Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年02月12日
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カテゴリ: 夢有無有
内的霊的衝動の写しとしての美術史
 第1講 ドルナハ  1916年11月8日-10
第3講  中欧ー北方の芸術衝動を理解するための基礎
     中欧ー北方の芸術と南方の芸術の対立と関係
デューラー及びホルバインに至るドイツの彫刻と絵画
参照画:284アルブレヒト・デューラー-律法学者たちのなかの十二歳のイエス
ここでは、特徴ある顔の創造における巨匠としてのデューラーが見られます。律法学者たち--当然ながらデューラーが自らの周囲の環境に直接見ていた特徴ある顔--なかのイエスです。






以下は目録のみで簡裁
287 288アルブレヒト・デューラー-四人の使徒 ヨハネとペテロ人の使徒 パウロとマルコ

ミュンヘンにある名高い四人の使徒の絵です!これらの絵のなかでもとくに傑出しているのは、気質と性格に従った、四人の使徒の差異の鋭い特徴づけです。
289 290アルブレヒト・デューラー-四人の使徒、部分、ヨハネとペテロ四人の使徒、部分、パウロとマルコ-
278アルブレヒト・デューラー-キリストへの追悼
279アルブレヒト・デューラー-キリストの誕生
パウムガルトナー祭壇の中央の絵です。
280アルブレヒト・デューラー-聖なる三王の礼拝
274アルブレヒト・デューラー-ある老人の頭部
273アルブレヒト・デューラー-ヒェロニムス・ホルツシューハー
有名なホルツシューハー像です。
281アルブレヒト・デューラー-ステュムパーロスの怪鳥と闘うヘラクレス
この画像をここに挿入しましたのは、とくに、これが人間の本質から直接発する動きのデューラー的把握を示しているからです。

しばしば「騎士と死と悪魔」と呼ばれる有名な「キリストの騎士」の版画です。みなさんにお願いしたいのですが、ほかならぬこの銅版画において、彼がまったくもって時代の申し子であることに注意してください。何故なら、この傍らに、私が先程ゲーテの「ファウスト」から引用しましたものを据えてごらんになれば、なるほど博士に修士、物書きに坊主、こういうおすまし連中の誰よりも、俺の方がおつむはましだ、良心の咎にも疑いにも苦しまず地獄も悪魔も恐れない。「死と悪魔」を前にしても恐れることなく、世界をめぐって自らの道を歩むこの人物の特徴全体をつかむことができるでしょう。実際この騎士はこのように描かれなければなりません、彼の領分にかつぎ込まれる博士、修士、物書き、坊主(聖職者)たちに徹底して反抗し、世界を移動していかねばならないこの騎士は、途上に立っている死と悪魔を恐れず、それらをいわば脇にどかせ、自らの道を歩み続けるのです。実際のところこの絵は《キリストの騎士》と呼ばれなければなりません。死と悪魔は単に道の途上に立っているだけだからです。騎士はそれらを乗り越えて行くか、それらに注意も払わず通り過ぎていきます。ゲーテの「ファウスト」独白がそこから詩作された、意識的に詩作された時代の気分、その同じ時代の気分がまずこのデューラーの版画に現れてくるのです。
292アルブレヒト・デューラー-屋内のヒェロニムス  銅版画
さて、このまさしく中世的な部屋に注意してくださるようお願いします、光と闇から意識的に生み出されるべくして純粋に光と闇から生まれた構成に。射し込んでくる光--そして光のなかに犬が置かれています、光をほとんど受けずに眠っていて、多かれ少なかれ闇のなかに置かれています。ライオン、いわばもう少し意志的な動物として、夢見ているようで、その面差しは多くの光を受けています。この二つの動物の対照は、実際、それらが異なったしかたで光のなかに置かれることによって、表現されねばならないのです。そしてこれも光を受け取っている。しかし同時に自分自身から光を反射しているようなヒェロニムス自身がこれに対照をなしています。人と動物、聖人と動物が、光のなかに置かれることによって対照され、さらに髑髏もあります。犬、ライオン、聖人、髑髏--ー、構成全体がまさに明ー暗に応じて配置されています。人物がこのように光のなかに置かれることによる、極めてすばらしい発展史、とでも申し上げたいものです。それで、これとともにデューラーにおける最もすばらしいもののひとつは、光と対象、光と本質との相互作用のなかにある構成的な力、この構成的な力を彼が生み出すということなのです。当然ながら、主要人物とはまた別のものも、ひとつの構成に含まれます。けれども、この版画において、明ー暗のなかにある構成的力の扱いには、まったく特別な驚きを感じざるを得ないでしょう。
293アルブレヒト・デューラー-メランコリー  銅版画
この版画でみなさんに注意していただきたいのは、むろんこの言葉を「教皇権至上主義的でな(ultramontanlos)」受け取ってくださらなくてはいけませんが、実際のところこの版画は、明ー暗、つまり明ー暗の構成的力という場合にデューラーが何を重視しているかを示すために、いわば世に出されたということです。デューラーは自分の関心事を示すためであるかのように、角張った多面体と球、円い物体を配しています、彼が独自のしかたで射し込ませる光が、球の上で暗と相互作用するのを示すためです。そして球には光の分割を見ることができます。球において彼が表現しているように、衣装の襞取りの置き方にも、光の効果が光の効果に相応しているということを出発点とすることができるのです。このシンプルな球体に明と暗のかたちで現れているものすべてが配置全体のなかでも現れてくるように、デューラーは襞を表現しています。多面体においては、面の傾きに従って、各面が、明、半分暗、暗、闇、光のなかに異なって位置しているようすを比較することができます。この多面体の下に、彼はもっとはかないフォルムを示す存在、彼がはかないフォルムを与える存在、つまりレイハウンド犬を置いてくれています、上の多面体のにおいて彼がみなさんに示しているのと同じしかたで、面に光が落ちるのを模写するために。ですからいたるところに、光は対象に向かって何を語るのか、ここでは光は存在に向かって何を語るのかという問いがあります。光が語るもの、それはいたるところに得られます、個々の陰影づけを、多面体や円い物体という相応しいものと比較できることによってです。同時にデューラーは、この図像とともに何かを創り出しました。誰かに陰影づけを教えようとするとき、この版画を使う以上に教育的なことはありません。さらに自発光(Eigenlicht)というものをデューラーは上の方に「メランコリー」という語を掲げている蝙蝠の右に登場させています、ほかのあらゆる面に現れてくる反射する光とは対照的に、いわば自分自身から輝くものです。*途中質問:この図像にはもっと別のより深い意味があるのでしょうか。


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最終更新日  2024年02月12日 06時10分08秒
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