ラッコの映画生活

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2008.04.18
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カテゴリ: ヨーロッパ映画
LE HUITIEME JOUR

118min
(DISCASにてレンタル)

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タイトルはフランス語だし、ダニエル・オートゥイユという名前があったのでフランス系の映画だとは思っていましたが、ベルギーのドルマル監督だとも、もう一人の主人公の特殊性とか、物語も、何も知らず(気にとめてなかった)に見ました。ある意味もの凄い映画でした。最近見ているベルギーの監督は 『変態村』 『ワンダフル・ラヴ』 のファブリス・ドゥ・ヴェルツ、そして有名どころでは 『ロゼッタ』 『ある子供』 のダルデンヌ兄弟です。やっぱり寒いのと暗いのが関係しているのでしょうか。どれもフランス語系ベルギーの作品なのだけれど、フランスとはまったく違った一種独特の肌合いがありますね。そういえばベルギー象徴派とか、マグリット、アンソールの絵画にしても一種独特な雰囲気があります。あまりあちこち長い滞在をしたことはありませんが、都会であるようで南に隣接するフランスのような洗練はなく田舎的でもあり、そのフランスと接し、フランス語も使っていて、独自の文化があるような無いような、自分の中でも「?」が多く、あまり的確には表現できません。

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『ギルバ-ト・グレイプ』 ではダウン症らしき少年を若き日のディカプリオが好演していたけれど、実際に演じるのがダウン症の人となるとなかなか複雑です。映画が表現する世界がフィクションの枠を逸脱していってしまう。けれどドキュメンタリーでもない。映画の中に小人症の人が出てきたときにも同じような感覚があります。一種の異化作用のような効果と言えるかも知れません。ダウン症のジョルジュの物語、あるいは彼と健常者(←とりあえずこの語を使わせていただきます)アリーの物語を見ているはずが、ダウン症の現実が物語を飛び出してきてしまう。

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そこでさっき書いたようにまずは2つに分けて感じてみる(←実は無意味な行為かも知れないけれど)。つまりパスカル・デュケンヌという役者は健常者で、特殊メイク(最近はCG)でダウン症のジョルジュを演じているだけだと。こうすると物語の骨格をまずはっきり見ることが出来る気がする。アリーはたぶん大銀行のエリート役職ビジネスマン。仕事熱心で出世もし、稼ぎも多いから裕福な生活を家族にも与えることができる。仕事中毒で家族生活を顧みないというのが事実ではあっても、彼なりの家族の愛し方かも知れない。でもそんな彼に愛想を尽かして妻ジュリー(ミウ・ミウ)は、二人の幼い娘を連れて出ていってしまった。ジュリーは「あなたが悪いんじゃない」って言うけれど、事実アリーは別の女と浮気しているわけでもないし、ジュリー(や子供たち)を強く愛している。なのにすべて仕事が優先する。その愛の形がジュリーには地獄なのだと思います。アリーの妻への愛が浅ければもっと楽なのかも知れない。物以外に何も与えてくれないアリーの深い愛が理解できない。だから彼が近付くと「火傷をする」と彼女はおののく。でもこれはやはりアリーの問題なんですね。そんな自分でも自分の精神を統御できない悩みと喪失感の中にアリーはいた。

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一方施設にあずけられているジョルジュ。週末の外泊日にも迎えにくる家族はいない。彼は施設を抜け出して母親に会いにいく。その途中で一緒について来たジョルジュの犬(施設の犬?)をボーと運転していたアリーが轢いてしまう。映画は妙にコミカルであったり、ファンタジックであったりした作りなのだけれど、アリーがジョルジュを母親のもとに連れて行くことになり、やがて2人の間には深い絆が出来る。そしてそんな中で最後には、アリーの物語として見れば、 (ややネタバレになるけれど) アリーが変わって家族の信頼を再び取り戻すという、実にありがちな物語。この妻との関係のあり方、描かれ方にリアリティーがないという批判が多いようだけれど、ボクの感じではこのアリーとジュリーや子供たちとの物語は、実はメインストーリーではない。ジョルジュとの関係、あるいはもっと単純化してジョルジュあるいはダウン症を描くために利用された骨でしかない。その骨に肉付けされたものが見えればよいわけで、肉に隠れた骨は見えなくて当然だ。もちろん現代の物質主義社会ではなく、もっと素朴に自然と一体となったスローライフを賞揚といったテーマもあるけれど、それもあくまでダウン症との関連でのことだ。

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ダウン症はかつて「モンゴル症」とも呼ばれた。最初のプロローグはジョルジュの声で語られる天地創造を模した7日間の映像。広大で美しい自然と勇敢なモンゴルの男たち。そんなプラスの価値の世界の中で、草原に寝かされて泣いている赤ん坊。ジョルジュのナレーションは「自分はモンゴルの赤ん坊だった」と言う。もう一ケ所ジョルジュがやはりダウン症のナタリーを迎えに行くシーンでも、ナタリーはモンゴルの服を着た美しいお姫さま、ジョルジュは勇敢な兵士として描かれたシーンもあった。そんな美しい彼ら、彼女らを厄介者として相手にせず、遠ざけようとする現実の社会。母親に会えずにアリーはジョルジュを姉ファビアンの所へ連れていく。小さな子供たちは「ジョルジュ叔父さんだ」と言って喜ぶが、ファビアンも夫のアランも歓迎はしない。ジョルジュは施設は嫌いだから一緒に住みたいというが、姉は入れない。なぜならジョルジュを抱えては彼女らの「普通の」生活が成り立たないからだ。この辺の監督の社会を見る目は実に辛辣だ。逆にジョルジュを追い返すしかないファビアンとアランに対する目は好意的に感じられた。

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この映画が健常者の演技であれば単にこんな物語だ。「単に」と書いたけれど、それでも映画としては十分に語るべきことを語れたと思う。オブラートに包んではいるが、「ジョルジュのようなダウン症の人の居場所がこの社会にはない」という批判が込められたラストなのだと思う。そしてそこに第2の点が絡んでくる。演じているのが、つまり撮影現場でジョルジュの役を演じ、観客がスクリーンに見るのは、本当にダウン症であるパスカル・デュケンヌだということだ。当惑する靴屋の店員も、ダウン症であると気付いた途端に彼を拒否するレストランのウエイトレスも、ディスコの女性客にしても、すべては脚本に書かれたフィクションかも知れない。しかしダウン症者を拒否する健常者、健常者に拒否されるダウン症者、その事実はフィクションの枠を越えて浮上してきてしまう。この違和感こそが監督の意図でもあり、観客が容易に受け入れられないことかも知れない。良い映画なのだが、「?」も残った。

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Last updated  2008.04.21 04:20:00
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