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珍島は240の島々があります。特に鳥島は170余りの島が属しその中に観梅島という島があります。珍島に住んではいてもで1時間30分も移動しないといけないのでなかなか行けないのです。今から12年前に海岸だけ上陸しました。私としては夢の島です。ところが先週の土曜日チャンスが訪れ・・・夢の島に上陸することができました。これは玉石(コンドル)といいまして天に住む天女が玉遊びをしていてうっかり地上に落としてしまった・・・という伝説が伝えられています。面白いことに天の使者が持っていこうとしたけど重くて置いていった・・ということで手形がしっかりと刻まれています。観梅島の港から歩いて2キロくらいかなあ小さい丘を越えた海岸にあります。
June 8, 2015
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鳥島は珍島の最西南端に位置する彭木港からで30分上空から見ると鳥の群れが海に浮かんでいるように見えることから鳥島と呼ばれている。鳥島群島というほど島の数が多い!この周辺には176個の島がある。釣りのメッカとしても知られている鳥島・・・をご紹介^^遠くに見えるは鳥島大橋!鳥島の展望台から鳥島の夕日!
May 8, 2015
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ついに入手しました東大名誉教授である伊藤亜人先生の著書『珍島』 でございます。9月の下旬に訪問された日本人観光客にお願いしてようやく私の手に入りました。40年余りの韓国研究の集大成!!!!さあ勉強・・勉強・・
October 14, 2013
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EBS(教育)放送局から珍島の撮影にきました。カメラと助手など最低二人は来るのかな?と思ってましたが一人で小型のカメラを抱えて観光課に登場しました。黒シャツに黒の半ズボン黒のスリッパを履いて左の耳には黒い星のピアスが5つ・・・正直・・第一印象が軽い!遊んでる!って感じでした。撮影は・・もう疲れましたあ~~~加沙島と鳥島ではに濡れての撮影・・細方村からの夕日は家から3回も往復し珍島大橋に飛んで日本人観光客の案内!尖察山での撮影は服の上からやぶ蚊に刺され涙が出そうでした。でも1週間も一緒にいると人物像がだんだん解ってきます。左耳のピアスは職業柄、ストレス解消するため・・(?耳を開けたらストレス解消になるの?)でも2週間後に放送が決まってるから実力のない人物を送るはずがありません。何としても形になる作品を作り出す人物として信頼されているのでしょう!撮影は終わっても編集や日本人観光客との会話の翻訳など秋夕休みも返上して放送に流す準備をするのだそうです。ごくろうさまだけど余りにも苦しめられたので「怨讐ファンPD!」と入力しました。
September 13, 2013
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捨てる神あれば拾う神あり・・なんて諺がありましたか?(何しろ日本を離れて約30年・・近く・・)加沙島に到着すると波止場で死者の棺を載せる輿の準備をしていたのです。いままでは木で作っていたのが木は腐るから金属製です。加沙島の住民は約300名そのほとんどが老人です。急に不安になりました。輿担ぎは最低12人なのにはたしてこの島に輿を担ぐ若者がいるのでしょうか?そしたら青年団が13人いるので、全員が奉仕活動に動員されたと知りました。のチーム(と言っても一人ですが・・)「これは珍しい・・都市では見られない光景です」喜んで撮影をはじめました!あの世への旅立ちに棺は華やかに装飾されました。死者は92歳のお婆ちゃん今年の春まで、この島で生活してましたが体調を崩したので仁川に住む娘が引き取り、大きな病院に入院させたそうです。ところで珍島の伝統的な葬式衣装は白なのです。参考までに写真をのせます。最近は葬儀屋に全てを任すようですね・・葬式の黒衣装に胸が重くなりました。(珍島式には出来ないようです)お婆ちゃんの棺が波止場から出発します。行き先は生まれ故郷の村です。最後の別れの挨拶を村の人々にして、お墓に埋葬するのです。村に向かう最後の峠「皆元気だったか?ん~お前たちも来てくれたか?」そんな声が聞こえそうです。珍島挽歌は葬式歌です。最近は歌える人も少なく・・葬式の行列について歌うのも大変なので珍島挽歌の音声テープを流すのですが今回は生の声が入りました。山河の草木は若返り、わが人生は暮れてゆく青春を謳歌する若者たちよ、この白髪を笑うことなかれ風になり雲になり雨と雪になって、我は行かんあの世への険しい道をいかに越えようこの世に友達は多かれど、誰が代わりに行ってくれようか家族や親戚は多かれど、誰がお供をしてくれようか 太鼓でリズムを取り鐘で音頭を取り歌い手は葬式歌を歌います。太鼓に結んだ紙幣はこの3人のご苦労賃ですって・・船の時間もあり埋葬まで記録できませんでした。加沙島の巻 終わり
September 11, 2013
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珍島の智山面、加鶴から船で30分の加沙島に行きました。草墳はお墓です。ワラをかぶせた中に棺があり中の遺体が風化するまで4年~5年放置しておくのです。遺体が風化(ミイラ化)すると遺体を棺から取り出し洗骨をして韓紙に並べ(きちんと人の寝ている形に・・)別の場所に埋葬するという非常に手の込んだお墓なのです。草墳を取材に行くと言ったら私の上司(観光企画係長)は「そんなもの取材したら 珍島は未開の島・・ 現在までもそんな風習が残っているのか?」と放送を見た住民から否定的な反応が返ってくる・・そして「私は以前広報係長をしていたから、よく知っている 草墳の風習を喜ぶのは民俗学者だけ!」なんで恥ずかしいと思うのかな?手の込んだ埋葬方式は親を敬う孝行者が、心を込めて行うものなのに?いいや!行っちゃえ!!と取材カメラと一緒に加沙島に乗り込みました。で?役所の加沙島出張所の職員に聞いておいた草墳の場所に移動しようとしたら島の住民から「ん?草墳?無いよ!今年の夏移葬した・・」な・な・なんと・・昨日電話に出た職員は草墳が無くなったこと知らなかったって~~~民俗学者が行き来しながら草墳を移葬するときは連絡してくれ費用が無ければ援助する!とまで言ってたそうです。でも遺族側は静かに儀式を行いたくてこっそり埋葬したといってました。写真の草墳は、以前の係長が写したものです。今年の4月に単独で加沙島に上陸し5時間、島を歩き回り写真に収めたそうです。貴重な内容だから・・記録に残したい!と週末の時間を割いて写してきたと聞きました。同じ珍島郡庁の職員でも見方・考え方・いろいろあるものですね!珍島の未来のためにはこういう人材を観光課にまた起用しないといけない・・と思うのですが・・私が郡守だったら・・きっと・・そうします。(偉そうに・・笑)
September 9, 2013
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珍島は240個の島々から成っている。その中で一番大きいのが珍島・・・次が鳥島である。ここには周囲に150の島々が散らばり多島海海上国立公園に指定されている。鳥島の最高峰は鳥山鳥山を韓国語でトリサンと呼ぶ!そう・・そのまま・・日本語だ過去、日本人が名づけたのではないか?と言われている。ある新聞記者がここからの景色を見て「東洋のナポリ」と記事を書いた。それから有名になって珍島から30分に乗り鳥島観光を楽しむ観光客が増えている。だが鳥山の頂上には韓国通信のアンテナ基地があり立ち入り禁止になっているので思い切り周囲の美しい島々を見ることができない。それで数年前から韓国通信相手に何度も公式文書を流しついに買取りにまでにこぎつけた。来年完成予定・・今から楽しみである・・
March 12, 2013
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珍島の五柳里海域で壬辰倭乱(1592年)に使ったと思われる小総統(小銃筒・朝鮮時代中期携帯用火気)と国宝級の高麗青磁が発見された。 文化財庁国立海洋文化財研究所(ソン・ナクチュン所長)は去る9月から11月まで全南珍島郡、五柳里海域での水中発掘調査を通じて壬辰倭乱当時に使ったと推定される小小勝字銃筒3点と麒麟(キリン)型香炉の蓋、筆さしなど最上級の青磁を発掘したと28日明らかにした。 *珍島で発掘された香炉珍島の五柳里海域は1597年の鳴梁大捷が起きた鳴梁海峽に隣接したところで全羅右水営海域で壬辰倭乱に関連した遺物が発掘されたのは今回が初めてだ。 3点の総統は形と大きさ(長さ5センチ、直径センチ)がほとんど同じで、総統を発掘した場所の周辺では石環(石で作った砲丸・直径8.6センチ、重さ715グラム )も出てきた。 海洋文化財研究所は「壬辰倭乱と武器発達史、そして海戦遺跡地の全羅右水営の歴史を明らかにする重要な資料だ」と伝えた。 今回の調査では良質の青磁も多様に発掘された。 ほとんどきれいな翡色を帯び珪石を支えて焼かれたという共通点があるが、12世紀後半から13世紀前半まで王室や貴族層のために康津で製作されたと推定される。 特に、麒麟(キリン)型蓋香炉は(青磁麒麟有蓋香炉・国宝第65号)に劣らず既存の香炉には見られない特徴を見せるなど非常に独創的である。 *国宝第65号
November 29, 2012
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霧の加沙島珍島は230の島々がある。この中で人の住む島は45あとは全て無人島・・・
July 19, 2012
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いやはや大変だ~~の人気プロ「1泊2日」に珍島の観梅島が紹介されてから珍島郡の観光を紹介しるホームページにはパンフレットを郵送してほしいという書き込みが相次いでいる。これまでも一日平均して20~30通の要請があった。ところがで観梅島が放映されてから40~60通と要請が多くなり・・珍島のペンモク港は早朝からに乗せるとのラッシュで大混乱に陥った。だいたい観梅島には村が2つしかないしお宿も民宿だけ・・しかも食堂は民宿と掛け持って運営してるので食堂の主人は客が列を作って待っていてもまずは自分の民宿のお客から注文をとるので昼時が過ぎても食事にありつけない観光客が後を絶たず・・その不満が観光課の案内に殺到する。「申し訳ございません!」弁解の余地がないのでひたすら頭を下げるが・・相手は聞く耳を持たない・・「あなたの名前は?発音は日本人みたいだけど・・なんで日本人がそこにいるの?」説明なんて(面倒だから)言わない・・そして要領よく交わしている。「あら~~私は慶尚道(釜山方面)なんです・・よく日本人と間違えられるんですよね~~」観梅島に行かれる方のために一言・・アドバイス観梅島には車道が2キロしかありません。あとは全て人道です。はペンモク港に駐車して人だけ行きましょう船で1時間~2時間の観梅島は全ての商品が割り高です。できればお弁当持参で、軽い飲み物やスナック類は珍島で準備して行きましょう!そして最終のは人が殺到します。乗員数に制限があるので、最終便でなく、一つ前に出発する船で余裕をもって帰港しましょう。早く「観梅島熱」が冷めることを祈りつつ
August 6, 2011
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珍島の南端に位置するペンモク港からで約1時間10分で観梅島に到着する。島の名前に梅が入っているので昔は梅の木が多く生えていたらしい。この島には村が3つある!大きさは540平方・・自動車道路もそれほどない!だからカーフェリーでごと島に上陸できるが出来ればゆっくり島の中を歩きたいこの観梅島は多島海海上国立公園の名品村に指定され観光開発が進められている。でも正直・・トイレの整備くらいで余り開発してほしくない・・最近の観梅島・・珍島に住んでいながらも・・なかなか観梅島まで行けない・・でも私・・出世しましたねえ・・山梨の片田舎・・山奥住んでいたのに・・島巡りとは
April 14, 2011
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山林庁・生命の森などが共同選定した2010年度の美しい森に、珍島に屬する観梅島の「海松の森」が選ばれた。観梅島は珍島の彭木港からで1時間の距離にある。海松には着生蘭の風蘭がビッシリ根を張っている・・蘭の花が咲くとその香りは島の中だけでなく海を行きかう船にまで届くという。
October 30, 2010
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海割れ祭りの準備で、週末も休めず全職員・・非常出勤・・昨日の土曜日は横浜からの観光客のご案内で・・バタバタし・・午後は海割れ現場のイベント会場に出かけて掃除をした・・そしたら係長が急に海割れ現象の起こる向かいの島「茅島」に行くという・・年は食ってても気は若い私真っ先に手を上げて船に乗る。今回茅島では順天大学の漫画アニメーション学科の学生が平凡な漁村の茅島を文化と芸術が共存する壁画の村(島)として造形する!という。海割れ現象が起きる前に茅島に渡って待つ観光客に楽しんでもらうためのアイデアだが、周囲の漁民からも好評で「うち等もやってくれ~」という話しを聞いたので・・いったいどんな様子なんだろう・・さあ~~皆さんにもご紹介!茅島から海割れの道が少し出来てた。茅島の漁村・・近くに行くと・・狭い路地にも壁画が・・最後は義東小学校・茅島分校に・・子供達がチェギチャギ(韓国の伝統民俗遊び)をしている壁画これは写真が張ってあると思ったほど傑作!このほかにも30ほどの民家それぞれに壁画がいっぱい描かれている。海割れの時期が終わっても茅島の壁画はそのまま残っているし散歩道路も整備されていて・・軽くお弁当を持って船に乗り遊びに行ってもいいかも~~~
March 28, 2010
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ブログを所有し管理している人(25名)を集め1泊2日の「珍島ツアー」が開催された。名付けて「旅行ブロガー記者団」年齢は20代~60代までいろいろニックネームは「マペ・キルソン・ヌリンボ・美しい英語教師・ニーハオ」などなど・・面白いガイドはホさん・・(珍島に来られた最高VIPの案内を担当している でもキワドイ??話をいっぱいするので 個人的には好きじゃない)経費は全て観光課で負担する・・こういうときお世話役で同行するといろいろお徳である・・食事代から船代、ガソリン代なしで観光ができる遊覧船に乗り2時間近くの船旅出発!遠くに見えるは足の指島・手の指島近くで見る主指島こと「手の指島」両徳島こと「足の指島」獅子島獅子の頭島穴島6月27日土曜日の夕日が沈む・・
June 29, 2009
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この記事ですね~~日本語にして~というリクエストがあり~時間がなくて~バタバタ~やっと出来まして~【海上に鳥の群れが浮かぶ】闇がまだ引かない夜明け、濃い海霧の間に突然一隻の船が姿を現わす。上鳥島の沖合でカモメと合流した後、黎明の中に一つ二つ姿を現わす島と島その間に消える漁船。鳥島群島の夜明けは雲林山房にかかる小痴・許錬の水墨画のように夢幻的だ。 全南珍島、多島海海上国立公園内にある鳥島群島は親島である下鳥島を中心に154の島々で成り立っている。有人島が35島、無人島が119島だ。島が集まる位置により加沙群島、城南群島、上鳥群島、巨次群島、観梅群島、下鳥群島など鳥島6群島に分けられる。鳥島面の面事務所がある下鳥島の魚遊浦港からトリ山展望台(210m)までは約10km、北側の上鳥島と南側の下鳥島を連結する鳥島大橋を渡れば、トリ山展望台に行くセメント舗装道路が続く。鳥島大橋は大きい船が往来出来るようアーチ型に設計された。曲線が優雅で素敵だ。特にここの日出と日没が美しく「韓国の美しい道100選」に選ばれた。海を見下ろし、くねくねした山道を登るとトリ山展望台の下に薬水(わき水)の出る場所がある。横の小さな平地は昔海賊たちが奪った物品を隠しておいたと伝えられている所。鳥島は中国と日本、そして韓半島の南海と西海を連結する航路で、古くから多くの船が行き交う場所であった。鳥島群島がひと目で見渡せるトリ山の頂上は海賊たちが活動するのに天恵の条件を供えていたのである。高麗時代の末から朝鮮時代の初めまで鳥島を舞台に暴れた海賊は倭寇である。日本人である筆者にとって鳥島を紹介するのに当惑せざるをえない。富士山の下で生まれ育ち韓国に嫁にきていつのまにか20年余り。珍島を紹介する観光ガイドとして観光客に李舜臣将軍の鳴梁海戦を紹介するときや鳥島の海賊の話しをする時には申し訳ない思いが先立つ。朝鮮時代の烽火台であるトリ山頂上には丸太で作った展望台がある。ここに立つと夢を見るような「島の中の島」に向い合うことができる。見晴らし台の下は傾斜の急な原始林が広がっている。鳥たちの故郷であると同時に潮風の要所だ。風の音と鳥の声が調和し、まるで天上のコンサートを聞いているようだ。鳥島は海に浮かぶ鳥の群れのように島が多いという意味だというが、もしかしたら鳥が多くて鳥島と呼ぶのではないのだろうか。トリ山頂上から見る鳥島面の島は観梅島を含めた147島だ。154島の中で大きい島のうしろに隠れて見えない7つの小さな島を除いた残りの島が360度パノラマで展望できる。晴れた日には観梅島の向こうに湫子島と済州島までかすかに見える。展望台の裏手にある韓国通信中継所の屋上に上ると、西の方にある島はもちろん遠く新安郡の沖合の島までひと目で見渡せる。鳥島の美しさは韓国内より先に海外で知られた。19世紀の初め、韓国の西海岸を航海し、点々と振り撤かれた島を見つけたイギリス艦隊は上鳥島に上陸した。そして海に宝石を蒔いたようにに美しい島々の風景に感動した。彼らは自分達が通りすぎた島に一つ一つ名前をつけた。イギリスの海図には今でも下鳥島はエムホスト島、上鳥島はモントロール島、ウエピョン島はシャムロック島、ネピョン島はジストル島と記録されている。イギリス艦隊の艦長であり旅行家だったバシル・ホールはイギリスに帰国した翌年の1816年『朝鮮西海岸及び琉球諸島発見航海記』という本を発行した。そして上鳥島で見た鳥島の展望を「この世の中の極致」と表現した。この本は『10日間の朝鮮航海記』として韓国でも出版されている。トリ山展望台は韓国最高の日出と日没の名所だ。島をかきわけて浮び上がり、島の間に落ちる太陽は荘厳ながらもひ弱い。日の暮れる頃、空が割れたように雲の間から光の筋が流れ落ちる。海は黄金色にそして間もなく赤色に染まる。引き続き島と島の間に太陽が壮烈に散華すると待っていたように下鳥島の燈台が灯をともす。珍島の女たちは高麗時代、三別抄軍に協力したという理由で蒙古に打たれ、李舜臣将軍の鳴梁大捷では日本軍に主人と息子を失った。彼らの悲痛窮まる恨、珍島の紅酒より赤い太陽が、椿の花のように落ちる姿を見ると胸がじいんとしてくる。私もいつのまにか「珍島の女」になったようである。2008年6月20日 中央日報より韓国観光公社と中央日報の合同キャンペーン第16弾「ヨングへジャの鳥島群島」
November 4, 2008
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「2008年大学院生・多島海文化体験団」が11月29日に60名珍島を踏査するという。その下見で木浦大学の教授と歴史文化学部の学生たちそして日本からは総合地球環境学研究所の教授と中国とタイからも教授が参加したので通訳として私と中国人のチャンさんが動員された。珍島の南端にあるペンモク港から行政船が9時出発の準備をしていた。行政船とは郡庁で管理している船で燃料費も郡庁で負担する・・なかなか平職員には乗れない船である。天気は曇り空・・写真写りはどうかな?でもどんな船旅が私を待っているのだろう40分過ぎると何度か見た下鳥島の灯台が姿を見せるそして30分後・・観梅島の八景の一つ!ちょっと書きにくい「男根岩」「雷岩」かな?岩の間に架かる「天の橋」今は危ないので橋は取り除かた!「タリヨの別名は大蛇岩」珍島に住んではいても、こういう光景はなかなか見れない・・浮き浮きして海を眺めていたら行政船が島に船を付ける!「この島なんですか?上陸するんですか?」「ここ知らないの??」と逆に木浦大の教授に聞かれた・・「ここはね~ 昔の島の様子がよく保存されているんだ~ 海風を防ぐため積んだ石垣は一見の価値があるよ~」ギャーそれはすんごい~と・・桟橋に横付けした船を降りる。ちょうど銀色に光りピチピチ跳ねる小魚を船から陸揚げしていた。「美味そうだな~」「食べます?」青藤島というこの島には15世帯が住みほとんどが漁業を営んでいる。素朴な住民がすぐ側の家から唐辛子味噌や入りゴマを持ってきてお刺身にしてくれた口の中でとろけ、美味しいのなんのって・・煮て・・干したら・・煮干になる・・天日で乾かしたら背が曲がり見栄えが悪くなる・・乾燥機にかけたらピンとまっすぐに乾き高値で売れる・・(なんて勉強をした)さあ腹ごしらえしたので次は本番の石垣・・石垣・・こりゃ感動ものでしたあ~~二人が通れるくらいの幅で高さは人の2倍ほど・・家の入り口には大きな岩が2つ階段式に積んである!「石垣が高いので外が見えない! この石の上に上り、夫の船が到着したか 確認するんだ~~」「へえ~~」とチャンさん!!「ヨボー~~(あなた~~)」大変な島の生活・・今はのん気に「夢があるわ~」なって言ってますが・・現実は・・1995年に廃校になった小学校!ちいさい運動場!海岸線は3.50キロ・面積は0.63平方キロ人口が一番多かったのが1978年129名が住んでいたそうだ!名残惜しい青藤島を後にして・・珍島本島に帰ってきた!朝8時に家をでて、午後2時までの船旅それから珍島内の観光地を回り素浦村で、村人の公演を見て自宅に帰ったのは午後10時過ぎ・・疲れたけど・・充実した一日だった・・さあ~明日からは「珍島アリラン祭り」でも中身は「珍島市民祭り」今週末も休めず出勤^^
November 1, 2008
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珍島の鳥島に生える「鳥島餃子の木」「鳥島餃子の木の花」1983年8月全南大学の教授が自然保護中央協議委員会の以来を受け多島海海上国立公園に指定されている鳥島地区の自然実態の総合調査を行った。鳥島マンドゥ(餃子)の木は調査当時、上鳥島で発見された未記録種の植物である。種がマンドゥ(餃子)の形をしているので鳥島餃子の木と正式命名された。Glochidion種学名はGlochidion chodoense J.S.Lee & H.T.Im
July 14, 2008
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先日取材した鳥島の記事は6月6日に記載される予定が、この日は韓国の顕忠日(国のために命を捧げた烈士を称える日)で休日であったため1週間遅れた今日13日に記事がでました。韓国あちこち<第16回>瀧口恵子の全南の鳥島群島と題して新聞に記載されまして・・一面にでたので記事は~~~長いです。http://article.joins.com/article/article.asp?total_id=3180019韓国語の勉強をしておられる方は原文でお読みください日本語訳は時間のあるとき、ボチボチいたします。
June 13, 2008
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ついに鳥島1泊2日の取材が始まった。鳥島はけっこう広くて、下見に一度いっただけでは道を覚えきれない。不安がっていると振興係長が鳥島面事務所に電話をして、車の手配をしてくれた。鳥島までの船代は一人片道3千ウオンでも島で生活する住民は1700ウオンである。チケットを買うとき、住民登録カードを見せないと安く購入できない。カーフェリーで約40分鳥島の魚遊浦港に到着する。では再び・・写真でご紹介・・・・トリ山の多島海海上国立公園を見渡す展望台鳥島の灯台いるかが支える地球儀・・後ろには雲林閣展望台浜昼顔の花鳥島大橋からの夕日とまあ写真は私のデジカメで撮りましたが・・プロが撮った写真は別に新聞でご紹介・・さあ~~問題は新聞記事でございます10日前に下見した鳥島の内容を書いて記者に見てもらいました。まったくテストの答案用紙を採点される緊張感・・ドキドキもの結果は50点だって原稿書いて主人に見せても、もう主人じゃ駄目です。私は文章の流れや、表現など、不自然な部分を手入れしてほしいのに、誤字脱字だけ見て知らん顔いくら本好きの主人でも「読む」と「書く」では勝手が違うらしくお手上げ状態・・・写真を見ても解るけどあいにくの悪天候・・雨こそ降らないけど・・曇り空面事務所の職員は「どうせ展望台にいっても朝日も夕日も見れないのに 行く必要ありますか~~」とブツブツ言っている。「いいえ写真には写せなくても、心には写せますよ! 実際にその場に行って見て感じるのは代理では出来ません」(すんげ~~うまいこというな~さすがプロ~)おかげさまで4時30分に起床して朝日は・・雲に隠れ・・拝めなかったけど鳥の鳴き声がすごかった!「鳥の鳴き声で鳥島群島が眠りから覚める」<原稿の出だしはこれで行きましょう!次は日本人として感じたこと!そして観光ガイドとして感じていること!最後は夕日の場面でしめてください!原稿は月曜日まで提出して、記事は6月6日にでます>新聞記者は私に宿題を出して、次の取材地に移動した。それから眠れぬ日々を過ごしようやく原稿を仕上げ・・ブログに書き込みできる時間の余裕が出来た。
May 26, 2008
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「私の旧姓は茅島です」8月初めに届いたメールの一言に私はなぜか心が引かれた。女性が結婚すると日本では夫の姓に代わる。だが韓国は代わらない。私の夫は全州李氏全州地域で生まれた李の家系である。だから日本式にすると李恵子になるわけだが・・・こんな事情を知らない実家の友人達は「なんで旧姓のまま、代わらないの?」珍島郡庁・文化観光課の名刺を渡すと必ずこう質問された。瀧口の姓を代えず珍島に土着するのもまあ~いいではないの~では茅島物語の幕を開こう実は私の旧姓は茅島といいます。先日、歴史好きのおじが名前について調べていたところ茅島という姓の、日本人のお坊さんがこの島で亡くなったことがわかりました。インドから大事な経典を預かり日本に帰る途中、この島に立ち寄ったそうでそれも海割れの日であったそうです。もしや茅島家の先祖ではないかと・・・茅島のことは珍島物語の歌詞に出てくるので知りました。日本でも数少ない姓です。それで今月末、珍島に行く予定を立てています!これを読んで私は興味津々・・・もし私が家庭の主婦であったら捜査の網を広げるのも限界があるけど役場にいる強みで、あちこちあたってみた。第一候補は朴さん!元東京大学の伊藤亜人教授の友人で朝鮮時代の日本水軍の墓と思われる倭徳山を世間に発表した方である。(結果は残念ながら 初耳であるというご返事であった)第二候補は薬局のご主人!茅島のある義新面(町)にある薬局のご主人は郷土史に詳しい。以前は珍島文化院の院長を務めた学識の高い方である。特に義新面の地域には強い。(この方も初耳で、逆に日本側の資料を 手に入れたいと頼まれてしまった)続く、第三候補は予定に入ってなかったが、観光課に来られたついでに質問した許さん!この方は郡守(日本でいったら市長)や副郡守のお客さんを案内するガイドさん。元農協の職員だったが今は退職し珍島を訪問するVIP最高クラスの案内を担当している。代々町長をしてきた家系で非常に物知り・・(この方からは手ごたえがあった)いつの時代かは解らないが日本のお坊さんが中国からナツメの木を船に積み日本に帰国途中、船が嵐にあい難破してお坊さんは茅島に流れ着きそこで亡くなった。船に積んでいたナツメの実は珍島の東海岸一帯に流れそこに根をつけたので、珍島の東の海岸にはナツメの木が多く生えていた。今は、ほとんど切り取られその一部と推測されるナツメの木が古郡面(町)の蓮洞(村)に残っている。そのナツメにあやかり、お坊さんは「ナツメ大師」と呼ばれている。樹齢は約300年くらい・・だから日本からの資料と年代が合えばもしかして、確認することが出来るかも?そしてこの方も日本の資料を手にいれたいと言われる。私もそうだが珍島の郷土史を研究する人達も私以上に旧姓茅島さんの訪問を待っていた。まだまだ暑さが続く8月27日ソウルからの通訳をお供に茅島さんと観光課でお会いした。(お年は私とご一緒であることは 数度のメールで確認済み!!)ただ資料はいくら探しても見つからなかったと・・・(残念、私も期待してたのに~)とにかく現地調査にかかる!私の車でさっそく海割れ海岸へ・・そこでバッタリ郡庁の職員と出会った!元観光課、今は海洋水産課で勤務・・茅島の横にある金湖島へ出張に行くので船を待ってるというますますラッキー金湖島に行く途中、茅島までお願い~~向こうに見えるは茅島~~海割れの伝説に出てくるポンお婆ちゃんと別れた家族の銅像~~家族の銅像前から見る珍島本島~~茅島の港!一日3回本島から船が着く!茅島で一番お年寄りのお爺ちゃん!お年は80歳!!!船着場の前で島のおばちゃん達と昼涼み?をしていた。前置きはさておき、さっそく質問に入った。日本人のお墓の話しをすると薬屋のご主人からすでに話しを聞いていたと言われる。「実は茅島に日本人の墓と伝えられている 場所がある。墓守をしている男がいるが 言葉が不自由で、あんたでは無理」と40~50代に見える男性を手招きした。男性は舌が回らず、何を言っているのか私は理解できない!!!お爺ちゃんは「日本人が来たら案内するつもりでいた」と足が不自由なのに杖をつきながら道なき道を歩いて、案内をして下さる。「ほらあの先に見えるお墓だよ・・」すぐ下は海!!!墓守してくれている男性は「日本人の墓で、亡人は男性! お婆さんが生きていたら100歳はこえてる。 そのお婆さんが、むかしむかしの話し・・・ と話してくれたのがこの墓である」とお爺さん通訳で聞き取った。ここでもいつの時代であったかは解らず・・・不思議なことに今日は陰暦の7月15日のお盆!このお墓、誰かは解りませんが、ここに来たのも何かのご縁・・旧姓茅島さんは「南無阿弥陀仏」とお墓に両手を合わせる。真夏の炎天下・・・蒸すような暑さの中、茅島を後にした。次に目指したのは「ナツメ大師?」のナツメの木古郡面の蓮洞村の入り口から大木の下で昼休みをしている村の住民に「300年ほどたったナツメの木は?」「あそこに見える」と指差す先はイチョウの木、その裏にあるという。たしかに大きな大きなナツメの木・・・横の道路から遠めに海が見える。たしかに元はここまで海だった様子がはっきりと解る。このナツメの木と茅島の姓をもつ日本人と本当に何らかの関係があるのだろうか?今となっては確認する術はない。もしも、このブログを見られた方の中で茅島のお坊さんについて情報をご存知の方は、お知らせください~~
August 29, 2007
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珍島は名前どうり「島」だ~~~韓国で3番目に大きい島だが、実際に生活してみると海を目にしないので陸地に住んでいるのとなんら変わらない。珍島の中心は珍島邑といい、昔は(といっても1970年代)ここまで船で行き来したそうで・・・珍島大橋ー珍島邑ーペンモク(珍島の南西端にある波戸場)までの国道18号線の通り道である珍島邑の道路端には大きな岩がある。この名いわく「釣り岩」である。前置きはこの程度で・・・遊覧船の社長が役場の職員を招待し「無料島巡り観光」なるものをさせてくれた。午後6時の退社時間を30分繰り上げた午後5時30分珍島邑から車で約7分の「シミ港」神秘の海割れは珍島の東海岸で、向かいに見えるは隣の海南・・・だが「シミ港」は正反対の西海岸になる。ああ~~~珍島は島だった・・・その名も「穴島」もちろん満潮時は穴が見えない!島と島の間に、また島が! 人家が見える。足の指島(こんなに指の間が開いてたら水虫にはかからない!)海に沈む夕陽・・・遊覧船からの眺めは最高でした~~~
September 28, 2006
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