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ヴィクトリア朝時代の邸宅サロン(Drawing Room)を更に見学。「Address to Mrs Margarct Henry Kylemore CastleMADAME- We, theinhabitants of Letterfrank and Kylemore do gladly avail ourselves ofthe present opportunity of expressing our unboundedjoy joy and gratitude at your safearraival in Kelemore after a Continental tour.Since we first had the good fortune of your coming amongst us, your noble hearted husband and yourself have so much to improveand beautify this long neglected ,poverty-stricken,district;you have shown such uniformkindness and liberrality to all particularly to the sick poor-no language at our commandcan adequately express ou feeling of admiration of such invaluable,and,we hope,never-to-be-forgotten services.During your absence, Madame, many a fervent prayer had been offered for your safe return, also for that of Miss Henry and Mr.George Henry, and now that you are come home(we hope in the enjoyment of good health),we all unite in offering you,with all theexuberance of grateful Irish hearts, a sincere and most cordial Cead Mile Failte.We have the honour to be, Madame,your obedient servants,Joseph McDonnell,John Fogafty, William W. Carson, Stephen Coyne, Patrick O'Neil, Patrick Cawley, James Brady, JOhn Fogalty Junior, Edward B. Carrick;who waited as a deputation on the 17th,and presented the address t0 Mrs. Mitchell Henry, Kylemore CastIe.The address was signed by ninety of the inhabitants. Freeman's Journal, Tuessday,22 October 1872」 【拝啓 令夫人 カイルモア城私たち、レターフラックおよびカイルモアの住民一同は、このたびのヨーロッパ大陸旅行から無事にご帰還なさったことに対し、言い表せぬ喜びと感謝の気持ちを表すべく、ここに筆をとりました。私たちがあなた様と、ご寛大なご主人であるミッチェル・ヘンリー氏をお迎えする幸運に初めて預かって以来、この長年打ち捨てられ、貧困にあえいでいた地方に対して、お二人は多大なる改善と美化をもたらしてくださいました。とりわけ病に苦しむ貧しい人々に対して、常に変わらぬご親切と寛大さを示してくださり、私たちは心から敬服しております。私たちの言葉では、この貴重で決して忘れられないご恩を、十分に表現することができません。ご不在の間、奥様、そしてお嬢様ミス・ヘンリーとご子息ジョージ・ヘンリーのご無事な帰還を、幾度となく祈ってまいりました。そして今、ご一家が健康でお帰りになったことを知り、私たちすべてのアイルランド人の溢れんばかりの感謝の心をもって、ここに「ケード・ミーレ・ファルチャ(Céad Míle Fáilte)=百万回の歓迎」を、心から申し上げます。(『フリーマンズ・ジャーナル』 1872年10月22日 火曜日号)】「Margaret Henry's ReplyGENTLEMEN- I feel so much overcome by your kindness that I may say,as Cromwell saidto Wolsey, "I have no power speak" I think,as a rule, ladies are not good od speakers,and I am sure that I should make vemibad one; but had I been aware sooner ourintention to present to me this beautiful,elaborate ,and eloquet address, 1 should have endeavoured to prepare a suitable reply or have asked Mr. Henry,WHo is more accustomed to making speaches than I am,to have made one for me. However, as I havedone neither the one nor the other, I must ask your simply to accept my thanks,as theycome spontaneously from my heart.I was going to begin by saying that nat the moment I could not find words to express my gratitude and sense of your kindness;but I shall not say so,for even were I able tofind words and string them fail to convey to you the feelings of my heart.Believe me,your warm welcome and kind expressions have most deeply touchedme, and will neverbe beforgotten.The brilliant display of fireworks pleased us all greatly and afforded intense pleasure tothe little ones.They were by far the best fireworks we have ever had,and were most successful,in split of the unfavourable weather.I fear I am unable to say more,and I jointed by Miss Henry and Mr.Gorge Henry,in asking you again to accept our heartfelt thanks, and to believe not only in our gratitude,but in our lasting regard. Freeman's Journal,Tuesday',22 October1872」 【Margaret Henry 夫人の返答紳士の皆様へ皆さまのお優しいお心遣いに、私はすっかり胸がいっぱいになってしまいました。クロムウェルがウォルジーに言ったように、「言葉が出ません」。そもそも、女性というものは一般的にあまり話すのが得意ではないように思いますし、私自身、きっとひどいスピーチをしてしまうでしょう。ですが、もしも皆さまがこのように美しく、丹精を込めた、そして感動的なお言葉を私に贈ってくださるおつもりだと前もって知っていたならば、私はそれにふさわしいお返事を用意するか、あるいはスピーチ慣れしているヘンリー氏に代わりに話してもらったことでしょう。しかし、どちらもしていない以上は、私の心から湧き出る感謝の気持ちを、そのままお受け取りいただくほかありません。本当は、「感謝と皆さまのご厚情に対する思いを表す言葉が見つかりません」と申し上げようとしていましたが、やめておきます。たとえ言葉が見つかっても、それらをつなぎ合わせて私の心からの想いを皆さまに十分に伝えることなど、きっとできないからです。どうか信じてください。皆さまの温かい歓迎と優しいお言葉は、私の胸を深く深く打ち、決して忘れられないものとなりました。花火の素晴らしい催しも、私たち一同たいへん楽しませていただきました。子どもたちにとってもこの上ない喜びであり、これまでで一番見事な花火でした。天候が思わしくなかったにもかかわらず、大成功だったと思います。これ以上多くを申し上げることはできませんが、ミス・ヘンリー、そしてジョージ・ヘンリーとともに、改めて皆さまに心からの感謝をお伝えし、私たちの感謝と変わらぬ敬意を信じていただければと思います。(『フリーマンズ・ジャーナル』 1872年10月22日 火曜日号)】】このやり取りは、単なる「地主と住民」の関係を超えた、信頼と感謝に基づく社会的な絆を象徴。特に19世紀のアイルランドでは、大地主と地域住民の関係はしばしば緊張をはらんでいましたが、ミッチェル&マーガレット・ヘンリー夫妻はその例外で、進歩的で博愛的な支援者として尊敬されていたのだ。この新聞記録は、彼らの地域社会における評価と、当時のアイルランド農村の人情と表現文化を伝える貴重な一次資料である。邸宅サロン・応接室(Drawing Room)の眺め。Margaret Henry・マーガレット・ヘンリーが楽しんだピアノ。マーガレット・ヘンリーのドレス。部屋のシャンデリア。気品あるソファー。暖炉の上の置物。暖炉の周囲には大理石の彫刻が。両側には大理石の裸像が。女性像が胸元に鳩(おそらく白い鳩)を優しく抱いていた。表情と仕草:静かに目を伏せ、胸に手を当てる姿は、謙遜・慎み・内省を象徴。肩に止まる小鳥:優しさ・自然との調和・心の平安を表現。衣のひだや髪の造形などは、繊細な技巧を感じさせるヴィクトリア時代の新古典様式。移動して。カイルモア城の贅を尽くしたイタリア風の内装。ズームして。巨大な白磁壺。「MargaretMargaret Henry quickly settled into KYLEMORE and was much loved by the locals.Her PASSION for TRAVEL and eye for beauty were reflected in the sumptuous ITALIAN-INSPIRED INTERIORS of the castle,where talented CRAFTSMEN worked side-by-side to create a LUXURIOUS family home.」 【マーガレット・ヘンリーは、カイルモアでの暮らしにすぐに馴染み、地元の人々から深く愛されました。旅への情熱と美への鋭い感性は、カイルモア城の贅を尽くしたイタリア風の内装にも表れています。そこでは才能ある職人たちが力を合わせて、豪奢な家族の住まいを作り上げていきました。】乳母車の如きものも。修道院の長い部屋にあるアレクサンダー・ヘンリーの垂れ幕。アレクサンダー・ヘンリーは、ミッチェルとマーガレット・ヘンリー夫妻の4番目の子供でした。ロンドン消防隊で訓練を受けたアレクサンダーは、自ら消防隊を率いることを望みました。これがカイルモア消防団の設立につながりました。この隊に関する3つの興味深い事実をご紹介します!・カイルモア消防団はボランティアで構成されており、各自が海軍の制服、真鍮のヘルメット、 ヘンリーの紋章のブローチ(王冠を掲げたライオン)を身に着け、参加を証明していました。 ・カイルモア消防団はカイルモアで設立された唯一の消防団であり、その存在期間を通じて 消火が必要となった火災はたった 1 件だけでした。・消防隊のエンジン室で火災が発生し、消火に必要な機材がすべて備わっていたため、隊の活動は 急速に停止しました。これにより、すべての機材が破壊されました。 この事件の後、カイルモア消防団は解散しました。 「LorenzoLorenzo was the YOUNGEST of the Henry sons and called Lorenzo because his motherwas taken with ALL THINGS ITALIAN.He was talented SPOTSMAN and INVENTOR.Lorenzo attended Eton,in Berkshire,when he was just ten-years-old.As a child at Kylemore he HID SWEETS insaide the nurseryrocking horse.」 【ロレンツォロレンツォはヘンリー家の末っ子の息子で、母マーガレットがイタリア文化に夢中だったことから「ロレンツォ」と名付けられました。彼は才能あるスポーツマンであり、また発明家としての素質も持っていました。10歳のときには、イングランド・バークシャーにある名門校イートン校に入学します。カイルモアで幼少期を過ごしていた頃には、お菓子を保育室の木馬の中に隠していたという、微笑ましい思い出も残っています。】「AlexanderAlexander George Henry,having received training from the London Fire Brigade,set up a FIRE BRIGADE STATION at Kylemore.AS FAR AS WE KNOW the only fire they ever had to deal with in their own stationhouse,when all their equipment was DESTROYED.」 【アレクサンダーアレクサンダー・ジョージ・ヘンリーは、ロンドン消防隊(London Fire Brigade)で訓練を受けた後、カイルモアに消防署(消防隊)を設立しました。しかし、私たちの知る限り、彼らが実際に対応することになった唯一の火災は――自分たちの消防署そのものが火事になったときで、そのときにすべての消防装備が焼失してしまったのです。】「Geraldine HenryGeraldine Henryはミッチェル・ヘンリーとマーガレット・ヘンリーの娘の一人であり、おそらく数人いる姉妹の中でも長女または次女だったと考えられています。ヘンリー家には9人の子ども(5人の娘と4人の息子)がいたとされ、ジェラルディンはその中の一人でした。椅子の上にジェラルディン・ヘンリーの結婚式の写真。「Geraldine Henry's Wedding Dress Replica of 1887 Gown"The bride... wore a costume of rich Ivory Bengaline, the front Of the skirt and bodice being richly draped with natural exquisite Bruges lace.On the corsage was a garniture of orange blossoms, sent by her sister from Algiers.」 【ジェラルディン・ヘンリーのウェディングドレス(1887年ドレスの復元)花嫁は、上質なアイボリー色のベンガリン素材のドレスをまとい、スカートとボディス(胴部)の前面には、天然の繊細なブルージュ・レースが豊かにあしらわれていました。胸元(コルサージュ)には、姉がアルジェから送ってくれたオレンジの花が飾られていました。】ジェラルディン・ヘンリーのウェディングドレス(1887年ドレスの復元)。ジェラルディン・ヘンリーの結婚式の写真。ジェラルディン・ヘンリーは「ミッチェル・ヘンリー家の花」でした。悲しいことに、彼女の人生は悲劇に終わりました。ジェラルディン・ヘンリーの人生について、胸を締め付けるような、深い意味を持つエピソードをいくつかご紹介します。・ジェラルディンは子供の頃から才能ある馬術家として広く知られていました。 ・彼女はエドワード・フッカー・ギルバートと結婚し、マサチューセッツ州ウェアに移り 住みました。そこで二人の子供をもうけましたが、残念ながら幼少期に亡くなりました。・ジェラルディンは、3人目の子供エリザベスをカイルモアの清らかで新鮮な空気の中で育てる ため、カイルモアに移住しました。しかし、カイルモア近郊のダウロス川にかかる デリーインバー橋で、不運な馬車事故に遭い、ジェラルディンは亡くなりました。「Florence HenryFlorence Henry lived at BUNNABOGHEE LODGE near Kylemore,until her death in 1952.She was known as an exceotional SALMON ANGLER and BRIDGE PLAYER, and wasawarded an OBE during World WarⅠ.」 【フローレンス・ヘンリーフローレンス・ヘンリーは、カイルモア近くのバナボギー・ロッジ(Bunnaboghee Lodge)に暮らし、1952年に亡くなるまでそこに住み続けました。彼女は、卓越したサーモン釣り名人として、また優れたブリッジ・プレイヤー(カードゲーム)として知られていました。さらに第一次世界大戦中にOBE(大英帝国勲章)を授与されています。】フローレンス・ヘンリーは、ヴィクトリア時代の実業家・政治家ミッチェル・ヘンリー(Mitchell Henry)とその妻マーガレット・ヘンリー(Margaret Henry)の娘の一人で、カイルモア城(Kylemore Castle)にゆかりの深い人物である と。・卓越したサーモン釣り名人(Salmon Angler) フローレンスは、アイルランド西部の川や湖でのサーモン釣りにかけては一目置かれる 存在でした。「exceptional salmon angler(並外れた釣り人)」と形容されるほどで、 当時の上流階級女性にしては珍しくアウトドアと自然との深いつながりを持っていた人物です。・優れたブリッジ・プレイヤー ブリッジは知性と戦略を要するカードゲームで、当時の社交界では非常に人気でした。テーブルの中央:消防隊の真鍮製ヘルメット。ロレンゾ・ヘンリーは著名な発明家であり、カイルモアで多くの時間を発明品の創造のための実験に費やしました。「Henry family portrait」マーガレット・ヘンリー(Mitchell Henryの妻)の若い頃の姿か??若き日のフローレンス・ヘンリーと彼女のオペラケープの肖像画。ブライディー・ヘスター嬢に贈られ、当館に展示するために提供されたもの と。ここにも暖炉が。ガラスケースには、ジェラルディン・ヘンリーのオリジナルの所持品がいくつか展示されていた。近づいて。「GeraldineGeraldine was the 3RD DAUGHTER of the Henry family.She married Edward Hooker Gilbert of Ware,MASSACHUSETTS,USA in 1887.」 【ジェラルディン・ヘンリージェラルディン・ヘンリーはミッチェル・ヘンリー(Mitchell Henry)とマーガレット・ヘンリー(Margaret Henry)夫妻の三女(3rd daughter)。彼女はエドワード・フッカー・ギルバート(Edward Hooker Gilbert)/アメリカ合衆国マサチューセッツ州ウェア(Ware, Massachusetts, USA)出身」 The Dining Room ・ダイニングルーム。・ヴィクトリア朝時代風の豪華なテーブルセッティングがなされており、当時の上流階級の 食卓文化を再現。・銀製の燭台・クリスタルのデカンタ・華やかな花のアレンジメントが、格式ある晩餐の 雰囲気を強調。・それぞれの席にはメニューカードが配置されており、食事内容も来館者に提示されている。・周囲の赤を基調としたインテリアや壁面の装飾は、温かみと高貴さを感じさせる演出。・金色の燭台(カンデラブラ)が中央に3本立ち、豪華さを演出。・クリスタル製のデカンタやグラス類が豊富に並び、格式ある晩餐の雰囲気を伝えていた。・赤と白の磁器のスープテリーヌ(蓋付き大皿)は、高級陶磁器の一例。・生花のように見える花瓶のアレンジメントが、華やかさと温かみを加えていた。・写真立てには、恐らく当時の食事メニューや人物紹介が展示されていた。「Kylemore CastleKylemore Castle well equipped for ENTERTAINING, and it WELCOMED MANY GUESTSover the years. Dinner parties were lavish affairs,with menus planned usingPRODUCE FROM THE ESTATE.The Henry family hosted an ANNUAL BALL wheare ,on occasion,tenants and workmen mixed with neighbouring」 【カイルモア城カイルモア城は社交の場として非常に充実しており、長年にわたって多くの客人を迎えてきました。・ディナーパーティーは非常に豪華で、メニューは領地内で採れた食材を使って入念に計画 されていました。・ヘンリー家は年に一度、恒例の舞踏会(アニュアル・ボール)を開催しており、 ときには小作人や労働者たちも、近隣の来客と共にその場に加わることがありました。】「MENU」 豪華な食器類が並ぶ。廻り込みながら。磁器食器のキャビネット。・クラシックな木製キャビネットに収められた、赤と白を基調とした豪華なディナーセット。・食器には金色の縁取りが施され、上流階級の家庭用としてふさわしい高級感があります。・含まれている器種: ディナープレート・スープ皿・ティーカップ&ソーサー ソースボート・スープテリーヌ・サービングプレート など・手前に見えていたテーブル上の食器と同一シリーズのセットと考えられ、当時のハイド家の もてなし文化や格式の高さを象徴するコレクション。「THE DINING ROOMThis room was the Dining Room for the Henry family until 1902 and for the Dukeand Duchess of Manchester from 1903. lt later became the school language roomand the location of the school 'uniform press' and girl guide meetings!」【ダイニング ルームこの部屋は、1902年までヘンリー家のダイニングルームとして使用されていました。1903年以降はマンチェスター公爵夫妻(デューク&ダッチェス・オブ・マンチェスター)の食堂となりました。その後は、学校の語学教室として使われたほか、制服のプレス(整備)室や、ガールガイドの集会場としても使われました。】 ビクトリア朝時代のサイドボード(給仕用棚)の様子上段: 銀製の保温付きドーム型サーバー(左) 精巧な銀製ティーポットまたはグレイヴィーボート(右) 中央には「Please do not touch the displays(展示物に触れないでください)」の案内中段: 白磁に金縁のティーカップ&ソーサー 銀製のスープテリーヌ(蓋付き) ソースポット(グレイヴィージャグ)下段: 金縁のディナープレートやスープ皿が並び、左下にはボウルも確認できたのであった。William Angus Drogo Montagu・ウィリアム・アンガス・ドロゴ・モンタギュー「William Angus Drogo Montagu,9th」 Duke of ManchesterBORN IN 1877,the Duke of Manchester enjyoyed a LAVISH LIFESTYLE and tended toLIVE BEYOND HIS MEANS、He met Helena Zimmerman in FRANCE in 1899 and the couple ,arried in 1900.He purchased Kylemore Castle in SEPTEMBER 1903,althoughmost of the finance came from his FATHER-IN-LAW,the OIL AND RAILROAD TYCOONEugene Zimmerman from Cincinnati,USA. 」【ウィリアム・アンガス・ドロゴ・モンタギュー第9代マンチェスター公爵1877年生まれで、ウィリアム・アンガス・ドロゴ・モンタギューは、1877年に誕生し、贅沢な生活を楽しんでいたが、常に身の丈以上の支出をしていたとされます。彼は1899年にフランスでヘレナ・ジマーマン(Helena Zimmerman)と出会い、1900年に結婚しました。その後、1903年9月にカイルモア城を購入しましたが、その購入資金の大部分は、妻ヘレナの父である。アメリカ・シンシナティの石油・鉄道王、ユージーン・ジマーマン(Eugene Zimmerman)からの支援によるものでした。】「Helena Zimmerman,Duchess of Manchester」。 「Helena Zimmerman,Duchess of ManchesterThe only child of an AMERICAN MILLONAIRE,Helena Zimmerman was described as a"REBELLIOUS GIRL WHO ACCEPTED THE WORLD AS MADE FOR HER"She made many changes to Kylemore Castle including the REMOVAL OF MARBLEARCHES that had been a FEATURE of the main hall,replacing them with the oakp・・elling you see today.」 【ヘレナ・ジマーマンアメリカの大富豪の一人娘であったヘレナ・ジマーマンは、「世界は自分のためにあると信じて疑わない、反抗的な少女」と評されていました。彼女はカイルモア城に多くの変更を加え、その中には、かつて大広間の特徴であった大理石のアーチを撤去し、現在見られるオーク材の壁板へと置き換えたことも含まれます。】「Mitchell Henry had a TURKISH BATH installedat KYLEMORE for the enjoyment of family and guests.In the 1930s,the nuns coverted the BUILDING into a day scool for local children.」 【ミッチェル・ヘンリーとトルコ式浴場ミッチェル・ヘンリーは、家族や来客が楽しめるように、カイルモアにトルコ式浴場(Turkish bath)を設置しました。その後、1930年代に修道女たちがこの建物を地元の子どもたちのための「デイスクール(日中学校)」へと改装しました。】「Fordham Law School Great Hall」Fordham Law Schoolがニューヨークで行う「Spirit of Kylemore」シリーズのドナー支援により、カイルモア修道院の Fordham Hall(旧Great Hall) が修復・展示等で活用されている と。ニューヨークで行われる “Spirit of Kylemore” キャンペーンのためのグレート・ホール募金目的:カイルモア修道院の新修道院や教育・文化施設(グレート・ホール等)を支援。主要ドナー(寄付者) の一覧 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.31
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Flag 0f Ramillies・ラミイの旗1706年5月26日、ベルギーでラミリーズの戦いが起こりました。これはスペイン継承戦争における重要な戦いでした。この旗は元々、リムリック条約後にフランスに亡命したアイルランドの連隊、クレア竜騎兵隊のものでした。この条約は、長引いていたアイルランド戦争を終結させるために締結されました。クレア竜騎兵隊は、アイルランドを離れ、ヨーロッパ各地でカトリック国王のために戦った「ワイルド・グース(野生の雁)」の一員であり、最も有名なのはフランスにおけるアイルランド旅団での活躍です。この連隊はクレア子爵チャールズ・オブライエンによって率いられていました。クレア子爵は後に亡命し、1698年のボイン川の戦いで彼と彼の家族はすべての領地を失いました。斜めから。銃弾が残された可能性のあるラミリーズ旗。「Flag 0f Ramillieslt is said that this flag was captured by the lrish Brigade regiment at the Battle ofRamillies in 1706 and deposited for safekeeping with the nums at the abbey in Ypres.」【ラミイの旗この旗は、1706年のラミイの戦いでアイリッシュ旅団の連隊によって奪取され、イープルの修道院にいる修道女たちのもとに、安全に保管するため預けられたと言われています。】「The Irish Dames of YpresFounded in 1665 , the Benedictine menastery in YPRES, BELGIUM, provided an educationand religious community for Irish women at a time when strict anti-Catholic laws werein place in lreland.Lady Abbess Joseph Butler from Country Kilkenmy becamethe first Irish-born Abbess at Ypreswhen she was elected in August 1686. Following an invitation from King James Ⅱ toestablish a Royal Benedictine Abbey in Dublin in 1688,Lady Abbess Butler and some of her community came to Ireland but following the defeatof King James at the BATTLE OF THE BOYNE in 1690,they returned to YPRES,where theyremained for over 200 YEARS.【イープルの修道女たち(The Dames of Ypres)1665年に創設されたベルギー・イープルのベネディクト会修道院は、アイルランドで厳しい反カトリック法が施行されていた時代に、アイルランドの女性たちに教育と宗教的共同体を提供していました。キルケニー州出身のジョセフ・バトラー女修道院長は、1686年8月に選出され、イープル初のアイルランド人出身の院長となりました。1688年にはジェームズ2世の招きにより、ダブリンに王立ベネディクト会修道院を設立するため、バトラー女院長とその共同体の一部がアイルランドへ渡りました。しかし、1690年のボイン川の戦いでジェームズ王が敗北したため、彼女たちはイープルへ戻り、その後200年以上にわたりそこで活動を続けました。】「RE-BUILDING of KYLEMORE ABBEY (destroyed by fire in 1959)」 【カイルモア修道院の再建(1959年の火災で焼失)】メクティルド修道院長(1959年)の証言″The tower bell MELTED into THIN AIR…The leaded roof was no more;atairways,ironbedsteads hung off the remaining turrets,a sorry sight,but THANK GOD only GOODSand CHATTELS.No person was injured,all just suffering from shock"Mother Mechtilde, 1959.【鐘楼の鐘は 煙のように溶けて消え去りました…。鉛の屋根も跡形もなく、階段や鉄製のベッドが残った塔にぶら下がっていました。哀れな光景でしたが、ありがたいことに失われたのは 物品と家財だけ。人命は失われず、皆がただショックを受けているだけでした。」――メクティルド修道院長(1959年)】この展示室は、カイルモア修道院の歴史、使命、そしてベネディクト派修道女たちの精神を来訪者に伝えるための空間。中央のベンチも歴史的な意匠が施されており、修道院の厳粛で静謐な雰囲気を反映していた。「1921the RIGHTS and privileges of Ypres were transferred to KYlemore Abbey,making it the first Benedictine monastery established in IRELAND since the 1600s.」 【1921イープル修道院の権利と特権はカイルモア修道院に移され、これにより1600年代以来、アイルランドで初めて設立されたベネディクト会修道院となりました。】「John McCormack」 ジョン・フランシス・マコーマック伯爵(1884年6月14日 - 1945年9月16日)は、アイルランド出身の 抒情テノール歌手で、オペラやポピュラーソングの演奏で名高く、その発音と呼吸法で知られていた。彼は伯爵でもあった。マコーマックはアメリカに帰化した後、アイルランドに戻った。Our Mission "Our Mission as Benedictine women is to live in COMMUNITY sharing our liturgy andhosupitality with all,in a sprit of peace"【私たちの使命「私たちベネディクト会の女性の使命は、平和の精神のもとに、共同体として生活し、祈りの典礼とおもてなしをすべての人と分かち合うことです。」】「The Indian Princessesin the early 1930s,two Indian princesses attended Kylemore as boaders.The princesses were nieces of a Maharajya,who owned nearby Ballynahinch Castle for a time.」 【インドの王女たち1930年代初頭、2人のインドの王女が寄宿生としてカイルモア修道院に通っていました。彼女たちはマハラジャの姪であり、そのマハラジャは一時期、近隣のバリナヒンチ城(Ballynahinch Castle)を所有していました。】「ln the latter years of the 20th century necessary restoration work was carried out on the Gothic church,the walled garden,and the Abbey itself.The funds earned throughtourism go towards the upkeep of the COMMUNITY and on-going maintenance ofthe Abbey and edtate.」 【20世紀後半には、必要な修復工事が施されました。ゴシック様式の教会、囲い壁のある庭園、そして修道院そのものに対して行われました。観光によって得られた資金は、修道共同体の維持と修道院および敷地全体の継続的な管理に充てられています。】カイルモア修道院女子校(スクール・エイネ)の生徒の制服。「Pupils of Kylemore Abbey Girls school (Scoil Áine)founded in Sept 1923」 【カイルモア修道院女子校(スクール・エイネ)の生徒たち――1923年9月創立】「Scoil Aine(スクール・エイネ)」はアイルランド語で「エイネ校」という意味で、聖エイネ(Áine)にちなんで名付けられたと考えられます と。この楽譜は?「Enterprise」「Mitchell Henry set about building Kylemore Castle in SEPTEMBER 1867」 【ミッチェル・ヘンリーは、1867年9月にカイルモア城の建設に着手しました。】このカイルモア城(のちのカイルモア修道院)は、彼の妻への愛情と家族の理想郷を実現するために建てられたとされています。Mitchell Henryの書斎の紹介。「Mitchell Henry married Margaret Vaughaun from Quilly House , Dromore , County Down on the 30th August 1849The Henrys had nine children and the family divided their time between thisbeautiful castle and heir city residence, STRATHEDEN HOUSE in LONDON. Sadly,great wealthproved no protection from adversity as just a few years later, Marguret died tragicallywhile on a family holiday in EGYPT in 1874. Despite their loss, the Henrys remained at KYLEMORE CASTLE until 1902 after which time the Estate was sold to theDuke andDuchess of Manchester who remained in residence here until 1913.」 【ミッチェル・ヘンリーは、1849年8月30日、ダウン州ドロモアのクィリー・ハウス出身のマーガレット・ヴォーンと結婚しました。ヘンリー夫妻には9人の子どもが生まれ、家族はこの美しい城とロンドンの邸宅「ストラスイーデン・ハウス」との間で生活を分け合っていました。しかし、莫大な富も不幸を防ぐことはできませんでした。数年後の1874年、家族でエジプト旅行中に、マーガレットは悲劇的に亡くなってしまいます。その喪失にもかかわらず、ヘンリー家は1902年までカイルモア城に居住し続けました。その後、この地所はマンチェスター公爵夫妻に売却され、夫妻は1913年までここに居住しました。】居間。鏡台。机そして後ろに応接間。応接間。本棚。近づいて。現在地はここ。Mitchell HenryとMargaret Henry。Mitchell Henry(1826~1910)Margaret Henry (1829~1874)「Mitchell HenryMitchell Henry represented COUNTY GALWAY in the HOUSE OFCOMMONS at Westminster, London, for fourteen years (1871ー1885).He was an active POLITICIAN and an ardent CAMPAIGNER for IRISH HOME RULE. A close associate of Isaac Butt,Mitchell was one of the founder members of the IRISH PARLIAMENTARY PARTY and was instrumental in setting up theHOME RULE LEAGUEin 1873.」【ミッチェル・ヘンリーミッチェル・ヘンリーは、1871年から1885年までの14年間、ロンドンのウェストミンスターにある庶民院(下院)でゴールウェイ県の代表を務めました。彼は積極的な政治家であり、アイルランドの自治(ホーム・ルール)を強く支持する運動家でもありました。アイザック・バットの親しい協力者として、アイルランド国民党(Irish Parliamentary Party)の創設メンバーの一人となり、1873年にはホーム・ルール連盟(Home Rule League)の設立にも重要な役割を果たしました。】この文は、ミッチェル・ヘンリーが実業家だけでなく、アイルランドの政治的自立を目指す運動の中心人物でもあったことを物語っています。壁沿いにあった椅子。「The Walled Garden(囲い庭園)」に関する展示が行われている空間。木製の台座の上に設置された立体模型は、おそらくカイルモアの敷地と「囲い庭園(The Walled Garden)」の地形や建物配置を再現。インタラクティブディスプレイで、Walled Garden の歴史・植物・使用人の作業などを紹介していた。「The Walled Garden」 「The Walled GardenThe Walled Garden covered 8.5 ACRES in total and was divided into formal gardensand a STATE OF THE ART complex 0f 21 glasshouses which covered about an acre,arranged like a horseshow around the Parterre(formal gardens),all interconnected and HEATED WITH A CAST-IRON PIPE system of over 5,000 feet(1500 metres approx).The glasshouses were laid out by the first HEAD GARDENER James Garnier and designedand built by CRANSTON'S in Bermingham.The Walled Garden provided a wide range of fruit and vegetables, that included LUXURIESUNTHINKABLE to ordinary Irish people such as grapes, nectarines, melons and even bananas.Produce grown at Kylemore was often served at the Henry's London Dinnerparties.」【囲い壁のある庭園(ウォールド・ガーデン)ウォールド・ガーデンは総面積8.5エーカー(約3.4ヘクタール)を誇り、格式ある庭園(フォーマル・ガーデン)と、約1エーカー(約0.4ヘクタール)を占める最先端の21棟の温室施設に分かれていました。これらの温室は馬蹄形(ホースシュー)に配置され、フォーマル・ガーデン(パーテア)の周囲を取り囲むように整えられ、総延長約5,000フィート(約1,500メートル)におよぶ鋳鉄製パイプの加熱システムで相互に接続されていました。この温室は、初代主任庭師ジェームズ・ガルニエによって配置され、バーミンガムのクランストンズ社が設計・建設しました。この庭園では多種多様な果物や野菜が栽培されており、当時の一般的なアイルランド人には考えられないような贅沢品――例えばブドウ、ネクタリン、メロン、さらにはバナナまでもが育てられていました。カイルモアで収穫された作物は、しばしばヘンリー家のロンドンの晩餐会で供されていたそうです】 「Picking up a Meal upon the Coast,Killery Ray」 【キラリー湾沿いの海岸での収穫】「MEN WERE EMPLOYEDMitchell Henry brought MUCH-NEEDED EMPLOYMENT to region SUFFERING from extreme poverty. Men WALKED FOR MILES when it known that WORKS was beingoffered at a FAIR WAGE,and at one time 300 men were employed as labourers and craftsmen.」【男性たちが雇用されたミッチェル・ヘンリーは、極度の貧困に苦しむ地域に、非常に必要とされていた雇用をもたらしました。公正な賃金で仕事が提供されると知れ渡ると、男性たちは何マイルも歩いてやって来ました。一時は、300人もの男性が労働者や職人として雇われていたのです。】「Mitchchell Henry represented COUNTY GALWAY in the HOUSE OF COMMONS in Londonfrom 1871 to 1885. He was an active politician WHO throughout his career fought for therights of his tenants and the people in the west of Ireland.」【ミッチェル・ヘンリーは、1871年から1885年まで、ロンドンの庶民院(下院)でゴールウェイ県の代表を務めました。彼は積極的な政治家であり、政治活動を通じて一貫して、自らの小作人たちやアイルランド西部の人々の権利のために尽力しました。】「”...「the」condition of the West is daily becoming worse. The people have neither food nor clothes, nor credit to buy them, nor work to earn them. Blank despair is setting down upon the district, and the efforts of the few in this localitywho can give a little employment are as but a drop in the ocean of misery around...pale,thin and bloodless,silent,their condition is absolutely without hope."Mitchell Henry,in a letter to the Lord Lieutant of Ireland,13TH DECEMBER 1879.」 【…西部の状況は日ごとに悪化しています。人々には食べ物も衣服もなく、買うための信用も、稼ぐための仕事もありません。完全な絶望がこの地域を覆いつつあり、この地でわずかでも雇用を提供できる少数の者たちの努力は、周囲に広がる悲惨の海に落ちる一滴の水にすぎません。青ざめ、やせ細り、血の気もなく、沈黙した彼らの様子には、まったく希望が見いだせません。」――ミッチェル・ヘンリー、1879年12月13日 アイルランド副王への手紙より】前方:後期ヴィクトリア時代の陶製水洗トイレ。「Replica of porcelain LATE VICTORIAN flush toiletPLEASE NOTE the exposed original red brick to your left!」 【レプリカ:後期ヴィクトリア時代の陶製水洗トイレ※左手にある、露出した当時の赤レンガにもご注目ください!】柱時計?ステッキ置き場と帽子置き場。「Rrawing Room」案内。Margaret Henry(マーガレット・ヘンリー夫人)の肖像画。彼女はカイルモア城の創設者ミッチェル・ヘンリー(Mitchell Henry)の妻。肖像の下には、彼女に関する説明文・カイルモアの歴史・ミッチェル・ヘンリーに関する情報が掲示されていた。Margaret Henry(マーガレット・ヘンリー夫人)の肖像画をズームして。この肖像画は、カイルモア城の「ヴィクトリア朝時代の居住空間の再現展示」の一部として飾られており、カイルモアの「愛の物語」を象徴する重要な存在。「----Obituary----Margaret HenryFREEMANS JOYENAL,FRIDAY 11 DECEMBER 1874We deeply regret to anaounce the death of Mrs Margaret Henry which occurred recentryin Egypt,where she had accompanied her husband and family on a tour through the East.A fond and affectionate wife and a tender and loving mother,her premature demise will leave a blank in the circle of which she was the idol:and the poor of whom she was akind and constant benefactor will long continue and have cause to mourn her loss.Of a truly benevolent and charitable disposition,it was her care to alleviate the sufferingand aid the distressed,which she did,not through a sprit of parade and senseless vanity,but as a duty that springs from the highest and purest of impulses of the heart.In the vicinity of Kylemore castle,the splendid residence of her husband, the good whichshe did cannot be estimated.The poor and destitute were by her supplied with food and clothing, and it was her custorn during all seasons of the year to visit the humble hornesteads on the estate and ministerfreely to the wants of the occupants.The world knows not the extent of her benevolence, for she heeded the injunction that it was known to Hirn who sees and knows all thingsand will not heartily syrnpathise with Mr Mitchell Henry in his great bereavement,and regretthe demise of his amiable and excellent lady.Mrs Mitchell Henry was 45 years of age and her death resylted an illness of 16 days of dysentery. 」 【---- 訃報 ----マーガレット・ヘンリー夫人『フリーマンズ・ジャーナル』 1874年12月11日(金)掲載私たちは、マーガレット・ヘンリー夫人が最近エジプトにて逝去されたことを深い遺憾の意とともにお知らせいたします。夫と家族とともに東方を巡る旅に出ていた途中の出来事でした。彼女は、愛情深く献身的な妻であり、優しく慈しみに満ちた母でした。彼女のあまりにも早すぎる死は、彼女を中心としていた家族や交友の輪に大きな空白を残すことになるでしょう。また、彼女が日頃から親切に接していた貧しい人々にとっても、その喪失は深く長く悲しまれるに違いありません。本当に慈愛に満ち、思いやり深い性格の持ち主であった彼女は、困窮する人々の苦しみを和らげ、助けることに心を砕いていました。しかもそれは、見せびらかしや虚栄心からではなく、心の最も高く純粋な衝動から生まれた義務感によるものでした。カイルモア城(夫ミッチェル・ヘンリー氏の壮麗な邸宅)周辺において、彼女が与えた善の影響は計り知れません。貧しく困窮した人々には食料や衣服を提供し、季節を問わず、屋敷内のつつましい家庭を訪れては必要な支援を惜しみなく施していました。その慈善の範囲を世界は知ることはないでしょう。というのも、彼女は「すべてを見通す神の御心にのみ知られればよい」という信念を守り、静かにそれを行っていたからです。このような悲報に接し、ミッチェル・ヘンリー氏の大いなる悲しみに対して、人々は心からの共感と弔意を寄せずにはいられないでしょう。そして、彼の愛すべき、立派な夫人の逝去を深く悼むものです。マーガレット・ヘンリー夫人は享年45歳。彼女の死因は、16日間に及ぶ赤痢の病によるものでした。】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.30
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「ENTRANCENO FOOD OR DRINK IN THE ABBEY(SERVICE DOGS ONLY)」 【入口修道院内への飲食物の持ち込みは禁止です(介助犬のみ入場可)】入口は花崗岩のアーチが。Welcome to Kylemore Abbey.「Entering under the granite arch you are following in the footsteps of many generations and beginning Generation to Generation... Note the 0旧ash pit toyour left and the folly windows on the outer walls both exposed during recent renovations.」 【花崗岩のアーチの下をくぐると、あなたは幾世代もの人々の足跡をたどり、「世代から世代へ」という歩みを始めることになります。左手にある古い灰捨て場と、外壁の飾り窓にご注目ください。いずれも最近の改修工事で明らかになったものです。】「Reccent renovations revealed な砌/″れ00雇ル加revealedTHIS STRUCTURE, which dates back to when the CASTLE WAS BUILT in the 1860s.Although we cannot be sure Of its purpose,we believe it many have been an ASH PIT,where embers from all the fireplaces and ranges in the castle were placed.」 【最近の改修工事によって、この構造物が明らかになりました。それは1860年代にこの城が建てられた当時のものです。その用途ははっきりとは分かっていませんが、おそらく「灰捨て場(アッシュ・ピット)」であり、城内のすべての暖炉やレンジで使われた燃えかすがここに捨てられていたと考えられています。】飾り窓の表示。「Ora et Labora Pray and Work」【祈り、そして働け】「Welcome to Kylemore Abbey.From GENERATION to GENERATIONand throughout its history,this special place has been a home , a haven,a school and a sanctuary.」【カイルモア修道院へようこそ。「世代から世代へ」、そしてその長い歴史の中で、この特別な場所は、家庭であり、安息の地であり、学校であり、そして聖域でもありました。】「From GENERATION to GENERATION」 【世代から世代へ】「500s Saint Benedict500sSaint Benedict founded a monastery at Monte Cassino,Italy【500年代500年代、聖ベネディクトゥスがイタリアのモンテ・カッシーノに修道院を創設しました。】「1665 Founding of Benedictine monaster in Ypres, Belgium.」【1665年、ベルギーのイーペルにベネディクト会修道院が創設されました。】「Mitchell Henry 18674 September 1867Mitchell Henry begins construction of Kylemore Castle【ミッチェル・ヘンリー 1867年1867年9月4日、ミッチェル・ヘンリーがカイルモア城の建設を開始しました。】「1871Consturuction of Kylemore Castle completed」【1871年カイルモア城の建設が完了しました。】「Margaret Henry 18744 December 1874Death of MargaretHenry in Cairo, Egypt.【1874年12月4日マーガレット・ヘンリー、エジプト・カイロにて死去。】「21 September 1892Death of GeraldineHenry following an accident at nearbyDerryinver Bridge」【1892年9月21日ジェラルディン・ヘンリー、近くのデリーインヴァー橋での事故により死去。】「Manchesters 1903September 1903Kylemore sold the Duke and Duchess of Manchester」 【1903年9月カイルモアはマンチェスター公爵夫妻に売却されました。】「1914The Manchesters leave Kylemore」 【1914年マンチェスター公爵夫妻がカイルモアを去る】「1914 BenedictinesNovember 1914The Benedictines flee war-torn Belgium」 【1914年 ベネディクト会1914年11月ベネディクト会の修道女たちが戦火に覆われたベルギーから避難】「4 December 1920The Benedictines arrive at Kylemore」 【1920年12月4日ベネディクト会の修道女たちがカイルモアに到着】「Pupils 192311 September 1923Kylemore AbbeySchool is opened」 【生徒たち 1923年1923年9月11日カイルモア修道院学校が開校しました。】「Big Fire25 January 1959The Big Fire」 【大火災1959年1月25日大火発生】「April 1995Gothic Churchre- opened」【1995年4月ゴシック様式教会が再公開される】「August 2000Walled Gardensre-opened」【2000年8月ウォールド・ガーデン(囲い庭園)が再公開される】「June 2010Kylemore AbbeySchool closed」【2010年6月カイルモア修道院学校が閉校】「2013 BenedictinesNew MonasticChurch completed」 【2013年 ベネディクト会新しい修道院教会が完成】 「A special place 20192019 Foundation stone of new monastery laid」 【特別な場所 2019年2019年、新しい修道院の礎石が据えられる】Abbess Maura Oysten(1916-1940)とMitchell Henry(1826-1910)の姿が。修道院長 モーラ・オイスティン。「COMMIT your lifeto the Lord,trust in him and he will ACT. "Abbess Maura Oysten(1916-1940)」 【「あなたの人生を主にゆだねなさい。主を信頼しなさい。そうすれば、主は働かれるでしょう。」修道院長 モーラ・オイスティン(在任期間:1916年〜1940年)】「Guide to the Abbey Visitor ExperiennceFrom Generation...The Story of Kylemore Abbey」【修道院ビジター体験ガイド『世代から世代へ…カイルモア修道院の物語』】「①Welcome RoomWelcome to Kylemore Abbey. This room was once the outer kitchen and is where meatswere prepared for the Henry family, the Dukeand Duchess of Manchester and in later years the nuns and schoolgirls.The old kichen and butter making tables were used formany years in the Kylemore farmhouse. Here we begin to learn about the history and origins of Kylemore Abbey. The audio ⅵsual displays tell the story of Kylemore through the years.」【① ウェルカム・ルームカイルモア修道院へようこそ。この部屋はかつて「外台所」として使われており、ヘンリー家、マンチェスター公爵夫妻、そして後の時代には修道女や女子生徒たちのための肉の下ごしらえが行われていました。昔の台所の設備やバターづくりの作業台は、長年にわたってカイルモアの農家で使われていました。ここから、カイルモア修道院の歴史とその起源について学ぶ旅が始まります。館内の映像展示では、カイルモアの物語が時代を超えて紹介されています。】 「Butter Making Table」 館内の映像展示では、カイルモアの物語が時代を超えて紹介。様々な陶製の器が。Mitchell Henry(1826-1910)。「"My TIME ,my FORTUNE and my PERSONAL EXERTIONS have been given to the improvement of the NEGLECTED PEOPLE of the West of Ireland"」【私の時間、財産、そして私自身の努力すべてを、アイルランド西部で見捨てられてきた人々の暮らしの向上に捧げてきました。」ミッチェル・ヘンリー(1826〜1910)】「②The Benedictine Ordrer「(From Ypres to Connemara)The Benedictine nuns who live at Kylemore today arrived here in 1920. Their ancient Abbey in Ypres, BeIgium was destroyed in the early months of WW1. Learn about the fascinating history and ethos of the order and their escape from war-torn Europe.Exhibits include several precious artefacts connected with the order.」【②ベネディクト会(イープルからコネマラへ)現在カイルモア修道院に暮らすベネディクト会の修道女たちは、1920年にここに到着しました。彼女たちの古代から続く修道院は、第一次世界大戦の初期(1914年)にベルギーのイープルで破壊されました。この展示では、修道会の魅力的な歴史と精神性、そして戦禍のヨーロッパからの脱出について学ぶことができます。展示品の中には、修道会に関連する貴重な遺物も含まれています。】「The Benedictine OrderSt Benedict of Nursia, in ltaly, wrote his RULE FOR MONASTERIES in the 6th century.Monks and nuns following this Rulk commit themselves to a life cntred on prayer,work,and community living throughOra et Labora(Pray and Work)Five times during the day they come together in the church to listen to the scripturesand respond with psalms and prayers of praise and intercession.Originally an enclosed orde,the nuns lived out their lives within the confines of their walledmonastery, having little contact with the outside world. When they came to Kylemore, thegrate mountains of Connemars became their enclosure.」 【ベネディクト会についてイタリアのヌルシア出身の聖ベネディクトゥスは、6世紀に『修道院のための戒律(ルール)』を記しました。この戒律に従う修道士や修道女たちは、「祈り(Ora)」と「労働(Labora)」、そして共同生活を中心とした生き方に身を捧げています。1日のうち5回、彼女たちは教会に集い、聖書を聞き、詩編や賛美、執り成しの祈りを捧げます。もともとベネディクト会の修道女たちは外界との関わりをほとんど持たず、囲い壁のある修道院の中で一生を過ごす「隠遁修道会」でした。カイルモアにやって来たとき、コネマラの大いなる山々が彼女たちにとっての“囲い壁”となったのです。】「Lady Abbess Joseph Butler」。 「Lady Abbess Joseph ButlerLady Abbess Joseph Butler was elected the first Irish Abbess at Ypres in 1686,From Kilkenny,she entered the order in 1657,when she was sixteen years old.」 【修道院長ジョセフ・バトラー修道女ジョセフ・バトラー修道女は、1686年にイーペル(ベルギー)で最初のアイルランド人修道院長に選出されました。彼女はキルケニー出身で、1657年、16歳のときに修道会に入会しました。】Mitchell Henry(1826-1910)と右側奥に礎石。「NPB」と刻まれた礎石。「NPB」と刻まれた礎石については、これは「Notre Père Benoît(我らが父ベネディクトゥス)」の頭文字である可能性が高い。フランス語圏のベネディクト会修道院などではこのような略記がしばしば見られるのだと。この礎石は、新しい修道院建設(たとえば2013年の修道院教会や、2019年に礎石が据えられた新修道院)の一部であった可能性がありそう。「NPB」という刻印が、ベネディクト会修道生活の精神的な象徴として、あえて目立つ形で展示されているのであろう。「The Escape from YpresWhen World WarⅠbroke out in 1914,the monastery at Ypres came under heavybombardment and the nuns were forced to abandon their home.Before leaving,they hid their most precious possessions behind a wall-up section of their cellar.」【イーペルからの脱出第一次世界大戦が1914年に勃発すると、イーペルの修道院は激しい砲撃を受け、修道女たちは住まいを捨てざるを得なくなりました。彼女たちは出発前に、最も大切な持ち物を地下室の壁の裏に隠しました。】 "COMMIT your life to the Lord,trust in him,and he will ACT"Abbess Maura Oysten(1916-1940)【「あなたの人生を主にゆだねなさい主を信頼しなさい。そうすれば、主は働いてくださいます。」モーラ・オイスティン修道院長(1916~1940年在任)】Booklet of 'A Funeral Oration upon the Death of King James the Second' 1703他右下:「Gold Medal Anointed 1685One of a handful of medals which was dippec in the holy chrism used at anointing ofKing Jamus ll of England and Ireland & VI of Scotland at his coronation in London in1685.This medal was presented to the Dames of Ypres by King Jamus ll and was thought tocure a disease known as"Scrofula"or "The King's Evil" until the end of the 18th century/This disease is now known to be a type of tuberculosis,a highly infectious bacterial illness,affecting the lymph node in the neck.」 【聖油に浸された金メダル(1685年)この金メダルは、1685年にロンドンで行われた戴冠式で、イングランドとアイルランドの王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ6世)の塗油(聖なる香油)に浸された、ごくわずかなメダルのうちの一つです。このメダルはジェームズ2世からイーペルの修道女たち(Dames of Ypres)に贈られたもので、18世紀末までは「瘰癧(るいれき)」または「王の病」と呼ばれた病気に効くと信じられていました。現在ではこの病気は、首のリンパ節に感染する結核菌による結核の一種であることが知られている。】中央下:Booklet of 'A Funeral Oration upon the Death of King James the Second' 1703An original(restored)booklet ofthe funeral oration given on the 19 September 1702 at the former Chaillot convent in Paris, France for the internment of the king's heartfollowing his death in 1701. This sombre event was attended by some of the Irish Dames of Ypres.【ジェームズ2世の死に際しての葬送演説’の小冊子(1703年)1703年に出版された元の(修復された)小冊子で、1702年9月19日にフランス・パリのシャイヨー旧修道院にて行われた葬送演説が記されています。この日は、1701年に死去したイングランド王ジェームズ2世の「心臓の埋葬式」が行われた日でもあります。この厳粛な儀式には、イープルのアイルランド人修道女(Dames of Ypres)の一部も参列していました。】上:’The History of the Irish Dames of Ypres' 1908Published by Patrick Nolan OSB,this book records of Irish Benedictine community established in Ypress in 1665,which was the only Irish Abbey of the Ordder ofSt.Benesict.【’イープルのアイルランド人修道女たちの歴史’(1908年)1908年にパトリック・ノーランOSB(ベネディクト会修道士)によって出版された本で、1665年にイープル(現在のベルギー)に設立されたアイルランド・ベネディクト会修道女共同体の記録が収められています。この修道院は、聖ベネディクト会に属する唯一のアイルランド系女子修道院でした。】ステンドグラス。「KYLEMORE ABBEY HORARIUM」 KYLEMORE ABBEY HORARIUM(カイルモア修道院のホラリウム)とは、**修道院における一日の生活スケジュール(時課表)**を意味します。ラテン語の「horarium(ホラリウム)」は「時間割」や「一日の定められた活動の時刻」を指し、特にベネディクト会のような修道会では、祈りと労働をバランスよく組み合わせた日課が厳格に守られています。以下は、カイルモア修道院(アイルランド・ベネディクト会修道女)の典型的な一日のホラリウム(想定)です。実際の時刻は若干異なることもあります。修道女の日課(Horariumの例)時刻 内容05:30 起床(Rising)06:00 聖務日課(Lauds:賛美の祈り)・個人黙想07:00 ミサ(Holy Mass)08:00 朝食(Breakfast)08:30〜12:00 労働・学び・司牧活動(Work: teaching, gardening, administration etc.)12:15 昼の祈り(Midday Office)12:30 昼食(Lunch)と後の静かな休憩14:00〜16:30 午後の労働または講話・訪問者応対などカイルモア修道院(Kylemore Abbey)へのダブリンからのルート図が描かれていた。ベルギー西部、フランデレン地域のウェスト=フランデレン州にある都市・YPRESからのルートが描かれていた。YPRESの地図。振り返って。16世紀の金襴のコープ(祭服)とカズラ(ミサ用上衣)。「Sixteen Century Brocaded Cope and Chasuble Made from a silk dress gifted byArchduchess Isabella of Austria & The Spanish NetherlandsThe first English Benedictine house since the Henrician dissolution ofthe monastenes(1536-1541) was established in Brussels in 1598. The followmg year in honour ofthat occasion, Archduchess lsabella Clara.Eugenia(b.1566ーd.1633 )and her husband Archduke Albert of Austria, hosted acelebratory banquet in Brussels. They invited the newly installed Abbess,Dame JoannaBerkley and her community of nuns to the occasion, however the invitation was politelyrefused.The Archduchess gifted the silk dress she wore on the occaslon of the banquet fromwhich the nuns made this ecclesiastical 'COPE'. Despite the loss of so many of their centuries old treasures and archives as they fled war torn Belgiurn in 1914, they managed to save this brocaded cope which is now over 420 years old.Following her husband's death in 1621,the Archduchess became a nun and jointed the order of thePoor Clares in Brussels.【16世紀の金襴のコープ(祭服)とカズラ(ミサ用上衣)オーストリアとスペイン領ネーデルラントのイザベラ大公女より贈られた絹のドレスから作られたヘンリー8世による修道院解散(1536〜1541年)以後、最初のイングランド・ベネディクト会の女子修道院が、1598年にブリュッセルに設立されました。その翌年、この歴史的な出来事を記念し、イザベラ・クララ・エウゲニア大公女(1566–1633)とその夫であるオーストリア大公アルブレヒトは、ブリュッセルで祝賀の宴を開催しました。この席には、新たに任命された修道院長ジョアンナ・バークリー修道女とその共同体(修道女たち)が招待されましたが、丁重に辞退されました。代わりに、イザベラ大公女はその宴で自ら着用していた絹のドレスを贈り、それをもとにして修道女たちはこの**金襴織りの祭服(コープ)**を制作しました。1914年、戦火に見舞われたベルギーから逃れる際に、何世紀にもわたって受け継がれてきた多くの宝物や記録が失われましたが、この金襴のコープだけは守り抜かれ、今も保存されています。制作から420年以上が経過しています。なお、大公アルブレヒトの死後(1621年)、イザベラ大公女は修道女となり、ブリュッセルの**聖クララ会(クラリス会)**に入会しました。】King James Ⅱ「King James Ⅱln 1688 , King JamesⅡinvited the Benedictine nuns to establish a Roya1 Abbey in Dublin,but following his defeat at the Battle of the Boyne in 1690 the monastery was closed and the nuns returned to Ypres.」 【ジェームズ2世1688年、イングランド王ジェームズ2世は、ベネディクト会の修道女たちをダブリンに「王立修道院(Royal Abbey)」を設立するために招待しました。しかし、1690年の**ボイン川の戦い(Battle of the Boyne)で彼が敗北したことにより、その修道院は閉鎖され、修道女たちはイープル(Ypres)**に戻ることになりました。】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.29
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「Kylemore Abbey・カイルモア修道院」に向かって湖岸を進む。 背後のドゥフルアハ山(Doughruagh)やティウェルブ・ベンズ(Twelve Bens)といった険峻な山並みが、カイルモア修道院(Kylemore Abbey)の威厳をさらに際立てているように感じたのであった。Pollacapall Lough・ポラカパル湖岸から「Kylemore Abbey・カイルモア修道院」を。ズームして。「Lake WalkKylemore Abbey, formerly Kylemore Castle, is named after the Kylemore Valley.The original estate stretched over 12 townlands. Today it spans 5: Lettershask, Pollacappul, Addergoole, Curraunvuggaun, and Mweelin.A townland, like a fountain, is an old geographical land division still in use. The name is a valuable part of our Irish heritage, referring to a geographical feature, a historical event, or even a local legend of the area. Castle townland names were standardized and anglicized in the 19th century by the British Ordnance Survey.The townland of Kylemore, from Coill Mór translating to Big Wood, was never part of the estate. Mitchell Henry adopted the name and reforested the valley.」 【湖畔の小道カイルモア修道院(旧名:カイルモア城)の名は、カイルモア渓谷に由来しています。元々の領地は12の「タウンランド(小行政区)」にまたがっていました。現在の領地は、レタシャスク、ポラカパル、アダーグール、クランヴァガン、そしてムウィーリンの5地区に及びます。「タウンランド」は、泉のように古くから使われてきたアイルランドの地理的区分で、今も使用されています。その名称は、地形的特徴、歴史的事件、あるいは地域の伝説など、アイルランドの文化遺産を今に伝える貴重な要素です。19世紀、これらの地名はイギリス軍測量部によって標準化・英語化されました。なお、「カイルモア」という地名(原義はCoill Mór=大きな森)は、実はこの領地の一部ではありませんでした。ミッチェル・ヘンリーがこの名を採用し、この渓谷に再び森を育てたのです。】赤レンガ造りの洞穴の如き場所が展示室になっていた。「ヴィクトリアン・ワールド」展示エリアのようであった。A New Beginning for an Ancient OrderThe Benedictine nuns welcome you to their homeat Kylemore Abbey.Since 1920 our community of monastic women has lived and prayed here accordingto the Rule of St.Benedict,while preserving the beauty and heritage of this place、educating generations of young women, welcoming visitors and creating employment.Today,after 100 years at Kylemore we have embarked on the most important andambitious building project in our 400-year history:・a new monastery and purpose-built home for the growing community of Benedictine nuns ・residential guest accommodation for pilgrisms and visitors to share the sacred of their lives through short courses and retreats.【古の修道制に新たな始まりベネディクト会修道女たちは、カイルモア修道院へようこそと皆さまをお迎えします。1920年より、私たち修道女の共同体はこの地で聖ベネディクトの戒律に従い、祈りとともに生活を営んできました。この場所の美しさと遺産を守りながら、若い女性たちを教育し、世界中からの訪問者を歓迎し、地元に雇用を生み出してきました。そして現在、カイルモアでの100年を経て、私たちは400年に及ぶ修道会の歴史の中でも最も重要で、かつ野心的な建築プロジェクトに取り組んでいます。・成長を続けるベネディクト会修道女共同体のための、新しい修道院および専用の住まいの建設・巡礼者や訪問者のための宿泊施設を整備し、短期講座やリトリート(霊的静修)を通じて 彼らの人生における“聖なるもの”を分かち合う機会を提供すること】Kylemore AbbeyOur New MonasteryOur new monastery, next to this building will link with link with our MonasticChurch and will comprise:・Spaces for prayer and meditation for nuns and guests・Chapter rooomーa meeting space for the Benedictine community・Living accommodation for the growing Benedictine community・Dedicated Novitiate space・Library and archive accommodation・Residential retreat centre for guests・Welcome area for guests and groups.【カイルモア修道院私たちの新しい修道院この建物の隣に建設される新しい修道院は、私たちの修道会教会(Monastic Church)とつながり、以下の施設を備えます:・修道女とゲストのための祈りと瞑想の空間・チャプタールーム(ベネディクト会の共同体が集まる会議の場)・拡大するベネディクト会修道女共同体のための居住スペース・修練者(ノビシャ)専用のスペース・図書室および文書保管室・ゲストのための宿泊型リトリートセンター・ゲストおよび団体のためのウェルカムエリア】Monastic life at the heart of KylemoreToday our community of nuns live,work and pray in several temporary locations across the estateーwith no communal monastic home.With our new monastery we will at last have a place for our contemplative mission where we can invite others to share in our living tradition of faith and spirituality at Kylemore.In our spitit of Benedictine hospitality, we look forward to welcoming those seeking a place of reflection, peace, solace and tranquillity.【カイルモアの中心にある修道生活現在、私たち修道女の共同体は、カイルモアの敷地内のいくつかの仮設の場所で生活し、働き、祈りを捧げています。つまり、共同の修道院(共同生活の場)を持っていません。しかし、新しい修道院が完成すれば、私たちの観想的な使命を果たすための場所がついに整い、信仰と霊性の生きた伝統を分かち合うために、他の人々をカイルモアに招くことができるようになります。ベネディクト会のもてなしの精神に則り、内省、平和、慰め、静けさを求める方々をお迎えできることを、私たちは心から楽しみにしています。】赤レンガ造りの洞窟内の展示室。?????この女性はアイルランド第7代大統領(1990–1997)メアリー・ロビンソン(Mary Robinson) 氏。アイルランド史上初の女性大統領その後、国連人権高等弁務官(1997–2002) としても国際的に活躍。法律家・活動家として女性の権利や人権問題に大きく貢献。1990年代はカイルモアの敷地全体が活気にあふれた10年間で、1995年に当時のアイルランド大統領メアリー・ロビンソンによって修復されたネオゴシック教会の開館などの祝賀行事が行われた。周囲にいるのは学生服姿の女子生徒たちで、おそらく修道院が女子寄宿学校(Kylemore Abbey School)として機能していた時期の訪問時の様子 と。History of the Benedictine NunsHistory of the Benedictine NunsThe Benedictine nuns of Kylemore Abbey have a long history,beginning at Brussels in 1598.In the late 1500S , following religious suppression, many Catholics left England andopened monastic houses in Europe、A number of monasteries originated from oneBenedictine house in BrusseIs, founded by Lady Mary Percy in 1598.This included one at Ypres in Belgium in 1665.Through the centuries, Ypres Abbeyattracted the daughters of lrish nobility, as students and postulants、The Abbey enjoyedthe patronage of influential Irish families living in exile and wa formally made over tothe lrish nation in 1682.Known as The lrish Dames Of Ypres, the Benedictine nuns moved to Dublin in 1688 atthe request of King James Ⅱ but returned to Ypres following James's defeat at theBattIe of the Boyne in 1690.【ベネディクト会修道女の歴史カイルモア修道院のベネディクト会修道女たちの歴史は、1598年にブリュッセルで始まりました。1500年代後半、宗教弾圧を受けて多くのカトリック教徒がイングランドを離れ、ヨーロッパ各地に修道院を設立しました。その中のいくつかの修道院は、1598年にレディ・メアリー・パーシーによってブリュッセルに創設されたベネディクト会修道院を起源としています。1665年にはベルギーのイーペルにも修道院が設立されました。何世紀にもわたって、このイーペル修道院は、アイルランドの貴族の娘たちが学生や志願者(修道女を志す者)として集まる場となりました。修道院は亡命中の有力なアイルランド人家族の支援を受け、1682年には正式にアイルランド国家に帰属する修道院とされました。「イーペルのアイルランド人修道女たち(The Irish Dames of Ypres)」として知られるこの修道女たちは、1688年、国王ジェームズ2世の要請によりダブリンへ移転しましたが、1690年のボイン川の戦いでジェームズが敗れた後、再びイーペルに戻ることとなりました。】After more than two centuries in Ypres, their Abbey was destroyed during world war 1 , and the nuns fled as refugees first to EngIand,later to Wexford before eventually settling in Kylemore in December 1920.At Kylemore, the nuns established an international boarding school and day school forgirls. They ran a farm and guesthouse; restored the ruined Victorian Walled Gardens and theNeo-Gothic Church, and established craft and tourism enterprises.In 2010 , the School was closed and since then the Benedictine nuns have developedwelcoming thousands of visitors to their shared home.Today, Kylemore Abbey is a registered charity (CHY 18550 / CRN 20071394 ) and allincome from tourism and philanthropy funds Kylemore as a non-profit organisation.【第一次世界大戦でイーペルの修道院が破壊され、修道女たちは難民としてイングランドへ逃れました。その後ウェックスフォードを経て、最終的に1920年12月、カイルモアへ移り住みました。カイルモアにおいて修道女たちは、国際的な女子の寄宿学校および通学制の学校を設立しました。また、農場やゲストハウスの運営、荒廃していたヴィクトリア様式の囲い壁付き庭園やネオ・ゴシック様式の教会の修復、さらには手工芸や観光関連事業の立ち上げも行いました。2010年には学校を閉鎖し、それ以降は修道院を訪れる多くの来訪者を受け入れる活動に力を注いでいます。現在、カイルモア修道院は登録慈善団体(CHY 18550 / CRN 20071394)となっており、観光や寄付による収益はすべて、営利を目的としない運営のために用いられています。】Kylemore Abbey Vistor Center手前からKylemore Abbeyを見る。大分近づいて来たのであった。松の木であっただろうか!?Kylemore Abbey Vistor Center入口。Pollacapall Lough・ポラカパル湖を再び。シャトルバス停近くにあったWhite marble statue of Jesus Christ・白い大理石のキリスト像。ズームして。更に。そして眼の前にカイルモア修道院(Kylemore Abbey)。南向きに約43mもの幅広の正面をもつ建物は、ダルキー産御影石(グラニット)とボリナスロー産ライムストーンが用いられた荘厳な組み合わせ。近づいて。建物はメインブロック(2階建て)に加え、3階建て玄関部、オライル(張り出し)窓や塔屋、西翼・東翼・コートヤード部などが連結された複雑な構造が特徴。カイルモア修道院(Kylemore Abbey)の石塀、Pollacapall Lough・ポラカパル湖、そしてその奥の山々を見る。コナマーラ国立公園内の山々をズームして。中央のみ3階建て。3階部をズームして。Pollacapall Lough・ポラカパル湖の東側を見る。再び中央部を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.28
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さらにN59をClifden・クリフデンに向かって西に進む。左手に見えたのがGlendllagh Lough(グレンドラフ湖)。この名前は「谷の湖」(Glen=谷、Lough=湖)を意味すると考えられる と。Glendllagh Lough(グレンドラフ湖)周囲にはコネマラ特有の広大な湿原や低い山々が広がり、訪れる人々に静けさと雄大な風景を提供しているのであった。Lutty・ラティー方向の山々を見る。Lackavrea(ラックアブリー)が姿を表した。Gowlan West・ゴウラン・ウェストの村を通過。カトリック教会・St Joseph's Churchの尖塔が現れた。カトリック教会・St Joseph's Church。St Joseph's Churchを右に見てN59を北へと方向を変えて進む。民家の周囲の巨大な放牧場には多数の羊の姿が。眼下にガラウンバウン・ラフ湖。その奥にTully Mountain・タリー山。標高356m、その左にTully Mountain West・タリー西山。標高306m正面に見えて来たのがCurrywongaun・カリーンゴーンズームして。標高:525m。山肌が白く、石灰岩の山か?左側に見えたのが、Doughruagh South 535m。そして、Kylemore Abbey・カイルモア修道院への入口が左手に現れた。時間は11:00前。駐車場に車を駐めKylemore Abbey・カイルモア修道院の散策開始。案内図。近づいて。現在地は「You are here」。 駐車場利用案内「Kylemore AbbeyWhile visiting Kylemore, please note...・Private car park--For customers use only・Cars - parked at owners own risk・NO overnight camping・Children must be accompanied at all times on the estate・Leave no trace--Please use bins provided・No commercial photography or drone flying without prior permission」 【Kylemore Abbey Kylemore への訪問時は下記ご注意ください・ 駐車場はご来場のお客様専用・駐車は自己責任で駐車願います・車中泊やキャンプは禁止・敷地内では、お子様に必ず保護者の付き添いをお願いいたします。・ごみは持ち帰るか、設置されたゴミ箱へ・商業目的の撮影・ドローン飛行は禁止(事前許可が必要)】そしてPollacapall Lough・ポラカパル・ラフ(ポラカパル湖)越しに。湖畔に佇む映える「Kylemore Abbey・カイルモア修道院」。修道院というより、これぞ宮殿!!アイルランド屈指の観光名所とのこと。歴史と変遷① 邸宅としての誕生(1868年) ・創建者:ミッチェル・ヘンリー(Mitchell Henry) ・イギリスの裕福な政治家で実業家。亡き妻マーガレットのためにこの地に豪華な邸宅を建てた。 ・壮麗なヴィクトリアン様式の城館と、広大な敷地(湖、森、庭園)が整備された。 ・邸宅「カイルモア城」。100人もの人力と4年の歳月をかけて完成したこの城は、夫妻の愛の 象徴でしたが、完成から数年後に妻が亡くなります。その後、夫は妻を偲び、敷地内に 美しいネオゴシック様式の教会を建設した。②1902年、マンチェスター公爵に売却された③1910年、ベネディクト会の女子修道院として使われるようになった。④1920年、ベネディクト会の修道女たちがこの地を買い取り、女子の修道院お よび寄宿学校 として使用開始。⑤1923年、修道女たちは、この城を女子の寄宿学校として活用し始めた。⑥以来、カトリック教育と祈りの場として長年機能してきた(学校は2010年に閉鎖)。Kylemore Abbey(カイルモア修道院)のすぐ西に隣接するMaladrolaun Lake・マラドロラウン湖とPollacapall Lough・ポラカパル湖を繋ぐ川に架かる橋を渡る。橋の名は??Pollacapall Lough・ポラカパル湖の東岸にはカイルモア修道院があり、湖面に映る修道院と山々の姿はポストカードのような景観(写真はネットから)。300m Abbey100m Visitors Centre Tickets600m Gothic Church100m ShuttIe Bus to GardenKylemore Abbey(カイルモア修道院)の背後にそびえる山の名前は、「Duchruach(デュクルアック)」。・名前:Duchruach(アイルランド語:An Dúchríoch)・標高:約 518 メートル(1,699 フィート)・場所:Connemara National Park(コネマラ国立公園)内・特徴:Kylemore Abbey の背景に美しいシルエットを描く山で、修道院の写真によく登場する。TICKETS ENTRANCE⬅️KYLEMORE ABBEY CRAFT & DESIGN。「KYLEMORE ABBEY Welcome to Kylemore AbbeyLast Admission to the Estate and VisitorExperience at 5:00pmVictorian Walled Garden 10am - 6:00pmThe Kylemore Kitchen 10am - 5:00pmKylemore Abbey Craft & Design 10am- 6:00pmKYLEMORE ABBEY Discover the Kylemore Estate.カイルモア修道院 ― カイルモア・エステート遺産を探訪しよう現在地はここ(You are here).「Welcome to Kylemore Abbey and Victrian Walled Garden. Come and explore our beautiful woodland estate.・Children should besupervised times・Dogs on a lead welcome on estate (not inc. buildings or bus)・Limited accessibility in areas, please enquire at Visitor Centre or see kylemoreabbey.com/accessibility more details.・Leave no traceーplease use bins provided・No commercial photography or drone flying without prior permission【・お子様には常に保護者の付き添いをお願いします・犬はリードを付けていれば敷地内で歓迎します(ただし建物内およびバス内は不可)・一部の場所ではバリアフリー対応が制限されています。詳しくはビジターセンターで お尋ねいただくか、kylemoreabbey.com/accessibility をご覧ください・ゴミは残さず、設置されたゴミ箱をご利用ください・事前の許可なく商業目的の写真撮影やドローン飛行は禁止されています】①Restaurant & Gift shop②KyIemore Abbey Visitor Experience③Gothic Church④The Henry Mausoleum⑤The Garden Tea House⑥The Victorian walled Garden⑦Monastic Church近づいて。右:Visitors Centre Ticket中央:Gift shop左:Restaurant受付で頂いたガイドブック。Kylemore Abbey(カイルモア修道院)の Celtic Cross(ケルト十字架)があった。Celtic Cross(ケルト十字架)とは円環(リング)が交差部に刻まれた、アイルランド特有の石造十字架。その形状は、古代ケルトの太陽崇拝とキリスト教の十字架が融合したものとされている。通常、祈念碑・墓碑・修道院の記念物などに使用される。◾ Kylemore AbbeyのCeltic Crossの特徴建設時期:19世紀後半、カイルモア・エステートの創設者 Mitchell Henry の家族を記念して 建立されたものと考えられます。場所:カイルモア修道院の敷地内、家族の霊廟(Mausoleum) の近くにあります。 これは修道院から森の小道を少し歩いた静かな場所。材質とデザイン:石灰岩や花崗岩でできており、ケルト模様(スパイラル、編み込み模様など)の 装飾が施されています。 伝統的な円環付きのハイ・クロス(High Cross)形式。意義:ミッチェル・ヘンリーが亡き妻マーガレットへの愛と信仰の証として建てた霊廟の 記念碑的存在であり、同地のスピリチュアルな象徴とも言えます。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.27
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この日は6月2日(月)、アイルランド旅行4日目。我が部屋から、昨日見た北大西洋の沿岸にあったタンク群を見る。時間は6:18。「GALWAY駅」を出た電車が東・首都ダブリン方向に向かう。時間は6:28。写真はネットから。「GALWAY駅」は市の中心部、エア・スクエアに位置していた。ダブリン(Dublin)からゴールウェイ・GALWAYへの都市間サービスと、リムリックからゴールウェイ、アセンリーからゴールウェイへの通勤サービスの終着駅である と。駅は1851年8月1日に開業。これによりゴールウェイはミッドランド・グレート・ウェスタン鉄道の西の終点となり、ダブリンのブロードストーン駅 終点まで直通の幹線が通るようになった。19世紀が進むにつれて、コノートの鉄道網は拡大し、ゴールウェイは重要な鉄道駅となった。近隣の町アセンリーは鉄道の結節点となり、1869年にはゴールウェイからエニス、リムリック、そして南部、 1894年にはスライゴ、北部への接続が可能になった。1895年にはMGWがゴールウェイとクリフデン間の延伸路線を開通させた。次々に出発する電車。「GALWAY駅」からの路線図。この日は、カイルモア修道院(Kylemore Abbey)を訪ねる旅。ゴールウェイから身近に行けるコネマラ地方を1日かけてたっぷり観光することに。美しい湖や山脈など手付かずの自然が楽しめ、またその美しい風景からアイルランド映画の撮影が何度も行われているほどである と。3連泊の「GEATA NA CATHRACH APARTMENTS」を9:00に出発。 この日のドライブルート。アパートを出てLough Atallia・アタリア湖を右に見て進む。R338を西に進む。N6を利用してコリヴ川を渡る。そしてN59に入りGALWAYの街を出る。そしてひたすらN59で西海岸に向かい、Clifden・クリフデンを経由して北上し、Kylemore Abbey & Victorian Walled Garden・カイルモア修道院に到着するルート。右手にゴルフ場・Glenlo Abbey Golf Club(グレンロー・アビー・ゴルフ・クラブ)を見ながらN59を進む。右手に湖・Ballyquirke Lough(バリーカーク・ラフ)。モイカロウ(Moycullen)とオウター(Oughterard)の間、ゴールウェイ市の北西約11kmほどの場所湖の面積はおよそ1.2平方キロメートル、標高は約6〜10メートル水系はロス湖(Lough Corrib)へと流れ込む水系の一部である と。「Ross Lake」を右手に見ながら進む。 さらにN59をひたすら走り、Oughterard・オーターアードの「Connemara Lake Hotel」でトイレ休憩。 草原が両脇に拡がっていた。Glengowla Westの村を通過。Derryerglinna(デリーアーグリナ)の村に拡がる低い山を見る。Lough Bofin(ボフィン湖)が左手に。湖に面した丘の裾野には大きな民家が。右手の奥に見えてきたのが「Lackavrea(ラッカフリー)」。アイルランド語名:Leic Aimhréidh 「Leic」は「岩盤・石棚」、「Aimhréidh」は「でこぼこ、混乱した」と いう意味で、「不規則な岩の地」などと訳されます。標高:396メートル移動して。冬季にはこれらの湖は凍結するのであろうか?ラッカヴレア(アイルランド語:Leic Aimhréidh、険しい岩盤)は、アイルランドのゴールウェイ州にある標高396メートル(1,299フィート)の孤立した山。Lackavrea・ラッカヴレアを追う。アイルランド語名 Leic Aimhréidh(発音:レク・アヴレ)三つ星ホテル・Peacockes右手にLough Shindilla・シンディーラ湖。Mám Éan statue of St. PatrickとTeernakill South。山々を追う。Glendollagh Lough(グレンドラー・ラフ)グレンドラー湖.右手にあったのがJoyce's Craft Shop(土産物店)。「ジョイス・クラフトショップは、3世代以上にわたりジョイス家によって所有・経営されてきました。当店は、伝統工芸から現代工芸まで、アイルランドの優れた工芸品を専門としています。ジョイス家は、有名な「コネマラ・グリーン・マーブル」の採石場も所有・管理しています。当店では、自社製の大理石ジュエリーをはじめ、アイルランド製のブランケットやスローも豊富に取り揃えています。また、様々なジャンルの書籍を取り扱う書店と、アイルランド産ウールセーターの豊富なセレクションもご用意しています。ジョイス・クラフトショップでは、ここでしか販売できないユニークな工芸品を定期的に委託販売しています。」 と。ニットウェア、希少本、アンティーク、ハンドメイドジュエリー、オリジナルギフトなど、幅広い商品を取り揃えていた。そして、Joyce's Craft Shop(土産物店)の向かいにあったのがConnemara Giant像。建立年:1999年製作者:Joyce's Craft Shop(向かいの土産物店)最寄り村: RECESS(リセス)と。横から。Connemara Giant像・巨人の像の後ろにある記念碑?のようであるが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.26
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観光フェリーは海食柱(かいしょくちゅう、Sea stack)を離れて行った。この時は、海は比較的に静かであった。再び断崖の上の白い「O'Brien's Tower・オブライエンの塔」を。 「O'Brien's Tower・オブライエンの塔」は、断崖のほぼ中間点に位置する円柱状の石造りの塔で、1835年にコーネリアス・オブライエン卿によって建造された。この塔は、モハーの断崖の中間点であると同時に、最高地点でもある。展望塔「O'Brien's Tower」と海食柱「An Branán Mór・an Branaunmore、アン・ブラナン・モー」のコラボ。「O'Brien's Tower・オブライエンの塔」は地上23mの塔。・O'Brien's Towerは、訪れる紳士淑女が絶景を楽しめるように建設されたもので、アイルランド最初期の展望塔のひとつとされています。・地元の言い伝えでは、「求婚の場所」として使われることも多かったとか。「O'Brien's Tower・オブライエンの塔」の200メートル下、海上に50メートルほど離れた場所にあるのが、「An Branán Mór・an アン・ブラナン・モー」と呼ばれる高さ67メートルの壮観な Sea Stack・シー・スタック(海食柱)。「O'Brien's Tower・オブライエンの塔」をネットから。同じく高さ67mの「An Branán Mór・an Branaunmore・アン・ブラナン・モー」。フェリーはスピードを上げて。モハーの断崖(Cliffs of Moher)も見納め。そして再び座席に戻る。 Black Head Lighthouse ・ブラックヘッド灯台を見る。位置:ガルウェイ湾の南岸開設:1936年(比較的新しい灯台)特徴:白く塗られた六角形の塔に、赤い灯器(ランタン)が乗ったシンプルな構造。ネットから。現在地はここ。マリーナ・Port of Galwayの入口。Pat Rynn Engineeringのタンク群。アイルランド最大の総合エンジニアリング工場のひとつとして、石油・ガス、海洋、工業、医療、建設、農業の各分野に構造、機械、精密、一般エンジニアリング サービスを提供。移動して。そしてフェリーを降り、駐車場に徒歩にて戻る。そしてレンタル中のレンタカーにて連泊中のアパートメント・GATA NA CATHRACH APARTMENTSに戻る。時間は19:00。これがアパートメントのチェックイン機。全て各種パスワードの入力で動くシステム。部屋に戻り、直ぐに夕飯の店を探しに向かったのであった。Eglinton Street・エグリントン ストリート沿いの店の中にあった仏像。そしてこの日の夕食は、「BLAKER’S BAR」。 内部。メニュー。座席待ちで暫しワインを楽しむ。そして夕食。たっぷりと飲み食いしアパートメントへと。時間は21:57。まだまだ明るいのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.25
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観光フェリーが、観光客用に一時停止したので、カメラを持ち、席を離れ、フェリーのデッキに出て、「Cliffs Of Moher・モハーの断崖」をカメラで追ったのであった。 先端をズームして。再び「Hag's Head」が右側に。その左に「Moher Fort Site Telegraph Station」。 ズームして。「Cliffs Of Moher・モハーの断崖」の雄大な景色を。観光フェリー船の現在地はここ。そして観光フェリーは動き出した。「Cliffs of Moher・クリフス・オブ・モアー」を再び追う。延長:約8km(北のDoolinから南のHag’s Headまで)高さ:最高214m(O'Brien’s Tower付近)成り立ち:約3億年前の石炭紀に形成された層状の砂岩・頁岩の断崖観光客数:年間約150万人(アイルランド国内2位の人気)この断崖ができたといわれているのは、なんと3億2000万年前。上部石炭紀と呼ばれる時代で、この時代は多くの地域において年中あまり気温の変化がなく、温暖な気候であった と。このモハーの断崖がある地域も例外ではなく、今よりずっと温暖であった。そしてこの地域は大きな川の河口にあたり、上流からずっと流れてきた土砂が堆積して現在のような岩の層が出来上がったと言われている。この地域は大きな川の河口であったとは言え、海から見ると、断崖の上が見事に「水平」なのが不思議。ネットから航空写真を。多くの動物が崖に生息しており、その中で鳥が多く、3万羽29種に及ぶ と。特に興味深いのが隔絶された崖とゴート島(Goat Island)に集住するニシツノメドリである。またタカ、カモメ、ウミスズメ、ウ、ワタリガラス、ベニハシガラスも生息する。「ハリーポッターと謎のプリンス」の撮影地になっていることも、有名になっているきっかけのひとつになっているとのこと。このシーン!👈️リンク崖の地層は主にナムリアン期の頁岩と砂岩であり、最古の岩石は崖下で見られる。3億年前の川筋が崖下を切って走っていた と。夕暮れに赤く輝くモハーの断崖。(ネットより)この前方の海食柱(Sea stack)は、最初は断崖にすっぽり穴が空いてその先の景色が見えているとカン違いしたのであったが・・・。断崖の手前に立つ海食柱(Sea stack)なのであった。海食柱(Sea stack)とは、海によって岩盤が侵食されて形成された、急峻な斜面を持つ柱のような形状の岩、または、そのような地形である。ほとんどの海食柱は海岸の近くに存在する。海食柱は、ゆくゆくは侵食されて消滅してしまうので、海による侵食の過程の途中と見ることもできる のだと。塔の200メートル下、海上に50メートルほど離れた場所にあり、「アン・ブラナン・モー・An Branán Mor. (Branaunmore)」と呼ばれる高さ60メートルの壮観な海食柱(Sea stack)なのであった。「An Branán Mór」 はアイルランド語で「偉大な(大きな)サケ」という意味とのことで「サケに似た形をした大きな岩」を指していると考えられるとのこと。岩肌が剥き出し地層が積み重なっているのが解る場所。ズームして。モハーの断崖の内陸側のスタート地点を。ズームして。さらに。海面上の断崖もズームして。別の断層が潜り込んでいるが如くに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.24
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定刻の15:30に帰路の観光フエリーは桟橋を離れた。写真は、座席から窓越しに撮影している為、茶色っぽくなってしまった。窓ガラスの種類によっては、特定の色の光を吸収したり反射したりするため、写真の色味に影響を与えることがあるのだろう。赤線---が帰路の観光フェリーの就航ルート。帰路には、大西洋からそびえ立つ高さ約200mもの断崖絶壁が8kmにわたって連なる「破滅の崖」の意味を持つ「モハーの断崖(愛: Aillte an Mhothair、英: The Cliffs of Moher」を見る為に船を近づけてくれたのであった。Inishmore島のコミュニティ センター「Halla Ronain」の先に史跡「Inishmore lighthouse」、「Dún Eochla」が丘の上に見えた。 アラン諸島最大の島中央、ドゥン・アーラン(Dún Árann)信号塔に隣接する、1818年築の旧灯台。通称 Inishmore Lighthouseまたは Dún Árann Lighthouseと呼ばれ、1857年に廃灯となった と。史跡「Inishmore lighthouse」をネットから。史跡「The Seven Churches」。 ネットから。丘の上の民家。Inishmore島東端の半島が見えて来た。Inishmore島東端の半島の先の小さな島には灯台があった。Straw Island Lighthouse・ストロー島灯台ストロー島灯台は、アイルランド、ゴールウェイ州イニシュモア島の北東、キリアニー湾にあるストロー島(Straw Island、アイルランド語:Oileán an Tuí )で、航行の補助灯として機能している。1878年に完成したこの灯台は、19世紀にアラン諸島に建設された4つの灯台のうち最後のもの。ストロー島の就役は、キリアニー湾とキルロナン港への安全な航行のために灯台を建設しようと、地元島民が24年にわたる長いキャンペーンを展開してきた成果であった と。下記写真はネットから。Inishmaan島の西側の断崖を見る。岩場にぶつかり巨大な白波に。イニシュマーン島の民家。アラン諸島の史跡の中で最も有名な、Dún Aonghasa・ドゥン・アオンガサ。壮観なイニス・モアの端、高さ100メートルの断崖。ズームして。これも小型観光船か。イニシュマーン島の北端を見る。ズームして。アラン諸島の最東端・一番小さな島、Inisheer・イニッシアー島の史跡「O'Briens Castle」その右に「An Tur Faire (Tower Ruin)」 「O'Briens Castle」をネットから。O'Briens Castle(オブライエンズ・キャッスル)は、アイルランドのアラン諸島のイニシュモア島(Inis Oírr / Inisheer)に位置する中世の城の遺跡。かつてこの地域を支配した強力な一族、オブライエン家(O'Brien clan)によって建てられた。オブライエン城は島で最も高い地点の一つ、イニシア島の北に位置。これらもネットから。「O'Briens Castle」の右側に見えたのが「An Tur Faire (19 世紀の塔)、Tower Ruin)」 アラン諸島イニスヒア島(Inis Oírr/Inisheer)の丘の上にある、ナポレオン戦争期の見張り塔跡。建設時期:1806〜1808年頃、ナポレオン軍の侵攻に備えてイギリス政府が沿岸に設置した 信号塔のひとつ。通信方法:旗や形状物を使用した視覚的信号交換で、他島や本土と連携し早期警戒を目的とした 。廃止時期:ナポレオン敗北後の1814年以降、維持されず放置され、現在では遺構として残るのみ 。ネットから。こちらは附属の建物(ネットから)だったのであろうか?Inisheer・イニッシアー島の北側の斜面には多くの住宅が。現在の住宅と19世紀の史跡のコラボ。Inisheer・イニッシアー島の北側にはイニッシアー・エアポートがある と。Inis Oirr (Inisheer) Lighthouse・イニシィア島の灯台をズームして。ネットから。海上灯台・航路標識か?そして遠くに見えてきたのが「Cliffs Of Moher(モハーの断崖)」。 モハーの断崖はアイルランドのクレア県ドゥーリンに近いバレン南西端のリスカナーに位置する。 大西洋から聳え立つ崖の高さはハグ岬で120m、8km離れた最高地点オブライアン塔の真北で214mに達する。アイルランド中でも壮観な眺望を誇り、晴れた日にはゴールウェイ湾に浮かぶアラン諸島やコネマラの谷や丘が見られる。「Hag's Head」が前方に。その後ろに「Moher Fort Site Telegraph Station」 「Hag's Head(ハグズ・ヘッド)」の意味は、直訳すると、「老婆の頭(魔女の頭」と。 「Hag's Head・ハグズ・ヘッド」は、アイルランド、クレア州にあるモハーの断崖の最南端に付けられた名前。この地の断崖は、海を見つめる女性の頭のような珍しい岩層を形成していると。ここからは、断崖の大部分を見渡す絶好のロケーションであると。「Hag's Head・ハグズ・ヘッド」にまつわる有名な伝説「MAL(マル)の物語」があると。それは「マール(Mal)」という名の老婆と、アイルランドの英雄「クー・フーリン(Cú Chulainn)」にまつわる話。あらすじ:老女マール(Mal)は、アイルランドの英雄・伝説の戦士クー・フーリンに恋をします。クー・フーリンはその愛に応えることなく、崖づたいに彼女を逃れます。マールは彼を執拗に追って、崖の上を飛び移るようにしてついて行きます。最後にマールは、ジャンプに失敗して崖から転落し、海に沈んでしまいました。その転落した場所が、「Hag’s Head」と呼ばれるようになったと。ネットから。陸地側からの写真もネットから。「Moher Fort Site Telegraph Station」。 「Moher Fort Site Telegraph Station(ムーア砦跡 電信塔)」は、アイルランド西部、クラウス県のモハー崖(Cliffs of Moher)の南端、Hag’s Head(ハグズ・ヘッド)に立つ、ナポレオン戦争期の歴史的シグナル塔遺構。元は古代のプロミナトリ砦「Moher(モハー)」が立っていた場所で、少なくとも紀元前1世紀まで遡る。 1780年頃まで砦があったが、1808年に解体され、その石材を用いて新たにナポレオン戦争中の見張り・通信用の信号塔(telegraph/watchtower)が建設された 。これは、フランスからの侵攻に備えた沿岸防衛ラインの一部で、旗や煙による視覚信号を用いて連絡・監視を行った施設だ と 。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.23
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美しい「Kilmurvey Beach」の前を通過して、帰路は海岸線の道・The Low Roadを東に進む。海岸線の道・The Low Road沿いにも石を積み上げた塀が至る所に。しかし野菜等の畑ではなく、牧草が生い茂るだけ。海と反対の右側も同様。北大西洋の海岸線を見る。辛うじて対岸の島々の姿も。ひたすら石積みの塀が。陽射しが眩しかった。Seal・ハイイロアラザシの展望台 と。この辺りは、Seal Colony Viewpoint・ハイイロアラザシのコロニーの景勝地であると。白波が直線状に。御者のガイドが前方の海面に動く動物がいると。Seal・ハイイロアラザシを発見。Seal・ハイイロアラザシ。遠浅の海岸の先には、Aerfort Chonamara・アイル・アラン・コナマーラ空港のある陸地がはっきりと見えて来た。白波が!!往路と同じように帰路も観光フェリーは揺れるのであろうか?と。真っ白な海鳥の姿も。St Ciaran's Church ・聖キアラン教会。6 世紀の聖キアランの修道院跡 であると。Holy Well・セント・キアランの井戸。Dara Molloy Wedding Blessings・ダラ・モロイの結婚祝福場。Dara Molloy(Gaelic 名は Dara Ó Maoildhia)は、アラン諸島(アイルランド西岸・イニシュモア島)を拠点とする ケルトの司祭・僧侶 で、約30年にわたりウェディング・ブレッシングと結婚式を執り行っている独立祝辞者であると。この場所が聖所の祭壇であり、誓いと祝福がこの場所で行われるようだ。ネットから。アイルランド銀行・Bank of Ireland。Church of St Thomas建築時期:1845〜1855年頃に建立された、珍しいプロテスタント (アングリカン/Church of Ireland)教会。 目的:アラン諸島で暮らした英国系、特にコモンウェルス時代の兵士や沿岸警備隊ら プロテスタント・コミュニティのために作られた 。衰退と廃墟化:20世紀初頭には信者がわずか数十人に減少し、1960年代には屋根を取り外され 現在は由緒ある遺構として残っているとのこと 。Cottage Rd・コテージ・ロードの両側には民家の姿が増えて来た。そして観光馬車の終点のKilronan(キルロナン)村の「ALAN SWEATER MARKET」前に到着。馬車を降りて、港に停泊する15:30出発の帰路の観光フェリーを確認。「ケルト十字架(Celtic Cross)」Kilronan桟橋近く、Inis Mórの中心地Cill Rónáin(Kilronan村)に建つ立派な「ケルト十字架(Celtic Cross)」は、島の入口で出迎えてくれる歴史的モニュメント。1893年に建立された、アライン教区司祭マイケル・オドノヒュー神父を偲んで建てられた、彫刻が施された石灰岩製の自立型ケルト十字架。柱頭には装飾のないパネルが取り付けられ、十字架の頭部と上部を縁取るようにモールディングが施されている。屋根型の頂部にはスレートまたはシングルのディテールが施され、丸みを帯びた棟が設けられ、切石の台座に支えられている。台座はフレア状の側面にパネルが取り付けられ、南側の台座には白い大理石の銘板が埋め込まれている。英語で碑文が刻まれている。台座は切石の台座で、上面は面取りされており、さらに石灰岩の台座が重ねられている。十字架は村の南東端、港の近くに立っている。この十字架は、1916年の愛国者パトリック・ピアースの家族であるダブリンのピアースによって彫刻されました。港に近いキル・ロナインという目立つ場所に設置されているため、アラインを訪れる人々が最初に目にする物の一つとなっています。ケルト様式の環状十字架が採用されていることは、初期アイルランドのキリスト教との繋がりを示唆しており、正面の精巧な彫刻装飾はこの連続性というテーマを継承し、芸術的に興味深い記念碑となっている と。観光SPOT案内板。こちらの面はゲール語で書かれていた。南国の如き色合いのアイルランド料理店「Bayview Restaurant」。緯度は約 53.1247° N と樺太とほぼ同じ緯度。キルロナン村の桟橋のすぐそばに広がる白い砂浜。この石彫は、地元の生活・歴史・伝統文化を象徴的に描いた記念レリーフであろう。上部:・帆船/帆柱(左上):アラン島の航海・漁業文化を象徴。 ・木や自然のモチーフ(右上):厳しい自然環境とその中での生活。・伝統的なハープや円状模様:アイルランドの音楽・装飾様式。中央〜下部:・石造りの建造物(中央左):おそらく島の古代遺跡(Dún Aonghasa など)。・カラ鉤(伝統的な舟)と人物(中央〜下):カラ鉤(currach)を運ぶ男性、 漁の準備をする姿・家族・集団労働(下部):共同作業や家族生活を表す人物群像。Árainn・アランはアイルランド西海岸沖のゴールウェイ県にある島嶼群のこと。Inishmore・イニシュモア島。地図に近づいて。写真の手前左は**Dún Dúchathair(ドゥン・ドゥハハー)👈️リンクは、アイルランド西岸・アラン諸島の最大の島(イニシュモア)にある先史時代の石造りの要塞(fort)。英語では “The Black Fort(黒い砦)”と呼ばれている。「The sustainable management of the farmed habitats of the Aran islands.」 (アラン諸島の農業景観の持続可能な管理)とは、アイルランド西岸のアラン諸島(Inis Mór, Inis Meáin, Inis Oírr)に広がる独自の農業環境と自然生態系を、次世代に残すために調和のとれた方法で保全・活用しようとする取り組みを指す。「The AranLIFE project is working with farmers on the three Aran islands to devetop and promote traditional and sustainable farming practices to benefit the islands' naturalenvironment.It will operate from 2014-2017 and is funded through the EU LIFE Nature Fund(75% LIFE funding; 25% lrish project partners).The project focuses on the farmingpractices that created the iconic Aran landscape and led to the designation of the islands' Natura 2000 sites(sites to protect habitats and species of European importance).It willharness centuries of local farming knowledge and experience with the scientific expertiseof project partners to overcome the challenges of island farming and to improve the conservation status of the Natural sites.」【アランLIFEプロジェクトは、アラン諸島の3つの島(Inis Mór、Inis Meáin、Inis Oírr)で農業を営む農家と協力し、伝統的かつ持続可能な農業手法を発展・推進することを目的としています。これにより、島の自然環境に利益をもたらすことを目指しています。このプロジェクトは2014年から2017年まで運営され、EUのLIFEネイチャー基金から資金提供を受けています(資金の75%がLIFE、25%がアイルランド国内の協力機関による拠出)。プロジェクトの焦点は、アラン諸島の象徴的な景観を形作り、また島々が**Natura 2000(ナチュラ2000)**に指定される契機となった農業手法にあります。Natura 2000とは、ヨーロッパ規模で重要な生息地や種を保護するための地域指定制度です。このプロジェクトでは、島に何世紀も伝わる農業の知恵と経験を活用し、プロジェクト協力者の科学的専門知識と組み合わせることで、島での農業が直面する課題を克服し、Natura 2000指定地域の保全状況を改善することを目指しています。】「The AranLIFE project will tackle challenges such as scrub encroachment, grazing management,shortage of water resources and access issues through the followingproject measures:」 【アランLIFEプロジェクトは、以下の課題に取り組みます:・雑木の侵入(scrub encroachment)・放牧の管理(grazing management)・水資源の不足(shortage of water resources)・土地へのアクセスの問題(access issues)これらの課題に対して、以下のプロジェクト措置(project measures)を通じて対処していきます:】西側から突き出した防波堤。再び帰路に乗船するの観光フェリーを見る。再び、キルロナン村の桟橋のすぐそばに広がる白い砂浜を。白い砂浜を見ながら桟橋に向かって進む。防波堤から、鮮やかに色塗りされた、ピンクの店「Carraig Donn」と明るい青緑の店「アイルランド料理店「Bayview Restaurant」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.22
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ホテル・Kilmurvey Houseイニシュモア島の西端にある、18世紀の石造りの家を改装した素朴なB&B。本州へのアクセスに便利なキルロナンフェリーターミナルから7.4 km。クラシックな内装の客室には専用バスルームを完備。一部の客室には応接エリアがある。伝統的なダイニングルームで朝食ビュッフェを無料で提供。ゲストラウンジ、季節限定の庭園も利用可能。ズームして。廻り込んで。馬車を引く馬を見る家族連れの観光客。ブリンカーを付けた馬に近づいて。ブリンカーは「遮眼革」ともいい、視界の一部を直接遮ることにより馬の意識を競走や調教に集中させ、周囲からの影響に惑わされずに走らせるために用いられるもの。この場所で、暫くの自由時間。馬車の運転手・「御者(ぎょしゃ)」はこの近くに自宅があるようで、帰宅して昼食をとると我々もレストラン・Teach Nan Phaidiで昼食を。レストランの壁には花が美しく飾られていた。そしてこの日の私の昼食。店内のイルミネーション。昼食を終わり、集合時間13:30まで暫しの散策。右手にアイスクリーム屋・PAUDY’S.The Irish Black Butter ice creamは美味。旅友4人は別々に行動。放牧牛を見る。家畜については、山羊は多くの家で飼われ経済上重要なもので,ミルクを取り皮を売る。牛は牛舎では飼っていないようだ。夏冬ともに舍外で飼う。女性や若者がミルクの缶をもって牛の放牧地へと通っているようだ。乳牛は1頭当たり1 , 800リットルを超えることがない。家畜は初夏に立つ市が一番多く出荷され, 9月28日聖ミカエル祭でも市が立つと。ロバは運搬用で,ドンキーバスケットの中に海からの海草を,収穫時には馬鈴薯やライ麦を運ぶのに使っているとのこと。三叉路にあったこの石碑は観光ルート案内標柱の一つ。ケルト文化に特有のシンボル「トリスケル(三重螺旋)」または「渦巻き文様」をモチーフにしており、古代ケルトの霊性・自然・永続性などを象徴。このデザインはアラン諸島の歴史的・文化的遺産との結びつきを表すもので、観光案内の一環として各地に設置されているとのことだが、他の場所では見かけなかったが!?。Dún Aonghasa・ドゥーン・エンガス方向を。3000年以上前に造られたドゥーン・エンガスは、アイルランド語で「エンガスの砦」を意味するアラン諸島で最大の先史時代の石の砦。発掘調査により、先史時代の金属加工物、家、墓などが見つかっているのだ。徒歩で20分程の場所にあったが訪ねることができなかったDún Aonghasa・ドゥーン・エンガスをネットから。築造時期:おおよそ紀元前1100年〜紀元前500年の鉄器時代。名前の由来:「ドゥーン・アングス」は伝説上の戦士 Aonghus(アングス) の名にちなん でいます。アングスは神話的な英雄で、トゥアハ・デ・ダナーン族の一員とも されます。使用目的:防御施設、儀式の場、王族の権威誇示など諸説あり。 アイルランド西部、ゴールウェイ湾に浮かぶアラン諸島のイニシュモア島 (Inis Mór)の西端に位置。絶壁の上、海から70〜90メートルの断崖絶壁に 築かれており、まるで大西洋へせり出すように立っているのであった。TEAMPALL NA NAOMH(CHURCH OF THE SAINTS') TEAMPALL MAC DUACH 案内板。TEAMPALL NA NAOMH(The church of the Saints) Kilmurvey地区にあるTemple na Naomh(Teampall na Naomh)、すなわち「諸聖人の教会・Church of Saints」。ロマネスク様式の門(12世紀頃)、修道士の隠遁所だった可能性もある小教会、アラン諸島における古代キリスト教信仰の重要な拠点であったと。引き返すと、左側にあったのが、Temple Mac Duach・テンプル・マク・ドゥア教会。11世紀に建てられたこの教会は、聖エアナ教会の著名な弟子コルマン・マク・ドゥアックに捧げられている。伝説によると、かつてスコットランド人が戸口の上の巨大なまぐさを石臼にしようと取り外そうとしたが、教会側はそれを拒み、彼の腕は石積みに挟まってしまった。彼は悪意を告白することでようやく解放された。北壁の外側、西端近くには、馬と思われる謎めいた彫刻がある。近くには十字架が刻まれた石がいくつかある。道路の向こう側の畑には、「聖人の神殿」として知られる小さな中世の建物が。コーヒーショップ・喫茶店 BLATHIN 案内板。この歴史を感じさせる建物は?Kilmurvey地区にある廃屋となったかつての大邸宅?ズームして。スレート屋根・煙突4基:典型的な19世紀〜20世紀初頭のアイルランドの農村邸宅様式。石造2階建て:地元の石灰岩(リムストーン)を使用していたが。Teampall Mac Duach(マクドゥアック神殿)。7世紀に聖コルマン・マク・デュアク自身が創設。・建築様式:初期キリスト教の石造礼拝堂(5〜9世紀頃が起源とされる)・構造:単室構造の小教会、切妻屋根を持つ石積みの壁、狭い出入口・特徴的な遺物:写真右に見えるような「刻まれた十字架を伴う立石(High Crossの祖型)」が 敷地内に立つ・国の保護下:現在はアイルランド公共事業庁(OPW)が管理する国定史跡 と。Teampall MiCh Duach.11世紀に建てられたこの教会は、聖エアナ教会の著名な弟子コルマン・マク・ドゥアックに捧げられています。伝説によると、かつてスコットランド人が戸口の上の巨大な石を石臼にしようと取り外そうとしましたが、教会側はそれを拒み、彼の腕は石積みに挟まってしまいました。彼は悪意を告白することでようやく解放されました。北壁の外側、西端近くには、馬と思われる謎めいた彫刻があります。近くには十字架が刻まれた石がいくつかあります。道路の向こう側の畑には、「聖人の神殿」として知られる小さな中世の建物があります。我々の馬車。休憩場所の周りには人気のカフェ兼土産物屋が並ぶんでいた。伝統的な茅葺き屋根の白壁の家が並ぶTeach Nan Phaidi(テック・ナン・ファーディ)。移動して。建物の歴史・由来築年数:19世紀初頭(1800年代)とされる伝統的なアラン諸島の農家建築様式:アイルランド西部の典型的な白漆喰の石造り+茅葺き屋根名前の由来:「Pháidí(ファーディ)」という地元の男性の名前にちなんだ伝統的な呼び名。 「Teach」はアイルランド語で「家」「コテージ」。用途の変遷:元は農家、のちに休業を経て、現在はカフェ+土産物屋として営業 と。右:工芸品店・Lia Árann。Lia Árann(リア・アラン)**は、イニシュモア島(Inis Mór)にある伝統的なアラン・セーターや工芸品、ギフトを販売するショップ&カフェ複合施設で、観光客に非常に人気のある工芸品店であった。白い漆喰壁、茅葺き屋根(アイリッシュ・コテージ風)で、壁の装飾には写真のようなケルト戦士風のアイコンが描かれており、Lia Árann のトレードマークになっていた。このThe Celts printはWoman Warrior・女性戦士ケープまたはマントを羽織ったような装いで、威厳のある立ち姿。身に着けている装飾は戦士の要素を含みながらも、力強さと優雅さを併せ持つ雰囲気が。手に持つ剣は「防御者」または「守護者」としての象徴。渦巻き模様(スパイラル)は、古代ケルト美術における女性的な再生や自然の力とも関わる と。人物の下部にある三重の渦巻き文様(トリスケル)は、ケルト文化において非常に重要なシンボル。・「生命・死・再生」・「過去・現在・未来」・または「地・水・空気」の象徴など、循環性や力の三位一体を表すのだ と。An Tuirne – ARAN SWEATERS。「An Tuirne」(アントゥルネ) はアイルランド語で「糸車」を意味し、編み物・織物に由来しているのだと。つまり「糸車:アランセーターの店」という感じ。右:工芸品店・Lia Árann。左:The CeltsARAN SWEATERブランドの定番商品であるアランセーター。落ち着いたなシルエット。1968年創業したアイルランドで最も古く最も有名な、上質な100%メリノウールを使用しているニットメーカーで、チクチク感も少なくソフトな着心地であると。こちらにも多くの観光客が食事を楽しんでいた。コーヒーショップ・喫茶店 BLATHIN。断崖の絵画。2頭引きの馬車。このTシャツのThe Celts printもWoman Warrior・女性戦士?近づいて。仮面のような顔の表現は、古代ケルトの戦士や神々の神秘性を強調するもので、正体不明の英雄像を象徴。杖(または槍)のような武器は先端の形状からすると、これは槍または装飾された儀式用の杖!?。ケルト神話ではケルヌンノスやモリガンなどが儀礼的な武器を携えることがある と。編み込みの髪(長髪)は、ケルト民族では髪型が身分や力の象徴であり、この長く編み込まれた髪は威厳と戦士の誇りを示すもの と。そして集合時間の13:30になり、帰路に。旅友は皆、PUNCTUALなのであった。前方に美しいKilmurvey Beach(キルマーベイ・ブルーフラッグ・ビーチ)が拡がっていた。キルマーヴィー・ブルーフラッグ・ビーチは、人気の村キルマーヴィーにある美しい白砂のビーチ。イニシュモア島で唯一のブルーフラッグ認定ビーチで、入り江に囲まれた静かな場所に位置していた。水は透き通っていて、とても魅力的で爽快なので、晴れた日に数時間過ごすのに最適な場所であろう。ブルーフラッグは、国際環境認証の一つで、ビーチやマリーナ、観光船舶などを対象に、水質、環境教育、安全性などの基準を満たしたことを示すもの。日本では、由比ガ浜海水浴場や若狭和田ビーチなどが取得している と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.21
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Kilmurvey Beachの沖が眼前に。沖にはLettermullan・レターマラン方向の陸地が微かに見えた。ズームして。再びKilmurvey Beach方向を。白壁の民家の先がKilmurvey Beach。Teampall an Ceathrar Álainn (The Church of the Four Beauties)。「四人の聖者の教会」と。ズームして。両端に三角の切妻壁(gables)がある屋根は失われているが、壁面は良好に残存し周囲は低い石垣に囲まれていた。伝承によると、この地に埋葬された4人の聖人、または美徳ある兄弟を指すと。 「四人の美しき者」伝説がると。この教会の最大の魅力は、名前の由来となった「四人の美しき聖人たち(Ceathrar Álainn)」に関する伝承。伝説によれば、4人の兄弟がこの地に住んでおり、彼らは敬虔で、知恵に富み、心身ともに優れた人物だったと。彼らは世俗から離れてこの地に修道的な生活を営み、やがて殉教したとも、自然の死を遂げたとも言われていると。死後にこの場所に埋葬され、奇跡が起きたという言い伝えがある。地元の人々は彼らを「四人の美徳者(the four virtues)」として崇敬し、この教会を巡礼の地としたのだと。右急カーブにさしかかる。泉が現れた。近づいて。Tobar an Cheathrair Álainn(四聖人の井戸)と。この井戸も教会と同様、四人の聖人(伝説的な兄弟)に捧げられたとされており、治癒の力がある聖水として地元の人々に崇められて来た と。岩壁の下に。この泉の水は奇跡の癒しの力があるとされており、古来から多くの巡礼者が訪れてきた。特に「目の病気」や「皮膚疾患」に効くとされており、信仰を持って水をすくい、顔や患部を洗う人がいるのだと。泉の中に小さな奉納品(十字架、石、布など)を置く習慣もある と。見下ろして。アイルランドの多くの聖井戸と同様に、ここでも「巡礼の道行(Turas)」が行われのだと。・聖井戸の前で祈るまたは周りを時計回りに3回歩きながら祈りを捧げる。・石を積んだり、聖水を持ち帰ったりする。・井戸の水を飲んだり、手足を浸したりすることで「四人の聖人」から加護が得られると 信じられていた。古代からこの島の大切な場所。風雪に耐えて。共学校・Coláiste Ó Direáinコライステ・オ・ディレインは、アイルランドの若者に楽しくアクティブな方法でアイルランド語を教えることを目的として、1984年に設立されたゴールウェイ州にあるアイルランド語サマーカレッジです。ゴールウェイ州アラン諸島の美しいイニス・モア島で、専門的に運営される3週間のコースを夏季に提供しています。移動して。「Teampall an Cheathrar Álainn(四聖人の教会)」跡の近くに立つ「キリスト磔刑像」。十字架に架けられたイエスの姿を表現していた。Teampall an Cheathrar Álainn(四聖人の教会)とTobar an Cheathrar Álainn(四聖人の井戸)とともに、一体となった聖地巡礼の場を構成していたのであった。正面から。坂道を下る。左奥に断崖・Port Bhéal an Dúinが見えた。ズームして。Kilmurvey Beachに向かってさらに下る。青いKilmurvey Beachの姿。断崖方向を。それにしても、野菜栽培等畑になっている場所がないのであった。アラン諸島はアイルランドで最も不毛の地域として残されたところで,過去には森林が茂り,土地生産力も高かったと想像されるが,木がなくなったことは,降水量の保持に欠け,強い風と石灰岩の風化を進めさせたに違いない。その結果畑の開墾において他地域とは異なる方法にたよらざるを得ないであろう。アランでは適当な平らにちかい場所を先ず選ぶのであろう。その上の土壌は薄くて手で携むことができない程薄い。風で吹き飛んでってしまったからであろう。畑とするには,地表面ならぬ石灰岩の表面から大きな石を取り除き,あるものは砕いて平坦に近くなるようにし大きな割れ目には小石をつめて,風よけと家畜の柵のかわりによけた石を境に積みあげる。次に海岸から海草を運ぶ,さらにその上に良い上を選んで運び覆う(客土する)。すると断面は基盤は石灰岩,その上に海草,砂,海草,土という順になる。この様な客土を容易に入手出来ない土地の状況、海岸線が近いことからの塩害等で、葉物野菜の栽培は厳しいのであろう。何とか馬鈴薯の栽培が辛うじて行えるようであった。よって、キャベツ、レタス、玉ねぎ等は自宅の周りの狭い場所で、辛うじて自宅用にのみ、栽培されているようであった。前方にCemetery・墓地。Old celtic cemetery with crosses・古代ケルトの十字架墓地。Kilmurvey Beachからの上り坂を自転車で上る集団が我々の馬車を追う。私のカメラに手を振って。石積みの塀の下で犬も迎えてくれた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.20
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そして、この日はアイルランド3日目・6月2日(月)。早朝に起床し部屋から北大西洋方向を見る。時間は6:00。海岸沿いのタンク群を見る。3日目のこの日は、アラン諸島の一つ、イニシュモア島を観光フェリーで訪ねる旅の日。アパ-トメントから船の出るGALWAY港に向かってレンタカーで進む。前方にLough Ataria・アタリア湖が姿を表した。大西洋岸のゴールウェイ湾の先に浮かぶアラン諸島は、まさにケルト文化の中心。アイルランド語=ゲール語が日常語として使われている地域だ。アラン諸島はゴールウェイ県に属するが、クレア県のバレンと同じ石灰岩の地が広がっている。先史時代や初期キリスト教時代の古代遣跡が多く、アイルランドで最も人気のある観光地となった。ケルト人がアラン諸島に渡ってきたときにはすでに先住民族のモニュメントがあったという。ケルト人もこの遺跡に新たな石を積み現在の遣跡群となった。アランセーターの故郷としても知られ、セーターの文様「トレリス」は石の壁の風景を写したものといわれる。さまざまなデザインには幸運や不滅などの意味があり、とても興味深いのであった。ガードの上に列車の姿があった。GALWAY駅はダブリンからゴールウェイへの都市間サービスと、リムリックからゴールウェイ、アセンリーからゴールウェイへの通勤サービスの終着駅となっているとのこと。船の出港する岸壁近くの駐車場を探すのに手間取ったのであったが。前方にマリーナ・Port of Galwayの建物が確認出来たのであった。右側には、この日に利用するアラン諸島の一つ、イニシュモア島に向かうフェリーの姿が。「Have you completed a ’Registration o fPassengers Sailing Form'?Passengers must complete this form before boarding the ferry.Scan the QR Code or visit aranislandferries. com/ssi-passenger-registration for moreinformation」 【乗船者登録フォーム」は記入済みですか?フェリーに乗船する前に、このフォームの記入が必要です。QRコードをスキャンするか、aranislandferries.com/ssi-passenger-registration にアクセスして詳細をご確認ください。】と。チケットのオンラインでの手配、乗船名簿の提出等は全て旅友Yさんがやってくれたのであった。「EーTICKETSIf you have booked your ticket on our website www.aranishlandferries.com you will have received a confirmation email containing your ticket. See below how to access this and go straight the boarding gate where the crew will scan your tickets.If you have booked your ticket VIATOR,GET MY GUIDE or any AGENT please proceed to the 0ffice.」 【Eチケットについて当社のウェブサイト("http://www.aranislandferries.com">www.aranislandferries.com)でチケットを予約された方は、チケットが記載された確認メールを受け取っているはずです。以下の手順でチケットにアクセスし、そのまま乗船ゲートへお進みください。スタッフがチケットをスキャンいたします。VIATOR,GET MY GUIDE、またはその他の代理店を通じてチケットを予約された方は、オフィスまでお越しください。】アラン諸島はアイルランドのゴルウェイ湾にあるイニシモア(lnishmore),イニシマン(lnishmaan),イニシヤ(Isheer)の三島からなり,住民はおもにゲール語(アイルランド語)を話すことで有名である。アランという名はアイリッシュ語のAraに由来し,その意味はKidney腎臓で,中の島のイニシモア島が似ているところから名付けられた。またArd-Thuinn「波の高いところ」という意味ともいわれる。北緯53度,西経9度に位置し,イニシモア島は30.9km2を,イニシマン島9.1km2 ,イニシア島1.6 km2,島の人口は800 , 290 , 275人でそれぞれ人口の小さな島の集まりである。開門を待つ乗客の姿が増えて来た。駐車場はここが便利であったが!?きちんと並ぶ乗客。◯国人とは異なるのであった。そして9時になり漸く開門。乗船する方々の姿を。次々とフェリーに向かう乗客の姿が。乗船して自由席の座席のやや前方、右側に陣取る。窓側を陣取って乗船する方々の姿を窓越しに。窓の関係で写真の色が茶色っぽくなってしまたが・・・。紫外線防止対策?そして9:30になりほぼ満席での出港。フェリーの写真をネットから。10分後にヨットの姿を。暫くは波静かであったが。外海に出る。GALWAYの街並みを追う。マトン島・Mutton islandの中にあるGALWAYの下水処理場・Galway Wastewater Treatment Plant.マトン島はアイルランドのゴールウェイ市の沖合約1kmに位置する小さな島で、土手道で本土とつながっている。ここには下水処理場と灯台がある。島には定住者はおらず、通常は下水処理場で働く人だけが島を訪れる と。Google mapから。島には下水処理場のみがあるようだ。この後、風が強くなり、波も大きくなり、フェリーは前後左右に大きく揺れ続けたのであった。多くの乗客が、揺れの少ない後方に移動したり、乗員が配ったビニール袋を手に苦しんでいたのであった。私も初体験の大きな揺れなのであった。イニシュモア島船着場近くまでなんとか辿り着いたのであった。そして下船。フェリーを振り返る。イニシュモア島船着場の西側の街並み。原色のカラフルな建物の姿が。イニシュモア島の現在の人口は約800人。アラン諸島の中で最も大きな島であり、アイルランドの文化や自然が色濃く残る場所。イニシュモア島は、アイルランド西部のゴールウェイ湾に浮かぶアラン諸島の一つです。面積は約31平方キロメートルで、周囲を石垣で囲まれた畑や、古代遺跡などが見られます。旅友Hさんを記念撮影。イニシュモア島船着場の先の海岸をみる。フェリーから下船し、観光に向かう乗客たち。そして、4人で観光馬車に乗りイニシュモア島観光をすることに。観光馬車は幸い、我々4人の貸し切り、Coachman・御者(ぎょしゃ)はこの島出身の30歳前後の青年。周囲を石垣で囲まれた牧草地や石造りの家を見ながら進む。前方にあったのがレストラン「Joe Watty's Pub & Seafood Bar」。 アイルランドの国旗は、緑、白、オレンジの縦三色旗。緑色はカトリック教徒、オレンジ色はプロテスタント教徒を表し、白色は両者の調和と平和を象徴しているのだと。具体的には以下の通り。緑色:アイルランドの先住民族であるケルト系住民、特にカトリック教徒を象徴。オレンジ色:アイルランドに渡ってきたプロテスタント教徒、特にウィリアム・オブ・オレンジを支持する人々を象徴。白色:カトリック教徒とプロテスタント教徒の間の平和と調和を表している.この国旗は、1922年にアイルランド自由国の国旗として採用され、1937年にアイルランド共和国憲法で正式に国旗として定められたのだ と。その他にも2種類の旗が掲げられていた。グレートブリテン及びアイルランド連合王国の旗。アイルランド領主(1386-1541)旗。『グレートブリテン及び北アイルランド連合王国』というのが、私達が普段「イギリス」と呼んでいる国の正式名称だ と。賢い馬!!見事に石灰岩を積み上げた石塀が続く。自転車での移動という選択肢もあったが、坂道が多く観光馬車が大正解なのであった。石塀に囲まれた場所は牧草地が殆どで野菜畑等は全く見かけなかったのであった。An Bothar Mor・アン・ボサー・モルを進む。前方には大西洋が。左手にあったのが【地域看護センター】。医療や福祉に関わる地域密着型のケア施設であろう。「Ionad Altranais Pobail Community Nursing Unit」【地域看護センター】馬車上から石碑を。十字架の載る石碑・「Oghil(オーギル)」墓地。古代のケルト系墓所(Celtic cemetery)で、特にアラン諸島のOghil Graveyardと呼ばれる場所の一画 と。1811年頃に建立された、道路脇に設置された石灰岩の独立型慰霊碑。1811年に亡くなったブリジット・デレーンと、1868年に亡くなった娘のジュリア・デレーンに捧げられていると。粗削りのコーピングが施された石積みの台座の上には、縁取りのある十字形が置かれ、さらに上面にも彫刻が施されていた。正面には、石灰岩の銘板が2段に並んで配置され、両方の銘板の上部の角には太陽光線の1/4弧が描かれていた。上部の銘板にも十字架が刻まれており、下部にはIHSのモチーフ(IHSは、イエス・キリストを表すキリスト教のシンボル)と、縁にV字型のディテールが施された円の中に十字架が刻まれ、側面と下部には植物の装飾が施されているのであった。史跡・Oughill lighthouse。イニシュモア灯台(または ドゥン・アラン灯台)は、アイルランド、ゴールウェイ州にあるアラン諸島最大の島、イニシュモア島の最高地点に位置する、現在は廃止された灯台。19世紀にアラン諸島に建設された一連の灯台の中で最初に建てられたものでしたが、立地条件が悪く、最終的にイニシア灯台とイーラ灯台に置き換えられた。また、この灯台の廃止に伴い、ストロー島にも別の灯台が建設された と。ネットからの写真を以下2枚に。新旧の住宅が並ぶ。馬くんも頑張ってくれました。観光用バンも馬車の通過を待ってくれました。左手にあったのがカトリック教会・Eochail Church・エオチャイル教会。アイルランドにある2180のカトリック教会の一つ。住所はUnnamed Road, Oghil, Co. Galway, Ireland。ウェブサイトはtuamarchdiocese.org と。1833年に建立された独立型のローマカトリック教会。4スパンの身廊、正面にポーチ、東側には近年建てられた聖具室とボイラー室を有する。身廊、ポーチ、聖具室は傾斜したスレート屋根、ボイラー室は平らなフェルト屋根。壁は塗り壁で、台座は塗装されている。東側の切妻とポーチには石灰岩の十字形の頂華が飾られている。西側の切妻には石灰岩の鐘楼があり、石灰岩の十字形の頂華とブロンズの鐘が飾られている。ポーチには名前と日付が刻まれた銘板があり、上部には「IHS」の銘板がある。長壁には丸窓の二重採光色ガラス窓があり、後面の東側半分にのみ2つの窓がある。ポーチと東側の切妻にも丸窓がある。ポーチと聖具室には四角い出入り口があり、木製の扉があり、聖具室は部分的にガラス張りである。内部は西端まで木製のギャラリーがあり、面取りされた木製の支柱が備え付けられています。彫刻が施された木製の座席と十字架の道行きが置かれています。教会の北側、道路側には庭園があり、コンクリートと石灰岩の階段とエプロンで建物にアクセスできます。両側にはレンダリングされた壁があり、塗装された石灰岩の砕石壁に設置された正方形のレンダリングされた支柱の間には、道路に通じる二重扉の金属製の門があった。白馬を放牧中。比較的新しい民家。北大西洋を背景に、こちらは歴史を感じさせる民家。現在は空家か? ・・・もどる ・・・つづく・・・
2025.07.19
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Athloneにあった「Church of Saints Peter & Paul」を後にして、この日の宿泊地であり西海岸にあるGALWAY(ゴールウェー)に向かって進む。高速道路M6をひたすら西に向かう。5月31日(金)・平日でもあり、高速道路は比較的空いていた。約85kmの道程を進んだが、ここでもGPS電波が弱くスマホのナビは何度となく、現在地情報が欠落してしまったのであった。よってナビ担当の私は、車窓の風景を楽しむ余裕はなく、写真はほとんど撮れなかったのであった。高速道路M6を西へと。天気がめまぐるしく変わるのであった。そしてGalway・ゴールウェーにあったこの日から2連泊の「GEATA NA CATHRACH APARTMENTS」👈️リンクに到着。 無人のアパートメントスタイルの宿泊施設。ネットで申し込み、アパートの鍵として機能するスマートフォン用アプリのダウンロードを事前に行っておく。入口でネットから入手したパスワードを入力しドアを開けてアパート内部へ。内部端末で部屋のカードキーを入手し、部屋に入るシステム。ベッドルーム2室、リビングルーム、設備の整ったキッチン(冷蔵庫、コーヒーメーカー付)、バスルーム(シャワー、無料バスアメニティ付)2室が備わるアパートメント。バスルームにはバスタブ、ヘアドライヤーが備わっていた。また、タオルとベッドリネンを用意されていた。部屋からの眺望。北大西洋の姿が確認できた。「Galway」駅から徒歩で5分ほどの場所。 部屋のベッド。壁の絵画。リビングルーム。設備の整ったキッチン。バスルーム。そしてしばし休憩の後は、夕食を目的に、駅前に向かって歩く。この時期の日没は22時前後と、行動できる1日が長いのであった。「Eyre Square・エアスクエアー」内にあった「クインセンティニアル ファウンテン(Quincentennial Fountain )」。1984年に街の自治が始まってから500年の記念としてつくられたモニュメントで、この地域で歴史的に使用されていた伝統的なフッカーボートを模した美しい記念碑が目に入ります エア広場は、正式にはジョン・F・ケネディ記念公園として知られ、ゴールウェイ市にある公共公園。中世にまで遡る長く興味深い歴史があり、当時は市場が開かれる町の門の前の広場であった と。「Eyre Square・エアスクエアー」は1710年、市長エドワード・エアによって市に正式に寄贈され、その名が付けられた。エアはトネリコの木を植え、公園を木製の柵で囲んだ。1801年、メイリック将軍は広場の周囲に石垣を築き、当時はメイリック・スクエアと呼ばれていた。19世紀半ばには、公園はジョージ王朝様式の再開発を受け、鉄製の柵(これは後にセント・ニコラス教会を囲む現在の柵に再利用されました)と遊歩道が整備された。1965年、この広場は、暗殺される直前の1963年にゴールウェイを訪れ、この広場で演説を行ったアメリカ大統領に敬意を表して、ジョン・F・ケネディ記念公園と改名された。演説が行われた場所にはJFK記念碑が建てられ、その後2005年に胸像が設置された。 近づいて。記念撮影する方も。John Fitzgerald Kennedy Memorial・ジョン F. ケネディ・メモリアル「John Fitzgerald Kennedy, President U.S.A., became a Freeman of Galway Borough, at this place on June 29th, 1963.」 【ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ アメリカ合衆国大統領は、1963年6月29日、この場所でゴールウェイ自治区の名誉市民となりました。】 歩道の中央にあったのが「Liam O'Maoiliosa Statue・リアム・メロウズの像」。 リアム・メロウズは、20世紀初頭のアイルランド革命運動において最も著名な人物の一人であった。彼はアイルランド共和同胞団(IRB)とアイルランド義勇軍のメンバーであり、1916年のイースター蜂起、独立戦争、そしてアイルランド内戦において主導的な役割を果たした。1922年に自由国軍によって処刑され、共和主義運動の殉教者となった。1957 年、リアム メローズの生涯と功績を記念して、ゴールウェイのエア広場にリアム メローズの像が建てられた。この像は、ダブリンでパトリック・ピアースとジェームズ・コノリーの像を制作したアルバート・パワーによって彫刻された。この像にはアイルランドボランティアの制服を着たメロウズが描かれている。 O'Maoiliosa ・メロウズ と。台座にはアイルランド語で「Liam Ó Maoilíosa、Ceannaire Éireannach、Bascaodh é agan Stat Saor 8 Nollaig 1922」(アイルランド指導者リアム・メローズ、1922年12月8日に自由国によって処刑)と刻まれているのだ と。様々な紋章?が描かれた幟が並ぶ。「BROWNE DOORWAY」「BROWNE DOORWAYThe Browne Doorway comprises the arched doorway and first-floor window of theseventeenth-century mansion of a Galway merchant, which originally stood onLower Abbeygate Street (formerly Skinner’s Lane).Beneath the window is an armorial stone bearing the arms of Browne and Lynch, two of the fourteen Tribes of Galway, and the year 1627.In 1905, following proposals from the Galway Archaeological and Historical Society, the doorway was rebuilt as the northern entrance to the then-railed Eyre Square. One of the finest surviving examples of its kind, the Browne Doorway serves as a reminder of the great architecture of Galway’s mediaeval hey-day」 【ブラウン・ドアウェイブラウン・ドアウェイは、ゴールウェイの商人の17世紀の邸宅にあったアーチ型の玄関と1階の窓から成っています。この邸宅は元々、ローワー・アビーゲート・ストリート(旧スキナーズ・レーン)に建っていました。窓の下には、ゴールウェイの14部族のうちの「ブラウン家」と「リンチ家」の紋章、そして「1627年」という年号が刻まれた紋章石があります。1905年、ゴールウェイ考古歴史協会の提案を受け、このドアウェイは当時柵で囲まれていたエア・スクエアの北側入口として再建されました。現存する同種のものの中でも最も優れた例の一つであり、ブラウン・ドアウェイは中世のゴールウェイが繁栄していた時代の優れた建築を今に伝える記念碑となっています。】 在りし日の姿を写真で紹介。窓。窓の下には、ゴールウェイの14部族のうちの「ブラウン家」と「リンチ家」の紋章、そして「1627年」という年号が刻まれた紋章石があります。内側に廻り込んで。「THE BROWNE DOORWAY"This feature consists of a ground floor doorway and a 1st floor Oriel window and came from the main frontage of the mansion of Dominic Browne and his wife Maria Lynch and is dated 1627. Their achievements of arms occur above the door case which is a fine example of Renaissance influenced design. The doorway was relocatedfrom its original position in Abbeygate Street and relocated here in 1905 by Local Authority with funding from Galway Archaeological Society and Urban District Council (now Galway City Council).」 【ブラウン・ドアウェイこの建造物は、1階の玄関ドアと、2階の張り出し窓(オリエル・ウィンドウ)で構成されており、ドミニク・ブラウンとその妻マリア・リンチの邸宅の正面から移されたもので、1627年のものです。玄関上部には彼らの紋章があり、ルネサンスの影響を受けたデザインの見事な例となっています。このドアウェイは、もともとアビーゲート・ストリートにありましたが、1905年に地方自治体によって現在の場所に移設されました。この移設は、ゴールウェイ考古学協会および都市地区評議会(現在のゴールウェイ市議会)の資金提供によって実現しました。】 「Officially unveiled by Mayor Terry O'Flahertyon the 15th of September 2012」【2012年9月15日、テリー・オフラハティ市長によって正式に除幕されました。】そして「Beef & Lobster」で夕食。 やや高価であったが・・・。そして帰路には、スーパーマーケットで部屋でのこの日の反省会ようにいろいろと買い込む。そして、部屋で再びの宴会で、寝る時間を忘れる程に盛り上がったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.18
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「Athlone Town Bridge」から手前の「Shannon cycle bridge」を見る。 2023年に開通した歩行者・自転車専用の橋で、アイルランド中央部を流れるシャノン川を渡る新たなランドマーク。その先に「Athlone Railway Bridge」「Athlone Railway Bridge」(通称ホワイト・ブリッジ)は、1850年代に技術的挑戦とヴィクトリア時代の工業デザインを融合した歴史的な鉄道橋。今日も列車が走り続けるこの橋は、構造・歴史・景観的価値を併せ持ったアスローンのランドマーク。「Historic Town」案内。「Church of SS Peter and PaulIn 1929 the military authorities agreed to surrender as a site for this church the area ofland which contained the main entrance to the Barracks, the guard room, the ordnance stores, the garrison church and an assortment of smaller buildings. The garrison church was dismantled and re-erected at Creagh, Ballinasioe and is still in use. This imposing building which is sometimes mistaken for a cathedral was designed byRalph Byrne (7877-1946).The foundation stone was laid on 29 June 1932 by the Most Rev,Dr. Doorly; Bishop of Elphin. The church was blessed and officially opened on 29 June 1937. The general contractor for the building of the church wasMr James J. Flynn of Thomas St, Dublin. The cost of building it was over £1120,000.A considerable portion of the sum was raised by the then administrator, Dean Crowe, who organised a sweepstake with agencies in various countries. The sweepstake ran into legal difficulties because the monopoly had already been granted to the newly established Irish Hospitals Sweepstake. At the time of his death in 1955 Dean Crowe had completed payments of all debts incurred in the building. Among the fine features of the church are a number of stained-glass windows by Richard King of the Harry Clarke Studios. Four of these are in the main body of the church, one in the mortuary and one in the boys' sacristy. This tatter window depicts several people who were involved in the building of the Church, including Dean Crowe himself Four of the church windows are by Earley of Dublin, the window in the baptistry、one in the mortuary and two in the church porch. The window in the priests' sacristy is by AE. Child of the Studios of An TOr Gloine. 【Church of SS Peter and Paul(聖ペテロ・聖パウロ教会)1929年、軍当局はこの教会建設のために、兵舎(バラック)の正門、衛兵詰所、兵器庫、守備隊の教会、その他の建物があった土地の譲渡に合意しました。守備隊教会は解体され、クリー(Creagh, バリナスロー)に再建され、現在も使用されています。この堂々たる建物は、しばしば大聖堂と間違えられるほどの規模を持ち、**建築家ラルフ・バーン(Ralph Byrne, 1877–1946)**によって設計されました。・礎石は、1932年6月29日に**エルフィン教区のドーリー主教(Dr. Doorly)**によって 据えられました。・正式な祝別と開堂は5年後の1937年6月29日に行われました。教会建築の元請業者はダブリンのトーマス・ストリートにあったジェームズ・J・フリン氏(James J. Flynn)で、建設費は112万ポンド超にも上りました。この巨額の費用のかなりの部分を、当時の教会管理者であったディーン・クロウ(Dean Crowe)が国際的な代理店を通じた宝くじ(スウィープステークス)で調達しました。しかしこの宝くじは、当時創設された**アイルランド病院宝くじ(Irish Hospitals Sweepstake)**がすでに独占権を持っていたため、法的な問題に直面します。それでもクロウ師は1955年の死去までに、すべての建設債務を完済しました。】Church of SS Peter and Paul(聖ペテロ・聖パウロ教会)に向かって進む。ズームして。このズームした尖塔は??St Mary's Church of Irelandの尖塔であっただろうか!?Church of SS Peter and Paul(聖ペテロ・聖パウロ教会)を正面から。中央祭壇部の屋根上の像。この像は、**キリスト・ザ・レデマー(救い主キリスト)**と考えられます。手を広げたポーズやローブの表現が典型的なキリスト像で、ローマ・バロック様式の教会によく見られる様式。地元で「中央像」「キリスト像」と呼ばれている と。ネットから。ドーリック・バロック・カンパニーレ(鐘楼)様式のデザインで、その上部には八角形の塔屋(オクタゴナル・タワー)があり、さらにオージー型(くびれ屋根)の銅製ドームが載っていた。ドーム頂上には十字架の尖頂飾り(クロス・フィニアル)が付いていた。右の鐘楼。左の鐘楼。ATHLONE TOWN MAP現在地はここ。Church of SS Peter and Paul(聖ペテロ・聖パウロ教会)内部に入り、美しいステンドグラスに圧倒され、デジカメで追う。聖ヨセフ(Saint Joseph)聖パウロ(Saint Paul)歴史1932年から1939年にかけて建設されたこの教会は、アイルランド出身の建築家ラルフ・バーンによってバロック・リバイバル様式で設計されました。印象的な新古典主義様式のファサードは、ペディメント付きの入口を挟む2つの塔を特徴としており、ポートランド石、切石灰岩、銅の装飾などが用いられています。教会内部は、精巧な大理石細工と鋳鉄の要素で飾られた広々とした身廊と祭壇が特徴的です。教会は、リチャード・キングがハリー・クラーク工房で制作したステンドグラスで有名です。ハリー・クラーク工房で制作されたこれらのステンドグラスには、聖ペテロ、聖パウロ、聖パトリック、最後の審判、煉獄などが描かれています。これらの窓の鮮やかな色彩と精緻な芸術性は、教会内部の美しさに大きく貢献しています。教会内部。Saint Patrick windows・聖パトリックの窓。典型的なハリー・クラークのステンドグラス作品。ズームして。ズームして。ズームして。ズームして。脇の祭壇。独り占めの教会内部を移動して。Saint joseph window・聖ヨセフの窓ズームして。「ピエタ(Pietà)」イエス・キリストの磔刑後、遺体を抱きかかえる聖母マリア。背後にはクロス(十字架)とINRI(イエス・ナザレの王)という銘があり、キリストの受難を象徴している。こちらにも。正面の祭壇。近づいて。入口方向を振り返る。壁のレリーフ。ズームして。まだまだ、ステンドグラスを追う。ズームして。ズームして。聖マリア像をズームして。The Mary window・メアリーの窓。ズームして。ズームして。近づいて。Purgatory window・煉獄の窓ズームして。ズームして。LAST Judgemernt window・最後の審判の窓十字架のキリスト像。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.17
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ギャラリー5は「包囲の人々」というテーマで、写真のようにアスローンの包囲戦に巻き込まれた17世紀の代表的な人物を彫刻で展示している。攻撃と防御を主導した軍の将軍を含む8人の主要なキャラクターの等身大の彫刻で表現しているのであった。COLONEL RICHARD GRACE近づいて。「COLONEL RICHARD GRACEColonel Richard Grace (c. 1612–1691) was an Irish Royalist soldier who fought for Charles I, Charles II and James II. He served in the Royalist Army in Exile during the 1650s.【リチャード・グレース大佐(約1612年 – 1691年)リチャード・グレース大佐は、アイルランド出身の王党派(ロイヤリスト)の軍人であり、チャールズ1世、チャールズ2世、そしてジェームズ2世のために戦いました。1650年代には、亡命中の王党派軍(Royalist Army in Exile)に所属していました。】「COLONEL GUSTAVUS HAMILTON」 「COLONEL GUSTAVUS HAMILTONColonel Gustavus HamiIton (1642-1723 ) ,an lrish protestant丘0n1 County Leitrim,wasa professional soldier. He served on the Continent and afterwards in the lrish army.ln 1689 he joined the Williamites and took pairt in the early, unsuccessful defence of Ulster against the Jacobites. Retiring tO England he was given command and of a newregiment,which he successfully led in the lrish campaign in 1690ー1. He participated in the major engagements atthe Boyne, Limerick and Aughrim. His most famous exploit was to lead the grenadiers that spearheaded the brave and successful attack across theriver at Athlone. He subsequently rose to the rank of major general and was made governor of AthIone. He acquired a large estate in County Meath, became a member 0fparliament and eventually peer, with the title Viscount Boyne.【グスタヴァス・ハミルトン大佐(1642–1723)アイルランド・リートリム県出身のプロテスタントで、職業軍人でした。彼は大陸ヨーロッパで軍務に就いた後、アイルランド軍に所属します。1689年、彼はウィリアマイト側(ウィリアム3世支持派)に参加し、ジャコバイトに対するアルスター地方の防衛戦に加わりますが、これは失敗に終わりました。その後、一時的にイングランドに退却しますが、新たな連隊の指揮官に任命され、1690〜1691年のアイルランド戦役でその指揮を成功裏に果たしました。彼は以下の主要戦闘に参加しました:・ボイン川の戦い(1690)・リムリック包囲戦・アウクリムの戦い(1691)彼の最も有名な功績は、アスローンでのシャノン川渡河作戦において擲弾兵(グレナディア)を率い、決死の突撃を成功させたことです。この後、彼は少将(メジャー・ジェネラル)に昇進し、アスローンの総督に任命されました。さらにミース県に広大な土地を所有し、国会議員となり、最終的には「ボイン子爵(ヴィスカウント・ボイン)」の爵位を授かりました。】「JEAN DE BONNAC MARQUIS D'USSON」「JEAN DE BONNAC MARQUIS D'USSONJean Louis d'Usson, Marquis de Bonnac (1672-1738) was French Ambassador to theOttoman Empire from 1716 until 1724.[1] One of his main missions was to assure that the Ottoman Empire remained a threat to the Habsburgs, the main rival of Francein Europe, a regular objective of the Franco-Ottoman alliance. He wrote Mémoire historique sur l'Ambassade de France à Constantinople.From 1690 to 1694 he was a musketeer. In 1694 he was captain of a dragoons company. In 1696 he entered the diplomatic service and served as secretary to his uncle fr:François d'Usson de Bonrepaus in Denmark. In 1698 he replaced uncle François d'Usson deBonrepaus as Chargé d'affaires in The Hague. In 1700 he was envoy extraordinary to the Principality of Brunswick-Wolfenbüttel, were in 1701 he was replaced by uncle Françoisd'Usson de Bonrepaus and went to the Court of Stockholm. From 1707 to 1710he was representative at the court of Stanisław Leszczyński. In May 1711 he replaced Jean-Denis de Blécourt at El Escorial where he was till 1713 as envoy extraordinary」 【ジャン・ルイ・デュッソン、ユッソン侯爵(Marquis de Bonnac)は、1716年から1724年までフランスのオスマン帝国駐在大使を務めました。彼の主な使命の一つは、オスマン帝国がフランスの欧州における宿敵ハプスブルク家に対して脅威であり続けるよう努めることでした。これはフランス=オスマン同盟の基本的な戦略目標の一つでした。彼はその経験をまとめて、『コンスタンティノープルにおけるフランス大使館の歴史的回顧録(Mémoire historique sur l'Ambassade de France à Constantinople)』を著しました。】「ジェントルマンの眠る像(Resting Gentleman)」。・青とオレンジの鮮やかな服装:17世紀のヨーロッパ貴族の軍装風で、カロリング様式の影響を 感じさせます。・カツラと羽付き帽子:当時の上流階級の象徴。・手を胸に置き、横たわる姿勢:死者の像や戦没者の追悼像に共通するポーズ。・背後の映像:遺体または埋葬された兵士の映像が表示され、歴史的戦争のリアリティと 記憶の継承を意図している。?????当時の軍事命令書、戦争記録、または犠牲者名簿のモニュメント的なレプリカ?「AFTERMATH OF THE SIEGE AND REBUILDING」 【包囲戦の余波と再建】「AFTERMATH OF THE SIEGE AND REBUILDINGAfter the siege Athlone became a Williamite fortress.Before marching west, Ginkel had the dead of both sides buried and ordered the streets of the west town to be cleared of rubble.So many houses had been demolished in the bombardment that the Williamite garrison had to be accommodated in tents, although wooden huts were built for the winter.Permanent barracks were built in the late 1690s. Most of the inhabitants gradually returned, although there was starvation in Athlone in the winter of 1691–2.Repair work was undertaken, apparently at the expense of the principal property owners, who complained strongly of the losses they had incurred in the war.There was a serious setback in 1697, when lightning caused an explosion in the castle magazine that again destroyed most of the west town.However, the recovery was substantially completed by 1709, when a visitor described Athlone as ‘a handsome large town’.」 【包囲戦の余波と再建包囲戦の後、アスローンはウィリアマイト軍の要塞となりました。西へ進軍する前に、ギンケル将軍は両軍の死者を埋葬させ、西側の町の瓦礫を除去させました。砲撃であまりにも多くの家屋が破壊されたため、ウィリアマイト軍の駐屯兵たちは一時的にテントに収容され、冬には木造の仮設小屋が建てられました。恒久的な兵舎は1690年代後半に建設されました。住民たちも徐々に戻ってきましたが、1691年から92年の冬にはアスローンで飢餓が発生しました。修復作業は主に主要な不動産所有者の費用で行われたとされており、彼らは戦争による損害について強く不満を訴えました。さらに1697年には落雷によって城の弾薬庫が爆発し、西側の町の大部分が再び破壊されるという深刻な後退がありました。しかし、復興は1709年までにほぼ完了し、この年にアスローンを訪れたある旅行者は「立派で大きな町」と表現しています。】「FORBAIRT AN CHAISLEÁIN I RÉ NAIPÓLÓNDEVELOPMENT OF THE CASTLE IN THE NAPOLEONIC ERA」 「FORBAIRT AN CHAISLEÁIN I RÉ NAIPÓLÓNDEVELOPMENT OF THE CASTLE IN THE NAPOLEONIC ERAAthlone Castle largely escaped the 1691 siege undamaged, but by the early 18th centurywas in poor repair. In 1703 a Royal Warrant proposed the rebuilding of the castle and town fortifications. A drawing by Thomas Burgh dated 1707 shows a bastionedfort on the site.During the Napoleonic wars (1793–1815) Ireland was viewed as vulnerable to French invasion. In response, the British government carried out a series of defensive measures, including the upgrading of strategic forts.In 1797, the Duke of Richmond recommended the rebuilding of Athlone Castle as a depotand barracks for 1,000 men. By 1807 the fort was armed with 28 cannon and had agarrison of several hundred men. The barracks were modernised in 1815 and again in 1826–28.Although later demolished, the barracks formed the structural core of Athlone Castle as we see it today. Its walls were reinforced, a drawbridge was added, and a bombproof magazine constructed. The castle became a key regional military headquarters and administrative centre for the British army in Ireland.」【ナポレオン時代におけるアスローン城の再開発アスローン城は1691年の包囲戦では大きな損傷を免れましたが、18世紀初頭には荒廃が進んでいました。1703年、王室令により城と町の防御施設の再建が提案され、1707年にはトーマス・バーグによる縄張り図に基づき、稜堡式の要塞として設計されました。ナポレオン戦争(1793~1815年)の時代、アイルランドはフランスからの侵略の可能性があると見なされていました。そのため、イギリス政府は防衛強化策の一環として、戦略的要塞の再整備を進めました。1797年にはリッチモンド公が、アスローン城を1000人規模の兵舎および物資集積所として再建することを推奨しました。1807年までにこの要塞は28門の大砲を備え、数百人の兵士が駐屯していました。兵舎は1815年と1826~28年にも近代化されました。これらの兵舎は後に取り壊されましたが、今日私たちが見るアスローン城の構造の中核を成しています。壁は強化され、跳ね橋が追加され、防爆仕様の弾薬庫も建設されました。この城は、アイルランドにおけるイギリス軍の地方司令部および行政の中心地となったのです。】「(砲台群)」に関する説明左:「Plan of The Batteries (below)The project shown here was to protect Athlone’s river crossing. It features two major gun batteries, one beside the road and another across the bridge on the south side, with supporting gun emplacements to the north and south. Note battery at the north end of the canal is recent.」 【砲台配置図(下部)この図面は、アスローンの河川横断地点を防衛するための計画を示しています。2つの主要な砲台があり、1つは道路のそば、もう1つは橋の南側に位置しています。これを補完する形で、北と南にも砲座が設置されています。図中、運河の北端にある砲台は比較的新しいものです。】右:「The Batteries (Above)An immense series of connected artillery emplacements, known as the Batteries,was erected on the west side of Athlone in the early 1800s. This picture, taken afterthe guns had been removed, gives an impression of the size and extent of the works.【砲台群(上部)「バッテリーズ(砲台群)」と呼ばれる大規模で連結された砲兵陣地が、1800年代初頭にアスローンの西側に築かれました。この写真は、大砲が撤去された後に撮影されたもので、構造物の規模と範囲を示しています。】 「The Dismal Ruine of Athlone(アスローンの悲惨な廃墟)」と、「Ranelagh School(ラネラ・スクール)」に関する解説パネル。左:「The Dismal Ruine of Athlone(Below)Lightning struck the magazine in Athlone Castle in 1697, causing an explosion andfire that destroyed 64 houses in the west town, newly rebuilt after the destruction of the siege. Most of the remaining houses were left uninhabitable, and there weresix fatalities.」 【アスローンの悲惨な廃墟1697年、アスローン城の弾薬庫に落雷があり、爆発と火災を引き起こしました。この事故で、西側の町にあった家屋64軒が焼失しました。これらは、包囲戦後に再建されたばかりの建物でした。残った家々もほとんどが住めない状態となり、6名の犠牲者が出ました。】右:「Ranelagh School(Above)Established in 1764 with an endowment from the 1st Earl of Ranelagh, the school waslocated in a purpose-built building designed by the distinguished Georgian architect, George Ensor. Its original function was to provide free education for the children of poor protestants.」 【ラネラ・スクール1764年、初代ラネラ伯爵からの寄付によって設立されたこの学校は、著名なジョージアン様式建築家ジョージ・エンソーによって設計された専用の校舎に設置されました。元々は、貧しいプロテスタントの子供たちに無償の教育を提供することを目的としていました。】「BAILE ÁTHA LUAIN MAR BHAILE GARASTÚINATHLONE AS A GARRISON TOWN」 「BAILE ÁTHA LUAIN MAR BHAILE GARASTÚINATHLONE AS A GARRISON TOWNThe original army barracks, built after 1700, housed up to 1000 men and includeda hospital and chapel.The second barracks, Custume Barracks, was completed in the 1830s and became the headquarters of the British army’s 4th Western Division in Ireland.During the 19th and early 20th centuries, it played a major role in British military operations in Ireland and was one of the largest military facilities in the country.Athlone also became a key training centre for new recruits, and British regimentsregularly rotated through the garrison. The presence of the army had a significant socialand economic impact on the town, providing employment and stimulating local trade.After the Anglo-Irish Treaty in 1921, the British withdrew and the barracks became thehome of the Irish Defence Forces, who renamed it Custume Barracks in honour of Sergeant Custume, a hero of the 1691 siege.」 【アスローンの軍事駐屯地としての役割最初の兵舎は1700年以降に建てられ、最大で1,000人の兵士を収容し、病院や礼拝堂も備えていました。1830年代には第二兵舎である「カスチューム兵舎(Custume Barracks)」が完成し、イギリス陸軍第4西部師団の本部となりました。19世紀から20世紀初頭にかけて、アイルランドにおけるイギリス軍の作戦において主要な拠点として機能し、国内最大級の軍事施設の一つでした。アスローンは新兵訓練の中心地ともなり、多くのイギリス連隊が駐留し交代しました。軍の存在は町の社会・経済に大きな影響を与え、雇用を生み、地元の商取引を活性化させました。1921年の英愛条約(アングロ・アイリッシュ・トリーティ)後、イギリス軍が撤退し、兵舎はアイルランド国防軍の基地となり、1691年の包囲戦の英雄であるカスチューム軍曹(Sergeant Custume)にちなんで「Custume Barracks」と改称されました。】アイルランドとアスローンの社会・政治・軍事史に関する年表パネル?ピンボケであったが年代や出来事ごとに異なる色(黄色・ピンク・青・緑など)でデザインされており、来場者に歴史の流れを印象づけやすいように工夫されていた。写真やドキュメントの複製も混在しており、社会運動、戦争、政治運動、教育、宗教などの複数のテーマを扱っているようであった。大型の銀製トロフィー。アスローン周辺で行われたスポーツ競技(特にボートレースやラグビー、あるいは地元の軍事関連行事)に関する記念杯であっただろうか?アスローン城(Athlone Castle)の上階・窓越しから、シャノン川に架かるアスローン橋(Athlone Bridge)を見下ろす。手前の石壁部分は、城の砲台(battery)で、黒い大砲(レプリカもしくは保存された実物)が2門並んでいた。これらの砲は、1691年の「アスローン包囲戦(Siege of Athlone)」や、その後のナポレオン戦争期(19世紀初頭)に使用された防衛設備を再現または保存しているもの。砲口はシャノン川と橋の方向を向いており、かつての戦略的防衛ポイントであることを示しているのであった。シャノン川と橋を制することで、アイルランド東西を結ぶ交通と軍事の要衝を掌握できたことが理解できたのであった。蒸気ホイッスル(steam whistle)と呼ばれる、かつて工場でシフト交代用に使用されていた音響信号装置。「Gentex factory hooterGeneral Textiles Limited (Gentex), a cotton manufacturing plant, made an enormous contribution to the economy and general life of Athlone during the nearly fifty years of its existence. Shift changes were indicated by the factory hooter, which was audible throughout the town.」 【ジェンテックス工場のホイッスル(サイレン)「ジェネラル・テキスタイルズ社(Gentex)」は、綿織物の製造工場であり、その約50年にわたる操業期間において、アスローンの経済および市民生活に多大な貢献を果たしました。工場でのシフト交代の合図には、このホイッスル(サイレン)が使われており、その音は町中に鳴り響いていたのです。】アスローン城(Athlone Castle)の上階、屋上の砲台跡(バッテリー)に通じる出入り口付近。アスローン城(Athlone Castle)の砲台跡に据え付けられている歴史的な大砲(カノン砲)を後方から・黒色の鋳鉄製砲身:17世紀〜19世紀の典型的な設計。弾丸を発射するための滑腔砲(rifleなし)。・木製の砲架(carriage)に載せられており、左右の木枠で支えられている。・発射口は、シャノン川の対岸に向けられており、橋や市街地の方向を警戒・防衛していた。再び、アスローン城(Athlone Castle)の主塔(ドンジョン/keep)を正面から。・多角形の構造:砲撃や攻撃に強い形状。・中世〜17世紀様式の石造建築:厚い石壁と小さな開口部(銃眼)が。・上部に設けられたマーダーホール(murder holes)風の開口:敵に対して上から攻撃できる構造。・正面入口には、現代的なガラス製のスロープと手すりが追加され、バリアフリー対応が。中央:迫撃砲(モルタル)タイプの大砲:通常のカノン砲よりも角度が高く、弾を上空に 放物線状に発射するため、城壁越えの攻撃などに用いられていたのであろう。アスローン城(Athlone Castle)の屋上バッテリー(砲台)エリアから、聖ペテロ・聖パウロ教会(Church of Saints Peter and Paul)を背景に。訪問者向けの体験型展示(インタラクティブエリア)の一環として、大型チェスセットが設置されていた。歴史的な戦略や対決を象徴的に表現する意図が込められているのか?(城=戦略=チェスという文脈??)。アスローン城(Athlone Castle)の石壁に設けられた銃眼。中世および近世の城や要塞において設けられた防御射撃用の狭い開口部。外からは非常に狭く見えるが、内側は広く作られており、兵士が弓矢、銃、あるいは火器で攻撃するための視界・射界を確保できるよう工夫されているのであった。アスローン城(Athlone Castle)の敷地全体を案内する公式見取り図付き解説パネル。「ATHLONE CASTLEAthlone Castle was initially an Anglo-Norman motte or fortified mound. The site was taken over by the crown in 1210; stone walls and large-scale battlements were built soon after. The original structure was replaced in both height and outer wall shape and extended into this irregular enclosure with fine radial pattern. The present curtainwalls were faced in the 19th century over rubble coursing.At the outbreak of the war for Athlone, there was a royal garrison inside the stone fortification. Soon after 1690, a new barracks was built in the yard and other parts ofthe site redeveloped. This area remained in use by the British Army until after 1800. With the creation of the national monument the courtyard has been excavated and conserved. The outer moat and entrance rampart have been reconstructed and interpreted. Numerous buildings have been conserved and repurposed. The present exhibition includes displays and interpretation of the garrison town and refurbished buildings.」 【アスローン城(Athlone Castle)アスローン城は、もともとアングロ・ノルマンによって築かれたモット(motte:築山)型の要塞でした。1210年にイングランド王室の管理下となり、間もなく石造の城壁と大規模な防御設備が建設されました。元の構造はその後、高さや外壁の形状が変更され、現在見られる不規則な囲い型の構造に拡張されました。外壁は19世紀に瓦礫石の上に仕上げ材が施され、今日に至っています。1690年のアスローン包囲戦勃発時には、石造の要塞内部に王党派の駐屯兵がいました。戦後まもなく、中庭には兵舎が新設され、敷地全体が再整備されました。このエリアは1800年以降もイギリス軍によって使用されました。現在、国定記念物(national monument)として中庭は発掘・保存され、外堀や出入口の土塁も復元されました。敷地内の多くの建物は保存・再活用され、アスローン城と駐屯地の歴史に関する展示が設けられています。】 1.Entrance gate & ramp(入口・傾斜路) 2.Castle Keep(主塔) 3.Rebuilding(再建部分) 4.Tower 1(塔1) 5.Tower 2(塔2) 6.Tower 3(塔3) 7.Sharrow Commissioners’(シャロウ委員) 8.Siege of St. Henry(聖ヘンリー包囲) 9.Siege of Bridge 1691(橋の包囲戦 1691年)10.Master Gunner's Yard(火砲指揮官の中庭)11.Inner redoubt courtyard(内側の防御中庭)12.Site of entrance of outer redoubt(外郭入口跡)13.Muster and courtyard(召集地と中庭)14.Cannon and embrasure(大砲と銃眼)「プレジデントの館(President's House)」跡地案内。「SITE OF THE PRESIDENT’S HOUSEThe President’s House was a residential building erected in the castle in 1547. Subsequently it became the residence of the presidents of Connacht, a succession of prominent officials who governed the west of Ireland from Athlone between 1569 and 1672.The house extended along the east side of the castle, with three large mullioned windows overlooking the river. It had fallen into disrepair by 1691, when it was completely destroyed in the Williamite artillery bombardment during the great siege.」 【プレジデントの館(President’s House)跡地プレジデントの館は、1547年に城内に建てられた住宅建築です。その後、この建物はコノート地方(Connacht)のプレジデント(総督)の官邸として使用されました。プレジデントとは、1569年から1672年の間にアスローンを拠点にアイルランド西部を統治した高官たちのことです。この館は城の東側に沿って建てられ、シャノン川を望む3つの大きな格子窓(マリオンウィンドウ)がありました。1691年までにすでに老朽化していましたが、アスローン包囲戦中のウィリアマイト軍による大砲砲撃で完全に破壊されました。】再び、別の大砲(カノン砲)に近づいて。アスローン城(Athlone Castle)からシャノン川(River Shannon)を北方向に望んだ風景。川にはプレジャーボートが係留されており、アスローンが水運や観光クルーズの拠点でもあることが理解できた。アスローンは、シャノン川を利用した遊覧船(Viking Toursなど)の出発地にもなっていた。城の城壁からシャノン橋とそに下をゆったりと流れるシャノン川、美しく調和したアスローンの町の見事な景色を楽しむことができるのであった。現在の石橋は1844年に完成したもので、それ以前にも同地点に複数の橋が建てられていた。かつてこの橋は、アイルランドの東西を結ぶ最重要ルートの一つであり、軍事・商業上の戦略的要地であった。城の砲台からも橋を狙える位置!!中央の灰色の石造建物は、歴史的な官庁建築であり、現在も地元行政の一部が使用している と。アスローン城(Athlone Castle)の外観を北側(橋側)から。・中央の円形の建物は、アスローン城の心臓部にあたる円形ドンジョン(keep)。 これはノルマン様式の要塞によく見られる設計で、元は12世紀に築かれたものを基にしている。・城の正面にある半円形の砲塔状構造物は、近代化された防御設備で、18〜19世紀にかけて 追加された部分。石の積み方と砲座の形から、火砲に対応した構造であることが分かります。・左奥にはアイルランド国旗(緑白橙)、右の塔には別の旗(恐らく博物館の紋章)が 掲げられていた。・城の壁に沿って続く石造の斜路(ランプ)は、大砲や物資を運搬するための通路として 設けられたものであろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.16
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ATHLONE BESIEGED1 6 9 0ー1ATHLONE BESIEGED1 6 9 0ー1ln 1689ー91 lreland was a sigmficant theatre of conflict in a major European war.The exiled English king,JamesⅡ, wassupported by lrish catholics (the Jacobites),who received significant military aid from King Louis XIV of France. lrish protestantssupported James's rival and Louis's enemy,William of Orange, who sent an internationalarmy to conquer lreland. Athlone was the key fortress on the mid-Shannon. Besiegedby the Williamites in 1690 , it was successfully defended by the veteran Colonel RichardGrace.In June 1691 the full Williamites army,under GeneraI Ginkel, again besieged AthIone.The Jacobites defended the west town and the bridge with great resolution, despite amassive artillery bombardment. Eventually a determined attack by the Williamites acrossthe old ford caught the defenders by suprise,and the town was captured.Heavily defeatedin the subsewuent battle of Aughrim,the Jacobites surrendered at Limerick in October.【包囲されたアスローン(1690~1691年)1689年から1691年にかけて、アイルランドはヨーロッパ全体を巻き込んだ大規模な戦争の中で、重要な戦場となっていました。イングランドから追放された王、ジェームズ2世は、アイルランドのカトリック教徒(ジャコバイト派)の支持を受け、さらにフランス王ルイ14世から大きな軍事支援を受けていました。一方、アイルランドのプロテスタントたちは、ジェームズの対抗者であり、ルイ14世の敵でもあった**オレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)**を支持しており、彼はアイルランドを征服するために多国籍軍を派遣しました。アスローンは、シャノン川中流に位置する戦略上の要塞都市として、極めて重要な地点でした。1690年、アスローンはウィリアム派(ウィリアマイト軍)に包囲されましたが、老練な指揮官リチャード・グレース大佐のもとで防衛に成功しました。翌年の1691年6月、ウィリアマイト軍はギンケル将軍の指揮のもと、再びアスローンを本格的に包囲しました。ジャコバイト側は町の西地区と橋を砲撃の嵐の中で懸命に守りましたが、最終的にウィリアマイト軍が古い浅瀬を通って奇襲攻撃を行い、防衛軍を不意を突いて町を攻略しました。その後のアウクリムの戦いでジャコバイト軍は大敗を喫し、10月にリムリックで降伏しました。】ギャラリー3は「アスローン包囲」というテーマで、1690年と1691年のアスローン包囲に至るまでの出来事を紹介している。ギャラリーは、戦闘中の軍隊を360度のビクターアンブラスのスケッチが描かれている。3人の登場人物の音声によって当時のアスローンでの生活を紹介しているのであった。THE WAR OF THE KINGSThe unpopular English king, the catholic JamesⅡ,was overthrown by his DutCh son-in-law,William of Orange,in the 'Glorious Revolution' of 1668.This was a setback for King Louis XIV of France,Europe's most powerful ruler, for Jarnes was his ally,whereas、William was his most inveterate enemy and a key figure ln European—wide anti—French alliance.A major European war soon broke out. lrish catholics laised a large army no support James,hoping a victory for him would reverse their losses of wealth and power.Louis seized the opportunity to undermine William.His navy was strong,and sent James toIreland with French officers and substantial military supplies.Irish protestants backed William to use Ulster as a bridgehead for the build-up of a largemulti-national army.In 1690 he came to Ireland to take personal command of his forcesfor the campaign against James.【王たちの戦争不人気だったイングランド王、カトリックのジェームズ2世は、**オランダ人の娘婿ウィリアム・オブ・オレンジ(ウィリアム3世)**によって、**1688年の「名誉革命(Glorious Revolution)」**で王位を追われました。この出来事は、ヨーロッパで最も強大な君主であったフランス王ルイ14世にとって痛手でした。なぜなら、ジェームズは彼の同盟者であり、ウィリアムは彼の宿敵であり、ヨーロッパ規模での反フランス同盟の中心的人物だったからです。その後まもなくして、ヨーロッパ全土を巻き込む大戦争が勃発しました。アイルランドのカトリック教徒たちは、ジェームズを支援するために大規模な軍隊を結成しました。彼らは、ジェームズの勝利によって、自らが失った財産や権力を取り戻せることを望んでいたのです。ルイ14世はこの機会を利用して、ウィリアムを弱体化させようとしました。強力なフランス海軍の支援のもと、彼はジェームズをアイルランドへ送り込み、フランス人将校や大量の軍事物資を提供しました。一方、アイルランドのプロテスタントたちはウィリアムを支持し、アルスター地方を橋頭堡として、多国籍軍の集結を進めました。1690年、ウィリアムは自らアイルランドに上陸し、ジェームズに対する軍事遠征を直接指揮するために現地入りしました。】BATTLE OF THE BOYNEIn 1690 William's 35,000-strong army of British,Dutch,Danes,Huguenots and Irish protestants took the offensive south and on 1 Jury defeated James's 24,000-strong Jacobite army at the battle of the Boyne.This gave William Dublin and the east of Ireland.James returned to Flance.However,theJacobite army made good its escape and regrouped at Limerick.William made no offer of reasonable peace terms.Patrick Sarsfield and the other Irish army leaders determinedto continue the war.The line of the Shannon became the new frontier,with Athlone andLimerick as the princepal Jacobite strong points.Willam's siege train was wrecked bySarsfield in a daring raid.and the Jacobites repulsed his subsequent attack on Limerickwith heavy losses.They also defeated an attack on Athrone.William returned to Englandleaving his army to bring the war in Ireland to a conclusion in 1691.【ボイン川の戦い(1690年)1690年7月1日、ウィリアム王(ウィリアム3世)は、イギリス人、オランダ人、デンマーク人、ユグノー(フランス新教徒)、アイルランドのプロテスタント兵を含む3万5千人規模の連合軍を率いて南進し、ジェームズ2世率いる2万4千人のジャコバイト軍と対峙しました。その結果、ボイン川の戦いでウィリアム軍が勝利し、ダブリンとアイルランド東部を掌握しました。ジェームズ2世はフランスへ逃れます。しかし、ジャコバイト軍は巧みに退却し、リムリックで再編成に成功します。ウィリアムは和解のための妥当な条件を提示せず、パトリック・サーズフィールドをはじめとするアイルランド軍の指導者たちは、戦争の継続を決意しました。シャノン川が新たな戦線の境界となり、アスローンとリムリックがジャコバイト側の主要な防衛拠点となりました。ウィリアム軍の重砲部隊(包囲用の兵器)は、サーズフィールドの大胆な奇襲によって壊滅し、その後のリムリックへの攻撃もジャコバイト側が撃退し、ウィリアム軍に大きな損害を与えました。さらに、アスローンへの攻撃も失敗に終わりました。その後、ウィリアムはアイルランドを離れ、残された軍隊に対し、戦争の終結を目指すよう命じて1691年を迎えます。】ATHLONE IN 1690Divided as now by the river Shannon,in 1690 the two halves of Athlone were linked by the narrow 10-arch Elizabethan stone bridge,situated immediately upstream ofthe old ford.The bridge supported several corn mills,powered by the fast flow of water through its arches.The crssinng was dominated by the medieval castle on the west bank.The west town was protected by bastioned earthworks.A stone wall with added bastionedand two gatherouses enclosed the core of the east town,where the parish church with itstower and most of the better houses,built of stone,were situated.Poorer mud houses withthatched roofs predominated in the west town and in the entra-mural suburbs.The narrowstreets followed much the same pattern as today.There were market places on both sidesof the river,with a market house immediately east of the bridge.The total population wasabout 1500.【1690年のアスローン現在と同様に、アスローンはシャノン川によって東西に分かれており、当時は川のすぐ上流にある、10連アーチの狭いエリザベス朝時代の石橋で東西が結ばれていました。この橋にはいくつかの**製粉所(コーン・ミル/穀物粉砕所)**が設置されており、橋のアーチを流れる速い水流を利用して動力を得ていました。橋の渡河地点には、西岸にある中世の城(アスローン城)がそびえ立ち、周囲を支配していました。西側の町(ウェスト・タウン)は、堡塁(ほうるい)付きの土塁によって防備されていました。一方、東側の町(イースト・タウン)の中心部は、**石造りの城壁と堡塁が設けられた門(gatherouses)**によって囲まれており、塔を持つ教区教会や、石造りの裕福な家々が建ち並んでいました。これに対して、西側の町や城壁の外に広がる郊外部には、**藁葺き屋根の粗末な泥造りの家々(貧しい住民の住居)**が多数見られました。通りの配置は現在とほとんど変わっておらず、川の両岸にはそれぞれ市場(マーケット)があり、橋の東側のたもとには**マーケットハウス(市場建物)**が建っていました。当時のアスローンの総人口は約1,500人でした。】FIRST SIEGE OF ATHLONE 1690After the battle of the Boyne, Athlone became a major Williamite objective.ln mid-July 1690 it was attacked by a 7,500-strong force under the commandof the Scottish generaI,James Douglas. A garrison of about 2,000 defended the town, under the governor,Colonel Richard Grace, a dogged veteran of many wars. He abandoned the east town, withdrew across the river and broke down the bridge. When summoned to surrender, he defiantly fired his pistol into the air and shouted it was the only negotiation he wanted.Douglas lacked heavy siege artillery, and his field guns made little impression on the castleand other defence works of the west town. He made no attempt to cross the river and aftera week, learning the Grace was to be reinforced, he lifted his siege and withdrew. Gracehad preserved Athlone and with it the line of the Shannon,enabling the Jacobites to carryon the war for another year.【1690年 アスローン第一次包囲戦ボイン川の戦いの後、アスローンはウィリアマイト軍(ウィリアム王側)の主要な攻略目標となりました。1690年7月中旬、スコットランド人のジェームズ・ダグラス将軍が指揮する7,500人規模の軍がアスローンを攻撃しました。町を守っていたのは、2,000人ほどの守備隊で、指揮官は多くの戦争を経験した頑固な老将、リチャード・グレース大佐でした。グレースはまず東側の町を放棄し、川を渡って西側へ撤退すると、橋を破壊しました。降伏を勧告された際には、空に向けてピストルを撃ち、これが自分の望む唯一の“交渉”だと叫んで拒否したと伝えられています。ダグラス軍は重砲(攻城砲)を持っておらず、持参していた野戦砲ではアスローン城や西側防御陣地にほとんど効果を与えることができませんでした。また、川を渡って攻め込む試みも一切行われませんでした。やがて、グレースに援軍が送られるという情報を得たダグラス将軍は、包囲を解いて撤退します。このようにして、グレース大佐はアスローンとシャノン川の防衛線を守り抜き、ジャコバイト軍がさらに1年間戦争を継続する道を切り開いたのです。】連絡通路。北側の石壁越しに「Church of Saints Peter & Paul」を見る。シャノン川沿いには大砲が並んでいた。「MARGARET DALY IRISH REFUGEE」 【(マーガレット・デイリー ― アイルランドの難民)】。My name is Margaret Daly.My husband was a tenant of Lord Westmeath.When King Jamescame to Ireland the priests told us that catholics would have to fight for him to get theirshare.My husband joined his lordship's regiment.When the army was beaten and wentbeyond the Shannon,we were told to flee,because the Scots and the Danes would sparenone. MY neighbours and I left our homes.My eldest lad joined the rapparees or partisans in the bogs. He will be hanged if the foreign soldiers get him.I took the younger children, with whatever clothes and oatcakes we could carry,and drove our cattle towards Irish.But the foreign horse soldiers came and robbed our cattle.They killed anyone that resisted. They insulted and ill-used us women. Near Athlone the lrish soldiers droveus back. They said there was no food. Grass and roots were all we could find to eat.Near the foreign soldiers' camp we tore the flesh from the carcass of a dead horse crawling with vermin.For starving women and children,it was like Helicious food.Good spare us all.【私の名前はマーガレット・デイリーです。私の夫は**ウェストミース卿(Lord Westmeath)**の小作人でした。ジェームズ王(James II)がアイルランドに来たとき、神父たちは私たちに言いました――カトリック教徒は王のために戦い、自分たちの取り分を取り戻さなければならないと。夫は領主の連隊に加わりました。けれども軍は敗北し、シャノン川の向こうへ撤退しました。そのとき私たちは言われたのです――**「スコットランド兵やデンマーク兵は誰も助けてくれない。逃げなければ皆殺しになる」**と。私と近所の人々は家を後にしました。長男は“ラパリーズ”(rapparees:ゲリラ兵)に加わり、湿地帯に身を隠しました。外国の兵士たちに捕まれば、彼はきっと絞首刑になるでしょう。私は幼い子どもたちを連れ、着の身着のままでオートケーキ(麦のパン)を持てるだけ持ち、家畜を追ってアイリッシュ(西の地域)へ向かいました。ところが外国の騎兵たちがやってきて、私たちの家畜を奪い去りました。抵抗した者は殺されました。彼らは私たち女性に侮辱を与え、乱暴を働きました。アスローン近くまで来ると、今度はアイルランド兵たちに追い返されました。「食料がない」と言われたのです。私たちが食べられたのは、草や根っこだけでした。外国軍の陣地の近くで、虫まみれの死んだ馬の死骸から肉を引き裂いて食べました。飢えた女性や子どもにとって、それはまるで“ごちそう”のようでした。どうか神よ、私たちすべてをお守りください。】A depiction of Sergeant Custume • Athlone Castle.【アスローン城におけるカスチューム軍曹の像】アイルランドの英雄的人物であるカスチューム軍曹(Sergeant Custume)像。「THA GREATE SIEGE OF ATHLONE 1691」 【アスローン大包囲戦 1691年】映像コーナー。床にも映像が映されて。Athron Castle・アスローン城の地図。アイルランド島のほぼ中央に位置するAthron Castle・アスローン城。「PEAPLE OF THE SIEGE」 「PEOPLE OF THE SIEGE(包囲戦の人々)」は、アスローン城の展示などで使われる表現で、1690年・1691年のアスローン包囲戦に関わった様々な人々を指す。包囲戦の人々 – 主な登場人物1. Colonel Richard Grace(リチャード・グレース大佐) ジャコバイト側(ジェームズ2世支持)指揮官 頑固で老練な指揮官。1690年の第一次包囲戦でアスローンを守り抜いた英雄。 降伏を求められた際、「これが私の返事だ!」とピストルを空に撃ち、拒否したことで知られる。2. General Godert de Ginkel(ギンケル将軍) ウィリアマイト軍(ウィリアム3世側)の司令官 オランダ出身。1691年の第二次包囲戦でアスローンを落とした。 浅瀬(古い渡し)を利用して川を強行突破するという奇策で勝利した。3. Sergeant Custume(カスチューム軍曹) アスローンを守ったジャコバイト側の兵士。橋を破壊する任務に志願し、敵の銃撃にさらされ ながらも爆破に成功。 仲間とともに命を落としたが、その勇気は今なお称えられ、銅像も建てられている。4. Margaret Daly(マーガレット・デイリー) 一般民間人の代表として語られるアイルランド人難民の女性。 戦火の中で家族を失い、飢えや略奪、暴力に苦しむ姿が再現展示で紹介されている。 戦争がもたらした市民への被害と悲劇を象徴する存在。5. Rapparees(ラパリーズ) ジャコバイト側に協力したゲリラ兵・義勇兵たち。 湿地や森林に潜み、ウィリアマイト軍への奇襲や物資の略奪を行った。 一般市民の中からも参加者が多く、戦後は厳しく処刑された者もいる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.15
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「Irish National Stud & Gardens・アイリッシュ・ナショナル・スタッド & ガーデンズ」を後にして、次の目的地の「Athron Castle・アスローン城」に向かう。 再びM7を利用して西に進み、Junction 14 Mayfieldにて R445 と R420 を利用してTullamore まで進む。その後N52に移りM6,N6を進み、激しく天候の変わる中、OMACH・オマーにて高速を降りる。途中、タブレットのナビの現在地指示アイコンが動かなくなっているのを発見。そして数分後に突然動き出すことを何回か繰り返したのであった。おそらく、GPS信号が弱い場所があり、現在地指示アイコンが動かなくなっていたのであろう。アイルランドは日本のようにどこでも通信エリアが整備されている訳ではなく、田舎のほうでは電波が弱く?無く?なってしまう場合があるようであった。 その後は、旅友Hさんがインストールしていた、Apple純正アプリ「マップ」の応答性が比較的良いことが判明したので、我がiphonesにも急遽インストールして、これを使ったのであった。GPS信号の強弱の関係で完璧ではなかったが、このナビだと、ラウンドアバウトでは日本語音声で「ロータリー、2つ目の出口です」などと案内してくれ、とても分かりやすく、感動ものなのであった。 そしてAthlone・アスローンの街の中を走り「Athlone Castle・アスローン城」の到着。 中央にシャノン川が流れ、その側に13世紀に建てられた城がどっしりと構えていた。アスローンはアイルランド島のほぼ中央に位置するため、長い間戦略上の重要地点として栄えて来た町。周辺には初期キリスト教修道院跡のクロンマクノイズがあった。「Athlone Castle・アスローン城」の航空写真をネットから。「ATHLONE CASTLE」。 ズームして。「ATHLONE CASTLE・アスローン城」は、12世紀から今日までの豊かな歴史を体験できる魅力的な観光施設。戦略的要衝として繰り返し包囲戦に晒されたドラマを、最新の展示体験として“体感”できるのが大きな魅力なのであった。スロープを上って行く旅友。石の壁には銃眼用の狭間(防御用の穴や窓)が設けられていた。入城料はSeniorで8€/人。「i」マーク:一般的に、観光案内所を示すマークとして広く認知されている。このマークのある場所では、JNTOが提供する情報やサービスを受けることができるのであった。This Natiohal Monument is in the care of the Commissioners of Public Works for theState under the provisions of the National Monuments Acts.The Pubtic are requested to aid the Commissioners in preserving it.Injury or defacement is severely punishabLe by Law.【この国定記念物は、「国定記念物法」の規定に基づき、国家のために公共事業委員会の管理下にあります。一般の皆様には、この記念物の保護にご協力いただくようお願いいたします。損傷や落書きなどの行為は、法律により厳しく罰せられます。】と。「ATHLONE CASTLE・アスローン城」城内への入口門。「ATHLONE CASTLE・アスローン城」は、アダムソン城とも呼ばれ、アイルランドのウェストミース州アスローンにある12世紀に建てられた城。アスローンの記録に残る最古の「城」は、1129年にコノートの王タイアデルバッハ・ウア・コンホベアによって建てられた木造建築物で、おそらく現在の城の場所に建てられたと考えられている。現在も残る石造りの城は1210年に遡り、ジョン王のために、アイルランドの法務長官であったノーリッジのジョン・ド・グレイ司教によって建てられた。この城は、アスローンの川の渡河地点を守り、ノルマン人のコノートへの進軍を容易にするための橋頭堡となることを目的として建設された。アスローン城ビジターセンター。アスローンの城の中に入ると写真の要塞塔があった。要塞塔の中にはアスローン・キャスル・ビジターセンターがあり、大規模な改修を経て2012年にリニューアルオープンしたと。要塞塔の前に設置された2つの迫撃砲は、ウィリアマイト戦争にまでさかのぼると考えられている。城内には大砲の如き夜間照明装置が設置されていた。アスローン城は博物館と体験型展示施設として大きく整備された と。🔹 展示内容:・アスローンの歴史・文化・包囲戦の360度映像体験・中世の暮らし、兵器、服装などのインタラクティブ展示・サージェント・カスチュームなど英雄人物の紹介・アイルランドの伝統音楽や詩人、ジョン・マコーマック(テノール歌手)の・展示(2014年追加)チケット売り場にあった騎士像。城内の写真撮影はNO FLASHっであれば可と。「EARLY SETTLEMENT AT ATHLONE Athlone is located on the intersectlon of along gravel ridge with the Shannon to providea convenient river crossing. Its name is anglicisation of the lrish Ath Luain,meaningeither the ford of Luan or the ford of the haunch. The recovery from the riverbed ofalmost a score of Neolithic stone axeheads and more than fifty Bronze Age weapons and ornarnents indicates the ford's importance in prehistoric times. Survivmg graveslabs suggest that Athlone was an Early Christian settlernent site, but much inferior in importance to Clonmacnoise, which that time was also the principal crossing point on the mid-Shannon.ln the twelfth century the balance swung in favour of Athlone with the rise to power of the first bridges and castle, and used the crossing to make frequent belligerent incursions into Meath. They also supported the church-reform movement by founding 3 Cluniac priory on the west bank of the river.【アスローンにおける初期の定住アスローンは、砂利の多い長い尾根とシャノン川が交差する地点に位置し、川を渡るのに便利な場所にあります。その地名「Athlone」は、アイルランド語の「Ath Luain(ア・ルアン)」の英語化で、「ルアンの渡し場」または「腰(尻)の渡し場」という意味です川底から発見された約20点の新石器時代の石斧や、50点を超える青銅器時代の武器・装飾品の存在は、この渡し場が先史時代においても非常に重要だったことを示しています。現存する墓石からは、アスローンが初期キリスト教時代に定住地であったことがうかがえますが、当時の重要性は、同じくシャノン中流の主要な渡河地点であり宗教的中心でもあったクロンマクノイズ(Clonmacnoise)には及びませんでした。12世紀になると、アスローンの地位は大きく上昇します。最初の橋と城の建設によりこの場所の戦略的価値が高まり、アスローンはしばしばミース地方(Meath)への軍事的侵攻の拠点として使われるようになります。また、シャノン川西岸には、教会改革運動の一環としてクリュニ(Cluniac)修道会による修道院が建設されました。】「❝894。A VICTORY WAS GAINED OVER THE CONNACHTMEN ATATHL〇NEBY THE MEN OF WEST MEATHAND A SLAUGHTEROF HEADS LEFT BEHIND WITH THEM❞ANNALSOF FOUR MASTERS」 【アイルランドの歴史書『フォア・マスターズ年代記(Annals of the Four Masters)』の一節】894年。アスローンにおいて、ウェスト・ミースの人々がコノート人に勝利し、彼らに多くの首を残していった(=大虐殺を行った)。フォア・マスターズ年代記】入り口ですぐに、古代のキリスト教のレリーフと後期(17世紀)の紋章のプレートが迎えてくれた。Evangelist Slab (Early Christian)・伝道者石板(初期キリスト教)Evangelist Slab (Early Christian)This sandstone slab of which the bottom half is missing, bears an elaborate ringed crossthat is decorated with spirals and interlace. A unique feature is the depiction of theevangelists St. Mark and St. Luke on either side of the ring.This slab is by far the most elaborate surviving commemorative stone of the Irish EarlyChristian period and clearly commemorated a person of considerable importance.This slab is inscribed OR DO. A further fragment, now in the collection of NMI,depicts St. Matthew and is inscribed MUIR which are clearly the opening letters of thedeceased’s name, together with the letter M. Stylistically , the slab was the product ofa school of accomplished stone carving, centred on the midlands in the late 9th and 10th centuries.【伝道者石板(初期キリスト教)下半分が欠損しているこの砂岩の板には、螺旋模様と絡み合った模様で装飾された精巧な環状十字架が刻まれています。この十字架のユニークな特徴は、環状十字架の両側に福音記者の聖マルコと聖ルカが描かれていることです。この石板は、アイルランド初期キリスト教時代に現存する記念碑の中で、群を抜いて最も精巧なものであり、明らかに重要な人物を記念したものとされています。この石板には「OR DO」刻まれています。また、現在NMIのコレクションにあるもう一つの断片には、聖マタイが描かれ、「MUIR」と刻まれています。これは明らかに故人の名の頭文字と「M」を合わせたものです。この石板の様式は、9世紀後半から10世紀にかけてミッドランド地方を中心に活躍した、熟練した石彫刻の一派の作品です。】この石板は?中央に円形の節点(結び目)があり、そこから四方に線状装飾が伸びる形式は、典型的なケルト十字(Celtic Cross)のモチーフ。ピント不足で解読できなかったが。次の石板。同様に。中央にBRONZE SHIELD REPLICAA fortunate case of mistaken identity!A real treasure masqucrading as rubbish【青銅の盾(複製品)幸運な誤認の一例!本物の宝物が、まるでゴミのように見なされていたのです。】1.Stone axeheads・石斧頭3.Stone adze(Neolithic)・石斧4.???5.Bronze axehead6.Bronze shield建設当初・1800年以降の「Athron Castle・アスローン城」の姿か!?Quern-stones・石臼(いしうす)Pot-shaped rotary hand quernRotary quern stones were first introduced into Ireland circa 150 BC.The device consists of two circular stones with matching surfaces, and is ‘pot-shaped’ where the lower quern has a raised edge or rim. Grain was fed into the hole in thecentre of the top stone, which was rotated by a manually operated handle insertednear its edge. This process crushed the grain between the stones allowing the finished flour to trickle out through the slot in the rim of the lower quern.【壺型の回転式手挽き臼(クォーン)回転式の石臼は、紀元前150年ごろにアイルランドに初めて導入されました。この装置は、表面が合うように作られた2枚の円形の石で構成されており、下の石臼に縁(ふち)があることで“壺型”と呼ばれています。上の石の中央にある穴から穀物を投入し、縁の近くに挿した取っ手を使って手で回転させます。穀物は2枚の石の間ですり潰され、加工された粉は、下の石の縁に設けられた溝からこぼれ落ちる仕組みになっています。】在りし日の「Athron Castle・アスローン城」の絵画。近づいて。「CHANGES TO THE CASTLEAthlone is strategically important as the principal river crossing on the mid—Shannon. This was recognised by King Toirrdelbach ua Conchobair of Connacht,who built thefirst castle at Athlone to guard his new bridge.An Anglo-Norman motte or fortifieied mound on the west bank that followed had thesame function.It formed the core of the present stone castle, originally started by the lrish governor,Justicia rJohn de Gray.On—going military and administrative use over the centuries brought many improvetnentsand additions.The ca.stle's present appearance result from its remodelling as an artilldry platform andsmall barracks soon after 1800.」 【城の変遷アスローンは、シャノン川中流における主要な渡河地点として戦略的に非常に重要な場所です。このことを認識していたコノート王、トールデルバッハ・ウア・コンホバルは、自らが架けた新しい橋を守るため、アスローンに最初の城を築きました。その後、シャノン川西岸に築かれたアングロ・ノルマン様式のモット(人工的な土塁)または要塞化された塚も、同様に橋を守る役割を果たしました。これが現在の石造りの城の中心部分を成しており、もともとはアイルランドの総督であったジョン・デ・グレイが建設を開始したものです。何世紀にもわたる軍事・行政上の利用により、城には多くの改良や増築が施されました。現在の城の外観は、1800年以降まもなく、砲台と小規模な兵舎として再設計された際の姿に由来しています。】日本の鎖帷(くさりかたびら)の原型か?17TH CENTURY ARMORIAL PLAQUEHow to advertise your business the 17th century way【17世紀の紋章プレート— 17世紀流「ビジネス広告」の方法 —】この写真は、アスローン城(Athlone Castle)に展示されていた石製の盾型の紋章(ハーバルディック・シールド)と記念碑です。中央には、ヘラルディック(紋章学)に基づく盾のデザインが彫刻されています。上部の横帯(バー)には三つの花模様があり、その下には逆V字型の模様が刻まれています。盾の左右には数字「16」と「21」が彫られており、1621年にこの石が設置されたことを示している。下部には大文字で次のような刻字がある。「ERECTED BY W. MAPE MARCHAN」これはおそらく次のように解釈できます:ERECTED BY(建立者)=「〜によって建てられた」W. MAPE は人物名(例:William Mape)MARCHAN は姓または職名(「Merchant=商人」の古綴りの可能性もあります)つまり、この石は1621年にウィリアム・マープ(W. Mape)という人物によって建立されたものである可能性が高い。この紋章は?左右に分かれた帯の上に、ライオン(またはそれに似た動物)のレリーフが彫られています。このような構図は、英国やアイルランドの貴族・軍人階級の紋章でよく見られるもので、「勇敢さ」や「戦いの名誉」などを象徴。左下に「6」、右下に「20」とあり、これを合わせると1620年を意味。この石は、1620年、マープ氏によって建立されたものであり、主よ、私をお守りください と。様々な石板や彫刻を展示。「medieval carving(中世の彫刻)」豪華な椅子。LONGBOW・長弓&CROSSBOW・・弩(石弓)「LONGBOWThe longbows were one of the most devastating infantry weapons of the medieval warfare,at their most effective when discharged in a volley.Traditionary of yew and two metres long.the bow was cheap to make,but required a drawing power of a 100 pounds or more.Archers were trained from boyhood and expected to maintain their skills in peacetime.A good bowman could fire off five arrows per minute.with a range of 350 metres or more.The arrows,tipped with metal points that were sometimes barbed,could penetrate allbut the best-quality steel plate armour.The longbow was particularly favoured by theEnglish and was a major contributory to their success in pitched battles with the french and Scots.In Ireland,longbow loops are often visible in the defences of castles.Can youfind one in the exterior wall of Athlone Castle? 」 【ロングボウ(長弓)ロングボウは中世の戦争において、歩兵が使用する最も破壊的な武器の一つでした。特に、一斉射撃(ボレー)で放たれたときに最大の効果を発揮しました。伝統的にイチイの木で作られ、全長は約2メートル。製作コストは安価でしたが、100ポンド(約45キログラム)以上の引きの力が必要でした。弓兵たちは少年時代から訓練を受け、平時でもその技能を維持することが求められました。熟練した射手であれば、1分間に5本の矢を射ることができ、射程は350メートル以上に及びました。金属製の先端(時にはかえし付き)を備えた矢は、最高級の鋼鉄製プレートアーマー以外は貫通することができました。ロングボウは特にイングランドで好まれ、フランスやスコットランドとの決戦における勝利に大きく貢献しました。アイルランドでは、ロングボウ用の狭間(射撃口)がしばしば城の防御構造に見られます。アスローン城の外壁に、ひとつ見つけられますか?】「CROSSBOWCrossbows were short bows mounted horizontally on a stock.The bow was drawn by a mechanical device dischanged a short arrow,called a bolt,when a trigger was released.Its use did not require the lengthy train ning needed to develop the skill and strength todraw and fire the longbow. This made crossbowmen more expensive weapon to manufacture,and its rate fire was much slower at about one bolt per minute. lts range, accuracy and penetrative power surpassed the longbow, especially after steel replaced theearlier timber bows. Crossbows were included in the stock of weapons in Athlone Castlein 13th century.」【クロスボウ(弩)クロスボウは、銃床のような台座に水平に取り付けられた短い弓です。弓は機械装置で引かれ、引き金が引かれると「ボルト」と呼ばれる短い矢が発射されました。その使用には、ロングボウを引いて撃つために必要な長期の訓練や筋力は不要でした。このためクロスボウの兵士の方が訓練は簡単でしたが、武器自体の製造コストは高く、発射速度は非常に遅く、1分間に1本程度のボルトしか撃てませんでした。しかしその射程、命中精度、貫通力はロングボウを上回っており、特に木製の弓から鋼鉄製に変わってからはその性能が格段に向上しました。クロスボウは13世紀にはアスローン城の武器備蓄に含まれていました。】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.14
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「IRISH RACEHORSE EXPERIENCE」の見学を続ける。Horses lung is 45 litres.馬の肺活量は約40~45リットルで、これは人間の10倍以上にもなります. 馬の肺の重さは体重の約1.5%を占め、これはテニスコート1面分に相当すると言われています.また、肺の左右の大きさには差があり、右肺の方が若干大きいのが一般的です と。The IRISH FIELD.アイルランドの血統、競馬、スポーツ馬の出版雑誌。 1870 年に創刊され、当初は「アイリッシュ スポーツマン アンド ファーマー」として知られ、1930 年代から 2003 年までアイリッシュ タイムズによって発行された とのこと。競馬場の光景。THE INDUSTRY.競馬用具の展示コーナー。「インヴィンシブル・スピリット(Invincible Spirit)」像。この彫刻は、2003年から2023年まで同牧場の主力種牡馬として活躍し、世界中で18のグループ1(G1)勝利馬を含む127以上のステークス勝馬を輩出した名馬 (息子に Kingman や I Am Invincible/Magna Grecia など)の功績を称えて制作されたもの。彫刻家 Simon Carman によって、単一のケルケニー産石灰岩(約20〜22トン)から削り出された、等身大またはやや大きめのレリーフ像。土台の石から「馬が大地から現れるように彫られている」点が設計の鍵となっており、「触れて、目や尾、体の質感を実感できるように」作られているのだ と。アイルランド国立スタッドの牧草地で戯れる馬たちLiving Legends・「生きる伝説」の名馬達。アイリッシュ・ナショナル・スタッドでは、偉大な名馬がそれにふさわしい素晴らしい余生を送っています。当牧場には、チェルトナムゴールドカップ、チャンピオンハードル、クィーンマサーチャンピオンチェイス、ロイヤルアスコットゴールドカップなど、国際的な名門レースで勝利を挙げたLiving Legend・「生きる伝説」の名馬がいます。チャンピオンとして君臨した日々を思い出しながら、場内の芝生でゆったりとくつろぐ姿をご覧ください。Living Legend・「生きる伝説」の名馬に近づいて。君の名は??世界最高級の種牡馬世界中の生産者から、当牧場の種牡馬と交配させる繁殖牝馬が送られてきます。2月から5ケ月間にわたる繁殖シーズン中に100 ~ 200頭もの種付けを行う種牡馬もいます。種牡馬の予約を確保するために、繁殖牝馬のオーナーは高額の費用を支払いますが、金額は種牝馬の人気の高さに応じて車並みの金額から邸宅並みの金額まで様々です。当牧場は、最高級の名馬の数々を輩出しています。チャンピオンサイアーとなったインディアンリッジは、当牧場で21年過ごし、その伝説は今でも続いています。人気種牡馬のインヴィンシブルスピリットは、世界中のチャンピオンホースの父となりました。輩出馬はオークションで数百万の高値をつけます。以下、2枚の写真はネットから。種牡馬インディアンリッジ Indian Ridgeの勇姿人気種牡馬のインヴィンシブルスピリット・INVINCIBLE SPIRIT。案内所の奥にあったレストラン。日本庭園に併設され、手作りの料理や菓子を楽しめるのであった。Pure Irish Honey。Native Irish Honey Beesの作品と。我が西洋ミツバチよりも黒っぽい品種。アイルランド在来のヨーロッパクロマルハナバチで、以下のような特徴と背景があるとのこと。学名:Apis mellifera mellifera和名:ヨーロッパクロマルハナバチ(黒蜂)別名:Irish Black Bee(アイリッシュ・ブラック・ビー)【特徴】黒っぽい体色:他の西洋ミツバチ(黄色系)と比べて色が濃く、寒冷地向き冷涼な気候に強い:アイルランドの湿潤で寒い気候に適応している。冬越し能力が高い:長期間の悪天候にも耐えられる省エネ型の性質。比較的おとなしい性格:人に対して攻撃性が低く、飼育しやすい。写真はネットから。そして日本庭園へ。1906年から1910年に飯田三郎が作庭した日本庭園は、美しいだけではありません。岩や木々、水の流れなどで命の物語を表現します。遊歩道をたどると、私たちすべてに宿命づけられている魅力的な感動に満ちた人生という旅を疑似体験することができます と。THE GARDEN OF MEDITATIONDry Sand Garden 枯山水亀島をズーム。石灯籠。新緑の美しい日本庭園を巡る。「人間の生活」を象徴するように設計されたこの庭園は、現在では国際的に有名であり、ヨーロッパで最も素晴らしい日本庭園として高く評価されているとのこと。秋になると、真っ赤に染まるのであろう。葉の真ん中が白、周囲が緑の葉の樹木。葉に模様が入る斑入りクチナシ??大きなシダ。この日本庭園は「人生の旅(The Journey of Life)」を象徴する構成になっていると。単なる景観美ではなく、人間の一生の物語を象徴的に表現した哲学的な庭であると。人生の段階 庭園のシンボル 誕生 洞窟からの入口(暗闇) 幼少期 小道や曲がりくねった橋 青年期 多くの分かれ道、急な坂、迷いの庭 成熟期 開けた展望台、広がる池と橋 老年期・死 静かな池や石の道、出口に通じる門「誕生の洞窟」。 人生の第3段階は「無知のトンネル・Tunnel of Ignorance」。「『誕生の洞窟』から始まり、私たちは人生を歩み始めました。「無知のトンネル」を抜けると、人生が私たちに提示する選択を経験し始めました。容易な道か困難な挑戦か。失望、野心、そして知恵はすべて石畳の道に沿ってやってきます。気楽な散歩道もあれば、険しい坂道もありますが、すべては人生への道の一部なのです」 と。暗い岩組の中を歩く。Red Bridge(朱橋)の「生命の橋(The Bridge of Life)」。まるで、日本いると錯覚する美しい光景。朱と緑のコラボが見事。生命の橋を渡る。生命の橋は平和と満足の庭へと渡ります。そして茶室へ。「TEA HOUSE (茶室)Tea drinking was introduced to」Japan in the 7th century.It only gainedpopularity in the 12th century, when the founder of Zen Buddhism (MyoanEisai) commenced the practice for religious purposes and health benefits.【7世紀に茶が日本に伝わったが、12世紀になってようやく広く親しまれるようになった。禅宗の開祖・明菴栄西(みょうあん えいさい)が、宗教的な目的や健康のために茶の習慣を始めたことがきっかけである。】The true father ofthe tea ceremony (chanoyu), was a Zen Buddhist monk callcMurata Shukou (1423-1502). He is also credited with the original design of thesmall tea room. its purpose being to provide a simple and tranquil space for thepreparation and drinking of Matchu (powdered green tea).【茶の湯(ちゃのゆ)の真の創始者は、禅僧・村田珠光(むらた しゅこう/1423年〜1502年)であるとされている。彼はまた、茶室の元となる小さな部屋の設計を考案した人物としても知られている。その目的は、抹茶(粉末緑茶)を点(た)てて飲むための、質素で静かな空間を提供することにあった。】The classic tea house is a simple wooden structure with 3 main features:Shoji windows and sliding shoji doors made of wooden lattice covered in a translucent paper; Tatami (floor mats); Tokonoma scroll alcove.」 【伝統的な茶室は、質素な木造建築であり、主に次の3つの特徴を備えている。 1.障子(しょうじ):木の格子に半透明の和紙を張った、障子窓や引き戸。 2.畳(たたみ):床一面に敷かれた畳。 3.床の間(とこのま):掛け軸などを飾るための alcove(床の間の飾り棚)。】正面から。秋になると(ネットとから)。石灯籠のある池。清き流れ。藤棚も。流れに段差を設けて。白き流れ。カラフルな馬の像が。茶の湯の「わび・さび」とは対照的な鮮やかな装飾が庭園の中にあることで、静と動、伝統と現代の対比を感じさせる演出なのであろう。アヤメであっただろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.13
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【海外旅行 ブログリスト】👈️リンク駐車場に車を駐めて、「IRISH NATIONAL STUD & GARDENS」の散策開始。 「IRISH NATIONAL STUD & GARDENS」は、キルデア郊外約1マイル(約1.6Km)にあった。ダブリンからは30マイル(約48.3Km)。国立の競走馬育成施設と庭園で、アイルランドが誇る馬産業と園芸文化を一度に体験できるユニークな観光スポットである と。入園料はSeniorは€17/人 と。入口仮設売店ではアイスクリームを販売中。現在はアィリッシュ・ナショナル・スタッドと呼ばれている800エーカー(約323.7ヘクタール)のこの牧場は、1900年から数々の馬を育成していると。英国王室の友人であったウィリアム・ホーカー大佐は、競馬に情熱を傾け、タリーの地をヨーロッパ随一の種馬飼育場にするために取り組んだのだと。開園時間はAM9時~PM6時。最終入場時間はPM5時 と。案内所・チケット窓口に向かって進む。「IRISH RACEHORSE EXPERIENCE」案内板。Journey through the rich heritage of the lrish thoroughbred and enjoy the award winning Irish Racehorse Experience. Racing's most thrilling adventure where you have the chanceto purchase,name and train your own racehorse in a thrilling real time race whichi isguaranteed to set the pulses racing.【アイルランドのサラブレッドの豊かな伝統をめぐる旅に出かけ、受賞歴のある「アイリッシュ・レースホース・エクスペリエンス」をお楽しみください。ここは競馬のスリルを存分に味わえる体験型アトラクションです。あなた自身の競走馬を「購入」し、「名前をつけ」、そして「調教」して、リアルタイムのレースに参加することができます。心が高鳴ること間違いなしの、臨場感あふれる競馬体験をお楽しみください。】と。案内所・チケット窓口前の植栽には、松の樹の下に石灯籠があり、日本庭園の如し。案内所・チケット窓口の入口。戴いたパンフレット。日本語のパンフレットが置いてありました。馬に関するビデオ映像や本が並んでいた。そして園内の散策開始。様々な花が迎えてくれた。シャグマユリ(赤熊百合)。何本も伸びる花茎の先にオレンジ色の花穂をつけた姿が雄大。下向きに咲く筒状の花の色が咲き進むにつれて変化する姿を燃えるたいまつ(トーチ)に見立て、トーチリリーの英名がある。野生種の多くは南アフリカの高地に自生。日本で多く栽培されているのはヒメトリトマ(Kniphofia rufa)で、花は蕾のときはオレンジ色で、開花すると黄色に変化する。アリウム・ギガンチウムの後ろにあったのがミツバチの巣箱。アイルランドの在来種の蜜蜂は、black honeybee。black honeybeeであろうか?ルピナス。さらに花をカメラで追う。この花は?赤いポピーの花に似ていたが。オリエンタルポピーか。そして「星と海の像(シー・オブ・スターズ像)」。 「COLONEL WILLIAM HALL WALKER 1856-1933Our founder,William Hall Walker (born 1856) , was the son of wealthy brewing familyoriginally based in Scotland. A sportsman, a gambler, commentator and critic, he led acolourful life and his visionary declarations marked him as major force in the emergence of the Thoroughbred.While stationed in India with the army,Walker had also developed a fascination with Eastern philosophies, including Buddhism and astrology.Thanks to his Grand National winner callcd The Soare in1896 , William purchased his farmland site here at Tully and set about creating his own stud farm - Tully Stud.Considered 'preposterous' at the time, Walker applied astrological theories to hisbreeding ptogram and built satables that enabled horses gain to maximum exposureto the celestial influence.lt was said that astrological charts were produced for each new foal,but if Colonel didn't lile the stars, regardless of its bloodline, the foal would be sold immediately. Here in ourHorse Museum,a horoscope book in glass display lies open on the pedigree chart of a bay colt name Lord of the Sea.The verdict is not good:"Saturn in his 5th House...makes him very little good for racingor stud purposes...no good at all except for selling".Despite criticism, Walker continued his policy and became a leading breeder of the decade,assembling an impressive band of foundation broodmares.In the 10 year periodof 1904-1914 there were seven Classic winners bred at Tully including Minoru(Derbyand 2000 Guineas),Prince Palatine(St Leger and Ascot Gold Cup)and Cherry lass(Oaksand 1,000 Guineas)-an incredible record.His love of Eastern culture also led him to establish our impressive Japanese Gardenーthe first of its kind in Europe.In 1915 he gifted Tully Stud and all its stock to the Crown and this land subsequently became the lrish National Stud.Elevated to the peerage in 1919 , Colonel Willam Hall Walker then became Lord Wavertree.【ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐(1856–1933)我々の創設者、ウィリアム・ホール・ウォーカー(1856年生まれ)は、もともとスコットランドを拠点とする裕福な醸造業の家系の息子でした。スポーツマンであり、ギャンブラー、評論家、批評家でもあった彼は、波乱に富んだ人生を送り、その先見の明ある言動によって、サラブレッド競走馬の世界における重要な存在として知られるようになりました。軍務でインドに駐在していた頃、ウォーカーは仏教や占星術を含む東洋の哲学に強く惹かれるようになりました。1896年、自身の所有馬「ザ・ソアー」がグランドナショナルで優勝したことをきっかけに、ウォーカーはこのタリーの地に農地を購入し、自身の牧場「タリー・スタッド」の創設に乗り出しました。当時としては「非常識」と見なされていたものの、ウォーカーは占星術の理論を繁殖計画に取り入れ、馬が天体の影響を最大限に受けられるように設計した厩舎を建てました。すべての仔馬には出生時に占星術のチャートが作られましたが、大佐がその星の配置を気に入らなければ、血統にかかわらずその仔馬はすぐに売却されたと言われています。当館のホース・ミュージアムには、ベイ(鹿毛)の牡馬「ロード・オブ・ザ・シー」の血統図の上に開かれた、ガラスケース入りのホロスコープ(占星術の本)が展示されています。その占い結果は芳しくなく、こう書かれています:「土星が第5ハウスにある……レースや種馬としてはほとんど価値がない……唯一の価値は売却にあり」批判を受けながらも、ウォーカーはこの方針を貫き、10年にわたって見事な繁殖牝馬群をそろえ、当時を代表するブリーダーの一人となりました。1904年から1914年の10年間で、タリー・スタッドではクラシック競走の優勝馬が7頭も誕生しています。たとえば、ミノル(ダービーと2000ギニー)、プリンス・パラティン(セントレジャーとアスコットゴールドカップ)、チェリー・ラス(オークスと1000ギニー)など、驚異的な記録を残しました。また、彼の東洋文化への愛情は、ヨーロッパ初となる本格的な日本庭園の設立へとつながりました。1915年、ウォーカーはタリー・スタッドとその全ての馬を英国王室に寄贈し、この土地はのちに**アイルランド国立スタッド(Irish National Stud)**となりました。1919年には貴族に叙され、**ウェイヴァートゥリー卿(Lord Wavertree)**の称号を得ました。】「ウィリアム・ホール・ウォーカー大佐(1856–1933)」像。 顔をズームして。「星と海の像」(Sea of Stars/シー・オブ・スターズ像)・英国女王エリザベス2世が2011年に訪れた際、アンソニー・スコット(Anthony Scott)氏が 制作した記念の彫刻。・直径約2 mの円形で、表面には黄道十二星座や星座のモチーフが刻まれ、星空を想起させる デザインである と。・円形?を覗き込むことで、まるで夜の星空に包まれたかのような感覚が得られる、参加型の彫刻。近づいて。馬やトランプカードが。「星と海の像」(シー・オブ・スターズ像)越しに。近くの池の噴水。園内案内図。道路脇にも案内板が。modest cottage。ユニークな材料で作られた木製の馬の親子像。材料が馬の筋肉を表すが如くに。「IRISH RACEHORSE EXPERIENCE」案内板。AN EXPERIENCE NOT TO BE MISSED!Journey through heritage of the lrish thoroughbred and enjoy the award winning Irish Racehhorse Experience,Racing's most thrilling adventure where you have the chance topurchase,name and train your own racehorse culminating in a thrilling real time racewhich is guaranteed to set the pulses racing.Children under 124cm are welcome to visit the attraction but must be accompanied by an adult and cannot participate in the race. The expercence is open t0 all valid ticketholders and takes approximately 45 minsOpening Hours:11AM-4pm【「アイリッシュ・レースホース・エクスペリエンス」― 絶対に見逃せない体験!―アイルランド産サラブレッドの伝統と栄光をめぐる旅へようこそ。受賞歴を誇る**「アイリッシュ・レースホース・エクスペリエンス」**では、競馬の世界で最もスリリングな冒険があなたを待っています。ここでは、自分の競走馬を「購入し」「名前を付け」「トレーニング」するという体験ができ、最終的にはリアルタイムのレースで白熱のフィナーレを迎えます。心が躍るような興奮を、ぜひ体感してください。身長124cm未満のお子さまも来場可能ですが、必ず保護者同伴での入場となり、レースには参加できません。この体験は、有効なチケットをお持ちのすべての方がご利用いただけます。所要時間は約45分です。営業時間:午前11時〜午後4時】「IRISH RACEHORSE EXPERIENCE」の建物入口。休憩ベンチも備えられていた。放馬場の眺め。「horses and horseracing have been at the heart of our culture」 【馬と競馬は、私たちの文化の中心にあり続けてきました。】出産シーン。競走馬の競売シーン。心臓の大きさの比較。エリート人間スプリンター、サラブレッド、そして牛の心臓。「A Thoroughbred's heart usually weighs around 1% its body weight.Young horses with the largest hearts often become above-average performers in their racing careers .Secretariat,the holder of several record race times,had a heart almost twice as large as that of the average Thoroughbred!」【サラブレッドの心臓は、通常その体重の約1%の重さがあります。若い馬の中で心臓が特に大きい馬は、その後の競走成績が平均以上になることがよくあります。いくつものレース記録を保持している**シークレットアリアト(Secretariat)**は、平均的なサラブレッドのほぼ2倍の大きさの心臓を持っていたのです!】 An adult horse has a resting heart rate of around 30 to 50 beats per minute.Walking,trotting,and cantering raise these rates to around 80,130,and 180,respectively,and the pulse of a galloping horse reaches a maximum of 220 to 240 beats per minute. At thehighest level of exercize,the heart is beating about four times per second.【成長馬の安静時の心拍数は、およそ1分間に30〜50回です。歩くとき、速歩(トロット)、駈歩(キャンター)では、それぞれ心拍数は約80回、130回、180回に上昇します。全力疾走(ギャロップ)時には、心拍数は最大で1分間に220〜240回に達します。最も激しい運動の際には、心臓は1秒間におよそ4回も鼓動しているのです。】Try lifting each of the model hearts below-that of an elite human sprinter, a Thoroughbredand a cow.【下にある模型の心臓をそれぞれ持ち上げてみましょう――エリート人間スプリンター、サラブレッド、そして牛の心臓です。】You might need both hands!You'll fell their weight and heartbeat. 【両手が必要かもしれません!その重さと鼓動を感じてみてください。】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.12
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昨日の我が家の前のヒマワリ・向日葵畑です。あっという間に満開になりました。和名「向日葵」の由来は、太陽の動きにつれてその方向を追うように花が回るといわれたことから。ただしこの動きは生長に伴うものであるため、実際に太陽を追って動くのは生長が盛んな若い時期だけである。若いヒマワリの茎の上部の葉は太陽に正対になるように動き、朝には東を向いていたのが夕方には西を向く。日没後はまもなく起きあがり、夜明け前にはふたたび東に向く。この運動はつぼみを付ける頃まで続くが、つぼみが大きくなり花が開く頃には生長が止まるため動かなくなる。その過程で日中の西への動きがだんだん小さくなるにもかかわらず夜間に東へ戻る動きは変わらないため、完全に開いた花は基本的に東を向いたままほとんど動かない のだ。太陽に向かって咲く姿が、生命力と希望を象徴していると感じるのだ。見る人を元気にする明るさとエネルギーがある花。群れ咲くひまわり畑は、まるで黄色い海のように壮観そのもの。大輪で堂々とした花姿が、ひときわ目を引く存在感を放っているのだ。この日は青空ではなかったが、青空とのコントラストが見事で、夏の風景を絵画のように彩るのだ。日本人がひまわりを好きな理由は?明るく前向きなイメージが日本人の心に響くから → まっすぐ太陽を向いて咲く姿が「希望」「元気」「前向きさ」を連想させる。東日本大震災の被災地などで「復興の象徴」とされたこともあるから → 福島などで放射能を吸収する植物として植えられたり、祈りの花としての意味も強まった。「ひまわり=笑顔」というイメージが文化に根付いているから→ 花の姿が笑顔に似ているという連想から、心が和む存在として親しまれている。大輪で華やかだが、気取りがなく素朴さがあるから→ 美しさと親しみやすさのバランスが、日本人の「控えめな美意識」に合っている!?映画やドラマ、ポスターなどで感動の象徴として描かれてきたから → 映画『ひまわり』(1970年)などの印象的な作品で、切なさや愛の象徴としての イメージも加わった!?。 →大谷翔平がホームランを打つと、ベンチ前でチームメートがひまわりの種を、 “ひまわりの種”シャワーとして顔面に!!2列のひまわり畑。こちらは、北東方向を向いて。ところどころに、他所見をしている花の姿も。そして我がミツバチ!??も訪花中。ズームして。上手く撮れました。・ひまわりも日陰が好きと訴える・ひまわりに目鼻をつけてみたくなる・ウクライナ散るひまわりに思い馳せ ・・・・詠み人知らず・・・・ ・・・おわり・・・
2025.07.11
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早朝散歩の帰路は、パーネル・スクエァーをホテルに向かって進む。前方左に長老派教会・Abbey Presbyterian Church。別名フィンドレイター教会。この印象的なゴシック様式の建物は、パーネル スクエアの北角にあった。 1864 年に建てられ、その尖塔は広場から 50 メートルの高さにそびえ立っていた。3つ星ゲストハウス THE CHARLES STEWART・ザ チャールズ スチュワート 。ゲストハウスとは、主に旅行者向けに提供される、比較的安価な宿泊施設のこと。ドミトリー(相部屋)や共用スペースを多く持ち、宿泊費を抑えつつ、他の旅行者との交流を楽しめるのが特徴。ホテルや旅館とは異なり、サービスやアメニティは必要最低限に抑えられていることが多いのだ。THE CHARLES STEWARTダブリンには58室の客室があり、リフィー川から徒歩で約5分に位置している と。長老派教会・Abbey Presbyterian Churchの内部を訪ねたかったが・・・。外部から美しい姿をカメラで追ったのであった。尖塔の2台の時計はいずれも!!??東側には 3 段の角玄関塔と尖塔、西側には 3 段の階段塔、東側の身廊は 3 重切妻となっていた。ステンドグラス。アイルランド共和国の郵便ポストはアイルランドのシンボルカラーである緑色。右側の路地の奥にSt. George's Churchの尖塔が見えた。ズームして。この路地を左折。ホテルの方向に進む。歩いて来た道そして長老派教会・Abbey Presbyterian Churchを振り返って。アイリッシュ パブ・Glynn's Wellington House.ズームして。7:50前にホテルに戻る、そしてこの日から利用するレンタカー店・HERTZに向かってYさんと徒歩にて向かう。スマホのナビに従い、住宅街のR108に沿って歩く。時間は8:30。そして徒歩にて15分ほどでレンタカー店に到着。レンタカーが並ぶ。BMW M2クーペをレンタルしてガソリンスタンドに向かうが見つからないので、諦めてとりあえずホテルに向かう。そしてホテルに戻り、4人の大きなバッグをなんとかトランクに詰め込んで、この日の最初の観光場所のKildare・キルデアにある「Irish National Stud & Gardens・アイリッシュ・ナショナル・スタッド & ガーデンズ」に向かってスタート。Yさんの運転、私が助手席でナビルこととした。まずはガソリンを満タンにして一安心。高速道路N7をめざして進む。スマホが示したルートに従って進む。スマホのナビに従い、R148からM50へ。ひたすらM50を。アイルランドの高速道路(Motorway)の制限速度は、一般的に時速120キロメートル。国道(National Road)は時速100キロメートル、地方道(Regional Road)と地方道(Local Road)は時速80キロメートル、集落に近づくと時速60キロメートル、集落内は時速50キロメートルが基本であった。M50からN7へ。アイルランドの道路標識では、Mは高速道路、Nは一般道路、Rは地方道路、Lは田舎道路を示していた。N7がM8、M9に繋がっていることを示しているのであろう。アイルランドでは車は日本と同様に左側通行。よって車は右側ハンドルが原則と。日本を含め、世界には左側通行の国がいくつか存在する。具体的には、イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、インド、タイ、インドネシアなど。これらの国々は、過去の歴史的経緯や、イギリスの影響を受けて左側通行を採用しているのだ。高速道路は基本的に無料だが、首都ダブリンを取り巻くM50環状高速だけは有料と。料金所は無く、通行時にナンバープレートを写真に撮られていて、通常は翌日までにインターネットで支払う仕組みだと。非常に合理的だし、日本のETCのように車に装備を付ける必要がないとのこと。 レンタカーの場合は、後日レンタカー会社より料金引き落としがある と。ここアイルランドでも後部座席もシートベルト装着が義務付けられているのであった。M7高速道路は、ダブリンからリムリックまでを結ぶ主要な高速道路。ルートは、ダブリンから南西に進み、キルデア、ポートリーシー、ニーナー、キャッスルツロイなどを経由してリムリックに至る。M7高速道路のルート詳細:・起点:ダブリン・終点:リムリック (Limerick)・主要経由地: キルデア (Kildare) ポートリーシー (Portlaoise) ニーナー (Nenagh) キャッスルツロイ (Castletroy)ラウンドアバウト(roundabout)👈️リンク を通過。ラウンドアバウトとは、原則として中央に島があり、その周状に道路が走る交差点のこと。信号機がなく、環状の道路を時計回りに通行するのが特徴。事故のや交通の円滑化に繋がるとされているのだ。・ラウンドアバウトに進入する際には徐行が必要で、環状道路を走行している車が優先されます。・徐行して進入し、環状道路を通行する車を優先する。・環状道路は時計回りの一方通行なので、逆走や駐車、停車、後退は禁止。・出口に近づいたら、方向指示器を出し、安全を確認して環状道路から出る。一般的なラウンドアバウトの特徴。ヨーロッパを中心に普及しており、日本でも近年導入が進んでいる。これは、長野県下伊那郡高森町のラウンドアバウト。そしてN7からM7へ。この高速道路M7は平原地帯が続く。M7の両側には牧草地が拡がっていた。車の窓からは羊たちの姿も。M7を下りて、13番出口を出てナーニー方面へ進み、R415号線をニュータウン・クロスまで進む。その後左折してT字路まで進む。そして何とか目的地の「IRISH NATIONAL STUD GARDENS」に到着したのであった。 住所:Tully East, Tully, Co. Kildare, R51 AP20 アイルランド アイルランド、キルデア州タリー、ブラリスタウン・リトル、R51 AP20(郵便番号)時間は11:30過ぎ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.11
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【海外旅行 ブログリスト】👈️リンク早朝のため、ゲートは閉じられていた。アイルランド語で「追悼の庭」は "Gairoín Cuimneacáin" 警備の為監視中と。「Children of Lir・リルの子供たち」を正面から見る。中央の十字架の形の池には水が張られていた。ダイスィ・ハンリーによって設計されたこの庭園は、アイルランドの自由のために命を捧げたすべての人々を追悼するために建てられた。庭園の中央には、十字形の窪みを模した噴水がある。その中心には、オイシン・ケリー作の「リルの子供たち」の像があり、900年にわたる独立闘争の後のアイルランド国家の再生を象徴している と。「Children of Lir・リルの子供たち」をズームして。・彫刻家 Oisín Kelly による青銅像(1971年設置)。・アイルランド神話「リールの子供たち」では、呪いにより白鳥に変えられた子供たちが 解放される物語が語られます。・これは「アイルランド民族の犠牲と復活」を象徴しています と。横から。🕊 物語の概要・神話上の王リール(Lir)には、4人の美しい子供(Fionnuala, Aodh, Fiachra, Conn)が いました。・継母の嫉妬により、子供たちは呪いをかけられ、白鳥の姿に変えられてしまいます。・彼らは300年間湖に、300年間海に、合計900年の流浪を経て、 最後に人間の姿へと戻り、やがて天へと昇ります。・これは苦難と再生、魂の自由を象徴する物語として語り継がれています。🕊️ 彫刻の象徴Oisín Kelly はこの神話を、アイルランドの近代史(独立運動と民族の再生)に重ね合わせました。 彫刻表現 象徴する意味白鳥が上昇していく姿 苦難からの解放・魂の昇華人間から白鳥へ変わる形態 変容と犠牲、再生の瞬間水面に映る姿 殉難者の魂と、静かな追憶上昇方向の構図 国家の復興・自由への飛翔この作品全体が、「犠牲を経て自由を得たアイルランドの民の精神」を象徴している と。門の扉にもケルト十字架(Celtic Cross)が。GARDEN OF REMEMBRANCE DEDICATED TO THOSE WHO GAVE THEIR LIVES IN THE CAUSE OF IRISH FREEDOM と。【アイルランドの自由のために命を捧げた人々に捧ぐ 追憶の庭】と。左側はアイルランド語で。観光案内板か?アイルランド語で。「Parnell SquareGarden of RemembranceThe beautiful and peaceful Garden of Remembrance in Parnell Square is dedicated to the memory of all who gave their lives in the cause of lrish freedom.lntended as aplace of quiet reflection,it occupies the site where leaders of the 1916 Easter Risingwere held before being taken to Kilmainham Gaol, located four kilometres further west along the Dubline.The Garden was opened in 1966 by President Eamon de Valera on the fiftiethanniversary of the 1916Rising. Queen Elizabeth ll laid a wreath here in 2011 in a symbolic gesture ofreconciliation.Parnell square dates back to 1748, when DrBarthlomew Mosse created a pleasure garden to fund the building of the Rotunda Hospital(still situated inside the square). From 1751 to1785 developers built fineterrace houses around the pleasure gardens,giving Parnell square its present form」 【パーネル・スクエア 追憶の庭園パーネル・スクエアにある美しく静かな「追憶の庭園(ガーデン・オブ・リメンブランス)」は、アイルランドの自由のために命を捧げたすべての人々の記憶に捧げられています。静かに思索する場所として意図されており、1916年のイースター蜂起の指導者たちがキルメイナム刑務所へ連行される前に拘束されていた場所にあります(刑務所はさらに西へ約4キロの地点に位置します)。この庭園は、1916年の蜂起から50周年にあたる1966年、エイモン・デ・ヴァレラ大統領によって開園されました。2011年には、エリザベス2世女王がここに献花し👈️リンク、象徴的な和解の意を表しました。パーネル・スクエアの起源は1748年にさかのぼります。バルソロミュー・モス博士が、ロトンダ病院の建設資金を集めるために娯楽庭園を設けたのが始まりです(この病院は今もスクエア内にあります)。1751年から1785年にかけて、開発業者たちはその庭園の周囲に見事なテラスハウスを建設し、現在のパーネル・スクエアの姿が形作られました。】「Children of Lir・リルの子供たち」。Abbey Presbyterian Church, Stained Glass WindowCourtesy OfSam Boal Photographer【アビー・プレスビテリアン教会、ステンドグラスの窓写真提供:サム・ボール(写真家)】「Abbey Presbyterian ChurchOn the north side of Parnell Square is Abbey Presbyterian Church. which occupies the siteof a former Georgian town house. Completed in October 1864. the church was built in thenewly-fashionable gothic style. with elaborate architectural details inside and out.Abbey Presbyterian Church is more commonly known as 'Findlater's church'. The namederives from Alexander Findlater,the wealthy wine merchant who generously paid foritsentire construction at a cost of £13,394ーaround €1.25 million today.「 【アビー・プレスビテリアン教会パーネル・スクエアの北側にあるのが、アビー・プレスビテリアン教会です。この教会は、かつてジョージ王朝時代の邸宅が建っていた場所に建てられました。1864年10月に完成し、当時流行し始めていたゴシック様式で建築され、内外ともに精巧な建築装飾が施されています。アビー・プレスビテリアン教会は、一般には「フィンドレーターズ・チャーチ(Findlater's Church)」として知られています。この名称は、ワイン商として成功した裕福なアレクサンダー・フィンドレーターに由来しており、彼はこの教会の建設費用全額、当時の金額で13,394ポンド(現在の価値に換算して約125万ユーロ)を寄付しました。】「The Hugh LaneLocated in Charlemont House. the Hugh Lane gallery is the first-known public galleryof modern art in the world. The gallery was founded by the art collector, Sir Hugh Lane,who left his priceless collction to the peopleof Dublin.The collection includes superb French and lrish impressionist pieces. Francis Bacon's London studio and marvellous examples of Harry Clarke's stainedglass work. more of which can be seen in site at the Church of St Nicholas de Myra onFrancis street,along the Dubline Trail.【ヒュー・レーン美術館ヒュー・レーン美術館は、シャーモント・ハウス内にあり、世界で最初に設立された近代美術の公立美術館として知られています。この美術館は、美術収集家であるヒュー・レーン卿によって創設され、彼の貴重なコレクションはダブリン市民に遺贈されました。コレクションには、フランスやアイルランドの印象派の優れた作品、フランシス・ベーコンのロンドンのアトリエ、そしてハリー・クラークによる素晴らしいステンドグラス作品などが含まれています。ハリー・クラークの作品は、ダブリン・トレイル沿いのフランシス通りにあるセント・ニコラス・デ・マイラ教会でも見ることができます。】石碑もあった。「 Site of the Rotunda Rink(ロトンダ・リンク跡/1916年の関連地)」は、アイルランド独立運動の象徴的な出来事である「イースター蜂起(Easter Rising)」と深い関わりのある歴史的な場所である と。「1916 Site of the Rotunda Rink」 Rotunda Rink(ロトンダ・リンク)は、元々はスケートリンクや催し物会場として使われていた建物で、ダブリンのパーネル・スクエア(Parnell Square)付近、ロトンダ病院の近くにありました。1916年のイースター蜂起の前、ここはアイルランド義勇軍(Irish Volunteers)や市民軍(Citizen Army)によって、武器の隠し場所や訓練、計画の集会場所として使用されていたことが知られています。蜂起直前、義勇軍たちはこのリンクで集結し、武器の準備や最終的な指令の確認を行いました。ここから武装した志願兵たちが、GPO(中央郵便局)などの主要拠点へ向かい蜂起を開始したのです。Panell Square Eest・パーネル・スクエアー・イースト路を、昨日訪ねたパーネル記念碑に向かって進む。昨日も見たRotunda Hospitalが見えた。右手にあったのが「GATE THEATRE」。「GATE THEATRE」「GATE THEATRE」は、ダブリンにおける伝統的なアイルランド演劇(アビー座など)とは異なり、国際的で前衛的な劇作家の作品を取り上げる場として設立された。特徴的な点:・シェイクスピアやイプセン、チェーホフ、ベケット、ピランデルロなどの外国の名作を 積極的に上演・当時のアイルランド劇界では珍しかった、洗練された照明や演出を導入・美術や衣装の美しさにも定評があり、視覚的な完成度の高い舞台で知られている。「GATE THEATRE」の脇門であったか?ミュージカルアビ・モーガン作『LOVESONG』公演日 – 2025年5月9日~6月15日設立年:1928年創設者:ヒルトン・エドワーズ(Hilton Edwards)とミシェル・マクリアモア (Micheál MacLiammóir)こちらが入館門であっただろうか!?そして前方に昨日も訪ねた「Parnell Monument・パーネル記念碑」。イベント会場・The Ambassador Theatreの前にあったこれは牛馬の??の水飲み場??「Parnell Monument・パーネル記念碑」を見上げて。「THE AMBASSADOR THEATRE DUBLIN」と。 アンバサダー・シアター(The Ambassador Theatre)は、ダブリン・パーネル通り(Parnell Street)165番地に位置する歴史的な円形劇場。本館は1764年にロトゥンダ病院(Rotunda Hospital)の資金調達の一環として、設計者ジョン・エンサー(John Ensor)によって社交ホール・集会場として建設された。円形の荘重な造りが特徴的。1897年に「Rotund Room」として映写を行い、1908年頃から本格的な映画上映が始まる。1910年には定期上映館として機能し、その後「Rotunda Cinema」「Ambassador Cinema」という名で親しまれた。1954年には座席1,200席に拡張され、ロビーやバルコニーも改装された と。ダブリンの様々な名所が描かれていた。再びその先にあった、世界最古の産婦人科病院・Rotunda Hospitalをみる。この歴史的建造物の一部は、もともと社交・娯楽目的の施設として建てられたものであったと。創設者:バロー・ボイド(Bartholomew Mosse)産科医であったモスは、当時のダブリンにおける妊婦の死亡率の高さを憂い、貧しい女性たちのために出産施設を作ろうと考えた。彼は寄付だけでなく、自立的な運営資金を得る方法として、演奏会・演劇・社交イベントを行うための大ホールを設計・建設した。この建物は"Rotunda"(ロトゥンダ=円形の大広間)と呼ばれ、その名前が後に病院名にもなったと。音楽会、舞踏会、展示会などを開催して、入場料収入を病院の運営費に充てる仕組みであった。「Rotunda Rooms」「Rotunda Assembly Rooms」と呼ばれ、社交の中心地としてダブリン市民に親しまれていたのだ と。再び「Parnell Monument・パーネル記念碑」。「DUBLIN CITY COUNCIL SITE NOTICE」。「DUBLIN CITY COUNCIL SITE NOTICE」(ダブリン市議会 現地掲示板)」に書かれている内容は、アイルランドの都市計画制度に基づき、建築・改修・用途変更などの許可申請が行われたことを周辺住民に通知する掲示のようであった。以下 省略。その先にあった高さ120mの「The Spire」。 チャールズ・スチュワート・パーネル。正面から。UL-STER 北部 CON-STER 西部 LEIN-STER 東部 MUN-STER 南部 と。塔頂のオブジェをズームして。トーチから燃え上がる炎!?現在地は、パーネルストリートとキャヴェンディッシュ・ロウの交差点。「Parnell Monument・パーネル記念碑」、「THE AMBASSADOR THEATRE 」 、「Rotunda Hospital」を振り返る。この日の早朝散歩はここまでとし、引き返す。「GATE THEATRE」を左手に見る。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.10
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【海外旅行 ブログリスト】👈️リンクこの日はダブリン2日目・5月31日(土)、6時過ぎに起床。我が部屋の窓から、赤く染まった朝陽を見る。右に見えたのが長老派教会・Abbey Presbyterian Churchの尖塔。日の出直後の真っ赤な太陽をズームして。そして7時を過ぎ、一人で1時間ほどの早朝散歩に出る。再びホテル前から、朝の陽光を浴びたSt Mary's Chapel of Easeをズームして。この日も歩いてSt Mary's Chapel of Easeを訪ねた。周囲を一廻り。この「黒い教会」には不思議な伝説もあるのだと。教会のアーチの下を真夜中に三度歩くと、悪魔が現れる。このような都市伝説があるため、地元では心霊スポットとしても知られている側面がある と。ネオ・ゴシック様式で、尖塔やアーチ型の窓が特徴。「Mater Misericordiae H」と。 「Mater Misericordiae Hospital(マーテル・ミゼリコルディエ病院)」の案内板。その先には、巨木が道路の両側に。「PANTHER -A-L-A-R-M-」 とは? 「PANTHER -A-L-A-R-M-」は、ダブリン市内のセント・メアリーズ・プレイス(St Mary’s Place)にある旧教会「The Black Church(黒い教会)」の外壁に表示されている看板で、実は地元のセキュリティ会社のもの と。同社は侵入アラーム、CCTV、防火アラーム、アクセス制御などを提供しているのだ と。反対側に引き返して。窓には朝の陽光が。再び我がホテル前まで引き返して。「maldron HOTEL」。公園であった場所は再開発中。その先の赤レンガの建物はボクシングクラブ・St. Saviours Olympic Boxing Academy。ボクシングクラブ・St. Saviours Olympic Boxing Academy。近づいて。ホテル前まで引き返す。ホテル前の道グランビュー・ロウを東に進み、右折してグランビュー・レーンへ。教会の様な建物なので訪ねたがSt. Saviour’s Priory(セント・セイヴィア/救世主聖ドミニコ会修道院)であった。Saint Saviour's Priory, 9-11 Dorset Street Upper, Rotunda, Dublin 1, アイルランドSt. Saviour’s Priory(セント・セイヴィア/救世主聖ドミニコ会修道院) は、1224年に設立された歴史あるドミニコ会の修道院。こちらは、裏側のようであった。右手にあったのがPriory(修道院の)建物のようであった。表側に廻る。正面入口。1853年に建設が始まり、1861年にドミニコ会で献堂。アイルランドのゴシック復興様式を代表する教会で、設計は著名建築家J.J.マッカーシーによるもの 。ライムストーン外壁とポートランド石の装飾、ローズ窓、尖塔、細工の施されたバットレス(控え壁)などが特徴的 。「貧しく敬虔な市民のための教会」として建てられ、内部は中世大聖堂を思わせる柱列と高いアーチが印象的 。Priory(修道院)建物:教会の北側、1884年〜87年に建設。クワドラングル(中庭を囲む構成)を目指したが未完成 。複雑な外観、石装飾、十字架型飾り、ゴーゴイルなど、豊かなゴシック装飾が施され、通りに存在感を与える のであった。上空からの写真をGoogle MAPより。大きな中庭を有するカトリック教会。内部をネットから。先程は正面のステンドグラスを、北側の外から見ていたのであろう。そして次に訪ねたのが「Garden of Remembrance(追憶の庭・ガーデン・オブ・リメンブランス)」住所:Parnell Square E, Rotunda, Dublin 1, D01 A0F8 アイルランド「Garden of Remembrance(追憶の庭)」は、アイルランドの首都ダブリンにある国家記念公園で、アイルランド独立のために命を捧げたすべての人々を追悼するために造られた と。記念公園内のモニュメント、「Children of Lir・リルの子供たち」。オリバー・シェパード作の「Children of Lir(リルの子供たち)」は、アイルランドの神話に伝わる最も有名な伝承のひとつ。ケルト神話の「神々の書(Lebor Gabála Érenn)」に登場する物語で、「白鳥に変えられた4人の兄妹」の悲劇的な運命を描いた物語であるようだ。あらすじ(要約)1.リルの子どもたち ・リルは最初の妻との間に4人の子供を授かるが、妻は早くに亡くなる。 ・妻の妹アオイフェと再婚するが、アオイフェは子どもたちに嫉妬し、魔法で白鳥に 変えてしまう。2.呪いの内容 ・白鳥の姿のまま900年間を生きる運命: ・最初の300年:自分たちの故郷(Lough Derravaragh)で過ごす。 ・次の300年:北の寒く荒れた海(Sea of Moyle)で過ごす。 ・最後の300年:西の海(Irrus Domnann)で孤独に暮らす。3.解放のとき ・900年後、キリスト教がアイルランドに伝わる。 ・聖人(例:聖モイラン)の祈りと鐘の音によって、呪いが解ける。 ・子供たちは人間に戻るが、極度に老いており、そのまま息絶える。 ・聖人によってキリスト教の洗礼を受けてから、平穏に旅立ったとされる。そして昨日、ホテルの部屋からも見えた「長老派教会・Abbey Presbyterian Church」の尖塔が左手前方に。 近づいて。正面から。尖塔をズームして。さらに。時計は故障中!?内部の写真をネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.09
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Torinity Collegeを後にして、R137・College Green(カレッジ・グリーン)を西に進む。歴史を感じさせる、様々な様式、色合いの建物が続く。正面から。ダブリンのパトカーであっただろうか。組織としての呼称は Garda(ガルダ) であり、その複数形である Gardai は警察官たちを指す時に用いられる と。途中、右折してAnglesea St・アングレシー・ストリートをリフィー川に向かって進む。左折して進み路地・クラウン・アリーを見る。路地 Fownes ST Upperを進む。前方の路地右側にあったのがThe Quays Dublin - Temple Bar。The Temple Bar Trading Company.The Temple Bar.テンプルバーは石畳の歩行者専用道路に沿って広がる賑やかな河畔の街。混み合うパブではフォーク ミュージックの生演奏や DJ プレイが繰り広げられ、アジア料理、アメリカ料理、アイルランド料理のレストランには大勢の人が詰めかけていた。個性豊かなショップには、地元のデザイナーが手がけた洋服や雑貨が並んでいた。ナショナル フォトグラフィック アーカイブには過ぎし日のアイルランドの風景写真が展示され、プロジェクト アーツ センターやテンプルバー ギャラリー&スタジオでは現代アートを鑑賞できるのであった。アイリッシュパブ。常にアイルランド音楽が流れる有名なパブ。上を見上げて。アイルランドレストラン・The Shack Restaurantにて早めの夕食。ビール付きで約5500円。やはり食事代は日本の倍は覚悟しなければならないのであった。Fitzsimons Temple Bar・フィッツシモンズ ホテル テンプル バー。テンプル・バー周辺は観光客でごったがえしていた。リフィー川の右岸・R148に出て、ハーフペニー橋・Ha'penny Bridgeを見る。ダブリン中心部にあるハーフペニー橋は、1816 年に建造され、その後改修された鋳鉄製の橋。市のシンボル。カーブを描く姿が印象的。毎日多数の歩行者に利用されている と。元々はウェリントン橋(ダブリン出身のウェリントン公爵にちなんで)と呼ばれていたが、リフィー橋へ改名された。リフィー橋は、現在も橋の正式名称だが、英語では一般的にヘイペニー橋(Ha'penny Bridge)、日本語ではハーフペニー橋と呼ばれている と。長さ 43 m・歩行者専用の ハーフペニー橋・Ha'penny Bridgeを渡る。リフィー川の上流を見る。ダブリンの南側と北側のエリアを分けるリフィー川。その川に架かるハーフペニー橋に立っていると、ダブリンの中心にいる感覚を味わうことができたのであった。かつてこの橋には、恋人たちが取り付けた南京錠が鈴なりになっていたが、橋の保存の観点から日本と同様に、市がすべて取り外したのだ と。リフィー川の下流を見る。街灯を支える美しい曲線。下流にあるオコンネル橋・O'Connell Bridgeをズームして。 ハーフペニー橋・Ha'penny Bridgeを渡り終わって振り返る。オコンネル橋・O'Connell Bridge方向の対岸のビル群を見る。赤い観光用2階建てバスが走る。オコンネル橋・O'Connell Bridgeに向かって左岸を歩く。"Heineken" at O'Connell Bridge Houseをズームして。オコンネル橋・O'Connell Bridgeは、ダブリンのリフィー川に架かる道路橋であり、オコンネル・ストリート、ドリア・ストリート、ウェストモアランド・ストリート及びサウス埠頭を結んでいる着工: 1877年幅員: 50 m建築家: ジェームズ・ギャンドン全長: ~45 m素材: Granite, ポートランド石橋の袂にあったオコンネル像・O'Connell Monument.オコンネル像(O'Connell Monument)は、アイルランドの首都ダブリンにあるダニエル・オコンネル(Daniel O'Connell)を記念した壮大な記念碑。彼は19世紀のアイルランドを代表する政治家・弁護士であり、カトリック解放運動の中心人物。この記念碑はダブリンの象徴的な通りであるオコンネル・ストリート(O’Connell Street)の南端に位置し、多くの観光客や市民に親しまれている と。オコンネル像(O'Connell Monument)をズームして片手に巻物を持ち、もう一方の手は聴衆に向けて掲げられていた。市民の「解放者」としての威厳ある姿が表現されているのだ と。頭の上には鳩?台座部分の彫刻アイルランドを象徴する女性像「エリン」「Hibernia(ヒベルニア)」としても知られ、アイルランドを擬人化した像です。盾と槍を持ち、守護と自由の象徴となっています。オコンネル像の台座下部には、羽のついた女性像(有翼のフィギュラ)が複数配置されていた。これらは>寓意像(アレゴリー)であり、ダニエル・オコンネルの理想や功績を象徴する存在として設計されていいるのだと。羽のついた像の意味と説明これらの像は天使(あるいは天使的存在)として表現され、それぞれ以下のような抽象概念を体現している と。像の名前1.Patriotism(愛国心)2.Courage(勇気)3.Eloquence(雄弁)4.Fidelity(忠誠)象徴する概念1.オコンネルのアイルランドへの愛と献身を表す。2.困難にも屈せずに戦った精神。3.卓越した弁舌力。演説によって民衆を導いた力。4.民衆・宗教・正義に対する忠誠。解説1. 胸を張り、誇り高い姿勢で羽ばたこうとする姿が印象的。 オコンネルの「祖国のために命を賭ける覚悟」を体現。2.剣や盾などを持つ姿で表され、恐れず前進する意志を示す。3.開いた巻物やラッパなどを持ち、口を開いて語るような姿。演説家としての側面を表す。4.握りしめた手、堅い表情などで忠義の心を表現。翼は守護と信念の象徴オコネル・ストリート・ローワー(O'Connell Street Lower)を北に進む。William Smith O'Brien Statue・ウィリアム・スミス・オブライエン像姿勢:胸に腕を組み、演説者のように聴衆を見据える堅牢な姿勢。このポーズは彼の公共的な 影響力を象徴しています。服装:9世紀中期のフォーマルな衣装を身にまとい、知識人かつ政治家としての威厳を表現。台座:正面には名前と生没年、そして「死刑判決を受けたが...」など、彼の経歴を記す 簡素な碑文が彫られていた。ウィリアム・スミス・オブライエン(1803–1864)1830年代より英国議会でアイルランド代表として活動し、1848年には“ヤング・アイルランダー(Young Irelander)”運動の指導者となる。バリングガリーの反乱に関与し反逆罪で死刑判決を受けるも終身刑から流刑(タスマニア)へと変更。5年後に恩赦で帰国。言語復興運動にも尽力し、アイルランド語への関心や文化復興を促進。John Gray Monument・ジョン・グレイ像。19世紀後半、都市の公共インフラ整備に尽力した人物を顕彰する重要な記念像。トーマス・ファレル(Thomas Farrell)によるネオクラシック様式の作品素材:真っ白な*ポートランド石灰岩(ポートランド・ライムストーン製 一体像で、台座は切石仕上げの花崗岩銀行・PTSB O'Connell Street Dublin。John Gray Monument・ジョン・グレイ像越しにWynn's Hotel Dublinとコメディ クラブ・Comedy Vault Dublinを振り返る。Jim Larkin Statue・ジム・ラーキン像。Jim Larkin Statue・ジム・ラーキン像は、ダブリン随一の繁華街であるオコンネル・ストリートに立つ、労働運動の象徴的モニュメント。除幕日:1979年6月15日、当時の大統領パトリック・ヒラリーによって正式奉献された彫刻家:アイルランドを代表する彫刻家 オーシン・ケリー(Oisín Kelly)。 後期代表作のひとつで、その卓越した意匠は高く評価されている。台座の碑文とメッセージ台座には3面にわたり、ラーキンの思想や影響を讃える名言が深く刻まれています。南面ベース部(英・仏・アイル語):“The great appear great because we are on our knees. Let us rise.”(偉人は、我々がひざまずくからこそ偉く見える。立ち上がろう。) フランス革命家やジェームズ・コノリーらによって引用された言葉東面(ショーン・オ’ケーシーの言葉):「彼は労働者に語りかけ、ただ降伏を求めるのではなく、貧困に対する抗議と闘争の意志を 響かせた…」西面(パトリック・カヴァナー詩):「圧政は彼らをダブリンの溝に踏みつけたが、ラーキンが自由と誇りを呼びかけると、やがて 立ち上がった…1913年を讃えて」両腕を大きく広げた雄々しい姿。これは1923年に撮られた象徴的写真に基づいており、ケリーはその動きと生命力を完璧に再現した と。The Spire.ダブリンの中心—オコンネル・ストリート中ほどにそびえる「The Spire/スパイア」(正式名:Monument of Light、アイルランド語:An Túr Solais)は、現代的で象徴的なランドマークであると。高さ:120メートル(約394フィート)設計・建築:Ian Ritchie Architects(設計)、Arup(構造エンジニア)素材:ステンレス鋼(Type 316)、基底で直径3m、頂部は15cmの先細円錐形建設期間:2002年12月に最初のセクションを設置、2003年1月21日に完成工費:約460万ユーロ前方に歴史博物館・GPO Museumダブリン中心部に位置する歴史的郵便局(General Post Office)内にある歴史博物館・GPO Museum。2016年3月29日開館、「GPO Witness History」としてリニューアルオープン。前身のAn Post Museum(2010–2015)を発展させたもの。「1916年イースター蜂起」から始まるアイルランド現代史を、独立・内戦・和平プロセスなどの流れを含めて展示していると。ネットから。セオボルド・マシュー神父像(Fr. Theobald Mathew Statue).生没年:1790–1856職業:カトリック司祭・社会活動家業績:19世紀前半、アイルランドにおける**禁酒運動(Temperance Movement)**を主導 「節制の誓い(Temperance Pledge)」を国中に広め、100万人以上が誓いを立てたと される 社会的弱者や労働者の支援にも尽力し、「人民の神父」と呼ばれることも。パーネル記念碑の先にあったのが、Gate Theatre・ゲート・シアター。Gate Theatre(ゲート・シアター)は、ダブリンにおける文化と演劇の中核の一つで、アイルランドだけでなく、世界的にも評価の高い劇場。設立:1928年創設者:Hilton Edwards(ヒルトン・エドワーズ)と Micheál MacLiammóir (ミハイル・マクリアモア)場所:ダブリン市中心部、ロタンダ病院の向かい(Parnell Square)キャパシティ:約380席特徴:クラシカルで親密な劇場空間 エレガントな内装と音響で知られるそして、漸くこの日のホテルの近くにある、長老派教会・Abbey Presbyterian Churchの姿が現れた。ズームして。そしてホテル手前から教会・St Mary's Chapel of Easeをズームして。そして、ホテルの部屋に戻る。0時前に、旅友のHさん、そしてSさんも別々であったが、空港からタクシーを利用してホテルに到着したのであった。この日の長い1日が無事に終わったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.08
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【海外旅行 ブログリスト】👈️リンク正面のCampanile・鐘楼の先に大きな芝生広場が拡がっていた。その先には赤レンガの建物。Campanile・鐘楼の先のGraduates Memorial Building(卒業生記念館)を見る。Graduates Memorial Building(卒業生記念館)を再びズームして。「The Old Library &Book of KellsEntrance this way」と。 近づいて。Library Squareの周囲を反時計回りに「The long room」に沿って歩く。「Trinity college ribrary・トリニティー・カレッジ図書館」の航空写真をネットから。トリニティ・カレッジ図書館(トリニティ・カレッジとしょかん、英: The Library of TrinityCollege Dublin)は、ダブリン大学附属図書館であり、ダブリン大学とトリニティ・カレッジで中心的な役割を果たすとされる。長さ65mの「ロングルーム・The long Room」は、室内の両側に本棚と大理石でできた胸像がずらりと並び、世界で最も美しい図書館のひとつである と。かつては棚は本でびっしりと埋め尽くされていたが、現在本は保存のため別の場所に移設されているとのこと。内部の見学は、完全予約制とのことで、この日は見学できなかった。在りし日の写真をネットから。現在、室内に浮かんでいるのは直径6mの地球儀ガイアで、NASAが撮影した地球の表面映像が映し出されている と。以下、3枚の写真もネットから。15世紀頃に制作されたアイルランド最古のハーブも展示されていると。再びCampanile・鐘楼を振り返る。バークレー図書館。博物館の建物とバークレー図書館の前の広場にあった球体オブジェ。この美しい芸術作品は、1982 年にイタリアの彫刻家アルナルド ポモドーロによって作成され、トリニティ カレッジに寄贈された。 (さまざまなサイズの同様の作品が世界中の多くの大学や博物館にある と)。この彫刻は現在、トリニティ カレッジのシンボルの 1 つ。内側のボールは地球を表しているが外側の球はキリスト教を表し、両方の球の構造は世界のもろさと複雑さを象徴しているとのこと。近づいて。House 24 Rubrics(ルーブリクス)。ルーブリクスはダブリン大学トリニティ・カレッジ内で最も古い建物。正確な建設時期は不明ですが、1700年頃に設計・建設された。現在、ルーブリクスは学生やフェローのための部屋として使用されている。「the book of kells experience 👈️リンク Entrance」案内板。 そして赤くモダニズム建築の倉庫のような建物、ケルズの書エクスペリエンス長さ65mの「ロングルーム・The long Room」にあった書籍が、ここ「ケルズの書」エクスペリエンス内に移されているのであろう。Trinity College Dublin,founded in 1592 , is one of the oldest unversities in Western Europe. Recognised internationally as Ireland's premier unversity,TCD is committed to world-classresearch,scholarship,Social Sceience,Science,Engineering,and Health Sciences.Famous alumni include author、Jonathan Swift, physicist and、Nobel Prize winner, ET'S Wlaton , wit and dramatist Oscar Wilde、Nobel Laureate in Literature Samuel Beckett, and、scientist and mathematician Willam Rowan Hamilton to namebut a few.トリニティ・カレッジ・ダブリン(Trinity College Dublin)は、1592年に創立され、西ヨーロッパでも最も古い大学の一つです。国際的にアイルランドの最高学府として認められており、TCD(略称)は、世界水準の研究、学問、社会科学、自然科学、工学、そして健康科学に取り組んでいます。著名な卒業生には、作家ジョナサン・スウィフト、物理学者でノーベル賞受賞者のE.T.S.ウォルトン、機知に富んだ劇作家オスカー・ワイルド、ノーベル文学賞受賞者のサミュエル・ベケット、科学者で数学者のウィリアム・ローワン・ハミルトンなどがいます(ここに挙げたのはほんの一部です) と。Printing House Square。「Printing House Square」は、かつて印刷所があったことに由来し、現在は大学施設の一部(学生寮や医療関連施設など)となっています。さらにCampanile・鐘楼方向に戻る。広場の大樹の日陰で、多くの観光客が休憩中。再びCampanile・鐘楼方向を見る。Reclining Figuresこのヘンリー・ムーアの彫刻は、ライブラリー・スクエアを囲む古典建築に対し、美しいモダニズムの対比を成している。ムーア自身もこの彫刻の形についてコメントしており、「繰り返し現れる三つのテーマがある。母と子、横たわる人物、大きな形が小さな形を守る姿。この彫刻ではその三つのモチーフすべてを融合させた。私は人間の感情、つまり人間の基本的な感情に訴えかける。『保護されたい』という感情は、そうした基本的な本能の一つなのだ」と語っている。この彫刻作品は、曲線的な青銅のフォルムと幾何学的な石の台座の対比が印象的で、見る者の目を引く焦点となっている。その配置は中心からずれており、スクエア全体の設計に不均衡な印象を与えるが、その違和感が逆に魅力的で、にぎやかなパーラメント・スクエアから静かなライブラリー・スクエアの芝生の空間へと、観る人の視線と足を自然に誘っている と。再びCampanile・鐘楼の像を追う。・建設年:1853年完成・設計者:サー・チャールズ・ラニオン(Sir Charles Lanyon)・高さ:約30.5メートル(100フィート)・位置:大学の**フロント・スクエア(Front Square)**の中央・建築様式:ビクトリアン・ネオクラシカル様式・役割:実際に鐘が鳴る塔(鐘楼)でありつつ、大学の象徴的建造物【基部の4体の石像】この鐘楼の四隅に設置されている4体の人物像は、それぞれ**「学問の四分野」**を象徴する古典世界の著名人です: 像の人物名 象徴する分野 簡単な説明・ソクラテス(Socrates) 哲学 古代ギリシアの哲学者、倫理思想の祖。 対話法で有名。・プラトン(Plato) 神学(宗教哲学) ソクラテスの弟子。イデア論などで後の キリスト教哲学にも影響。・アリストテレス(Aristotle) 科学 プラトンの弟子。自然科学、論理学の礎を 築いた。・ホメロス(Homer) 文学 古代ギリシアの詩人。叙事詩『イリアス』 『オデュッセイア』の作者とされる。象徴的意味これらの像は、**リベラル・アーツ(自由七科)**の精神を体現しています。すなわち:・文学(ホメロス)・哲学・倫理(ソクラテス)・宗教的・形而上学的探究(プラトン)・論理・自然科学(アリストテレス) → トリニティ・カレッジが伝統的に重視してきた学問の根幹を表しているのです。Provost Statue。「Provost Statue」とは、トリニティ・カレッジの著名な学長を記念して設置された彫像。一般に「プロヴォスト」とは、大学の学長や長官を意味する と。ジョージ・サーモン像設置場所:トリニティ・カレッジのフロント・スクエア(Front Square)人物:19世紀後半の学長(Provost, 1888–1904)特徴:大理石の座像。学者らしい落ち着いた雰囲気で描かれています。有名な逸話:生前は女性の入学に反対していたことで知られます。彼の死後まもなく、トリニティ・カレッジは女性の入学を許可しました。そのため、「彼が死んだとたんに女性が入ってきた」として象徴的な存在になっています。再びGMBの建物。GMB:Graduates Memorial Building「1937 Reading Room(1937年閲覧室)」「1937 Reading Room(1937年閲覧室)」は、アイルランド・ダブリンの トリニティ・カレッジ(Trinity College Dublin) にある特徴的な図書室(リーディングルーム)。■ 概要正式名称:The 1937 Reading Room建設年:1937年(トリニティ・カレッジ創立記念として)場所:カレッジの南東側、**ナッソー通り(Nassau Street)**沿い設計者:トーマス・マナー(Thomas Manly Deane)によって設計された モダニズム風の建物■ 主な用途・大学院生(大学院博士課程を含む)専用の静寂な閲覧室として使われて おり、主に以下の目的で利用されます 研究・執筆、論文読解、長時間集中作業 一般の学部学生は原則利用不可 → これは、研究に没頭するための静かな環境を確保するためです。■ 建築・意匠の特徴 アール・デコ様式と近代建築が融合した、当時としては非常に先進的な建物 建物のファサード(外観)は比較的質素だが、堅牢で静寂な印象 高い天井と自然光を意識した採光設計■ 象徴的な意味 1937年のアイルランド憲法制定の年にちなんで名付けられました。 アイルランドの独立以降、新しい国家の知性と教育の象徴として、また 大学院教育の発展を象徴する場として建設されました。■ 関連する現在の役割(2020年代以降) トリニティ・カレッジでは、1937 Reading Room を大学院生支援の 中心的なスペースと位置づけ、グループワークスペース 博士課程の研究者向けラウンジ キャリア・ライティング支援サービス なども近年拡張されています。正門(Front Gate)を振り返る。項目 内容正式名称 College Green Entrance(カレッジ・グリーン側入口)建設年 1759年ごろ設計者 ヘンリー・ケオン(Henry Keene)様式 ジョージアン建築様式(典型的な18世紀英国スタイル)素材 灰色の石材(Portland stone など)で構成された重厚なアーチ時間は15:45Trinity College を後にして、正門前を走るLUAS・ルアスを。Henry Grattan Statue・ヘンリー・グラタン像。トリニティ・カレッジ・ダブリン(Trinity College Dublin)の正門前にある Grattan像(グラタン像) は、アイルランドの独立と自由の象徴的存在である政治家 ヘンリー・グラタン(Henry Grattan, 1746–1820) を記念した青銅彫像。Trinity College正門に突き当たるR137道路と街並み。アイルランド銀行(旧国会議事堂)・1729年に**アイルランド王国の国会議事堂(Irish Parliament House)**として建設 されました。・**世界初の「議会専用の建物」**とされ、後の英国・米国の議会建築にも影響を与えました。・下院(House of Commons)と上院(House of Lords)を備えた壮麗な構造。1801年:合同法(Act of Union)により議会が廃止・アイルランド議会は1800年に廃止され、ロンドンの英国議会に統合されました。・建物は無用となり1803年にアイルランド銀行が取得し、本店として使用するようになった。建築の特徴・円形の中央ホール:当初の下院議場。現在も銀行内の応接や特別室として利用。・三角破風(ペディメント)と円柱のポルチコ:古代ギリシャ建築を模した正面ファサード。建物の**正面中央ファサードの三角形部分(ペディメント)**には、**寓意像(アレゴリー)**が彫刻されています。・制作年:18世紀中頃・彫刻家:**Simon Vierpyl(サイモン・ヴィアーパイル)**などが関与したとされます。【中心人物】——「ハイバーニア(Hibernia)」・**ハイバーニア(Hibernia)**は、古代ローマ時代のアイルランドの擬人化表現・ローブ姿の女性像で、**槍や盾、ハープ(ケルトの象徴)**を持っていることが多い アイルランドの「国そのもの」を象徴しています。**ハイバーニア(Hibernia)**は、古代ローマ時代のアイルランドの擬人化表現。【両側の脇像】——「忠義(Loyalty)」と「商業(Commerce)」・ハイバーニアの左右に配置された寓意的女性像・忠義(Fidelity):忠誠を意味し、犬や巻物を伴うことが多い・商業(Commerce):交易の女神風、手にコルヌコピア(豊穣の角)を持つことがある左右にはアイルランド銀行(旧国会議事堂)の円形の壁(Rotunda / Round Room)が拡がっていた。アイルランド銀行本店(Bank of Ireland, College Green)の建物には、外観でも内部でもとりわけ印象的な空間として知られる「円形の壁(Rotunda / Round Room)」があります。これは、もともとアイルランド王国の下院(House of Commons)議場として設計された、円形の部屋の建築構造を指します。1828年に描かれたアイルランド銀行・本店(ネットから)。その先にあったのがトーマス・デイビス像&記念噴水・Thomas Davis Statue & Memorial Fountain。トーマス・デイヴィス像(Thomas Davis Statue)は、アイルランドの詩人・政治家・民族主義者である**トーマス・デイヴィス(Thomas Davis, 1814–1845)**を記念した彫像1814年 – 1845年(わずか31歳で死去)・ブロンズ製の立像で、デイヴィスは演説をしているかのような姿勢で表現されています。・足元には彼の詩文が刻まれた円形の噴水ベースがあり、水と石のモダンな対比が印象的。・周囲は座って休めるような構造になっており、市民や観光客が憩う空間でもあります。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.07
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【海外旅行 ブログリスト】👈️リンクホテルで10分ほど休憩した後は、早速、Yさんと2人で夕方までダブリン市内を散策することとする。残りの未着のお二人・Hさん、Sさんはいずれもホテルに深夜に到着する予定なのであった。ホテルの近くにあったのがSt Mary's Chapel of Easeをズームして。「ブラック教会」とも呼ばれるセントメアリーズ・チャペル・オブ・イーズ。正式名:St Mary’s Chapel of Ease通称:The Black Church(ブラックチャーチ)所在地:ダブリン1区、Mountjoy Street(マウントジョイ通り)沿い建設年:1830年設計者:ジョン・セミ・ジュニア(John Semple Jr.)建築様式:ネオゴシック様式素材:黒い石(玄武岩)で造られているため、「ブラックチャーチ」と呼ばれる。「Chapel of Ease(礼拝のための別堂)」とは、母教会(通常の教区教会)に通うのが困難な人々のために建てられる補助的な礼拝堂のこと。St Mary’s Chapel of Easeは、St Mary's Parish(セント・メアリー教区)の信徒の便宜のために建てられた。1962年に宗教施設としての役割を終え、非礼拝施設となりました(現在はオフィスなどに使用)と。ホテルを出て左に進みグランビー・ロウを歩く。後方はあまり気にせずに、スマホの道案内に頼ってマイペースで歩くYさん。道路脇の照明灯にも見事な彫刻が。前方にAbbeyPresbyterian Church・長老派教会。スコットランド、パースの建築家アンドリュー・ヘイトンによって設計されたこの建物は、装飾が施されたゴシック様式の建物で、高さ 180 フィートの尖塔があった。Abbey Presbyterian Church・長老派教会の角を右折してパーネル・スクエア・イーストを進むとパーネル記念碑が前方に。ParnellMonument(パーネル記念碑)は、アイルランド・ダブリンの目抜き通りであるオコンネル・ストリートの北端に立つ、19世紀の政治家チャールズ・スチュワート・パーネルを記念する壮大なモニュメント。大きな交差点にあるこの記念碑は、アイルランド独立に影響を与えたアイルランド民族主義者チャールズ・パーネルに捧げられている。パーネル記念碑の概要設置年:1911年場所:オコンネル・ストリート最北端(The Spireの北、The Garden of Remembrance に近い)デザイン: 彫刻家:Augustus Saint-Gaudens(アメリカの著名彫刻家)が原案を設計 完成は弟子の助けで実現構造: 高さ:約12(19?)メートル 中央に立つパーネルの像(堂々と片手を掲げて演説している姿)後方の花崗岩のパネルには、彼の言葉が刻まれた銘板(inscription)があった。『No man has a right to fix the boundary to the march of a nation. No man has a right to say to his country: Thus far shalt thou go and no further. We have never attempted to fix the ne plus ultra to the progress of Ireland's nationhood and we never shall.』【国の歩みに境界を定める権利は、誰にもない。『ここまで進んで、それ以上はいけない』と、祖国に言う権利も誰にもない。私たちは、アイルランドの国家としての進歩に『これ以上はない』という限界を定めたことは一度もないし、これからも決して定めることはない。】と。見上げて。Rotunda Hospital ・ロチュンダ病院- General Postnatal Ward。世界的にも非常に重要な歴史を持つ病院の一つ。特に産婦人科医療の先駆け的存在知られていると。正式名称:The Rotunda Hospital所在地:Parnell Square, Dublin 1(パーネル・スクエア)設立年:1745年創設者:Dr. Bartholomew Mosse(バルソロミュー・モス医師)特化分野:産婦人科(特に出産・新生児医療)そしてトリニティ・カレッジ・ダブリンに向かう為、ルアス(路面電車)に乗車。Trinity駅で下車。Trinity駅。後方の建物はParliament House・国会議事堂。アイルランド銀行。アイルランドの首都ダブリンの中心にあってトリニティーカレッジ正面入り口に対極するように立つ重厚な建物。8世紀のイギリス統治下のアイルランドの自治議会として利用され、ギリシャの神殿様式のような重厚な建物であった。建物正面の三角破風(ペディメント)の上部に立つ3体の石像は、それぞれ古代ギリシャ風の擬人化された寓意像(アレゴリー)で、当時の政治理想を象徴している と。中央の像をズームして。Hibernia(ヒベルニア):アイルランドそのもの 兜をかぶり、槍を高く掲げ、戦士風の 姿をして堂々と立つ女性像。右側の像。Mercy(慈悲) 慈悲・寛容 ローブ姿、やさしい表情。左側の像。Justice(正義) 公正・正義 目隠しなしの正義の女神。剣を持つThomas Moore像。アイルランドの詩人で、アイルランド古謡に英語の歌詞を加えた『アイリッシュ・メロディー』(Irish Melodies、アイルランド歌曲集とも)の作詞者として知られる。イングランドではムーアは政治的に貴族的なホイッグ党の作家と考えられたが、アイルランドではカトリックの愛国者とされた。今日では『アイリッシュ・メロディー』(とくに「ミンストレル・ボーイ」👈️リンクや「夏の名残のばら」(日本では「庭の千草」の歌詞でも知られる))の作詞者👈️リンクとして、記憶されている。そしてトリニティ・カレッジ・ダブリン・Trinity College Dublinの校舎の壁を見る。フェンス越しにトリニティ・カレッジ・ダブリンの正門を見る。Edmund Burke Statue・エドモンド・バークの像。エドマンド・バーク(英: Edmund Burke、1729年1月12日 - 1797年7月9日)は、アイルランド王国生まれのイギリスの政治思想家、哲学者、政治家。「保守思想の父」として知られる。フランス革命の源泉となったルソー主義を激しく非難し、1765年から1794年までイギリス庶民院(下院)議員を務めた。エドマンド・バーク👈️リンクそして右側にあったのがOliver Goldsmith Statue・オリバー・ゴールドスミスの像。オリバー・ゴールドスミスは、英国の詩人、小説家、劇作家。アイルランド生まれ。主著に小説『ウェイクフィールドの牧師』、喜劇『お人よし』と『負けるが勝ち』、長編詩の『旅人』、詩集の『寒村行』がある。正面からズームして。そしてここが「トリニティ・カレッジ・ダブリン・Trinity College Dublin」のFront Gate・正門。今回の旅行がなぜアイルランドなのか!!??それは学友の一人がここ「トリニティ・カレッジ・ダブリン・Trinity College Dublin」に1年間の留学経験があるのだ。よって彼がこの旅行の提案者であったが、母親を介護しており、母親の体調が芳しくないとのことで、急遽この旅行への参加を辞退したのであった。トリニティ・カレッジ・ダブリンの配置図。正面にCampanile・鐘楼その最も象徴的なランドマークの 1 つ。当時アーマー大司教だったジョン・ベレスフォード卿から寄贈され、チャールズ・ラニヨン卿によって設計され、トーマス・カークによって彫刻され、1853 年に完成した。右側のaccommodation office・宿泊施設。正面から。右側のaccommodation office。正面から。Campanile・鐘楼を再び正面から。近づいて。右側の上部石像。この彫刻がすべて異なる学科を象徴しているのが分るのであった。左側の上部石像。案内板。GMB。GMBは、ダブリン大学トリニティカレッジにある、Graduates Memorial Building(卒業生記念館)の略称。Statue of former provost George Salmon。トリニティカレッジの元プロヴォストジョージサーモンの像。少し移動して。ジョージ・サーモン はアイルランドの数学者、聖公会神学者。20年間代数幾何学を研究し、晩年の40年を神学に捧げた。 生涯トリニティ・カレッジで過ごし、1888年から1904年まで同大学32代学長を務めた。ズームして。右側にあった案内板。右斜め奥に「Book of Kells・ケルズの書」と。ケルト美術の最高傑作と目される彩飾福音書写本。世界中の人々を魅了してやまない写本成立の歴史的背景、構成、携わった写字生、彩飾家を詳しく解説する。鳥や動物・植物文、組紐文、渦巻文、幾何学文を徹底的に検証して、その象徴的意味を説き明かす。写本研究の第一人者による決定版豪華美術書。カラー図版230点を付す と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.06
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【海外旅行 ブログリスト】👈️リンクイギリス・リバプール上空からアイリッシュ海に出る。ダブリンまで0:34、残り231km。ダブリン空港へと左旋回。ダブリンの東側の海岸線が見えて来た。海岸線をズームして。発電所・Poolbeg CCGTの煙突が2本。海に突き出たGreat South Wall。アイルランドの内陸に向かって進む。緑の草原の中に住宅地が拡がっていた。高速道路M1・M50のインターチェンジが見えた。ダブリン空港・新管制塔。右手には旧管制塔も。新しい管制塔の高さは87.7mであり、アイルランドで最も高い構造物でると。2020年11月5日に第1ターミナルは、ダブリン県のフィンガル市議会に提出された計画の下で大規模な改装を受けることが発表された。ファサードと屋根は、エネルギー効率に優れた近代的な構造物に置き換え、第1ターミナルの外観を改装したのであった。そして駐機場で飛行機を降りる。タラップを使い地上へと。この日の飛行ルート。第1ターミナルビルに入る。案内に従い進む。⬆️Baggage Reclaim・手荷物受取所に向かって進む。荷物の到着を待つ。そして羽田からの荷物も無事到着し、Non EUと書かれたブースで入国審査完了し、第1ターミナルビルの待合室で暫しの休憩。そして旅友のYさんは、ロンドン・ヒースロー空港からBA834便で第2ターミナルに到着するとのことで第2ターミナルに移動する。第1ターミナル入口を振り返る。そして第1ターミナルから第2ターミナルへトランクを転がしながら移動。そして第2ターミナルの到着出口ベンチでYさんの到着を待つ。Yさんの搭乗便は11:55到着 BA834便。そろそろ到着時間。時間は11:48。そして予定時間にYさんとの合流に成功。この日のホテルに向かうため、Yさんが「Leap Card」を売店で購入してくれた。 バスやルアス(路面電車)、ダート(近郊列車)などをスイスイ乗り降りすることができ、しかも現金で支払うより運賃が得になるという1日有効、乗り降り自由の9€のカード。ルアス(路面電車)は月~金曜 5:30~24:00土曜 6:30~24:00日曜 7:00~23:00 の運行とのこと。ルアス(路面電車)がこれ。ダート(近郊列車)がこれ。バス停まで歩きこの日のホテル・マルドロン ホテル パーネル スクエア(Maldron Hotel Parnell Square)近くにバス停があるバスに乗車。30分ほど乗車し、Parnell Square East, stop 261でバスを降りる。バス停近くにあったのが、Biserica Penticostală Sfanta Treime - Romanian Pentecostal Church。10分ほど歩いて、この日のホテル・マルドロン ホテル パーネル スクエア(Maldron Hotel Parnell Square)に無事到着。時間は13:45。住所:D01 H0F9 Dublin Parnell Square Westホテルのフロント。フロント前には多くの宿泊客の姿があった。フロントの反対側にあったバー。そしてこの日の2人用の部屋。シングルベッド1とダブルベッド1 の部屋。トイレ&洗面台。反対側のバスタブ付きのシャワー室が鏡に映る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.05
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【海外旅行 ブログリスト】👈️リンク搭乗ゲートから、バスにて機体まで移動し、乗り込む。イスタンブール~ダブリン間もTURKISH AIRLINES・トルコ航空 TK1975便。15Aの座席に座り、乗り込む乗客の姿を。利用便はAirbus321-200。AirbusA321-200は、エアバスA320ファミリーの長胴型旅客機で、A320よりも多くの乗客を輸送できる。最大220席を装備可能で、航続距離も5,600kmと長め。TURKISH AIRLINESの機体が並ぶ。この便も満席。我が便も定刻に動き出した。時間は7:01。離陸するTURKISH AIRLINES便。その後の離陸が我が機体。イスタンブール空港国際線ターミナルビルを見る。離陸を待つ我が機体の次の機体。管制塔。そして滑走路に入り離陸。黒海上に出る。あっという間に雲上に。左に旋回し、ブルガリア上空を進む。ブカレストDANUBE川上空を北西方向に飛行。ルーマニア・ブカレストの西を飛行。雲の合間にルーマニアの陸地が見えた。ダブリン空港まで3:15、飛行距離2216km と。朝食用機内食を楽しむ。オーストリア・ウィーンの北側を飛行。チェコ・プラハ方向に。オランダ上空からイギリス海峡に出る飛行コース。オランダ・アムステルダムと上空からイギリス海峡へと。ダブリン空港まで一直線の飛行ルート。ドイツ上空を。ドイツ・フランクフルトの北側上空を飛行。オランダ・アムステルダムに向かって。オランダ・アムステルダム上空からイギリス海峡へと。イギリス海峡上空は雲に覆われていた。イギリス海峡に出る。雲の隙間から海が見えた。イギリス・ノッティンガム上空へとイギリス海峡上空を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.04
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【海外旅行 ブログリスト】👈️リンク羽田空港からのトルコ航空・TK199便を後にして、アイルランド・ダブリンに向かう為にイスタンブール空港内を「Transfers」の案内に従って進む。 早朝、4:42の為もあり人の数は少なかった。時間は4:43。駐機場には出発を待つトルコ航空機が並ぶ。天井の装飾も美しいイスタンブール空港。動く歩道を利用して進む。エスカレーターを利用し階下に。「International Transfers」は直進 と。 イスタンブールからアイルランド・ダブリン(Dublin)への予約便はTK1975便 7:00発。出国審査後はゲートエリアへエスカレーターを上ると出発ゲートエリア出発便情報をLED電光掲示板を見る。私の利用便はTK1975+6E 4203 ダブリン(DUBLIN)行きのコードシェアー便。出発ゲートはA1F、GO TO GATEと。免税店周辺には、多くの観光客の姿が。ツリー状の照明、幾何学文様ぽくてトルコらしいのであった。DUTY FREESHOP。DUTY FREESHOP。石膏像。「AIRPORT MUSEUM」に展示されている作品のレプリカのようであった。トルコのイスタンブール空港に2020年7月、新たに空港博物館「AIRPORT MUSEUM」がオープンした。 DUTY FREESHOPがこれでもかと続く。出発ゲートA1Fに向かって進む。UAE’S PRISTINE NATURAL ISLANDSOBHASiniya Islandアラブ首長国連邦の ソバ・シニヤ島案内。ズームして。更に進む。ここにも石膏像が。おそらく世界的にも珍しいであろう空港内のミュージアム。これは無限?に文化財が発掘されるトルコじゃなきゃ出て来ない発想では?美味しそうなサンドイッチ類が並ぶ店。590Turkish Lira=2300円??ピザも高価。Love is IN THE AIR コーナー。桜の花のようであったが。エスカレーターで階下に。レストラン&バー・JACKIES。搭乗口A1に向かってさらに進む。そしてなんとか目的の搭乗口A1Fに到着。時間は5:20。7:00出発 TK1975+B6 6911コードシェアー便。搭乗口A1F待合室には既に多くの乗客が。時間は5:20。6:10になり搭乗開始。バスにて航空機に移動。バスに乗り込み移動車内から。東の空はオレンジ色に染まって。TURKISH AIRLINESの機体が並ぶ。そしてアイルランド・ダブリン空港への航空機・TK1975便が現れた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.03
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【海外旅行 ブログリスト】👈️リンクそして座席25Aに到着。時間は21:30。飛行機が動き出した。時間は予定時間から少し早い21:39。この日のFlightはB777-300。座席数 514席全長 73.9 m全幅 60.9 m全高 18.5 m巡航速度 890 km/h航続距離 3,800 km最大運用高度 13,100 m駐機場を離れる。そして離陸。時間は21:49。日本列島上空を西へと進む。若狭湾に出る。時間は22:29。韓国上空へと。23:06。韓国上空をソウル方向へ。23:18。そしてこの夜の最初の機内食。23:26。中国遼寧省南端の遼東半島に位置する大連沖の渤海湾を進む。23:48。莱州湾(らいしゅうわん)上空へ。00:7。莱州湾は、中国の山東半島北部にある渤海に面した湾。山東省の黄河河口から黄県の西方屺角までを指す。そして北上して北京上空方向へ。0:36。そして満腹の下、ウトウトと。中華人民共和国内モンゴル自治区に位置する包頭市の北を通過。1:35。そして暫しの爆睡。気がつくとタクラマカン砂漠上空を通過。時間は4:01。ブルルトカイ (布倫托海)の南側上空。中国、新疆(しんきょう)ウイグル自治区北部の県。中国語で福海(ふっかい)ともいう。イリ・カザフ自治州アルタイ地区に属し、アルタイ山脈の南、ジュンガル盆地北部、ウルングル河の沿岸にある。ウズベキスタン・タシケントの北側をカスピ海に向かって進む。トルクメニスタン北部、ウズベキスタンとの国境線上にある湖サリカミシュ湖上空を通過。6:55。カスピ海上空へと。7:18。イスタンブールまであと3時間。カスピ海上空。7:42。カスピ海は、ユーラシア大陸の中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖。沿岸国の領海問題が複雑に絡みあうため、海とされることも湖とされることもある。湖としては、世界最大の湖。そして2回目の機内食。時間は日本時間:8:18。トルコ時間2:18。そして「黒海」南岸上空へ。トルコ時間2:32。イスタンブールまで残り1000km。「黒海」は、ヨーロッパとアジアの間にある内海で、大西洋の縁海の一つである。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。 バルカン半島、アナトリア半島、コーカサスと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。黒海の北側沿岸にあるのが「ウクライナ」。 機内の画面にはメッカ(Mecca)の方向・距離が示されていた。メッカは、イスラム教最大の聖地であり、祈りを捧げるところである。ムスリム(イスラム教徒)は一日に5回決まった時刻になると、メッカの方向に向かって礼拝を行う。あらゆるムスリムにとって、同地への巡礼「ハッジ」は体力と財力が許す限り一生に一度は果たすべき義務である。メッカはほぼ南方1349マイル=2172km にあると。東京・羽田空港の時間 9:05イスタンブールの時間 3:05到着予定時間 4:22イスタンブールまで残り1:01、残り544km と。時間はトルコ時間3:21。イスタンブールの街並みの灯が見えて来た。時間は3:59。そしてイスタンブール空港上空を通過しマルマラ海方向に向かう。時間は4:01。そしてイスタンブール空港方向へ旋回。4:09。そしてイスタンブール空港へ着陸。時間は4:12。イスタンブール空港は、タクシム広場から約40km(渋滞なしだと車で45分)、旧市街のスルタンアフメット地区から約45km(渋滞なしで車で1時間)に位置。空港ビルを見る。イスタンブール空港での建設が進む新空港の管制塔。ネットから。管制塔の建築デザインは、歴史的にイスタンブールを象徴する花であるチューリップをモチーフとしつつ、提案者・ピニンファリーナがカーデザインで培ってきたダイナミックさとロマンチックさを融合したもの と。駐機場に向かう。そしてイスタンブール空港に到着。時間は4:17。羽田空港からのFlightルートをネットから。飛行時間約12:12。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.02
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【海外旅行 ブログリスト】👈️リンク展望デッキから戻り、再び「はねだ日本橋」を歩く。再び「江戸図屏風」をデジカメで追う。 「江戸図屏風」は国立歴史民俗博物館所蔵のレプリカ。江戸の名所を取り上げ、その賑わいの様子を陶板壁画に表現していたのであった。擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)は、伝統的な建築物の装飾で橋や神社、寺院の階段、廻縁の高欄(手すり、欄干)の柱の上に設けられている飾りである。ネギの花に似ていることから「葱台(そうだい)」とも呼ばれる。擬宝珠が取り付けられるのは親柱(両端および一定の間隔で並ぶ主要な柱)であり、「宝珠柱」という。親柱が木製の場合、擬宝珠は銅、青銅などの金属製である場合が多く、雨水などによる木材の腐食を抑える役目もある。親柱が石の場合、擬宝珠も含めて石造りになっている場合もある。まれにすべて木製のものもある。より古い時代の瓦製のものも見つかっている と。江戸市中で擬宝珠を持っていた橋は、この日本橋 (東京都中央区)と京橋 (東京都中央区)、新橋 (東京都港区)のみであった と。浅草周辺。浅草寺・三重塔をズームして。この三重塔は、後に五重塔に建て替えられたのだ と。浅草の街並みをズームして。寛永寺。東照大権現宮をズームして。神田周辺。湯島天神をズームして。日本橋。日本橋をズームして。江戸城。御本丸をズームして。京橋・新橋周辺。新橋をズームして。増上寺。増上寺をズームして。八丁堀・新橋周辺。再び「はねだ日本橋」を振り返って。 反対側から。そして、ハンバーガーを注文し、暫しの休憩。予定時間になったので、「はねだ日本橋」 下を引き返す。3階、出発ロビーを。江戸小路を歩く。「ボンヴィボン」。 創業100年の老舗パン屋がつくる出来立てパン、フレッシュデリのサンドイッチの店。「EDOイベント館」。老舗和菓子屋「築地ちとせ」、期間限定出店 。京都の人気土産「京ばあむ」がここで販売されていた。京都銘菓 おたべ。そして3階に降り、国際線の「出発手続き」に向かう。 まずは「セキュリティチェック」。機内持ち込みになる物品に対して保安検査を実施。上着、携帯電話、パソコン、貴金属、カバン等はトレイに載せてX線検査装置を通し、自身は金属探知機ゲートを通る。 税関検査。出国時も税関手続きが必要。外国製品を持出し、100万円相当額の現金を持出しされる人などは、指定の様式に必要事項を記入して税関に提出することにより手続を行う必要がある。出国審査。「自動化ゲート」利用。スムーズに出国の手続を行うことが出来た。自動化ゲートは、パスポートと顔認証により本人確認を行い、自動的に出国手続を行うことができるシステム。よってパスポートへの押印はなし。出国審査(Immigration)を無事完了し、搭乗ゲート・T106Aへと向かう。DUTY FREESHOP(免税店)が並ぶ。免税店は「令和7年度税制改正」👈️リンク でどう変わるのか?再び電光掲示板で我がFlightを確認。「情報ひろば 羽田」。 税関、入管、検疫所、動物検疫所、植物検疫所について案内されていた。「Samantha Thavasa(サマンサタバサ)」サマンサタバサ(Samantha Thavasa)は日本のバッグブランド。 1994年、寺田和正が創業。 「FERRAGAMO」。サルヴァトーレ・フェラガモが自身の名を冠して設立したイタリアのブランド。イタリアの歴史と職人技に気鋭のクリエイティブ・ディレクターのモダンな感性を加えてデザインされた、ウィメンズ・メンズのバッグ、スモールレザーグッズ、シューズ、アクセサリーが人気の店。「北海道の味 サッポロ西山ラーメン」スペシャル 味噌チャーシューメン 2000円 と。食べたかったが、高い!時間がない!さらに搭乗ゲート106Aに向かって進む。搭乗ゲート案内図。106Aは最奥に近く時間がかかった。さらに「動く歩道(moving walkway)」を利用して進む。 「動く歩道」とは、踏み面が階段状にならない水平型エスカレーターの通称。オートウォーク、ムービングウォーク、トラベレーター、ムービングサイドウォーク(特に空港において)などとも呼ばれる。傾斜のあるものはオートスロープとも呼ばれている。 「TIAT端末機」TIATは、東京国際空港(羽田空港)の国際線旅客ターミナルを整備・運営する「東京国際空港ターミナル株式会社」の略称。動画で見る"NIPPON”がビデオで案内されていた。そして搭乗ゲート「106A」に到着。 「トルコ航空・TURKISH AIRLINES」搭乗ゲート。21:45発 ISTANBUL TK199 MS9363 を確認。時間は20:48。 そして21時になり、搭乗開始。TK199便へと進む。大谷翔平のDECORTEコマーシャルが見送ってくれた。更に機内へと進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.07.01
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