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伊能忠敬の全国測量は緯度一度の距離測定が目的で、そのためには日本各地での正確な天体観測が必要でした。象限儀はそのための観測器具の一つで、師である間重富が「霊台儀象志」などを参考に工夫して作らせた天体の角度測定器です。伊能忠敬らによる日本地図製作は画期的な仕事でした。伊能忠敬は、1800年(寛政12年)に東北・蝦夷地(北海道)の測量を開始、1816年(文化13年)まで10 次にわたって全国測量をおこない、また測量と天体観測により日本における緯度と経度の1度分のながさをもとめました。これらのデータをつかって非常に精度のたかい日本地図をつくりました。象限儀には1/4円形状の半径六尺の大型象限儀と半径三.八尺の中型象限儀があり、全国測量には中型が用いられました。
2025年02月28日
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西洋科学の影響を受けて天文学が発展し、幕府天文方が天文台を設置して天体観測を行い、改暦も行いました。個人でも天体観測に取り組む人が現れ、星図を元にした天球儀も制作されました。また、西洋の望遠鏡や測量器具が輸入され、日本でも器具を作成する者が現れました。測量とは、天を測り地を量ることを意味する支那の「測天量地」に由来します。江戸時代になると、測量技術は従来のものに西洋から伝えられた暦学や測量の知識に加えて実用の技術として発達しました。江戸時代に盛んに行われた土木治水や鉱山開発は、広く普及した測量技術があってこそ可能だったのです。
2025年02月27日
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近世の庶民は計算道具として「そろばん」を使っていましたが、和算家はその他に古代以来の計算道具である「算木」を用いていました。算木は木製または紙製の一種の計算棒で、十進法に基づいて数を配置し、それらの間で運算を行ないます。算木をその上で運算するための盤が「算盤」です。碁盤の目状に線が引かれ、マスの中に算木を配列します。その計算は迂遠ですが、そろばんよりも高度な計算(高次方程式の処理など)が実行できます。『拾璣算法』は関流の和算書として、最初に出版されたもので、筑後久留米藩主の有馬頼徸がまとめた専門書です。この書では、算盤に替わる「点竄術」が詳細に説明されており、算盤から筆算への転換が始まりました。
2025年02月26日
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江戸時代後期には、簡単な和算の知識は庶民にも一般的となり、いろいろな書物の中に出てくるようになりました。寺子屋の教科書であるとか、日常の必要事項をまとめた百科事典などに、そろばんの使い方やねずみ算、利息計算、魔方陣のような遊び的なものまで、様々な種類の和算が紹介されています。
2025年02月25日
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江戸時代を通じて10種類の小判が発行されていますが、いずれも純金ではなく、金と銀が混ざった合金でした。金品位の低い小判を金らしく見せる技術として「色揚げ」がおこなわれました。江戸時代には、小判の金銀の比率が時代によって異なり、そのままでは銀色が強くでる大判や小判があり、金色を出すために施されました。金銀合金の表層に金色を引き出す発色技法で、鍍金と比べて耐久性にすぐれます。古代インカの工芸品も、この技法を確認できますが、日本では金工後藤四郎兵衛家の秘法と伝承され、大判座・金座で活用されました。素の小判に色付け薬を塗布して加熱し、金銀の表層から銀分のみを除去し、残った金分を再結晶させて金リッチ層を作る技法です。
2025年02月21日
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鉱業(こうぎょう、英語:mining)とは、鉱物などの地下資源(場合によっては地表にあるものを含む)を鉱脈や鉱石から資源として取り出す産業です。江戸時代は、金・銀・銅が貨幣として通用していたので、鉱山には非常に重要な価値があり、マルコ・ポーロが「黄金の国(ジパング)」と呼んだ日本は、金銀などの鉱物資源や燃料となる森林資源に恵まれ、江戸時代以前から世界有数の鉱業国でした。鉱山の直轄領化は、主要都市の掌握とともに、江戸幕府の財政基盤を築くための重要施策に位置付けられました。本来、諸大名への所領宛行、京都など主要都市の支配、鉱山の直轄化、天下普請などは、おおむね江戸幕府の権限でした。幕府は積極的に鉱業を振興し、日本各地で鉱山開発を行いました。銅の生産量は世界最大となり、これらの生産物は長崎を通じて世界に流通しました。
2025年02月20日
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西洋では、地球儀と天球儀が対で利用され、日本はこれらに中国伝来の渾天儀が加わって、天文暦学関係者や蘭癖大名らの所持品となっていました。 西洋から伝えられた地球儀や天球儀は、和製としては、幕府天文方の渋川春海が1695(元禄8)年に作ったものが最初とされ、国立科学博物館にはその実物(重要文化財)が所蔵されています。この地球儀は、マテオ・リッチ系の地図を描いたものです。
2025年02月19日
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万年時計(万年自鳴鐘)は、江戸時代の発明家、田中久重によって製作された機械式の置時計で、万年時計の名で広く知られています。1000点を超える部品が田中による手作りから作られています。七宝、蒔絵、螺鈿細工などで装飾された高さ57cm、ぜんまい駆動の大型の置時計で、田中久重(1799~1881)が約一年の歳月をかけて1851(嘉永4)年に完成しました。六角形の頭部の角面には、不定時法時刻を示す割駒式文字盤、十干十二支文字盤、旧暦日付・月満ち欠け表示盤、西洋文字盤が配置され、上面に月と太陽の出没を示す天象儀(天体模型)が付いています。割駒式文字盤の自動化機構、天象儀における太陽・月の運行機構は、久重の精密工作技術の高さと自然科学の知識の深さを示すものです。
2025年02月18日
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江戸時代には長く平和が続き、庶民も寺子屋などで「読み、書き、そろばん」を学ぶことのできる社会が生まれました。和算も学問や商業などの実用の技として、学者や一部の武士だけでなく、庶民にまで広がりました。学問の分野では流派が生まれ、知識の競い合いの中で西洋の数学に匹敵する高等な学問体系が作られました。
2025年02月17日
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グラスゴー大学はニューコメン式の蒸気機関の模型を所有していましたが、当時ロンドンに修理に出さていました。ワットは大学にかけあい蒸気機関をグラスゴーに取り寄せて、その修理を任されました。ワットは実験を重ね、シリンダー内に噴射される冷水によってシリンダーが毎回冷却され、次に蒸気が導入されたときに、熱の80%がシリンダーの加熱に費やされてしまっていることに気づきました。ワットは、ピストン部分とは別に設けたチャンバー(分離凝縮器、復水器)で蒸気の凝縮を行い、シリンダーを常に注入蒸気と同じ温度にしました。ワットは1765年に、改良して実際に動作する模型を製作し、熱出力におけるピストンとシリンダーのバランスの悪さにも着目し、適切な寸法比を導き出しました。1776年、ついに最初の実働する動力機関が完成しましたが、これらは鉱山の立抗底部に取りつけたポンプロッドに上下運動を伝えるだけのものでした。
2025年02月14日
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植民地アメリカが独立の戦いを起こしていたころ、本国イギリスでは産業革命とよばれる産業・経済・社会の大変革が進んでいました。その口火をきったのは、木綿工業における機械の発明、利用です。18世紀半ば、植民地戦争に勝ちインドの支配権を確立したイギリスでは、インド産綿織物への需要がふえ、さらに、インド産原綿を利用する木綿工業がさかんになり、これが紡績機・織機の発明と大量生産とをうながしました。また、このころワットの改良した蒸気機関が動力として用いられ、織物業のほか、石炭業、鉄鋼業、機械・金属工業を急激に発達させました。19世紀にはいると蒸気機関は交通手段にも利用され、汽船・汽車が発明されて交通・運輸にも革命的な変化が生まれました。この産業革命は、資源・資本・労働力、内外の市場など条件のめぐまれていたイギリスに始まりましたが、19世紀中に各国に広がり、資本主義を確立させ、同時に深刻な労働問題・社会問題を生みだしました。
2025年02月13日
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経済活動の自由や土地などの財産を手にした人々は、革命の行き過ぎを恐れ、戦争の勝勝利と政治の安定を望みました。このとき登場したのが軍人ナポレオンです。イタリア・エジプト遠征の後1799年、銀行家などと結んで政府を乗っ取りました。対外戦争や、法典編纂などの業績を上げ、1804年、国民投票で皇帝になりました。列国はこれを恐れてまた対仏同盟を結びましたがナポレオンはこれを一蹴、仝西欧を支配下に置いたのです。しかし、1812年のロシア遠征の失敗を境に没落を早めました。
2025年02月12日
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1789年、絶対王政は行きづまった財政の打開のため、僧侶・貴族・平民からなる三部会を召集しました。ここからフランス革命は始まります。7月14日、パリ民衆のバスチーユ攻撃義挙は草命の潮を一気にあふれさせ、封建制の廃止、人権宣言、立憲君主利憲法の制定と続きますく。革命の波及をおそれた外国の圧迫に挑戟し、内外の基底が深まる中で民衆と結んだ急進派がルイ16世を処刑し、独裁政治を始めた1793年は革命の最高潮でした。
2025年02月10日
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清教徒の移住で始まったアメリカのイギリス領植民地は、18世紀になると本国政府からの商工業統制や、重い課税に強い不満が高まりました。本国がこれを圧迫したことから1775年独立戦争に発展し、翌年人権と革命権を主張した独立宣言が発布されました。8年間の戟争で植民地は独立をかちとって(1783年)合衆国となり、(初代大統領ワシントン)、政治・社会の近代化を進めました。
2025年02月07日
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市民革命とは、一言でいえば、絶対王政を打倒した革命のです。国家の権力をにぎるものが、基本的には、封建的な君主や貴族階級から市民階級にうつった、政治的な変革です。市民革命では、その名のとおり、革命の中心勢力となるものが新興の市民階級(ブルジョアジー)でした。しかし、かれらが封建勢力の反撃をやぶるためには、都市や農村の一般民衆とも共同しなければなりませんでした。つまり、富は持つが政治への参加をとざされた市民階級が指導し、都市や農村の民衆がこれと同盟して、特権的な身分制度の社会を打ちたおした革命が、市民革命でした。世界の歴史において、このような市民革命の代表的なものは17世紀のイギリス革命、18世紀のアメリカ独立革命、フランス革命、日本の明治維新です。これらの国々では、資本主義という新しい生産様式が早く発達し始め、市民階級が古い社会をくつがえすほどに実力をそなえるようになっていました。市民革命の進み方は国によるちがいがありますが、議会政治と資本主義経済を軸として動く近代国家を成立させた点では-致しています。
2025年02月06日
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絶対君主として議会を無視し専政を行なう国教徒の王に対する議会と清教徒の反乱がまず専制政治をたおしました(1649年)。ここに成立した共和国はなが続きせず、王政復古となり専制政治が復活しましたが、全国民の反感は無血のうちに君主を交替させ(1688年)、国家の主権は実質的に議会にぞくすることになりました。イギリスでは17世紀のこの2度の革命によって絶対王政はたおされ、近代社会が成立しました。
2025年02月05日
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世界の各地に西欧人が進出するようになった15世紀末から16世紀以後の西欧は、政治・経済・社会・軍事・文化などにも新しい動きが現われました。とくに、大西洋に面していた国々ほど、商工業や海外貿易が活発になり、市民階級の力が強まりました。農村でも、生活の向上をもとめて各地で領主に反抗し始めます。力のおとろえだした封建領主、富をたくわえる市民、貧しさからの解放をねがう農民、これらの相争う勢力の上に立つ国王は、役人と軍隊を動かしてひじょうに強い権力を持つようになります。16世紀にまずスペイン、つづいてイギリスが強力な王権をうちたてました。エリザベス女王は、議会をあまり開かず、少数の商人、企業家に特権をあたえて商工業を独占させ、王室の財政をゆたかにしました。フランスでは、つぎの17世紀に貴族をおさえて王権を確立しました。「余は国家である」といったといわれるルイ14世は、豪華なベルサイユ宮殿をたて、ぜいたくな宮廷生活をおくり、富と領土をもとめてしばしば侵略戦争を行ないました。この絶対王政は、18世紀のプロシャ、オーストリア、ロシアの絶対王政の手本となったのです。
2025年02月04日
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西欧世界が外にむかって拡大しはじめたころ、その内部の社会も大きな変化が生じました。西欧の経済は中世末期に飢饉・流行病(ペスト)・戟争のため混乱し人口も減少しましたが、15世紀後半から人口や生産に回復の兆しがあらわれ、16世紀には活気がみられました。生産の回復につれて商品流通もさかんになり、とくに領主の支配力がゆるんだ西欧では貨幣経済が農村にまでしだいに浸透しました。このため農村には富農が形成され、また土地を失った貧農層もうまれはじめました。しかし、農業生産のめだった技術改良は18世紀になるまではみられず、各地で深刻な飢饉がしばしばおこって人々の生活はたえずおびやかされました。他方、都市の経済活動はさかんとなり、富裕な商人層が幅ひろく形成されて、その一部は農村の貧農に原料や道具を前貸しして、できた製品(おもに織物)を出来高払いで買い取る問屋制家内工業を始めるようになりました。これが、資本家が賃金労働者をやとって市場向けの生産をおこなう資本主義(産業資本主義)的生産の始まりで、これによって、いままでギルド組織だけに拠っていた工業製品の流通量が増大しました。
2025年02月03日
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