JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.06.06
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カテゴリ: JINさんの農園
さらに「墨田区吾妻町」の散策を続ける。
次に訪ねたのが、左手前方に見えて来た「 Cemetery(共同墓地) 」。  
墨田区吾妻橋2丁目16−8。



清雄寺墓地 」と。



大きな墓地。



歴代上人の墓地か?



南無妙法蓮華経 」と。 



墓地からの「 東京スカイツリー 」。



「32代横綱玉錦墓
清雄寺のこの墓地は寺の北西側にあって、少し奥に入って右を向くと、背の高い真っ黒な墓石が
目に入る。 これが出足一本の強豪横綱、 第32代横綱玉錦三右衛門のもの である。
正面に「 三十二代横綱 妙法 玉錦三右衛門墓 」と彫られ、右側面には相撲の殿様として知られた
酒井忠正氏による碑文がある。 この墓は39年に建てられたもので、27回忌を期したものだろう。
戦後しばらくは戦災でひび割れた状態だった。
碑文 は次の通り と。

八年玉錦と名のり初土俵、十五年春入幕、 昭和六年大関に昇進した。七年春秋園事件に当つては
残留力士の総師(マヽ)として健斗貢献し、十月横綱を許された。卅七貫の巨躯に燃える闘魂と
怒涛の如き寄身は比類ないものであつた。 七年二所ノ関部屋を継承、優勝する事九回、なお
彼の将来に待つ可きものがあつたが十三年巡業中大阪にて急逝した。相撲協会は協会葬を以て
彼が生前の功に報いた。 酒井忠正撰」  
戒名・大法院宝玉錦光日寿居士(左側面)
大正8年1月初土俵、15年1月入幕、昭和5年5月大関、7年10月場所後に横綱、10年1月から
6代二所ノ関二枚鑑札、13年12月4日現役歿。



関脇海山(5代二所ノ関)墓
「妙法 本関院法軍海山日衛居士」と正面にある六角柱のこの墓、これは横綱玉錦の師匠、
5代二所ノ関の墓である。 関脇3場所をはじめとして幕内上位で暴れ、合掌捻りの大技で
相手を恐れさせ、初代西ノ海やら小錦やら、果ては常陸山まで捻り潰した大物喰いの剛の者で
あった。
墓は7回忌に建てられたもので、玉錦・玉ノ海・海光山・粂川(7代・前頭鬼竜山)の名がある。
戒名・本関院法軍海山日衛居士(正面)。明治22年9月大阪序二段、東上して23年5月序二段附出、
27年1月入幕、30年1月関脇、40年1月から5代二所ノ関二枚鑑札、42年1月限り引退し
年寄専務。昭和6年6月6日没。



納骨堂の建物の中へ。
納骨堂収拾舎利諸精霊 」と。



なんと書かれていたのであろうか?
「南無尊・・・・」 



清雄寺墓地 」を後にして、「 清雄寺通り 」を南に進む。



「源森橋」交差点からの東京スカイツリー。



そして「 本門佛立宗 覚英山 清雄寺 (せいおうじ)」を訪ねた。
清雄寺は、本門佛立宗の寺院。 
墨田区吾妻橋2丁目14−6。



関東佛立宗初祖 日教?上人彰◯碑 」。



本堂 」。 
忠勝の祖父忠次の菩提を弔うために、江戸下屋敷の土地を寄進して建てられた。元々は現在の
墨田区役所の辺りに位置していたが、1923年(大正12年)の関東大震災で罹災し、現在地に
移転した と。

山号   覚英山
宗派   本門佛立宗
本尊   大曼荼羅
創建年  寛文2年(1662年)
開基   酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)



屋根には黄金の鳳凰の姿が。



扁額「◯影向」?



境内からの「東京スカイツリー」。



次に訪ねたのが「 臨済宗 天祥寺 」。 



「天祥寺」山門。
1624年(寛永元年)に創建された。現在の台東区にある海禅寺が兼帯する寺院として建てられ、
当初の名称は「嶺松院」であった。
1693年(元禄6年)、 平戸藩藩主松浦鎮信が海禅寺より嶺松院を譲り受け、盤珪国師を中興とした
1716年(正徳6年)、近くに松嶺寺という寺号が類似する寺があり紛らわしいため、鎮信の戒名
「天祥院殿慶厳徳祐大居士」から、「天祥寺」に改名した と。 



山号向東山
院号-
寺号天祥寺
本尊阿弥陀如来
宗派臨済宗妙心寺派

天祥寺所蔵の文化財
  • 松浦鎮信の墓
  • 祭贈従三位静山公詩碑
  • 養老泉の碑
  • 水鉢
  • 盤珪国師の墓
  • 生月鯨太左衛門の墓
山門は閉ざされてい た。



そして引き返して再び「 吾妻橋 」を渡る。
運航ルート「隅田川ライン」観光船の、船体デザインが異彩を放つ「 ホタルナ 」が停泊中。

駒形橋 」を見る。



再び「 すみだリバーウォーク 」 



船体デザインが異彩を放つ隅田川観光船「 ホタルナ 」。



そして「吾妻橋」を渡り、「 吾妻橋」交差点まで戻り再び「松屋浅草店」を見る



そして「東京メトロ銀座線」で「神田駅」で下車し、JRに乗り換える為に地上へ 。 
「神田駅北口」に出ると、 国道17号線に「山車」を曳き「神輿」を担ぐ集団 が。



「天下祭」と称され、日本三大祭の一つにも数えられる歴史ある大祭「神田祭2025」が、
5月8日(木)から15日(木)にかけて開催されていたのであった。
神田、日本橋、大手町、秋葉原といった108の氏子町会を中心に、東京の総鎮守・神田明神で
斎行されるこの祭は、隔年で行われる本祭年にあたるため、特に盛大な内容となっていた
のであった。



「神田祭」ポスター。

神田祭2025はいつから?どんな祭り?開催日程や時間を解説|神田明神の歴史や由来を紹介 - れきちり散歩

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「神田松枝町」の集団。
左折して、「神田平成通り」に入る。



ガード下を通過。



山車 」が姿を現した。



多くの子供達の姿が。



山車は唯一宮入りする「​ 羽衣の山車 ​」👈️リンク 。
昭和13年に製作された極彩色の神輿とともに75年振りに新調された能衣装をつけ、
宮入りするのだと。



人形の面も近年若き能面作家により新調された作品であると。



太鼓の音色も軽やかに。



太鼓を叩く女性に姿も。



山車の方向を変えてガード下を潜る。



その後に「 神田松枝町 」の「 神輿 」。



神田松枝町 」の名前の由来は、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女の名に由来する
という説があります。
旧松枝町あたりを中心にして、江戸のころまで、「お玉が池」という広大な池があった。
桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、池畔に茶屋が建っていた。
「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前。
景勝地・お玉が池の周辺には、江戸の文人や学者が多く暮らしていた。
その一人である伊東玄朴ら蘭方医達が、安政5年(1858)、種痘館を設立した。
このお玉が池種痘所が、いまの東大医学部の出発点であると言われている。
町会の該当区域は、岩本町二丁目5〜7番地、10〜12番地となっているとのこと。


暫しの間、​ 神田松枝町 の神輿 ​👈️リンクをカメラで追いかけたのであった。
















                                ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​​ つづく ​​・・・








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Last updated  2025.06.06 00:00:11
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