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箱根駅伝の帰りは徒歩にて自宅まで。
藤沢宿(旅籠宿)の様子が描かれた安藤広重の画。
手前は境川と大鋸橋、左に江の島道最初の鳥居。右に高札場が
描かれている。

明治、大正初期の藤沢宿の写真があちこちに紹介されていた。
右上は大鋸橋と旅籠(松本楼)の写真。その下は大鋸橋。

遊行寺坂から藤沢宿に入り、遊行寺橋を渡って右折すると見えてくるのが桔梗屋洋紙の店蔵。
創業は江戸時代後期で、藤沢に現存する唯一の店蔵で、現在も「紙」という看板を掲げて藤沢支店
として営業を続けているとのこと。

左は藤沢郵便局。

左下は昭和12~15年の藤沢町役場、そして右側は本町通り、みつはし茶園前。

蒔田本陣跡。
かつて藤沢宿には大名や公家などが宿泊する専用宿舎である本陣が置かれてた。
江戸時代中期から蒔田源右衛門が勤めた本陣。

右側の写真は藤澤警察署。

妙善寺は我が実家の檀家寺。

日蓮宗の寺。

昭和12年~15年の小田急線の藤沢本町駅。

伝源義経首洗井戸。

ビルの横の小道を入ると突き当たりに小さな公園と共に、「首洗井戸」と「首塚」が。
「首塚」、「首洗井戸」は隣り合うような形で設置されており、傍の説明書きには
「「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり
文治五年(1189)に藤原秀衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。
義経の首は首実検ののち片瀬の浜に捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼり
この辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。
ここから北方四〇メートル辺に義経首塚と伝える遺跡もありました。
(現在は井戸近くに移動されている)」と記載されていた。

白旗神社。初詣客が列を作っていた。

由緒には「古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊を祀って、寒川神社とよばれていた。
しかし、創立年代はくわしくはわからない。
鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、
文治五年(1189)閏四月三十日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害された
その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。
高平は、腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。
伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、
この神社に飛んできたという。
このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、
義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。
弁慶の首は八王子社として祀られた。」と。

「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われていた。

祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸え給へ と神拝詞(となえことば)を言いながら
潜るのだと。
![chinowakugurikata[1]_R.jpg](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/21b4f0cc0146c076fb9a4e1d6d58675afd7e97dc.15.2.9.2.jpeg)
手水舎(ちょうずしゃ)。

巨大な絵馬。

一心泣き相撲が5月に開催されると。
我が初孫も??!!。

そして家に近づくに連れて富士山の勇姿が。

正月の富士山はいつも以上に美しかったのであった。

そして約1時間の徒歩にて帰宅し、テレビで箱根駅伝の続きを楽しんだのであった。
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