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6月21日は、中学2~3年生の時のクラス会であった。場所は、担任のS先生が住んでいる小樽市のホテル。今までは地元で開催していたのだが先生も高齢になったので、初めて小樽での開催となった。先生にとっては初めての担任であったこともあり、とても一所懸命に私達と向き合ってくださった。今では考えられないだろうが、よく独身の先生の下宿に何人かで誘い合って遊びに行っていたようだ。今回は宿泊が多かったので、そのとりまとめやホテルとのやりとりなどでバタバタした。というのも、みんなもそれなりに高齢化しているので、体の不調などを抱える人も多く、当日までキャンセルなしで参加してほしいと祈るような気持だった。結果的には先生も含めて16人が参加した。「多分これが最後になるかもと思って…」と本州から参加してくれた人もいて、みんなの楽しそうな笑顔を見ながら、次に会える日が来ますようにと願ってしまった。残りは個人情報にも触れるので、秘密日記に。
2023年06月21日
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(この物語は、私が知っていることや聞いたことに、想像を加えたフィクションですが、大筋は事実です)てっちゃんと友達のI君F君は、サバ缶で芽吹いている苗に目を凝らした。「先生、これは何の花なんだい?」「当ててみろ。当たったら一缶やるから育ててみろ」三人はサバ缶で育っている苗を手に取って見たけれど、今まで見たことがない苗だった。「うーん、外国の花かい?」「まあ、そうだな。でも、今では日本でも鉢植えの花として栽培されている。北海道では露地では冬を越せないけれど、夏場は涼しい方が長持ちするから、これからはきっと北海道でも広がると思う。だから、今は試験栽培の途中だ」そして、先生は栽培のための参考書を持ってきて、そのページを指さした。仮にも農業高校卒業生である。シクラメンの名前は聞いたことがあるし、どんな花なのかも知ってはいた。しかし、苗を見るのは初めてだった三人は、興味津々でその本とサバ缶の苗を見比べた。「先生、温室があればシクラメンは育つのかい?」てっちゃんは勢い込んで聞いた。冬の間温室で育てるなら、出稼ぎに行かなくてもいい。そしてシクラメンの赤い灯のような花を見た時に、一人の女性の顔が浮かんだのだ。高校時代の後輩で、今は青年団活動で時々会うことのある、Tさんの明るい笑顔だった。密かに気になる女性で、もし結婚するならあんな人がいいなと思っていた。彼女も農家で育ち、農家の暮らしはよく知っている。その当時は、農家の長男の結婚は農業を継ぐために必要なことであり、それは祖父母や両親、結婚前の弟妹と一緒に暮らすことだった。だから、農家の家同士の結婚がほとんどで、恋愛というより親同士のつながりや、見合い結婚が殆どだった。青年団活動はそのような状況の中で男女が出会い、自分で伴侶を見つける機会にもなっていた。実際、青年団活動でお互いにひかれあって結婚する先輩たちも何人もいた。てっちゃんたちも当然そのような結婚を望んでいたし、お互いに気になる相手もいたのである。他の二人のことはわからないが、てっちゃんの頭の中でピカッと何かが光った。このシクラメンを育てて、きれいな花が咲いたらTさんに花をプレゼントしよう。そして、「一緒にシクラメンを育ててほしい」と言ってみよう!「先生、俺、やってみたい! このサバ缶二個ほど分けてほしい!」「おまえなあ、これから秋になって冬になるんだぞ。おまえの家では育てられんよ」「でも先生、さっき名前当てたらやるって言ったでないかい?」「言ったけどさ、家に持って帰ろとは言ってないぞ。一緒にここで育てるの手伝うんならという意味だ」「えーっ、それって俺たちにここでタダ働きしろってことかい?!」「まあ、そういうことになる。でもな、一緒に栽培研究して成功したら、タダで勉強できたってことにもなるぞ」てっちゃんの頭の中は、また違う光が走った。そうだ、まだ先生だって試行錯誤の途中なんだ。一緒に勉強できて技術や知識を身につけて、その証しのシクラメンの花をTさんに贈るんだ!
2022年06月27日
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「てっ(哲)ちゃん」は実家の近所の農家の長男だった。実家の両親も祖母も「てっちゃん」と呼んでいたので、このブログでも「てっちゃん」と書くことにする。父は、私が小学校高学年の頃、社教主事第一期生として働き始めた。戦前に師範学校で学び、高等小学校の教師になって一年くらいで招集され、満州→占守島で終戦を迎えて、ソ連で二年間の抑留後に帰国した。戦後の農地解放で実家の農地がほとんどなくなり、生活するために教師を諦めて農業に従事した。その後、社会教育主事制度ができたときに、町の社教主事として仕事をすることになる。その仕事には、青年団や婦人部活動の指導などもあったらしく、父は管内の市町村を走り回っていた。そんなこともあり、近所の顔見知りの農家の息子のてっちゃんは、父のことを「先生」と呼んでいた。父もまた、一度は諦めた教師と近い社会教育活動に情熱を燃やして働いていたと思う。当時の農村青年団のメンバーも、新しい農業を模索しながら夢を持って働いていたはずだ。戦後の農業は、とにかく食べるものを作ることが優先順位第一位だったと思う。しかし、北海道の農業は春先から十月くらいまでで、その後は農地は雪に閉ざされる。現在のようなハウス栽培もまだ一般化されてはおらず、冬期間は農家の男性は出稼ぎで働くことが多かった。私は子どもだったのでどのような出稼ぎ先があったのかわからないが、とにかく冬期間は男性は不在となり、残された嫁が高齢の両親の面倒と子育てに明け暮れることが多かったと思う。そんな頃、てっちゃんは農家の後継ぎとして、地元の定時制農業高校を卒業し、夏場は稲作と畑作に明け暮れ、冬期間は出稼ぎ生活に入った。しかし、結婚を考えるようになった時、てっちゃんは一つの夢を持つようになった。「出稼ぎしないでできる農業をやりたい」このままでは、結婚しても若い妻は冬期間は舅姑だけではなく、高齢の祖母の面倒もみなくてはならない。その上に子どもが生まれたら、子育ての仕事も加わるのだ。そんな生活を繰り返すことを考えたら、「早く嫁をもらえ」と言われても二の足を踏んでしまう。せめて出稼ぎをせずに仕事が出来たら、妻を労わったり一緒に苦労もできる。だが、その方法が見つからないままに日が過ぎてゆく。そんな時、母校の農業高校に温室ができたことを聞いたので、青年団仲間である同級生と見学に行くことになった。そこにはまだ、恩師のA先生が勤務していて、てっちゃんたちを迎えてくれた。小さなガラスづくりの温室では、野菜の苗や花の苗が育てられていた。A先生が言った。「今までの農業は食糧のための農業だったけど、これからはサバ缶で花の苗を育てるんだ」確かにそこには、使用済みの空缶に植えた花の苗が並んでいた。まだ、現在のような花卉栽培用のポットなどがない時代(1960年代)のことである。てっちゃんたちの目は、それに釘付けになった。
2022年06月26日
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三週間ほど前に、市内に住む中学の同級生から久しぶりの電話をもらった。「コロナワクチン打ったかーい?」というのが第一声だったのだが、本当の目的は「クラス会、どうするの?」ということだった。本来なら昨年開催する予定だったのだが、コロナ騒動で無期延期状態になっている。その前にも、昨年から「クラス会の予定は?」と言われる機会があり、どう考えても安心してみんなを集められるのは来年以降になりそうなので、そのつなぎに「紙上クラス会」を試みることにした。つまり、みんなから近況報告&メッセージを集めて、それをまとめたものを郵送するという形だ。前回のクラス会は6年前だったと思うが、その後二人の訃報を知ることになった。また、パーキンソン病に罹患したという人からも電話をもらった。みんな古希を過ぎ、それぞれどうしているか私も気になるので、他の二人の幹事メンバーにも相談して今回の企画になった。発送して数日後に、早速メールで連絡をくれたのは、卒業以来一度もクラス会には参加していない人だった。(近況報告の送付先として、私の自宅の電話・fax番号、パソコンのメルアドを載せていた)ビックリしたのは言うまでもない。中卒で就職した彼は、中学時代に良い思い出がなかったのか、あるいは別の事情があって来たくないのかと想像していたからだ。しかし、メール内容はそんな感じではなく、なんだかちょっと安心した。ひょっとすると、会うのは躊躇するが顔を見ないでの紙上クラス会ならOKなのかもしれない。卒業してから56年。それぞれ色々なことがあったことだろう。既に亡くなっている人も何人もいるし、住所不明も数人いる。卒業以来会っていない人も、彼以外にも何人もいる。それぞれどのような人生を送ってきたのかわからないが、きっと頑張って生きてきたのは間違いがないだろう。頑張って真面目に努力していても、思い通りにならないのがほとんどだろう。それでも、「みんなと会って話したい」と思っている人達が何人もいる。そのような縁をつなげることができた中学時代のこのクラスと担任の先生には、今は心から感謝するばかりだ。今月末を締め切りにしているのだが、どのような近況報告やメッセージが届くのか楽しみである。
2021年07月06日
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中国の北京で開催されたサッカー・アジアカップは、日本が文句なく優勝した。しかし、会場では試合中、中国人サポーターの日本へのブーイングや、終了後に群集が反日騒ぎをするなどして、日本人サポーターは安全のために会場に足止めをされたとか。中国において「反日的教育」がされ始めたことについては、加藤千洋 氏のコラムがとてもわかりやすかった。中国の若者達の反日的言動についてテレビや新聞、あるいはネットを見ながら思い出したことがある。七年ほど前、当時30代半ばの中国人女性が我が家にホームステイしたことがある。彼女は夫の友人の会社で働く中国人青年の妻で、「日本のことについてもっと知りたい」という願いを持っているということで、日本家庭へのホームステイを希望していたのである。その会社は、東京の中小企業だが中国人の社員が多いそうで、会社が用意したアパートでみんな生活しているため、日本にいても中国社会で暮らしているようなもので、日本語もなかなか上達できないということらしかった。彼女が育った頃の中国は、子どもの資質や能力に応じて、自分の意志に関わらず学校などを振り分けられてたようで、能力の高い子どもはエリート教育をされてゆく。彼女も彼女の夫も、中国においてはエリートの部類だそうだが、全て上層部の意向に従って働くことになることも現実である。そんな中で、彼女の夫は「自由に自分の力を試したい」と、あえて日本企業で働くことにしたようだ。一人っ子政策を取っている中国だが、海外に出たならその規制はなくなるらしく、我が家から戻った彼女はほどなく第2子目を妊娠し出産した。(彼女がホームステイしている間、小学二年生の一人息子は中国の実家に預けられていた)。彼女との一ヶ月の暮らしの中で、驚きとともに考えさせられたことがいくつもある。今、一番思い出されるのは、「エリート」だった彼女の底知れぬ頭の良さである。私は、今までに出会った人の中で、あれほど頭の良い人は見たことがない。日本語は日常会話程度の彼女は、毎日毎日新しい言葉を貪欲に覚えてゆくのだが、一度聞いたことはまず忘れないのだ。さらに、あちこちで出会った人を紹介するのだが、それらの人の顔や名前を確実に覚えてゆく。何回聞いても顔と名前を固定できずに苦労する私は、彼女がコンピューターのように何でも覚えてゆくのは、本当に驚きであった。そんな優秀な能力を持つ彼女だが、人柄もまたすばらしかった。何でも興味津々なことは当然だが、全てポジティブにとらえ、物事も総合的に理解したり判断できる力を持っていた。それに、彼女と比べると「バカじゃないの?」と思えるに違いない私に対しても、常に謙虚で礼儀正しく、しかし中国人としてのプライドを持ち、中国の文化を日本人に少しでも伝えたいという気持ちが伝わってきた。その中には、「反日的」な感じは全くなかった。彼女の両親は、かつては「大学教授」だったが、毛沢東の文化大革命時代に農村地方に下放されて、困難な時代をかいくぐったようだ。その時期に乳幼児だった彼女は、腕を怪我した時に適切な治療が受けられず、そのせいで少し腕が曲がっていた。そんな両親の体験も踏まえ、必ずしも母国中国を全面的に肯定しているわけでもなかった。「中国に居る時にはこんなことは言えないけど・・」と、時々本音を語ってくれたこともある。その本音の一つに、「中国の一人っ子政策は、これから大変なことになると思う」と言ったことがある。たった一人しかいない子どもを、何とかエリートへのルートに乗せようと、親族一同躍起になっているケースが多いのだそうだ。さらに、少しずつ豊かになってきたこともあり、「愛する子どもにだけは不自由はさせない」と、「王子様扱い」のような子どもも増えていると。(たしか、そのことを「小皇帝」と言っていたような・・)「生まれたときから大切にされて、何でも自分の思うとおりになるばかりの育ち方をしたら、絶対に良い人間にはならない」と、彼女は中国の将来を心配していた。それを聞いて私も、「それは、日本でも同じと思う」と言ったら、「中国はもっとひどいよ」とも言った。そして、「だから、私は日本で子どもを育てた方が良いかもしれないと思う。でも、日本の学校はあまり勉強はさせないので、それが心配だ」とも。日本では詰め込み教育が批判されていたが、中国の教育を受けてきた彼女は「日本の学校は遊んでいるみたい」と言っていた。今回、反日的行動をしていた若者達は、まさに彼女が憂いていた育ち方をしている青年達であろう。家庭においては自分本位の育ち方をしていて、学校においては反日的愛国教育を叩き込まれ(それを是としなければエリートコースには乗れないだろう)、社会に出てみたら世の中は思い通りにはならない現実があり、ストレスや困難に適切に対処する方法を体得していなければ苛立ちや怒りはつのるばかりということは、容易に想像できる。今、彼女はアジアカップの状態を見て何を思っていることだろう。今でも年賀状や時々の電話のやりとりはしているけれど、どうもこのような話題で話すことは難しいのが正直なところだ。私が、自分は日本に対して色々批判はしても、他国の人から非難されるのは嫌なように、彼女もまた同様だと思うので。
2004年08月08日
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招待券を貰ったため、某ボランティア団体の仲間と二人で、「ハッピー」という映画を観てきた。映画の内容は、主人公(高岡早紀)が父親とスキー旅行に行って事故に遭い中途失明し、やがて恋人も離れてゆき苦悩の中にあったが、“ハッピー”という名の盲導犬と出会うことで自立しはじめ、愛する人と出会って結ばれるまでを描いたドラマである。ドラマの筋立て自体は「よくあるパターン」とも言えるけれど、見ているうちに障害を持つ知人達数人の姿と重なり、やはり涙が流れてしまった。私は動物に対してはさほど思い入れもないので、盲導犬ハッピーの健気さなどには、さほど涙腺はゆるまない。しかし、主人公がハッピーをパートナーとして自立していこうとする時、「誰にも迷惑をかけずに生きられるようになりたい」と必死に頑張り、それでもどうしようもない状態に陥り、やがて夫となる獣医師から、「人の助けを借りることは恥ずかしいことではない」と言われた言葉を思い出し、「誰か、私を○○に連れて行ってくれませんか。私は目が見えないのです。手伝ってください。お願いします」と声を張り上げる姿に、私の涙腺は全開となってしまった。中途で障害を持つことになった人たちはみんな、状況の違いはあってもこのような時を乗り越えなくてはならない。それまでは自由に自分の身体を使って、誰の手も借りずに生活していた人間が、「私は○○ができないのです。手伝ってください。お願いします」と初めて言う瞬間は、どんなに勇気が必要なことだろう。思い出してしまった一人に、Tさんがいる。ずっとずっと昔、車椅子の彼女(事故による下半身麻痺)が自立生活を始めるために、様々な関係機関やボランティアの人たちに頭を下げ続けなくてはならない状況になった。私は彼女の介助をするボランティアとしてその場に立ち会っていたのだが、帰宅して彼女を居間用の車椅子に移動させ、「じゃあ、帰るね。大丈夫?」と聞いた時、「もう少しいてほしい。今、一人になるのは辛いの」と、引きつったような顔をした。それまでのことを思うと、その気持ちも理解できたので、「今日は、大変だったね。でも、よく頑張ったよね」というと突然彼女の顔が歪み、「情けなかったー」というなり、あとは号泣となった。夕暮れの薄暗い部屋の中で、車椅子にもたれるようにして顔を上に向けたまま、「オーオーオー」と彼女は慟哭し続けた。私はただ側にいて、彼女の手を握って黙ってその声を聞くだけだった。彼女の心の痛み、悔しさ、切なさ、苛立ち、全てが全身に突き刺さるようだったけれど、なぜか私の目からは涙は流れなかった。あまりに強い彼女の悲しみの前に、私の心や涙腺は凍りついたようになっていた。一緒に泣いてあげたいと心から思うのに、私は木偶人形のように、ただ手を握り続けるしかなかった。私にはそのような慟哭の体験は無い。それがとても申し訳ないとさえ思った。下手な慰めの言葉などは、自分でも恥ずかしくて言えなかった。しばらくして、ひとしきり泣いて落ち着いてきた彼女は、「ごめんね。もう大丈夫だから。ありがとう」と涙でぐしゃぐしゃの顔で私に言った。その顔をみて、私はあわててティッシュペーパーを彼女の手に握らせた。「本当に大丈夫? お家の人が帰るまでいようか?」と聞いたら、「大丈夫。もう少しで帰ってくると思うし、それにこれからは一人で暮らさなくてはならないんだから。ごめんね、迷惑かけちゃった。約束の時間よりも、遅くなっちゃったね」というので、私はそれで帰宅した。その後、彼女は一人で自立生活をしている。いつも明るい彼女も、きっと時にはあの夕方のように、どうにも耐え切れず号泣することがあるのではないかと思う。映画を見て私の目から溢れた涙は、あの時凍り付いてそのままになっていた涙が融け出したのだろうと思う。もう一人、思い出した人がいるのだが、彼のことについてはまたの機会にしよう。
2004年06月27日
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近くの小学校で運動会が開催されているので、覗いてきた。曇り空だけど時々薄日も射し、運動会には絶好の天気かもしれない。行った時は、ちょうど「徒競走」をやっていた。走る能力の差をまざまざと見せ付けられるのが「徒競走」。小学生の頃の私は、いつもビリだった。運動会が近づくと、病気になりたいと真剣に祈ったものだ。先頭の子がゴールをする頃に、私は真ん中あたりをドタドタとつんのめりそうになって走っていた。「せめてビリから二番目になりたい」と思ったものだが、その願いがかなうことは稀だったような気がする。きっと当時の私と同じような切ない気持ちで走っている子供たちも、何人もいることだろう。私はその子達に心の中で呼びかける。「走るのが遅くて辛いのは、学校時代だけ。 卒業してから足が遅くて本当に困ることなんてないからね」ゲーム的な競技や集団演技などでは、子ども達はみんな楽しそうに歓声をあげている。どの子の顔も屈託がなく、悩みなどないように見える。しかし子ども達の中には、家庭や学校や友達関係のことなどで、ひそかに胸を痛めている子も多いことだろう。ストレスの発散が上手に出来ない子どももいるだろう。ビデオカメラを抱えて応援している親達の中には、子どものサインに気付かない人もいるかもしれない。私自身、子どもをどのくらい理解していたかと問われたら、とても自信がない。子育て中は、仕事に家事に子育てにと、私自身がギリギリ精一杯だった。自分自身の悩みや苦しみに押しつぶされそうになって、子どもにそのストレスをぶつけていたこともあったと思う。でも、何とか息子達はこんな母親と付き合ってきてくれた。彼らなりの危機も何度もあったと思うが、周囲の人たちにも支えられて、乗り越えてきたのではないかと思う。人間は、弱そうで結構強いものだと思う。どんなことがあっても、生きてさえいれば何とかなることがほとんどだ。だから何があっても、命を奪うことだけはしないでほしい。自分の命も、他人の命もである。
2004年06月05日
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長崎県の小学生の事件については、心の中に色々なことが渦巻くのだけれど、直接この事件について書く気になれない。しかし、この事件で自分の中学生の頃からの友人について思い出しているので、それについて書こうと思う。Mとは、中学一年生からの付き合いである。当時の私は、おとなしくて自己主張はできないけれど、その分人に逆らうことが出来ず、言われたことを一所懸命こなしている、いわゆる「良い子」だった。成績もまあまあだったせいか、私は自分の意志に関わらず、小学生の頃から何かの委員を押し付けられるようになっていた。ただし、先にも書いたように自己主張するリーダータイプではなかったので、「副委員」とか「書記」のような係がほとんどだった。Mとは、中学一年生のときにクラスは違ったのだが「○○委員会」で出会った。彼女は自己主張ができる「姉御タイプ」で、そこそこ美人で成績も良く、私とは正反対の女の子だった。正義感も強く、納得できなければ男子にも遠慮なく食ってかかるところがあり、私はそんな彼女に多少憧れてもいた。(ケンカをしながらも、結構男子には人気があったと思う)中学二年の時のクラス編成で、私と彼女は同じクラスになった。彼女もまた、自分とは正反対の「おとなしく女性的(に見える)」私に興味を抱いていたようで、同級生になってからは私に積極的に話しかけるようになった。その頃気付いたのだが、彼女はそれまで私が想像していたような人望のあるリーダーだったわけではなく、そのハッキリしすぎる性格の為か、彼女を嫌っている人もいるようだった。私自身は、「自分には親友がいない」と悩み始めた頃で、彼女が親しくしてくれることは嬉しくもあった。つまり、心のどこかに「孤独感」を抱えた者同士が友達の形をとり始めたということだ。当時の私の「親友」の定義は、「自分の悩みも話し合える友」だったと思うが、私はみんなに嫌われているとまでは思わなかったけれど、好かれているとの確証も感じられず、ましてや「悩みを話せる友」は一人もいなかった。Mが、「あなたは私の親友だよ」と言ってくれても、私は曖昧に頷くのが精一杯で、彼女に対する戸惑いを口にすることもできなかった。しかし、いつの間にか私とMは「仲良し」と思われるようになり、正直なところ「困ったな」とも思うようになった。というのは、それまで親しく声をかけてくれていたクラスメートも、Mと一緒の私に少し距離を置くようになっていたからだ。それでも、彼女がクラスのリーダーであることには間違いがなく、「○○委員」としての彼女はとても生き生きとしていた。私はそんな彼女の補助的役割をまじめにやっていたつもりだが、自己主張のない優柔不断な私が、彼女のイライラの種になることも多かった。(私は自己主張はできなかったが、何も感じていなかったわけではない)ある日、彼女はやはり私の態度にイライラしたらしく、結構きつい言葉を私に言い、自分の味方であることを確認するように言った。「あんたは私の友達でしょ?」私は私なりに、彼女の言動にそれまで随分我慢していたので、とうとう堪忍袋の緒が切れた。「私は、あなただけの友達じゃない」私の言葉は、想像以上に彼女の心を傷つけたようだ。(当時の私は、「傷つけた」とは思わなかったが)そして、返す刀のような言葉を私に投げつけた。「何言ってるの。あんたと友達なのは、私くらいなものだよ。 自分がみんなに嫌われていることわかってないでしょ」その言葉は、私を谷底に突き落とし、そこから這い上がるためにそれからの日々は地獄となったのだ。(これは単なる売り言葉に買い言葉の範疇で、彼女が特別に意地悪な人では絶対にない)「私はみんなに嫌われている」不思議なことに、彼女のその言葉を私は丸ごと信じて受け止めてしまったのだ。自分に「親友」と言える友がいないこと、何となく浮いている感じがしていたこと、・・全てが嫌われていたせいだと思えた。それからの私は、Mを恐れ嫌いながらも、彼女の「友達だよ」という言葉にしがみつかざるを得なかったのだ。当時の私の心境を笑う人もいるだろう。誰かにちょっと聞いてみたら解決したのにと、私だって思う。でも、私にはそれができなかった。そして、闇の中を毎日もがき続けていた。それからの中学生活が、どんなに辛い日々だったか・・。だから私は、不登校になる子どもの気持ちが少しはわかる。ひきこもる人の気持ちも、場合によっては理解できるのだ。私は、表面上は彼女と友達のまま中学を卒業した。皮肉なことに同じ高校に進学したが、彼女は途中で転校して本州に引っ越した。その頃には、私も多少立ち直って冷静に彼女や自分も見られるようになり、彼女の転校で縁が切れると(Mには申し訳ないが)内心では喜んだ。しかし結局、彼女との縁は切れなかったのだ。つまり、私とは多少種類は違うが、「孤独を抱えたM」が気になって仕方がない部分もあったのだ。細々とした文通で私達は繋がり続け、色々なことがあったけれど、結局今でも付き合い続けている。私はいまだに、中学時代に彼女の言葉でどれほど傷つき、どれほど悩んだことかを話してはいない。それは、きっと私の言葉や存在が、彼女を傷つけていたであろうと想像できるからだ。大切なことは、そのような時間を共に歩み、時には憎悪で身が震えるようなことがあっても、そのことによって自分を見詰め、自分の成長の道しるべになってくれたことだと思うのだ。(彼女までとは言わないが、自己主張ができるようになりたいと痛切に願って努力した結果が今の私である)40代の頃に会った時、彼女は言った。「あの頃(中学時代)は、あんたが羨ましくてしょうがなかった」素直な彼女の言葉を初めて聞いたような気がした。しかし当時の私は、彼女のそんな気持ちなど露ほどもわからなかった。そして今でも、彼女が「羨ましい」ということが、私にはピンと来ないままだ。妬みながらも「あんたは私の友達だからね」と念を押さずにいられなかったMが、今の私は本当にいじらしいと思う。そして私も、本当にいじらしい中学生だった。今でも、同級生の中には私達がずっと付き合い続けていることを不思議だという人がいる。でも私は心から、「彼女がいたから私も成長できた」と思うし、心の底の全部を打ち明けあう関係ではなくても、「かけがえのない友達」と言い切ることが出来る。
2004年06月04日
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「北の国から」は、主人公の純君と蛍ちゃんが息子達と同世代であり、最初の時からズーッと見続けたドラマである。二人の息子にとっても、主人公は幼馴染のようなものであり、他のドラマとは違う思い入れがあるようだ。私にとっても、何度もみているのに無視できないというドラマである。無視できないもう一つの要因は、私の幼い頃の体験と重なることが多いからでもある。今日はその一つ、「吹雪体験」について書こうと思う。断っておくが、北海道の冬は吹雪と晴天ばかりではない。当然ではあるが、曇天も霙も小春日和もありますよ。さて、私の小中学生時代は、今よりも雪も多く寒かったような気がする。住宅事情が今より悪かったせいなのかもしれない。暖かいのは石炭ストーブをガンガン焚いている居間だけで、私の寝ていた部屋の寒さは、戸外と大差なかったのではないだろうか。朝、目を覚ました時に、布団のヘリに息で白い霜のようなものがついていることも、稀ではなかったような・・。小学校・中学校は家から4㌔の道のりで、当然冬は徒歩である。今のように除雪された道ではなく、馬橇の跡や人の足跡が道の痕跡であり、小学校低学年の頃は、上級生の大きな歩幅の足跡を必死にたどって歩いたものだ。吹きっさらしの道だったので、少し吹雪になるとその道の痕跡もあっという間に見えなくなってしまう。悪いことに道路の脇には用水があるので、道が見えなくなったらその用水に落ちないようにと、道なき道を歩くことになる。踏み固められていない雪原は、一歩ごとにズボッズボッと腰までぬかってしまい、家までたどり着くのは本当に重労働であった。学校から帰るには、「道なき道」になってしまう農道が近いのだが、自動車も通る広い道を歩くという選択肢もあった。しかし、広い道は安全ではあるけれど、何しろ遠くなってしまう。子どもは安全よりも近い方を選ぶので、学校をでる時に晴れていたら農道を選ぶ。しかし、冬の天候は変わりやすく、下校途中で吹雪になってしまうことも稀ではなかった。悲惨なのは、そのような時であった。吹雪になると方向感覚を失ってしまう。その上に、用水を避けて道なき道に踏み込んでいる。さらに私は、一緒に帰る同世代の友達が近所にいなかったから、いつも一人で吹雪と格闘することになった。雪の中でもがいているうちに、いつの間にか手袋が脱げてしまったことがある。手がかじかんでいるから、手袋が脱げてしまったことにも気付かなかったのだ。手袋無しで厳寒の中をもがくのが自殺行為であることは、幼いながらわかっていた。ただでさえ「しもやけ」で腫上がる手が、手袋無しではどのようになるのか、考えるのも恐ろしい。私は必死で手袋を探し回り、それを見つけたときには「助かった!」と思ったものだった。しかし、もがけばもがくほど、自分の位置感覚も失う。そのような吹雪の中で、私は何度か、「もう、これで死んじゃうのかもしれない」と思った時がある。疲れ果てて、もう動きたくないと思うときがあるのだ。寒い・冷たいという感覚もなくなると、吹雪の中で座り込んだり大の字になったりしていると、妙に平安を感じるのだ。このまま凍って死んでも、苦しくないなーと思うのだ。しかし同時に、「死んでいる私を見つけて、お父さんやお母さんはどう思うかな」とも思う。すると、「やっぱり、このままじゃいけない」と思いなおし、また立ち上がるのだった。経験を積むうちに、吹雪の最中にも必ず一瞬の静寂の時があることを知る。その瞬間に、周囲の風景が確認できて自分の位置がわかり、進むべき方向が見えるのだ。最大の危機を感じたのは、中学生の時だった。その日は生徒会活動で遅くなり、あたりは真っ暗だった。吹雪の上に真っ暗となると、いよいよ位置がわからなくなる。自分の感覚では、もう我家に近づいているはずなのに、どうしても位置がわからない。我家への出入り口を見逃して先に行ってしまうと、そこには用水どころではない本当の川がある。そこに過って足を滑らせてしまったら、それこそ一巻の終わりである。私は、それ以上進むべきかどうか、本当に悩んでいた。危険を犯すよりは、このままジッとしていたほうが良い。同時に、私の体力も限界に近づいていたので、心のどこかに「もう、どうなってもいい」という気持ちが芽生え始めていた。その時である。突然私の目の前に、懐中電灯の明りが突きつけられた。私の帰宅が遅いのを心配した父が、迎えに出てきてくれたのだ。それは、本当に我家の入り口だったのに、吹き溜まりになっていて私には見つけることができなかったのだ。父は、少し前からそこにいたようなのだが、激しい吹雪はその明りを遮っていたのだった。私は何度かの吹雪体験の中で、生きることに通じるものを体得してきたようにも思う。今は北国に住んでいても、私のような体験をする子どもは少ないだろう。それが良いことばかりではないのだけれど、時代は逆行することはない。【補記】下校時にすでに吹雪いている時は、集団下校になった。当時の農家には必ず馬がいたので、都合のつく父親達は馬橇で子供達を学校まで迎えに来てくれた。私達は、それらの馬橇に乗り合わせてぬくぬくと帰ることができたので、吹雪きそうな日には学校の窓から「もっと吹雪け!」と願ったものだ。
2003年12月17日
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子育て関連のサイトを見ていて、ふと思い出したことがある。「親心・・」のテーマに合っているかどうかわからないけど、今日は25年も前のその思い出を書きたいと思う。長男が小学校一年生の冬のことであった。その小学校では、冬になると校庭にスケートリンクが学校とPTAの共同作業で作られて、冬季間の体育の時間は(スピード)スケートだった。スケートをしたことのある人はご存知だと思うが、スケート靴は紐で編み上げ状に結ばなくてはならない。その紐がゆるいと靴が足にキチンと固定されず、グラグラして危険なのだ。小学一年生の子どもには、スケートの紐をしっかりと結ぶのは、とても難しくて大変な作業だ。大人でも、厳寒の中で素手でその作業をすると、すぐに手がかじかんで上手に結べない事だってあるのだから・・。ということで、私は長男にスケートの紐結びを一所懸命に教えた。まずは自宅でその練習を始めたが、なかなか上手に結べない状態のままに、スケートの授業が近づいてきた。このままでは、長男はキチンと紐を結べず、危険なばかりか先生や他の子供達の迷惑にもなると私は焦った。それは我息子だけではなく、他の子供達も同じであったようで、最初のスケート授業の時に私は職場を抜け出して学校に行ってビックリした。そこには、私同様に、子どものスケートの紐を結ぶために、子どもとほぼ同数にさえ見える母親達が集まっていたのだ。しかし、私は当時仕事をしていたので、毎回スケート授業のたびに学校に行くことは困難だった。私はさらに必死になって、紐結びの特訓をした。こちらに焦りの気持ちがあるから、どうしても声は高くなり、ついつい手も出てしまう。そんな私の強引さに、長男もふてくされてしまうという悪循環が始まっていた。まずいなーと思いながらも、これを何とかしなくては私は安心して仕事もできない。そんな気持ちで、日曜日に学校のスケートリンクに一緒に練習に行った。紐結びも下手だけど、スケートだって立てば転ぶの繰り返しの状態だから、両方を練習させようと思ったのだ。息子はベンチに腰掛けて、スケートを履き始めた。おぼつかない手付きで、紐結びを始めたとき、私はまた「そうじゃないでしょ・・」と声を出そうとした瞬間・・。「おかあさん、ちゃんとできるかどうか見ててね。言葉で教えてくれてもいいけど、手は出さないでね」長男は紐と格闘して下を向いたまま、きっぱりと私の口を封じたのだ。ガーン、という感じだった。息子は、親ばかになっている私に、自分の言葉で母親のあるべき姿を教えてくれたのだった。私に言えることは、「わかった。見ているからね」しかないではないか。そして思った。どちらにせよ、まだスピードなど出せる状態ではないのだから、少しぐらい紐がゆるくて靴がグラついても、ひどい怪我にはならないだろう。しっかり結んだ方が楽にすべることができることは、息子自身が体得していくはずだ。まがりなりにも結んではいるのだから、あとは少しずつ上達したらいいのだ。私は何をそんなに焦っていたのだろう・・と。それから、「手を出さないで、見ててね」という言葉は、私の子育ての座右の銘になった。親はともすれば、先々の心配のあまりに余計な口を出すことが多い。今、その瞬間に危険だったり取り返しのつかない間違いをしている時には、迷わずに口も手も出すべきだと思うけれど、私の経験ではそのような場合は一般に親が思っているよりは少ない。子ども自身の未来は、子ども自身が切り開くしかない。親の体験だって、本当に狭い体験であることが多い。子どものことに必要以上に心配して手出し口出しする時間があったら、自分の現在をより充実させた方が良い。毎日を元気に希望を持って生きている親の姿を見せた方が、よっぽど子どもへのエールになると私は思っている。ということで、私は今も、自分がやりたいことをやることにほとんどの時間を割いている。あの時の長男の言葉が、今でも息子達との関係を考える時に生きている。
2003年12月16日
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