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「しばし、石になります。」私は以前こんなことを書いて「忙しくなってしまったので、『物欲日記』は更新できないよぉ~」ということを何気なく表現した訳ですが、『物欲日記』をリスタートさせるにあたって、いまの「現実」と「仮想」の2つの世界の間での慌て振りや価値の比重について、ちょっと書き残しておきたいと思います。 ふだん私たちが生活している「現実」の世界を基準とすると、趣味として作っているホームページが仕事か何かが理由で更新できなかったとしても、一般的には「現実」の方を優先すべき問題として理解されることが普通です。しかし、ここ楽天のような「仮想」の世界に自分の生活する場所を誕生させ、ご近所さん達と交流を始めてみると、いつしか、それも「現実」の世界のひとつであることを認識し始めます。そして、そこを基準とした価値観は、いつしか「現実」世界並に膨張していくのです。そして、ある人によっては、その領域の比重が逆転してしまったり、ある人によっては、2つの世界を掛け持ちで生きられずに、そのどちらかで生命を絶ってしまうようなことも起こるでしょう。 たかが個人の遊びであったはずのホームページが、なぜこのような楽天のような場所で、意外と感じるほどの心理的な影響力を持つのでしょうか? 「日記」とは、元来、自分の内面を表現し自分だけが見るものでした。しかし、他人に見せたり意見を聞いたりする「コミュニケーションツール」になった段階で、そこに小さな生命が芽生えたのかもしれません。つまり、「何かとコミュニケーションすること=生きること」と私は考える訳です。私は、楽天のような「仮想」の世界に自分の生活する場所を誕生させてみて、改めて「目的を持つ」とか、「突然放棄したらまずい」とか、日常生活では当たり前すぎて、あまり見えなくなった人としての責任みたいなものを、ここでも感じたんですよね。 過去、この世の中におんなじ顔をした人は3人いるなどと言われてきました。現在、我々は、専門家達が行う遺伝子操作によってクローンが創り出されていることに不安と期待を感じながら、既に特別な意識もせずこの小さな画面の中に自分のクローンを誕生させているのかもしれません。
2002年08月31日
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暑いばかりが夏じゃないぞ!
2002年08月27日
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彼女の夏はもうどこかへ行ってしまったのか。
2002年08月22日
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夏休みの宿題を片付けちゃいます。
2002年08月19日
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あるとき、『にゃあにゃあ』の姿がめっきり見当たらなくなった時があった。コツッ、コツッ、そんなある日の夜、私が仕事から帰ってくると、微かにどこからか、か細い猫の鳴き声が聞こえてくる。悲しく訴えかけるような鳴き声だった。『にゃあにゃあ』だ!『にゃあにゃあ』は、舌っ足らずな上に意気地なしでハスキーだから、他の猫のように堂々と「ニャーア、ニャーア」と鳴けなかった。だからいつも私を迎えに出てきたときに、ひと言だけ「ヒャ…」と鳴いて合図した。それが、その時は、繰り返し繰り返し「ヒャ…」「ヒャ…」と鳴いている。辺りはすっかり暗くなっていて、すっかり見通しは悪かったが、私は声のする方向を必死で探した。「にゃあにゃあ、にゃあにゃあー」。 すると、平屋の屋根の上で、何か黄緑色のものが2つキラッと光った。近づいてみると、『にゃあにゃあ』だった。「そんなところにいたのか、降りておいで」その家には門がなかったので、私は、こっそり玄関先まで入って屋根を見上げた。『にゃあにゃあ』も屋根の端までやってきて、上から私の顔を覗いている。「ほら、はやく」私は手を伸ばす。『にゃあにゃあ』も鼻先をこちらに突き出してヒクヒクさせる。でも飛び降りてこない。「どうしたの、ほら、はやく」そう言いながら私は、その時『にゃあにゃあ』がどういう状態に置かれているのか、やっと理解した。「そうか、降りられなくなったんだな…」『にゃあにゃあ』は塀づたいに高いところまで登ってみたものの、降りられなくなってしまったのだ。猫のくせに情けないよぉ…。 私は、『にゃあにゃあ』としばらくやりとりしていたが、結局その日は進展を得ることはできなかった。「腹が減れば、きっとそのうち降りてくるだろう」しかし、その明くる日も、そのまた明くる日も、状況は変わらなかった。ざっと数えてみても、もう1週間は屋根の上にいることになる。そろそろ本当にヤバイ。今夜こそは何としても助けよう。そう思って、その日は家路を急いだ。 屋根の上を見上げる。そうすると、もう1匹猫がいる。「のらくろ」のような黒と白の猫だ。様子を窺っていると、『にゃあにゃあ』をちらちら見ながら、屋根と近くの塀を行ったり来たりしている。何と見かねた猫が、降り方を教えているのだ。でも『にゃあにゃあ』は、相変わらず腰が引けていた。しばらくすると「のらくろ」もあきらめて帰ってしまった。「もう、最終手段だ!」私は、その家の人に気付かれないように、近くの塀によじ登った。相変わらず腰が引けていて、手の届かない方へ行こうとする『にゃあにゃあ』の首根っこを、私はガシッとつかんだ。「ヒャー」嫌がる『にゃあにゃあ』を無視して、胸元に抱えて飛び降りる。緊張した『にゃあにゃあ』の爪が、私の肩に刺さって血がにじんだ。『にゃあにゃあ』はげっそりと痩せていた。
2002年08月16日
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知人に貸してもらった、蜷川実花の『a piece of heaven』という写真集(2700円)。Olive世代の共感を呼ぶ雑貨っぽい発色と視点が楽しい。昨年は、なんと写真界で最も権威のある「木村伊兵衛写真賞」を受賞して旋風を巻き起こした。是非観てみてちょ!蜷川実花オフィシャルサイト※ちなみに、こちらもイタリアでの話、写真をアップしています。気がついていました?
2002年08月14日
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それでは『にゃあにゃあ』の話の続きを…。 その後も、いつも『にゃあにゃあ』は他の野良猫に追いかけられていた。そして、猫不信とでも言おうか、『にゃあにゃあ』は、すっかり猫嫌いになってしまったようだった。 ある日の帰り道に、私は、ガレージの屋根でアゴを上にして爆睡中のハンサム猫、アメリカンショートヘアの『うり』(♂)に声をかけた。「にゃあ」。彼はそこの家の飼い猫で、たまに外に出してもらっては、ガレージの屋根で昼寝をするのが習慣になっていた。とても気さくな性格で、たとえよだれを垂らすほど熟睡中であっても、私がひと声かけると、すぐにムクッと起きあがっては、アクビとノビをひとつずつして、塀を駆け下りてきてくれる。そして『うり』は、猫流の挨拶で、その頭と、たくましい身体をぶつけてくるのだ。『にゃあにゃあ』よりも、ずっと強い当たりで、アメリカ猫の力強さを感じる。『うり』は、しばらくそうして私の周りをぐるぐる回った後、することがもうひとつあった。それは、近くの電柱の根元や階段の下、つまり非常に犬のオシッコくさい砂だまりで、決まってゴロンゴロンと砂浴びをするのだ。基本的にきれいな毛並みの猫なのだが、これをした後は砂埃でまっ白になる。猫の砂浴びは、よく蚤退治のためなどと言われるが、本当なのだろうか?「おーい、勘弁してくれよ」。そこを立ち去ろうとする私の後を『うり』はついてきた。 私が家から200m以内くらいの距離に近づくと、いつも『にゃあにゃあ』は、私の気配を感じて走り寄ってきた。私が歩きの時はその足音を聞き分けて、車の時はエンジン音を聞き分けて、ある時は近所の家の縁側から、ある時は60段ある階段先の家の庭から。近所の人が、まだ姿の見えない私に向かって走っていく『にゃあにゃあ』を何度も目撃している。これは、不思議だけど嬉しいことだった。あるときは、車庫入れをしている車へ寄ってきてしまった。「こらーっ、ダメだって!」。そんなとき私は車から降りて『にゃあにゃあ』を抱え上げると、叱りながら抱きしめた。そんな『にゃあにゃあ』が大好きでしょうがなかった。 そして、その日も『にゃあにゃあ』は走り寄ってきた。が、ちょっと手前で止まった。「にゃあにゃあ、おともだちだよ」。初めて『にゃあにゃあ』は『うり』と対面した。一瞬、お互いがピタッとフリーズしたが、すぐに『うり』がゆっくりと前に出た。「やあ、よろしく」といった、いつも通りの気さくな雰囲気だった。ところが『にゃあにゃあ』は打ち解けられない。「ハァー!」弱々しい細い声で威嚇してみせた。それでも『うり』は、しばらくの間、なんとか友だちになろうと試みていたが、結局『にゃあにゃあ』が譲らず、『うり』は「じょうがない…」といった感じで帰っていった。『にゃあにゃあ』の猫嫌いもそうとうなものだった。いつものように私は『にゃあにゃあ』を抱え上げて、「こまったやつだな」と言いながら抱きしめた。
2002年08月12日
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ふぅ~、ここの日記、平日は毎日更新することを目標にしていたが、すっかり2日も空けてしまった。そんなこともあって、今日は久しぶりに指向を変えて、私が好きな猫の話でもしてみようと思う…。 約2年と2ヶ月前、私は長年住み慣れた横須賀市の町を離れて目黒区のマンションに移り住んだ。その頃、席を置いていた会社は代々木にあったが、それまでは、毎朝、京浜急行線に乗り、約1時間強かけて通っていた。帰りは殆ど終電の日ばかりだったので、早く都内に引っ越せば良かったのだが、その時住んでいた家は父の持ち家だったので家賃が掛からなかったことや、自然が豊かな高台にあり、住むには最高の環境だったことが、ずっと私を引き留めていた。(ちなみに両親はその10年前に家を置いて都内へ移住)でも何にしても、いちばんの理由は、居候の『にゃあにゃあ』がいたからだと今は思っている。 『にゃあにゃあ』は、家の近所で出会った野良猫。近所に住む情報通のおばちゃんは、「あの猫はね、まだ子猫の時に、前の飼い主が置いて出ていっちゃったんだよ」と教えてくれた。ガラの悪い野良猫が幅を利かせているその町で、外の世界を知らずに育った『にゃあにゃあ』は、野良猫と呼ぶにしては品が良すぎる猫で、いつも他の猫に追いかけ回される日々だった。 私はある日、そんな『にゃあにゃあ』のために、庭にダンボール箱の家をつくってあげた。最初、なかなか警戒して中に入ってはくれなかったが、タオルを敷いたり、ご飯を置いたり、試行錯誤してなんとか誘導を試みた。そのうち何回か入ったり出たりを繰り返していたが、その日はそのままどこかへ行ってしまった。 それからしばらく経った休日、「ギャァーーー!」という悲鳴にも似た猫の鳴き声に驚いて庭に出てみると、なんと、でっぷりと太ったヤクザな野良猫『ドラえもん』が、背中の毛を逆立てながら、そのダンボール箱に向かって唸っている。「なんだ、なんだ!」と、慌てて私が出ていくと、『ドラえもん』は、ふてぶてしい表情でこちらをにらむと、ゆっくりとその場を去っていった。そして、私がダンボール箱の中を覗いてみると、なんと『にゃあにゃあ』が中で震えていた。「かわいそうに、おまえ本当に弱いんだなぁ…」 その日から、私と『にゃあにゃあ』の共同生活が始まった。なんと『にゃあにゃあ』とうりふたつの楽天猫「クー」 ※でも「クー」はオス私が育った町「追浜」についての、めちゃめちゃマイナーなリンク集関東学院大学のページ「追浜」をデートスポットとして紹介している恐ろしいページ「追浜」付近の歴史を克明に語っている、とっても眠くなるページ
2002年08月09日
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昨日、今日と、更新もレスできずにすみません!m(_ _)m明日の夕方に仕事が一段落したところで、ばばばっと行う予定です。それまで、しばらくお待ち下さい。また、リンクしてくださっている方にはご迷惑をお掛けしますが、今後とも是非よろしくお願いします。
2002年08月08日
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炊飯器に電子レンジ、以前イベント用につくったプロトタイプです。エクステリアは、人工大理石のコーリアンという材質でできています。当時は残念ながら商品化には至りませんでしたが、こういうもの欲しくないですか? ※最近、おかげさまで仕事が忙しく「物欲日記」の更新が迫力不足だなぁ、と自覚しています…。でも、頑張ってどんどん良くしていこうと思っていますので、これからもよろしくお願いしますね。
2002年08月06日
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夜10時過ぎ、ナポリでピッツァを逃した私は、ローマに戻り「Est Est Est」(エスト・エスト・エスト=東・東・東)という名のホテルの近くのピッツェリアに入った。もうその日はどうしてもピッツァが食べたい気分になっていた。「Buona Sera」(ブォナ・セーラ=こんばんは)。席まで案内してくれた彼は、閉店の時間が迫っていたせいなのか、東洋人に対する偏見があったからなのか判らないが、西洋人の客たちで盛り上がっている手前の席からだいぶ離れた、人気のない奥の部屋に私を連れて行った。「どうやら東・東・東とは、東洋好きのオーナーがつけた名前ということではなさそうだ…」隔離されたことにちょっと寂しさを憶えた。しかし、腹が減っては腹も立たないので、取りあえずさっさと注文を済ませて、じっと料理がくるのを待っていた。 すると、再び彼は、東洋人のカップルを連れて私の隣の「東洋人席」へやってきた。ハネムーンの日本人だ。孤独な旅人を決め込んだつもりだった私は、「こんなところで浮かれた日本人カップルに会うなんて…。」と心の中で嘆いた。そして、彼らと目が合わないようにしながらもくもくと料理を食べ続けた。「あのう、日本人の方ですか?」男の方が、皮肉なことに自分が2日前に空港で言ったのと同じフレーズで話しかけてきた。「あ、はい」私は仕方なさそうに応えた。「どちらからいらしたんですか~?」と、今度は女性の方。「神奈川県の横浜市と横須賀市の境の辺りです。追浜というところなんですが…」変な言い方だが、いつも私はそういう説明の仕方をしていた。「えーっ、私、隣の金沢八景にある紳士服の青木に勤めているんですよー!」突然彼が驚いた表情で大きな声を出した。「えーっ」確かに驚きだったが、同時に「こんなところまで来て、そんなローカルな話を聞かないといけないなんて、しかも大声で恥ずかしい…」と思っていた。<続く>
2002年08月05日
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私は朝食をとり、荷物をまとめ、フロントに行った。すると彼は鍵を受け取りながら話しかけてきた。「今日はどこへ行くの?」「ローマ市内…」「ホテルは決まっているの?」「いいえ、安いホテルを探す…」「じゃあ、ここに泊まりなさい、ここは安いホテルだ」と言って、10万リラ(HISで予約した時の6割強くらいの価格)と、紙切れにまるっこい文字を書いてみせた。3つ星のホテルではまあまあ安いと言える数字だった。「じゃあ、もう1泊」。荷物を持って歩き回るのが面倒だったこともあって、その場で快諾することにした。結局は次の日も1泊追加して、私は真夏のローマを歩き回った。 ローマは起伏が激しい地形で、さらに空気も乾燥しているので、すぐに喉が渇いた。その頃、東京でもミネラルウォーターを革製のホルダーに入れて肩から提げるのが流行っていたが、ファッションばかりでなく、必然性からきているものだったことを、その時初めて知った。ガッサータ(炭酸ガス入りミネラルウォーター)が旨い。そして、2000年の時を越えてなおその姿を留める「コロッセオ」「フォロ・ロマーノ」、また、世界のカトリック教会の頂点に立つ「ヴァティカーノ」は、やはり圧倒される。しかし、一方で「ここには歴史しかない」とイタリア人は陰口をたたく。確かに、ヴェネツィア広場に面したトラットリアに入れば、カップ麺のようなボソボソの四角いパスタが出てくるし(もちろん、高級店はきっと違うのだろう…)、コロッセオの前では、中世の鎧を身につけたお兄さんが一緒に写真を撮りたがる。3日目には、そんな匂いが少しだけ鼻につきだして、私は少しローマを離れてみることにした。 「そうだ、本場ナポリのピッツァを食べよう!」午後1時半、ナポリ経由でシチリアの方まで行く列車は出発した。今度は乗客もたくさんいてにぎやかだった。しかし、乗ったのが各駅停車だったのか、ナポリに着いたのは、なんと夕方の5時。なのに夕食時にはまだ早いのか、どこのピッツェリアも閉まっている。「ここまで来てぇ?」という思いが募る。それでも根気よく開いているお店を探して歩き回っていると、今度はいつの間にやら、身長が2mくらいはあろうかといったインド人風の男性にずっと後をつきまとわれた。撒いてやろうと思って、ちらちら後ろを見たり、複雑に路地を曲がって歩いても一向にやめてくれない。ピッツァには未練たらたらだったが、仕方がなく私は駅に戻ることにした。滞在時間1時間半、何だったんだろう? しかし、腹が減った。早くローマに戻って夕食にありつこう。帰りの列車から見えた海にはきれいな虹が架かっていた。 『Virtual Rome』(ヴァーチャル・ローマ)イタリアでは、残念ながら完成度の低いウェブサイトが多い中、ローマに関する情報が満載。
2002年08月02日
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JAZZANOVAの『in between』というアルバム。いま、飽きずに毎日聴いています。是非聴いてみてちょ!オフィシャルサイト『IN BETWEEN』をクリックすると視聴画面が現れます。(日本語のページ)
2002年08月01日
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