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581系・583系:寝台特急「金星」「金星」は、昭和43年10月1日改正から運転を開始した寝台特急で、名古屋~博多間を581・583系で運転されていました。その前身は153系の急行列車で、もちろん運転区間も全く異なる列車でした。寝台特急化当初は、北陸本線富山行きの特急「しらさぎ」とペアで運用されていましたが、「しらさぎ」は53・10ダイヤ改正により485系化されてしまい、その後「金星」は廃止されるまで夜行専用として運用となっておりました。(確か、博多到着後は「有明」に運用されていたと思いました。)名古屋から九州へは、多客期に「金星51・52号」も設定されていましたが、何故かこちらは西鹿児島行きとなっておりました。個人的には、この「金星」が581系で運転されていること、他と違って廃止になるまで名古屋始発を固持していたこと、1往復しか設定されなかったことなどから、特別な思い入れがありました。昭和52年3月30日 名古屋駅にて 上り特急「金星」中学1年生の終わり、友人らと友人の親戚に遊びに行くついでに名古屋に行ったものです。これが、彼との初めての出会いです。写真はクハネ581ですが、タイフォンが開閉式の東北仕様で、誕生当初に「はつかり」「はくつる」に使用されていたものです。53・10改正前ですので、夜行列車らしい文字マークでした。昭和57年10月3日 小郡駅(現新山口駅)にて 下り特急「金星」「金星」廃止の一報が入りました。なかなか利用する機会の無い列車でしたが、当時、山口線の撮影に行くようになっておりましたので、早朝到着の利便性も合わせて考慮し、同列車の乗車を選択しました。結局、これが彼との2度目の出会いであり、最後の別れとなってしまいました。写真は元祖クハネ581。イラストマーク化されております。この写真を撮ってから約1ヵ月後の昭和57年11月14日、ダイヤ改正により廃止されてしまいました。最後に乗車した時の特急券・B寝台券です。この頃は身近なところで西川口駅で硬券が使用されていましたが、殆どが準常備券であったのが残念でした。
2022.08.31
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185系OM08編成:臨時特急「上州踊り子」平成24年、185系に157系風の塗装を施したOM08編成が出場し、鉄道ファンの注目を集めました。先に登場しました湘南色と同様、イベント用という位置づけではありませんが、あまりのインパクトはその上を行く感じで、しかもそれなりに似合っていることからファンにも歓迎されたようです。この車両を使用し、平成24年3月3日、臨時特急「あまぎ」の送込みを兼ねた高崎~伊豆急下田間運転の臨時特急「上州踊り子」が設定されました。平成24年3月3日 南浦和~蕨間にて 185系OM08編成 臨時特急「上州踊り子」登場したばかりの157系色OM08編成を使用し、草津号50周年記念と同様のスタイルの特製ヘッドマークが取り付けられました。※この当時はスカートが黒色のままであり、その後グレー塗装に変更されました。この列車は、伊豆急下田に到着後翌日にかけて臨時特急「あまぎ」号として運用され、返しは設定されない片道運転となりました。実はこの列車、前年の平成23年3月26日に設定されおり、おそらくは湘南色のOM03編成を使用した臨時列車として運転される計画となっていたようですが、直前の3月11日に東日本大震災が発生したことにより、設定中止となっていたものです。震災によりすべてお蔵入りになってしまったと思っていましたが、1年後に企画が復活したことをうれしく思いました。私自身も楽しみにしていた企画でしたので、震災とともに記憶に残る列車となりました。
2022.08.30
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485系:快速「ムーンライトえちご」多客臨として永らく運転された新宿~新潟を結ぶ快速「ムーンライトえちご」ですが、その起源は昭和61年に遡ります。14系客車3両を使用して運転が開始された「ムーンライト」で、上越線での夜行座席車が廃止されて久しく、夜行バスの需要が順調となったため、格安夜行列車として団体扱いのうえ運転を始めたのがきっかけとなっています。昭和62年、165系3連による運転となり、その好調さから昭和63年に定期列車に格上げされ、多客期には6連や9連の運転もあったようです。165系には廃車発生品のグリーン車の座席が使われ、このようなスタイルは全国的に波及することになります。いわゆる「大垣夜行」に「ムーンライトながら」の愛称が付いたため、平成8年から「ムーンライトえちご」に名称が改められます。さらに平成15年には165系の全国的な撤退から485系を使用することになりました。クハ481-1508クロハ481-1029平成19年10月31日 新宿駅にて新潟色時代のT18編成を使用した下り快速「ムーンライト」。舞浜団臨やこの快速「ムーンライト」でしか見られない塗装は、首都圏ではインパクトが強かったですね。しかも、この後、比較的に早い時期に国鉄色に塗装変更されましたので、晩年の貴重な記録となってしまいました。 平成21年2月13日 新宿駅にて K編成による快速「ムーンライト」早朝・深夜の運転パターンですので、写真を撮るのは厄介な列車です。たまたま残業で遅くなった時に偶然撮ることができる程度でした。平成21年3月のダイヤ改正では多客臨に格下げされ、さらに平成22年3月ダイヤ改正で急行「能登」が臨時化されるとこれに485系新潟車を使用することになったため、「ムーンライトえちご」は183系マリ車(東大宮操常駐)に振り替えられ、485系新潟車による運転が一旦は消滅してしまいます。しかし、平成24年3月ダイヤ改正以降、臨時急行「能登」の設定が無くなると、快速「ムーンライトえちご」にまた485系新潟車が充当されることになりました。平成24年7月28日 485系K-2編成 遅8720M 快速「ムーンライトえちご」 夏至の頃でも走行写真の撮影は不可能な「ムーンライトえちご」。この日は上越線内においてかなり激しい豪雨があったようで、4時間以上も遅れて上ってきました。そのために地元で撮影することができたものです。実は、編成が見えてから念のために置きピンしようと思ったところ、誤ってシャッターを切ってしまいました。慌てて構図を戻したもののど順光の車体正面の露出を拾ってしまい、どアンダーの失敗写真になってしまいました。明るさ・コントラストで強引に安定化させた写真になります。そして平成26年春。3月中の臨時運転を「ムーンライトえちご」として設定されながらも、4月からは「えちご春の夜空」なんて変な名称に変更され、この春臨をもって以後は設定されることがなくなってしまいました。
2022.08.29
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181系100番台:特急「とき」(その1)E653系 特急とき 運転リバイバルに使用できる国鉄型車両はすっかり引退してなくなり、近年はカラーリングだけの車両を使用した列車が設定されるようになりました。まあ、これも時代の流れで仕方が無いこと。しかし、特急「とき」が485系12両編成により10何往復が設定されていたとか、誤った情報と言うか、知ったか吹聴するのはどうかと憤りを感じたので、今回はリバイバル記事として「181系」を持ってきました。「とき」は、上越線経由新潟行きの初の特急として昭和37年6月10日に誕生しています。折りしも上越線が全線電化されると同時になります。勾配区間の長い上越線を走るため、当時の直流型特急車両である151系に勾配抑速ブレーキを付加した161系が導入されました。しかし、当時から151系の出力不足が課題となっていたため、モーターを大出力のものに取替え、181系へと発展します。また、その後の新製車は181系として製造され、これらは151系からの改造車と区別するため、100番代の区分が与えられます。今回は、昭和52年から昭和56年まで撮影したものと思われるクハ181-100番台の写真をご紹介いたします。昭和52年頃 上野駅にて文字マークの時代。「とき」以外にも「朱鷺」と漢字で表記されているのが特徴のヘッドマークでした。昭和52年頃 西川口~蕨間にて100番台でタイフォンが2つ折シャッター式になっていますが、これはクハ181-100番台最終増備車の-109番だけに見られる特徴だそうです。昭和52年頃 蕨~西川口間にて昭和53年頃 上野駅にて昭和54年頃 上野駅にて特急電車にイラストマークを導入したのが53・10改正で、その後気動車やブルトレなども1年遅れくらいで浸透してきます。ボンネット型は経費の関係でしょうか、なかなかイラスト化されない中で、上越線の「とき」「はくたか」、信越本線の「白山」には昭和54年後半くらいからイラストマークが導入され始めました。昭和55年頃 西川口~蕨間にて昭和55年頃 蕨~西川口間にて昭和55年頃 尾久~赤羽間にて 昭和55年頃 尾久~赤羽間にて昭和55年10月頃 蕨~南浦和間にて昭和56年1月 西川口~蕨間にて昭和56年頃 蕨~西川口間にて昭和56年10月 西川口~蕨間にて昭和56年12月 鶯谷駅にて100番台の台車は485系の台車とほぼ同じものを履いておりますので、形態的には近代化された感じがします。また、先頭車の100番台は、スカートに取り付けられたタイフォンが楕円形をしているので判りやすいと思います。ただ、写真では2枚目と8枚目のクハ181のみが開閉式のタイフォンを装備しており、異彩を放っています。そして、この間に53・10ダイヤ改正を迎え、181系編成の特徴であったモロ181-モロ180のユニットが外され、485系への編入可能なサロが製造されて差し替えられました。これにより車齢の若い100番台のモロユニットがモハに格下げ改造され、編成中間に使用されるようになり、サロの凸凹と小窓のモハが気になる編成となりました。(その2)に続きます。
2022.08.28
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185系:新特急「谷川」185系 新幹線リレー号塗装 復活撮影会(ツアー)・・・だそうです。今までとにかく復活を望んでいたにもかかわらず実現しなかったシチュエーション。ここに来てやっと実現しました。ただ、先が短いのが残念です。昭和57年11月のダイヤ改正において、上越新幹線が大宮暫定開業するとともに、在来線特急である「とき」が全廃となりました。ご存知のとおり、上越新幹線は地形の関係から有名温泉地の入り口となる水上や渋川を経由しない経路となったため、「とき」の廃止により優等列車から孤立した地区になってしまいます。これを補完するために、同区間に設定されていた急行「ゆけむり」を格上げするスタイルで誕生したのが「谷川」です。また、急行時代から「ゆけむり」と併結されていた急行「草津」は、「谷川」と同時に格上げされ、停車駅や所要時間も急行時代とほぼ変わらないまま185系特急として誕生しています。ただし、185系というグレードダウンや所要時間の大幅な短縮など考慮されていないことを意識してか、定期券で乗車することが出来る『新特急』という新しい制度も誕生しています。昭和57年12月 蕨~西川口間にて 185系 下り特急「谷川」「白根」登場間もない頃の「谷川」「白根」の併結列車。185系200番台で急行時代と同様に14両という長大編成を誇っていました。この時点ではまだ特急でした。昭和61年8月17日 渋川~敷島間にて 185系 上り新特急「谷川」昭和60年3月からは新特急となります。定期列車の殆どは相方の「白根」と組んで走っていましたが、新前橋駅における分割併合により身軽な編成となります。 昭和63年5月4日 大宮~宮原間にて 185系 下り新特急「谷川」こちらは高崎線内の併結区間。上信越線の特急と言えば、大宮を出ると高崎まで停まらないのが相場でしたが、大宮を出ると熊谷・深谷・本庄にも停車するようになります。そして、年を追うごとに停車駅は拡大し、その後の「水上」「草津」は上尾・桶川にまで停車するものが出現し、昔の急行以下のグレードとなります。写真は、右側に『鉄道博物館』が出来た辺りの地点を行く同列車。平成2年5月6日 渋川~八木原 上り新特急「谷川」相方「白根」との増解結は、本来の分岐点の渋川駅ではなく新前橋駅で行われるため、新前橋~渋川間は「谷川」「白根」がそれぞれ7両編成となって続行で走ります。この方法は急行時代から行われており、入換え要員や乗務員を電車区のある新前橋に置いたほうが運用が組み易く合理的であったからと思われます。平成2年5月6日 渋川~八木原 下り新特急「谷川」この写真は、上の写真と同箇所で撮ったものです。この時代は、水上方に「谷川」、上野方に「白根」を連結しており、下りは「谷川」→「白根」、上りは「白根」→「谷川」と続行し、「谷川」優先のダイヤが組まれていました。後の「水上」「草津」では、増解結駅の取扱いは従前と同様ですが、編成順序が逆となっており、「草津」が優先されたダイヤに移行されています。平成8年1月14日 沼田辺り? 下り新特急「谷川」新特急「谷川」としては最後に撮影したコマです。撮影した当時はSLばかりで、さらにリバーサルだったので全然気にしていなかったのですが、塗装が「踊り子」になっていました。転属直前くらいだったのでしょうか?余り新特急に目を向けて撮影することはなかったのですが、折りしも復活SLブームで上越線にD51498が走るようになったため、ついで的に「谷川」を撮る機会がありました。誕生当初は車両不足もあり、急行「ゆけむり」「草津」と共に上越線を走っていた時期も存在するという、大宮暫定開業と合わせて暫定的で珍しい体制が採られていました。その後、上越新幹線の停車駅・愛称等の見直しがあり、東京~越後湯沢の相互発着の新幹線に「たにがわ」の愛称を譲ってしまったことにより、「水上」と名称を変えられてしまいました。さらに『新特急』の制度も消え、旧塗装も消え、特急「水上」まで消えてなくなりました。185系:新特急「なすの」185系:アクセス列車「新幹線リレー」団体列車 東北新幹線開業35周年:185系「新幹線リレー号」
2022.08.27
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キハ22・キハ40:室蘭本線室蘭本線を行く普通列車。特急街道でありながら、普通列車は超ローカルです。昭和63年6月24日 有珠~長和間にて 普通列車 キハ40×3連昭和の末期、既にキハ22は殆ど消え去り、キハ40系が台頭していました。平成2年9月9日 静狩~旭浜間にて キハ40250+キハ22道内からはキハ22も殆ど消えていましたが、一部函館に残ったキハ22が最後の活躍をしていました。平成2年9月9日 静狩~旭浜間にて キハ22317単行同日撮影した普通列車。本線にあるまじき単行です。これが道内で撮影したキハ22最後の写真だったかと記憶しています。
2022.08.26
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489系 :特急「そよかぜ」特急「そよかぜ」は、上野~中軽井沢を結ぶ季節列車として長らく設定されていた特急列車です。登場当初は181系でしたが、ほんの一時期に157系を使用したことがあります。また、その後は183系0番台(幕張車)や、189系(長野車)、489系(金沢車)、185系(新前橋車)と、実に多彩な車両が使用されました。季節列車でもあり、また運転区間も短距離でもあったため、絵にしづらい列車でしたが、そのさわやかなネーミングが大好きでした。今回は、489系を使用した「そよかぜ」をご紹介いたします。昭和52年頃 上野駅にて クハ489-600番台 「そよかぜ」「そよかぜ」は、昭和50年以降、どの年代においても489系が使用されることがあり、写真も少ないですが残っています。ただ、489系時代においても殆どボンネット型が使用された例は稀であり、雑誌で見た中でもグレードアップ改造(白山色)後のものしか見たことがありません。昭和60年11月4日 岡部~深谷間にて クハ489-600番台 「そよかぜ」489系「そよかぜ」の写真は2枚だけしか見つかりませんでした。いずれも489系の貫通型です。489系「そよかぜ」の場合、変運用で間合い対応していたようで、「白山」の折り返しで「そよかぜ」に充てられケースも多々見られたようです。183系幕張車:特急「そよかぜ」
2022.08.25
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旧型国電 クモハ40077:大糸線快速 大糸線全通65周年号 運転スカイブルーの旧型国電、大糸線の続きです。今回が最終回となりますが、最後は両運形クモハ40です。旧型国電が全国で終焉を迎え始めたころですが、両運形の旧型国電で旅客用となると、西のクモハ42、東のクモハ12など、まだその特性を発揮した車両が現役でいました。一方、生産量数では一番多かった通勤型のクモハ40ですが、都市部に多くが存在していたためか、比較的に早く淘汰されてしまい、国府津の職員輸送用を除くとかなり希少になっていました。むしろ、飯田線に残っていたクモハ60(クモハ40の出力増強版)が5両も残っていたのは奇跡と言えるでしょう。スカ色や茶色が一般的な両運形ですが、ことスカイブルーとなれば全国でも大糸線だけとなっていました。(その少し前までは、富山港線や大垣区にも配置されていました。)昭和56年7月21日 信濃森上駅にて クモハ40077大糸線の1日だけの撮影で最後に撮ったショットだったと思います。先般ご紹介いたしましたクモハ60の編成の最後部はクモハ40だったんですね。あの鉄橋のアングルでは後部が撮影できませんでしたので、クモハ40が連結されていたことには気が付きませんでした。大糸線には、ここでしか撮ることのできなかったノーシル・ノーヘッダーのクモハ60やクモハ54、2扉部分低屋根のクモハ43802や804、合いの子の唯一の低屋根改造車であるクモハ43810、最後の旧サロ45であるサハ45、そしてまた最後のサハ57と、希少な車両がいました。終焉にあって、撮影も1日限りとなったために殆ど撮ることは叶いませんでしたが、希少であったこのクモハ40077だけでも撮ることができたのは幸いでした。旧型国電 クモハ60:大糸線旧型国電 クハ55:大糸線旧型国電 クモハ54005:大糸線キハ58系:急行「白馬」
2022.08.24
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旧型国電 クモハ54005:大糸線快速 大糸線全通65周年号 運転スカイブルーの旧型国電、大糸線の続きです。今回は、大糸線では少数派のクモハ54です。北松本支所にて 昭和56年7月21日撮影に向かう際、大糸線の車内から撮影したものです。初めて見るスカイブルーの旧型国電に心ときめきました。ナンバーが障害物で見えず、ずーっとクモハ60だと思い込んでいたのですが、良く見ると開いたドアから見える反対側の車窓の下半分が見えません。つまり、ロングシートではなく、クロスシートの背もたれが車窓を邪魔していると言うことで、クモハ54であることが初めて判りました。クモハ54のオリジナル車はわずか9両しか製造されておらず、このうち003~005がノーシル・ノーヘッダー車として登場しています。003は戦災で廃車となり、004は仙石線時代の昭和52年に廃車となってしまったようで、大糸線に転属した005だけが晩年まで活躍していたようです。004が仙石線時代に押込み型ベンチレータに改造されているのに対し、何故かこの005はグローブベンチレータのままとなっています。早いうちに標準化改造されてしまいましたが、それでも美しいスタイルを最後まで保っていました。旧型国電 クモハ40077:大糸線旧型国電 クモハ60:大糸線旧型国電 クハ55:大糸線キハ58系:急行「白馬」
2022.08.23
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旧型国電 クハ55:大糸線快速 大糸線全通65周年号 運転スカイブルーの旧型国電、大糸線の続きです。今回は、ロングシート車の3扉制御車であるクハ55の写真をご紹介いたします。クハ55は3扉の20m級車として、戦前型の決定版となります。形態としては、切妻の初期車、半流の後期車があり、半流車にはノーシル・ノヘッダー車が存在します。戦中にはクハ68からのロングシート化編入車がありましたが、戦後に復元されて消滅しています。さらに、中間付随車であるサハ57からの運転台取付改造車と、2扉合造車クロハからの改造車なども存在し、形態としては複雑になっています。大糸線でもバラエティーに富んだクハ55が配置されていたようですが、私が訪れたのが末期のころであり、あまり種類を捉えることはできませんでした。撮影は、すべて昭和56年7月21日です。北松本支所にてこれから撮影に入るという場面。移動中の115系の車内から撮った写真です。番号は残念ながらわかりませんが、形態からサハ57改造の432か433ではないかと思われます。相方はノーシル・ノーヘッダーのクモハ54005でした。アングルを決める間もなく来てしまった旧型国電編成。何とか撮ったものの悲惨なアングルです。サイドからなんですが、ブレているようで番号が不鮮明。形態からこちらもサハ改造の432か433と思われます。組んでいる相方のモハが別形態ですので、このクハも前出の車両とは別物です。連続写真です。こちらもサハ改造のクハ55ですが、2両目につながっている車両がクモハ54005のようですので、最初のに撮った車庫の車両が組成されて運用に入ったようです。こちらも同じ編成の後部を撮ったもの。暗い上に状況も良くなかったのでピンが来ていません。こちらの車両もクハ55ですが、形態は白Hゴムのオリジナル平妻初期車です。この時は列車の通過待機中に夕立に遭ってしまい、撮影不可能かと思いましたが、直前に小降りになって何とか撮ることができました。この時の撮影では2扉のクモハ43やサハ45が撮れなかったのですが、最後の写真を拡大してみると、どうも2扉車のようです。望遠での至近からの撮影ということもあり中間車を撮影できなかった訳ですが、1回きりのチャンスに捕獲することができず、今でも心残りとなっています。旧型国電 クモハ40077:大糸線旧型国電 クモハ60:大糸線旧型国電 クモハ54005:大糸線キハ58系:急行「白馬」
2022.08.22
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旧型国電 クモハ60:大糸線快速 大糸線全通65周年号 運転大糸線では昭和56年まで旧型国電が活躍しており、全国的に行われた世代交代でも置換えは比較的に遅い方でした。当時から急行乗り入れに伴う165系の運用などがあり、新旧半々といった運用だったように記憶しています。茶色一辺倒のイメージのある旧型国電でしたが、大糸線では全国的にも数少ないスカイブルー塗装(京浜東北線と同色)施されており、富山港線や東海道本線美濃赤坂支線とともに異色の存在でした。大糸線はその旅客需要の特徴から、比較的に長い区間を走りながらも、登山者の輸送に対応するため、セミロング車とロングシート車が混在して編成されていました。今回は、ロングシート車の出力増強版であるクモハ60の写真をご紹介いたします。撮影は、すべて昭和56年7月21日です。南大町~信濃常盤間?にて クモハ60022信濃森上駅にて クモハ60022既に2往復程度しか運用が残っていなかった大糸線の旧型国電。あまり写真を撮ることが出来なかった中で、最初に走行写真を撮ることができたのがノーシル・ノーヘッダー車のクモハ60。旧型国電に興味を持ち始めた頃で、美しい姿のノーシル・ノーヘッダー車は好きでしたが、幌枠を撤去した関東型の車両はなんかお間抜けな感じであまり好きになれませんでした。撮影後に信濃大町に停車中の同車をキャッチすることができましたが、車番が鮮明に読み取ることができ、クモハ60022であることが判りました。北松本支所にて クモハ60082撮影に向かう途中の北松本支所で撮影した写真の中で、サイドからですがもう1台のクモハ60の写真が残っていました。クモハ60082と読み取ることができ、こちらはシル・ヘッダーのある車両です。次位にもノーシルノーヘッダーのクモハ60と思われる車両が連結されており、同向きで変わった編成だと思っていたのですが、良く見ると貫通路が連結されていないため、どうも入換中のようです。ノーシルノーヘッダー車が好きなのでじっくり見たかったなと後悔しています。旧型国電 クモハ40077:大糸線旧型国電 クハ55:大糸線旧型国電 クモハ54005:大糸線キハ58系:急行「白馬」
2022.08.21
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キハ58系:急行「白馬」快速 大糸線全通65周年号 運転急行「白馬」の歴史は古く、昭和29年にも遡るらしいです。この頃の記録は見つかりませんが、おそらくは蒸気機関車が牽く客車だったのでしょう。その後気動車急行として新宿~糸魚川間を結んでいました。単独時代もあり、その後、急行「アルプス」や「かわぐち」とも併結されていたようです。昭和43年10月の改正で一旦廃止となりますが、昭和46年に金沢~松本間を結ぶ気動車急行として復活(臨時?)。途中、信濃森上止まりなどの変遷がありながらも、昭和57年11月改正で廃止となるまで、大糸線を通しで走る唯一の直通気動車急行として活躍していました。ちなみに、北陸本線内の金沢~糸魚川間は、上下とも急行「しらゆき」に併結されていました。昭和56年7月22日 大糸線内にて キハ58系 急行「白馬」撮影地は記録に残っていないのですが、大糸線最後の旧型国電を撮影に行った際に撮ったものです。なのでもちろん電化区間です。南大町~信濃常盤間?キハ58+キハ28+キハ58の3両編成で、全部の車輌が冷房車の豪華版。中間にキハ28を介することにより、3両分の冷房電源の供給を可能とした合理的な編成です。大糸線内は3両編成ですが、需要を考えれば適当なセンでしょう。北陸本線内は「しらゆき」と併結されるため、12両の堂々たる編成となります。ヘッドマークも無く、サボも撮っていなく、なんらインパクトのないキハ58系の写真ですが、大糸線内であるからこそ、急行「白馬」を主張できる1枚です。旧型国電 クモハ60:大糸線旧型国電 クハ55:大糸線旧型国電 クモハ54005:大糸線
2022.08.20
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183系0番台:特急「わかしお」特急「わかしお」は、昭和47年、東京地下駅の開業と同時に「さざなみ」と共に運転が開始されました。房総特急は、地下区間を走行するため、ATCを搭載した専用形式である183系0番台が用意されました。編成は、サロ1両を含む9両固定編成で、「さざなみ」のほかのちに誕生する「しおさい」「あやめ」にも共通で使用され、幕張電車区に集中配置されていました。運転区間は東京~安房鴨川間の固定であり、一部例外的に八王子や横須賀線直通後に大船への延長があったようです。長らくは錦糸町経由となっていましたが、成田エクスプレス運転開始に伴い京葉線経由へ移行、平成16年に183系が全廃となるまで外房特急として活躍しました。昭和52年 東京駅 地下ホームにてこの頃は、都区内フリー切符を買って首都圏の列車写真を撮りまくっていました。一眼レフを買って、スローシャッターの仕組みが解ってきた頃だと思います。まだ文字マークばかりの時代です。ホームが閑散としているのが寂しい。昭和54年頃 錦糸町駅にて53・10改正を迎え、ヘッドマークがイラスト入りになりました。昭和54年8月 錦糸町駅にて錦糸町駅脇の留置線には、昼寝をする車両が多くありました。今は運用効率が良くなったのか、ここで休む車両も昔に比べると少なくなったように思います。幕張電車区までの入出庫時間の節約か、183系がここで休む姿は珍しくありませんでした。現在は昼間の房総特急が殆ど錦糸町を通らなくなり、ここで特急車両が休む姿を見ることはできなくなりました。特急「わかしお」が当たり前のように総武本線を走っていたという事実も、既に遠い過去の歴史となってしまいました。
2022.08.19
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名古屋鉄道 モ811:荷物電車国鉄飯田線では、途中まで名鉄と線路をそれぞれ所有し、複線として共同使用していることは昔から有名な話。旧型国電の末期、飯田線には何回も訪れているにもかかわらず、名鉄には興味が無くて、パノラマカーなど一切写真を撮っていませんでした。今となっては後悔が一番大きい思い出のある場所です。そんな中、1枚だけですが、当時の名鉄電車を撮った写真がありました。昭和58年4月16日 豊橋駅にて 名鉄モ811荷物電車&クモニ83100番台普通ならクモニ83のみを撮影するところですが、あまりにも旧態然とした名鉄電車が一緒に並んでいましたので、何回か訪れた中でも大変珍しいシーンに感動し、荷物電車同士の並びとして撮影したものです。モ811は、昭和10年、名岐鉄道時代に製造された特急車両ということです。誕生当初はデボ800形と呼ばれたらしいですが、名鉄との合併後にモ800形に改称されました。このモ811については、飯田線の戦前型が淘汰された昭和58年はおろか、平成8年4月まで活躍していたということなので、動態保存的主旨とは言え、大変立派なものだと思います。さらに、廃車後も旧塗装に復元の上、日車豊川工場で静態保存されていると言うことです。
2022.08.18
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401系(ローズピンク):常磐線都心に最も近い交流区間は、ある特殊な事情から。無煙化にあたってどうしても必要になったのが交直流型の近郊型電車。そのために開発されたのが初の新性能近郊型401系電車です。カラーリングはローズピンクを採用し、その後に誕生した交直流型のカラーのベースとなります。交直流型電車の発展は近郊形も急行形も共通しており、初期車→出力増強→3電源方式となっています。この流れが401系→403系→415系に当てはまりますが、近郊形に関しては初期車が153系初期車と同様に低運転台で登場しており、踏切事故対策から高運転台に形態が大きく変更されている点が、急行形に見られない特徴となっていました。昭和54年3月頃 上野駅にて クハ401 低窓車401系登場時から活躍していた車輌です。地味な「赤電」群の中で唯一関心があったスタイルで、近郊型でありながら153系初期車と同じマスクを持った異端的なスタイルが好きでした。昭和55年頃 上野駅にて クハ401 低窓車 シールドビーム改造車401系初期車に廃車が出始めた頃でしょうか。段々見かける機会が少なくなってきたように思います。4連×3で組成されることが多く、中間に入ってしまうと撮れなくなってしまうのが難点でした。運良く低窓車に出逢ったものの、残念ながらシールドビームに改造されていました。一部は塗装変更後も残りましたが、やはり非冷房車であることが災いし、早いうちに廃車の対象となりました。昭和54年頃 尾久駅にて番号がハッキリしないのですが、グローブベンチレータで箱型のものが付いていないことから、401系に属するクハ401のようです。この時代、この時間には、尾久客車区の一番ホーム寄りの発着線に常磐線赤電が停まっていました。ネガのコマ重なりでプリントされなかった画像がフィルムスキャンで蘇りました。赤電は昭和60年のつくば万博の前まで走っていましたが、昔はあまり好きな色でもなかったし、地味過ぎて興味の対象にはなっていなかったため、殆ど写真が残っていません。
2022.08.17
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キハ38:八高線キハ38気動車は、老朽化したキハ35系を置き換えるため、同系の改造名義で誕生した気動車です。トイレ付き0番代が4両、トイレ無し1000番代が3両の、計7両が登場しています。登場当初は八高線で使用され、カラーはキハ38専用の気動車としては特徴のある塗装となっていました。平成2年1月24日 八高線 高麗川~東飯能間にて現在は電化されてしまった区間を行く気動車列車。外観からは判りにくいですが冷房付車両で、冷房装置は2階建てバス用のものを搭載しているらしいです。平成6年4月30日 八高線 明覚駅にて現在も非電化のままの区間。タブレット時代末期の八高線での記念撮影。長らく八高線で活躍した同車ですが、平成8年に高麗川以南が電化され、これに合わせて以北の非電化区間にもキハ110系を投入。働き場所を無くしたキハ38は、一同久留里線へと旅立ちます。その久留里線にも新性能化の波が押し寄せ、JRからは姿を消してしまいました。その際、2~4、1001、1002は平成26年にミャンマーへ輸出、1003は水島臨海鉄道に譲渡され、現役で運用されています。さらに、水島臨海鉄道では令和4年度にこの塗装に復元が行われ、話題となっています。
2022.08.16
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EF58牽引 旧型客車:急行「鳥海」上野~秋田間を上越・羽越線経由で結んでいた急行「鳥海」は、荷物車+グリーン車+A寝台+B寝台+自由席普通車で構成された、由緒ある夜行急行スタイルの列車でした。強いて言えば、なぜか普通車指定席は連結されていません。上野~秋田間を結ぶ急行は、この他にも全車寝台急行の「天の川」が設定されており、お互いに補完しあいながら長らく運転されていました。急行「鳥海」は、上野~新津間をEF58、新津~青森間をEF81が牽引し、水上~石打間はEF16がサポートしていました。(時代背景により、羽越本線非電化時代はDD51、晩年の上越国境越えはEF641000番台のサポートなど、牽引機は変化しています。)昭和52年頃 蕨~西川口間にて EF5890牽引 「鳥海」回送東大宮操車場に回送される「鳥海」編成は、そこそこ遅い時間になってから通りましたので、比較的見る機会が多かったように思います。昭和55年7月23日 南浦和~蕨間にて EF58174牽引 急行「鳥海」昭和55年10月頃 蕨~西川口間にて EF58134牽引 急行「鳥海」同列車の晩年に近い写真です。グリーン車の帯がまだ残されています。一方、本来茶色のマニ36が連結されている筈が、当時新車のマニ50に変わってしまっています。昭和57年 大宮操車場駅構内から 上り急行「鳥海」右側にスニ40が少しだけ写っています。他の夜行急行列車は、A寝台車が上野寄りに連結されているのに対し、この写真では逆なんですよね。それまでは所定の上野寄りでしたので、最終期頃に連結位置が変わったようです。もう1点、マニ36が張上げ屋根改造車です。この写真を撮った時は、プリントにしなかったため、日常的に「鳥海」に連結されていることに気が付きませんでした。後に注目した車輌なんですが、気が付いた時には荷物輸送すら廃止になってしまいました。その後わかったことですが、マニ362022ではないかと思われます。昭和57年11月14日 大宮駅にて 停車中の急行「鳥海」上り定期の最終日。翌朝到着の臨時列車扱い「鳥海52号」をもって急行時代の幕を下ろしました。急行「鳥海」は、ツララ切り+スノープラウといった雪国装備をまとった高崎第二機関区のEF58が終始担当してしておりました。上越急行には、他にもEF58+雑形客車の組み合わせとして、急行「天の川」「能登」(旧急行「北陸1号」)が走っており、あまり珍しい感じはありませんでしたが、「鳥海」の最大の特徴は、スニ2両(パレット積載型荷物車)+一般荷物車と、計3両の荷物車が連結されていたことでした。ちなみに、スニ2両は、新潟地区への新聞輸送に使われていたものです。昭和57年11月のダイヤ改正(上越新幹線大宮暫定開業)で廃止になってしまった急行「鳥海」ですが、他に生き残った夜行列車たちとは違い、最期まで20系化や12系・14系化されることなく、旧型客車のまま伝統ある夜行急行のスタイルを守りとおした列車でした。
2022.08.15
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事業用車 ソ98&スエ3110(八王子客貨車区)子供の頃からあまり西方面には撮影に行ったことがなかったのですが、高校生になって「大回り乗車」という嫌らしい遊びが流行り、私も何度か友人と出掛けたことがあります。そんな道中の八王子駅で撮影した1枚の写真。昭和55年3月頃 八王子駅にて昔は取りあえず撮っていた写真も、素性等の調査ができないまま放置されてしまうものが多々ありましたが、ネットの情報が発達した現代では、ある程度のキーワードからその正体を見極めることがいとも簡単にできてしまうことがあります。撮影場所が八王子駅であることは記憶していますので、あとは「操重車」や、おそらく「スエ」と思われる救援車のというキーワードと組み合わせると、やはりその正体が掴めました。操重車は、八王子駅に居たのがソ80形の「ソ98」で、同形式の最終に近い番号でした。昭和44年に製造されたグループらしく、撮影した当時からすればまだそれほどの経年とはなっていません。しかし、分割民営化時点でJR東日本には継承されず、殆ど使用されないまま廃車となってしまったようです。一方、一緒に留置されていた救援車はスエ3110で、マニ3150→スエ327の流れから来た車両のようです。写真から文字の判別まではできませんが、車体中央には客車用の吊り下げサボが掛かっており、救援車では非常に珍しいと思われます。遠くのホームから300mmレンズで撮影したと思われ、圧縮効果に加え中途半端にソ98が入っていない勿体ない構図の写真となってしまいましたが、もう二度と写し直しのできないシーンですので、私的には貴重な資料としてアーカイブしておきます。
2022.08.14
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485系 貫通型・非貫通型:特急「やまばと」「やまばと」は、上野~山形間を結んでいた特急列車です。登場当初はキハ82系が使用され、上野~会津若松間を結ぶ編成を併結していました、電化の進捗とともに会津編成は独立して特急「あいづ」となり、上野~山形間が「やまばと」として存続しています。電化後、しばらくは仙台運転所持ちの485系が使用されており、クロ481を含む12連でしたが、昭和50年頃からクロ481の撤退が始まり、サロの組み込みとともに貫通型や非貫通型が使用されるようになっています。また、一部には青森運転所持ちの編成も運用に入っています。また、53・10改正からは「つばさ」とともに運用が秋田運転所持ちとなり、すべて1000番代による運用となりました。昭和51年頃 上野駅にて クハ481-300番台53・10改正以前の字幕時代です。上野駅15・16番線で並ぶ「やまびこ」と「やまばと」。上野駅黄金時代と言える頃ですね。昼頃から夕方までは、上野発と着の列車が各ホームで交錯し、どこのホームに行っても特急列車が停まっているような状況でした。仙台車のため、連結器カバーが無いのが特徴です。昭和52年 宇都宮駅にて宇都宮駅を通過中の非貫通型「やまばと」。連結器カバーがありますので、青森車の運用のようです。昭和52年1月 大宮駅にて貫通型の「やまばと」です。こちらも連結器カバーが付いていますで青森車と思われます。新幹線高架橋のない大宮駅は、今では想像できないほどスッキリしています。昭和53年9月 蕨駅にて イラストマークが使用されている貫通型の「やまばと」です。53・10ダイヤ改正からは「やまばと」の運用が全面的に秋田運転所へ移管となり、一方、ヘッドマークのイラスト化も同時であったため、本来「やまばと」のイラストマークは1000番台車にしか存在しない筈です。しかし、改正1ヶ月くらい前にはヘッドマーク交換の準備が始まっていたため、わずかな期間ではありましたが、200番台貫通型の「やまばと」にイラストマーク掲示列車が存在しました。画像は悪いですが、そんな貴重な1コマです。昭和56年頃 蕨~西川口間にて53・10改正以降の写真です。秋田運転所持ちとなり、1000番台のみの変化のない編成になってしまいました。それでも食堂車を含む12連は、今から見れば堂々とした特急列車らしい編成です。秋田持ちの485系は、初めからグリーン車が6号車に組成されていました。昭和56年1月5日 豊原~白坂間にて本数が少なかったこともあり、地方での撮影記録は余りありません。雪景色を行く「やまばと」はこの1枚だけで、私的には貴重な記録です。昭和57年1月4日 東北本線 ???駅にて東北の撮影に行った際、どこかの駅で通過待ちの際に撮影したものですが、どこの駅か全く記憶がありません。パンタが2丁とも上がっていますが、ホームが一部分以外低くなっていますので、交流区間の可能性が高いようです。昭和60年1月5日 東北本線 古河~栗橋間にて 東北新幹線が開業してからも、大宮暫定開業に伴う乗換え不便対応として、上野発の「やまばと」「つばさ」が各1.5往復づつ残されました。東北新幹線の開業直前から食堂車ははずされ、さらに9連へと編成が短縮されています。そして、この写真を撮影してまもなくの昭和60年3月、東北新幹線上野開業時に福島接続の特急はすべて愛称を「つばさ」とされてしまい、長らく奥羽特急コンビで活躍した「やまばと」の愛称は一足先に消滅することとなりました。485系 ボンネット型:特急「やまばと」
2022.08.13
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キハ58系:急行「奥久慈」「ときわ」「奥久慈」は、上野駅から常磐線・水郡線を経由して常陸大子・郡山方面へ直通した急行列車です。常磐線内は急行「ときわ」と併結になっていたため、急行「ときわ」としても「奥久慈」と手を組むために気動車急行としてながらく存置されました。「奥久慈」は上野に乗り入れる水郡線からの唯一の列車であり、通年2往復体制をとっていましたが、多客期には臨時列車も増発されています。水郡線内では何れも途中駅まで急行運転であり、その先は普通列車となっていました。急行「奥久慈」の運転関係については、マル鉄コレクション館『時刻表ネタ 昭和55年 水郡線を走った急行「ときわ7号」』でご紹介しておりますので、ご参考を。昭和55年頃 上野駅にて 常磐線快速ホーム11番線に停車中のDC急行「ときわ」「奥久慈」時代によって変遷があるようですが、上野駅の11・12番線は京浜・山手ホーム同様に嵩がありますので、ステップ付きの車両は入口の1歩目が落ち込むため危険なんですよね。私がバイト時代に臨時の「ときわ」「奥久慈」が11番線発だったので、この写真も臨時かもしれません。旅客誘導中に何人かステップに足を引っ掛けて転びそうになった人がいたのを今でも覚えています。昭和55年頃 上野駅にて 上野駅を発車したDC急行「ときわ」「奥久慈」上の写真の列車が発車したシーンと思われます。この時代でも上野発のDC急行は非冷房車が多かったのですが、関東のみを運用する水戸区には冷房車が中心に配置されていたようですね。同じ時代の「おが」や「いいで」「ざおう」と随分格差のある編成です。昭和56年5月頃 新松戸駅にて 「ときわ」「奥久慈」常磐快速線はこの区間でも95~100km/h運転していましたので、DC急行も結構カッ飛んでいました。スピードを確保するため、加速に有利なキハ58の編成率が高かったのも常磐線の特徴です。昭和56年8月30日 新松戸~北小金間にて 下り「ときわ」「奥久慈」これは新松戸駅近くの築堤をよじ登って撮影したものです。未だ循環タンクの付いていないトイレの列車が走っていたので、実はこのアングル、ある意味命がけです。今ではこんなところをよじ登ることすら出来ないんでしょうね。昭和57年10月12日 常磐線 荒川沖~土浦間にてこの区間は交流区間ですが、DCには関係ありません。この翌年の昭和58年には、急行「奥久慈」は常磐線内のみとなり、水戸からは普通列車という直通しているだけの役割となり、年を追うごとに衰退し、昭和60年3月改正でとうとう廃止となっています。私は個人的に常磐線には縁がなかったので、当急行列車には乗ったことはありませんが、その昔は編成中にキハ55も組み込まれており、注目していた列車でした。しかし、現実にはバイト中に臨時の「奥久慈」にキハ55が3両連結されているのを見たことがあるだけで、晩年の定期急行はキハ58系に統一されていたようでした。結果的に混成列車を撮ることができなかったのが非常に残念でした。
2022.08.12
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651系:快速「山の日 谷川岳号」※本記事は、2020/9/22に投稿されたもので、当時の表現になっています。平成28年、祝日法改正により新たに制定された「山の日」。JR東日本高崎支社では、この「山の日」制定をきっかけとして、同年より8月11日のみに快速「山の日 谷川岳号」を設定するようになりました。平成28年から平成31年までは185系6連により設定されていました。しかし、ヘッドマークは定番の「臨時快速」であるため、写真を撮ったことはありませんでした。年号が変わって令和元年。やはり8月11日に設定されましたが、使用車両に廃車の進んだ185系に変わり、651系が使用されることになりました。しかも、運用されたのは休車となったOM車ではなく、勝田車4連(K205編成)でした。※撮影は、令和元年8月11日です。651系 9729M 快速「山の日 谷川岳号」地元の定番撮影地に撮影者は0人。車内は4両ともほぼ満員のように見えました。651系 9738M 快速「山の日 谷川岳号」湘南新宿ライン北行、下り本線を交わし、カメラを構えたらいつの間にか湘南新宿ライン南行が猛追・追い抜いてきました。どうも遅れていた列車が居たようで、お陰でこんな写真しか撮れませんでした。勝田車ですから、ヘッドマーク表示は勿論なし。仕方ないにしても、せっかく良い表示器を持っていながら勿体ない。これ以降も同設定で運転される可能性があったのでアーカイブしていませんでしたが、このK205編成も令和2年6月に廃車となり、OMの4両編成も廃車同然。さらに、3月からの新型コロナウイルスの影響で令和2年度の設定も幻に。来年度は状況が落ち着いていれば再設定される可能性も見えますが、使用車両はおそらくE257系。間違ってE259系なんていうのもあるかもしれません。いずれにしても、651系による快速「山の日 谷川岳号」は、1年限りの非常にレアな列車として記録されることになりました。
2022.08.11
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京王帝都電鉄:初代5000系(5070系)特急京王電鉄といえば八王子・高尾山ですね。小学校の遠足で高尾山に行きますが、必ずバスでしたので、京王電鉄を利用する機会などなかったのです。それが、確か小学校3年か4年の頃、叔父の奥さんの実家へジイサンと行くことになったのです。北野駅に近いところで肉屋をやっていたような記憶があります。昭和48年頃? 府中駅?にてこれは新宿から乗った特急電車ですが、特急は北野駅に停まらないため、府中駅で後続の急行列車に乗り換えたようです。まさに、府中駅で電車を降りた後、後追いで撮っていたのですね。良く見ると、屋根の上が大変スッキリしていますので、非冷房のようです。車号がちょっと不鮮明なのですが、5105か5109と読めます。増結用の2両編成で、いわゆる5070系→5100系に属するグループで、初期車は2700系の足回りを流用した吊り掛け式だったというのは驚きです。また、いち早く通勤車に冷房を搭載した京王ですが、同グループは強度の関係で冷房化できなかったようです。当時はそのような知識はありませんでした。当時は北野から高尾山口方面へ3両編成の緑色の電車も走っており、「気色悪いな~」なんて思って撮っていなかったんですがね。その後、京王電鉄に乗ることがあるようになったのも国鉄退職後ですから、やはりあまり縁のない私鉄だったんですね。そんなわけで、私的には大変貴重な京王電車の写真なんです。この写真は有難いことにネガが残っていたのですが、如何せんネガがキズだらけで、無数の星を消すのにメッチャ苦労しました。写真はかなり劣化したのですが、このネガからは驚くほどの色が出てきました。
2022.08.10
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185系:新特急「なすの」昭和60年3月14日、東北新幹線上野駅乗り入れに際し、それまで急行列車で運転されていた「なすの」は185系化のうえ新特急という新しい種別の列車として生まれ変わっています。運用は185系7連のみで、他の「わたらせ」「日光」といった急行列車もすべて廃止されてしまったため、併結運転はありませんでした。運転開始当初は、新幹線が停車しない駅の救済措置として9往復も設定されましたが、料金が高くなった割に急行列車と比較してもそれほどのグレードではなく、利用率は当初からかなり低迷していたようです。昭和60年5月 北浦和~浦和間にて昭和60年6月2日 蓮田~東大宮間にて昭和60年10月17日 蓮田~東大宮間にて昭和62年3月 蓮田~東大宮間にて昭和62年3月19日 東北本線 蓮田~東大宮間にて最終的には田町車による新宿始発となるなど変遷を経て、平成7年に東北新幹線に名称を譲るまで残りました。「おはようとちぎ」や「ホームタウンとちぎ」として、辛うじて「なすの」時代の足跡を残していましたが、平成23年3月のダイヤ改正において、その足跡も過去のものとなってしまいました。
2022.08.09
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165系:急行「なすの」「なすの」は、上野~宇都宮・黒磯を結ぶ急行列車です。準急時代は157系が使用されましたが、その後急行に格上げ、165系電車が使用されるようになり、本数も増えていきます。急行「なすの」は、その名のとおり上野→黒磯間がメインな訳ですが、宇都宮行きや、黒磯行きでも宇都宮~黒磯間が普通列車になるものもありました。さらに、455系を使用した「なすの」が上りの1本のみ設定されており、白河発の急行と黒磯発の普通列車が別々に本線を走り、宇都宮で併結されて上野を目指すという大変珍しい形態の運用でした。また、変わったところでは、昭和53年10月の改正くらいまでだったと思いますが、115系を使用した「なすの」「日光」もありました。宇都宮にEF57の写真を撮りに行ったとき、偶然に乗り合わせたことがあり、ガッカリした記憶があります。昭和52年頃 宇都宮駅にて M7513 急行「なすの3号」集約臨の155系と並ぶ急行「なすの3号」。背景には建設中の東北新幹線高架橋脚が写っています。昭和58年10月5日 黒磯駅にて165系を使用した「なすの」で、黒磯駅では2番線又は3番線で折り返しとなります。165系の場合、基本はグリーン車を1両含む7両編成で、運用によって途中宇都宮で増結したり、急行「日光」(7両編成)や「わたらせ」(3両編成)を併結した、10連か14連の編成で運転されていました。私が写真を撮り始めてからはヘッドマークは既に無く、「日光」とも「あかぎ」とも「ゆけむり」とも「草津」とも全く区別の付かない急行列車で、趣味的には非常に面白くありませんでしたので、写真も僅かしか撮っていません。昭和60年3月のダイヤ改正において、急行「なすの」は新特急へと移行され、発展的解消を遂げています。
2022.08.08
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101系:赤羽線赤羽線は、東北本線赤羽駅と山手線池袋駅を短絡する路線を指します。元々は赤羽~池袋~新宿~品川間において「山手線」として開業した経緯があり、のちに池袋~田端間が開業したことで池袋~赤羽間が支線のようなかたちで残りました。赤羽線は営業規則上の正式な名称ではなく、山手線として定められていましたが、昭和47年に正式に「赤羽線」という独立した路線名になりました。現在は「埼京線」の一区間として案内されていますが、「埼京線」という名称も正式な路線名ではなく、大宮~武蔵浦和~赤羽間は東北本線、赤羽~池袋間は赤羽線、池袋以南は山手線となります。昭和48年頃 板橋駅にてこの時代、山手線は既に103系化されていましたので、101系のカナリヤイエロー車は赤羽線の専用車両でした。しかし、元々は山手線自体がカナリヤイエローの101系により新性能化されましたので、ある意味、赤羽線に使っていた車両がオリジナル車であると言えます。昭和52年頃 赤羽駅にてこちらは赤羽駅で撮影したものです。101系の運用もそろそろ終盤となった頃でしょうか?短区間の折り返し運転のため、首都圏では珍しいタイプの方向幕が使用されていました。山手線及び京浜東北線のATC化を目的とする103系の増備が急ピッチで展開されており、一方で首都圏に残る73形の新性能化も行われており、非ATC車や101系の置き換えが実施されていました。赤羽線に残った101系もATC車に置き換えられることになり、昭和53年2月いっぱいで101系運用が消滅しています。
2022.08.07
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485系 貫通型:特急「ひばり」上野~仙台間を結んでいた特急「ひばり」。その運転本数は、当時の国鉄随一となっていました。仙台運転所所属の12連を基本に、青森運転所の12連も共通運用。さらに、仙台運転所持ちでは12連クロ編成、クロ+サロの13連、青森運転所の583系と、バラエティーに富んでいました。今回は、485系200番台を使用した特急「ひばり」を最終日の最終列車までご紹介いたします。昭和52年頃 上野駅にて53年10月改正までは文字マークです。個人的にはやはりこちらのスタイルが良いかな?これは青森車です。昭和52年頃 大宮駅にて大宮駅の4番線に到着した「ひばり」。こちらも青森車の貫通型です。3番線には原形ライトの115系も停車中。まだ冷房車が殆ど無かったころです。 昭和53年9月 大宮駅にて53・10ダイヤ改正を間近に控えた頃。順次イラストマークへの切替え工事が始まり、改正を待たずにイラスト化された車両が多数お目見えしました。イラスト化される前に撮っておこうとした思惑が外れ、既に手遅れ状態になっていました。昭和56年1月5日 豊原~白坂間にて東北本線を疾走する特急「ひばり」。田舎に行く途中に下車して撮影したもの。連結器カバーが金属製ではなく、こちらは仙台車であることが判ります。昭和57年1月4日 豊原~白坂間にて東北新幹線大宮暫定開業が目前に迫ってきた頃。前後とも貫通型の200番代を連結した編成。仙台のボンネット車も転出し、東北特急の古き良き時代が終りを告げようとしているとき。昭和57年8月23日 大宮駅にて東北新幹線大宮暫定開業により「やまびこ」は全廃されましたが、大宮乗り換えの不便対応として減便されつつも「はつかり」とあわせて残ることになりました。2枚とも 昭和57年11月14日 上野駅にて 最終「ひばり」最終を飾ったのは、仙台車の貫通型を前後に連結した編成。「山手線が通勤ラッシュ帯に運転が見合わせとなり、階段規制をしなければ危険である」と表現できるぐらいの人出です。特に、最終では車体に装飾がされた関係もあり、順次発車していった「ひばり」よりもファンが集まるのも当然といえるでしょう。私的にも、母親の実家が福島県であるため、「ひばり」は昔から縁のある特急でした。その「ひばり」が無くなる日が来るなんて夢にも思わなかったのですが、新幹線博多開業の時に失った「つばめ」「はと」も然り、やはり歴史は繰り返すものだと、寂しさを隠せませんでした。485系ボンネット型:特急「ひばり」(その1)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その2)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その3)485系 非貫通型:特急「ひばり」485系K-1編成:団体列車リバイバル「ひばり」485系1500番台:特急「ひばり」
2022.08.06
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153系:修学旅行列車 急行「こまどり」急行「こまどり」は、主に東海地方と品川を結ぶ修学旅行列車です。昭和35年に153系で誕生しましたが、翌36年に専用の159系が誕生し、置き換えられました。159系:修学旅行列車 急行「こまどり」永らく159系を中心に使用されてきましたが、同系が昭和55年に廃車となってしまい、後継として153系による運転に戻っています。しかし、153系の活躍も晩年となっており、冷房改造された車両が中心となっていたため、学生からすればグレードが良くなっていたと思われます。※撮影は、昭和55年5月頃 品川駅にて。159系が廃車になると、急行「こまどり」には大垣区の153系や155系、165系なども使用されるようになりました。種別表示は「臨時」になっています。117系導入に伴い、新快速の座を追われた153系は、状態の悪いものは廃車、良いものは大垣区などへ転属することとなり、急行「比叡」や中京地区の普通列車に使用されました。その運用はまちまちであり、写真のように修学旅行列車である「こまどり」にも例外なく充てられました。東京で見ることができない車両なので、大変驚いたものです。日光方面などの修学旅行列車は純粋な臨時列車としてのスジになっていましたが、伝統ある東海道の修学旅行列車では「急行こまどり」として愛称付きの急行列車だったことが特徴的でした。「こまどり」はJR化後も引き継がれましたが、東海道新幹線三河安城駅開業に伴う利便性確保ができるようななったことから、平成に入って間もなく消滅しています。
2022.08.05
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国鉄 キハ22:胆振線胆振線は、室蘭本線の伊達紋別と函館本線の倶知安を結んでいた83.0kmに及ぶ路線です。歴史をを辿ると、大正9年11月15日に京極軽便線として開業ということですから、昭和40年代に開業したローカル線の多い北海道の中ではかなり歴史のある鉄道ということになります。その後、胆振鉄道、胆振縦貫鉄道が開業して全線が結ばれ、昭和19年7月1日に買収、胆振線となります。北海道の鉄道に夢中になっていた頃、1度だけ胆振線に乗車したことがありました。昭和58年9月6日 京極駅?にて キハ22253実はこの写真、胆振線には間違いないのですが、どの駅で撮ったか不明だったのです。胆振線では途中の比較的大きな駅(←と言ってもみんなローカルですが・・・)では数分ずつの運転停車がありました。このときも、途中の新大滝駅、喜茂別駅、京極駅で入場券を購入しておりますので、このうちのどれかの駅だと思います。その後、読者の方から情報をいただきまして、京極駅ではないということが分かりました。このような写真を撮る場合、大体は駅名標が入るように撮るものですが、さすがにこのロケーションではそのような都合の良い構図は望めませんよね。今だったらデジカメで時間を記録できますから、難なく判ってしまう訳です。便利な世の中になりました。函館山線で特急「北海」や急行「ニセコ」を撮る際、わざわざ乗り鉄を兼ねて踏破した区間ですが、昭和59年6月に廃止が承認され、2年後の昭和61年10月末をもって全線が廃止となっています。時刻表ネタ 昭和55年 国鉄胆振線 循環急行「いぶり」
2022.08.04
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183系幕張車:特急「そよかぜ」特急「そよかぜ」は、上野~中軽井沢を結ぶ季節列車として長らく設定されていた特急列車です。登場当初は181系でしたが、ほんの一時期に157系を使用したことがあります。また、その後は183系0番台(幕張車)や、189系(長野車)、489系(金沢車)、185系(新前橋車)と、実に多彩な車両が使用されました。季節列車でもあり、また運転区間も短距離でもあったため、絵にしづらい列車でしたが、そのさわやかなネーミングが大好きでした。横軽(碓氷峠)も廃止されてしまったことですし、軽井沢行きの新幹線の設定というのも考えづらいので、特急列車としての「そよかぜ」のネーミングはおそらく復活することは無いのでしょう。今回は、幕張区の183系0番台を使用した「そよかぜ」をご紹介いたします。いずれも昭和52年から53年頃で、イラストマーク化される以前の写真です。幕張区の183系0番台を使用していることから、夏季の海水浴シーズンではない頃に撮影したものと思われます。元々157系が1シーズン使われた後、181系オンリーだった「そよかぜ」ですが、信越本線の181系撤退に伴って、幕張区の183系0番台が使用されるようになったようです。当時はまだ189系の両数が揃っていなかったための措置と思われますが、横軽非協調である183系0番台では8両以下に編成が制限されてしまうため、中軽井沢←クハ+サロ+モハ+モハ+モハ+モハ+クハ→上野 の7両編成に組み替えられて使用されていたようです。181系時代、当時のカメラ(サクラパック)を持って満を持して線路脇でその時を待っていたのですが、「そよかぜ」が来る直前にカメラを落としてしまい、壊れて撮れなくなってしまいました。季節列車でもあり撮れずにいたところ、いつの間にか長野から181系が撤退してしまい、とうとう記録できず至った傷は、50年経った今でも忘れられない記憶として刻まれています。
2022.08.03
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113系:快速「青い海」その昔、関東で海水浴といえば房総、房総といえば海水浴臨と考えられていた時代もありまして、房総各線ではおおよそ7月20日から8月末まで「夏ダイヤ」というのが実施されていました。特急列車が高価だった時代、急行だけではなく、臨時の快速列車が多数運転されていたのも房総各線の特徴と言えましょう。その中でもヘッドマーク付きで運転され、必ず注目を浴びていたのが 快速「青い海」と「白い砂」です。この「青い海」「白い砂」という名称は、東京地下駅開業以前から101系により運転されていた時代もあるようですが、さすがに昭和47年以前ともなると分かりません。東京地下駅開業後は東京駅発着、113系により運転されていたことは間違いありません。昭和54年8月 総武線快速区間 品川駅にて「青い海」は、東京地下駅発の館山・千倉行きとして運転されていましたが、横須賀線との乗り入れ運転の進捗に伴い、一時期において地下線区間のまま品川駅まで運転されていたことがあります。この写真は、横須賀線が未だ東海道本線と同じ線を走っており、総武快速線は品川駅折り返し運転を行っていた頃のものになります。この翌年には、横須賀線の品鶴線(東海道貨物線)への切替え工事が完了し、併せて総武快速線とのスルー運転が実施されるようになりました。113系:快速「白い砂」
2022.08.02
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建築限界測定車 オヤ31形:オヤ3132建築限界測定車(通称:オイラン車)は、車体の外周に取り付けられた矢羽を立てて本線を走行させ、列車に接触する危険のあるものが無いかをチェックするための試験車です。昔は同形式の車両が全国に居たわけですが、その種車が戦前型ばかりである関係もあり、JR化を前後として、殆どの車両が姿を消しています。昭和62年12月13日 函館駅にて オヤ3132青函連絡船や道南の写真を撮りに行った際に、函館駅で偶然に出くわしたものです。過去ご紹介のものはいずれも展示のため、矢羽根は畳まれた状態ですが、この車両に関しては検測中の状態のため、すべての矢羽根が立った貴重な記録として残せました。オヤ3132は、連合軍簡易食堂車(部隊料理車)のスシ33 105から改造された車両で、なんと平成30年(2018年)まで現役だったそうです。
2022.08.01
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