ラッコの映画生活

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2008.05.01
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カテゴリ: フランス映画
Les Contes des quatre saisons
CONTE D'HIVER
Eric Rohmer
114min
(所有VHS)

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久しぶりに見たのですが、数のある似たようなロメール作品の中では傑作の1本だと思います。最近知ったのですがエリック・ロメールは、この『四季の物語』という4部作、まずこの「冬」を構想して作りたいと思い、それが4部作に発展したらしい。だからこの「冬」には力が入っている感じです。 「春」 の方が先に作られたのは、前座的に親しみやすい作品として「春」をまず公開しようという作戦だったのでしょう。制限字数を超えてしまいそうな予想なので、2回に分けてアップするつもりで書きます。

まずストーリーなんですが、もともとこの映画は予告編やビデオ/DVDのジャケット解説を見ただけでラストの予想はおおかたついてしまうと思います。なのでネタバレを恐れずあらすじを書いてしまいます。持っているVHSジャケットには「ロメールがナイーブに綴る現代のお伽話」とあります。たしかにお伽話、あるいは少女マンガ、ないしはハーレクインロマンスのプロットかも知れません。でも実はそれほど単純ではないし、含意は多いですね。

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5年前のひと夏の思い出、ないし経験として、主人公のフェリシー(シャルロット・ヴェリー)は運命の男性シャルルとブルターニュの海岸で知り合い、熱烈な恋愛をする。しかしちょっとした行き違い(実はこれにも意味はある)から再会出来なくなってしまう。そして5年後の現在、フェリシーはシャルルとの間の娘エリーズを未婚の母として抱え、パリ20区ベルヴィルのマクサンス美容室で美容師をしている。彼女には 愛情関係のある異性の友達

主人公のフェリシーを中心に考えれば、物凄い偶然のハッピーエンドと感じられがちだけれど、実はそれほど単純な物語でもない。二股かけた上に簡単に別れて運命の人を待つという自己中で無責任とも思われる彼女を最初に弁護しておきたい。すぐ上に 愛情関係のある異性の友達 と書いた。この感覚が日本人には理解が難しいのではないだろうか。単純に言うとここでは男3人と女1人の4角関係なのだけれど、ロイックもマクサンスも彼女が思い続けている特別な存在であるシャルルのことを知っている。またロイックはもう1人の男マクサンスがいることを、マクサンスはもう1人の男ロイックがいることを「知って」いる。「知っている」上でどちらの男性もフェリシーとつき合っているのだ。そして彼女がその両方と同時進行的に関係を持つからといって、それは必ずしも「ふしだら」でもない。

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5年前のブルターニュでの別れ際に彼女が誤った住所をシャルルに渡してしまって、それが原因で2人は再会できなくなってしまった。ロイックとフェリシーの出会いは語られないが、ロイックはシャルル探し、具体的にはシャルルからの行方知れずになってしまった手紙探しに協力したらしい。もちろんロイックには女としてのフェリシーに恋したであろうけれど、基本関係は「男と女の友人関係」なのだ。友情関係というのは同性間であっても異性間であっても、親密になればなるほど相手の感情問題に関心を持ち、互いに慰めたりもする。寂しいときのそんな1つの形態がセックスになることもあるということだ。 愛情関係のある異性の友達 と呼んだのはそういう関係だ。

しかしこれは日本で言ういわゆる「割り切った関係」とか「セックス*フレンド」というのとはまったく別のこと。集団に埋没し、他者との各種の関係性の中に自分のアイデンティティーを持つ日本人の文化とは違い、それぞれ1人ひとりが個人として自分だけでアイデンティティーを持たなければならない、西欧文化の個人が必然的持たされている「孤独」があるからこその関係のあり方だ。だからと言ってそこに性欲とか肉欲とかが無関係であると言うつもりはもちろんない。しかしかつて伊丹十三氏が言っていたことを敷衍して引用するならば、たとえステディーな関係ではあっても「実存的孤独を伴わない日本人の恋愛ごっこの、快楽へ流れがちなセックスよりも、遥かに切実で真面目な」ものなのだ。もちろん「実存的孤独」が日本人に皆無だと言うつもりは毛頭もないし、それどころかそれは人間存在の本質ではあるのだけれど、少なくも日本人はそれを日々強く意識してはいない。

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ロメールの映画というと、言葉、言葉、言葉、という印象があって皆よくしゃべる。ここでも例えばロイックの家に来ていたカップルも議論、議論、議論だ。しかしフェリシーはその議論には加わらない(もちろんロイックに別れ話をしに来ているという心理もあるが)。彼女は言葉少なだし、「フランス語もろくにしゃべれない」と本人が言うように、言い間違いばかりしている。シャルルとのすれ違いの発端であるのも、彼女が住所のルヴァロワとクールブヴォワ(互いに隣接するどちらもパリ近郊の都市名)を間違ってシャルルに教えたのが原因だ。彼女の言葉はすべて無垢だ。2人の男に対しても、母親や姉や娘に対しても、駆引や策略とかはなく、思った正直なままを口にするだけだ。言葉にウェイトの大きいロメール作品でのこのようなフェリシーという人物は、言葉(=論理)以前の無垢な存在なのかも知れない。

自分の住んでいる母親の家の住所を間違ったのが再会できなくなった理由だけれど、自分の住所を間違えたこの言い違いは不自然ですらある。離れ離れになってしまうもっと別の理由など他にもいくらでも考えられる。つまりこの脚本は意図的にこうなのだ。言い違いの心理的根底には、再会を恐れる無意識があるということだ。だからこの物語は、偶然によって再会できなくなった2人が再会を果たすといった単純なものではないことがわかる。5年前に別れるとき、コック研修だかなんだかでその後アメリカに行くシャルルがフランスに戻ってきたら再会したい、ともちろんフェリシーは思っていた。しかしそれはある種の人生の決定にもつながる。たとえばそれはこの映画のラストが示唆するように、シャルルが店を開いて、そこの女主人となり、もちろんプライベートではシャルルの妻になって、といったものだ。しかしそういう「人生の確定」に抵抗を持つフェリシーなのだと思います。

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彼女が「自分の定住居」を持たないというのも、そういうフェリシーを象徴しているかも知れない。幼い娘を母親の家に預けて、そこに暮らしているようでありながら、時には一人(あるいは娘を連れて)ロイックの家にも寝泊まりするし、明示されないがマクサンスといる日々もあるだろう。マクサンスに突然ヌヴェール行きを告げられたときの彼女の態度は、唐突で独断なマクサンスへの怒りのような形で表現されているけれど、これは自分が決定を迫られたことに対する当惑なのだと思う。彼女は結局承諾するが、どこかで言っていたように「選択のための選択」なのだ。「こうしたい!」とか「こうするぞ!」といった意志的選択ではなく、どちらかを選ばなければならないから選ぶ。

フェリシーは週末にヌヴェールに行く。週末だから(あるいはまだ開業前で)店の営業はない。マクサンスは店鋪を見せたが立地も良い立派な店を彼女は気に入った。古都ヌヴェールを案内されると、フェリシーにはすべてが美しく見えた。そしてヌヴェールに来ることを最終的に決断する。しかしそれは日常を欠いたものでしかない。ロイックには別れを告げ、クリスマスが終わってヌヴェールに彼女は娘エリーズを連れてやってくる。しかし彼女を待っていたのはある「決定された人生の日常」だった。店の2階には3人の住居があり、マクサンスとの夫婦の寝室もあった。店で期待されるのもマクサンスの妻として「マダム」という女主人の彼女だ。店員に「マダム」と呼ばれて彼女は「フェリシーでいいのよ」と言うが、マクサンスは「けじめはつけなければならない」と言う。そんな「妻の座」「女主人の座」への人生決定に彼女は違和感を感じた。

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娘が(クリスマス飾りを見に)行きたいといった教会で彼女は啓示を受ける。彼女はカトリック信仰を持つわけではないし、後でロイックにこのときのことを説明するように、それはあくまでも宗教的(キリスト教的)こととは無関係だ。教会という場は、ここでは超理性的直感の環境ということだろう。彼女はシャルルとの奇跡的再会を待つことにする。それでマクサンスには別れを告げてパリ郊外の母親の家に戻ってしまう。そこでロイックと一緒に観に行く芝居がシェイクスピアの『冬物語』。信じることで亡きはずの妻が再生する物語を自分とシャルルに重ね、フェリシーはここで2度目の啓示を受ける。それでシャルルを待つ人生を送ることに彼女はするわけだけれど、実はこれはあり得ないことに生きるということで、人生決定の回避でもある。

最後に奇跡が起こってフェリシーは、まだ彼女を思い続け、しかも独り身のシャルル再会する。これは一見ハッピーエンドだ。シャルルが提案するのはマクサンスの場合と同じ。2人は結婚し、ブルターニュにレストランを開業し、そこのマダム(=女主人)の座に収まることだ。彼女は今度は快くそれを受け入れる。場面は大晦日に母親の家にやってきた姉夫婦と子供たち、フェリシーとシャルル。しかしバスでの再会からこの最後の場面まで、冒頭で美しく描かれた5年前の夏のような天国的至福感はない。声だけは聞こえるが画面から大人達の姿が消え、子供達の様子だけが静かに写される。再会を喜び、「これから」の幸せに浸る2人の姿は何処にもない。

以下明日5月2日付の日記に続く

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Last updated  2008.05.09 04:07:00
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