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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
『本興寺』を後にし、もう1箇所の立ち寄り予定の『古宮城跡』に向かう。
『古宮城』は元亀2年(1571)に奥平氏監視のために、武田信玄の重臣・馬場美濃守信房が
甲州流の縄張りで武田軍の最前線基地として築城。
2年後、奥平・徳川連合軍の攻撃により自焼陥落した。
現在も縄張りがほぼ完在しており、城郭ファンにおススメの城跡とのこと。
市指定天然記念物の大ヒノキが虎口にある。
浜名湖の北側の国道301号線を走る。
右手に奥浜名湖の『松見ヶ浦』が。
猪鼻湖を右に見ながら進むと三ヶ日町に入り国道362号線に合流し、ここを左折して
『高橋』交差点を右折。
国道301号線をひたすら北上。県道392号線に入り新城市にある豊川に架かる
野田城大橋を渡る。
そして国道301号線を北上すると新東名高速道路の高架をくぐる。
『古宮城跡(ふるみやじょうあと)』は「愛知県新城市作手清岳字宮山15ほか」にある
「続日本100名城」となっている城。
続日本100名城のスタンプは『作手歴史民俗資料館』に置いてあるとのこと。
そして開館&スタンプ押印は 15時までとのことで小雨の中急いでなんとか到着。

『作手歴史民俗資料館』の建物。
この建物は、周辺に数多く点在する城郭から城風の外観となっていた。
『作手歴史民俗資料館』正面。
『作手歴史民俗資料館』入口は天守風。
階段横には少女像『ふれあい』と『ポットホール』と『力石』
『ポットホール』とは、川底にある岩が、水流で回転する石や岩によって徐々に徐々に削られて
できた穴のこと。
穴単体のものもあるし、穴を作った石や岩自体が穴の中に残っているものもある。
館内に入ると作手地区のジオラマが。
『作手歴史民俗資料館』の中には民家が再現されていた。
民家の部屋の様子。
懐かしき農具も。
湿原のジオラマ。
『続日本百名城認定書 古宮城』
スタンプを頂きました。
係員の方に尋ねると閉館後や休館日など、不在時のスタンプ置き場は
『国道301号線へ左折した200mほどの、Y ショップ(コンビニ 7:00~20:00)にて
おすことができます』とのこと。慌てて車を走らせて辿り着いたのであったが・・・。
『古宮城跡』に向かって車は戻る。
途中ガソリンスタンドで給油。この日は11月22日でオロナミンⅭをもらえる「勤労感謝の日」。」何故かそして本来は車1台につき1本のところであったが、2人で『オロナミンC』を3本頂いたのであった。
そして『白鳥神社』・『古宮城跡』に到着。
白鳥神社は日本武命を祭神とし、村民は古宮と称して崇敬したという。 例祭日は10月7日。
神社の裏山が古宮城址で、元亀2年(1571)甲斐の武田信玄が三河の徳川家康攻略の拠点として
馬場美濃守信房に命じて宮山(標高580m、比高差80m)に築城、県内唯一の甲州流築城術と
いわれた。
要害を誇ったこの城も天正元年(1573)8月、奥平・徳川連合軍の攻撃により自焼陥落した。
古宮白鳥神社の社殿の前には 「新城設楽の巨木・名木」に選ばれている杉の大木が、
社殿の裏には 市指定天然記念物の 大ヒノキ があった。
『古宮城跡案内板』
「当城址は甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信房に命じ元亀
(1571)に築城したと伝わる。城址は南北約200m、東西約250mの独立した小山全体から
なってぃる。








【 http://tree-flower.jp/23/furumiya_hinoki_1998/furumiya_ohhinoki.html
】より。 
『亀山城』
は、応永31年(1424)に奥平貞俊によって築城された。
貞俊は、天授年間(1375~1380)に現在の群馬県からこの地に移り住んで川尻城を築いた後、
亀山城を築城してここに居城したとされている。その子孫は、この地で支配者としての地位を確立し、
後に山家三方衆と呼ばれる有力土豪となった。
16世紀になると、今川氏、松平氏、織田氏といった武将の配下を転々としながら、天正3年
(1575)に徳川方となって長篠城の城主となった奥平貞(信)昌の長篠の戦いでの功績により、
奥平氏は歴史に名を残すこととなった。
存続期間については、応永年間から城主が長篠城へ変わる天正年間の時期と慶長7(1602)~15(1610)年に奥平信昌の四男 松平忠明が城主となっている2時期が知られている。









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