION』。報いとか罰とかいう意味だ。捕まった医師は息子殺害の動機を語る。息子は中学までは良い子だったけれど、高校生になって不良化して手に負えなくなった。それは自分の子育ての失敗だ。その責任を取るためにすべてを無かった状態に戻そうとした、と。何がマトモかという価値観には触れないとして、マトモでない一人の人間(息子)を存在させてしまった事実は取りかえしがつかない。これは親子という非常に近しい関係だけれど、我々は近くの他者、顔も見たことのない遠くの他者、そういう人々と否応無しに関係を持たされている。仮に悪気のない行為だとしても、その行為が他者に結果する責任とは何なのか。国内生産ならば300円するものを我々は安い中国製を百均ショップで買い、200円の節約は我々の生活を豊かにする。しかしこれは安い労働力の中国人を搾取していることに他ならない。それによって倒産に追い込まれる国内の製造業の人々もいる。街ですれ違い様に何の気なしに冷たい、あるいは好奇の視線を送った見知らぬ人にだって我々は影響を与えている。オウムの麻原の死刑判決を人々はいとも簡単に当然とするけれど、松本智津夫を麻原彰晃にしてしまったことの周囲の人々の責任は何か。社会の責任は何か。その社会を構成して動かしているのは我々一人一人でもある。話がかなり飛躍してしまった感もあるだろうが、本質は同じだ。そしてもう一つ。我々は殺人犯は殺人犯として悪者、自分(やその他一般)は犯罪を犯さない善人と簡単に2分してしまっていないか。この2者は実は本質的な差などない同じような人間ではないのか。その同じような人間が状況や偶然で犯罪を犯すのではないかという疑問の提示もあるような気がする。役所広司はボクはどちらかと言うと苦手なのだけれど、今回のヒゲ面のむさ苦しい雰囲気は良かった。スッキリとした姿よりも雰囲気があって良いのではないだろうか。小西真奈美も無表情な中に母性的優しさのようなものを上手く演じていた。精神科医のオダギリジョーはやはり薄っぺらでボクは駄目ですね。この映画でボクが感じる問題は、そこが一種のコミカルで、監督の意図なのかも知れないけれど、葉月里緒奈演じる赤い服の幽霊が笑えてしまう。窓から飛んでいくCGとか、最後の方の洗面器のシーンとか。洗面器のシーンなんかは『カリスマ』では洞口依子が刺されるシーンなんかと同じで、ある種の映像を映画的にやってみたいという監督の好みかも知れないのだけれど(この洗面器のシーンは別のホラー映画でもっと違った文脈の中で見せられたら恐いかも知れないが、この映画ではむしろ笑ってしまう)。全体の質感が、独特の不思議な雰囲気はあるもののリアリティーのあるものだから、妙な不自然な場面を入れることがない方が重厚で良い作品になるような気がしてならない。最後の方で吉岡が春江を抱きしめているシーンも、吉岡の主観による映像と映画の語りの客観による映像がカメラの切り返しで解りやすく描かれてはいたが、どちらか一方で良いと思った。 (もう少しネタバレして書いてしまえば)かつてフェリーから吉岡も見ていた赤い服の女の幽霊。吉岡も医師もF18号の犯人もその幽霊に直接は関係も責任もないのだろうけれど、自分で消化し切れない過去の過ちや責任を象徴するものなのだろう。そして幽霊が吉岡を許したように、忘れ去ろうとするのではなく自分の罪は罪として意識して、真摯にそういう罪を犯さずに努力することしか我々人間には出来ないのだ。人は常に他者に対して多かれ少なかれの責任を負って生きているということだ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.01.06
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沙羅双樹 aka SHARA河瀬直美 Naomi Kawase99min(DISCASにてレンタル)河瀬直美というと『萌の朱雀』でカンヌ最年少カメラドール受賞、『殯の森』ではグランプリ(審査員特別賞)受賞で有名ですが、彼女の映画を見るのは今回がはじめて。今月末から桜坂劇場で上映される『殯の森』を見にいく予定なので、一種の下勉強としてレンタルしました。ある種の雰囲気を持っていて、それに合わせた適切なエクリチュールを持った映画だと思いました。故里性と、なんと言うのか素朴主義のようなところが、ある意味大林宣彦なんかに近いかも知れませんね。故郷奈良に対する自分の思いを語り、また生活観・人生観・生死観のようなものを語り、自らも出演して演じ、それを長回しの手持ちカメラで追い、ポエティックでもありまたドキュメンタリー風でもあって、とっても私的な映像が美しいのだと感じました。高校生の主人公 俊 が幼馴染みの同級生 夕 をモデルにデッサンをしているシーンがあります。最初スケッチブックを手にデッサンしている俊を正面から捉えているカメラは、俊が床に落とした鉛筆に下方にティルト移動し、そのまま床をなめながらまた上方にティルトしてモデルを務める夕を捉え、そのままパンして夕の後姿と俊のを前からやや斜めに画面に収める肩なめショットに移行する。冒頭の5年前のシーンで小学生の俊は双児の兄圭が迷路のような奈良の路地を走っていくのを後から走って追っていく。5分ぐらいの超長回しだけれど、その2人を実はカメラが追っている。同種のシーンは後に夕を乗せた俊の自転車を延々カメラがやや上方から追う長回し。この視点が独特です。この映画、誰の(感情的)視点で描かれているかがはっきりとしない。俊が感情的中心とも感じられるけれど、中心は夕でもあるかのようであり、また俊の両親や夕の母だったりもする。つまりこの感情的視点の不明確さは、実は感情的視点は監督(ないしカメラ)にあるからだと思います。自分が自分であって、でも外から見ている感じもある夢の中の視点に近いのかも知れません。そういう風にとても私的な語りの世界で、それが魅力的。(以下ややネタバレになりますが)麻生家は伝統的墨職人の家で、両親と双児の兄弟の4人暮らしなのだけれど、5年前の夏のある日、一緒に遊んでいた兄弟の一人 圭 が突然走り出し、俊は迷路のような狭い路地を追っていくのですが、ある角を曲がったところで圭の姿が消えてしまう。この失踪が心理的に解決できずにいる麻生家。父は3年前に再開したバサラ祭といいう地域の祭の実行委員を積極的にすることで心の解決をしようとしている。俊は圭の等身大の肖像画を描くことで心を整理しようとしている。母は路地栽培で野菜等を作り、大地や自然の摂理に従っていて、夫や息子の2人よりはあるがままを受け入れている感じで、今新しい生命をお腹に宿している。ある日刑事が家を訪れ行方不明の圭の消息が分かったと知らせる(映画では詳細は何も明かされませんが)。俊の幼馴染みの同級生 夕 は豆腐料理の料理屋を営む母と2人暮らしなのだけれど、実は出生の秘密があってそれを母から聞かされる。そんな翳りを抱えた俊や夕、そして2人の親たち3人。バサラ祭が行われその先頭で踊る夕。祭の熱狂の中に生のエネルギーが発散される。そして新しい生命を4人に見守られて出産する母。こうして生きることが再生され、受け入れられる5人の物語です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.11.15
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LES PLAISIRS DE LA CHAIRTHE PLEASURES OF THE FLESHNagisa Oshimaカラー90min(DISCASにてレンタル)もう遥か昔に大島渚や日本映画に関する本を何冊も読んで既に見たと思っていた映画だけれど、たぶん実は今回が初めてで、見た記憶はなかった。大島監督というのはやはり 頭の人 で、特に若い頃はそうだから、頭で考えぬかれた映画作りであるので、ある意味解りやすいと感じた。英語や仏語の題に監督本人の意志が絡んでいるかどうかは不明だが、「肉体の悦び」ぐらいの意味で、主旨としては快楽に特化した性は自己破壊であり自殺であることだろう。中心に据えられていているのは中村賀津雄の演じる主人公脇坂の物語だが、彼が関わり遍歴する4人の女性が挿話的に描かれる寓話のオムニバスとしても見れ、なかなか面白かった。題名から予想されるような派手な性描写はほとんどないが、映倫によるカットの結果らしい。結果的にその方が良かったのかは不明だけれど、そういう表現の制約なく作家の思う通りに作られた映画を見てみたかった。貧乏学生の脇坂は家庭教師をしている金持ちの娘匠子(加賀まりこ)を秘かに深く愛するようになっていた。匠子も屈託なく天真爛漫な様子で脇坂になついていた。匠子はもう忘れているらしいが、小学生の頃男に暴行され、両親(成瀬昌彦、氏家慎子)は今もその男に強請られていた。両親にその男へ金を届けることを頼まれ、匠子を愛する脇坂は金を届けた後その男(小林昭二)を尾行し、列車のデッキから突き落として殺害した。今は安サラリーマンの脇坂のボロアパートにある夜速水という農産省事務官が訪れる(小沢昭一)。速水は脇坂の殺人現場を見ていたと言う。速水は横領した公金9800万円のうちの3000万円の入ったトランクを脇坂に無理矢理預け、たぶん5年ぐらいになるだろう刑期を終えて出所してくるまでその3000万円を預かって欲しいと言う。金に手を出したら殺人を目撃したことを警察に話すと言うのだ。しかしそれから4年後「匠子の花嫁姿をぜひ見て下さい」と結婚披露宴の招待状が届き、匠子は有名化粧品会社社長と結婚してしまった。脇坂は3000万円を1年間で派手に使ってしまい、あとは自殺をしようと考えた。そして次々と4人の女を月100万円で買う脇坂の生活が始まるのだが・・・。(以下ネタバレ含む)最初の女は匠子の面影のあるバーのホステス眸(野川由美子)。打算的でクールな彼女はリッチな生活を喜び、金で買われた愛情を脇坂に示した。画面には脇坂しか写らないが(この辺が映倫カットないしその対策?)脇坂が彼女の体の各部分にオイルを塗るシーンで、「これは誰の物?」「あなたの物よ」という2人の問答が繰り返される。金で体の所有は出来てもそれは心の所有ではないと言っているように聞こえるが、もともと眸は匠子の代替物であって、求めるのは匠子の心ではあっても眸のではない。結局ヒモのヤクザ絡みのごたごたで脇坂は眸を去る。次はまともな職もない上に友人の保証人となって借金に苦しむ気のいい駄目男江城(小松方正)の妻志津子(八木昌子)。小さな子供2人も抱えてアルサロ(=アルバイトサロン)で働く彼女は被虐的女で、不幸こそが彼女を夫に繋ぎ留めているのかも知れない。そんな志津子を脇坂もいたぶるが、結局夫との不幸な生活を志向する彼女に家と金という一時の幸せを不幸として与えて脇坂は去る。3人目は研究医のインテリ女圭子(樋口年子)。殻に籠っていて、自分の「女」を受け入れることができない抑圧された圭子はまだ処女だ。月100万円で女として買われることを拒絶する彼女に、脇坂は試用期間として1ヶ月間の北海道旅行を提案する。彼女は風邪をこじらせて寝てばかりいることになる。1ヶ月の期限が来て阿寒湖畔(?)でパトカーを見た脇坂は「圭子さん、ボクを好きになって下さい。いや好きにならなくてもいい。1回だけ寝て下さい。」と土下座して懇願する。今までの2人の女は最初から簡単に脇坂に体を許した。しかし拒絶する彼女の中に脇坂は自分を受け入れずに捨てた匠子を見ていたのだ。だから殺人罪で警察に捕まる恐怖や自分に残された時間があと3ヶ月だという思いを新たにしたとき、圭子=匠子(あるいは一人の女)の愛を欲した。それが叶わぬなら幻想だけでも満足させてくれる体を欲した。たとえ一回限りでも。それも拒否された彼は乱暴に圭子に迫る。湖に入水までして拒絶した圭子だったが、彼女の出した条件は結婚だった。東京に戻って結婚した最初の晩2人はベッドインする。素性は言わないでくれと言っていた圭子だったが、ここにきて彼女は脇坂の素性を尋ねた。初めて身を任せる男が何者か知りたいと言う。脇坂は答えずに無理矢理圭子を抱くが、言いたくても言えないのが脇坂の状況だ。体は得たが、言えない脇坂はやはり圭子の心を得ることなどできない。2ヶ月後には圭子と離婚して死ななければならないのだ。そんな2人が上手く行くわけはない。また圭子は別れた後脇坂が自殺しようとしていることに気付いていた。(以下結末もネタバレ)そんな煮詰まった精神状態で出会ったのは唖で知恵足らずの娼婦マリ(清水宏子)。何も言わず(言えず)にただ笑って脇坂を受け入れるマリに彼は安らぎを感じた。それを知った圭子は離婚届への押印を要求した。しかしマリを自分のものだと言うチンピラの工藤(草野大悟)が出所してきた。最初は大金でマリを工藤から買うが、やがて羽振りも良くまた事に動じない脇坂に工藤は一目置くようになる。そして刑務所の同房で死んだ公金横領犯速水の3000万を狙っていることを話す。しかしその金を預かり、全額を既に使ってしまったのは自分だと脇坂に言われ、工藤は脇坂にピストルを向ける。ちょうどマリがそこに現れ、揉み合った末ピストルを手にしたマリは工藤を撃ってしまう。知恵足らずのマリではあったが、もしかしたら彼女こそ脇坂を愛していたのかも知れない。しかし脇坂はそのままそこを去る。もとの安アパートに戻ると匠子が訪ねてきた。この1年の間に女連れの羽振りの良い脇坂を何度か見かけたと彼女は言い、夫の会社が倒産寸前でお金を貸して欲しいと言うのだ。そのためなら脇坂に何でもすると言う。脇坂は殺人を目撃された弱味に付け込まれて3000万円を無理矢理預けられ、それをこの1年間ですべて使ってしまったことを話すが、自分の役に立たないと知って匠子は脇坂を非難して去っていく。それでも脇坂は殺人の理由を匠子に話しはしなかった。すべてを失い、毒のカプセルを手に呆然とさまよう脇坂に警官が迫る。殺人容疑で逮捕するという。カプセルを口に入れて密告者を警官に問うと、答えは匠子だった。毒薬を吐き出した脇坂は警官に連行されていく。最初にも書いたようにこの映画は脇坂の女性遍歴に登場する各種4人の女がオムニバス的に描かれているとも言える。各種各様の女の姿を描いている。一方メインストーリーの脇坂はある意味で非常に傲慢だ。自分の一方的な愛のために罠にはまり、匠子を得られなかったことでそこに彼が見る全世界を敵に回してしまった。そのことは最初の方で新婚の匠子が脇坂を訪ねてくる彼の妄想シーンでしっかり描かれている。世界すべてに裏切られたという子供っぽい傲慢さとも言える。だから金の力はあっても、あるいは金だけで女(つまりは世界)を屈服させようとしても何も得られない。パックリと開いた深淵に落ち込んでいくだけだ。山田風太郎の原作小説が『棺の中の悦楽』で、セリフにもあるようにトランクは棺桶であり、自分が入るべく中の3000万円を悦楽で、つまりは彼の傲慢で空にしていく物語なのだ。脇坂を演じた中村賀津雄は傲慢と不安を良く演じていたし、眸、志津子、圭子、マリを演じた4人の女優もそれぞれの役を好演していた。中では圭子とマリが良かっただろうか。物語としても圭子がいちばん深く描かれている。加賀まりこの匠子はやや捉えどころが希薄だが、遍歴の女4人に抽出して描かれた女の色々な面をすべて底に持った存在が匠子なのかも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.09.05
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LIFE CAN BE SO WONDERFULOsamu Minorikawaカラー&白黒70min(桜坂劇場にて)8mmフィルムからのブローアップということなので、とにかくはスクリーンで見てみたいと映画館で見ました。16mmとは違いやはり8mm的画質は味がありました。映画は5編からなるオムニバス。ストーリー性は低く、映画によるエッセイないし散文詩といったところでしょうか。内容的には素朴派とでもよんでおきますが、こういうの自体は嫌いではありません。ただ2つのことを感じてしまい、かなり辛口な評価しかできません。第一点は、1970年代、80年代頃だったでしょうか?。たとえばNHKの単発のドラマであったり、TBSの東芝日曜劇場でたまに放映されるHBC(北海道放送)など地方の放送局の制作したドラマで、どちらにせよ芸術祭参加作品などと銘打たれたドラマに、こういう素朴派的感じのものがあって、画質も雰囲気もこの映画に酷似していたこと。もちろんテレビドラマの方はちゃんとしたストーリーがある点に差はありますが、この映画にはそういう意味での目新しさはありませんでした。そしてそれに第二の点が絡むのですが、何でもない普通の人々が、普通の日々の生活の中でのちょっとした思いとか、喜怒哀楽をほのぼのと描写した散文詩、内容的に素朴派とよばせてもらいましたが、それ自体はとっても良い。でもその思いや感情が稚拙で、あまりにも幼稚なんですね。こっれって中学生の日記なの?、って疑問を持ってしまいます。この思い入れ過剰の感傷には日本人の 大人の 感情生活の幼さを感じずにはいられませんでした。こういうことを言うとこれを好きな方々から批判を受けるのは予想がついていますが、感傷的マスターベーションは気持ちが悪いです。同じ素朴であったり優しい感情生活でも、もっと成長しなさいよ。逃避的感傷に甘えるのは健全ではありませんよ。と言った感想です。日々のささいなことに感動をすることと、感傷的マスターベーションは同じではないのです。長い映画の1挿話や主人公や物語を描くための1シーン、そういうものとしてではなく、ただ1編14分くらいの独立した散文詩として見せるには、詩性 のレベルが低すぎると感じました。第一章「世界はときどき美しい」Life can be so Wonderful東京暮らし19年の野枝。11年前から絵画教室のヌードモデルをやっているが、現在38才で、見られるだけで自らは何も創造しないモデルという仕事や、加齢による肉体の衰えの不安などに悩みも持ち、体調を崩してしまう。そんな彼女が目をとめるようになったのは何でもない草木の美しさ。自分がモデルとなった絵について「あなたが描かせてくれたんですよ」と言ってくれた画家の言葉に慰めやアイデンティティーを感じる。(松田美由紀)第二章「バーフライ」Bar Fly大阪の歓楽街でサンドイッチマンなどの路上の日銭稼ぎで暮らすもう老年も近い男。仕事を終えると毎夜酒を飲み歩くのが楽しみだ。この店で一杯、こちらで二杯とバーを転々とする彼は蠅男とよばれた。生まれた以上生きていかなければならない孤独な男の実存を描いていると言えばよいのかも知れない。(柄本明)第三章「彼女の好きな孤独」Her Favourite Solitudeベッドの中のまゆみと邦郎。セックスの後なのだが、噛み合わない空虚な会話。自分は本当に生きていると言えるのだろうか、自分は邦郎を愛しているのだろうか、空想と疑問を静かに巡らすまゆみ。それでも生存はしているまゆみのお腹が鳴る。(片山瞳、瀬川亮)第四章「スナフキン リバティ」Snusmumrik Liberty子供の頃から星を見るのが好きだった柊一は大人になれないまま夢を追って天文台に勤務。そんな彼を見守る恋人の朋子は避妊の失敗で妊娠をしていた。柊一は世界における自分の位置付けや父親になることの意味が見出せず何事にも現実感を持てない。夜勤で天文台へ向かう柊一を見送る朋子は不安だった。(松田龍平、浅見れいな)第五章「生きるためのいくつかの理由」Reasons to Live花乃子は独り暮らしのOL。亡き父の墓参りを母と兄と3人でする。帰りに実家に独り暮らしの母と3人で食卓を囲む。実家にある子供の頃の思い出の品々。家族の絆とは何か。自分の人生とは何か。老齢の母の孤独に思いをはせる花乃子だった。(市川美日、木野花、草野康太)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.09.02
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火星のカノンTHE MARS CANON(aka : CANON ON TUESDAY)風間志織121min見始めて最初の15分か20分、映画が良い悪いというのではなく、それを言うならむしろ良く出来ているからだと思うが、描かれている世界にちょっと違和感を感じた。ここのところあまり日本映画を見ていなかったせいかも知れない。登場する日本人に違和感を感じたのだ。それはつまり毎日見慣れている欧米映画に出てくる人物たちとかなり違うからなのだが、それは日本人を日本人として的確に描いているということでもある。前にもどこかで書いた日本語の性格とも関連するのだが、気持ちを言語化しないあり方だ。それは自分の相手に対する気持ちを と りあ え ず 客観化して、それを自分にも相手にも提示するということの不在。その点ではたとえば公平の娘ありみは子供だからか(?)もっとストレートだ。あるいはある言葉に対する万人共通の客観的理解の共有の不在、ないしある場合には拒否。それはある事態の本質の明確化の不在や拒否でもあり、すべて個人的 特 殊 性 に帰せしめようという欲求でもある。社会通念や常識の問い直しをしようという意志が有ろうと無かろうと、言葉にまつわる手あかに対する拒否が有ろうと無かろうと、妻子ある公平とつきあう絹子の関係は 不 倫 以外の何ものでもない。こういう情緒性が良く描けていて、そのために違和感あるいはもどかしさを感じてしまったのだ。(ただ誤解があってはならないのは、この絹子と公平のような心理状況のカップルが欧米世界にはないということではない。)今、上に書いたことと矛盾するようにも感じられるかも知れないが、そうした日本人や日本語の特殊性を除けば、映画自体はものすごくフランス映画的だと感じた。ある状況下における人々の孤独、他者を必要として求め、それぞれがエゴイスティックでもある。その心理状況が淡々と語られ、特別の劇的展開があるわけでもないし、明確な結論が示されるわけでもなく映画は終わる。ゆっくりとした、間合いの長い、結果2時間を超える編集の仕方も成功だと思う。絹子は妻子ある公平の週1回火曜日だけの不倫相手なわけだけれど、絹子にとってたぶん公平は運命の男でもなければ、特に魅力的なわけでもない。公平の存在はいわば麻薬であり、アルコールであるだけだ。孤独を紛らわすために好きでなくてもやめられない麻薬中毒のようなものだ。熱海旅行に行った2人は浴衣を着て部屋で夕御飯を食べる。公平の差し出すお茶碗に絹子が御飯を盛ったりして、絹子が口にするように2人の家での夫婦水入らずの生活のひとコマのようだ。中毒患者絹子の夢は公平が離婚して自分と結婚することだけれど、仮にそれが実現しても決して幸せは待っていないように辛辣に描かれているような気がした。そんな絹子を演じた久野真紀子も公平の小日向文世もとても良い。絹子を好きで、絹子に冷たく拒否されても怒らず淋しいだけで、お腹が減ったと言われれば甲斐甲斐しく御飯を作る聖。しかし日本女性一つの姿として旧来から描かれた演歌的日陰の女ではない。4人の主要人物の中で聖がいちばんしっかりと自分の欲求を行動に移す。自分を抱いて絹子の悦ばせかたを教えてと公平に迫る聖でもある。こういう静かな激情の女というのは恐くもあるが魅力的だ。演じた中村麻美が良かった。最初に違和感と書いたが、それほどまでに真鍋や焼き鳥屋の男も含め、すべての役者がリアリティーをもって人物を表現していた。これはボクの見た最近の日本映画としては稀に見ることだ。小学生のありみの子供の直截な物の見方を描いて大人の人物の心理のヒダを浮き彫りにした脚本も巧い。聖は絹子と同性愛として描かれてはいるが、その点は特に重要ではないと思った。聖という1人の人物を描きたかったのと、絹子と公平の関係で必要とした副人物を一緒にしたようなものだ。そしてその聖は絹子のある一部分の人格化にも感じられた。(以下ネタバレ)絹子29才。独身。チケットビューロー勤め。彼女には火曜日だけの恋人公平がいる。公平は会社員43才。共稼ぎの妻と小学生の娘。絹子が病気になれば火曜日以外でもなんとかやってくるが朝までには帰って行くし、一緒に温泉旅行に行って、夜「このままもう帰らない」と(ウソでも?)言っていても娘が病気と妻から連絡があれば途中で帰ってしまう。路上の詩人・占師の真鍋は聖の姉の元カレ。聖を仄かに想い、一緒に暮らしているが、聖にとっては友情の対象。絹子に再会した聖は絹子を愛するようになり、空いていた絹子のアパートの隣室に引っ越してくる。公平との気持ちのすれ違いから絹子は真鍋と一夜の関係を持つが、真鍋は絹子に惹かれながらも愛を強要しない。やがて一軒家を借りて聖と二人住むようになる絹子だが、聖とベッドをともに眠る彼女が夢に見るは公平との幸せだった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.10
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ドキュメンタリー映画選挙 CAMPAIGN想田和弘 Kazuhiro Soda120min那覇・桜坂劇場にて解説:(公式HPより引用 www.laboratoryx.us/campaignjp/)電柱にもおじぎせよ!壮絶「どぶ板選挙」にみるニッポンの民主主義2005年秋、小泉劇場まっただなか。東京で気ままに切手コイン商を営む「山さん」こと山内和彦(40歳)は、ひょんなことから自民党に白羽の矢を立てられ、市議会議員の補欠選挙に出馬することになった。政治家の秘書経験もない山さんは、いわば政治の素人。しかも選挙区は、ほとんど縁もゆかりもない川崎市宮前区。いわゆる落下傘候補だ。「電柱にもおじぎせよ!」を合い言葉に、小泉首相や自民党大物議員、地元自民党応援団総出の、世にも過酷な「どぶ板選挙」がはじまった。果たして、山さんは勝てるのか?そして、選挙戦を通じて浮き彫りになる「ニッポン民主主義」の本質とは? 戦後50年間、ほとんど途切れることもなく日本の政治を支配してきた自民党。『選挙』は、この巨大政党がいかなる戦略と方法論を駆使して「政治の素人」を「公認候補」に仕立て上げ、選挙戦を展開するのか、裏も表もつぶさに観察したドキュメンタリー映画。日本の政治の縮図ともいえる市議会議員選挙に密着することで、日本型民主主義の構造そのものをあぶり出した。 感想:もちろん細部の知識として知らないことや気付かされることはあったが、おおよそ選挙に持っていた印象や知識のままの内容で、その意味では新しいことは何もなかった。一方ではショー化しているとはいえテレビのニュースでは政策が語られ解説され、他方では選挙カーなどの名前連呼や候補の好感度での候補者選びがあり、その2つの融合で選挙結果や政治状況が決定されていくことの疑問や不条理を感じないわけにはいかなかった。日本的と言えば非常に日本的社会のあり方で、その意味では海外の観客には面白いかも知れないが、日本の政治は本当にこういう姿で良いのだろうか?。 山内和彦氏は今年は再出馬せず5月で任期が切れたらしいし、この映画の公開自体も6月9日で選挙の後なわけだけれど、この映画って完璧山内氏の選挙宣伝ビデオにもなりますね。見た人で彼に親しみや好感持つ人が少なからずいそうだし、自分を含めてですが。でも彼の政見は何もわからない。まさにこの映画を見て彼にどんな印象を持つかというのが、日本的選挙活動そのものと言えるのかも知れない。肯定であれ、否定であれ、容認であれ、拒絶であれ、日本の選挙や政治のあり方をそれぞれの仕方で反省するのには良い材料かも知れません。 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.07.03
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ドレミファ娘の血は騒ぐ(女子大生・恥ずかしゼミナール)黒澤清83min寸評:黒澤清監督のごく初期の作品。最初『女子大生・恥ずかしゼミナール』という題で日活ロマンポルノとして撮られたが、あまりの前衛性にお蔵入り。撮り足したフィルムを加えて再編集され、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』として完成された。(主演の)洞口依子ファンと黒澤清ファンにとっては必見お映画かも知れないが・・・。日本映画の斜陽期に日活ロマンポルノの果たした役割は大きかった。低予算で次から次へと作られたわけだが、ポルノチックであれば、つまり裸とセックス場面さえあれば、監督はかなり自由に映画を作れたらしい。今日一般映画の監督などとして活躍する人材を育てる場であったとも言える(結果的に)。そのロマンポルノで黒澤清がかなりやりたい放題に作り、結局前衛的過ぎてお蔵入りになってしまった。冒頭から超長回しの凝った映像、8mm映像(っぽいもの?)の挿入や、洞口依子を正面から撮って "わけのわからぬ" 妙に哲学的・政治的(?)なセリフを独白する彼女を延々と写したり。若き黒澤監督がゴダール好きだったんだな~、って感じさせる映画だ。もっとも今回見たのはもちろん撮り足して再編集された『ドレミファ・・』で、もとの『女子大生・・』の方がどのようなものであったかはわからない。撮り足しの部分だろうが最後は河原の草むらで銃を持っての戦闘(?)シーン。マシンガンの鈍い銃声が響き、ゴダールの『カラビニエ』でも見ている感じ。長め広めのスカートの白い衣装の洞口が銃を持っているラストは、正に『ワン・プラス・ワン』。ゴダールの映画と同じで、論理で筋を解釈・分析をしようとせずに、ただただフィルムに身を任せていると良い。アンナ・カリーナをただただ撮りたいって感じのゴダール映画のシーン同様、洞口依子をただ撮りたいって感じのシーンもイイ。洞口さんて一種独特の雰囲気持っているから、二十歳そこそこで既に。ボクはテレビを見ないからテレビドラマの洞口さん知らないけれど、黒澤と伊丹の映画以外で、こういう洞口さんの独特のキャラを活かした重厚な作品がもっと撮られたら良い(良かった)と思います。5月に『マクガフィン』シリーズの沖縄編の上映が沖縄の首里劇場っていう超趣きのある映画館で上映され、そのとき洞口さんにもお会いしたけれど、その映画の中の彼女も実物の彼女も実に独特の雰囲気があって、それはこの『ドレミファ・・』や『カリスマ』の時と変わっていませんでした。この『ドレミファ・・』、ゴダールと黒澤清の両方のファンで一緒に見たら話がはずむかも知れない。黒澤の廃虚(廃屋)好みの面なんか既にここでも出ているし。もちろん若き日の洞口さんのフル・ヌードも出てくるから、依子ファンにもお勧め。こういう作品がDVD化され、しかもDISCASのような大衆的なレンタルショップで借りられるというは素晴らしいですね。もっと他にも色々DVDして欲しいものです。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.30
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アコークロー岸本司97min那覇・桜坂劇場にて寸評:んんん~、なかなか良い映画で~、特に着想は良いけれど~、ちょっと中途半端なのが~、残念でもある。(歯切れの悪い寸評ですが、そんな感じなんです。)アコークローっていうのは沖縄の言葉で「明るくて暗い」というような語源で、昼が夜に移行する時刻を表す言葉なんでしょうが、けっこう年輩の沖縄の人でも聞いたことないって言います。沖縄は南国で、しかも海岸だと空と水平線が広く見渡せて、夕焼けとか赤い暗い空と海、それとまだ明るい青い空が共存して、しかも夕日で照らされた陸地が段々暗くなって見えなくなって、ちょっと幻想的で無気味な雰囲気があります。昼間は明るいイメージがあって、人間の健全な心理のイメージがあって、暗くなるとドロドロした人間の黒い情念が浮上してくる感じがあり、そういう象徴としてはイイ感じのタイトルですね。一方キジムナーっていう沖縄の妖怪?、妖精?、化け物?、そんな生き物が民間伝承にあります。背は小さくて、赤い髪をしていて、好物は魚の目で、ガジュマルの木に住んでいて、日本本土のカッパに合い通じるというか、寂しがり屋で、人に良いこともするけれど裏切られると恨んで復讐するとか、そんな存在。それを人間心理の表と裏の象徴として使っています。アコークローの無気味な雰囲気と人間心理のドロドロを象徴するものとしてのキジムナー、そういう沖縄的なものを組み合わせて人間ドラマをホラータッチで描こうとした発想は実に良くって、基本はかなり成功しているものの、結果は脚本の練りが力不足といった感じなのがとっても残念でした。(以下ネタバレ)物語は、日本本土から来て気の合う友人仁成(尚玄)に出会って沖縄に住み着いた浩市(忍成修吾)というナイチャー(内地からきた人)のもとに、1年前に沖縄に来て浩市と仲良くなった美咲(田丸麻紀)がやってきて一緒に住み始める。仁成は小学生の息子ジンタと暮らしているのだけれど、2人目の子供を死産か何か(あるいはもっとオドロオドロしい何か)で失ってから頭のおかしくなった別れた妻早苗(菜葉菜)がいて、髪の毛を赤く染め、仁成の家の周囲をうろついたり、ジンタの髪を赤く染めようとしたり、色々おかしな行動をとるので、仁成は彼女が家に近付くことを嫌っていた。(以下完全ネタバレ)ある日早苗が鎌を振り回して仁成の家を襲い、居合わせた美咲が経緯上殺してしまう。死体は浩市が近くの大きな池に沈めてる。その日以来仁成や浩市に幽霊となった早苗が姿を現すようになる。そして仁成は首を吊って死ぬ。やがて美咲にも幽霊が見えるようになり、浩市も幽霊に常時監視されて日常生活も安らかに送ることができなくなり、浩市はユタ(霊媒のような、巫女のような、シャーマンのような、そんな霊能者)の影美(エリカ)に殺人と死体遺棄のことは隠して相談する。そこで幽霊の早苗を前にしてユタ影美が行うのは『エクソシスト』の悪魔払いに似ていた。影美は浩市が隠していたことを幽霊との霊能的対話で知り、庭にいた浩市は目を自ら抉り始める。やがて早苗の幽霊は怪物、これがキジムナーだと言うのだろう、その怪物を口から吐き出し、それをユタ影美は飲み込んでしまい、悪魔払いならぬキジムナー払いが終了する。早苗は成仏し(?)、浩市と美咲は自首したのか拘置所に入っている。しかし早苗の死亡推定時刻は鎌で美咲が殺してしまった日ではなく、キジムナー払いをした日だった。拘置所内ですれ違って無言で目と目を合わす浩市と美咲はすべてをさらけ出して浄化された清々しい雰囲気だ。映画では先祖や家の色々な問題を早苗が一人で負わされてしまっていたとかいうことで、その人々の悪意を象徴するのが彼女が身の内に抱えていたキジムナーだということなのだろう。また物語には美咲がかつて姉の子供の子守りをしていて過って死なせてしまったことが絡められていた。しかしこの2人の女性の「何故」に関してほとんど、いやまったくと言ってよいほど何も語られない。また演技的にも示されない。たとえば美咲の演技には陰りがまったくない。ただ「そういうことらしい」とおぼろげに示されているだけだ。ホラーならもっとホラーとして作るか、人間ドラマならドラマとして仁成、美咲、早苗の心理を深く描くか、そのどちらでもないのが中途半端だった。もちろんドラマとして深い人間心理を描く方をして欲しかったが、脚本・監督にはもともとそこまでの深い人間洞察をする能力がないようにも感じられた。映画で詳しく描かないまでもそれが少しでも意識にあれば、こんな中途半端でフラストレーションの残る映画にはならなかったと思うからだ。ただ映画冒頭の長いシークエンスにはこの監督の才能を感じたことを書き添えておく。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.27
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恋しくて中江裕司(原案 BEGIN)99min寸評:良い評価と同時に酷評もあり、また中江監督の沖縄との関わり方に対する批判まであったが、迷った末見にいって良かった。かなり勝手な見方なのかも知れないが、若い主人公のラブストーリーやBEGINに模したデビュー物語など表面的にストーリーと思われるものは実は素材ないし道具に過ぎないのであって、映画のテーマはもっと別のところにあるような気がする。中江監督や中江作品のファンでもなければアンチでもない。中江裕司というと、沖縄で生活するようになって街で見かけたり、ときどき色々うわさを聞いたりする以外は、沖縄に来る少し前にDVDで見た『ナビィの恋』という一種独特の時間感覚の不思議な映画の印象がおぼろげにあったのみだ。ところが今回この『恋しくて』を見始めて少したった頃、急に『ナビィの恋』が蘇ってきた。蘇ったと言ってもストーリーやら映画作法ではない。時間の感覚だ。マルセル・プルーストは「ある作家の本を読むとき、初めて読む1冊目の読書は本当の読書ではない。2冊目を読んで1冊目との共通することに気付いたとき、それが本当の読書だ。」というようなことを言っている。今回映画でこのことを体験した。ストーリーではなくその底に流れる時間が『ナビィの恋』と『恋しくて』で共通しているのだ。そしてそれに気付いたとき、この時間感覚こそが実は中江映画の真のテーマなのではないかと思えてきた。(以下ちらほら少しネタバレ含みます)映画は真っ黒いスクリーン、真っ暗やみに何か微かに音は聞こえるか聞こえない、ほとんど何も聞こえない、そんな始まりだ。やがて少しずつ画面が明るくなる。窓の外が明るくなっていき、夜明けを時間を短縮して描いている。ベッドに女の子らしき寝姿が見え、高校生になった加那子の部屋の朝だとわかる。目覚めた彼女はハンガーに吊るしてあった真新しい制服を身につける。この出だし、別に大して凝っているわけでも目新しいものでもなく、高校生の下着姿を写したりして中江監督は何考えてるるんだって感じなのだけれど、映画の途中にも海と空の風景が夕暮れなどを時間を短縮して描かれたものが挿入され、最後は映画の物語のバンド「ビギニング」の演奏風景が巧みにBEGINに入れ代わって、映画の作中の時間と現実の時間が混交されるラストで、これらは実は一貫した時間の描き方の各要素なのだ。そう言えば『ナビィの恋』でも若い二人の結婚披露の席でカチャーシーが踊られ、その間に時間が経過して二人には既に子供が出来ているというのがラストだった。具体的な映画の筋としては、高校生になって再会した幼馴染みの栄順と加那子のラブストーリーに、加那子の兄セイリョウの一声で始めたバンドのサクセスストーリーが実在のバンドBEGINの物語をなぞる形で絡めて描かれ、それに兄妹が幼い日に奄美に行ったまま消息の分からない父親の物語が加味されている。しかし見ようによってはそのどれもがとりとめない。描かれ方も半ばコミカル、半ばシリアス。この辺と、やや冗長に描かれる高校生バンドの音楽、そして妙に沖縄紹介的な部分、そうしたことがこの映画を批判する人の根拠であるようだが、これらは実は真のテーマではないと気付くと納得が可能となる。実はある種の「人間的時間」と人の生きる人生観のようなものがこの映画のテーマではないか、と。中江監督は沖縄でばかり映画を撮っているが、このある種の「人間的時間感(観)」はことさら沖縄のものではない。人が生きるとき、それが何処であっても根本にあることだ。カラテ部に入って情熱を燃やす加那子、加那子と栄順の恋、バンドにかける情熱と成功への物語、行方不明の父の記憶、『ナビィの恋』で言えばオバアの古い恋物語や現代の若い2人の恋、時間感覚が曖昧なオペラ歌手やバイオリンを弾くアイルランド人の物語、と言うより生活の一齣、そして結婚式でカチャーシーを踊って一時の現在の喜びに酔う人々、こういう人が生きるときに持つひとつひとつの出来事や情熱・情念、要するに時間の流れの中での人の生のはかなさ。ただそういうものとの一体感が沖縄の人々の生き方には強いのだ。それは人間存在の哀しみであるのだけれど、自然やその時間の流れの中にそのことと一体となって生を営むことを知ったとき、それは大いに慰めに満ちたことでもある。中江監督の映画のテーマはこの点で一貫しているのではないだろうか。冒頭で夜明けの時間の経過とその中での加那子の日常を描き、ラストでは映画の作中のバンドであるビギニングの時間を現実の(映画外の)BEGINの時間に移行したこと、これは単なる安っぽい常套的映画表現である以上に、映画的時間やそこに描かれた人々の生を長い自然の時間の中に位置付ける作法なのではないかと思う。中江作品、ちょっと他のも見てみたくなった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.06.25
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お遊さま/Miss Oyu溝口健二白黒 95min那覇・桜坂劇場にてレビューは後日監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.22
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武蔵野夫人/The Lady of Musashino/La Dame de Musashino溝口健二白黒 92min那覇・桜坂劇場にてレビューは後日監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.20
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赤線地帯/Street of Shame/La Rue de la honte溝口健二白黒 85min那覇・桜坂劇場にてレビューは後日監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.19
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夜の女たち/Women of the Night/Les Femmes de la nuit溝口健二白黒 73min那覇・桜坂劇場にてこの日はちょっとした上映ミスがあった。予告編が終わってスクリーンを覆うカーテンがスタンダードサイズに両横が狭まって、そうしたらカラーで大映のロゴが映った。???!!!、『夜の女たち』って白黒だし、大映だっけ?、別の映画?。そう思っていたら『楊貴妃』のタイトル。そこで映写が中断され「しばらくお待ち下さい」のアナウンス。改めて上映が始まり、白黒で松竹のロゴ。そう、そう、そうだよな!。2~3分待たされただけだから別にどうってことないのだけれど、後の方で「何やってんだ!」って年輩男性の非難の叫びも。このおやじの叫びは不快だった。でもボクが思ったのは、『楊貴妃』のタイトルが出る前、カラーであることと大映のロゴで映写技師さんには気付いて欲しかった。たまのミスはやむを得ないとしても、映画についてもっと知っていて欲しい。例えばこれから上映する『夜の女たち』は白黒で松竹作品である、とか・・・を。敗戦後の大阪、田中絹代演ずる大和田和子は小児結核の子供を抱えて夫の復員を待っている。終戦後のこと寄宿する義兄の家とてゆとりがあるわけでもなく、和子に対する扱いは冷たい。病気の子供を抱えて働きにも出れず、着物を売るなどの日々だ。そんなある日夫の戦死の情報がもたらされ、また子供も死んでしまう。戦争と貧困によって夫も子供も失った女性の悲哀だ。(以下ネタバレ)一人になった彼女は小和田家を出てアパート住まいをし、貿易会社社長栗山の秘書として働くが、栗山の目的は和子の体で、和子は当然の成り行きとして栗山と深い関係になる。和子は大陸から引揚げてきてダンサーをやっている妹の夏子と偶然再会し一緒に住むようになるが、やがて栗山は夏子とも関係を持つようになり夏子は妊娠し、和子もそのことを知ってしまう。街娼になった和子はこうした男たちに復讐することを決心し、自分が性病に罹り専用の施設に収容されると、そこを抜け出して「出来るだけ多くの男に病気をうつしてやる」とも考える。栗山はアヘンの密輸で逮捕され、夏子は栗山に性病をうつされていたことがわかり、和子は慈善の婦人ホームに妹を連れて行くが、そこでの出産は死産だった。和子は夜の街の姉御になっていたが、そんな暗い思いの中で夜の街に戻ってくると、そこの仲間たちは若い小娘をリンチしている。それは夫の妹の久美子だった。彼女は派手な生活に憧れて家からお金を持ち出して家出したのだったが、すぐに男に騙されて飲めない酒を飲まされ金も体も奪われ、落ちぶれてこの街にやって来たのだ。こんな久美子を見て和子はそんな生活から足を洗う決心をして久美子を連れて街を去っていく。社会批判の映画で、夫を奪った戦争を含めて男性世界に対する批判だろう。しかし和子に妾の口を斡旋しようとした古着屋の女、久美子を騙した自称学生の取り巻きの女たち、久美子をリンチし和子の足抜けに暴力を振るう街娼仲間など女の敵は女でもある。また街娼に身を落とさなければならい事情を無視して、自分は安全な場所にいながらキレイ事で娼婦を批判する女性活動家なども描かれている。人が内面に持つ暴力性を描いた作品でもあるのだろう。精神的と経済的にゆとりのあるときは良いが、そのようなゆとりを失ったときどれだけ人が他者に対して身勝手となり、内なる暴力性を顕在化するかということだ。唯一好意的に描かれていた男性は施設の院長だった。リンチを受ける和子の明るい将来を願う好意的な街娼仲間もいた。最後に2人が去っていくのが教会の廃虚で、そのステンドグラスの聖母子像が写るが、これは希望なのだろうか、それとも世界の道理や人の性[さが]に対する無力感としての皮肉なのだろうか。付記すると、それほど多くを見ているわけではないが、この映画での田中絹代はいちばんのはまり役だと感じた。この点に関しては、今回溝口健二没後50年の企画で見た他の映画のところで詳しく書きたいと思っている。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.05.14
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シリーズ憲法と歩む第一篇『戦争をしない国 日本』片桐直樹90min那覇・桜坂劇場にて寸評:憲法第9条を守ろうという趣旨で作られたドキュメンタリー映画。改憲が論議される今日この頃、改憲賛成の人も反対の人も無関心の人も、現行憲法の第9条問題を整理するために見ておいて良い映画。ただ作り方自体は評価できない。立法のあり方には、理念・理想としてどうあるべきかと、現実にどう対応すべきかという2つの面があると思う。個別の色々な法律、特に条例などは現実の問題への対応を無視するわけにはいかないが、憲法という国家体制の根幹を定めるものについては、理念を重視すべきだと思う。現行憲法を改正すべきかどうかには色々議論はあるが、現在の政府案とはもちろん全く違うが、ボク自身も改憲の必要は根底にはあると思っている。その内容についてはここでは触れないが、有権者をも含めた現在の政治的状況での改憲は慎重であるべきだとも思っている。それはともかくこの映画の趣旨は、最後の方で「憲法改悪」という言葉を使っていることからもわかる。でもそのためにはある種情緒的過ぎたのではないだろうか。もともと憲法改正反対の立場の人にこの種の映画メッセージを伝えてもあまり意味はなかろう。改憲派の人や無関心や解らないという人を反対派に引き込むことが目的ではないのか?。だとしたらまったくナイーブ過ぎる(ここでのナイーブはフランス語的意味でマイナスの表現)。戦争の悲惨に訴えるだけでは不十分だ。自分の身(国)は自分で守るという発想の中で9条を改正をしないという論理は何か、国際経済の中での日本の立場がどうなるのか、その他その他現実的な問題に対する回答をある程度示すのでなければ説得力が弱い。かと言って資料を提示して後は見た人に考えることを促すものとしては内容が薄い。そして、あるいはこの映画を象徴しているとも言えるかも知れないのだが、最後の方の合唱曲がいただけない。ボクはもともとクラシック音楽好きだから日本の現代音楽としての合唱曲に対してたぶんポップ・ロックしか聴かない人よりは理解があると思う。そういう耳で聞いても情緒に酔うマスターベーション的合唱は気持ちが悪い。憲法改正や9条や戦争の問題の議論というのは、もとは情緒からスタートしても良いが、結論はもっと論理的でなければならない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.04.09
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誰も知らない(Nobody knows)是枝裕和(140min)寸評:正直感動。実際にあった事件をモチーフにした翻案・脚色が秀逸。もちろんカンヌ映画祭主演男優賞の柳楽優弥他子供たちの演技もいい。実話の人物を美化し過ぎと批判する人はワイドショーを見て表面では怒り、内心では喜んでいればよい。実話の劇映画化は再現フィルムではない。映画冒頭に、この映画が実際に起きた事件をモチーフにし、細部や心理描写等はフィクションだという監督のコメントが出るが、事件とは1988年に発覚した巣鴨子供置き去り事件のこと(詳しくはhttp://ja.wikipedia.org/等を参照して下さい)。すべて父親の違う5人の子供、いや内1人は最初から死んでいるから4人の子供を抱えた母親が、長男に他の子供の世話を託し出て行き、発覚まで9ヶ月間ときおり母親が様子を見にくる以外は子供たちだけでいたという事件だ。映画では長男の明が12歳で、以下撮影時の子役の年齢では11歳、8歳、6歳となっており、子供たちの生活を、4人兄弟と長男明のガールフレンド紗希の5人の美しい物語として描いているが、実際の事件では14歳、6歳、2歳、1歳の4人で、もっと悲惨なものだったらしい。映画では末の'ゆき'が死ぬのは椅子から落ちての事故死だが、事件では長男の遊び友達による折檻による死だった。こういうところから人物を美化し過ぎという批判が出てくる。しかしそれは是枝監督の意図することであり、それが実に巧みなのだ。もちろんもっと事件に忠実に描くことは出来ただろう。しかしそれではワイドショー報道の上塗りないし総決算になるだけだ。映画の観客の視点はテレビの視聴者の視点と同じになってしまう。ワイドショーや週刊誌の事件報道の本質がどこにあるかと言えば、それは傍観者あるいは野次馬の視点であり、凶悪事件やハレンチ事件の当事者、特にその犯人を視聴者と「別の側」に置くことにある。視聴者は安全な場所から「こんな悪いヤツがいるんだ」と事件を見るに過ぎない。子供を置き去りにした母親はとりあえずおくとして、この映画には本当の悪人が一人も登場しない。長男明はかいがいしく弟妹たちの面倒をみる兄。正月には母親からと偽って少ない予算から弟妹たちにお年玉を渡す。お金が尽きても明は妹京子の貯めている金を強要などしない。それを自発的に差し出す京子だし、すぐには受け取らない明。4人の兄弟愛の生活は美しくさえある。タクシー運転手とパチンコ店フロアー係の2人の父親は、立派ではないにしても決して根っからの悪人としては描かれない。コンビニ店主しかり。紗希と援助交際もどきの中年紳士にしても、もちろんカラオケボックスの中で実際に何が行われたかは分からないが、紗希の言葉通りなら一緒にカラオケを歌っただけで、さほどハレンチでもなく犯罪性もないし、悪人ではない。上に住む犬を抱っこした有閑の大家夫人にしても悪意はない。2人のコンビニ店員は半ば事情を知りながら通報などはしないが、消費期限切れのオニギリ等を分けてくれる。選手不足という事情があったかも知れないが明をチームに入れて試合に出させてくれる少年野球の監督もどちらかと言えば善人だ。明の弟妹を邪見にし、一緒に万引きをしないので「もう仲間じゃない」と言う明の遊び友達にしても、後日学校の下校時に明が会いに行けばそれなりに応対してくれる。そして問題の母親も、無責任で自分勝手ではあるのだけれど、子供たちには嫌われず慕われているし、お金も十分とは言えないが送ってくる。つまりここで描かれる人物たちはいわば観客と等身大の人々なのだ。事件のなりゆき、事件の当事者、事件を生んだ社会、そういうものを観客と別の側に描くのではなく、同じ側に据える構造だ。この構造(視点)を映画に持たすことで初めて映画は建設的な意味を持ちうる。傍観者として社会を見るのではなく、自分の問題として社会を考えることを観客に促すことだ。だから傍観者の位置に留まりたい観客は「美化だ」と批判し、怒りさえする。それは現実の社会や自分からの卑怯な逃避だ。映画は「自分は彼らとは違う立派な人間だ」とは決して感じさせてはくれない。(以下ネタバレ)死んだ妹'ゆき'を入れたピンクのスーツケース持って少女(実は紗希)と電車に乗る明で映画は始まる。少女の顔はわざと明確に写さない。直後に(時間は戻って)新しいアパートに引越してきて、隠して連れてきた弟の茂を同じピンクのスーツケースから出すシーンとなり、駅に妹京子を迎えに行く。先の電車の少女がこの妹京子であったような錯覚を観客に与える。しかし電車の明の髪型や汚れたTシャツは物語最後のものだ。車窓の夜の羽田空港の明かりも写る。妹'ゆき'は最初はヴィトンのスーツケースに隠されてアパートに来るが、成長して大きくなっていたのでより大きなピンクのスーツケースに遺体が入れられることになる経緯も辻褄が合う。劇映画とするための脚色の巧みさは、ただ置き去りにされた子供たちの日々の生活という動きのないストーリーに、たぶん純フィクションの人物紗希を登場させたことだ。最初から紗希を登場させ、途中にも実際の出会いより前に紗希が川にイジメの手紙か何かを捨てているのを明にかいま見させる。こうして明と紗希の心の触れ合い、ないし恋心を描き、全体を一つのラブストーリーとすることで、映画に物語性をしっかり与えている。実に良く練られた見事な脚本だ。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.03.09
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久高オデッセイ大重潤一郎(68min)那覇・桜坂劇場にて久高島は沖縄本島南部から5キロの沖に浮かぶ小さな島。琉球の始祖アマミキヨが降臨した場所で、神の島とされる。本島最重要聖所の斎場御嶽(セイファウタキ)は久高を望み祈祷を行うようになっている。信仰は生きており、小さな島内には数々の聖所があり、年間27の祭礼が人々の1年を秩序づけている。祝女ノロ(神女)組織制度が維持されている。現在の人口は200人強。島全体が神の島であり、土地の私有制もなく、信仰をもとにした共同体として地割制で土地を分けあっている。しかし若い者で島を去る者も多く、12年に一度午の年に行われる秘祭イザイホーは1978年を最後に、1990年、2002年は行われていない。そんな久高島の再生を願いつつ、人々の生活を記録した映画です。1950年代末から70年頃イタリアの監督アントニオーニは「愛の不毛」で総称される映画群を、スウェーデンのベルイマン監督は「神の不在」でくくられる映画群を作った。その根底は、一つには米ソ対立という核戦争の脅威もあったけれど、生きる目的や信仰を失った人々の空虚感だった。また1968年には今村昌平は全くのフィクションではあるが、信仰・因習と近代化の問題を沖縄の架空の孤島を舞台にして『神々の深き欲望』にした。この『久高オデッセイ』を見ながらこれらの映画のことが思い浮かんだ。久高島には信仰や共同体は地下水脈として生き続けている。そして人の生き方としては幸せな生き方なのかも知れない。しかしその存続、単なる昔返りではなく、クリエイティブな意味で現代にそれの生きた社会の創造はほんとうに可能なのだろうか。今村の映画のように観光開発されてはいないが、久高島には郵便局も出来、携帯電話のアンテナも建ち、観光客も訪れる。本島までは高速船やフェリーで20分前後で結ばれている。テレビは日本や世界の映像を毎日映している。オシャレな都会の若者の姿も。この映画の感想として久高島のあり方を安易に賞賛する発想は多いが、他人事ではなく自分の問題として考えた場合、そんなに簡単なことなのだろうか。久高の人々の選択と今後を静かに見守りたい。オフィスTEN『久高オデッセイ』公式サイトNPO法人沖縄映像文化研究所『久高オデッセイ』サイト監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.27
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憂國The Rite of Love and DeathLes Rites de l'Amour et de la MortRitus der Liebe und des Todes監督:三島由紀夫出演:三島由紀夫、鶴岡淑子(ca.27min22sec)寸評:何はともあれネガが残っていて見られて良かった。こういう映画は世界でも唯一なのではないだろうか。物語:昭和十一年二月、兵をひきいて重臣たちを殺し、いはゆる二・二六事件を起こした青年将校たちは、ただ一人だけ盟友を誘はなかった。彼はまだ新婚で、その妻と愛し合っていたからである。彼、武山信二中尉は、そのため、皮肉な境遇に置かれた。近衛輜重兵(シチョウヘイ)大隊勤務の将校として、帝都の守備に任じ、やがて事態の変化と共に、反乱軍の烙印を押されたかつての親友たちと、殺し合はねばならぬ運命にあった。もっとも不幸な皇軍相撃の時が迫っていた。それは生一本な中尉の、到底耐へがたい事態であった。勅令が下れば、親友たちは叛乱軍の汚名を着、中尉は彼らを討たねばならぬ。忠ならんとすれば友を殺し、友を助けんとすれば逆臣となる。軍人として中尉は腹を切る他はない。中尉は妻麗子と最後の交情を交わす。二人ははじめて、今までつつしんでいたもっとも眞率な情熱に身を委せ、お互いの肉体のすみずみにまで、念入りに別れを告げる。中尉の切腹。麗子は夫の切腹を新婚の白無垢の姿で見届け、自らも短刀で自害し夫の亡骸の上に身を重ねる。私的エピソード:小学生の頃からボクは三島由紀夫に凝っていました。どちらかと言えば学校を休むことがない程に健康だったんですが、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で切腹した11月25日の前の晩から吐き気がして体調不良でした。そういうことはごく幼い頃以来なかったことでした。それでも翌25日朝は総武線・市ヶ谷の隣の駅飯田橋にあった学校へ行きました。でも吐き気と嘔吐は収まらず、何度か教室には戻ったものの、ほぼ1日医務室のベッドで寝ていました。終業時間がきて家に戻り、自室で寝ていたのですが、隣の居間で点いていたテレビから流れる夜7時のNHKニュースが報じる三島事件の音で目を覚ましたのでした。 / 三島死去の結果、瑶子夫人の意志ですべてのプリントが焼却処分されることになり、見たいながらも結局一生見られないと思っていましたが(海外の粗悪海賊版が存在することは知っていました)、昨年DVDが発売され、今回やっと見ることが出来たわけです。一般公開される映画に関しては法定納本制度は必要だと思います。感想:特典映像を見ていたら、この映画は30分の短編ではあるけれど、隠密裡に大蔵映画(ピンク映画制作会社)の設備のないスタジオでたった2日間で撮られたらしい。予算としても麗子の白無垢の衣装など1着のみで血で汚してしまえば撮り直しはできない。そういう限られた条件に加え、三島自身色々な映画に出演はしているけれど役者としては素人だし、もちろん監督としても素人。その意味で色々映画的面での不備はあるけれども、三島の情念がそのまま映画に乗り移ったような作品で、こういうものは映画史上他に類を見ないのではないだろうか。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.02.26
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八月はエロスの匂い藤田敏八寸評:前年の『八月の濡れた砂』は一般映画として公開された藤田敏八の青春映画の傑作だが、この『八月はエロスの匂い』は経営難の日活がロマンポルノ路線に転換した初期の藤田作品。時代をよく捉えているし、それなりに見どころがある。映画の観客数の減少で経営の難しくなった日活は成人映画のロマンポルノ路線で生き残ろうとした。製作費用や製作日数を削ってのアダルト作品だが、設備は既存の本格的ものを使えるし、裸さえ出していればストーリーや演出も自由にでき、監督としてはかなり自由な表現ができたようだ。最終的にうち切られた1988年まで、映画斜陽期に俳優や監督を育てる場にもなっていたわけだ。この『八月はエロスの匂い』は、自分の年齢から考えても公開から何年もたった頃、何かの映画と2本だてで上映されたのを最初の20分ぐらいだけ見た。その前に上映された作品が何であったか憶えてはいないのだが、それを見ることが目的で、時間の都合で最初だけ見たわけだ。それ以来見ることも、ウワサを聞くこともなかったが、本命だった作品の方は全く忘れてしまっているのに、この最初だけ見た『八月はエロスの匂い』の方は、冒頭のデパートでの強盗シーンで主演の圭子が血を流すシーンなどが鮮明に記憶に残っていた。今回安価にビデオが入手できたので何十年かぶりに続きを見ることになった。ロマンポルノ、成人映画と言っても、今日の状況から見れば、一般映画と言ってもいい程度の性描写だ。前バリなどという言葉があるように、もちろんヘアも性器も出てはならない時代。またストーリー性も強く、性描写のシーンもそれほど多いわけではない。2週間程度の短期間に低予算で作られた70~80分の短い作品群だが、ポルノという属性から離れても見る価値のある面もあると思う。(以下ネタバレ)田舎から東京に出てきた中原圭子(川村真樹)は、従妹の武上英子(片桐夕子)と安アパート暮らし。デパートの宝石売り場の店員だ。かつての高校の恩師で、今は大学の司書をしている芝木正秋(永井鷹男)と愛情関係にあるが、刺激のない単調な日常に疲れている。相手にする客もしみったれた有閑マダムだ。そんなある日、閉店間際で疲れ時計を見る彼女だが、そこに長い髪を後ろで束ねた若い薮睨みの青年が彼女の売り場のレジを襲う。刃物を持ってレジを襲おうというのだから彼は必死だ。彼女と犯人は見つめ合うが、その鋭い生きた視線に彼女は動くことも声をあげることもできない。次の瞬間彼女は青年に刃物を突き付けられ、手のひらを刺されて血が流れる。呆然とするうちに犯人はレジのお札をわしづかみにして消える。彼女にとってそれは倦怠の日常とは違う生きた瞬間だったのだ。そしてそれを象徴するように生きた彼女の赤い血が流れる。思うにこの演技と演出にしっかりとした内容があったからこそ、忘れがたく記憶に残ったのだと思う。真実に生きる何かを刺激された彼女は恩師で愛人の芝木の部屋を訪れ、彼に抱かれるが、それは何かが違っていた。芝木は男の自分勝手な愛で彼女に接するだけだ。彼女が話そうとした事件の折の感情なども、芝木は真面目に聞こうともしないし、理解もできない。不満の解消をしてくれない芝木の部屋を彼女は去る。自宅近くの小さな公園でブランコに乗る圭子。うずくまった少年が彼女のスカートの股間の方を見ながら「見える、見える、はいてない、はいてない」と繰り返すが、これは彼女の生きる衝動の存在を表現しているかのようだ。従妹が通りがかり、2人はアパートに帰る。そこで彼女が食べるのはカップヌードルだ。翌日彼女がデパートの勤めが終わって帰ろうとすると、外には芝木の姿があった。彼女は上司がいつか食事でもと誘ってくれていたので、上司と飲みにでる。芝木を避けたかったのだ。芝木は後を追ってくる。バーに姿を現した芝木を残して彼女は上司をホテルに誘い、彼に抱かれる。まだ癒えていない手のひらの傷口から生きた赤い血が男の背中に流れる。上京してきた従妹英子の恋人福田一郎(粟津號)と3人読売ランド遊園地に行き、そのカフェテラスでボーイをする犯人の青年を発見するが、うまく捕まえられなかった。圭子は公休日に芝木を誘い、読売ランドに行くが、もうそのボーイは辞めていた。帰り道川岸の土手に停めた車の中で圭子と芝木は抱き合うが、パーキングブレーキが上手くかかっていなかったのか、2人の愛の行為で揺れる車は川に向けて動きだす。気付いた彼女は芝木に指摘し、危うく車は水の直前で止まる。川に向かって土手を落ちていくのに圭子は気付いたわけだが、このシーンには2つの含意があると解釈するのは行き過ぎだろうか。一つは芝木に抱かれながらも恍惚と忘我の境地になっていない、抱かれながらも醒めていること。もう一つはそのまま車が川に落ちて死ぬことを慌てて阻止しようとしたことは、圭子が人生に絶望しているわけではないということだ。夏休みをとった彼女は芝木と旅行にでる。車で横浜からフェリーに乗って木更津に向かうが、船上で男女5人組の怪しいフォーク集団の中に犯人の青年がいることに圭子は気付く。圭子は5人の乗ったオープンカーを追うように芝木に命じるが、芝木は彼女のペースに逆らうことはできない。道すがら犯人の青年が他の4人には溶け込めずにのけ者にされ、いじめられているのを知る。5人はキャンプ場のバンガローに向かったので圭子たちもバンガローを借りる。青年が海岸で他のメンバーに殴られ、波で呼吸も出来ないようなリンチを受けるのも目撃する。夜目を覚まし別棟のトイレに行った圭子。個室から出ようとして、戻ってきた青年が嗚咽し、やがて大声をあげて泣いているのを彼女は見る。そんな彼を誘って海岸近くの花畑へ。そこで彼女の方から青年を襲い、青年に身を任せる。常識的世界の日常に飽き、自分が真に生きることのできる居場所を見出せなかった圭子は、常識を逸した犯罪的でもある不良集団の中でもやはり自分の居場所を見出せない青年に同じ何かを感じたとでもいうのだろうか。高度経済成長の世の中で人が人らしく生きることが出来ない現実を批判しているかのようだ。2人が抱き合う姿を発見しながらも芝木はただ見ていただけだ。彼も常識の世界に生きるだけの人間なのだ。圭子に嘲弄され芝木は青年と殴り合いの喧嘩になる。明るくなった中、芝木の車を運転する圭子。助手席には芝木、後部シートには青年が何も言えずに乗っている。後から走ってくるフォーク集団4人を乗せたオープンカー。別れ道で圭子の運転する車は右に進路をとり、オープンカーも後を追おうとするが、ちょうど対向車が走ってきたのでオープンカーは直進という別の方向へ向かうのだった。このラストは圭子が別の生き方を選んだ象徴だろう。そしてその真に生きようとする原動力となるのは圭子という女であり、性衝動を含めた女の生きる力であり、結局は男はそれに従うだけで自分からは何も出来ないと言っているかのようだ。しかし圭子が青年と抱き合うのは海岸とかではなく花畑で、それは楽園の象徴かも知れないが、その楽園すら花がまばらに咲く程度の楽園でしかない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.15
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でらしね中原俊寸評:非常によく出来た映画。難を言うなら、すべてが少しずつ物足りない感じ。でもお薦め作品。脚本が小林政広ということなのでレンタルした。タイトル『でらしね』はフランス語で「根を抜かれた」という意味で、日本語なら「根なし草」という訳ででいいのかな?。画廊勤めの若い女がホームレスの画家の男に入れ込んで作品を描かせるという物語で、山梨の山中にこもって画家が絵を描く物語が、女が男に絵を描かせようとした経過や男の過去などの物語と平行して描かれ、最後に絵が完成することでひとつの物語として終結する。寸評に書いたように、物語、登場人物のキャラクター設定、役者の演技、撮影や編集、そうしたそれぞれが各80点の出来で、結果として全体の完成度は70点程度になっていると言ったらよいか。でもなかなか良くできていて、見せてくれるし、好きな映画でもある。ホームレスの描き方には小林政広の社会的な目も感じられる。(以下ネタバレ)この映画、脇役も含めて主な登場人物は5人。ホームレス画家水木譲司(奥田瑛二)、画商の橘今日子(黒沢あすか)、彼女が勤める画商社長の岡本光太郎(益岡徹)、ホームレス仲間の赤ちゃんと黄ちゃん(三谷昇、田鍋謙一郎)。映画の一つに軸は、時間的にはより後で、これを映画の基本的時間の流れ、あるいは現在時制としてよいのだろう。一人の画家が山梨山中の旅館に泊まり、そこに画商の女が来て絵を描くように促し、別の方の軸の回想的シーンの挿入でこの画家が今は女を描かなくなっていることを観客は知らされているのだけれど、その彼が画商の女今日子に裸を見せるように頼み、やがて彼女が彼のヌードモデルとなり、約束の50号以上の大作を森の中で彼女を裸にして描くことで完成し、病身で倒れた画家を彼女が抱き起こし、肉体的に結ばれる。帰り道に湖に面するパーキングエリアに車を停め、湖面に向かったベンチで画家は対岸の山を見つめ、今なら「山が描ける」と今日子に画材を要求するが、彼女が車から画材を持ってベンチに戻ったとき画家は死んでいた。別の時間軸の方は上に書いた主要な軸の物語に至るまでを描くのだが、フラッシュバックと言うにはそれぞれ長く挿入される。画商岡本の愛人でもある今日子はホームレス画家水木の絵に出会い才能を感じた。水木は「青ちゃん」と呼ばれ、仲間の「赤ちゃん」と「黄ちゃん」が路上で彼が段ボールに描いた絵を売っていた。水木を売り出そうという計画を今日子は社長岡本に提案するが、彼は協力はできないと言う。彼女は私財を投げうって企画を進める。実は岡本は水木を知っていたことがやがて明かされる。水木譲司は学生時代から「池之端のエゴン・シーレ」と呼ばれ、岡本の言葉によれば「デッサンはシーレより上だったかも知れない」ほどの天才画家だった。女をモデルとしてヌードを描き、肉体関係ももち、そして描き終わる女を捨てる。岡本の恋人も同じように捨てられ、自殺した。主要時間軸の中で水木が今日子に過去を語るシーン回想として、女が裸でポーズをとり、水木はデッサンをし、画家は手しか写らないが、画家がモデルを見る視線のためなのだろうか?、モデルの女はやがて恍惚として悶える映像が挿入される。水木はある頃からまともに絵を描かなくなっていたらしいが、仕事(サラリーマン?)も家庭もズタズタだったらしい。しかしかつて岡本の恋人を自殺に追いやった頃からはずいぶん年月があるはずで、その間の事情は説明されない。たぶん絵を描きたい欲求と描けない自分と生活のための仕事や家庭など、その葛藤なのだろう。しかし半年前仕事探しをしていたある日、雨宿りに飛び込んだ画廊で河鍋暁斎の絵を目にして、絵を描きたいという欲求に襲われる。彼は家族を捨ててホームレスとなり、段ボールに描きたい絵を描いては、たまたま知り合った赤ちゃんと黄ちゃんと組んで、自分が描き、2人が路上で売るという生活をすることになったのだった。今日子は最初岡本が水木を知っていることは知らない。水木の絵に才能を感じ、自分の仕事として彼を売り出したいと思った。今日子は岡本に画商としての知識を教えられた。同時に彼の愛人にもなり、いわば彼女は仕事においても女としても岡本の従属物、あるいは所有物だった。岡本はそういう男として描かれる。だから彼女はその束縛から精神的に自由になりたかったのだろう。画商として独り立ちすることにはそういう意味がたぶんあった。50号以上の大作を1枚描くという要求を水木に一度は承諾させるまでにはこぎ着ける。水木は肺ガンのために倒れて病院に担ぎ込まれるが、彼は病院を抜け出し、結局彼は酒に溺れるだけだ。ホームレス3人組だった赤ちゃんと黄ちゃんは、水木(青ちゃん)に去られ、国に食わせてもらおうと、コンビニに忍び込み、自ら通報して捕まる。このコンビニはかつて赤ちゃんの店だったが、大手企業の攻勢で倒産し、乗っ取られていたのだ。個人商店の経営を食い物にする大資本の論理への批判。黄ちゃんの方はかつては警察官だったらしい。また食事の配給に列を成す(たぶん)本物のホームレス達の映像も挿入される。人間らしく生きられなくなった社会への批判は脚本の小林政広の主張だろう。無一文の水木が3人仲間の住処に戻ると、2人は逮捕されたから彼らの巣はすでに撤去されていた。そんな彼を探しまわっていた今日子が発見し、彼は絵を描かせてくれと訴えるが、ここで最初の時間軸の映画冒頭の山梨の旅館につながるわけだ。そして最後は過去と現在の2つの時間軸が合流し、今日子の催した水木の個展の場面となり、そこに既に出所した赤ちゃん、黄ちゃんが訪れ、彼女をモデルにした大作を眺める3人の後ろ姿で映画は終わる。この脚本は実によく書かれている。ある種ずる賢いと言ってもいいかも知れない。山梨の山中で絵を水木に描かせようとし、また彼の要求で全裸のモデルになっていく過程で、観客にはまだ知らされてないけれども、作中の今日子は既に過去の水木、岡本の彼女を自殺に追いやった事実を知っているのだ。一方水木は今日子が自分の過去を知っているかどうかは知らない。この物語は過去から現在へ1つの時間の流れで描いても映画は成立するだろうが、作中人物のそれぞれと観客が知っていることがそれぞれ違い、不確かにすることで、物語に見せるための牽引力を与えている。である以上各シーンでの役者がかもし出す雰囲気が重要となってくる。なかでもこの映画で重要なことの一つは画家水木の人物設定だろう。実際に絵を描く奥田瑛二は絵を描くシーンでの筆運びなどは、絵を描かない他の俳優よりは良かっただろう。精神的にうらぶれた水木を演じる奥田の演技もよい。でも画家としての面で奥田のものとされているある種のオーラに頼ったことが映画の失敗であった気がする。奥田のオーラは実のところ深いものではない。実は普通の人である奥田瑛二は、ある種の変人を自ら気取ることで自分に酔っているだけだ。その意味ではもっと役作りをしてこの役を演じる役者の方が望ましかったように思う。女画商橘今日子を演じた黒沢あすかは全体的に良い感じだが、最後に水木に身を任せるに至る心理を表現し切れていない。山中で水木が樹木などを描くシーンで、描く途中の紙面と描かれる樹木などが対比されるようにしつこく写されるが、このカメラはうるさいし、映画を安っぽくしていた。そんなこんなで、少しずつ不足のある要素の集合で出来た映画で、ただ2つの時間軸の交差する脚本力によって見せてくれる映画だと思う。この脚本にもっと適切な配役と演出が与えられたら、きっとかなりの名作になっていたことだろう。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.02.14
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2 デュオ諏訪敦彦寸評:こういう映画ばかりでは嫌になるだろうけれど良い映画。昨今のある種の映画に対するアンチテーゼの意味は大きい。諏訪敦彦監督の作品、ボクは『H story』、『M/OTHER』そしてこの『2 デュオ』と、製作と逆順に見てきた。諏訪監督の、構成台本だけでセリフは役者の即興に任せるという作品作りに最初のものだろうか。映画の中のカフェのシーンで圭が「結婚しようか」と言うのに対して優が「次のセリフは?」と問い、圭が「セリフなんかねえーよ、セリフなんかもう言わねえよ」と言うが、これが映画の作り方を暗示している。またカメラが主演の柳愛里や西島秀俊にインタビューするようなシーンが挿入されている。そこでは例えば監督が「圭から結婚しようと言われて、何も答えませんでしたが、何故ですか」と問い、優を演じる柳愛里が優として優が何をどう考えているかを問い、柳が柳として、また優として、それに答える。そういう形で基本設定だけを役者に与え、そこからの役作りやセリフは役者に委ねられ、映画の撮影が進行しているのだ。映画というのはフィクションなわけだが、特にヌヴェルヴァーグ以来、そう単純にフィクションとしては捉えられなくなってきた。役者は監督の思うがままに演技する操り人形ではないからだ。たとえしっかりと(セリフも)書かれた脚本があって、演技に対して監督の指示があったとしても、役作りをするのは役者であり、その役は演じる役者が自分の内部で捉えた役であり、そこには人間としての役者が表現される。配役を変えればもちろん作中人物は変わってしまうし、仮に瓜二つの一卵性双生児の2人の役者でも、どちらが演じるかで作中人物は変わってしまう。だから誰かが言ったように、映画というのは役を演じる役者のドキュメンタリーでしかないとも言えるのだ。その考えを押し進めれば、たとえばカップルの破局というこの映画にしても、そのような状況の中で「実際の人間としてのその役者」なら何を言い、どういう行動を取るかというのを、脚本の指示ではなく、本人にやらせる方が、ある種の深い人間の真実が表現されるということだ。それと関連して、最近の映画、あまり多くを見ているわけではないけれど特に多くの日本映画に感じるのは、役者の役作りの不足だ。その役がもっているはずの人間を役者が自分の中でしっかりと捉え、それに沿って演ずるということの不足、つまり役作りが浅過ぎるのだ。それがこの『2 デュオ』ではしっかりとしている。なまじ脚本に与えられた役がないから、役者は自分の全身全霊でその役を捉えて演じるしかないからだろう。いつからは明示されないけれど、一緒に暮らすハウスマヌカン(ちょっと表現が古い?)の優(柳愛里)と役者志望ながら上手くいっていない圭(西島秀俊)の関係が破局するまでの物語。一言にしてしまえば、ピーターパン症候群の圭とウェンディ症候群の優と要約できるかも知れない。しかしこれはかなり重要なことで、そのような役作りが決して脚本や監督の指示ではないことだ。すぐ上に書いた同棲カップルの状況を与えたら、少し補足するなら圭にはほとんど収入がないということだが、そうしたら役者の西島と柳がそういう役作りをしていたという事実である。それは必ずしも実人間西島や柳がピーターパンやウェンディであるという意味ではないが、その状況でこういう役作りを2人がしたということは、現代の日本の社会の反映だからだ。そういう意味で、ヘタクソなと言っては失礼だが、浅い出来のシナリオを元に映画を作るよりも深く現代の人々や社会の真実が現れてくる。もう一つ感じるのは結婚の問題だ。これももちろん脚本ではなく役者から出てきたセリフだ。結婚には親族との関係とか社会的ことが関わるし、それと無関係ではないことだが一応は離婚を前提としない永続性への期待がある。他から縛られると感じるか、好んで自分を縛ろうとするのか、どちらであれ結婚の2文字の心理的インパクトは大きい。この圭と優が親族のいない天涯孤独の2人だとしても、恐らく同棲と結婚は心理的に違いがあるのだろう。『M/OTHER』でも「結婚しようか」というセリフが役者から出てくる。日本人は結婚願望が強いが、実質的に自分たちがどういう2人であるかという本質よりも概念が勝った世界なのだ。社会学者のデュルケイムは『自殺論』の中で、自殺の原因は破産や失恋という個々の理由にあるのではなく、社会にあると言った。つまり同じ破産や失恋をしても自殺を簡単にする社会とそうでない社会があるということだ。そういう意味で捉えた社会、勝手にちょっと敷衍して社会の深層心理とも言えるかも知れないが、そういう目で捉えた社会を浮き彫りにするところが、諏訪監督の手法にはあるかも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.02.03
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海流堀内真直(ホリウチマナオ)(95min)那覇・桜坂劇場にて1972年沖縄本土復帰の十年以上前アメリカ統治時代1959年に沖縄ロケが行われた映画。50年近く前の沖縄がカラーで記録された映画でもあり、沖縄の年配層には人気がある。フィルム劣化で上映されることは久しくなかったが、2000年那覇市中心の国際通りと交差する沖映通りに名を残す沖映本館の取り壊し時に退色はあるものの状態の良いプリントが発見され上映され好評で、今回松竹のオリジナルネガからのニュープリントが実現した。翌1960年は年間574本の映画が作られ(最高記録)、娯楽の王道として映画が生きていた時代の松竹作品だ。1959年は美智子妃が今上天皇(当時皇太子)とのご成婚でテレビが普及した時代であり、この574本のピークを境に映画が衰退していった。そういう意味で日本の映画界にいちばん活気があった頃の作品と言える。原作は前年『週刊女性』に連載された新田次郎の人気小説であり、当時有馬稲子と松竹の二枚看板だった岡田茉莉子主演、復帰前の沖縄ロケとリキの入った作品で、娯楽作品として完成度が高い。今も残っている建物なども写っており、現在沖縄に住む自分にとっては、昔の沖縄の街並が見られるのも興味深い。台湾沖を航行中の紅洋丸は台風8号で遭難、救命艇で助かった者、水死体で見つかった者、ラジオニュースをアナウンサーの葉子が伝えている。一人行方不明のままなのは通信長の豊野だけだ。実は豊野は葉子の恋人だった。その豊野は流木にしがみつき漂流しているところを謎のサングラスの男が船長をする船に救助される。しかしその船は密貿易船で、ボス稲本は秘密保持のために豊野を殺すように命じるが、サングラスの船長は沖縄での連絡先を教え、なぜか逃がしてくれる。船長は救助した豊野を見たとき、見知っているかのような顔をする。サングラスで豊野には船長の顔は分からないが、聞いたことのある声だった。沖縄島の岸近くで海に飛び込んだ豊野は泳いで岸にたどりつく。豊野は海に浸けてしまって壊れた父親の形見の腕時計を修理にだす。サングラスの船長に教えられた宝石店への連絡を待つ以外に、豊野には何のあてもなかった。首里の守礼門で日傘の美しい女性に声をかけられるが、豊野は逃げるようにその場を去った。豊野は新聞記者の新城に追い回され始める。記者の勘で豊野が何か記事ネタになりそうな事情を抱えていると感じたのだ。しかしやがて2人は友情で結ばれるようになり、記者新城は自分の部屋に同居させる。豊野を連れて新城は富川家を訪れる。ここの娘節子は沖縄舞踊家で、新城は彼女に思いをよせているのだ。豊野は彼女に紹介されるが、それは守礼門の日傘の女性だった。( 以下完全ネタバレ)豊野の仕事の世話を父親に頼んでくれと新城に頼まれ、豊野に惹かれ始めていた節子は父親の運転手、家の庭仕事などの仕事として父親に雇わせ、自分のそばに置く。節子はひめゆりの塔、中城城址などに案内し、中城城址では沖縄の唄を歌って聞かせる。新城の部屋で豊野は新城にラジオの葉子の声を聞かせ、恋人だと教える。新城は豊野の事情を調べあげていて記事にさせてくれと言うが、自分の身の危険を犯してまで助けてくれたサングラスの船長の命にかかわるからと、豊野は書かないでくれと頼む。そして豊野は沖縄民謡、節子が歌ってくれた唄を口ずさんだので、その唄は沖縄の女性が生涯一度だけ愛の告白で歌う唄だと新城は教え、節子が生涯の恋として豊野を愛していることが明かとなる。豊野はサングラスの船長に呼び出され会いにいくと、それは戦友の杉岡だった。杉岡は組織が彼を殺そうとしているので密航船で本土に帰れと言う。節子の家を新城が訪ね豊野に内地へ逃げるようにさとすが、豊野は節子を愛するようになっており、雨の日の雨宿りの折に既に二人は結ばれていた。このまま沖縄に残ると言う。それを聞いて節子は「その言葉だけで十分です」と。外には追っ手がすでに迫っていて、豊野は修理した形見の腕時計を節子に渡し、新城と杉岡の手引きで密航船の待つ海岸へと向かうが、杉岡は犠牲となって射殺される。東京に戻った豊野はかつての恋人葉子に会いにいくが、彼女は別の男性と既に結婚していた。死際に杉岡に世話を頼まれた妹小枝を訪ねると、若い彼女はバクチと酒と男の自堕落な生活を送っている。豊野は小枝の隣のアパートに住み、兄の死は告げぬまま、彼女をまともな生活に更生させようとする。そんな豊野に小枝は惹かれ始めていた。沖縄では節子が沖縄舞踊団の東京公演を思いたち、新城の新聞社の主催・後援で実現する。節子と新城は東京を訪れ、豊野と3人東京での再会を喜ぶが、新城は自分も節子が好きだが二人の思いを知っているので、一人席を外す。小枝の部屋で豊野と二人で兄の誕生日の祝いをしようと約束していた日、食事の準備が出来た小枝は隣室の豊野を呼びに行くが、彼が節子と抱き合っているのを気付かれずに見てしまう。劇場での舞台稽古の日、小枝は豊野に金をねだろうと訪れるが、節子と3人で顔を合わせると、小枝は2人の様子を見て、また実は兄が死んだことを聞かされ、「兄に頼まれた義理をはたしていただけなのね」と言うと、外に待たせてあったボーイフレンドのバイクに相乗りし、スピードに悲しみを紛らそうとする。豊野は車で後を追うが、小枝はハンドルを握る男にどんどん飛ばすように求め、最後は100キロの猛スピードで崖から転落してしまう。小枝が死んだことで節子は、一生あなたを愛し続けるけれど、小枝の影はずっと豊野と2人の間に立ちはだかってしまうだろうからと、別れる決心を告げる。公演の終わった劇場の楽屋。節子は涙を流していた。そこに新城が現れ豊野に節子の帰りの航空券を渡して言う。「男ならその航空券を破ってみろ」と。そこに小枝の日記が届けられ、自分は豊野に惹かれてはいるが、節子との愛の成就も願うべきだという思いが書かれていた。新城は「小枝は考えていたよりずっと大人だったんだよ。」と言う。豊野は小枝の思いと死を背負いながらも、節子への愛を成就しようと、航空券を破り、節子と抱き合うのだった。脚本はしっかり書かれているし、沖縄の観光紹介的要素もありながら不自然でなく全体の物語に溶け込ませていて、実に立派に出来ています。演出や演技も良く、涙を誘われそうにさえなります。小枝の日記を読んで新城が「小枝は考えていたよりずっと大人だったんだ」とたしか新城が言い、それで二人が小枝の死を消化して愛を成就させる心理過程がもう少ししっかり描かれていたらもっと良かったですね。ちょっと唐突な感じですが、ハッピーエンドはやはり嬉しいものです。岡田茉莉子は吉田監督との結婚前で当時26才、思ったことは実行する明るい性格と深い情愛を兼ね備えた役を演じ、とても魅力的です。印象ですがこの時代の映画に描かれる女性は、理想であってリアリズムではないのかも知れませんが、今より古い男女制度に縛られていながらも、信念を持った強い女性として描かれている気がします。これもいいですね。この作品、やはり日本映画黄金時代の娯楽大作と言えるんでしょうか。「松竹グランドスコープ」とか「イーストマン松竹カラー」というクレジットや「現像:東洋現像所」なんていうのも何かいいです。余談ですが、岡田茉莉子がこの映画でも日傘持ってクルクル回したりしていますが、これって彼女のトレードマークなんでしょうか。1967年の『炎と女』でも2002年の『鏡の女たち』でも日傘さして回してます。特に若い頃の作品では、彼女のちょっと甘えているような魅力を表現している感じです。土曜深夜の楽天さんの定期メンテナンスが終了した後に確認すると、その前には正常だったのに一部が文字化けしていました。元の文章のバックアップはなかったので一部書き直しました。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.27
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クロエ利重剛利重剛監督の作品を初めて見ました。ボリス・ヴィアンの小説の翻案・映画化。なかなか良い映画だと感じました。ただ見ながらこの監督、どこか完全にはシックリ来ないところがあって、今のところちょっと「?」としておきます。『BeRLiN』とか他の作品も見てみないとまだ何とも言えません。ボリス・ヴィアンの小説はシュールレアリスティックなもので、そのまま全体を映画化っていうのはかなり難しいと思いますが、コランとクロエ(高太郎と黒枝 )の物語を中心に、小説全体もある程度映画化されています。シュールな表現はほとんどなく、肺の中で蓮の花が育つことと、家が段々小さくなっていくこと、この2つ程度でしょうか。ジャン=ソール・パルトルとしてヴィアンが皮肉ったジャン=ポール・サルトルは、KITANOというカリスマ・アーティストとして登場させていますが、これは誰か特定の人物を皮肉っているのでしょうか。名前からは連想する人物は実在しますし、印象としてはオ○○の麻○○○にどこか似てますね。(以下ネタバレ)基本的物語は、児童科学館でプラネタリウムの解説なんかをしている高太郎(永瀬正敏)が叔母さんの絵の個展の会場で、義理で来ていた黒枝 [クロエ](ともさかりえ)と運命的な出会いをして、めでたく結婚。ところがある日クロエが奇病になる。肺の中に蓮のつぼみがあって肺の機能を阻害している。手術で摘出するんですが、そしたら今度はもう一方の肺にも同じ蓮のつぼみが。手術した方の肺は機能しておらず、もう手術はできない。ある日高太郎は他の花がクロエの肺の中の蓮のつぼみの成長を遅らせることに気付き、買ってきた花で室内をいっぱいにする。しかし些細なことで職場を解雇されてしまう。蓮が肺の中で開花して死んでしまうまでの時間を高太郎となるべく多く過ごしたいと思うクロエ、その時間を犠牲にしても働いて花を買って少しでもクロエの延命に努力する高太郎。2人で居られる時間はどんどん減っていく。そしてある日運命のときが。葬儀を終えると池に蓮の花が一輪美しく咲いていた。KITANOなるカリスマ芸術家にうつつをぬかし、借金までしてその著書の収集に耽り、最後は金を借りている友人に殺されてしまう英助、英助を捨て切れず、彼が殺されたことも知らずに苦しみの元であるKITANOを殺害する日出美、奇病を取り巻く世間の冷酷さ、大衆に根ざしたキリストを語る牧師、その他色々なこととがこの基本的ストーリーに織りまぜて語られる。この映画は2時間以上あり、長い方だ。テンポがゆっくりとしていて、そのこと自体はいいのだけれど、すこし内容的に欲張って色々なものを入れ過ぎているのではないかと感じた。その一方で特に後半ではクロエと高太郎の場面が簡単過ぎるのではないか?。部屋が段々と小さくなっていくことにしても、その効果が十分には描かれていない。ただヴィアンの原作にあったから描いたというだけに留まっている感じ。なるほどクロエを取り巻く光と花の画面は美しいけれど、それならばもっと美しくもできたはずだ。そうすればクロエ以外の世界との対比がもっと鮮明になる。最初の方で利重監督についてボクはとりあえずの「?」を付した。その疑問とは、最初の2人の出会いから結婚に至るまでの描写、クロエの性格設定、花と光線に囲まれたクロエの部屋の美しさ、こうしたものが利重監督の内なるものなのか、それとも単なる既成概念の利用なのか、その辺のことだ。異論もあるようだが2人の主人公の演技も十分だし、この映画自体はこれとして十分良いものになっている。しかしクロエという美しい娘の体内にあるのが蕾で、咲こうとしているのが美しい蓮の花だという、この互いに一致&矛盾している美の感覚もそうだが、こういう感覚を監督自身の感性で捉えて、それを表現しているかというと、どうも疑問を感じてしまう。ちなみにボリス・ヴィアンの原作『日々の泡』(or うたかたの日々)は、1968年にフランスでシャルル・ベルモン監督が映画化している。しかしちょうど五月革命の混乱の中で忘れられてしまったようだ。DVD化などはもちろんされていないが、こちらも見てみたいものだ。利重監督はこの作品を見たのだろうか?。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.12
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真昼ノ星空 Starlit High Noon 日正当中的星空中川陽介(92min)那覇・桜坂劇場にてなかなか雰囲気のあるいい映画でした。ボクとしては及第点+αといったところ。前に見た『FIRE!』も映画的質感があって好感があったので劇場に見にいきました。今年初の劇場映画鑑賞です。ワン・リーホン演じる台湾ヤクザ組織の殺し屋リャンソンは、父が台湾人、母が沖縄・宮古の人という設定。抗争する組織のボスの殺害を終えたリャンソンは、誰にも知られていない沖縄・那覇の隠れ家に一人身を隠している。彼は毎日プールに通って魚のごとくしなやかに泳いでいる。ときどき空を見上げては「ヒマラヤでは空気が澄んでいて真昼に星が見えるという」と、星を探すが、沖縄の空に星の影はない。真昼の星空、それはリャンソンにとっての憧れでもあり、幸福の象徴なのかも知れない。このプールの受付担当のサヤ(香椎由宇)。彼女はほとんど言葉を交わすことはないが、毎日泳ぎにくるこの謎の青年に心惹かれている。その様子を見つめる同僚(柳沢なな)。彼女はサヤに憧れを感じていて、サヤの生に自分を同化している。一種の同性愛的な感情をもボクは感じた。リャンソンが夜洗濯にいくコインランドリー。いつも土曜には少しやつれ、どこか陰のある由起子(鈴木京香)がやってくる。リャンソンは由起子に心のときめきを感じている。この静かな3人の孤独な人生が交差する物語。(以下完全ネタバレ)ある日偶然、由起子の働く弁当屋の配達車両に乗った由起子を目にしたリャンソン。次の土曜日、コインランドリーでリャンソンは由起子を食事に誘うが断られる。次の土曜日、彼女は拒まなかった。リャンソンは彼の家で得意の中国料理のフルコースを御馳走し、初めての気持ちで自分でもわからないが由起子に恋をしたと告白をするが、「愛するのはいいけれど、その後が私はダメなの。」と由起子は言う。過去の愛で深く傷付き、彼女は愛することを避けているのだ。送っていった別れ際、たまたま通りかかったサヤが二人の様子を目撃する。台湾の組織への電話。抗争相手組織のボスを殺して優位に立ち、手打ちをして共存しようとしたが、相手の出した条件は飲めるようなものではなかったと知らされる。リャンソンにはそれが自分の引き渡しであることが想像できた。もう2~3ヶ月身を隠せという指令に、彼は翌日台湾に帰ると告げる。彼は「台湾に帰る。もし空港に来てくれなければ、そのまま沖縄に戻ってくることもないだろう。」と由起子への手紙を書き、その手紙を由起子に届けてくれとプールのサヤに託す。サヤは由起子の働く弁当屋に手紙を持っていくが、由起子が出てくる前に去ってしまい、手紙は捨ててしまう。サヤの目には涙が浮かび、それを見つめる同僚。那覇空港で由起子を待つリャンソンだが、彼女は来ない。そして飛行機は飛んでいく。台湾に着くが空港では相手組織をかわし、清掃職員の姿でリャンソンはまた相手を殺す。台湾の山中に身を隠し、登山好きの彼は山歩きを楽しむ。しかし台北では組織抗争の戦争が激しく行われたらしい。再び那覇、夜のコインランドリー。別れるときにリャンソンは「もう決してあのコインランドリーには行かない。」と言った。いつものように由起子がやってくると、そこにはリャンソンの姿が。由起子は洗濯機を回すと静かにリャンソンの隣に座る。しかしこれは誰の幻想か、夢なのか。それとも現実なのか。それはわからない。白い飛行機雲の線だけの真昼の青空には星影はなかった。上にストーリーをネタバレで書いてきて感じたのは、文の出来はともかく、ものすごく簡単に書けたこと。それだけシンプルなストーリーだということだ。その中に3人、あるいは同僚を含めて4人の孤独な生がみごとに語られている。雰囲気だけで何かを感じさせる手法は巧みだと思う。これ以上別に4人の人生を語る必要はもちろんない。だがもう一歩それぞれの心性を感じさせてくれたらもっとよかったのではないだろうか。例えば由起子のことについて言うと、ほんのわずか前の男との別れの場面らしき回想と、庭に投げ捨てられたコップと朽ちたコップの映像などは紹介される。彼女は前の愛で傷付いて、そして今の彼女があるのだけれど、その彼女の心の状態がイマイチ表現されていない。過去に傷付いて今の彼女があるが、その心そのものまで観客の全面的な想像・解釈に委ねてしまうというのはどうだろうか。誤解のないようにもう一度言うと、こと細かに彼女の過去を描け、というのではない。傷付いて孤独なんだぞ~、ってことはわかっても、そしてそういう様子をしているけれど、その彼女の心情があまり伝わってこないし、何よりも観客の空想に発展性がないのだ。別の言い方をすれば発展性があり過ぎる。つまり映画に描かれた彼女が無定形であるために、観客のではない、映画の中の彼女の心の理解を進める意味では発展性がないということだ。こんな不満を感じるのは前日にアントニオーニの『太陽はひとりぼっち』を見たせいかも知れない。この映画の中でもモニカ・ヴィッティ演じるヴィットリアの心情は多く語られるわけではないけれど、観客の勝手ではない作中のヴィットリアの心情はひしひしと伝わってくる。目指すものの違いで中川監督はそういうことをしたかったのではないかも知れないが、ボク個人の好みや感想で言えば、そこがもっと感じられる作品となっていたら名作、傑作、一流の作品になっていたような気がして、そこが少し残念だった。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2007.01.10
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マタンゴ本多猪四郎小学校の夏休み、暑い暑い日の昼下がりに、家の近くにあった仮設のような映画館(?)で見ました。その質素な建物が映画上映用とは知りませんでした。でも冷房は寒いほどに効いていました。映画が大衆娯楽としてまだ立派に生きていた時代だったのでしょう。同時上映は加山雄三の『ハワイの若大将』。これについてはほとんど記憶がありません。馬肉のスリカエとギックリ腰がわずかに記憶に残っているだけです。一方この『マタンゴ』、まだ小学校低学年だったのですが、ずっとよくよく記憶していました。それから20年くらいたってレンタルビデオ屋にβのがあった。気になりましたが、ゴダールやレネやヴィスコンティやキューブリック等々を先にして後回しにしていたらそのビデオ屋がなくなってしまいました。それからさらに10年以上たって、ネットで検索していたら、なんとTDKビデオ販売とかなんとかにまだあって、VHSを買い、ほんとうに何十年ぶりかに見たわけです。その後も数回見ています。ヨットで航海に出た大学教授と教え子、会社社長と愛人と社員、推理作家、雇われの漁師の息子の7人。最初はもちろん楽しい航海。でもそこでも男女や階級の人間関係がまずしっかりと、何気なく描かれている。この辺の映画作りはテレビの影響で説明的になり過ぎた昨今の映画とは違っていいですね。映画本来の味があります。暴風雨にあって漂流し、とある無人島にたどり着く。小さな島の反対側の海岸には古い座礁船。人気は全くない。航海日誌か何かに「MATANGO」なる謎の記述がある。7人はこの難破船にあった缶詰やらで食いつなぐんですが、それも底をつき、女の奪い合いも含めて、段々に欲望むき出しの争いとなっていく。ここで描かれる人間模様は見甲斐があります。特撮は今のSFXに見慣れているとチャチと感じるかも知れませんが、なにせ40年以上も前の映画。かえって楽しみに見られます。船の模型を使っての暴風雨や難破船など、実に立派に出来ています。もともと映画はすべて作り物なわけですが、SFでもホラーでも、それで何か、そして我々は人間なわけで人間の何かを描くわけです。だから特撮の素晴らしさも映画の醍醐味ではあるわけですが、必ずしもをれを目的とする必要もないわけです。性描写がどんなにもの凄くても、内容がなければそれはただのポルノかAVで、本格的映画ではないのと同じです。(ポルノやAVの存在価値を否定しているわけではありません。)ちょっとだけネタバレして書けば、マタンゴという奇妙なキノコは、原爆のキノコ雲と関連があるらしい。映画は1962年制作。漁船の第五福竜丸が米国ビキニ環礁の水爆実験で死の灰を浴びたのは1954年。放射能による突然変異とかで特殊な生物が生まれるとか、広島などの原爆でただれた人の顔とか、それをモデルとしたキノコなのかも知れない。また映画最後の言葉からボクなりにかなり勝手な解釈をすれば、食物や女性をめぐる島での7人の争いにしても、そういう人間の姿を国家にたとえれば戦争、そして冷戦時代だから核戦争の恐怖。我々が普通に生きる世界も、島での極限状況の世界も、大して変わらないというペシミズムがあるのかも知れません。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2006.12.29
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M/OTHER諏訪敦彦第52回カンヌ国際映画祭・国際批評家連盟賞受賞作品エンドロールのクレジットに「監督:諏訪敦彦、ストーリー:諏訪敦彦、三浦友和、渡辺真起子」と出る。なぜならこの諏訪敦彦は簡単な構成台本のみで、撮影前の役者とのディスカッションで、即興的に撮影を進めるからだ。もともと映画というものにはどんな性格があるか。ヒッチコックのように完成した楽譜のようにシナリオがあり、あとはそれを撮影するだけだ、という考えもある。しかし監督の意図とは別に、ある役者が自分の人物理解でその人物を演じる以上、役者が映画作りに創造的に参加していることは確かなのだ。ヌーヴェルヴァーグ以降の映画作りでは、そういう映画の性格を積極的に映画作りにとりいれる手法が多くなった。それを究極的に押し進めたのが諏訪監督のやり方と言ってもよいのかも知れない。また諏訪監督自身がインタビューで答えているように、ジャン・ユスターシュは映画で「自分の俳優たちのドキュメンタリーを撮る」と言い、フィリップ・ガレルは「自分の映画はすべて、映画を作るやり方に関するドキュメンタリーだ」と言っている。哲郎とアキの同棲中のカップル(三浦友和、渡辺真起子)。そこに哲郎と離婚した妻との間の8歳の俊介が転がり込む。離婚した妻が交通事故で1ヶ月入院することになったのだ。伝統的結婚制度に組み込まれるということは、社会的な約束事や制約に縛られること。それを嫌って結婚もせず、子供も作らず、自由に仕事やプライベートに生きていた2人、特にアキ。哲郎の方はどこか根で伝統的男女観が染み付いている面もある。そんな状況でアキは仕事と家事の両立、さらに子供の世話への拒否感、8歳の俊介への愛情を感じながらも精神的に追い込まれていく。ストーリーは監督と役者のディスカッションで細部が決まり、セリフも即興的。カメラも回しっぱなしで、編集によるカットも極力していない。それで約2時間半にもなる。出来上がった映画のストーリーを最初から普通に映画とすればきっと1時間半だろう。しかし実際に我々が日々生きる日常生活は、整理された映画台本とは違う。同じ愚痴が何度も繰り返し蒸し返されたり、会話だって途切れてすらすらスムーズに進むわけではない。そんな意味でドキュメンタリーを見ているようでもあり(特にアキの友人が子供を連れて訪問する場面等)、隣の家のカップルを覗き見しているようでもある。(以下ネタバレ)あるいは役者、例えば三浦友和なら、役である三浦友和の演じる哲郎と実際の人間としての三浦友和が、ともに画面に晒される。セリフも演技も脚本家が書いたものではないからだ。ベッドをともにしているアキが哲郎に言う「結婚しようか?。」というセリフは女優渡辺真起子から出てきた言葉であり、監督も三浦友和も予想していなかったセリフだけにビックリしたという。そのビックリは脚本に書かれたビックリではなく、実際に三浦友和(&哲郎)がビックリしているのだ。そんなこんな色々なことを理由として、普通の手法で作られた映画では見られない「真実的瞬間」が見られるのも興味深い。母親が退院して俊介はいなくなるが、それで2人の関係、特に心理的に元に戻るわけではない。俊介という触媒によって特にアキの心理は発酵してしまった。伝統的な夫婦・家庭という堅固に出来上がった概念とは違い、それに反していて、決まったあり方があるわけではなく、今まで成り立っていた(自己および2人の関係の)アイデンティティーが揺らいでしまったのだ。それで俊介がいなくなっても哲郎と距離をとり、別居を始める。そしてやがてまた元の2人の生活が復活する(のだろうか?。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2006.12.26
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炎と女 吉田喜重木村功(伊吹真五)、岡田茉莉子(伊吹立子)、日下武史(坂口健)、小川真由美(坂口シナ)、北村和夫(藤木田医師)伊吹真吾・立子夫妻には1歳7ヶ月の息子鷹士がいるが、真吾は不妊症で、鷹士は他人から精子の提供を受けた人工授精の子供。真吾との血のつながりはない。そのことが夫婦の関係を微妙なものにしている。伊吹家には坂口健・シナ夫妻が友人として出入りしているが、この4人の複雑な心理的関係の物語で、親子の絆を中心に据えながら、人のアイデンティティーの問題を考察した映画。そう言えば最新作『鏡の女たち』でも吉田監督は記憶喪失者のアイデンティティーを扱っていた。鏡の多用、固定カメラも吉田監督のスタイルだろう。人物の顔にカメラを向けると、それは監督なり映画の語りの視点で人物を見ることになるか、映画の別の登場人物の視点となるが、鏡に映った顔をその人物の後ろ姿と同時にフレームに収めることで、その人物自身の内省という視点を持たせることができる。手法としてこのような映画では必要なのだろう。映画なので屋外のシーンもあるが、60年代・70年代の洒落た吹抜け構造の伊吹家と別荘は、室内に階段のあるような立体的構造で、役者が上下左右に動き回れる空間を構成し、そこでの会話は舞台の室内劇風。ディクションも芝居風で、5名の役者はいずれも好演している。時代的共時性か影響関係があるのか、イングマール・ベルイマンの『仮面/ペルソナ』と『狼の時刻』との類似性を感じた。ちなみにベルイマンの作品は1966年と1968年、この『炎と女』は1967年。ベルイマンの作品はどちらもアイデンティティーの問題、人格の喪失、崩壊、『ペルソナ』は容貌の似た2人の人格の融合などが扱われ、『狼の時刻』の主要な素材の一つである「鳥」のイメージが『炎と女』にも出てくる。回想と幻想・妄想シーン、効果音や音楽の使われ方、室内劇的作り、等々似た面が多い。ネタバレにならないことを先に書くと、子供の父親とは何なのか。この映画とは無関係にもよく考えることだが、女にとっては性行為→妊娠→出産とすべて生理的に体験した上での子供だ。しかし男性には、無人島の2人で自分が父親であることに疑問がなくとも、あるいはDNA鑑定での証拠があっても、理性的・意識的にしか父親であることは感じられない。つまり女性は最初から母親であるのに対して、男性は意識として父親になるしかない。(以下ネタバレ)まあストーリーとしてはやや荒唐無稽。人工授精はいいとして、夫婦も提供者も互いに誰が誰に精子を提供したか知っしまっていて、しかも互いに交際関係があるのだ。本来こういう人工授精などないのではないか。ただある事態を想定しておいて、それを前提として実験をし、その過程・結果を考察するという手法自体はあっていいと思うので、この荒唐無稽を非難する気はさらさらない。物語自体が一つの試験管ベイビーなのかも知れないもともと男は子供の誕生に生理的記憶を持たないから、意識的に父親であると思うしかない。伊吹真吾の場合、それに加えるに自分の精子から生まれたのではない他人の精子の子供の父親として自分を認識しなければならないから、そのことが強調される。彼は坂口が精子提供者と知っているわけだが、妻と坂口の間に肉体関係があったわけではない。つまりこの子は完全な父親を持たない。むしろ妻の先夫の子供なり、浮気の子供であった方が、継父として血のつながらない子供の父親を自覚することは簡単なのではないだろうか。だから映画の最後の方で、事後的にではあるが立子が精子提供者の坂口と肉体関係を持つことで、かえって立子にも真吾にも理解が容易になったのではないか。この映画は人工授精で夫が自分を子供の父親と認識する困難、妻が子供の父親が夫であると認識する困難、精子提供者が子供の父親ではないと認識する困難を描いてはいるが、さらに人にとっての自己アイデンティティーとは何かを問うているように思う。人工授精を施した医師の藤木田は言う。「神はこの時代に存在しないことに医者として加担した。」と。また真吾は言う。「僕らはみんな何かでかかわり合い、つながり合っているんだ。」と。神という言葉に象徴される自然の摂理や、信じて疑わない決まった価値体系が存在しなくなった世界の中での自己認識。鏡像や他者の視線が自己のアイデンティティー形成をするという発達心理学的こと。人工授精というアイデンティティーの困難な素材と鏡の多用という手法で、現代に於いて人がアイデンティティーを持つことの困難さを描いた作品だと思う。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから
2006.12.24
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