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「もしものせかい」ヨシタケシンスケ 著、出版社: 赤ちゃんとママ社【出版社の内容紹介】「やあおはよう とつぜんでもうしわけないんだけど ボク もしものせかいにいくことになりました----」いつもいっしょのあの子がどこかへ行ってしまう。どうして君なの どうして今なの?大事なものを突然失ったとき、思いがけない別れが訪れたとき。心にぽっかりと空いた穴は、どうやって埋めたらいいんだろうなんども読み返したくなる優しい物語。ヨシタケシンスケの新たな世界が広がる絵本!この絵本のことをネットで知り、そのままネットで注文し、今日、その本が届いた。一読して、胸が詰まる思いがして、次に何かがこみあげてきた。この絵本は、色々な体験を重ねてきた大人ならば誰でも、自分の心の中に「もしもの世界」が詰まっていることに気付くことだろう。おりしも今日は、3月11日。どれだけ多くの人が「もしも…」と思っていることだろう。個人的なことを言えば、昨日ちょっとしたことがあって、「もしもあの時…」と思いだす時間があった。そして、思えばどれだけ多くの「もしも」をあちこちに置いてきただろうかと思っていた。そしてこの絵本てある。ふと「シンクロニシティ」という言葉を思い浮かべた。私は、ヨシタケシンスケさんのファンなので、この記事を読んで買いたくなったのだけどその本が届いたのが今日ということに、何かシンクロするものを感じてしまった。ヨシタケさんはこの絵本を、「自分を救うために描いた」そうである。でも、この本はどれほど多くの人を救うだろうかと思う。「もしも…」とことあることに思う方には、ぜひお薦めしたい絵本です。
2020年03月11日
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この絵本は以前に読んで、とても良い絵本だと思った記憶がある。でも、ブログには書いていなかったようだ。「だいじょうぶ だいじょうぶ」 作・絵: いとう ひろし、 講談社 【出版社からの内容紹介】小さなぼくが不安な気持ちになると、いつもおまじないの言葉で助けてくれたおじいちゃん。生きていくためのしなやかな強さを育む、心にしみる絵本です。どくしゃのみなさんへおじいちゃん、おばあちゃんをさそって、みんなで、さんぽにでかけよう。ゆっくり、のんびり、あるいていけば、ほら、ぼくらのまわりは、こんなにも、たのしいことがあふれてる。――いとうひろし幼い子供にとって、家の外に出ることは未知との遭遇ばかり。散歩に出かけると、なんでも興味津々で触ったり見たりして、面白がったり怖がったりしながら様々なことを知ってゆく。小さなボクにとって、おじいちゃんは不思議な世界へ手を引いてくれるガイドであり、不安や恐怖を感じるときに「だいしょうぶ だいじょうぶ」と安心させてくれる、心から信頼できる魔法使いのような存在。ここには、祖父と孫の理想的な関係が暖かいイラストとともに表現されている。思えば、私の息子たちもおじいちゃんが大好きだった。実家に行くと、裏山や畑に出かける父が「いっしょに行くか?」と声をかけると幼い息子たちは「行く、行く!」と喜んでついていった。その時にどんな会話が祖父と孫の間で交わされていたのかわからないが、知識が豊富だった父は、きっと草花のことや木々の種類、その陰にある野草や毒草、飛び交う鳥の名前など話してくれたのではないだろうか。父は孫とのそんな時間をとても楽しみにしていたし、一緒に作業したりすることも喜んでいた。特に、幼い頃から戸外で遊ぶことが大好きだった長男は、父について歩くことがとても好きだった。現在、息子たちが農業をしているのも、きっと幼い頃のそんな体験が土壌となったのではではないだろうか。私には、祖父との思い出はあまりない。私が小学校に入る前に、祖父は脳卒中で倒れた。記憶に残る祖父は、歩いてはいたけれどその動作は緩慢だったし、言葉も少し不明瞭なところがあった。だから、私は元気な祖父の姿を知らない。祖父は初孫の私をとても可愛がってくれたそうだ。生まれて間もない私のことを川柳のように詠んだものを、随分前に見たことがある。はっきりとは覚えていないのだが、「わが孫は 肥えて賢く色白く 乳もよく飲み 笑顔なお良し」のような感じ…それを見た時に、私は祖父の愛情をその文字と言葉から強く感じてなんだか泣きそうになってしまった。そして、自分が本当に可愛がられていたんだなと実感することが出来た。それなのに、次第に老いてゆき、脳卒中の発作も繰り返し、自宅で寝たきりになった祖父を私はそれほど大切にはしていなかった。実家は農家だったので、自宅で寝ている祖父はたいした用事もないのに私をよく呼んだ。「おーい おーい」という声が聞こえると、私は「ああ、またか」と煩わしく思いながら祖父の枕元に行った。大抵、「水が飲みたい」とか、「鼻を拭いてくれ」「布団をかけてくれ」などという用事で、それが終わると私はさっさと枕元を離れた。すると間もなく、また「おーい おーい」の声が聞こえる。ある日私は、面倒くさくなって「おじいちゃん、用事があるなら一緒に言ってよ」と文句を言った。それを聞いたときの祖父の悲しそうな顔を、私はずっと忘れることが出来ない。今ならわかる。祖父は、私の顔を見たかったんだと思う。孫に世話をしてもらうことが、ささやかな喜びだったんだろうと思う。でも、当時の私にはそれがわからなかった。祖父は元気なころから優しい人だったと聞いている。だから、何度も私を呼んで煩わせることに、悪いなと思っていただろう。祖父は体が不自由ではあったけれど、決してボケてはいなかった。それは私にだってわかっていた。私や妹たちが同じ部屋で話したり遊んだりしているのを、ニコニコして見ていた。不自由になり、散歩も出来なくなり、スムーズに話すこともできなくなり、どれほどの悲しみや切なさを感じていたか、今の私には想像できる。自分の言いたいことも、スムーズには伝えられないのだ。それでも、イライラして声を荒げたりする祖父ではなかった。それなのに、私はそんな祖父に冷たい視線や言葉を投げかけていた。こう書いていても、後悔で息苦しくなってしまう。祖父が亡くなったのは、今の私と同じ69歳だったのだ。ごめんなさい、おじいちゃん。あの時、「おじいちゃん、何度呼んでくれてもだいじょうぶだよ」と言ってあげればよかった。でも、きっとやさしいおじいちゃんは、あちらの世界から言ってくれているだろう。「だいじょうぶ だいじょうぶ。おまえがいてくれて嬉しかったんだよ」と。「あの時はちょっと悲しかったけれど、おまえの気持ちはわかっているからだいじょうぶ」と。私がそちらの世界に行った時は、私をちゃんと見つけてね。そちらの世界には、おじいちゃんもおばあちゃんもいるから、私は安心しています。
2020年03月05日
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この絵本の日本での第一刷は1988年。地元の図書館にはなくて、道立図書館からとりよせてもらった。しかし絵本を開くと、「深川市立図書館」のスタンプが押されている。どのような経過で深川図書館から道立図書館に所蔵されることになったのか。そして、この絵本はどれほど沢山の親子に読まれたのだろうかと思いを馳せてしまった。「上のおばあちゃん 下のおばあちゃん」作・絵: トミー・デ・パオラ、訳: たかぎゆきこ、出版社: 絵本の家作者がトミー・デ・パオラで、絵本の中の男の子の名前もトミー。だから、この絵本は自分のおばあちゃんたちの思い出を絵本にしたのだろう。日曜日になると訪れる家には、ひいおばあちゃん(上のおばあちゃん)とおじいちゃん、おばあちゃん(下のおばあちゃん)が暮らしていて、上のおばあちゃんは寝たきりでおばあちゃんが介護をしている。トミーはひいおばあちゃんが大好きで、その傍でお話を聞いたり、一緒に椅子に座ったりするのが大好き。そのエピソードとイラストを見ていると、私の心もほんわりしてきて、ついつい自分の祖父母たちとの思い出と重なったりする。私自身は「ひいおばあちゃん、ひいおじいちゃん」は知らない。でも、長寿社会になった今の日本では、幼い子に「ひいおばあちゃんやひいおじいちゃん」がいることは少なくないだろう。しかし、このような温かい交流があるだろうか。そして、次第に老いていく姿を見つめ、やがて亡くなるという経過を共に体験する子はどれほどいるだろうか。核家族化が進み、今では三世代同居も少なくなってしまった。祖父母でさえ、お盆や正月の帰省の時に会う機会しかないかもしれない。ましてや、曾祖父母となると…。存在するのに会う機会もないまま、葬儀で写真と対面することも多いかも。これは社会の変化でどうしようもないことだ。しかし、大切な人が老いてやがて死を迎える姿を見つめることで、「死」の意味を具体的に実感し、それは「生きている今」を考えることになる。その機会を失うことは、大切なことを考える機会も失うことになる。絵本を子どもと一緒に読むことは、離れているおじいちゃん、おばあちゃんに思いを馳せる機会にもなるだろう。そして、「私のひいおばあちゃんはどこにいるの?」という疑問につながるかもしれない。そのことは、ずっとつながってきた家族の歴史や、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんの生きた時代を想像することにもなるだろう。この絵本は、現代家族が失いつつある大切なことを、あらためて考えさせてくれた。
2020年02月26日
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「おじいちゃんのコート」文: ジム・エイルズワース、絵: バーバラ・マクリントック、訳: 福本 友美子、 ほるぷ出版内容紹介おじいちゃんの人生に寄りそって、大切に、大切に、大切にされた一着のコート。はさみでチョキチョキ、ミシンでカタカタ、針でチクチクぬったらば、コートから上着になり、上着からベストになり、最後には……。 この絵本は、先日紹介した「おじいさんならできる」ととても似ている。しかし、最初の設定が異なっていて、おじいちゃんは一人でアメリカに移民して仕立て屋になり、自分の結婚式の時に仕立てたコートを大切に着続け、破れたところを切り取りながら、上着→ベスト→……最後には孫のためのおもちゃになり、それもボロボロになってネズミの巣となり、やがて影も形もなくなってしまいコートは完全に使い切ったというお話。一着のコートがどんどん形を変えてゆくことや、その時間の流れの中での家族の歴史、なによりも物を愛情をこめて大切にすることの価値など、様々なことを親子で一緒に考えられる絵本。読み終わって最後のページを見ると、そこに作者と画家のことばが書かれていました。作者によると、このお話はイギリスで長く愛されてきたイディッシュ語の民謡、「ぼくはすてきなコートをもっている」を基にしたお話だとのこと。それに加えて、作者の祖先がヨーロッパからのアメリカ移民だったとのことで、民謡と自分のルーツを重ね合わせて作ったお話のようだ。画家もまた、同じような歴史を持つ家族の中で育ったため、やはり自分のルーツや家族のことを調べて当時のことを思い浮かべながら描いたようだ。きっとアメリカに住んでいる人たちには、それぞれに大切な家族の歴史があるのだろうなと考えてしまう。絵本にとってとても大切なのは、「ことば」と「絵」だと思うけれど、この絵本では、イラストが物語を語っているような感じがする。だから、イラストを見ていると登場する人たちの声が聞こえてくるようだ。どの年齢の子と読んでいても、また一人で眺めていても、モノローグとディアローグが豊かに交錯するような絵本だと思う。ひょっとすると絵本の価値の一つは、その豊かさがどれほど内包されているかなのかもしれない。人は誰でも、ルーツを持つ家族の中に生まれ育ち、それぞれが自分の人生を生き、やがて自分自身が子孫のルーツとなってゆく。この年になると、できれば「私のおばあちゃんはね…」などと、懐かしさで子孫に語り継がれるようになれば嬉しいと思ってしまう。そのためには、今を大切に生きなくちゃね。最近はついついそんなことを思ってしまうのは、そろそろ人生の終盤という意識が底にあるからなのだろうか。続けて…「リーベとおばあちゃん」ヨー テン・フィヨール作、ハーラル・ノールベルグ 絵、山内清子訳、福音館書店【内容】北の国、ノルウェーの谷間のむらに、リーベランドというのうじょうがあります。そこには、リーベというちいさなおんなのこと、おとうさんと、おかあさんと、おばあちゃんがくらしていました。4才から小学校初級むき。 ノルウェーの絵本。まず第一印象は、この絵本のどのページも、そのイラストで絵葉書ができそうだということ。ページをめくるごとに、私の脳裏にはノルウェーの人たちの生活の様子がリアルに立ち昇ってくる。太陽の光が隠れてしまった長い冬を、春を待ち望みながら暮らす家族の気持ちが、北国に住む私には少しではあるが想像できる。私達の住む北海道は太陽が隠れてしまうことはないが、通常なら12月から3月までは雪に閉じ込められた感じで、春を待つ気持ちはとても強いものがある。また、寒さの厳しい1月から2月にかけては、お年寄りが亡くなることも多くて、この季節は葬儀に出ることが多くなる。身体の弱った人たちにとっては、厳しい寒さも明るい太陽の光が見えないことも、ジワジワと体力・気力・免疫力を低下させてしまうのだと思う。だから、身体の弱ってきたおばあちゃんのことを心配するリーベの気持ちがよくわかる。「この冬を乗り切ったら、きっとまた元気になれるよ。もう少しで春が来るからね」それは私たちがいつも、病弱な人に励ましと祈りを込めて語りかける言葉だから。ノルウェーの人たちにとっては、「復活祭」が春の訪れの喜びの日のようだ。まさに、白く暗い日々が終わり、明るい太陽が復活するということなのだろう。おばあちゃんから「復活祭の朝に出た太陽に願い事をするとかなえられるよ」と聞いたリーベが、お父さんと一緒にスキーで山を登ってゆく気持ちが、幼い頃の自分と重なる。(私の祖父は、春の訪れを待つことが出来ず、2月1日に旅立ってしまった)リーベはその山の途中で「ふきたんぽぽ」を見つけて、おばあちゃんに「小さなおひさまだよ」と持って帰る。「ふきたんぽぽ」ってどんな花?と調べてみた。あまりこのあたりでは見かけないような気がするが、どうなのだろう。私達は、雪どけと同時花を咲かせるような「福寿草」が春を告げる花だ。雪融けが始まった土手に福寿草の花を見つけると、今でも「あー、春が来た」と嬉しくなる。そういえば、祖母は土手にある野生の福寿草を、庭先に植えていた。きっと祖母も、福寿草の黄色の輝きに、幼い頃からワクワクしていたのだろう。だから庭先に植えて、花が咲くといつも私たちに教えてくれた。「外に出て見てごらん。福寿草の花が咲いたよ!」私も絵心があったら、「miraiとおばあちゃん」という絵本が描けるんだけどな。
2020年02月19日
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「おとうさんのちず」作・絵: ユリ・シュルヴィッツ、訳: さくま ゆみこ、 あすなろ書房【出版社からの内容紹介】作者の、画家として歩み始める原点を描いた自伝絵本。戦争で故郷を追われ、過酷な暮らしをしていた時期、父親の持ち帰った世界地図が少年だった作者にパン以上のものを与えた。この絵本は、作者が幼い時に暮らしていたトルキスタン(現在はカザフスタン)での時の記憶をもとに、記憶をたどりながら描いた絵本だという。幼い子供にとって、生きる力になるのはパンだけではない。もちろん、命を失うかどうかの瀬戸際には、想像の翼を広げられる地図よりも一片のパンだろうとは思うが、そんな時でも生きる力や意欲を掻き立ててくれるのは「夢を描いたり想像力をかきたてる何か」なのかもしれない。それは、一冊の絵本、一枚の絵、一枚の地図、一つのお人形などなど、子どもにとってはなんでも代えがたい宝物になる。絵本を見つめていると、その当時の幼い作者の心情が伝わってくるようで、涙が出そうになる。現実は戦争のために故郷を追われ、明日どうなるのかわからない日々なのだ。今日食べるものは勿論、明日の命だって保障されるような状態ではない。この絵本は、反戦の絵本ではない。しかし、大人の都合による戦争は、それに立ち向かうことも逃げることもできない子供にとっては、このような日々を強いるのだということを示唆している。今も世界中のあちこちでこのような子どもたちが生きている。その子供たちに、希望や夢をつなぐものが身近にあってほしいと願う。
2020年02月16日
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「おじいさんならできる」作・絵: フィービ・ギルマン、訳: 芦田 ルリ、 福音館書店内容紹介ヨゼフが赤ちゃんの時、おじいさんがブランケットをぬってくれました。そのブランケットは古くなりましたが、おじいさんの手によって次々と新しい使い物に変身していきます。 出版社からのコメント少しほつれたり小さくなってしまった衣類を、繕い仕立て直しながら使い続ける暮らしは、この頃すっかり珍しくなってしまいました。こうやって大切にされたブランケットは、とても幸せでしょうね。おじいさんが仕立て直すたびに、その端切れを使って素敵なものを作る床下の小さな生き物たちの生活も平行して描かれています。ぜひ絵のすみずみまで楽しんでください。 絵本を手に取った時に、これはイスラエルの絵本かなと思ったのだが、作者はニューヨーク生まれ。でも、ガイドブックによると「ユダヤに伝わる仕立て屋のおじいさんと孫の物語」とあるので、作者はユダヤ人なのだろうと思う。出版社からのコメントにあるように、今では衣類を繕ったりリフォームして大切に使い続けるということは、本当に少なくなってしまった。この絵本は、おじいさんとヨセフたちが住む家の床下にネズミの一家が住んでいて、いらなくなった布の切れ端を引っ張り込んで、ネズミたちの洋服になったり、お布団になったりしてゆく。読み聞かせをするならば、その両方の様子について子どもと色々話したりすることが出来るし、色々なことを描きこんでいるいる絵なので、見るたびに発見できるようで楽しい絵本だ。きっと、かなり幼い子どもとでも、楽しめるのではないだろうか。幼子は、乳児の頃にくるまっていた毛布をずっと大事にすることがある。いわゆる「ライナスの毛布(安心毛布)」といわれるもので、それがなくては眠れなかったり、不安な時などその毛布を抱くだけで安心したりする。そういえば、上の孫も眠る時にはお気に入りの毛布がなければ、必死にそれを探し回っていた。おしゃぶりがわりのように毛布の端っこをかじったりするので、やがてボロボロになってしまい、何とかそれなしで寝かしつけようとしてもぐずり、困ったことがある。その後あの毛布がどうなったかわからないが、何とか卒業はできたのだろう。ヨゼフにとっても、ライナスの毛布ほどではないけれど、おじいさんが作ってくれたブランケットがとても大切で、お母さんが捨てようとしても「おじいさんなら何とかしてくれる」と、別のものに作り直してもらおうとする。おじいさんもその気持ちにこたえて、最後は小さいボタンにしてくれるのだ。さて、今この絵本を読んだ子が、自分のお気に入りの洋服などが小さくなった時、周囲の大人に「何かに作り替えてほしい」と頼んだ時、それにこたえられる人はどれくらいいるだろう。この私も、そんなことを孫に頼まれたって、「もっと良いのを買ってあげるよ」と言ってしまうだろう。私の幼い頃に、祖母はいつも繕い物をしていた。いつも和服で暮らしていたから、古くなったもので何かを作っていたように思う。でも、和服を作り直していたのは祖母までだ。母はそれまでのことはしていなかったと思う。私達のスカートや洋服を作ってくれたり、編み機でセーターを編むような母だったが、せいぜいセーターをほどいて新しいものに作り直すくらいで、布製品のリフォームはしていなかった。私と言えば、古くなったものをなかなか捨てられないけれど、それをリフォームする技術がない。結局、リサイクル業者に渡すのがせいぜいだ。この絵本が、実感を持って子どもたちに伝えられる世の中ではなくなったと、これを書きながら痛感している。それでも、物を大切にすることの意味を、この絵本で多少は伝えられたらいいなと思う。
2020年02月15日
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二冊とも、内田鱗太郎さんと村上 康成さんでの絵本。「おばあちゃんの花」作: 内田 麟太郎、絵: 村上 康成、佼成出版社子ザルのモンちゃんは、たんぽぽの花畑が大好き。誰に誘われても、「ここにいるのが一番いい」と言います。だって、たんぽぽには、おばあちゃんとの思い出がつまってるから。亡き人への思いを、やさしく謳い上げます。子ザルのモンちゃんがタンポポが大好きになったのは、おばあちゃんとの楽しい幸せな時間があったから。もんちゃんの繰り返す「♪ぽぽたん ぽぽたん ぽぽたんたん♪」という歌は、ひょっとするとおばあちゃんが幼いもんちゃんに歌ってくれたのかもしれない。そのことをもんちゃんは覚えていないかもしれないけれど、心の底にしっかりと刻まれていたのではないか。この絵本は、年齢を問わず読み聞かせするのに良い絵本のような気がする。何より、タンポポは春になるとどこにでも明るい花を咲かせてくれるので、幼い子供と外遊びをした時に「もんちゃんのタンポポだねえ」と声掛けしやすいし、タンポポの花飾りだって作ってあげることもできる。そういえば、私も孫と公園に行った時に、孫たちが「お母さんへのプレゼント」とタンポポの花束を作ったり、私がタンポポの冠をつくって孫がとても喜んでいたことを思い出した。それはとても暖かくて楽しい思い出である。ちなみに私もタンポポが大好きである。どうしてタンポポが好きになったのかと、遠い記憶をたどってみるがそれはわからない。ひょっとすると、おばあちゃんがタンポポの花飾りを幼い私のために作ってくれたのかもしれないな。「おじいちゃんの木」作: 内田 麟太郎、絵: 村上 康成、佼成出版社「おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんに、会いに行くんだよ」。モンちゃんが野道を行くと、動物達が「そんなに長生きするわけない」とからかいます。モンちゃんのおじいちゃんは、大きな木なのです。「もんちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんが植えた木」に会いに行くもんちゃん。きっと本州ではそのような言い伝えのある木が、沢山あるのではないだろうか。この絵本を読んでいた時、私はまたまた祖母を思い出していた。祖母は、開拓二代目の家に嫁いできた。周囲の田畑の開拓はほぼ終わっていたが、まだ畑のあちこちには大きな切り株が残っていて、祖母たちは馬を使ってそれを引き抜く作業もしていたらしい。実家の裏山は原生林に近い状態だったが、本州から移住した曾祖父は、かつて暮らしていた本州の家に近いような庭づくりに精を出していたらしい。中庭のある池を作り、周囲にはおんこの木を植えて形作り、ツツジや紅葉など色付く木も植えていた。祖母はそれを手伝いながら、木を育てるのが好きになったらしい。あちこちの家を訪問した時に珍しい木があったら、それを少し切っていただいてきて、農作業の合間にそれを育てるのを楽しみにしていたようだ。だから、庭木を眺めながら、「これは〇〇さんの家にあった紅葉」とか、「これは旅行に行った時にちょっとつまんできた木」などと楽しそうに話してくれた。しかし残念ながら、それを聞いていた当時の私はさほど興味がなく、せいぜい「ふーん、そうだったの」と答えるくらいで、今はどれがどんないわれのある木か全く覚えていない。でも、そんな私でも、まだ実家に残っている木々を眺めていると「これはみんな、ひいおじいちゃんやおばあちゃんが育てた木なんだな」と思う。そう思うとき、私は会ったことはない曾祖父のことや、懐かしい祖母のことを思い、木を通して私の祖先のことにも思いをいたすことになる。命がずっとつながっているということを、読み聞かせを通して考えたり伝えたりすることが出来る絵本だ。そして、「ずっとそこにある木」というものの存在の有難さも改めて考えさせられる。よく本州の人たちが、「先祖から受け継いだ畑」「代々守ってきた山林」と話すことを災害があった後に聞くことが多い。福島の人たちがまだまだ原発災害の影響が残る家に、こだわってしまう気持ちもわかる。私の実家だって、今では住宅地に囲まれた状態で、残っている木々もやがて切り倒されることになるのかもしれない。それは、木を植えたご先祖様たちにとっては寂しいのかもしれないけれど、ふと自分が先祖ならどう思うだろうと考える。私ならば、子孫が幸せになることにつながるなら、どう処分してもよいと思うだろう。死んでしまった自分たちへの義理(?)で、頑固に現在の状態を我慢することはないのだよと言いたいだろう。あなたたちはやがて先祖になるのだから、子孫にとって何が良いことなのかく考えてねと。うーん、絵本はなかなん奥が深い。
2020年02月12日
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「このあと どうしちゃおう」ヨシタケシンスケ、ブロンズ新社しんだおじいちゃんがかいた「このあと どうしちゃおう」ノートがでてきた。「じぶんが しょうらい しんだら どうなりたいか」が、かいてある。「うまれかわったらなりたいもの」「こんなかみさまにいてほしい」......なんだかおじいちゃん、たのしそう。でも、もしかしたらぎゃくだったのかもしれない。ぼくだったら、どうしちゃおうかな。いま、いきているあいだに、かんがえてみよう!以前に図書館で借りて読んだ絵本なのだが、手元においておきたくて買ってしまった。これは、実に楽しい生と死についての哲学書かもしれない。それにしても、ヨシタケさんの発想力には脱帽だ。「うまれかわったらなりたいもの」とか、「こんなかみさまにいてほしい」。「いじわるなアイツはこんなじごくにいく」なんて、見ているとどんなに笑わない男でも、ニヤリとしてしまうんじゃないかな。私も真似して「このあとどうしちゃおう」と考えてみようかな。それは、生きている今の「このあと」で、とりあえず今はお昼ご飯をつくっちゃおう。
2020年02月06日
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「スモールさんはおとうさん」 作.絵/ロイス・レンスキー, 訳/渡辺 茂男, 童話館おはなし スモールさんは、おくさんとあかちゃんとポールくんとポリーちゃんと、丘の上の大きなうちに住んでいます。 家族みんなでそれぞれが出来る事をして生活しています。子どもたちもお手伝いします。 お父さんのスモールさんは仕事から帰ってくると洗たくものを干したり、草を刈ったり。台所の水もれを直すスモールさんを、子どもたちは、尊敬のまなざしで見ています。日曜日にはお料理も手伝います。そんな時、お母さんひとやすみです。 スモール家の一日と、一週間の暮らしが、淡々とつづられる絵本です。読み始めた時に最初に感じたのは、これは私が子どもの頃にテレビで見ていた、アメリカの典型的な家庭のお話だという印象。ガイドブックによれば、この絵本の初版は1951年。私がまだ赤ちゃんの時だ。だから、この時代のアメリカの「家族に対する価値観」を受けたうえでの絵本ということだ。実際に、最初の部分を読んでいた時、「これってジェンダー礼賛の絵本か?!」と、多少の反発を感じながらページをめくっていた。しかし、読み進むうちに印象は変わってくる。家族のそれぞれ、父親・母親・子どもたちが、それぞれに自分のできることで家事を担っていることが描かれる。これは、当時のアメリカ社会が「男は仕事、女は家事・育児」というジェンダー意識から脱却しつつあったということなのか、あるいは作者が「これからはそれではダメだよ」と絵本を通して大人や子どもに伝えたかったのか、それはよくわからない。スモールさんシリーズは何冊もあるようだが、私は他の本は読んでいない。ちなみにこの本が日本語に翻訳されて出版されたのは2004年だそうだ。息子たちが幼い頃は、まだこの本はなかったということだ。もしも息子たちが子ども時代にこの本があったら、私は積極的にこの本を読み聞かせたことだろう。ちょっと残念な気もするが、これから子育てする人たちには読んでもらいたいし、この絵本を介して親子で色々と会話ができるような気がする。ただ、あまり説教臭くなると子どもや夫に嫌がられるかもしれないので、ご注意を!ジェンダー
2020年02月04日
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「まほうつかいのむすめ」アントニア・バーバー/文、エロール・ル・カイン/絵、中川千尋/訳内容(「BOOK」データベースより)むかしまほうつかいと、そのむすめがくらしていました。むすめは、長い間、父親とふたりきりの生活だったのでふと、母親のことを知りたいと思うようになりました。そして“むすめ”としか呼ばれない自分のなまえのことも…。1987年ケイト・グリーナウェイ賞佳作。この絵本は、ガイドブックでは「私という存在」というジャンル。当市の図書館では所蔵しておらず、リクエストで道立図書館から取り寄せてもらった。手に取ると、美しい東洋的な絵の絵本である。父親の魔法使いは、「世界のてっぺんにある白く冷たい国のお城」で、娘が望むものを魔法でなんでも与えながら育てているが、名前もない娘は孤独であり、読書で知った違う世界に憧れるようになります。やがて娘は、父親との知恵比べの末、鳥となってお城を飛び立ち…。この絵本を読んでいる時、私は久しぶりにワクワク・ドキドキしながら物語の世界に入り込む感覚を味わっていた。「私の名前は? 私のお母さんは?」抑えられない内部からの欲求は、単に自由や違う世界を知りたいというものではない。「自分は何者なのだろう」という、自分のルーツを知りたいという願いのように思えた。この絵本は、何度読んでも様々なことを考えさせられ、その絵も含めて楽しむことが出来るだろう。やくしゃのあとがきによれば、作者のアントニア・バーバーは、ベトナムから迎えた養女のためにこの物語を書いたという。この物語で「限りある人の世で幸せを見つける術」について語ったのだそうだ。それを知り、深い感動を覚えた。子どもにとって「物語」には、そんな意味があるのだ。直接的には彼女の養女へのものだったのだろうが、それは全ての親がわが子に伝えていくべきものなのだ。この物語に東洋的&多国籍的な美しい絵を描いたル・カインは、シンガポール生まれ。少年時代に、日本・インド・香港・サイゴンなどを転々としながら育ったとか。彼の内部に、それぞれの国での体験や美しいものとの出会いが、このような不思議で美しい絵を描くことのつながったのは確かだろう。孫が幼い頃に、この絵本を読んであげたかったなと思う。追記自分のルーツを知りたい欲求は、きっと誰にでもあるものだと思う。近年、不妊治療にも様々な方法がなされているだろうし、様々な事情から養子となるケースも多いだろう。成長してそのことを知った時、育ての親への思いとは別に、「自分の遺伝的な親を知りたい」という思いも持つだろう。子どもの遺伝的なルーツを知る権利についても、ついつい考えてしまった。
2020年01月31日
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昨年末にヨシタケシンスケさんの絵本について書いたのだが、昨夜ネットを見ていたら下記のニュースが! 全国の書店員が選ぶ「MOE絵本屋さん大賞2019」のベスト10を発表! 大人の心に刺さる作品も1/28(火) 13:19配信(一部抜粋)「MOE絵本屋さん大賞」は、絵本月刊誌「MOE」(白泉社)が全国の書店の児童書売場担当者3000人にアンケートを実施し、新刊絵本ベスト30を決定する絵本ランキング。1月23日、東京ドームホテルにて、2019年度の贈賞式が行われました。受賞の言葉とともに、ランキングトップ10を紹介します。第1位 竹下文子/作、町田尚子/絵「なまえのないねこ」(小峰書店)第2位 ヨシタケシンスケ「ころべばいいのに」(ブロンズ新社)第3位 シゲタサヤカ「たべものやさん しりとりたいかい かいさいします」(白泉社)第4位 ヨシタケシンスケ「それしか ないわけ ないでしょう」(白泉社) 第5位 たにかわしゅんたろう/作、Noritake/絵「へいわとせんそう」(ブロンズ新社) こんなに人気のある作家さんだとは、あらためてビックリ!不登校新聞社の記事ではじめて知った私は、時代に遅れていたんですね。実は、ヨシタケシンスケさんのことをブログに書いてから、図書館に行くたびに彼の本を探し、その時にあれば借りてくるのだが、いつもほとんど書棚にはない。図書館でも、大変人気のある作家さんなので、合わせて60冊以上も所蔵しているのにも関わらずである。昨日も図書館に行ったので、一冊だけあった本を借りてきた。司書さんに聞くと、「戻ってきたらすぐ借りられるのです」という。どのような人が借りていくのかと聞くと、「お子さん連れのお母さんが多いような気がします」と言っていた。それを聞いて、彼のような発想や考え方が、今のお母さんたちに必要なものなのだろうと思った。彼は、「絵本の中で笑顔を描かない」のだそうだ。そのことに触れた記事を見つけた。人気絵本作家はなぜ「笑顔」を描かないのか?どんどん彼のことが好きになっている私である。
2020年01月29日
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「つみきのいえ」文/平田研也 、 絵/加藤久仁生、 発行/白泉社【あらすじ・内容】 おじいさんがたった一人で住んでいる、海に浮かんだように見える奇妙な小さな家。子ども達は既に独立し他所で家庭を築いています。おばあさんは3年前に亡くなりました。釣った魚と飼っている鶏の玉子、屋根で育てている小麦、そして足りないものは近くを通る行商人の船から買い、自炊をして暮らしています。 この町は少しづつ海面が上昇していて、床上に浸水すると今の家の上に新しい家を積み重ねて作り、上へ上へと移り住んできたのです。 ある冬の日、部屋に浸水している事に気づいたおじいさんはまた屋上に新しい家を作り始めます。ところがある時、うっかり工具を取り落としてしまいます。潜水服を着込んで、海の中へ探しに行きます。工具を見つけて周りを見回すと、そこは昔家族みんなでおばあさんを看取った部屋でした。 おじいさんは、そこからさらに下へと潜っていき、以前住んでいた家を一つ一つ見て回ります。ある家に住んでいた時は、町でカーニバルがありました。子ども達が孫を連れて集まり、おばあさんは美味しいパイを焼きました。 ある家では、一番上の娘がおばあさんが設えたドレスを着て花嫁となって巣立っていきました。 ある家では、飼っていた子猫がいなくなり、子ども達が悲しみました。子ども達は子猫に書いた手紙を瓶に詰めて流しました。 ある家では、おじいさんとおばあさんに最初の子どもが生まれました。どの家にも思い出が残っていました。 そしてとうとうおじいさんは一番下の最初の家までたどり着きました。この作品は、作者のお二人が作成した短編アニメーションを絵本にしたものだそうである。作品は、2008年に「アカデミー短編アニメ賞」を受賞したという。一読して、アニメーションで見たら美しいだろうなと思う。この絵本は赤ちゃんにはちょっと無理で、幼稚園時あたりから親子で読むことが出来るだろう。そして多分、最初はお子さんよりも親や祖父母の方が、自分の過去の思い出と重ね合わせながら読むのではないだろうか。幼い子供が関心を持つとしたら、どんな感じだろう。やはり、その年齢なりに水の上に浮かぶ家に生活することを想像し、どうしてそうなったかを想像し、水の下の家がおじいさんにとってどのようなものなのか、あれこれ考えるのではないだろうか。感性豊かな子どもと、現実的で論理的な傾向のある子では、随分考えることも違うだろう。また、興味を持つものについても随分違うだろうと思う。もしも兄弟姉妹に読み聞かせる機会があれば、この本への反応から、わが子の個性の違いや心の成長の度合いを知ることになるかもしれない。私は、親が子供に絵本を読み聞かせる意味の一つは、絵本を介した子どもとのやりとりにより、親が子供の心を理解することにつながることではないかと思っている。そして、絵本を通してのコミュニケーションの中で、自分の心模様について気付くのではないだろうか。懐かしい思い出の積み重なったその家から、このおじいさんは去ろうとはしない。多分、かつては近所に沢山あった家に住んでいた人たちにとっても、水に沈んだ家は思い出の詰まった家だっただろう。しかし、そこに住んでいた人たちは次々と去っていった。なぜ去っていったのかは、それぞれの事情があるだろうが、中には身を切られるような思いで去った人も多いのではないか。この本を読みながら、私は震災や原発事故などで故郷を去った人たちを重ね合わせてしまった。また、どんどんと水が増えていく状況に、昨今の温暖化による豪雨被害など、様々な環境の変化を思わずにはいられなかった。多分この絵本が作成された元々の意図は、人が生きることの様々な意味を考えてもらうものだったのではないかと想像する。様々な人生経験を重ねて老いてゆき、やがて一人暮らしになったとしても豊かな楽しい思い出の詰まった家に住み続けることは、他人が思うほど孤独でもなく、むしろその場所から離れてしまうことの方が孤独が深まることがある。それは、一人一人の考え方や大切なものが違うから、これがいいとか悪いとかの話ではない。人は、自分が納得できるように生きるのが一番いいし、その場所で見つけられる楽しみや喜びを発見し続けることが、生きることではないかと思っている。そしてまた、この絵本をじっくり見ていると、様々なものが丁寧に書き込まれている。それを一つ一つ見ていると、本当に色々なことが連想される本で、多分、絵本を開くたびに新たな発見があるのではないだろうか。その価値を十分に理解したうえで、私はこの世界への大きな警鐘を鳴らしているように感じてしまう。ひょっとすると芸術に携わる人たちは、肌で過去・現在・未来について、凡人が感じることのできない何かを受け止めて無意識に表現してしまう人たちなのかもしれない。
2020年01月28日
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ブログ仲間のKさんのお知り合いの絵本ということで紹介されたもの。文を担当している「のむらさやか」さんが、お知り合いだそうだ。市内の図書館に所蔵していたもので、結構読まれているようだ。赤ちゃん向けの絵本は、とても固い紙で製本されているのだが、赤ちゃんはついついなめたり投げたりするので、傷んでいないまでも周囲の紙の様子で読まれているかどうかわかりやすい。「ぐるぐるぐるーん」これは、まさに「ブックスタート」に最適の絵本だ。絵本は、絵が先なのか文が先なのかよくわからないが(ひょっとすると二人で話し合いながら作るのかな?)これは赤ちゃんのなぐり描きに、お母さんが言葉や線を添えながらお話をつくっている感じ。きっとお母さんたちは、この絵本に刺激されて、色々な絵やお話をわが子と創作しているのではないか。赤ちゃんにとっての「初めての絵本・ブックスタート」には、これが一番大切なことのように思う。親子がコミュニケーションを取りながらの共同作業の始まりである。子どもの成長には、それがとても必要なことのように思っている。「かん かん かん」これも、やはりブックスタートにピッタリ。赤ちゃんはこの世界に生まれ出て、様々な音や色彩、動くものに囲まれる。それは全てが未知の世界だ。赤ちゃんがお母さんの胎内で聞いていた音は、お母さんの心臓の鼓動。だから、赤ちゃんが泣き止まない時に母親の胸に赤ちゃんの耳を押し付けると、心臓の鼓動に安心するのか眠りやすくなることが多い。実際に、私の長男は良くぐずる子だったので、その手を頻繁に使ったものだ。つまり、「ドクン・ドクン・ドクン」というリズミカルな音だ。だからなのか、赤ちゃんは繰り返しのある言葉に反応しやすいと感じる。それを自然に知っているのだろう、赤ちゃんに向かって声掛けする時は、親たちはオノマトペのような話し方をすることが多い。お水を「ブーブー」なんて言ったり、「ミルク」を「パイパイだよ」なんて言ったり…。(私は使ったけれど、今のお母さんたちは使うかどうかはわからない)この「かんかんかん」は、その延長線上の絵本だ。まだはっきりと言葉と絵がマッチしない時期でも、その音と絵の連続性を楽しむことが出来るだろう。その繰り返しの中で、赤ちゃんは言葉と絵を結びつけ、やがて自分で声に出し、全てのものや動きに名前があることを知り、それを使って他の人とのコミュニケーションを楽しむようになる。20年近く前に、ブックスタートを一歳未満の赤ちゃんに行うことを、年配の男性民生委員に話した時、「そんな赤ん坊に絵本がわかるのか?」と問われたことを思い出した。私が説明しても、「うーん?」と首を傾げていた。今の私なら、もう少し上手に彼に説明して理解してもらえるかもしれない。だってその時は、私自身が、赤ちゃんへのブックスタートがどのような意味があるのか、まだまだ理解不足だったと思う。あれから20年が経ち、全国にブックスタート運動は広がっているようだけれど、子どもを取り巻く環境は良くなっているのかどうかと懸念することが多い。でも、少なくてもこの日本では、誰もが赤ちゃんの時から絵本に親しむことが出来る。その世界の中で、想像の翼を広げたり、絵本を通して創造する楽しみを見つけたり、辛い時にも本を通して励まされたり勇気づけられたりする機会はある。図書館を利用することを幼い頃から知っていれば、その子の人生は間違いなく豊かになる。私は、それだけは信じている。
2020年01月25日
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「おじいちゃんのおじいちゃんの おじいちゃんのおじいちゃん」長谷川義史作・絵: 長谷川 義史 出版社: BL出版長谷川義史さんの絵は特徴的なので、表紙を見たら「あ。長谷川さんだ」とわかる。読み聞かせ活動をしている仲間の話では、長谷川さんの絵本は子ども達にとても人気があるのだという。とてもユーモラスであたたかい絵を見ていると、私でもついニヤリとしてしまう。この絵本は、ガイドブックでは「家族」のジャンルで紹介されている。声掛けのしかたでは赤ちゃんも喜ぶかもしれないが、やはり4~5歳からが喜んでくれるのではないだろうか。核家族で自分のおじいちゃんと会う機会が少ない子はどうかわからないけれど、身近におじいちゃんがいる子ならば、さぞ喜ぶことだろう。でも、最初に出てくるおじいちゃんは72歳なのだが、このような風貌のおじいちゃんは最近はあまり見かけないかも。【幼少の私】ひいおじいさんまでは、仏間にその写真が掲げられていた。きっと、「これがひいおじいちゃんだよ」と教えられて、納得したことだろう。でも、「ひいひいおじいちゃん」「ひいひいひいおじいちゃん」…となってくると、その「ひいひい…」という連呼におかしくなって、絶対笑ってしまう。笑いながらページをめくると、どんどん「ひいひい」が増えてゆき、絵の背景が変わってゆき、やがて原始人になりおさるさん(ゴリラ風)になり…。え・え・エーッ! 私のずーっと昔のおじいちゃんはおさるさんということに、ショックを受けるのか、ただただ面白くて笑っちゃうのか。当時の自分の心境は、想像してもしきれない気分。でも、絵が楽しくて面白いから、きっとショックよりもおかしくて笑っちゃうかな。【読み聞かせる私】これは疲れそうだ。子どもたちは大喜びだろうが、「ひいひいひいひいひいひい」なんて続けたら、呼吸困難になりそう。年齢にもよるけれど、息子は「ひい」の文字をひとつひとつ指でなぞってチェックしたりして、私がてきとうに切り上げようとすると、「ダメッ! まだまだだよ」なんて言うかもしれない。だから横着な私は、きっと子ども自身に読ませようとするかもしれない。最終ページは、「ぼくはだれのおじいちゃんになるのかなあ」。それを見ながら、「私はだれのおばあちゃんになるんだろう」と思うだろう。しかし、抱いているわが子が大人になり結婚し、父親になるなんて、想像できにくいかもしれない。【今の私】うーん、なかなか深いなあと思う。それこそ人間以前の猿の祖先からつながっているこの命。一人も途切れることなくつながってきた命だ。人間の祖先はアフリカで誕生したというから、祖先がつながっている人たちは世界中にいるわけだ。そう、あの見るだけで嫌な気分になるトランプだって…。そう考えたら、人間たちは何をやってるんだろうと思う。とにもかくにも、おかげさまで私は「おばあちゃん」にはなれました。ひょっとすると、「ひいばあちゃん」にはなれるかもしれない。でも、今の地球環境と少子化のことを考えたら、それどまりになるかもしれない。願わくば、「ひいひいひいひいひいひいひいひい………おばあちゃん」になれますように
2020年01月19日
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「100歳までに読みたい100の絵本」の四冊目「はなのすきなうし」出版社: 岩波書店 (1954/12/10)マンロー・リーフ (著), ロバート・ローソン (イラスト), 光吉 夏弥 (翻訳)【内容紹介】むかしスペインの国に、花のすきなフェルジナンドという子牛がいました。ある日、見知らぬ男がやってきて、闘牛場へ連れていきました。これも図書館の書庫に眠っていた絵本で、色あせていて絵本の周囲が一部擦り切れている。もう少しで除籍されそうな本だ。これも、「私という存在…」というジャンルである。白黒の絵で彩色はなく、絵の雰囲気もいかにも昔の絵本という感じだ。それもそのはず、初版は1954年でもう半世紀以上前だ。借りた本は、昭和45年の第12刷。ざっと見た感じでは、4~5歳くらいからが読み時だろうか。【私が誰かに読んでもらっていたなら】お話を聞きながら絵を見ていると、いつのまにか自分の頭の中で色が浮かんでくる。緑の丘や草花の色、青い空や白い雲、緑の大きな木…。そして次第に、うしのふぇるじなんどが自分と一体化してくるような感じだ。ほかの子牛たちと遊ぶよりも花のいいにおいをかいでいるのが好きなふぇるじなんどに、やはり一人でのんびり過ごすのが好きな私は、仲間のような気がしてくる。ひょっとすると、おとなしいふぇるじなんどのことを黙って見守ってくれるお母さんを、羨ましいと感じたかもしれない。私があまりにも動きの少ない子どもだったので、お母さんはいつも「外で遊びなさい」と言っていた。もっと言えば、「本ばかり見てないで外で遊んでおいで」と。そんな私は、「そうか、外で花のにおいをかいでいたらいいのかな」と思ったかも。そんなふぇるじなんどがくまんバチにお尻を刺され、猛烈に走り回ったことで獰猛な牛と勘違いされて闘牛場に連れていかれ、「猛牛ふぇるじなんど」として闘牛場へ。このあたりで私はハラハラ・ドキドキ。闘牛がどういうものか理解できたら、私は不安のあまりに絵本を見ることが怖くなったかもしれない。闘牛場の真ん中で、女の人たちの髪飾りの花のにおいをかいでいるふぇるじなんど。ダメな牛と思われて、闘牛士の剣で殺されるんじゃないか。どうしよう、早く逃げなよ。でも、そうではなかった。ダメな牛と思われたかもしれないけれど、元の牧場に連れ戻されて、大好きな木の下で花のにおいをかいでしあわせに暮らしましたとさ。あー、良かった!そんな感じでしょうか。【読み聞かせながら】きっと、子どもの年齢や性格によって反応する場面は違うことでしょう。友達と遊びまわることが好きな活動的な子なら、ふぇるじなんどはつまんない牛かもしれません。その代わり、くまんばちに刺されて走り回る場面や、闘牛場で闘牛士がけしかける場面には興奮するかも。おとなしく闘牛など想像するのも嫌な平和的な子なら、私のようにふぇるじなんどに共感・同情し、一緒に怖がったりするかもしれません。そんな様子に合わせて読みながら、その子の性格を改めて知ることになるでしょう。そして、花のにおいをかぐことを温かく見守るお母さんに、とても考えさせられるでしょう。結局は、その子がその子らしく過ごすことが一番で、それがその子を守ることにつながるのだと思うかもしれません。描かれているお母さん牛やふぇるじなんど、闘牛士など、登場する者たちの表情、特に目の表情がとても生き生きしていて、きっと子供たちはその表情で物語の中に入り込むのかもしれない。絵本と子どもの表情を観察するのは、きっととても楽しいことでしょう。【今の私】これも「行きて帰りし物語」であり、「個性の尊重」の大切さを伝えるお話。子育てで一番大切なのは、子どもの個性を理解し、それを尊重し大切にして伸ばすこと。それなのに、今の時代の子育ては「個性尊重」なんてお題目はあるけれど、「大人や社会にとって望ましい個性」だけを尊重し、「みんなと一緒に」を強制され、子ども達にとってはとても息苦しい状況になっている。もしもこの絵本で学んだお母さんたちが、子どもの個性を本当に大切に乳幼児期を育てたら、マイペースな子どもは幼稚園や学校に入ってから苦労するかもしれない。それまでは、好きな絵本を読んだり、お絵かきばかりしていた子が、幼稚園に入るなり、「みんなと一緒に運動しましょう」「早く並びましょう」なんてせかされ、みんなと遊ぶのが苦手な子は「協調性がないですね」なんて言われるのかもしれない。それってどうなんでしょうねえ。私は基本的にマイペース人間なので、ずっと人に合わせることに腐心してきたような気がする。振り返って思うのは、「これは自分で何とかしなくちゃ」と思った時には、人は苦手なことでも頑張ることが出来るものだ。そのためには、自分の個性を認めてくれる大人が、幼少期から傍にいてくれる人が必要。私にとっては、幼い頃には祖父母、小学校時代には2~3年生の時の担任、中学時代の担任の先生がそうだったように思う。ちゃんとした大人が自分を認めてくれることは、子どもの大きな力になる。そんなことも、この絵本を読みながら考えていた。
2020年01月15日
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「100歳までに読みたい100の絵本」をガイドブックとして、ここに紹介されている100冊を読んでブログにアップするのがこれからの目標。ということで、三冊目である。私は、絵本は基本的に図書館で借りることにしている。だから、紹介されている絵本も図書館に予約やリクエストをして読み始めている。今は、図書館の蔵書はネット検索して予約できるのでとても便利だ。蔵書していない本については、リクエストをして他の図書館から取り寄せてもらう。自費出版等で国会図書館に納本されていない本などは取り寄せられない場合もあるが、かなり古い本でも取り寄せてもらえる便利な制度である。基本的に日本のどこの図書館でもこの制度は無料で利用できるのだが、そのことを知らない図書館利用者も多いように感じている。せっかくの図書館機能を、もっと活用した方がいいと常々私は思っている。前置きが長くなったが、この本は地元の図書館の書庫に所蔵されていた。古くなって利用数も少ない場合は、書庫で眠っている本は多い。「こねこのピッチ」は書庫に合ったのだが、表紙も色あせて古色蒼然した絵本だった。出版年を見ると、初版は1954年。これは1992年の35版である。著者/編集: ハンス・フィッシャー, 石井桃子岩波の子どもの本 出版社: 岩波書店表紙には、黒い子猫がこちらを見つめている。我が家には黒猫の「クロ」がいるので、すぐに連想したのは我が家に来た時のクロのこと。実家の納屋で野良猫が産んだ6匹の子猫の一匹で、一度はおじいさんに引き取られたのだが、そのおじいさんが入院することになり、二か月ほどで出戻った猫だった。実家には他の猫たちが3匹もいたので、ソファーの裏側でブルブル震えている子猫を見た時、引き取らずにはいられなかった。何より決め手となったのは、私が行くまで妹や母が「おいで」と声をかけても逃げるばかりだったのに、私が「おいで」と手を差し出すと、ニャアとか細い声を出して近寄ってきたこと。これで引き取らないわけにはいかなかったということだ。前置きがさらに長くなったが、そんなことを思い出しながら絵本を開いた。絵は、線画に彩色したもので、乳幼児向けではないかなと思ったのだが、例によって三視点から想像しながら書こう。【幼少の私】多分、4・5歳から読み聞かせてもらえばそれなりに楽しめるだろう。私の幼少期から家には何匹かの猫はいたので、その猫のことを思いながら絵を見るはずだ。絵には犬や他の子猫たち、飼い主のおばあさんもしっかり書き込まれていて、最初はちょっとわかりにくい感じがするけれど、良ーく見ているとそれぞれの表情も見えてきて、絵本を眺めることが好きな私は引き込まれていくのかもしれない。ぴっちは他の兄弟猫たちとは違い、一人遊びが好きなようだ。みんなと遊ぶよりは、自分の興味に従ってあちこち動き回り、ひよこやにわとり、やぎやあひるなどに出会うたびに、僕も同じようになりたいと真似をし始めます。ぴっちのささやかな冒険をたどりながら、きっとワクワクドキドキしてしまうでしょう。最後にはこわーい獣たちと出会ってしまい、ぴっちはとても恐ろしい体験をして、やっと飼い犬のぺろやおばあさんに助けられたら、病気になってしまいます。家のみんなに心配され,介抱されて元気になったぴっちは、家にいる安心感や幸福感につつまれて「もう、よそには行かない。ここがいちばんいい」と思うのでした。きっと幼い私はその結末に心から安堵し、冒険譚の面白さと、その後の安心感につつまれ、「あー、面白かった!」と思うのではないでしょうか。こう書きながら、この本もその子によっては三歳頃から十分理解し、楽しみながら、読み聞かせてくれる人との会話のキャッチボールを楽しめることでしょう。その意味でも、読み聞かせにはとても良い絵本のように思います。【母親の私】わが子が子供のころこの本を一緒に読んでいたなら、きっと息子たちの「大好きな一冊」になったでしょう。好奇心が強くて、目を離すとすぐにどこから行ってしまう長男と、とにかくマイペースで、一度興味を持つとそこから離れられない次男。どちらの要素もぴっちは持っているのです。特に次男は、幼い頃に虫や小動物に興味があり、よくその真似をしてました。「てんとうむしはね、飛ぶ時にはこうやってじっとしてから、ブーンと飛んでいくんだよ」「だんごむしはね、ちょっとつつくとこんなふうにまるまってしまうんだよ」などと。タイプは違うけれど、どれもとても子供らしい特徴です。そんなことを思いながら、この絵本を読んだかもしれません。でも、当時の私はとても忙しくて、眠りの前の「絵本タイム」は自分の睡魔との戦い。ひょっとすると、途中で絵本を読むのをやめてしまったり、違う話にしてしまったりで、「おかあさーん、違うよー。ちゃんと読んでよー」なんて言われて、息子たちがこの本を持ってきたら、「もっと簡単に終わる本がいいな」と思ったかもしれません。【今の私】このストーリーは、児童書に典型的な「行きて帰りし物語」だとすぐに思い当たります。様々な冒険をして、苦労したり傷ついたりしての旅路の最後は、安心して家族や仲間と笑いあえる自分の居場所に帰るというストーリーは、子どもの心の成長には不可欠なもの。きっと多くの児童書はそのような構造になっているのではないでしょうか。安心できる日常から、刺激的な出会いや冒険を重ねることは、必ず人の成長につながり、それは不可欠なのだという確信が大人側にはある。子どもたちは、本の中で様々な疑似体験をしながら、自分の中の好奇心や冒険心を育て、それはやがて自らの人生を切り開いてゆくための力になってゆく。これから新しい世界に踏み出す子どもや若者には、「行きて帰りし物語」はとても重要です。しかし、今の私にはどうだろう。この絵本は、ガイドブックでは「私という存在…自分探しは永遠に続く」のジャンルに入っています。実は私は、「自分探し」という言葉がある時期から嫌いになりました。「自分探しをしている」みたいなことを言う人が多くなり、そのフレーズを聞くたびに思うのでした。そこにいるあなたが、自分じゃないのですか?と。「これはなりたい自分じゃない」「まわりのせいで、本当の自分を発揮できずにいる」「本当の自分になるのはどうしたらいいんだろう」と思うのは理解できるし、私もそんな気持ちには何度もなりました。でも、今の私は思います。そんな私も、間違いなく私自身だったと。逆らったり、必要以上の背伸びをしたり、頑張ればなんとかなると思ったり、それはみんな自分探しのようにも見えるけど、私らしくなるためのプロセスだったと。チャレンジは日々の日常の中にあると、時々思います。やりたいことは、いつも日常の延長線上にある。こんなブログを書いているのも、きっとそうなのだろうと思います。
2020年01月14日
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私は20年ほど、乳児検診(9.10か月)会場で赤ちゃんと絵本との出会いのきっかけづくり「通称「ブックスタート」)のボランティア活動をしてきた。だから、絵本を見たら「これはどのようにしたら赤ちゃんの興味を引くことが出来るだろうか」と考える癖がついている。もちろん、一歳未満の乳児だから成長の度合いも個性もそれぞれで、絵本などには見向きもしない子もいるし、びっくりするほど絵本に興味を示す子もいる。私達の役割は、絵本が楽しいものだということを赤ちゃんと保護者に伝えるお手伝いなので、無理やり絵本を押し付けて嫌な印象を与えてしまうのはご法度だ。だからこそ、「この子はどんなことに関心を示すだろうか」と、短時間ではあるが試行錯誤する。そんな私にとっては、この絵本はとても興味深いものがある。「ぼくを探しに (日本語)」 単行本 – 1979/4/12 シェル・シルヴァスタイン (著), Shel Silverstein (原著), 倉橋 由美子 (翻訳)内容紹介さあ どうぞシルヴァスタインのふしぎの世界へ。倉橋由美子がご案内します!この魅力的で心にしみるイラスト物語が、地球の上で、花のように、風のように読まれ続けているわけ――を、あなたも見つけてください。何かが足りないそれでぼくは楽しくない足りないかけらを探しに行くころがりながらぼくは歌う「ぼくはかけらを探してる、足りないかけらを探してる、ラッタッタ さあ行くぞ、足りないかけらを……」 著者について【シェル・シルヴァスタイン】シカゴ生まれ。作家、イラストレーター、歌を作りギターも弾く。カウボーイ・ハットを愛し、いつもジーンズ姿でいる自由人。『歩道の終るところ』(講談社刊)など作品各種。【倉橋由美子】作家。高知生まれ。明治大学卒。著作に『パルタイ』『スミヤキストQの冒険』など多数あり、翻訳はこれが初めて。前回に続いて、三視点からの思いを書こう。【幼児の私なら】幼い私は、絵本が好きだったらしい。親は読み聞かせなどはあまりしなかったようだが、子守がわりに絵本を与えたら、じーっとそれを見て楽しんでいたらしい。パラパラ漫画のようなこの絵本は、きっと幼い私は気に入ったのではないだろうか。ページを自分でめくれるようになったら、次々に変化する絵を楽しんだと思う。内容はわからなくても、地面を移動していることは理解して、雨が降ったり雪が降ったり、小さな動物と出会ったり、穴に落ちたりすることは想像できそうだ。三角のかけらと出会ったら、それを食べようとしたり、喉つまりしたりしながら、ぴったり合わさって喜んで転がったりなど、幼心で可能な想像力を全開する面白さだ。色はなくて白黒の線だけの絵だけれど、好きな絵本になったような気がする。残念ながら幼児の時の記憶はあまり残っていないので、これも想像だけど。【子育て中の私なら】子どもの成長に合わせて、次々と読み方を変えたことだろう。一歳くらいになったら、この〇が顔で欠けた部分が口だということは理解できる。「あっ、〇君が転がってきたよ。大きな口だねー」なんて語りかけながら、絵の〇と息子の顔や口をなでながら、「可愛いねー、大きな口だねー」なんて声掛けしたら、きっと「キャッキャッ」と笑うだろう。そんな感じで次々と、子どもに理解できる内容にアレンジしながら一緒に楽しんだだろう。この本は、年齢が上がるにつれてどんどん変化が可能なような気がする。やがて字が読めるようになったなら、きっと自分の想像力や感性を使って、色々楽しみ始めるような気がする。そして親で大人の私は、この本が「自分探し、人との出会い探し、ベストパートナー探し」の本だと思うだろう。自分は今、どのあたりにいるのかと思ったり、わが子がやがてこのような旅に出て、どんな自分のかけらを探し、パートナーを見つけるのかと想像するかもしれない。確実なのは、当時の私はまだまだ自分が何者なのかよくわかっていなかった。どうしようもないかけらの寄り集まりと感じて、いつバラバラになるかわからないような不安感に悩まされていた。この本を、純粋に楽しい絵本だとは思えなかったような気もする。【今の私】自分に足りない何かを求め続けているのが生きるということなのだろうか。でも、完全な人間なんてそもそもいるわけがない。何かを得たら何かを手放してしまうってことは、よくある話。もう、最近ではそんなことばっかり感じている。物質的、金銭的な豊かさを求め続けてきた結果が、今の社会だ。社会とはどうしても無縁ではいられない私たちは、嫌でもその影響を強く受け続け、「何か変だ」とか、「何かが欠けている」ということにも鈍感になりつつある。この絵本は、一人の人間として読むこともできるが、大きな地球全体とも読むこともできるように思う。著者がどのような思いをこの絵本に込めたのかわからないが、そんなことまで連想させる豊かさと深さがこの絵本にはある。やはりこの本は、傑作だ!
2020年01月11日
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「100歳までに読みたい100冊の絵本」シリーズ第一弾。10年ほど前に、柳田邦夫氏の講演会開催に関わったことがある。その時の講演テーマは「絵本」であり、(正確な演題は失念)、その講演の中で「人生で絵本を3回楽しもう」というような言葉があった。1度目が幼少期に親から読んでもらって一緒に楽しむ時。2度目は子育て中にわが子に読み聞かせるとき。そして3度目は、自分自身が味わい楽しむ時。そんなお話だったと思う。その言葉は、それ以来ずっと心に残っている。だから、年末にこの「100冊の絵本」という本を見つけた時、「よし、その気になって読もう」と思ったのだ。これから順次読んだ絵本の感想を書いていくつもりだが、ただ読んだ絵本の羅列ではつまらない。そこで思いついたのが、それぞれの時期(幼少期、子育て中、現在)の私自身の視点になって読んでみようと思う。ということで、記念すべき1冊目は「わたし」。1981年の出版である。文章は谷川俊太郎で、この人は詩人でその言葉はとてもセンスがあり、絵本もたくさん手掛けている。さて、幼児の私ならどう感じるだろう。「わたし」は女の子なので、自分と重ねながら絵を見ていろいろ想像をめぐらすだろう。自分の家族にはいない「おにいちゃん」、まだ出会っていない「がっこうのせんせい」みたことのない「きりん」や「がいじん」「うちゅうじん」、「えかきさん」や「もでる」は説明してもらったら何となく想像できるかもしれないが、「れすとらん」や「えいがかん」「ほこうしゃてんごく」なんて、想像の範囲を超えているかも。子育て中の私だったら、どのようなことを思いながら読むだろう。白紙のような子どもの心に、この絵や言葉はどのように感じるのか。これからどんな人や社会と出会うのだろうか。そして、その出会いの中からわが子が何を感じ学びながら成長し、どのような人になってゆくのだろうか。出会った人たちや環境の中で良い影響を受けながら、幸せな人生を歩んでほしい。それよりなにより、この瞬間にこの絵本をどのように読んだら喜んでくれるだろうか。きっと、そんなことを思いつつ読み聞かせることだろう。そして今の私は…「わたし」が出会ってきた人たちを思い浮かべている。父や母、4人の祖父母、おじさん、おばさん、いとこやはとこ、学校や社会で出会った沢山の師や友人たち。それらの人たちのおかげで、私は私になってきた。いつの間にか年を重ねるうちに、人は一人では生まれてこないし、一人では決して生きてこれなかったことを実感している。私が多くの人たちのことを思い浮かべることが出来るように、きっと誰かも私のことを思い浮かべてくれる時がある。それは、良い思い出ばかりではないし、私が傷ついたことがあったように、私も誰かを傷つけていたかもしれない。誰かの役に立つ人間になりたいとは思ってきたけれど、子どもの頃の願い通りにはならなかった。それでも、それなりに縁を大事にして紡いできたような気もする。世界では悲しいことが次々起こり、この日本でも腹が立つこと切ないことは多いけれど、それでも何とか時代の中で生きてきた。「わたし」の主人公はみちこちゃん。ひょっとするとこの名前、「美智子さま」と関係するのかな。みちこちゃんは、1981年の時に5 歳くらい。ということは、現在中年になっているわけだ。どんな大人になって、どんな生き方をしているんでしょうね。いやいや、絵本の中のみちこちゃんは永遠に、こんなことを読者に考えさせている偉大なそんざいなのかも。
2020年01月08日
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年末に図書館で借りた「100歳までに読みたい100の絵本」。最近は、老眼が進んできてしまって、長時間の読書が疲れるようになってきた。特に、長年の習慣であった就寝前の布団の中での読書が辛い。ということで、一冊の本を読了するのに時間がかかってしまい、特に図書館の本を中途半端で返却することが増えてきた。しかたがないので、さらに読み続けたい本は中古で購入などしてみるのだが、そこにあると思うと「積読」になってしまいがち。そんな昨年末、この本を見つけた。絵本ならばすぐ読めると思うし、感想を書くのもさほど難しくないだろう。今年は花の70代に突入するので、記念に(?)この100冊を読んでブログアップすることを目標にしたい。ということで、まず4冊を図書館に予約した。さて、今年中にどこまでいくでしょうか。目標は、100冊読破なのですが、それをブログにアップしてゆくとなるとどうかなあ。
2020年01月05日
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不登校新聞の記事を読み、絵本作家のヨシタケシンスケさんを知った。「イヤなことからは逃げてきました」絵本作家が見つけた生き方の極意それで、図書館に行った時に彼の絵本を探してみたら、とても人気のある作家さんであることを知った。(私は彼の絵本を読んだことがなかった)図書館には色々と所蔵しているのに、すぐ読める本は数冊しかなかったので、その時貸し出し可能な本を借りてきた。「このあとどうしちゃおう」「あるかしら書店」 「こねてのばして 」「ヨチヨチ父 とまどう日々」どれも、とてもほのぼのした絵で、思わずクスリッと笑ってしまいながら読んだ。彼の発想や感性に、心がほんわりとしてくる。「ヨチヨチ父」は、ずいぶん昔の子育て時代を思い出し、あの頃この本があったらどれほど救われただろうと思った。きっと、今の子育てパパ・ママたちも、この本に励まされながら頑張っているんだろう。返却する時に図書館司書に、「この本、いいね」というと、「戻ってきてもすぐ借りられてしまいます」という。他の育児関係の絵本も人気があるそうだ。彼の絵本を見ながら、学校や会社などで息苦しい思いをしたり、時には不登校やひきこもりになるタイプの人たちに共通するものを、彼は持っているんだろうと思った。その中には、発達障がいと言われるタイプの人たちもいるだろう。温暖化対策の旗振り役になっているようなグレタ・トゥンベリさん、もその一人だろう。しかしこのような人たちの中に、彼らのように物事の本質を自分の心で感じ、そのままに表現したり訴えたりできる人がいる。所属する集団に過剰適応し、自分の頭で考えられないように見える日本の大人たちをみていると、彼らこそが未来を救ってくれるのかもしれないと思うことがある。ヨシタケシンスケさんの絵本も、傷ついたり戸惑ったりしている人への応援や心のお薬になっているように思う。しかし、決してヨシタケさんはそんなことを目論んではいないはずだ。だからこそ、人の心を動かしてくれるのだ。
2019年12月08日
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「いのる」長倉洋海/著 、アリス館何のために祈っているのだろう。神様に祈る人もいれば、先祖に祈る人もいる。でも皆、平和や健康などを大きな存在に祈っている。世界各地で著者が捉えた人々の姿と言葉。違いと共通点、そこから見えてきたものとは。児童書になっているので、絵本に入るのだろうか。久しぶりに長倉さんの報告会に行くので、近著を読んでみようと図書館で借りた本。長倉さんのホームページで、この本の感想を柳田邦夫さんが書いていることを知った。柳田さんも長倉さんのファンであることを知り、なんだか嬉しい。同じホームページで、「写真絵本『世界は広く、美しい』がミュンヘンの国際児童図書館の選定図書に選ばれました!」と記されていた。この絵本たちも読んでみたいと思う。「いのる」の写真と言葉を見ながら、世界中の祈りを思う。特定の宗教に所属しない私も、日々何かに祈っている。その人たちの祈りはささやかなものでも、つながって大きなエネルギーとなり、この世界が良い方向に向かってほしいと願う。人は祈らずにはいられないし、祈ることのできる生き物なのだから。
2018年11月14日
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「氷山ルリの大航海」作:高円宮妃久子殿下、絵:飛鳥童、講談社「ワンダフルライフ 地球の詩」 絵/飛鳥 童、詩/川崎 洋、小学館 前回紹介した絵本とは対照的な美しい絵本。実は、友人が飛鳥童さんの著書を紹介してくれたので、その本を読む前に彼がどんな絵を描いているのかと図書館で探した二冊。「氷山ルリの大航海」は、高円宮妃久子殿下が文章を書き、それに飛鳥童さんが絵を描いたということで、ちょっとびっくり。どちらの本もとても美しい色彩と緻密な描写で、描かれている動植物や自然が生き生きとしている。よくみてみると、「隠し絵」というのだろうか絵の中に生き物が隠れていたりして、見ているだけで楽しい。やっぱり絵本は、楽しく美しいものの方が私は好きだな。
2017年11月17日
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最近読んだ本をメモしようと思ったが、この二冊の本はちょっと気になる絵本だったので記録しておこう。図書館でふと目についたのが「優雅に叱責する自転車」で、気になって他の本がないかと探してきた。すでに返却して手元にないので読んだ時のリアルな感想ではないが、なんだか心が波立つような絵本だった。「優雅に叱責する自転車」エドワード ゴーリー (著), Edward Gorey (原著), 柴田 元幸 (翻訳) 「エドワードゴーリーの優雅な秘密」絵本という形ではあるが、「画集」とも言えそうな本。とても緻密で不思議な絵である。さらに、少し不気味で心の中の想像力を刺激し続ける絵である。今ネットで検索をしたら、「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密展」として全国を巡回しているようで、現在は宇都宮美術館で開催中。近くだったら見に行ってみたいと思うが、ちょっと無理。
2017年11月16日
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「馬を洗って…(若い人の絵本)」 著者 加藤多一, 池田良二/版画 出版社: 童心社 10年以上前に購入したと思う。その時も感動したのだけれど、今日久しぶりに読んでなんとも言えぬ気持ちとなった。舞台は戦時中の北海道。著者の加藤多一氏も版画家の池田良二氏も北海道出身。当時の北海道の風景や農家人たちの心象風景も含めて、池田氏の版画とともに本当に胸に迫って来る。北海道からは、戦時中馬も出征したと聞いたことがある。でも日露戦争ならともかく、太平洋戦争では本当に軍馬としての仕事ができたのだろうか。加藤多一さんをネットで検索していて、下記の記事をみつけた。ぜひぜひお読みいただきたい。21世紀への届けもの 加藤多一さんに聞く絵本も各地の図書館にはあると思うので、ぜひ多くの人に読んでもらいたい。
2015年03月04日
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最近戦争や平和に関する絵本紹介が多いのですが、今日の一冊は…「せかいいちうつくしいぼくの村」 小林豊/作・絵 ポプラ社 ブログリンクしているmsk222 さんの記事「棄民」で、アフガニスタンで活動している中村哲氏のことを読み、確かアフガニスタンの子供を主人公にした絵本があったなと探してみた。実は手元にはないのだが、一時期写真家の長倉洋海さんの写真展からマスードにはまり、彼の著書からはじまってアフガニスタン関連の本を読んだ時期がある。多分その頃に読んだ本で、購入したような気がするのだが今のところ見つからない。ひょっとしたら息子の家にあるのかもしれない。マスードは愛するアフガニスタンを自分たちの手で守ろうと戦い続けたが、2001年9月9日、アメリカ同時多発テロ事件の2日前に暗殺された。この絵本は、まさにマスードが愛した故郷の少年が主人公である。長倉洋海さんは、マスードが亡くなった後も、彼の故郷の子どもたちを支援し続けている。昨年「アフガニスタン ぼくと山の学校」を出版されているようだ。できれば、合わせてご覧になっていただきたい。(私もすぐに図書館にリクエストしよう) ↑ケチな私はまず図書館で。その後手元におきたいと思ったら買うんです。
2015年02月14日
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安倍総理が絵本を読むことはないかな。でも、今読んでもらいたい…。「せかいで いちばん つよい国」 作・絵: デビッド・マッキー 訳: なかがわ ちひろ 出版社:光村教育図書 「せかいじゅうの 人びとを しあわせにするため」に世界中を征服した、ある大きな国の大統領のおはなし。 強者のゆがんだ論理を明るいユーモアで皮肉たっぷりに描いた寓話絵本。
2015年02月13日
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絵本紹介「三連続」です。(「三連発」「第三弾」と書いてみて、ちょっと違和感を覚えたので「三連続」にしました)「かさをささないシランさん」 作: 谷川 俊太郎+アムネスティ・インターナショナル 絵: いせひでこ 出版社:理論社内容(「BOOK」データベースより) 雨にぬれて歩くのが好きな男、ちょっと人と変わっているかもしれません。でもそのせいで男はたいほされます。恐ろしい話です。しかし似たようなことが今も、世界のどこかでおこっているのです。アムネスティの絵本。 1997年に出版された絵本。出版の理論社ではこの本の在庫がないような…。というわけで、アマゾンのリンクを貼りました。アムネスティが人権について子どもにもわかりやすい絵本を作りたいと絵本原案を募集し、何度も話し合いを重ねて谷川俊太郎さんが最終案をまとめ、いせひでこさんが原画を書かれたそうです。人と違ったことを言ったり行ったりしているというだけで、人々(世間)から糾弾されやがて逮捕されてしまう。そんなことがこの日本ではないだろうか。じわじわとそんな世間が私たちを息苦しくさせているような気がしてなりません。多分、どの図書館にも所蔵しているのではないでしょうか。これも、小学生くらいからお年寄りまで一緒に読んで、色々と考えたり話し合ったりできる絵本だと思います。
2015年02月11日
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今日も絵本の紹介です。「もっとおおきな たいほうを」二見正直 /福音館こども向けの絵本なので、昨日の「戦争のつくりかた」とは違って希望があります。やはり、希望や理想は必要です。しかし、それを実現するには、一人ひとりの強い願いと、意志と、現実の自分の生活で何がそこにつながるのかを考え、少しでも実行していくことだろうと思います。幼児からお年寄りまで、一冊の絵本で色々と考えたり話したりすることができる絵本だと思います。ちなみにこの本は、シャンティ国際ボランティア会の「絵本を届ける運動」で、ミャンマー難民キャンプ向けの絵本で知りました。11年前にカンボジアにこの団体の活動視察ツアーに参加したことをきっかけに学校に行けなくなった子供達と一緒に、細々と続けている活動です。
2015年02月10日
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「戦争のつくりかた」という絵本がある。十年ほど前に出版された絵本なのだが、昨年の9月に「新・戦争のつくりかた」が出版された。(私が持っているのは十年前のもの)まさに絵本通りのことが、着々とこの日本で進行しているような気がする。絵本の最後は、こうしめくくられている。 人のいのちが世の中で一番大切だと 今までおそわってきたのは間違いになりました。 一番たいせつなのは「国」になったのです。 安倍首相は今回の事件を、最初から「ピンチはチャンス」と捉えていたのかもしれない。まさかそこまでとは思いたくないが、推移をみているとそう感じて仕方がない。
2015年02月09日
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「アンジュール」作・絵: ガブリエル・バンサンこれには、ゾクゾクッとするほどの感動をした。文字のない、デッサンだけの絵本なのだが、すべてがその絵に書きつくされていて、アンジュールという犬の孤独感、絶望感、放浪、そのあとに(多分)同じ悲しさや孤独を抱えた子どもとの出会いが、心に染み通るように描かれている。近いうちに、自分の本として購入しようと思う。「てっぽうをもったギムジナー」田島征彦これは、作者と内容にひかれて借りてきた、沖縄戦を描いた絵本。沖縄の現在と重ね合わせて、何ともやりきれない気持ちになる。「ブーアの森」 作: せがわきり、絵: 忌野 清志郎絵本の書棚を見ていると、忌野 清志郎の名前が目に飛び込んだ。エッ? あの 忌野 清志郎だろうか、こんな名前、そうそうあるとも思えないしと手に取る。彼って、こんなこともやっていたんだと、なんだか感慨深い。自然環境保護がテーマの絵本。「ぼくにもそのあいをください」 作・絵: 宮西 達也孫も大好きな、ティラノサウルスシリーズの一冊。これはまだ読んでなかったので、借りてきた。わかっていても、ジーンとくる。力や金が一番大切と思っているような人は、この本を読んだらどう感じるのだろう。
2010年03月16日
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このところ絵本に開眼(?)し、結構読んでいるのだが、絵本はすぐに読めてしまうので、短期間で返却してしまう。備忘録代わりにブログに書いておこう。「まんげつのよるに」作:木村 裕一、絵:あべ 弘士「あらしのよるにシリーズ」の続編。色々なことを考えさせられる絵本シリーズ。年齢を問わず楽しめる一冊だろう。「ライオンのよいいちにち」「ライオンのながいいちにち」「ライオンのへんないちにち」(あべ弘士作、絵)これもあべ弘士さんの絵本。彼は25年間旭川市の旭山動物園の飼育係だったという経歴の持ち主。動物に対する観察と愛情が、絵からにじみ出ている感じ。ほのぼのとしたライオンとうさんは、俳句が趣味だって。なんだかいいなあ、この感じ。「エゾオオカミ物語」 (あべ弘士作、絵)これもあべ弘士さんの絵本。今回借りてきたあべさんの作品の中では、私はこれが一番ずしんときた。これは、少なくても北海道に住む人たちには読んでもらいたい。エゾオオカミが、どうして北海道に住めなくなってしまったのか。開拓者の曽孫としては、胸がチクリと痛みます。「わすれられないおくりもの」 (作・絵: スーザン・バーレイ、訳: 小川 仁央)大切な人を失った時、人はどのようにその死を受け入れ、その人との思い出を自分の糧にすることで前向きに生きて行けるのか。これも、年齢を問わずかみしめ、味わうことのできる作品。「くまとやまねこ」 (作: 湯本香樹実、絵: 酒井 駒子)これも、テーマは喪失と癒しと再生。ひとそれぞれ、受け止め方も癒され方も違います。でも、大切なのはその時にその悲しみにそばで寄り添ってくれる人がいるかどうか。酒井駒子さんの絵が、じんわりと心に染み通ってくるようです。「だいじょうぶ だいじょうぶ」 (作・絵: いとう ひろし)これは、今の大人にとても欠けているものを教えてくれる絵本。ぜひ、子どもと関わっている大人が読んでほしい。子どもの心がしなやかに強く育ってゆくには何が大切なのか。いえ、子どもだけではありません。昨今の日本は、脅したり不安をあおったりすることが多くて、大人も不安でオロオロしています。もっとゆったりと、「だいしょうぶ、だいじょうぶ」と言えるのは、少しばかり長く生きてきて、「まあ、なんとかなるものだよ」と言えるおじいちゃんやおばあちゃんなのかもしれません。私も、そんなおばあちゃんになりたいです。
2010年03月08日
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「おにいちゃんがいて よかった」細谷亮太・作、永井素子・絵この絵本の作者は、小児科医。きっと、多くの子ども達の生と死や、その家族の思いを見つめてきた人なのだろう。生まれながらのハンディや病気を持った子も多いが、生育過程で事故や病気で障害を持つようになる子も多い。当事者としての子どもの大変さはもちろんのこと、その親の心配や苦労は誰でも多少は想像できる。しかし、その兄弟姉妹の思いについては、ついつい軽んじられることがあるのではないだろうか。重度の障害を持つ子の家庭に生まれた子は、健康に生まれただけで「幸せだ」と思われがちで、時には、親なき後の障害を持つ子の面倒まで、多少は託されてしまう。生育過程では、手のかかるハンディを抱えた兄弟のために、我慢をすることも多いだろう。それはそれで仕方のないことではあるが、その寂しさや我慢を十分に汲み取ってあげなくては、幼い心は我慢することに疲れてしまう。さらには、そんなに我慢しながら支えてきたお兄ちゃんやお姉ちゃんが突然いなくなった時、親の悲しみの影で戸惑う幼い心がさまよってしまうかもしれない。限りある命は、必ずいつか終わりがある。その死の悲しみや喪失感を乗り越えるにはそれぞれの年齢にふさわしい納得や受け入れが必要だ。そうでなければ、逝った人だってうかばれないだろう。心ならずも先に逝かなければらならなかった命は、何を望むだろう。きっと、愛した人たちの心の中で生き続けること、その人たちの心に、何か温かいものを残しているということではないだろうか。「あなたがいて良かった」人にとって、この言葉はどれほど嬉しいことだろう。自分の存在を認められ、大切に思ってもらえた証だから。「おにいちゃんがいて、良かった」幼くして旅立たなくてはならなかった兄にとって、妹のこの言葉はどれほど安らぎに導くことだろう。そしてまた、そう言えた妹にとっても、これからの人生の糧になることだろう。このように言える環境を作っていくことがどれほど大切か、そしてそれは、意識してそのように考えなくてはならないことで、決して自然で当たり前のこととは言えないと思う。そんなことを考えさせられた、温かく素敵な絵本であった。
2010年02月05日
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私は、乳幼児からの読み聞かせに関係するボランティアをしているのだが、実は、「ボランティアのためのボランティア」みたいな感じで、自分自身がじっくりと絵本を読みこんでいるとはいえない。本は好きだけれど、「絵本」となると孫たちと一緒に読んだり、ボランティア活動として手にとったりという域を出ていなかった。そんな活動の一環としての必要があり、柳田邦男氏の著書を何冊か読み、「うーん、私は絵本についてほとんど知らない」と気付き、今年は柳田氏が感動したという「100冊の絵本」を読むことを目標にしようかと思っている。で、すでに何冊か手に取ったのだが、順次忘れないうに記録しておこう。「だいじょうぶだよ,ゾウさん」作: ローレンス・ブルギニョン絵: ヴァレリー・ダール訳: 柳田邦男出版社: 文溪堂 年老いたゾウさんと幼いネズミが、助け合いながら大きな木の下で暮らしている。ある日ゾウは、やがて行かなくてはならない「ゾウの世界」のことをネズミに教える。そこは、深い谷をはさんだ大きな森。この世界と、やがてゾウが行かなくてはならない世界とつなぐのは、一本のつり橋。その吊り橋が壊れていることに気付いたゾウさんは、不安そうにネズミを見る。ゾウはつり橋を修理できないが、ネズミならできる。しかし、大好きなゾウさんがそのつり橋を渡ってしまったら、もう2度とゾウさんには会えないことを知ったネズミは・・。「生と死」、生きとし生けるものが必ず直面しなくてはならないその時を、往くもの、送るものがどのようにそのことを受け入れてゆくのか。そんなことをまっすぐに、穏やかに、やさしく表現している。一読し、その表現のわかりやすさにうなり、二読して、その意味の深さを感じ、三読し、その絵の隅々に行き渡る温かさと優しさにジーンとした。そして、絵本の中のゾウさんに、101歳で亡くなった祖母を思った。ゾウは祖母、ネズミは私。私は、祖母の渡ったつり橋を「だいじょうぶだよ」と安心させて渡らせる力になっただろうか。そう思った時、祖母が「だいじょうぶだったよ」と言ってくれたような気がした。幼いネズミは、葛藤の中で成長した。私も、いつしかネズミからゾウさんの立場に変化してきている。そして、幼い孫たちを思う。こうやって、色々なことがつながってゆくのだろう。何度読んでも、いろんなことを考えさせてくれる絵本である。
2010年01月17日
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学習机を買った後、もう一つの孫達との約束で、絵本を買いに行く。6歳の孫が選んだ本は、「おれはティラノサウルスだ」(宮西 達也 /著)なんでも、一ヶ月程前に買った「おまえうまそうだな」の続編のようで、孫なりに色々悩んだ挙句に、この本を選んだ。私はこの絵本のことは知らなかったので、主人公が怪獣なので好きなのかな・・と単純に思いながら支払いをした。孫は、帰宅するやいなや、その絵本を開く。母親が「まず手を洗いなさい」とか「脱いだ上着を片付けなさい」と言っても、馬耳東風。というより、全く聞こえていないような風情。私はその姿を見て、「まあ、こんなに絵本に集中してるんだから、読み終わるまで待とうよ」と、母親をなだめてしまった。(最近は、あまりにも彼がマイペースに見えるので、母親は少し心配しているらしい)。読み終わった孫は、母親に促されてうがいと手洗いのために、洗面所にすっ飛んで行った。その間に、私もその絵本を読んでみた。そして、思わずジーンとして、胸が熱くなってしまった。そこで、「おまえうまそうだな」も孫に持ってきてもらって読んだ。これもまた、泣ける絵本だった。孫は、この絵本で何を感じているのだろう。ちょっと知りたくなって、聞いてみた。「この絵本、面白いの?」驚いたことに(驚くことはないか?)、三歳半の孫も異口同音に「面白いよ!」。その表情は、本当にこの絵本が大好きだということを証明していた。それで十分だと思った。「おまえうまそうだな」は、幼児でも子の立場として主人公に感情移入できると思う。でも、「おれはティラノサウルスだ」ではどう思っているのだろう。そこは聞いてはいないが、彼がとても集中して物語に入り込んでいたのは確か。6歳の子どもの心は、大人が想像するよりずっと深いものがあるような気がした。子どもにももちろん良い絵本だと思いますが、自分と違う人に対して苛立っている大人たちに、お勧めしたい絵本でした。(3月6日/記)
2006年03月05日
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