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石巻の仕事を終え、宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)に同僚の
案内で立ち寄る。駐車場に車を止め、見学のスタート。
サン・ファン広場。
支倉常長らが見たイタリア広場をイメージして作られたのだと。
野外ステージを中心に放射線状に彩られたタイルと周囲の緑が美しく調和していました。

DREAM BELL 夢をかなえる鐘。
出帆400周年の節目、石巻市民団体の厚志によりサン・ファンパークの芝生広場には
「DREAM BELL(ドリームベル)夢をかなえる鐘」が寄贈・設置されたと。


1613年(慶長18)、支倉常長ら慶長遣欧使節一行を乗せたサン・ファン・バウティスタが
太平洋へと出帆。


この木造洋式帆船を復元、渡波港、石巻港を眺める海に、400年の時を経て甦った
復元船が悠然と浮かんでいた。


慶長使節団がヨーロッパへ旅立ってから400年という記念すべき年を迎えた2013年11月、
東日本大震災津波の甚大な被害を受け休館していた「サン・ファン館」が待望の再開館。


入場券を自販機で購入し入場。


常長とサン・ファン・バウティスタに乗って航海を擬似体験できるシュミレーションシアターは
この日はお休みと。
大型ハイビジョン映像に変わってテレビで同じ映像を放送していた。


支倉常長の映像。


サン・ファン館内部は、「慶長使節」の歴史的偉業を、ロボット・シミュレーション装置・
コンピュータ・映像・グラフィックパネルなど様々な手法で、わかりやすく紹介。


大航海時代の世界地図。


サン・ファン・バウティスタ号建造現場での様子を再現したもの。
支倉常長(中央) 政宗公の名代として、日本人一行を取り仕切った。
ルイス・ソテロ(中央右側) キリスト教を広めるスペイン人宣教師。語学に秀で、
慶長遣欧使節を政宗公に進言したと。
セバスチャン・ビスカイノ(右) スペイン大使。日本の東方沖にある金・銀島を
さがすのが目的。 太平洋横断航海にはスペインの操船技術が不可欠であったと。


1613年10月28日、支倉常長ら一行180余人を乗せた慶長使節船「サン・ファン・バウティスタ」
は、 月浦から遥かローマを目指し出帆。


一行を乗せたサン・ファン・バウティスタは、90日間の航海の後、当時イスパニア領だった
メキシコのアカプルコに入港。ここから先、常長一行はサン・ファン・デ・ウルーワ、ハバナ、
サンルーカル、スペインの首都マドリードへ旅を続け、ここでイスパニア国王フェリーペ3世に
謁見し、いよいよローマ法王パウロ5世との謁見の時を待ったのだと。


現地で苦悩する支倉常長の表情をロボット・シミュレーション装置で微妙に表現。


スペイン王フェリペ3世は通商を認めなかったため、ローマ教皇からスペイン王を動かして
もらうためにローマまで行った。
その間、支倉らの何名かはカトリックの洗礼を受けて信者となった。
1615年11月、教皇パウロ5世に謁見したが、天正少年使節と異なり、正式なものでは
なかった。
結局、ローマ教皇からの働きかけも得られず、スペインに戻り、なおも国王への面会を求めたと。


ローマ字でサインした支倉常長の書類を紹介。


ソテロとともに再びスペイン国王と会見して布教と通商を希望したが「ハセクラはダテの
使節であり、 日本国の正式な使節とは認めがたい、また日本ではキリスト教がきびしく
弾圧されていると聞く」
との理由から許可されず、結果を得ることなく帰路につくことになった。
メキシコまで戻った常長は、サン・ファン・バウティスタ号で迎えに来た日本人らとともに
アカプルコを出航、帰国の途についた。途中フィリピンに立ち寄ったところでフィリピン政府に
よって 「オランダ艦隊の来襲に備えるため」という理不尽な理由で船を買い上げられてしまい、
帰国不可に。


その後一般貿易船に便乗して長崎に着き、元和6年(1620年)8月、ようやく出発地・
月の浦港に 帰ってきたと。


伊達政宗が、慶長18年に支倉常長をローマとイスパニアに派遣した慶長遣欧使節について、
どういう経緯で仙台藩が江戸幕府を差し置いてイスパニアとの交渉を直接行ったのであろうか。
また、幕府がキリスト教を禁止していた時期になぜローマ教皇に謁見したのか。
またその真の目的とは何なのかと。


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