JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.05.13
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カテゴリ: JINさんの農園
さらに「宝蔵門」に向かって進む。
左側には、提灯が並ぶ。



「浅草寺のご本尊は聖観世音菩薩さまです。
お参りの時は、合掌して『南無観世音菩薩』とお唱えしましょう
                       金龍山浅草寺」 



浅草、浅草寺の歴史についての案内板が並んでいた。



一、浅草のあけぼの
浅草は利根川・荒川・人間川が運ぶ上砂の堆積によって作られた。古墳時代末期に人々が住んで
いたことは、浅草の本坊・伝法院(でんぽういん)に残る「石棺」が示している。この東京湾に面した
浅草は、はじめ漁民と農民の暮らす小さな村であったろうが、やがて隅田川舟運による交通の要衝
として、また、観音様の示現による霊地として歴史的あけぼのを迎えるのである。



二、ご本尊の示現

「浅草寺縁起」によれば、推古天皇三十六年(六ニ八)三月十八日の早朝、隅田川(当時の宮戸川)で
魚を捕る檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が一躰の仏像を感得した。



三、浅草寺の草創

ニ人の漁師が感得した仏を郷司の土師中知(はじのなかとも。名前には諸説ある)に示した処、
聖観世音菩薩像とわかった。そこて、この兄弟は深く帰依し、中知は自ら出家し、自宅を寺に
改めて尊像を祀ったのが淺草寺の始まりである。
この三人を祀ったのが「浅草神社(三社さま)」である。
一方、そうした縁起とは別に、十人の童子がアカザという草で堂を建てたという伝承もあった。



四、慈覚大師中興の開山となる
ご本尊が示現して十七年後、大化元年に勝海上人(しようかいしようにん)が浅草寺に来られ、観音堂
を建立し、ご本尊を秘仏と定めた(秘仏の由来)。
その後、天安元年(八五七)慈覚大師円仁(えんにん)が比叡山(天台宗の総本山)より来寺し、ご秘仏に
代わる本尊ならびに「御影版木(みえいのはんぎ)」を謹刻された。板木が作られたことは、参拝者
が増えてきたことを物語るものだろう。



五、平公雅堂塔伽藍を建立
平安時代中期、天慶五年(九四ニ)安房の国守であった平公雅は京に帰る途次、浅草寺に参拝した。
その折、次は武蔵の国守に任ぜられるように祈願した処、その願いがかなったことから、そのお礼に
堂塔、伽藍を再建し、田地数百町を寄進したと伝える。その伽藍に法華堂と常行堂の二堂があったこと
から浅草寺が天台宗の法の流れに属していたことが知られる。」 




六、源頼朝の参詣
治承四年(一一八○)、源頼朝は平家追討に向かうため浅草の石浜に軍勢を揃えた際、浅草寺に参詣
して戦勝を祈った。やがて鎌倉に幕府を開いた後も 信仰を寄せた。鎌倉鶴岡八幡宮造営に際しては
浅草から宮大工を召している。このように武将や文人らの信仰を集めた浅草寺の霊名は次第に
全国に広まっていった。



七、徳川将軍の篤い保護

五百石を寄進した。元和四年(一六一ハ)には家康を祀る「東照宮」の造営を認め、随身門
(現、ニ天門)も建立されるなど浅草寺への信任は篤かった。寛永年間に観音堂が炎上した際も
徳川家光により慶安ニ年(一六四九)再建された。以後、関東大震災にも倒壊せす、国宝観音堂
として参詣者を迎えた。だが、昭和ニ〇年の東京大空襲により焼失、現在の本堂は昭和三十三年に
再建された。


八、江戸時代 境内と奥山の賑わい
江戸の繁栄とともに浅草寺の参詣者も増え、やがて江戸随一の盛り場となった。江戸文化の最盛期、
境内には百数十の神仏の祠堂(しどう)が建ち並ぶ庶民信仰の聖地となる一方、奥山では松井源水の
コマ廻し、長井兵助の居合抜き、のぞきからくり、辻講釈などの大同芸や見世物が参詣者を喜ばせ、
水茶屋・揚枝店・矢場(やば)なども立ち並んだのである。さらに春の節分をはじめ季節の行事は
大変な賑わいを呈した。
明治に人って、浅草寺の境内地は「浅草公園」となり、その第六区が興行街となって日本の映画史、
演劇史の上に大きな足跡を残した。同十五年鉄道馬車が開通、同ニ十三年には浅草一帯を眠下に
望む「十ニ階」が開業されるなど、浅草は文明開化のさきがけを誇った。



九、浅草寺の寺舞(じまい)
戦後、東京の復興は浅草の復興でもあり、地元の祈りでもあった。昭和三十三年に本堂が再建
されたことを記念して「金龍の舞(きんりゅうのまい)」、昭和三十九年には宝蔵門(旧仁王門)の
落慶記念に「福聚宝の舞(ふくじゅたからのまい)、昭和四十三年には東京百年祭を記念して
「白鷺の舞(しらさぎのまい)が、それぞれ浅草寺縁起や浅草芝居の由来を受けて創作され、
縁日に奉演されている。



浅草名所七福神
日本の福神信夘は室町時代に恵比寿・大黒天をはじめとして、商業の盛んな京都方面で発達
しました。その数は次第に増えて七福神となりましたが、当初、その顔ぶれは一定ではありません
でした。七という数の根拠には諸説ありますが、一種の聖数と考えられます。
京都を中心に盛んとなった七福神信仰ですが、七福神すべてを巡拝する風習は十八世紀末~
十九世紀初めに江戸で成立しました。江戸名所七福神も江戸では有名でしたが戦後に中断し、
一九七七年(昭和五十ニ年)に再興されて今日に至るものです。
なお、福神の働き(ご利益)は次の通りです。
恵比寿
 漁労・商売の守護。
大黒天
 五穀豊穰(食物)
 出世を司る神。
弁財天
 知恵・音楽・財福を司る神。
毘沙門天
 四天王の一つ。
 財宝・勇気・決断を司る神。
福禄寿
 幸運・生活の安定
 長寿を司る神。
寿老人
 延命長寿を司る神。福禄寿
 と同一とする場合もある。
布袋尊
 弥勒菩謹の化身とされる人神。
 福徳・家庭円満を司る神。
浅草名所七福神
 浅草寺   大黒天
 浅草神社  恵比須神
 待乳山聖天 毘沙門天
 今戸神社  福禄寿
 不動院   布袋尊
 石浜神社  寿老神
 鷲神社   寿老人
 吉原神社  弁財天
 矢先神社  福禄寿」



そして正面に「 宝蔵門 」が大きく見えて来た。



浅草観光案内図 」と「 浅草の観光行事 」  。



宝蔵門 」。



宝蔵門
   台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺
宝蔵門は、大谷米太郎 の寄進で、昭和三十九年に浅草寺宝物の収蔵庫を兼ねた山門として
建てられた。鉄筋コンクリート造で重層の楼門である。外観は旧山門と同様に、江戸時代初期の
様式を基準に設計されている。 高さ二十一・七メートル ある。下層の正面左右には、錦戸新観、
村岡久作の制作による、木造仁王像を安置している。
浅草寺山門の創建は、「浅草寺縁起」によると、天慶五年(九四二)、平公雅によると伝える。
仁王像を安置していることから仁王門とも呼ばれる 。その後、焼失と再建をくり返し、慶安二年
(一六四九)に再建された山門は、入母屋造、本瓦葺の楼門で、昭和二十年の空襲 で焼失するまで
その威容を誇っていた。
        平成十八年三月
                    台東区教育委員会」 



雷門をくぐり、人通り賑やかな仲見世を歩いてゆくと、前方に堂々たる朱塗りの楼門が参拝者を
迎える。浅草寺山門の宝蔵門である。門は初層が五間で、両端の二間には仁王像を奉安し、
中央の三間が通行のために開口している。
仁王像が安置されていることからもわかるように、この門はもともと仁王門と呼ばれていた。
『浅草寺縁起』によれば、平公雅が天慶5年(942)に武蔵守に補任され、その祈願成就の御礼
として仁王門を建立したのが創建という。以来、数度の焼失と再建ののち、徳川家光の寄進により
慶安2年(1649)に落慶した仁王門が、昭和20年まで諸人を迎えていた。今に伝わる錦絵の
数々に描かれた仁王門は慶安の門である。
昭和20年(1945)、仁王門は東京大空襲により観音堂・五重塔・経蔵などとともに焼失する。
昭和39年(1964)に大谷重工業社長・大谷米太郎ご夫妻の寄進により、鉄筋コンクリート造り、
本瓦葺きで再建された。経蔵を兼ねて伝来の経典や寺宝を収蔵することから、仁王門から宝蔵門と
改称された。

宝蔵門に収蔵されている経典とは、「元版一切経(国の重要文化財)」である。もとは鎌倉の

浅草寺に深く帰依していた尼僧の貞運尼が買い取り、浅草寺に奉納したという由緒をもつ。
この「元版一切経」を鎌倉から浅草まで運ぶ際に助力したのが、町火消し十番組の組頭・
新門辰五郎である。境内にあった新門の門番を務めたことから新門と名乗り、安政年間
(1854~60)に浅草寺の経蔵を寄進している。戦災で経蔵は焼失したが「元版一切経」は
疎開しており無事だった。宝蔵門は篤信の人びとに守られた宝物とともに、多くの参拝者の
安寧を見守っている。



「浅草寺」額
京都・曼殊院門跡の良尚法親王筆の模写 と。

台東区】浅草寺 その1(雷門、宝蔵門、本堂) - 甲信寺社宝鑑

小舟町 」と書かれた「 大提灯 」。
高さ 3.75m・幅 2.7m、重さ 450kg。
日本橋小舟町奉賛会より平成26年(2014)10月奉納掛け換え(4回目)。



吊灯籠
 高さ 2.75m、重さ 1.000kg 銅製。
魚がし講 より昭和63年(1988)10月奉納掛け換え(2回目)


仁王尊像(木曾檜造り 重さ 各約1,000kg)
「阿形像」 



ネットから。

浅草寺仁王像2 by サセケンタ (ID:8555493) - 写真共有サイト:PHOTOHITO

仁王様(阿行)
昭和39年(1964)に、現在の宝蔵門の再建に際し、仏師の錦戸新親氏によって制作された。
総高5. 4 5メートル、重さ約10 0 0キログラム、木會檜造りである。
仁王さまのご縁日は8日。身体健全、災厄除けの守護神であり、所持している金剛杵は、すべての
煩悩を破る菩提心の象徴である。
この仁工さまは、宝蔵門にあって、日々参詣諸人をお迎えし、人々をお守りしている。」 


仁王様(吽行)



ネットから。

東京風景・浅草寺 - No: 4159337|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

仁王様(吽行)
昭和39年(1964)に、現在の宝蔵門の再建に際し、仏師の村岡久作氏によって制作された。
総高5. 4 5メートル、重さ約1000キログラム、木會檜造りである。
仁王さまのご縁日は8日。身体健全、災厄除けの守護神であり、所持している金剛杵は、すべての
煩悩を破る菩提心の象徴である。
この仁工さまは、宝蔵門にあって、日々参詣諸人をお迎えし、人々をお守りしている。」 



五重塔 」 



日本で最も有名な五重塔のひとつが、浅草寺の境内にある五重塔。
その高さは約53.32mで、ビルでいうと15~20階だてに相当します。
浅草の五重塔は西暦942年に建てられたと言われています。江戸時代には寛永寺、池上本門寺、
芝増上寺にある五重塔と合わせて「江戸四塔」と呼ばれ親しまれてきましたが、太平洋戦争の時の
空襲で一度焼失してしまいました。いまの五重塔は焼失した後に場所を改めて建て直したものです。現在元の場所には石碑が建っています。



五重塔の先端にあるのは「 相輪 」と呼ばれる金属製の装飾。
これは、露盤、伏鉢、請花、九輪、水煙、竜舎、宝珠などが組み合わさったもので、上部に
位置する「宝珠」が最先端にある。



相輪 」案内図。 
上から順に
宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。
竜舎:奈良時代から平安時代の高貴な者の乗り物
水煙:火炎の透し彫り。火は、木造の建築物が火災に繋がるため嫌われ、水煙と呼ばれる。
   お釈迦様が火葬されたことをあらわす。
九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。9つの輪からなる[注釈 1]。
受花(請花):飾り台。蓮華の花。
伏鉢(覆鉢):鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。お墓を表している。
露盤:伏鉢の土台。
宝珠は仏舎利が納められるため、最も重要とされる。 なお、中心を貫く棒は「擦」
(または「刹管」)と呼ばれる。 また、仏舎利は塔の中に安置されていることもある。

何故、五重塔は倒壊しなかったのか|Culture

そしてこちらは 「東京スカイツリー」の最上部 をズームして。



正面に「 浅草寺 本堂 」。



「宝蔵門」を「本堂」側から見る。  




大わらじ
高さ 4.5m・幅 1.5m、重さ 500kg、藁 2,500kg使用。
山形県村山市有志より平成30年(2018)10月奉納〔昭和16年(1941)の初回以来、8回目〕
わらじは仁王さまのお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」
と驚いて魔が去っていくといわれている。」 
右側。



左側。




                                   ・・・​ もどる ​・・・



                ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2025.05.13 20:50:55
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