JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.12.31
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カテゴリ: 国内旅行
「南洲墓地」の散策を続ける。
下段の「南洲神社」側を暫し巡る。



「伊地知末吉」の墓。



「池田幸太郎」の墓。



「少年烈士
伊地知末吉 明治10年3月30日 肥後松橋で没す 14歳
池田幸太郎 明治10年9月24日 城山      14歳
新納宗次郎 明治10年3月21日 肥後鏡     14歳」



「中村(邑)恕助」の墓。




京都にて勤皇志士と交友。明治3年、反政府運動に連座、終身禁獄の刑。西南の役時、鹿児島の
獄に在ったが、大山県令に従軍を出願して釈放。明治10年3月に戦列に加わる。
4月20日、熊本城の東、保田窪の激戦で戦死。34才。」



「森川政一」の墓。



「森川政一
旧姓茂手木。山梨県出身。明治10年6月23日豊後方面で戦死。34歳。
京都遊学中戊辰の役で官軍に加わり功をたてた。薩摩藩士森川の養子となり、西南の役では
2番大隊3番小隊附属として従軍した。」



「種子島 彦之丞」の墓。



「種子島 彦之丞
平家を祖とし、鉄砲伝来で有名な種子島時尭の一族である。

半隊長を務めた。明治10年8月7日、弱冠二十歳で宮崎県の山陰(やまげ 日向市)にて傷つき
戦死した。」



まだまだ上段の奥に大きく拡がる墓石群があったが、ここまでとし、次に「西郷南洲顕彰館」の
裏にある「竹公園」を訪ねた。
「西郷南洲顕彰館」を正面に見る。

南洲公園内の南洲神社西郷隆盛墓所の隣に建っている。西郷隆盛を中心に大久保利通や明治維新に
ついて展示しており、近隣には西南戦争で西郷軍が決起した私学校址の石垣、最後の戦いが
行われた 城山、西郷洞窟、西郷隆盛終焉の地などがある。



「西郷南洲顕彰館」案内柱。



「西郷南洲顕彰館
西郷南洲顕彰館は、西郷隆盛(南洲翁)を中心とする明治維新の先覚者たちの、国家・社会に
尽くされた偉業を後世に伝えるとともに新しい時代を担う青少年の人間形成に役立てるため、
西郷南洲百年記念事業として、西郷南洲翁を慕う全国の方々からの寄付により昭和52年建設
着工し、翌年6月30日に鹿児島市に寄贈されたものです
また、建物は江戸城の開城にちなんで「城壁を開く」というテーマで設計されたものです。」


「南洲墓地」、「桜島」を振り返る。



「南洲神社」の「一の鳥居」方向を見る。



ズームして。



巨大な石灯籠。



「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて建立の由来
西南之役は、明治の近代国家建設途上における国内最後で最大の内戦である。
明治六年十月、いわゆる遣韓論に破れた西郷隆盛の下野により、その端緒を開き明治十年
ニ月十五日に出軍、同十年九月ニ十四日をもって終了した。
参戦した兵力は官軍六万人薩軍三万人。両軍合わせて一万四千余人の戦死者を出した。
熊本城の攻防戦、高瀬の大会戦、田原坂の大激戦などが、つとに有名である
日本人同士が、親子が、兄弟が、竹馬の友が、血涙山河を濡らす悲劇的戦いに数多有為の人材を
失ったこと今もなお惜しみてあまりある。」



「日向には 我と人とを 隔つなよ 看経はよし してもせずとも
日新公の加世田別府城の戦い、島津義弘の木崎原や島津義久の耳川の戦いに続き、島津義払、忠弘
(のちの家久)親子は和歌山に”朝鮮の役”などそれぞれに敵味方の別なく「高麗陣敵味方戦死者
供養碑」を建立し戦没者を懇ろに供養した。
両軍相対峙した必死の戦いも、互いの奮闘をたたえ戦没者を敵味方の別なく供養する「博愛慈悲の
精神」は武士道の精華として感銘を与えている。
ここに西南の役百四十年、明治維新百五十年を奇貨として国の安寧と世界の平和を希求し、先人の
労苦に思いを馳せ、もってその遺風を後世に伝えるものである。」



『鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争之図』



この錦絵は??
島津藩の家紋、池上四郎の名があるが。



「回向には 我と人とを 隔つなよ 看経はよし してもせずとも
(仏様を供養するのに敵味方分け隔てをするな。読経はしてもしなくてもよい)
島津家中興の祖と仰がれる日新公(島津忠良)の「いろは歌」である。
日新公の加世田別府城の戦い、島津義弘の木崎原や島津義久の耳川の戦いに続き、島津義弘、
忠恒(のちの家久)親子は和歌山の高野山に”朝鮮之役”など、それぞれに敵味方の別なく、
高麗陣敵味方戦死者供養塔」を建立し戦没者を懇ろに供養した。
ここに西南之役百四十年、明治維新百五十年を奇貨として国の安寧と世界の平和を希求し、先人の
労苦に思いを馳せ、もってその遺風を後世に伝えるものである。」



再び「桜島」の山頂を見る。



「竹公園」まで50m。



苔生した巨岩の横を進む。



「竹公園」に到着。
孟宗竹を琉球から本土に持ち込み、ひろめた島津21代当主、島津吉貴公の墓が以前あった場所。
現在は別の場所に改葬移転。
その跡地として竹公園として整備された場所。竹公園は手入れが行き届いており、竹の葉が
ざわめく音を聞いていると和むポイント。
小さな公園ではあるが鹿児島県内に繁殖している竹14種・1643株が集められていると。



中央に大きな石碑が。



「島津吉貴公ゆかりの竹公園
日本にはじめて孟宗竹が植えられたのは、1736年薩摩藩の磯別邸であるといわれます。
島津21代吉貴公は、琉球(沖縄)から孟宗竹を2株とりよせ、磯の別邸に植栽されました。
これをもとに、現在では日本全国に繁殖しています。この竹公園は、吉貴公の業績をたたえる
ために、公の墓所であるこの地に作られました。
こに植栽されている竹は、孟宗竹をはじめ、県内に繁殖している竹( 14種・1643株)を集めた
ものです。」。
島津吉貴公は、幼名を忠竹と言い、家督をゆずった継豊公が再婚させられそうになった、
徳川吉宗公の養女の名前が竹姫というので、よほど竹に縁があるのかと…。



「島津吉貴公碑」
戒名「浄国院殿鑑阿天清道煕大居士」が刻まれていた。



裏側。
「建立昭和四十六年十一月浄光明寺」。



様々な種類の竹が植えられていた。



竹笹の緑が陽光に輝いていた。



再び「南洲墓地」を見る。



「桜島」を背景に「西郷隆盛」の漢詩碑。



「南洲詩より」
「闕を辞す
独時情に適せず 豈勧笑の 声を聴かむや
羞を雪(そそ)がむとして 戦略を論ずれば
義を忘れて 和平を唱ふ 秦檜 遺類多く
武公 再生し難し 正邪今 那ぞ定まらむ
後世必ず 清を知らむ」



「太宰府天満宮の梅」。



「太宰府天満宮の梅
白梅(バラ科ウメ属 品種 田子の月 太宰大弐)
紅梅(バラ科ウメ属 品種 桜鏡   鹿児島紅)
この紅白の梅は、西郷隆盛が1865年(慶応元年)、福岡の太宰府で五卿を守護中、菅原道真公の
命日に手灯明を点し供養した逸話を語り継ぐため、太宰府天満宮から特別に寄贈ざれました。
太宰府・鹿児島両市民の一層の友好と古人への思いが梅の香とともに時空を超えて通うことを
祈念し、植樹しました。」



「西郷南州顕彰館」を再び。



「西郷南州顕彰館」を三度。



「カゴシマシティビューまち巡りバス」の「10 西郷南州顕彰館」停留所。



次のバス停は「11 今和泉島津家本邸跡(篤姫誕生地)前」。



「カゴシマシティビュー」案内写真。



「周辺のみどころ案内」。



そして駐車場から、この朝に日の出を楽しんだ「城山展望台」のある「城山」を見る。



桜島の山頂からは水蒸気が上がっていた。



そして更に右に目をやると錦江湾の「光る海」が。




                              ・・・もどる・・・


                  ・・・つづく・・・





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Last updated  2021.12.31 08:38:58
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