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ラストにBack numberを追加しました。さて、ちょっと予定も変わったので今回写真は教会の外観を紹介。内部は次回にしました。当然全体が当時の姿で残っているわけではありませんが、建設当時、13世紀のゴシック建築の姿はそこなわれていません。ゴシックの教会とは? が今回テーマですサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2)サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)ブルゴス(Burgos)サンタ・マリア大聖堂(ブルゴス大聖堂)ロマネスク建築からゴシック建築へフランボワイアン様式ガリシア(現在のスペイン西部とポルトガル北部)の名は古代ローマの属州ガラエキアから来ているそうです。ガリシアは入江の入り組む海岸線をもつ地形で、実はリアス式海岸の語源となったのがこの地域で、入り江(リア)の複数形がガリシア語で「リアス」なのだそうです。もとはケルト系の民族の土地だったガリシアには、ローマ時代末期に様々なルートを辿ってキリスト教が伝来。レコンキスタの本拠としてカトリックはより根付いたようです。9世紀に聖ヤコブの遺骸が見つかり10世紀にはサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼が始まっていますが、巡礼は12世紀頃に最盛期を迎えています。ブルゴス大聖堂の建築はそんな情勢の中で再建されたようです。たぶんマヨール広場サンタ・マリア大聖堂(ブルゴス大聖堂)の建築11世紀、アルフォンソ6世の時代に、城塞のある丘の麓にロマネスク様式の教会が建築されていたようですが、13世紀(1221年)には今のゴシックの大聖堂建築が開始されています。聖母被昇天の奇跡に捧げられたこの大聖堂はマウリシオ司教と時のカステーリャとレオンを納めていた王、フェルナンド3世により計画されています。ラテン十字の教会は1230年には聖堂は完成してミサが執り行われたようですが、周りの礼拝所は13~18世紀に14の礼拝所が造られ、14世紀には回廊の上に新たな礼拝所が4つ建設されるなど、最終的に500年近くかけて今の大聖堂の形になったそうです。長い年月なので様式は様々ですが、中心となるのはゴシック様式です。今の時代のように情報伝達が速くないので、こうした建築もジワジワと欧州に広まっていますし、建築年月かかかるので地域により伝播には差があったわけです。この聖堂は、フランスのゴシック様式で、アミアン、ブルージュ、クータンス、シャルトル、パリ、ランスが手本となっているそうでフランボワイヤン様式が見どころです。南西のサンタ・マリア門の塔とファサードピナクル(小尖塔)はファン・デ・コロニアル作の透かし彫りの付いた八角形で、13世紀の建築当時の姿ですが、これは修復されたものです。バラ窓の中心は「ソロモンの印」と言われる六芒星が現されています。諸王の廊二つの炎状のアーチには8体の彫像がおかれ諸王の廊と呼ばれています。どの門にもこうした装飾のアーチと彫像が置かれています。ロマネスク建築からゴシック建築へロマネスク建築からゴシックへの転換期は11世紀末期から12世紀初頭です。発端はフランスのサン・ドニ修道院長で、建築にも造形の深かった院長のアイデアで修道院付属聖堂の改築に革新的な技術が用いられた事に始まったそうです。あまりに革新的な技術だったので小さな教会から徐々に、北フランスの国王領から各地に伝わったようです。つまり、ゴシック建築はフランスを発祥とする建築様式なのです。そしてその伝播に役立ったのはベネディクト会、シトー会、そして13世紀以降はドミニコ会、フランシスコ会など各修道会だったそうです。特徴は尖ったアーチ(尖頭アーチ)、フライング・バットレス、リブ・ヴォールトなどの工学的要素で、特に聖堂の壁にフライング・バットレスが使われていれば一目でわかるところです。聖堂の壁を支えるフライング・バットレス(flying buttress)・・・赤のラインで指示聖堂裏手の北側から撮影フライング・バットレス(flying buttress)ロマネスク時代には側廊屋根裏に隠 されていたアーチを外張りにする事により外に膨らむ圧力を押さえて聖堂の高さをより高くする事が可能になったそうです。同時に身廊上部を塞ぐ事なく窓をもうけられ、教会内部に明かりがとれるようになった画期的な工法です。身廊の聖所フランボワイアン・ゴシックフランボワイアン様式(火焔式)Flamboyantフランス語で「火が燃えているような」の意。フランス後期ゴシックに分類されるようですが、石堀の中枠、窓や塔の装飾文様が炎が燃えるようなメラメラとした形を表現して装飾されたものです。様式と言っても建築の構造的な部分には関係無く、あくまで全体の装飾意匠です。サン・フェルナンド広場から右は南東の翼、サルメンタル門の上部サルメンタル門扉の上部のティンパヌム(tympanum)・・アーチによって区画された装飾的な壁面は1240年以前の彫刻。キリストの説教の場面が掘られ、四福音書記者が記録し、使徒が布教し、司教が説法している事を示した門のようです。この大聖堂で最も美しい門です。コロネリア門南東の翼、サルメンタル門の対角にあるのが北西の翼、コロネリア門です。使徒の門、あるいは上門と呼ばれ建設は1250年。この門は最後の審判を表現した門です。コロネリア門のティンパヌム(tympanum)西側には珍しいビザンチンスタイルで使われるモチーフです。(13世紀)中央が審判キリスト、左に慈悲を請う聖母と右にキリストを洗礼した聖ヨハネが人間のために嘆願している姿です。これは正教会のイコンに見られるデイシス(Deisis)のデザインです。次回こそ内部ですリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)Back numberリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 3 (ブルゴス 1) サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)リンク ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シドリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 7 (レオン)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 9 (オ・セブレイロ峠)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 11 (栄光の門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 12 (聖域、ヤコブ像)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)
2011年05月30日
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ラストにBack numberを追加しました。私の大好きな理研のワカメスープが無くなっていることに気が付きました。「どこにも売っていない。 なぜ? 」と思って気が付いた。「そうだあれは三陸ワカメだったのだ」調べて見ると3月の津波の被害をもろに受けていたそうです。本社工場(宮城県多賀城市)仙台新港工場(仙台市)大船渡工場(岩手県大船渡市)浸水して機械も使えなくなってしまったとか幸い人的被害はなかったそうですが、3月はワカメの収穫の時期でもあったので、品薄どころか今年の国内産は難しいようです。困ったねサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 3 (ブルゴス 1)サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)巡礼の案内書ブルゴス(Burgos)北スペインの巡礼の要所であるブルゴスは、中世のレオン王国とカスティーリャ王国の中心地だった土地で、街の中心のブルゴス大聖堂は1984年にユネスコの世界文化遺産にも登録された由緒ある美しい巡礼教会の一つです。サンタ・マリア大聖堂(ブルゴス大聖堂)・・南西側から撮影。でもその前に、ポピュラーな巡礼経路を紹介しておきます。もちろんサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう路は無数にあるわけですが、どの方面からスペインに入るか・・と言う事がコースを決めるポイントになります。なぜなら昔から巡礼の手引き書があり、信者はそれにそって旅をしたからです。巡礼者の通りである事を示す道路標識。場所により絵柄は異なるみたいです。手引き書・・・巡礼の案内書「聖ヤコブの書」の中には「巡礼の案内書」なるものが書かれていたようです。欧州各地からスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう順路などを記した旅の手引きで、巡礼者はそれを手がかりに巡礼の旅に出たのだそうです。残念ながら写真はありません。もらっていないので・・。フランスからピレネー山脈を越えるルートは4つ。A. トゥールーズの道B. ルピュイの道C. リモージュの道D. トゥールの道E. オスタバ(Ostabat)F. プエンテ・ラ・レイナ(Puente la Reina)G. サンティアゴ・デ・コンポステーラ上の図がポピュラーなフランスの路、スペインの路です。しかし、巡礼路は現在の道路地図で見ると必ずしもこのように直線で通っているわけではありません。まして幹線道路ではないのです。ポイントの街も、現代の地図の中で見つけるのが結構大変でした。フランスの路A. トゥールーズの道アルル(Arles)- サン・ジル(Saint-Guilhen)- トゥールズ(Toulouse)- オロロン(Oloron)- ハカ(Jaca)- プエンテ・ラ・レイ(Puente la Reina)B. ルピュイの道ルピュイ(Le Puy)- コンク(Conques)- モアサック(Moissac)-オスタバ(Ostabat)C. リモージュの道ヴェズレー(Vezelay)- リムージュ(Limoges)-ペリグー(Perigueux)- オスタバ(Ostabat)D. トゥールの道パリ(Paris)- オルレアン(Orleans)-トゥールズ(Tours)-ポワティエ(Poitiers)- サント(Saintes)- ボルドー(Bordeaux)- オスタバ(Ostabat)スペインの路ピレネーを越えてスペインに入ってからはパンプロナやエルシドの墓のあるブルゴス、かつてのレオン王国の首都レオンなど北スペインを抜けてサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かうのが一般的のようです。しかしスペインに入ってからもその道程は800kmからあります。レオンからは300km。あるいは100km手前、ポルトマリンの聖ニコラウス教会あたりから出発する人も多いようです。なぜなら前に紹介したように巡礼の証明書をもらう最低条件。徒歩で100km以上、自転車で200km以上を満たす為です。尚、スペインと南フランスには、完全な巡礼宿や巡礼者向けのユースホステルのような宿も点在していて、先に紹介していた巡礼者手帳があれば宿泊させてもらえるようです。もちろん有料。ブルゴス(Burgos)951年から500年間カステーリャ王国の首都として栄えた街です。また、レコンキスタでは戦いの拠点となり、君主(エル・シッド)と呼ばれた英雄のロドリーゴ・ディアスの生まれ故郷でもあります。街の創設は884年。レコンキスタでは中心であったにもかかわらずグラナダ陥落の1492年に首都が移されると政治的にはどんどん忘れ去られた街となっていったそうです。とは言え、街のブルゴス大聖堂はスペインの三大カテドラルの一つであり、英雄のロドリーゴ・ディアスの墓所もありサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼においては大きな中継点となる街なのです。ブルゴスの旧市街はアルランソン川の北側に位置しています。旧市街のサンタ・マリア門と新市街地をつなぐ橋がサンタ・マリア橋です。写真はサンタ・マリア橋からの撮影でサンタ・マリア門、その向こうにブルゴス大聖堂の尖塔。9世紀末、アストゥリアス王国の城塞都市として始まったブルゴスはレコンキスタの初期軍事拠点となった地です。(アストゥリアス王国は後のレオン王国です。)そもそも時はイベリア半島がイスラーム勢力(ウマイヤ朝)に征服され、西ゴート王国(415年~711年)が滅亡した後です。その滅亡した西ゴート王国の貴族だったペラーヨ( ~734年)がアストゥリアス人と共にアストゥリアス王国を建国。イスラム勢力との戦いが始まるのです。国土(イベリア半島)の奪還の為の戦争をレコンキスタと呼びます。レコンキスタ(Reconquista)はスペイン語で「再征服」の意です。スペインを理解する上でレコンキスタは重要です。以前あちこちで紹介していますのでそちらを見てねスペイン・セビーリャ 2 (街の歴史・イスラム編) スペイン・セビーリャ 4 (守護聖人とフェルナンド3世) ・・2010年3月スペイン・ロンダ 3 (要塞の街・西ゴート王国・レコンキスタ)・・2010年2月左のこのブログの中検索・・で、「レコンキスタ」と入れると他にも出ます。サンタ・マリア門11世紀に城塞が築かれた時に造られた8つの門のうちの1つ。1536年に皇帝カルロス5世の為に凱旋門に作り替えられたそうです。一番上に聖母マリア、次に天使。そして下の6人衆の上段中がカルロス6世。その右が英雄エル・シド。英雄エル・シドについては別の機会に。サンタ・マリア大聖堂(ブルゴス大聖堂)・・南東面レイ・サン・フェルデナント広場からサンタ・マリア大聖堂(ブルゴス大聖堂)東側東側はレイ・サン・フェルナンド広場。ブルゴス大聖堂の建築は1221年に開始され1765年まで続いたそうです。美しいゴシック建築の際立つ教会に見えますが、実際は歴史の長さが語るようにいろいろな様式が混在しているのです。正確には南東にあたる翼廊と交差部の天井の尖塔。写真左の階段を上がるとカテドラルの正面に・・。サンタ・マリア門通常信者が入る入り口。サンタ・マリア広場から広場の泉近年では1936年~1939年のスペイン内戦において、ガリシア地方出身のフランコ側の拠点でもあったそうです。次回ブルゴス大聖堂内部、予定リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2)Back numberリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街) サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 3 (ブルゴス 1)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)リンク ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シドリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 7 (レオン)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 9 (オ・セブレイロ峠)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 11 (栄光の門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 12 (聖域、ヤコブ像)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)
2011年05月16日
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ラストにBack numberを追加しました。サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街)サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)サンテリャーナ・デル・マル(Santillana del Mar)聖ヤコブ伝説伝説は作為的?聖ヤコブ伝説前回も少しふれていますが・・。聖ヤコブは、父ゼベダイ、弟ヨハネと共にガリラヤ湖畔で網の手入れをしていたところをイエスに諭されヨハネと共に出家した初期の弟子の一人です。エルサレムの教会でヘロデ・アグリッパ1世に捕らえられ剣により殉教した・・と言うのは新約聖書、使徒12にも記されています。(AD43年頃と推定)しかしヤコブの布教活動については聖書の中ではほとんど記されていないようです。ヤコブ書? なるものがあり、それによれば「ガリシアに赴きスペインでの宣教活動をしていた。」とされ、その後エルサレムに戻ってすぐに捕らえられて殉教したとされています。さらに話が続き弟子たちによりその遺骸は小舟に乗せられ、再びガリシアに運ばれて埋葬された・・と言うものです。しかしこれはほぼ伝説の話のようなのです。スペインでの宣教活動はともかく、そもそも聖ヤコブの遺骸がスペインに運ばれた事自体が実は無理のある話なのですが、奇跡? にも伝説のヤコブの墓所はスペインで発見され? サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼はそこに教会が建てられた事によって始まったわけです。伝説は作為的?実はこの伝説はシャルルマーニュ大帝のスペイン遠征の時期に符号して始まっている? らしいのです。しかもその遺骸を発見したのがなぜかアストリアス王アルフォンソ2世(798年~842年)。銀河の指し示すところ、カンポ・エステラ(星の輝く野)に聖者の遺骸がある。とのお告げのうえに発見したとか・・。時はイベリア半島がイスラム勢力からの侵略を受けていたレコンキスタの最中の9世紀です。このタイムリーな発見は「聖地サンティアゴ含む全イベリア半島の奪還を奮起させる事になりレコンキスタの重要な核となった。」・・と言うのですから、出来すぎな話に作為を感じざる終えない・・と言うわけです。今回は中世の街並の残るサンテリャーナ・デル・マルの写真を紹介します。サンテリャーナ・デル・マル(Santillana del Mar)巡礼のルートについては次回に改めて紹介しますが、今回一般にはポピュラーではありませんが、スペインの大西洋側ビスケー湾沿いの巡礼コースの中のサンテリャーナ・デル・マルの街と修道院を紹介します。聖フリアナ修道院は中世、カンタブリアで最も重要な巡礼場所の一つであったようです。まるでタイムスリップしたかのように中世の香りのする街。街の起源は9世紀。トルコで殉教した聖フリアナの聖遺物を修道士がこの地の修道院に持ち込んだ事により、その教会の周りに集落が形成し始めた・・と言うのが発祥といわれています。その後13世紀にはアルフォンソ8世の直轄領となり貴族の邸宅がたくさん建てられたようです。現在も残る石造りの街並のほとんどは15~17世紀に建てられたものだそうです。街全体がナショナルモニュメント(National Monument)に指定されていると言う。貴族の家の印に壁面には凝った紋章が・・。気分は中世の巡礼者ほとんど変っていないのではないか? と言う石畳と石を積み上げた家。中世に建てられたままの建物の中で今も商売しているところが感激です。参事会教会と聖フリアナの聖遺物が祀られていると言う聖フリアナ修道院実際の所、修道院の起源は不明。12世紀~13世紀に建てられたロマネスク様式の教会。入り口は18世紀に再建されたものさまざまな意匠が掘られた回廊の柱。祭壇には聖フリアナの聖遺物が?サンタンデルから西に30km。近くにはアルタミラ洞窟があります。サンティアゴ・デ・コンポステーラ つづくリンク リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)Back numberリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼) サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 3 (ブルゴス 1)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)リンク ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シドリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 7 (レオン)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 9 (オ・セブレイロ峠)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 11 (栄光の門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 12 (聖域、ヤコブ像)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)
2011年05月11日
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ラストにBack numberを追加しました。今回は思いっきり宗教の話題ですよ当初の予定ではフランスからの巡礼路からの壮大な計画で紹介したかったのですが、要所要所の写真もないので簡単にはしょって紹介する事にしました。何しろなかなか行けない場所なので追加の写真が望めないからです。完璧にやるには自分の足でまわらないと駄目なのですが、無理だからねサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)スペイン、ガリシア州ア・コルーニャ県サンティアゴ・デ・コンポステーラスペイン北西端に近いサンティアゴ・デ・コンポステーラの事を日本人で知る人は少ないかもしれません。そこは交通の便も極めて悪い辺境の田舎の街の教会でありながら、実は全世界のカトリックの信者にとってはエルサレム、バチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地の一つとして一度は訪れたい有名な場所なのです。ただこの巡礼ポイントは巡礼地の教会に行く事だけではなく、中世より続けられている巡礼の通り、巡礼路の行程に点在する各地の教会をも巡りながら巡礼者は最終的にサンティアゴ・デ・コンポステーラをめざす。・・と言う行程も含めて成し遂げる事にこそ実は意義があり、それらすべてをひっくるめて{サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」と呼ばれています。それは四国のお遍路札所巡りと少し似ているかもしれません。巡礼グッズがあり、札所めぐりのように手帳を持って要所要所でスタンプを押してまわるのも似ている気がします。ただ違うのは規模が違うと言う事です。欧州全土からそこを目指す信者がいる事です。そしてその巡礼路一部は「フランス国内の道」と「スペイン国内の道」と、それぞれユネスコの世界遺産にも登録されています。スペイン、アストルガのオスピタル・デ・オルビゴ橋から別の機会に紹介しますが巡礼路の一つです。スペイン語では、El Camino de Santiago(サンティアゴの道)El Camino ・・その道de Santiago・・聖ヤコブをさすスペインで使われる男性名フランス語では le chemin de Saint Jacques(サン・ジャックの道)フランスではヤコブの事をサン・ジャックと言います。巡礼の拠点となる路のポイントには必ずある標識? 形は場所で多少違うけど基本ホタテ貝です。ホタテ貝はヤコブのシンボルでサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼を現すマークなのです。これはブリュツセルで見つけたものかも・・。巡礼のポイントの記です。今も巡礼路のあちこちで売られている巡礼者の必需品。フランス語ではホタテ貝をcoquille Saint-Jacques(コキーユ・サンジャック)「聖ヤコブの貝」と呼ぶ。サンティアゴ・デ・コンポステーラに行く・・と言ったらレストランでホタテ貝の殻をくれるけど、こんなにきれいな貝ではないので恥ずかしい峠のお土産屋さんの前にあるヤコブの像昔は巡礼者の宿泊所にもなった峠の教会霧の多いこの教会のある峠では巡礼者の死亡事故が多発していたと言います。その為にこの教会の神父様は霧の濃い時に教会の鐘をならし続けて巡礼者を助けたそうです。ここからコゾの丘までもう少し。そしてコゾからはサンティアゴ・デ・コンポステーラの街が見えるので巡礼もあと1~2日で終わる場所です。巡礼は命がけの旅でもあったようです。巡礼の始まりそもそもサンティアゴ・デ・コンポステーラとは、聖ヤコブのお墓を訪ねる巡礼の旅なのです。エルサレムで殉教したキリストの12使徒の一人である、聖ヤコブ(福音書記者ヨハネの兄)の遺骸がサンティアゴ・デ・コンポステーラで9世紀に発見された・・と言う伝説に基づいてこの巡礼が始まったと言われています。もっとも伝説は伝説に装飾されて今となっては真実は解らないのですが、信仰深い信者の方達の詣での為に12世紀には巡礼者の数が年間50万人を越えると言う驚異的な数となり最盛期を迎えたと言われています。巡礼ルートの参考の為に下の写真はウィキメディア・コモンズの写真から借りてきました。左の矢印の先がサンティアゴ・デ・コンポステーラです。昔は徒歩での行程です。そして今も基本的には徒歩です。三種の神器ならぬ巡礼のアイテム杖とホタテ貝と水筒替わりのひょうたんが昔からの巡礼者の必須アイテム。今はこれに巡礼者手帳(クレデンシャル)を加えた方が良いようです。巡礼者手帳 巡礼の証明書となるパスポートとなるクレデンシャル。残念ながら写真がありませんが、所謂スタンプ帳のようなもので、氏名、国籍、巡礼目的を記して各所の教会をめぐりスタンプを押して通過した事を証明すると最後に巡礼証明書をもらう事ができるそうです。簡単に車でサンティアゴ・デ・コンポステーラの教会に乗り込んでも証明書はもらえない・・と言う事です。まして観光目的では駄目なのです。純粋に信仰の為に巡礼していなければ証明書は発行されないようです。また、このクレデンシャルを持つ事で巡礼者である事の証明になり巡礼宿への宿泊や美術館などの入場も割引になったりするそうですよ。クレデンシャルは巡礼途上の教会や巡礼途上の観光案内所などで手に入れる事ができるそうです。今でも巡礼の証としてホタテ貝だけははずせないアイテムのようです。誰が見ても解る巡礼者がこの巡礼路にはたくさんいるのです。でも一度の旅で数ヶ月かけてそれをクリアする場合もあるようですが、たいていは何度かに分けて何年かかけてその行程を踏んでいく・・など人により達成の仕方はまちまちだと言います。信仰があるから歩くのであって車でズルしたら信仰は成り立たないでしょうね。もっとも今は巡礼季節になるとマドリードからバスや列車も出ていると言いますが・・。コゾ(喜び)の丘の巡礼者の像彼らの目先に見えるのはサンティアゴ・デ・コンポステーラの街と教会巡礼ももうすぐ終わる・・と言う歓喜。だから喜びの丘と呼ばれたそうです。サンティアゴ・デ・コンポステーラの教会ですが、これは望遠で撮影しているので実際はこんなに近くには見えません。因みに車なら20分くらいで街に出られたと思います。サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 間を開けながら長いスタンスで続けたのでリンクまとめました。次回リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街)Back number サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 2 (中世の街)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 3 (ブルゴス 1)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 4 (ブルゴス 2)リンク ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シドリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 5 (ブルゴス 3)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 6 (ブルゴス 4)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 7 (レオン)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 8 (オスピタル・デ・オルビゴ橋)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 9 (オ・セブレイロ峠)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 11 (栄光の門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 12 (聖域、ヤコブ像)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)
2011年05月05日
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