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先日、某氏のご好意で、『弥富文鳥盛衰記』という冊子を拝読する機会を得た。この冊子は、昨年一部の文鳥マニアに惜しまれつつ、解散する事になってしまった愛知県弥富市の文鳥生産農家の出荷組合の方が、当地における文鳥産業の歴史や解散の顛末を簡単にまとめられて、関係者に配られたものだ。
私は、おそらく、文鳥の歴史などに興味がある一般的な飼い主の平均的レベルよりも、『文鳥村』と呼ばれ、文鳥生産のメッカであった弥富に対する思い入れが薄いと思う。何しろ、現地に行って、生産の現場を見たいと思ったことすら無いのである。それには私なりに理由はある。生産形態については、畜産全書などの書物や、実際に行かれた人のネットでの見聞記録を見るくらいで、十分にどういったものか把握可能なので、手間隙をかけ、観光としての受け入れ準備の無い農家の手を煩わせても、それ以上に得るものはないと見なしていたのだ。 伝統的に文鳥の大量生産をする場所に興味を持たないのは、文鳥の愛好者としておかしいだろうか?おかしいと思う人は、何か誤解しているような気がする。例えば、ニワトリに名前をつけて大切に飼育している人が、養鶏場を訪ねたいと思うだろうか?それが文鳥の生産場であったとして、どこに本質的な違いがあるだろうか?まして、養鶏場の生産様式を真似して、家庭でニワトリを飼育する人がいるだろうか?もちろん、養鶏という畜産業の経済的な必要性から研究された栄養学や医学などなどの知見を、家庭のペットとしての飼育という観点から取り入れることはあるだろう。しかし、舐めるようにかわいがるのと、出荷できるようになるまで、もしくは食べられるようになるまで、いかに効率よく(短時間で安上がりに)育てるかでは、まるで別次元の話のはずである。
文鳥の繁殖農家の方法論なり感覚が、いかに一般の飼い主と異なるものか、いくつか具体例を挙げよう。
1、営巣の有無 繁殖農家では、箱巣の産座に稲ワラを編んだワラジを敷いて、箱巣のフタをはずした状態で繁殖させている。これは利便性を求めた結果だが、家庭で飼育する者は真似すべきでない。大きな飼育屋の何段にも積まれた飼育箱の中という薄暗い環境では問題にならなくとも、家庭内の鳥カゴの中でフタがなければ、文鳥が落ち着いて抱卵・育雛するのは難しくなる。また、オス文鳥の抱卵・育雛への参加を促す営巣は、ダメなら組み合わせを替えると言ったことが出来ない一般家庭での繁殖では、もはや必須項目と言える(昔的に言えば、オスの「追い盛り」を防ぐには、営巣で体力を消耗させるのが、最も自然で効果的)。
2、引き継ぎのタイミング 繁殖農家では、孵化7~10日のヒナを取り出し、その後数日の間餌づけをしてから卸売業者に出荷しているが、これは可能な限り早く親鳥を育雛から開放し、次の産卵を促すための行為であり、家庭で飼育する者は真似すべきではない。未熟なら未熟なほど体調を崩しやすいので、確実に丈夫な手乗り文鳥を育てたければ、問題が無い限り孵化2週間程度は親鳥に任せるべきなのである。こうした経済的な理由だけで早期に引き継いでしまう習慣を、飼育における伝統的な方法論と安易に誤解してはならない。
3、廃用成鳥の処分 繁殖農家では、生後1~3歳までを種鳥として用いられ、3歳の繁殖明け「6月の換羽期が来たら出荷処分する」(畜産全書)ことになる。このいわゆる「廃用」を安価に買い取った一部の業者が、「若鳥」と偽って市場に出したところで、消費者である我々一般飼い主にはわからない。もちろん責任の大半は、承知した上で転売する業者側に存在するが、「廃用」で市場が混乱し迷惑をこうむるのは、消費者である一般飼い主である。老衰して亡くなるまで面倒を見なければならない一般飼い主と、3年経てば捨て値で市場に放り出す生産者は、当然のことながら、同じ感覚であるはずがない。
さて、当然私には繁殖農家を非難する気持ちはまったくない。経済動物として見るか見ないかの立場の相違で、見ない立場から言えば、繁殖農家の方法論など真似する必然性も必要性もその欠片もなく、経済合理性の追求を前提としなければならない宿命を持つ産業の、一体何を参考に出来ると信じられる方が、よほど不思議だと思っているに過ぎない(繁殖のプロとしての工夫と飼育上の工夫は、家庭での飼育とは別物であり、一般家庭での飼育にベテランはいてもプロはいない。一般家庭での飼育は、家庭生活そのものだからである)。文鳥を農畜産品と見なして、それなりに品質良く効率的大量に生産することを目指すなら、弥富の農家の文鳥生産システムは、実に良くできたものだったのである(従って別の産地は真似をする)。
しかしながら、大量生産大量消費の時代はすでに過ぎ去り、おそらく再び戻っては来ない。また、使い捨て的安価な製品を求めるニーズに対しては、日本より生産コストが低い海外の製品が応えるのが時代の趨勢となってしまっている。さらに、飼育されるペットの種類も多様化し、文鳥を飼育する人の絶対数が減っているのも明らかだ。その少なくなったパイをめぐって輸入品と価格面で競争するのは、ほとんど無茶といって良い。つまり、文鳥生産についても、一羽当たりの単価を引き上げても消費者に支持されるように、品質の良い国産として付加価値をいかにして高めるかを、考えねばならなかったはずだ。具体的には、大量生産体制を脱却して、衛生的な管理のできる比較的少数羽の飼育システムに移行し、観光化をはかりブランドとしての知名度を高め、直販システムを構築し・・・、と言ったところで、ざっと20年前、少なくとも10年前には考えて、即時に実行していかなければならなかったように思える。
もちろん、昔の成功体験があるだけに変更は難しく(昔は生産しただけ売れた)、従事者が高齢となればさらに困難であり、しかも改革したところでうまくいった保証は何もない。しかし、文鳥だけの爆発的な飼育ブームなど今後も考えにくいくらいのことは(起こったとしても一過性)、少し客観的なら誰にでも理解できたはずであり、何もしなければ、斜陽化してジリ貧になるのは明らかだったと思う。
冊子を読む限り、近年の鳥インフルエンザ騒動が、弥富文鳥の売り上げ不振のダメ押しとなったと、生産者側はお考えのようだが、それも、養鶏や養豚同様の開放的な小屋での大規模生産形式が、ペット動物の繁殖方法として、一般に受け入れにくくなっている現状を表面化させただけではなかろうか。何しろ、鳥インフルエンザにより台湾産などの輸入が頻繁に全面ストップするようになっているので、輸入検疫体制の強化は、国産にとってむしろ追い風にもなったはずである。一体この間、一時的品薄状態を捉え、輸入物に安かろう悪かろうのイメージを与えつつ、国産文鳥のブランド化をはかるような動きがあっただろうか?
実情などほとんど知らずに、「弥富文鳥」のイメージを先行させて、何らかの妄想を抱いている文鳥マニアは昔から多いものだが、そういった文鳥を農畜産品として扱うなど夢にも思わないような人々を、いかにうまく取り入れるかを考えずして、将来などあるわけがない。従って、近々に行き詰ると、十年ほど前に私は思っていたので(『文鳥問題』↓)、むしろ昨年まで組合を継続させたご努力に敬意を覚える。出荷数は減るばかりの上に単価は据え置き状態、いくら努力をしても報われず・・・、こうした産業を継続するのは、とてもつらいものだったに相違ない(※)。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/bun2/mondai/mondai2.htm
※弥富に文鳥組合が存在したおかげで、長年我々一般の飼い主は、市場から安定的な文鳥の供給を受けることが出来た。文鳥組合が存在したおかげで、弥富の文鳥の品質は保たれ(繁殖家のように当たり外れは無い)、貴重な系統が失われずに済んでいたのである。その点は十二分に評価しなければならない。
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