Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年02月17日
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カテゴリ: 絶対存在論
ルドルフ・シュタイナー 初期哲学論文-3
真理と学問 導入
 以下の議論は、究極的な諸要素にまで遡って認識行為を分析することによって、認識の問題を適切に定式化し、この認識問題の解決への道を示すという課題を持っている。この議論は、カント的な思考方法に立脚した認識論の批判によって、その立脚点からは決して当該の諸問題を解決できないということを示している。その際、経験概念に関する徹底的な研究を行なったフォルケルト*¹の基礎的な準備作業がなければ、我々が試みるように、「所与」の概念を正確に理解することは非常に困難になるであろうということを、もちろん認めなければならない。しかし我々は、我々がカントに由来する認識論にこびりついている主観主義を超克するための基礎を築くことを望んでいる。しかも我々は、次に示す我々の証明によってこのことが果たされたと信じている。即ち、世界像が学問によって手を加えられる前に認識行為に対して現れる主観的な形式は、必要不可欠な、しかし認識プロセスの中でそれ自身が超克される、単なる通過段階に過ぎないという証明によってである。我々は、実証主義と新カント派がかくも好んで唯一確かなものだと呼びたがるいわゆる経験を、まさに最も主観的なものだと見做している。そして、我々はこのことを示すことによって、おのれの内に根拠を持つ認識論の必然的な帰結としての客観的観念論を基礎付ける。この客観的観念論は、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel/1770年8月27日 - 1831年11月14日)が認識主体の中で与えられた存在と概念に現実が分裂する根拠を探し、客観的な世界の弁証法の中にではなく主観的な認識プロセスの中に分裂を媒介するものを見て取っているということによって、ヘーゲルの形而上学的な絶対的観念論とは異なっている。私は、既に一度 1886年の「ゲーテ的世界観の認識論要綱」において、方法の点でここで行う研究とはもちろん決定的に異なり、認識の第一の要素への遡及も欠けている研究に基づいて、この見解を主張した。
【原注】
*1:J.フォルケルト『経験と思考-認識論の批判的基礎付け-』ハンブルク及びライプツィヒ 886 この議論の考察の対象となる新しい文献は、以下の通りである。我々は、その際我々の叙述と直接関係を持つものだけでなく、我々によって議論されているのに似た問題が取り扱われている全ての文献を挙げる。本来の哲学古典の文献をとくに挙げることはしない(※文献一覧は割愛)。 フィヒテを記念した 1862 年に公刊された多数の文献は、もちろんここでは考慮しない。せいぜい、比較的重要な理論的観点を含むトレンデレンブルクの講演には触れるかもしれない(「ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ――1862年5月19日にベルリン大学で行なわれた講演」 ベルリン 1862)。
参考:ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル




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最終更新日  2024年02月17日 06時07分59秒
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