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先日韓国のKBS1TVの歴史プロで三別抄(高麗時代の軍隊。左右の別抄と神儀軍の総称)が取り上げられた。珍島に関する内容なので紹介します!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー第20回:歴史スペシャル 「三別抄は沖縄に行ったのか!」放送 : 2009. 4. 20(月) 23:30~24:15 (KBS 1TV)進行 : ハンサンコオン アナウンサー演出 : キンヒヨンウン・ナウオンシク PD文 : チヒオンジュ 作家今から800年前の沖縄は先史時代だった。そのようなある日沖縄は一瞬間まぶしい文明の花を咲かせた。それは誰の力によるものだったのか私たちと特別関係のない日本の歴史と思っていた世界歴史のミステリー「沖縄の文明」そのミステリーの端緒に高麗の精鋭軍士!蒙古と高麗の鎮圧軍によって全滅したものとばかり思っていた三別抄がいた。高麗史の失踪者 三別抄の帰還1231年蒙古が高麗を攻め込み、高麗は抗蒙時代という長くて暗い時期をむかえる。これに高麗は40年間持ちこたえたが、世界征服を狙う蒙古のジンギスカンに対抗することは困難であった。高麗政府が蒙古に降参すると三別抄は珍島から済州道に移り抗蒙戦争を続ける。しかし結局は敗れ三別抄は全滅そして歴史からその存在は消えた。時は1273年であった。ところが2007年、耽羅(現在の済州道)と琉球王国の行事が開催された国立済州博物館で歴史から消えたはずの三別抄が帰還した。それは沖縄地域で出土した琉球王国の遺物が展示された中で発見された。その糸口を辿ってみることにしよう・・三別抄と沖縄を結ぶ端緒・日本の沖縄地方の軒丸瓦と珍島龍蔵山城から出土した軒丸瓦展示された遺物の中の沖縄瓦は済州道で発見された瓦よりは珍島の龍蔵山城で出土した軒丸瓦とそっくりである。切長の花びらと中央の子房が沖縄の軒丸瓦と判で押したように似通っている。そして浦添で出土された梯形の瓦・・・浦添で出土した瓦この牝瓦には<癸酉年高麗瓦匠造:癸酉年に高麗の瓦匠人が造る>という文字が刻んであった。ここで注目すべきは癸酉年という年号である。三別抄が鎮圧された年代は1273年。この瓦に彫られた癸酉年だ。そしてこの時期は新石器時代であった沖縄に文明が起きた時である。その文明はもしかして三別抄が起こしたのではないであろうか?沖縄の再発見!そこには高麗がいた!・魚骨文(ぎょこつもん)日本の九州の南西から台湾に達する膨大な1200kmの列島の中にある沖縄。沖縄の歴史は独特である。韓国ではただ日本に所属する一つの島!くらいにしか知られていない沖縄であるが、沖縄は琉球という厳然な独立国家として存在した。この島が日本に編入されたのは19世紀になってからである。ところで1982年、琉球の首里城発掘調査で大量の高麗瓦が出土した。同じ人物が造ったと思われる程、皆同じように造られていた。そして瓦には魚骨文が刻まれていた。魚骨文は高麗瓦の代表的な文様である。三別抄が沖縄に行った理由は?三別抄はなぜ日本本土に行かなかったのか?なぜ先史時代の沖縄に行ったのか。なぜ三別抄は日本に渡り彼らと力を合わせなかったのか。1271年珍島の三別抄政府は日本に外交文書を送り、最後の決戦のため日本に助けを要請したが日本は既存の高麗政府でない三別抄政府の外交文書を理解できず、三別抄はその意図を成し遂げることができなかった。 これで三別抄は済州道まで後退し、その2年後には麗蒙連合軍と最後の決戦を行うが敗れてしまう。指揮官の金通精は自決、1300人の戦士は捕虜になった。だが生き残った者達がいた。彼らは新しい土地沖縄に向かった。高麗を離れた三別抄は琉球王国に新しい根拠地を設けて発展していった。今でも続く沖縄の粘り強い独立要求。その独自性には蒙古に絶えず抗争し、自主独立国家を望んだ三別抄精神の古い歴史が流れているのではないであろうか?
December 3, 2009
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数日前・・・「ヘジャ氏明日済州島に行く?」と芸術係長「イイン~~~」とトッサに返事が出来ないでいた。「あのね~済州島で開かれるセミナーで日本の教授が珍島に関すること話すんだって・・」珍島は済州島と江華島と姉妹血縁をんでいる。これは高麗時代の軍隊、三別抄と関連があるためだ。実は今まで済州島に行ける機会があったのだが・・なぜかそのたびに行けない理由が出来て・・・今回は行けるかな~と不安な思いで・・・でも済州島とはご縁がないみたいで・・・課長からストップがかかってしまった。昨日の日記に書いた職員旅行を優先しなさい!というが課長の指示であった。あとでセミナーがどんな内容だったのか調べてみたら・・高麗の軍隊「三別抄」が琉球王国の建国に貢献か7月17日~8月26日まで国立済州博物館で日本の沖縄市歴史博物館から琉球王国の遺物240点余りを借り受け、特別展示会を開催する。展示される遺物のうち、「癸酉(みずのととり)年に高麗の職人が作った瓦」を意味する「癸酉年高麗瓦匠造」という文字が刻まれたハス型紋様の瓦が、三別抄が対モンゴル抗戦の本拠地とみなしていた全羅南道・珍島で発見された瓦とよく似ていると推察された。これまで日本の考古学者らは高麗の職人らが沖縄の琉球列島に渡り、瓦を作った経緯を解明していないが、展示準備を通じ珍島でも製法や形態がよく似た系統の瓦が出土した点を確認し、三別抄が琉球王国の建国に大きく貢献したとの結論に至った。 7月18日YONHAP NEWSより当時、三別抄の勢力は慶尚南道、釜山、済州島まで掌握するほどだったと記録に残されている。まあ琉球王国の建設に貢献した!のかは知らないが何らかの交流はあったかも知れない。済州島に行って展示会を見たいな~~
July 31, 2007
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元の日本侵略阻止した高麗特筆される「三別抄軍」の闘い 三別抄軍とは・・・もともと三別抄軍は高麗時代に国内の治安維持のために組織された軍であった。しかし1270年の5月、元との講和の受け入れに反対し、徹底抗戦を主張してほう起した。部隊は江華島を拠点として新たな王を推戴し、政府機構を整備し反元政権を樹立した。8月には本拠を珍島に移し、西南海一帯と全羅・慶尚の穀倉地帯や、海上の拠点である済州島をも支配下に置いた。しかし元軍と高麗政府軍による度重なる攻撃により、1273年4月には闘いの幕を閉じた。この闘いは、高麗人民の反元独立意志を示したもので、さまざまな制約を受けながらも高麗が独立を保つ原動力の一つとなった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー日本では<元寇>で知られているが、作家の井上靖先生は高麗・元の側の歴史に即して「風濤(ふうとう)」という歴史小説を昭和38年に発表しています。けれども残念なことに江華島と済州島には自ら取材に出向いていますが、珍島には訪問していません。 この三別抄軍に関連する遺蹟地が珍島に残っています。それが国家指定史跡第126号に指定されている龍蔵山城です。周囲は13キロにも及び、この階段式に残っている宮殿跡を保護するよう、外敵の侵害を防ぐ役割をしています。 高麗時代の息吹を感じてみたら如何でしょうか!
April 18, 2006
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