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生きるうえで人間はどうしても 他人との間で相互に相手を了解し合うような関係 を必要としているということを意味している、 と考えればいい。 ところが後に見るが、 この見方は知らず知らずのうちに、 社会的な役割関係が人間存在の意味である という見方にズレてゆき、さらには、 人間の価値は彼が社会的になにものであるか によって決まる、 という転倒した考え方に陥ってゆくのである。 すぐにわかるように、 この考え方は現在のわたしたちの社会でも 強い一般性を持った見方になっている。 しかし重要なのは、この"転倒"は、 単に考え方の誤りによって生じたのではなく、 社会の構成がもたらしている ひとつの必然的な転倒にほかならない という点なのである。 マルクスが直観していたのは、 まさしくこの間題であった。 彼がヘーゲルに対して放った批判の眼目はこうだ。 ヘーゲルは、この社会で人間が (労働)と(教養)を適切に積んでゆけば、 誰しも自らの 自然な人倫を社会化してゆくことになるはずだと言う。 しかしそれは全くの嘘だ。 現実には、 (民族国家)の理念による 政治的な国家(近代国家)の完成は、 市民社会の欲望の論理を調停せずに、 むしろそれを保証し、 完成させるほかないのである。 近代国家は、ヘーゲルの予想するような 私的な欲望の調停を決して市民社会にもたらさずに、 人間の類的本質(社会的、人倫的本質)と、 個々の私的な欲望する存在としての (自由な市民としての)本質を、 永遠に分離してしまうものとして機能してしまう。 なぜそうなるか。 その理由は近代国家が、 富(資本-貨幣)の原理を基礎として 構成されているからにほかならない。 こうマルクスは言う。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年03月31日
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脳がチューリング・マシン並みに万能であるならば、 言語の処理もやすやすとできてしまうのだろうか。 それならば、 サルの脳は基本的な構造が人間の脳と同じなので、 言語を処理する能力があることになってしまう。 もしサルの脳でそれができるのなら、 なぜサルは言語を使わないのだろうか。 発声器官の構造の違いは、その理由にはならない。 脳に言語能力が備わっているなら、 自然に手話を使うはずだからである。 この間題を、 「万能脳のパラドックス」と呼ぶことにしよう。 私の考えでは、 サルの脳が万能であっても一向に構わない。 知覚や記憶に関する複雑な情報を扱うには、 脳の能力ができるだけ高いことが望ましい。 しかし、もし人間の脳のどの領野も チューリング・マシン並みだとすると、 自然言語に特有の文法は 現れないことになってしまう。 チョムスキー階層によれば、 自然言語の文法は、 チューリング・マシンの能力よりも狭いからである。 万能であって何でもできるのならば、 限られたことをするように強制されない限り、 特殊な計算は行わない。 「多芸は無芸」ということわざがあるが、 何でもできる人は、一芸に秀でているわけではない。 そこで、人間の言語野では、入力制限のためか、 それとも言語野固有の原因により、 大脳皮質一般の機能が制限されて 言語しか処理できないように特殊化している と考えてみよう。 ちょうどチェス・コンピューターが チェスの計算しかできないように、 言語野は言語の計算しかできなくなっているとする。 機能の一部が制限された方が進化的に高等だと言うのは、 一見無理があるように思えるかもしれないが、 実は理にかなっている。 それは、抑制性の機能を持つ遺伝子 (他の遺伝子の発現を制御する遺伝子の一つ)が、 新しくつけ加わったためだと考えられるからである。「言語の脳科学」 酒井 邦嘉 中公新書
2016年03月30日
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朝鮮戦争はなぜ起こったか――。 理由は非常に簡単である。 アメリカが韓国を防衛線として考えないということ、 言い換えれば 韓国を見捨てる意図を露骨に示したからである。 この政策に刺激されたスターリンが、 共産軍を韓国へなだれ込ませたのである。 現に発表されている当時の機密文書によれば、 金日成がスターリンに南進を申請し、 スターリンがそれを承認、 毛沢東もそれを認めたという経過になっているが、 おそらく将来はもっと違った中身の 秘密文書が発見される可能性がある。 金日成がスターリンに南進を要請したというのは、 ちょっと話がまとまりすぎているような気がする。 私は、あれはスターリンの指令であったと考えている。 朝鮮戦争が勃発したのは、一九五〇年六月二十五日、 北朝鮮が雪崩の如く韓国内に入るわけであるが、 その年の一月十二日、 当時の米国務長官アチソンが演説をして、 アメリカの極東における防衛線は、 アリューシャン列島から日本列島を経て、 台湾からフィリピンに至る線であると明言していた。「嘘ばっかり」で七十年 谷沢永一 講談社
2016年03月29日
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今時のあんな学校なんかへやらずに、 家で書を読ませて、 しつける方が本当の人物になる。 しかし、 子供がやはり世間並みに学校へ行きたいといい、 母親もやりたいといふなら、 まあ子供の好い様にさせるまでだ。「童心残筆」 安岡正篤 島津書房
2016年03月28日
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文化的に成熟した文字の適応による 国民の教育水準が非常に高いために、 一般的な大衆文化の基本が作られ、 それによって社会的均等化と 民主的な理念の前提が可能となっている。 これは欧米でも国民の教育水準が低い 多くの国々に欠如していることだし、 開発途上国では望むべくもない状態で 対処していることなのである。 つまり日本語表記のシステムは、 教育の普及を妨げるどころか逆に促進しており、 厳格な階級社会とは対立するものである。 これが義務教育百年にして日本人の九〇%が 中流と自己を規定するにいたった原因なのだ。 これとは別に日本の文字が 経済的、実業的、および学術的向上を 妨げていないことは、 アメリカ占領以後の数十年の 歴史が明瞭に物語っている。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2016年03月25日
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「分析家のメッセージが 主体の深遠なる問いかけに応答するためには、 主体が、そのメッセージをまさに 自分だけのために向けられた返答として 聴き取ることが必要なのだ。」 (「精神分析における語りと言語の機能と領野」) ここでいう「主体」とは「分析主体」 すなわち被分析者のことです。 (「患者」と呼ばずに「分析主体」と呼ぶのは ラカンの用語です。) 分析家と被分析者のあいだの 即興的で一回的なことばのやりとり、 それは音楽の比喩を続けるなら、 むしろジャズのインプロゲィゼーションに 近いのかも知れません。 一人のプレイヤーがあるフレーズを送る。 それを受けたプレイヤーがそのフレーズを反復し、 解釈し、変奏し、厚みを加え、 新しい可能性を切り開いて、 また元のプレイヤーに投げ返す。 それが繰り返されるのです。 そうやって、 譜面に一つの旋律が記譜されるように、 一つの「物語」が記されてゆきます。 分析家と被分析者のやりとりは、 (一つ一つの音符の集積が やがて主題をもった旋律をなしてゆくように)、 一つの物語世界を構築してゆきます。 その物語がめざしているのは、 楽曲がどのような意味でも 「現実の再現」ではないのと同じように、 現実の再現でも想起でも真実の開示でもありません。 それは一つの象徴化作用にほかなりませんし、 極言すれば、一つの「創造行為」なのです。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2016年03月24日
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哲学的事項を研究するには、 五尺の身体の内にこだわっていてはとうていできない。 できることはできても、 言うところが、しらずしらずのあいだに みな没交渉となるをまぬがれぬ。 人類だけにこだわっていてもいかぬ。 十八里の雰囲気(1)の内にこだわっていても、 太陽系天体の内にこだわっていても うまくいかない。 元来、空間といい、時といい、世界といい、 みな一つありて二つなきものだ。 いかに小さな想像力で想像しても、 これらの空間、時、世界などに、 始めのあるべき道理がない。 また上下とか東西とかに、 限りのある道理がない。 それなのに五尺の身体とか、人類とか、 十八里の雰囲気とかにこだわっていて、 自分の利害とか希望とかにひきずられ、 他の動物つまり禽獣虫魚を疎外し軽蔑して、 ただ人という動物のみから割り出して考索するために 、神の存在とか、精神の不滅、すなわち身死する後、 なお各自の霊魂を保つことができるとか、 この動物に都合のよい論説をならべたてて、 非論理きわまる、非哲学きわまる たわごとを発することになる。 注(1) 十八里の雰囲気: 地球上、人間が生きられる高度、 地球をかこむ大気は十八里だとの説が 当時行われていたいう。「続一年有半」 中江兆民 中央公論社 「日本の名著
2016年03月23日
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遠近法は、 ひとりひとりの視点(主体)からみた世界を、 忠実に表現しようという方法だった。 そこでは、 主体とか、客観とか、認識とかいうことが、 十分意味をもつている。 ところが、遠近法をヒントに、 射影幾何学が登場する。 ここでは、視点は一定せず、あちこち動きまわる。 視点(主体)の差異が無視されることで、 対象の〈構造〉が浮かびあがる仕掛けになっている。 〈構造〉は、 ひとりの主体(視点)が自分にこだわって、 世界を「認識」しようとしているあいだは、 現れてこないものなのだ。 この射影幾何学の体系化をきっかけにして、 数学における構造主義が誕生した。 こんなふうに〈構造〉を研究するのは、 そもそも、主体とか客観とか、 なにか実体を考えてしまう発想とは対極的である。 レヴィ=ストロースは、 代数学の〈構造〉の話しかしなかったみたいだけれども、 幾何学の〈構造〉にも話を広げてみれば、 構造主義の方法のなかで主体が消えていく理由が、 よくわかる。 レヴィ=ストロースは、 主体の思考(ひとりひとりが責任をもつ、 理牲的で自覚的な思考)の手の届かない彼方に、 それを包む、集合的な思考 (大勢の人びとをとらえる無自覚な思考) の領域が存在することを示した。 それが神話である。 神話は、一定の秩序 ――個々の神話の間の変換関係にともなう〈構造〉―― をもつている。 この〈構造〉は、 主体の思考によって直接とらえられないもの、 ”不可視”のものなのだ。「はじめての構造主義」 橋爪 大二郎 講談社現代新書
2016年03月22日
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動物は、 遺伝子によって、体の形だけでなく 行動の特徴までが決められている。 多くの人にとって、これは驚きだろう。 この考えは、一九七〇年代初めに アメリカのベンザー(S.Benzer)や ブルンナー(S.Brenner)らとともに 遺伝行動学の基礎を築いた、 堀田凱樹(よしき)氏の卓見であった。 掘田氏は、 行動に異常を起こす ショウジョウバエの遺伝子を見つけて、 遺伝子から脳、 そして行動に至る 因果関係の存在を明らかにした。 遺伝子が神経の回路網を決定し、 その構造に基づいて、 脳の機能である行動が決定される。 これが脳の決定論である。「言語の脳科学」 酒井 邦嘉 中公新書
2016年03月18日
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どんな人間でも、はじめはまさしく 自己中心的な世界像を持っているが、 さまざまな他人達と関係を結んでゆくうちに、 必ずこの自己中心的な世界像をつき崩される ということが起こる。 わたしなりの言葉で象徴的に言うと、 人間は自分の存在の意味をつねに確認しよう とする本性をもっているが、 誰でも必ずどこかで、自分の存在の意味は 自分自身だけではどうしても確証し得ない ということに気付くのである。 人間は大なり小なり、他人を必要とし、 他人の視線によってのみはじめて 自分の意味を確認することができるような 存在だからである。 他人を支配し自分が主人となるような仕方は、 一見自己確認の いちばん手っとり早い方法かもしれないが、 じつは、 それは人間を孤独にするほかないのである。 ヘーゲルの言うような 人間の社会的な本質(=止揚された人倫)とは、 だから、生きるうえで人間は どうしても他人との間で相互に 相手を了解し合うような関係を必要としている ということを意味している、と考えればいい。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年03月17日
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独立した形式的な研究を進める場合、 文を左から右へ作り出していく 有限状態のマルコフ過程 として言語を考えるような単純な方法には 賛成できないことが分かった。 また句構造や変形構造のような かなり抽象的な言語レベルが 自然言語の記述には 必要であることもわかった。 文法構造と意味との間には 重要な関連がたくさんあることも きわめて当然である。 いいかえるなら、 文法的装置はきわめて組織的に 用いられていることがわかる。 これらの相関関係を調べることは、 文論と意味論の問題やその接点を考察する 一般言語理論の主題の一部となろう。「文法の構造」 ノーム・チョムスキー 研究社
2016年03月16日
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学業は志才気の三つなければ成就せず。 まづ士たらん者は志を高く大に立つべし。 志を高大に立つれば自ら才もます者なり。 才あれば読書の勤めはさらなり。 万事の学習思ふ様になるなり。 左様に勤むれば知見日々に広くなりて 気をもつよく精神もさはやかになる。 気力つよくなれば又おのづから志も太くなり、 志太くなる儘(まま)に才もまさり、 才もまさる儘に気はいよいよつよくなりゆくなり。 此三つのもの相互に助けて、 学業は思はず知らず成就す。 固(もと)より学業といふもの外のものにあらず。 人たる道を知りて人たる事業をなさん為なり。 国民の内にて士といふものは、 心を労して君を輔(たす)け、 天下国家を平治すべきものなれば、 学問なくしては一日も立つべからず。 (「何傷録」真木和泉)「東洋人物学」 安岡正篤 致知出版
2016年03月15日
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視点が移動すると、 図形は別なかたちに変化する(射影変換される)。 その時でも変化しない性質 (射影変換に関して不変な性質)を、 その図形の一群に共通する 「骨組み」のようなものといういみで、 〈構造〉とよぶ。 〈構造〉と変換は、いつでも、裏腹の関係にある。 〈構造〉は、それらの図形の「本質」みたいなものだ。 が、〈構造〉だけでできている図形など、 どこにもない。 〈構造〉は目に視えない。 その意味で、抽象的なものだ。 射影幾何学を体系づけたのは、F・クラインである。 一八七二年に二十三歳の彼は、 有名な『エルランゲン・プログラム』を提出して、 射影幾何学がいまのべたように、 変換に関して不変な性質を研究するものであることを、 宣言した。 短い論文だが、時代を七十年あまりも先取りして、 事実上、構造主義のマニフェストになっている 素晴らしいものだ。 クラインの業績によって、 数学の研究対象は〈構造〉である、 という考え方が広まっていった。〈構造〉は、直(じ)かに与えられる実体ではない。 研究者がどういう方法をとるかに応じて、 現れてくるものである。〈構造〉を共有する一群の対象は、 変換によって互いに結びあっているので、 「群(ぐん)」として扱うことができる。「はじめての構造主義」 橋爪 大二郎 講談社現代新書
2016年03月14日
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政治家スターリンの悪魔的な知恵は、 第三次世界大戦をコールド・ウォー(冷戦) という形で勃発せしめたことだ。 世界に冷戦をもたらすことによって、 スターリンは 引き続きソ連を臨戦状態に置くことに成功した。 これが、 第二次世界大戦から、その八年後に死ぬまでの、 スターリン最後の大政治手腕であった。 そして、その冷戦の中核機関として、一九四七年、 ヨーロッパ九ヵ国の共産党を結ぶ情報局、 コミンフォルムを設置した。 冷戦を今から考えた場合、 ことに政治力学の観点から考察すると、 全世界がスターリンの悪魔的な知恵にしてやられた という結論にならざるを得ない。 冷戦の勃発のとき、もし全世界が、 スターリンが自らの権力維持の方策として打った 全世界的な大きな賭けの網である ということを見抜いていたならば、 その後の推移は、かなり変わっていただろう。 しかし、実際には、 誰もそう考えることができなかった。 また事実、そう考えるだけの論拠はなかったし、 そう思わせる現象も起こらなかった。 だから、全世界はまともに冷戦の中に 没入しなければならなかったのである。「嘘ばっかり」で七十年 谷沢永一 講談社
2016年03月11日
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「兵は詭道なり。 故に能くして而してこれに能くせざるを示し、 用ひて而してこれに用ひざるを示し、 近くしてこれに遠きを示し、 遠くしてこれに近きを示し、 利してこれを誘ひ、乱してこれを取り、 実つればこれに備へ、強ければこれを避け、 怒らせてこれを堯(みだ)し、 卑(ひく)うしてこれを驕らせ、 佚(いつ)すればこれを労(つか)らせ、 親しめばこれを離し、その備なきを攻め、 その不意に出づ。 これ兵家の勝にして、 先伝すべからざるなり。」(孫子・始計) 「兵は詭道なり」。 戦というものは熱戦、冷戦にかかわらず、 詭道だ。 詭というのは偽ということである。 兵というものは、戦というものは、 相手をいつわる道であるとはっきりいっておる。 こういう事は 理想主義の文献ではよういわぬことである。 そんな事をいったら、 実は人間を冒瀆する事だと道徳家は恥じる。 いわゆる戦略、兵法の大家であるところの 孫子はこれをはっきり言明した。 つまり苛烈な現実を端的に断言した。「新憂樂志」 安岡 正篤 明徳出版
2016年03月10日
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チョムスキーは、 文法理論には、 三つの階層性があると考えた。 第一のレベルは、 「観察的妥当性」であり、 ある言語で観察される文が 文法的であるかどうかを、 明示的に区別できるような理論を指す。 ただし、 文法的かどうかの判断は、 その言語を母語とする話者の 直感に頼っており、 客観的な評価は要求されない。 この点は、 いったん言語学の外に出ると、 大問題となる。 例えば、 自然言語処理の研究で 計算機に文を生成させる場合、 作り出された文が文法的かどうかを、 計算機自身に 判断させる必要が出てくるからである。 第二のレベルは、 「記述的妥当性」であり、 ある文が文法的かどうかだけでなく、 理想的な母語話者の 言語知識に関する直感を、 正しく記述できるような理論を指す。 第三のレベルは、 「説明的妥当性」であり、 いくつかの記述的妥当な文法の中から、 話者が実際に獲得している文法を選び出して、 どうやってそのような直感を獲得したのか (つまり言語獲得)を説明できるような 理論を指す。 言語理論が説明的妥当性を持つためには、 最終的には言語の脳機能の実体が わからなければならないと私は考える。「言語の脳科学」 酒井 邦嘉 中公新書
2016年03月08日
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これは受け合ってもいいが、 どれほどいろんな知識を深く持っている 思想家や学者でも、 結局自分なりにものを考えるときには、 まず必ず多くの知識をまとめて ひとつのいちばん簡明な像に還元している。 そういう作業なしに 誰も自分なりに ものを考えることができないからだ。 だが重要なのは、 単に多くの知識を身につけることなら、 興味と自由になる時間さえあれば 誰にも容易だが、 このいちばん簡明な問題の像から 自分なりに考えてゆくことは ひどくむづかしい、 ということだ。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年03月08日
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五つの公理から出発すれば、 幾何学の知識は、 すべて証明(の連鎖)によって、 あとづけることができる。 このことを記した本が、 ユークリッドの『幾何学原本』である。 ユークリッドは 実在の人物かどうか疑わしい という話もあるが、 『幾何学原本』のほうは ちやんと実在しており、 以後二千年にわたって、 すべての学問の手本となってきた。 本当に見事で美しい、 完壁な数学の誕生である。 証明(論証)によって、 知を組織できることがわかった。「はじめての構造主義」 橋爪 大二郎 講談社現代新書
2016年03月07日
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欧米でも――世界中どこでもそうなのだが―― 女性たちは伝統的に家の守り人であり、 子供たちの世話役であって、 男たちが外部の世界とかかわり合っている。 けれども欧米では 家庭や母性的なものは非常に 価値低くみなされてしまっている。 逆に職業上の成果、物質的な成功、 征服と開発、知的浸透、技術習得、 政治上の支配などが 人間のより価値ある活動として 高度に価値づけられてしまった。 日本の女性が家を支配することによって 社会全体の「臍」として存在する時、 欧米の主婦たちは 主婦「でしかない」存在とみなされ、 人間性と社会の「高度」な段階においては 差別を余儀なくされているのだ。 これらの「高度な」段階は どちらかといえば男たちのものなのだから。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2016年03月04日
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精神分析的対話とは、 いわば被分析者の「本籍」を、 彼の「内部」から、 分析者と被分析者が両者の中間にある中空に 共作しながら構築している 「物語」の内部へと移す、 「戸籍の移転」に類する作業なのです。 症状は、 患者の内部にわだかまる「何か」が 「別のもの」に姿を変えて身体の表層に露出した、 一つの「作品」です。 同じように、 被分析者が語る「抑圧された記憶」もまた、 一つの「作品」です。 ですから、 この「戸籍の移転」は 「あるつくりもの」を「別のつくりもの」に 置き換えることに過ぎません。 しかし、それでも、ある病的症状が より軽微な別の症状に 「すり替え」られたとしたら、 それは実利的に言えば、 「治療の成功」と言ってよいのです。 それが 「無意識的なものの代わりに 意識的なものを立てること、 すなわち無意識的なものを 意識的なものに翻訳すること」という フロイトの技法なのです。 「無意識的なものを 意識に移すことによって抑圧を解除し、 症候形成のための諸条件を除去し、 病因となっている葛藤を、 何らかのかたちで解決されているはずの 正常な葛藤に変えるのです。」 (『精神分析入門』) フロイトは それこそ精神分析の仕事であると 言い切っています。 その本質的なみぶりである 「別のものを立てる」 「翻訳する」 「転移する」 「取り替える」は すべてドイツ語ではübertragenという 一つの動詞で言い表すことができます。 精神分析の仕事とは、 ですからひとことで言えば 「ユーバートラーゲンすること」なのです。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2016年03月03日
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ドイツは レーニンを ペテルブルクに送りつけるという 破天荒な政治手段に出た。 こうして、 一九一七年四月三日、 レーニンはペテルブルクに 到着することができたのである。 このとき、 ドイツ参謀本部が レーニンを送り込むことを 考えていなかったなら、 果たしてレーニンの帰国が 実現したかどうかわからない。 ロシア革命の成否もわからない。 だから、 この革命には明らかに外国、 特にロシアを敵視するドイツの 国家意志が強烈に働いていた。 同時にレーニンは、 革命のためであれば、 敵国をも利用すべきだと考えて 困難な帰国を果たし、 その結果、 レーニンに指揮された ボリシエヴィキ革命は 遂行されたのだから、 ロシア革命の導因に レーニンの強烈な個性があったことも 確かである。 いくら レーニンの価値を低く考えようとも、 あの時期に、 レーニンなくして ロシア革命が成功していたとは とても考えられない。 したがって、 レ-ニンの個性が 二十世紀の歴史を動かしたと言える。 これは、 長い世界史の流れの中で、 一個人のパーソナリティー、能力が、 世界に対して大きなインパクトを与えた 数少ない例の一つである。「嘘ばっかり」で七十年 谷沢永一 講談社
2016年03月02日
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チョムスキーは、 人間である限り生得的に備わった 言語能力が存在すると考えた。 脳に「言語獲得装置 (language acquisition device,LAD)」 があると仮定することで、 プラトンの問題に説明を与えることができる。 この言語獲得装置の持つ規則を 言語学的に記述したものが、 普遍文法である。 言い換えると、 ヒトの言語には、 普遍的な文法の原理が 本能として備わっていると考えられる。 普遍文法に対して、 実際に母語(日本語や英語といった個別言語)を 話すときに用いている文法のことを 個別文法と呼ぶが、 個別文法は普遍文法よりも具体的になっている。 言語獲得装置とは、 個別言語のデータを入力として、 個別文法を出力とする装置である。「言語の脳科学」 酒井 邦嘉 中公新書
2016年03月01日
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