復刻記事である
もう、十年以上前の記事である
昨日、 ブログを続けようか、やめようか?
と書いていたら
私と同じような体験をしたというNGOさんから
この過去ログについての共感を書いていただいた
という事で
この記事を復刻してみたい
内容は私の、人生におけるある失敗と
それに伴う私の感慨であって
いわば、極めて個人的な内向きなもの
私の底辺体験のエピソードでもある
そんなものを堂々と復刻するには
正直、忸怩たる気持ちもあるのだが
恥はかきすてだ(笑)
なお、この記事の出来事の後日物語として
米国の起業事業を無事、売却する事が出来て
今の私は、なんとか安泰に暮らしている
もし、この本文だけでは無く
過去ログに 寄せられたコメントをも
お読みになるのであれば
下記をググってください
https://plaza.rakuten.co.jp/alex99/diary/200601220001/
ーーー 過去ログ ーーー
06.01.22
橇(そり)のある風景 (42)
「象の墓場」という題で書いた私の告白調の日記でも触れたことだが、
山っ気の多い私は、長年勤務した商社を退社して、
米国で米国人の義弟とヴェンチャー・ビジネス・起業をはじめた。
もう相当昔の話になる。
脱サラに踏み切って商社を退社してしばらくの間は、
新しい人生に希望を持っていた。
貯金もたっぷりあったし、今まで出張ベースでしか来なかった米国での生活に新鮮さを感じた。
米国の中では伝統のある東海岸でも、私の駐在していた英国・ロンドンとはまたひと味ちがう空気の国である。
このビジネスで成功して、ミリオネアになって、自由な生活を楽しもうと思っていた。
ベンツやBWMだって、何台も買ってもいいと思っていた。
徒歩では回りきれないほど巨大な敷地の工場群を買って、
それをかなりの人数の白人労働者を雇用して住宅街に改装していった
当時の米国では、海辺や河川沿岸の洒落た住宅街が流行であり憧れの的だったし
そのような中古工場を改装するプロジェクトがブームでもあった
私たちは、そのような夢のようなウォーターフロントを造成するつもりだった。
フラットも借りず、工場の機械室に寝袋を持ち込んで泊まり込んで、一心に作業をした。
英語の高等教育を受けた?(笑)私に全く理解できないジャーゴン(特殊用語)だらけの英語
をしゃべる米国人労働者諸君とも和気あいあいと働いた。
もしも、このビジネスの開始が、普通のタイミングであれば、早めに成功したのかも知れない
だが、ちょうど米国ではその事業に関する法律が変わり、
それに伴って住宅ブームが去って、不動産業界は不況になってしまった。
タイミングというものは、人生にいたずらするものだ。
退職金やマンションを売却して資金をつぎ込んだのに、そのビジネスがうまく行かない。
いくら素晴らしいシーサイドのコンパウンド(住宅街)でも、買い手がいなくなったのだ。
うまく行かないと言うだけでなく、収入が無い状態が長く続いた。
私が高い給料をもらっては、そのビジネスも苦しい。
やむを得ず、そのビジネスは義弟にまかせて、
私は以前働いた商社の欧州海外店に雇用してもらったりした。
その間に、妻とは離婚し、日本のマンションは売却したのだから、
住むべき家も無いという状態になり、フラットを借りて一人住まいをした
商社の海外店では、現地雇用というステイタスで、
年下の駐在員の部下という立場にもなった。
以前自慢したように、私は中東での発電所や海水淡水化プラント案件
などの営業においては、社内はもちろん、業界でも有名な数々の実績があり
社内では「アラビアのロレンス」と呼ばれたりもした
しかし、立場がちがえば、現地雇用に身分になれば
だれにでも頭を下げなければならない。
年下の駐在員も、表面的には敬意を表してくれるが、
内心はどういう風に私を思っているか
また、その駐在員の凡庸な働きぶりをみて、「私ならこういう風にするのだが」
と思っても立場がちがえば、そのようなことを云うべきでもない。
それでも駐在員は、ベンツで通勤する。
私は厳寒のなか、バスを待ち、混んだバスを乗り継いで通勤する。
私の人生ではじめての「屈辱」というものを、毎日、深く深く、感じた。
二年ほどつとめたその商社の現地雇用員をやめて、米国にもどり、
ニューヨークで仕入れた米国の女性用ドレスを東欧の市場に売る
と言った行商のような商売まで試みた。
ただ、重工メーカーとプラント案件の営業をしたようなおおまかな人間に、
地を這って店店をまわるような繊維商売はうまくこなせるわけがない。
費用がかかっただけで、利益は上げることが出来なかった。
ーーーー
ある時期、ある欧州の国で暮らし、同じくその国にいる元妻と娘を訪問した。
ある冬の朝、娘に会う約束で、バスを乗り継ぎ、元妻のフラットを訪れた。
その週は雪が降り積もっていて、
地下の倉庫から娘の橇(そり)を持ち出して
娘と共に近くの公園へ向かった。
失業していても、私の服装だけはロンドンのシティーにつとめていた頃のままで、
その国の人達からは「エレガント!」とほめられた。
アクアスキュータムの高価な最高級の黒いカシミア・コート
カシミアの白いショール。
スーツもアクアスキュータム
そんな私の手を引っ張って、娘は元気にすすむ。
朝早い公園はまだ人気もなく、周辺の立木に囲まれて真っ白に広がっていた。
公園の真ん中あたりに、ほんのちょっと小高くなった丘のような場所があり、
そこから前日あたりに子ども達が橇で滑り降りた跡が、スロープにクッキリ残っている。
娘とその小高い場所に上り、橇で滑り降りた。
緩いスロープだからあまり速度も出ないが、だからこそ危険性もなく、
まだ幼い娘にはちょうどいい。
歓びの声を上げる娘を抱きしめて、何度も滑った。
私が橇を離れても、娘は橇遊びをやめない。
それからは、よちよちと、ひとりで橇のロープを背負いながらスロープを上り、頂上に着くと滑り降りる。
「ダディー!」と、娘が私を呼ぶ。 私に見てもらいたいのだ。
娘は混血だから、薄い栗色の髪の毛と透き通るような白い肌をしている。
原色のアノラックを着て、白いスロープを滑り降りる姿は、欧州人である。
その姿を見ながら、私の胸は痛んだ。
私が米国で働きだしてから、妻と娘とは別居となった。
それだけならまだいいのだが、収入をとざされてからは、私は鬱々として楽しめなかった。
私個人なら、本当にどうなっても平気だった。
もともと、「商社のヒッピー」とよばれていた、奔放な人間だったのだから。
たまに娘の国を訪問し、喜ぶ娘と一見楽しい時間をすごしているようでも、
私はいつも、本当には我を忘れて楽しめなかった。
娘を見ているといつも、胸がシクシク痛んだ。むしろ娘がはしゃぐほど、痛みが強くなった。
それは本当の痛みのようでもあり、気のせいかも知れなかった。
秋の日の ヴィオロンの ためいきの
身にしみて ひたぶるに うら悲し。
鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ
過ぎし日の おもひでや。
げにわれは うらぶれて こゝかしこ
さだめなく とび散らふ 落葉かな
~落葉~ 上田敏訳 ヴェルレーヌ
有名なこの詩が、
その時の私の心境に似たようなものだったかも知れない。
この無邪気な娘の将来を私は担えるのだろうか?
信頼しきっている娘の期待にこたえられるのだろうか?
私は商社を辞めるべきではなかったのだ。
同僚達のように、多少の苦労はあっても、高給をとって、
世間的にはエリートと言われる、安楽な生活を送ろうと思えば送れたのだ。
私は、それに私の家族は、 これから、生活して行けるのだろうか?
この寒い国にいながら、なすすべもなく無為な毎日を過ごしている私。
昔の私の栄光?を だれが知るだろう?
この冷たい空気が 胸の中まで吹き込んで、心臓まで凍りつかせてくれれば、
この痛みはとまるかもしれない。
「ダディー!」
また、娘の声が冷たい空気の中に響く。
橇(そり)でスタートするところから、私に見て欲しいのだ。
その方向に手は振るが、もう声は出ない。
辺りを見回すと、公園をかこむように屹立する木立も、家々も、白く凍りついて、
娘の声と橇の滑る微かな音以外は、無音の世界である。
私はこの時の想いを、忘れる事が出来ない
移民国家米国 気弱な日本人 トップは肉… 2024.10.25
Re:そこらへんの元商社マンですが(10/23) 2024.10.24 コメント(1)
そこらへんの元商社マンですが 2024.10.23 コメント(1)
PR
カテゴリ
コメント新着
フリーページ
カレンダー