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既報通り、5/29~30の日程で地元松本空港を撤退するJAC便にサヨナラ搭乗してきた。(その2)今日の各メディアでも、本日を持ってJAL撤退との報道がなされていた。残念ながら松本空港はほとんど触れられておらず、神戸空港撤退のニュースが多かった。29日夕方大阪空港へ着く。リムジンバスで梅田へ向かう。珍しく乗客はたったの4人。ガラガラのバスは阪神高速を走って梅田駅へ到着した。既に夕方なので地下街など歩いて物色する。梅田の地下街には都道府県名を掲げた壁面店舗があって全国の土産が手に入る所がある。なかなか面白いので品物を見ながら歩く。夕餉は関西に来たので串揚にした。「串揚」の看板に釣られて入ったら、セフルサービスで自分で揚げて食べる店舗であった。いわゆるバイキング方式である。少々落ち着かないが目前で自ら揚げながら食べるのもなかなか新鮮であった。充分酔って投宿して眠る。明けて30日。素晴らしい青空である。飛行機は9:30発なので直ちに空港へ赴く。1泊2日とは言え、現地滞在17時間と言う飛行機に乗ることだけが目的の意味の無い旅行になった。帰りは早くて安い阪急を使わずに御堂筋線(北大阪急行)+モノレールで伊丹へ行く。この路線は見晴らしが良い。御堂筋線も地上区間を走るし、第三軌条方式なので架線が邪魔にならず車窓の眺めは良い。モノレールは更に高いところを走るので遠くまで景色が見える。伊丹空港へ着いて土産物を買ってから搭乗待合室へ入る。駐機場には昨日乗った機材(JA-848C)が停まっていた。今日はこの機材では無い。この日の松本行き機材(JA-844C)。やがて時間となって搭乗する。客は6割程度のようであった。朝日が眩しい大阪空港の滑走路32Rを離陸して大きく左に旋回、〆の字を描くように飛んで名古屋方面を目指す。やがて左手に琵琶湖が見えて来る。上から見ても大きな湖である。名古屋上空で左へ舵を切り信州へ向かう。珍しく機長挨拶があった。普通このような短距離路線では機長の挨拶は無いのだが、あと1日で終わりとなる路線のためか「永らくのご利用ありがとうございました」との仰せであった。JAL側からすると松本線も一応は「運休」扱いとのことらしい。経営が好転した暁には再開出来るかも???という感じも匂わせては居た。たった40分の順調な飛行で松本空港へ着陸する。空港の展望デッキは意外に人が多く居た。去りゆくJALを見に来ている人も多いのであろう。降機して写真を撮る。機体をバックに記念撮影をしている人も居た。路線休止の1日前とあって、特に記念品贈呈も式典も無く、サヨナラ搭乗はあっさりと終わった 。 ( JAC便サヨナラ搭乗の巻 <完> )
2010年05月31日

既報通り、地元松本空港を撤退するJAC便にサヨナラ搭乗してきた。(その1)29日の午後、松本空港へ行く。松本空港ターミナルビル正面。長野オリンピックを控えた94年に改築近代化された。いつもは閑散としている空港に意外に人が多い。何かと思ったら定期便就航が間近になったFDA(フジドリームエアラインズ)のチャーター便による静岡空港行きが駐機していた。フジドリームエアラインズのERJ170-100STD型旅客機。フラジル製のリージョナルジェト機でJALグループのJ-Airも運行している機材であるが未だ乗った事は無い。同じく駐機中のERJ-170 (JA-01FJ)。派手な赤色が目立つ。この機材は七十数名乗りの小型機としては珍しく翼下にエンジンを装着し、水平尾翼も大型機と同じ場所に付いている。そのためか機体内蔵のタラップを使わずに搭乗橋 (ボーディングブリッジ)から乗り降りする。普通この程度の小型機だとリアエンジン+水平尾翼が上に付いている事が多い(CRJ-200型など)。少々大柄なのかも知れない。FDA機は定期便としては飛ぶことが無いだろう静岡空港に旅行会社が募集した団体チャーターとして往復するそうで、中高年層の乗客ばかりであった。一方こちらの大阪便はあと三日で終焉という割には満席でなく搭乗率七割程度。まあ普段の搭乗率から考えれば良い方だろう。空港内外は結構人が多い。しかしよくよく見てみると実際に飛行機に乗る人でなく、珍しいFDA機や去りゆくJAC機を見に来た親子連れが多かった。屋上の展望台で見ていると福岡発便が着陸してきた。この機体が大阪行きとなる。福岡便は火木土の運行なので、これがJAC運行最後の福岡発便となる。同じくエプロンへ向かうDHC8-Q402型機 (JA-848C)。程なく同機へ乗り込んで離陸する。この日は天気もまあまあで下界の眺めも良い。この空港の周りは全て山なので盆地上空で螺旋状に旋回して高度を稼いでから南へ進路を取る。なので無料で松本盆地上空の遊覧飛行が付随して来る。上空から見る松本盆地郊外は水田が多く広がっているためか水の中に家が浮かんでいるように見える。まさに瑞穂の国だなあと思う。しばらく飛ぶと伊勢湾上空へ出る。ここで右へ旋回して三重奈良方面へ向かう。機体左側の眼下には中部国際空港がよく見える。通称セントレアと呼ばれている。写真左側の半島が知多半島となる。その後は羽田-伊丹便などと同じ飛行経路のようで京都府近辺で古墳が見える。このあたりには水田は少ないのか水面がキラキラ輝く田圃は見えなかった。高度をぐんぐん下げて大阪城の北側を通過する。旧陸軍大阪砲兵工廠があった城東地区(現在は電車の車庫などとなっている)も一望出来る。脚を降ろして幅の広い淀川を越える。上空から見ると大阪はまさに橋の街である。遠景には南港方面も見える。視界が良ければ関空も見ることが出来る。羽田空港への着陸は海がほとんどなのであまり面白くないが、伊丹への着陸は大阪の街が一望出来るので好きである。松本からのJN2276便は定刻に伊丹空港の滑走路32Rへ無事着陸した。(次回に続きます)
2010年05月30日

各種メディアで報道されているように、経営危機に陥っているJAL再建の一環として路線の大幅な撤退や縮小が行われる。また燃費の悪い旧式機材の一斉退役なども予定されている。地元松本空港を発着する路線もこの再建策の対象となり、今月末を持ってJALは全面撤退することとなった。松本空港の旅客路線は昭和40年代にTWA(東亜航空)で始まり、航空会社の合併などに伴ってTDA(東亜国内航空)→JAS→JAL→JACと運行会社は変わったが、約30年に渡って路線を維持してきた。松本空港からの路線は現時点で大阪(伊丹)、福岡(板付)、札幌(千歳)の三路線である。過去には仙台、大阪(関空)、高松、松山、広島線もあったが、搭乗率が向上しなかったために現在は飛んでいない。また2007年からMD87型ジェット機退役に伴ってジェット化された空港でありながらプロペラ機のDHC8-400型機が使用されている。機材がダウンサイジング化されてしまったのは、所在地の標高が高い事などの要因も有ったが、利用率が芳しくない事も大きな理由であった。6月1日からは静岡に本拠を置くFDA(富士ドリームエアーライン)が札幌線と福岡線を継承することとなっている。これとて搭乗率が伸びなければ路線が未来永劫維持される保証は無い。地元としては新生FDAの利用を一層促進しなければならないだろう。大阪伊丹線はFDAに継承されないために今月末を持って40年近い歴史を閉じることとなった。最後の機会となるだろうから本日大阪線に乗って1泊2日で戻ってくる事にした。この路線は大阪の人には割合都合がよいダイヤであるが、松本の者には時間帯があまり良くない。夕方大阪着、朝大阪発なので、1泊2日だと何も出来ない。全く無駄な旅行とも思えるが、松本空港でJALの飛行機に乗る事はこの先出来ないだろうから思い切って行って来ることにした。写真はかつて松本へも就航していたサーブ340型機。(2008年末に喜界空港で撮影)松本空港は地元すぎてしまったためか YS-11もMD-87もDHC8-400の写真も撮っていなかった。これから乗る前に折角なのでカメラに雄姿を収めて来るつもりである。
2010年05月29日

去る5月25日は楠木正成こと大楠公の命日であった。周知の通り、櫻井の訣別の後、大楠公は湊川にて壮烈なる死を遂げた。戰前、大楠公は忠臣の鑑とされて学校でも教えられる存在であったが、戰後は軍國主義に通ずるとされて教育現場からは姿を消した。写真は皇居外苑にある大楠公の像。敗戰後、GHQの撤去命令を逃れた数少ない像の一つである。櫻井の訣別を描いた「青葉茂れる~」は文部省唱歌として唄われた。♪青葉茂れる 櫻井の 里のわたりの 夕まぐれ 木の下かげに 駒とめて 世の行く末を つくづくと しのぶ鎧の袖の上 散るは涙か はた露か♪日本人であれば心打たれる歌詞であると思う。敗戰必死の状況下、死を覚悟で大義の為に従容と戰場に赴く姿は悠久の時を経ても色褪せることは無いだろうと思う。
2010年05月28日

今日は海軍記念日であった。周知の通り百余年前の明治38年の本日は、日本海對馬海峡付近に於いて、東郷司令長官率いる聯合艦隊と、ロジェストヴェンスキー司令長官率いる露西亞艦隊が決戰を交え、日本側が空前絶後の完勝を収めた歴史的な日である。戰前はこの偉業を讃えて奉天会戰の陸軍記念日とともに大捷を祝う海軍記念日となっていた。戰後は軍國主義排除の名の下に、このような記念日が省みられる事が少なくなってしまった。しかし、当時、弱肉強食の帝國主義があたりまえの世界情勢の中で、明治日本の取った方針は間違っていなかったと思うし、日本民族の一人としてこの偉業を大いに誇りにして良いと思う。写真は2008年11月に訪れた横須賀軍港の東郷元帥と三笠記念艦(再掲)。同じく軍艦(戰艦)三笠。厳と天を指す12吋主砲と前楼が頼もしい。この日本海海戰時に鎭海灣にあった聯合艦隊から東京の大本營宛に打電された秋山真之参謀起草(加筆)による電文が良く知られている。「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」この見事な美文と、Z旗とともに布告された訓示は子供の頃に覚えたが現在でも忘れていない。「皇國ノ興廃此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」 遠い明治の偉業を改めて思い起こすのも大事なことであろう。
2010年05月27日

5月15日~20日までの5泊6日間で中部太平洋マリアナ群島方面に浮かぶ米領グアム島へ老若男女16名の団体で行って来た。(その5)比較的長めである5泊6日間の旅行も、行ってみればあっと言う間に終わりに近づいて来た。タモン湾の美しい風景もそろそろ見納めとなる。2葉目の岬が恋人岬である。何日目だか忘れてしまったが、ゲイラカイトのような米軍機が3機ほど頭上を飛んでいった。通称ステルスなどと言われている航空機らしいが型式は知らない。グアムも沖縄同様に基地の島である。北部には大規模な空軍基地、中部アプラ湾には海軍基地もある。アンダーソン空軍基地は大東亞戰中、日本本土を爆撃するB29の基地として作られたのを嚆矢とする。グアム最後の晩は、定番のトニーローマで夕食会を行って打ち上げとした。名物のオニオンリングフライ。なかなか美味しいが、結構しつこいので3~4人で一つあれば充分である。シーサーサラダチキン載せ。載っている鶏肉がとても柔らかくて美味い。これも3~4人で一つあれば丁度良い。看板料理のバックリグフルサイズ。子豚のアバラ半身分である。2~3人に一つあれば充分だろう。とかく大味と言われる米国料理店のなかではこの店は美味しい部類に入ると思う。明けて最終日、起床後慌ただしく空港へ向かった。午前10時発のデルタ航空機に搭乗する。グアム国際空港で出発を待つデルタ航空B767-332ER(N-177DN)型旅客機。航空機は揺れも無く快適な飛行を続け雨煙る成田へ無事到着した。成田からは再び団体観光バスで反省会を行いながら松本まで戻った。(グアム旅行の巻 <完> )
2010年05月26日

5月15日~20日までの5泊6日間で中部太平洋マリアナ群島方面に浮かぶ米領グアム島へ老若男女16名の団体で行って来た。(その4)泊まっているPICホテルはタモン湾の南西側に位置する。オカ岬方面へ行くと隣はイパオビーチパーク、その先にヒルトンホテルがある。オカ岬を隔てて南側はアガニャ湾となっている。何度も来ている場所であるが、徒歩でイパオ公園へ行く。此処も美しい海岸線が広がっている。タモン湾地区のホテルで最もビーチが良いのはフィエスタ(旧 第一ホテル)付近であろう。高低差が無く一面に白い砂浜が広がっている。釣りを楽しむ現地人らしき人も居た。椰子の木越しに海岸を望む。南方らしい風景である。更に歩くとヒルトンホテルがある。ヒルトンホテルのビーチ。ここまで来ると岬の突端に近いので砂浜は少なく岩場となっている。反対方向は完全に岩礁地帯となっていた。ヒルトンホテル前には旧日本軍のトーチカ(特火点)らしき遺構も残されている。現在は平和なタモン湾も、所々にトーチカらしき朽ちたコンクリート製の函が残っている。ホテル付近の散策を終えて買い物に出掛ける。グアム島の商業施設で日本人が多く行く所は、タモン湾地区の中心地たるDFSギャラリア付近、北部デデド地区に近いマイクロネシアモール、ホテルロードの上層に位置するKマート、アガニャ地区に位置するGPO(グアムプレミアムアウトレット)近辺の四箇所が一般的である。DFSギャラリア付近はDFSの他にJPスーパーストア、ザ・プラザ、タモンサンズプラザ、アカンタモールなどの商業施設がある。北部のマイクロネシアモールはデデドの朝市会場に近く、マイクロネシアモールの大型商業施設と併設された米国らしいスーパーマーケット「ペイレス」がある。このペイレスは島内に何ヶ所か有る。また、南部のGPO付近は「グアムプレミアムアウトレット」の大型商業施設があるほか、「コストユーレス」と言う倉庫風ショッピングセンター、「カリホルニアマート」と言う韓国系スーパーマーケットが並んで建っている。GPOの建物。各種商店が入居しており、手頃なブランドの衣類や靴など豊富にある。倉庫風店舗のコストユーレス。売られている商品はアメリカンサイズで何れも大容量である。重量も嵩むが物量にものを言わせるお土産購入には最適であると思う。グアム島で美味しいビーフジャーキーと、美味しいドライマンゴを入手するにはこのコストユーレスが最も良いだろう。何れも大袋ではあるが、他の店舗では売られて居ないメーカーの品物で味は大変良いと思う。コストユーレスで買ったドライマンゴ。フィリピン製で20オンス(567g)入り、$11.9であった。このような店舗で自分用を含め、知人や勤務先などへの土産を買った。(次回に続きます)
2010年05月25日

5月15日~20日までの5泊6日間で中部太平洋マリアナ群島方面に浮かぶ米領グアム島へ老若男女16名の団体で行って来た。(その3)今回、初めてグアムへ来たメンバーも居たので久しぶりに定番の島内観光へ付き合った。タクシーで2時間程度、タモンのホテル街から近く、多くの日本人観光客が訪れる場所である。グアム一眺望を誇る景勝地「恋人岬」。標高123mの断崖上にある。タモン湾のホテル街から見ると日航ホテルの後ろ側になる。ハワイのダイヤモンドヘッド同様に景観上のポイントとなっている。恋人岬展望台には「永遠に離れない」との願いを込めてタグや鍵を掛ける場所もある。日本人の札も多かった。断崖は案内役のタクシー運転手曰く火山性の地質とのことであるが詳細は判らない。地質学の素人である自分が見る限りでは柱状節理のような気もするが定かでない。ちなみにハワイのダイヤモンドヘッドは死火山(噴火口)との事であって、ダイヤモンドヘッドクレーターとも呼ばれている。次に南部アガニャ地区のパセオ公園へ行く。以前巨人軍がキャンプをしていた球場もある。ここに自由の女神像がある。ニューヨークにある像の10分の1のサイズとのこと。それからラッテストーン公園へ行く。頂部が大きい独特の形をした石であって古代の遺跡との事である。太平洋の島嶼はイースター島のモアイ像や、ヤップ島の石貨など巨石の文化もあるがラッテストーンと関係があるかは存じない。この石柱は高床式倉庫の脚との説が最も有力であるらしい。ラッテストーンの石柱は、同じマリアナ群島にある北マリアナ連邦(サイパンと首都とする米国自治領)の国章にも採り入れられている。その次に高台にあるアプガン砦へ行く。旧スペイン統治時代、アガニャ湾の防備を担当した砲台跡である。周知の通りグアム、フィリピン、プエルトリコ、キューバなどの旧スペイン領は、明治31年の米西戰争の結果、米国の領土(保護国)となった。そのためグアム島にもスペイン統治時代の遺構が残されている。昔の大砲が海を睨む砦跡。大砲の目線から眼下に広がるアガニャ湾を眺める。同じく砦からの俯瞰。湾の眺望が開け、砲台が設けられた理由が判る。大砲の砲身にはスペイン王家の紋章らしいエンブレムが装着されていた。砲身は叩いて見ると無垢であったので本物かも知れないが詳細は判らなかった。(次回に続きます)
2010年05月24日

5月15日~20日までの5泊6日間で中部太平洋マリアナ群島方面に浮かぶ米領グアム島へ老若男女16名の団体で行って来た。(その2)今回、格安ツアーで行ったにも拘わらず旅行会社(てるみくらぶ)若しくはホテル側の好意によってPICグアム本館宿泊の予定がオセアナタワーBの高層階にアップグレードされた。嬉しい事である。お陰で客室のベランダ(ラナイ)からタモン灣の美しい眺めを楽しむ事が出来た。オセアナタワー21Fからオカ岬側のタモン湾を望んだ景色。赤茶色をした屋根のホテルはヒルトン。早朝日の出前の撮影。反対方向、恋人岬方面を望んだ景色。日航、オークラ、ウエスティン、リーフ、アウトリガー、ハイアットとホテルが建ち並んで居る。昼間は目の前にあるプールやビーチで遊ぶことが出来る。後方の建物はPICのロイヤルタワー。このホテルはカヌーやウインドサーフィンなど全ての水遊び道具や施設の利用が宿泊者には無料であるのでありがたい。他のホテルからの利用者は約1万円を払うと同様のサービスが享受出来る。プールはいくつも用意されており小さな子供でも安全に遊ぶことが出来る。唯一流水プールが無いのが残念である。またウォータースライダーなどダイナミックな遊戯施設はターザ(グアムプラザホテル併設)の方に長があった。予算に余裕のある人は両方行って見るのも良いだろう。折角久しぶりに高層階に泊まったので夕景と夜景も楽しむ。オカ岬方面の夕景。全体的に写真が傾いてしまった。まだまだ撮影の腕が悪い。丁度この日は金星と三日月が上下に並んで西の空に光っていた。なかなか良い景色である。日が完全に暮れてしまうと、オカ岬方面は灯りが少ないこともあって星がよく見えた。逆方向の夜景。隣のマリオットホテル(旧 パシフィックスターホテル)から湾に沿ってホテルや各種商業施設が多く有るのでこちら側の夜景は明るい。水面に写った灯りが綺麗であった。(次回に続きます)
2010年05月23日

5月15日~20日までの5泊6日間で中部太平洋マリアナ方面に浮かぶ米領グアム島へ老若男女16名の団体で行って来た。(その1)15日(土)、昼に観光バスで松本を発って成田へ向かう。途中都心を抜けるが、大きな渋滞も無く順調に成田空港へ着く。今回はノースウェスト航空の路線を吸収継承したデルタ航空機でグアムへ行く。デルタという会社は初めての搭乗であって、今回の便は夕方19時発、現地へは夜遅くに到着する。3時間余りのフライトで無事グアムへ到着。入国手続きを終えて今回の宿であるPIC GUAM (Pacific Islands Club Guam) へ投宿する。時間は深夜となっているので早速、仲間と無事の到着に祝杯を挙げて就寝する。明けて16日(日)、早起きしてデデドの朝市へ行く。この朝市は土日しかやっていないので、今回の滞在日程だとこの日しか無い。朝市の露店。果物や野菜、肉に魚、ファーストフード(ホットドックなど)、衣類など幅広く売られている。この朝市は3回目の来訪であったので概ね状況が判っている。当初の予定通りに椰子の実、バナナ、スターフルーツ、マンゴ、パパイヤ、ジャックフルーツ、小レモンなどのトロピカルフルーツ類を買い出す。なお、果物類は滞在期間が短いので熟れ具合が丁度良いものを買ってこないと滞在期間内に食べ頃にならないので注意が必要である。特にパパイヤは黄色く熟れて柔らかくなっていないと美味しくない。椰子の実の販売店。1個1ドルで売られている。その場で椰子の実汁を呑ませてくれるほか、持ち帰りも可能である。椰子の実汁は冷やして無いと青臭さが少々気になる。なお、恋人岬やアプガン砦などの観光地では冷やしたものが1個5ドルで売られている。朝から豪快に竹串に刺したBBQを焼いている店舗もある。朝市で全員分の果物を買ってホテルへ帰還する。今回のメンバーには初めてグアムへ来る人、海外旅行が初めての人も居るので、そう言った人にも満喫して貰えるように留意した。ホテルに戻って皆でプールと海へ繰り出す。客室から俯瞰したPICグアムのプールと庭。かなり広い敷地で大規模なホテルであった。右側の池は熱帯魚を放した池。シュノーケルを着けて熱帯魚鑑賞が出来る。エステの前に咲くプルメリア。南方の花の御三家と言えばプルメリア、ブーゲンビリア、ハイビスカスだと思う。同じくプルメリアのアップ。椰子の木とプルメリアのツーショット。抜けるような青空をバックに映えて見える。椰子の木は青空若しくは夕日が背景だとより美しいと思う。南洋桜。フレームツリーまたは火炎樹とも呼ばれているとの事。ホテルの目の前のビーチでは帆を揚げたウインドサーフィンが浮かんでいた。こう言った青い空と海、椰子の木を見ていると日頃の鬱積も吹き飛んでしまう。(次回に続きます)
2010年05月22日

昨日夕刻、無事グアム旅行から帰還した。グアム島は戰時中の日本軍占領下では「大宮島」、繁體中文では「關島」と呼ばれているとのこと。写真は今回泊まったPIC(Pacific Islands Club Guam)の[Oceana Tower B]よりヒルトンホテル方面を望んだ景色である。旅行の個々の写真は追って順次掲載したいと思っている。
2010年05月21日

明日15日から20日まで、毎年恒例の中部太平洋・マリアナ群島方面に位置する米領グアム島へ総勢16名で行って来る。写真はグアムの絶景、恋人岬からの眺望。昨年5月撮影。タモン灣のサンセット。同じく昨年5月撮影。既に10回程度行っている島なので、あくせく観光せずにのんびり過ごすこととしている。
2010年05月14日

今日は晴れたものの気温が上がらず寒い一日であった。このところ寒冷な日が多い。巷間では地球温暖化などど言われている割に不思議なことである。近年冬は暖かい傾向にあるが、そうでない季節に、その季節らしからぬ天候になったりしてどうもいただけない。この寒さは土曜日の朝まで続くそうなので風邪などひかぬように気を付けねばと思っている。引き続きネタ切れ気味なので、写真は本文と関係ないが2005年の6月に訪れた下北半島恐山(青森県)。6月の北東北は新緑の緑が美しく、梅雨で雨となってもなかなか趣のある景色になる。
2010年05月13日

今日は思ったより気温が上がらなかった。ここ数日意外に寒い。朝は一見晴れていたが日中雨が舞ったりして不安定な天候であった。しかし、午後から爽やかに晴れて寒いながらも気持ちよい日になった。明日も寒冷な気候が続くようであるが、天候は概ね良好な模様である。拙宅でも家庭菜園の茄子の苗を植えるか悩んで居たが、1週間程度は先延ばしした方が良さそうである。写真は本文と直接関係無いが、新緑が美しい北海道狩勝の並木道(2008年6月撮影)。もう少しすれば気温も安定してこのような緑が目に美しい季節となるだろう。
2010年05月12日

今日は予報通りあいにくの雨天であった。夕方から本降りとなり、寒い雨がしとしとと降っている。今年は春になっても寒い日が多くなかなかストーブを仕舞えない。拙宅でも居間には未だにストーブが鎮座している。寒い日は神様の如くありがたい存在なのでまさに鎮座である。写真は本文と関係ないが、5月7日の日記に引き続き音戸ノ瀬戸(広島県呉市)である。2005年の五月中旬に訪れた際には、名物のツツジも散りきってしまって緑濃き装いとなっていた。珍しいループ橋(ループ橋と言えば伊豆の河津七滝のが有名ですね)もこの角度だとよく判る。
2010年05月11日

10日のNHKニュースで函館の桜が満開になったとの報道が為されていた。昨年は大型連休初頭には満開となっていたので今年は10日ほど遅い。関東以西の人には今更の桜なのかも知れない。昨年大型連休中(5月3日)に訪れた函館五稜郭(再掲)。同じく桜ヶ丘通り(再掲)。今年もこのような光景が繰り返されているのであろう。年年歳歳花相似たりと言った趣である。
2010年05月10日

今日で大型連休が終わった。来週末は旅行に行くので昨日今日は自宅でゆっくりしていた。今日は少々肌寒かったがまずまずの天気で連休の締めに相応しい天候となった。松本ではやっと藤も満開となった。昭和節(4/29)に東京で丁度満開であったので10日ほどは遅れている。明日は連休明けの月曜日である。こういう日は誰しも出勤するのに気が重い。大学教官を勤めている人が言っていたが、大学生も5月の大型連休を境に授業に出てくる人が目に見えて減るそうである。学生も社会人も5月病にかかるひとがそれなりに居るらしい。そうならないように旧軍のごとく精神力で乗り切るようにせねばと自分に言い聞かせている。
2010年05月09日

今日は予報通り良く晴れてこの時期らしい爽やかな天候となっている。松本郊外では今日・明日あたりが田植えのピークであろう。また名産のリンゴもこのところの暖かさで一気に開花して満開に白い花を咲かせている。波田町付近のリンゴ畑で。田植えを待つ水田とリンゴ畑。後方に少し見える山は北アルプス。リンゴの生産高は青森県が圧倒的に多く全国の半分強(約53%)、長野県は大きく引き離されての2位(約21%)である。以下岩手・山形・秋田・福島と東北の各県が続いている。[青森県HPより、H18年実績]長野県でも基幹となる農業生産物のひとつである。大型連休も最長の人は11日連続となって今日明日が最終である。今年の連休は本当に天候に恵まれた。信州もそれなりに多くの観光客が来てくれたのだろう。
2010年05月08日

今日は久しぶりのお湿りとなった。連日の晴れで空気も汚れていたのか、車のフロントガラスには雨滴とともに落下した塵がうっすらと堆積していた。大型連休中は大変良い天気でしかも暑く、比較的湿度も高かったように思う。拙宅のある松本でさえ30度を超える真夏日を連日記録した。4月は寒冷な日が多い上に雨が多く辟易としたが、連休期間中はお天気の神様も日本人に微笑んでくれたのかと思う。明日・明後日の週末は5月らしい、すがすがしい晴れとなるとのことで、先日の真夏日のような暑さではなく、湿度の低い過ごし易い日になるらしい。松本地区でも大型連休から今週末辺りが田植えのピークである。田圃に水が張られ、蛙の鳴き声が煩く聞こえるようになると春本番だなあと実感出来る。写真は本文とあまり関係ないがツツジが散った後(2005/05)に訪れた音戸ノ瀬戸(広島県呉市)。
2010年05月07日

大型連休中の5月3日~4日の1泊2日間で、岐阜県の飛騨高山を訪ねてみた。 [その3]城山観光を終えて市街地へ戻る。今晩の宿は宮川朝市のすぐ近く鍛冶橋付近に取ってある。明朝の朝食はホテルのバイキングでは無く、朝市で適当に買い食いしてみようと思う。夕方の朝市会場。午前中の喧噪が嘘のように静かであった。夕食はホテル近くの一番街(繁華街)で摂った。飛騨牛の刺身とタタキなどを地酒と共に美味しく戴いた。明けて5月4日。腹を空かせて朝市会場へ向かう。各店舗のテントが建ち並び、買い物客も多く大盛況である。此処で朝食と称して飛騨牛饅、飛騨牛串焼き、飛騨牛コロッケと朝から重い食材を買い食いする。朝から地ビールを売っている店舗もあって、つい他人が呑んでいるのを見たら自分も欲しくなってグラスビールもいただく。朝からの買い食いは結構高くつき、ホテルの朝飯なら800円で済んだのだが、約2000円もかかってしまった。まあ、たまにはこんな買い食いも悪くはないだろう。ホテルへ戻って支度を済ませて観光に出立する。一旦駅へ行って鞄をコインロッカーに入れることにした。駅までの道中に立派なお寺があった。飛騨国分寺。正式名称を「高野山真言宗醫王山飛騨國分寺」と言うとの事。重文指定となっている名刹であった。牛肉偽装問題で物議を醸した丸明精肉店。現在は悪徳ワンマンの前社長が退任して新社長の下で信用恢復に頑張っているとの事。さすが飛騨牛を代表する店と有って多くの観光客が訪れていた。高山駅構内。JR東海高山本線上にある。非電化路線のため架線が無く駅全体がすっきりして見えた。今回はバスなので鉄道は使わないが、名古屋・富山方面へ特急列車も発着している。駅で荷物を預け、帰路の時間を確認する。それから本陣跡を見に行く。高山代官所陣屋。高山本陣とも言われる。前述の通り金森家の城下町であった高山は、江戸時代初期に幕府直轄領となって代官所(後に飛騨郡代に昇格)が置かれ大政奉還までそれが続いた。幕末の飛騨郡代の子息に山岡鐵舟が居た。剣・禅・書の達人として知られ、明治帝に侍従として仕えた鐵舟は幼少期を高山で過ごした。観光客で混雑する景観保全地区を見ながら高山昭和館へ行く。以前は無かったような気がする。有名は旧○○家などは前回見ているので今回は割愛する。狭い施設内に昭和30年代の街並が再現されておりなかなか面白かった。銭湯、食堂、映画館、写真館、電気店、町医者、床屋、雑貨屋など昔は何処の街にもあった商店が再現されて懐かしいものがあった。現代は車社会で便利になって郊外型大規模ショッピングセンターの普及と共に、街にあった個人商店は軒並み廃業に追い込まれている。そんな店が元気であった頃の街角風景であった。昭和館から少し北へ進むと史料室なる変わった建物があった。一見軍國主義の家かと思える史料室。旭日旗や硝子窓の障子紙(空襲被害軽減用)が目をひく。主に大東亜戰など軍事関係の展示がなされていた。館主の方が個人の趣味でやっているようで、入場無料。館主自ら海軍中佐の第三種軍装を着用しており館内には軍歌が流れている。潜望鏡や伝声管のレプリカや軍艦の模型展示もある。また戰時中高山市内では零戰の木製落下増槽(落下式燃料タンク)が作られていたとのことで現物が展示してあった。テニアンから持ち帰った零戰の座席、海軍艦攻「流星」の部品の一部など貴重な資料もあった。展示資料から、高山の住民が峠を越えて松本の歩兵第五十聯隊へ徴集されてテニアンへ出征している事も判った。昭和16年から金澤師管區が石川、富山、長野の三県を管下に置いて兵員補充を行っていたが、名古屋師管區隷下、岐阜聯隊區のエリアで有るはずの高山市から何故か歩五十へ入營している兵も居る。松本聯隊は大東亜戰末期に支那大陸から中部太平洋マリアナのテニアン島へ転進、同島の守備に就いたが、上陸してきた米軍と死闘を繰り広げ遂に聯隊は玉砕している。それによって高山出身の兵士も數十名が壮烈なる戰死を遂げたとのことであった。歩五十の兵は長野県人ばかりと思っていたがそうでも無いことが判った。貴重な史料を観覧して館長に礼を言って退出する。これで予定していた観光は終了したので昼食を摂って土産を買い、午後のバスで松本へ戻った。( 飛騨高山紀行の巻 <完> )
2010年05月06日

大型連休中の5月3日~4日の1泊2日間で、岐阜県の飛騨高山を訪ねてみた。 [その2]観光客の多い市街中心部を通り抜けて市内高台にある高山城址へ行く。此処高山市は江戸時代初期までお城がある城下町であった。その後は天領となったためにお城は破却されて、代官(郡代)が常駐する街となって明治維新まで維持された。二の丸公園にある金森長近公像。この金森氏が戦国大名として秀吉の庇護下に高山城を築いた。高山城の本丸跡。結構険しい山に築かれた山城であったらしい。金森氏移封後の城破却は徹底していたようで、石垣すら残されていなく、室町時代初期の山城跡の如き印象を受けた。本丸付近からは北アルプスも美しく見えた。それから下山して中佐平と呼ばれる場所へ向かう。ここには砲弾型の柵に囲まれた立派な銅像が建っている。高山市は軍神廣瀬中佐が少年期を過ごした場所である。裁判官であった父親の赴任に伴って高山市で数年暮らした。それを記念して城址公園内に廣瀬中佐の銅像がある。銅像部分のアップ。架台部分には中佐が作った漢詩が刻まれていた。七生報国一死心堅再期成功含笑上船第二次旅順閉塞隊として出撃する1週間ほど前に家族に充てた書状に書かれていた詩との事で、決死の覚悟が語られていると思う。廣瀬像を見た後、二の丸跡から三の丸へと下る。この辺りは現在飛騨護國神社となっている。ミニサイズの三の丸濠。濠の周りには桜が植えられており、もう2週間も早ければ満開の桜を拝めた事であろう。お濠を渡る石橋が護國神社への参道兼入口となっている。飛騨護國神社本殿。護國神社の前身、飛騨招魂社の石柱。揮毫はなんと陸軍大將一戸兵衛であった。日露戰争の旅順攻略戰で歩兵第6旅團長として、とかく作戰面で評判が悪かった乃木第三軍の中では抜きんでた的確な指揮で戰功を収めた武人として殊に有名である。軍馬を慰霊する碑らしい。碑文が風化のため殆ど見えなかったが揮毫は陸軍大將松井石根のようであった。南京虐殺事件の責任者として東京裁判で戦犯に指名され死刑となった人物である。一戸大將といい、松井大將といい、結構有名な人が碑の揮毫を頼まれている。征清と書かれているので、おそらく日清戰争で戰死した將兵の慰霊碑であろう。これで城山地区の観光が終わったので、今宵の宿へ向けて下山した。(次回に続きます)
2010年05月05日

大型連休中の5月3日~4日の1泊2日間で、岐阜県の飛騨高山を訪ねてみた。 [その1]地元松本からなら自家用車で行く人が多いのだが、車の運転が嫌いな自分は迷わず公共交通機関を利用する。高山市は過去2度ほど行っているが、もう10年以上も前の事なのであまり記憶が無い。朴葉味噌に飛騨牛でも楽しんで来られれば嬉しい。折角なので地元松本電鉄の上高地線(鉄道線)を利用する。ほぼ毎日のように電車の姿は目にするが、乗るのは数年振りである。拙宅最寄りの渚駅から終点の赤松駅(新島々駅)まで乗車する。大型連休中の観光シーズンとあって車内には大きなリュックサックを背負った山男も居る。この上高地線、運賃だけは非常に高い。始発から終点まで14.4kmを通しで乗ると680円となる。私鉄に比べて高いと言われているJRでさえ同距離なら230~260円程度なので3倍近い運賃である。終点の新島々駅。以前は赤松駅と言う名前であった。駅前がバスターミナルになっていて、上高地・乗鞍・白骨・飛騨方面へのバスが発着する。昭和58年、水害のために上高地線の末端区間が廃止となった。終点であった島々駅舎は移設されて現終点の新島々駅の向かいに物産館として保存活用されている。程なく到着した松本発飛騨高山行き特急バスに乗り込む。普段は存続が懸念されるくらい少ない乗客も、さすがに大型連休中とあって8割程度埋まっていた。1時間ほど走って平湯温泉へ着く。途中沢渡付近では桜が満開であった。バスはここでトイレ休憩をして高山へ行くのだが、自分は昼時であったので此処で下車した。観光客でごった返す平湯温泉バスターミナル。ターミナル付近からは白く雪を戴いた北アルプスの山々も見えた。バスターミナルの隣にあるビジターセンター。写真右手側に白く見えるのは残雪。平湯温泉で昼食を摂ってビジターセンターを見学してから高山行きのバスに乗り込む。平湯温泉から1時間ほどで高山駅前へ着く。いつの間にか立派な駅前バスターミナルが完成していた。ここから徒歩で市内を観光する。有名な景観保全地区までは徒歩10分弱である。昔ながらの宿場町の面影を残す景観保全地区。狭い路地は観光客でいっぱいであった。高山市内を貫いて流れる宮川。桜の名所であるほか、有名な朝市もこの川沿いで開かれる。旧高山役場。現在は町政記念館として一般公開されている。なかなか味のある建物であった。(次回に続きます)
2010年05月04日

28日の夕方から上京して、東京(江戸城&旧軍遺構)紀行を行った。前回4月2日~4日の訪問で見られなかった場所を中心に瞥見してきた。 [その5]青山・赤坂地区の観光を終えて、新宿区戸山へ移動する。この戸山エリアにはかつて陸軍戸山學校、近衛騎兵聯隊、陸軍軍醫學校などが存在した。終戰後米軍の接収を経て昭和29年に公園として開園し現在に至っている。戸山公園(箱根山地区)の箱根山へ至る道。山へ登る階段。箱根山の山頂は三角点となっていた。標高44.6mとのこと。この箱根山は二十三区内最高地点との事である。江戸時代、旧尾張藩の庭園であった頃に造営された人工の山である。箱根山の麓には「陸軍戸山學校跡」と記された碑もあった。箱根山の隣には不釣り合いな石造りのがっちりした土台を持った教会があった。元陸軍戸山學校將校集會所と言われている建物であって、現在は戸山教会として使用されている。公園内には藤棚もあって美しく咲いていた。箱根山から下りて住宅地脇を歩いて行くと国立感染症研究所の立派な施設が見えてきた。この辺りにはかつて陸軍軍醫學校があったとの事である。また、この国立感染症研究所の建設工事中に地中から人骨が大量に見つかって、軍醫學校で七・三一部隊の如き蛮行が行われていたのかと物議を醸したこともあった。戸山公園を後にして学習院女子大學へ行く。この敷地は旧近衛騎兵聯隊があった場所となっている。大學のキャンパス内には赤煉瓦の建物など往事の遺構が多数残されているとの事である。學習院女子大學の鋳鉄製正門。華族女学校の前身時代、明治十年に造られた門を移設したとの事で、重要文化財に指定されている。大変重厚な印象を受ける門であった。門の脇には門番が居たので内部を参観出来ないかお伺いをたてたところ、「部外者は原則立ち入りを遠慮いただきたい」との冷淡な返答であって学内に残された近衛騎兵聯隊の遺構は見ることが出来なかった。大学の門に続いて立派な赤煉瓦の塀がキャンパスを取り囲んでいる。この塀が旧軍時代のものなのか、戦後造られたのかは判らなかったが、星霜を重ねてくすんだ赤煉瓦の貫禄は充分であった。これで、予定された観光は終了したので新宿駅経由田舎へ戻った。 【東京(江戸城&旧軍遺構)紀行の巻 <完>】
2010年05月03日

28日の夕方から上京して、東京(江戸城&旧軍遺構)紀行を行った。前回4月2日~4日の訪問で見られなかった場所を中心に瞥見してきた。 [その4]神宮外苑周辺の散策を終えて赤坂方面へ戻る。地下鉄青山1丁目駅の北東側一帯は赤坂御用地となっている。赤坂御用地は東宮(皇太子殿下)御所の他、秋篠宮邸、三笠宮邸、寛仁親王邸、高円宮邸、赤坂東邸など諸皇族方の邸宅がある。また迎賓館や園遊会が開かれる赤坂御苑もこのエリアに位置する。御用地への門は、赤い飾緒を付けた皇宮警察官がいかめしい顔をして門番に立っていた。区立青山中学校。この辺りに旧陸軍大學校があったとの事であるが、道路からは遺構らしきものは見受けられなかった。次に青山1丁目駅から少し南へ下る。この赤坂図書館、都営南青山1丁目アパートが建っているエリアには、かつて旧陸軍の第一師團司令部及び麻布聯隊區司令部があったが遺構らしきものは残っていなかった。次に高橋是清(首相・大蔵相など歴任した)の旧屋敷跡が公園となっている高橋是清記念公園へ行く。高橋翁は日露戦争の戦費調達に大活躍したほか、大蔵相として世界恐慌時の日本経済の立て直しに貢献した偉人である。しかし、緊縮財政で軍事予算を削ったことが軍部に恨まれて二・二六事件で狂信的陸軍將校らの刃に倒れた。高橋邸襲撃班は近歩三の中橋中尉を指揮官とする六十名ほどの兵が行った。高橋翁の像。公園はカナダ大使館の隣に位置する。新緑の若葉と柔らかい木漏れ日が美しい。高橋是清記念公園の散策を終えてTBS東京放送局を目指す。このTBS敷地は二・二六事件で高橋邸を襲撃した近衛歩兵第三聯隊の兵營があった場所である。TBSビル。現在、近歩三の遺構は全く残っていないと思われる。赤坂サカスと言う大規模な商業施設も隣接しており、多くの客で賑わっていた。此処で昼時となったので赤坂「ふきぬき」で鰻の昼食を摂る。歩き廻ったので昼からのビールが喉に嬉しかったし、香ばしい鰻も美味しく戴けた。腹が朽ちたので徒歩で赤坂見附駅付近へ向かう。このエリアは戦前皇族方の屋敷が建ち並んでいた場所でもある。現在は、自分にとって一生縁の無さそうな高級ホテル街となっている。赤坂エクセルホテル東急。この場所は閑院宮邸であった。閑院宮載仁親王殿下は陸軍参謀総長を歴任された。先日閉鎖を発表したばかりの赤坂グランドプリンスホテル。この場所は明治時代には北白川宮邸、その後は朝鮮王公族である李垠殿下の邸宅であった。ホテルニューオータニ。この場所は伏見宮邸であった。伏見宮博恭親王殿下は海軍軍令部総長を歴任された。個人的には皇族と雖も、閑院宮殿下・伏見宮殿下は実質的にA級戦犯であると思っている。宮様総長は飾り物的な存在であったとは言え、軍部内に大きな影響力を持っており、軍令の最高責任者として陸海軍を大東亞戰の方向へ導いてしまった責任は重大であると思う。赤坂見附駅付近は江戸城の外濠も残されている。弁慶濠。赤坂見附交差点と弁慶橋。外濠はこの先四ッ谷付近が埋め立てられてしまったために市ヶ谷付近まで断絶した形になっている。(次回に続きます)
2010年05月02日

28日の夕方から上京して、東京(江戸城&旧軍遺構)紀行を行った。前回4月2日~4日の訪問で見られなかった場所を中心に瞥見してきた。 [その3]江戸城の内濠巡りを終えて地下鉄で青山一丁目まで移動する。今度は神宮外苑付近を散策する。「神宮外苑」と言えば雨の中行進する学徒出陣壮行会の映像を真っ先に連想する。正式には明治神宮外苑と呼ばれ、大正15年の開園との事。それ以前は陸軍の青山練兵場であった。都心の大きな公園は陸軍練兵場であった所が多い。有名なところでは日比谷練兵場→日比谷公園(明治36年開園)、代々木練兵場→代々木公園(米軍接収を経て昭和42年開園)が知られている。青山側から北へ向かって進むと銀杏並木の入口に神宮外苑の建設趣意を記した「明治神宮外苑之記」碑があった。元帥陸軍大將・閑院宮載仁親王殿下篆書による明治神宮外苑造営の趣旨などが記載された立派な石碑である。石碑から北側は見事な銀杏並木が続いている。正面のドーム状の建物は聖徳記念絵画館。若葉から漏れる木漏れ日が美しい銀杏並木の歩道。車道の両側にこのような歩道がある。歩道沿いにはオープンテラスの喫茶店もあって緑を眺めながらの休息も気持ちよさそうである。銀杏並木から東側の林の中に入ると御観兵榎がある。陸軍青山練兵場であった頃、帝國憲法発布観兵式や日露戦争凱旋観兵式が此処で行われた。そう言った際に明治天皇がこの榎付近に御座所を置かれて親しくご観覧なされた場所であるとの事。碑のアップ。東郷元帥書との事であった。陸軍の地である青山に海軍の東郷元帥とは不思議な取り合わせであるなあと思った。なお、榎の木は台風で倒壊したため現在は2代目とのこと。北上して噴水広場前に出る。重厚な造りの聖徳記念絵画館が見える。この館の裏側は信濃町の駅にほど近い。記念館の展示は明治時代の偉業を伝える展示があるとのことで、次回上京の折には内部も見学してみたい。噴水前から西側に行くと明治神宮野球場があった。通称神宮球場である。ヤクルトスワローズの本拠地として、また大学野球のメッカとして良く知られているが、この場所に来たのは初めてである。正式名が「明治神宮野球場」と言うのも此処まで来て初めて知った。この日は東都大学野球が行われていた模様である。神宮球場の北側には一回り小振りな第二野球場がある。その更に西側に小さな公園があって、石碑が2つひっそりと建っていた。近衛歩兵第四聯隊跡記念碑。近衛歩兵第六聯隊跡記念碑。戦前、神宮外苑の西側エリアは近衛歩兵第四聯隊の衛戍地となっていた。近歩四は大東亜戰中、佛印~蘭印方面へ出征、最後はスマトラ島の守備に任じ同地で終戦を迎えた。また、留守近歩四を基幹として同じ場所に編成された近歩六は近衛兵として宮城の守護に任じ東京で終戦を迎えた。近歩四・近歩六の跡地は公園や國學院高、青山高、都營霞ヶ丘住宅などの敷地となっていた。(次回に続きます)
2010年05月01日
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