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翌朝の函館山。 
函館山・立待岬方面も朝陽に輝き始めた。

函館山展望台。

朝食は『函館朝市 どんぶり横町市場』 へ。

市場は朝の準備中でまだ客は少なかった。

朝食のメニューの多さにビックリ仰天。

活イカの活き造り定食を注文。短冊に切ったイカ刺と肝そして足をショウガ醤油で
楽しむ。

店員が「足に醤油をかけると動き出す」と。
なるほど・・・とびっくり。

最後は足を切ってもらい口の中に。
やはりイカは活き造りでなきゃダメ!足の吸盤が口の中でくっついてくるあの感じが
・・・最高!

朝食後はホテルに戻り、松前城目指して雨の中を海岸線を走る。
左手には函館山とその上空に重い雲が。

道の駅「しりうち」に立ち寄る。
店内には歌手・北島三郎の写真がいたるところの貼られていた。
店員に尋ねると、この地が出身地とのこと。
物産館にはサブちゃんにちなんだ商品が販売されていた。

北島三郎と門下生。『KITAJIMA FAMILY 2013』

矢越岬。
知内町西南端、福島町との境に位置する海抜30mの岬。
頂上には矢越岬灯台と、義経伝説や人身御供伝説が伝えられる矢越八幡宮が
あるとのこと。
義経は青森の竜飛岬から津軽海峡をわたりこの矢越岬に辿り着いたと。

津軽海峡は波高し。

そして松前城に到着。
戦国時代、豊臣秀吉によって蝦夷島王と認められた蠣崎義広(かきざきよしひろ)は、
徳川家康より松前の名乗りを許され、現在の松前城の地:福山に館を築いたのだ。
以来松前氏
は代々福山を拠点にして幕末まで13代に渡って蝦夷地支配。
石田城と並び日本における最後期の日本式城郭であるとのこと。
戊辰戦争の最末期に北海道の独立を目指す旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が
率いていた)との戦いにおいて落城。天守や本丸御門などが現存したが、天守は
太平洋戦争後に失火により焼失。旧城内一帯が国の史跡に指定されており、また
、築城時から現存するこの本丸御門が国の重要文化財に指定されているのだ。

天守閣から見た津軽海峡入り口の日本海。

松前城の金の鯱(シャチホコ)。
鯱はなんのために付けられているのか?それは鯱は鯨のように水を吹くので、火災を
恐れた古い時代に大きな建物に必ず取り付け、火を防ぐまじないとしたとか、或るいは
どう猛な姿は敵を圧するという願いを込め、城主の権威を示す象徴として用いられたと
伝えられているのだと。

『搦手二ノ門』、昭和24年に松前城が焼失し、その10年後に3層の天守が復元されたが、
この搦手ニノ門もその時に復元されたと。

お堀には睡蓮の花が。

見事な純白のそして黄色が中心部に。

築城時から現存する『本丸御門』は国の重要文化財。

松前城はコンクリートで復元されたものだが、石垣は昔のままで戊辰戦争時、榎本武揚
の開陽丸に砲撃されたのだ。

その時の砲弾跡が三つ、どれもソフトボールくらいの大きさで穴は深くないが残っている
のだ。

そして松前城の近くにある『龍雲院』。
松前家七世公廣の正室桂子の発願で、寛永2年(1625)に創建された曹洞宗の寺院。
戊辰戦争の戦火を免れ、江戸時代の本堂・庫裏(ともに重文)が残っていると。

『法源寺山門』
法源寺は前家(蠣崎家)初期の菩提寺とのこと。
この山門は、十七世紀中期に建築された切妻造、こけら葺の四脚門で、北海道の社寺
建築としては最古の類に属し、つくりも良く、北海道の古い時代の社寺建築の様式を
知る上で貴重であると。

雨の中、傘をさしながらの見学であったが、松前のシンボル松前城と北海道では唯一の
城下町として政治・経済・文化の中心地として栄えた松前の街を楽しんだのであった。
そして帰路へ。
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