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485系リゾートやまどり:快速「リゾートやまどり」485系「リゾートやまどり」による快速「リゾートやまどり」は、大宮~長野原草津口を結んでいた列車で、2011~18年まで運転されていたそうです。ヘッドマークの掲出もなく地元を通ることもないので撮影機会のない列車でしたが、蕨市防災士会主催の研修会で埼玉県防災学習センターというところまで行った際に途中の大宮で見掛け、調べて見ると私の乗った普通列車を追い掛けてくるようだったので、下車する北鴻巣駅で撮影する機会がありました。平成30年8月26日 北鴻巣駅にて 9851M 快速「リゾートやまどり」ストレートで変化のない構図、ヘッドマークは「臨時」。本当に面白みのない記録でしたが、既に運転もされていないということなので、貴重な機会ではありました。
2022.10.31
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ジョイフルトレイン:485系お座敷車両「華」JR東日本で、平成9年4月、それまで12系客車を使用したお座敷客車「なごやか」の引退に合わせてお座敷電車「華」が営業運転を開始しました。令和4年10月30日をもって引退となることが発表されました。乗ったことはありませんし、団体としての運転も多く、臨時列車への充当があってもヘッドマークがある訳でも無し、殆ど撮影したことはありませんでした。それでも、偶然に撮れたものがいくつかありましたので、ここでまとめておきたいと思います。平成24年4月28日 回9662M 485系「華」 団臨送込み回送平成24年8月4日 9767M 485系「華」 快速「お座敷たんばらラベンダー号」リンク先でご紹介済みです。平成26年5月4日 上野駅にて 485系「華」 9812M 団臨「館林のつつじまつり」鉄メンバーで飲み会の帰り道、特急「あけぼの」を見て行こうと上野駅に寄ったとき。時間を見間違えて1時間前にホームに来てしまったのですが、偶然にも13番線に停車していたのが485系華でした。平成27年1月25日 越後湯沢駅にて 485系「華」 9766M乗って来た特急「はくたか」先頭車の写真を撮りに行くと、偶然にも2番線に停まっていた団体列車が発車するみたいでした。こんな場所・時間にピンポイントで撮れるとは思っていませんでしので、記念のショットになりました。こうして見ても記録としては僅少で、殆どが偶然と言った感じ。同時に引退が発表された485系「リゾートやまどり」より一足早く、ここで終焉となります。
2022.10.30
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185系・183系:臨時特急「草津51・52号」平成21年9月まで運転されていた臨時特急「新宿あがつま草津」でしたが、冬シーズンになって設定がなくなってしまいます。このまま運転形態がなくなってしまうのかと思われましたが、平成22年のゴールデンウィークに復活します。ただし、列車名が「草津51号・52号」となり、本線を走る定期列車と区別が付かなくなってしまいました。平成22年春(ゴールデンウィーク)平成22年5月4日 回9692M 185系 「草津51号」送込み回送平成22年5月4日 9692M 185系 「草津51号」下り 51号 5月1~4日上り 52号 5月2~5日運転区間 下り 9003M 新 宿 10:59 ~ 長野原草津口 13:28及び時間 上り 9004M 長野原草津口 15:37 ~ 新 宿 18:23使用車両 185系7連マーク 専用ステッカー式掲示(「草津」)列車番号をそのままに、何故か列車名が「草津」になってしまいました。上野発着列車と区別するためか、現代の臨時としては珍しく50番代の号数設定となっています。定期のヘッドマークで用が足りるにもかかわらず、何故か専用のステッカー式ヘッドマークが用意されました。平成22年夏平成22年7月18日 185系 「草津51号」平成22年8月1日 185系 「草津52号」平成22年7月18日 北本~桶川間にて 183系OM103 「草津52号」平成22年8月29日 183系OM102 「草津52号」平成22年9月20日 183系OM103 「草津52号」下り 51号 7月17・18・24・31日・8月7・14・21・28日・9月18・19日上り 52号 7月19・25・8月1・8・15・22・29日・9月20日運転区間 下り 9003M 新 宿 10:59 ~ 長野原草津口 13:28及び時間 上り 9004M 長野原草津口 12:13 ~ 新 宿 14:54使用車両 185系7連(運転日赤字のみ183系充当)マーク 専用ヘッドマークは作成されず、185系は定期「草津」、183系は「特急」今回は185系のみならず、一部の上り52号に183系も充当されてされました。185系は定期の「草津」、183系は初めて「特急」を使用しています。平成22年秋平成22年10月9日 池袋駅にて 185系 OM03 「草津51号」平成22年10月10日 185系 OM03 「草津51号」 送り込み回送平成22年10月10日 185系 OM03 「草津51号」平成22年10月11日 185系 OM03 「草津52号」平成22年10月11日 185系 OM03 「草津52号」返却回送下り 51号 10月9・10・30日・11月6・13・20日上り 52号 10月11・31・11月7・14・21日列 車 名 「草津51号・52号」運転区間 下り 9003M 新 宿 10:59 ~ 長野原草津口 13:28及び時間 上り 9004M 長野原草津口 12:13 ~ 新 宿 14:54使用車両 185系7連マーク 10月9~11日運転の列車は、80系準急時代のデザインを模したヘッドマークが 用意された。平成22年10月30日 185系 OM03 「草津51号」平成22年10月31日 185系 OM03 「草津52号」平成22年11月6日 大塚駅にて 185系 OM03 「草津51号」平成22年11月13日 185系 OM03 「草津51号」平成22年11月14日 185系 OM03 「草津52号」平成22年11月20日 185系 OM03 「草津51号」今期は185系のみの運用となりましたが、準急「草津」運転開始から50周年を記念したイベント色の濃いものとなり、185系(OM-3編成)が80系時代の塗装に、そして80系時代を模したヘッドマークを掲げるなど話題となりました。なお、今期は最後の運転までOM-3編成が充当されました。特製のヘッドマークが掲げられたのは最初のみであり、その後は定期の「草津」のマークとなっています。塗装については賛否両論となりましたが、変化の少ない185系に一石投じたJR東日本の姿勢は賞賛に値すると思います。しかし、この設定は1シーズンのみにとどまることとなり、「リゾートやまどり」の出現によりその設定も目まぐるしく変化することとなります。
2022.10.29
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ジョイフルトレイン:485系「リゾートやまどり」登場の時JR東日本は、令和4年12月いっぱいで485系「リゾートやまどり」の引退を発表しました。485系「リゾートやまどり」は、平成21年に引退した高崎車両センターのお座敷電車「せせらぎ」(4両編成)に同じく「やまなみ」(4両編成)からMM’ユニットを足した6両編成としてリニューアルの上誕生した6両編成の列車です。登場当時はまったくその経緯を知らなかったので、初めて見たときは驚いたものです。当時の様子を偶然記録していましいたのでご紹介したいと思います。※撮影は、平成23年6月11日です。485系「リゾートやまどり」3071レと2073レの間にやって来ました。オデコ1灯だし、初めは何だかさっぱり判りませんでした。実は、湘南新宿ライン南行と完全にカブり状態だったのですが、あまりにもスピードが遅かったので何とか撮ることができました。色の印象は、宇治金時&あずきの高級かき氷っぽい?初めて見る列車に何が何だか分からない状態でした。後から知ったのですが、なんでも新しいジョイフルトレインが誕生し、上野駅で展示会があったそうで、その後の返却回送のようです。元々JRになってからこのように大きく体裁の変わった列車は好きになれず、興味もなければ殆ど撮影もしたことがありませんでした。しかし、この列車にはちょっとした魅力があったため、この後怒涛の追っ掛けをすることになりました。
2022.10.28
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485系お座敷車両「宴」「華」:快速「お座敷たんばらラベンダー」ちょっと季節外れのネタですが、485系「宴」「華」の突然の引退発表があったため、これを記録しておきたいと思います。毎年恒例で設定されいる上野~沼田間を結ぶ快速「たんばらラベンダー」。群馬県のたんばらラベンダーパークへのアクセス列車として、7~8月に運転されています。以前はジョイフルトレイン485系「彩(いろどり)」を使用し、「やまどり」の活躍の幅が広がって来ると、ここ数年はこの「やまどり」が使用されています。485系「彩(いろどり)」を使用していたときは、移動中に追い越されたことがあったのですが、その頃は特に興味がなく、撮影に臨んだことはありませんでした。初めて快速「たんばらラベンダー」を撮影した年は、ジョイフルトレインのお座敷列車が使用されており、これを捉えることができました。平成24年7月15日 485系「宴」 快速「お座敷たんばらラベンダー」送込み 回9578M平成24年8月4日 485系「華」 快速「お座敷たんばらラベンダー」 9767M平成24年8月5日 485系「華」 快速「お座敷たんばらラベンダー」 9767Mこの年の運転は団体列車との兼ね合いからか、前半と後半で使用車両が入れ替わった記憶があります。朝の夜行タイムと特急タイムのちょうど合間の時間ですが、ちょうどこれ以外にも「EL&SLみなかみ」などもあったりと、かなりネタがあったようです。ヘッドマークもありませんから、そのようなついででもなければ撮らなかったと思います。その後は「やまどり」ばかりの設定になってしまい、もうこれらのお座敷列車の登板はなくなったようです。
2022.10.27
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EF651116牽引 14系客車:臨時特急「踊り子」国鉄末期の頃、電車一色であった伊豆方面への優等列車に、客車による特急「踊り子」が設定されていました。客車には81系お座敷客車や14系サロンエクスプレス東京なども使用され、それぞれ「お座敷踊り子」や「サロンエクスプレス踊り子」を名乗りました。客車が回らない日には14系座席車も充当され、こちらは通常の臨時特急「踊り子」の号数付きで運転されています。昭和62年2月13日 保土ヶ谷~戸塚間にて EF651116牽引14系客車 「踊り子55号」プリントで正面が白飛びしてしまっているのですが、画像加工したところ1116号機であることが判明しました。相次ぐ合理化で電気機関車や客車列車が淘汰され、一方では余剰客車によるジョイフルトレインも次々と誕生した頃。鉄道ファンもここに追従して行った方が多く存在した時代でした。牽引機は東京機関区(後に田端機関区に統合)が当たっており、EF65以外にもEF58が登場する機会も有りました。当時のダイヤ情報にも掲載されましたので、人気のある列車でした。
2022.10.26
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西武鉄道多摩川線:旧101系かつて西武鉄道の顔として活躍していた旧101系。我が家の出所(明治時代?)の本家となる家が江古田にあるため、小学生の頃に何度か西武線に乗ったことがあり、古臭い塗装ばかりの西武線の電車の中で、まだ登場したばかりの黄色い電車は非常に格好良く見えました。しかし、鉄道好きになってからはあまり利用することは無くなり、古き良き時代の西武線の写真はまったくありません。そんな中、時代が流れてその主役だった旧101系も殆どが引退し、完全に置き換えになってしまうという情報が入ってきました。ちょうどその頃、現場を回るのが主体のセクションに配属となり、最後の活躍の場となる西武多摩川線起点である武蔵境駅を利用するチャンスが1度だけありました。※以下、平成22年7月30日、西武多摩川線 武蔵境駅における状況を当時のまま記事にします。JR武蔵境駅に予定より20分ほど早く到着、上りホームからロケハンをしていると、いきなり旧101系がやってきてしまいました。構図選択をするまでもなく、シャッターを押すハメに。高架に切り替わってから、お互いの防音壁で見通しが悪くなってしまいましたね。上のような写真では満足いかなかったので、西武線のホームまで突撃しちゃいました。工事中のため、乗り換えの通路を目一杯歩かされました。節電しているらしく、発車直前までヘッドライトを点けません。発車メロディーがなると、運転手さんが顔を出し、安全確認をしながらドアを閉めます。挙動不審なオヤジが電車を乗ったり降りたりして、運転手さんを警戒させています。朝から酔っ払っているのかね?そして、ブレーキを抜くと同時くらいにヘッドライトを点灯させました。本当は到着シーンを撮ればヘッドライトが点灯しているんですが、時間が無いので已むを得ませんね。次まで7~8分待たなければならず、待ち合わせ時間に遅れそうなのでここまでとしました。しかし、天気が悪かったのが残念ですね。久し振りに逢った旧101系。実はこの10年近く前に仕事の都合で多摩川線に乗っており、その際に駅撮りと走行写真を撮っています。出来は良くなかった筈ですが、娘の写っている写真と一緒にどこかに潜ってしまったようで見つかりません。見つかったらその2として投稿したいと思います。
2022.10.25
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20系寝台客車:寝台特急「北星」昭和38年10月ダイヤ改正で誕生した夜行急行列車「北星」ですが、その列車スタイルが幸いし、昭和50年3月改正からは20系寝台客車の使用により特急列車化されることになります。急行列車の特急化というのは、白紙ダイヤ改正の都度に行われてきたものですが、山陽新幹線博多開業による山陽・九州特急の動きが非常に大きかったため、特にこのダイヤ改正では顕著に特急化が実施されたように思います。同時に、金沢行きの急行「北陸2号」も同様に20系化のうえ特急列車に格上げされています。なお、20系客車は「はやぶさ」「富士」「出雲」「日本海」の24系24型化により余剰となった車両を活用しています。昭和50年夏頃 EF58牽引 ワサフ8800を連結した「北星」写真は、ポケットカメラ、列車の引き足らず、絹目写真と悪条件の揃った画像で、大変見づらく、公開するような写真ではないのですが、これだけしかないため敢えて投稿させていただきました。小学6年生のときだと思いますので、腕前はご勘弁ください。これくらいが精一杯です。急行「北星」時代から続く新聞輸送の関係があり、P型引き通し管を設備したワサフ8800が運転開始から約1年間連結されていました。当形式は言わば「北星」専用車両とも言えるものでしたが、その活躍は僅かであり、その後は一般の荷物列車に転用されています。昭和52年 上野駅にて早朝の「北星」は、高感度の無い時代、撮影するのも結構大変なものでした。昭和52年頃 大宮駅にて EF5884牽引 上り「北星」かなり薄暗い時期の撮影ですので、おそらく冬休みに撮ったものではないかと思われます。ヘッドマークが付いていないことから、後に20系化された急行「天の川」や「新星」と区別が付かないところが悲しいです。昭和52年 蕨駅にてこれから写真を撮りに行こうというとき、目の前を通過した「北星」。時間的には午前10時を回っていると思いますが、おそらく途中で運転が打ち切りとなり回送されて来たものでしょう。なんといっても驚いたのは、EF58の次位にカニ22が連結されていたことでした。昭和52年 尾久客車区にて カニ22 「北星」上の写真を撮った後、撮影の予定は急遽変更され、尾久客車区まで出向くことになりました。カニ22の「北星」を撮らせてもらおうと頼み込んだのですが、頑なに断られてしまいました。これはふて腐れて帰る途中、建物の陰から撮影したものです。当時、一眼レフではありましたが、レンズは広角しか持っておらずかなり小さくなっていました。スキャニングして「北星」が判るくらいまで拡大することができました。20系客車が特急車両としての活躍も晩年となった頃、進んだ廃車よる影響でしょうか、客車区間での車両のやり取りが行われたようです。そしてイレギュラー的な動きも見られるようになり、ナハネフ23「北陸」や、さらにはカニ22が「北星」「北陸」に使用されるようになったようです。昭和53年3月20日 上野駅にて カニ21こちらは下り最後尾となるカニ21。上野駅では到着後推進回送となるので、このカニ21は夜の下りを撮るしかありませんでした。もっとも、昭和50年3月の特急「北星」運転開始から1年間、最後尾にはワサフ8800が連結されていましたので、このカニ21の姿を撮ることはできませんでした。昭和53年9月頃満を持して誕生した軽量客車でしたが、それが仇となって老朽化が顕著であり、誕生からそれほど経っていないにもかかわらず、早くも淘汰が始まってしまうことになります。「北星」も昭和53年10月改正からは14系化されることになってしまいました。14系寝台客車:寝台特急「北星」
2022.10.24
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旧型国電 救援車:クモエ21000(田町電車区)救援車は、大規模な鉄道事故が発生した際に、現地へ出向いて救援活動を行うための車両です。そのため、車内には様々な工作機械等が用意されています。車両種別としては電車と客車があり、気動車の救援車は存在しません。非電化区間においては客車で用が足りるということによります。電車による救援車は両数がそれほど多くなく、すべての電車区に配置されていたわけではありませんが、古くから存在する電車区には旧型国電を改造した車両がそのまま配置されていたようです。基地の片隅などに隠れていることが多く、殆ど目にする機会のない救援車ですが、偶然にも田町電車区のクモエ21を捉えたことがありました。昭和55年頃 田町電車区にて クモエ21000 クモエ21000は、17m車のクモハ11114を種車として昭和38年に改造して誕生した救援車です。電車区の片隅に居座り、有事の出番を待ちますが、それほど有事というのがある訳ではありませんので、大体は出番のないまま一生を終わってしまう車両が多いのではないでしょうか?記憶は定かではありませんが、京浜東北線か東海道線辺りの電車の窓から300mmレンズで撮影したものと思います。ほかに撮影した電車救援車も『クモエ21009 救援車:伊那松島機関区』くらいしかなく、私自身の記録として貴重なものとなっています。これら救援車もJRに引き継がれることなく姿を消しています。
2022.10.23
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485系非貫通型:特急「とき」上越線の特急といえば「とき」が代表格であり、183系1000番台や181系が一番有名なところでしょう。183系1000番台が登場する前、上越の雪は181系には過酷な道のりだったらしく、特に冬場は故障が多発したようで、485系のピンチヒッターも走ったことがあるようです。そんなこともあって、183系1000番台という耐寒耐雪構造の車両開発が急務となり、誕生後は急速に置き換えられていったわけです。ところで、上野駅でこんなのに遭遇したことがあります。昭和51年 上野駅にてこれ、実際には特急「とき」ではないです。確か「やまびこ」だったんじゃないかな?でも、紛れも無く「とき」のヘッドマークを掲出しています。まだ中学生のとき、それまで見たことの無かった交直流型の「とき」には驚いてシャッターを切りました。前述のように、485系がピンチヒッターで「とき」に運用されたことがありますので、当時の仙台車や青森車には「とき」のヘッドマーク&方向幕が常備されていたのではないかと思います。しかし、定期の幕回しでは見たことがありません。その後53・10でヘッドマークがイラスト化されたときには、183系1000番台も大量に増備されましたので、485系が「とき」に運用される想定も無くなっていますから、おそらく485系には引き継がれることは無かったと思います。この時に撮影したほかのコマにこの構図の写真がないことから、幕回しではなく、指示ミスで「とき」の字幕が出ていたのではないかと考えられます。それにしても、この前頭部の凹みは一体何があったんでしょうかね?かなり頑丈な厚みのある場所ですから、相当なスピードで強固なものと衝突したとしか考えられません。
2022.10.22
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185系OM08編成:団体列車「湘南日光」※本記事は、平成24年10月7日に投稿したもので、当時の表現になっています。悪乗りとも言えなくない団体列車。157系を髣髴させる塗装から人気の185系OM08編成が、団体列車として「湘南日光」を名乗り、走ることになりました。でも、おじさん的には大歓迎!運転区間は小田原~日光。本来なら伊東であるべきでしょうが、まあ団体列車ですから仕方ありません。※撮影は、平成24年10月6日です。回9550M 185系 「湘南日光」送り込み回送今回は発駅が小田原と遠いため、いつもならおいしい回送列車も早朝と言うより未明です。殆ど景色の見えない真っ暗な中、「ISO12800 SS1/60 F5.8」という悪条件で撮ってみました。まあ、絵になるなんて初めっから思ってはいませんが・・・。9013M 185系 団体列車 「湘南日光」これが本番。列車番号が団体じゃなくて特急ですね。相変わらずのデカ過ぎヘッドマークですが、良いんじゃないの?結構なスピードでぶっ飛んできました。こちらは後部。振り返ったらNEXが来てたんですよね。タテ位置で構えていたんですが、NEXなんて来るから待っちゃいました。お陰でタイミングずらされてピン甘&大幅なトリミングになってしまいました。返しは夜になってしまいますので、今回は往きだけですね。次は何を走らせてくれるのでしょうか?
2022.10.21
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183系・189系:快速「ホリデー快速河口湖」新宿からをメインに、大宮、さらに過去に至っては小山から富士急行電鉄の河口湖へ乗り入れ運転を行っていた「ホリデー快速河口湖」ですが、富士山の世界遺産登録をきっかけに、「ホリデー快速富士山」と改名されることになりました。首都圏では183系・189系の動向が注目された年でありますが、「ホリデー快速富士山」では、引き続き新宿発には豊田車が使用されることになりました。また、大宮発に関しては、OM100代編成が運用から外れるようで、幕張車の183系が運用されるようになりました。平成18年10月22日 富士急行電鉄 河口湖駅にてオリジナルバスコレを購入するためにわざわざ河口湖駅まで出張ったときに撮影したもの。当時は専用の愛称幕がなく、味気の無い「快速」を掲出していました。編成番号は覚えていませんが、向かって左は大宮行きのチタ車、右側は新宿行きの当時の三鷹車ではなかったかと記憶しています。平成20年9月6日 八王子駅にて 「ホリデー快速河口湖1号」この頃になると183系・189系の配置自体も変化があり、これに合わせてのことか、「ホリデー快速河口湖」の愛称幕が整備されました。ただし、これは豊田車のみでした。平成20年10月11日 鳥沢~猿橋間にて 「ホリデー快速河口湖1号」唯一、駅以外での撮影となってしまった1枚。ただし、雨でロケーションも台無しに・・・。平成20年10月11日 相模湖駅にて 「ホリデー快速河口湖1号」同日、帰り道で「ホリデー快速やまなし」の乗車待ちの際に撮影したもの。この「ももずきん」、良いのか悪いのか・・・。平成21年5月3日 北朝霞駅にて H61 「ホリデー快速河口湖3号」大宮発の「ホリデー快速河口湖3号」で、東武東上線の写真を撮っての帰り、偶然に遭遇しました。このときは田町車のH61編成で運用されており、最後まで専用幕が用意されることはありませんでした。最初の1枚目にあるチタ車、河口湖からの帰りはこの列車に乗って帰ってきたため、この手の列車としては異例の完乗を果たした列車となりました。当時、名称が変わる「ホリデー快速富士山」も専用幕が用意されるのか、注目されました。
2022.10.20
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153系:急行「東海」(サハ164・サロ163)「東海」は、東京~静岡・名古屋地区を結んでいた急行列車です。元々は準急列車であり、その後、戦後初となる長距離用電車80系電車を導入した列車としても有名です。新車として153系も導入され運転本数も増えますが、東海道新幹線開業後にはやはり徐々にその勢力を縮小せざる得ませんですた。それでも新幹線の停車しない中間都市への利便性もあってか、比較的に遅くまで存続しました。昭和52年頃 東京駅にて 隅田川~品川間の荷物列車を牽引しているEF1530と並ぶ急行「東海」です。153系が当たり前の時代であり、165系といえばサロだけが使用されていました。昭和54年3月 東京駅にて 急行「東海」列車番号札が321になっていますが、これは直し忘れですね。朝の5時前半の訳がありません。夕方発の急行「東海」です。153系「東海」も終盤に近づき、サロ以外にも中間車に165系が連結されてくるようになりました。昭和54年頃 東京駅にて サロ163-1 急行「東海」珍形式である163系・・・163系って何?昭和54年3月 東京駅にて サハ164-2急行「東海」に連結された、165系の中でも随一の珍車です。これは別立てでご紹介したいと思います。153系~165系時代に至るまで、途中の国府津までは急行「ごてんば」を併結していました。153系の撤退と共に165系化され、さらに165系が老朽化してくるとこれを淘汰し、特急へと格上げされることになります。
2022.10.19
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国鉄 マニ30:現金輸送車マイクロエースからマニ30が発売されるそうです。マイクロエース マニ30形・スユ15形 販売「マニ30-2007」[品番:A1498]、「スユ15-2008」[品番:A7252]過去にも発売実績がありますが、セット販売であったため購入していませんでした。マニ30は、日本銀行所有の現金輸送車で、マニ34として6両が製造されました。マニ34は昭和23年製の旧型客車で、車体も茶色塗装でしたが、外観は他の荷物車とは一線を画す様相をしていました。後にマニ302001~2006に改番されています。高校通学時に1度だけ尾久客車区に停まっているのを見たことがありましたが、残念ながら写真には撮っていませんでした。そして、元マニ34(2001~2006)の老朽代替車として誕生したのがマニ302007~2012で、昭和53年~54年にかけて製造されました。昭和56年 蕨~西川口間にて EF5859牽引のマニ30この列車がどのような状況の下に運転されたのか、経緯はわかりませんが、高崎第二機関区所属のEF5859号機がマニ30とスニ40を連結した回送列車です。もしかしたら、スニ40が連結されておりことから、大宮工場出場のシーンかもしれません。昭和56年1月頃 上野駅にて EF5888の牽引する回送列車東北新幹線の東京乗入れ工事が始まる以前、品川客車区から尾久客車区への回送は東京~上野間の回送線(現在の電留線)を使用していました。現在では、山手貨物線経由で東大宮操車場まで行き、折り返して尾久へ持ち込む経路となっています。マニ30における現金輸送は、荷物列車への併結が大半だったようですが、列車密度のが濃い区間では、客車急行への併結もあったそうです。客車列車の場合は全てに言えるのですが、単独で暖房設備を持たない旧型車や50系客車は、原則として電気暖房又は蒸気暖房装置を搭載した機関車が限定で運用されます。したがって、首都圏ではEF58、EF62、EF64、DD51又はDE10のEGやSG搭載車といった機関車でないと、マニ30のような客車を牽引できないわけです。この点については、原則暖房を要しない夏季期間についても限定されていたことが多かったようです。晩年は荷物列車が廃止されたため、高速コンテナ列車に併結されたそうですね。ちなみに、私は目撃したことはありませんが、冷房電源を持っていたところからディーゼルエンジンを搭載しており、暖房も単独で使用できるように改造されたかもしれません。その後、コンテナ列車への併結については最高速性能の差が生じたため、自動車輸送に切り替わり、廃車となりました。マニ30 2012のみが小樽市に保存されているそうで、機会があれば会いに行きたいものです。
2022.10.18
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キハ55のサボ:只見線 小出←→会津若松(地元編)災害から見事蘇った只見線。ここ10年位は、自然災害による橋梁の流出などでそのまま復旧を断念→廃止になってしまうローカル線が後を絶ちません。そんな中、巨額を投じて復旧を果たした只見線ですが、その後の経営を考えるとちょっと疑問も残るところです。もちろん、鉄道ファンにとって路線の廃止は悲しいことですが、赤字ローカル線の廃止政策を昭和の時代より経験してきた身からすると、致し方無しという状況をもう十分理解しているつもりです。只見線はその昔、日本でも有数の豪雪地帯で、冬になると急行列車を計画運休したり、直通を分割させて遅れても連絡しないなど、特別な措置で運行されていました。それでもおそらくは直通客などなく、問題が無かったのでしょう。その豪雪のイメージも昔ほどは無くなり、冬ダイヤのような特別な措置はいつの間にか無くなってしまったようです。昭和57年1月、東北線の撮影から上越線の撮影に抜ける際、無謀にも真冬の磐西~只見線を使って移動したことがあります。もうこの頃から温暖化の影響があったのでしょうか、只見線は何の支障もなく走っていました。昭和57年1月4日 只見線ずっとキハ58のサボを撮っていたと思ったのですが、良く考えたら、キハ58系のサボは向かって左側ドアの右上についています。これはどう見ても車体センターの下部。急行塗装でこの位置と考えれは・・・そう、キハ55系ですね。そう言えば、キハ55に乗り、走行音を録音していました。あのテープ、どこに行ってしまったろう。こういうサボの写真は、アップで撮ってしまうと車両の状況を隠してしまいがち。センターについているサボだったら、少し引いて形式と一緒に撮っておきたいもんですが・・・もう、こんな車両も無くなってしまいました。誰の乗り降りも無い静寂なローカル線。どう見ても過剰供給の3両編成だった記憶。エンジン音の響きだけが聞こえる車内で、終点の小出まで乗り通しました。
2022.10.17
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旧型国電:新前橋電車区配給電車現在の電車は編成単位で管理されており、検査などで移動するときも殆ど分割されることはなくなってしまいましたが、国鉄時代はそのような例は殆どなく、分割されないのはM’Mユニットくらいのものでした。各電車区から工場への入場については、入場車両によって運転台がなくなってしまう場合もあることから、必ず牽引車というものが常備されていました。今回は、工場入場に伴う配給電車のうち、新前橋電車区に関連するものを集めてみました。昭和51年頃 クモハ41+クモニ13+クモル23ハーフサイズで撮影した写真のため鮮明ではありませんが、窓越しに映る車内の様子からクモハ41と思われます。そのあとに、クモニ13とクモル23が連結されています。当時、関東北部でスカ色のクモハ41と言えば、両毛・吾妻線用ですね。その昔は日光線にもありましたが、比較的早くに115系化されていますので、新前橋区のモノに間違いないと思われます。後に続くクモニ13とクモル23は新前橋区の配置はありませんので、大井工場から新前橋区へ配給運転した際、帰路にクモハ41の入場車を連結したものと推測されます。昭和51年 クモニ13+クモル23+クハ76+クモヤ90こちらはクハ76を挟んだ配給列車。当時、クハ76を関東で見ることが出来たのは新前橋区のみでしたから、まだあまり行き来が出来ないチューボーからすると、地元で逢うことができたのは非常にラッキーに思ってました。昭和52年8月 クモヤ90+クハ165の回送(再掲)ちょっとピンの甘い、眠い画像になってしまっていますが、「突然来たから撮ってみた」という表現が合っているような写真です。車両はおそらく新前橋電車区のクモヤ90とクハ165で、新前橋区から大井工場への検査入場のための回送と思われます。クモヤ90は新性能電車との混結も可能な牽引車です。旧型国電 牽引車:クモヤ90旧型国電 牽引車:クモヤ90102+381系
2022.10.16
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国鉄 スヤ612001:鉄道労働科学研究所試験車今回は国鉄の鉄道労働科学研究所持ちの試験車「スヤ612001」の画像をアップします。昭和53年10月頃 品川客車区にてスロ61改造の試験車で、乗務員の労働環境改善のため人間工学的見地から椅子や運転台の乗務環境を研究する目的で改造されたもの(らしいです)。外観は種車のスロ61と余り変わりませんが、こちら側だけ幅1mの引き戸が付いているところに特殊性を見出せます。(反対側には無いようです。)分割民営化される昭和62年に廃車となってしまいました。
2022.10.15
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453系:急行「もりおか」「もりおか」は、上野~常磐線経由~盛岡を結ぶ急行列車です。東北本線経由では同様に電車急行の「いわて」がありましたが、「もりおか」は「いわて」に比べて常磐線内での停車駅数がかなり多く、夜行列車が設定されていない点でかなり性格が異なるようです。また、車両の受け持ちが勝田電車区となっており、編成も「いわて」とは異なります。昭和57年10月12日 荒川沖~土浦間にて「ときわ」だと思い込んでいたのですが、スキャンした際に列車番号が表示されているのがわかり、ズバリ下り急行「もりおか1号」であることが判明しました。先頭の電動車ユニットは、2両目のM’車の屋根肩ルーバーが小さく、先頭車の雨どいが乗務員ドア上まできていることから、クモハ453+モハ452であることが判ります。この時点では2往復しかなかったと記憶していますので、当たる確率が低い中よく撮ってたなと思います。昭和48年発行、常磐線上り急行「もりおか2号」の急行券・指定席券です。首都圏では比較的珍しいA型券で、閑散期の指定席料金のため地紋がオレンジ色になります。急行料金は200kmまでの200円と、指定席の100円で合計300円となりますが、良く見ますと、号車番号のところの9号車の前に(A)という表示があります。これは、グリーン車を表わす記号であり、等級制からグリーン車と呼び名が変わった後、この頃までは座席指定とグリーン料金(2等乗車券)と言う概念が別であったことから、指定席券以外に「グリーン券」を買って乗車したのです。その後直ぐに「グリーン券」は特急券又は急行券・グリーン券として指定席券と包括されるようになり、「自由席グリーン券」以外は1枚の切符で発売されるようになりました。常磐線から定期の急行列車がなくなって久しいですが、昔は「ひたち」よりも沢山の急行列車が走っていたので、リーズナブルで本数の多い急行列車の利用率は相当高かったものと思われます。
2022.10.14
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183系1000番台:特急「とき」(地元編)「とき」は、言わずと知れた上野~新潟を結ぶ特急列車。一時期は東京駅にも乗り入れていました。勾配線区である関係から151系に勾配抑速ブレーキを追加した161系を初導入。さらに出力不足からモーター出力をアップした181系へと移り変わります。しかし、豪雪地帯を走る上越線では、あまりにも過酷な気象条件に181系が耐えられず、車両故障が多発、あたらしい耐寒・耐雪型の特急車両の開発が急務となります。ここで誕生したのが183系1000番台です。直流型特急電車の決定版となった同車は、増備に増備を重ね、同時に同性能の横軽強調装備をした189系を派生、中央東線・信越本線を含む181系を駆逐することになりました。そういう意味では、私の同世代からすると、新幹線と同じくらい恨まれた車両であると思います。今回は、183系1000番台を最初に投入した特急「とき」の比較的に近場で撮った写真からご紹介いたします。昭和51年 赤羽駅にてまずは文字マーク時代の「とき」です。今まじまじと見ると非常あっさりしたマークですね。でも、私等の年代からすると極当たり前の姿で、このマークを掲出していること自体が特急列車のステータスだと思っていました。もらい物のリコーオートハーフで撮った赤羽駅を通過する183系1000番台の「とき」。とにかくブレちゃって困ったカメラですが、時にスピード感を表現してくれることもありました。地平時代の4番線上野方を通過。文字マークと相まって、時代を感じさせます。昭和52年頃 上野駅にて満を持して登場した183系1000番台でしたが、181系の方がスタイル的にもバリエーション的にもファンが根強く、写真的にもスルーしていたファンが多かったのではないでしょうか?昭和55年 上野駅にていきなり時代が飛んで、イラストマークの「とき」。既に181系にもイラスト化が飛火していました。多分、AE-1を使い始めた頃で、オート露出&リバーサルでキレイに撮れていましたね。昭和55年頃 赤羽駅にて昭和55年初頭くらいの写真ではないかと思います。雪が降ったんでわざわざ撮影に出たんでしょうが、暗さもあってブレています。元々183系1000番台「とき」なんて、あまり被写体の対象にはならなかったのですが、この「とき」はイラストが薄い黄緑色のヤツだったので、慌てて撮ったのでしょうね。本当はもっと緑が濃いのですが、何故か1編成だけ黄緑色のがあったのです。昭和57年 蕨~南浦和間にて昭和57年 蕨~南浦和間にて昭和57年 蕨~南浦和間にていずれも末期に突入した頃に撮影したもの。自分でフィルム現像したものなので、粒状が良くありません。多分コダックのトライ-Xだったと思います。それまで殆ど見向きもしなかった183系1000番台「とき」でしたが、上越新幹線に道を譲って廃止ということになりゃ、「撮らないわけにも行かない」って感じで撮り始めました。昭和57年 蕨駅にてこれも上の写真と同時期。この時代は殆ど駅撮りなんてすることはなかったのですが、とにかく記録しなきゃ行けないという焦りと、就職してしまったために連休が取れずに地方にまで撮影に行く機会がないということで、近場ばかりで撮っていたようです。昭和57年6月頃 大宮駅にて給料も入るようになり、とうとうマミヤM6451000Sを買ってしまいました。まだ買ったばかりで標準レンズしか持っていませんでした。描写力は35mmの比でなく、その凄さに感動さえ覚えました。標準レンズのみでウエストレベルファインダーということもあり、機動性はありませんでしたが、上越新幹線の開業にギリギリ間に合い、少しですが在来特急の記録に寄与できました。チラッと見える東武野田線の3000系も、今となっては懐かしいですね。当時は全然見向きもしませんでしたが・・・。昭和57年11月13日 赤羽~尾久間にて最終日の前日です。この頃は「何でも良いから撮っておけ!」という感じでした。
2022.10.13
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583系:団体列車 大曲花火大会臨(2016)※本記事は、平成28年10月10日に投稿したもので、当時の表現になっています。平成28年10月、昨年に引き続き「大曲花火大会」臨が運転されました。昨年度はどうだったか忘れてしまったので過去ログを検索したところ、『583系:団体列車 大曲花火大会臨』のとおり、今回の記事は必要ないと思われるほど同じ内容であることに驚いてしまいました。平成28年10月9日 9814M 583系 秋の大曲花火大会レーダーによると、間違いなく雨模様。家を出る時間までは大丈夫だったのですが、列車通過10分くらい前からポツポツと降り出し、昨年と同じような絵面に。ポジションがやや違っただけでした。ヘッドマークも同じ「臨時」。今回はコントラスト注入してクリアにしてみました。今回も運用変更があったようですが、まさかの事態に気が付くことなく、返しの回送も待ちました。が、時間になってもやって来ず。結構な降りの中もう一度ダイヤ情報を確認すると、なんと尾久入庫になってました。その後の情報で、またも岩倉高校が貸し切り、夕方に北へ旅立ったようです。返しの時間は変わっていましたが、何から何まで昨年と同じシチュエーションでの出来事となってました。
2022.10.12
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国鉄 155系:修学旅行用電車国鉄155系は、昭和36年及び39~40年にわたって48両が製造された我が国初となる修学旅行用電車です。団塊世代が修学旅行催行の年代に達し、それまで旧型客車寄せ集めによる運行が限界に達していたこと、手動ドアによる転落や途中駅置き去りなどの問題により電車化が好ましいなどが誕生の経緯となっており、その時代を色濃く反映しています。東海道線による品川~京都間の運行(「ひので号」)がメインとなっていましたが、田町区に配属された155系は日光集約臨にも使用されるようになりました。ベースは既に誕生していた153系に準拠したものですが、鉄道債権による限られた資金の中での計画・製造となったため、コイルバネ台車を履く、先頭車を極力省く、スカートの省略、ベンチレータのグローブ化などの工夫がされています。また、修学旅行シーズン外には臨時列車としての活用を図るため、トンネル限界の小さい中央線にも入線できるように、全低屋根構造となっています。さらに、一度に大量に輸送することを考慮し、4人ボックスシートに加え、6人ボックスシートも設備しています。塗装は、ご存知のように明るいツートンを採用しており、当時のカラー化の中でもインパクトが非常に強いものでした。個人的にも、この塗装は子供の頃から好きでした。京都への修学旅行が新幹線に移行されるようになると、155系は臨時列車としての需要が多く見込まれるようになったため、座席は急行形標準の4人ボックスシートへと改造されることになります。昭和49年頃 蕨~西川口間にておそらく、小学生の頃に初めて撮影した修学旅行臨。この頃はまだ155系も修学旅行色のまま残っており、特別な存在であることは知っていたと思います。しかし、167系に比べると洗練されたデザインとも思えず、当時としてはそれほど着目する車両ではありませんでした。昭和51年 西川口~蕨間にてこれは撮った記憶がなく、偶然写っていたものです。撮った当時は既に155系も湘南色化されていたイメージがあったため、159系だとばかり思っていました。でも、良く考えれば日光集約臨に159系が充当される筈がありませんからね。昭和52年 宇都宮駅にてEF57終焉の頃でしょうか、宇都宮で急行「なすの」との並びを撮ったシーン。この頃になると155系そのもののことも分かるようになり、ある程度希少性を感じていたかもしれません。しかし、既に湘南色となり、インパクトの無い存在になっていました。昭和55年頃 品川駅にて 臨時急行「伊豆」修学旅行のオフシーズンでは、臨時急行への充当も頻繁に行われていました。しかし、廃車まで冷房化されることがありませんでしたので、夏臨の155系は同じ急行料金でも損な存在だったでしょうね。昭和55年5月 浜松町駅にて 臨時急行「伊豆」こちらも臨時急行「伊豆」に運用されているシーンです。昭和55年10月頃 南浦和~蕨間にてこちらは地元の日光集約臨。この時代が終焉になっていたようで、その後に撮った写真は見当たりませんでした。昭和58年4月18日 西小坂井駅にて飯田線の旧型国電が終焉を迎えた頃、歳の離れた155系も一緒に終焉を迎えています。新幹線の開業・延伸によって全国の急行列車が消え、165系などに大量の余剰が出たこともあり、155系や153系さえも不要となってきており、特に非冷房車は一気に淘汰された時代でした。その後、修学旅行臨は167系~183、189系と車種をグレードアップしながら今の時代にも引き継がれていますが、専用塗装を纏った修学旅行電車が製造されることはまず無いのでしょう。
2022.10.11
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蕨駅発 12系お座敷列車:「蕨市民号」過去に何度の企画があったか分かりませんが、私が国鉄にいる時代に蕨駅発のお座敷列車「蕨市民号」を目撃したことがあります。関東近県の方はご存知だと思いますが、蕨駅は京浜東北線しか停まらない駅です。京浜東北線は東北・高崎線から線路が独立してしまっているため、お座敷客車を運転させるなんてことはまず有り得ません。じゃぁ何かと申しますと、かつて貨物の取扱いが行われていた時代(廃止になった直後かも)に、中線(貨物列車の蕨駅の発着線)に12系お座敷列車(オク座)を停車させ、乗車させて出発したのです。まぁ、何はともあれ、あまり良い写真はありませんが見てください。※写真は、昭和59年10月18日、蕨駅貨物中線にて。撮影時期が謎だったのですが、この横断幕を撮っていて助かりました。まさかこんな写真が役に立つとは思いませんでした。私が現地に着いたときにはお客さんは乗り終わっていたようでした。中線にはもちろんホームがありませんので、乗降用の踏み段をたて掛けて乗車させました。ちなみに、添乗職員が立っている位置は下りの本線です。警報もないし、命懸けの乗降ですね。コレだけ強い朝日が出ているということは、朝6時半くらいの早朝ですね。団体客は年寄りばかりでしょうから、朝は得意なので問題ないということでしょう。(笑)蕨駅貨物中線に停車中の12系オク座。今となってはこの姿さえ懐かしいですね。この列車を撮ったきっかけというのが、たまたま局報の臨時列車に載っていたのを見つけたからです。それまでは、この沿線で団体列車があったとしても、大体は大宮駅辺りから乗せ込むのがセオリーだったので、京浜しか停まらない蕨駅に客車列車が客を迎えに来るなんて有り得なかったのです。そんな珍しさもあり、早朝から撮りに行ったのでしょう。多分、このような取扱いをしたのはこのときだけだったのではないかと思われます。
2022.10.10
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JR貨物:EF651139(EF652139)EF65PFシリーズで、今回はJR貨物のEF651139(EF652139)です。1139号機は、昭和54年8月29日に落成した川崎重工・富士電気製。関西・九州ブルートレインのEF58置換用として誕生した最終8次車で、宮原機関区に配置された関西っ子です。その後貨物用となったらしく、吹田を経て新鶴見に来たようで、2012年度に廃車後JR貨物へと譲渡されて使用されました。PF2000番台化で原色機が消滅する中、久し振りの国鉄色復活を果たし話題になったラストナンバー2139号機でしたが、いよいよ検査切れとなり、廃車になってしまうようです。平成21年12月26日 EF6511392000番台化前の1139号機。あまり出会う機会がなかったようで、この1枚しか見当たりませんでした。平成25年4月13日 EF652139牽引 3070レ2000番台化後の初撮影。平成26年6月14日 EF652139牽引 8588レ今では地元を通らなくなってしまったタンカー列車。※記事に誤りがあったため、修正・追加を実施いたしました。以下、平成29年5月27日、おおみやふれあいフェスタにて。しばらく国鉄色が空白となっていて、突然の国鉄色復活に湧きました。こちらの方がコストが安いと言われていました。庫内では今回の塗装工事の様子が展示されていました。国鉄色にお似合いのヘッドマーク(あさかぜ)を付けて。区名標の横には「明星」のヘッドマークデザインを模した記念プレート。実物を撮ったことの無かった「あかつき」。今回の展示で撮りたかったシチュエーションでしたが、やはり赤プレートはちょっとね・・・。平成30年5月26日 大宮駅にて EF652139牽引 配8593レおおみやフェスの往きに追い抜かれた8593レを大宮操車場で抜き返したようで、大宮駅で厳しいアングルですが撮影していました。まだ検査したばかりなので大丈夫と思っていましたが、5年の時間の流れはあっと言う間で、この時を最後に撮影する機会もなく、お別れとなってしまいました。
2022.10.09
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小田急電鉄 1000形:1060F レーティッシュカラー小田急電鉄で最後まで残っていた1000形未更新車で、レーティッシュカラーのラッピングを纏っていた1058が運用から外れ、廃車となったそうです。小田急通勤車にはあまり詳しくないので、意識して未更新車等の区別をして撮影することはありませんでした。ただ、このレーティッシュカラーは見た目のインパクトがあったため、もうずいぶん前になりますが、RSEやHiSEの最後を撮影に行った際、偶然に1回だけ捉えることができました。平成24年2月19日、新松田~開成間にて 小田急電鉄 1000形 1060F4両編成は概ね小田原~箱根湯本の往復運用のようでしたが、車両交代の運用か分かりませんが、ごく一部が新松田への運用があったようです。当時はたまたま撮れてOKとしただけですが、10年を経過してこんなに早くレーティッシュカラーが消滅してしまうとは思ってもいませんでした。なお、写真の1060Fは2021年7月に既に廃車になっていたようです。
2022.10.08
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181系100番台:特急「とき」(その2)『181系100番台:特急「とき」(その1)』からの続きです。昭和57年の181系電車終焉の時代となります。昭和57年 撮影年月日不詳 蕨~南浦和間にて昭和57年1月5日 八木原~群馬総社間にてこのときはチョー寒かったように記憶しています。東北本線での撮影を終え、只見線経由で水上入り。雨の中バルブを撮って、朝からの撮影でした。スーパー早切り。勿体無いことをしました。昭和57年1月5日 八木原~群馬総社間にてこちらはいわゆるモロカーブ狙いです。原版はちょっとナナメっちゃったんですが、直しちゃいました。やはりリバーサルだと奥行きが出て良いですね。昭和57年5月 蕨~西川口間にて昭和57年5月 蕨駅付近にてまだ貨物営業を行っていた時代で、今とは全然違う貨物ヤードの様子が良く分かります。昭和57年8月 上野駅にて昭和57年8月10日 水上~湯檜曽間にて「あさま」「あずさ」から181系が撤退すると、車輌数的に余裕ができて10両→12両化された「とき」ですが、一方では老朽化(耐寒構造の問題)により故障車も多く、車輌の需給のバランスが難しかったようです。最終期にはM'Mユニット欠車による10両化されるものあり、183系0番代(幕張車)の応援を借りる場面もあったようです。昭和57年11月13日 赤羽~尾久間にて昭和57年11月13日 東十条~王子間にて上越新幹線開業の2日前です。全国でも唯一残った181系特急形電車。いよいよ明日、在来線特急「とき」と運命を共にすることになります。昭和57年11月14日 上野駅にてそして最終日、この日は殆どの在来線特急が廃止になる日。各ホームともテツ一色という感じで終日賑わいました。そして、181系「とき」が最後の折り返し運用となる時間が来てしまいました。最終最後にはならないので、特に装飾などもされず、大勢のファンに見送られながら、静かに最終の地、新潟へと旅立っていきました。
2022.10.07
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銚子電鉄:デキ3(生誕100周年)銚子電鉄の主デキ3が誕生からなんと100年が経つそうです。日本郵便 デキ3 生誕100周年記念切手 販売近年は動かしている様子を伝え聞いた記憶が無いのですが、イベントとかやっているんでしょうかね?営業車両の維持すら困難な財政状況のようですので、このような老体の維持もかなり難しいのではないかと思いますが、むしろイベント付加費用を徴収して牽引列車を走らせても良いのではないでしょうかね。銚子電鉄は未だに1度しか訪問したことが無く、銚子駅で撮影したことがある場面を加えても2度しかありません。※撮影は、平成20年5月3日、中ノ町駅隣接の銚子電鉄車庫にて。1922年(大正11年)にアルゲマイネ社で製造された輸入車。全長は4.5mしかないそうです。元々は山口県宇部の沖ノ山炭坑専用線で使用されていたそうで、生粋の銚子電鉄の車両では無かったんですね。初めて銚子電鉄に乗り鉄した帰路、車庫でデキ3に会うことができました。どうも今は検査切れになっており、本線走行はできないそう。勿体ないですけど、さすがにJR線などでは本線走行も無理でしょうし、なんとか生かすことができないでしょうかね。
2022.10.06
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583系:団体列車 大曲花火大会臨(2015)※本記事は、平成27年10月12日に投稿したもので、当時の表現になっています。大曲花火大会関連の団体列車が583系により運転されました。583系はかなり頻繁に上京しますが、殆どはTDL臨による京葉線経由の東京まで、それ以外のイベント臨でも殆どが大船又は横浜方面の発着であり、今回のように上野駅発着となることは特に近年では珍しい設定となっています。朝から荒天となりましたが、それなりの絵を期待して沿線へと足を運びました。平成27年10月11日 ????M 583系 大曲花火大会臨期待はしていませんでしたが、ヘッドマークは「臨時」でした。10月10日に大曲を出発し、羽越本線・高崎線経由で上野までやってきました。リバイバル列車以外では、583系が本線を走るのは極めて珍しいかと思います。朝から良い降りの雨模様で、7:30過ぎの良い時間帯でありながら、撮影者は私以外に見当たりませんでした。返しを期待して待ちましたが帰ってくることは無く、その後の情報では「岩倉高校臨」として帰路を利用した団体列車が15:00上野発で設定されていたそうです。※荒天を表現するため、コントラストは最小限の注入といたしました。
2022.10.05
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103系3000番台(元モハ72970番台):川越線103系3000番台は、元73系旧型国電の一族であるクハ79600番台とモハ72970番台を新性能(103系)化した車両です。旧型車の車体のみを更新する事例は多々ありますが、車体をそのままに新性能車に改造する例は、国鉄時代にはほとんど見られません。そういった意味では、国電の歴史上でも貴重な車両と言えます。しかも、後年には冷房改造も行われていることが、暫定使用ではなくなってしまったことの事情が覗えます。平成2年1月14日 西川越~的場間にて 3両編成非冷房時代の55編成昭和60年3月、東北新幹線上野開業・埼京線開通に合わせて、直通運転される川越線も全線電化されることになりました。計画当初、埼京線(仮称「通勤新線」)は、大宮~川越間及び大宮~宮原(高崎線)間に乗り入れる予定でしたが、宮原への乗り入れは事情があって頓挫しています。大宮附近には電車区を設置するような用地確保が困難だったことから、川越線への乗り入れは已む無しといったところではないでしょうか。川越線電化にあたり、埼京線への直通電車は山手線の205系化で捻出した103系10両編成を使用し、大宮~高麗川の相互発着電車は103系3連を充てることになります。ここで白羽の矢がたったのが、仙石線の新性能化(103系・105系化)で余剰となった旧型車でした。(まさか、103系化されるとは思いもよりませんでしたが・・・。)改造は、クハ1両はモハ1両と組んで電動ユニット化、もう一方のクハとあわせて3連化され、残ったモハ1両は電装解除の上サハ103系3000番台となり、中央線で使用されることになりました。もちろん、当初は冷房化は実施されていません。平成14年5月3日 川越線 笠幡~的場間にて 52編成平成14年5月3日 笠幡~武蔵高萩間にて 54編成上の2枚の写真は、4連・冷房化された晩年の103系3000番台です。山手線のE231系化に伴って大量に捻出された205系及び臨海高速鉄道の余剰車の購入により、同線の103系3000番台も置換えられることになりました。これは私の推測ですが、川越線の区間運用車は、せいぜい10年程度使用し「そのうち余剰となる103系で賄えば良い」程度に思っていたのが、強力な要望によって電化された八高線の需要が意外と伸びてしまい、必要な車輌数が確保できなくなってしまった。結果、209系の新規導入、中央線からの201系乗り入れで対応するがそれでも足りなく、103系の一般型を半自動化等により最小限確保(3500番台化)し、これに合わせて3000番台と容易に連結可能な中央線のサハ3000番台を呼んで対応した。と、考えております。推測の域を出ない勝手な想像ですが、同僚と再会し、元の4連で最後の活躍をすることができた同車たちは、大変幸運な車両たちであったと思います。
2022.10.04
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EF58・EF64牽引:急行「能登」(旧型客車時代)「能登」は、上野~金沢を結んでいた夜行急行列車です。昭和50年3月ダイヤ改正まで、上野~金沢間に2往復の急行「北陸」が設定されていました。同改正において、寝台専用編成の「北陸2号」が20系化のうえ寝台特急に格上げとなり、特急「北陸」として登場。一方、急行列車のまま存置された「北陸1号」は名称を使えなくなったため、ここで急行「能登」に名前を変え、全く同じ区間、同じような編成で再出発することになります。なお、急行「能登」は東海道本線経由の時代がありましたが、ここでは記述を省略いたします。昭和55年7月23日 南浦和~蕨間にて訳あって非常に写りが悪いのですが、旧型客車時代の急行「能登」で、まだEF58が牽引していた頃です。上野方にスニ41が1両連結されているのが特徴です。急行「能登」が誕生したのは昭和50年3月の改正からとなりますが、早朝の列車のため、殆ど記録が残っていませんでした。当時は夜行急行列車も多数あり、EF58牽引が当たり前でしたから、希少価値は全くありませんでした。昭和55年10月頃 蕨~西川口間にて上の写真を撮影して間もなく、さらに早朝撮影をした際、やってきた「能登」は新鋭EF641000番台に変わっていました。どうもこの日辺りが初日だったらしく、直ぐに発売された鉄道雑誌でも話題になっていました。A寝台・B寝台・グリーン車を連結しており、グリーン車にはまだ帯が付いているように見えます。昭和57年9月6日 水上駅にて上越新幹線開業に向け夜行列車が廃止になる前にと、水上駅バルブに挑戦したことがありました。急行「能登」もスジそのものが廃止になる予想を裏切り、信越本線経由の急行「越前」を乗っ取るかたちで存続することに違和感を覚えました。事実上は「能登」が廃止になったようなものです。昭和57年11月からは旧型客車が全廃。信越本線経由となった急行「能登」は14系寝台+座席車に変更されましたが、この頃から近所の区間に金網が張り巡らされ、夜行列車など撮る機会を失うことになります。したがって、この間、碓氷峠が廃止となり、電車化されて上越線経由として正調「能登」が復活するも、写真を撮る機会は全くありませんでした。【中古】Nゲージ KATO(カトー) 5139 スニ41 2000 2020年ロット 【A】【中古】Nゲージ/KATO 10-899 セットバラ 5139-2 (1両のみ) スニ41-5 (郵便・荷物列車「東海道・山陽」A 2022年ロット) 【A’】 付属品無し/ビニール袋で個装しエアキャップに包んでの発送5228 KATO カトー オハ46 ブルー Nゲージ 鉄道模型(ZN99730)オハ46 ブルー【KATO・5228】「鉄道模型 Nゲージ カトー」5300 KATO カトー オハフ45 ブルー Nゲージ 鉄道模型(ZN99731)オハフ45 ブルー【KATO・5300】「鉄道模型 Nゲージ カトー」
2022.10.03
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JR九州 415系:鹿児島本線 普通列車JR九州では、令和4年9月の西九州新幹線開業に伴うダイヤ改正において、在来線の普通列車等でもダイヤの見直しが行われ、この際、415系鋼製車の運用が消滅してしまったようです。交流区間における交直流型電車の導入経緯は常磐線と同様で、60Hzであることから形式を421系・423系として発展してきました。さらに、冷房化に伴って導入されたのが415系で、こちらは50Hz区間にも使用できる3電源方式が採用されたのは、急行形や特急形の発展と同様です。九州へは3度行ったことがありますが、国鉄時代に訪れた2回については普通列車の写真など全く記録しておらず、直近で訪問した時にはJR東日本の415系鋼製車も既に引退した後でした。そのため、分単位の活動の中で撮れる415系はすべて撮影しておきました。撮影の時系列順でまとめてみます。平成24年9月22日 門司港駅にて クハ411-126門司港駅まで乗車してきた811系と。隣に居た415系をまず手軽に。平成24年9月22日 門司港駅にて クハ411-337側線に停まっていたヤツを撮っておいたんですが、調べたら既に休車になっていたようです。平成24年9月22日 門司港駅にて クハ411-333ゾロ目の333。殆どの編成は100番台の号車番号をそのまま編成番号で使っているようですが、300番台のヤツは00番号にしているようです。平成24年9月22日 門司港駅にて クハ411-103そー言えば、九州の415系は一部の窓が1枚固定化されているみたいで、なんだか気持ち悪かったですね。ほんの一部ですが未改造の編成もあるようです。平成24年9月22日 門司港駅にて クハ411-203&クハ411-119FJ103編成とFJ119編成併結の8連。良く見るとホワイトのベースが違います。103編成はクリーム、119はアイボリーみたいですが、何で?常磐線からの譲受車ではないので、なんでだろう?他にも留置されている編成がありましたが、構内が広い上に障害物も多く、撮れなかったものが多数ありました。平成24年9月23日 福工大前~九産大前間にて クハ411-119ほか8連九州での初撮影となった415系の走行写真。平成24年9月23日 東福間駅にて クハ411-106この旅で初めての乗車となる415系。とにかく懐かしいと言うか、久し振りの乗車です。写真を撮ってから駆け込みます。クハ411-2102日間居ましたが、1500番台を見たのはこの時だけで、後部は100番台でした。関東の者からすると、常磐線と同じような塗装でありながら、帯色が明るいのでやはり違和感があります。この時点でも国鉄型は貴重になっていたので多くの記録を残すことができましたが、国鉄時代に2回も訪問しておきながら、421系や423系を記録しておかなかったのは非常に残念です。これもデジタル化によるものの結果ではありまけど。
2022.10.02
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115系豊田車:臨時快速「ホリデー快速鎌倉」特急 鎌倉 運転快速「ホリデー快速鎌倉」の運転が令和4年9月いっぱいで終了し、本日令和4年10月1日の運転より、特急「鎌倉」として再出発するようです。運転区間や路線から見て、特急であるメリットは何も無いように思いますが、ここのところのJR東日本の方針のようで、臨時快速が消滅しつつあるようです。武蔵野線から南武線(貨物線)を経由して鎌倉を結んでいた臨時快速列車「ホリデー快速鎌倉」。平成2年に登場し、発駅が小山であったり、大宮に短縮されたり、運転時期によって列車名が変更されたりと変遷があったようですが、平成12年以降は豊田車の115系により、大宮~鎌倉間と安定して運行されていました。平成20年11月3日 大宮駅にて 「ホリデー快速鎌倉」豊田からの回送を兼ね、「ホリデー快速むさしの」と共通運用となっており、運転日が土休日のみとなる「ホリデー快速鎌倉」は、むしろ間合い運用のような設定でした。ヘッドマークこそ掲げられていましたが、「ホリデー快速鎌倉」の運転日は「ホリデー快速むさしの」と共通のヘッドマークとなっており、「鎌倉」の文字が見当たらない、やや地味なものでした。そんなこともあって、写真を探してもこの1枚しかありませんでした。運転区間が何故か大宮から南越谷となり、平成24~25年に掛けて183系化されましたが、183系OM車の撤退によりわずか半年で185系化されてしまいました。183系時代も撮影は逃しており、185系時代もE257系になってからもヘッドマークは用意されませんでしたので、まったく記録する気もなく、抜け落ちてしまいました。
2022.10.01
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